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フランクフルト巻き&納豆巻弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、不思議少女Sさんから返信が着た中学三年生時代小学5,6年の頃は良くモテて、本命除く言い寄る女子には冷たい私でしたが・・・・不思議少女Sさんにも理想の本命像ってのがあったのでしょう。それに適わぬ者には冷淡な態度を示す気持ちは判りますが、それが私に向けられたわけでして「こんなはずでは・・・・」となった次第です。そんな女性のどこが良いのか。自分に対して何も気遣ってくれない相手を、果たして永く想い続けられる方が不思議なのかもしれませんが、やはりファンなんでしょうかね。ファンにとってみれば女優・吉永小百合は、人妻となっても、某政治団体に担がれ利用されても、サユリストにとって吉永小百合は吉永小百合であるように、私にとって不思議少女Sさんは不思議少女Sさんなんです。
2019年12月31日
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エビ天入り年越しそばさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、不思議少女Sさんから返信が着た中学三年生時代ああだこうだ言ってますが、早い話がフラれたんですよ・・・・そりゃぁ、熱が冷めかけていたと言っても、納得いかない気持ちも当然ありましたよ。第三者からすれば「はよ気付けよ」とか「当たり前だろ。鏡を見ろ」ってな感じでしょうかね。ただ、不思議少女Sさんだけが冷淡かといえば、そうでもないですね。私にもモテた時期がありましてね、小学5,6年の時は2人、3人どころではなく、4人、5人と私を好きだと言ってくれた女子は居たんです。本命は1人です。その他の女子から言い寄られると、その子を嫌ったもんです。意地の悪い事を言ったりしたもんです。
2019年12月30日
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白身魚フライ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、不思議少女Sさんから返信が着た中学三年生時代自分が書いた十数通のラブレターの内容はほとんど覚えて居ないんですが・・・・芸能人に対するファンレターに似ていたのかなと思います。共通の趣味も話題も無かったので、ただ単に憧れていたわけですから、とりあえず気持ちを伝えて文通でもできれば良いかなと思っていたかどうかは、自分でもハッキリとは思い起こせません。要は返事が来なければ関係は進まないわけでして、焦って2通目、3通目と他愛もない話題を書き続けたのは間違いありません。何に期待したのかと考えてみると、やはり中1時が楽しすぎたので、不思議少女Sさんの普段の言動を考えると、もっと素早く友好的に、気さくに返事をくれるものだと思っていたのは確かです。現実は彼女にして見れば、引越し間際から悩みと不安が絶えなかったのだろうと思います。そして引越した先での中学生活も、慣れるまでは神経をかなりすり減らしたはずです。中1時のような精神状態でもなく、成長過程でもあったので御自分で手紙に書いてあったように、性格も変わってしまったと思ったのでしょう。そんな中で送り続けてくる手紙には対処にも困ったはずであり、それを踏まえて私もじっくりと攻め落とす知恵と長く待つ姿勢で挑めばと、今だから思えています。
2019年12月30日
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かき揚げと芋天の年越しそばさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、不思議少女Sさんから返信が着た中学三年生時代不思議少女Sさんの手紙は冷淡な文章だと思ったんですが・・・・前にも書きましたが、ラブレターというものは恋人同士や夫婦であれば出し合って当然であり、長く続くやり取りになると思いますが、片想いのラブレターとなると、受け取った側はダイレクトメールをもらったようなんもんであり、出した私の方は自分を売り込むセールスマンってところかな。ですから、不思議少女Sさんは決して返事を書く義務などないんです。むしろ、返事が一か月ぐらいたっても来なければ、その時点で察するべきだったのです。返事が来ないのに何通も送り、挙句は返信用切手まで同封して返事を催促したのです。とはいえ、今だからこんな余裕のある事を言ってますが、押しの一手が当然だと思って居た時代だったのです。何に期待をしていたのか、「こんなはずでは」と思った事も確かです。それにしても不思議少女Sさんの手紙内容は良く覚えて居ますが、自分が書いた十数通の内容はほとんど覚えておりません。
2019年12月29日
