★スーパーマン★好きだ★ 0
プロット「イケメン」 0
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美緒は放課後に張り切って、問題児たちの溜り場になっている屋上に向かった。屋上からは部活動に励む生徒たちのかけ声が聞こえる。高校生たちの群れる学校らしい、さわやかな喧騒だった。 放課後なのに屋上にはまだ何人かの男女が死角になっているところで、しゃがんでタバコをふかしていた。階段を昇ってきた美緒に気付いた彼らはすばやく足でもみ消すと、その吸い殻まで指で拾って小さなカンに入れて隠した。美緒は彼らと友達になろうという、豆粒のような度胸にムチ打って歩み寄った。が美緒は目の前まできて、下をむいてしまった。その微細な度胸が異種の人類に声をかけるという大事を前に、いとも簡単に縮みあがってしまったのだ。その間に彼らは蜘の子を散らすように彼女をおいていってしまった。彼女の前には一人の生徒だけが残された。「あ、あのもしよかったらあたしと、あたしとお友達になりませんか?」「友達ぃ?」頭のはるか頭上で声がした。 美緒が顔をやっとの思いであげると、そこには頬に無数のキズをつけた長身の生徒が、彼しか持ちえない独特の存在感をオーラのようにくゆらせていた。まぶしいまでの赤い髪が陽光にすけ、緊張でしばたたく瞳孔に差し込んでくる。(優しい問題児) 美緒はあの時のヒーローを目の前にして感動したが、そのホオには何本も刻まれた異様なキズがあった。キズはすっかり固まり、血液のドームとなって盛り上がっていた。でもその悪魔が描いたような傷跡をさしひいてよく見ると、くっきりとした形のいい瞳だ。まっすぐに伸びた鼻梁にしっかりとしまった口元で、彼はなかなか姿のよい男だった。 濃い紺の学校の規定のジャケットを着てはいるが、タイはかなり緩めていて、美緒からみるとかなりだらしない。 髪の色も朝見たとおり筆で丁寧に描いたように朱色に染まって後に流されていた。その長身と彫刻されたような顔で、彼は鉄製のてすりに半身をまかせ美緒の前に立っていた。そんな男の顔に間近で見下ろされて、美緒は足がすくんでしまった。 彼女は目的の男女が逃げてしまい、ひとりでいた彼に代わってい たことを今になって気づいた。 女の子のフリョウと友達になろうと決めてやってきたのに、顔を合わせられなくて失敗してしまった。前にいるのは傷だらけだが、朝から善行ができる奇妙な問題児だ。 しかしいまさら彼を避けてきびすを返して、引き返す勇気もなかった。気になる存在になり初めた男と視線を合わせて、話すことなどできやしない。彼の視野に入り二人の緊迫した視線が接触するだけで、はじけてしまいそうだ。「あ、あ、あたしお友達になりたいんです。あなたとお友達になって自分を変えたいんです。このままじゃ石のようにお堅い女で終わってしまって、彼氏だってできないような気がするんです!」「あ、じゃあ、自分を変えたいなら、まずショジョ捨てれば?」「えっ?」「そうすれば頭のやわらかい女になれるぜ」「なんなら俺が相手になってやるけど」「あ、いえ、あの、やっぱりこーいうことには順番が・・・・・」 彼は勝ち誇ったような笑みを浮かべて、その赤い髪をかきあげた。 髪は豊かに後方に流れ、深紅の帳を描きだす。「ふん、まだショジョか」「・・・・・・いくじなし」「・・・・・・!」 処女がバレ、予想もしなかった展開になって、羞恥心で美緒の心筋は硬直し化石になってしまったようになった。これも一種のカルチャーショックなのかもしれなかった。
2007.01.29
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昼休みわずかなヒマを利用して、高島美緒は本を返しに図書館へ向かった。親友のヨシは食堂に居残って、女性誌で流行をチェックしている。鼻の上には愛用の眼鏡がぶらさがっていた。邪魔だがなければ生きていけないほど、美緒にとっては必要なものだった。何気なく校舎の窓から中庭を見下ろすと、あの氷上が噴水を囲むガーデンチェアに腰掛けていた。斜め上から見ても彼の姿は目立つので、美緒のほかにも数人の女子生徒が近くのベンチに座って氷上を眺めていた。長身のうえに雑誌の物真似のようなファッションで身を固めていれば、いやがうえでも人目に付く。彼は眺められることをゲームのように楽しんでいるようにも見えた。「氷上さん」急遽、図書館へゆくのをやめた美緒はこの目立ちたがり屋の刑事の前に現われた。「やぁ、高島美緒さん。ぼくのお気にいりだ」「冗談はやめてください。でも今日はあなたにいいものあげようと思って。これです」 美緒は飯田が書いたメモを差し出した。警察も把握できなかった母親と関わりのあった人物たちの名が記されている。「これは~っと? なんだね?」「この人たちを調べてください。みんなお母さんにお金を借りていたりしていた人たちです。警察の知らない動機があります」「どうしたんだ、君は自殺だって言い張っていただろう? 落ちていた刃物を家のなくなったナイフに似ているといったのも、君じゃないか?」「あ、あれはたぶん数ヵ月前から見なくなったナイフに、なんとなく似てるなって思っただけで。あたし、あなたに一方的に容疑者にされているのが我慢できないんです。だからあたし以外にもお母さんを恨んでいた人がたくさんいるって、証明したかったんです」「ああ、確かにね。自殺と捜査結果が出たんで、隠された動機を洗わなかった人物ばかり並んでいるね。教頭に関しては校長と一緒に高島先生と口論していたっていう証言だけだった。指導法について話し合うことは別に特別なことじゃないから、深く動機を探らなかった。