★スーパーマン★好きだ★ 0
プロット「イケメン」 0
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まずは玉泉洞だ。那覇からはそんなに遠くはなく、最初の取材にはちょうどいい。だが激戦地や戦没者への慰霊を、先にすますべきだったかもしれないと思った。「ねぇ、平和の礎を先にするべきだったわね。これじゃまるでただの観光客だわ」「親族に戦没者がいなければ、心から真摯にはなれないものですよ。地獄を見たものだけが、慰霊碑の前で頭をたれることができるんです。だから俺たちは沖縄の自然の美しさに感動してから、徐々にならしていきましょう」 加納の言葉に妙に説得されながら、徐々にならすといったことがよく理解できなかった。 確かに戦後生まれの若い者には、どんなに戦争の悲劇と真剣に向き合おうとしても体験がない分、心から真摯になるのは難しい。それを加納は言いたかったのだろう。 彼は若輩者なのに、妙に話すことは、社会人として先輩である上川よりも大人びていた。加納が言えば、何にでもうなずいてしまう。暗示のような言霊だった。 長い洞窟は神秘的で美しい。琉球王朝時代の衣裳をまとった美人と写真が撮りたかったが、それでは本当に観光客になってしまう。今回は諦めることにした。改めてバカンスで来ることにしようと、上川は自身を戒めた。 洞窟を見るのは初めてだった。所々がライトアップされているので、極彩色に輝いている。神秘的、神々しいというのはこんな景色をいうのだろう。秋吉洞など日本には有名な鍾乳洞がある。沖縄ではガマというと聞いたことがあった。二人は事前に取材許可をとって、ゆっくりと歩きながら写真を撮った。通路がしっかりと建設されているので、歩きやすい。足元が滴れてくる水で湿っていて、ここが南国だとは思えない。真夏ならこの湿度と清浄な空気が、心地よく感じるだろう。 遠くで学生たちの声がする。洞内なのでよく響く。修学旅行生だと思った。加納と二人で歩いていたが、ライトアップされている洞内の景色に見惚れていた冴子は、すっかり遅れてしまった。「ねぇさん」「え、何?加納くんなんて言ったの?」 突然先を歩いていた加納が叫んだように思った。聞いてみたが加納は応えない。冴子をおいてどんどんと奥に向かって走っていく。「加納くん、待って。何急いでるの?」冴子も必死に追いかけた。視線を追うと、加納の進行方向に美しい女が立って微笑んでいた。白く霞んでいる。近視気味の目をこすって、また確認する。いなくなった。「幽霊? まさか?」加納の姿も見失ってしまった。 先に気配を感じて加納の名を叫んだが誰も答えない。修学旅行生の声もほとんど聞こえなくなって、洞内は静謐に満たされていた。 照明が何度も消えかけ、一時暗くなった。まるでホラー映画だ。洞窟の中なら何が化けて出てきても、現実に思えるだろう。 かすかにうめき声がしている。少し先だ。もしかしたら修学旅行生たちに何かあったのだろうか。乱闘でも始まって、誰かが怪我をしたのだろうか。そうだとしたら、ジャーナリストとして一番にかけつけ、真実を知らなければならない。もう加納は先に行ったのだろうか。あの新人はいまだによくわからない。頭を振って、勇気を搾り出す。意を決して走っていくと、加納が腕を押さえている。「どうしたの、加納くん」すると加納は顔をそむけた。「加納くん、いったい何が起こったの?」 薄暗い中を両手を水平に出して、薄闇の先を確認しながら進んでいく。しかし今度はあっと言って、つまづいてしまった。ひどくヒザを打った。「イタタ」取材のために用意してきた、動きやすいサブリナパンツの膝下が、水のために濡れてしまった。それ以上に、思いっきり打撲した膝が痛い。疼痛というのはこのことだろうか。 加納を一瞬見失ってしまったが、薄暗い中照明がついて、視界にとらえることができた。「加納くん、よかった、そこにいたのね」加納は肩で息をしている。足元を凍りついたようにみつめていた。上川冴子にも状況がつかめない。いち早く察知することが、ジャーナリストとしての素養だというのに。加納の視線にそって、上川も視界を足元へと広げてみた。滴る地下水が鏡のようになって、天井を映している。静かすぎる湿った酸素が、冥界へと誘うようだ。 加納の足元で、男が死んでいた。大きな男だった。 上川の背後へとやってきていた、女子学生の悲鳴が警報のように響き渡った。 警察がやってきて、容疑者として二人は警察署に連れて行かれた。いつもは取材する記者だというのに、ひつこく事情聴取をうけた。悪夢のような第二日目となった。「君は東党新聞、東京本社社会部記者の上川冴子さんだね」「そうです」冴子が出した名刺が、机のうえにポツンとおかれている。刑事はそれを見ながらも、信じがたいといった顔をしていた。いくら疑うのが商売でも、いい加減にしてほしいと上川は思った。「じゃあ、それは後で確認させよう。わたしは沖縄県警の沖縄にしき署の金城です」 そういった男は、二十代半ばから三十才前半といった年齢だ。温暖な気候なので、東京のようなきちりとした背広の着こなしはしてなくて着くずしている。革靴も独り身なのか、古びているうえにくすんでいる。もしかしたらこの温暖な沖縄では革靴は無用の長物なので、粗末にされているのかもしれない。プライベートはサンダルでも履いているのだろうか。髪型もまったく流行ではない感じだ。 上司に叱られない程度に整髪しているといった雰囲気だ。 どう見ても都会の男よりイケてないが、どこかナイーブな感じだ。なんとなく安物もののコピー商品のスポーツシューズを履いている加納に似ていて、ドラマの刑事よりは親しみがあった。といって、観察しているどころではない。取り調べ室のような部屋で事情聴取をうけているのだから。 相手は刑事。若くても油断がならない。気をつけないとどんな言い掛りをつけられるかわからないと思った。被疑者にされないように、慎重に答えることにした。「・・・・・・・刺された男が現われたとき、どこにいましたか?」「被害者が殺されたところは見ていません。倒れているのをみつけただけです。発見する少し前に、うちの加納から四十メートルほど後を歩いていました。初めて来たので玉泉洞の美しさにみとれていて、遅れたんです。でも洞窟の中だし、どこにいたって訊かれても、取材対象ではなかったし」「被害者の男に会ったことは?」「暗くて顔もよくみてないんです。うちの加納が下を見ていたので、あたしも下を見て、動かない大きなヒトらしい物が倒れているって思っただけです。それ以外のことはわかりません」「日本人にしては大きいなって思いましたけど。足が長くて太かったような」「そう、パスポートによると被害者はアメリカ人だ。カリフォルニア在住のね」「へぇ、どうりで大きかったはずね。じゃあ、たぶん知らないわ」 冴子への質問は今はこれだけだった。詳細な身元は本人にきくよりも警視庁で照会したほうが正確で、妙な主観もはいらなくていい。たくさんの質問をすれば、それだけ相手によくも悪くも感情移入してしまう。捜査には余計なことだった。 同時に隣室で男の聴取も始まった。死体の側にいたのは、男の方だった。男は負傷していた加納だ。「オトコをみつけたときどこにいたのかね?」「どこというと、確か案内板があったところだと思います。そこを少し過ぎた辺りでした」「男以外に誰か、怪しい者をみなかったかね?」「最初は修学旅行に来たらしい高校生の何人かとすれ違っただけです」「君は被害者の男に会ったことがあるかね?」「いいえ」「傷は男にやられたんではないかね?」「違います。死んでいた被害者をみつけたとき、次の瞬間に停電しました。そうして視力を失ったときに誰かに刺されたんです。きっと逃げる殺人者でしょう。俺が前にいたので、ジャマだったんですよ」「君は洞内で何をしていたんだね?」「だからさっきも言ったように取材旅行だったので、許可を得て洞内を撮影していました」「あの男を殺すために、玉泉洞に行くことにしたんじゃないのか?」「仕事です。沖縄戦の戦跡をめぐるという特集のためにですが、うちの上川が初めてだったので、一応観光地は見ておこうということになりました」「ふーん、なるほどね」「あの男に会ったことはありません」 それだけで終わった。部屋を出されると、向こうの方でにぎやかな声がしていたので、修学旅行生だとわかった。彼らも事件現場にいたのだから、警察は事情を訊いていた。せっかくの旅行もだいなしだ。それよりも最近の若者たちなら、話のネタにするのだろう。 事情聴取を終えた上川だが、まだ婦警が側についていた。しばらく隣室で待機してほしいと言われた。「あー、お腹が痛くなりました。あの化粧室に行きたいんですけど」「いますぐ行きたいの?」「もう、ダメです」腹を押さえ、苦痛に歪んだ顔をした。生理痛を思い出し、演技をする。演劇部にでも入って、鍛えておけばよかった。ここまでやるとくせになるかもしれない。「うちは化粧室なんて上品なものないわよ」 婦警に付き添われていたが、外で待たせて一人だけトイレに飛び込んだ。実は仮病だ。トイレでしたい事は生理現象ではない。 婦警が入ってこないことを確かめた。さりげなく持ってきたバッグを出して、まずデジタルカメラを取り出した。次にパソコンだ。最新式の一番小さな機種だ。それに通信用モデムを差し込んだ。カメラのデジタル映像をパソコンに送る。メールを書き込んで、先に取り込んだ写真を添付した。(これは今日、玉泉洞内で起こった殺人事件の現場の写真です。現場にいたのは修学旅行生数人と、観光客数人です。被害者はカリフォルニア在住のアメリカ人。あとのことはお任せします。第一発見者の東京本社、社会部上川冴子) 観光客とは自分と加納のことだ。これ以上詳細に書くともしものときに、社に迷惑がかかるので控えた。まさか加納が犯人だとは思わないが、二人とも容疑者となっている可能性は否定できない。取り調べを受けながら、さんざん迷っていた。しかしこれはうちだけのスクープなのだから、ジャーナリストとして送らないわけにはいかないのだ。心のなかで仏と神に懺悔をしながら、メールを送信した。送信した後、念を入れて用を足した音を偽装した。最後に水を流して完了だ。 出てきた冴子を、婦警が不審な目で見ていたが、中でパソコンを使っていたことに気づかなかったようだ。きっと婦警はメカ音痴なのだろう。「遅かったですね」「あたし便秘ぎみで。でもすっきりしたわ」 そういって腹をさすった。
2011.10.13
