★スーパーマン★好きだ★ 0
プロット「イケメン」 0
全14件 (14件中 1-14件目)
1
(二) 明け七ツが近いと思った。早めに眠ったので、いい刻に目覚めた。身体もすっきりとしていて、精力が漲っている。夢見が悪かったが、影響は全くなかった。簡単に落ち込んだりしないところが私の良いところだった。 機械仕掛けの時計がなくとも、起きるべき時間に起きることができた。私は静かに寝所を出た。まだ明け方前なので屋敷は沈黙していた。眠りが浅くなっている頃なので、気をつけなければと思った。もうすぐ下女たちがやって来て、台所を使うだろう。 小袖と帯を引き寄せると、ゆっくりと着替えた。襖と雨戸を少し開けると、薄闇が飛び込んできた。それを頼りに火打ち箱から燧石と火打ち金を出し、石と金を打ち合わせた。 火が点くと、油皿の芯に火を点けた。丁寧に油皿を持ち、準備していた風呂敷を抱きしめた。平史郎の部屋の様子を窺い、視線を外さずに台所へと歩いていった。 用意していたおむすびを頬張ると、茹でられた穀物の風味が、口いっぱいに広がった。煮物もついでに放り込んで、しっかりと味わった。(宴)を催すとハルに言ったので、見せかけるために干物や餅などを風呂敷に包んだ。 ハルを殺したら天罰が下って、二度とここへは戻れないような気がした。そう思ったら、少し涙が出た。 片手に持っていた油皿の火で、提灯に火を入れて掲げた。湿った思いを振り払い、私は勝手口を用心深く開けて、薄明かりだけを頼りに外へと出た。 草履の鼻緒を足でしっかりと握り、(憂鬱の口)に向かった。風呂敷包みを抱きかかえた。 少し離れたところから改めて屋敷を眺めてみる。月明かりの下、視界に静かに浮かび上がる屋敷は、なぜか竜宮城のように見えた。 さらに振り払うようにして、背を向けた。ゆっくりと足元を確かめつつ、歩き出した。 怖くないと言えば、嘘になる。無実の者を斬りに行くのだから。阿天様の教えに逆らえば、阿天様が雷を落とすのではないか。雷をもって、島のすべてを焼き払い、村の衆や船でさえ天罰を下すのではないか。 阿天様が貴主教のために教えを破った私を許したとしても、ハルが海から這い上がってきて、私を絞め殺すのではないか。 どうして四郎を止められなかったのだろうとも思う。妙な使命感と人の情との狭間で悶えている。まだ暗い空を見上げながら、恐怖と後悔とを感じていた。「天罰が下ったら、もう戻ってこれへんわ」 阿天様にすがっても、幼馴染の四郎と一緒でも、恐怖は振り払えない。 闇のような未知への 恐怖。人斬りへの恐怖は、足元から物の怪のように這い上がってくる。 足首を掴んで、私を飲み込もうとしていた。「キクエ」 呼ばれて振り返ると、弟の四郎太がいた。帯を絞めていないので、着物から褌が見えていた。まだ長屋門も出ていない。心ノ臓が止りそうになった。「あんた、もしかして」 どこかで平史郎が見ていないかと、心配になった。視界を広げて探ったが、いないようで安心した。(憂鬱の口)で四郎と落ち会う前にばれては困る。「また、寝しょんべんした。お父に判らんようにしてよ」 私は、またかと思った。嫡男は、まだ寝所の中で小便をする癖が抜けない。「うちは忙しいねん。鈴にさせ」 振り切るように、四郎太が泣くほどの口調で言い放った。こうなったら、とにかく追い払うのだ。「鈴が来るまで待ってたら、父上にわかる。どこに行くの?」 無邪気に訊いてくる。鈍いように見えて、姉の動向には敏感だったようだ。私には苛めのように思えて、さらに邪魔になった。「ちょっと、そこまでや。あ、畑に忘れ物したから、気になって。誰かが来る前に探しておこうと思ってな。みんな貧しいから、なんでも勝手に持っていきようから」 思いつく限りの嘘をついた。どうせまだ四郎太は童子だ。目上の者にやり込められないことはない。こんな童子は、言葉で一ひねりだ。「じゃ、おらも取りに行ったる」 思わずのけぞりそうになった。汚れた床を綺麗にするまで、どこまでも従いて来るつもりらしい。旅とは違う恐怖を感じながら、思案を巡らしていた。「あんたはいいねん。家に戻って寝とき」 こうなると何が何でも、たとえ泣かせても追い払ってやると思っていた。「だってもう水浸しやから、寝られへん。なんとかしてよ」 筵に小便をして、眠れないのだ。それはそうだろうと私は思った。「忙しいって言ってるやろ。お父に謝って、ちゃんと始末しな。あんたはうちの嫡男や。跡継ぎやで。しっかりせな。自分がやったことは、自分で片をつけ」 私は四郎太を追い払いたくて、思いついたことは何でも言うつもりだった。「いいのかな。男と朝から会いに行っているって喋ろうかな」 ぴりぴりと怒り心頭になった。雷を落としてやると思った。「勝手にしい。相手してる暇ないからな」 ひと睨みすると、また背中を向けて(憂鬱の口)へと歩き出した。 どうしていつもは鈍い四郎太が、知っているのかと思った。普段は庄屋の嫡男らしくなく、どこか暢気坊主なのに、今朝は妙に勘がいい。「やっぱり男と会うねんな。はったりやったのに」 私はますます切れそうになっていたが、ここでどうのこうのと問答しても、四郎太は小便の始末をするまで、引き下がらないだろう。「言ったるかなら。言ったる。絶対にお父に言ったる」 まだ幼い四郎太は、弱みを握っていることを宣言するように、声を上げた。これほど四郎太が憎らしいと思ったことはなかった。「じゅあ、生きて戻ったら、あんたがいつも小便漏らしたこと、お父に告げ口したる。いつもあたしが隠してやっていた、ってな。いいな」 念を押すように、挑戦するように、振り返って四郎太に言いはなった。無断でハルを斬ることを、誰かに話そうとどうしようと、どうでもよくなっていた 家を出てしまえば、誰も止められない。覚悟を決めて(潮神の座)へと向かうだけだ。
2013.01.19
コメント(0)
第六章 死神の躍動(一) 浜は男たちで溢れていた。網を積み込み、漁の支度をしていた。大漁になると四国の港まで船を出し、売った金で、島で必要な物を仕入れてくる。 出漁を見送る女たちがかしましい。女を船に乗せると縁起が悪いとされる場所もある。漁に出る前に女に出会うだけで、船が沈むと信じる漁師もいる。 出漁前に漁師が女に出会ってはいけないという暗黙の法度がある村では、女たちは船が出るまで決して外出しないという。 けれども奇岩霊前島では、出漁する船を、女房たちを含め村中で見送るのが伝統だ。私は時折行かないので、平史郎に嫌味を言われることもあった。 もうすぐ陽が落ちる。その前に出漁し、黒潮を越えて、魚の群れを捕まえるのだ。 鳥が群れていたら、鳥の群れのすぐ下に魚の群れがある。夜は漁火で魚の群れをひきよせる。満月は明るすぎるので、出漁できない。 小魚を追う鯵。鯵を追う鮪。鮪を追う鮫。波間の下では様々な生き物たちが、生存を懸けて群れ回っているのだ。 奇岩霊前島に先祖代々住んでいた者、百年ほど前から移り住んで来た侍の子孫、今は力を合わせて、奇岩霊前島を護っていた。荒々しい黒潮を掻き分けるように進出して漁をし、大漁の旗を揚げ、朝か昼には戻ってくる。 私は漁に出る船を何艘も見送っていた。黒潮の向こうには大海が広がっていて、善左衛門から聞いた異国があるのだと思った。勝手にその国の女や男、子供や老人たちの囁きを想像してみるのが好きだった。想像は奇岩霊前島での退屈で窒息しそうな生活を慰めてくれた。 四郎は網元の跡継ぎなので、網子の管理のために時折船に同乗する。その他にも網元になるために、学ぶことは様々あるので、同乗しない折には、船頭が船を仕切っていた。魚の群れを見つけることも、漁の仕方を処決するのも船頭だ。 四郎が船の上から手を振ってきたので、私も振った。 船を見送った後、小さな浜まで下りてきて、波で足を洗っていると、ハルを見つけた日のことを思い出した。人魚だと思った綺麗な遊女、ハル。 目が痛いほどの赤い襦袢をいつも袷の間から見せていて、いつも男たちの視線を一身に受けていた。 足が止った。足首が痛い。食い込むような痛みが、這い上がってくる。(どうして殺したん?) 女が私を見上げていた。飛び出るほど剥き出された目玉。充血し乾いた双眸。(どうして殺したんや。うちを。どうしてキクエちゃん) ハルが私を睨んでいた。死者のような細く乾いた指で、私の足首を締め上げていた。ぎゅるぎゅると、壊れるほどに。(恨んでもええか? 恨んでも。阿天様も怒っとう。キクエちゃんは人殺し。可哀想な遊女を殺した) ぎゅるぎゅる、ぎゅるぎゅる。ハルが吼えていた。ぎゅるぎゅる、水棲人のような目で、私を睨んでいた。私は足を必死で振った。死人を振り払いたくて、ハルを蹴るように足を振った。(キクエ、どうして殺したん)「御免、ハル。うちは、やりとうなかった」 自分の声で目が覚めた。顔から背中まで、ぬめぬめとした汗がべっとりとこびりついていた。灯りはすべて落として眠ったし、夜中なので視界は真っ暗だった。「許してな。ハル。島のためなんや」 夢が夢であったらいいのに。ハルが島へやって来たことも夢であったらいいのに。そうであるなら、斬らずに済んだのに。人殺しにならないで済んだのに。四郎がハルを斬ってくれるだろう。きっと私は自分の手を下さないで済むだろう。 それでも私は後悔していた。奇岩霊前島に生まれてしまったことを
2013.01.19
コメント(0)
(三) 村の中心にある貴主堂から、少し離れた自分の家へと戻った。 貴主堂から四半刻も掛からずに戻って来たはずだ。秘検の用事だといって切り抜けるつもりだった。 下男はたった二人で、屋敷の手入れと薪割りなどをさせるために雇っていた。下女は三人、料理などの台所回りを任せている。畑は少ないため二人の小作人にやらせていた。網元としても十四隻あったので、それで庄屋としての財力が保たれていた。 家に戻ると、使用人の喜多川重兵衛が薪を割っていた。元浪人で、家族も陸にいたらしい。全く帰ろうという意志もなく、ここには子もなく、武士であったことなど、ボケで忘れてしまったのではないかと思えるほどだった。 ここ数年は戦の話もしなくなっていた。腰にはささやかな誇りを示すためのタケミツも差さず、すっかり下男になりきっている。「お帰りなさいませ、菊江さま。いつもの刻には帰って来てくれませんと、私も帰りにくいですわ」 鉞を振り上げていた重兵衛と目が合った。使用人としての心得はあり、お嬢様には先に挨拶をした。「ただいま。重兵衛ごめんな」「父さまは、まだ帰って来ていない?」 祖先が武士の身分を鎌倉時代に捨てて、孤島に渡って来たというのに、平史郎は未だに武家の血筋としての品格を、自分の娘に強要していた。 だが、鬼瓦のようになった強面の父の面と目が合うと、いつも喉元で言葉が止まってしまう。家長に女の身で口答えをしても、さらに怒鳴られるのは目に見えていた。 仕方なく、外ではお嬢様を演じていたが、四郎とは友として、ざっくばらんに話すのが好きだった。「大丈夫ですわ。お嬢様が男と二人きりで、こっそりと会っていることなど、知りませんや」 私の使用人は、老人であるにもかかわらず、いつも嫌味を平気で言う。手柄も立てたことがあるという重兵衛は、(お嬢様)にも手加減はしなかった。どこか人を下に見る癖があり、武家としての誇りにしがみ付いているような男だった。「そ、う。よかった」 重兵衛は苦手だ。使用人なのに、私の行動を知り尽くしている。四郎とよく一緒にいることも知っていた。まだ四郎に恋だの愛だのという感覚はない。ただ友として、一緒にいると楽なだけだ。 四郎は四男だったが、上の三人が幼時に相次いで亡くなったので、網元高島家の唯一の男子になった。高島家は網元の格としては、三番目だ。庄屋であり、網元でもある仲代家よりは、格が劣る。「鈴に、夕餉の準備させよっと」 話は好きだが、長々と重兵衛と話していると、痛くもない腹を探られる。さっさと家に入ってしまった。 台所では奇岩霊前島で生まれ育ち、島を出たことのない母、加絵がいた。小袖に帯を締めてちょこんと座り、夕餉の支度の進み具合を見ていた。「家から忽然と姿を消して、どこ行っとったんや。夕餉の刻になったら戻ってきような」 私の気配を感じると、すぐに顔を上げて眉根を寄せた。まるで島の伝統狂言で使われる、般若の面ようだと思った。「ごめん、な。ほら、崖にいるヤギに草やっとってん。裏の太助さんところの赤子が乳ほしがっとうやろ。おっかさんが調子悪いから」 私は事前に練りこんでおいた嘘を並べ立てた。「まったく、あんたは、言い訳の上手い女子やな。武家の血筋の品格がないわ」 そんな私の品格のない言い訳にも慣れていて、加絵は寸刻も遅れず反論してきた。「品格がいるほどのお姫様は、小汚い台所で、うろうろなんてせんわ。綺麗な着物を何枚も着て、ちょこんと座っとうだけやわ」 私は加絵には、あらゆる品格のない愚痴を言うことができた。父親は鬼瓦、母親は般若。般若のほうが、まだ緩い。「四郎太は?」「隣の善左衛門さんのところで、読み書きを習っとうわ。孔子とかいう人の本を習っとうらしいわ」 竈の釜の様子を眺めながら、弟のことを話した。釜は飯が焚けているところなのか、湯気を上げていた。 一郎太は仲代家でたった一人の息子なので、将来はうちを継いで庄屋になる。一生ずーっと汗水垂らすことのない、優雅な庄屋暮らしだ。長屋門が立派な庄屋の屋敷も一郎太のものだ。「学問は難しいな。女子は極められへんけどな」 跡継ぎでない自分のことも可愛そうになって、学問も家も女子には縁がないと言いたかった。「庄屋の娘なら和歌とか詠めんと、あかんけどな」 加絵はさらりと私に嫌味を言った。私はどうも人の話を聞くだけは好きだったが、根を詰めて学ぶのは苦手だった。和歌も華道も茶道も優雅に完璧にできたことはなかった。 私は、学問が好きなわけではなかったが、知らない知識を得ることは面白いと思っていた。