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2019年12月29日
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卵を絡めたモヤシとピーマン炒め弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、不思議少女Sさんから返信が着た中学三年生時代たった一通の返信手紙の中には、不思議少女Sさんの吹っ切れた感情が籠っていたんですが・・・・「何度も読み返した」と、不思議少女Sさんの手紙には記してありました。「雑で読みにくかったけど、気持ちは良く分かりました」と、ありました。そうなんです。照れ隠しのためか、変な書き方をしてしまったのに、その本意は読み取ってくれたのでしょう。しかし、やはり彼女の手紙内容の第一印象は「あっさり」「冷淡」という感じ。不思議少女Sさんも大いに悩んだとは思いますが、好きな人ができてしまっては、ハッキリと決着を付けるしかなかったんだと思います。こちらも熱は冷めかけていたのですが、何とも複雑な気分で、自分でも本心が分からない状態の中、すぐに了解の返信を彼女に出すべきだろうと考えました。「つらい」という言葉には勝てません。それを解くべく最善の方法は、早急に不思議少女Sさんに「諦め」の返信を書き、安心させる事なのは理解していましたが、またそこでいい加減な書き方をしてしまった事を覚えております。殴り書きのような感じだったと思います。諦めた事は伝わったのでしょうけど、彼女がその変な書き方の手紙をどう感じたのか、と思うともっと丁寧に書くべきだったと悔やむしかありません。
2019年12月29日
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2019年12月28日
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日清焼そばさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、不思議少女Sさんから返信が着た中学三年生時代新興宗教信者の集まる我が家の喧騒の中、自称勉強部屋で手紙を拝読したんですが・・・・
2019年12月28日
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エノキダケ炒飯巻き弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、不思議少女Sさんから返信が着た中学三年生時代待ちに待ったラブレターの返信が届いたのですが・・・・歌手・あべ静江氏の「みずいろの手紙」は、1973年度リリースですから中2時のヒット曲です。遠く離れてしまった恋人と、接する機会が減って、このまま捨てられ仕舞うのではないかと、よぎる不安を隠して楽し気な手紙を送り続ける、といったような女心の詞の内容ですが、水色は涙色、なんだそうで、まさに水色の、行の仕切り線の無い2枚の便箋に、不思議少女Sさんの当時の心境が真っ正直に書き著されておりました。夏休みに入ってほんの2~3日の事です。良く覚えております。消印は7月24日。届いた日は7月26日。その日が何曜日だったのか調べてみますと、金曜日です。そしてこの「26日」という日は、両親が信仰していた新興宗教信者が自宅に20~30人ほど集まる日でして2つの6畳間は信者で一杯なので、自称勉強部屋と言われる狭い空間で、不思議少女Sさんからの水色の便箋を拝読したのです。
2019年12月27日
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春巻弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、不思議少女Sさんから返信が着た中学三年生時代来ました来ました、やっと来ましたラブレターの返事でしたが・・・・思い起こせば中2時の秋ごろだったか、下校して自宅の郵便ポストの蓋を開けて中を確認する日々。中3時となってもそんな日々が続きましたが、夏前には熱も冷め始めて手紙も書かなくなっておりましたところに、絶妙のタイミングで不思議少女Sさんから手紙が届いたのであります。この「絶妙」というのは、萎えかけた気持ちにトドメを刺す、という事であります。中2時の頃、歌手のあべ静江氏の「みずいろの手紙」という曲がヒットしており、不思議少女Sさんからの手紙も、まさしく水色の便箋でした。その色を観た瞬間、内容を読む前に察するものがありました。
2019年12月26日