ありがと。参考にさせてもらうよ。それで君の容疑が晴れればいいがね」「お母さんは、自殺です。絶対です。発作的な自殺なんです。あたし今が大切なときなんです。お母さんの期待にこたえるためにも、受験勉強に集中したいんです。これ以上邪魔をしないで!」 氷上はメモを受け取ると、その整った顔の鼻先で笑った。整然とした容貌のその微笑みは、美緒を冥府へと連れ去るようだった。「君のことをもっと知りたいな。君の過去、知能、幼児の頃や小学校の頃のこと。交友関係、趣味に人格。すべての資料を手に入れたい」ヒザまで冷気があがってくるのを美緒は感じていた。「高島先生はトラブルをたくさん抱えていたよ。知ってるかい? 容疑者はこの学園中にいる。いやこの学園そのものが、容疑者なのかもしれない」 美緒は(ムカついて)いた。従順で地味な彼女がこんな汚い感情を持つことは稀だ。それでも彼女はあの氷上刑事に(ムカついて)いた。警視庁に人権蹂躙で訴えてやりたい心境だった。 それでも平穏な青春を過ごすために、爆発しそうな怒りを圧し殺したまま自分の生活に戻った。いや戻ろうとした。しばらくは氷上などこの世には存在しないかのように、記憶から消し去ることが賢明だった。
2007.01.29
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職員室はいわば象牙の塔である。学生たちとの確執を離れて、教師たちが自分たちの聖域を守るために存在する。古き良き時代には学生たちが入室するときはノックをして、丁寧に頭をたれ、心からでなくともそれなりに教師に対して敬意を払ったものだ。しかし今は友達感覚で両者の関係はなりたっている。それでも美緒は職員室へ入るときは、体が縮むような恐れを感じたものだ。それは歯医者の予約時間に向かう、その時に似ていた。この恐怖は彼女の肢体にカビの胞子のように巣くっていた。母親の影響かもしれない。教師の母親を恐れ、敬意を払いずっと生きてきた。その感情は職員室のドアに手をかける度に、美緒の内界に誕生していた。思い切って中に入ると、教師たちは部活動のために出ていて今なら秘密の話でも何でも可能だった。運のいいことに美緒が最初に会いたかった物理の教師の飯田がいた。確かパチンコの負けがこんでいて、母親が金を貸していたらしい。「借金? たしかに高島先生に借りてたけど、もう返したんだよ。あれって自殺でかたついただろ? どうして君がそんなこと聞いてくるの? 昨日も刑事がきいてきたよ」 美緒は母親の芳子から借金をしていたという、「氷上って刑事さんですか?」「たしかそうだっけな。何度も何度も事情聴取されてさ、もうやめてくれってカンジだよ。高島くん、君探偵ごっこでもやってるの?そんなヒマないだろう、高島先生のためにも受験勉強したほうがいいだろう。あの人は教育熱心だったからな」「はい、そのつもりです。お母さんは自殺だと思います。あの、お母さんは他の先生にもお金貸してたんですか?」「たぶんね」そういうとメモ用紙を取り出して、ペンを走らせた。書かれているのは教師たちの名前だった。「君が高島先生の娘だから教えてあげるけど、彼女から金を借りていたのは俺だけじゃないんだ。警察が把握できなかったことは、たくさんあるよ。一人一人隔離して話を聞いても、みんな関わりあいになりたくないし、先生は自殺が濃厚だったから余計なことは言ってないよ。ここに書いてある者は、金を借りていた。あの人は堅実な人で貯めこんでいたから、頼み込む教師は多かったよ」「きょ、教頭先生も!」飯田は指をたててしーっといった仕草をした。職員室にはあと3人の教師たちがいた。みな採点やコンピューターでの文書作成など、自分の世界に没頭していた。「そうだよ、あの人は先物取引で失敗したんだ。しかも浮気がバレ奥さんに離婚を迫られ、その慰謝料で四苦八苦して高島さんに借りたんだ。返済してたけど退職金で残金を返すっていってたから、まだ残ってるんじゃないかな。あの人が自殺したのをいいことに、踏み倒す気かもな。聞いてみたほうがいいよ」 人は見掛けに寄らないとはこのことだろう。母親に負けずとも劣らないあの品行方正の教頭が、金に困っていた。大人社会は謎に満ちていた。「はい。この工藤先生もお金を借りていたんですか?」「あ、その先生は職員室でテレクラに電話してて、人妻と話してた。学校のコンピューターでアダルトサイト見てたりして、それを高島先生に見られたんだよな。ちょっとのぞいてみただけなのに、不良教師はやめさせてくださいって校長に直談判したんで、恨んでたよ。俺はもう出世できないって。教師だって社会勉強は必要だろ? なのにあの人はたった一度の過ちも許さないんだから、ひどいよな」「先生も出世したいんですか?」「当たり前だよ、主任や教頭はては校長になりたいよ」「学生たちに知識だけでなく、人間としての生き方を教えたいとかいう目標もあるんですか?」「痛いとこついてきたね。それは青春の妄想さ。現実的には安定してるし、親が教師になれって言ったからっていう理由の方が多いよ。優等生で生きてきたから、自分は教師になるべきだと思いこんでいるのとかさ。高島だって、母親が教師だからなるんだろ? 代々教師家系だからなったっていうのも、やっぱり多いよな」「ち、違います。あたしには理想があるんです」「理想なんて、今のあのガキたちに通じるかい? 教師を尊敬なんかしてないし、自分たちがいま楽しむことばかり考えている。世界は自分を中心にまわってると思っているよ。そんな生徒たちに念仏唱え たってムダってことさ。悪いことはいわないよ、もっと別の仕事を選んだ方がいい」
2007.01.29