日本以外の国の様子や文化の話を善左衛門が話すと、身を乗り出して聞いたものだ。善左衛門も国を出たわけではないので、噂に嘘が混ざっているのだろうと思っていた。作り話かもしれないと思っていても、善左衛門の話は私をわくわくさせた。遠い異国の人々や風景を好き勝手に想像しては、退屈な島暮らしを慰めた。 善左衛門は三年前にここに流れて来た。小船で漂流していた学者だったらしいが、調べる手もないので、島では嘘だろうとは言わずに、すべてを受け入れていた。出自を明らかにしたくない、落ち武者の子孫や浪人がいるせいだろう。悪人でもなく漁師になれば、すべてを受け入れるのがこの島の掟だった。 足が悪いので、次第に漁に出なくなり、童子に読み書きや学問を教えることで、埋め合わせをしていた。もちろん元武士が多いこの島にあっては、読み書きくらい教えられる者は多いが、足の悪い善左衛門を気遣って、寺子屋は善左衛門の特権としていた。「小作人の働きぶりくらいは監視すんねんで。それから茶の湯も覚えんとな。行儀ができとったら、どこかのお屋敷にでも勤めが決まっても、すぐに行けるやろ」 加絵は容赦なく鞭のような叱咤を吐き出す。いつも加絵は娘には容赦しない。小袖の花柄とは正反対の怖い言葉だった。「ほら。ほら。うるさい。華道の鍛錬も怠ったらいかんで。いつ良縁が舞い込んでくるまもしれへんからな。あ、鈴の仕事ぶりを見とき」 足でけるような物言いで、私に台所の仕切りを任せた。「ほら、火をもっと強うして」 私は、鈴を急かした。意地悪になっていく。鈴は同じ歳だが、三年前から奉公に来ている。「楓、今度は風呂や。昼に入れた水を湯にせんね。お父が湯浴みが好きやから」「へぇ」 私はもう一人の下女を呼びつけた。楓は使用人としての立場をわきまえていた。二つ年上だが、一切、無駄口は叩かない。私の顔を見て立ち上がると、外に行った。呼びつけるのは苦手だが、お嬢様は仕切るのが任だ。 楓は袷の裾を捲り上げ、襷掛けで、両の袖を纏めている。昼のうちに井戸の釣瓶を使い、家の中にある鋳鉄製の風呂釜に注いでおくのが楓の仕事だ。 井戸の水もこうしておけば、湯に近くなっている。四半刻もかかる重労働だ。風呂釜は竈の上にはめこまれていて、竈で火を焚くと、湯が沸き上がる。底板が入れてあるので、それを踏むようにして入浴するのだ。それと繋がるように奥には洗い場があった。洗い場で足を洗ったら、風呂釜をまたいで湯に入る。鋳鉄製の釜は残り火や余熱で暖まり、湯が循環するので冷めにくい。こういった湯浴みは毎日だ。外から火を熾すと、風呂釜の底が焼けて水が湯になる。楓が火打石を火打ち金で叩くと、火口に火花が移った。煙が上がり付き木に火が点くと、竈の藁に火を採った。竈の薪と藁に火を点ける。楓は懸命に竹を吹いて、炎を強めている。「それくらいでいいやろう。次は鈴と一緒に夕餉をお願いな。たぶん父上はすぐに帰ってくるわ」「へぇ」 湯が沸くと、私は夕餉の準備を見るために、台所へ戻った。続いて楓が台所へと戻ってきた。鈴と一緒に膳を準備し、ささやかな料理の皿を並べている。ちょうど父親が戻ってくると、すぐに出せるようにしていた。「帰ったぞ」 噂をしていたら、父親が戻ってきた。労働をするわけではないのだが、他の網元やご隠居たちと優雅に将棋でも指していたのだろう。「おう、先に湯を浴びるぞ」さっそく湯浴みを所望してきた。父親はさっぱりとした身体で、酒を飲みたいと思っていた。「もう湯はできてるから」 私は廊下に立ち、風呂場を指差して教えた。「ほりゃほりゃほりゃ。気が利くやないか」 すぐに風呂釜のそばの、衝立で身を隠すと、着物を投げ出すように脱ぎ出した。衝立からぽんぽんと着物や帯が放り出されている。それを鈴が拾い集めて、盥に放り込んだ。 間もなく滝のような水の音がして、洗い場で湯を浴びているのが判った。それから風呂釜に身を沈める音と、洗い場に流れる湯の音がした。湯はかなり冷めているだろう。それでも父親は喜々として湯を浴びているようだ。 湯を拭いた父親は浴衣を着ると、さっそく夕餉のために胡坐を掻いた。すかさず楓は平史郎の前に、膳を置いた。煮物や魚だけだが、庄屋なので魚は豪華だ。大坂の料理屋で働いたことのある鈴は、少々豪華な膳を作ることができた。平史郎は大満足な顔で酒を飲みながら、佃煮を摘んでいた。「ほら、飲み。お父。もっと飲み。遠慮せんと」 私は隣に座ると、膳には目もくれずにどんどん飲ませようとした。明日はハルを四郎と斬りに行く。今では不思議と怖くはない。落ち着いたものだ。 人は根っからの悪人ではないかと思う。人斬りの前でも、動悸さえ感じることはない。阿天様の「人を殺すなかれ」という教えを破ることは、いとも簡単だった。 もしかしたら、平史郎に酒を飲ませながら、毒を盛ることもできるのではないかと思えた。信仰があっても、どのような縛りがあっても、父殺しでさえ、人は簡単にやってのけられるのではないか。 私は寒気を感じた。悪人である私自身に。「私。お前いつも勿体ないから余り飲むなって行ってたやないか?」 平史郎は私の下心を見透かしているようだ。「焼酎がまだたんとあんねんて。鈴がいうとったわ」 舌がよく動く。出まかせは得意だった。 「へぇ、そんなこと聞いてないけどな」 父親もぽんぽんと疑問を口に出すので、手ごわいと思った。「うちの濁酒も、まだあるしな。大丈夫や。たんと飲んで、頑張って長生きしてな」 父親の舌に対抗するために、私はあの手この手の言い訳を考えた。身体をねじって、父親に擦り寄り、愛想を良くした。まるでハルに聞いた、遊女のようだなと思った。変化願望が私をくすぐっている。私は太夫。京の遊郭の女。ますます興が乗って、平史郎にすりよった。「気持ち悪いな。酒ばっかり飲んどったら、早死にするぞって、脅し取ったくせにな」「たまにはたんと飲んで、いい気分になったらいいやん。飲んで食べて、すぐに寝たら、さっぱりするやろ」 私は気合を入れるように父親の背中をはたいた。もちろん嘘っぱちだ。上手く乗せて、ぐっすりと眠ってもらう。家を出る頃には、大いびきで眠り込んでいてもらいたい。「そうやな。そやそや。たまには楽しんだらいいやな」 男は扱いやすいと思った。誘導してやれば、すぐにのん気に言うとおりになる。ふふふと笑いが漏れた。家で仕込んだどぶろくをたんと飲ませて、もっともっとと煽てた。単純な親父様は、私の思惑通り、これまでにないほど酒を飲んだ。 一刻も経つと、父親は唸るような音を上げて眠り込んだ。眠り薬を仕込んだわけではなかったが、私が企んだ通りに眠ってくれた。住み込みの下男が平史郎を寝所へと運んでいって、膳は楓が片付けた。 平史郎が眠ると安心して、夜を過ごすことができた。明日の準備をし、筵に横たわって、寝具に潜り込んだ。(ハルに苦痛を与えずに済みますように)(ハルが化けて出てきませんように)(阿天様が私に天罰を与えませんように) 夜具の中で、一心に祈った。
2013.01.19
コメント(0)
(二) 私と四郎は、まっすぐハルの家へと向かっていった。 戸口の前に立った私は、四郎に目配せをして合図をし合うと、戸口を叩いた。何度か叩いたが、ハルは一向に出てこない。夕餉が近いので、焦っていた。「ハル、ハル」 仕方がないので、戸口に手を掛けて開けようとすると、何とか鈍い感覚がして開いた。心張り棒はしていなかった。「ハル、いる?」 ハルは土間のすぐ向こうに座っていた。ただ、ぼうっと座っていた。ハルの様子は干からびた人形のようだ。相変わらず袷の裾から、派手な襦袢が見えていた。 村中の男衆の視線を、いつも惹きつけていた。女房たちの神経を逆撫でするものだが、ハルは全く頓着していなかった。「ハル、基三郎のこと、聞いたで。残念やったな」 ハルは、やっとゆっくりと、人形のような顔を向けた。血がすべて抜けた様相で、墓場へ運ばれる死人に見える。 髷は乱れ、全く結い直していないことが判った。何本もの髪が白々とした額に垂れ、白い顔が割れたようになっていた。 闇夜で見れば、亡霊が襲い懸かってくるかのようなおどろおどろしさがある。水の中から現われれば、人を引きずり込む妖怪にも見えるだろう。「うち、捨てられたわ。きっと阿波で美人の後家さん見つけて入り込もうって魂胆やわ」「まだ一人もんはおるで。ここで見つけたらいいわ」「もう、えぇねん。一人でも。下女の口もあるし」 ハルは、また俯いた。だらりと下ろした自分の手や膝に視線を向けていた。 私のほうからは横顔しか見えない。顔に寄せて指先も、キクエと六、七歳しか違わないようだが、老女のように痩せて皺皺としていた。 奇岩霊前島にあっては、十分に食べられるというわけにはいかない。老いてゆくのも、少々早いのかもしれない。「そうや。明日の明け七ツ半頃に。(潮神様の月宴)をするんや。ハルも一緒にどう?」「月宴って、朝に?」しまったと思ったが、私は遣り込める算段をすぐに思いついた。「月を愛でられた潮神様にご馳走を捧げて、一緒に時をすごすという宴や。海から(潮神の座)にやって来られた潮神様を歓待するんや。そしたら潮神様が、この一年の豊漁や息災を約束してくださるんや」「うちは、どうでもいいわ。だって、あん人は、もういいひんから」「気が晴れんで。一緒に騒ごうよ」 私は必死だった。騒動を起こさないために、他人目につかない場所でハルを斬らなければならないからだ。「わかった。いく。どうせ、この島から出られへんしな」「明け七ツ半ごろに、迎えに行くわ」 私は沸き上がってきていた(島を護る)という使命感を、押し留めようとしていた。 払拭されれば、ハルを見逃せるだろう。せめて、ハルを小舟に乗せて、運よくどこかへ着けるように手配できればいいのにと思った。それだけで済ませられればいいのにと祈った。 それでも、四郎の決心は変わらないだろう。音御様が四郎の男気に火を点けたからだ。
2013.01.19
コメント(0)
第五章 奇岩霊前島 (一) 音御様に出会った次の日は、母親が畑の小作人を観ていたので、私は下女の仕事を眺めていた。いつも、そうして一日を潰す。 下女が井戸の釣瓶を上下させて風呂釜に通じる口に流していた。何度か往復したら、ちょうどよい量になった。 釜に薪や藁を入れて準備は整った。夕餉の準備が整ったら火を入れるつもりだろう。 下女の背を見てふと顔を上げると、視界に四郎が飛び込んで来た。「柴田基三郎が、由岐の港から行方不明になった」 柴田基三郎はハルの情夫で、夫婦同然の生活をしていた。漁師になると覚悟を決めたらしく、漁船に乗って働いていた。 話を聞きながら、私は四郎と家を少し離れた。「ハルを置いて、自分だけ島を出たんや」「キクエ、俺はハルを斬ることにしたぞ」 私は喉に詰め物をされたように驚いた。「斬るの? ハルは何もしてないやん?」「基三郎は島外に出た。他の二人も騒動を起こした。斬ったほうがいい」「しゃあないな」「お前、明日の朝、(潮神の座)にハルをおびき出そう。あとは俺がやるから」(潮神の座)とは奇岩霊前島に数多くある洞窟の一つで、神聖な潮神様が海から来られるという言い伝えがある場所なので、めったに人は近づかない。 時折、逢瀬を楽しみたい男女が出入りしるらしいと聞いた。崖の脇にあって、少々足場も悪い。 私は、嫌とは言えなかった。島のためだと思うと、やらなければならないと思った。「そこで内緒の宴を催すから、明け七ツ半に(憂鬱の口)に来てくれ、っていうんや。この島に伝わる潮神様を讃える、特別な宴を洞窟でやるからってな。(潮神の月宴)は秋やけど、どうせハルは、知らんしな」「わかったわ」私はしぶしぶ承知した。ハルが斬られる瞬間は見ないでおこうと思った。「ハルを斬る前に、摩耶様に上手くいくようにお願いしないとな。あんたも一緒に阿天様と摩耶様にお祈りし」 私は強引に四郎の袖を引いて、貴主堂へと向かった。貴主堂は荘厳さで奇岩霊前島に君臨している。まるで天帝のように収まっていた。 落ち武者だった老人の戦の話に、私はいつも震えていた。この島にどこかの大名がやって来て、無理難題を言って来たとしたら? 多くの侍を引き連れて、乗り込んで来たら? そうした妄想を想像しただけで、寒気を感じた。 落ち武者だった老人は、まだ数人いた。私の曽祖父は、さらに古い戦で敗戦し、落ち延びて来た。 私も武士の子孫だった。当時は一番若く、父母はいたが、父親とも戦乱で亡くなり、戦に嫌気がさしていた。曽祖父は、戦のない新しい場所を求めていた。 落ち武者たちの多くは奇岩霊前島の女を娶り、新しい家族を作っていた。孫や曾孫までいる者もいて、すっかりこの島に馴染んでいた。 落ち武者狩りがこの島へとやって来なかったのは、この島が黒潮に囲まれた難所であったからだ。二隻のうち一隻しか、黒潮を越えられないのだ。 取れるだけ取って由岐などで売り、米などを買って帰った。「どうかどうか、上手くいきますように」 今日は、しばしの別れに、摩耶の像は泣いてくれるわけではなかった。「摩耶様。泣けへんな」「ま、きっと護ってくれるって」 四郎も、たまには学者のようなことを言うなと私は思った。阿天様ほどの包容力はないが、平史郎の次に護り人になる男だと思っていた。「どうか、ハルに苦痛がありませんように」 私は自分の罪を逃れるように、一心に祈った。「阿天はどうして動くんやろう」四郎が大事の前に突然、切り出したので、私はこんな時にと思った。「秘検として調べんとな」「阿天様やから動くんや」 私は気が気ではなかった。夕餉に遅れたら、平史郎に何を言われるか判らない。 しかし「秘検の任で」と言えば、屁理屈を捏ねるとは言われないだろうと思いついた。そうしたら、わくわくしてきた。 四郎は私の忠告も聞かずに、貴主堂をうろうろし出した。 しばらくすると四郎は思いついたように、貴主堂の脇にあった戸口を開けた。