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西徳寺への参拝が終わった後に計画通りに国際通りに沿って、裏道へゴー。 通称飛不動の龍光山正宝院に到着。享禄3年(1530年)に創立。本来、修験道本山派(天台宗系)の流れをくむ修験道場であったが、明治期の修験禁止令により天台宗寺門派(現・天台寺門宗)に属し、現在は単立寺院となっている。 ご本尊は不動明王。創建後、住職がご本尊のお不動様を笈で背負い、大峯山へ修行しにいったが、ある日、ご本尊が留守の寺に人々が集まり、不動尊を観想して一心に祈ったら、不動尊は一夜にして大峯山から江戸に飛び帰り、祈った人々の願いを叶えたという。それ以来、「空を飛び来て、衆生を守りたもうお不動様」飛不動尊と呼ばれるようになった。小惑星探査機はやぶさが一時行方不明になった際に、プロジェクトマネージャの川口淳一郎が飛不動へ参拝したら、はやぶさは無事帰還してきたということも有名。 下谷七福神の恵比寿様も祀る。 飛不動のすぐ近くに豊川稲荷もある。
2024.04.29
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法昌寺への参拝が終わった後に国際通り方向へゴー。 大きい寺院を見かけたが、山門の前に立たれた「十七代目中村勘三郎墓所」の石碑を見た。調べたら、西徳寺という歴史のある寺院ということがわかった。。しかも十八代目中村勘三郎さんもここに眠っている。 真宗佛光寺派の寺院。山号は光照山。御本尊は阿弥陀如来。寛永5年(1628年)に江戸の金助町(現在の東京都文京区本郷付近)に建立されたが、三回の火事も遭ったが、八百屋お七のお話である天和の大火の後の天和3年(1683年)に現地へ移転。関東大震災で本堂が全壊したが、昭和5年(1930年)再建。2019年に公開された映画「WELCOME TO JAPAN 日の丸ランチボックス」のロケ地となり、「大日本鎖国寺」という架空の寺院として登場した。 御朱印は手書きだったが、武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大で書置きとなったものの、種類が増えたようだ。一番伝統的な「常照我」をいただいた。そして寺務所の方の案内で、第十七、十八代目中村勘三郎の墓所へお参りした。
2024.04.29
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小野照崎神社での参拝が終わった後に、国際通りへ向かおうとしたら、毘沙門天と書かれた旗を見た。 下谷七福神の毘沙門天を祀る法昌寺ということである。 法華宗本門流の寺院で、山号が日照山。情報が錯そうしているが、御本尊は大曼荼羅、十界曼荼羅のようである。流派からみれば、法昌寺は、法華宗本門流の「大本山 光長寺」の末寺であるため、「南無妙法蓮華経」が御本尊である可能性が高いかな。関東大震災で罹災したが、震災後に再建。 本堂の隣の地蔵は、たこ八郎地蔵と呼ばれる。たこ八郎は、元プロボクサーで役者やコメディアンとして活躍し、「あしたのジョー」の矢吹丈のモデルとも言われるが、酒を飲んでから一人で海水浴をしていたところで心臓麻痺でなくなった。たこ八郎の墓は故郷の宮城県にあるが、由利徹、赤塚不二夫、映画監督の山本晋也らが「東京でもお参りする所があったらいい」という提案をした。このため、発起人としてたこ八郎地蔵が建てられた。胴体の部分には、たこの遺筆による座右の銘「めいわくかけて ありがとう たこ八郎」と刻まれている。地蔵像の後ろには、ボクシングのグローブの石像が立てられる。 毘沙門天堂。日蓮聖人御開眼の毘沙門天が祀られる。 入口のすぐ近くにある救世観世音。
2024.04.29
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ほかの方にとって今日は連休の前半戦だが、わしはやはり出勤。しかし、やはり休みのような活動もしたいので、直接に職場に行くのではなく、根津を降り、歩行で入谷界隈へゴー 20分ぐらい歩いたら、小野照崎神社に到着。神社の境内で一番大きい鳥居だが、ここから境内に入ると正殿ではなく、正殿の隣にある社務所が見えるのだ。 主祭神は平安初期有数の歌人、法律にも詳しいため参議まで務めた小野篁。仁寿2年(852年)、この地の住民が小野篁が住んでいた上野照崎の地に神社を創建したが、寛永寺の創建で現地に移転された。江戸末期、回向院より菅原道真自刻と伝わる像を迎えて相殿に祀る。このため、小野照崎神社は「江戸二十五天神」の一つに数えられた。樋口一葉の「たけくらべ」にも「小野照さま」の名で出ている。 庚申塚 、青面金剛、喜宝院庚申堂(入谷庚申堂)遺跡。元日本三庚申の一つだったが現存しない。 天明2年(1782年)に築かれた富士塚「下谷坂本富士」。国の重要有形民俗文化財に指定されている。夏越の大祓と富士山の開山に合わせた毎年の6月30日と7月1日の2日間に限り、一般の方々に開放される。 境内社の御嶽神社・三峰神社・琴平神社。 境内社の稲荷神社・織姫神社。 鶯谷駅から来れば正殿正面の鳥居は一番近いのだ。 鶯谷駅から来れば、ここは参道となる。
2024.04.29
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蔵前駅へ向かう途中に浅草駒形諏訪神社へ参拝。 正式な名前は諏訪神社だが、浅草の駒形にあるため、浅草駒形諏訪神社として知られる。創建の年代は不明。「後冷泉天皇の御世」(寛徳2年〈1045年〉~ 治暦4年4月19日〈1068年〉)、あるいは「承久の乱(1221年)の後とされる。諏訪大社の御分霊を勧請したためか、諏訪大社と同じ諏訪梶の御神紋を使用する。江戸時代に神社周辺の地名諏訪町の由来でもあった。主祭神は、建御名方神、八坂刀売神。小さい神社だが、裏に社務所があり、宮司が御朱印を対応してくれる。
2024.04.27
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東本願寺での参拝が終わった後に、職場へ行くために蔵前駅界隈へゴー。 途中に、本社三島神社へ参拝。 台東区では三つの三島神社があるが、ここは本社三島神社、浅草の寿にあるため寿三島神社とも呼ばれる。主祭神は大山祇命。 弘安年間(1278年 - 1288年)に創建された。鎌倉幕府御家人の河野対馬守通有は、モンゴル(元)・高麗軍による日本侵攻という「弘安の役」の時、今の愛媛県である地元の大山祇神社で戦勝祈願をしたところ、成就して伊予水軍を率いて武勲を挙げることができたが、「武蔵国豊島郡に大山祇命の分霊を勧請せよ。」という霊夢を見たため、上野山に大山祇命を祭神とする神社を創建した。 1650年慶安3年(1650年)、宝永7年(1710年)、幕府により2回の立ち退きを命じられ、最終的に現地に移転されたが、氏子の要望で、分霊を勧請する形で根岸には元三島神社が、下谷には三島神社がそれぞれ創建された。本社三島神社は、関東大震災、東京大空襲で焼失されたが、昭和47年(1972年)復興。 境内社の石稲荷神社・髪稲荷神社の合祀殿。祭神は倉稲魂命。 宮司がいないようで階段を降りて帰ろうとしたら、宮司がちょうど帰ったため、御朱印を書いてくれた。 なお、1944年に上映された映画「くて神風は吹く」で河野対馬守を演じたのは、わしが一番好きな俳優である田村正和のお父さん阪東妻三郎であった。
2024.04.27