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★投稿した小説「聖母たちの棺」(6)★(一部割愛) 大昔に投稿した作品なので、誤字脱字以外はご容赦下さい。「氷上さん?」急遽、図書館へゆくのをやめた美緒はこの目立ちたがり屋の刑事の前に現われた。「やぁ、高島美緒さん。ぼくのお気にいりだ」「冗談はやめてください。でも今日はあなたにいいものあげようと思って。これです」 美緒は飯田が書いたメモを差し出した。警察も把握できなかった母親と関わりのあった人物たちの名が記されている。「これは~っと? なんだね?」「この人たちを調べてください。みんなお母さんにお金を借りていたりしていた人たちです。警察の知らない動機があります」「どうしたんだ、君は自殺だって言い張っていただろう? 落ちていた刃物を家のなくなったナイフに似ているといったのも、君じゃないか?」「あ、あれはたぶん数ヵ月前から見なくなったナイフに、なんとなく似てるなって思っただけで。あたし、あなたに一方的に容疑者にされているのが我慢できないんです。だからあたし以外にもお母さんを恨んでいた人がたくさんいるって、証明したかったんです」「ああ、確かにね。自殺と捜査結果が出たんで、隠された動機を洗わなかった人物ばかり並んでいるね。教頭に関しては校長と一緒に高島先生と口論していたっていう証言だけだった。指導法について話し合うことは別に特別なことじゃないから、深く動機を探らなかった。ありがと。参考にさせてもらうよ。それで君の容疑が晴れればいいがね」「お母さんは、自殺です。絶対です。発作的な自殺なんです。あたし今が大切なときなんです。お母さんの期待にこたえるためにも、受験勉強に集中したいんです。これ以上邪魔をしないで!」 氷上はメモを受け取ると、その整った顔の鼻先で笑った。整然とした容貌のその微笑みは、美緒を冥府へと連れ去るようだった。「君のことをもっと知りたいな。君の過去、知能、幼児の頃や小学校の頃のこと。交友関係、趣味に人格。すべての資料を手に入れたい」ヒザまで冷気があがってくるのを美緒は感じていた。「高島先生はトラブルをたくさん抱えていたよ。知ってるかい? 容疑者はこの学園中にいる。いやこの学園そのものが、容疑者なのかもしれない」 美緒は(ムカついて)いた。従順で地味な彼女がこんな汚い感情を持つことは稀だ。それでも彼女はあの氷上刑事に(ムカついて)いた。警視庁に人権蹂躙で訴えてやりたい心境だった。 それでも平穏な青春を過ごすために、爆発しそうな怒りを圧し殺したまま自分の生活に戻った。いや戻ろうとした。しばらくは氷上などこの世には存在しないかのように、記憶から消し去ることが賢明だった。氷上刑事のことは胸郭の奥に封じ込めた。 高島芳子の亡霊が出るという噂が出始めたのは、その頃だった。
2007.01.03
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★投稿した小説「聖母たちの棺」(5)★(1~4)から読んでね。 美緒はバス、電車を乗り継いで最寄りの駅に到着した。他の生徒たちも二,三人単位でおしゃべりに夢中になりながらぞろぞろと歩いている。 学校は十五年前に男女共学になった。それも美緒にとっては魅力的だった。母親は娘には恋愛に夢中にならずに、勉強だけに集中することを求めていたようだった。 好きだった人に魅力がないといわれて、一度は恋愛に幻滅したしたことがあった。でもこりずにジャニーズ系の可愛い男の子を探してしまう自分に笑えた。 進学校でも女子の話題はやはり恋愛系が圧倒的だ。あの喫茶のウエイターがイケメンだとか、あのショップのメンズのほうがいいとかだ。ショップのカリスマ店員やカリスマ美容師の話題も豊富だ。持ち込み禁止の携帯電話も、ここでは忙しそうに活躍している。 こんな制服の波を見ていると、母の葬儀を思い出す。あの時もこうして生徒たちの波ができていた。母の担当していたクラスが、交替で学校から参列してきていた。ところどころでかわされる笑い声。教師たちの指示で参加してきたことがよくわかる。鼻をすすりハンカチで涙をぬぐっている生徒もいるが、ほとんどが神妙な演技をしているだけだった。 心から高島芳子の死を悲しんでいる者は、ほとんどいなかったのだ。 そういった者たちを見ていると、自分が本当に泣いているのか、心から母の冥福を祈っているのかわからなくなってくる。 もしかすると自分もあの生徒たちと同じなのかもしれない。娘としての義務で頭を垂れていたのかもしれないと思った。 火葬場で骨が焼かれる音を聞いていると、母に呼ばれている気がしたものだ。 美緒は先生っぽく背筋をピンと伸ばして、学校へ向かった。ゾロゾロと歩いてゆく生徒のなかに混ざりながら急いだ。自分がもう先生になったような気分になって、なんだか快感だった。 美緒は自分が先生になったときのことを想像してみた。一緒にカラオケやクラブに行ったりと結構いいかもしれないと思ってみたが、生徒の一人と「深い仲」になってしまったら、「淫行」になってしまうと一人で照れた。 (えっ?) 美緒は生徒の波の中に、奇妙な何かを感じて立ち止まった。それはみごとな赤い髪の男子生徒だった。学校は校則が厳しく男子の長い髪はすぐに先生にハサミを持って追い掛けられるし、停学の危険もあったから染める事はできないなずだった。長身に赤い髪。 でもそれは金髪というのではなくて、元々茶色の生れつきの明るい髪の色に、メッシュのように赤い色がいれられていた。 彼がどうやって染めたのかはわからないが、その髪はなぜか彼の長身で整った姿を一層際立たせていた。