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「カノウリュウカ?」「そ、そうだけど」 いきなり背後から声をかけられた。加納が答えて振り向くと、大男のシルエットがあった。知り合いに会うはずはないと思った。 男の影は、歓楽街の人工照明を背にして、巨大に映っていた。男は二人の肩をつかむと、コンクリートの箱の脇にひきずっていった。「ど、どうしたの。加納くん?」「なんだ?」わけがわからない。「カノウ、オマエガワルイ」 男は大きなナイフを突き出した。確実に、加納の胸元に凶器を突き付けていた。それでも加納は声も出さないで、男の次の行動をはかっていた。 酔っていた上川も異常な状況に気づいて、小さな悲鳴をあげた。(強盗だ!)一気に酔いも覚めて、脳細胞が立ち上がった。それでも夜の喧騒の中では、喚声や車の音などに巻き込まれて消えてしまった。男には訛りがあった。沖縄県人がいうと、こんな風になるのだろうかと思いながら、いきなり刺されて殺されるという通り魔事件を思い出した。強盗ならカネをだせといわれても、渡せば殺されずにすむ。だが強盗でなければ、快楽殺人のような通り魔なら理由もなく殺されるのだ。「た、たすけて!」上川は力のかぎり叫んで、飛び付いてオトコの手をかんだ。加納がやっと行動を起こして、男を突き倒す。それでも男はすぐに体勢を整えた。こんな修羅場に慣れているらしい。 加納と上川は、何度も大きな刃物を振りおろされて、ホラー映画のなかの犠牲者のように逃げ回った。なんとかかわしていると、パトカーらしい音が聞こえたので、男ははっとした。逃げるかどうするかを、判断しているようだ。いまだ。「加納クン逃げて!」 上川は加納の背中を突いて、逃げるようにうながした。二人は二方向にわかれて逃げる。幸運なことに男は追ってこなかった。もしかしたら加納の方に行ったのだろうかと、上川は不安になった。それでも夜の人工照明のなかに、男の影は見えない。何度も振り返って、確認する。まるで、トップを走るマラソン選手のようだ。追われるものは、必ず背後を振り返る。振り返らない勇気があるほど、上川は強者ではない。「逃げ切れたかしら。人通りが少なくなって、油断できないわ」「カノウオマエガワルイ」というのはなんのことかと、思考をめぐらせた。オトコは彼を知っていたのだろうか? 加納のことはいまだによくわからない。もちろん、まだ五ヵ月あまりしか付き合いはない。 上川は加納とはぐれてしまったので、ホテルへ戻るためにタクシーを止めようと、幹線道路まで出てきて手をあげた。一台のタクシーがウインカーを出して、こちらへと寄ってくる。乗ってしまえば、逃げ切れるはずだ。まさか沖縄で、いきなり強盗にあうとはついてないと思った。タクシーのドアが開いたと同時に、加納が手をあげながら走ってきた。「上川さん、早く乗ってください」「加納クン。よかったわ、無事で」 加納にせかされるようにして、タクシーに乗り込んだ。続いて、加納も乗り込む。シートに身を沈めると、ドクドクと高鳴っていた心臓が静かになった。慌てて胸を押さえる。加納の横顔を見ると、汗をべっとりとかいていた。冷汗だろうかと思った。「警察に届けなきゃ」「ただの強盗ですよ」「でも」「あいつアメリカ兵だ。ここは多いから。たぶんそうです」「外人だったんだ? 訛りがあるのかと思ったわ。違ったのね」 体の大きな強盗から、逃げ切れてよかったと思った。もし相手が狂暴で本気なら、殺されていたかもしれないではないか。「誰もカツアゲ程度じゃ本気で探さない。関わり合いにならないほうがいい。それに色々と聞かれたらめんどうだ。つきまとわれたりね。俺は経験あるんです。取材に支障をきたしますよ」「そうかしら」 加納の忠告をきいて、やめることにした。ここには仕事にきたのだ。まだ取材は始まったばかり。ジャーナリストとしての良心には反するが、仕事がすむ前に面倒なことにまきこまれたくはなかった。 第一夜は強盗に出会った。男は、ディープな沖縄の夜に消えてしまった。恐怖の夜を生き延びて、二人はホテルへと行った。チェックインをしていなかったので、すぐにすませる。そこで二人は二部屋に別れた。 自分の部屋に入った加納は、飛行機で拾った胸ポケットの小瓶のことを思い出した。確か、上川の座席の下に落ちていたものだ。「・・・・・・morphine。モルヒネか」 出してみてラベルを慎重に読んでみると、確かにモルヒネとあった。間違いではないらしい。加納は思いついたように、辞書をひいてみた。(モルヒネ。アヘンに含まれるアルカロイド。痛覚だけを抑制し、麻酔罪。鎮痛剤に用いる。習慣性が著しい)「鎮痛剤? ホスピスなどで末期ガンの痛みを和らげるのに、使うやつだ。まさか彼女がガン? あんなに元気なのに。それとも何かの古傷の痛み止めなのか?」 本当に彼女のものだったのか? 掃除もしているはずだが、先のフライトの客かもしれなかった。明日、訊いてみようかと思ったが、訊いたところでどうするのだ。しばらくは気づかなかったふりをしよう。東京に戻ってから、それとなく確かめることにする。 疲れたので何もしないで、ベッドに体を横たえた。ベッドが自分の体の重みで沈み込むと、それが自身の深呼吸に思えた。カーテンの開けられた窓から夜の海が見える。船はなく、波間に反射している月光だけが、海の存在を示していた。 傷ついた女性たちへの取材は難しい。もう一日を無駄にした。このまま「ディープな沖縄」に差し変わりそうだ。こうなったら沖縄戦の主な跡地でも回って、戦没者の取材に切り替えるのもいい。 終戦から六十年あまり。すでに戦後は終わったと言われている。記憶している者はもう一握りの年配者だけだ。今では悲劇性も薄れ観光地化しているが、この島にはそういった場所が無数にある。 アメリカ軍の激しい爆撃のなか、当時の沖縄県知事は行方不明になった。沖縄はすでに捨て石にされることが決まっており、着任を嫌がる人々の中で彼は勇敢にも沖縄へと赴任し、人々と共に消えていった。彼はすべてを承知して、死地へと向かったのだ。 沖縄は広島や長崎の原爆の慰霊碑ほどは世界的に有名ではないし、本土には空襲の悲劇がある。教科書で「凧になったおかあさん」という童話を読み、子供心に涙したこともあった。空襲の中を逃げ回る母親がお腹をすかせた子供に乳を飲ませ、乳を含ませた後、凧のようになって空に飛んでいってしまうというものだった。挿し絵では母親の姿が凧のように描かれてあったので、フランダースの犬の次に衝撃的だった。空襲も原爆も知らないが、母親はいつの時代も子供のために死んでゆくものなのだと思った。だがこの南の島にも多数の死者がいるのだ。日本史の中に埋もれることなく、忘れられたくはないが、過去を忘れることで、人は未来を生きて行くのかもしれない。 筋肉をおとさないために、風呂の前に鍛練をする。腹筋と片手腕立て伏せを二百本づつだ。毎日朝と夜にこれをやって、朝は四キロ走ることが日課だ。沖縄では仕事がメインなので、ジョキングはしない。風呂場に入る度に体中の傷を見て、網膜に焼きつける。あざではなく、刺青のように肌に呪咀は刻まれている。 今夜の男のことが気になった。あいつは俺を知っていた? 俺をカノウリュウと呼んで、殺そうとした。強盗にあうことはあっても、殺される覚えはない。ベテランのジャーナリストであれば、取材での情報収集活動でのもめ事なども数多くあるだろう。権力者や裏社会との癒着などを記事にしたりして、記事にしたことでヤクザに恨みをかうこともあるかもしれない。だが自分はまだ新人だ。何をしたというのだ。 まさか東京から外人が追ってきたとは思えない。自分が動くことが、何かを刺激するのだ。やはり東京を離れるべきではなかった。ここに来るべきではなかった。 深いため息をついて、両手で顔をおおった。軽い筋肉の疲労が心地いい。呪いの言葉は汗をかいても、消えることはない。加納は明日のために早く眠ることにした。 午前七時半、昨夜の打ち合せどおり、二人はロビーで落ち合った。朝のメニューの後、シャワーを浴びたので、まだ石けんの匂いがする。 上川はすでにメイクをすませていた。やはりこういうところは女の性だろうかと加納は思った。女は殺されかけても、どんなに恐ろしい目にあっても、夜が明けると立直っている。そういうところが長寿の秘訣なのかもしれないと考えた。昨日とルージュの色が変わっていた。「おはよう、昨夜はついてなかったわね」「そうですね。今日はどうしますか?」「あたしは沖縄は初めてだから、最初に沖縄の主要なところを見て、モチベーションを高めたいわ。沖縄の風や匂いをたっぷりと浴びることが、そこに生きる女性たちの心情を汲み取るためには必要だと思うのよ」冴子は力説した。「いいですよ。この取材がダメになったら、沖縄戦の特集にしませんか。それなら取材もしやすいですよ」「そうね、それはいい考えだわ。加納くん、あなたジャーナリストの顔になってきたわね。いい顔だわ」「じゃあ、今日は南部戦跡周辺を順番に回りましょう。ここは那覇から二十キロ圏内で、沖縄戦最大の激戦地の戦跡や慰霊塔があります。玉泉洞から平和の礎、ひめゆりの塔などを合理的に回ることができます。上川さんがほしがってた琉球ガラスもここで手に入りますよ」「ま、それは別にいいんだけど。仕事第一だから」 イスに座っている加納の足に目がいくと、膝下が長いので羨ましいと冴子は思った。自分の足ももう少し長ければ、パンツスーツももっと決まったのにと思う。遠めで見てもいつも加納をみつけることができるのは、この足のせいだと思った。 今日の予定が決まって、朝食をすませる。手配したタクシーを止めておきますといった加納が出ていった。席にデニムのベストを忘れていたので、声をかけるがもういなかった。ベストのたくさんのポケットはいっぱいに物がしまわれていた。携帯電話にペンにメモに、それから若い男は何を持っているのだろうと上川は思った。これにはたくさん小物をしまえるからか、加納は愛用していた。ほとんどこれとスーパーで買ったようなシャツを着ている。恋人はいないのかもしれない。もしいたとしたら、うるさく言われてもっとセンスがいいだろう。男のファッションセンスを磨くのは、たいていは恋人の女だ。 ポケットにこっそり手を入れてみた。定期入れがあった。自宅から社までの通勤定期券だ。加納はいつもこれしか持っていない。サイフはいつも二、三百円しかなかった。一度は給料をもらっているはずである。よほどのマンションにでも住んで、高額の家賃でも払っているのだろうかと思う。 たしかにサイフに金を入れておかないことが、一番の無駄遣いをふせげると聞いたことがある。まだ若いのに結婚のための貯金でもしているのだろうか。 定期入れを開けてみると、女性との写真があった。加納と並んで映っている。十代のような加納と若い女。かなりの美女だったので、驚いた。白人だ。真っ白な肌に、くっきりとした双眸。美しくあがったまつ毛。髪はハニーブラウン。典型的な白人の容貌だ。誘うような強烈な視線を、カメラを持つ者に向けている。日本で知合ったか、それとも留学経験があってそこで知合った女性かと思った。やはりもてるんだなと感心していた。たさの知り合いだったのか、それとも恋人だったのだろうか。なぜか気になる。しばらくして加納が戻ってきて手を振ったので、意気揚揚と取材に向かった。
2011.10.13