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「自家製麺 甚」から出た後に、そのまま道に沿って浅草と反対方向へゴー。 少し歩いたら、浄土真宗東本願寺派本山東本願寺に到着。この写真は甚へ向かっている途中に浅草通りの向かいから撮ったものだ。 東都浅草本願寺、浅草本願寺、浅草門跡とも知られるが、正式な名称は浄土真宗東本願寺派本山東本願寺。浄土真宗東本願寺派の本山である。ご本尊は阿弥陀如来。東本願寺は仏縁を結ぶ一助として御朱印、朱印帳ではなく、巡拝印、巡拝帳という名称を使っている。 1591年あるいは1603年に、教如が神田に開創した江戸における本願寺の録所(教務所、出張所)である江戸御坊光瑞寺が始まりという。本願寺の東西分立でここは真宗大谷派の本山である東本願寺の掛所(別院)となったが、明暦の大火で焼失されたため、浅草へ移転。西本願寺の江戸浅草御堂は築地へ移転し、今の築地本願寺となった。戊辰戦争の時にここは彰義隊の拠点となった。関東大震災、東京大空襲で再び焼失され、1953年に再建。1965年に浅草本願寺から東京本願寺へ改称。1969年から起こった真宗大谷派内部の対立で、東京本願寺と賛同寺院により「浄土真宗東本願寺派」が結成され、東京本願寺はその本山となった。 浄土真宗の宗祖とされる親鸞の像。 東西分立前の浄土真宗本願寺派の中興の祖とされる蓮如の像。 五・一五事件や二・二六事件などにより戦線の日本は政党内閣が崩壊し、政党政治が衰退してしまった。この流れで、憲政功労者の慰霊、顕彰、更には国民の憲政、政党政治に対する認識を高め、憲政、政党政治の擁護、発展に貢献するを目的として新たな憲政碑は建立された。浅草本願寺は、明治8年(1875年)に明治天皇の臨幸で、日本で最初に開かれた「地方官会議(知事会議)」の議場に使用されるため、その建立地として選ばれたのである。
2024.04.27
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今日から連休だが、わしにとって大残業の始まりだ。しかし、やはり少し連休らしき活動をしたいので、湯島を降りた後に職場と反対方向にある上野界隈へゴー。 30分ぐらい歩いたら、「摩尼山 成就院」に到着。連休の関係で法事をする方も多いようだ。 先週参拝した元浅草にある「神勝山 成就院」と同じ院号だけではなく、同じ真言宗智山派に属し、ご本尊も大日如来、同じ御府内八十八箇所の霊場でもある。また、大日如来の左手に観世音菩薩、右手に阿弥陀如来が祀られ、左端に吉祥天、右端に多聞天、不動明王も祀られている。大日如来は、江戸時代から伝えられたという。 大師堂。 ここは、池波正太郎の『鬼平犯科帳』の「夜鷹殺し」で名前が出たため、「鬼平」の聖地でもある。「夜鷹殺し」は中村吉右衛門版のテレビドラマ「鬼平犯科帳」第3シリーズ第11話である。御朱印をいただいた時に御府内八十八箇所巡りかとお寺の方に聞かれた時、鬼平巡りと答えたら、『鬼平犯科帳』で話が盛り上がってきたとは意外だった。
2024.04.27
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うるちから出た後に、職場へ仕事するため蔵前駅へゴー。もともと歩いて戻ろうと思っていたが、想定より時間がかかったので、やはり電車でも取ることにした。 その前に駅近の蔵前神社へ参拝。 元禄6年(1693年)に江戸幕府第5代将軍徳川綱吉が山城国(現・京都府)の石清水八幡宮から分霊を勧請して創建された。享保17年に起こった火事の延焼の被害で浅草三嶋町へ一旦移されたが、延享元年(1744年)に本来の地へ戻った。昭和22年(1947年)に隣接の稲荷神社と相殿・北野天満宮を合祀し、昭和26年(1951年)に「藏前神社」へ改称されたが、江戸時代で正式な社号が石清水八幡宮であるため、藏前八幡または東石清水宮としても知られている。主祭神は應神天皇、神功皇后、姫大神、倉稲魂命、菅原道真公、塩土翁命。 古典落語の演目の1つ『元犬』ゆかりの神社であるため、元犬像が平成22年に奉納された。 古典落語「阿武松」ゆかりの神社でもある。歌川國安が文政7年(1824年)にここで行われた「力持」という技芸の奉納を描いたものである。その後に、ここは勧進大相撲の発祥地となり、勧進大相撲の三大拠点の一つとなった。 境内末社の福徳稲荷神社。祭神は倉稲魂命。 なお、神社が配布した資料によれば、令和2年12月発行「中央義士会報」の記事に、忠臣蔵、いわゆる赤穂事件の直前に、堀部安兵衛の従弟佐藤條衛門が堀部安兵衛らの名代でがここに「討ち入り成功祈願」に来ていたという。
2024.04.20
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百観音成就院への参拝が終わった後に浅草通りに沿って田原町界隈へゴー。途中に裏道に入った。浅草界隈では寺院が多いね。 浅草寿不動尊と呼ばれる阿遮山不動院を見つけた。真言宗智山派の寺院で、関東三十六不動第22番札所、御府内八十八ヶ所72番札所。ご本尊は不動明王。慶長16年(1611年)開山し、元々八丁堀にあったが、寛永12年(1635年)に現在地に移転した。山門がなければ、普通の住宅だと思われる外見だ。アラームを鳴らすと、ご住持がドアを開けてくれる。2階へご本尊へ参拝している間に、ご住持が御朱印を書いてくれている。本堂に一人で不動明王を参拝するのも初めてだかな。
2024.04.20
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下谷神社への参拝が終わった後に、浅草通りに沿って田原町界隈へゴー。 途中に「神勝山成就院」へ参拝。 御府内八十八ヶ所霊場43番札所である。ご本尊は大日如来。何世となるかわからない観宥法印(寛永5年1628年没)が日本橋矢の倉(浅草橋付近)に創建し、万治年間(1658~60)現地に移転。かつて境内に西国三十三観音・板東三十三観音・秩父三十四観音の百体の観音が祀られ、ミニ霊場となっていたため、百観音成就院とも呼ばれる。百体の観音像が関東大震災や東京大空襲により破壊されたため残っていないが、平成2年(1990年)特信者の寄進によって聖観世音菩薩の像が建造された。観音像の台座には「百観音」と刻まれ、脇にはその由来の説明板がある。近所の東上野に同じ院号、同じ真言宗智山派に属し、ご本尊が同じ大日如来、同じ御府内八十八箇所の霊場の寺院があるが、来週のお楽しみ。
2024.04.20
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仕事が少し進んでいるので、ちょっと都内で散歩したくなり、湯島を降りてから浅草方面へ歩行でゴー。 15分ぐらい歩いたら、下谷神社に到着。一の鳥居は浅草通りと交差点のすぐ近くにある。 正面の鳥居。 上野公園にあたる地に鎮座していた。行基が伏見稲荷大社を勧請したとも伝えられるが、神社側は、天平2年(730年)峡田の稲置らが建立し、天慶2年(939年)、藤原秀郷が平将門による天慶の乱追討祈願のため、社殿を新造したという説をしている。寛永寺建立に当り、寛永4年(1627年)別当寺正法院と共に下谷屏風坂下に移転したが、土地が狭いため、延宝8年(1680年)下谷広徳寺前にあった谷中天眼寺先住少林庵抱地525坪余と土地を交換した。元禄16年(1703年)旧地も正法院抱地になった。明治元年(1868年)の神仏分離令により正法院を分離した。翌年、周囲の町名が社名に因み下谷稲荷町となる。明治5年(1872年)下谷神社と改称。関東大震災で社殿を焼失。昭和3年(1928年)現地に移転し、昭和9年(1934年)現在の社殿が完成した。 主祭神は大年神(オオトシノカミ)、配祀祭神は日本武尊。大年神は、須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれたとしている。両神のほかの子は、お稲荷様として祀られる宇迦之御魂神である。つまり大年神はお稲荷様は兄妹神であり、同じ穀物神である。このため、下谷神社は、下谷稲荷社、下谷稲荷明神社と呼ばれた都内最古の稲荷神社として知られる。 境内末社の隆栄稲荷神社。宇賀魂命を祀ると説明で書かれたが、つまり、宇迦之御魂神を祀るってこと。 5月の例大祭の期間中に授与する限定の御朱印を狙う参拝者も多いため、神社側は手書きではなく、書置きのみで授与する。 なお、元別当寺の正法院は、明治38年(1905年)西巣鴨へ移転し、今に至る。
