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本日の弁当は「ギョウザ弁当」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学時代は体操部として活躍しておりましたが、1972年の11月下旬の放課後鉄棒の練習中に落下し頸椎捻挫で10日間入院した事がありました。同級生やクラブの先輩達が見舞いに来てくれたりして、良い思い出となっておりますが入院初日から3日間は身動きできずに地獄でした。退院までの2~3日は院内を散歩したりして楽しみましたが、退院後半年くらいは何かの拍子に首に激痛が走ったものです。それでも首を酷使する事のある体操部を続けた中学時代は割と骨のある生徒だったと自分でも思います。
2012年01月31日
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本日の弁当は「カップヌードルKING」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学生時代、体操部に所属していたわけですが、当時は今と違って週休2日ではなく土曜日も登校しておりました。といっても土曜日は半日で授業は終わり、昼から練習です。土曜日は15時か16時ぐらいまで練習したでしょうか、その後は体操部の連中4~5人で駄菓子屋に寄るのが楽しみでした。今ですとコンビニにたむろする輩のようなものだったのかも知れませんので、あまり彼らの事を批判できません。当時、その駄菓子屋ではお好み焼き、焼きそばなどを焼いてくれる所ではあったのですが、よそと違う特色がありました。なんとインスタントラーメンを作ってくれるのです。それを食べに行くのが我々の楽しみだったわけです。
2012年01月27日
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本日の弁当は「スクランブルエッグピーマンキャロット&ジャガイモはんぺん」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃体操部に属していた中学生の私は、早朝練習も真面目に参加しておりました。体操服に着替えるのが面倒くさいので、学生服の下に体操服を着込み、練習が終わればそのまま体操服の上に学生服を羽織って授業を受けたのです。さすがに夏はそんな事は控えましたが、過ごしやすい季節ではたとえ朝練習で汗をかいても、その汗くさい体操着の上から学生服を着込むのですから、周囲は私のムンムンとした体臭に気付いていたかも知れません。
2012年01月26日
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本日の弁当は「目玉焼き&野菜炒め」具は椎茸・にんじん・ピーマン・じゃがいも・はんぺん・ソーセージさて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学生時代は弁当持参で、白米が好きな私はパン食は滅多にしませんでしたがそれでも仕方なくパン食にする時は買うパンがいつも決まっており、卵サンドかカレーパンでした。それも卵サンドを3つとか、同じ種類しか買わないのです。あれこれと種類別に買うのが面倒なので、注文書には「卵サンド3つ」などと書くのです。ところでパンを買うときはクラスメート全員が持ち回りで注文係を受け持ちましたが、私はこれが苦手でして、特に釣り銭を個人個人に渡し歩くのが面倒でたまりませんでした。しかし、思い出してみると懐かしいもので、まだ木造校舎だったあの頃の教室の床引き油の臭いが甦ってきます。
2012年01月25日
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本日の弁当は「スパゲッティ&ジャガイモ入りハンペン」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃小学生時代はバレンタインデーなどを意識する子供は数少なかったようですが、中学生ともなると盛んにチョコを好きな相手に渡す事が行われ始めました。私も中学生三年ぐらいになると2月14日にチョコレートをたくさんもらう同級生からお裾分けしてもらったものです。「あいつは俺の事が好きだったんだな・・・」とモテる同級生はあっけらかんと宣い、私にチョコレートをホイッと軽く投げ渡すのです。某女生徒が好きな相手に渡したはずのチョコレートは、まったく関係のない私の胃袋に収まるのです。
2012年01月24日