その赤い髪以上に美緒をひきつけたのはその端正な顔だった。 くっきりとした彫りの深さと、切れ長の目からわずかにこぼれる瞳が、彼の顔により憂いを与えていた。その瞳と彼の赤い髪間から見え隠れする冷えた表情が、かえって彼をひきたてていた。うちの学校は進学校なのに質が落ちたなと思いながらも、彼のみごとな赤い髪から目を離せないでいた。 彼はジャケットを無造作に着てタイを緩め制服を着くず、ろくに教科書など入っていないような薄いカバンを小脇に挟んでいた。ゾロゾロと学校へと急ぐその他大勢の生徒たちの間を、彼は悠然と歩いていた。 美緒がその生徒に気を取られていた頃、一人の老婆が行き交う生徒やホームへ急ぐ人々の間を、ゆらりゆらりと歩いていった。しかし行き交う人々の足は途絶えることもなく、杖に頼り誰の介助もない老婆にとって、砂漠を歩いてゆくようだったに違いなかった。 おしゃべりに夢中で登校を急ぐ生徒たちにも、老婆はその視界の中で少々邪魔に思われていた。 もしかすると生徒たちの視界から、もはや老婆は存在しなくなっているのかもしれない。美緒が彼女に気づき生徒をかき分け走り寄る前に、老婆の杖は雪崩のような生徒たちの足にからまり、あっという間に老婆は車道に投げ出された。 走ってきた車が速度を緩めるのも、もう間に合わなかった。 (あっ!) 美緒が声にならない声をあげた瞬間、生徒の波から誰かが老婆を力一杯歩道へ引き上げた。その場面に居合わせ硬直してしまった全員が、彼を見ていた。そこには老婆を抱きとめていた赤い髪のあの生徒がいた。 彼はその視線に全く動じることもなくすばやく起き上がると、「ばあちゃん、大丈夫か?俺がホームまでおぶってやるよ」 彼は老婆を助け起こし、その背に老婆を負ぶって階段を慎重にゆっくりと昇っていった。 長身に赤い髪の男子生徒と老婆、その異質の組合せに周囲の誰もが魅入っていた。彼は誰にも視線を合わせることもなく、黙したまま彼のやるべきことを果たしていた。 (優しい問題児) 美緒と彼との出会いはまだ春の吐息の残る朝だった。 「タカシマさん?」 美緒はふりかえった。それはごく自然の女子高校生らしい仕草の動きだった。しかしその背後にいた者は、ありふれた者ではなかった。 仕立ての良い流行の三つボタンのスーツに身を包み、あきらかに上質と思われる黒い革靴をはいていた。そのつまさきはテラテラと上級な光輝を放っていた。髪はやや茶色。そして美容室のポスターから抜け出たようなハイセンスな髪型をしていた。まるでカリスマ美容師がハサミをふるったような完璧な清潔さだった。美緒には全く縁のないはずの人種だ。彼は若い男だった。「な、なんでしょうか?どなたですか?」 美緒の声は震えていた。とめられない震えだった。「はじめまして、わたしは、東信ひたち署の氷上と申します。登校の途中でしょうが、ちょっとだけお時間をください」「刑事、さん? お母さんの自殺についてですか? もうあれは過労による自殺だって結果がでたんでしょう?」「そうです。しかし私はそう思ってはいません」「は? 自殺じゃないんですか? じゃあ、殺されたんですか? まさか事故ってことはないし」「そうです。コロシです。といっても私は学校外の容疑者の担当でしたし、そう推理しているのは私だけですが」「本当に、刑事さん? あたしをからってるの? テレビみたいに探偵ごっこをしてる、おかしなヒトなんじゃないんですか?」「・・・・・・違いますよ」 彼は胸の内ポケットから手帳を出すと、写真つきの身分証を見せた。それはテレビでみるのとは違っていたが、こっちの方が本物に見えた。「本物なんですね?」「そうですよ」「ずばりいいますと、あなたが母親殺しの犯人です。そう私はにらんでいます」「は? あたし? どうしてあたしが母を殺すんです! あなたって、何考えてるんですか!」 激怒する美緒を氷上は冷静に眺めて、前髪をかきあげた。その意外にもきれいな長い指に美緒は目を止めた。男の指だった。 洗練されたピアニストのような指だった。「あなたは養女ってことはありませんよね。戸籍を調べましたが、何も出ませんでした」「あ、当たり前です。あたしは実子です。顔も少し似てます」「でもねぇ、やろうと思えば実子として届けられますからね」「あたしは、正真正銘高島芳子の娘です」「あなた、母親を恨んでませんでしたか? 実は今後の進路をめぐってケンカばかりしていたとか。高島センセって、誰に聞いてもきつい人だっていってましたけど」「ありません。確かに母は厳しい人でしたけど、実の母親を殺すなんて、そんなこと考えたことなんてありません」「ま、いいでしょう。調べればわかることですから。捜査本部は解散してしまいましたが、私は最後まであきらめませんよ」「・・・・・・」 氷上はその長身の体をしなやかにゆすってきびすを返した。彼の姿の良い容姿は時間をかけて、学生たちの列に消えていった。髪をかきあげる長い指は洗練されていた。 そのあとには茫然とする美緒が、過労自殺したはずの高島芳子の娘が残された。
2007.01.03
