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最近、何がきっかけだったか忘れたが、『田中宇(さかい)の国際ニュース解説』というメールマガジンに登録した。田中氏は国際ジャーナリストだそうだ。特に現代社会、国際社会の難しい問題を丁寧に解説している。その中に「ハルマゲドン」について書かれた記事が最近配信されていた。 「ハルマゲドン」は「アルマゲドン」とも言う。ギリシャ語ということで "Harmagedon" という綴り。だが英和辞典には載っていない。広辞苑によれば、「もとヘブライ語で、メギドの丘の意。新約聖書ヨハネ黙示録で、神とサタンとの最終戦争の場所」ということだ。 こういう「終末思想」のようなものは、7年前にはよく聞いた。1999年頃で、ちょうどあと2年で21世紀という時だった。昔からよく噂されてきた「ノストラダムスの大予言」が、その頃巷で騒がれていた。 「ノストラダムス(Nostradamus) 」というのは、私は中学の頃から聞くようになったと思う。ちょうどユリ・ゲラー氏がスプーンを曲げて、超能力ブームが起きた頃だった。漠然と大人が「世紀末にはノストラダムスだね」なんて言っていたので、「20世紀の終わりには私は○○歳......じゃあ長生きできないのかな」なんて思っていた。 ノストラダムスは、16世紀フランスに実在した医師・占星術師だそうだ。彼がいろいろな予言をしたと言われているが、それらは「予言詩」の形で書かれているらしい。詩なので、暗示的な要素が強い。だから「予言」というふうに、人々から受け止められたのだろう。 彼の「予言」は案外当たったそうだ。第二次世界大戦や、原爆投下のことも言い当てたとテレビで聞いたことがある。時々、驚異や神秘をかもし出すような BGM と共に、よくテレビでは特集を組んで「ノストラダムスの大予言...あなたはこれを信じるだろうか!?」などとナレーターが脅すような言い方をしていた。 ノストラダムスによれば、世紀末には「地上に火の玉が落ちて来る」などと書かれてあったそうなので、よく書店ではカッパブックス出版の「ノストラダムス」の本を積み上げていた。やっぱり気になる人は多いらしく、ベストセラーになっていたと思う。 私は半分本気で「ノストラダムスの大予言」を信じていた、というか、恐れていた。私は割りと何でも信じやすいタイプなんである。今でもそういう点はあまり変わっていない。いい歳して、純粋でウブなんである。(ホントかな~?)だから、1999年には「いよいよ核戦争か、それか突発的な天変地異が起きるのか」とビクビクしていた。 だが今考えると、この「予言」は、2001年、21世紀になって的中したように思える。ニューヨークの同時多発テロが起きたからだ。ノストラダムスの「予言」が当たっていたとすれば、それは「世紀末」ではなくて「21世紀初頭」に当たったことになる。それからの現代はヨハネ黙示録の「ハルマゲドン」の世界になってしまったかのようだ。 田中氏は、現代の世界は「アメリカと中東の対立が、『ハルマゲドン』的な様相を帯びてきているといってもいい」と書かれている。2001年9月11日以降、アメリカがアフガニスタンやイラクに攻め込み、中東では米国に対する反感が高まっている。そのことを田中氏は解説し、さらに宗教の問題を取り上げている。 日本人は仏教を信じている人が多い。何気なく使う日本語の中にも、仏教から由来しているものが案外多い。大半の人は、日常生活では仏教に則った暮らしはしていない。でもお葬式などは、仏教の形式を守るのが大方の日本人のパターンではないだろうか。 日本が国際化社会などと呼ばれるようになってから、もう15年くらい経つようだ。日本人でも、キリスト教やイスラム教に帰依する人が多くなった。でも私もそうだが、キリスト教や、特にイスラム教に関しては、複雑過ぎてよく分からないという人が多いと思う。 私は田中氏の解説に、「イスラム教の聖典『コーラン』には、キリスト教や仏教と同じような要素がある」と書かれてあるのを読んで、興味深く思った。その要素とは、「人間社会が混迷を極めている時、神のお告げを述べる預言者がこの世に現われ、世界を救う」というものである。 ごく最近のニュースで、デンマークで、イスラム教の始祖「ムハンマド」(マホメット)の風刺画が掲載されたために、世界中のイスラム教徒が怒りを露わにし、デンマーク大使館に放火したり、デンマーク人を殺害したりするという事件が起きた。インドでもイスラム教徒が少数ながらいて、「風刺画を描いた人物の首に賞金13億かける」と発表した政府高官がいた。 私はこういうニュースを聞いて、「日本では、仏様を外国の新聞が風刺画にしても、多少は不愉快に感じるかも知れないな。でも、日本人はこんなにまで怒らないんじゃないか」と驚いた。世界の宗教の中でも、仏教を信じる日本人は一番大人しいのではないだろうか。逆に、イスラム教徒の人々は、宗教というものが、すごく日常生活や考え方の中に深く浸透しているんだなとも思った。 そんなことから、『コーラン』とはどんなことを書いた書物なのかと思い、田中氏の解説を読んでみた。その中には、最近テレビでよく聞く「スンニ派」と「シーア派」の違いも詳しく書かれている。 よく「イスラム原理主義」と言われる一派は、確か「スンニ派」なのだそうだ(間違っていたらすみません)。スンニ派の人々は、同じイスラム教徒でも、考え方が違うシーア派の人々を「殺してしまえ」などと言うそうだ。しかしこの両者の違いを読んでいると、混乱する。すぐに前に戻って、意味を確かめながら読まないといけないんである。この続きはまた後日書きます、ハイ。(長いので...)
January 29, 2006
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今は辞めてしまったが、勤務先にロンドン北西部のノリッジ(Norwich)出身のイギリス人専任講師がいた。バーバラ・ラブディ・ハイドという女の先生で、とても優しく話しやすかった。その先生のご主人は、私の母校の英文科教授だった。でもなぜか急に夫婦でイギリスに帰ってしまった。 私は、バーバラ先生と漢字(Chinese character) の話をしたことがある。先生は、ハンガリーで英語を教えた後、日本に5年ほど滞在していたが、講師控室のメールボックスの漢字がなかなか分からないと言っていた。私が少しずつ勉強したら、簡単な漢字は覚えられるのではと話すと、バーバラ先生は「漢字というのは小さな時から基本を学んで、やっと覚えられるものでしょ。私はもう大人だから、とても無理です」と言った。 私が、「よく漢字は『悪魔の文字』(The devil's words) と言われますが、先生もそう感じますか」と訊くと「もちろんそうです」とうなずいていた。欧米の人は、よく"devil" という言葉を使う。日本人が蛸を食べることも、「どうしてあんな "devil's fish" を食べるんだろう」などと言うそうだ。 アルファベットと漢字とは、根本的にまったく異質の言語だ。アルファベットは26文字を覚えて、組み合わせて使う。でも漢字は26文字どころではない。もともと象形文字を基にしたものが多いので、画数が多い。止めたり、はねたり、はらったり。偏と旁(つくり)の数多い組み合わせ。音読みと訓読みもある。小学1年から少しずつ覚えないと、とても難しい。 イギリスが西洋の端なら、日本は東洋の端。文化や言葉が全く違うのは当たり前だ。でも英語を通じてなら、お互いの気持ちが通じ合う。言葉が違っても、人間は皆感じることは同じだということを実感できる時、お互いに通じる言葉を知っているということは、大変素晴らしいことだと思う。 イギリス人が漢字を「超難しい」と感じているように、日本人も多くは英語が難しいと思っている。確かに内容によっては、難しい英文もある。けれども、英語から少し目を離してみると、案外「英語ってシンプルなのねぇ」と感じることがある。(簡単な会話に限ってだが......) いつかこのサイトで書いたかも知れないが、私の家に、父が以前、海外旅行のために買っていた『JTB POCKET INTERPRETER』があった。それは見開きにすると、左から右へと「日本語―英語―フランス語―ドイツ語―イタリア語―ロシア語」の順で、基本会話と旅行会話、基本単語などが並んである。ちょっと暇な時など、「他の外国語をかじってみようかな」なんて時には便利なので、私がもらってしまった。 この本を読む時は、まず自分の全く知らない言語から読む。私には日本語と英語とフランス語しか分からないんである。(フランス語もかなり忘れているが......) ドイツ語で知っているのは、「グーテンモルゲン(おはよう)」と「グーテンターク(こんにちは)」「グーテナハト(おやすみなさい)」「アウフヴィーダーゼーエン(さようなら)」ぐらい。イタリア語では「ブオンジョルノ(おはよう・こんにちは)」「シニョール・シニョーラ・シニョリーナ(~氏・~さん)」が関の山。 これ以上先に進むと、「???」となってしまう。そんなだから、ロシア語を見ただけで、「超難しい」と感じる。ロシア語では「ドーブラエ・ウートラ(おはよう)」「ドーブルイ・ジェーニ(こんにちは)」「スパコーイナイ・ノーチ(おやすみ)」「ダ・スヴィダーニャ(さようなら)」だけでも息が切れてしまう。もちろんその先には「???」の連続で、とても進めない。お手上げなんである。 そんな時、ページの左側の英語の所を見る。すると「ま~英語ってこんなに簡単なんだぁ~」と感じる。英語と今のロシア語を比較すると、"Good Morning", "Good afternoon", "Good night", "Good-bye" だけで済むじゃありませんか! 逆に英語の "How are you?" からロシア語に目を移すと、「カークヴイ・セベャ・チューストヴーエチェ?」となる。「こんなの覚えられないわぁ」と感じてしまう。おまけにロシア語の文字は他の欧米言語と違う。ロシア文字はギリシャ文字をもとにした「キリル文字」を直接の起源としているそうだ。でも広い世間にはロシア語やギリシャ語に通じた人たちも当然いる。私から見ると、神様みたいな人たちだ。 しかし欧米の英語以外の言語で凹むのはまだ早い。ここ2,3年ほど前から、NHK ラジオ講座に「アラビア語講座」ができた。私はアラビア語は皆目分からない(当然じゃ!)けれども、その言葉の独特の響きが好きである。大学生の時、京都の紀伊国屋(だったかな?)に行って、「大学書林」が出版している『アラビア語基本会話』なる本を買って、ちょびっとだけかじって悦に入っていた。 最近はよく中東のニュースが流れる。それで日本人も聞き慣れないアラビア語を耳にするようになった。現在の中東は物騒な事件が多い。イラクの自爆テロなど、まるで日常茶飯事だ。また、パレスチナ自治政府の政権を、最近「イスラム原理主義」の「ハマス」が掌握してしまった。「イスラム原理主義」というのはよくテロ事件を起こすので、パレスチナへの国際援助は滞るだろうという懸念が現実になりつつある。 「イスラム」と聞くと「テロ」に直結させるのは、ニューヨークの9・11事件以降、世界中に広まった発想だと思う。けれども、アラビア語は国連の公用語のひとつでもある。それで、日本とイスラム諸国との相互理解のために、「アラビア語講座」がスタートしたのだろう。 私は、試しに今月号のテキストとCD を買ってみた。でも4月号ではないので、入門編ではないのは当然だ。今月号は、今までのおさらいなんである。テキストを開くと、途端に「何なんだ、これは~?」という文字がうじゃと連なっている。皆目分からない。アラビア語やペルシア語などは、横書きだが、右から左に書く。「書いてみましょう」というページもあるが、これもまた「???」なんである。 CD でアラビア語を聴くのは楽しいが、テキストではその文字がまるでチンプンカンプン。ただ、片仮名をつけてあるのはありがたかった。けれどもそれを読んでも、やっぱり「???」なのだ。ちゃんと文法や単語を最初からやれば、分かるんだろうけれども、いきなりは当然無理なのだ。 例えば「私は日本車を持っています」は、「インダ・サイヤーラトゥン・ヤーバーニーヤトゥン」と言う。この片仮名を暗唱すれば覚えることはできるかも知れない。でも、まずもって、文字が不可解困難を極める。 また「貴女はそこに行かなければならない」は、「ヤジブ・アン・タズハビー・イラーフナーカ」と言う。これも基礎文法を知らないので、CD を聴いて覚えても、いずれ忘れてしまいそうだ。やっぱり外国語の勉強に文法は絶対大事だとつくづく思う。(ホントですよ!) ここで、英語でこれらをどう言うかを考えてみる。すると、やっぱり「英語ってこんなにシンプルだったかしらーっ」と驚いてしまう。今のアラビア語に対して、英語では "I have a Japanese car." "She must go there." で済むんである。このシンプル感はどこから来るのか? 結局、「日本の英語教育は根本からしてダメ」(--;)などと、やいのやいの言われつつも、中学1年から文法の基礎と単語を学んだという土台が、「英語苦手コンプレックス」の我々日本人の中に染み込んでいる証拠なのだ。 私は、地球上で話される言語の数をテレビで聞いたことがあるが、正確な数は忘れてしまった。だが、相当な数に驚いた覚えはある。確か3桁近い数だったと思う。たった一人しか話す人がいない言語もあるそうだ。 日本人は、外国語というと、欧米圏の言語に目が向きがちである。(そういう私も、世界共通語の「英語」でおまんまを頂いているのだが...)けれども、最近は朝鮮語や中国語などを専攻する人も増えた。 アラビア語は、私たち日本人と同じ「アジア圏」の言語である。この文字の難解さは、どこか漢字に通じるところがあるような気がする。欧米の人々が、漢字を見て「さっぱり分からん」と感じる気持ちが、私はアラビア語講座のテキストを見て、よく分かる気がした。 英語はもちろん大事な言語だが、日本から欧米に目を向ける前に、その途中にある国々の文化や言語に触れてみるのも楽しく興味深いし、「国際的な視野(a global point of view)」も拡がるのではないだろうか。
January 28, 2006
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今日、届いた『デジャヴュ』のパンフレットを早速見ると、やっぱり懐かしいなあ~と思う。(最近「懐かしい」という言葉を連発しているような気がしますが...)ミシェル・ヴォワタという俳優はスイス生まれで、今は48歳。20代の終わり頃に『デジャヴュ』に出演した。「美貌で痩せて情熱的で何かに取り憑かれたような男」というダニエル・シュミット監督のイメージにピッタリだったそうだ。 今一度この人をパンフレットで見ると、映画の中ほど「超ハンサム」ではない感じもする。むしろ渋いハンサムで、現実にはヨーロッパには案外多い美男子といった感じの人だ。しかし映画の中では、この人は『デジャヴュ』の雰囲気に完全に溶け込んでいた。ミシェル・ヴォワタなくして映画『デジャヴュ』は有り得ない。やはり好きな男優のひとりである。しかし私はハリーポッターのダニエル・ラドクリフにも熱を上げている。 自分の息子であってもおかしくない年齢のダニエル君に熱を上げるなんて、我ながらおかしい。でもハンサムはいつ見てもいい♪ミシェル・ヴォワタは渋い美男だが、ダニエル君は30歳になったらどうなるかな。今は16歳だというのに、『炎のゴブレット』ではもうハンサムの貫禄満点。きっと渋い青年になるだろうな~楽しみである。(渋い俳優が好きな私は、渋みの濃いお茶も好きだ。だが、ダニエル君が30歳になる時私は......人生の黄昏時なんである)(--;) ところでミシェル・ヴォワタの別の作品『愛の瞬間』のDVD を検索してみたら、何回やっても『五木ひろしの愛の瞬間』のDVD しか出てこなかった。五木ひろしの歌う「愛の瞬間」ってどんなだろう。だが私は五木ひろしは別にどーでもいいんである。検索するとこういう結果になるのが、悔しいが、可笑しくて笑ってしまった。 『デジャヴュ』のパンフレットの表紙を飾るのは、誰かと思ったら、これはヴォワタではなくて、キャロル・ブーケというフランスの女優である。キャロル・ブーケが仮面で顔の半分を隠した写真がパンフレットのメイン。この人は17世紀の過去に「ルクレツィア」役で登場する。そのせいなのか、すごく神秘的でしかも知的な雰囲気の女性である。 試しにこの人をやはり検索すると、『映画俳優マガジン』というサイトで簡単な略歴が載っていた。― CAROL BOUQUET キャロル・ブーケ:誕生日・性別 1957/8/18 WOMAN 出身 仏ニュイイシュールセーヌ コルセルヴァトワールで演技を学ぶ。在学中の77年「欲望のあいまいな対象」で映画デビュー。89年「美しすぎて」でセザール賞主演女優賞受賞。 この人も今はやっぱり48歳。そういえば昔こういう女優もいたな~と思い出す。この人は「謎の美女」という雰囲気がすごく漂っている。人によりけりだが、あまりにも謎めいていて、知的過ぎて、逆に柔らかさがないという感じなので、「好みじゃない」と思う人もいるかもしれない。 けれども、この女優さんは、「謎の美女」としての役柄が多くて、それで有名になったんだから、それはそれでいい。しかしあまり謎めいているので、生身の人間じゃない感じもする。キャロル・ブーケが朝起きて歯を磨いたり、くしゃみをするところなんて連想できない。 私はやっぱり美女は美女でも、ウィノーナ・ライダーとかドミニク・サンダの方が好きである。彼女らは女優でもあると同時に、私生活もちゃんとあるという「生身の人間らしさ」があるからだ。とにかく美男美女に気の多い私なんである。 ところで『デジャヴュ』のパンフレットには、ダニエル・シュミット監督のメッセージが次のように載っている。 ―この『デジャヴュ』では、映画に夢を見たいと思っている人たちに、映画館の暗闇の中で旅をしてもらい、そしてこの私がその旅の案内人をつとめているのです。 私はこれを読んで、「やっぱりあの映画は『夢の世界を描いたもの』だったのか」と納得した。映画館の暗闇というのは、いつもわくわくする。パソコンで DVD を観る時も「さあ始まるぞ」というときめきがあるが、この時は明るい室内で観る。(目に悪いから......)だからパソコンの場合は、DVD の映像が「映画館の暗闇」になる。 でも、本物の「映画館の暗闇」というのは格別である。映画館が暗くなって、スクリーンのカーテンが開いて、現実とは違う世界に観客は入って行く。映画というものは、観客に「夢の旅」を与えてくれるものかも知れない。
January 27, 2006
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昔観た映画に『デ・ジャ・ヴュ』という作品があった。これはスイスの映画だった。私はこの映画がとても好きだった。映画館で観たので、パンフレットも当然買った。映画の雰囲気と主演俳優に魅かれて、忘れられず、クローゼット中パンフレットを探しまくったが、どうしても見つからない。 「ネットで検索したら、DVD は手に入るだろう」と思って、あれこれ検索したが、なぜか見つからない。そんなに昔の映画ではなかったはず。ただ、検索結果の中に、『goo 映画』というサイトがあって、この映画のことを次のように紹介していた。 ●17世紀に存在した革命家イェナチュの謎の死をめぐって現代のジャーナリストが過去に入ってゆく姿を描く。製作はテレス・シェレール、監督・脚本は「天使の影」のダニエル・シュミット、共同脚本はマルタン・シュテール、撮影はレナート・ベルタ、音楽はピノ・ドナジオ、編集はダニエラ・ロデレールが担当。出演はミシェル・ヴォワタ、クリスティーヌ・ボワッソンほか。 ●【 ストーリー 】17世紀のスイス。グリソン州独立の最大のヒーローであるイェナチュ(ヴィットリオ・メッゾジョルノ)は、宿敵ポンペウスを殺し、権力を手中に入れた。しかし、数年後には“謎の人物"によってイェナチュもまた殺された。 現代のジャーナリスト、クリストファー(ミシェル・ヴォワタ)にとって、この史伝は、興味のあるものになった。それは、イェナチュの墓の発掘を指揮した人類学者トプラー(ジャン・ブイーズ)とのインタヴューの仕事がきっかけだった。 やがて、ポンペウスの城へと向かった彼は、その帰り道、不思議にも、時を超えてイェナチュに会う。精神的混乱に悩むクリストファー。もう一度城へ向かった彼は、何とそこでポンペウス暗殺の現場を目撃する。 イェナチュは、暗殺の後、ポンペウスの美しい娘ルクレツィア(キャロル・ブーケ)も手に入れたのだ。城を後にしたクリストファーは恋人のニナ(クリスティーヌ・ボワッソン)と共に、再び城を訪れる。クリストファーだけ、17世紀のイェナチュの世界をさ迷う。仮面をつけたカーニバルのさ中、彼は美しいルクレツィアと目が合うのだった。 『goo 映画』のこの映画のあらすじはここまで。製作年は1987年。どうしてそんなに古い映画ではないのに、DVD がないのかなあ。なぜか主人公だけが過去の世界にさ迷い込んでいく、迷路のような神秘的な雰囲気の画像と音楽とストーリーが素晴らしかった。それに私はミシェル・ヴォワタ(Michel Voita) という俳優に熱を上げていたのだった。 『goo 映画』によれば、ミシェル・ヴォワタというスイス(フランスかも知れない)の俳優さんは、この映画の翌年『愛の瞬間』という映画にも出演している。それ以外のデータは見つからない。 ミシェル・ヴォワタをもう一度見たいっ!この一念で、DVD は入手不可能だが、『デ・ジャ・ヴュ』のパンフレットだけはネット古書店で注文できた。それが今週届く予定。(ワクワク)♪ この「デ・ジャ・ヴュ」は、広辞苑にも意味が載っている。(広辞苑はホントに便利...)―「デジャ-ビュ」(deja vu) (※フランス語の正しい綴りが出ませんが...):それまでに一度も経験したことがないのに、かつて経験したことがあるように感ずること。既視感。既視体験。― けっこうこういう体験は、誰でも夢の中ではあるのではないかと思う。 夢の中では「来たこともないのに、既に知っているように思う場所を歩いている」とか、「会ったこともない人なのに、昔からの友人のように親しく話している」とかいうことが起こる。 それが現実に起きてしまうのが "deja vu" なのだ。だからこれを映画にするとなると、もう夢のまた夢の世界。映画『デ・ジャ・ヴュ』では、ジャーナリストの日常という「現在=現実」と、17世紀(ほぼ300年前)のスイスという「過去=夢」とが交錯する。まるで普段人が見る「夢」の世界を、体現化したかのような映画なのだった。この映画の DVD がないのが残念でたまらない私である。
January 26, 2006