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本日の弁当は「焼き飯」キャベツ、にんじん、長ネギを具に、ソースを絡めて炒めました。さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃小学校では給食が当たり前だったものが中学になると弁当持参か校内でパンを購入することになりました。私は昼食にパンでは何か物足りなくて、ほとんど母親の手作り弁当を持参していました。それでもパンにしなければならない事情もたまにはあるものです。周囲で白米の弁当を食べている輩が羨ましく思え、一口づつ御飯をもらいに教室内を転々とした事が幾度かありました。菓子パン一個とおにぎりを交換したりもしましたが、細かい事を言う奴が居て、「バカだなぁお前は。おにぎりなんかパン一個に比べりゃ半分の値もしねぇぞ」と宣うのです。たとえそうであっても、他人の母親が握ったおにぎりであっても、パンよりは満足度が違うのだと思ったものです。
2012年01月20日
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本日の弁当は「しめじ炒め&はんぺん」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃中学生となると中間テスト、期末テストなる定期テストが学期ごとに催され、学年成績順位、クラス内順位、科目別学年内順位などの結果を示す成績カードが個人個人に配布されました。総合判定として10段階評価され、科目別にも10段階の評価がなされました。通知票などは5段階評価のままでしたが、それよりも詳細な事が晒されるので私としては非常に衝撃的なものでした。概ね私の中学時代の成績は10段階評価で「4」か「5」。学年順位は約300人中200番前後の成績でした。決して誉められる成績ではなかったのに、これが5段階評価の通知票となると「2」や「1」は無く、多くの「3」に混じって「4」がチラホラあるので見映えは良く、通知票評価の合計はクラス内で一桁順位だったのですから不思議な数字マジックです。
2012年01月19日
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本日の弁当は「おにぎり」青ジソをまんべんなく振りかけてあるので、具は無し。さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃中学三年時に行われた「中部統一テスト」における結果で、教室内のクラスメートは異様なざわめきを発しました。公立高校進学に向けての学力を測るテストの結果に、落胆の顔がハッキリしている者やあっけらかんと「ねぇねぇ、みんなは丸がいくつあった?」などと友人に聞いている輩も居たらしいのです。成績段階に応じて「特優」「優」「良」「可」「◎」と表示されるのですが、それらのマークはすべて丸で囲まれていたので、厳密には「◎」は「○」なのであって、二重丸ではなく、その他に三重丸や四重丸など無いのです。その輩は丸の数で評価されていると思ったのでしょう。自分の成績が「◎」である事を公表しているようなもので、思わず笑ってしまいましたが、同じく「◎」だった私は心底面白かったわけではなかったのです。
2012年01月18日
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本日の弁当は「お好み焼き」幾度かお好み焼きを焼いてますが、今回は具がいつもより豪華です。キャベツ・にんじん・ハム・長ネギ・玉葱・山芋・銀杏・鶏卵が入っていてなんと八宝お好みなのです。さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃中学三年の頃になると高校進学における志望校を選択する事に迫られますが、当人の学力レベルを測るべく「中部統一テスト」なる試験が度々行われたものです。その結果によって自分の学力に準じた公立高校を選ぼうというわけです。「偏差値」が学力レベルの指標となり始めた時代でもあり、「中統」と略されたそのテストは成績に応じて5つの段階に振り分けられます。それは、「特優」「優」「良」「可」「◎」です。「可」なら、なんとか低レベルの公立高校には受かるかもしれないよ、という意味であり「◎」は不可という事を表しているのです。「特優」であれば偏差値70ぐらいの進学校に行けるレベルなわけです。私の当時の友人に「特優」を獲った人物がいて、やはり県下有数の進学校に進みました。私はと言えば「◎」で、テストを受けた300人ほどの中で270位という成績でした。これに発憤して最期のテストで「可」を獲得。順位を130位ぐらいまで引き上げ、本番の高校受験では何とか公立高校に滑り込んだのです。
2012年01月17日