そこは普段は道具をしまっているのだが、階段もあった。 軽快な音がして、四郎が上っていくのが判った。私も興味を覚えて、納戸に入り階段を見た。四郎はすでに一番上に足を掛けていた。「うちも」 私は元気が余っていたので軽快に上っていった。階段の先には張り出しがある。張り出しは天井裏へと続いていた。階段は急なので、這っていくようになった。「ほら」四郎が仕方なく手を出してきたので、私はしっかりと握った。 四郎は男の甲斐性とばかりに、踏ん張っている。私は張り出しへと這い上がれた。「へぇ」ほっとした顔で、四郎は私を見ていた。こいつは全く世話を掛けさせやがってといったような顔だ。「ご苦労。ご苦労」使用人の次郎にいうように言った。庄屋のお嬢らしく振舞ってみせた。「ここに何があるん?」「判らんけどな」 四郎は、張り出しから貴主堂の内部を見下ろした。張り出しには、改築した際に使われた木切れなどが忘れられていた。 私は何をするべきか皆目わからなかったので、とにかくその辺りを探ってみた。捨てるべきだったガラクタを、一つ一つ持ち上げた。「これ、なんやろ」 私は端っこに置いてあった布切れを取った。そこには置行灯があった。絹と思われる火袋には、ぼんやりと人影が描かれていた。中には筒が入っていて、何かの形が切り抜かれてあった。人型なのは判った。「盆とかに使われる置行灯かいな」 四郎が覗き込んできたので退いた。「中の回転筒が回ると、蝋燭の熱で、切り抜かれた筒の絵柄がクルクル回るんや。空気の流れで回るらしいで。師匠の家にあった本に載ってたわ」「ふーん」「点けてみよう」「え? わかったわ」 言い出したら聞かない私を知っている四郎は、腰に下げている火打袋を取り出した。火打道具一式が入った袋だ。いつでもどこでも火が熾せるからだろう。 下女でもすぐに火を熾すことができた。私はやらないので、きっと下女や四郎よりも火付けは下手だろう。 燧石で火打ち金の鉄を叩くと、摩擦熱で削られた鉄粉が花火になる。四郎が燧石に火口を乗せ、火打ち金で燧石を何度か打つと、花火が火口に移り、煙が出てきた。 付き木を火口に合わせ、息を吹き掛けると、付き木が燃え上がってくる。付き木には硫黄が着いている。火口も、綿などに炭や染料で作られていた。「点けるで」火を吹いて、少し大きくした後、油皿に沈んでいる芯に点けた。 油皿は行燈に大きめのものが一つ入っており、十本の芯があった。行燈を用意した者が策を弄して、これを整えたのだと思った。 行燈に油皿を入れた。油皿には芯が十本もあるので、一本よりも明るかった。しばらくすると、回転筒がくるくると回り出した。すると堂内で何かが動き出した。「阿天さまや」 本尊が堂内を歩き回っていた。くるくると阿天神が動いている。もちろん回転筒の絵柄が蝋燭の明かりで回りながら、堂内に映し出しているだけだ。火袋の模様も人間のような形なので、幻想的になっていた。「あぁ。これが歩き回る阿天、さまか」 四郎はこんなところに仕掛けがあるとは、といった声を上げた。「でも、綺麗わ」 四郎はまた階下に下りたので、私も続いて下りた。四郎が壁をずっと触り始めた。薄暗いので慎重にやっている。「ここに隙間があるわ。壁はあるけど、少々割れている」 さらに四郎は壁板を外し始めた。壁の板は、まるで木の皮のように脆く、隙間が空いていた。裏は納戸だ。「修理した場所やから、一枚板やない。この場所の裏は納戸や。この裏に行燈を置けば、隙間から阿天様の影が漏れてくる」 まるで学者のように言い切ったので、私は可笑しかった。四郎が仕掛けを見つけたのがちょっぴり悔しかったのだ。「これで(歩き回る阿天様)は解決やな。秘検の任は、これで完了や」「けど、誰が? 阿天様は予言してんで」「きっと、錯覚だろう。堂内は自分の声でも響くから、ぶつぶつ言った声が響いたんや。誰かがこれを使う時だけ、張り出しから下ろして人を騙し、用が済んだら張り出しに隠した。納戸は誰かが覗くかもしれんからな。張り出しは天井裏の近くなら、暗いから目立たんし。貴主堂はずっと開いていて、祈りに来るのは人それぞれやし、薄暗い時なら、うまくいく。仰天しとうから、仕掛けを探したりせんわ」 四郎は藩目付にでもなったかのように、様々な推測をしていた。大人として見ていなかった私は、小馬鹿にしていた。「そうかな。私は阿天様は本当に歩いたと思う。奇岩霊前島の将来を憂いてな」「阿呆か」 四郎は聞く耳を持たなかった。何も信じない若い衆だ。それでも私は、阿天様が何かを伝えたかったのだと信じていた。 あの回転行灯を堂の隅に置いて、布を掛けてきた。誰かのイタズラということで、この件は片付くだろう。貴主堂の外は、すでに夕暮れだった。今夜は満月の前だ。満月の前後二日は出漁しない。月明かりが強すぎて、漁火に魚が寄ってこないからだ。四郎の身体が空いている間でないと、ハルを斬ることもできない。「じゃ、明日、な。明け七ツ半に崖の出口、(憂鬱の口)で待ってるからな」 鼻先を人差し指でこすりっていた四郎は愛想がいい。立ち直ったようだ。「うん、わかった。覚悟はできとう」 私は小袖の袖を捲り上げて、意気込みを示した。「村長には悟られるなよ」「大丈夫。お酒を飲ませて起きないようにするから。酒飲みの扱いには慣れてるから。騙すなんて簡単や」 大の男でもたんと飲ませれば、朝早くには起きてこないことを知っていた。深い眠りに落とせば、黙って出てくることも簡単だった。 幼馴染と別れて、私は、断崖の村で一番深いところに建てられた家に戻った。この小さな島では村長でさえ、立派な屋敷には住めなかった。 それでも村役人に必要な牢はあった。罪人を入牢させ、獄門にする代わりに潮神の贄にするのだ。さらに落ち武者たちがやって来てから、この絶壁で囲まれた小さな場所は、さらに狭く息苦しくなっていた。
2013.01.19
コメント(0)
(二)「起きろ」 足で蹴られたような気がした。転がったら、ずた袋がぱっと取られ、自由になった。視界を広げると、私が昔遊んだ洞窟だと判った。(五右衛門の獄)だ。 すでに外はかなり暗く、入口のそばに置かれた油皿に小さな火が灯されている。 海風が忍んできていて、ゆるゆると炎を揺らしていた。その度にねっとりとした闇色の影が揺れている。地蔵が三つ並んでいるようだったが、次第に地獄の番人に見えてきた。 目をさらに凝らすと、影の足元が見えてきて、一人が座っていることが判った。座っているのは老人だった。白髪白髭の寿老人のようだ。「音御様が、お呼びだ」「昔、御、さま?」 私は呆けていて、ここがどこかの地獄にいるのかと思ったくらいだ。音御の名を思い出すのに、寸刻かかった。小袖の裾が捲れ上がっていたので、私は少々恥じ入った。「音御さま。確か、仙人?」 記憶を思うように思い起こせなくて、乱れた髷を掻いた。簪を触って、夢でないことを確かめた。「この島一番の長老なのに、村には住まず、無数にある洞窟のどれかに住んでいるっていう、神様?」 音御様は村一番の長生きだからか、村役人の支配の外で生きることを許されていた。本当はどういう素性なのか、私には全く判らなかったし、噂も流れてこなかった。まさに私にとっては音御様は神仏のような存在だった。 お付の男たちが世話をしているのだろう、とも思った。親族か音御様の信奉者に違いない。もしかすると平史郎の命で御付の任を受けているのかもしれない。 私はいつもの癖で、余計なことを考え始めたが、真摯に対応していないと、どう処決されるか判らないと思い、すぐに音御様を凝視していた。 島に密かに上陸していた罪人や悪人ではなかったので、少しだけ気を許した。 それほどぴりぴりと凍りつくような威圧感があった。尻が冷えてきたので、少し動かして暖めようとした。「村の政には関わっていないのに、危機になると出てきて神様のお告げをくれるという。たとえ村役人でもその言動に一切の口出しができない、仙人のような人だと聞きました」 私は遠慮を知らない女子だったので、言いたい放題だった。首を刎ねられても仕方がないほど、厚かましい女子だった。「いて」 四郎もやっと正気に戻ったようだ。頭を盛んに振って、記憶を手繰ろうとしていた。転がされていた身体が痛いようで、あちこちを擦っていた。「そうだ。今日、お前たちに音御様からのお告げが与えられる」 左脇に立っていた男が、音御様に代わって私たちに脅しをかけた。「お告げなら、庄屋や網元にしたほうが。私たちには力がないし。もう、秘――」 とまで言って、はっとした。秘検になった事実は、まだ内密にしていなければならなかった。 けれども、仙人暮らしの音御様なら漏らしても構わないだろうと思った。しょせんは、平史郎の言いつけだ。気にすることはない。思い直したら、飛べそうな気さえした。さらによく考えてみたら、平史郎が内密であると言っても、すでに村中が知っていて公然の秘密になっていることだろう。秘密だと言っておけば、任じられた者が秘検の任に神秘性を感じ、一所懸命に任に励むだろうと思っているからだ。大人たちの思考を推理してみると、笑いがこみ上げてきた。「そなたたちには若いという力がある。お前たちの力を、村のために使ってくれ」 老人とは思えない強健な声音に、私は一瞬恐怖さえ感じた。何をさせられるのだろう。「どういうこと?」 私は全く意に介さなかった。阿呆のようだと殺されるかもしれないので、必死で理解しようとしていた。「村の皆は、そう、村長も気づいていまいが、今、村は最大の危機を迎えておる」「危機? 漂流者が来たこと以外は、退屈ですわ」「その漂流者じゃ。今回の漂流者は、ただの浪人と女郎ではないかもしれぬ。それが、村に災厄をもたらす」「よくわからんけど」 私は漂流者を見つけた時の経緯や、その後の事件を記憶の海から拾い上げながら、回想していた。漂流者が何の危険をもたらしているのかと。 確かに加納芳郎と八重は、すでに騒動を起こした。「お前たちは秘検に任じられたな」「どうして、それを?」 さすがは仙人。すべてを見透かしている。「そのくらいは当たり前じゃ。わしは音御よ。仙人のように生きておる」 私は仙人の千里眼を恐れた。何を言っていいのか判らない。しかし狭い島だ。平史郎とどこかで繋がっているに違いない。いや、きっと村中の大人が知っているのだ。仙人は人間界を離れ千里の山に住んでいるのではなく、今でも村中の(秘密)を握っているのだろう。「わしが秘検に命を与える。誰かがこの島から逃げたら、他の者も必ず斬れ」「えぇ」四郎と私は揃って声を上げた。洞内でよく響いて、耳が痛い。「女であろうとなかろうと、あやつらは斬るのじゃ。これはわしの命ぞ」「どうして?」「お前たちは知らぬだろうが、奇岩霊前島には知られてはならぬ秘密がある。この島が生き延びるためには、秘密を護るのじゃ」「村長は若い者に人を斬れとはよう言わんだろうから、わしがお前たちに命ずる。訳はこれ以上いえんが、斬れという以上、それなりの重大な任であると思え。秘密については、まだお前たちは知らなくてもよい」「知らなくてもよいと言われると、余計に知りたくなるし」「知れば今のような安息の日々が送れなくなるからだ」「うちらは処刑人でないし。人斬りをするなんて」 私は何とか音御様から、(秘密)を聞き出そうとしていた。好奇心は抑えられないし、任務であっても(訳)は必要だ。「訳もなく人を斬るわけには。いくら村長の隠密でも、な」 四郎は苦虫を踏み潰したような顔をしていた。私にもよく判った。いくら武士の血統でも、罪人の処刑ならやるが、罪人でもない女を追いかけて斬ることはできないだろう。「人を無闇に殺めることは、阿天様の信仰に反しますわ」 阿天様の教えに逆らうことなどできない。「それなら心配は要らぬ。同じ本尊を崇める西の強国でさえ、殺生とは無縁ではない。利と信仰のために、殺生をしておる。信仰を護るためならば、許されることもある」「どこの国なん?」 私は好奇心の赴くままに、恐れることなく質問攻めにし続けた。「知らずともよい」 音御様はぴしゃりと言って、私の好奇心を押さえ込もうとしていた。いくら音御様でも、離島暮らしだ。知らないのだろうと思った。「気と体力が充実した若い者に託す。村のためぞ」「そういう事情なら」 四郎は、いい声を上げた。もともと、信心が薄い男だ。あまり頓着していないのだろう。 目の前に差し出された戦に、若い血が煮え滾っているのかもしれない。斬捨て御免の戦だ。武士の血脈の男として、胸が躍るのだろうか。「わかった。この島から逃げた者は、必ず斬る」 二人は使命感よりも、退屈な日常に飛び込んできたこの任に胸を弾ませていた。 四郎は帯刀していないので、腕を振り回して見せた。様になっていなくて、私は笑った。 洞窟を出ると、月が高く上っていた。すでに夕餉は終っているだろう。このまま帰ったら、平史郎の雷が落ちる。嫁入り前の娘が夜遅く、許婚でもない若い男と出歩いていたのだから。 私は後悔していた。夕餉までに家に戻らずに、洞窟を探しに行ったことを。
2013.01.19
コメント(0)