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★投稿した小説「聖母たちの棺」(4)★(1~3)から読んでね。 出棺のホーンが鳴らされ、霊柩車が母の棺を乗せ火葬場へむかった。母の魂がホーンと共に天空に昇り大気に消えていった。美緒の母の記憶も一緒に持ち去られるようだった。「・・・・・・おかあさん」つぶやいてみたら落ち着いた。 白い女が見ていた。 何度も煙のように融解しては、また女になった。 顔はない。誰かだがわかりそうなのだが、まだわからない。 美緒が近づいてくと 赤くなった。 目をさますと床のうえに美緒は転がっていた。ベッドで寝たつも りだった。骨がきりりと痛かった。 桜はすでに散り始め、もうまもなく夏の声を聞く頃、彼女はいつもより早く目覚めた。セミたちも長い地中生活を終えてカラを脱ぎ捨て、真夏の精へとかわる。 母の死んだ日から高島美緒の家には古き良き時代の日本の匂いはない。美緒がトースターで焼いたパンと電子レンジであたためた牛乳の匂い。そして冷凍庫からかき出すように取り出され、レンジで一分半ぬくめられた食品のにおいが台所にたちこめていた。 弁当箱につめる冷凍食品のトンカツのソースの臭いが鼻につく。ついでにブロッコリーも電子レンジにかけ、その間に卵焼き器に油をひいて溶いた卵を流し込む。出来上がった卵焼きを冷ますためにいそいで季節はずれの扇風機の前においた。 「お弁当のおかず」という本を荒っぽくめくりながら、メニューを追加して電子レンジで調理できたものをうちわであおいだ。あとは冷えたものを出かけに弁当箱につめるだけだ。あの事件から二ヵ月もたって、いやでも慣れてしまった。 母がいなかった。「おとうさん、あたし進路決定したから。あたし、お母さんと同じ古典の先生になるからね!」 過労死した母親の四十九日を終えた次の日、美緒は父親に高らかに宣言した。それはアメリカ合衆国の独立宣言にも負けなかった。 父親に高らかに宣言したものの、彼女にはあのタイタニック号が衝突した氷山よりも巨大な障害があった。 それは頑固者の父親康介だ。銀行員なのでもちろんお堅い商売だ。もちろん中身と同じ。融通がきかず自分の考えを押しつけてくる。娘は、女はこうあるべきといった信念を持っていた。ただの時代錯誤な人間なのだが、ムチのような声で美緒を呼ぶ母親よりは少しだけマシだった。休日は接待ゴルフに顧客まわりと忙しい父親だった。康介もすぐに出勤するので、もうシャツとズボンを身に着けネクタイをしていた。 ネクタイの趣味もおかたく、銀行員になってから三十年近くストライプの地味なデザインだ。こればかりを二十本も持っているのだから驚きだ。母親が亡くなった後もスラックスだけは自分でプレスをかけて寝ている。こうして毎日ナイフの刃のように鋭利な折り目のついたスラックスで出勤してゆく。家事については口をだしても手は出さなかった父親が、妻がいなくてもこういう仕事に必要なことはきちんと毎日やるのだから、さすがは勤続三十年のベテラン銀行員だと感心した。「大学にいって先生になるの」「あ、お弁当おいてあるから忘れないでね」 そう言いながら玄関を擦り抜け、父をさらりとかわすはずだった。が、しかし父親はドアの向こうに先回りしていた。美緒はこの敗北に硬直した。「お、おい美緒」「血迷ったのか!お前は何を馬鹿なことをいってるんだ」「本気でかあさんみたいな教師になりたいなんて甘い考えはやめなさい。未歩、教師という職業は母さんを過労自殺させるほどハードなんだぞ」「大学を卒業する頃には、成長してるから!」「お前までそんな職業を選ぶなんてバカな奴だ!」「お母さんは立派に仕事をやり遂げたんだから」「あたしもそんな先生になりたい!」 「なります!」 美緒のそんな反論にも父親は表情一つ変えず、美緒の前に立ちふさがっていた。まるで陳腐なホームドラマみたいで笑えた。「最近の子供は無軌道で最悪だ。教師が下出に出るとすぐにつけ上がる。お前みたいな子供には手に負えん。親は自由にさせることとワガママをはきちがえておる」「今のうちに考え直せ、美緒。その方がお前のためだ。」「大丈夫!教師が大変なのはわかってる。 でも今のあたしはおかあさんみたいな、立派な教師になりたいの!」「もう行くから。遅刻する!」 美緒は父親を思い切って押し退けた。 東信学園高校はバスと電車を乗り継いで行かなければならない。夏は早く目が覚めるからいいが、真冬は強風にあおられかなりこたえた。公立高校は1キロぐらいのところにあるので、こんなことなら公立に行くべきだったと美緒は後悔することがある。 自分で近くの学校に決めなかったことを悔やんだものだ。学校は母親の母校で私立だが、いまどきめずらしく茶髪、長髪、化粧は禁止であのルーズソックスも禁止の進学校だ。 優等生だった母親はそんな昔と変わらない校風を気に入って、美緒にここをすすめたのだ。彼女もそんな母親のすすめに、あの時はなんの疑問も感じず、抵抗もせずにここに決めた。 そんな学校でも個性を求める生徒たちは多くて、学校が終わるとファーストフード店やカツラをかぶりルーズソックスを履き、付けづめと眉描きに燃えた。そしてトイレでコギャルファションに武装すると、イケメンの男の子からのナンパを待った。
2007.01.03
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★投稿した小説「聖母たちの棺」(3)★(1~2)から読んでね「高島さん、高島先生が、お母さんが・・・・・・!」 家について野菜を切っていると、汗でてらてらとした頭をした教頭がタクシーで乗り付けて飛び込んできた。あの瞬間、ビバルディの「春」が、彼女の意識の中で幕がひかれるようにモーツアルトの「葬送」にとって変わった。 漂白された意識のなかで美緒は叫んだ。しかしいまとなっては声にはらない悲鳴だったように思える。 呼ばれた救急車のサイレンで美緒の思考は埋もれ、それは永遠に続くように思えた。はじめて間近に聞いた音。ドラマの中の小道具ではなかった。サイレンはいつまでも美緒の体細胞をかき乱す。担架で教室から運びだされてきて救急車に乗せられる母親を見ても、美緒の意識はまだ浮いていた。 そこにいたのは、あの厳しくムチのような声で彼女の名前を叫ぶ女ではない。