2024.04.20
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松戸駅周辺で少し散歩してから帰宅しよう。 途中に「根本山 吉祥寺」へ参拝。 真言宗豊山派の寺院で、ご本尊が薬師如来である。創建年代は不詳であるが、天和年間(1681~1684)の石碑があり、水戸街道の宿場町松戸が誕生した頃には存在したともされる。お寺が祀る薬師如来像は弘法大師が一木から三体の薬師像を作ったものの一つで、根本を根本吉祥寺、中根を馬橋中根寺、上部を印西市歓喜院に祀ったと伝えられ、松戸市の根本や中根という地名の由来となったものだという。下総四郡八十八所霊場63番である。 薬師堂と弘法大師修行像である。 六地蔵。 石仏群。 なお、松戸市役所の近くにある「池田弁財天」はここの境外社である。
2024.04.18
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誉を出た後に、線路の反対方向へゴー。 直線距離からみれば駅近だが、道が複雑なのでさらに時間がかかった。とりあえず無事に幸谷赤城神社に到着。 牛込の赤城神社と同じ、群馬の赤城神社から勧請して、天正17年(1589年)に創建された。ここの赤城神社は、磐筒雄命も主祭神である「大洞赤城神社」ではなく、大己貴命が主祭神である「三夜沢赤城神社(みよさわあかぎじんじゃ)」である。即ち、牛込の赤城神社と違って、ここの主祭神は、大己貴命。大己貴命の別名は大国主命、つまり、大黒天。今の社殿は昭和52年(1977年)にできたという。武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大で御朱印の授与を中止していたが、今年から書置きで授与する形で再開した。
2024.04.14
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松戸駅から帰宅の途中に本福寺へ参拝。 浄土教の一宗派である時宗の寺院。松戸市にはここが唯一の時宗の寺院。元々元応元年(1319年)3月15日開基とされるが、終戦後に発見された鉦鼓の口縁部に「嘉元改元癸卯天九月吉日」および「本福寺開祖他阿弥陀仏」と陰刻されていたため、嘉元元年(1303年)に開山とされる。 吉田松陰脱藩の道碑。 長州藩を脱藩し、江戸を出奔した吉田松陰は追っ手から逃れるため旅籠を避け、嘉永4年(1851年)12月14日、ここに泊まった。その翌日、松陰はここで本郷村の子供たちを集めて講義をしたという。 ご本尊は阿弥陀如来。開山した際の踊り念仏に使われた鉦鼓、阿弥陀三尊仏は市文化財であり、非公開。武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大の時から御朱印の授与はしていない。 鐘楼と時宗の開祖である一遍上人の像。 大師堂。 斬られ地蔵。上本郷の七不思議の一つ。元々廃寺された覚蔵院にあったという。むかし覚蔵院の境内で盆踊りがあった際、あやしい大男が突然入り込んで巧みに踊り、村の娘衆の気をひいた。村の男たちは面白くなかったが、酒が入っていたこともあり村一番のけんか早い男が刀でその男を斬り付けたところ、不思議なことに火花が散った。大男は悲鳴をあげて暗闇の中に消えてしまった。翌朝、村人が後片付けで覚蔵院に訪れると、境内の石地蔵の胸に生々しい刀傷が残っていた。村民は震え上がり、地にひれ伏して謝ったという。 境内の馬頭観世音。
2024.04.11
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寶光院から出た後に、隣の善照寺へ参拝 下総三十三ヶ所観音第19番霊場、東三十三所観音第13番の札所。真言宗豊山派の寺院で、創建年代が不明である。元々は現在の松戸中央公園や聖徳大学がある高台である相模台の向山界隈にあったが、慶長16年(1611年)に現地に移転された。 山門の右側は本堂。善照寺は、松戸不動尊と呼ばれるが、ご本尊は聖観世音菩薩。本堂の前に鎮座しているのは松戸七福神の布袋尊。御朱印も聖観世音菩薩と布袋尊のみである。ご本尊は恵心僧都(えしんそうず)と尊称される源信の作と言われる。源信は、平安時代中期の天台宗の僧であるが、多くの宗派に影響を与える著作を残している。 山門の真正面にあるのは「不動堂」である。安置されている不動明王像は「火伏不動」と呼ばれている。慶安4年(1651年)に不動堂の建立後は「お不動様」として眼病快癒の祈願で地域に親しまれる。不動堂は文化8年(1811年)に再建された。
2024.04.11
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松戸神社へ参拝した後に、旧水戸街道に沿ってゴー。 少し歩いたら、寶光院に到着。東三十三ヶ所観音霊場の第12番札所。山門の辺に千葉周作修行の地という字が書かれる目印が目立ちなところに立たれてある。 ご本尊は不動明王。慶長14年(1609年)頃から慶安4年(1651年)頃までに松戸村で建立された寺院の一つである、あるいは元禄年間に松戸市小金にある大勝院の末寺として松戸宿に創建されたと言われる。江戸時代には松戸神社(御嶽大権現)の別当寺とされた。安政2年(1855年)の安政の大地震によって本堂を含め倒壊された。 山号の梅牛山にちなんだ牛の石像と山の像、弘法大師のご尊像。 桜も綺麗に咲いている。 かつて向山(松戸東口の丘陵斜面)に祀られていた「四国八十八ヵ所御砂踏み霊場」と呼ばれる西国八十八箇所の石像群が開発を受けてここに集められ、新たに祀られた。 四国八十八箇所を巡ることができない者でも同様の効果を得ることができるとされる。 住持がいないため、この日に御朱印がいただけなかったが、お寺の方に千葉周作の父千葉忠左衛門(浦山寿貞)の墓の場所を教えてもらった。千葉周作の子孫はこの前に墓参りしたばかりだという。 千葉周作が師事した一刀流中西派の浅利又七郎義信の供養碑。現存していないが浅利道場はこのすぐ近くにあった。千葉周作は父と一緒に松戸に移った時、浅利義信の姪で養女のかつと結婚し、道場を継いだが、組太刀の改変をめぐって義信と衝突したため、免許皆伝を返上して修行の旅に出た。千葉周作は旅で「北辰一刀流」を興し、神田お玉が池に「玄武館」を開いたのである。
2024.04.11
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松龍寺への参拝が終わった後に坂川に沿って松戸市区へゴー。 桜はすでに咲いている。 松戸神社へ参拝しにいく途中だが、桜が綺麗なのでカメラを出して撮影。
2024.04.11
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大正寺の参拝が終わった後に、線路の反対側へ渡った。 無事に松龍寺を見つけた。線路に沿って来ればちょっと道がわかりにくいが、旧水戸街道なら坂川からわかりやすい。 浄土宗の寺院で山号が広大山、院号が高樹院。ご本尊は阿弥陀如来。 「子育て観音」という別名を呼ばれている観音菩薩像を祀る観音堂。桜も綺麗に咲いている。 水子地蔵尊と鐘楼。 高木正次、正勝の墓所。松龍寺の開基は、徳川家康、秀忠、家光に仕えた旗本高木筑後守正次。家康の五男の武田信吉は天正18年(1590年)の小田原征伐の後に、家康の関東移封に従って下総国小金城3万石の領主となった。高木正次はこの時に武田信吉とともに下総へ移ったが、父の旗本高木広正の菩提を弔って、慶長18年(1613年)に今の松戸市小山で松龍寺を開基した。ただし、水害や火災で慶安4年(1651年)に高木正次に継いだ養子の筑後守正勝によって現地で再興された。 境内の弁才天堂。 江戸幕府の8代将軍松平健、いいえ、徳川吉宗、11代家斉、12代家慶、一橋慶喜(後の徳川慶喜)は松龍寺を御鹿狩りの休憩所として使っていた。また、街道を往来する水戸徳川家も松龍寺を庇護していた。そのため、寺紋を「三つ葉葵」と用いている。なお、今日住持がいないようなので、御朱印がいただけない。