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昨日、ライブドアの社長、堀江貴文氏が逮捕された。そのニュースは新聞第一面のトップにでかでかと掲載された。まるで世間を騒がせた誘拐犯人の逮捕の時のようだ。堀江社長は、東京の拘置所に移送され、あっという間に「社長」から「容疑者」に凋落した。 堀江氏は、その名前が「貴文」であることから、愛称は「ホリエモン」だった。彼は、学校時代は目立たない生徒だった。でも中学時代、理科か何かの授業で、他の生徒が平凡なレーシングカーを作っていたのに、彼だけはそれをうまく改造し、先生を驚かせたらしい。 彼は東大卒ということも広く世間に知られていた。でも一発で合格したのではなく、浪人して、猛勉強の結果、合格したのだそうだ。ライブドアの社長として頂点に立っていた頃、自分の英語の勉強法を書いた『ホリ単』(東大に合格するための英単語帳)を著し、ベストセラーにもなった。 私は「楽天」のサービスでこのホームページを作成しているが、以前は『パンドラの小箱』という名称の HP を作成していた。それは2年前の10月頃からだった。でも昨年7月の終わり頃、急に編集ページにログインできなくなった。それで趣旨は同じだが、内容を少々変えた現在のこの HP をゼロから再び作成し始めた。 思えば、昨年7月末というのは、「楽天」と「ライブドア」とが合併した時期だった。その関係で、以前のページにログインできなくなったのではないかと思う。ログインする時の私の ID (メールアドレス)は、infoseek.jp がついたものになった。現在でも infoseek.jp をメールアドレスに使っている。 「ホリエモン」は、「証券株取引法違反」で逮捕された。私は正直言って、株のことはよく分からない。でも、世間で「ライブドアが不正取引をしているらしい」と噂され始めた頃、ライブドアの株で、一夜にして巨万の富を手に入れた25歳(だったかな)の青年の話が新聞に載った。「株」を真剣に勉強すれば、私も億万長者になれるのかも知れない。けれども「株」というのは流動的なものなので、下手をすると手痛い目に遭いそうだ。 「ホリエモン」は、逮捕される直前、昼食を豪華なレストランでとった。その時のメニューの一部は「フランス直輸入のスープ」だったらしい。彼はそのスープの感想を、早速ブログに書き込んだ。けれどもその後、ついに逮捕されてしまった。 「ホリエモン」の夢は、「世界一の億万長者になる」ことだったらしい。けれども、それもあっけなく消えてしまった。 私は、社会の頂点にいた人などが、賄賂やセクハラやその他もろもろの不正を犯して逮捕されてしまうと、必ず『平家物語』の冒頭、「祇園精舎の鐘の声」を思い出す。「『おごれる者も久しからず』ってこのことよねぇ」という感想がつい口をついて出てしまう。 ところでこの有名な「祇園精舎の鐘の声...」は、確か高校の古文で習ったように思うのだが、後はどういう文章だったか忘れてしまった。試しにネットで「平家物語」を検索すると『平家物語メイン』というサイトで、全巻読めるようになっている。(http://www.page.sannet.ne.jp/kakomo2/heikemain.html) その「巻第一」の冒頭が、有名な「祇園精舎の鐘の声...」で、以下のように書かれてある。 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。 私はこれを英訳してみたらどうなるかなと興味を持った(暇人ねぇ)。試訳は次の通りである。 The voice of bell of Jetavana vihara of Buddhism sounds like that various deeds would be mutable. The color of the flower of both sala trees signifies the logic that a person at his peak inevitably goes to his fate. Pride will have a fall, and his ambition is nothing but a mere dream at the night of spring. A person who has once got a boost will finally ruin, and is just the same as a mere dust drifting in the wind. 「祇園精舎の鐘の声」は "The voice of bell of Jetavana vihara of Buddhism", 「諸行無常の響きあり」は "sounds like that various deeds would be mutable" とした。ここでは「様々な行いも無常であるかのように響く」と解釈して、「様々な行い」=various deeds, 「無常な」=be mutable となった。「祇園精舎」は英語では "Jatavana vihara" 「ジャタヴァナ・ビハーラ」と言うそうだ。(広辞苑) 「娑羅双樹(さらそうじゅ)」("both sara trees")というのは、広辞苑によれば「釈尊(ゴータマ・シッダールタ:仏教の開祖)が涅槃(ねはん=煩悩を断じ悟りに達する状態)に入った臥床の四方に2本ずつあった沙羅樹」のことだそうだ。 それらの樹が「盛者必衰の理(ことわり)をあらわす」―すなわち「頂点に立っていた者も必ずや落ちぶれるという論理を表わす」と解釈できる。"signifies (signify)" は「意味を表わす・~の前兆である」, "the logic" は "the reason" (道理)よりも意味が強く「有無を言わせぬ強く正しい論理」のこと。 「頂点に立っていた者」は "a person at his peak",「必ず」は"inevitably",「落ちぶれる」は "goes to his fate" と訳したが、"one's fate" というのは「究極的運命・末路」との意味。 「落ちぶれる」には他に "go to the dogs"とか "go to the devil", "fall on bad times" などの表現がある。 「おごれる人も久しからず」には決まった表現として "Pride will have a fall" がある。つまり「思い上がった高慢な者(Pride=a person with his pride or vanity) もやがては身の破滅を招く (will have a fall)」ということ。"a fall" とは「罪・堕落」の意味で、"a fall from grace" だと「不名誉なことから身を持ち崩すこと」となる。 「唯春の夜(よ)の夢のごとし」は「その野望もただ春の夜の夢にすぎないものだ」と解釈して、"his ambition is nothing but a mere dream at the night of spring" と訳した。"a mere" は 「たかが~にすぎない」という場合に使う。 「たけき者も遂にはほろびぬ」は「勢いに乗っていた者も最期には滅ぶだろう」ととらえて、"A person who has once got a boost will finally ruin" とした。"get a boost" は「勢いづく」という意味。「勢いのある時代にあった者」の解釈は、他にも "A person in his heady days" とも表現できる。"heady" とは「考えや行動が向こう見ずな」であり、"boost" は「士気の高まった状態」をいう。 でもホリエモンのかつての勢いは「景気の波に乗りまくっていた」感があるので、その「勢い」を表わすのに "boost" という単語がピタッと来る感じがする。 「偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ」は、「ただ風に漂う塵と同じようなものである」と解釈して、"is just the same as a mere dust drifting in the wind" と訳した。 「ホリエモン事件」をこうして「平家物語」になぞらえると、改めて、人間は虚しい存在だと思う。日本昔話の「舌きりすずめ」を思い出す。あの話も、巨万の富に目が眩んだ老夫婦は罰があたり、善意に生きる老夫婦の方は幸せに暮らすというものだった。 人間の欲望には限りがない。誰だって「お金持ち」には憧れる。そうして人間はお金持ちになればなるほど、「もっとお金が欲しい」と思ってしまうようだ。もう既に「長者」になっているのに、「まだまだ」とあくなき貪欲でもって己が利益のみを追求した「ホリエモン」は、今何を考えているんだろうか。彼の築いた巨万の富は、ただの砂上の楼閣だったのだ。
January 25, 2006
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私はいつその存在を知ったのか忘れたが、バーブラ・ストライサンド(Barbra Streisand)という歌手が好きだ。彼女の名前は、彼女自身の言葉では、「ストライザンドではなくて、ストライサンド」だそうだ。この人は歌手でもあり、女優でもある。彼女自身が監督・主演をした映画『イェントル』は昔有名だった。 この映画は日本では『愛のイェントル』と題されて公開された。(やっぱり『愛の...』がつくんだな~)これは1984年の作品。Sony Music Online というサイトでは、Artist Information の中で、この作品を次のように紹介している。 ●大成功を収めた1976年の「スター誕生」は彼女がプロデューサーとしてその洞察力とエナジーを発揮した最初の映画作品であり、6つのゴールデン・グローブを獲得し、サウンドトラック・アルバムは4百万枚を売りマルチ・プラチナに認定された。 バーブラは、最初の映画を終えたすぐ後に「イェントル・ザ・ヤシヴァ・ボーイ」と題された短い物語を読み、その話を元に2作目の映画を作りたいと思っていた。しかしその夢を果たすには14年間に渡る準備期間が必要だった。 映画「愛のイェントル」はロマンティック・ドラマと音楽とが組み合わさったもので、心と精神においては何事も不可能ではないと悟る勇敢な女性が主題。 この話が称えているのは、伝統的な価値観に縛られずに自分の能力を最大限に引き出そうとする女性達だ。またこの作品は、1,500万ドルという大予算プロジェクトであり、その後の女性監督達が高度なレベルの制作現場への扉を開ける際の手助けとなった。 確かこの映画は、女性には学問が禁じられていた頃に、男装して学校に入る娘が主人公だった。私はじかに観たことはないが。それでも男装しても、身も心も女性なので(当たり前か...) ある男性を好きになってしまう。男装の彼女はそれで苦悶する...というような筋だった。 バーブラは、特に芸能界に入るレッスンをしたわけではなかった。おまけに母親からは、「あなたがもう少し美人ならね」などと言われて育ったそうだ。でも負けず嫌いの彼女は、自分の容姿を何回も鏡で見て、自分で自分の写真を撮った結果、「私には私の魅力がちゃんとある」と自信を持つようになったそうだ。 彼女は『愛のイェントル』でも分かるように、ユダヤ系アメリカ人である。彼女は自らショービジネスの世界に飛び込んで、歌手としても女優としても偉大な存在になった。それで、いつだったか、エジプトの国際的俳優であり、『アラビアのロレンス』で一躍有名になった、オマー・シャリフとの恋仲が噂になったことがある。 ところが中東情勢はいつもイスラエル=ユダヤとパレスチナ=アラブとの間で揺れ動いている。そこで彼女の恋も、「ユダヤ人とアラブ人が恋仲になるのはけしからん」と言われて、いつしか消えてしまった。確かそういうことがあったなぁ...バーブラ・ストライサンドと聞くと、そんなことも思い出される。とにかく本格的実力派のスーパースターなんである。 彼女の映画は観ていないけれども、歌はよく好きで聴いている。その歌唱力も素晴らしいし、温かい声が聴いていて気持ちが良い。私が彼女の歌で特に好きなのは、映画『ウエストサイド物語』の中で歌われたという「サムウェア」である。確かジョージ・チャキリス(古い...)扮する主人公の恋人が、「ロミオとジュリエット」のように、窓越し(アパートの階段越し?)で彼に歌いかける場面で使われた歌だったと思う。 ジョージ・チャキリスと言えば、以前、NHK に招かれて、確か『ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)』というドラマで、主人公の八雲を演じた。チャキリスはギリシャ系アメリカ人で、八雲も、ギリシャ人の母親とアイルランド人の父親の混血だった。だからチャキリスが八雲になったんだろう。八雲の妻には女優の壇ふみが演じた。(「壇ふみ」も懐かしいなあ...) ところでバーブラの歌う"Somewhere" の歌詞はこうである。Someday Somewhere We'll find a new way of living We'll find a way of forgiving Somewhere There's a place for us Somewhere a place for us Peace and quiet and openness Wait for us Somewhere There's a time for us Someday there will be a time for us Time together with time to spare Time to learn And time to care Someday Somewhere We'll find a new way of living We'll find there's a way of forgiving Somewhere, somewhere Somewhere There's a place for us A time and a place for us Hold my hand and we're half way there Hold my hand and I'll take you there Somehow Someday Somewhere いつかどこかで 私たちは新しい生き方を見つけるわ お互い許しあう方法を見つけるわ どこかに 私たちには場所があるわ 私たちのための場所がどこかに 平和と静けさと自由が 私たちを待つわ どこかで 私たちには時間があるわ 私たちのための時間がいつかあるわ 共に過ごし分かち合い 共に学びいたわり合う時間が いつかどこかで 私たちは新しい生き方を見つけるわ お互い許しあう方法を見つけるわ どこかで― 私たちには場所があるわ 私たちのための時間と場所が 私の手を握って 私たちはまだそこへたどり着いていないの 私の手を握って 私があなたをそこへ連れて行くわ なんとかして いつの日か どこかへ...... この歌の美しい所はたくさんあるけれども、最初の始まり方が "Someday―Somewhere" 「いつかどこかへ......」といった、「未知なるはるかな世界」へのいざないを思わせる歌詞にぴったりの、神秘的な雰囲気なのがまず素敵で、いっぺんで歌に惹きこまれてしまう。 それに原詩を見ると、同じスタンザ (stanza 「連」:3~4行以上の詩の単位)の中で、"some" の繰り返しや、"living, forgiving" や "us, openness", "spare, care, there" などの繰り返しが使われている。同じ韻を踏む言葉を詩の最初で繰り返すのは「頭韻」、詩の文末で繰り返すのは「脚韻」という。この "Somewhere" では、この頭韻と脚韻をきちんと踏んでいる。それが詩の、歌のシンプルさを形成している。 いい歌というのは、たいてい韻を踏んでいて、シンプルでありながら、その内容がひとつのテーマに貫かれているものなのだ。バーブラが "somewhere, somewhere, somewhere..." と繰り返し歌い上げる部分が本当に素晴らしく美しい。 この歌には "love" という言葉はいっさい使われていない。それでもこの歌の本質はやはり "love" であり、"love and peace and humanity" であることがすごくよく伝わる。こういう「愛の歌」もあるんだなあと思う。 また歌詞自体の美しさだけでなく、バーブラ・ストライサンドが聴く人の心を温かく包み込むように歌うので、この "Somewhere" は優れた作品になっているのだ。(歌の下手な私が歌うと、この歌はへこんでしまうに決まっているんである。) 「ヒーリング」(healing) という言葉が10年ほど前に流行り、今では定着した。私は、先日の "Superstar" も、この "Somewhere" も、「心を癒す音楽―healing music」となるのではないかと思う。英語も実にシンプルで美しい。今は受験シーズン。英語の勉強に疲れた受験生も、TOEFL に疲れた大学生も、人生に疲れた中高年?も、こういう歌を聴くと、心がとても癒されて、明日への希望が湧いて来るのではないだろうかと思う。
January 24, 2006
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パソコンで音楽を聴くには、Windows に標準装備の Windows Media Player を使うか、SonicStage をダウンロードして使うかの2種類があるようだ。以前、懸賞運のまったくない私に、NetMD が当たったことがある。それを使うのに、梱包されていたSonicStage のCD-ROM をインストールした。けれども今はもっぱら、Windows Media Player ばかり使っている。 この使い方が最初分からなかったので、Windows XP の参考書を調べた。そうしたら、ただCD をトレイに入れて聴くだけでなく、そのCD を Media Player にコピー(取り込み)して、聴くことができることが分かった。それ以来、好きな CD をせっせと取り込んでは、パソコン作業の BGM にして聴いている。 私はいわゆる「ながら族」で、何をするにしても、BGM がないと寂しいし、気分が乗らない。それが、好きな音楽も聴かずにパソコンをカチカチする日々が2年ほど続いていた。今から考えるともったいないことをしていたなあと思う。 好きな音楽といっても、演歌や歌謡曲を除けば、私は「何でも屋」なんである。今人気の J-Pop というのは、ラジオが使い物にならないので(山の上だから電波状態が最悪)あんまり知らない。でも「いいなあ、これ」と思った曲が、案外 J-Pop だったりする。 今のところ、Media Player に入っているのは、「ハリーポッターと炎のゴブレット」のBGM や、富田勲(いさお)さんのNHK 大河ドラマの昔のテーマ曲(「勝海舟」「新平家物語」「徳川家康」など)や、グレゴリオ聖歌や、リストのピアノ曲や、ハチャトゥリアンの「ガイーヌ」「スパルタカス」や、エンヤとかバーブラ・ストライザンド、カーペンターズなどなど。その中で、カーペンターズの歌はすごく懐かしく感じる。 私が中学校に入った頃、姉もカーペンターズの大ファンで、「ねえカーペンターズの歌詞をノートに書いて」と頼まれたことがある。英語を書くのが大好きだった私は、鉛筆で、せっせと書いた。まだ中1なので、意味はほとんど分からなかったけれども、英語でびっしり埋まったノートを見るだけで満足していた。 カーペンターズは "Yesterday Once More" が有名だが私は "Superstar" が特に好きである。大体、どんな外国のポップスでも、意味は分からず聴くのだけれども、そのメロディーや雰囲気でお気に入りになってしまう。"Superstar" は、全体的に哀愁を帯びていながら盛り上がるところがいい。だから何回も聴く。 私がこの "Superstar" を聴いていると、息子が「何?『ベイベ、ベイベ』言ってるの」なんて言う。「これはね、英語で "baby, baby"って歌っているのよ」と私が言うと、「『ベイビー』?じゃあ『赤ちゃん、赤ちゃん』って歌ってるの~?」などとおどけている。それで、私は「英語で baby っていうのは、『赤ちゃん』の意味だけじゃないの。恋人にも使うんだよ」と言った。 改めてCD に付いていた歌詞を見ると、"Superstar" の歌詞はこうだった。 Long ago, and, oh, so far away I fell in love with you before the second show. Your guitar, it sounds so sweet and clear, but you're not really here. It's just the radio. Don't you remember you told me you loved me baby? You said you'd be coming back this way again baby. Baby, baby, baby, baby, oh, baby, I love you, I really do. Loneliness is such a sad affair, and I can hardly wait to be with you again. What to say, to make you come again? Come back to me again, and play your sad guitar. ずっと遠い昔 私はあなたに恋をしたわ 次のショーが始まる前に あなたのギターの音色は甘く澄んだ響き でも今あなたはここにいない ただラジオからあなたのギターが聞こえてくるだけ 愛しいあなたは覚えていないの 私を愛していると言ったことを また戻ってくるとあなたは言ったのに ああ愛しい人 本当に私は愛しているわ こんな寂しい恋は孤独 またあなたが私のもとに戻るのが待ちきれない あなたはどう言えば戻ってきてくれるの もう一度私のもとに戻ってきて あの哀愁のギターを弾いて ヒット曲というのは、たいてい「愛の歌」が多い。中には全然「愛」の「あ」の字も歌っていない曲でも、外国ではヒットする。けれどもやっぱり「愛の歌」というのは人の心をひきつける。 私ははっきり言って「愛している」という言葉はあまり多用すべきじゃないと思う。少なくとも、お互い好きな間柄でも、この言葉を使いすぎると、かえって相手を「軽いヤツ」とか「クサい台詞ばっか」と嫌いになるんじゃないか?人によりけりだけれども、少なくとも日本人はあまりこの言葉を多用しない。 ショッピングセンターの木のテーブルに、近くの高校生(多分女の子)がよくいたずら書きをする。でも中には愛しい彼氏への恋慕を綴ったものもあったりする。「いつもそばにいて いつも一緒にいて そしてあの笑顔を見せて」なんて書いてあるのを見つけた時には、胸がキュウ~ンとした。すごい恋愛だな~と思った。でもやっぱり「○○君、愛している」なんてことは書かない。日本人の特性かな。 だけど、歌の中で「愛」とか「愛してる」というのはちっとも構わない。この「愛」という言葉は、もしかしたら近世になって、欧米から輸入されたものかもしれない。遥か昔、日本人は万葉集や源氏物語などでも、「愛する心」を「恋(こひ)」と表現しているからだ。芸能界では、最近は以前よりも欧米化が進んで、日本のポップ歌手なども、日本語を使わず、"I love you" とか "Love me" とか歌っている。 それに、映画の中での「愛」も、わりあい抵抗なく受け入れることができる。自分が持っている感情を、好きな人にぶつけるより、歌や映画などの虚構の世界で感動し、改めて自分の愛しい人への「愛」を確信できる。だから「愛の歌」というものは古今東西を問わず、人の心を魅了するのだろう。 この "Superstar" で歌われている「愛」は、「愛している人がそばにいない寂しさ」を表現したものだった。「恋人」は「スーパースター」すなわち手の届かない人。いつも一緒にいることはできない。孤独な愛なのだ。だから全体に哀愁が漂った曲なのだろう。それに英語も分かりやすい。 英語がどうも苦手だとか、英語といえば「英会話」という人などは、こういう英語の歌を聴いたらどうだろう。いっぺんで英語に対する価値観が変わるんではないか?ぜひお薦めの曲です。