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焼きうどんナポリタン弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、トランプばかりしていた中学三年生時代色々と心に引っかかる所のある新友人Mくんでしたが・・・・女子生徒3人とグループとなってトランプをし始めたのは夏休み以降だったかと記憶しております。以前にも書きましたが、どのような経緯で女子3人とグループ形成をとったのかまったく覚えがありません。夏以前、中3となって暫くは不思議少女Sさんからの返事を待つことがメインな毎日であった事は良く覚えておりますが、そのラブレターもひと月に2~3通ぐらい送っていたのが、5月か6月頃には間隔が空いて、夏休み前には既に1か月近く送らなくなっていたと記憶しております。半ば諦めていたのか、私の恋心が薄れていたのかもしれませんが、夏休みに入った直後に、待ちに待った不思議少女Sさんからの返信が届いたのです。
2019年12月25日
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刺身定食(マグロ赤身)さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、トランプばかりしていた中学三年生時代別のクラスとなった新友人 I くんも相変わらず新友人Mくんの陰口を言っておりましたが・・・・クラスが別々となったといっても学習塾では顔を合わせる I くんとMくん、そして私の3人でしたが、新友人Mくんのそのワンマンさに良い感情は持っていませんでしたので、陰口を言われても仕方がないかなと思っておりました。I くんが言うには、新友人Mくんが放課後に誰かとトランプをしていると、いじめっこYくんがやって来て暫しゲームの状況を見学していたらしく、Yくんが何か質問をした時に新友人Mくんが否定的な言葉を返したので、いじめっこYくんが「生意気だな、こいつ・・・・」と、穏やかならぬ気配が漂った時に、新友人Mくんのトランプをめくる手が微かに震えていたと、新友人 I くんは教えてくれましたが、俄かに信じ難くも内心は溜飲を下げたもんでした。
2019年12月24日
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モヤシ炒め&ヒレカツ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、トランプばかりしていた中学三年生時代チームリーダーくん平手打ち事件後も、いつものように新友人Mくんとつるむ毎日でしたが・・・・校内で不良に絡まれる事は珍しくない事ではありますが、非日常的な出来事には暫し気が沈みます。思い起こせば、親友Hくんは中々の漢でした。中1時に喧嘩っ早いMくんから幾度かチョッカイをかけられていた親友Hくん。体育の時間などで後方に陣取った喧嘩っ早いMくんから何かと小突かれたり抓られたりの嫌がらせに対しても怯むことなく、「なんだよ? やめろよ」と堂々と反抗し、それ以上の行為をさせなかったのです。普段は大人しい親友Hくんの確固たるプライドを見せてもらったものです。その時も私は仲裁に入る気は全く無かったのですが、新友人Mくんの事件の時の無介入とは訳が違い、陰ながら新友人Mくんに対し悪評を持っていた私は、中3時で別クラスとなった新友人 I くんからも相変わらず新友人Mくんの悪評を良く聞かされておりました。
2019年12月23日
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焼きもち(醤油)さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、トランプばかりしていた中学三年生時代大躍進する前に思わぬ災難に遭った新友人Mくんでしたが・・・・我が体操部の同輩、チームリーダーくんは新友人Mくんの反発に怯んだわけではないのですがひとまずはその場を離れるべく、「おぼえとけよ」といった類の脅し文句を言ったか言わなかったかハッキリ覚えておりませんが、とりあえず怪しい雲行きはなくなりました。しかし、新友人Mくんと私は暫く沈黙したまましゃがみこんで、お互いに種類の違う気まずさを感じていたと思います。新友人Mくんは他人から妙な因縁を付けられてその後の不安も考えて居ただろうし、私の態度に不信感もあったと思いますが、そこは沈黙と生活の流れの中で消えていく程度のものだったと思います。対して私はどうだったか。自分の所為もあっただろうし、それが薄々ばれたかなとも思いましたが、それ以上に自分たちの男らしさとしての程度が知れた瞬間でもありました。
2019年12月22日
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2019年12月21日