きっぱりとした声はうめきに代わり、朝までの教師らしいしまった顔には苦悶の表情が貼りついていた。おしゃべりをやめない生徒に容赦なくチョークをミサイルのように投げていた手は気色を失い、だらりと担架から地面に下げられていた。体は苦痛から守るようにくの字に曲げていた。そして美緒をさらに驚かせたのはタンカの上の母にかけられた毛布が、真っ赤に染まっていたからだ。あの誰よりも厳しい教育者であった母親に、かなり異常な事件があったことは明らかだった。 一緒に緊急車両に乗り込んで、病院に向かう間にも美緒は今日の夕食はどうなるの?という馬鹿馬鹿しい心配をした。母は彼女にとってしょせんそんな存在だったのか。長い間教職と家事を完璧にこなしてきた母親は、いま担架の上でその人生最大の危機にひんしていた。いくらこの母親でもこの危機を完璧に、自分で乗り切るわけにはいかないだろう。 いま、母の人生が終わろうとしている。 それでも美緒は無力だった。 救急センターに運ばれ、先生による人工呼吸や電気ショックで精気を失った母のからだ が何度も飛びはねても、美緒の意識は漂白されたままだった。 母親はいま学校で古典を教えているはずだ、チョークをとばしてムチのような声で注意を与えているはずだ。あとで教頭先生が来て「間違いでした。この人は高島先生に似た給食のおばさんでした」と告げるはずだ。それとも白い寝台で眠りの美女のように深い睡眠から突然覚醒して、むくりと起き上がり「何をしてるの! 早く家に帰って勉強しなさい!」と叫ぶはずだ。 心電図の稲妻のような波形が踊らなくなり医者が臨終を確認しても、美緒は誰かが「冗談でした」というカンバンか何かを振り回して嘘だと告げるのを待っていた。 あとから車で追い付いてきた教頭によると、教室に忘れ物を取りにいった生徒が、うずくまって倒れていた母をみつけたという。のぞきこんで見たら胸が真っ赤だったらしい。そしてすぐそばには血塗れのナイフが落ちていたという。生徒が勇気を奮い起こしてゆすると母は「もう疲れた」とだけ言ったという。この時からムチのような声で美緒を呼び付ける人がいなくなった。母親のニオイが高島家から永遠になくなった。
2007.01.03
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★投稿小説「聖母たちの棺」(2)★(1)から読んでね。 今朝の閑静な住宅街はいつもどおりだった。 夜が幕をひき、天球がわれ早起きの陽光が水平線にわりこんでくる頃、新聞配達が仕事を終える。何よりも早い新聞配達のバイクの車輪が通り過ぎると、番犬の犬たちは朝の第一声をあげ、いつもと変わらない朝が告げられる。どの家も母親は日の出とともに起き、朝食を準備し子供のお弁当をつくり、そして寝起きの悪い子供たちをたたき起こす。 朝食の汁物の具の大根を刻む音は心地よく、みその匂いは日本の母の肌の匂いだった。 今もそしてこれからも、日本の母の匂いであり続ける。「早くしなさい、美緒」 「急ぎなさい」 透明な朝がやってきて日本の母の匂いとともに、高島美緒の家にはこの母の声が聞こえる。美緒が子宮から生まれ堕ちたときも、この声で呼ばれたような気がする。「おはよう」彼女が登校の準備をすませて、二階から降りてきた。「遅刻しますよ。早く顔洗ってご飯を食べなさい」「はい」 朝起きたら顔を洗ってご飯を食べるのは当たり前だ。今やろうとしたところ、と言おうとして言葉を飲み込んだ。毎日のことだ。毎日呪文のように繰り返される。 こうして美緒の一日は複写されたような朝ではじまる。「ハンカチやティシュはちゃんと用意した? 定期券は忘れないでね。高いんだから落とさないように」「あ、そうそうこの前のテストの結果はどうだった?」「今度こそ十番以内に入ったでしょうね? お母さん、先生なんだからあんたの成績が悪いとみんなに馬鹿にされるわ。先生の娘さんって大したことないのにねって生徒たちに言われるから、教育者としての私が恥ずかしくないような成績をとってね」「あたしそんなに賢くないよ。十番以内なんて絶対ムリ」「そのくらいの気持ちで勉強しなさいって言ってるのよ。美緒なら大丈夫だって思ってるから言ってるの」「はい」うっとおしいので一応返事をしておいた。 美緒はあじの干物の焼き物をむしりながら、母の話を聞いていた。いつもながら喉につまりそうなおかずだ。この母は忘れている。美緒が入ったのはこの辺りでは有名な進学校の東信学園高校だ。東大合格率が何十パーセント、有名私立が何十パーセントというのにこだわって受験生たちがしのぎを削って合格を勝ち取るのだ。入学したらしたで教師も生徒たちも、全国模試の順位がどうだった、偏差値はどうだったというのが必ず話のネタになる。そんな中で十番以内になれとはかなり難しい。美緒の母親はその高校の古典の教師だ。だったらどんなに達成することが困難かよくわかっているはずだ。 幼稚園へ入る前から有名私立幼稚園を受験するために果物や動物をみわける勉強をした。しかし緊張しておもらしをしたうえに、抽選にはずれ有名私立幼稚園を不合格になった。お受験にはどこのブランドのどのデザインのスーツなら合格しやすいなどの風評が飛びかう。なかにはかなりの強者もいて、補欠合格だったら保護者のふりをして、合格辞退の電話をする母親もいるらしいから、昨今の「お受験」は油断がならない。それだけ「お受験」は子供だけでなく両親も必死になる。 もし美緒の母親が教育者ではなくただの「母親」であったら、このくらいはしていたかもしていたかもしれないと思ってしまう。それほど母は、美緒が学習環境のよい学校で学ぶことを望んでいた。 