January 23, 2006
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パソコンやインターネットを使っていると、今さらながらに、実にいろんなサービスがあるなあと驚く。最初は、主にメールや検索やショッピングのために使っていた。その次はホームページ作成である。また、液晶テレビが目にいい私には、パソコンテレビ「Gyao」などは助かる。DVD 鑑賞も楽しい。 また、いろんなプロバイダーのサイトには、「翻訳」サービスもある。業者の「翻訳ソフト」を買わなくてすむので、これは気軽でいいと、最初は思った。だが、この「翻訳」サービスは、案外曲者なんである。 大学で、英文を書かせる課題があるが、これを学生に課すにあたって、「インターネットの翻訳ソフトは使わないように」との指導上注意事項が言い渡された。私は、最初は「自分で書く力がつかないから、インターネットを警戒するんだろう」と呑気に考えていた。 だが、こういうサービスで、自分で試しに翻訳したい文章を入力し、「日本語⇒英語」を選択し、「翻訳する」をクリックすると、「この英語はなんじゃ?」というような英文に化ける。例えば、こんな具合なんである。 ●私の親友は美穂。小学校からの仲良し。毎朝、彼女と携帯でおしゃべりするのが日課みたいになってる。大学では専攻が違うから、一緒のクラスじゃない。でも、講義が終わると、必ず携帯で連絡したり、メールしたり。こんな毎日が結構楽しい。美穂がいなかったら、私どうなるかな。 ―The friend of my bosom is Miho. Friend from elementary school. Chatting by carrying with her becomes like the daily work every morning. Because the major is different, it is not the same class at the university. However, whenever the lecture ends, it reports by carrying, and it E-mails. Such every day is considerably happy. My when there is no Miho. 出できた英文は、「まあこれでいいか」とか「なるほど、こう表現すればいいな」というのは全体の3割ほどで、残りは「どうしてこんな奇怪な文章になるの?」というほどシッチャカメッチャカなんである。 ちなみに、私が手直ししたのが、次の英文である。―My bosom (best)friend is Miho. She has been my good friend since our elementary school days. Chatting by my mobile (a mobile phone) with her every morning becomes like my daily routine. Because her major is different from me, we cannot be in the same class at the university. However, whenever the lecture ends, I always get in touch with (exchange communications with) her or send her E-mails by my mobile. I feel such every day considerably happy. What should I do without Miho? 最初の「私の親友は美穂。小学校からの仲良し。」が、翻訳ソフトでは "The friend of my bosom is Miho. Friend from elementary school." となっている。意味が通じないわけではないが、ちゃんとした英文になっていないではないか。ここで問題なのは、"The friend of my bosom"という表現と「主語+述語」という構造がないということなのだ。 また、"Chatting by carrying with her" というのでは、"carrying" が変だ。こんな言い方はない。「携帯電話」は、"the mobile" か "mobile phone" が普通なんである。(欧米圏では "cell phone" が普通である。) それに、Because the major is different, it is not the same class at the university." も大体の意味は分かるが、英語としてはすっきりしない。なぜ「一緒のクラスじゃない」に "it" を使うんだろう。主語はここでは「私と彼女」のはずなのだ。 "it reports by carrying, and it E-mails." ...これも相当おかしい。「(講義が終わると)必ず携帯で連絡したり、メールしたり」の英訳がどうしてこうなるのか?この某プロバイダーの翻訳サービスでは、主語がメチャメチャ。 主語はここでは「私」だし、「携帯で連絡する」は、"I always get in touch with (exchange communications with) her by my mobile." となるべきで、「携帯でメールする」は、"send her E-mails by my mobile" とするべきなのだ。 最後の "My when there is no Miho."は、「ハチャメチャ英文総仕上げ」みたいである。「美穂がいなかったら、私どうなるかな。」に対して、これはもはや「英訳」といえないんじゃないか。まるで英語の苦手な学生が、単語を並べ損なった英文みたいだ。 「私どうなるかな」というのは「私はどうすべきだろうか」と考えて、"What should I do without Miho?" か、"Without Miho, I can't see what to do." とするのが適切ではないだろうか。 インターネットは至極便利であるし、今や「なんでも来い」といった万能マシンみたいである。そのインターネットでも、できないことがあるものだ。なぜ「翻訳サービス」は、こんなに質が悪いんだろう。 女の子の独り言みたいな日本語ではなく、きちっとした「文章語」で書かれた日本語なら、英語の構造を立派に備えた英文に訳してくれるか―といえば、それもどうか?というほど変テコな英文が出てくる。これでは「サービス」とは言えないのではないか?この翻訳プログラムを作った人は、「正確かつ適切な英文」が出てくる努力を怠ったのだろうか。 自分であれこれ試してみて、ネットの「翻訳」のまずさを発見した私は、大学側が心配していたことに「なるほど~」と合点がいった。こんな「ネット翻訳」に頼るようになると、「自分で英文を書く力がつかない」だけでなく、「自分の英訳はこれでいいんだ」と、まずい英文を本当の英文と誤解してしまう。 結局、「英文が書けるようになる」には、機械に頼らず、自分でこつこつ勉強するしかない。なるべくたくさんの英文を読み、音読し、英文のリズムや構造を理解することが早道だと思う。英語のリズムは、ラジオやテレビの英語講座を利用するのがいい。後は、電子辞書を手元に置くか、辞書ソフトをパソコンにインストールするかだ。 私が現在パソコンにインストールしている辞書ソフトは、アルクの「学辞郎」と朝日出版の「E-DIC」である。アルクの方は、"Personal Dictionary for Windows" と「ロボワード」とに分かれている。「ロボワード」は用例が少ないが、すべて検索した単語は発音してくれる。 "Personal Dictionary" の方は、用途が広い。日本語を入力すると、その正確な英訳が(単語単位で)示される。その単語を用いた例文も多い。英文を書く際、こちらの方が重宝する。 「E-DIC」は、自然な会話の例文がとても豊富。アメリカ英語の俗語表現も分かって面白い。会話をしたり、日記を書いたりするのにはちょうどいいという感じの辞書だ。 それにしても、日本人の私たちが、自然な英文を書くということは、なかなか簡単にはできないと思う。特にビジネスレターや、商品説明書の翻訳などとなってくると、その専門の学習書や参考書がどうしても必要になる。 今は、SOURCENEXT 社では、「本格翻訳」というソフトを出しているが、これはビジネス向きの用途に用いられるようだ。普通の日常的な英文を書くには、やはり一番良いのは、高校や大学で使った教科書をおさらいするか、NHK などの講座テキストを活用するのが早道ではないかと思う。何事も「急がば回れ」だ。
January 22, 2006
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早稲田大学の吉村作治先生は、エジプト考古学者として国内外で有名な人である。今から約10年前の1995年、私は吉村先生の書かれた『それでも君は大学へ行くのか』(PHP 文庫)を買って、とても興味深く思った。 その頃の私は、大学で非常勤講師を勤めるようになって、5年ほど経っていた。今もそう変わらない、大学教育の問題や学生の様子が詳しく書かれたそのエッセイを、再び手にしてみると、「どうして自分は大学で教員をするようになったのかな」と、いろいろと考えることがある。 私は子供の頃から、引っ込み思案でおとなしい性格と言われてきた。小学校の先生は、親子面談でも、通信簿にも、私の性格上の問題、すなわち「おとなし過ぎる」「消極的」ということを必ず強調した。 それは中学になっても続いた。私の母は、中学の担任の先生から、「何か心理的な問題があるだろうから、性格を矯正するような所に相談に行ってはどうか」などと言われて、おろおろしていた。 母も心配しただろうが、当の本人である私も、先生から「性格相談所みたいな所に行けば」と言われて、そうとうショックを受けた。そんなに言われるほど「おとなしい」のか、と自分で自分が嫌になったほどだった。 そんな私が、今では大学の教壇(といっても一段高くなっているわけではない)に立ち、多数の学生相手に英語を教えたり、ちょっとした世間話をしたりして皆を笑わせたりしている。人間という者は、性格を変えようと思えば変えられるものなのかも知れない。 もう子供ではなく、大人であり、いわゆる「世間慣れ」した、と言えば、その通りかも知れない。けれども、教壇を離れれば、以前ほど「無口」ではないが、「おとなしい」自分に戻る。だが周囲の人は、私のことを「穏やかだ」とか「ざっくばらんで話しやすい」とも言う。ただの「おとなしい」子羊が、良い評価を得られるようになったと受け止めるべきなのかも知れない。 しかし、私は大学に入っても、自分のことを「おとなしい」と思っていた。だから、学生のバイトで人気のある「家庭教師」さえできない、と思い込んでいた。けれども、フランス語の女の先生の、ある一言で、私は目が覚めた。その先生は、きっと非常勤で教えていたのだろうけれども、とても発音が美しく、フランスの雰囲気が漂っていて、しかもとても熱心に教えてくれた。 そんな先生の授業でも、居眠りをしたり、予習を怠ったりする学生がかなりいた。先生はそれでも怒らずに、こう言った。 「私は皆さんに教えたくて、ここに来ているの。私はね、皆さんに教えるために、一生懸命テキストを勉強しているの。だから、こうして教えることができるのよ」 私はこの先生の言葉にとてもビックリした。私は、小学校から大学まで、どんな先生でも、「先生」という人は、事前に調べ物をせず、頭に入った内容を教えているものだとずっと誤解していた。 こんなに率直な先生は初めてだった。私はこのフランス語の先生の一言で、「それなら私でも人を教えられるかも知れないな」と勇気がわいた。それで、ようやく家庭教師ができるようになったわけである。 私が今、人前でものを教えられるようになったのも、もとを辿れば、このフランス語の先生のおかげと言える。だが、いざ大学の教壇に立ってみると、持ち前の「おとなしい」性格のためか、最初はとても緊張し、学生の顔を見ながら話すことなんてできなかった。また、それ以上に私を悩ませたのは、学生の「私語」だった。 居眠りも、最初は戸惑ったり、悩んだりした。教員になって2年ぐらいすると、「叱らねば」という気持ちも湧いてきて、お喋りや居眠りをする学生を「コラーッ」と一喝したこともある。けれども私の雰囲気には、「おっかね~」と学生をビビらせるものが、我ながら情けないほど皆無なんである。講義中、カッカしても、結局は「あのセンセ、ヒス起こしてるで」と言われるのがオチなんである。だから、もう怒るのは、一切止めてしまった。 これは、別に講義に対して、無責任になったわけではない。教員生活10年を過ぎた頃から、一種の「悟り」が出来ただけである。「居眠り」「教科書を忘れた」「予習してない」ということには、もう怒っても仕方ない。 相手は1回生とは言え、18から20歳の「ほぼ大人」である。彼らの授業中の態度が悪くても、それは結局「英語が分からなくなる=単位を落とす」というツケとなって、本人に返ってくるだけである。大学での勉強は、高校までとは異なり、すべて「自己責任」であるからだ。 しかし、「私語」には相変わらず悩む。こういう時の手段は、怒らず、まず講義をピタリと止めて、「だんまり作戦」をとる。私が黙って、ペチャクチャ喋くりまくっている輩の方を見ていると、たいていの学生は、向きを変えて座りなおし、黙ってしまう。 それからこれは最近の発見だが、教壇の背後の黒板の下に、黒板消しのクリーナーがある。これをいきなり授業中にスイッチを入れる。すると、「ガーッ」と凄まじい音がする。これも、チャットに夢中な輩にはかなり効果的でなんである。 私は、「私語」に悩むのは、せいぜい私の大学かその周辺の大学だろうと思っていた。それが、吉村作治先生のエッセイを読むと、早稲田でも学生の私語に悩んでいることが書かれてあったので、すごく驚いた。この本の最初からして、「だまれ!学生」というエッセイで始まっている。 ●今大学でいちばん大きな問題になっているのは、情けないことに授業中の私語である。これは早稲田大学だけではなく、どこの大学でも多いようだ。教員が集まって話すことのなかでも多い話題がこれで、「最近の学生は、ざわざわしてしようがない」ということになる。 ●...どうして私語が多いのか、学生にアンケートをとったことがあるが、学生の言い分は「授業がつまらない」「教師の話がつまらない」に集約される。いつの世でも若い人というのは自己弁護をするのだが、この回答の中に大きな問題がある。 ●つまり大学教育というものは、おもしろくあるべきか、ということだ。まず学生はなんのために大学に来ているのかと問いたい。その第一は知識を得るためのはずである。また、教授たちの学問に対する姿勢や情熱を学びにきているはずだ。それが人格形成につながるのだ。それこそ大学教育の基本だろう。そしてそれが自分の将来の進路、すなわち人生を形づくる。 ●ところが、今の学生はおもしろい授業を聴きに大学にやってくるという。それならテレビや寄席、イベントなどに行けばいいわけで、大学で教えることが学生にとっておもしろいかどうかを、われわれ教員が考える必要はない。そもそも、ここでいう「おもしろい」とは興味深いという意味ではなく、単におかしいという意味なのだ。 私の大学でも「授業アンケート」というものがある。その中の「自由記述欄」に、「この講義の改善に役立つような意見があれば書いて下さい」と始めから印刷されてある。だがこの「自由記述欄」は、放っておくと、学生の「言いたい放題掲示板」になり変わる。乱れた字で「つまんない」「つまらね~」「おもしろくなーい」「眠くなる...」と書き殴ってある。 私は最初の頃は、こういうのを見ると、自分の講義にそんなに欠陥があるのだろうかと、どどーんと落ち込んだ。けれども、「アンケート」なるものが恒例の行事として定着すると、「こんなことを書き殴るのは無責任な学生のすることだ」と考えが変わった。そこでアンケートを配布する前に、「自由記述欄」の書き方について注意することにした。 「この記述欄に、ただ『つまんない』と書き殴る人がたまにいますが、これは授業に対する皆さんの意見を書く所です。そこに、暴走族のいたずら書きのように書き殴るという行為は、大学生として恥ずかしいことであり、また自分自身の人格をおとしめる行為ですので、その点をよく考えて書いて下さい」 ところで、早稲田の吉村先生は、「私語」についてどう対処しておられるのだろうか。それについては、次のように書かれてある。 ●...われわれ教員は鬼の首でも取ったように最初からどなるわけにはいかない。はじめはやさしく「授業中には話をしないんだよ」。次は「授業中に話をしていると、他人に迷惑で、私も授業をしたくなくなってしまう」。三度目は「静かにしろッ。出てけッ」。そういうやり方しかない。しかし「話をするなら出ていきなさい」と注意すると素直に「ハイ」といって男女二人の学生が席を立って出ていくのを見送るのはたまらない。こんな素直にだれが育てたのか、親を恨みたくなる。 ●また、注意をしないと学生は教員を甘くみて、どんどんその輪を広げていく。最後には私語だけではなくて、授業中に紙飛行機を飛ばしたり、ボールを投げっこしたり、出たり入ったりということになる。現に収容人数700人近い大講堂で授業をしたときの初めはそうであった。 ●それを退治するのに、私はどなるだけでなく、階段を何回もかけ上がったり下りたりした。映画の『ゴースト・バスターズ』じゃないけれど、不心得学生バスターズと化さなければならないのだ。彼らは自分の置かれた立場、自分の置かれた責任を理解し、それをどう果たすかということに対する思考能力や認識がないと思う。これは今どきの学生の特徴なのだ。 私は、自分の勤める大学の学生の知的レベルは中の上くらいだと思う。ましてや早稲田大学といえば、その知的レベルは私学ではほぼトップである。そこの学生が、講義中に「紙飛行機やボール投げ」をして、エジプト考古学の大御所が彼らを「退治」するのに息を切らしている。これには驚いたし、呆れ返った。 結局、難関大学に入るだけの「高学力」と、その学生の「人柄や認識」とは別物なのだとつくづく思う。「天は二物を与えず」と言うが、人間に大事なのは、「有名大学卒」ということではなく、その人の「人間性や価値観」なのではないか。「学歴社会」の日本ではあるが、その点がまったく省みられていないのではないだろうか。
January 21, 2006