2024.04.11
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まるきを出た後に、戸定通りに沿って戸定歴史館方向へゴー。 途中に裏道へ進んだら、大正寺に到着。 慶長13年(1608年)に開基された日蓮宗の寺院。「正行寺」という名前だったが、安政の大地震で倒壊された時、正行庵と呼ばれた。大正2年(1913年)に大正寺として再興された。 御本尊は釈迦如来だが、帝釈天王堂もある。ご朱印に帝釈天王と鬼子母尊神も書かれてある。 芸名に読点をつけていなかった本郷猛の署名とその名言。
2024.04.11
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杉並猿田彦神社への参拝が終わった後に、比較的に大きい道に沿って阿佐ヶ谷駅へ戻ろう。 途中に年始以来の馬橋稲荷神社へ参拝。悪しか勝てない業界にいるが、学問の神様への崇敬をわすれてはならない。 初詣の後に教えてもらったが、馬橋稲荷神社の正面の石造大鳥居で、二の鳥居は、高さ8mで昇龍・降龍が刻されているが、龍の巻いた鳥居は品川神社、宿鳳山高円寺境内にある稲荷社、馬橋稲荷神社の3つのみなので東京三鳥居の一つという。今日、この鳥居の写真を撮った。 手水舎も龍が刻される。 参拝者だけではなく、見学の外国人観光客も多い。
2024.04.06
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あさが家から出た後に、南阿佐ヶ谷界隈へ歩行でゴー。 商店街から住宅街へ進み、さらに歩いたら、杉並猿田彦神社に到着。神社は太道教猿田彦神社という正式な名称を持っているが、杉並猿田彦神社としても知られる。 主祭神は猿田彦大神。猿田彦大神は天孫降臨(てんそんこうりん)の時 天野八衢(あめのやちまた)に迎えて啓行して天孫を高千穂に導き、その後に天宇受売命(あめのうずめのみこと)に送られて伊勢の五十鈴の川上へ ここを中心に広く国土を開拓指導した地主の神という。猿田彦大本宮として知られ、猿田彦大神を祀る神社の総本社である椿大神社の境内には、天孫降臨の際に使用された御船が降り立ったという伝承地(御船磐座)が存在する。 境内の桜も綺麗に咲いた。 杉並猿田彦神社を管理する旧官幣大社「霧島神宮」の霧島講東京支部である「太道教本部」である。主祭神は、天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと)。天孫瓊瓊杵尊を猿田彦大神が出迎えるということで、椿大神社から猿田彦大神の分霊を迎え、猿田彦神社を創立した。猿田彦神社とその社務所は、太道教管理だが、猿田彦神社は神社本庁に属する。 やはり桜は綺麗だね。
2024.04.06
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相棒と別れた後に、阿佐ヶ谷へ。 年始の時に大行列がでているため参拝を断念した「阿佐ヶ谷神明宮」へ参拝。 入り口の右側にある能楽殿。ここでは能・狂言、杉並区無形文化財指定の阿佐ヶ谷囃子、御神楽などの様々な伝統芸能が使うのである。能楽殿の隣に植えられる桜も綺麗に咲いている。 瑞祥門という名前の神門。 拝殿。さらに中には本殿。本殿は当然撮影できない場所である。主祭神は天照大神。月読命・須佐之男命を配祀する。境内末社は天神社、猿田彦社。 建久年間(1190~1198年)には横井兵部(あるいは横川兵部)が伊勢神宮に参拝した折、神の霊示を受け、宮川の霊石を持ち帰り神明宮に安置したと言われる。この霊石は今も御神体として本殿の奥深く鎮っている。また、寛政12年(1800年)に書かれた『江戸名所図会』によると、日本武尊が東征の帰途阿佐谷の地で休息し、後に日本武尊の武功を慕った村人が、お伊勢の森と称される現在の阿佐谷北5丁目一帯の旧社地に社を設けたのが始まりという。江戸時代中期頃に現地に移転した。明治7年に神明社、日枝社、北野社を合祀して天祖神社としたが、1990年(平成2年)より社号を江戸時代からの名称である「神明宮」へ戻した。平成21年(2009年)の秋に「平成の大改修」が行われた。平成31年(2019年)から大和がさねという日本の伝統技術である美濃和紙と刺繍を重ね合わせた御朱印符の頒布を始めたが、もともと御朱印帳と御朱印は有名で初詣の時に三ケ日の限定御朱印がほしい参拝客による行列も長い。 参集殿、社務所の前の桜も綺麗に咲いている。 駐車場にある桜その1。 駐車場にある桜その2。駐車場で一番大きい桜なので、参拝客ではなく、多くの通りすがりの人も撮影している。
2024.04.06
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瀬佐味亭を出た後に、勤務時間までまだ時間があるので、麟祥院へも参拝する予定だが、ちょっと遠回りで霊雲寺へ参拝。 武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大で御朱印の授与を中止していたが、2024年度の4月から再開。ただし授与の時間が基本的に昼頃のようだ。寺に来て寺務所の告知を見ないと分からない。 境内の桜も少し咲いた。 霊雲寺は、真言宗霊雲寺派総本山である。山号は宝林山。院号は大悲心院。ご本尊は胎蔵界・金剛界大日如来。江戸幕府の五代将軍徳川綱吉の命により、1691年に将軍家の祈願寺、および江戸城の鬼門鎮めとして、元禄4年(1691年)に浄厳律師覚彦が開山した。かつて境内には伽藍や学寮が整いた大寺院であったが、関東大震災と第二次世界大戦で焼失された。現在の本堂は1976年に再建された。元禄7年(1694年)に関八州の真言律宗の総本寺になったというが、昭和22年(1947年)に真言宗霊雲寺派として真言律宗から独立した。
2024.04.03
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佐竹稲荷神社を参拝した後に、職場へ歩行でゴー。 聖橋は「ひじりばし」という発音で、湯島聖堂とニコライ堂を結ぶ橋という意味で多くの方に公募へ出されたという。聖橋から丸の内線、総武線、中央線の電車が交差するタイミングを狙って写真を撮ろうとする方も多いが、仕事が控えてあるので、このようなタイミングを待つ時間がない。 ただし、せっかくだから、湯島聖堂へ参拝。元々上野忍ヶ岡にあった幕府儒臣・林羅山の邸内に設けられた孔子廟を元禄3年(1690年)、五代将軍綱吉がここに移し、規模を拡大・整頓し、官学の府とした。この時から「聖堂」と呼ぶようになった。 一般見学なら正門は、仰高門となる。 楷樹。中国の曲阜にある孔子の墓所に植えられている木。大正4年(1915年)、林学博士白澤保美が曲阜から種子を持ち帰り、東京目黒の農商務省林業試験場で苗に仕立てた。そして苗は湯島聖堂をはじめ儒学に関係深い所で植えられたという。 世界最大と言われる孔子銅像。昭和50年(1975年)台湾台北市のライオンズ・クラブからの寄贈。 入徳門。宝永元年(1704)に建造。聖堂で唯一の木造建築という。聖橋から降りるなら仰高門ではなく、入徳門から直接に湯島聖堂への参拝ができる。ただし御朱印をもらうなら、仰高門の近くにあり、湯島聖堂を管理する斯文会の事務所へ行かなくてはならない。 大成殿。孔子廟の正殿ということ。中へ見学できるが、時間がないので参拝だけした。ここは現地に移転された時にも林家の学問所であったが、寛政9年(1797年)に、11代将軍徳川家斉の時の幕府による規模拡大で、幕府直轄の「昌平坂学問所」となった。この時の設計は、かつて中国の明王朝の遺臣である朱舜水が徳川光圀のために製作した孔子廟の模型を参考にしたという。構内に神農廟という施設もあるが、神農祭を行う11月23日にのみ見学できるという。なお、学問所は明治維新の後にも新政府に引き継がれ、のち創立された東京大学の系譜にもつながる。