有名私立小学校に合格するために、知能テストでIQを上げるために、同じ模擬テストを何度も繰り返しさせられた。そんな努力にもかかわらず、試験当日に熱を出し不戦敗に終わった。 母は私立中学受験をまたすすめたが、もう不合格通知をもらうのは嫌だったので受験表を無くしたことにした。母親の落胆ぶりはこたえたが、彼女はほくそ笑んだ。さすがに胸が痛んだので高校受験はきちんと受けることにした。母が公立高校の教員から私立高校へ引き抜かれたという偶然もあった。こうして初めての合格を勝ち取ったのだ。 進学校への合格はやはり気持ちがいい。やっと長い挫折の人生から解放されたような気がした。 けれどもまたやってきたのは強い母の希望だ。母に教師としての恥をかかさぬようにまた娘は努力しなければならない。まだ美緒の挫折づくしの人生は続く。十番以内に入れと言う前に合格したことをほめてほしかった。 放課後、部活に励む生徒たちの勇ましい声が、風に乗って教室に流れこんできた。長い間教育にたずさわってきた高島芳子にとっては慣れた音で、まるでオルゴールの音色のように心地よい。 今日はここで生徒を待っていた。職員室では恥ずかしくて相談できないので、みんなが帰った頃にここへ来るといっていた。この生徒は成績もよく服装の風紀的な乱れもなく、特別な指導はいらないのだが、彼女は最近成績が落ちたが、なかなか上がらないことを悩んでいるようだった。だから相談に乗ってくれという。 あの生徒なら指導は楽だが、成績の伸悩みは学校ではなくて家庭に問題があるのかもしれない。 彼女は生徒に厳しいのであまり生徒からのウケが良くない。なのにあの生徒はわたしに相談したいという。そんなに自分を慕ってくれていた生徒がいたことに、彼女はとても内心喜んでいた。少々無理がある相談にも真摯に向き合ってやりたい、家庭に問題があるとわかったら、ご両親に会ってもいいと、できるかぎり力になるつもりだった。 近頃彼女は、荒れてきた生徒たちの指導に手をとられていた。あの生徒たちもこの進学校に入学してきたというのに、どうしてその道を踏み外してしまったのだろうか。学校に問題はないだろう。やはり家庭なのだろうか? 屋上でこっそりタバコを吸うものもいるし、もっと悪いのはシンナーやそれに代わる化学物質を吸引しているものがいる。彼らはエリートになることを捨ててしまった。 この前注意したら胸ぐらをつかまれ、身の危険を感じた。今ほんとうに教育現場は荒れている。十代後半の若者による殺人事件が多発しているし、うちもそんな生徒を出す前に指導をしなければと思う。教育者として厳しくしつけなければと、高島芳子は社会を憂えていた。最近、こうした指導で疲れがひどい。眠れない夜が多い。 美緒には夕食の買物をして下ごしらえをしておくように言っておいた。いろいろなことを体験していたほうが知能が高くなるからだ。失敗も成功も経験は多い方がいいのだ。 時計を見た。もう三十分も待っている。
2007.01.03
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★投稿した小説「聖母たちの棺」(1)★ *ここ(1)から読んでね。投稿し終わった小説ですので、 少々の誤字脱字以外はご容赦下さい。最終的には自費出版に なります。 ま、賢い親もいないし庶民は自分で楽しむのが一番ですね。「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身よにふる ながめせしまに」「あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな」「君がため 惜しからざりし いのちさへ 長くもがなと 思ひけるかな」 放課後。人けのない校舎は窓から差し込む陽光とともに入ってくる、クラブ活動に励む生徒たちの声で満たされていた。リノリウムの廊下を一歩また一歩と歩みを進めると吸い込まれてゆく。外界とは遮断され、まるで異世界へと導く門のようにも思えた。 立原美智子はそんな校舎の中を図書室へと向かうために、早足で歩いていた。進学校だが予備校通いで忙しい受験戦争へと参戦している学生たちは、のんびりと図書室へはこない。図書室へとやってくるのはかなりの読書好きか、クラブ活動にも予備校にも縁がないか、良質な参考書を求める学生たちぐらいである。 数学よりも英語よりもなによりも読書の好きな立原美智子は、受験戦争に参戦せずに図書館通いを習慣にしていた。廊下のつきあたりの世界に吸い込まれながら、先を急いでいた。 「勉強しなさい!」 美智子は雷鳴に打たれたようになって立ち止まった。正確には足がすくんだといったほうが正しい。一瞬にしてドライアイスになったような足は、彼女の意志に反してぴくりとも動かない。神経に鞭うって彼女は背後を振り向いた。 誰もいない。 ここにいるのは彼女だけだった。彼女ひとりの世界のように。 左右にも顔を向けて視界を広げ見回した。しかし彼女の右手側には窓が。そして左手側には誰もいなくなった無言の教室たちが並んでいるだけである。安心してまた歩みを進めた。二本の足も血流を取り戻して、ねじを巻かれたばかりのように軽快に動きだした。 「勉強しなさい!一番になりなさい!」 「単語は覚えたの!予習は毎日、復習は何度も繰り返しなさい!」 「携帯電話はいけません。子供が持つものではありません。メールなんてするヒマがあったら、英単語でも古語でも覚えなさい!」「ルーズソックスなんて言語道断です。あんなだらしないかっこうは許しません。はいてもいいのは紺か白のハイソックスだけです」「髪を染めるのも禁止です。黒髪は大和撫子の宝です。誇りをもって大事にしなさい。