第四章 轟き (一) 国は破れたが、山河は残った。廃墟になった城には春が訪れ、草木は深くなっていった。 昨日、落ち武者だった老人が死んで、通夜と葬儀が行われた。すでに女房は死に、子や孫や村の衆たちに見送られて旅立った。 今日は朝から晩まで、葬儀のために村中が動いていた。老人は今朝、島の小さな墓地に葬られた。 棺桶に小さく畳まれて収められた小さな老人の身体を見ていると、これが戦で勇敢に戦った武士の最期かと思った。無性に哀れに思えた。 聞いたところによると、子供も故郷にいたのではないかという話だった。でも、今では確かめようもなかった。毎年四人くらいは事故や病気で死ぬが、落ち武者はいつも半数くらいだ。 私は、時にはさざめく麦穂を思い出し、断崖に囲まれた小さな村の足元を見た。 そこには、さざめく緑の麦穂はないが、ささやかな緑陰の下でも生きている、小さな花に目頭を押さえた。滲んで葉の上で踊る露のようになった涙は、時折ふっと爽やかな心持をくれた。「また、落ち武者さんが死んだ。戦場の亡霊に追われながら、悶えて死んだ。もう泣きたくないわ」 私は、天空を見上げた。 天下取りの戦乱の噂が途絶えてから、三十四年余り経っていたが、この島の者たちは、その騒動からも、新しい時代の影響も少なく、安穏に暮らしていた。無邪気で純朴な衆たちであった。 水汲みや朝餉や夕餉の支度は下女の仕事で、畑の手入れや薪割りは下男の仕事だった。私がすることといえば、貴主堂で阿天様に祈ったり、祭壇を整えたりすることだ。たまには下男や下女の仕事ぶりを観察していた。 空が少々黄ばんで来たので、夕餉の刻だと思った。だが、ついつい、もう少し、もう少しと、童女のように遊んでしまう。いつも「お前は嫁には行けん」と言われている。「ここなら誰も追ってこん」 私の背後に立っていた、四郎が言い切った。四郎は葬儀の片付けを命じられ、その後、家に戻る途中で、私を見つけて、声をかけてきた。 力強いが、全く確証のない物言いだった。慰めようとしながら、いつも馴れ馴れしく私の肩に手を置いてくる。 両の手を私の両肩に置いてきたので、叩くように払った。その四郎は照れを隠すように、空を見上げたまま、くるくると回り出した。「噂では、もう天下取りの戦は、とうの昔に終ったらしい。だから、私を巻き込むような戦は、ここには来ない」 四郎は何も知らんくせにと言おうとしたが、なぜか口答えはしなかった。「浪人から百姓になった川島次郎さんが言ってた。祝いの席でお酒が入ると、武勇伝が始まるんや。それ以外の時は、戦で仕えた主人への愚痴ばかり。一杯、死んだらしいわ。首を取られて、相手の大将に届けられるねんて。大叔父さんの上の人も大勢、死んだらしいし」 私は戦場の様子を思い浮かべていたが、ふと可笑しくもなった。意味不明の笑いを漏らしてしまった。「まだ生きている落ち武者さんも、もう老人や。けど、戦の逆境からすっかり壮健になって、あのままだと、仙人になってしまいそうなほどや」 私の物言いに、四郎は噴出した。屁のような笑いが続けざまに聞こえた。「誰が勝ったん? どこのなんていう大将が勝ったん?」 無邪気に私は訊いた。いくら男子でも孤島の者が知っているわけがないのだが、訊かずにはいられなかった。「さぁ。三河出身の何とかっていう殿らしい。ここのは誰も知らんやろ。一番の新参者の男やったら知っとったやろうけど、無口で、名前くらいしか言わんかったし。今でも名以外は知らん。何をしとったかもな。今は人手が要る漁師やっとうし。それでも、ここでは悪事をしない限り、誰も何も訊かん。それが暗黙の掟なんや」「そうや。だから、余所者でも、潮神を越えて来た者として尊敬はされても、粗末にされることもない」 それが奇岩霊前島のいいところであり、妙なところでもあると思っていた。 罪人でなく、心身共に健全で島の人手となり、何か新しい知を持ち込んでくれば、少々のことは許された。「ここには、藩目付もおらん。だから、事件が起きたら、村役人が任命した検蛇が地方手代の手下として解決する。波も荒いから、腕のよい船頭がいないと、船はよく沈むし、ここにやって来ようという藩目付は、滅多におらんわ」「まぁ、いいわ。うちらには阿天さまがついているから」 私が再び空を仰いで、呟いた。「俺にはわからん。あぁいうのの、どこがいいのか?」 四郎はあらゆる神仏を信じていなかった。若者は、いつもそうなのだ。目に見えぬ存在に、やたらと縋ったりはしない。「外には、いいことがない。いつかまた戦乱が始まる。誰かが一番になるために」 私は目のやり場を探して、自分の小袖を見た。花模様の小袖は、遭難した商船の漂流物だった。 小さな海岸へ行けば、時折そういったものが流れ着く。流れ着いたものは、いつもありがたくいただいていた。 それ以外の必需品は、魚を売りに行った漁師が仕入れてくる。「天下取りの戦ほど阿呆らしいことないわな。どっかの大将が一番になるために、平和に暮らしてる野武士を狩り立てる。けど、戦がなければ、武士の出る幕もないし、剣の稽古も適当や。どうせ、主君もおらんしな。嫡男の兄やは、未だに張り切っているけどな。落ち武者の子孫は今じゃ、ただの百姓や。素振りもたまにしかせんし。腕も錆びついとうわ」 四郎は腕を捲り上げて、腕を見せた。けれども部落での肉体労働で、腕は大木のように太くなっていた。 「畑を見てくるわ。もう熱なってきたな」 私がそれだけを言って、ずんずんと(憂鬱の口)へ歩いてゆくと、四郎も従いて来た。それが面白くて、ただ黙って畑に向かっていった。(憂鬱の口)は村を囲む岩壁から外へ出る、唯一の穴だった。 畑には、ちらほらと村の衆たちがいた。すでに作業は終盤のようで、家に帰る支度をしていた。先ほどまで黄ばんでいた程度だった空が、茜色に染めつけられていった。「キクエ、帰らんと。お前、夕餉やろ?」「もうちょっと。もうちょっと」 私は、大人はもう行かなくなっていた、ある穴が妙に気になっていた。 子供の頃はよく入って遊んだのだが、崖の際に入口があるので、大人になってからは行かなくなっていた。「(五右衛門の獄)に行ってみいひん?」(五右衛門の獄)は奇岩霊前島に数多くある洞窟の一つだ。「怒られるぞ。子供ん頃は危ないって言われると、よけい行きたくなったけど、今はな。一応、秘検になったし。一人前にならんとな」「男はそうして、だんだん年寄りになっていくんや。可哀想」「年寄りやって? 俺は、まだ若いわ。去年まで子供やったわ」「じゃあ、いこな」 私は四郎を上手く丸め込んで、(五右衛門の獄)へと向かった。数年も行っていなかったが、よく遊んでいた私は、すぐに道を見つけることができた。 日暮れは早く、すでに天球の中ほどまで闇が落ちてきていた。それでも私の欲望は止らなかった。威勢のいい若衆のごとく、足は進んだ。 畑を抜けて、足場が悪いので薪にするくらいしか役に立たない雑木林に入った。 しかし、雑木林がなければ、風呂焚きも竈にも火が点けられないのだから、ありがたい場所でもある。「あ?」 何が起こったのかと思った。いきなり視界が暗くなった。二人の影が、いきなり立ち塞がった。「誰だ、お前ら。密航者か? それとも、入れ墨者か?」 四郎が訊いたが、奴らはまったく容赦がなかった。大木のような両腕を振り下ろすと、瞬く間に私たちは拘束された。「やめ、」叫んだが、ここから村の衆に聞こえるわけがない。どこかを噛んでやろうかとじたばたしているうちに、頭陀袋を頭から被せられ、そのまま担がれたのが判った。 いったいやつらは誰で、どこから来たのか。話に聞いた忍びとかいう輩かもしれない。どこかから黙って潜り込んできたのだろう? 私はどこかからやって来て、洞窟に忍んでいた悪人でないことを祈った。私は担がれたまま、足をばたつかせた。 ずれ落ちる感じがしたと思ったら、一気に落下した。体中を強打して、地面に落とされたことがわかった。
2013.01.19
コメント(0)
(四)「ていへんだ」 騒動が治まったと思ったら、次の騒動が飛び込んで来た。肩を激しく揺らしながら駆け込んできたのは、漁師の熊蔵だった。 奇岩霊前島で金が稼げるのは、漁師だけだ。熊蔵は四十過ぎで、五人の子供がいた。嫁は上方へ出かけた折りに、知り合ったという。「この前、島に流れ着いた八重が亭主と寝たってんで、重三の女房が掴み懸かっているわ」 熊蔵が叫んだ。私は、やっぱり新参者が騒動を起こしたと思った。「夫婦喧嘩か、つまらん。わかった、すぐ行く」 平史郎には、様々な騒動の報せが持ち込まれる。その度に、ことの顛末を見届けるために出かけなくてはならない。地方手代だけでは、治まりがつかない事例もある。 平史郎は加納芳郎が村の牢に引っ立てられるのを見届けると、騒動の待つ家へと向かった。私も祭り見物気分で、そそくさと従いていった。「もう夜になるぞ。お前は、飯でも作っておれ」 平史郎は夜にふらふら歩く若い娘をよくないと思い、釘を刺すことを忘れなかった。こういう抜け目のなさは、さすがに武家の血統らしい物言いだった。「だって、面白そうや」 口笛を吹くような軽さで、私は反論した。「まったく、お前は。嫁の貰い手はないな」 平史郎はどうにもならないといった顔をした。私には何を言っても歯が立たぬと思っているに違いない。私は平史郎の諦めのよさを知っていて、必ず反論をした。「この目狐め、よくも、うちの亭主を」「誘って来たのは、あっちだよ」 騒がしい家の前に行くと、二人の女が髪を引っ掴んだりして喧嘩をしていた。どちらも袷を着崩していて、とても女だとは思えない様子になっている。髷も、すでにざんばらだった。 八重は、派手な襦袢を袷から、ちらちらと見せていた。ハルと同じ。もしかすると、同じ女郎あがりなのかもしれない。「やめんか。女子同士で、みっともない格好だわ」「村長。この女が亭主を誘惑したんだよ。とんでもない女だよ。さっさと潮神さまの供物にしちまえばよかったのに」 亭主を寝取られた女房は、歯を剥き出すような形相だった。まるで餓えた犬だと、私は思った。「無闇に人を供物にはしない掟だったが、これでできるな」「まったく、性悪だよ」 亭主を寝取られた女房は、平史郎を動かすように口を尖らせた。村役人が処決しなければ、天敵を葬ることができないからだ。「島じゃ、この商売でもしないと、おまんまが食えないんだよ。この島じゃ、飯盛り女もいないようだしね。だから、女郎屋でもやろうかと思ったのさ。どうせ女郎だったんだ。今度は女将になろうと思ってさ」 八重はハルと違って何も語らなかったが、やはり女郎だったのだ。どうりで、ハルのように派手な襦袢を着ていたわけだ。「女郎屋を始めるって?」「京でも江戸でもある商売だよ。女郎あがりが女将になるだけさ。女郎が一人。女将が一人。それが、見世と違うだけさ」 口も達者だった。それは女の証明だった。嫁げば少々大人しくはなるが、姑がいなくなれば、天下を取ったかのように偉くなる。それが女だった。「この島にいたいなら、誰かの女房にでもなれ」「女房持ちかどうか判らないだろう。一目でいなさそうなのは、若い男だけじゃないか。子供を誘惑してもいいのかいな」「それはな」 平史郎も応えられないでいた。私は、男たちなら女郎屋ができることは大歓迎だろうと思った。 しかし、村役人程度では許可はできない。しかも狭い島では女房持ちがこっそりと行くこともできないし、独り身は少ない。商いは成り立たないだろう。女房のいない男は、長生きしすぎた老人と、子供のような若い男だけだ。女郎屋はこの狭い村では、目の毒にしかならない。「このぉ、目狐」 一旦、家に入っていた女房が出てきた。手には包丁を握っている。「もっと悪いことをする前に、あたしができないようにしてやるよ」 狂ったように刃物を振り回した。野次馬がいるのも構わずに、凶器のように女郎に切りかかった。「なにするのさ」 悲鳴のような声を上げたが、錆び付いた包丁が粗末な袷をかすった。「やめんか!」 野次馬たちも我に返って、女房を止めようとしていた。しかし、女房の手からぶんぶんと振り回される凶器の行方に戸惑っていた。「死ね。死ね。悪さをする前に死ね!」「ひ」 まるで波間を跳ねる飛魚のような勢いで、女房の凶器は振り回されていた。八重は跳ねるように飛びのいて、転がっている。「女郎なんて、この島には要らない!」 八重が転んだところを、凶器を持った女房が髪を引っ掴んだ。八重はすでに罠に掛かった獣で、女でさえ殺せる状態だった。「やめんか」 凶器を振り回す女房を背後から捕えたのは、亭主の重三だった。「あんたが、女郎なんかの口車に乗るからだよ」「悪かった。悪かった。けど、ちょっと洞窟にしけこんだだけだ。ちょっと京の話でもと思っただけだよ」「嘘をおいいでないよ。男が女と二人っきりになって、そのくらいで済ますわけがないだろ」 女房が、そんなことを信じるわけがない。亭主のことを隅から隅まで知り尽くしているのが女房だ。知り尽くして、ありとあらゆる手練手管で、操ったりするのが女房たちだ。「ほんとだよ。ちょっくら手を握っただけさ。これからは、他の女なんて、目もくれないよ」 亭主は女房の耳元に届くように叫んだ。 確か、重三は、村の花見で酒を浴びるように飲みながら、うちの女房は祝言を挙げた頃は観音様かと思ったと自慢していた。すでに観音様でなくなった女房よりも、若い女郎のほうがいいのだろう。 花見は、昼間から村長の許しを得ずに、酔える貴重な祭りだった。といっても桜は、たった三本しかなかった。「重三、お前の女房だ。お前がなんとかしろ。女郎は、わしが何とかするから」 平史郎は八重の手を取ると、引っ張っていった。「ねぇ、平史郎さま。女郎屋をやってもいいのかい? おまんまが食えないからね。それに、言うだろ。働かざるもの食うべからずって。だから、うちは働こうと思っただけさ」 八重は正しいと私は思った。八重は、自分の言葉は正しいと主張している。「この島で女房がいない男は少ない。病死しても、すぐに後妻をとるからだ。女房がいるのに、この小さな村の女郎屋に行く男は、まずいない。藩も許可は出さない」「じゃ、あたしは、どうやって食べるのさ。これしか、やったことないのに」 八重は仕方がないだろうといった顔をしていた。だからやったのさと太々しい態度だった。すぐに許されて自由になれると思っている、そんな感じだった。 加納芳郎と同じく、奇岩霊前島が無頼者の溜まり場のように思い込んでいた。奇岩霊前島には罪を裁く法度などないと思っていたのだろう。八重は八重という名には似合わず、きつい女だった。「潮神さまに捧げるしかない。ハルのように大人しくしていればよかったのに」「なんだって」 後を従いていた私は、ぞっとした。新参者は奇岩霊前島では生きていけない。この島で数少ない正業に就けない者には、消えてもらうしかないのだ。それが、村を仕切る村長が下した決断だった。 しかも、処分を決めるための集会もしなかった。 平史郎は、一度でも下した処決を、何があろうと覆さないだろうと思った。