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カキフライ定食さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、トランプばかりしていた中学三年生時代体操部同輩から因縁を付けられ、反抗した新友人Mくんでしたが・・・・新友人Mくんにしてみれば、なぜに面識のあまりないチームリーダーくんから因縁を付けられぺチぺチとからかうような平手打ちを2,3発も喰らわされなければならないのか、納得がいかなかったと思いますが、チームリーダーくんの言い草や、何の引き止めもしなかった私の態度から、原因が何なのか察していたかもしれません。しかし、あれぐらいの反抗なら私でもできました。中1時に喧嘩っ早いMくんが早速弱いものを探して悪さをしていたんですが、私のところへやって来て「おい、こら」とか言ってからかい始めた時に、「何もしていない者になぜそんな事をするんだ?」と、反抗したことがありました。まだ入学したばかりで相手の悪さの程度も知らなかったので言えたんだと思いますが、「そうだよな」と納得して引き下がった喧嘩っ早いMくんも、わりと話の分かる人物だったので事なきを得たのでしょう。とにかく新友人Mくんも私も、誰かから因縁を付けられて凄まれても、あまり格好良く反抗の出来る男ではありませんでした。「なんだとぉ?」とか言って逆に凄んで相手をぶっ倒すぐらいの「漢」には誰もが憧れるんですがね。
2019年12月21日
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フランクフルト弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、トランプばかりしていた中学三年生時代新友人Mくんはトランプ遊びからモテモテになっていくんですが・・・・そもそも「新友人」などと言ってもすでに1年以上たったわけですから、その当時にすれば一番気心の知れた友人だったのは事実ですし、小学生からの親友Hくんやその他の我がC学区の友人だった者たちとの交流は皆無となっておりました。さて、その新友人Mくんですが、中3時当初はクラス内での評判もイマイチで、私も体操部仲間にはMくんの事は悪く吹聴していた節はありました。体操部の同輩であるチームリーダーくんは、体格がでぶっとしていたので競技よりも世話係として「チームリーダー」係を担った存在でしたが、私と新友人Mくんが放課後に渡り廊下で雑談していると、私には愛想よく笑みを浮かべて近付いて来たチームリーダーくんは、新友人Mくんには何やら因縁を付けてチョッカイを出してきました。それも私が普段、Mくんの事を悪く言っている所為ではありますが、チームリーダーくんからMくんは軽く平手打ちを数発喰らうと、やや緊張気味に「そっちが叩いたんならこっちも叩かせてもらう」と言って新友人Mくんは精一杯の反抗を示したのです。
2019年12月20日
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富有柿さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、トランプばかりしていた中学三年生時代男女交じって「セブンブリッジ」というトランプゲームをしていたんですが・・・・ここから新友人Mくんの快進撃が始まったような気がします。どのような経緯から男女のグループが形成されたのか全く思い出せませんが、最終的には私と新友人Mくんは某女子生徒3人とトランプをするような仲間になっていき、教室内でトランプをしているグループは私たちだけになっていたと思います。新友人Mくんの快進撃とは、要するにモテモテになってしまい、Mくん一人が女子生徒3人から好かれてしまう独占状態となってしまうんです。
2019年12月19日
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餃子たまご焼き弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、トランプばかりしていた中学三年生時代誰が持ってきたのか、誰から始めていたのか、トランプが教室で流行り出しまして・・・・教室のあちこちで数人が集まってトランプをしてました。そのトランプゲームの種類と言えば「ばばぬき」とか数字合わせの「神経衰弱」、「七並べ」「ポーカー」等々色々ありますが、我々が主に楽しんでいたのは「セブンブリッジ」というものでゲームのルールは忘れてしまいましたが、ちょっと検索してみますと、配布された7枚のカードから麻雀のように揃ったカード3枚を「チィ」とか「ポン」とか言って公開し、一枚捨てたりして進んでいくもので、最終的に全部持ちカードを完成させて捨てる事が出来た人が勝ちとなるそうです。そんなトランプゲームを男女交じってやっていたのです。
2019年12月18日