2024.03.30
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「二代目 谷瀬家」を出た後に、すぐ小さい神社を見た。 佐竹稲荷神社という神社だ。紹介によると、寛永12年(1635年)に、鬼門除けのため、久保田藩2代目当主の佐竹義隆が、佐竹氏江戸上屋敷に勧請したことに始まるという。佐竹藩の上屋敷は、いわゆる「八百屋お七」による放火事件で下谷三味線堀、今の台東区小島二丁目あたりに移ったが、屋敷のあった界隈に住んでいる方々は稲荷神社を再建し、佐竹家の家紋「扇に日の丸」を社紋とした。関東大震災で被災した際に現地へ移転したが、東京大空襲で再び焼失された。1950年代で再興された。本務社は神田明神。
2024.03.30
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母校での事務を終わったら、雨も少し弱まったため、歩数を確保したくて神楽坂界隈へ散歩。 途中に北野神社へ参拝。 創建の年代は不明だが、天神町というこの界隈の地名の由来である。境内社は、豊玉稲荷神社。ここの北野神社への参拝は2回目だった。本務社は東京メトロ神楽坂駅に近い赤城神社である。 赤城神社への参拝は去年の年始以来だった。あれ以来この辺までくる余裕がなかった。 主祭神は磐筒雄命(いわつつおのみこと)。相殿として赤城姫命(あかぎひめのみこと)を祀る。正安2年(1300年)、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊を勧請した。寛正元年(1460年)に太田道潅が神社を牛込早稲田の田島村牛込台(今の牛込見付附近)に遷座させた。弘治元年(1555年)に、大胡彦太郎重治の後裔に当たる大胡宮内少輔(牛込氏)が神社を現地に遷座したという。明治維新まで赤城大明神や赤城明神社と呼ばれ、天和3年(1683年)、徳川幕府によって江戸大社の列に加えられ、「日枝神社」「神田明神」と共に、「江戸の三社」とされた。太平洋戦争で社殿が全焼されたが、1950年代にかけて復興。平成21年(2009年)から22年にかけて「赤城神社 再生プロジェクト」と銘する工事が行われた。デザイン監修は、地元神楽坂に在住し同神社の氏子でもある、建築家の隈研吾が担当したという。平成23年(2011年)10月に2011年度グッドデザイン賞(ビジネスソリューションのデザイン)まで受賞した。 境内社の蛍雪天神。元々境内社として横寺町の北野神社(朝日天満宮)は明治年間で遷座されたが、戦災で焼失された。現在においても日本唯一の定期刊行の大学受験専門誌『蛍雪時代』を出版する旺文社の寄付で天神社の復興ができた。受験生の合格を祈願するという願いで蛍雪天神と呼ぶことになった。 境内社の八耳神社、出世稲荷神社、東照宮。 境内にある観音様、俳人巻阿の碑。 「赤城山と大百足」という神像。「赤城と日光の戦い」、赤城山の伝説という日本の昔話で赤城山の神様のムカデのこと。武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大で氏子会長がこの像を寄進したという。
2024.03.29
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浜川砲台から旧東海道を経由し北上。 今日の最後の散歩のスポットである品川寺に到着。入口の前に大きい地蔵菩薩の像が設置されている。江戸六地蔵の一つという。 弘法大師空海が開山し、平安時代前期の大同年間(806 – 810年)に創建された。品川区で最も古い寺。本来の寺号は金華山大円寺であったが、戦乱により荒廃するが、承応元年(1652年)に弘尊上人により再興され、山号が海照山、院号が普門院となった。ご本尊は水月観音と聖観音。東海七福神の毘沙門天も本堂で祀られるが御開帳はやはり1月のみ。 入り口のすく近くにある薬師堂。御朱印はここで求める。薬師如来、不動明王を祀る。 指定文化財の神変大菩薩の像。 境内にある指定文化財である金生七福神の石像。布袋尊と大黒天。 恵比寿天と寿老人。 福禄寿。 毘沙門天と弁財天。 時間的に東海七福神を祀るすべての寺院に行けるが、野原しんのすけくんが呼んでいるびっくり腰というぎっくり腰からの回復が遅いため、品川神社の階段に登るのがたぶん無理であろうと思い、日を改めて来よう。もちろん、勉強し直してからもう一回品川寺へ来なくてはならない。
2024.03.16
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天祖・諏訪神社への参拝が終わった後に大通りである第一京浜へ戻るために立会川駅方向への商店街に沿ってゴー。 ところで、なんと、公園の前に立った坂本龍馬の像と出会った。嘉永7年(1854年)のペリー来航の時、坂本龍馬は土佐藩品川下屋敷の近くにある鮫洲抱屋敷に築かれた浜川砲台の警護にあたっていたという。この界隈は、坂本龍馬による亀山社中の成立や薩長同盟の斡旋など行われた地と言われる。もともと高知市より、桂浜にある龍馬のブロンズ像と同じ姿のものが寄贈された。今の像は2代目で、景品ロータリークラブより寄贈され、二十歳のころの龍馬の顔、姿を再現させたものである。履物もブーツではなく草履と全国的にも珍しいブロンズ像である。 解説を読んだら、浜川砲台まで歩いて5分ほどしかかからないことがわかったため、当然見学しに行かなきゃ。 ペリーが嘉永6年(1853年)に一回目の来航の後に、江戸幕府は、次回は戦争になると想定し、江戸湾の防衛に力を入れよとしたが、土佐藩は、鮫洲抱屋敷に浜川砲台を築く願いを出した。八門の大砲が設置されたが、復元されたのはこの六貫目ホーイッスル砲である。ほかの藩が実物ではなく、大砲の見せかけの偽物を設置したのに対し、土佐藩はきちんとした大砲を装備したため、江戸っ子から称賛されたという。そして、浜川砲台には、佐久間象山が砲術・兵学を教えるために1851年に開いた五月塾で学んだ坂本龍馬がいた。
2024.03.16
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大井の水神社を参拝した後に、そのまま第一京浜を経由し、立会川駅方向へゴー。 狭い道で歩きたばこをする奴を避けるためにちょっと遠回りしたが、無事に天祖諏訪神社のへの道を見つけた。 天祖神社は、建久年間(1190年 - 1199年)で神明社として存在したためそれ以前に創建されたと思われる。諏訪神社は、松平土佐守の下屋敷の海岸寄りにあり、寛永8年(1631年)以前のものと言われている。土佐藩の下屋敷は大井にあったということからみれば、この松平土佐守は、たぶん松平を下賜されており、土佐守と任官されていた土佐藩の山内家のことであろう。両社は昭和40年(1965年)に合祀され、天祖諏訪神社と称されるようになった。 主祭神は天照大御神、豊受大神、建御名方刀美神、小碓命。建御名方刀美神は、諏訪神とも呼ばれ、信州にある諏訪大社が総本社となる諏訪神社が祀る神様である。小碓命は日本武尊の幼名である。 境内社の厳島神社である。なお、天祖・諏訪神社が合祀された時、同時に南大井二丁目にあり、今天祖・諏訪神社が本務社となる浜川神社から東海七福神の福禄寿も移された。
2024.03.16