2013.01.19
コメント(0)
「アテンの暁光」6 (三)「大変だぁ。浪人が刀を振り回している」 漁師の四蔵が村役人の平史郎を探すために、私の家に飛び込んで来た。激しく息を切らせている。木戸を今にも壊さんかのような勢いだ。 四蔵は二十四歳で、奇岩霊前島にあっては、働き盛りの年齢だ。嫁を貰ったが、産後の肥立ちが悪く、赤子と共に死んでしまった。後添いの女子も島では見つからず、まだ独り身だった。 酒が入るとさらに男気に拍車が掛かる男衆のことだ、小さな騒動をあっという間に大騒動にしてしまったのだろう。「何があった?」「浪人が女にちょっかいを出したので、それを止めようとした左次郎を斬ろうとしたんや」 平史郎は転がるように部屋から出た。私も野次馬のように従いて出た。 平史郎は草履を履くと振り返って、来るなといった表情をした。だが、私は頓着しなかった。 裸足で飛び出してしまったので、慌てて戻って、草履を履いた。平史郎が提灯を持った四蔵と出て行ったので、私も行燈から火を取って、提灯に火を点けた。 四蔵を追う平史郎をさらに私が追った。狭い村の家々の間を提灯を翳して歩いた。 すでに夕暮れで、家の傍らで燃えている松明が光源になっているだけだ。足元は見えにくく、視界が狭い。 私は鼻緒を親指と人差し指でぎゅっと握り込んで、平史郎の後を追った。「私、お前は来るな。お前は家へ戻って、わしのために酒でも用意していろ」「それは、下女の鈴がやるから。いいやん。面白そうや」 私は平史郎の雷など頓着せずに、従いていった。 着いた先は、奇岩霊前島では長老格の又兵衛の家だった。女房よりも長生きで、寂しいからと、屋敷の一角を男衆の溜り場として提供していた。 洞窟でもやるが、盛り上がらないので、又兵衛の屋敷のほうが多い。騒動が一番多い原因も、盛り場になっているからだ。だからといって、村役人の平史郎は自身が酒飲みであるから、禁止令を出すこともしない。 男衆たちは家でも焼酎を飲めるのに、女房に遠慮せずに盛り上がれるので、ここ四、五日に一回は集まっていた。又兵衛の屋敷は男だけの集会場であった。 酒もツマミも持ち寄りだった。時折、喧嘩が始まっては、絶壁の村中に騒動が伝わってきた。岩壁に囲まれた村は、貴主堂の堂内のように、よく響いた。「どうした」 平史郎が又兵衛の屋敷に飛び込むと、すでに家の中は、引っくり返ったようになっていた。「やめんか、お前ら」 平史郎が大声を出して、村役人としてこの場を治めようとしていた。地方手代よりも出足は早かった。 騒動を治めるのは、村長の役目だ。下手人や原因が不鮮明な場合は、調べ方の検蛇が地方手代の手下として、調べるのだ。「女を取り合って、浪人が刀を振り回した」 浪人を押えていた岸辺次郎太が平史郎を見て叫んだ。岸辺次郎太もまだ若い。女房を八ヵ月前に迎えたばかりだった。 奇岩霊前島では年頃の娘が少ない。いつも嫁を迎えたい男衆と数が合わないので、中には男の親が童女の親に金子を渡して、約束をすることもあった。決して豊かではない女子の親も、支度金を目当てに簡単に決めてしまう。 決まっていないのは、金子に困っていない家の私くらいだ。平史郎はいい条件の婿が出てきたときのために、ぎりぎりまで処決しないでいた。お屋敷勤めでもさせて、上方などの大店の商人にでも嫁がせたかったようで、奉公先を探していたことがある。 けれども、撥ねっ返りで堅苦しいのが嫌いな私は、一度は見つかった奉公先を、詐病を演じて断らせたことがあった。 不治の病で苦しむ私を見て、平史郎は不憫に思ったことだろう。詐病を演じたときの私の演技は、今でも上出来であったと自負している。 しかし、それっきり奉公先は見つからず、私は未だに四郎くらいしか、婿の候補はいない。「漂着した侍か? 帯刀を許しておいたのが間違いだった。村の者は先祖伝来の刀を床の間に飾っておるだけなのに」 その浪人は、私が発見した四人目の漂流者だった。年齢は三十過ぎくらいで、加納芳郎と名乗っていた。この男は、まだ村の衆と打ち解けず、何も語らないので、出自は不明だった。 たぶん、ハルとできている柴田基三郎義則と同じような浪人だろうと皆は見ていた。しかし、本当のところは不明だった。 この島のほとんどが応仁の乱や大坂の陣の落ち武者の子孫と子弟なので、余り出自を探ることを良しとしない風潮があった。探ろうとすれば、自分の過去まで探られることになるからだ。「斬られそうになったのは漁師の佐太郎だ。又兵衛の娘の佳代にちょっかいを出していた芳郎を止めようとしたら、斬られそうになった」「わしが口説いたのが気に入らなかったらしい。まだ誰の女でもないだろう」 押さえつけられていた芳郎が叫んだ。五人がかりで押さえ込んで、やっとのようだ。また暴れ出したら、押さえられないだろう。それほど芳郎は気迫に溢れていた。「無礼打ちのつもりか? 浪人のくせに。どのような理由でも、この島で無体な抜刀は許さん」 平史郎は威厳をもって言い切った。私はそれが少々おかしく、笑いを抑えた。「ここには女郎屋もおらんし、若い女も少ない。何の楽しみもない。女を口説くくらい、いいだろう」「口説いてもいいが、後家くらいにしておけ。佳代には許婚がいる」「なんだ、もう男がいるのか。知っていたら、口説かなかったものを」 芳郎は口を歪めながら、悔しそうに吐き捨てた。「村役人として、けじめをつける。あんたには沙汰が決まるまで、牢に入れる」 平史郎は、きっぱりと処決をした。私は家ではただの飲兵衛なのにと、腹の中で冷やかしていた。「こんな島にも牢があるとはな。藩目付さえいやしないのに。磔、獄門もないだろう」 掃き捨てるように浪人は訴えた。小さな島には役人などいないと思い込んでいたような口ぶりだ。口元は、どこか島を馬鹿にしているかのように吊り上がっていた。 私は、奇岩霊前島のことを全く知らない芳郎を哀れに思った。奇岩霊前島にも、罪人を裁く法度くらいは、あるのだ。「ここでも藩から任じられた村役人がいる。島の治安を護らねばならんからな」 誰もが、ことの成り行きを見守っていた。このまま行くと、島の掟では潮神沙伊羅の贄となる。潮神沙伊羅とは奇岩霊前島の護り神で、黒潮を起こしている神だ。黒潮が奇岩霊前島を孤島のようにしているが、黒潮によって本土の動乱の影響を免れている。 ここには、将軍の影響は強くはなく、おだやかに護られていた。貴主教の阿天とはまた違う自然神として、皆が崇めていた。 罪人の処罰は、ある程度まで村役人である庄屋に任されている。「お前は無闇に抜刀し、人を危険に曝した。潮神沙伊羅さまに、身を捧げることになる。気の毒だが、厳罰をもって処するのだ」「武士のわしを、武士でないお前が裁くというのか?」「かつては侍だったからといって、抜刀は許さん」 ここで初めて芳郎は、しまったといった顔をした。まさか、奇岩霊前島に処刑があると思っていなかったらしい。無頼の者たちが流れ着いて群れている、無法地帯のように思っていたのだろう。「ゆ、許してくれ。わざとではない。腕を掴まれたから、弾みで、弾みで抜いてしまったのだ。あんたも帯刀をしているなら分かるだろう? 腰に下げていれば、抜きたくなることもあるだろう?」「いや、この島では刀は一度も抜いていない。刀を最後に抜いたのは、三十年前、父親との剣術の稽古。稽古なら木刀でだ」 平史郎は、少し刀を鞘から抜いて見せた。刀はタケミツだ。真剣はいつも床の間に飾ってあるだけだ。先祖伝来だが、手入れのときに抜くだけだ。「くそう」 芳郎は往生際が悪く、緩んだ隙をついて、拘束を解いた。立ち上がると男衆の隙間を走り抜け、すぐに心張り棒を掴み、ぶんぶんと振り回し始めた。 戸口の前には男衆がいたので、外へ飛び出すことができなかった。低い音がして、芳郎は必死で男たちを追い払った。 今は浪人だが武士なので、芳郎の構えは鋭い。芳郎の眼光は餓えた鷹のように鋭利で、男衆でさえ一瞬びくっと怯んだように見えた。「往生際が悪いやつだ」 芳郎を囲む男たちは十人近くに膨れ上がり、容赦はしないぞとばかりに芳郎を囲んだ。「くそ。くそ。せっかくここまで逃げて来たのに」 奇岩霊前島が無頼者の極楽浄土ではないことを知り、後悔しているのだ。無頼の者ばかりの無法地帯なら、少々羽目を外しても許されると思っていたのだ。 しかし、奇岩霊前島でも阿波藩の村役人がいて、真っ当な掟がしっかりと治安を護っていた。飲兵衛の平史郎や村役人の手下の検蛇が、犯罪を取り締まっている。「お前には、潮神さまに身を捧げてもらう。神事には、いつも罪人を捧げている。運がよければ、死ぬことなく陸に戻れる」「海に放り込まれて堪るか」 芳郎は、全く力を緩めることなく、心張り棒を振り回した。男衆たちは、ただ眺めていた。私は、機会を待っているのだなと思った。 いつまでも暴れていられるはずはない。疲れて弱まったところを押さえ込もうという魂胆だった。妙に手を出してまた斬られては、どうしようもない。「くそう、くそう」 四半刻も経つと、芳郎は疲れてきた。機を見た男衆たちは、芳郎を囲んだ輪をじわりじわりと縮めていった。「そら」 掛け声と共に、一斉に屈強な男たちが加納に襲いかかった。又兵衛の家の斧や鎌で、芳郎を牽制した。芳郎は巧みな棒捌きで抵抗していたが、手にしていた心張り棒は鎌で払われ、足元を跳ねた。男たちの褌がひらひらと待っていた。 私はうわっと思って、視線を逸らした。嫁入り前の女子には目の毒だと思った。褌の舞は、親父さまのだけで十分だった。「くそう、くそう」 芳郎は元武士とは思えない品格のない声を上げていた。さんざん首を絞められた鶏のような声を上げていたが、すぐに静かになった。「殺すなよ。潮神さまへのお供えだ」「承知した」 平史郎の声に応えて、誰が叫んだ。こうして怪しげな漂流者が一人、減った。芳郎は仲代家の牢屋へと引っ立てられた。平史郎の悩みの種が一つ消えた。
2011.12.28
コメント(2)
「アテンの暁光」5 (三) 漂着した四人は村の衆の家に、ばらばらに預けられていた。一緒にすると、何か結託して、企むのではないかという考慮からだった。 平史郎が招集した村の衆たちが、特別な集会の場にしている洞窟に集まっていた。男だけの酒盛り付きの集会は、洞窟を使うこともあった。独り身の家を使う時もあるが、宴会や酒盛りだけに限られていた。 奇岩霊前村にとって重要な決定をするときには、男衆だけで焼酎と肴を持ち寄って話し合うのだ。決定されると、いつも酒びたりの宴会が始まるのが常だ。 奇岩霊前島には女郎がいるような見世もないので、焼酎を浴びるように飲むだけが唯一の楽しみになっている。女房がいないので、いつも無礼講だ。 男だけの寄り合いなので、気になっていた私は、会が始まる前に、奥に潜んでいた。洞窟の中は声が響くので、声は流れてくる。顔を出していても、円座を組んでいる男たちは話に夢中だった。「どうする。あの四人?」「忍びの者という可能性は、ないんか?」「罪人なら、この村でも悪さをするかもしれん」 男たちは口々に思ったことを声に出した。「うちにいる女は、女郎らしい。男と寝ても、悪さはせんだろう」 平史郎が言い切った。「あとの男と女は、どうだ?」 鍛冶屋の与平が、もぞもぞと口を開いた。与平はとうの昔に女房を亡くしたが、長男夫婦と一緒に暮らしている。「男一人は、浪人らしい。しかし、訳ありかもしれん。しばらくは大人しいだろう。もう一人は、わからん」 確信はなくとも、何らかの予見を平史郎は述べた。胡坐を掻いている足を時折ぽりぽろと掻きながら、脇にある濁酒の瓶を気にしていた。誰もが早く決着をつけて、酒盛りをしたいと思っていた。「他の男と女は?」 元落ち武者で、漁師の金木良之助が言った。この村の者は、ほとんどが落ち武者および子弟だった。元来からの住人は、もはや少数だ。「あの男は町人のようだが、どういう商売をしているかだ。刀を持っていたから、浪人だろう。寡黙な男で、とんと喋らん。賢いかもな。女は、もう一人の女の話によると、身売り寸前で逃げ出してきたらしい。まだ少し起きては寝てを繰り返し、病弱のようだが、詐病かもしれん」 漁師の弥太郎は、ここに来る前から焼酎を飲んでいた。すでに出来上がっており、そばにある酒瓶を握っている。腕のいい漁師で、子供が三人だった。女房は三人目の子供を生んで、すぐに死んだ。「しばらく自由にさせて、様子を見ているか? せっかく戦や政のしがらみから解放されて、勝手気儘にやっとるというのに。ここには目付はおらんし、武士の一分をどうこういう主君もおらん。隠密でもなく入れ墨者でもなければ、このまま大人しくいてくれればいいが、身元を保証する岸田半兵衛は大坂へ出て行った。置いておくか島から放り出すかも、どちらもまだ思案せねばならん」 弥太郎は、言いたいことは言っておくといった顔をしている。重大な決を取る場なのだが、私には飲兵衛の会のようにしか見えなかった。 酒がなければ生きていけないような男衆たちの生き様が、私にはまだ解せない。平史郎の血脈通りなら、私も男なら飲兵衛になるのだろうが、幸い私は女子だった。「よし。今しばらくは置いておく。見張りをつけて、しばらく様子を見るのじゃ。奴らの言動に注意せよ。もしも島に置いておくには危険だと判断したら、その時にまた処決を決めよう。男には女をあてがい、女には若い男をあてがって、探らせよ」 平史郎は、一旦、決を出した。妙な眼力で睨みを効かせていた。私は飲兵衛の癖にと、ちょっとばかり馬鹿にしていた。「それがいい。