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白味噌汁雑煮さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、後輩が出来た中学三年生時代新友人Mくんとは弁当を差し向かいで食べて居ましたが・・・・食べるのが遅い新友人Mくん、と言うか私が食べるのが早かったのでしょう。うまいもんはガブガブと無心に食べないと、旨味が逃げてしまうんです。ゆっくりと語らいながら時間をかけて食べていると、不味いものを食べているのだと「脳」が勘違いするのか分かりませんが、食欲が失せるんです。新友人Mくんは「自分のご飯は量が多いから、速度を合わせてくれ」と懇願してくるのです。ご飯の量などほとんど同じだったのですがね。そんな春から夏にかけての頃は、まだまだ新友人Mくんは教室内での評判が芳しくなく、中2時の頃のような一種の凡人だったので、私たちが放課にやる事といったら、腕相撲をして勝ったり負けたり、もしくは誰が持ってきたのか定かではありませんが、トランプをしたりしていました。
2019年12月17日
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味噌汁(白みそ)と御飯さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、後輩が出来た中学三年生時代インスタントラーメンの種類が豊富にあった当時でしたが・・・・土曜の昼と言えばラーメンと御飯でした。テレビで吉本新喜劇を観ながらラーメンとか焼きそばを食べていたという話をよく聞きますが本当にそんな感じでした。昼食後は再び登校して体操部の練習に参加していたという生活が基本行動でした。我が中学は月曜から土曜まで牛乳が配給されていて、牛乳保管場所に積まれたケースに余った牛乳を練習後に良く飲んだものですが、特に土曜は弁当の時間がないせいか飲まずに帰る生徒が多く、多く余っていた牛乳を2~3本拝借して飲んで帰ったもんです。平日の昼食と言えば、新友人Mくんと昼になると差し向かいで座り弁当を食べたもんですが、新友人Mくんは私より食べるのが遅く、「もうちょっとゆっくり食べて・・・・」と懇願される事が嫌でしたね。無言で弁当を胃袋にかき込む私には、食事中に会話など不要でしたからね。
2019年12月16日
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2019年12月15日
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生タラコめしさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、後輩が出来た中学三年生時代たまの土曜の昼に体操部員らと食べに行ったインスタントラーメンが旨かったんですが・・・・普段はお好み焼きなどを焼いてくれる駄菓子屋のおばさんは、棚にあるインスタントラーメン各種を注文に応じて作ってくれましたが、その作り方が面白く、でっかい薬缶で作ってくれるのでした。便利なのは粉末スープとともに丼に移されたゆで麺にお湯を薬缶口から注げるところでしょうか。当時は袋めんの種類も現在より多く、ジャンボ焼きそばなるものもあって、お湯切りなんかは薬缶ですから簡単でしたね。色男J先輩の弟くんとともに好んで食べた「焼きそばジャンボ」は特に美味かったな。薬缶でインスタントラーメンを作るの図
2019年12月15日
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焼きそばシュウマイ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、後輩が出来た中学三年生時代県大会も無事に終えられて、体操部員としては有終の美だったと思うんですが・・・・当時の教育界では土曜日も半日だけ授業がありまして、体操部の練習も土曜日は昼食後に夕方までみっちりと行っておりました。中学の近くにお好み焼きや焼きそばを焼いてくれる駄菓子屋があって、その店は珍しくインスタントラーメンも作ってくれる店でして、棚に各メーカーのインスタントラーメンが積まれており、鍋ではなくてでっかい薬缶でラーメンを作ってくれる店でして、そこで体操部員数名と土曜日、たまに昼食へと赴くのが楽しみの一つでありました。そんな店がある事を教えてくれたのが、ハッキリとした確信はないんですが、おそらく新友人のMくんかI くんだったと思いますが、ホントにたまにでしたけど、他の部員を誘って数回通いました。
2019年12月14日
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蒸し里芋さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、後輩が出来た中学三年生時代不安だった体操競技県大会も無事に終了したんですが・・・・跳馬が県で4位だった事は我ながら誇れる事でしたが、3位で新聞にでも小さな記事で載れば自慢しなくとも知れ渡ります。いくら私が「4位だったよ」と周囲に言った所で、自慢しているとか嘘だろ、と思われかねないので、県大会の事は学校では一切言いませんでした。誰かがそっと言ってくれれば良いなとは思いましたが、「4位だったんだって?」と言いに来た人は誰も居ませんでした。家庭内ではどうか? 当然自慢しましたが、3位以内での表彰に届かなかった原因について母親が一言、「朝、試合に出掛ける時に反抗したろ? そういう親不孝が祟ったんだよ」と。当時の私は親が信仰する新興宗教にドップリ浸かっていたので、本当に親不孝が祟ったのだと信じて居ました。
