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昨年の5月ごろに、荒川静香さんの印象を書いたのがきっかけで、続けてきた「サリエリの独り言日記」ですが、どうもこの暮れあたりから、時間的物理的に毎日の更新を維持するのが難しくなってきました。 個人的には気晴らしのブログ日記ということで、ずいぶん楽しめたのですが、周囲の状況はそれを許さないようです(それにしても、私が忙しがるような状態というのは、あんまり良くないのですが)。 ―― というわけで、ここ当分の間、休眠に入らざるを得ません。まあこの種の楽しみに手をつけるのが、ちょっと早すぎたかなという気もしないでもないのですが、機会をみてふたたびUPしていきたいなと思っています。 少数とはいえ、ほぼ毎日見に来てくださった皆さんには感謝致します。毎日更新を維持できたのは、なにしろ毎日誰か一人でも見に来る人がいるという一点によるので、それがなくては続けることはできなかったでしょう。 ほんとうにどうもありがとうございました。
2007.01.22
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面白くもない政治談議をしたからではないのでしょうが、正月休み以降すっかり身体の調子が狂ってしまって、風邪をひいてしまい2日ばかり家にこもってました。 人の身体というのは、心も含めてBio-Rhythm(生命の規則的な運動)なる疑似科学的用語で、体調を説明したりしますが、そういう話を持ち出すまでもなく、規則正しい生活習慣というのは大事で、私はどちらかというと休みが苦手です。さらにはこの平日の昼休みにUPするブログを、私の生活リズムに最適にフィットするように、中味も時間も調整して書いてきたので、UPできないと何となく居心地が悪い。 家にこもっている間、何度か家のパソコンでUPを試みたのですが、なぜかできません。しゃべるべき中味の材料は、むしろ家のほうにたくさん転がっているのですが、殺風景な事務所のパソコンでないと、気がすすまないのです(まあ一つは家のパソコンが、ほとんど私以外の家族に占拠されているということもあるのですが)。 事務所のパソコンが私にとって電脳空間の最適位置を占めるだけでなく、物理的にも私の最適空間を形成していることがわかって、何となくホッとしています。 というわけで2日ほどUPできませんでした、すいません。ここしばらくこんな状態が続くかもしれません…。 さて、―― 今回の「私が好きな人」シリーズ?では、私を刺激して止まない何人かの人を取り上げては、感想を書こうと思っているのですが、この場合の「好きな~」というのは、話されたり書かれている内容が「好き」というのではなく、はたまた顔とかスタイルが「好き」というのでももちろんなくて、その人の様子を見たり聞いたりしていると、おのずからこちらの思考を刺激してくれる、という意味での「好き」という意味です。したがって世評に現われる人物紹介や思想の素人解説ではありませんので、悪しからず。 K・ローレンツ(Konrad Lorenz)とは、オーストリアの動物行動学者、いわゆる刷り込み理論の発見者で、近代動物行動学を確立した人物として知られ、1973年にノーベル賞医学生理学賞を受賞していますね。 動物行動学の話は別の機会にするとして、だいぶ前ですがテレビで彼の特集をしていて、オーストリアの田舎の自宅に好々爺然としてハイイロガンやハムスターに囲まれて、彼が自分の思想や世界観を語るとき、ヨーロッパの思想とか哲学の堅牢なバックボーンを否が応でも感じさせられたのでした。 この人の動物行動学の話は、当時はそれ自体がとても面白く関心もあったのですが、今話そうと思っているのは、すでに古びかけている彼の動物行動学ではなく、日頃の動物の観察を通じて自分の思想や世界観を語る、その手順でありました。内容はすっかり忘れてしまいましたが、「~のような考え方や方法論には反対します。なぜならそれは選別、つまり差別的な発想を基点としているからです。」 それまで生まれたてのハイイロガンのヒナが、最初に出会った人間を親と思う、いわば田舎学者の動物観察のような、楽しい話題をしていたのが、突然近代ヨーロッパの思想の話に何の違和感もなくジャンプする。その転換がとても印象的で、私はローレンツの考え方とか思考回路のバックボーンに、そびえ立つようなヨーロッパの思想の支柱のようなものを感じたのでした。一介の科学者や技術者あるいは文学者、政治家なども含めて、個別の行動や思索(ローレンツの場合は、動物の観察)が、そのままひとつながりにギリシャ哲学やT・アクイナス以来の形而上学のような思想的方法にまで演繹される。 ローレンツや他の学者の限らず、一般の市井人でも、おそらく大なり小なり同じような思考回路をヨーロッパというのは持っているので、それが垣間見えただけでも値打ちのある番組だったと思ったものでした。 ところで、最近になってそのK・ローレンツが、戦前ドイツにおいて優生学の提唱者であったことを知り、彼の一連の発言がその反省にたったものであったことを知って、私のローレンツにたいする印象はずいぶんと低くなってしまいました。