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鹿嶋神社への参拝が終わった後に、池上通りから第一京浜へ向かう。 途中に大井の水神社へ参拝。ここは鹿嶋神社の境外社である。正面の鳥居の隣に二宮金次郎の像も立てられる。 この台地から湧き出していた地下水はかつてこの界隈で飲み水、農業用の水として使われており、そばに柳の木があったので、柳の水と呼ばれた。貞享2年(1685年)、桜井伊兵衛と大野忠左衛門が願主となり、九頭龍権現を勧請して祀った。そのため、もともと、「九頭龍権現水神社」と呼ばれる。明治時代までは、水の恩恵に感謝する、あるいは日照りになる際に村人がここへ集まって雨乞いをしていたと伝えられている。湧水は「柳の清水」と呼ばれ、歯痛を止めるのにも利益があったという。 明治時代になると祭神は水葉乃女命に変わったという。昭和53年(1978年)に品川区指定史跡、昭和63年(1988年)に、しながわ百景として認定される。
2024.03.16
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大森不動尊から出た後に、池上通りに沿って北上。 途中に昭和63年(1988年)にしながわ百景として認定される鹿嶋神社へ参拝。 境内はかなり静かだ。正殿もかなり歴史のあるものだと感じられる。安和2年(969年)に常行三昧寺の住職であった尊栄法印が全国の鹿島神社の総本社である鹿島神宮から分霊を勧請したことが由来だという。現在の社殿は1931年(昭和6年)に竣工された。主祭神は武甕槌神。ご利益は勝利祈願・必勝祈願・縁結び・安産祈願。また、防人や武士が旅に出る前、道中の無事を祈願していたことから「鹿島立ち」という言葉が生まれたため、鹿島神宮と全国の鹿島神社は旅の安全を祈願する神社としても知られる。 旧社殿は文久2年(1862年)に築かれ、精巧を極めた鎌倉彫の彫刻が施されている。これを後世に伝えるため、三峰神社、金刀比羅神社、天祖神社、八幡神社、稲荷神社を合祀する境内末社として移設して現存してある。
2024.03.16
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「中華そば 円月」から出た後に、池上通りに沿って大井町方向へゴー。 途中に大森不動尊と呼ばれる成田山圓能寺へ参拝。 元亀2年(1571年)、祐仙和尚によって創建された。ご本尊は不動明王である。元々の山号は海光山、院号は明王院であったが、昭和27年(1952年)に成田山新勝寺の末寺となり、成田山圓能寺へ改めた。ご本尊の不動明王の尊像は、後北条氏、つまり 北条早雲から、北条氏直が豊臣秀吉に滅ぼされたまで小田原城を本拠地とした北条氏ゆかりのものと言われる。
2024.03.16
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大森神社への参拝が終わった後に、そのまま京浜第一に沿って大森海岸駅方面へゴー。 15分ぐらい歩いたら、磐井神社が見えた。 創建の年代は不詳で、第30代天皇の敏達天皇時代(572~585年)と言われる。貞観元年(859年)「武蔵国従五位磐井神社官社に列す」ということで、武蔵国の八幡社の総社に定め、鈴森八幡宮という別名とも呼ばれるという。磐井神社からJR大森駅への大通りは、八幡通りという名前である。八幡宮ということで、祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、姫大神、大己貴命である。 境内には「東海七福神」のうちの弁財天(笠島弁天社)が祀られる。 また、境内社に稲荷神社がある。 大正天皇が皇太子時代の明治43年(1909年)1月17日に大森方面へ行啓した際に、ここにも立ち寄った。氏子らがこれを記念するために大正4年(1915年)10月1日にこの碑を建立した。碑を書いたのは、当時正二位で、後備役の海軍大将の樺山資紀である。樺山資紀は海軍大臣、海軍軍令部長、初代台湾総督、内務大臣、文部大臣を歴任した大物の海軍軍人である。 社名の由来は大田区の指定文化財と指定される「磐井の井戸」である。かつて境内にあり、東海道往来の旅人に利用されていた。「この水を飲む時は、心正しければ清水。邪心があれば塩水になる」と言い伝えがあり、霊水・薬水とも呼ばれていたという。第一京浜国道の建設により、拡境域がせばめられたため、神社前の歩道上に残されることになった。書いたのは元子爵の立花種忠である。この界隈は1932年まで入新井町の一部である。立花種忠は入新井町の町長を務めていた。
2024.03.16
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大森浅間神社への参拝が終わった後に、そのまま環七に沿って第一京浜へ向かって、第一京浜に沿って北上。 途中に大森神社を見た。 主祭神は木の神・久久能智命(くくのちのみこと)。神社は寄來さまとも呼ばれる。天正年間で、海上に金色に光り輝く像が岸辺に流れ着いたが、村民達は畏れて像を沖に3度も押し流したものの、また元の場所によって来たということで、祠を建ててこの像を祀ったという起源らしい。明治元年に神祇伯の白川資訓王より大森神社の社号並びに額面をもらい、大森神社という呼称となった。東京大空襲により社殿が焼失され、昭和38年(1963年)に再建、平成17年(2005年)改修された。御朱印は社務所へ書いてもらうか、書置きをもらうということであるが、人がいないようでそのまま神社を後にした。
2024.03.16
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ラーメン大木戸から出た後に、すぐ職場に帰ろうと思ったが、せっかくだからやはりこの辺で少々散歩しようと決め、東邦医大通に沿って大森界隈へゴー。 途中に大森浅間神社へ参拝。 富士山本宮浅間大社は、富士山を神体山として祀る神社であり、日本全国の浅間神社の総本社である。大森浅間神社は、江戸時代において、富士浅間神社を東海道通路の要衝である大森に勧請したことで創建されたという。富士講の流行によって各地に作られた浅間神社の1つでもある。江戸幕府八代将軍徳川吉宗の時代で創建されたともいわれる。主祭神は、浅間大社と同じ、別称が浅間大神の木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)である。 火防・安産・子育て・縁結びの神という。境内社は稲荷神社である。なお、馬込浅間神社の兼務社でもある。
2024.03.16
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田中そば店から出た後に蔵前通り経由で出勤。 途中に圓満寺へ参拝。宝永7年(1710年)、室町幕府第13代将軍足利義輝の孫と言われる木食義高によって開山された。このため、木食寺とも呼ばれる。明治初期の火災、関東大震災、東京大空襲によってたびたび焼失されるが、そのたびに再建。旧本尊は七観音であったが、今のご本尊は不動明王。真言宗御室派総本山仁和寺の東京事務所でもある。 御府内八十八ヶ所霊場32番札所であるが、武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大で9階の御本堂へ参拝が中止となっている。ただし、御朱印の配布が行われている。ただの雑居ビルのように見えるが、アラームを鳴らさずにそのままビルに入り、エレベーターで8階に登れば、御朱印と賽銭箱が見える。
2024.03.13