2019年12月13日
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納豆巻弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、後輩が出来た中学三年生時代体操競技県大会の跳馬で4位だったんですが・・・・思わぬ結果でした。市の大会時は種目別での順位発表はなく、団体と個人総合順位だけでしたので県大会で初めて自分の跳馬での実力位置を知る事が出来、驚いたもんです。床運動や苦手な鉄棒ほどの努力をした訳でもない跳馬でしたが、3位までですと新聞の県内版の片隅に小さな記事で結果が掲載され、自分の名前が出るのですが、非常に惜しい結果だったと私よりも顧問が悔しがっておりました。しかし、これでやっと体操部での試合も出収めとなり、後は秋の市の大会への神経を使わなくても済み、気楽に部の練習を見守るだけで良くなったのですから、良い幕引きだったと思います。
2019年12月12日
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自己流味噌ラーメンさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、後輩が出来た中学三年生時代試合会場では毎度、喧嘩っ早いMくんと貴公子Aくんはモテモテでしたが・・・・喧嘩っ早いMくんと貴公子Aくんは、体操選手としては長身でした。普通、五輪に出場するような体操選手でも160cm台が多いんですが、MくんAくんは170cm台前半くらいはあったように思います。中3時の私で155cmくらいでしたので、選手としては丁度よかったんですが、大柄なMくんとAくんは演技も豪快に映えて審査員の評価も高く、県大会でも種目別だったか個人総合だったかは忘れましたが彼らは表彰されました。県大会の競技は午前午後の2班に分かれて行われ、前半の部の跳馬で私は2位にいましたが、結局は4位で終了。喧嘩っ早いMくんらに付随してきた応援女子2人が、試合結果用紙にあった私の4位結果に「すごーい」と声を上げてくれました。素直に嬉しかったのですが、喧嘩っ早いMくんや貴公子Aくんの結果を観て、当然だと思ったのか彼女らの歓声はなかったものの、私に対する「すごーい」は「良くやったね坊や」てな感じのものかなと、半ば捻くれた感覚がありました。
2019年12月11日
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すき焼き弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、後輩が出来た中学三年生時代体操競技県大会に出場を渋々決意したんですが・・・・そもそも当時の中学体操競技は、市の大会ですと各校チーム4人で編成することとなっており中2時の新人大会から我が校は主将・副主将・金物屋のKYくん、そして私の4人で試合に挑んでおりました。だいたいこのメンバーで3回ほど試合をしましたが、県大会は特に人数制限はなかったように記憶しております。結局その県大会には主将・副主将、私の3人参加でしたが、市の大会も含めて、喧嘩っ早いMくんや貴公子Aくんは試合場で出会う他校の女子生徒からモテモテ。手紙を受け取ったり、直接何か話に来たりと、特に喧嘩っ早いMくんは良くモテていましたので、県大会も我が校の女子生徒の数人が付随してきておりました。
2019年12月10日
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人参とエノキダケ炒め弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、後輩が出来た中学三年生時代体操競技県大会にも参加を強制してきた喧嘩っ早いMくんでしたが・・・・市の大会とはレベルが違って、県大会は各中学校の優秀なる体操部員が応募参加する大会でしたので個人表彰された事の無い私が出るようなものではないのでして、恥をかくだけなのです。それを喧嘩っ早いMくんが「出るよな?」と弱い者イジメして来るので、こればかりは拒否したのです。すると喧嘩っ早いMくんは「だったら秋の市の大会はワガママKに参加させるから、お前はゆっくりと観戦てな条件でどうだ?」と、県大会に出る代わりに、その後に開催される市の大会は補欠で良いと言うのです。あまり意味のない提案ではあったのですが、渋々受ける事にしたのです。
2019年12月09日
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2019年12月08日