戦は終ったが、我らはこの奇岩霊前島の秘密を護るために頭を使う」「女二人には四郎と、喜田川次郎を付けよう。男には菊枝と、後家になったお信を付け、探らせよう」 私は自分の名が出てきたので、ぞくっとした。何をやらされるのかと思った。喜田川次郎とは、まだ若い百姓だ。武家の血筋だが、庄屋になれるほど裕福ではない。 決定が下ると、すぐに待ってましたとばかりに、宴が始まった。踊る者はいるし、一人で唄を唄う者もいた。 私は洞窟の奥に掘られた地下道から、こっそりと出て行った。 (四) 宴の次の朝、台所で朝餉の片付けを眺めていたら、私は平史郎に改めて呼ばれた。 四人の漂流者のうち、ハルとは別の女は八重といい、亭主が病で死んだ後、借金もあり生活苦から女郎屋へ身売りをするところだったらしい。 八重の色男で、漂流者の浪人は八重の近隣に住んでいて、八重と遠縁だったという。八重に同情して、一緒に道行となったそうな。 もちろん二人からの話なので、真偽のほどは判らない。一先ず、住人のいなくなった廃屋同然の家をあてがわれた。村役人が処決を決めるまでは、夫婦然として暮らすことになった。 ハルと相手の浪人にも同じような家をあてがった。家は放っておけば、傷むばかりだ。それよりも誰かを住まわせておいたほうがよいからだ。地主は仲代家だった。「私。折り入って話がある」 察しがついていた私は、切りのいいところで手を止めて、框を上がっていった。「あの四人をこのまま受け入れるかどうか、まだ決めかねておる。女はともかく、男はな。判断ができかねる」「男衆はすぐに女の色香に惑わされようからね。女に甘いわ」 私は睨みつけて、好き勝手に文句を言った。奇岩霊前島でも酒色の騒動は絶えない。 そこへ中年増だが、女が二人やって来た。二人ともそこそこの器量だとすると、女房持ちの男衆だとて盛り上がる。すでに情夫のいる女でも、頓着しない厚かましさや勢いが、島の男衆たちにはあった。それほど奇岩霊前島の男衆は遊興に餓えていた。 もちろん女子である私もそうだ。下女が家のことをやってくれるので、何もすることがない。 街のお嬢なら、お稽古ごとや食べ歩きに興じるのだろうが、奇岩霊前島にあっては何もない。ふらふらと島を徘徊し、村の衆の仕事を眺めたり、時折、冷やかしみるのがせいぜいの道楽だった。 だから、楽しみをいつも探していた。四人の漂流者を見つけたときも、なぜだか心が躍り、陽気になった。奇岩霊前島に騒動をもたらすような気がしても、諸手を挙げて歓迎している、そんな心持ちだった。それほど胸をそわそわさせるような、楽しみが落ちてくるのをいつも待っていた。どこかで何かをしてくれといった期待ではちきれそうだった。「うるさい。阿波藩の命を受けた忍びか隠密だったら、あることないことを報告されて、この島が危ないかもしれぬ。それでだ、お前は四人に近づいて、詳しい出自を探って来い。ハルという女が語ったことが真実とは限らぬ。もしかしたら、罪人かもしれん。女になら、口が軽くなるだろう」 私には平史郎の疑り深さに疑問を持っていた。異常なほどに感じていた。やっと幸せになれると信じて、裕福で息災だと思っていた親類を頼って、奇岩霊前島へと命懸けでやってきた。 しかし、頼りの縁者が島を出てしまっていて、頼ることができなくなった。運の悪い漂流者だった。 それだけだ。少々同情こそすれ、ここまで監視しなくてもと思ったが、村役人でもある庄屋は村に滞在する不審者を監視し、管理しなければならない。それが藩から島の治安維持を仰せつかった庄屋の任であるからだ。 罪人を預かるのも庄屋の任なので、家には牢屋もあった。罪人の処決も、微罪なら庄屋に任されることもある。それほどの大任なのだ。「あることないことって?」「とにかく、あることないことや。何かこの島にとって不都合なことや。嘘八百でも、鵜呑みにする目付がおるかもしれんやろ。お前にはまだ判らんやろうけど、たとえ濡れ衣でも、目付が本気で裁こうとすれば、それが正義として通るのだ。だから、この島を護る庄屋としては、あらゆる目配りが欠かせんのだ」 平史郎の力説を流し聞きしながら、私は家の牢を思い出していた。「わかったわ。うちの色香で、なんとかするわ」 それを聞いた平史郎は、妙な顔をした。どうもお前にそんな色香があるのかといった顔だ。私はちょっと腹を立てた。
2011.12.28
コメント(0)
「アテンの暁光」4 どこに行くか判らない作品ですね。第二章 奇奇怪怪 (一) 私は小さな奇岩霊前島で、貧しいが平安な日々を過ごしていた。時折は海の向こうへと思いを馳せるが、島は潮神に取り囲まれていた。きっと潮神様の遥かむこうの国は、島よりも豊かな土地なのだろうと思っていた。「海はええな。黒潮が激しくなければ、もっとえぇのに。いつも潮神さまが妨害なさる」 私は、ただ海に向かって話していた。今は波は静かで、その先に二隻に一隻を運び去る黒潮があるとは思えなかった。潮神が、奇岩霊前島をどこかの大将の禍々しい政から護っていた。「そうだよな。陸に簡単に行けたら、もっといいな。潮神さまは俺たちの捧げる贄だけでは満足されんようや」 隣には、四郎がいた。漁の後、家に戻る途中で私と、ばったり会った。私が家に戻る途中で立ち止まっていたので、声を掛けてきた。四郎も何かと口実を見つけて、私に寄って来る。 奇岩霊前島の者たちは、漁をして畑を作っていた。里芋や麦が貴重な主食だった。 奇岩霊前島の島民は、ほとんどが百年くらい前から戦乱を逃れて来た者たちの子孫だった。大坂の陣の後にも、落ち武者たちが流れて来た。 五隻の船のうち、無事に上陸できたのは二隻だけだった。そのうちの四人が、間もなく死んだ。生き残ったのは九人だけだった。数年後にはさらに三人が、病や事故が因となり死んだ。「塩辛くて荒々しくなけりゃ、海は広くて最高なんだけどな」 私は、どうして男子は、こうしたつまらないことしか言えないのかと思っていた。夕日が綺麗だなとか、もっと何かないのかと思う。「キクエ、金太が言ってたんだけど、なんと、あの阿天様が動いたってさ」 いつも突拍子もない話を、四郎はいきなり持ち出した。私は、またかと思った。 金太は漁師だ。網元から舟を借りて漁をしている。武士の家系ではなく、先祖代々ずっと奇岩霊前島に住んでいた。歳は三十四、五で女房と赤子を含めて、四人の子供がいる。「夫婦喧嘩をして、怒鳴って家を飛び出した後、貴主堂へ入ってごろごろと寝ていたらしいんだ。しばらくして気配を感じて目を開けたら、阿天様が立っていたってさ。窓を指して、島に闇鳥が羽ばたくって呟いたらしい。何か悪い予言じゃないかって」 四郎は女子のように、さらさらと話を続けた。無限に何かが出てくる頭だと私は思った。「うちも見たいわ。阿天様が歩いたんなら。あんたみたいな懐疑的なのも信じるもんな」「俺は何があっても、麻耶様が歩いてんの見ても信じへんで」 四郎は奇跡や幽霊でさえ信じない。目に見えないことは全く信じない男だった。ご本尊様が動くという話を種に会話を続けることは難しいので、私は他に種を探していた。視界を広げて、鳥の群れか、何か面白いものはないかと思っていた。「あれ、なにかな?」 海岸に黒い大きなものが置かれている。舟でもなく、網でもない。海豚の死体というわけでもなさそうだ。しかし夕日の弱い陽射しを受けて、影のように見えた。「いこ」 私は飛び出すように、走っていった。私のあとを四郎が追い掛けてくるのが判った。「人」「人」「人」 さらに駆け寄って、しゃがんだ。波が運んで来た漂着物が、私のすぐ足元にあった。ただ黒いようにしか見えなかったが、小袖が水で湿っていたので、黒く見えていただけだった。小袖はかなり派手な朱色だった。「人魚、じゃない」 私の足元に乱れた髷が見えていた。女だ。派手な色の小袖がはっきりと見てとれた。「女、だな。色ぺぇ」 四郎は舌舐めずりをしていた。私が四郎の視線を観察していたら、女の足の先から頭まで何度も往復していた。 四郎が言ったのも頷けた。女の足は二本とも剥き出しになっていて、白い足がはっきりと見えたからだ。「人魚やったらよかったのに。食べたら美味しいねんて」 私は跳ねるような口調で囁いた。。「美味しいんと違う。不老不死になるんやってさ」 四郎が訂正してきた。「人やったら、食べられへんな」 私は人魚が食べたかった。私は思ったことをすぐに口に出してしまう。「人でも食えんことないけど。どうする?」 四郎なら人でも食うのではないかと私は思った。男衆の食欲は女子を遥かにしのぐ。四郎は私の返答を求めていた。誰かの賛同がないと、四郎は行動できないのだ。「あの小舟は、きっとこの女が乗ってきたんだ。女が海を越えて来たなんて、すごい腕前やな」 四郎は、一緒に打ち上げられていた、長さ一間半あまりの小船を指差した。「漁師の子かいな」 二人はただ感嘆していた。島への船は二隻のうち一隻しか無事では済まない。それほど奇岩霊前島の周りの海は、黒潮で危険なのだ。「とにかく、村の男衆を呼んできて、寝かせてやろうや」「派手な小袖やな? そういう商売する女、かな?」 私は独り言のように言ったが、確信があった。 島には、あまり外の様子は入ってこないが、浪人となり奇岩霊前島に渡って来た男たちが、時折、自慢話をするので、いろいろ知ることができた。今も足下で倒れている漂着した女は、男の前で踊ったり寝たりして、金を取る商いの女だと思った。「あ、あっちにもいる。あっちにも」 視界を広げてみたら、向こうのほうにも四人くらい転がっていた。私は走っていった。砂に足を飲まれながら、懸命に走った。「この人は、男、みたい」 私は慎重に砂に埋まるように倒れている男を観察していた。「落ち武者かな?」 腰には刀が二本差してあった。長刀と脇差。侍だ。袷と袴。片方の足には草履。「落ち武者は、もういないやろう。浪人か、脱藩者か。潮神様を越えて来たなんて、すごいわ。みんな尊敬するで」 四郎はまた不安そうに話した。四郎の言うことで、確かなことは、あまりない。「他にもおるかもしれん。キクエ、男衆を呼んで来い」 私は必死で走って、村へ戻っていった。男衆に平史郎が号令を懸けて、海岸へと戻って来たのは、四半刻後だった。 (二) 私の家は、岩壁で囲まれた村の東端にあった。村長の家だが、岩壁の内部は狭いので、満足できる家は建てられなかった。 それでも、五百坪はあり、立派な長屋門と垣根があり、日本庭園風の場所もあった。藩の役人が来た折に、接待をするためでもある。本土ならもっと立派な屋敷を持つ庄屋がいるので、小さいほうらしい。 大部屋が二十畳、玄関が十畳。その他に十畳が四部屋あり、台所が十畳、納戸十畳が二つ、土間十坪があった。馬はいないので場所はないが、敷地内に牛を飼っていた。主に畑を耕すためだった。奥に立派な床の間があり、部屋は襖で仕切られていた。 平史郎の湯浴みのための水を風呂釜に汲んでいた下女を眺めていた。下女の仕事が終わり、さらに竈に火を入れて湯を沸かし終えた頃、家に運び込んでいた女が、目を覚ましていた。 筵の上は腰が痛いのか、長くさすっていた。痩せぎすで、首の下の骨がぼっこりと浮き出している。 女の目から見ても、痩せすぎた肉体に色気は全然ない。餓死した亡者のようだ。女郎だから、紅を差し、派手な襦袢で客を誘えば、商いができるのだろう。「ここは、どこ?」 まだ茫洋としているようだった。遊女が男を誘う襦袢の肩を上げて、身繕いをしていた。時おり、乱れた髷を細い指で掻いては、天井を見上げて、茫洋とした顔をしていた。「奇岩霊前島だよ」 私は、すぐそばに座りながら応えた。 足の小指には畑の土がついていた。手の指で、払ったが、綺麗に取れなかった。家は弟が継ぐことになるので、四郎が網元になれるかどうか、その将来に私の一生も懸かっていた。平史郎が持参金を付けてくれれば、優雅な生活は続くだろう。 あぁ、そうだと思い直して、女を見た。すぐに物事に飽きて、違うことを夢想し始めるのが、私の悪い癖だった。「あぁ、そう。辿り着けたんやね。他の人は?」 女は紅を差したように、突然、頬を紅潮させた。よほど嬉しかったらしい。「やっぱり、あんたさんのお連れさん?」 私はさらに探るように訊いてみた。「あっちのいい人や。色々あったけど」 女は急に、がっくりとしたように項垂れた。探られたくない腹を探られた、という感じだ。 私は童女よりは年嵩だが、奇岩霊前島しか知らず、無邪気なので、容赦なく探りを入れてしまう。「もしかして男の人は、落ち武者さん?」 私は、のんびりと訊いた。「馬鹿だね。今どき落ち武者なんているわけないやん。いつの話?」 女は小馬鹿にしたように言った。私は腹が立ったので、少し睨んだ。「あたしは、ハル。京の遊女屋の年季が明けたばかりでな。あのお侍さんは詳しぅは知らんけど、浪人になったばかりらしい。訳ありのようやから、よう知らんけど。侍さんとは、遊女屋のお客と遊女として」「他の二人は?」 私はさらに探るように訊いた。新参者の素性を聞き出しておいたほうがいいと思っていた。村長の娘として、探ることが重要な任のように思えた。「他の二人も似たような感じや。売られる寸前の女と、女房のいた浪人らしいで。偶然、神社の床下で雨宿りをしていたところで出会ってな。奇岩霊前島に裕福な叔父さんがいるから行こうって。どこでもよかったんやけど、ほとんど行き当たりばったりや。何かえぇことあるかもなって感じ。遊女屋と同じ場所やったら、いろいろなしがらみがあるやろう。通っとった客が住んどったりな」「ふんふん」 私は話が面白いので、興味深々で聞き入っていた。私は暇だけはたっぷりとある、庄屋の娘だ。「うちは漁師の娘やったから、小船くらい漕げたし。台風でも漕いだことがあって、平気やった。だから、うちが漕いできたんやけど、もう少しってところで岩にぶつけたわ。腕が落ちたな」 ハルは酷使した腕をもう一方の手で、癒すように揉んでいた。「この島にいてもえぇかな」「裕福な叔父さんに引き取ってもらったらええわ。それなら置いてもらえるかも」 私には確信がなかったが、適当に応えた。もともと、あちこちから親類縁者を頼って寄ってきた浪人や野武士の子孫だ。同じような境遇なら、少々の無理は利く。 女なら後妻の口が一つ二つはあるが、約束をした男がいるなら、まずい。両方が、別々の相手と縁を持ってくれれば、村の衆も受け入れるだろう。 私は痩せぎすのハルの処遇に思いを馳せていた。「遠い親類の叔父さんな、岸田半兵衛っていうんや。確か、網元やって聞いたけど。今も息災か? 一度会って紹介されたことがあるだけや」「岸田、半兵衛? 確か、去年上方で商売するってこの島を出て行ったわ。先に行った息子に呼び寄せられてな。上手くいってたみたいやけど」 私は、ぽつりと囁いた。女郎が可哀想だとか、哀れみなどは、まだ湧いてこなかった。 平史郎が戻ってきたら、夕餉が始まるので気にしていた。下女が台所で夕餉の準備をしている音がしている。「えぇ、島におらんの。そやったら、困るわ。まだ実家の近くのほうがいいかいな。ねぇ、あんた。しばらくこの島に置いてくれへんか?」「うちに聞かれても。それを決めるのは、うちのお父はんや」 島におれるかどうかは判らんで、という意味を含んだ物言いをした。前もって言っておいたほうが、落ち込まないだろうと、ハルに言い聞かせようとしていた。「じゃ、頼んで。よろしゅう頼んで。何でもするよって」 ハルは私に全身ですがりつき、肩を揺すって懇願した。細い指や腕で掴まれ、私は恐怖さえ感じた。 蝋のような白い肌、骨と皮だけの肢体。それなのに、ハルの指先は食い込むような力があった。それはハルの生への渇望への執念ではなかと思われた。私は、まるで墓場から這い出て来た死人に捕えられたように感じた。 私は、漂流者の四人が奇岩霊前島を掻き回すような気がしていた。