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今年になってだったか、某有名私大の学生が、バイト先の塾で、生徒の女の子を殺害するという事件が起きた。また、最近、某有名国立大の学生が、女子大生を酔わせて、集団で暴行を犯すという事件が起きた。こういった事件から、私はなぜこんなことが起きるのか、考えさせられた。 大学には、昔から「一般教養」なる科目があった。それは今もある。けれども、この「一般教養」というものは、学生には受けが悪い。学生言葉で、「パンキョウ」と呼ばれるようになって久しい。 よく電車やバスの中で、大学生の会話を耳にする。 「なあ、今日何とってる?」 「『英語』と『心理学』。『英語』1限目からやで。めっちゃきついな、ホンマに」 「あ~あのセンセ、答え合わせばっかや、授業。めっちゃオモロないな」 「『心理学』は昼飯食ってから」 「昼飯のあと?眠くなるやろ。パンキョウやし」 「なんであんなんとったんかな。退屈やで」 「あのセンセやろ。あれ『哲学』もやってんで。めっちゃ眠いな、あれ」 「だからオレ、ずっと寝てるしな、『心理学』。何言うとんのか、さっぱり分からんし。パンキョウは、オレの昼寝の時間」 「大塚が怒ってるで。お前の代返、やらされるって」 「あ~大塚は真面目やし。あいつのノートで生き延びてんで、オレ」 こういう会話は、聞いてて別に不愉快ではない。むしろ「今の学生は、こういうことを感じているんだな」ということが分かって、面白い。それが案外、自分の教えている大学の学生だったりすると、思わず笑ってしまいたくなる。けれども、反面「情けない」とも思う。 もともと、大学という場所は「教養」を鍛錬し、深く学ぶ場所なのだ。 よく「アカデミックな話題」などと言う。これは言い換えたら、「知的教養の高い話題」ということなのだろう。人は、「アカデミック」なるものに憧れる。まだ、Academy という言葉は、広く「大学・研究所」の意味にも用いられる。これは古代ギリシアに起源を発する。 「アカデミー」という語は、広辞苑によれば、古代ギリシア、アテナイ(現在のアテネ)アカデメイア神苑で、プラトンが学校を開いたのに基づくそうだ。当時は哲学や心理学を修めることに熱心な若者が集まって、厳かな講義や熱心な議論が繰り広げられたに違いない。 「教養」というと、漠然としているが、要するに人間の物の考え方や価値観を形成するものなのだ。その手段として、「哲学や心理学などを学ぶ」ことが重要となってくる。 けれども、誰が始めに言い出したか知らないが、その「教養」に「一般」という言葉がくっついて、「一般教養」という多くの科目の区分のひとつになってしまった。 「一般」という言葉は、「教養」という言葉以上に漠然としている。「誰でも・何となく・適当に」というニュアンスが含まれてしまう。それでなのか、東大や早稲田大でさえも、「パンキョウ」という、一種の侮蔑的な呼び名を与えられてしまったらしい。でも、本当にこのままでいいのだろうか。 私は、後期の最期の授業で、締めくくりにちょうど良いと思い、古代中国の思想家、孔子(Confucius) の論語を取り上げた。「孔子の論語」というのは、英語では、"The Analects of Confucius"と言う。孔子という人は、若い時から思想家だったのではない。最初は会計事務・書記・音楽教師などを経て、警察官になり、裁判官も務めたそうだ。 やがて晩年になって、思想家になった。それまでの人生経験を、思想に表すだけの力量があったのだろう。 英語のテキストには、その肝心の「論語」の文章を紹介していなかった。私は、家にたまたまあった、「論語集」の英訳・和訳付の本から、時間の関係もあって、第一巻の文章を少しだけ取り上げて、授業で紹介した。 例えば、冒頭はこういう文章である。 ●孔子がおっしゃった。「学んだことを時に応じて実習するのは、楽しいことではないか!志を同じくする者が遠くから訪れるのは、嬉しいことではないか!人に認められなくても恨まない、これまた君子らしいことではないか!」 ―The Master said, "To learn something and regularly practice it―is it not a joy? To have schoolfellows come from distant states―is it not a pleasure? Not to blame when men do not accept you―is it not like a gentleman?" また、弟子に曽子という人がいて、この人は「孝道(孝行の道)に秀でた」と言われた人だったそうだ。この弟子の言葉も、「論語」には納められている。 ●曽子が言った。「私は毎日、何度も自分を反省する。人のために誠意が欠けたことはなかったか。友と交わって誠実であっただろうか。伝授された学問を、しっかり習得したであろうか、と」 ―Master Zeng said, "I daily thrice (=three times) examine (=think over) myself. In counseling (=advicing or communicating with) men, have I not been wholeheartedly sincere? In associating with friends, have I not been truthful to my word? In transmitting (=studying) something, have I not been proficient (=fully learned)? こういう文章の中には、人のあるべき道や、人生の指針となる言葉が盛り込まれている。それを読んで、自分の生き方や倫理観を確立する―これが本来の教養ではないだろうか。また、このような文章を英語など、日本語とは違う言語で読み、意味を理解すると同時に、英文の美しさや構造をも感じたり、学ぶことも、教養につながるのではないか。「教養」とは「感受性の陶冶」でもあるからだ。 昔は、大学の英語の時間は、このような、じっくり吟味できる英文のテキストを使って教えることが許容されていた。学生は、1年間、その英文と取り組み、自分の考えをまとめる時間があった。けれども、カリキュラムが変わり、英語は1回生の前期だけでも良い、というコースが誕生した。 また、時代の需要に合わせて、あまり「文学的な内容は取り上げないように」との指導要項がメインとなった。これは、現代社会を反映した英文の方が、「学生の興味を引き、取り組みやすい」という考え方からである。 それはそれで、私は良いことではあると思う。「自分の興味が持てる英文」なら、勉強する気が起き、結果として、英語の学力向上に繋がるからである。だが、文学や、論語のような古典の中にも、充分学ぶべき要素はある。 自分の興味を引く、というのは一時的なものになりやすい。一定期間、惹きつけられても、「英語」の講義が終われば、そのテキストとは「ハイ、さようなら」となるのが落ちである。どんな学部に学んでも、文学や古典は、20歳前後の人々にとても大事なことと思う。20歳の頃に培われた教養や価値観は、その後の人生の、大きな支えともなり、人格形成の基盤となるからである。 私は法学部で英語を教えているけれども、法学部の学生の中には、将来公務員のみならず、弁護士や警察官になることを目指す人が多い。そういう人々にこそ、専門科目以外の、教養のもとを授けるべきなのではないだろうか、と常々考える。特に人間相手の職業である弁護士や警察官を志す人は、人の心のあり方を、文学で学び、教養を身につけるべきではないかと思う。 そういう将来の設計図がありながら、一部の学生は、「英語なんて1回生の前期で、もうたくさん」と思ったり、「パンキョウなんて退屈」と感じたりする。しかし、真摯に「物の考え方や人生の指針を見い出したい」と考えるならば、「哲学」や「心理学」や「文学」は、決してつまらないものではない、と思う。 大きな意味で、語学も、若い心に豊かな感受性を与え、世界観を学ぶことができるものだ。それが、ただの「単位取り」のための受講になってしまっている。大学の学生は、人生で一番大事な時期を、むざむざ無駄な時間に自ら変えてしまっている人が多い。これは残念なことではないだろうか。 また、大学でしっかり「学問」というものと向き合い、自分の考えを深めてさえいれば、大学生が、世間を慄かせるような事件は起こらなかったのではないか―そう思えてならない。
January 20, 2006
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私は、単に「ウィノーナ・ライダーが好きだから」と買い求めた映画『エイジ・オブ・イノセンス』を、たまたま11歳の息子と観ることになってしまったのだが、このことで、「人を恋慕う心」が自然と子供の心に滲みこんでいくのではないか―と思った。 この映画は恋愛ものだが、品の良い恋愛映画なので、親のアドバイスがあれば、子供には悪くはない、良質な映画だったからだ。 例えばニューランドがエレン(ファイファー)を口説いている場面。 「あなたと会いたい......」 「だめよ......でも......」 「一度だけならいいでしょう―明日。明日お会いしましょう。劇場前で」 「......明後日にします」などと、恋する男女の会話が続く。 私は、「ウィノーナが可哀想じゃない。婚約したくせに、他の女性と?しかも人妻だぞ」と怒りのこぶしを握り締めて観ていた。すると、また息子が、今度は完全に身を乗り出して観ている。 「何でこの人、この女の人も好きなの?」と私に訊く。 「え~と......うん、婚約者がいるけれど、あの黒髪の綺麗な若い人ね。でも、この男の人はさ、こっちの女の人の方が好きなんだよね。どっちも好きなんだけど、こっちの方がずっと好きなのね。この女の人は、もう結婚しているのに。こういうのって、いけないんだよぉ」 ニューランドは、メイ(ウィノーナ)とエレンが従姉妹どうしであるので、自分がエレンに迫ると、エレンはニューヨークの社交界でも格式高い彼女の一族の名を汚すことになる―と、理性で恋慕の情を押さえ込む。そうしてメイと、約束通り結婚する。 彼は、弁護士という職業柄、エレンの祖母からも頼まれて、「上流階級の女性が離婚するのは、あとあと醜聞となる」と思う。そしてエレンに会って、「あなたはヨーロッパにいるご主人と離婚するべきではありません」と説得する。「裁判での離婚は、苦しいものです。ヨーロッパにお帰りになって、ご主人と暮らした方がいい。ご主人もあなたとの復縁を望んでおられます」と強調する。 エレンはすすり泣きながら、「私にとって、今の結婚を続けることは、死に等しいのよ......それでもあなたがそう言われるのなら―分かりました。離婚はしません」と言う。それを見たニューランドは、気持ちがまたぐらついてしまう。(こらっ馬鹿者!) 「私とどこかに逃げましょう―二人だけで」 「......そして駆け落ちする?だめよ」 「離婚して下さい!」 「『離婚するな』とおっしゃったのは、あなたじゃないの!」 「こりゃ男の方がグラグラしてるじゃないか」と思いながら、私がじいーっと映画にかぶりついていると、いつの間にか、息子もかぶりついている。 「これ、喧嘩してるの?」 「いやあ、喧嘩じゃないよ。お互い好きだって言っているの」 「ああ、『結婚して下さい!』って書いてある、ホント」 「あー......いや、『離婚して』って言ってるのよ」 「『リコン』って何のこと?」 「ええっと......結婚することの逆!逆!別れちゃうってこと」 「ふ~ん。でもこの女の人は旦那さんがいるんでしょ?」 「そっそう(汗)......でもこの男の人は、その旦那さんと別れて下さいって、今、この奥さんにお願いしているわけなのね~(汗)この男の人、いっけない人よね~あんなにキレイな人と結婚したのに......」 私の説明に、息子も「うん」とうなずいている。私は、わが子の、予想外の関心の高さにやや焦りながら、それでも映画を観ていた。 ニューランドは、愛らしく美しい妻メイと暮らしながら、いつもいつもエレンのことばかり考えている。新婚旅行でロンドンやパリに行っても、エレンのことばかり。 「私は、『結婚』という牢獄につながれてしまった......」 こう考えるニューランド。美しく微笑みかける若妻メイ。メイが居間で、彼と二人で過ごす時。メイは「家庭の幸福と安定」の完全な象徴に見える。無心に刺繍をするメイをじっと見つめながら、ニューランドは怖ろしいことを考える。 「もしも妻が死んだら―?若く、健康でも、早く死ぬということはある......そうしたら、私は完全に自由の身だ......」 そんな夫の心中も知らないかのように、にっこりと微笑むメイ。自由になりたいという気持ちは、ニューランドを旅へと駆り立てる。彼は、日本の浮世絵画集を眺めては、旅への夢を膨らませている。 「何をご覧になっているの、あなた」 「日本についての本だよ......未知の国だ。まったくの別世界さ」 「日本?ずいぶん遠い国ね」 「そう、遠く未知の国だ―メイ、私はしばらく旅に出ようと思う」 「旅に?どちらにいらっしゃるの?」 「そう―どこでもいい。日本、インド、中国......」 すると、メイは不安と喜びを綯(な)い交ぜにしながら、立ち上がる。 「その旅行には......私もご一緒でなければならないわ......いいえ、私は旅行にはいけないわ......」そう言いながら、彼女は夫の膝に頬をすり寄せる。「今日、お医者様に行ったの。それで分かったのよ......」 そうして、ニューランドは子供ができたことを知る。その時の彼の顔は、喜びでも何でもなかった。むしろ絶望的な表情を浮かべる。エレンとはもう二度と会えない。会ってはならない、と思ったからだった。 この場面になってくると、もう息子はゲームをすっかり止めて、私と膝を並べて映画に見入っている。 「それからの私の人生にはいろいろなことが起こった......体の弱い長男は教会に行けず、書斎で洗礼を受けた...私と妻とが子供たちのことについて語り合ったのも、この書斎だ...長女メアリーが嫁ぐ朝、花嫁の父として娘にキスをしたのも、この書斎だった......」 妻のメイは、3人の子供に恵まれるが、子供の一人が肺炎になり、看病をしている間に感染し、40歳ほどで亡くなる。映画の画面には、立派な書斎の机の上に、所狭しと並べられた、メイの若い頃からの写真が飾られている場面が映る。 メイは家庭の幸福を噛み締めながら、この世を去った...... 「エレンとの想い出も薄れて行き......まるで幻のようになり...エレンのことを噂に聞いても、ただ亡くなった人を思い出すかのようになっていった―エレンは、私の心の中で、もはや死んだ人となった」 このニューランドの独白の字幕も、息子はしっかと見ていた。それで、私にこう尋ねた。 「『死んだ人』だって。あの女の人、死んだの?」 「いや、生きているんだけれど、もう完全に会わなくなったから、まるで死んだ人のように思えるって意味なのよ」 「ああ、なるほど」 やがて、長男は20代の青年となり、ヨーロッパで建築家として活躍するようになる。その頃、父親のニューランドは57歳になっている。西暦1890年代の頃らしい。もう欧米では電話が普及している。妻も亡くなり、年を取り、エレンとの昔の逢瀬をぼんやり考えているところへ、ヨーロッパにいる息子から電話がかかる。自分の新しい仕事を見てくれと言うのだった。 ヨーロッパに行くと、息子は社交界でのエレンの話をする。父の昔の浮気相手とも知らず、息子はエレンの住む邸宅前まで案内する。 「僕も会ったけれど、エレガントな貴婦人だよ。パパも会ってみる?」 「いや、止めとこう」 「なぜ?そこのすぐ3階に住んでいるのに。階段上がればすぐだよ。エレベーターもあるのにさ。どうしても会わない?じゃあ、僕は何て言い訳すればいいんだい?」 ニューランドは、エレンに会いたい気持ちを抑えながら、息子に意味ありげに笑って見せる。「言い訳ぐらい、自分で考えろ」 「『父は、エレベーターが嫌いな古い人間ですから』とでも?」 「......『古い人間ですから』だけでいい」 長男は、エレンに父親の言付を伝えに行く。ニューランドは、エレンのいるという3階の開き窓をじっと見つめる。今にもエレンがあの窓に現れるのではないか......そういう期待をこめながら。けれども、やがて、その窓は、召使によって、静かに閉められてしまう。彼は邸に背を向け、杖をつきながら、木枯らしの舞うヨーロッパの街を一人去っていく...... こういうラストシーンだった。私は、「許されない恋―禁じられた恋」に胸を焦がすニューランドの心にジーンと感動した。「愛しているのに一緒になれない......」ということほど、人を悩ませ悲しませることはないのだ、と思うと、人間の心はか弱く、痛いほど切ないものだと改めて感じ入った。 11歳の我が息子も、黙ってラストシーンまで観ていた。まだ幼い彼の心には、こういう映画はどう映っただろうか。最初は、「関心ない」と言っていたし、私も「そうね~お子様はゲームのお時間よぉ」なんてふざけていたのだった。けれども、いつの間にか、一緒に『エイジ・オブ・イノセンス』を最後まで観ていた。 私は、「11歳にはまだ、こういうのは早すぎるんじゃないかな」と思ったが、11歳なりに、何か感じ取ったことはあるに違いない。学校で、ただ「男女の体の違い」を詳細に教える「性教育」は、どこか即物的で、味気ない。 11歳には、恋愛映画は早いかも知れないが、6歳から「性教育」を教え込むよりは、13歳くらいになってから、こういう映画を観る方がよっぽど良いのではないだろうか。「人を恋し、愛慕う心」―人の心の機微や情緒を育むことを大事にした方が、人間らしく成長するのではないだろうか。そんなことをも考えさせる映画が、『エイジ・オブ・イノセンス』なのだった。
January 19, 2006
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11歳から12歳という年頃は、異性に興味が出てくる一方で、「一緒にいたくない」という気持ちも併せ持つ時期のようだ。息子の話では、男の子どうしでは、自分の体の微妙な現象について、話をすることもままあるらしい。でも、あんまり「性的関心」に走っている友人には、「あいつ狂っとんのちゃうん」とか言って、気味悪がるそうだ。 息子の仲良しのフトシ君は、弟とインターネットで「エロサイト」に11歳にしてはまってしまった健吾君に対して、「俺はお前みたいな奴、ダイッ嫌いやで。お前みたいな奴が、大人になって、最近よく出る不審者とか変質者みたいなオッサンになるんや」と言い放ったらしい。それでも、当の本人は「ふーん。そうかな」と平気だったそうだ。 息子は、病気やウィルスや健康に興味があるので、保健の授業を真面目に聞くタイプで、人間の体の仕組みに詳しい。けれども、周りの子供たちは、「保健の授業が好き」だというだけで、息子に向かって「お前って『エロ』なんちゃうん」などと言う。昔は「エッチ」と言った言葉を、最近の子は「エロ」などと言う。後者の方が、よっぽど嫌らしい響きがあると思うのだが。 その息子を捕まえて、例の健吾君は、「なあお前、女の体の『あそこ』はどうなってるのか、知ってるやろ?」などと聞くそうだ。「お前、保健の授業好きやんか」―息子はこう答えた。「女の人の『あそこ』?お乳のことなん?」―すると健吾君は「ちゃうって......もっと違うところ......」 そこで息子は、相手の意図するところが分かって、「バカ!頭冷やせ!」と健吾君を突き飛ばしたそうだ。小学校でも、1年生から「性教育」なるものが始まったため、下手すると「エッチ」な方向に関心が向くわけなんである。11歳にして、こういう少年が出来上がる。「性教育」というのは小学生に必要なんだろうか―?と私は常々不思議に思う。 女の子は女の子で、男の子と喧嘩ばかりしている。たいてい、女の子の方から、言いがかりをつけてくるそうだ。息子が休み時間に、黙って『室町時代』などの学習漫画を読んでいると、前に座っている舞(マイ)ちゃんが、「お前、何ボサーっとしとんねん、このボケ!」と言って、息子の足を蹴ってくる。女の子なのに、口が悪い。 「何で僕ばかり叩くん」と言い返すと、舞ちゃんは「お前はええねん」と言って、足や頭を蹴ったり叩いたりする。それで、息子の友だちでも「有力」なフトシ君が、彼女と口喧嘩をして、泣かせてしまった。それ以来、舞ちゃんは大人しくなってしまった。息子に言わせると、「前よりずっと優しくなった」そうだ。 先日、社会の時間に、息子が気分が悪くなり、保健室に行った。すると、その間に、舞ちゃんが、頼みもしないのに、息子のノートに社会の板書を書き写してあげた。私はその女の子の丸っこい、丁寧な字を見て、「へえ~」と思った。「舞ちゃんって、あんたのことが好きなのよ」と息子に言うと、「はあ?まさか」と無関心である。 それでも、「初恋」というものは、案外小学校時代に経験することが多い。この間、ネットテレビ「Gyao」で、ちょっと前のフランス映画『髪結いの亭主』というのがあっていたので、最初の部分だけ観て見た。美容師の旦那になった中年の男性が、少年時代を回想しているシーン。やっぱり11歳。 11歳だけれども、少年は、近所の理髪店の女性美容師に恋をする。その美容師はグラマーな中年女性である。その彼女に髪を洗ってもらう時に、ややはだけたセクシーな胸を垣間見て、ぽ~っとなる。11歳だけれども、彼女のきつい体臭や香水にうっとりする。それで、夜な夜な、彼女を抱いて寝ることを考える......という話から始まっていた。 私は、人間というものは、こんなに幼くして恋をするものかと、驚くと同時に、人の心の奥深さを感じて、異性というものが互いに存在することの大切さを考えた。 11歳の我が息子にも、何か秘めたものがあるかも知れない。だが、私がテレビドラマの場面を真似て、「もしもし......○○ちゃん、いますか?え?今いないんですか......そうですか」などとしようものなら、息子は「バカーッ!何やってんだよ!」と私に飛び蹴りの真似をする。 例えば、友だちのフトシ君の妹のシーナちゃんは、お母さんがフィリピン人なので、大人になったらすごい美人になると思われるほど、可愛い。それで、私が「もしもし...あ、僕。シーナいる?」なんて電話する真似をすると、たちまち飛び蹴りである。 「キーック!なんでシーナちゃんなんだよっ!」 「いいじゃない。シーナちゃんって可愛いし。可愛いって思うでしょ?」 「可愛いけれど、好きなんかじゃないのっ!」 それ以後、私が単に「あ、もしもし」と電話の真似をちょっとでもすると、「やめーっ!殴るぞーっ!」と息子のお叱りを受ける。単に照れくさいだけなのか、それとも少しは好きなのか。分からないけれど、こんな現象は少なくとも7~8歳の頃には見られなかった。 その息子が、先日、私と『エイジ・オブ・イノセンス』を一緒に観た。 届いたDVD を見ると、そのカバーに、ダニエル・デイ・ルイスがミシェル・ファイファーの喉元に口づけしているシーンが「どーん」と映っている。それを見た息子は、「あっ......!うわ~ブチューしてるし。この人、この女の人のこと、好きなの?」と言った。 私は、「あっ......うん。でもこれは大人向け。ママは、この女優さんが好きで買ったんだよ」と、ウィノーナ・ライダーを指さした。 息子は「ああ、この人かぁ。でも大人向けなの。じゃ関心ないし」と言って、私の側の椅子で、DS で「ポケモン・ダンジョン『青の救助隊』」のゲームを始めた。私は私で、映画の方に夢中になった。 この映画の始まりは、美しいレースが薔薇の花を次々と形作り、つぼみから花へと開花していく場面が幻想的に展開される。それだけでも、「素敵ねえ~」とうっとりした。息子は相変わらず「ポケモン・ダンジョン」に夢中である。 ところが、急に「何これ~?うわ、キモ~(「気持ち悪い」を最近こういうらしい)」という声がする。後ろを振り向くと、DS をやっていたはずの息子が、映画をじーっと見ている。冒頭のオペラの舞台の場面で、オペラ歌手の厚塗り化粧を見ていたんである。 「ああ、これ?これは舞台歌手だから、あれくらい濃いお化粧しないとね、遠くから見て顔が分からないのよ」と私は説明した。 「何だあ、見てるの?映画」 「うん、ちょっと気になるし」 それでも、また息子はDS をやり始めた。映画のお話はどんどん進行していく。弁護士のニューランド(ルイス)が、婚約者のメイ(ライダー)を抱きしめて、口づけする場面。私は「あ~ウィノーナ・ライダーが出てきた。素敵ねえ......綺麗ねえ」と思って観ていると、また息子が口を挟む。 「あ~キスしてるし。この男の人は、この女の人が好きなの?」 「うん。結婚の約束をしている人だから。そういうのを『婚約者』って言うんだよね」 その後、息子はDS と映画の両方に目を走らせている様子だったが、意外や意外。子供というのは、いつの間にか見ていないと思っても、見ている。知らないと思っても、知っているのだ。そこが大人と違う、子供独特の感受性の強さだと、この映画を自然と一緒に観ることになって、考えさせられたことである。(続きはまた明日書きます...)
