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「第九」三昧 2. さて、もう一人はというと、このブログではなぜか触れて来なかったのですが、「aki-Electone solo」という動画を8年近く、精力的に配信されている方で、私は3年ほど前に、この人の「TWILIGHT IN UPPER WEST」を知り、そのしゃれたセンスにいっぺんに惹かれてしまいました。 そのときした私のコメントとは、― 電子楽器なら誰が弾いても同じ音と思いきや、これなどを聴いているととんでもない。設えられた効果音を抑え目にして、まるでピアノとサックスが対話しているかのような演奏がとても個性的、中間部のピアノソロは耳コピということですが、いっそ倍ぐらいにアレンジされたら、どんな豊かな楽想が沸いて出ただろうと、あらぬ想像してしまいますね。 好い演奏とは、私など「繰り返し聴ける」かどうかということに尽きるなどと、勝手に思っているのですが、この演奏は何度も聴かせていただくことになりそうです。なぜそうなるのかと言えば、結局譜面に託された作曲者の「歌心」のようなものを、演奏者が真摯に受け止め、「私にはこう聴こえました」という仕方で、聴き手に届けようとされているからでしょう(想像ですよ)。 不思議なもので、そういう敬意のこもった演奏は何度でも聴きたくなる。なぜならそういう感応をした演奏者の宿す「歌心」は、一聴しただけではとても分らないからです。―と、相変わらず力んでいますが、要は826askaさんの同曲の響きと、あまりに違うので驚いたということです。その後このakiさんの動画を数多くフォローするにつれ、私のエレクトーンという楽器に対する捉えかたには、若干の変化があったように思う。 ひらたく言えば、この楽器には「演奏する楽しみ」のほかに、自分流に「アレンジする楽しみ」がほかの楽器にくらべて多量にあるのじゃないか?ここ最近のakiさんの動画を聴いていると、市販の楽譜ではあき足りず、もっぱら耳コピで自分流にレジストも作成されて演奏されているようです。と、気付けば、他のエレクトーン奏者でもかなりの方が、自作の楽譜をオンラインに乗っけておられる。聞くところによれば、エレクトーンの楽譜作成というのは、その多様すぎる音色ゆえに、膨大な手間がかかるものの如くで、演奏者としてはそれも見てほしいというところもあるのでしょう。 とはいえ、こういう「音楽の楽しみ方」もあるのだとすれば、自称クラシックファンの私としては、かなりショッキングな事態とならざるを得ないのです。前にも触れましたが、クラシック音楽は原則として「原譜第一主義」で、作曲者の残した譜面を忠実に指定どおり演奏するのが、まず基本にあると特に第二次大戦後言われてきたと思うのです。厳密に譜面をたどりながら、そのごく制約された中から、いかに迫真的な「響き」を取り出してみせるか?戦前まではある意味、そうした規制はおおざっぱで、原譜にはない音が演奏家によって加えられたり、省かれたりしていたようです。 これは前にも触れましたが、思い切り自由に歌わせているようにみえるカラヤンでも、原譜に記された音と楽器以外は絶対に使いませんでしたが、ワルターとかフルトベングラーなどは、この「第九」終楽章の冒頭にしても、ベートーヴェンの時代出なかったはずのトランペットの音を、景気よく吹かせてますね。作曲家が「こうあるべき音」と望んでいたとしても、当時の楽器がそれに追いつかなかった場合、今の演奏家はどうあるべきか? このあたり、歴史の改ざんというより、「今の都合」による過去の歪曲というのが、人類にどういう惨禍をもたらすかという深い反省が、何も枢軸国側だけでなく連合国側にも、二度の世界大戦後の空気としてあったのだと私は思う。それと並行して歴史資料の校訂や批判が、かなり厳密かつ科学的に行われるようになって、軽々に「歴史」を物語ることには慎重にならざるをえない、ということもあったでしょう。 こうした風潮は、クラシック音楽の世界にもあって、「原譜に付されていない音は、やはり使うべきでない」というのが、今どきの流れなのでしょう。 しかし、エレクトーン業界はそうしたクラシック界の重たい制約からは、かなり自由というか、そもそもエレクトーンという楽器にとって、クラシック音楽はその包含する広大な楽器のキャパのごく一部に過ぎない。したがって今のところ、この楽器はそうした「歴史の反省」をするには、まだ早すぎるということになるのでしょうか? 前置きが長くなりました。ではakiさんによる「第九」第4楽章を聴いてみましょう。