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土曜日だがやはり出勤。しかしブランチを摂る前にちょっと寄り道。 第18回ねこまつりの会場である猫祭神社に来た 湯島界隈の飲食店や雑貨店、保護猫カフェや本屋さんなど様々なお店が参加して、毎年2月と9月の約1か月に渡って開催している「ねこ」をテーマにした地域活動である。食事と買い物して押してもらったスタンプを揃えば、限定のTシャツももらえる。土曜日のみ「参拝」できる猫祭神社でねこまつりのキャラクターのサブちゃんのグッズもイベント開催中に売る。猫祭神社の御朱印だけではなく、サブちゃんが宮司として現場で捺印する御朱印も配布。近所の妻恋神社もこの活動に協力しており、ねこまつり限定の御朱印を配布。今回のねこまつりは明日までだが、猫祭神社の参拝は今日まで。
2024.03.09
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愛宕神社から再び出世の石段を降りた後に、虎ノ門駅へ歩行し、銀座線で末広町を降りた。 去年の1月以来ぶりの神田明神へ参拝。 正面の随神門。文化財ではなく、昭和50年に昭和天皇即位50年の記念事業として新たに再建されたのである。長崎平和祈念像制作者である北村西望監修、松下幸之助氏奉納という。 正式の名前は神田神社である。天平2年創立。3柱を祭神とする。一ノ宮は大己貴命(オオナムチノミコト)、つまり大黒様、だいこく様)。天平2年(730年)鎮座。二ノ宮は少彦名命(スクナヒコナノミコト)、つまりえびす様。明治7年(1874年)に大洗磯前神社より奉祀。三ノ宮は平将門命(タイラノマサカドノミコト、まさかど様)。延慶2年(1309年)奉祀、明治7年(1874年)に構内の将門神社に遷座、昭和59年(1984年)に本殿に奉祀復帰。境内の末社もかなり多い。東京大空襲の時に境内に焼夷弾が落ちたのに本殿と拝殿は消失を免れた。 境内にも大黒天の尊像がある。 文化交流会館にえびす様の尊像も設置される。 神田と言えばやはり銭形平次であろう。銭形平次碑は、昭和45年12月、有志の作家と出版社なとか発起人となって明神下を見下ろす場所に建立されたものである。大映の映画「銭形平次捕物控シリーズ」を主演した長谷川一夫、フジテレビ系のドラマ「銭形平次」を主演した二代目大川橋蔵も発起人として名を連ねる。
2024.03.04
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笠間稲荷神社東京別社から出た後に、人形町から日比谷線で虎ノ門ヒルズを降りた。 あちこちで工事が行われているので、道がわからなくなったが、東京タワーを目印で無事に愛宕神社を見つけた。 京都の愛宕神社が総本社の愛宕神社は、1603年(慶長8年)に徳川家康の命によって創建され、東京都区部の天然の山として一番の高い25.7メートルの愛宕山にあるのだ。正面の男坂の階段は「出世の石段」と呼ばれ、86段で、約40度の傾斜である。実際に階段の高さも普通の階段よりやや半分ぐらい高いかと感じられる。ウォーキングで鍛えているのに一気に登ったもののやはりきつい。 ところで、「出世の石段」は、高松藩士の曲垣平九郎が江戸幕府三代将軍徳川家光の命で愛宕山上の梅花を折りに乗馬のまま石段を上下したことで、家光に「日本一の馬術の名人」と称賛され、全国で名を知られたという逸話が由来で、「寛永三馬術」という講談の元ともなったが、曲垣平九郎はのち結構大変な人生を送られたのだ。務めていた生駒家、その後に務めていた越前のお家も潰れたため、結局浪人となり生没年未詳。ネットでは彼が越前の徳川忠長に仕えたという情報もあったが、徳川忠長は生駒騒動の前にすでに死罪で亡くなったし、越前とも無関係であった。また、越前と言えば徳川家康の次男、結城秀康を家祖とする越前松平家、福井松平家だが、松平忠直の追放は二代将軍徳川秀忠時代だったし、不祥事として挙げられる松平光通の自害で福井藩が潰れたわけでもない。いずれにせよ、曲垣平九郎は出世どころか不運と言ってもよかろう。 出世の石段に登ったら石でできた一の鳥居と正殿が見える。 主祭神は火産霊命で火の神である。水の神様である罔象女命(みずはのめのみこと)、山の神様である大山祇命(おおやまづみのみこと)、武徳の神様である日本武尊、将軍地蔵尊・普賢大菩薩が配祀。 境内末社は、猿田彦神を祀る太郎坊神社、宇迦御魂神を祀る福寿稲荷神社、大國主命・事代主命を祀る恵比寿大黒社である。 鯉のいる池や、龍神様の滝が整備中のため、橋を渡って市杵島姫命を祀る弁財天舎へ参拝することができない。 境内にも猫が多いようだ。神社側も、可愛がってくださいという旨の告知を出している。御年で目が悪いらしいこの子に撫でることを許されたのだ。
2024.03.04
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薬研堀不動院から出た後に、電車で移動するために人形町駅へ。 途中に笠間稲荷神社の東京別社へ参拝。主祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)であるが、日本橋七福神の寿老神も祀る。いろんな説があるが、茨城県笠間市にある笠間稲荷神社は日本三大稲荷の一つとされ、白雉(はくち)2年(651年)に創建されたと言われる。江戸時代における歴代笠間藩主は笠間稲荷神社に崇敬が厚かった。徳川吉宗時代で京都所司代を務めた牧野貞通は笠間藩に転封した時、先祖で成貞系牧野家初代である牧野成貞が徳川綱吉から拝領した下屋敷だった土地に本社から分霊を勧請した。関東大震災、東京大空襲によって社殿が二度と焼失されたが、本社の協力で、1978年に今の社殿ができたのだ。末社の「寿老神社」は日本橋七福神の寿老神を祀る。本社も常陸七福神の大黒天を祀るのだ。
2024.03.04
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水天宮から出た後に、東日本橋界隈へ歩行でゴー。 薬研堀不動院へ参拝。ご本尊は不動明王。目黒不動、目白不動とともに江戸三大不動として知られている。不動明王の尊像は、保延3年(1137年)に、真言宗中興の祖・興教大師・覚鑁上人が紀州の根来寺に安置されたものである。天正13年(1585年)、豊臣秀吉の軍勢から尊像を守るために、根来寺の大印僧都が背負って関東へ、隅田川にたどり着いた。天正19年(1591年に堂宇が建立され、薬研堀不動院のはじまりという。いろんな変遷で、明治25年(1892年)に真言宗智山派大本山川崎大師平間寺の別院となった。 境内の聖徳太子碑は、昭和35年までここの住職であった宮原隆浩が書いたという。 境内の弘法大師像と順天堂発祥之地碑。薬研堀不動院は、順天堂の学祖である佐藤泰然が天保9年(1838年)に和蘭医学塾を開講した地に入っている。順天堂の申し出で不動院の境内に碑が建立されたという。 江戸講釈は、元禄時代で赤松清左衛門が浅草見附辺の町辻で太平記を講じたのが発祥であったという。「太平記場起原之碑」は安政5年(1858年)に建立され、その後不動院の境内に移された。碑は関東大震災の時に消滅されたが、弘法大師1150年御遂忌を記念して、新たに碑が建てられた。不動院のホールでも不定期に講談会が行われる。
2024.03.04