January 18, 2006
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私は自分の誕生日を迎えるに当たって、何も記念になるものがないのは寂しいと思った。日本では、30代を過ぎる辺りから、あまり「誕生祝い」というものに固執しなくなる。「固執」というほどではないが、あまり大事にしなくなる。「もうお祝いするような年ではないし」という諦め?のような気持ちが頭をよぎるのである。 でも人生というのは、1年1年の積み重ねで成り立っている。それが大人になったら、「誕生日」というのを大事にしなくなるのは寂しい。以前は自分の働いたお金で、好きな本やCD を買って記念にしていた。 しかし、最近、目が疲れやすくなってから、以前のように、印刷された「本」は買わなくなった。CD を買えば良かったが、それも忘れて、家族からバースデーカードにメッセージを書いてもらって、ケーキを食べて、記念写真を撮るのが、ここ数年のパターンになっていた。 私は息子と同じ1月生まれなので、まずは息子の誕生日の用意に忙殺されるわけである。でも自分の誕生日が「あれれ~?」と過ぎるのはつまらない。だから、今年は好きな映画のDVD を買うことにした。 つい最近、映画館で観た『ハリーポッターと炎のゴブレット』のDVD が欲しかったけれども、アマゾンで調べると、昨年の11月に完成したばかりの作品なので、まだ発売されていなかった。一応、発売が決まったら、お知らせのメールを送ってもらうよう、アマゾンに予約しておいた。 仕方なく、「何かいい映画はないかな......」と思っていたところ、急に以前「いいなあ」と思っていた女優を思い出した。ウィノーナ・ライダーである。今でも売っているかは、書店に行かなくなったので分からないが、20代後半までは、『スクリーン』という雑誌をよく買っていた。その中で、人気急上昇の若手女優に、ウィノーナ・ライダーがいた。 この人は、一度テレビで『シザー・ハンズ』という映画に出ていたのを観たことがあるだけ。その時の彼女は、本来の黒髪を金髪にして出演し、手がはさみ(シザー)になってしまう男性の恋人役だった。私は黒髪の彼女が好きなので、この奇をてらったハリウッド娯楽映画にがっかりした。 ウィノーナ・ライダーは1971年ミネソタ州ウィノーナ生まれ。今は35歳。この人は、父親がアルメニアとロシアの混血、母親がノルウェーとドイツの混血。そうしたことから、黒髪と茶色の目が素敵な美人女優である。 彼女は10代の頃は、青春映画などに出ていたが、20歳の91年、『ナイト・オン・ザ・プラネット』で女性のタクシードライバーを演じたあと、21歳の92年、『ドラキュラ』に出演。タクシードライバーと、この『ドラキュラ』も観ていないが、昔のグラビアを見ると、『ドラキュラ』辺りから、彼女のしっとりした美しさが生かされて来ていると思う。 そして92年、22歳の時、マーティン・スコセッシ監督の『エイジ・オブ・イノセンス』に若き人妻役で出演する。舞台が19世紀末のニューヨークであり、貴族社会を描いた話ということから、彼女が身にまとう衣装も時代の雰囲気をよく再現したエレガントなものだった。 映画も観ていないのに、その作品のウィノーナの写真だけ、『スクリーン』から切り取って、透明な下敷きに挟んであったので、「この映画のDVD に決めた!」と思った。それから、この映画を自分の誕生日の記念にしようと思ったのは、アマゾンの次のような「レビュー」を読んだからでもある。 ★1870年代のニューヨーク。上流階級の弁護士ニューランド(ダニエル・デイ・ルイス)は幼なじみのエレン(ミシェル・ファイファー)と再会し、次第に心惹かれていく。しかしニューランドには婚約者(ウィノナ・ライダー)が、エレンには離婚を承知してくれない夫がいた…。 『タクシー・ドライバー』や『ギャング・オブ・ニューヨーク』などニューヨークにこだわり続ける問題作を連打してきた名匠マーティン・スコセッシ監督が、前世紀のNYを舞台に、まるで男女の思いが渦を巻くかのようなラブストーリーを麗しく奏でていく秀作。 実にオーソドックスなドラマ展開などは、まさに監督の意図するところで、ここではクラシックなるものへの回帰と再発見にこそテーマがあるといえよう。オールスター・キャストの端正な魅力、流麗なキャメラ・ワークなど、ロマンティックなひと時に酔いしれる愛の軌跡、そして奇跡の映画である。(増當竜也) 私はこれを読み、「もうこれっきゃないわぁ」とアマゾンに注文しようとした。けれども、アマゾンではなぜか、この映画はクレジット・カードでしか買えない。おまけに3800円はする。代引き・送料・税金も入れると5000円近くなる。1年に1回しかない自分の誕生日に......と思ったけれども、これは予算を大幅にはみ出している。(せこい......しかし高いのだ) けれどもどうしても、この映画が欲しい。あれこれ探した結果、楽天市場の「ぐるぐる王国」というDVD ショップで、ほんの2000円ですぐ買えることが分かったので、このお店に注文した。 果たして届いたDVD は、期待を裏切らない素晴らしい作品だった。DVD のカバーに「恋をしたくなった日には」と書いてある。このカバーの文句は何だか子供っぽい感じがした。けれども、「ひと時『恋』の感傷に浸りたい」という時には、いつ観てもいい映画だと思った。 何よりも大好きなウィノーナ・ライダーが黒髪のまま、清楚なドレスの裳裾を引いて画面に出てくるだけで、もう満足、最高。どちらかと言えば、このお話は、ダニエル・デイ・ルイスが演じる弁護士と、ミシェル・ファイファーが演じる人妻の「許されない恋」が中心なので、私の好きなウィノーナは全体の3分の1ぐらいの出演。 この二人の「許されない恋」は、映画の副題として「汚れなき情事」となっている。その副題は、映画の場面にピッタリ来る。初々しい若妻(ウィノーナ)がいる身でありながら、離婚に迷う人妻(ファイファー)とつかの間の情事に酔いしれる弁護士(ルイス)との逢瀬の場面は、瞬間燃え上がるが、常時控えめに描かれている。 その辺が、品良く、観ていて「ひと時ほんのりする」という感じなのだ。ダニエル・デイ・ルイスと言えば、80年代の終わりから90年代にかけて、映画界に「美青年ブーム」が起こった時の、確か中心にいた俳優さんだった。けれども、この映画では、思ったほど「美青年」ではなかった。むしろ、「渋くて誠実」な感じがした。けれども、この渋さと誠実さが、役柄に良く合っていた。 ミシェル・ファイファーは、金髪だけれども、どちらかと言えば、私好みではない。でも、ちょっと崩れた表情が、そこはかとなく色気がある。この人は、貴族や上流社会の貴婦人役は、あまり似合わないな~という感じなんである。むしろ、アメリカの庶民的な、元気な女性役が似合っているんじゃないか?というのが、私の個人的な感想なんである。 けれども、この二人が逢瀬を繰り返す場面には、ぐっと胸に迫るものを感じる。弁護士の彼氏が、第一、あんなに清らかな美女(ウィノーナ)を差し置いて、ヨーロッパにいる夫の女遊びに傷つき、アメリカに帰国した人妻エレン(ファイファー)に恋焦がれ、激しい愛の炎を抱いて、「会って下さい」と迫る。(ウィノーナファンの私は、「う~むむむ...許しがたい!」と思う所だ。) エレンは「会ってはいけません」と拒むけれども、この弁護士の魅力に充分引き込まれている自分を知っている。そこで、別荘で、馬車の中で、弁護士とのひと時の愛撫に酔いしれるのだが、それでも泣きながら「帰って下さい」「もうこれぎりにしましょう」と言う。ここら辺が、「ミシェル・ファイファーは演技派なんだなあ」と感心した。 しかし、ウィノーナ・ライダーも若いのに、すごい演技力である。彼女は清楚で初々しく、清らかで、天使のように美しい。おまけにまだ22歳なので、声も愛らしい。その美貌でもって、「夫の情事を既に知りながら、家庭の幸福を守る」ためにいつも美しく微笑むメイという若妻を演じる。 時折、夫の愛を疑う時の、不安げな表情も、彼女ならではの迫真的かつ繊細な演技とともに、持ち前の美しさがほとばしる。華奢だが、痩せすぎでもなく、本当に花のようにきれいなのだ。 私は、この映画のレヴューに書いてあった「奇跡」という言葉は、ウィノーナ・ライダーという人が存在することの「奇跡」という風に思えてならない。この映画を、自分の誕生日記念に買って良かったと、心の底から思ったほどだ。映画というものがこの世にできて以来、こんなに美しい女優はいないのではないかとさえ思う。 彼女だったら、どんな役でもこなせそうだ。けれどもその時には、やっぱり黒髪のウィノーナであってほしい。彼女には、この『エイジ・オブ・イノセンス』のような映画がはまり役だと思うけれども、一風変わったタクシードライバーを演じた『ナイト・オン・ザ・プラネット』も観てみたい。そこには、また違ったウィノーナ・ライダーがきっといるのだろう。
January 17, 2006
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私は、1989年1月7日で「昭和」が終わり、「平成」という新しい元号が発表された時の印象をよく覚えている。テレビである政府高官が、お習字の半紙に毛筆で書いた紙を、報道陣の前に見せて、間延びした声で、「え~新しい元号は...『ヘイセイ』です」と言ったのだった。 この時の高官は、のんびりした感じの人だった。その人も確か故人になった。この人は、はきはきした意見をあまり言わないので、あまり国民に受けが良くなかった。(名前は今では思い出せない。)その人が、記念すべき新しい時代の名前を発表したので、「ヘイセイ」という元号の響きも軽く感じ、ガクガクッと失望したんである。 「え~?『ヘイセイ』~?つまんないのぉ。もっと何かいいのはなかったのぉ~?」...なんて、ブツクサ家族で言っていた。でも、昔、明治時代の人も、「明治」に慣れてきたので、「大正」になった時、その元号は軽く感じたかもしれない。 しかし、「ヘイセイ」というのも、考えてみれば「平和が成り立つ」という意味でつけられたのだろう。そう考えると、「まっいいか」とも思ったものだった。それに、今まで「元号」に関心のなかった私は、古来、日本の歴史の中で、同じ元号はあるかな...と調べたのだった。すると、驚くことに、まったく、同じ元号というものは存在しないのである。 日本の元号というのは、天皇の御世によって移り変わる。天皇の在位が短ければ、それだけコロコロと元号も変わる。戦国時代や、天変地異の相次いだ江戸時代などは、特に目まぐるしいほど元号が変わっている。それにしても、「以前使った元号をまた使っちゃおう」なんて、不届きなことはしていないんである。これは新鮮な発見だった。 いずれにせよ、私は「昭和の終わり」ということに、当時相当な衝撃と感傷を抱いていたらしい。1月7日の日記は次のように続いている。 ●とにかく、自分の生きてきた「昭和」はもう二度と存在しないのだ。単に元号というものが、貨幣や出版物、その他証明書などに使われる言葉上の問題としても―それだけでも、今までとは違うというのは、本当に不思議なことだ。 ●明日もまた、今日と同じように時が流れて行くのだが、明日からは違う時代なのだ―その元号も自分の知らない人々が決定しただけのことなのだが。もはや全国津々浦々、海外にまでこの元号、新しく、なじみの全然ない奇妙な元号が知られ、あと2、3年すれば定着するのだろう。 ●けれども今日、突然、時代が変わってしまったために、いきなり「もう『昭和』ではないのだ」という意識は持てない。こんな感傷は、周囲が騒いでいるから乗せられて、突如として沸き起こっただけの安易なものなのだろうか?安っぽい、子供っぽい感傷なのだろうか?正体不明な感情だという気がする―とてもまともに受け止められぬ感じがする。 ●卑俗な書き方なのだが、「国鉄」が「JR」になった時は2,3ヶ月で慣れてしまった。でも今度の出来事だけは、それとは質が違う。これだけはハッキリしている。今回の―今日という日ほど、時代の変化を実感した日は無い。結局は自分はこの国で暮らしている―この国以外に故郷は無いし、その故郷は死ぬ日まで、昭和の時代の中に生きている―こんなことをしみじみ感ずる。 今では「平成」に慣れた私であるので、この元号を「新しく、なじみの全然ない奇妙な元号」と書いてあることは意外だった。それに、「『国鉄』が『JR』になった時」というのを読むと、そういえばあの頃は、「農協」が「JA」になったりしたなあ...と思い出す。 ネット事典『ウィキペディア』で調べると、JR についてはこう書いてあった。「JR(ジェイアール)― Japan Railway(ジャパンレールウェイ)の略で、1987年4月1日に旧日本国有鉄道(国鉄)から業務を引き継いだ法人のうち、鉄道事業を引き継いだ7つの株式会社の総称。」...なるほどあれは1987年のことだったのか、ということが分かった。あの時も「なんで国鉄じゃなくてJR にするのぉ?」と不思議がったものだったが、今では慣れてしまった。 私はこの古い日記の締めくくりに俳句を書きしたためていた。 ●若い日に、急に時代が変わってしまった。それは天皇陛下が亡くなったのだから当然とは言っても、あまりピンと来ない。だから結局、自分の年齢や、他の出来事を計算する際には、死んだ子の年を数えるように、やはり「昭和」で考えてしまいそうだ―西暦を使わない場合には。 別れ往く 昭和の時代を 惜しむ雨 マスコミが繰り返し言うような、格好いいことは書きたくないが、ともかく今日は「昭和最後の日」となった。―1989(昭和64年).1.7 (土) この日の日記は、これで終わっている。大学ノートの右頁いっぱいに、細かい小さなフェルトペンで、びっしり書き綴っている。 私は、この日記の中で「あと10年後には、自分はどこで、どうしていることか」と書いてある。こんな文章を読むと、とても身につまされるものがある。実際、人間はいくら占いに頼ってみても、自分の将来など分からないと思うからだ。 私は時代が平成になり、1990年代になってから2000年を迎えるまで、大学の教壇に立つことになり、なぜか(?)結婚をし、流産を繰り返し、やっと現在一緒に暮らしている息子を産むことができた。だが不幸な結婚も終わりを告げ、子供を育てるために、いったん退いた大学の職に再就職した―そういう10年間だったのだ。 この古い日記を読むと、当時の自分に、そういう未来が待ち受けているとはまさか思わなかったわけである。そう思うと、若い頃の自分が愛おしい。
January 16, 2006
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私は昭和の後、新しく誕生した元号「平成」にまだ馴染めずに、「日本ではなくて、中国かどこかで暮らすような気分」と日記の続きに書いてある。●本当に不思議だが、「昭和64年になった」と1週間前は皆で祝ったのに、その「昭和64年」も、また「昭和」も今夜限りなのだから。昭和64年がこんなに早く終わる―と言うより、何よりも昭和がこんなに早く、あっけなく終わるなら、もっと年が明けて、色々なことを書き記すべきだった―等々と後悔してしまう。●結局、この時代の半分弱を生きた者にとっては、さまざまな想いが去来してしまう―戦争を体験しなくても。『さよなら子供たち』―ルイ・マルの作品であるこの映画が、最終的には、この時代の最後の(映画館で観た)映画になってしまった。正確には、この時代の最後の映画は、VTR で5日に観た『愛と哀しみのボレロ』なのだけれど。●もう二度と、今夜限りで「昭和」はなくなるのだ、と思うと、親しい友人か肉親をいきなり失うようで、本当に寂しく哀しい。感傷的になってしまう。単に天皇が変わった、というだけのことではなくて、その時代に生きた個人個人の生活の歴史や意識が変わってしまうのだから。●大正から昭和の境目に26歳だった人なんぞは、もう90歳だし、今度の新しい元号の時代がそんなに長く続かないのだとしても、やがては「昭和最後の年に26歳だった人は、もう90歳」と言われる時が来る―間違いなく西暦2050年には。今、昭和が終わりつつあるだけで、こんなに動揺しているのだから、21世紀になったら、どんなに感動するだろう。あと約10年―(来年にはきっと、「21世紀まであと僅か10年」と世界が騒ぐだろう)―自分はその10年後、どこで、どうしていることか。 こんな日記を読むと、時代の境目にたまたま遭遇した私自身の感傷がよく分かって、興味深く思う。今は平成18年。明治の人ではないが、「昭和は遠くなりにけり」という感じが徐々に濃くなってきたようだ。 また、私は21世紀の始まりを、よく当時は把握していなかった。西暦2000年が21世紀の始まりだと思っていたのである。正確には、21世紀の始まりは2001年からだった。これは不思議だ。 昔有名だったイタリア映画に『1900年』というのがあった。この中で、登場人物が「もう20世紀だからな」と言うシーンがあった。なぜ21世紀の始まりは「2000年」ではなかったんだろう。 また、昭和時代最後の(というより私自身が、昭和の最後に観た)映画はかの有名な『愛と哀しみのボレロ』だったことも、すっかり忘れていた。 この映画はフランス映画で、クロード・ルルーシュ監督作品。映画のタイトルは、『レ・ザン・エ・レ・ゾートル』(Les Uns et Les Autres)と言う。直訳すると「一人とその他の人々」になってしまう。これでは日本では受けないので、『愛と哀しみのボレロ』にしたんだろう。 1980年代は、映画には何かと『愛と哀しみの○○』とか『愛と青春の日々』といったタイトルがついていたなあ~と思う。それはそれでいいんだけれど、実際、この映画は第二次大戦下のユダヤ人の「愛と哀しみ」を描いていたし、強制収容所で生き延びた音楽家のユダヤ人たちや、ヨーロッパ戦線から帰還したジャズ・ミュージシャンのアメリカ人などが、戦後再開し、それぞれの人生と、新しく生まれた子供たちに将来を託すお話なのだった。 最後のシーンは、戦中の思い出を胸に、彼らとその2世たちが、1980年のパリ・トロカデロ広場に集い、ユニセフのチャリティ・コンサートを開く。ここで登場するのが、1936年、ボリショイバレエ団のオーディションを受けたバレリーナと、その選考委員を務めた男性との息子セルゲイ。 セルゲイは、ここでラヴェルの「ボレロ」を踊る。だからこの映画は、『愛と悲しみのボレロ』という題名が分かりやすくて、相応しいんだろう。 昔、高校の世界史の先生が(ちょっとシチリアのマフィアみたいなハンサムでした)コテッコテの大阪弁で、こう言っていたことも思い出す。 「君らなぁ、『ボレロ』作曲したラヴェル、知っとるか?ラヴェルっちゅう人はやなぁ、ホンマ偉い人なんやで。ラヴェルはな、背ぇが低かったんや。それがものすごいコンプレックスやったんや。そのコンプレックスを、撥ね返そぉー思うてな、あのすごい『ボレロ』作ったんやで。一度、聴いてみぃ」 ところで、この映画で「ボレロ」を踊る俳優は、ジョルジュ・ドン。素顔はなかなか渋い。ブエノスアイレス生まれの人で、モーリス・ベジャールの「20世紀バレエ団」のスター・ダンサー。私はこの『愛と哀しみのボレロ』と聞くと、必ずこのジョルジュ・ドンの踊りを思い出してしまう。 80年代は、「20世紀バレエ団」に代表されるように、従来のクラシック・バレエをぶち破るような、革新的なバレエが次々と誕生した。音楽も、現代音楽を使い、踊りも余計な装飾を省いた、人間の「肉体美」を前面に押し出した舞台がどんどん発表された。 「ボレロ」の曲は好きなのだが、ジョルジュ・ドンがこの映画で見せる踊りは、「けばい衣装」と「ムキムキの肉体美」が混ぜ繰り返っていた。「けばい衣装」はまあまあ許せるが、あの「筋肉ムキムキッ」のマッチョは、「なにこれ~?」(笑)......と言うのが、正直な感想なのだった。 ジョルジュ・ドンさん、ごめんなさい。今でもジョルジュ・ドンはダンサーやっているかなあ。それとも、もう58歳だから、演出家かなあ。21世紀になっても、「20世紀バレエ団」の名称はそのまんまかなあ......昔の日記からは、昔活躍した方々が顔を出す。それも古い日記帳の醍醐味なんである。
January 15, 2006
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先日は「1989年元旦の日記」を書いた。古い日記帳の、その右頁(横書きなのだ)には、「昭和の終わりの日」の感想が綴られている。 私は昭和生まれなので(当たり前だぁ!)時代が「平成」になっても、自分の年齢や、昭和に起こった出来事は、「昭和○○年」に換算した方が分かり易い。今年は、昭和にすれば「昭和81年」である。(自分の年齢を忘れるわけではないが...) けれども、「平成元年」というのは、西暦何年からだったのか、または「昭和は何年で終わったのか」というのは、いつ考えても分からないし、混乱する。そんな時、この古い日記のこの頁を見つけたというのは、ラッキーな気がする。 日記によると、昭和は「昭和64年(1989年)1月7日」で終わっている。確かそれ以前は、旧ソ連邦が大きく揺れ動いていた。ルーマニアが内乱状態となり、大統領が殺されたりしたことを覚えている。広辞苑で調べると、その事件は、やはりこの1989年だった。チャウシェスク大統領の独裁政権が崩壊したのだった。あれは、89年の終わり頃だったか、はっきりしない。 ルーマニアというと、昔オリンピックの女子体操選手で、「コマネチ」という14歳の美少女がすごい人気を集めたこともあった。「コマネチのテーマ」という曲まで作られた。彼女の美貌にぴったりの、少し哀愁をおびた曲だった。 コマネチは、チャウシェスク大統領の息子の愛人にされていた、などというデマもあった。そんな彼女がもう40代になり、今はアメリカに亡命して暮らしている所を、数年前テレビで見たことがある。 さて、私の1月7日の日記はこう始まっている。 ●1週間前は、全く予想だにしなかったのだが、いきなり昭和時代が終わってしまった。今日天皇が崩御されたために、今まで自分が生まれ、生きてきた時代が変わってしまった。西暦で言えば、単に1989年になっただけ―それだけの感動なのだけれど、いきなり昭和でなくなるというのは信じ難い。 ●時代が「明治―大正―昭和」と変わって来たように、自分の若い時期に時代が変わるとは、何て感慨深いことなのだろう。改めて現代の日本に生きているのだと思う。もう二度と日本の歴史に「昭和」は存在しなくなってしまった。 ●「昭和64年」は、結局7日間しか無かった。そうして、いきなり新しい時代―昭和ではなく「平成」である。現今の法の下に生活する以上、当然この元号の変化を経験するだけなのだ―とはいえ、単に制度上の問題だけではないように思う。自分のすべてが昭和の中で―西暦が常に念頭にあったにせよ、本当に昭和の中でのみ営まれて来たからだ。 ●「万感胸に迫る」という表現がピッタリ来るような心境だ。折りしも雨まで降って来たのさえ、単なる偶然とは言えない、そんな気さえするほどだ。短大に入学し、『アラビアのロレンス』を観て、20歳の誕生日を迎え、大学に編入・卒業し、大学院に入学し、修士論文を出した―というように、自分の20代前半の思い出深い事柄は、すべて「昭和」に起こってきたのだった。 本当に、この1月7日は、昭和天皇の亡くなった日であり、国民皆が喪に服す心境になっていた。テレビの報道は、すべて「天皇崩御」と新元号「平成」の発表のみだった。CM も娯楽番組も自粛。私はそれでも構わなかった。昭和天皇が亡くなったことに、何かしら深い感銘を受けていたからだった。 ラジオをつけると、天皇の死を追悼するためか、終日、バッハの厳かな「レクイエム」が流れていた。私はそれを「記念すべき日だから」と思ってテープに録音した。今手元にないけれども、そのテープは探せばあるだろう。 私はバッハのオルガン演奏が好きだ。それもあって、録音したのかも知れない。そういえば、医学者として有名なシュヴァイツァー(Albert Schweitzer) の弾いたバッハのオルガン演奏も、以前ラジオで録音したことがある。 シュヴァイツァーは、私はその名前の響きから、ドイツ人だと思っていたが、調べてみると、フランス人なのだった。もともと哲学者・神学者だった彼は、1913年医者・伝道師としてアフリカに渡った。それは38歳の時である。90歳で亡くなったが、その生涯で「哲学・神学・医学」を修め、しかもオルガンの演奏家だった。 バッハがオルガンを弾いていたことは、このラジオ放送で知ったのだった。とても意外に思ったが、彼の演奏は控えめで、丁寧だった。人間というのは、一生のうちに、こんなにも多彩な才能を発揮する人もいるのか―と驚いた。 私は、何か偉業を成し遂げてきた芸術家や思想家の人生の年表を、20代いっぱいまでは、興味を持って、よく眺めた。自分も、30代のうちにはこうありたい、と理想を掲げていた。けれども、結婚や出産や育児の中で、いつの間にか、そうした理想はどこかに消え去っていった。 それはともかく、昭和の最後の日に、雨が降り続け、バッハをずーっと聴いていたことは、今でもよく覚えている。私も、ひとつの時代の終わりの喪に服すような気持ちでいたのだった。 けれども、後になって、この1989年1月7日は、テレビも野球放送もないことに退屈した人々が、ビデオのレンタルショップに詰め掛けたというニュースを聞いた。私は「人の考えは様々だ」と思ったが、世間の俗っぽさに幻滅もした。それだけ、若かったということもあるのだろう。 この日記の続きは長いので、また明日掲載します。