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怪力アトラスが支えているような天空の下、こうして沖縄の取材旅行が始まった。海外旅行ではないので、入国審査もなくパスポートも見せる必要はない。旅の目的も聞かれることはない。あれは面倒だ。人畜無害の日本人でも、ジロジロと眺められると罪人のような気分になる。たとえそれがセキュリティのためでも、旅先では気がめいるものだ。スムーズに、空港の外へ出られた。「加納君、タクシーの列に並ばなきゃ。急いで」 今度は順番待ちだ。上川は重そうな荷物は、すべて加納に持たせてしまった。両肩に荷物をかつがされた姿は、まるで大きな天秤のようだ。バッグが腰にまとわりつくので、歩きにくい。これでは人をなぎ倒しそうだ。幼児をはねそうになって、慌てて飛んだ。巨大な天秤のような加納は、人を避けバランスをとりながら、上川を追いかけて行った。「いつもパワフルっすね」「いくら俺でもこんなに持てないですよ」「日本男児だ、ガンバレ!ファイト、ファイト」 上川はタクシーの横で、掛け声をかけて急がせるだけだ。なんとか加納が追いついてきたので、タクシーに乗り込んだ。任務をなんとか果たしたぞといった顔で、加納はシートに身を沈めている。「東党新聞、那覇支局まで」「まず資料を見せてもらってから、掘り起こす事件をしぼって、関係者にアポをとりましょう」(よかった、加納君、明るい、来るの嫌がっていたけど、やっぱりわたしの杞憂だったみたい)(いつもの加納君だわ)上川は安心した。 同じ頃、二人の後をついてくる四人の男たちがいた。鍛えられた体躯、サングラス。南の島にはふさわしくないスーツ。それは麻だったがリゾートに来たのなら、もっと着くずしたはずだ。辺りの穏やかな空気をピリピリと震撼させるほどの妖気を、男たちは放っていた。彫りの深い顔立ちから、外国人であることがわかった。 沖縄についてすぐに、那覇支局に挨拶にいった。取材対象になる女性を紹介してくれるはずだった。取材に応えてくれるかどうか問い合わせをしたが、今は一人しか承知してもらっていないという。この仕事は最初からつまずいていた。「やっぱり、しっかりとアポがとれてから来るべきだったわ。見切り発車だったもの。もしかしたら、みんなダメかもね。ああ、東海林に殺されちゃう」「そんなことないですよ。女性の上川さんが直接説得したほうがいいんじゃないでしょうか。何度も通って説得すれば、きっとわかってくれますよ」「慰めてくれるの。優しいのね。今度がダメでも、また挑戦するわ。生きているうちに、やってみたかっただけ」「まだ定年までありますよ。元気を出して」 上川はため息をついて、そうねとだけいった。「取材が失敗したときのために、他の取材をしましょう。名づけて(いまどきのディープな沖縄探険)どう? 変かしら。取材経費を無駄にしないために、いざとなったらこれに差し替えるわ。これなら部長に怒られないでしょ」「転んでもタダでは起きないのが、ジャーナリスト魂よね。いざ、ディープな沖縄へ。まずは郷土料理よね。個性は食にありよ」 沖縄の郷土料理を味わって、沖縄を知りたいという冴子。 「じゃあ、ガイドブックにのっている居酒屋にいきますか? オーソドックスなメニューですけど、沖縄がわかりますよ」「そうね」 加納はさっさとタクシーを拾って、指示をする。そうしてこじんまりしているが、島唄のライブもある沖縄料理店にいった。 タクシーは少し離れたところで二人を下ろしたのに、加納は迷うことなく店にたどりついた。上川は、加納が夜の街に慣れているのかと思った。真面目そうなのに、意外に遊び人なのかとも思う。臆することなく、店員と話をつけていた。やはり加納は、初めて沖縄に来たのではないなと感じた。もちろん学生時代にダイビングなどのマリンスポーツを体験している者はたくさんいる。冴子は就職してから、初の夏休みに経験した。だが、いまどきの学生は小金持ちだ。バイトの稼いだ金は、みんなレジャーや海外旅行に使われる。日本の消費も、彼らなしでは成り立たない。彼らが喜ぶイベントやグッズはすぐに消費されてゆく。消費社会では、オヤジたちは役には立たない。若者文化が、経済の隠れた推進力になっているのだ。「方言じゃなくても、通じるのね」感心する上川。ここでは東京からの旅行者は、右も左もわからない。すぐに迷ってしまう。 それでもいざというときの記事のために、デジタルカメラで何枚か歓楽街の写真を撮った。やはり若者が多い。東京らしい若者も群れとなって、盛り上がっていた。 案内されて、落ち着いた店内のテーブルについた。ここは沖縄料理をメニューの中心にした居酒屋だ。しかし南の島を意識しているのか、バリのテラスのような店内になっている。ここでも若者受けを狙っている店の企みが、みてとれた。ここまで洒落ていれば、もう居酒屋とは呼ばず、創作料理店とでも言うのかもしれない。「何にする? やっぱり沖縄は、泡盛かしら」上川はメニューを何度もめくって、美味そうなものを探している。「そうですね。でもアルコールが二十度以上あって、きついですよ。大丈夫ですか?」「君はあたしの強さを知らないのよ。焼酎だって平気。泡盛を飲まずして、沖縄を語る勿れってね。あ、そうだ、泡盛のカクテルならきっとガンガンいけるわ。それと沖縄と言えば、やっぱり海の幸よね」 泡盛を飲んでゴーヤチャンプル-を味わうことにする。上川はメニューを見て、洒落て見えるカクテルを三つもとった。沖縄料理は食べたことがないからといって、ほぼ全メニューを注文してしまった。ミミガーに豚足の汁もの。沖縄そばに海ぶどうの丼。海蛇のスープまでたのんでしまった。「海蛇は加納くんに任せたわよ。よろしくね」 彼女は頼んでおいて、やっぱり勇気がないからと加納に押しつけてきた。加納は顔をしかめた。海蛇が、スープの中でかま首を上げそうだ。目まいがしてきた。 沖縄料理は豚料理が多い。鳴き声以外は食べるという。あらゆる調理法で、食べてしまう。そういうところは、ドイツのソーセージ作りに似ていた。すかさず写真も撮っておく。今ではデジカメで、誰でもそれなりの写真が撮れる。報道写真コンテストで優秀賞を取った加納の出番は少ない。二人だと余りそうなので、上川は泡盛に夢中の加納にもっと食べなさいと迫った。「ほらほら、あなた男なんだから、食べなさい。まだいけるでしょう。義務よ、義務。指導教官の言うことをききなさい」としつこい。それだけで彼女がすでに出来上がっていることがわかった。泡盛の飲みすぎだった。本人が思っているよりも、弱いらしい。「俺が残飯整理ですか。上川さんがたのんだのに、ひどいですよ。俺はもう成長期すぎてるんですけど」「うるさい、うるさい。あ、ミミガーと豚足はあたしが食べる。コラーゲンがたっぷりなんだって。女はやっぱり美肌効果に弱いのよね。あたしはまだ若いけど、もっとプリプリのお肌になりたいわ」「そうね、琉球ガラスもいいわね。冷酒とかをあれで飲んでみたい」「取材は?」「もちろんやるわよ。でもせっかくきたんだから、お金も落とさなきゃね」「・・・・・・はぁ」 加納は押しつけられたものを、腹一杯につめこみんでいる。苦しいのに女の冗舌な会話を聞かされ続け、いい加減にしてほしいといった顔をした。「・・・・・・ここで泡盛を飲むのは初めてだ」「え?」「東京の沖縄料理店で飲んだことがあるんですよ。ここでは初めてだけど」「次はバーにでもいく?」「まだ飲むんですか?」「大丈夫よ。まだ序の口。ここは南の楽園。トロピカルカクテル飲もうかな。やっぱり南の島じゃ、トロピカルフルーツよね」 ジャーナリストらしくない、支離滅裂な会話になってきた。一方的な話しは続く。上川はすでに出来上がっているようなのに、まだ飲むぞと張り切っている。これでは取材にならないなと、加納は苦笑した。「いくわよ。いくわよ。まだいくわ」「もうだめですよ」 上川は酔いすぎている。なんとなく酔った上でのしぐさが、踊っているように見えてきた。加納があきれ顔で、上川の半身を支えていた。同じくらい飲んだのに、加納は平気な顔なので、上川は気に入らない。「あなた、まだ酔ってないの? まったく顔色が変わってないじゃない。酵素の分解能力が違うのね」 次は感心して、お洒落なバーを探すように加納に強要した。やはりまだ飲む気らしい。加納はそれを無視して、千鳥歩きになっている上川を支えていた。店を出るとホテルに戻るためのタクシーを探すことにする。ドアを開けてくれた店員が、気の毒そうな顔で加納を見ていた。夜の歓楽街に飛び出すと、まだ街は盛り上がっていて、あちらこちらから共鳴したような、若者の歓声が聞こえてくる。
2011.10.13
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加納は羽田へのタクシーのなかで、ぼうっと霞んだ街を見ていた。相変わらず車が多い。まるで灰色のアリのようだ。巣から餌のムシの死骸まで、延々と行列を作っている。加納の乗り込むこのタクシーも、そんなアリたちの行列の一部になっていた。 こういう時は、すぐに過去へと思いをはせてしまう。未来ではないのは、夢みる十代ではないからなのだろう。すでに社会の歯車の一部として、忙しく働いているからだ。 墓がほしくて洗礼式でひざまずきクリスチャンになったが、大人になって、墓くらいは宗派に関係なく買える事がわかった。 そうして自分だけでなく、神という透明な存在や神父さえもあざむいてきた。(俺は、神を信じていない) 父親は、愛人と子供たちを捨てて故郷へ帰った。ガラスのように繊細な姉は(邪悪な者)たちによって辱められ、闇色の海洋へと身を投じた。(愛のない神に、俺は救いを求めない) 宿命には(愛)も(救い)もない。 頼れるものは、いつも己れの能力と気力のみだ。そう信じて生きてきた。つねに厳しく自分を磨き、鍛え上げてきたのだ。 すぎさった過去を哀れんでも、そこには(救い)はない。 これが、加納リュウの生き方だった。 集合場所の羽田で、二人はスムーズに落ち合えた。平日でも相変わらず人が多い。地方からの乗り換えも多いのか、老人会のようなグループもうろうろしている。他人事ながら、迷子にならないのか心配になるほどだ。 修学旅行生も相変わらず多い。海外旅行も当たり前のようになったので、世の中は小金持ちが増えたのかと思う。テロ事件の影響で、飛行機での旅行は国内にシフトしたのだろう。行き先は同じように沖縄か北海道、それとも東京ならディズニーリゾートか。相変わらずかのテーマパークは多いだろう。多感な時期なら、もっと行かなければならない場所があるだろうと加納は思った。 搭乗までまだ時間があったので、加納は保険の販売機の前に行った。損保会社がやっている、保険の自動販売機のようなものだ。これで、ボタンひとつで保険に入ることができる。 三千万の旅行傷害保険に入った。加納はまだ独り者で、死んでも困るものはいない。受取人の欄に、母親の名前を入れた。息子が死んで保険金を残しても、喜ぶはずもないが、迷うことなく入力した。学生保険、傷害保険、必要な保険に入るたびに受取人を母親にしてきた。これが、不肖の息子にできる唯一のことだ。もう六年も会っていない。 成田は遠いので、国内は楽だ。成田ときたら、まるで山奥までいくような気分になる。上川冴子は、戻ってきた加納の顔をじっと見ていた。嫌がっていた加納を、無理遣りつきあわせたようなので気にしていた。「・・・・・・・も準備してきました。それでいいですね」「え、ええ。完璧よ」 彼は、沖縄行きを嫌がっているようには思えない。準備は万端だといった。上川は、加納が用意周到なので、杞憂だったと思った。いい取材ができそうだと安心していた。(加納君っていいひと。もう一度願いが叶うなら、神様、あたしは)(母も、父も、弟も、みんな運命の犠牲になってきた)(もう誰も、誰もあたしの運命に巻き込まないと誓ったわ)「加納くん、もうちょっといい靴はいたら?これって本物じゃないでしょ」「たぶん。でも安かったんですよ」「あなた、サイフはいつもカラだし、一度は給料もらってるのに、生活費を切り詰めているのね。そんなに困ってるの。だったら助けてあげるけど」「大丈夫です。今日は適当に持っています。これからは余裕ができたので、なんとかなります」 そういって笑った。さわやかだが、時折この男がわからなくなる。加納が笑った後には、必ず影がさして見えた。心から笑うことができないのかもしれないと、上川は思った。 すべてを機内持ち込みにして、二人は羽田から沖縄行きの飛行機に乗りこんだ。