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一昨日、昨日と大学入試センター試験を受験してまいりました。初日は現代社会・国語・英語&リスニングを受験。2日目は理科総合Bを受験しました。早速答え合わせしてガックリ。総てにおいて半分の出来。特に英語は時間が足りず、最後の長文解読問題類などは適当にマークしたのが祟りました。理科総合Bは簡単で、これは満点に近いなと思ってウキウキ帰ってきましたが、採点してビックリ。半分の出来に落胆。理科総合Bは例年の平均点は70点近いので、私はかなり平均以下です。満足行く結果の科目はありませんでしたが、それでも国語は漢文の勉強をしてきた成果があり、得意な現代文のミスを補えました。これで今年も志望大学には受かりそうもないので、来年も挑戦です。試験は終わったばかりですが、昨夜から寝床で英語の問題集をちょっとだけ解きました。コツコツと知識を蓄えて来年の受験に備えようと決意新たにしておる次第です。ところで、このセンター試験は今年から趣がちょっと変更され、各地でトラブルが発生しているようです。大同大学で受験した私の所は、試験監督官らのミスもなく受験は進みました。私は初日に社会は1科目だけの受験だったので2時間目からの出席。その時に試験官から問題冊子を配られるのですが、「公民を受ける人は手を挙げて」という声が聞き取りにくく、しばらくボーっとしておりました。危うく問題冊子を受け取り損なうところでした。来年からは今年のトラブルを反省して元の方式に戻す可能性があるでしょう。
2012年01月16日
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本日の弁当は「スパゲッティ」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃小学生5・6年の時は良くモテました。足が速かったのと運動神経がよく、陽気だったことが好かれた原因でしょう。また、小学生では性欲がありませんから容姿で異性を選ぶ意識が薄いはずです。私はチビで、どちらかというと不細工な小学生でしたのに複数の異性から告白を受けたのは、私の傍にいると楽しかったからではないかと、今現在推測しております。それが、中学生となると段々と性欲に芽生えて、「容姿」が異性から選ばれる基準の一番上に来ますと、私の人気がどんどん下降していき、高校生に成る頃にはブサメンの代表格になっており、それが現在まで継続されているので、いまだ独身なわけです。トホホ・・・・
2012年01月13日
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本日の弁当は「五目寿司」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃小学生高学年時代は親友H君の存在のおかげで、まったくの孤独知らずでした。遠足などでは5~6人ぐらいのグループを作らねば成らなかったのですが、私とH君を中心に必ずすぐに5人くらいは集まったもので、なぜかいつも私がリーダーに抜擢されました。普通、バカにされてリーダーに推薦される場合も世の中には多くありますが、その時の私は周囲からある種の尊敬を受けていた事を自覚していましたので、選ばれる事には何の不満も無く、すんなりと受け入れていました。尊敬と言っても、クラスで一番足が速く、運動神経が良くて良く笑う少年だったので、そこが好かれたのだと思います。残念ながら勉学成績の方は普通だったので決して学級委員には選ばれる事はなく、その辺は当時のクラスメートはしっかりとした判断力があったのだなと思います。
2012年01月12日
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本日の弁当は「大根の煮物&シューマイ」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃小学生時代の友人、H君とは1年生で出会ったのですが、2年生から4年生まではクラスが別々になり、5年生で再度出会います。全く関連のなかった3年間など関係なくスムーズに打ち解ける事が出来ました。私達は何でも言い合うとか、じゃれ合うといった関係ではなく、どこかに少し遠慮があるような所がありました。お互いを苗字で呼び合うのですが、必ず「君」を付けました。H君以外にも親しい友人は数人は居て、「あだ名」などで呼びあったり、ふざけ合ったりするのですが、コンビを組むのであれば自然と私とH君であり、そこに割って入る奴は皆無だったのです。中学1年の頃にH君が不良っぽいクラスメートに因縁を付けられていた事が良くありましたが、私は特にそれを何とかしようと思う事もなく、ただ現場をじっと観るだけであり、見守るという意識はありませんでした。それでも関係が悪くなる事がなかったのは、お互いがお互いに頼る事のない接し方をしてきたからではないかと、今現在思っています。
2012年01月11日