ノーベル賞受賞のころから、その点が問題視されていたことをWikipediaなどで知り、彼の選別的行動実験に反対する立場というのが、観察の結果出てきた発想とか結論なのではなく、思想的反省からでてきたものであるなら(思想的反省から実験方法が変更されるなら、実験は科学的でなくなります)、私のローレンツに対する評価は一変せざるを得ません。 テレビ番組の上っ面で判断せずに、もし本当にヨーロッパ精神の真髄の一端をK・ローレンツにみたのであれば、もっと彼の本を読むべきだったと今になって思うのですが、残念なことは日本の一介の市井人である私には、そんな時間は無いのです(日本の娑婆はやっぱり忙しいのです)。 ところで ――、今回話しようと思っていたのはK・ローレンツではなくて、中村哲さんのことです。 ― つづく ―
2007.01.13
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青山さんが言われるのは、まず1.韓国はいずれ半島が統一したときに、核保有国としてのPresence(存在感)を国際社会において保持できる、(わざわざそれを捨てるに及ばない)と思っている。2.中国、ロシアは、いずれにしても当面北朝鮮の核爆弾が、自国に向くということはありえないと思っている。3.アメリカも当面北朝鮮の核爆弾が、直接本土への脅威になるとは思ってない。 というわけで、真剣に北朝鮮の核爆弾を脅威に感じているのは、日本だけであり、さらにはその日本に対する揺さぶりこそが、北朝鮮の目的とされます。 今の北朝鮮の体制で「拉致問題」は、おそらく体制の中枢を揺さぶる問題であり(現在拉致されている人たちの、相当数が金正日体制の中枢に拘わされてしまってしまっている)、それだからこそ日本はずしを図っているのでしょう。 というわけで論理必然的には「拉致問題」の解決とは、金正日体制の転覆に帰結してしまい、核問題のように金正日体制を容認して交渉による解決を図る、という選択肢は論理的にありえない。日本と他の5カ国との立場の違いです(外務省が本音のところは、拉致問題を後回しにしたいのは、そうしないと6か国協議の対北朝鮮網の足並みが乱れるため)。 青山さんの論旨は、常に金正日体制の転覆を前提にしているので、パリ亡命説のようなこともささやかれていますね。 しかし政治体制というのは、個人の力で成り立っているのではなくて、ある種のカリスマをいただいた広大な利益集団の塊りであるとするなら、金正日一族を追い出したところで、それで利益を得ていた組織が無くなるわけではない。むしろこれが実際に起これば、内部クーデターの危険が高まるでしょう。 とはいえ、ここでは最近の政治情勢を素人的に予想するつもりはありません。そちらは専門家にお任せするとして、大国のしゅん動というものが歴史的にはどういうものであるかを、考えてみたいのです。 「遠交近攻」とは、古代中国で紀元前8世紀の春秋戦国時代から、紀元前221年に秦が再び中国を統一するまでの500年以上の動乱の世にさまざまに編み出された戦術の一つとして、伝えられた「兵法三十六計」の第二十三計にあたる戦術で、遠くの国と手を結び、近くの敵国を滅ぼす戦術をいいます。 この戦術は群雄割拠の中国戦国時代においては、一国で敵国と戦うのが困難だったため出てきた知恵で、「孫子」の「戦わずして勝つのが最上の策」(国を全くするを上となし、国を破るは之に継ぐ。…是の故に百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり ―Wikipedia)の格言とともに、近代西欧の外交戦術にも通ずるものでした。 前にも触れたことがありますが、基本的に国民国家の概念が規定された19世紀以降、国家を超えた主権というのは世界には存在せず、国家機関は厳密に言うと、その国民の生殺与奪の権限を唯一握っている組織です。他国は原則的には、自国及び自国民の生命財産に被害が生じないかぎり、他国を侵犯することはできません(その意味でも北朝鮮は、日本から干渉される理由があるのです)。 とはいえ、直接一戦交えないまでも、多国間の外交交渉で標的の国の力を、たわめる事は日常的に行われているので、大国にとって一番の上策は直接戦わずして、近隣同士が戦ってお互いに弱体化することでありました。このあたりのサジ加減を、おそらく中国はみているので、北朝鮮がやたらと核武装してもらっても困るが、かといって完全に崩壊してしまうのも具合が悪い。というのも北朝鮮が亡くなれば中国は必然的に韓国(西側)と直接対峙せざるを得ず、他国同士にやらせて、双方の力をたわめる代理戦争は難しくなります。 このあたり、中国以外の韓国もロシアも本音のところはいっしょで、国内的にどんなに醜い国であっても、大国の間に小国は存在しないと困るのです。これを地政学(Geopolitics)的な論理といいます。 