那覇空港まではおよそ二時間半。新幹線だと京都ぐらいまでしか行けない。空の旅は四国、九州などの西日本を飛び越えて、海まで越えてしまう。二時間半は長すぎず短すぎることもないので、上川は資料をもう一度読んで、予定の整理をしておくことにした。隣の加納を見てみると、彼も資料を読んでいた。「やる気満々ね。どう? 初めての大仕事だから、はりきってるでしょ?」「はぁ、まぁ」「なによ、男にくせに情けないわね。期待してるわよ」「俺はまだ助手ですから。上川さんについていくだけです」「まぁ、いいわ。一緒にがんばりましょう」 客室乗務員ことスチュワーデスが、忙しそうに通路を前後に歩き回っている。短いフライトの中、それまでにしなければならないことがあるのだろう。「あら、加納くんじゃない?」 スチュワーデスが加納に声をかけてきた。「・・・・・・・」「覚えてないの?あたしよ、今日子」「あ、君か。でも後にしてくれ。俺は仕事なんだ」「あたしだって仕事だけど。じゃあ、向こうで会えない? ホテル教えて?」「いや、忙しいから」 加納は無視しようとするが、彼女はおかまいなしに喜んでいる。「同郷で大学も一緒で恋人だったのに」と平気で言った。「今は国内線のスチュワーデスで、ときどき那覇と羽田を飛んでいるのよ。まだ、東京なの?今度またデートしてね」といって、行ってしまった。東京へ戻れば数日後には、電話がくるのだろう。「本当に知り合いなの? 恋人だったって?」「いいえ。人違いですよ。他人の空似です」 上川は 今度の新人はよくわからないといった顔をしていた。同僚に昔の恋人を隠さなくてもいいはずだ。そんなことが恥ずかしい年でもない。しかし加納は隠したかった。 那覇空港に着いた。小さな窓から真っ青な空が見える。「さあ、着いたわ。仕事よ。早く降りましょう」 上川はかなり張り切っている。もちろん自分が希望し、部長にかけあい取材が決まったものだ。気合いがはじけるように、立ち上がった。「ほら、加納くん。いい天気よ。早く荷物おろして。あなたは荷物持ちなんだから」 加納は上川のなかで、荷物持ちからまだ出世していなかった。一人前のジャーナリストに昇進することは、まだ先のようだ。小窓からの空を見ていると、目が痛い。ゆるゆると立ち上がって、頭のうえの荷物を下ろした。「やっぱり、こんなときは加納君よね。便利、便利。さすがはあたしの荷物持ち」 女にとって、長身の加納は便利らしい。加納はそれはないでしょうと思った。彼女にとってはいつまでも荷物持ちだった。ポーターから、一人前のジャーナリストに昇格するのは、難しいらしい。 上川は自分の荷物を頭上から下ろしてもらうと、それだけを持ってさっさと先に行ってしまった。すでに他の乗客は、ドアの側にたまっている集団だけになっている。二人は遅れていた。スチュワーデスの今日子がめくばせして、加納に合図を送っている。加納は下を向いて、自分の荷物を両肩に担いだ。 ふと見ると、座席のしたに小瓶が落ちていることに加納は気づいた。上川の席の下だ。彼女の持ち物だろうか? 加納は長い足を折ってそれを拾うと、ベストの左ポケットにしまった。あとできいてみようと思った。「待ってリュウ」 思いついたように走ってきた今日子が、加納の耳元に顔を寄せた。「まだいい天気だけど、台風が発生したらしいわ。気を付けてね」「ありがとう」加納は礼だけ言った。「彼女、なんて言ってたの?」」「台風が発生したそうです」「あら、大変ね。来るまでに取材を終えたいわね」 客室乗務員たちをにらみながら、上川が言った。
2011.10.13
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沖縄行きの当日になった。羽田で集合なので加納がアパートを飛び出していくと、隣のホステス、南川さくらがゴミだしの最中だった。集合住宅には厳しい掟があるので、朝無理をして起きているのだろう。 彼女はもうここに十年住んでいると聞いたことがある。加納が上京してから五年以上住んでいるから、かなりの年齢のはずだ。女性に年齢は聞けないので、今でも年齢不詳だった。出勤はもちろん夜なので、昼間はノーメイクだ。それなりの年なのでさすがにスッピンは見るに絶えないが、いったん彼女がメイクをしたらプロの女の本領を発揮する。出勤時には二時間もかけたメイクと、派手な衣裳で出かけてゆく。 加納が、女の魔力を思い知るのはこんなときだ。派手なメイクの女とつきあったことのない加納には、「魔女のご出勤」に思えた。 加納の予感どおり、彼の顔を見るなり肘をつかんだ。「どうしてうちの店に来てくれないの」「金がなくて」「加納くんなら、あたしもちでいいわよ。でも就職できたらしいって、大家さんがいってたわよ。だったら一度くらい来られるでしょ」「まだ仕事を覚えるのが精一杯で、酒を飲むほどの余裕がないんです」 南川の髪には、カーラーがまだついていた。夜の仕事なので、ゴミを出したらまた寝るらしい。いぜん夜の間にゴミ出しをして、大家に怒鳴り込まれたという。しかし贅沢な世の中にあって古家は借り手が少ないので、大家もそれほどうるさくなくなったらしいが、水商売の女はと言われたくないから、やめたと言った。そういうことをいちいち隣の加納に話してくる。よほど気を許せる相手がいないのだろうかと、加納は思った。パトロンも恋人も、彼女にとっては油断のならないものなのだろうか。 ここにいると、そんな人間観察も趣味になってしまう。同じアパートには、大学を出ていつまでも作家になる夢を見ていた男がいて、とうとう半年前に餓死した。就職後であれば、助けてやったのにと思うが、交際はなかった。東京ではこんな住人もめずらしくはない。 このホステスも最初の頃は羽振りもよく、毛皮を自慢げに着ていたが、最近は売れっ子ではなくなったのか、安物のスーツを着て出てゆくようになった。彼女が勝手に話しだしたのだが、他にソープにもいっているらしい。この先クラブをクビになったら、ストリップ行きかもしれないと言っていた。ソープならおばさんでもいいかしらときかれたので、さあといった。 風俗は友人たちほど詳しくはなかった。ホテトルとかキャバクラとか、そんなカタカナ語くらいは知っている。ジャーナリストとなれば、くらい経験していなくてはならないのだろうか。取材に行くのは勇気がいる。週刊誌のライターでないのだから、関わりたくはない。「一度でいいから、上司や同僚の皆さんと来てよ。同じ屋根の下の住人として」 確かにアパートであっても、同じ屋根の下に住んでいた。それでも義務はないだろうと思った。 南川さくらは、過剰にエロスを吐き出す突き出た下唇を、しきりに動かしている。色気のありすぎる商売女は苦手だ。差別ではない、女の強引さが、男として苦手なだけだった。 みつかるたびに抱きつかれ、彼女はなかなか離れない。ただああいう場所が苦手なだけだ。女性を相手に酒を飲まなくても、ストレスは発散できる。早朝に近くの神社まで走ることで、十分だ。それに女に関わる悪夢は、これ以上増やしたくはなかった。「すいません。遅刻しますから」といって振りはらう。 勇気がいったが、強引な誘いには強引さで返す方がいい。どうせ彼女は、男のあしらいにも慣れているだろうと思った。電話番号も教えてくれと言われたが、電話はないといって逃げてきた。今は携帯を持っているが、教えたくない。きっと電話での誘いに、夜ごと悩まされることになるだろうから。 五十をすぎた大家の小林俊子も出てきていた。彼女も大仏ヘアを維持するために、古いタイプのカーラーをまいている。たぶん数十年愛用しているものだろう。 小林俊子は足が不自由で、いつも杖をついている。それなのにひったくりを捕まえて、虎の子を奪い返したことがあると自慢していた。不自由な足のコンプレックスを補うためか、口はだれよりもよりもかしましい。土曜にでもつかまれば、一時間は武勇伝を聞かされるのだ。一週間の出来事や留学中の子供のこと、夕食の献立までどうしようかと尋ねられるから、加納は世界で一番会いたくない女性だと思っていた。 彼女は、ホステスともめている加納の声を聞いて出てきた。毎日きちんと出勤しているのか確かめているようだ。プー太郎では家賃が心配なのだ。両肩に二つのバッグをさげた加納を、つま先から頭の先まで観察している。「最近ずっとカジュアルなのね。本当に就職したの? 背広来てたの入社の日だけじゃない」 いつもこんな調子で加納を問い詰めるのだから、たまったものではない。 加納はいつも笑ってごまかす。年配の女はしつこいので、相手をするのは辛いのだ。 スーパーで買った安価なシャツと、小物がいくつでもしまえるベストに、ジーンズという学生のような格好だ。靴でさえ、スーパーの出店で買ったものだから安っぽい。どこかのブランドに似たマークがついている。 靴の強盗でさえあったほどだから、中学生でもブランドもののスポーツシューズを持っている時代だ。それほど彼の持ち物は、一目で安物とわかるものばかりだ。もしかするといまどきの大学生の方が、いいものを着ているのかもしれない。 本当は新聞記者とは、いつも背広で正装していなければならないのかもしれないが、一着しか持っていないし誰も何も言わないので、加納はしばらくこのままで通すつもりだった。「新聞社に就職できました。毎日出社しています。家賃もちゃんと毎月払えますから、大丈夫ですよ」 そういうとカーラーをつけた頭を揺すって、未亡人の大家は安心したよといった顔をした。「ま、そういうことなら。希望のところに、就職が決まって本当によかったわね」 これは本音半分だった。大家の小林俊子は夫の残してくれた唯一の財産であるアパートを、生活費として頼っている。無職なので、あとは少ない国民年金だけらしい。死亡保険金も借金の返済と子供の教育費に、使ってしまったと言っていた。遺族年金もないので、アパートの家賃と障害者年金だけが彼女の生活を支えていた。だから、加納の安定した収入によって借り手が減らないという事実の方が、彼の就職よりも本当は嬉しい事なのだ。 そんなことを、なんとなく加納は察していて、月々の家賃を口座振替に切り替えた。今まではバイトを理由にして、なんとか引き伸ばしてきた。月末になれば家賃が振込まれた通帳の数字を見て、俊子は安堵することだろう。あとは新聞社をクビにならないように、冴子について行って頑張るだけだ。 加納は、取材用の器材と最低限の着替えだけを持って、羽田に向かった。 死神たちはやってきた。 遥か彼方の大陸から、十二時間もかけ、乗り継ぎをしながらやってきた。もちろん遊びに来たわけではない。使命を持ってやってきたのだ。高額の報酬がかかった仕事だ。失敗は許されない。もちろん失敗などするわけがない。彼らは一流の刺客だ。暗殺、誘拐なんでもやる。そうしてすでに大金持ちだ。銀行の秘密口座には財産がたっぷりとあるが、仕事をやり遂げた後の達成感が、彼らの引退を引き止めていた。猟犬のようにターゲットを仕留めたとき、彼らの至福がやってくる。 依頼人の男も、いずれ来ると言っていた。 俺たちの仕事を見届けるためらしい。よほど、あの男が生きていると困るのだろう。確実に、すばやく処理することを望んでいる。こっちがあいつのターゲットにならなくてよかった。あいつは、手段を選ばない冷酷な男だ。 殺しのワケは聞いていない。殺し屋はつまらないことは聞かないものだ。プロはプロとして、金で動く。 かわいそうなのはあの男。