2021.01.20
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「第九」三昧 1. コロナコロナでさんざんだった2020年がようやく終わり、21年が明けましたが、何やら首都圏を中心としたオーバーシュートの予感があたりに満ちていて、とてもじゃないが浮かれた気分にはなれません。 さて、皆さんはいかがお過ごしですか。明けまして、おめでとうございます。本年が皆さんにとって、今度こそ良き年でありますように。 第三波が思いのほか大規模で、収束の兆しどころか、感染者数、重傷者数、死者数とも第一波を超える事態になっている現状については、いくつか私なりに思うところがあるのですが、うっとうしいので別段で話するとして、取りあえず年末にあった多少楽しい話題を一つ。 それは例によってyoutubeにUPされた二本の動画のことなのですが、奇しくも二人のエレクトーン奏者が、年末ということで「第九」を演奏されていたのです。日本ではまるで歳時記のように年末になると「第九」がさまざまな形で演奏され、特に昨年はコロナ禍の年の瀬ということで、「歓喜の歌」に希望を見出す人も多かったのかしらん。 私は以前から申し上げるとおり、かなり古さびた(!?)保守的なクラシックファンなので、軽いタッチのポップな「第九」のメロディーが街中に流れてくると、それだけで背筋が凍るというか、腹を立てながら歩くという仕儀となるのですが、このお二人の動画からは、不思議とそういう「いらだち」が沸いてきませんでした。どころか、むしろ爽快感をさえ覚えたものです。 お一人はもちろん826askaさん。年末に自宅からのライブをやっておられて、自作も含めて全九曲、いずれも大熱演でしたが、その中でも冒頭の「リベラ 彼方の光 」、7曲めの「鬼滅の刃」から「鬼殺隊」、そして8曲目の「第九」(1時間32分ぐらいから)が出色の出来映えで、思わず拍手しそうになりました。期間限定なので、いつまで見られるのか分かりませんが、聴いてみてください。 その時書いたコメントを、以下にそのまま記します。― 街に出ればポップな軽いノリの「第九」がどこでも流れている時節柄、自称クラシックファンの私としては、ときに怒りさえ覚える今日この頃ですが、askaさんの「第九」はまったく違う。早い話彼女の「第九」はスーパーのBGMにはなじまないでしょう。 それほどに彼女の演奏には切迫性があって、ある種のエレクトーン奏者が本気を出せば、どういう音楽が出現するか、その片鱗を見た気がしました。もちろん細かいことを言えば、「歓喜の歌」のフレーズはやはり原曲に近いリフレインで聴きたいし、コーダはこの数小節前のコーラスが終わるあたりからがベストだと思うのですが(何しろ聴力を失ったベートーヴェンが、どこかから「確かに聞き取った」フレーズなので)。 それでも私はこのaskaさんの挑戦というより、クラシック音楽と対等に渡り合おうとしているかのような、「挑発!?」的な姿勢が大好きです。なぜならスーパーのBGMならクラシックはビクともしないけど、「切迫性」のある響きは間違いなく、「音楽とは何だ」という「問題を提議」するから。 と、回りくどい言い方になりましたが、音楽の「何が人の心にまで届くのか?」というような根本的な問いかけの前では、クラシックもポップも関係ない。ピアノもエレクトーンも、プロもアマも関係ない。すべての楽器、アーティストは、演奏が始まったとたん同じスタンスで、その「問い」にさらされるのです。 askaさんの演奏を聴いていると、その軽々としたフットワークから、そうした根本的な問いかけが驚くほど明晰に見えてくるのね。― と、例によってかなり興奮気味に、駄文を連ねておりますが、正統的なクラシックファンから見れば、ある意味ほとんど「冒瀆的」な響きであっても、晩年のベートーヴェンが「第九」に託した精神の一部は、確かにここに見ることが出来るのです。 私、実は街中のポップな「第九」だけでなく、ホンチャンの演奏会でも「本当に」納得した演奏というのには、数えるほどしか出会ったことがありません。というか、中一の時に聴いたカラヤン、ベルリンフィルの「第九」の衝撃があまりにも大きく、いわば私にとっての「原音」みたいな響きとして残ってしまい、それ以外の「第九」の響きがなかなか受け入れがたい、という時期がずいぶん長く続いたものでした。こういった「原体験」的な音楽の響きというのは、けっこうありますよね。
2021.01.13
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