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ホウレン草の胡麻和えと切り干し大根弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、後輩が出来た中学三年生時代バンカラタイプの主将・喧嘩っ早いMくんには硬軟併せ持った所がありましたが・・・・そもそも当時の体操部は、試合に出れば必ず表彰される好成績の優秀クラブでした。出る試合は市内大会で、参加校の数は不明ですが参加生徒ならおよそ70人くらいだったでしょうか。個人総合成績が10位以内なら表彰され、喧嘩っ早いMくんと貴公子Aくんはいつも個人成績が10位以内でしたし、種目別でも3位以内に入ると表彰され、我が校の主将と副主将の二人はいずれも表彰される常連。学校別としても2位か3位でした。さて、市の大会があれば県の大会もあるのでして、夏だったか覚えがありませんが、県大会に顧問が応募し、主将と副主将は当然として、もうひとり出したいという事となり、主将Mくんが半ば脅すように「お前も出るよな?」と私に凄んできたのです。
2019年12月08日
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すき焼きさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、後輩が出来た中学三年生時代朝練強制参加指示され、不満げに更衣室で着替えているところへ従弟が来たんですが・・・・わざわざよりによって従弟を呼びによこさなくても良いのに、恥が倍増した感じでした。しかし、着替えて体育館に行くと、喧嘩っ早いMくんがすぐさま駆け寄ってきて「ごめん、ごめん」と謝るのです。「後輩に影響するんで、お前なら判ってくれると思ったから着替えろと言ったんだ。ごめんな」といったような感じで、申し訳なさそうに謝ってくれたんです。そこがいくら不良グループの一員だからと言って、横暴なままではない所が喧嘩っ早いMくんの良いところなんですがね、同じような事は他にもありまして。
2019年12月07日
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豚肉とモヤシ炒め弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、後輩が出来た中学三年生時代主将・喧嘩っ早いMくんは、朝練で見学していた私に強制参加の指示をしたんですが・・・・当時の体操部所属の3年生にはH学区出身の主将・喧嘩っ早いMくんをはじめ、同じH学区からはワガママKくん、世話係としてのチームリーダーくん、我がC学区からは副主将の貴公子Aくん、実家が金物屋のKYくん、そして私の6人でしたが、朝練に3年生が当日に出て居たかどうかは覚えておりませんが、1年生は体調が悪くても見学には出席しなくてはならないのですが、我々3年生は練習免除だったのではないかと記憶しております。それなのに強制参加指示だったことを不満に思い、更衣室で着替えていると従弟のITくんが呼びに来ました。「M先輩が着替えなくても良いと言ってます」と言うので、半ば感情的な気分を抑えながら私は体操着に着替えて「着替えて行くと言っといて」と従弟に伝えました。今にも涙ぐみそうな表情の私を察したのか、観てはいけない物をみたような顔をして従弟は体育館に戻っていったんですが、小学時代は私と良く遊び、それなりに尊敬してくれていたであろう従弟に格好悪いところを見せてしまったのでした。
2019年12月06日
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味噌汁と御飯と蒸しサツマイモさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、後輩が出来た中学三年生時代後輩の前で喧嘩っ早いMくんに恥をかかされたんですが・・・・後輩の中には従弟も入部したし、その従弟の友人や卒業した色男のJ先輩の弟も存在する我が体操部でしたので、「先輩」という立場での実感よりも慕ってくる「弟分」てな感じでしたね。しかし、いざ技を伝授するとなると非常に難しいもので、優しいだけでは相手に伝わらず、時には厳しく反復させるように指導しないと身に付かない事もあります。それを上手く実践できたのが喧嘩っ早いMくんであり、貴公子Aくんでした。ある日の朝練習の時、私は遅刻して体操着に着替える時間もなかったので、練習見学という形で体育館内で座って観ていると、「おい、○○!すぐに着替えて練習に参加しろっ」と、主将Mくんから指示が来ました。我々3年生の輩より新1年生が中心の朝練習だったので、私としては「????」と不満げに更衣室に向かったのです。
2019年12月05日