January 14, 2006
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この世に「呪い」というものは実在するのだろうか。古代から「預言者」「占い師」という者はいて、「呪い」という言葉は主にそういう人々の間で使われてきたのではないだろうか。 彼らは「神や王に仕える者」として、民間の人々の病気を治したり、または未来を占ったり、願い事を代わりに唱えたりしていた。 人間の願い事というのは、「幸せになりますように」とか「病気が治りますように」などといったプラス的なものが多い。けれども、誰かを憎んだりしている場合は、恨みに思う相手に「どうか災いが起こりますように」などと、真剣に神に祈ったりする。これが「呪い―呪詛」というものだ。 そんなことは、科学の発達した現代では「まさか」と一笑にふされる場合が多い。それでも、人間は機械ではない。「心」というものがある。だから、現代でも「神秘」「占い」という、一見非科学的なものに人々は関心を持つのだと思う。 今年になって、イタリアの報道関係者が騒いでいる記事があった。それは「今から約5300年前のミイラの呪いか」というものだった。 よく読んでみると、15年前の1991年、アルプスの氷河地帯で発見された男性ミイラに関係した人が、相次いで亡くなっているというのである。最初は、1993年。ミイラを素手で触った考古学者と、その人を現場に案内した登山家。 2004年8月には発掘を取材したカメラマン。10月にはミイラの最初の発見者の登山家。その登山家の葬儀に参列した数時間後、発掘隊長の男性が心臓発作で急死。これで5人目である。 2005年4月には大学の「アイスマン研究」室長の考古学者。そして7人目は同年10月、「アイスマンのDNA 研究」に関する文献が出版間近だったオーストラリアの学者。 あんまり同じ年に、関係者が次々と2人、多い時は3人と亡くなるのはいかにも不自然ではないか。そういうことから、普段は考えない「呪い」という考えが「科学の20世紀・情報化社会の21世紀」に忙しいメディア関係者の頭をよぎるのだろう。 5300年前というのは、信じられないぐらい、途方もない大昔である。でも古代エジプトのことを考えると、人間は5000年以上前から、私たち現代人と同じように、ご飯を食べたり、働いたり、劇を上演したり、歌ったり、踊ったり、眠ったりしていたわけなのだ。 私たちは「現代人」だと思っているが、古代エジプト人だって、彼らが生きている当時は「我々は現代人だ」と思っていたのである。 だから彼らにも、普通の人間としての「心」があった。それが亡くなって、遠い未来の21世紀の人々の前に、自分の遺体が曝されるというのは、あの世から見れば「我慢できない」のではないだろうか―もし「あの世」とか「魂」というものがあれば。 昔、エジプトのファラオの墓を盗掘したり、発掘したりした人々が、しばらくして事故死したり、急死することが相次いだことを思い出す。イギリスの作家アガサ・クリスティーはそれを題材にミステリー小説を書いたのだった。 以下はネットに掲載された記事である。アイスマンの呪い? 伊の凍結ミイラ、関係者7人死亡2006年01月12日08時23分(毎日新聞) イタリア北部のアルプスで発見された約5300年前の凍結ミイラに関係した7人が次々と死亡し、「アイスマンの呪いではないか」などと伊メディアが報じている。この男性ミイラは伊北部ボルツァーノの考古学博物館で公開されているが、宗教関係者らからは「発見場所へ戻し、手厚く葬った方がいい」との声も出ているという。 ミイラは91年9月、イタリアとオーストリアの国境にあるアルプスの氷河で見つかった。冷凍されたミイラとしては世界最古という。弓矢に当たって死んだとみられており、「他の狩猟者に撃たれた」「戦死した」などの説がある。保存状態が良く、世界中の学者らの関心を集めた。「エッツィ」と名付けられたが、「アイスマン」と呼ばれることが多い。 ANSA通信などによると、最初に亡くなったのは、オーストリア人法医学者のライナー・ヘンさん(当時64)。発見した時に素手でミイラを遺体の保存袋へ入れた人物で、93年に交通事故にあった。ヘンさんを現場へ案内した登山家のクート・フリッツさん(同52)も同じころ、雪崩に巻き込まれて亡くなった。同行していた登山仲間で亡くなったのは、フリッツさんだけという。 3人目は発掘を撮影したオーストリア人のカメラマン(同47)で、04年8月に脳腫瘍(しゅよう)で死亡した。その2カ月後には、最初の発見者の登山家ヘルムート・ジーモンさん(同67)がオーストリア山中で遺体で見つかった。滑落死とみられる。発掘チーム長だったドイツ人男性(同45)は、ジーモンさんの葬儀に参列した数時間後に心臓発作で亡くなったという。 6人目は昨年(2005)4月、多発性硬化症の合併症で亡くなったオーストリア人考古学者(同55)。インスブルック大のアイスマン研究室長だった。同年10月にはオーストラリアの学者トム・ロイさん(同63)が、自宅で遺体で見つかった。遺伝性の血液病が死因とみられるが、アイスマンのDNAに関する本の出版を間近に控えていたため、メディアは「呪い?」などと一斉に書き立てた。 ミイラがある博物館は、温度や湿度が氷河と同様に保たれ、来館者は小窓からのぞく形で見ることができる。
January 13, 2006
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息子も11歳となったので、小学校でのいろんな子たちとの付き合いや、帰宅後の友だちとの電話のやりとりなど、少しずつ「社会」というものを学びつつあるようだ。 私は、息子が11歳になって、まず気がついたのは、風邪薬に関してである。我が家はちょっとした風邪気味の時のために、「パブロン」を常備薬にしている。それが、10歳までは一回につき1錠だった。私はふざけて、「ハイ、お子ちゃまは1錠よ~」などと言って、息子に飲ませていたのだった。 けれども、バースデーを過ぎて「ちょっと風邪みたい。パブロン飲む」と息子が言うので、薬を出した。大人は1回3錠と決まっているが、子供は注意が必要だ。そこで私は「あっ!」と叫んだ。11歳~15歳未満は1回「2錠」となっているではないか! これはものすごい驚きだった。「もう10歳じゃないから2錠なのかぁ~」私にとっては、息子がオムツがとれた時のような大感動なんであった。 それから、もうひとつ「成長したなあ」と思ったのは、電話の応対である。今までは、人の家に電話をする時のマナーがなっていなかったが、この頃は「もしもし、○○です。○○君いますか」から始まって、切る時は「失礼します」と自然に言うようになった。私にかかってきた電話の相手を少し待たせる時は「ちょっとお待ち下さい」と言えるようになった。 こういうところが、もう「幼稚園あがり」の低学年とは違ってきたなと思わせる。季節が少しずつ変わるように、花が徐々に芽を出すように、子供というのは成長するのか。実感しつつあるこの頃なのだ。 だが、ここ数日、親友の達也くんの様子がおかしくなって来た。 学校では息子と達也くんとは、斜め向かいの席。「今日、遊べる?」と休み時間に訊くと、達也くんは「明日ならいい」と答えたそうだ。それで息子は「明日達也くんちに、キックボードで遊びに行ってもいい?」と楽しみにしていた。 ところがその当日。息子が達也くんの家に「もしもし、○○です...ああ、お前か。なあ、今日遊べるんやろ?これから行っていい?」と電話して訊いた。ところが「あかんねん」との返事。 「なんで?」と息子が訊くと、達也くんは、相手を待たせる時のメロディー「エリーゼのために」をいきなり押したそうだ。 「もう、あいつ、どうなってんねん?って言いたい。ぼくが『なんで遊べへんの』って訊いたらさ、いきなり『ラリラリラリラララ~♪ララララ~♪ララララ~......♪』なんてメロディー流すんだよ。 それが止まったと思ったら、またあいつの声で『何~?』って。だから、もう一度『だから!なんで遊べへんのかって訊いてるんやん。お前なんで音楽流すの?』って言ったんだよね」と息子は憤懣やるかたないといった感じである。 「そしたら何て答えた?」と私。 「......『訊くから』だって」と息子。(『お母さんに遊んでいいか、訊いて見るから』という意味らしい。) 「それでまた『ラリラリラリラララ~♪』鳴らしてさ。またあいつが出てさ、『何~?』.....って。だから、また訊いたんだよね。『なあ、もうはっきりしてや。今日遊べへんのか?』って。そしたら『アカン』だって」 何だか意思疎通が不可能の会話のようである。 「なんで今日遊べないのかしらね」と私。 「うん。変なんだよ。『なんでアカンの』ってまた訊いたらさ......『今日はお天気がいいから』......だって」 普通、「お天気がいい」日に遊べるものじゃないの?変なこと言うなあ。それとも、達也くんはうちの子をからかっているのかなあ。 口の達者な息子は、そこで電話でまくしたてたそうだ。 「お前アホちゃうん?普通『お天気がいいから』遊ぶのとちゃうん?なあ、台風の日や吹雪の日ならええの?え?ぼくの言ってること、分かる?......え?分からへん?あんた日本人?えっ?アメリカ人?お前アメリカ人なん?へえ~そうなの」 その後、また「エリーゼのために」が急に流れたかと思うと、再び達也くんが出て、一言「...散髪」と言ったそうだ。 要するに、「今日はお天気がいいから散髪に出かける。だから遊べないんだ」ということを、順序をバラバラに話していたらしい。変だなあ。こんな子じゃなかったんだけどなあ。 息子は親友の理不尽な言葉に面食らっていたが、これも社会勉強かな? それにしても、「お天気がいいから遊べない」とは、全くもって理不尽な台詞である。私はフランスの作家アルベール・カミュ(Albert Camus)を思い出した。カミュは『異邦人』『ペスト』で有名で、「不条理の哲学」を追究した人である。 学生の頃、どちらも読んでみたが、『ペスト』はいけた。これはペストという怖ろしい伝染病に急に冒されて、まだ幼い子も、気取っていた紳士も、あらゆる人が命を落とす―という内容だった。カミュは「ペスト」を題材に人生の不条理を描いていた。 けれども『異邦人』......これはいけなかった。お話の筋からして、「不条理」なんである。 主人公の「私」(だったかな?)は、ある日母親が死んだという知らせを受けた。その電報を読んだ後、好きな彼女とまる1日デートする。その後、急に人を殺す。警察に捕まった「私」は尋ねられた。 「なぜ殺人をした?」 「太陽が明るかったからです」 この殺人理由の台詞は、手元に本が無いので、不正確かも知れない。でも確かこんな内容だったと思う。「なぜ人を殺したのか?―太陽が明るかったから」というようなくだりがあったように覚えている。 カミュは1913年北アフリカのアルジェリアに生まれた。当時のアルジェリアはフランス統治下にあった。彼の少年期の記憶は、「ただただ暑いばかりの太陽の光と貧困」だった。『異邦人』の中に主人公が「太陽」に触れているのは、このカミュの育った環境と関係があるのだろうか。 ともかくカミュは戦後フランスの新しい文学を確立したとして(かな?)ノーベル賞を受賞した。 1月末がお誕生日の達也くんは、まだ10歳。 彼の「お天気がいいから遊べない」に、私と息子は爆笑した。達也くんは小学5年生にして、不条理の哲学を追究している。この台詞だけでも、ノーベル財団は、日本のタツヤくんに、「プチ・ノーベル笑」をあげられそうである。
January 12, 2006
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私は、東大を出た人というのは、頭が良すぎて、かえって物事を柔軟にとらえる感受性に乏しいのではないか、という誤解を長年抱いていた。けれどもこの誤解は、20代で辻邦生さんの『モンマルトル日記』に出会ってから、雪解けのように消えてしまった。 私の昨日の日記の続きは、この『モンマルトル日記』からの抜粋である。 ●絶えざる詩的状況の中にいて、「詩的情感」を創りだす仕事に入っていなければならない。これは、一日一定時間を確保してやるようにしなければ1日1日と失われるほかない。意志力によって、ともかく朝をうまく使うこと...... ●世界史があるから、それを書くのではなく、「かくあるべし」と思い描いた真実を「一般具体物―イマージュ」によって具体化する―現前化する。その際に、それを「ふさわしく表わす出来事」をたまたま借りるのである...... ●かく「思い描くこと」が実在であり、「思い描いたもの」を積み重ねて、独自の世界史を別個に創り上げるのである。内から自己増殖してゆくのである。「光悦」は、この「生のぎりぎりの真実の姿」と、その中における芸術のあり方である― 辻さんは、この頃よく歴史小説を書いていた。この抜粋部分は、その時の心情を綴った日記なのである。「一般具体物―イマージュ」という言葉は、一見矛盾したもの同士に思われる。けれども、これは小説家の中で膨らんできたイメージ(フランス語ではイマージュ)が、まるで本当に起こった出来事のように具体的な場面として確立するまでの過程を述べているのではないだろうか。 「イメージ」が「確立した場面」となる。その「確立した場面」を、辻さんは「一般具体物」と呼んでいるのだろう。 確か、『女の一生』や『死のごとく強し』『ベラミ』『脂肪の塊』などで有名なギィ・ド・モーパッサンは、彼の小説の師だった写実・自然主義文学のギュスターヴ・フローベールから、こう言われたそうだ。 「あそこにある1本の樹を見たまえ。ただ見ただけでは、普通の樹に過ぎない。よく観察することが大事なのだ。そうして、君のイメージを膨らまして、君自身の言葉で描くことだ。そうしなければ、真の小説は生まれないだろう」 モーパッサンの代表作は20歳の時、貪るように読みほした。前者の『女の一生』や『死のごとく強し』は、特に何回も読んだ。主人公の心情と自分の気持ちとが重なり合って、よく涙を流して読んだものだった。 モーパッサンは、先生のフローベールの自然主義を受け継いでいるが、フローベールよりも人の心の描写や台詞が繊細で、情感豊かだと思う。こういう繊細な人だから、誰よりもエッフェル塔が嫌いだったのかも知れない。 モーパッサンといえば、有名な言葉がある。 「この世にエッフェル塔ほど醜いものがあるだろうか。あんなのは機械の塊に過ぎない。唯一、エッフェル塔を見ずに済む方法は、エッフェル塔の中のレストランで食事をとることだ」 私はエッフェル塔の写真を見ると、いつもこの言葉を思い出して、思わず笑ってしまう。「一番嫌いなものを見ない方法は、一番嫌いなものの中に入ってしまえばいい」だなんて、ユーモアのセンスがあるじゃない?―などと思うのだが、モーパッサンにしてみれば、「創作への感受性が損なわれる=小説が書けなくなる=収入が無くなる」という危機感があったのだろう。 小説家ではないが、芸術家は「現実のもの=具体物」をよく観察することを大事だ、と考えていた人に、ルネッサンス時代のイタリアで有名なレオナルド・ダ・ヴィンチがいる。ルネッサンスというのは「神話」を主題にした芸術や文学ではなく、「現世の肯定・個性の重視・感性の解放」を主眼とした、「人間性の復興」思想のことを言う。ちょうど19世紀末のフランス自然主義とよく似ている。 彼は、弟子にこう説いたそうだ。 「あの建物の壁をよくごらん。君たちには一見、ただの壁に過ぎないだろう。でも、よく観察するのだ。そうすると、汚れや細かなひびが目に入ってくるだろう。それをしっかりとデッサンすることが大切だ。そうしたら、その壁を描いた作品は、ひとつの芸術として完成する」 そういえば、やはり20歳の頃、『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』(岩波文庫)を読んだことがある。その中に書いてあったのだろうか。今でははっきりしない。 彼は画才だけでなく、医学や数学・天文学などに優れた天才であったことは、良く知られている。その手記は、訳者の解説によれば、人に読まれたら困るため、わざと鏡に写したように、逆さまに書いてあるという。それを訳した人も、すごい苦労だったのではないだろうか。 辻邦生さんは、当然、仏文科卒だから、ゾラやモーパッサンや、ダ・ヴィンチのことには熟知していたのかも知れない。だから私が前述した抜粋のような「具体物=イマージュ」という、自然主義文学のような表現が記されたのだろう。 私は、この辻さんの『モンマルトル日記』に非常に深い感銘を受けた。そこで、日記の続きには、次のように書いてある。 ●...ユダヤ人受難の史実は、現代史の中に「イスラエル」という国が誕生する直前の出来事だ。従って、遥か昔の「過去」なのだが、それが、今現在の「イスラエル」を生み、パレスチナ・アラブ難民を生み、「インティファーダ」(パレスチナ人の主に子供たちによる、イスラエル占領軍への投石などの反抗)を生んだ、という点では「生きた過去」なのに違いない。 ●漠然としてはいるが、この史実の持つ意味を「詩」として―史実だけではなく、中東の示し与えてくれる情景やイメージ、人々の風俗や表情を、大きな意味で「詩」として、自分の中で把握し昇華すること...これが今も変わらぬ自分の魂への貢献なのだと思う。 ●神様の与えてくれたかのような20代を、ちょうど20歳の時のように、内面的に深く下降し、掘り下げることが大切だ。時の経過に押し流されれば、その光も失われ、色彩も徐々に褪せるような生の有り方だけはしたくない。 ●昨年は、こういった意味で、詩的な濃厚な時を多く持たなかった(映画で心の糧を得ていたように思う―それはそれで素晴らしかった)―今年は昔のような濃厚な生を生きたい。幸多かれと願うばかりだ。1989.1.1 (日)― こういう昔の文章を読むと、かなり辻邦生さんのエッセイに影響を受けていたことが分かる。当時は25歳をとうに過ぎていて、周囲からの「早く結婚しなけりゃダメ」という軋轢の中でもがいていた。「時の経過に押し流され...光も色彩も徐々に褪せる生の有り方」というのは、その時の苦しかった心情を表わしている。 平凡に生きたくない、何か自分の持つものを活かしたい、結婚は本当に自分に適しているのか......というジレンマに当時は陥っていた。だがあれから10数年経過した今は、結婚のしがらみから解放されている。平凡だが、自分の好きなことに没頭できる時間も持てる。今が人生の「第2のルネッサンス」と言えるのかもしれない。ただし、早起きさえすれば...の話だが。
January 11, 2006