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本日の弁当は「お好み焼き」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃小学一年で出合った親友H君とは中学生くらいの頃までの仲ではありましたが、お互いの趣味であったクラッシックや洋楽について良く語り合ったものです。中学二年でクラスが別々になってしまい、段々と疎遠になるのですが、それでも不思議と同じ高校を目指していました。結局私だけが合格し、完全に離れるわけですが、高校一年になってから久しぶりにH君の所へ遊びに行った時、すでにどうやって接して良いのか判らなくなっていました。その時H君はといえば、中学時代の仲間と一緒にバンドを組んでいて、H君の実家である工場の敷地内で何やら演奏をしていて、私は見学という感じで彼らの演奏を聴いていたのですが、仲間としてそこに私が入る余地はまったくありませんでした。ちょっと寂しい思い出です。
2012年01月10日
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本日の弁当は「スクランブルエッグ・ピーマン・キャロット」さて、私が少年だった1960年代から70年代初頭にかけての頃主に小学5~6年時の正月休みは親友のH君の家に遊びに行く事が当たり前と成っておりました。こちらから遊びにいくばかりで、H君を私の家に招待する事はあまりなく、6年生の頃に私の兄がH君やH君の妹に対して勉強を教えていた時期が数ヶ月あった頃だけ、私の家で御飯なり食べていった事はありました。なにしろ我が家は狭い長屋住まいだったので、友達を連れてきても遊べる物も無く、暇を持て余してしまうのがオチ。どうしても私がH君の家に遊べる物があったかと言うわけでもありませんが、私の家だと狭いので両親の面前で遊ぶ事となり、友達が緊張して喋らなくなってしまうのです。その点、H君の部屋は社員寮の一室で、ある意味隔離されてましたから気を使うことなくくつろげたのです。
2012年01月09日
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本日の弁当は「里芋の煮物」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃小学五・六年生の時分には正月休みとなると決まって遊びに行くところはH君の所でした。H君の実家は会社を営んでいて、その工場と社員寮が敷地内にあり、社員寮は実家を含めて3階建てのマンション形態になっておりました。3階にある6部屋ほどが実質の社員寮で、1階は自宅兼社員食堂と事務所となっておりました。さて、H君の部屋はというと、社員用に作った2階の部屋でした。その一室は6畳一間でしたが、自分の部屋というものが無かった私には羨ましい限りでした。2階にはその他に5部屋くらいあって、H君の姉妹がそれぞれの部屋として2室使っていたと思います。正月休みはH君の家族に挨拶しないまま、勝手にH君の部屋に駆け込むのです。そこへH君の姉妹や、H君の親戚の子供達などがいつしか集まってきて、子供らしい楽しい一時を過ごせたわけです。
2012年01月06日
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本日の弁当は「たこやき弁当」さて、私が少年だった1960年代~70年代初頭にかけての頃正月に貰ったお年玉の総額は、小学生高学年時で3000円前後だったと記憶しておりますが果たしてそれを何に使ったのかは覚えがありません。当時の我が町の小学生はスポーツタイプの自転車に乗るのが流行っていて、今は見かけませんが当時人気があった自転車には豪華な方向指示灯が付いていたのです。変速ギアは当然の付属、大きな警告ベルも付いてましたし、携帯空気入れや速度計だって付いていたんです。お年玉を貯めてスポーツ自転車を買う子もチラホラ存在し、自慢しながら私の前を駆けていく子も居ました。40年前でそのスポーツ自転車の価格が、薄い記憶を紐解いてみると1万円~3万円くらいしていたと思います。私が乗っていた自転車は、半年に一度行われていた粗大ゴミ廃棄日の場所に捨てられていた物で、外見も悪くなく、割と快調に乗れたものです。一度その自転車が盗まれた事があります。それが思わぬ所で思わぬ人物が発見してくれて数日後に戻ってきたのです。見た目は小型ママチャリでしたが、まるで自転車みずから私の元に戻ってきたのではないかと思うくらい嬉しかったのです。見つかった場所は、私がよく遊びに行ったH君の家の近くで、見つけてくれたのはH君の妹さんでした。私が乗っていた自転車に良く似た物が道路脇に置いてあるよと、H君の妹さんが教えてくれてそこへすっ飛んでいきました。数日間とはいえ私の前から姿を消していた自転車を久しぶりに見て、なんだか懐かしい気分に成りました。少しチェーンが垂れ気味で、チェーンカバーに擦れる音は、紛れもなく私の自転車の証でした。
2012年01月05日
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あけましておめでとうございます本年も子平研を宜しくお願い申し上げます
2012年01月01日
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