茶髪にしたら不良になります。自分はそういうつもりでなくても世間はそう思いますよ」 美智子の身体はまた凍り付いた。今度は全身が機能を停止したかのように金縛りにあってしまった。 しかし首だけはすばやく回転し、視界の情況を探った。だが、誰もいない。やはりグラウンドから漏れ聞こえるざわめき以外は聞こえない。またひっそりと沈んでしまった空間に、美智子は立ちすくんでいた。彼女のまわりの世界は、雪の女王によって氷の城へと変容させられたかのように萎縮していた。「(由良のとを わたる舟人 かぢをたえ ゆくへも知らぬ 恋の道かな)由良の瀬戸を渡る船乗りが舵を失って行く先も知れず漂うようになりゆきもわからない私の恋の道。といってこの歌は早い潮に流され櫓櫂を失って流されてゆく船に自分の恋路をたとえて、恋の不安を詠いあげている歌です。それは海の深い青さのような不安であり孤独に我が身を流されているような焦燥感でもあります。(しのぶれど 色にでにけり わが恋は 物や思ふと 人のとふまで)私の恋はひそやかなももだったけれども顔や表情にあらわれてしまった。何か物思いをしてるのかと 人がたずねるほどに。としのんでいた恋がかくせばかくすほど現れてしまうという困るようなうれしいような恋の情感を詠い上げています。無技巧にみえますがかなりの洗練がなされています。歌物語的な興味とともに身近なものとして愛誦されています。 この二つの歌は恋というものへの人の不安や喜びは万葉の世から現在まで不変であるということをわたしたちに教えてくれます」 その声の主はたった独りで古典の授業をしていた。たぶんそうだ。今は放課後。授業はすべて終わっているはずだから。 聞き覚えのある声だった。記憶の海を探ると蘇ってくると思われた。硬質で神経質、そして怒るとムチのような声で学生を呼び付ける古典の高島芳子。死んだはずだった。警察は自殺だといった。彼女の遺言を聞いたのは女子生徒だった。高島芳子は過労による自殺をしたのだ。 「(みかの原 わきて流るる いづみ川 いつみきとてか 恋しかるらむ)みかの原を分けて 湧き出て流れるいづみ川ではないがあの人にろくに会ったこともないのに、どうしてこんなに恋しいのだろうかと芽生え始めた恋心を優雅に慎み深くうたっています。清らかで美しい一首です」 美智子はやっとの思いで指先を動かした。神経は生きていた。腕をのばして教室の引き戸を十センチほど開けた。恐々と顔を寄せ、中の様子をうかがった。 誰もいない。主のいない教室で影は廊下側からのグラデーションとなって窓側に向かって触手を伸ばし、すべての備品を深海へと連れ去っていた。教室は沈黙していた。「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか」「浅芽生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき」 頭を振って美智子は走った。そして三つある教室のすべての六つの引き戸を次々と開け放った。戸が勢い良くあけられる音だけが、沈静していた校舎に響きわたる。六つの音でそれは終了した。 そこに残されたのは怪奇現象の現場に立ち合って、阿鼻叫喚の恐怖の深淵に引きずり込まれた美智子だった。「君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣でに 雪はふりつつ」 まるで霧の中から亡霊のように現れ、えんえんと詠まれてゆく歴代歌人の和歌。行なわれていないはずの古典の授業。自殺したはずの古典の教師、高島芳子の声。芳子の魂があの硬質な叫び声と共にこの東信学園高校にもどってきたのだ。彼女の学校を再び支配するために蘇ったのか?「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしもしらじな もゆる思ひを」 高島芳子の硬質な声は、死神と共に美智子を冥府へと引きずっていった。 「キャー!」 叫ぶことで彼女は正気でいることができた。 東信学園高校に亡霊がでるという噂は、疾風のごとく町中に広まった。しかも亡霊が古典の教師で和歌を詠じるというのだから、噂にならないわけはない。立原美智子が高島芳子の亡霊にであった日から、三日後から野次馬がやってきた。週末になると手軽な娯楽を求めて恋人同士で仲間たちで家族連れでと野次馬たちはやってきた。学校の周辺は彼らの自家用車で埋め尽くされた。イギリスの幽霊スポットのように、東信学園高校は怪奇現象のメッカとなった。 その野次馬をあてこんで、屋台も出る始末である。勝手に電気を拝借されたとして、東信学園高校へ近所の家庭から抗議が殺到した。「高島センセの亡霊がでるって本当だと思う?」「さぁ、でもあの人って教師を天職だと思っていたみたいだから、学校に出てもおかしくないよね。生徒指導に命かけてるってカンジだったしぃ。高島センセらしい~。でも今時どんなに頑張ったって清く正しい高校生は養成できないのにね。あの人さんざムダな努力してたよね」「百人一首を詠むんだって。しかも勉強しなさいって、説教もするんだって。誰もいない放課後の校舎で和歌だよ。こっわー! オカルトだね」「お経よりマシじゃん。あ、やっぱりお経なみに不気味か」 それからも高島芳子はこの世に戻ってきた。しかし彼女は現れる場所を次から次へと変えていった。 この日から「亡霊伝説」が東信学園高校に誕生した。しかしこの伝説は、季節が桜色に彩られはじめた二ヵ月前からすでに始まっていたのだ。
2007.01.03
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