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私は20代の終わり頃から大学の非常勤講師として勤めることになった。その時の私はまだ独身だった。慣れない非常勤講師控室で、アメリカ人の紳士から突然話しかけられたことが、今でも忘れられない。 "Are you a pure Japanese?" (あなたは純粋な日本人ですか?) 私はいきなりの質問に驚いたが、とっさにこう答えた。"Yes, of course, I'm a pure Japanese." (もちろん純粋な日本人ですけれど)そうしたら相手はこう言うのだった。"Oh! What an international lady you are!" (何とも国際的な女性ですねえ!) 私は照れまくっていたが、なぜか私は、大学院の指導教授からも「この人変わった人ですな。日本人じゃないみたい。何ていうか、インドか東南アジアの人に見えるじゃない」などと言われたこともある。要するに、あまり「日本人っぽい顔をしていない」ということらしい。 講師控室の米国人紳士も、私をてっきり混血かと思ったらしい。私の父親はそう言えば、どことなく東南アジア系の顔立ち。私は父に似ているらしいので、そう人から言われるんだろう。でも日本人というのは、ほとんどの人は純血ではないらしい。たいてい、東南アジアや大陸の血が昔から入り混じっているそうだ。 そんな自分の姿と何か関係あるのか、私は15歳前後からずっと、ギリシャやトルコ、イタリアなど、地中海に面した国々―一度も行ったことのない国々に憧れを馳せるようになった。また、スペインが中米を統治した歴史から、メキシコなどの中南米にも関心を寄せた。未だに南米の風俗や音楽・言語には興味がある。 ということで、私の昨日の日記の続きは、これら中米にも言及している。 ●23歳になって、コロンブスのようにメキシコを(アメリカ大陸を)発見したものの、懐かしい大海の波に抱かれる為にはアラブが必要なのだから。アラブが必要と言っても、実質は、そのイメージを抱いて暮らしていて、そのイメージを精神的な支えにしている...というだけなのだけれど。そんな些細な事が、自分の生活―内面生活を支えてくれている。 「メキシコの発見」とは何ぞや?昔、ルイス・ブニュエルというスペインの映画監督がいた。もうこの人も確か故人となった。この監督がメキシコのストリート・チルドレンらをスカウトして、ほとんど素人俳優ばかりの『忘れられた人々』というのを1950年頃(昭和25年頃)製作した。 これは、メキシコ・シティの貧民街に暮らす、主人公の少年の話だった。彼は、兄弟が多いために、母親からかまってもらえず、学校にも行かせてもらえない。仕方ないので、街の小さな店で働いている。 そこに、彼よりも3歳程年上の16歳の不良少年が、感化院から戻ってきて、主人公に絡んでくる。その不良はお店の金を盗んでしまうので、主人公が疑われ、彼もまた感化院に入れられる― 結局、この13歳の少年は、母からも誰からも愛されず、感化院から出たところを、例の不良に襲われて、殺害されてしまう。母親は、この自分の息子のことはどうでもいい存在だった。息子の遺体にムシロがかけられて、大人たちが墓地に運んでいく様子にも、「また誰かが死んだのね」という調子で無関心である。 救いのない映画のように思われるが、私は、メキシコというスペインの香りのする国で、こんな現実が子供たちの間で起きていることに、激しくショックを感じると同時に、なぜか魅力的な作品だ―と思ったのだった。 その感動の源は、ストーリーの悲惨さとは裏腹に、出演している人々の美しさや躍動感、生命力にあったのかも知れない。 この後の日記は、今度は大戦中のユダヤ人の少年の悲劇を描いたルイ・マル監督のフランス映画『さよなら子供たち』の感想へと続いている。 ●昨年(1988年)暮れの『さよなら子供たち』の感動はまだ尾を引いているし、アウシュビッツ収容所・ホロコーストなど―イスラエルが再び不死鳥の如く甦る以前―その直前の受難の姿...主にヨーロッパでのユダヤ人の受難、ゲットー・黄色い星・異教徒のイメージと、ヨーロッパの整然とした人工的な美との不調和...disharmony...これらの雰囲気に強く引かれている。 ●ユダヤ人の受難は、ヨーロッパ史の一環として見なすと、その全体を見失う。常に純西洋的なキリスト文化とは、あくまでも不調和を成す異質な文化―つまりは「アラブ的な要素・アジア的要素の濃い文化の保持者」としてのユダヤ人とその受難―と捉えた方が、視野が拡がる気がする。 私はアラブ人の歴史や文化だけではなく、ユダヤ人の受難の歴史にも深い関心があったのだ。ユダヤ人は、古代ローマ帝国から追放され、スペインやエジプトへと移住したが、13世紀にヨーロッパの十字軍によって、スペインからも追放された。 そうやって、紀元前から各地を追放され続けてきているので、広くヨーロッパ各地やロシアにも住むようになった。だからユダヤ人は、ヨーロッパ人との混血が進んで、ほとんどヨーロッパ人やアメリカ人と見分けがつかない。そこで、ユダヤ人はアラブ人と人種が異なるように思う人が多い。 しかし両者は、元は同じ「セム族」(Semite)なのだ。アフリカでは、黒人は「ハム族」(Hamite)と呼ばれて、「セム族」とは区別される。「セム族」とは、セム語系の言語を話す諸民族のことで、アラビア人・ユダヤ人・エチオピア人が含まれる。彼らが、イスラム教・ユダヤ教・キリスト教を生んだのである。 インターネットのサーチ型百科事典『ウィキペディア』(Wikipedia) で調べてみると、なるほどと思う。アラビア文字と、現在イスラエルが使用しているヘブライ文字とは、よく形や雰囲気が似ている。ちょうど日本語と朝鮮語・中国語が似ているように。 私は映画『さよなら子供たち』から感じ取った、ユダヤ人の受難のイメージを、今現在書いている小説の主人公に重ね合わせていたようだ。 ●...そうした異質な者―地中海人種の特徴を備えた容貌と共に、「ヨーロッパで種族根絶の憂き目に遭ったユダヤ人」のイメージを、あのパレスチナの少年に当てはめる時、自分の中で、関心の最大の焦点が、かっちり合うような気がする。8年間の自分の関心の中心は、今現在、世界を支配している西洋文明の歴史と同時に、その歴史と常に交差を成す中東―そしてラテン・アメリカの歴史なのだ、ということ。 ●こんな関心は大袈裟なものだ、と確かに思うけれど、あまりにも日常生活の些事に捉われ過ぎていると、やはり、このような物の捉え方が常に必要なのだと思ってしまう。物の捉え方と言うよりは、「感性」―また「感性」と言うよりは「知覚」―perception―であり、歴史を知ると言うよりは、もはや完全に自分の「愛の対象...核として掴む、呑み込む、包容する」と言った方が、自分の今の感じ方により近い。 ●アラブとか、ラテン・アメリカの発する何かを、他には無い「匂い」を、無限に無限に、そして無言に発し続けるその姿を貪欲に求める行為―自分の目で耳で愛し続ける行為―それが自分にとって心の支えであり、糧なのだから。 私は現在、「パレスチナ人受難の現代史」を小説に描いているのだが、決してイスラエルを建国したユダヤ人を憎んでいるわけではない。今も昔も、人々は、同じ人間ながら、宗教や文化の違い・領土問題などが原因となって争い続けてきた。 そうした混沌とした時代の連続が、人間の歴史と言える。それでも人々は、純粋な心で人を愛し、美や芸術を追い求めてきた。その瞬間瞬間を、微力ながらもイメージ化しているのが私の小説である。 明日は、この長い、1989年元旦日記の締めくくりをご紹介します。
January 10, 2006
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昔の日記帳を見ていると、いろいろと忘れていたことや珍しいことを発見したり、思い出したりする。現在書いている小説も、同じ日記帳の中にごたまぜにして書いてある。ある日は、その日の感慨や出来事、また翌日は小説の続きを書いたり―というように。 その中に、「1980年代の終わりの年」の日記を見つけた。なるほどなるほど―20代後半の青春の熱い想いがほとばしるように書き綴られている。私の日記というのは、「その日にあったこと」を書くのでは、ほとんどないようだ。以下、恥ずかしながらもご紹介します。 ●今年はついに1980年代の最後の年だ。来年は1990年で、いよいよ20世紀も残り僅か10年という所まで来てしまった。確かつい最近、80年代を迎えたような気がしていたのに―思えば、何と感慨深いのだろう。 う~ん、「光陰矢のごとし」というのはこのことなのだ。「もう10年過ぎたよ、その前の10年も過ぎちゃったよ」(ありゃ...年がバレバレよ)という風に人生は過ぎていく。でも20代後半でこんなこと書くなんて、今から考えたらすごく若いのに、何だか「人生の黄昏」めいてないか? ●もう9年もいろんな映画を観続けているし、宿命のマイケル・レイの青い目に出会ったのは、既に8年も昔の事だった。あの時から「自我・文学的なもの・文章表現―エクリール」という行為に全てを託す自我が生まれたのだし、青春の礎(いしずえ)はあの頃築かれていたのだ。 私は20歳からずっと、この20代後半まで、作家の辻邦生(くにお)さんの文学に魅了されていた。よく辻さんの随想を読んでは、文学への熱い想いを燃え上がらせていたものだった。その辻さんも、昨年だったか、亡くなられてしまった。 「エクリール」という言葉はフランス語で、確か「書く」という意味だったと思う。辻さんは東大文学部仏文科を卒業し、ずっとフランスに滞在し、詩的で崇高な文学表現を小説やエッセイに昇華していた天才的作家だった。 「宿命のマイケル・レイの青い目」というのは何か? マイケル・レイは、映画『アラビアのロレンス』に登場するベドウィンの少年役の俳優だった。たいていの人は、ロレンスなどのヒーローに目を奪われるのだ(もちろん私もロレンスは素敵過ぎると思う)が、私はなぜか、脇役として登場する人を好きになることが多い。 マイケル・レイは本当はアメリカ人(イギリス人かも知れないが)で、この映画以前にも『黒い子牛』という作品の主人公として出演していた。この映画も音楽が素晴らしくて、わざわざ映画館にカセットレコーダーを持ち込んで、マイケル・レイの声や、映画の音楽を録音したりした。 この人も、今どこにいて、何歳になっているんだろう。私は、マイケルの繊細な演技と表情、きれいな青い目に惹きつけられたのだった。1962年に14歳ほどで『ロレンス』に出ていたのだから、もう57歳ほどかも。 この後私の日記は、地中海のイメージに言及している。 ●本当に自分の青春は、「書く」行為と、中東への煌くような、まるで遠い夢の国に翔(と)び立つような胸の高鳴りで埋め尽くされて来た。その事ひとつに貫かれている。詩の研究・創作・写真への関心は、この軌跡の中で、付随音楽のようなものだ。とにかく何かひとつ貫くものがあったし、今もある。このことの何と心地良いことだろう。まるで自分の19歳から20歳の時が、地中海そのもののように思われてならない―その時期が、精神的に若く、今よりも更に奔放な情熱を心に孕んでいた、青春の中途にあった時期であり、地中海沿岸を想い起こさせる―そういう意味において。というより私の20歳という時期は、地中海そのもののように思われてならない。あの頃が、地中海への思慕が最も深かったのだ。― 89年元旦の日記は、この後中東やラテンアメリカへの関心を細かく綴っている。こんなものを、今になって読むと、すごい若さと情熱で書いていたものだなあ―と、我ながら驚いてしまった。 まだ続きがあるので、それは明日の日記に掲載することにします。
January 9, 2006
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今日は息子のお誕生日。今日で11歳になった。あの阪神大震災は、坊やが生まれてちょうど10日目の17日に起きた。まだご飯のお茶碗みたいに、小さなお顔のわが息子の上に、お仏壇がぐら~っと倒れ掛かろうとしている時の恐怖は未だに忘れられない。 息子は、入院していた同室の、どの新生児の男の子よりも、泣き声が大きく、泣き方も激しかった。その病院の方針で、母子が同室に、赤ちゃんはお母さんのすぐ隣のベビーベッドで朝昼晩を暮らすことになっていた。その方が、母子の心の安定と強い絆になる、という考えなのだった。 でも、私は産後5日間ほどの入院で、夜ぐっすり安眠したことがない。 夜中でもいつでも構わず、わがベビーは、ミルクが欲しくなると、まず、しゃくりあげるような声を出す。「来たなぁ~」と思いきや、けたたましい泣き声。 「ホォンギャアァァ~......ホォンギャアァァ~ッ......」 同室の赤ちゃんは皆、ミルクが欲しいと、弱々しい小さな声で「ホンギャ~ホンギャ...」と泣く。私はそのお母さんたちが羨ましかったほどだ。「なんでうちの子だけ、こんなにでかい声で泣くのよぉ~」 夜中も泣き止まない生まれたての我が子を抱いて、産院のミルク室までの長い廊下を、こっちも泣きたい気持ちでヨロヨロ歩いていたのを昨日のように思い出す。 彼?は、母乳じゃ足りないらしく、泣き続けるんである。夜中から夜明けの粉ミルク作りは、本当に辛かった。あんまり泣くので、「私の子なんだわあ♪」といった、ゆったりした感慨に浸る暇がなかったように思う。 その赤子が今では、任天堂の「Play Station」だの、メモリーカードだので遊んだり、たくさんの漢字を覚えて、本も読めて、分数や小数点や面積などの勉強をするような男の子に育った。 お誕生日には決まって、バースデーケーキ。それと、市販のカードに私がシールで飾り付けをし、添え書きをした「お誕生日おめでとう!」―それにお誕生日プレゼント。 11歳のバースデープレゼントは、先日観たばかりの『ハリーポッターと炎のゴブレット』の印象があまりに強かったのか、パンフレットに掲載されていた『炎のゴブレット』のTV キューブ用のカセットということになった。 私はバースデーカードにこう書き添えた。 「お誕生日おめでとう!あんなに小さかったのにもう11歳だなんて、とても信じられない気持ちです。ハリーが初めてホグワーツに入学した時と、同じ年になったね。あの時のハリーのように、不安や期待が、まだ小さな胸にいっぱいなことでしょう。でも安心してね。11歳は、人生に一度だけ。また人生の新たな一歩を踏み出したあなたを、ママは応援しています」 それから、カードとケーキと花で飾ったテーブルを前に、私と息子と、記念写真を撮ったり、ケーキを切る息子をビデオで撮影したりする。 そうそう、ロウソクは11本立てて、火を灯し、ふうっと吹き消す所もビデオに撮ったのだった。後は、皆で「ケーキおいしいね」と言いながら食事をする。これが毎年同じだが、我が家の息子のお誕生日のお祝いなんである。 ところで、息子の友人は「お前んち、めっちゃいいなあ」と言うそうだ。その子は、下に妹がいるのだが、お誕生日だからといって、特別にお祝いをしてもらったり、プレゼントをもらったりはしないそうだ。ただ、お母さんが「お誕生日おめでと」と言うぐらいだけなんだそうだ。 家庭によって事情はさまざまだ、と思った。我が家は決して裕福ではないが、子供ひとりなので、これからも大切にお祝いしたいと思う。
January 8, 2006
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今年の春から、小学校の最上級生である6年生になる、うちの息子は、10歳は今日限り。いつものように、仲の良い友だちが遊びに来ていたが、「10歳というのは、この子には人生二度と訪れないんだわ」と思って、愛用のデジカメでパシャパシャ撮った。 9歳くらいから、カメラに照れるようになったわが子は、カメラを向けても下を向いてしまう。なかなか笑ってくれない。仕方ないので、私がふざけて「アラッ!やっだ~ん♪」なんて言うと、「なにそれ~?」と自然に笑ってくれる。その時、どうしてもお腹を抱えて笑うので、シャッターを押してもぶれてしまう。 めげずに、彼が笑いながら体勢を元に戻して、カメラを見た時がチャンス!とばかりにシャッターをパシャパシャ。ようやくにっこり笑ったいい笑顔が撮れる。 思えば、11年前の1月7日あたりから、陣痛が規則的に、感覚も短くなったのだった。「あ~苦しい。苦しいよぉ~」それでも、「子供がもうすぐ生まれるんだなあ」と思うと嬉しかった。 出産予定日は、確か1月の15日から20日前くらいだった。たいてい、出産は予定日より早くなることが多いようだ。その時、4人部屋に入院していたお母さんたちの2人ほどと、親しくなった。退院前に、住所を教えあって、しばらく年賀状のやり取りをしていた。でもそれも、いつしか終わってしまったのは、残念なことだ。 最近の、子供の名づけは、斬新な感覚と印象的な漢字を使うことが多い。 私の知り合った妊婦さんたちでは、(なぜか皆同様に男の子を産んだのだが)一人は、生まれた坊やに「大河(たいが)」とつけた。これは斬新だなと思うと同時に、大好きな「大河ドラマ」が連想されて、大らかで良い名前だと思った。この人とは、今でも年賀状のやり取りをしている。 もう一人、印象に残っているのは、年賀状を2回ほどやり取りして終わった人だったが、生まれた坊やに「宙(そら)」とつけたケースだった。これも宇宙の広大な広がりを連想できる。大きな夢を抱いて、未来に羽ばたいて欲しい...という、親の願いが汲み取れる名前だと思う。 でも「宙」などの場合は、他人には間違って読まれることや、どう呼んでいいのか分からない、などの反応を示されるのではないかな...と他人事ながら、心配した。 女の子の名前でも、最近は「子」をつけない場合が多い。友人の産んだ女の子の名前でも、読みがなをつけてくれていないと、年賀状が来ても、「どう読むのかなあ」と戸惑う。 大学でも、昔は女子学生の名には、名簿の横に「女性」を表わすfemale から頭文字を取って、「F」がついてあった。私は女の子なら「○○さん」で、男の子なら「○○君」と呼ぶ。 でも最近は、女の子でも、一見男の子のような名前を持つ人が増えた。そういう時は、恐る恐る「○○...さん?ですか」と点呼する。途端に、男性の声で「ハイ」と返事が返って来たりする。 女子の名かと思ったら、こんな風に男子の名だったりするんである。 ところで私は、お腹の子が明日当たりは生まれるっつーのに、小さな足の子宮内でのキックが、Jリーグ並みなことから、「こりゃ坊やだよ、絶対」と思っていた。 あまりキックが強いので、膀胱の辺りがキリキリ痛い。お医者さんに、「あの~お腹の子が、蹴る力がすごいんで、膀胱に穴が開きませんか?」などとへぼな質問をしたものだ。 お医者さんは、大笑い。看護婦さんも、「いくら痛いからって、胎児に膀胱を破る力なんてありませんよぉ~」と涙を流して笑っていた。(恥...) 私は、陣痛の生まれる遥か数ヶ月前から、良く不思議な夢を見た。2回流産の辛い経験があるので、ひとつは、生まれてきた子が、すぐに風船のようにしぼんでペシャンコになる夢。 もうひとつは、無事生まれた子が、2歳か3歳になって、お靴を履いて歩いている。そして、私に向かってこう言う。「ぼく、男の子だよ」―そういう夢。後者の夢は、正夢だったのだ。 そんなことを思い出しながら、「明日はもう11歳か」と感慨にふける。 息子は息子で、11歳になるのを不安がっている。6年生や、中学生になるのが不安なのだ。 私は、自分の11歳の頃を思い出しながら、「きちんと学校で授業を聞いていれば大丈夫」とか「中学生になったら、授業で分からない所や先生の話を聞き逃した所を調べるのに、学習参考書を買うからね。参考書は勉強の強い味方だよ」と言って、励ますしかない今日この頃である。
January 7, 2006
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たいてい、新年を迎えて5日を過ぎると、何らかの事件が起きる。今日は仙台市内の病院で、生後11日の男の子の赤ちゃんが、何者かに連れ去られるという事件が起きた。 どうしてそんなことが可能なのか?と思ったが、やはり「人をさらう」などという重大な事件を実行するには、犯人は知恵を絞る。知恵と言っても、「悪知恵」だ。夜、産院に忍び込んだ。看護師のような、白い服を着て、たまたま入った病室の入り口のすぐ左に寝ていた赤ちゃんを狙った。 お母さんには「病院が火事だから、すぐ逃げなさい。赤ちゃんは私が無事に預かるから」と言って、赤ちゃんから離れさせた。 それを一瞬、信じてしまったためにかどうかは分からないが、産後間もない若いお母さんは、大事な大事な赤ちゃんを連れ去られてしまった。 私も子供を産んだので、そのお母さんの怖ろしいほど深い苦悩がよく分かる。子供は、お腹の中にいる時から、もうとっても大切な宝物になるからなのだ。 今度の事件は、珍しく身代金を病院から奪うことが目的だったらしい。赤ちゃんは、保護されたが、その時には以前よりも体重が増えていたという。 「珍しく」と書いたのは、昨今の誘拐は、特に理由もなく子供を連れ去って、殺すという、言語道断で残忍なものが多いからである。 今回の事件も、赤ちゃんの両親の心を死ぬほど苦しめた、という点では残忍な犯行であるが、「身代金目的の誘拐」は、ここ10年以上起きていなかったように思うのである。 なぜ年が明けても、事件が起きるのだろうか。 こんなことを書いても、人間というものがこの世に存在する限り、悪人も存在するのであるから、当然なことであり、防げないことでもあるのかも知れない。 けれども、ほとんどのケースは、何か事件が起きてから、「二度とこのような事件が起こらないように」と対策を考える。すべて後手なのである。そうならないよう、犯罪捜査なども科学的技術が発達したのだから、そのメリットを生かして、何とか一般市民が安心して暮らせる社会を築くべきなのではないだろうか。
January 6, 2006