2011.12.28
コメント(0)
「アテンの暁光」3(五)「阿天様にご報告や」逃げようとした四郎の小袖を掴むと、強引に貴主堂へと引っ張っていった。貴主教を嫌っている四郎は、反対に引っ張って逃れようとしていた。だが、私の強引さには勝てなかった。私を突き飛ばすほどの勇気もないようで、仕方なしに引っ張られていった。 貴主堂は和尚が死んで主のいなくなった寺に手を入れた。平史郎が村の衆を総動員して、土壁に貝の胡粉を混ぜたものを塗った。さらに褐色の瓦に、大工たちがさらに阿天の印を彫刻した。 新たに付け足した櫓に、門の脇にあった寺の鐘を吊るした。寺は太い木材で撞くのだが、平史郎は鐘に金属の錘を垂らした。それに縄を繋ぎ、下から揺すると、鐘が軽やかな音を立てた。 寺の名残の小さな薬師門を潜ると、神宮のような貴主堂があった。転がるように走って、貴主堂の前に二人は辿り着いた。屋根にも木造の大きな阿天の印があった。 貴主堂の扉は、寺のものではなく、平史郎がじきじきに考えた、重厚感のある大きな木戸だった。村の衆が総出で、壁をわざわざ壊して取り付けた。 何よりも家の木戸などと違うのは、高さが大人の身長の二人分くらいあることだ。大きめなので、宮大工の安治が念には念を入れて、鎹を取り付けていた。 大仏殿の修復の経験があるので、大きなものは初めてではないと言っていた。要領がいいので、未だに木戸はしっかりと貴主堂を護っていた。 寺には珍しい白壁を眺めながら、私は扉の取っ手に手を掛けた。両手で一気に引くと、巨大な木戸は独特の音を発して、私に道を開いた。「ほんと、変わった木戸だよな。横に引くのじゃなくて、手前に押し開くんだから」「観音様は厨子っていうのに入っているから、似てるよ。ほら、入って」 私は、四郎を強引に引っ張りこんだ。 貴主堂には小さな窓しかないのだが、いつも蝋燭が灯されていて、寺の本堂と変わらない。仏像や鈴や線香が焚かれていれば、寺に見える。 しかし、はっきりと違っていたのは、堂の奥には縦長の棒と少し短い横棒が交わった印が、天井近くからいくつもあり、それは壁が刳り抜かれていて、障子が張られていた。 お天道様が出ていれば、阿天様のお印の形に日差しが堂内に飛び込んでくる。お天道様の光は、床にくっきりとした刻印を残していた。そのお天道様の描き出す文様は、まるで一流の絵師の手になる小袖のように美しく、私は、しばらく見とれていた。 私たちの視界にある奇妙な窓の前には、大人二人分くらいの丈の阿天様の像がある。その脇には、観音のような姿の摩耶様の像がある。京の大きな寺には、数多くの仏様や菩薩さまが安置されているらしいので、まだ少ないほうだ。 阿天様のお印と同じ形の窓と阿天像の前には、貴主経典を置いて平史郎が読上げるための舞台があるだけだ。舞台は三段になっていて、一番高い場所には経典を置く経机と見台がある。「おい、さっさと済まそうや」「あんたは色気がないな。綺麗なものに見とれるとかいう品格がないの?」 私が小馬鹿にすると四郎は、顔を歪めて鼻を鳴らした。口では女子に敵わないので、いつも態度や歪めた顔で訴えてくる。私はそういう男の扱いには、すでに慣れていたので、私も鼻を鳴らしてあしらっていた。「阿天様の前で、跪いて手を合わせて」 私は目配せで四郎に命令した。四郎は無駄な抵抗もせずに、素直に従った。 小袖の裾を持ち上げて、二人で膝をついた。手のひらを合わせて、阿天像を見た。「よう。神様、ごきげんよう」「四郎、ふざけないで。バチが当たるよ」 私はすぐに四郎を諫めた。すぐに男衆はふざける。何でもからかうように面白がる様子が、私は苦手だった。私に対しても、いつもそうで、頬を叩いてやろうかと思う時もあった。私はおきゃんだが、長子なので真面目すぎるところがあった。 阿天像は髪は螺髪ではなく、緩やかにくねる髪が首元で纏め上げられていた。衣装は仏像と似ていて、布を巻いたようだ。 手の印相は、左手が与願印で、右手は施無畏印だ。皆の願いを叶えようという意味だ。 貴主教の本尊は仏の姿と同じだった。仏像のように蓮の花の中心に座していた。天井には寺だったときには、竜や花などの京の絵師に描かせたという絵で飾られていたが、新しい細密画は見たことのない風俗の人が踊っていた。細密画を京の絵師に作らせたのは、平史郎だった。 小袖の花柄のようなお天道さまの光を背負った阿天様は、最上の仏様だと思っていた。「長々とした経を唱えなくても、経典を読んで神の言葉を理解し、精進すればいいんや。そうすれば、暖かい眼差しの導きを貰えるんや」 私の物言いは、誰の意見をもってしても、覆すことはできないようであった。四郎は騒動は困ると思ったのか、何も言わなくなった。「どうぞ、この村が、いつまでも平和でありますように」 四郎は叱られるのが嫌なので、仕方なく私と同じような言葉を呟いた。「どうぞ、この村が、いつまでも平和でありますように」 念を押すように祈ると、立ち上がって自身が信じる神の顔を見た。 阿天の印相は(願いを叶えよう)という意味なのだ。私は自分の祈りを、大らかな心で聞き届けてくれただろうかと思った。しかし、懸命に声を掛けたところで、阿天像が応えるわけはない。「阿天さま。摩耶さま。どうかどうか、お聞き届け下さい」 初めての大冒険を前にしても、怯えはなかった。血に塗れた戦乱に比べれば、本土に上陸することなど大した冒険ではない。そう考えたら、さらに軽い心持になった。「あれ、あれ見て、四郎」「どこや? 何や?」 私は指を指して四郎が判るようにした。懸命に指を差したが、薄暗い堂内で、すぐには見つけられないようだった。 「あれだよ。摩耶様の像が泣いている」「えぇ」 四郎は目に見えているそのものが信じられないようだった。「もしかして涙? 摩耶様が泣いているのか?」「そや、あんたみたいな不信心者がいるから、悲しいて泣いてるんや」 私は四郎を諭すように言った。「まさか?」 四郎は白い陶器で作られた摩耶様をじっと見ていた。これは、奇岩霊前島に流れて来た新三郎が、大坂冬の陣の後でいつ終るとも判らぬ戦に嫌気が差し、落ち延びるようにして逃げた。平史郎によると心身を病んだのが主な因らしい。家族を連れて奇岩霊前島を目指した。像はしっかりと背中に括り付けて持ってきたものだった。妻子は奇岩霊前島に辿り着く前に相次いで病死し、新三郎は孤独になった。その後、奇岩霊前島で妻を持った。「四郎、摩耶様を信用した?」「え、いや。きっと偶然や」「やっぱり、あんたは、不信者やな。阿天様が護ってくれへんよ」 私は、四郎の改心ができなかったことを残念に思った。この島の者は三十年以上も掛けてじっくりと貴主教に信心してきた寺の和尚が死んでからは、ほとんどが貴主教を信じていた。 しかし若い者の中には、そういった新しい宗教に不信を感じ、参拝を嫌がっていた。そうでなくとも、侍の血脈を受け継ぐ若い者たちは、神仏に縋ることを軟弱だとして良しとしないものだ。「あ、私。お前」「え?」「ひたい、額に阿天の印が浮いてる」「叔父さんが、いうとった。熱心な信者には、そういうことがあるねんて。ほら、ここにも」 私が両の手のひらを見せると、そこには阿天の印の形が浮き出ていた。「あぁ」四郎は腰を抜かしたかのような声を上げた。「うちは熱心な信者やから、阿天様がお印を下さったんや」 四郎は驚きが過ぎたようで、喉が詰まって何も言わなかった。
2011.12.28
コメント(0)
「アテンの暁光」2 先生の厳しい指摘で、くるくると設定が変わっていきました。 適当に場所などを設定すると、それに縛られるので大変でした。 作家の家族は作家デビューが約束されているらしいので、 玄孫まででも、100年先までデビュー待ち? (三) 平史郎が促したので、続いて洞窟を出た。 堅苦しい平史郎の儀式に、肩の凝りをほぐすように、手で揉んだ。肩をぐるぐると回して、一息ついた。 草履に洞窟の地蟲がついていたので、慌てて足を振った。そうしたら、ぽぽとぽとと落ちて、日差しを避けようと日陰を求めて焦っていた。私はそれが面白くて、足でつついていた。 四郎を見ると、任が重いと感じているのか、まだぼんやりとした顔をしている。洞窟を出て陽光を浴びると、少しはっとしたような顔をした。四郎らしい反応だったので、私はそうだろうなといった思いでいた。 どうせ村役人の手先だ。大したことはない。することなど、ありはしないだろう。勿体付けた儀式などを平史朗がするから、四郎はこうも緊張するのだ。まだ半人前。私にはそうとしか思えなかった。 平史郎は洞窟を出たとたんに、一気に厳粛な面持ちはなく、にやけた顔になっていた。 酒を飲めば、すぐに猿のような顔になる、ただの百姓だ。儀式を行った村長の顔は、すでにない。「お父はんは、いつもそうや。いつもいつも、汚いことは人に任せる」 私は、ここぞとばかりに、平史郎に愚痴った。 いつも女子は家や家長に跪いて生きているのだ。右に向けと言われれば、素直に愛嬌を持って向かなくてはならない。「嫌なら、止めてもえぇんやぞ。女子に任を与えてやったというのに」 だから藩目付に上申するほどでもない軽微な騒動の解決に、働き手の男たちを駆り出すほどもない、まだ未熟な私や四郎にやらせておけということなのだ。 思い返してみれば、前任の三郎太も畑の野菜がやられたとき、病気の因を突き止めろと命じられていた。苦虫を噛み潰した顔をしながら、すっかり枯れ果てた畑の畝に這いつくばっていた。 大の大人であったから、あんな惨めな姿で、植物の医者のような探索をさせられたことは、いかに屈辱的であっただろうと、私は思った。 きっと平史郎にも、散々に文句も言ったことだろう。 馬鹿にされているようで、私は腹を立てた。だが、平史郎が一旦そうと決めた決定を易々と覆すことはないと知っていた。 ここは引いて、枷のような任を引き受けようと思った。わずかな権力を得ることができるし、ヒマも潰せるからだ。「お前たちは、わしの密偵である。他言は無用だ」 集会で決めるのなら、女子に任を与えるなどあり得なかったことだろう。とにかく形式だけの任に、働き盛りの男衆たちを使いたくはないのだ。 私には平史郎の思考を察することができた。密偵などと勿体付けているのは、秘検を任命する村長としての立場に威厳を持たせたいだけだ。私は手に取るように平史郎の企みが見えたので、腹の中で笑っていた。「お前、どうした?」 四郎が私をじっと見ているので、私は、はっと思って自分の右手を見た。なんと手の甲に、じっとりとした血が滲み出ていた。赤いので血だと思っただけだ。「どこで怪我したんや?」 妙に四郎が優しい。天変地異がやって来るのではないかと案じたくらいだ。「別に、怪我なんてしてないわ」 私は何度も手をひっくり返したり、舐めたりして確かめた。しかし、全く痛みはなかった。「痛くないし」「なんだか阿天の印みたいだな」 阿天とは、この島の信仰、貴主教の本尊だ。百済から渡来してきた仏法と変わりはない。「ヒトデみたいな形や。あ、両手みたいやな」 私は左手の甲にも同じような形の傷があることに気づいた。「こっちにもあるわ。両方切ったんかな」「俺が看てやるよ。ぺっぺ」 四郎は、いきなり私の両手の甲に唾を吐いた。「汚い」「消毒や。酒、ないしな」 怪我をしたらすぐに酒を口に含んで、吹きかけるのだ。そうすると傷についた悪いものが取れて、悪化しにくいらしい。 四郎は胸元から小汚い布着れを取り出すと、さっさと細長く裂いて、私の傷に巻きつけた。「検蛇の影みたいな任やけど、二人で精進しような」「そう、やな」 相槌を打った。愛想のない物言いだったので、しまったと思った。もう少し心が要るだろうか。「いずれ、俺も検蛇か、網元になりたいわ。漁で稼いで、自分の船を持つんや。そうしたら、網元になれるし、家も持てる」「ま、頑張ってな」 私は、口先だけの応援をした。嫌いだからはなく、複雑な乙女心で、本気で四郎を励ますことができなかった。