おれたちが殺しにくるとも知らずに、のん気に生きているのだろうか。一杯やって、陽気に歌ってるのだろうか。 依頼人は東京で殺せといっていたが、急きょ変更になった。 ターゲットを追いかけろと司令が来た。 死神たちは、目的地へ着くと昔の仲間に連絡を取った。蛇の道は蛇。世界には金のためなら、何でもする男たちがいる。案内されてそこへゆくと、頼んでいたものが用意されていた。 場所は怪しげな倉庫だった。倉庫の奥は洞窟になっている。 そこには、ホコリをかぶった箱が置いてあり、仲間は箱を開けた。 中をのぞくと、鈍く光るものがたっぷりとあった。依頼どおりのものだった。依頼人が用意してきたが、素人相手に大げさだ。プロが本気になれば、すぐに片付く。自殺、事故死、何にでも見せかけることができる。 死神は手に取ると、ひさしぶりの感触を味わった。ずっしりとした重み、愛しいまでの手応え。まるで愛人だ。 これでいい。これで。必要なものは手に入った。早くこれを思いっきりぶっ放したい。 もちろんそれは最終手段だ。それまでに片づけば使うことはない。 待っていろ。俺たちがいくまで、夢を見ているがいい。 男たちは静かにヘッドフォンを耳にあてた。(愛人)を奥の洞窟に向ける。人々が教会でひざまずくように、彼らにはこれがおごそかな儀式なのだ。だからたとえクライアントであろうと、この儀式を邪魔することは許さない。 そこには、即席で作られたマトがあった。あうんの呼吸で、誰かれともなく撃ち始めた。 大爆音が、響き渡る。数秒でマトは蜂の巣のようになった。 今度は最新式のマシンガンを取り出した。相手はただの日本人だ。これほどのものは必要ないだろう。警察や自衛隊を相手にするわけではない。しかし(愛人)を撃ちまくりたいという衝動が、彼らを突き動かしていた。「マシンガンはやりすぎだぞ」「ウージーだ。久しぶりにぶっ放したいのさ。傭兵時代の血がうずく」 GOOOOOOONN! みごとな穴が空いた。人工の鍾乳洞の出来上がりだ。巨大な悪魔の口だ。ブラックホールだ。一気に飲み込まれてしまいそうだ。だがこの男たちは、こんなことでは震えはしない。彼らはプロフェッショナルだった。人をこの世から消すことで糧を得てきた。殺しには快感を覚える。人殺しは最高だ。一人消すたびに、脳内に快楽物質が分泌される。それが彼らだった。「フィリピンで合宿して以来の快感だ。最高だ」 マシンガンを撃つのは半年ぶりだが、腕は落ちてはいない。完璧だ。あとはターゲットを追うだけだ。
2011.10.13
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加納が新聞社に入社してから、すでに二ヵ月たった。一人暮らしはもう六年にもなっているので、出社もうまくいっている。朝はとらず社の近くのカフェで、コーヒーとサンドウイッチをとるだけだ。近くまで出てきて、朝食をとると落ち着く。通勤電車の遅れなど、どんなトラブルがあっての遅れることはないからだ。朝に何が起こっても、遅刻しないことが社会人としてのマナーだ。社会人として堅実に生きてゆくことが、東京に自身を引き止めておく唯一の手段だ。 いまわしいあの故郷へと逃げ返ることがないようにすることは、自分のためにも必要なことだった。自分でも臆病なやつだと思っている。 ただ一つ自分でも気になるのは、送金をして家賃を払うと、金がほとんど残らないことだ。いつも定期券だけで、毎日を生き延びている。いつなんどきどんな金が入り用になるかと、心臓がばくばくすることもある。男でも頼るものがないと、この都会では不安になるものだ。孤独は人を闇へと導く。「ね、加納くん。たのみがあるんだけど」「はい」 女性であり指導者、教育係の上川冴子の行動もよめるようになった。何か注意をするまえには、必ず上目遣いで腕組をする。年下の、半人前の男になめられたくないといった、負けん気が強いのだろう。もちろん加納にいつも見下ろされているのだから、当たり前だ。だから加納も、これから何か説教をするなという予感がしたときには、必ず先に謝ってしまう。そうすれば、出鼻をくじかれた彼女は、負けたといった顔をする。加納は、わずかな時間で教育係をうまくあしらう術を身につけた。 彼女は年上だが、加納がいつも見下ろしているせいか、彼には彼女が年下か同じくらいに感じた。幼いというわけではない。十分大人の女だった。いつも流行のデザインに整髪し、流行の服を好んで着ているところから、若さをいつも意識しているのだろう。 小言ではないときは、冴子という女性は座っている加納の横にくる。囁くように話しだす。どうも上から見下ろされたくないらしい。冴子の容貌は美人ではないが、いまどきの女の典型的な雰囲気だ。髪型が流行もののせいか、個性はない。最近のキャリアウーマンは、そういうステレオタイプが多い。後ろ姿はそっくりで、加納は顔を見ないと区別がつかなかった。 笑うと、仕事の中毒の女には見えないほど可愛いと、加納は思っていた。「加納くん、今度あたしと沖縄に行ってくれない?」「お、沖縄?」加納は冴子の突然の懇願に、つばを飲み込んだ。「沖縄の少女暴行事件からずいぶんたったけど、アメリカ兵が関係していると思われる犯罪はあとをたたないわ」「日本人の目を再び日米安保条約に向けさせたあの事件や、過去の犯罪を風化させないために、現地を取材したいの。とくに本土復帰からの過去の事件の被害者にあって、沖縄の悲劇をすべて引き受けてきたような女性の声をききたいの」「テーマは「戦後沖縄における女性の悲史」かしら。またゆっくり考えるけど」 彼女が沖縄に関心があったとは、意外だった。この五ヵ月間まったくきかなかったからだ。密かに温めていたのだろう。「・・・・・・日差しの強いところは、どうも苦手で」「男なのに。軟弱ね。そういいながら、ハワイには行ったことがあるなんて言わないでね。パラセーリングしたとかね。たしかにシュノーケリングとか、極彩色の魚が見られて楽しいけど」「そういうわけじゃ。もちろん仕事なら行きますよ」「私はこのジャーナリストという仕事が好き。取材することで社会の弱い人たちや虐げられてきた人たちの支えになれるから」「女たちは戦後、雇用機会均等法などあらゆる管理を勝ち取ってきたわ。でも戦後六十年を過ぎても、最低限の人権でさえ守られない女性たちがいるのよ」「那覇支局まかせじゃ、いい記事はかけないわ。自分の目と耳できいて感じないとね」「お願い、加納くん。あなたの力を貸してちょうだい。一人では無理だわ。もしかしたら、もう間に合わないかもしれない」「え? 何ですか? 間に合わない? 何に?」「いいの、気にしないで」「わかりました。ぼくでよければ御供しますよ。二人でいい仕事をしましょう」 「あ、ありがとう。加納くん。がんばろうね。感謝」 助手も確保でき、準備も整って、上川冴子は満足していた。完璧主義者の彼女も、二人なら何事もうまくいきそうだと思った。これでいい。きっといい記事が書ける。女として選んだ最期の仕事として、これ以上の素材があるだろうか。「これは、俺の運命なんでしょう」「え?」「俺のファムファタールが呼んでいるんです」 加納リュウは複雑な思いで、東京の空を見ていた。オフィスから眺める東の空は、日本の典型的な色だ。一生この貧しい色彩を見て生きていこうと思っていた。報道の仕事につくことが夢だったが、それだけのためにここに来たわけではなかった。 逃げるように、捨てるようにここに流れてきた。今は一つ一つの仕事を、無難にこなすだけで精一杯の毎日だ。それでも何かに呼ばれているような気がしている。それは呪咀のように、加納にいつも呼びかけてくる。それは永遠に、永久に、加納が息を引き取る瞬間まで続くと思われた。 いま、加納は自分のひらいたサイトを見ていた。三日前に掲示板に「管理者はしばらく仕事で沖縄に出かけます。しばらく更新しません」と書き込んだ。しかし加納が書き込んだあとに、書き込まれてきた、あるメッセージが気になった。(九月二十日 沖縄で会おう) 気になった。ただの偶然だろうか。これだけでは性別は不明だ。相手が意識をして、そういった文体で入力してきたのかもしれない。「会う」どこで? どのように? 誰が会いにくるというのだ? 沖縄。シーサーと祖先の霊が護る島。熱帯性の花々の舞うパラダイス。本土とは全くことなる文化圏。言葉は独特の方言で、もちろん年寄の言葉は若い者なら理解できないこともあるという。それは沖縄に限ったことではないが、九州からでも距離があり気候も温暖だ。 沖縄県は沖縄諸島と宮古、八重山両列島から成っている。漢名は琉球だ。かつての琉球王国になる。江戸時代に島津氏が侵攻して以来、日本の服属した。戦後米軍の軍政下に入った。軍政下の後、さまざまな権利闘争や問題を抱えながら、一九七二年五月十五日本土復帰後沖縄県が復活した。朝鮮戦争、ベトナム戦争を契機として、一時は米軍最大の海外基地となった。現在でも沖縄県の面積の約十%が嘉手納空軍基地などの米軍の施設だ。特に嘉手納は四キロの滑走路を持ち、成田空港よりも大きく日本最大の空港だ。西太平洋最大の機能を持つ米空軍基地だ。 そんな負の遺産を数十年もひきうけてきたが、ケラマ諸島の海は青く美しく、世界のダイバーの憧れにもなっている。目に染みるようなカシス色の夕陽も、一度は見てみたいと願う。 そんな美しい島なのに、気がすすまない。目を閉じれば、白い女の悪夢をみるからだ。 波間にあがってきた白い女が呼んでいる。いつも白く美しい。エメラルドグリーンの海底から現われては、白い女の腕は加納を抱き締める。(リュウ、リュウ、愛してる、待っているのよ、ずっと)(早く来て、早くキスしてちょうだい、リュウ) あの悲劇を、苦悩を、俺は決して見捨てないと加納は思った。それが、自分が残してきた女の供養になるはずだと信じていた。 六年ぶりに帰る。封印していた秘密を抱いて。
2011.10.13