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ピアノの上に映画のパンフレットを飾ってみました♪まだお正月気分の抜けない5日、急に『ハリーポッターと炎のゴブレット』を観に行くことになった。この映画の前売り券は、去年の夏休みに『ルカリオ』というポケモン映画を観に行った時に買っていた。封切は11月29日だった。 でも新聞の映画情報を見ない(字が細かいので)ため、いつまで上映されているのかわからない。仕方ないので、昨日の4日、上映される映画館のホームページを見てみた。すると、超ギリギリ。1月6日まで!というではありませんか! 「5日は凧揚げする~?」なんて言っていたのに、とんでもない。絶対観に行こうね、と約束していたんだし、前売り券が泣いてしまう。 ...ということで観に行った『炎のゴブレット』は、「あ~やっぱりDVD が欲しいよぉ~」と思うほど、良かった。主演のダニエル君は、髪型が前作とやや違って、少しふわふわと長めだけど、やっぱり可愛くて素敵。あの人は誠実さや素直さがすごーく表情に表れる人なのだ。今はまだ16歳だそうだが20歳になったらどうなるのかな。 ところでせっかく観に行った映画なのに、1月5日はまだ寒くて冷える。...そのせいか、私は上映中に、5回もおトイレに走る羽目になった。映画館は大きいので、おトイレまでとても遠い。それで見逃したシーンも多い。 だから、やっぱりDVD...欲しい!となってしまうんである。 私は自分の誕生日にプレゼントがない。せいぜいケーキだけなのだ。そのケーキに、いい歳してロウソクを立てるんである。え~ロウソク?立てていたら、ケーキが埋まってしまう...ので、いつも5本と決めている。今年の自分の誕生日に、このDVD が欲しいと思っているわけなのだ。 今年は収入が落ち込みがちなので、やたらとお金を使うのは慎もうと思っていた。でもDVD くらいはねぇ...それでAmazon に注文できるか、調べてみた。あの映画は去年の11月に完成したので、DVD はまだだそうだ。発注できるようになったら、即お知らせしてもらうよう、お願いしてしまった。 今度の作品では、今までになく華やかなシーンが多かったように思う。ハリーは、もう第3作目で、実の叔母さんの家に嫌気がさして、「漏れ鍋」というパブに向かって家出してしまう。4作目の今回は、親友のロンの家から、皆で「クィディッチ・ワールドカップ」の試合を観に出かける場面から始まった。 ロン・ウィーズリーの家は子沢山で、あまり裕福ではない。ロンの父親アーサーは、魔法省という、魔法界のお役所みたいな所に勤めている。家の外観は傾いている。いかにも魔法使い一家のような家。ハリーは、それでもロンの家に住むことになったのだろうか? そして新学期が始まると、他の魔法学校からの生徒たちをホグワーツに招いて、3大魔法学校対抗試合をすることになる。私は魔法学校と言うのは、ホグワーツだけかと思っていたので、驚いた。女の子だけの「ボーバトン魔法アカデミー」、男子校の「ダームストラング学院」。 映画の中のお話なのに、すごいリアリティなので、本当にある学校のように思えてしまうんである。彼らがホグワーツにやって来る時が美しく、ダイナミックな映像。ホグワーツを取り囲む大きな湖の上を、白い馬のような魔法生物が5頭ほどで、おとぎ話のような馬車が空を飛んで来る。また、湖から潜水艦の頭が見えたかと思うと、それはいきなり湖水にザバーっと浮かび上がった。まるで中世のような大帆船なのだった。 それらの生徒たちが、ホグワーツの大広間に迎えられるのだが、その登場の仕方も演出が巧みですごい。まず女子校の少女たちが同じ制服で、踊るようなステップで前に進む。そしてダンブルドア校長の前で、ひらりくるりと側転をして見せるところが、バレエを見ているようだった。 男子校の少年たちが登場する時は、ロシア風の服装の校長が、杖で床を打ち鳴らしながら、行進するように前に進んでいく。そしてダンブルドアの前で、ごつい生徒が、口からボーっと炎を吹く。まるで大道芸人のようで、すごい迫力。 ホグワーツとはまた違った雰囲気や特色をここで見せているんだろう。 「3大魔法学校対抗試合」と言うのは、ほうきに乗って、火を吹くドラゴンに追いかけられながら、ドラゴンの守る金の卵を獲得する課題がひとつ。それから(これは私がおトイレに行っていて、見損なった)水の中に潜って、奇妙な魔法生物と戦う課題。最後は、魔法のかけられた大迷路の中に入って最初に出口を見つけるという課題。 それら3つの課題をすべてクリアした者が優勝杯を手にすることができるのだが、これはかなり危険を伴い、難しい魔術を必要とするので、校長先生たちが「17歳以上の生徒のみ参加が許される。立候補するも良い、推薦するのも良い。名前を書いた紙を、ゴブレット(goblet: 金属またはガラス製の足付きグラス)の炎の中に入れること」と決める。 「あ~だから『炎のゴブレット』って言うのかあ」 炎といっても、ゴブレットからいつも燃え盛っている炎は、蒼い色をしている。それが不思議と「きれい」と感じた。 抜け駆けをして、17歳未満なのに、ゴブレットの中に立候補の紙を入れる者が出ないように、ダンブルドア校長が、その大きなグラスの周囲に魔法の輪を作っている。それもいつも蒼く光っている輪なのだった。 ロンの双子のお兄さん、フレッドとジョージが、まだ16歳なのに、「老け薬」という魔法ジュースを飲んで、17歳以上に変身する。 「この薬は絶対大丈夫。自信があるんだ。ばれっこないって」と言いながら、双子は蒼い輪の中に入り込んで、自分たちの名を紙に書いて、ゴブレットの中に入れる。何も異変は起こらない。 「ほーら、大丈夫だっただろ。大成功~!」と二人が大喜びするが、とたんにダンブルドアに見破られて罰が当たり、一挙に真白髪の老人になってしまう。ここの場面では皆が大笑いした。 ハリーやロンも笑いながら、「でもいいよなあ。僕たちも、あと3年待たないとダメなんだ」と言っている。けれどもハリーの天敵ヴォルデモートの仕業で、まだ14歳のハリーの名前がゴブレットの中に入れられてしまう。 このヴォルデモートという魔法使いは、魔法使いというより、「魔人」と言った方がいいぐらい、怖ろしく不気味である。この天敵がハリーの両親を殺して、ハリーの額に稲妻の傷跡をつけた。 ハリーが試合に出る資格のない年齢なのに、ゴブレットの中からは17歳以上の出場候補者3人の名を書いた紙と、ハリーの名を書いた名が飛び出てくる。そのために、ハリーはこの対抗試合に出ざるを得なくなってしまい、死ぬほどの危険な目に遭う。そこが、この作品の大きな見所になっている。 ハリーはなぜ自分が選ばれたのか、分からないが、ダンブルドア先生は、「ゴブレットの判断には逆らえない」と出場を認める。 いつもこの『ハリーポッター』シリーズを観て、すごいと思うのは、色々あるが、まずほうきに乗って空を飛ぶシーンはどうやって作っているのかなあ?ということなんである。ほうき、と言っても普通の速さじゃない。遊園地のジェットコースターなんて顔負けの、豪速急で飛ぶ。あれが不思議だ。 ハリーが炎を吹き出すドラゴンに追いかけられているシーンは、すごい迫力だった。ドラゴン自体は、「作り物」という感じでCG なんだろう。そんなに怖くなかったが、そのドラゴンに狙われているシーンは手に汗握るものだった。いつもハリーは危ない目に遭うので、顔や手が傷だらけになる。 体力のない私は、「ああいう演技は、若さと体力がないとねぇ」と感心してしまう。 それからハリーが年上の選手たちと、魔法のかけられた草の迷路に入り込む所もすごかった。出口を懸命に探すのだけど、なかなか見つからない。まごまごしているうちに、自分の背丈よりも高い草の壁が、左右から押し寄せてきて、選手たちを押し潰そうとする。あれも怖かった。本当にどうやって撮影したりしてるのかな~? 私は自分でも物を作ったり、書いたり創作したりが好きなので、映画を撮影する人の苦労や工夫など、楽屋裏を知りたくなる。 この映画では、ホグワーツに招いた2つの魔法学校の生徒たちと、みんなが大広間でクリスマスに(だったかな?)舞踏会を開催する場面があるが、これがまた華やかで、楽しそうだった。 ハリーたち主人公も、14歳というお年頃。ダンスのお相手を見つけるにも、男の子から女の子に申し込まなければならない。異性が気になり、恥ずかしく思う年頃なので、ハリーやロンは、なかなか相手が見つからない。女の子の方が、逆に一枚上手で、相手を見つけるのがうまい。 ハリーはハーマイオニと踊ればいいのに...と思ったが、案外そうではなくって、彼女は男子校のごつい若者(対抗試合のメンバー)に申し込まれて、オーケーしてしまう。 ハリーとロンは、舞踏会の当日、パーティ用の正装をしているけれど、相手がいなくて、ぼんやりしている。特にロンは、お母さんの手作りのタキシードがカッコ悪いので、むくれている。結局、インド人の双子のひとり(この女の子がけっこう美人)がハリーを積極的に誘って、ダンスを教える。 ハーマイオニは、パーティの最後に、「あなたたちが誘ってくれなかったからよ!」と怒った後、階段に座り込んで、ハイヒールを脱ぎ捨ててべそをかいている。その彼女は、誰よりも美しかった。 こういう、「お年頃なのよね」「初恋の時期よね」といったヒーロー、ヒロインたちの気持ちが描かれているのが、今までの作品になく、とても微笑ましいと思った。 映画が終わると、出演者や原作者、監督、製作者...などの名前が画面に出るが、そのバックで流れる音楽がとてもきれいなので、すぐに立ち上がる気にならない。他の人はそそくさと帰る中、結局音楽が終わるまで、じーっと座っていた。 家で映画を観るのもいいが、電車に乗って、映画館に行って観るというのも、まったく違った味わいがあっていい。一時は、ビデオやDVD の流行で、映画館の閉館も相次いだが、この頃は復活している様子。映画館を愛する私には、嬉しいことである。
January 5, 2006
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元旦には年賀状がポストに結構届いている。年賀状には郵便局の消印はない。それだけ「特別でおめでたい」郵便なのだ。 昔は年賀状の宛名は、みんな手書きだった。でもワープロが登場した頃から、宛名は活字で印字されることが多くなった。私はワープロは仕事柄、教材などを作成することに使うことが多かった。でも世間では大半の人は、ワープロは年賀状の宛名や住所録の管理に使うことが多かったようだ。 今ではワープロは廃れている。3年ほど前、まだパソコンを使っていなかった時、ワープロのリボンを家電販売コーナーに買いに行った。なかなか見つからないので、店員さんに案内してもらった。そこに行くと、ほんのちょっぴり、「ワープロ用リボン」が5個程度置いてあった。見つからないはずなのだ。 「今ではもうワープロお使いの方はほとんどいらっしゃいませんねえ。パソコンがほとんどですよ。パソコンがワープロ代わりになってねえ」 店員さんの説明に、「何か時代がひとつ終わったな~」と感じた。 その私も今では、パソコンでWord2003 を使って教材を作るようになった。ワープロは、画面に妙な線が入ったので、まだ使えるけれども、もう部屋の片隅で埃をかぶっている。ワープロが可哀想な気がするが、仕方がない。 ところで私の知人や親戚は、一足早く年賀状をパソコンのプリンターで美しく印刷して送ってくるようになった。3年ほど前は、年賀状にメールアドレスが印刷してあるのを、物珍しく感じた。その頃私は、年賀状は文具店のハンコを使って書いていた。地味なことをやっていたものだ。 だが2004年の年末から、いきなりLexmark のプリンターで、子供の写真を印刷して年賀状を作れるようになった。これは「たったの1980円」で有名なソフトメーカーSOURCENEXT の「筆休め」をインストールしたおかげなのだ。これは嬉しかった。「パソコンってすごいわぁ~♪」 今年はデジカメで撮影したきれいな花の写真を年賀状に印刷もした。私は年賀状には、昔から(子供時代から)凝る性分なんである。人によって、年賀状の雰囲気は違う。あっさり、さらりと済ませる人。子供の似顔絵やイラストを印刷している人。自分の撮影した写真をババーンとでっかく印刷する人... 人それぞれの性格が、年賀状に表れていると思う。私はお料理でいえば、ぐつぐつ煮込んで、こってり味付けをするタイプなのかも... 友だちの子供の写真が、年賀状になって毎年送られて来る場合は、いつの間にかひとつの成長アルバムができてしまう。それも楽しい。また、何よりも心温まるのは、年賀状の文面や写真が印刷されたものであっても、友人の懐かしい肉筆で、ほんの1行でも添え書きがあることである。 宛名も住所も、文面もすべて活字。そして送ってくれた人の添え書きは何もない...そういう年賀状は、何だか寂しいし、味気ない。 また、年賀状を出したけれども、返事がない。または、相手がいつの間にか転居してしまって、年賀状が戻ってくる。転居知らせもない...そういう場合も、寒い新年になってしまう。 今の学生は携帯やメールの世代だけれども、ある英文エッセイを読ませて、その感想を和文で書く課題を出した。その英文エッセイは、こういう内容である。 ―今コミュニケーションは、インターネットに支配されている。昔は手紙といったものも、今は全て「メール」で済ます。確かにメールは便利でコストもかからず、しかも速くメッセージを相手に伝えられる。けれども私は「これは残しておきたい」と思うメールに出会ったことがない。私の人生の重要な転機の時期に、心の支えとなったのは、かつての恩師や、とある企業の重役の方から頂いた手紙であるが、それらは「電子メール」ではない。時間はかかっただろうが、おふたりとも、丁寧に自筆で私に手紙を書いて下さった。肉筆には、その人の人柄が滲み出る。これはメールにない利点ではないだろうか― そういう内容だった。電子メールが当然の今の学生には、反論が多いだろうと当然思っていた。けれども全く予想はずれだった。ほとんどの学生が、「肉筆の良さ」「手紙の良さ」を充分認めていた。彼らの意見の大半は、 「今は電子メールの便利さと、昔ながらの手紙の良さをそれぞれうまく活用していくべき時代だと思います」というものだった。 この考え方は、年賀状にも当てはまると思う。活字も、今は色んなフォントがあって便利だけれども、字の上手下手に関わらず、時間の許す限り、年賀状には一言で良いから、その人の添え書きがあると、受け取る相手にも、書いた人の気持ちや人柄が思い出されて、より温かな交流ができるのではないだろうか。
January 4, 2006
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例年の如く、お正月三が日は、世の中も物騒な事件もなく、穏やかに過ぎる。昨年は元旦に、近くのお寺に初詣に行った。 いつも初詣に行くお寺は、家からバスに乗って、15分以内の所にある。駅前が参道になっている。私は、20代の頃は、日本の仏閣に関心がなかった。しかし、20代を過ぎる頃から、浮世絵や、日本画や、お寺や神社に深い関心を寄せるようになった。 不思議なものである。英字新聞などを見て、日本の文化のことを書いてあると、昔は英語で日本の文化を読むのはつまらなかった。だが今では、日本の伝統であるお習字や、生け花や、着物、お寺、浮世絵のことを英文でどういう風に表現してあるのか、読むのが面白い。 純和風の写真と、全く異文化である英文の、ミスマッチが好奇心をそそるのである。大学などでも、こういうのを教えるのも、異文化交流の基盤を21世紀の若者に教えることになるので、良いと思う。 「国際化」と言うけれども、それは英語がペ~ラペラになることではないと思う。 英語が話せるに、越したことはない。けれども、真の国際人と呼ばれる人は、歌舞伎や能は説明はできなくても、せめて着物の歴史や、お習字や、お寺の成り立ち、浮世絵などを英語で説明できる人のことをも指すのではないかしら、と思う。(そういう私は...未だに修行中であります) さて、初詣は、昨年は元旦だった。元旦の初詣は危険である、ということを、身をもって体験した日でもあった。何せ、ものすごい人の往来。なじみのお寺はハイテクを駆使して、(というか高齢化社会を意識して)普通なら石段を上がるべきところを、エスカレーターにしてあるんである。 そのエスカレーターも人垣でぎゅう詰め。ここでドミノ倒しが起きるのではないか...? 「ヨン様事件」のように。そういう恐怖がじわじわであった。 新年の鐘を撞き、お賽銭を投げてお参りする時も、すごい人。ゆっくりお参りができなかった思い出がある。 でも今年は3日に出かけたので、ゆうゆうお参りが出来た。 私のお参りの願い事はいつも同じである。 「今年一年皆が仲よく過ごせますように。大きな病気をしませんように。 おじいちゃん、おばあちゃんが長生きしますように。子供が健康ですこやかに成長しますように。危険な事件や事故などに巻き込まれませんように。私の仕事が何とか順調に行きますように...」 けれども初詣には、なぜかいつも私はサザエさんのようにお財布を忘れる。お賽銭は今年はおばあちゃんが握っているのである。 お参りの直前に、おばあちゃんが私と息子にお賽銭を渡す。 たったの10円である。これは昔から変わらないんである。我が家の伝統であろうか。こんなに少ないんじゃ、仏様はそっぽを向くんではないか...? ちなみに、母の願い事は何か、を聞いてみた。 「そりゃ、あなたの健康と孫の成長と、爺ちゃんと私の長生きと、に決まっているじゃない」 「他にもあるでしょ」 「ああ、うん。宝くじ(1等6千万)がどうかどうか、当たりますように~っ...これも力をこめて、お願いしといたよ」 「ダーメよぉ。たったの10円で6千万が当たるわけないでしょっ?」 「ああら、分かんないわよ。運だもの。当たったら嬉しいよねぇ」 仏さまはそこまで身勝手なお願いをきいてくれるだろうか? ところで、初詣で、不思議に思うことがある。ひとつは、他の人はお賽銭をいくら、あの箱の中に入れているんだろうか、ということ。それから、たまったお賽銭は、お坊さんのお給料の一部になるんだろうか?ということ。 まあ、世の中うまくできてるから、お寺の経営のためにも、お坊さんの生活のためにも、お賽銭とかお守りとか、他にもいろんな「お参りグッズ」は必要であろう。 ところで、お賽銭で思い出すのは、一昨年だったか、どこか九州辺りの神社かお寺の「お賽銭泥棒」の話である。 あのお賽銭箱というのは、小銭を入れるようになっているので、入れ口がとっても狭い。それなのに、お正月の賑わいも過ぎた頃、初詣でたんまり貯まっただろう、と思ったある輩が、こともあろうに、あの狭いお賽銭箱に手を突っ込んだ。 そうやってお金を思う存分、つかみ取りしようと企んだのだろう。 ところが、ちょっと頭が足りなかった。あの狭~い入れ口に手を突っ込んだが最後、手が抜けなくなってしまったというのである。泥棒は泣いて、大声で助けを求めた。 「助けてくれ~手が抜けないよぉ~」 そこで、何だ何だと近所の人が駆けつけて、皆でよいしょと泥棒の手を抜いてやったらしい。そして110番。 世の中には実にいろんな人がいる。だからいろんな事件が起こる。凶悪犯が多いが、この「お賽銭泥棒」の話は、いつ思い出しても愉快だ。泥棒は勿論、悪いことだが、何となく「可愛い」ドロボウじゃないか。ドロボウだって、お正月をお祝いしたかったんだろう。そう考えると、初詣やお賽銭箱というのも、罪なものだ。
January 3, 2006
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書初めというのは、昔から、正月2日に行うことになっている。正式には、吉方(えほう)に向かって、めでたい意味の詩歌などを書くことになっているそうなのだ。 そういえば、私も子供の頃は、「宿題」として、書初めをよくやった。字を書くのは好きなので、苦痛ではなかった。お習字は10歳前後の頃、2年ほど習いに、近くの集会所などに通ったけれども、そこに来ている生徒の中で嫌な子がいたので、自然と止めてしまったような記憶がある。 書初めは真面目にやったが、果たしてきちんと、「1月2日」にしたかどうか、定かではない。書初めは、2日にやらないと、「書初め」とは言えなくなるんだろうか? うちの子は、冬休みの宿題は、算数と漢字ドリルと、この書初めだけなんである。算数と漢字は順調に進んで、もうすぐ終わる。でも書初めは、学校から3枚しか用紙をもらってきていない。初詣も行きたい...でもその前に書初めをしなければならないんだろうか? 私は「書初めは明日でも明後日でもいいんじゃないか」と思ったけれど、遊びに来ていたお爺ちゃんが「今日するのが普通だ」と頑張る。 そこで、「え~絶対今日なの?失敗したらどうしよう」と息子は不安になってしまった。「3枚しか用紙がないのに...」 そうしたら、今度は親の私がお叱りを受けた。 「子供がきちんと書初めを練習できるよう、半紙を年内に用意しておくのが普通なのだ。子供のための環境が整っていないではないか。この場合、『状況が非常に悪い』とは思わんのか」 お爺さまのご叱責ごもっとも。さらに爺さまは、横文字が大好きである。 「『状況』が、シチュエーションがヒッジョーに良くありません」 こうおっしゃるので、いつもは大人しい私は、その時なぜか意見を言ってしまった。 「え?こういう場合、『環境』が悪いというのなら、『シチュエーション』よりも『エンバイロメント』(environment) ではないの?」 「何を言うか。『環境』も『状況』も『シチュエーション』なのだ。『エンバイロメント』っつーのは、自然環境の場合にのみ使うのだ」 でも「子供の成育環境が悪い」と言いたいのならば、environment を使うのだがなあ...と私は呟いた。しかし、爺さまのご意見に逆らうことは許されぬのだった。 結局、息子はこの日は書初めはうやむやなまま、やらなかった。 書初めの課題は「広がる輪」というのを、細長い半紙に書くというもの。準備が整っていなかったのは、年末に年賀状に大忙しだったからである。私は、お手本を後日、書いて、書初めさせようと思った。 何事も、最初が肝心だけれども、準備が間に合わないという時は、融通を利かせて、「また別の日でも...」とした方が、あっさりしているし、その方が、お正月も楽しく過ごせるのではないかな... 私は几帳面なお爺さまを見て、そう思ったのであった。
January 2, 2006
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年が明けて、西暦2006年の始まり。平成18年になってしまった。でも昨日まで「2005年」だったので、つい日記などにはそう書きそうだ。 平成18年というと、平成元年に生まれた人が、大学に入学する年でもある。私は、先日、昔の日記を読んで、「昭和の終わり」に対する感想を記したページを見つけたのだが、随分と細かい字で、長々と書いてあるのに、我ながら驚いた。 「平成」というのは、まだ出来て新しい元号のような気が、やはり未だにするのである。けれども、平成に生まれ育った今の10代の若者は、「昭和」と聞くと、古臭い感じがするだろう。私も、「大正」という時代は、自分には縁の無い、かび臭い感じを、子供の頃抱いていた。 あと2年もすると、「平成20年」となる。こうなると、「平成」時代も、成熟してきた感じがするだろう。 ところで、お正月というのは、毎年、穏やかなお天気に恵まれるようだ。今日もそんな日。お正月のことを、年賀状などに「迎春」とか「賀春」というように、「春」という言葉で表現することが多い。季節の上ではまだ冬なのに...と思うのだが、新しい年を迎えた、という喜びを、晴れやかな雰囲気の「春」というムードで包むのがいいのだろう。 遥か千年も昔、『源氏物語』でも、お正月を迎える場面が事細かに描かれている「初音」の巻がある。これは、当時、源氏の正妻として、平和な時を過ごしていた紫の上の「春の御殿」で、まずお正月をお祝いするお話である。 源氏には子供が少なく、長男の夕霧(ゆうぎり)のあと、最初の妻、葵(あおい)の上が逝去。次の妻、紫の上は子供に恵まれない。権力を奮っていた右大臣の娘との浮名が元で、彼は須磨に流されるのだが、その時知り合った女性が明石(あかし)の上。彼女との間には、可愛い女の子が生まれる。 けれども明石は身分が低いので、都に正妻として迎えられない。そこで、子供のいない紫の上が、明石の娘を3歳の時、引き取って育てることになる。 明石も、その後、源氏の御殿に引き取られるが、娘とは別棟で生活する。 そこで迎えるお正月が幾年か過ぎて、娘は6歳ほどになる。もう字が書けて幼いながらも、お歌が詠める年なのだ。そこで、明石が実の母とは明かさずに、娘に「同じ屋根の下に暮らす者です。今年のお正月は初めてのお歌をお返事下さいね」といった意味の歌を送る。 その明石の上の娘の、初めてのお歌(短歌)を、「初音(はつね)」ということから、この巻の名がついた。 お正月には、この明石の上のエピソードをよく思い出す。また、「初春」などのように、お正月には「春」の言葉がよく用いられるのも、この源氏物語の「春の御殿」のためなのかなあと考えたりする。 それは定かではないけれども、お正月をよく、ハワイなどで迎える人も多いと思う。けれども、私はやっぱり、日本のお正月が好きである。 日本人は、戦後、クリスマスという外国の習慣を上手に取り入れた。クリスマスの色彩は、赤と金色と緑である。けれども、12月25日を過ぎると、あっという間に、「赤と白」や「赤と金色」のお正月の色彩が街に溢れる。 この変わり身?の素早さも日本独自かも知れないが、「赤と金」で「迎春」「賀正」という字を見ただけで、心躍る。私も根っからの日本人だなあと思う。
January 1, 2006
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