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しののめヌードルを出た後に、錦糸町に戻り、半蔵門線に乗り、次の場所へ移動。 水天宮前を降りた。この界隈を降りたのも、1年半ほどぶりだった。そのまま水天宮へ参拝。福岡県久留米市にある久留米水天宮の分社であり、子授かり、安産祈願で有名。2013年から改築されたが、2016年から今の社殿は開放された。正殿のすぐ近くに屋根があり、ベビーカーを置くための「駐車場」が設置された。まさに赤ちゃんを連れて参拝しに来る夫婦のためのものである。これから出産の家族のために参拝。 主祭神は、天御中主神、安徳天皇、高倉平中宮(建礼門院、平徳子)、二位の尼(平時子)である。天御中主神は、『古事記』では冒頭の記述において天地開闢の時に最初に現れた神であるという。水天宮は天御中主神を主祭神としている。二位の尼は、平清盛の継室であり、平氏が滅亡した壇ノ浦の戦いで安徳天皇を抱いて海に投身自害した。安徳天皇は、歴代の天皇の中で最も若くて崩御し、かつ戦乱で落命したことが記録されている唯一の天皇であるという。建礼門院は平清盛の娘で、安徳天皇の母であり、壇ノ浦の戦いで海に投身自害しようとしたが救助された、あるいは二位の尼から、平家一門の菩提を弔うために生きるよう命じられたという。いずれにせよ、罪を問われずに、のち出家して直如覚尼と名乗った。 境内の寳生辨財天(市杵島姫神社)は久留米藩の有馬家下屋敷に祀られていた辨財天を祀る。水天宮の辨財天は日本橋七福神の一つである。なお、ここでの有馬家は、有名なキリシタン大名の有馬晴信と関係なく、摂津有馬氏のことである。今の宮司有馬頼央は、有馬家の第17代当主であるという。 境内社の火風神社、秋葉神社、高尾神社。 子犬を見つめる母犬の像「子宝いぬ」を撫でると子宝のご利益があると言われる。 安産子育河童は、お母さんが赤ちゃんを抱えているカッパということである。
2024.03.04
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萬福寺から出た後に、そのまま柴又街道に戻り、京成柴又線の線路に沿って金町へ。 途中に良観寺へ参拝。 真言宗豊山派の寺院で、弘誓山という山号である。創建年代は不明であるが、江戸時代初期あるいは室町時代後期にすでに念仏堂として建てられ、この地にあると言われる。ご本尊は観音菩薩である。柴又七福神の寶袋尊も祀る。布袋尊ではなく、寶の字を使って寶袋尊という名前を使うのも珍しい。望みを言いながら寶袋尊の腹を3回時計回りで撫でると叶うという。「願掛け寶袋尊」とも言われる。南葛八十八ヶ所霊場52番札所でもあるため、ご本尊と寶袋尊だけではなく、札所の御朱印も対応している。
2024.03.02
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真勝院から出た後に少し新柴又方向へふらふらしてから、帰宅しよう。 途中に萬福寺へ参拝。 曹洞宗の寺院で、聖閣山が山号である。ご本尊は釈迦牟尼佛である。柴又七福神の福禄寿も祀る。昭和に建立されたためかなり新しい寺院である。座禅会、写経会 御詠歌会、ヨーガ教室も行い、積極的に柴又でコミュニティを作ろうとしている。柴又七福神めぐりの寺院の中で、ここも御朱印の対応をしている。
2024.03.02
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オカモトモノガタリから出た後に、そのまま京成金町線に沿って柴又へ散歩。 柴又帝釈天へ参拝してから、すぐ近くにある真勝院へ参拝。 大同元年(806年)に開山したが、詳しい経緯が伝えられていない。ただし、柴又界隈で最も古い寺に違いない。ご本尊は不動明王。柴又七福神の中の弁財天も祀る。七福神めぐりの寺院は、年始以外の時期に人がないあるいは御朱印の対応をしないことも多いが、ここは、御朱印の対応をしている。 境内の五智如来石像は1660年に建てられた文化財である。右から阿閦(阿しゅく)如来・宝生如来・大日如来・阿弥陀如来・不空成就如来という順である。
2024.03.02
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となみを出た後に、松戸駅周辺へ移動。 駅周辺で買い物する予定なので、先に松戸神社へ参拝。 御朱印をいただくことを考えれば、松戸神社の境内に入る前に近くにある末社の松先稲荷神社へ参拝したほうが順路。松先稲荷神社は創建の年代が不明であるが、稲荷様は京都の伏見稲荷大社から勧請したという。今の社殿は昭和57年に再建された。境内に庚申塔と弁財天も祀られる。 坂川という川は、松戸市で桜の花見の名所でもある。 今一番咲いているのは、松戸から撤退した伊勢丹が寄贈した桜だ。 主祭神は、日本武尊。景行天皇40年、日本武尊が武蔵国へ向かう際に、ここに陣営を設けて従将の吉備武彦(きびたけひこ)連と大伴武日(おおとものたけひ)連の方々と待ち合わせをしたという。「待つ郷」(まつさと)=「待土」(まつど)と呼ばれ、「松戸」の地名が生まれたと言われている。水戸街道という水戸から江戸への重要な街道にあり、かつ松戸宿も宿場として機能してきた。このため、松戸神社は水戸徳川家から多くの品を奉納されたが、元文4年(1739年)の松戸宿の大火にて社殿及び奉納品も焼失された。水戸と言えば、水戸黄門であろうが、松戸神社もまさに、水戸光圀ゆかりの地でもある。 秋葉神社は松戸神社の境内にある末社であり、火防・災害除けの神様「火之迦具土大神」を祀る。由来がわからないが、松戸が震災や戦火を免れることができたのは、松戸神社や秋葉神社を祀っていると言われる。
2024.03.01
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日本に戻った翌日にすぐ出勤。実際に帰宅してから夜3時まで荷物の整理をしていたので、ある意味できつい。ただし、今日は事務作業のみなので比較的に楽。 もちろん、出勤の前に湯島天神へ参拝。ちょうど第67回湯島天神梅まつりの期間中だ。 湯島天神の公式フェイスブックからみれば、今年の梅まつりはかなり盛大で行われたようだ。3月8日までだが、限定の御朱印は数量が限られるためその前に配布終了の可能性が高い。
2024.02.28
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日曜日だが、やはり仕事で出かけなくてはならない。ただし、今週から外回りの仕事でかなり疲れそうなので、少し軽いスケジュールで日曜日の仕事を済ませよう。 参拝の途中に台湾新文化運動記念館に来た。ここは二代目の台北北警察署として1933年に完成された。は、戦後も警察署として使われており、1998年に台北市の文化財として認められた。 すでに言っていたように、大稲埕界隈は清王朝時代の後半から日本植民地統治時代にかけて経済・社会・文化の中心である。1920年代から台湾における知識人・文化人は文化活動の質を高めていくことを奨励するという文化啓蒙活動とともに帝国議会に、イギリスのアイルランド議会をモデルとした台湾独自の議会の設置を求める台湾議会設置運動を始めた。それとともに多くの社会活動も始まった。台湾議会の設置については、1919年に亡くなった板垣退助をはじめ、日本本土からの支持・支援も得ていたが、一部の社会運動は総督府によって弾圧された。逮捕された方々の多くは台北北警察署で拘束されたため、2006年に台湾新文化運動紀念館としての再利用が決まり、2018年10月14日に開館された。当時の牢屋、尋問室も復元された。 牢屋を監視する場所も復元された。
2024.02.18
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天馬茶房の跡地からさらに東へ進んだら建成円環、つまりロータリーの跡地に到着。 建成ロータリーは日本植民地統治時代で公園として整備された。周辺では、鉄道の運営によって徐々に屋台が集まり、屋台街、夜市へ発展してきた。 太平洋戦争の時、防空用貯水池とされた。 戦後になって夜市、屋台街が復活してきたが、ほかの界隈の発展によって徐々に衰退し、さらに1990年代で起きた2回の火事で荒廃してしまった。のち台北市政府はフードコートの施設を建設し、ロータリーの復活を図ったが、経営不振で施設が閉鎖された。再開業もあったが、最終的に施設が閉業して取り壊された。現在建成ロータリーの跡地は公園として整備されることになった。整備の際に発見された防空貯水池の跡も公園の一部として保存される。
2024.02.15
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