照れくさいのか、女子であることが悔しいのか。 男子として見ていないわけでもない。婿を考えたら、四郎の顔しか浮かんでこない。 四郎は網元の四男だが、上三人の兄弟は死んでいる。跡継ぎだが格下の網元の家なので豊かにはなれないだろうが、何とかなるだろう。けれど、口先だけでも(うちが嫁になってやる)とは言えなかった。 私は、初めて四郎が大人に見えた。なんだか胸がむずむずとしてきた。 妙な胸騒ぎを振り切るように、頭を振った。いずれ、この若者に自分の人生を託すことがあるのだろうか。 (四) 私は村を囲む岩壁を眺め、その隙間へと落ちてきたような空を眺めていた。 岩壁に時折ふっと空いている隙間からは、空と海が見えた。私がいつも目を留める穴には、どこかの国まで続く青い水が広がっていた。 堅苦しい島。閉じ込められたような息苦しさ。ここは、庄屋にある牢のような、目に見えぬ壁があるのだ。 一層のこと、平史郎が言ったように、阿波かどこかに嫁にでも行ってしまおうかと思ったこともある。奇岩霊前島から出られるのなら、そのほうがいい。四郎も何もかも振り切って、飛んでいこうか。「阿天様に、秘検に任命されたことを報告しよう。今年の豊かな実りや、海の平安を祈るんや」 私は悩むのが嫌いだ。暗くなるので振り切るように四郎を促した。「お前だけ行けばいい。俺は阿天様を信用できへん。祈っても、きっと聞いてないわ」 私の幼馴染は、この島の唯一の信仰の対象である、貴主教を信じていなかった。「そんなことは絶対ないわ」 四郎は思ったことを、すぐに口にする若者だった。年は十六歳。私も十六歳。四郎は四男であった。 どちらにしても奇岩霊前島では、漁師も百姓も、協力し合わなければ生きていけない。どの階級の者も、毎日の糧を得るために漁に出たり、畑の手入れをしている。「観音さまや菩薩に祈っていればいいのに」「阿天さまは理想の仏さまや。うちらにきっと自由を下さるし、護ってくださるわ」 私がいくら天空仏阿天の教えを話して聞かせても、いつも四郎は欠伸で返してくる。数えただけでも、四郎は六回も欠伸をした。「あの人の悪い影響や。新三郎が戻ってきてから、この村はおかしくなった」 ぽつりと四郎が呟いた。「田村の大叔父さんのこと? 仕えていた主君の高山右近の影響を受けて、貴主教を信仰なさったんや。うちらも、大叔父さんが力強く貴主経典の話をしてたから、阿天様こそ、うちらの仏様やって思ったんや」 貴主教を持ち込んで来たのは、宣教師から密かに洗礼を受けた主に仕えていた、母親の叔父だった。主を失った後も信仰を持ち続けていて、落ち武者のように奇岩霊前島に流れて来た時に、村の衆にも信仰を勧めたらしい。 ちょうど寺の住職が死んだばかりだったので、住職のように説教や阿天様の聖典を読んで聞かせているうちに、村の衆たちも傾倒していったのだ。仏と同じようなものなら、それにしようという感じであったのだろう。 みんな単純だった。何でもいいのだ。死んだ者を墓に葬った時に、経を読む者がいればいい。島に平安を、家には福をもたらしてくれればいい。極楽浄土に送ってくれる者がいればいい。そんな感じだった。 私は、四郎の抗議に対して、いつもの問答だなと思いながら、付き合っている。「貴主教って、変わってるよ。お経を唱えないし、坊さんもいない。坊さん代わりのキクエの親父さんが、貴主経典に書かれた言葉を読み上げるだけだ。木魚もないし、線香も鈴も高炉もない。貴主堂にあるのは、大きな仁王像のような阿天様だけだ。隣には摩耶様っていう小さな観音様みたいな像もあるし。それに、いつも聖典の話を聞いて、手を合わせているだけ」 ここ三十年で訪れた村の変化への疑問を、四郎は私にぶつけた。「昔は和尚がいる寺があったと聞いたことがあるけど。坊さんが死んだ頃に、ちょうどキクエの大叔父さんが、貴主教を持ち込んで来たって」「そんなこと、どうでもいいんや。阿天さまがいれば、うちらは護られて、導かれるんや」 私の高音の声がよく響いていた。四郎は顔を顰めた。女子との問答は勝ち目がないといった顔だ。「男か女かわからないような、妙な顔だし」 私の信仰は揺るぎがなく、何を言っても巧みに躱してくる。「あの経典の言葉に癒されるんや。あの阿天様の言葉には、うちらが生きていく上で大切なことを教えてくれるんや」「そっかな。長々とした説教を聞いていると、眠くなる。経も眠いけどな。どちらも俺にはかったるいわ」 平史郎は、農作業が落ち着いた刻限になると、村の衆を貴主堂に集めて、経典を読上げるのだ。 貴主教を村の外から持ち込んで来た、新三郎は、すでに六十を過ぎてはいるが、平史郎の言葉を大声で繰り返す。 貴主堂は天井が高く、声がかなり響く。その屋根の上には、村の外で朽ちていた寺から持ってきた鐘が居座っていた。平史郎がこの鐘へと伸びた縄を揺すって、村の衆を集めるのだ。 鐘の音は、寺の鐘とは違い妙に甲高く、村をぐるりと囲んでいる絶壁の中で、さらに共鳴して響く。「俺は、あの鐘の音が好かんわ。頭の中を掻き回されてるみたいやからな。まだ、ゴーンのほうがええわ」 四郎は耳の穴をほじくって、音が嫌いであると私に示していた。私は阿天様に届くいい音だと思っていたが、四郎は嫌いらしい。「うちは好き。阿天様の耳元へ届いているようだから。阿天様をお呼びするための大切な鐘なんや」 私は、ぼうっと空を見て、両の手の平を合わせた。「あほらし。俺は、いつか奇岩霊前島を出て行くからな。ここにおったら、おかしくなる。この絶壁の外へ出るのは、漁や畑の手入れの時だけだ」
2011.12.28
コメント(0)
『阿天の暁光』 二作目の時代物です。先生に時代考証で色々言われました。 直しているうちに、どんどん違う場所に行き、プロットと全く違った 最後に(笑)先生も大手から出してないので、選考基準とか知らなさそう。 投稿するなら、ボランティア精神が要りますわん。 業界通になってから、投稿したほうがいいですよ。本を買わないでも、 タダのがあるからいいですよね。 第一章 潮神の島 (一) ここ奇岩霊前島には、乱はなかった。陸と切り離された奇岩霊前島の記録によれば、時は寛永十七年(一六四〇)。 しかし、そういう地理でさえ、私――仲代キクエには必要ではなかった。この島は潮神が支配しており、せいぜい三隻に一隻しか海を越えられないからだ。 それでも、岸辺の潮が緩やかな場所では、春から夏にかけて、海が神秘的に光ることがある。青白く仄かな光だ。海中から足元を照らすようにして輝く。私はその時期が一番好きだった。 この奇岩霊前島の特徴と言えば、島の中央部に村を取り囲むように三十四丈強ほどの岩の壁があり、崖の周りに、畑や田圃が作られていたことだ。 私と幼馴染の高島一郎高宗は、村長の仲代平史郎道隆に、秘密裏に洞窟に呼び出されていた。もちろん、小さな島の村なので、年が近い者は、すべて幼馴染になる。 平史郎は、私の父親であり、庄屋であった。 任命には村の誰も同席せず、密かにことが運ばれていた。「おとうはん、一郎と二人だけ呼び出して、何するん? どうせ、ろくな用やないやろ」 私はいつものように歯に衣着せぬ物言いで言った。大人が呼び出す時は、いつも手伝いなど雑用ばかりだ。「ま、いいけど。ここでは薪割りも女子の仕事や。お嬢様でも、嵐の時は船を上げるのにこき使われるし。薪で大の男の一人や二人は、殴れるわ」 腕を捲り上げて、太くなった腕を見せた。 人手が少ないが、仕事だけはたんとある奇岩霊前島の生活。私でも襷掛けをして、非常時には男並みの仕事をこなしてきた。 童女でさえも、朝から洗濯など情け容赦のない子供時代を送る。大人は、畑の手入れを少々と漁。童子とて、ただ走り回っていればいい、というものではない。動ける者は、赤子以外は使われる。「今日は、もっと真摯な用事じゃ。キクエは黙っておれ」 村長の威厳のために、平史郎は怒鳴った。いつものことなので、私は耳を掻いた。「高島四郎高宗、潮神の代理として、わし仲代平史郎道隆が、お前を第十四代目の秘検に任ずる。心してお役を果たせ」 ちょうど秘検の三郎太が病死し、空きができていた。 「四郎が、秘検?」 一緒に呼ばれていた私は、驚いていた。 四郎は、幼馴染だったが、秘検に任じられるほどの男とは思っていなかった。私の中では弟となんら変わりがない、頼りない男子のように思えていた。 まだ子供のような感覚で生きていたのだが、そういう歳に、四郎も私もなったのだ。 秘検とは、犯人や原因が明確でない事件や騒動を、独自に探索するのが任務だ。同時に、探索の結果を長に報告することで、村長が検蛇の捕物が正当に行われたかの判断材料にする。 また、検蛇とは、村長が任命し、男衆たちが承認する、この島独自の捕方だった。秘検は、村役人である村長が任命するだけの直轄の隠密だ。 といっても、この仰々しい儀式は、若者に村の衆としての自覚を持たせるためだけに行われる。秘検は、大した任ではないのだ。 父親の平史郎でさえ、本当に村長の任をきちんと果たしているのかと思っていたくらいだ。もしも男だったら、二人を越えた働きができる自信があった。 秘検は所詮は検蛇の影で、あくまでも日陰の存在だった。滅多にないことだが、藩目付へ上申するまでの探索は、村の男衆が承認した検蛇がする。 だが、検蛇も藩目付の影で、捕方組織の最下層ということになる。船を持ち、網子を使う網元も村役人で、庄屋を補佐する。 庄屋と網元は、主に村の管理を任せている地方手代の手下として、若衆を検蛇や秘検に任じ、地方手代が上申書を書くための証拠や検証を任せていた。 秘検や検蛇の任は雑務的な調べをやらせるためでもあるし、無茶をしがちな若者に役に任じられることで元服前に、道徳心や達成感を学んでほしいという年長者の思いがあったのだろう。 道徳心を教書によってではなく、実務をもって学ばせようという魂胆なのだった。つまり大した権力などはなく、教育的な見地で村独自の思惑で仕立てられた任だった。 村を息災に治めたいと願う長老たちにとっては、この熱い思いをわかってくれということなのだろう。 だが、若衆たちにとっては、枷を嵌められることとなんら変わりがなかった。 身分や権力も持つことができるが、ありがた迷惑でもあった。若い時代という貴重な時期を、仏のように陰忍自重な様で過ごすことを強いられるのだ。 (二)「跪いて、この島の潮神に忠誠を誓え」 私が任について思いを巡らしていると、平史郎がまた仰々しい物言いをした。「年寄り」は儀式めいたことが好きなのだ。こうして儀式に仕立てないと、平史郎の、村長の威厳が音をたてて壊れると思い込んでいる。私は平史郎の思惑が読めたので、腹の花で笑っていた。 四郎が狐に抓まれたような顔をして、跪いていた。「キクエ、お前もじゃ」 ぼうっとしていると、怒鳴られた。私は「はい」と、しぶしぶ跪いた。小袖を引っ張って、足が見えないように膝を整える。 ここは一応しおらしくしていよう。すぐに雷を落としてくるのは、男子のやり方だ。「よし」 洞内で共鳴している声は耳に痛い。私は刀で斬られるのではないかと思った。 すると平史郎は、普段は床の間に飾ってあるだけだった刀を腰の鞘から抜き、四郎の頭上に掲げた。「高島四郎高宗、お前はこの奇岩霊前島で生まれ育った。そのことを誇りに思え。潮神と阿天のご加護が、お前を護って下さるだろう」 鋭い音と鈍い輝きで、私と四郎の頭上で君臨していた。こうして、平史郎は四郎を秘検に任じた。「潮神様に誓って秘検の任を謹んでお受けいたします。今後も不撓不屈の精神で秘検の任に精進致します。秘検の名を汚さぬよう、不惜身命を貫きます」 四郎がらしかぬことを言ったので、私は仰天した。噴出しそうなるのを押さえた。よくも小難しい言葉を知っていたなと思った。出所は唐か何かの書物だろう。「キクエ、潮神の代理として、お前を秘検の助に任じる」「はい?」と私は間が抜けた声を上げた。「女子でも構わん。大の男には、生業がある。人手不足だし、お前が四郎と一緒に動け」 私は、この島の誰かを自分の手で、罪人にしなければならないのかと案じていた。しかし、盗みでも夫婦喧嘩でも、怪我を負わせれば、この島でも処罰されるのだ。「別に罪人を無理に作ることは、せんでいい。秘検としてふさわしい仕事をすればよい」 平史郎は面倒になるので、いつも詳細を誤魔化す。そうして、いつもいい人、村長としてふさわしい人の体面を保とうとしていた。身分や品格を汚すような言動は一切しない。「こら、キクエ、お前も潮神様に祈れ」「わたしには、阿天さまがいるから」「潮神様は海の神じゃ。船の安全を護り、海の幸を与えて下さる、ありがたい神様じゃ。阿天さまとは統べる場所が違うのじゃ」「もっと穏やかな海にしてくれれば、もっと感謝したのに」「なんじゃ? 口答えはお前の悪いくせじゃ。女子なら、もっとしおらしくしておれ」 雷がまた落ちた。慣れているので、私には雨のようにしか感じない。臓物に毛が生えているのだ。度胸だけは、男子以上だった。「まったく、嫁には行けんぞ、お前は。いっそ、島の外にでも放り出すか」「あ、それでもいいわ。外に出てみたかったんや」 私は売られた喧嘩を買うように、平史郎に言った。私の口は、減ることがなかった。「海へ出た船が全部、無事に阿波に着くんなら、行ってもいいわ」「早よう、誓え。夕餉が近い」 腹を減らしていた平史郎は、気が短くなっていた。猛犬のように吼えていた。私は面白くなってきたので、もっとからかいたくなった。「はいはい。潮神様、今日、秘検の助に任じられました。誠心誠意、勤めさせて頂きますです」 私は面倒くさくなって、口先だけで誓った。どうせ潮神様は洞窟にはいないだろう。潮神様に誓わせるなら、もっと海辺で任命の儀式をするべきだったのだ。
2011.12.28
コメント(0)
全14件 (14件中 1-14件目)
1