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東京の空は、今日も灰色だ。東の土地はよく雨もふる。冬もヒートアイランド現象の影響なのか、けっこう暑い。外で携帯電話を使えば、車のエンジン音で声をききとるのが大変だ。それでも人々はこの都市を愛し、ビジネスでの成功を夢みる。「じゃあ、新人君、例の記者会見にいこっか」「あ、はい、行きます」 加納ははりきっていた。スーツを着ていたのは最初だけで、いつもカジュアルな服を着ている。このほうが活動的だ。それに一着だけしかないものは大切にしたい。胸に秘めたある目的を遂げるために、報道を目指してきたのだ。貪欲に仕事を覚えようと思った。 記者会見のある病院にはスムーズに到着して、記者会見のカメラを固定していた。「ねぇ、加納くん、あなた最近ずっとカッコね。背広は嫌い?」「ははは、管理人のおばさんや近所の人によく言われます。あなたほんとに就職したのってね。成人式にバイト代はたいて買った背広はまだ、数えるほどしかきてないですよ」「ふふふ、ところであなた身長は?」「百八十五センチです」「どうしたらそんなに伸びるの?」「ははは。やっぱり遺伝かな」「やっぱり、そうなの。ねぇ、あなたって日本人ばなれしてるって言われない?」「・・・・・・いいえ、全然。あ、始まりますよ」 主治医に付き添われて少女がでてきた。今回は骨髄バンクにより骨髄移植をうけた少女のたっての会見で、元気になったので謝意をのべたいということだった。ICUから一般病棟に移ったらしい。「私のために骨髄を提供してくださったカタや今まで私を支援してくださった皆様に心から感謝をいたします」「質問、質問してもいいですか?」一人が手を上げた。 カメラをのぞいていた加納は、どきりとした。「あの、完治したら一番に何をしたいですか? バンクはあまり登録がすすんでいませんが、ころについては?」 主治医は、慣れていないのか、ただ戸惑っている。主治医の様子に加納は苛立っていた。質問者は予め決められていて、会場に入る報道機関も制限されている。質問は患者に配慮して、いっさいしないことになっていたはずだ。撮ることをやめて加納は立ち上がろうとしたが、立ち上がる前に上川が立ち上がった。「質問はナシって、決まってたでしょ。守りなさいよ」「あなたどこの記者?こんなやつに任せるなんて、サイテーね」 とうとう殴りあいになった。先に手を出したのは冴子だ。「このー、暴力オンナ、このやろうやりやがって!」「おう、受けてやろうじゃないの!」「上川さん、会見場ですよ。やめてください」 加納が割って入って大乱闘は免れたが、すでに会場は二人の勢いで、イスが薙ぎ倒された。「お、帰ってきたぞ。ボンバーウーマンが」「だーれが「いい女」だって?」「言ってない、言ってない」「・・・・・・上川」「きた!」「大乱闘寸前だったんだってな。スクープにしていいか?ってマジに他社から問い合わせがあったぞ。もう少しでワイドショーの格好のネタになってた。記者が報道されてどうする。(女記者会見場で暴れる)とでもなったか」「す、すいません。すいません」「話はつけて解決したが、オマエの爆発は始末書ものだぞ」「でもあんなデリカシーのない低俗ライターに会場をかき回されたくなかったんです」「たしかにあんなデリケートな会見場に、週刊誌専門の売込ライターが入りこんだのはまずかった。病院側の管理体制の不備だな」「ネタ不足になれば、粗捜しもやる連中だ。弱肉強食。あの世界で生き残るためには情け容赦ない。しかしやりすぎるやつは、いつかこの世界からいなくなるだろう」「オマエの気持ちもわかるが、正義の味方もほどほどにな。訴訟でも起こされたら社の名に傷がつく。くれぐれも無理をするなよ」「おまえのためでもな」「上川さんは立派でした。俺よりも先に行動していました」 加納は、一人だけ上川を悪者にはしたくはなかった。彼女は、まるでドラマのヒロインのように正義感が強い。しかし現実では、行き過ぎた正義感は危険だ。時として正義は、悪意のパワーの前には無力だということを、加納は身を持って知っていた。だがこんな女性がいることも悪くない。なぜか同じ血筋を感じる。「上川さん。いいもの見せましょうか?」「な、何?」加納が見せたものには冴子が男を殴るシーンがフォーカスされていた。「何!これ! こいつ」「あまりの雄姿に、つい」「加納のバカタレ! バカヤロウ!」「きっとぼくがいちばんのスクープ記事が書けましたよ」「助手、クビよ!」「いつまで笑ってんのよ」「俺、強い女性って好きですよ。俺、がんばってついていきますから、これからもよろしくお願いします。早く一人前になりたいんです。ために報道にきたかった」 「何かワケがあるの? いまどき正義感なんかで、ここにこないわよ」「早く一人前になって、俺しか書けないことを書きたいんです。あなたにもあるでしょ、これを書かなければ死ねないっていうことが」「あるけど、そんなに自己主張したければ、ライターにでもなればよかったのに。あくまでもジャーナリストは人々の知りたい権利を代弁するだけ」「たしかに、間違えたのかもしれない。何年か勤めたら転職も考えますよ」 そういったら加納はにやりと笑った。それだけで仕事に没頭しはじめた。 上川はうで組をして、加納を観察していた。新入社員の加納というこの男は、真面目なのかお調子者なのかよくわからない。熱い文体を書くし、それなりによく笑う。しかし冷めた後は、なぜかしばらく黙っている。それは、孤独を愛しているような沈黙だ。この新人は単純にジャーナリストという職業に憧れてきたのではなくて、自らいっていたように、何か強い目的があってここにきたのだろう。孤独を愛さなければ成すことができない、崇高な義務を胸に刻んでいるようだ。 上川冴子は、自分の助手に入った加納という若者を気に入った。まだよくわからない男だが、そこがいまどきの若者らしくなくていい。絶対に、自分の後継者に育てたいと思った。急いでいた。胸に秘めた目的のために、一人でもプロのジャーナリストに育てたい。自身もまだ半人前かもしれないが、まだできることがあるはずだ。未練を残さずいくためにも、必要だった。 再開発で高層ビルが次々と建設され、ここは新宿副都心並みの摩天楼ができあがった。そこに東党新聞の東京本社は一年前に移ってきたのだ。東京は世間の不況をものともせず、神の怒りを恐れることなく、バビルの塔を建設し続けていた。 すでに塔は何十にもなり、塔が屹立する遠景はくすんだ大気のなかで、未来都市のようである。空へと増殖する人類。過剰な投資、過剰なオフィス。金はある所には、いくらでも余っている。数字だけの金を目に見えるものにするために、人々は金を使う物をいつも探している。神は人類への戒めのために雷を放ち、屹立する塔を打ち倒そうとするだろうか。 そんな過剰なオフィスビルの谷間にも、人々の憩いの場所はあった。いまではOL目当てのしゃれたカフェが、何件もあった。フランス語の屋号、ミラノの街角を真似てパリジェンヌやミラネーゼをきどる女たちを誘っている。いま外のテーブルでカフェオーレを味わっているのは、上川冴子と叔父の東海林竜夫だった。男は編集部長だった。社内ではすでに誰もが知っている。ときおり仕事に忙殺される合間に、こうして命の洗濯をするためにやってくる。カフェはすでに、女だけの園ではなかった。「なあ、冴子。加納っていいやつだろう」「あんな写真とるやつは、許せない」 冴子は角砂糖を何個も入れて、思いっきりかき混ぜた。こうすれば、毎日のストレスも吹き飛ぶように思えた。「あいつ、年上が好きなんだそうだ」「は?」「よかったら、俺がきっかけをつくってやろうか」「何いってるの? 彼、まだ新人よ。半人前よ。あたしと対等になるのはまだまだ先」 彼女自身、先輩として教育するのは初めてだった。だからまだ手探り状態だった。上に立つ者としてのプライドも保ちたいが、それだけでは信頼を築けない。自分が覚えることよりも、知識を与え、導いていくことの方が何倍も難しいと思った。「結婚する気はもうないのか?」「おじさんだって、知ってるくせに。あ、あたしが、恋愛できないって。してはいけない女だって。誰もあたしの運命に巻き込みたくない。ひとを好きになったら、苦しくて苦しくてまた泣いてしまう」「・・・・・・わかったよ。もう何も言わないよ」 姪の冴子のことは、東海林が一番知っていた。だからこそ、新人の教育という新しい仕事を与えた。何か得るものもあるだろう。冴子の人生をより実りあるものにするために、力を貸したつもりだ。仕事への情熱が、今の彼女を支えているのだから。 先に社に戻った冴子の後を、ゆっくりと追いながらもっと何かしてやれることがないか、東海林は考えていた。思い思いの昼食を楽しんだビジネスマンやOLたちが、スキップをするような足取りでオフィスへと戻ってゆくのを眺めているとなおさら、姪がふびんになった。 ふと見ると人々の群れのなかに、加納をみつけた。頭ひとつ伸びている風情は、自然と目に入った。いつも遠めでもみつけることができた。長身のせいだろうか。それとも、何かが辺りの若者と違うのだろうか。東海林は首をかしげた。歩きながらテイクアウト用のドリンクを飲んでいる。 あいつは変わった奴だと思った。社内食堂にも行かず、同期たちとも群れず、いつも一人で行動している。群れを作るのが好きな日本人の習性を、加納は持っていなかった。外国人の中には個人行動を好む傾向があるが、そっちに似ていると思った。留学の経験があるのか、それとも帰国子女か何かなのか、何事も不安で群れたがる傾向の新人としてはめずらしい男だった。社会人としてまだ不安定な時期であるはずなのに、すでに思考は自立していた。きっと連れションもしないんだろうなと、東海林は想像して笑った。 五月の入社から一ヵ月、あいかわらず冴子に叱られながら、器材をかついで後をついていっている。新人はどんなしっかりした者でも一年ぐらいは、つまらないことで注意や説教の嵐にさらされるものだ。女の下につくのは苦痛に感じるものだが、彼は全く気にしていないようだった。姉か母親にいつも説教をされていて、慣れているのだろうか。それとも恋人に? 最近では、アゴで男を使う女もめずらしくない。 それだけではない。加納は大学卒業まもなくしての入社だというのに、なんとなくいまどきの若者とは身なりが違うとも思った。身なりというよりも、彼独特の雰囲気なのだろうか。親の金で楽しい学生生活を送ってきた学生とは、明らかに違っていた。偶然のぞいた古びたサイフの淋しさは、堅実さとは違う貧しさを感じた。もうすぐ給料も出るが、それを当てにしている様子はない。冴子が、自動販売機のコーヒー代も持っていなかったと言ったことも、たぶん本当なのだろう。品行方正、粗衣粗食を信条としているのだろうか、あいつは定期券だけで、社と家を往復しているらしい。 取材中の急な出費はどうするのだろうと心配しながら、少し派手な容貌とは反比例する堅実さを持った加納を、東海林は気に入っていた。早く一人前になって、プロフェッショナルなジャーナリストになってほしいと願った。 東海林はあることを思い立って、帰社を急ぐ加納を呼び止めた。「冴子について君にたのみがあるんだ」「なんですか?」
2011.10.13
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上川冴子は校正に疲れて、ぼーっと加納の署名をみていた。加納には入社時に必要な手続きに行かせていた。大きな会社では入社すると同時に、様々な書類の記入と手続きのための署名をさせられ、退職のときも同じ目にあう。署名、署名、機械的な説明をされて、ろくに理解できぬまま延々と署名、捺印をさせられる。あとで自分に不利な書面に承諾させられていることに気づくが、気づいたときはすでに遅かりしというわけだ。 すでに二時間以上も戻ってこない。社内での規則なども教え込まれているのだろう。自分のときもそうだったと、苦々しく思い出していた。社会人とは面倒臭いものだと思ったことを。内定までの苦労と同じくらいの、手続きや習わしがどこにでもある。理想と現実とのギャップを知り、大人の社会の非情さを思い知る。「加納クンの名前ってカタカナで書くんだ。まるで、犬の子みたい」「よくそう言われます」戻ってきた加納がのぞきこんでいた。「きゃー、いたの。犬だなんてほんとうに思ってたわけじゃないのよ。めずらしいなって。ごめん、本当にゴメン。許して加納くん」 そういって謝ったが、すぐにこめかみを押さえた。「はぁ、頭痛がする」「最近、なんか疲れる」「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」「なんともないわ。目の疲れよ。記者の職業病かしら。何度も小さな字を読み返すから。老眼だなんて言わないでね。まだ二十代なんだから」 同じ頃、ある男がアメリカのある場所の、秘密の会合へと向かっていた。車は高級車。身分相応な移動手段だ。 彼らを仕切るボスはFBIでもない。