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削り節ジャンボおにぎり弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、後輩が出来た中学三年生時代体操部・主将の喧嘩っ早いMくんには漢気があったのですが・・・・小学高学年時代の私は運動神経も良く走れば校内四天王、1学年下の男子児童から「あっ、○○さんだ」と、さん付けで尊敬の眼差しを浴びれたもんでして、それなりに鼻高々となって良い気になってましたのに、喧嘩っ早いMくんにかかってしまうと、一気に現実に戻されてしまうのです。喧嘩っ早いMくんとは中1時にクラスメイトだっただけに、当時私がワガママKくんにいじめられて教室で泣いた時に、MくんはKくんの胸ぐらを掴んで「何をしやがったんだ?」と、漢気を見せてくれたんですが、それを後輩の前で「こいつがKに泣かされた時に、俺がKに仕返ししてやったんだ」などと自慢するので、私の立つ瀬がないじゃないですか、ホントに。
2019年12月04日
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すき焼き風肉豆腐弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、後輩が出来た中学三年生時代風格を漂わせるようになってきた喧嘩っ早いMくんでしたが・・・・甲高い声で陽気な雰囲気を漂わせる喧嘩っ早いMくんは、体操部の主将として、競技者として、また悪名高き番長グループの中心としても活躍していました。MくんもH学区代表なんですが、このH学区と言う小学校の生徒は、我々C学区やもうひとつのS学区と比較すると、本当に一枚も二枚も何をするにも上を行っておりました。きっと小学校の教師の教育方針かなんかが良かったのかも知れません。良くも悪くも自由にのびのびとした生徒が非常に多く目に付きました。ただ、この喧嘩っ早いMくん、弱い者を助ける漢気はあるものの、その思いやりにはバランスを欠いており、時には私も恥をかかされる事が度々ありました。
2019年12月03日
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中華そばさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、後輩が出来た中学三年生時代体操部・主将の喧嘩っ早いMくんは、部員たちを上手くまとめていましたが・・・・喧嘩っ早いMくんと番長Oくんを中心とするグループの不良っぷりは、中1時の頃のようなあどけなさは影を潜め、一枚も二枚も悪名オーラが増していました。学生服の乱れはそれほどでもないのですが、足首の部分が絞られて、腿の部分がブカブカのズボンは彼ら「不良」の代名詞的学生服。それらを着用して両手をズボンポケットに突っ込んで歩いていれば、誰もが避けて通りたくなるもんです。髪型もパーマをかけるでもなく、番長Oくんはスポーツ刈りが少し伸びた感じのものを、前髪で少し庇を作ったような普通のもの。喧嘩っ早いMくんも髪を染めるわけでもなく、やや長めに延びた髪を上手く整えただけでしたが、その二人が渡り廊下を歩いていた時に、私は急ぎの用事で小走りに彼らの後ろまで迫ったのですが、追い越す事はできませんでした。彼らの後姿が今までになく威圧感があって、「男」としての差を強く感じて自信喪失に陥りそうでした。
2019年12月02日
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2019年12月01日
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きつねうどんさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、後輩が出来た中学三年生時代体操部の主将はH学区代表の喧嘩っ早いMくんが就いたのですが・・・・この喧嘩っ早いMくん。「喧嘩っ早い」という冠を付けてしまったのですが、それほど喧嘩をしていたわけではなく、イメージとして勝手にこの場で付けただけですが、当時の母校では番長Oくんとともに君臨していたと言っても過言ではないでしょう。中3時の私のクラスは他の3学年のクラスとは棟が別だったので、俗に言う番長グループの素行はあまり見かけませんでしたけど、小銭を各教室を回ってかき集めたりする噂は聞いていたり、廊下で番長Oくんが同級生男子の髪の毛をわしづかみにして振り回している光景を見た事はありましたし、我がクラスにもたまに数名で顔を出して小銭を「貸してくれない?」などと強面を利用しての恐喝まがいな事をしているのをみかけたりしました。私にも声をかけてきたので、「お金?えっと・・・・」と言いながらポケットに手を突っ込む真似をして「無いね、全然」などとおどけて見せると、「あははは、面白いなこいつ」といってその場から離れてくれたので、ホッとした経験はありますが、彼らの一味でもある喧嘩っ早いMくんは体操部の主将として、時には厳しく怖く、それでも我々の先輩の様には体罰をせず、上手く部員全員をまとめていたと思います。
2019年12月01日
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