CIAでもないが、それなりの修羅場をくぐり抜けてきたような威厳があった。ボスの威厳は、神々しいものではない。マッカーサ元帥の百戦錬磨のごとき、エリート的で老練な威厳ではなかった。相手を見るときは、威嚇するような視線で見下ろすのがこの男の威厳だった。 それでも、どこかに強い使命を持っていた。それをやり遂げるために、男たちを集めていた。 男はある倉庫に着くと、迎えにきた男に連れられて、奥へと入ってゆく。奥には、死神のような顔をした男が二人いた。 男を見てにやりとしたので、男はトランクから金を出した。「俺の希望は聞いてくれたか? ターゲットは、こいつだ」 依頼人は、誰かに撮らせた写真を見せた。ターゲットが街を歩いたり、走ったりしている。望遠で撮ったとみられるバストショットもあった。「もちろんだ。相手は素人だろ? 男でも女でも、かならずやってやる」「とにかくやればいい。できれば強盗か事故に見せかけるのがいいが、できなければどんな手段でも構わない。残りの金は、成功してからだ。この指示書のとおりに、動いてもらう。武器もむこうで調達させている」「日本には、CIAもFBIもいない。楽勝だ。クスリをちょっとやって、ハイになれば簡単さ。今度のクライアントは素人相手に大げさだ。俺たちに任せろ。素手でもできる」「殺したら、日本の警察がたどりつく前に、日本を出ろ。お前たちはあらゆる可能性を考えることを叩き込まれたプロだ。失敗するなよ。手足を取れと言ってるんじゃない。かならず殺せ。絶命させろ。死体がどんな状態であれ、かまわない。できるだけ早く殺せ」「イエッサー」 男たちは敬礼した。 沖縄県警沖縄にしき署には、(白骨死体殺人事件捜査本部)が設置された。白骨死体はガマで眠っており、検死により明らかに殺人だとされたためだ。整然と準備された部屋は、所轄署の警察官たちが息を飲む音だけが聞こえるほどの静けさだ。空調もきいているので、快適だ。捜査へと向かう使命感と緊張が、彼らの神経を鋭敏にしていた。平和な南の島での久しぶりの殺人事件は、警察官としての本能を刺激した。 「埋没工事中の洞窟からみつかった白骨死体の検死報告ですが、腐敗状況と周辺の土の状況から死後約五年以上。頭蓋骨からみて被害者は白人男性。明らかに我々日本人とは、特徴が違っているということです。ただし身元を証明するものが全く発見されなかったことから、出身までは特定できません。しかしこの沖縄では海兵隊員が多いことから、アメリカ人ではないかと思われ、五年以上前に失踪したアメリカ人の行方不明者を当りました。基地にも照会し、この被害者が十年前に失踪した「エドワード・リッチ」氏である可能性が一番高いようということです。これは失踪者が少なかったことから、ほぼ確実です」「このリッチ氏ですが、当時アメリカ本国に仕事を持つ妻と二才の息子がいました。単身赴任のような形で沖縄に来ていたようです。しかしちょうど十年前に婦女暴行事件に関係しており、県警が捜査に着手しはじめたと同時に姿を消しました。姿を消した直後、被害者の十五才の少女が崖から投身自殺したことにより追求が難しくなり、他の容疑者もアメリカ本国へ戻ってしまったことと日米安保の問題から、この暴行事件は未解決のまま迷宮入りとなったわけです」「因縁があるとは思えんが、洞窟のすぐ近くに現場がある」「どこから着手しますか?」「そうだな、当時の資料は古いし少なすぎる。まずリッチの十年前のことを知っている人物をあたって、交友関係、家族、暴行事件に関係した仲間のことをきく。そこで他の怨恨がらみトラブルが浮かんでくるかもしれないから、そこも探る。被害者の関係者もあたろうか。周辺からまずなにか出るだろう。たたけば第三の女もでるかもな。痴情のもつれかもしれん。かなりのワルだったようだから、何が出ても不思議ではない」「アメリカに帰国してしまった容疑者たちはどうしますか? どうやって話を聞きますか? 日米関係に影響しませんか? 外務省に許可をとらなくてもよいのですか? このまま普通の事件として捜査してもいいのでしょうか?」「人生で一番いやな事件になりそうだな。ややこしいし、おまけに事件の根は十年前だ。せめて二、三年前ならな。ガイシャが早く出てきてくれてればよかったのに。アメさんが関わっている以上進展によってはこれも迷宮入りってことも。やりがいがないな。早く定年になりたいよ。できれば暴行事件とは関係がないほうがいい。島民感情もあるしな。もめ事はさけたい」 「これからの捜査手法、考えられるトラブルなど辺りは署長と協議しておく。それまでは通常の手続きで聞き込みをやってくれ」「逃げた海兵隊員のほうは基地に照会しておく。向こうに誰かを派遣して、直接話をきいてもいいだろう」「通訳や基地での複雑な手続き、まったく今回はかなり必要経費がかかりそうだ。このまま未解決になってくれたほうがいいのかもしれない」 警部という階級の玉城は、嫌な予感がしていた。迷宮入りになった事件と関連していることで、今回の事件も未解決になることは目に見えていた。いいところまでいっても、どこかで消されてしまうかもしれない。アメリカの圧力かもしれないし、警視長官の判断かもしれない。それとも外務省か総理大臣あたりで、判断されるのか。どちらにしても虚しい捜査になり、捜査員たちが現実に気づけば、士気もすぐに落ちてしまう。それは指揮官にとっては、悲観的な事実だった。 故郷は沖縄ではないが、もう長い。ここは南の楽園。美しい国。殺人という血なまぐささとは無縁であってほしい。天誅を与えたものが、ウチナンチュでないことを願った。 たとえ今は、F十五戦闘機のエンジン音が虹色の空を奪っていても、いつかは奪い返す。
2011.10.13
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神社の長い階段を上りきると、眼下には大都会を望むことができた。といってもここより高い建造物はいくらでもある。ささやかな眺望だ。ここではいつも大腿筋を鍛えるために、レッグエクステンション代わりに使うタイヤを茂みから取り出して、六種類を三セットすます。タイヤはいつも、草木のなかに隠してあった。上腕三頭筋を鍛えるために、ベンチプレスをしたいが、ないものは仕方がない。 神社の林の木に勝手につけた、タイヤを蹴る。サンドバッグ代わりに蹴や拳をいれる。こうして拳や足を鍛えるのだ。本当はスパーリングなどもしたいが、相手がいない。毎日のように道場に通っていた頃がなつかしい。いずれ神主に怒鳴られるだろうが、六年たってもまだ無事だ。 選手権で優勝するなど極められなかったのは、柔道や剣道、古武道など手を広げすぎたせいだろう。一つの武道だけでは安心できなかった。いつも二人の女を守るために、急いでいた。 七時をすぎて思い出した。今日は特別の日だった。初出社の日だったのだ。慌てて階段をかけおり、アパートに戻った。シャワーを浴びて、支度を整える。バブル時代に無理矢理付け足した浴そうなので、五右衛門風呂のように狭かった。加納が発達した長身を入れると、まるで子供の行水だ。 変色し曇った鏡に映った半身は、すでに傷だらけだった。修業でついたものもあるが、ほとんどが十年前のものだ。それは刻印のように、加納の体に刻まれていた。加納への呪いの言葉として、いつまでもそこにあった。 新聞記者になろうとして、通学しながらのジャーナリスト養成学校の夜間部に通っていた。何社か受けて、やっと地方紙の一社に内定をもらった。新聞社はそれなりに競争率が高く、志望者の学歴が高い。どうしても早く決めたくて先輩を回り、教授の推薦をうけたが苦しかった。いつも金欠だったが、ジャーナリスト受験講座にも通った。どこもダメだった悪友たちに言わせると、潜り込んだことになるらしい。もちろんアルバイトで入り込みコネを作っていたことも、功を奏した。どこもダメなら、関連職種で入り込もうと思っていた。就職浪人をしないために、ありとあらゆる手段をとっておいた。アピールできることを数多く作っておいたのが、よかったのだろう。これも努力の結果だ。粘り強い作戦が、勝利をもたらす。 大学を休学して、留学したこともよかったのかもしれない。一年間たっぷりと学んだ。外国人が多い店でもバイトをしていたことがあった。日本人の多い場所だが、ネイティブと数多く話したことはいい経験になった。もともとクニの者たちは留学するものが多い。これは内定に、もっとも強いアピール材料になったはずだ。 そうして勝ち取った新聞社への初出社が、今日だった。アルバイトで金をコツコツと貯め、成人式に買ったスーツを着る。タイは苦しいが、大人になったような気がした。新聞社には初めて出入りをするわけではないが、こうして改めて社会人として自覚すると身が引き締まった。カバンを抱きしめて、ダッシュした。 大学とは反対の方向の通勤ラッシュに飲み込まれながら、東党新聞東京本社へと向かった。窓越しに東京の街を眺めていると、六年前に捨てるように出てきた、故郷のことが脳裏に浮かぶ。東京に来て誰にも故郷のことを話したことがなかった。(あの場所)には残してきたものがたくさんありすぎた。だからこそ、戻ることができない。戻る勇気が必要だった。しかしこうして社会で、独りで生きてゆくために就職をしてみると、時間に追われ、勇気を取り戻すこともおろそかになる。もしかしたら、もう戻ることはないのかもしれない。何もかも捨てて、この淀んだ大気に霞む大都市に、骨を埋めることもいいだろう。 東京でも、空はエレクトリックブルーだ。だが加納が追われるように出てきた故郷は、もっと青く美しい。目を閉じるといつでも記憶から呼び出して、あの空を見ることができる。 懐かしくて、胸が痛い。「今度、わが東党新聞社会部に配属されてきた加納くんだ」「加納リュウです。まだまだ若輩者ですが、よろしくご指導のほどお願いいたします」 緊張していた。ありきたりのあいさつだが、これで精一杯だ。 加納は追加合格だったので、入社が遅れていた。たった独りだけ、社会部の隅で行なわれたミーティングで紹介された。他の新人たちは三人いて、すでに馴染んでいた。バイトの待遇とは違うし、先輩記者たちの見る目も違っている。こいつはつかえるのか、それともつかえないのか。骨のある奴なのか、ただのボッチャンなのかと品定めしているようだ。 自分自身でも、どこまでプロのジャーナリストたちに食いついていけるかわからない。それでも、ここを目指してきた者たちも数多くいて、彼らの屍の上に自分の入社があるのだから、肝に命じて立派なジャーナリストにならなければならない。加納には、他にも報道を目指す理由があった。 ミーティングが終わって、それぞれが仕事に戻り始めた。部長に手招きされてついてゆく。「しばらくは先輩記者について、イロハを教えてもらえ」「さえ、オマエ助手がほしいといっていただろう」「彼はカメラもできるぞ。新聞社の報道年間大賞を何度も受賞している。君ももう先輩だ。加納を一人前にしてやってくれ」上川冴子は入社三年目だった。そろそろ一人前として紙面を任されることもある。時期外れの新入社員の入社にも、目を向けず記事の文章構成を練っていた。「写真が好きでも、いまどき写真だけじゃ使えないわよ。今はデジカメでバカでもいい写真がとれちゃうのよ。すぐに送れるしね。書くほうに専念したほうがいいわよ。ま、頑丈そうだから荷物持ちにはぴったりね」と言った。「まあ、そういうな」「加納です。よろしくお願いします」「上川冴子です。よろしく。ほんと。大きいわね。荷物持ちがんばってね」 加納はラガーマンのように背が高くて、座っている冴子をはるか上から見下ろしていた。それが気に食わないらしく、彼女は荷物持ちを強調した。「あたしは助手がほしいのであって、男がほしいっていったおぼえはありません」「おう、よければ恋人にしてもいいぞ。年上が好みだそうだ。ちょうどいいぞ」「冗談はやめてください。あたしは年下は嫌いなの」
2011.10.13
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軽やかな指先がキーボードの上で踊っていた。白く長い指は美しいネイルアートで着飾られている。ヴァイオレッドカラーがまぶしく、爪の上に小さなスパンコールが付けられ、星空のように輝いている。 死人のような白い指は、かたわらのマウスに持ち替えると、どこかでダウンロードしてきた写真をファイルから呼び出し、アニメーションソフトの画面に移し替えた。画面に現われたのは男の顔だ。白人の男。年令は二十代前半ぐらいでさわやかな好青年に見えるが、口角が左に上がっていることから、自信過剰なくらいの笑みを浮かべているように思えた。面相を見ると、誰もが傲慢で冷徹だと評するだろう。 指先はマウスでクリックして、男の顔を作り替えていた。容赦なく眉や頬をたるませ、目尻を下げた。さらに絵を描くようにして、額や目尻や口の回りにシワを作っていった。指の持ち主はそこで満足したのか、クローズしていたサイトを呼び出すと、一部に男の顔をはめこんだ。完成した男の顔は、最初よりも年をとっているように見えた。もちろんこれこそが作成者の意志であった。思い通りに仕上がり、満足していた。 次に取り込んでいた写真を保存先のファイルから呼び出し、このソフトで改造していく。出来上がると彼女は、最初の男の横に次々と貼りつけてゆく。初めてやるにしてはうまくできた。スクールに通って、スパルタ式に教わっただけの成果はあった。これでいいと、笑いを浮かべた。 すべて終わり、サイトの文章を整えて完成させると、管理者として名を書き込んだ。「Julia・Kanou」軽やかな指がこう印した。準備は整った。あとは行動を起こすだけだ。 加納リュウの朝は、大学に通っていた頃と何も変わらない。朝六時に五つの目覚ましで飛び起きると、心臓が止まりそうになる。相変わらず、部屋は臭い。六年も住んでいるから畳は古いし、配水管も築数十年の欠陥がある。二十年前まで汲み取り式だったトイレは小さくて、長身の彼が入ると妙な重圧感があった。気を抜くと、壊してしまいそうなので、できるだけ近くの公園の公衆トイレですませるようにしている。入居したころに、一度ドアを壊してしまい、大家の所へ土下座をしにいった。菓子折りを持ち誠意をもって謝ったら、許してもらえた。だから今は、ドアを壊したまま使っている。今度引っ越すことになれば、どれほどの修繕費を請求されるかと思うと、少し恐い。できれば、建直しまでいて、立退料と引き替えに棒引きにしてもらいたいと、彼はひそかに考えていた。加納は起きると、すぐに着替えずに、朝のメニューをやっている。腹筋と腕立て伏せを、二百本ずつやる。これはもう十五年以上もやっている訓練だ。師を崇め師の言葉どおりに従って、空手を始めた頃から課してきた。今ではこのくらいではあまり汗などでない。子供の頃は、すぐに筋肉痛になったものだが。 空手や武道は、加納家のたった一人の男として、二人の女を守るために習い始めた。物心ついたときから、それが義務だと肝に命じてきた。だから妥協はしなかった。大学では、屋内運動施設のフィットネスの会員となり、ベンチプレスなどなんでも自由に使えたが、卒業した今は使えない。いつも金欠なので、こうして自己鍛練するしかない。給料をもらいゆとりができれば、フィットネスクラブの会員になりたいものだ。 室内での鍛練を終えると、今度はジャージの上下に着替え、外へ出た。二キロ離れた神社まで毎日走っている。「おはようございます」「おはよう」「就職決まったんですよ」「よかったな」「今日は初出社なんですよ」 道ですれ違う人々は、お互いに顔を知っている。会わなければ病気だろうかと案じてしまう。先月六年間ずっとすれ違ってきた犬を連れた老人がいなくなったと思ったら、しばらくして亡くなったときいた。都会の生活でもこうした変化があるものだ。東京へ出てきてから、そうした毎日を過ごしてきた
2011.10.13
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音がした。ひさしぶりの騒音だ。いつもは何かを出し入れする音だけが響いていた。たぶん倉庫か何かなのだろう。奥は暗く湿っていて、陰気臭い。俺はここにずっと閉じ込められているのだ。しかし今日は違う。大勢の人の声と、戦車の音のようなものがする。重火器のようだが、重機なのかもしれない。呪縛を解いて、俺を眠りから覚まそうとしている。やっときた。やっとここに、救世主がやってきたのだ。俺はここにいるぞ。ここに。早く救ってくれ。早く。外は明るいのだろうか。虹色の空が広がっているのだろうか。早く呼吸がしたい。南国の晴れやかな天空の下で、清らなか酸素を胸一杯に吸い込みたい。 いや、待てよ。希望のともしびを感じたとたんに、電流のようなものが流れた。いま回路が回復しようとしている。死んでいたはずの記録が錯綜している。もっと修理が必要だ。修理をすればなんとかなるだろう。 やった。やったぞ。自動回復装置が動きだした。機械油が足らないが、なんとか自力修復できそうだ。海馬の奥が、激しく明滅している。まだぎこちなく鈍い音がするが、記憶が戻りだしたことがわかる。 そう、俺は軍人だった。アメリカ海兵隊所属の伍長だった。この土地に赴任し、訓練に励んでいた。順調ではないが、それなりに任務をこなしていた。思ったよりも出世しなかった。軍は家柄よりも実力だと思っていたが、俺の知っているあいつは、俺以上のワルで俺並みの能力だったが、毛並みがいいから、順調に出世した。軍にいて、それだけが悔しかった。あいつは悪魔だ。良家の子女の皮をかぶったワルだった。文法もよく間違える劣等生だった。知っているのはどこの女がすぐにさせる尻軽かということと、流行のストリッパーの名前だけだ。そういえばあいつの口から出ることは、いつどこで、どんな女とやったかということだけだ。十三でメイドの娘を、十五で片思いの女を、十六で親友の彼女を暴行したとか自慢していた。そういえばまだある。オーランドに遊びにいくたびに、女を拾ってやりまくったとか、あいつはやった女の数しか自慢話がないのだ。ああ、こうして思い出すだけでも、体が震えるほどの怒りを覚える。 生まれたのは、そうどこだったか。そうあそこだ。カリフォルニア。たしか、母親は再婚した男について行って、メーン州に住みかえた。帰国命令が出てからも、退役してそこに戻るつもりだった。明るく温暖、カリフォルニア出身だというと、誰もがうらやましがった。アメリカ人のほとんどが、退職後温暖な場所に住むことを願う。今では英語圏のネイティブの、憧れの地なのだ。そこで大雪にもあうこともなく、快適に隠居したかった。 そうだ。思い出した。やっと肝心なことを思い出したぞ。そう俺は、俺はとうの昔に死んでいた。死んで洞窟に埋められていたのだ。だからもう呼吸をすることができないのだ。せめてここから掘り出して、愛する故郷へと連れて行ってくれ。目に染みるほどの草々とした芝に、英雄の一人として葬ってほしい。何年も会っていない妻や、まだ二才だった子供にダディ、愛しているよと言って泣かれたい。愛国者として星条旗に見守られ、国歌で送られることがささやかな夢だ。俺の身元を示すものは何もない。いつも肌身離さず首からさげていたタッグも、悪人に奪われた。 あいつが突然俺を殺したせいで、俺は神父に懺悔をし損ねた。神の前でひざまずき「神よ、女を何人もやったことをお許しください。近所の子供からこづかいを巻き上げたことをお許しください。数々の悪業をお許しください」と懺悔するはずだったのにだ。もう俺は天国に行けないかもしれない。どうしてくれるんだ。あの世で迷わないように、誰かが手を振ってくれないだろうか。 あ、またメモリーが復元された。俺を殺したのは、あいつではなかった。あいつも俺を殺したがっていたが、あいつが俺を殺す前に俺に致命傷を負わせたやつがいた。ちょっとイタズラをしようとしただけなのに、そいつは俺を殺した。 しかし俺がここから出たい理由はそれだけではない。急がなくては、急がなくては、また誰かが殺される。
2011.10.13
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男にとってそこは愛した女の眠る海だった。女にとってそこは終焉の地だった。 俺は彼の地にゆく。様々な想いが満ちたあの場所で彼女が、今でも俺を待っている。 ずっと昔、一人のこしてきたあの人が。 いつか戻ることもあるのだろうか。 俺のファムファタール(運命の女)が呼んでいる。 わたしは彼の地へゆく。 七色の空、七色の風。七色の珊瑚の海原。 虹色のヒレをひるがえす人魚姫が迎えに来るように、海は私を包んでくれるだろうか? 名もない海へと断崖から身を投げる女性の映像を、終戦記念日にみたときから、ここが女という私の終着点のような気がしていた。 この地で私は、苦痛の連続だった半生を自分の意思で終わらせるのだ。 すでに私は十分に生き、戦った。だからもう友人たちは許してくれるだろう。 この選択は自殺ではないと信じている。旅立ちなのだ。 私の人生の棺をこの七色の天の下に求めただけだ。 私は一人で立ち、一人で歩き、たった一人で旅立つのだろう。 今まで生かしてくれた人々に微笑んで、手を振りながら。 もう眠ろう。一人で。女として。人間として。 虹色の琉球の風に包まれ、瞳が天空を映している。 最期の儀式にのぞんでも心がどこかで求めていた。 息が止まる瞬間に わたしをみつめる優しい風を。 俺は待っていた。長の年月、この暗い世界で、常闇に押しつぶされたこの場所で待っていたのだ。どうしてここにいるのかわからないが、誰がここに閉じ込めたのかは知っていた。しかし長く待ちすぎたために、記憶の回路からあいつの名前が消えてしまった。なぜこの厄災を受けたのかも、俺のメモリーから消失した。きっとやられたときの衝撃で回路が壊れたに違いない。もう少しなのに肝心なことが、抜けている。 たしかに教会には何年も行っていないが、母親は敬虔なカトリックだった。聖書を絵本のようにして読むことを楽しみ、寝室へ行かされてもずっと眠くなるまでこっそりと読み耽った。それほど神を愛し、隠れた信仰心を持っていたというのに、どうして俺はここにいるのだ。やはり教会に行かなくなったことが、神の怒りをかったのだろうか。それとも四才の時に隣のおばあさんの可愛がっていた猫を盗んで川に捨て、溺れるのを面白がって見ていたことが罪だったのだろうか。それとも近所の純真な少女に性的いたずらをしたことが悪かったのか。それとも少女の兄の少年を脅して、妹にいたずらを強要したことがいかなかったのか。もしかするとカンニングに成功し、まんまと希望の大学へいったことがいけなかったのだろうか。
2011.10.13
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