中国が一番恐れているのは、紛れもなく軍事的ポテンシャルで頭抜けている経済大国の日本であり、世界国家へ伸張するうえで、常に足かせであるでしょう(アメリカもまた、かつてのソ連に対すると同様の戦略的位置を日本に見出しているでしょう)。 したがって、北朝鮮が日本を核とノドンで恫喝するときは、必ず裏に中国の影があると考えるべきで、もし日本が本気で核武装の論議を始めた場合、真っ先に非難を開始するのは中国でしょう(事実的に核保有している北朝鮮のことなど、ほったからしにして)。 例によって話が過激な妄想に近くなってしまいました。やっぱり政治談議はいけません。それにしても外交とか他国との付き合いというのは、たぶん私たちが想像する以上に冷徹で、100万人200万人の死者など最初から織り込み済みのシナリオを、何の躊躇もなく描ける感覚というのが、この種の世界かなと、何となくうんざりしてしまいますね。 ― つづく ―
2007.01.10
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かつて、あるいはここ最近話題の人たちで、私が好きな人とは ――、例えば、「独立総合研究所」の青山繁晴さん、関西のテレビではおなじみですが、考え方には異論を抱く人もいるかもしれませんが、常にものの見方に新しい視点を与えてくれる、という意味で好きです。これは彼の話し方が明確で論理的であることによるので、意見を異にするにしても、話を聞かせる論理的な明晰さがあるのです。 それとは対蹠的に実行者としての力を、その日本的な親分肌で感じさせる人が、前にも取り上げましたアフガニスタンの中村哲さん、さらにサミュエルソンの小室直樹氏かな。いずれもおっしゃっている内容以上に、多面的なものの見方とか、思考の方法のようなものを私たちに与えてくれます。 私は戦後左翼が「戦争」とか「防衛」に関して、その言葉を発すること自体を忌避していたのが、不思議でしょうがなく、それって裏返しの「言霊信仰」ではないかと思ったものでした。戦後「古事記」や「天皇」に触れるのを避けた日本の史学会の動向もそれとパラレルに進行してきましたね。 それを代償するかのように「騎馬民族説」や「邪馬台国論争」といった、学問的にだけでなく文化的にも不毛の論争が、民間だけでなく学会でも取り上げられました。これは正面から日本の歴史に向き合おうとしない、戦後日本の思考体質の結果です。その中で唯一「古代朝鮮半島」との関わりを見直した、いわゆる半島交渉史論が、主として関西で行われたのは、新たな視点を導入したという意味では有用であったかもしれません。 しかしこれもまた、現在の政治関係で奇妙に歪められ利用されて、おかしな方向に進みかかっているように見えます(「帰化人」を呼称がおかしいと「渡来人」と言い直したり、ハングル読みを無理矢理カタカナ読みにしたり、ハングルの発音はいかんせんカタカナでも不可能で、そのうちハングルで表記せよ、というような要求が出てくるかもしれません。これらは現在の政治状況が歴史にフィルターをかけてしまう典型的な例です。歴史を見つめる目にとって、これほど不毛の論争はありません)。 その意味で、最近あまり登場されませんが、例の「ソビエト帝国の崩壊」の小室直樹氏も、その堅牢な論理性で好きでした。この人の「韓国論」や「戦争論」は、その明晰性において他に比類がなく、はたまた論理性と論理の限界についても充分意識した書かれかたが小気味良くて、この論法なら足元がぐらつくこともなく、大声になることもなく、相手に聞かせることができると思ったものでした。 相手に勝てる、という意味ではありません。論争に勝ち負けを持ち出したら、結局腕力の強さに帰結して、お互いに恨みを残しますよ。論理は常に感情に打ち負かされます、感情は論理脳の下部、別次元に位するからです。 早い話、1億の民に対して100人の論理が勝ったとしても、周囲は誰も勝ったとは認めないでしょう。スウェーデンやスイスがなぜ国際的なPresence(存在感)を維持できているのか、ということはもう一度よく考えなければなりません(スイスが第二次対戦中、領空に侵入した連合国の飛行機に対空砲火を浴びせたとか、スウェーデンが10年ほど前、領海に侵入したロシアの原潜に、爆雷攻撃を行って腕ずくで浮上させたとか)。 国際関係については、お互いに言い分をハッキリさせるということが大事なので、互いの地点がハッキリすれば、後は交渉と妥協でしょう。国際関係で完全な勝ち負けというのは、戦争による決着しかありえないのですが、現代では戦争はお互いに疲弊するのが、どうもオチのようですね(核を使わずとも、第二次対戦後の英国、フランスのように)。 であるなら多少は不満が残っても、付き合っていくしかしょうがない、ただしこちらの言い分はハッキリ言っておく、というのが大事なのでしょう。 中国というのは、日本に限らず、周辺諸国にとっては、今に限らず歴史的にも巨大すぎて、重たくてしょうがない。しかし国ごとどこかへ引っ越すわけにもいかないので、こことどうやって付き合っていくか?さらには「孫子の兵法」の国ですから、外交交渉はお手のものの相手であります。「遠交近攻」という中国戦国時代の兵法を思い出します。 アメリカがイラク戦争の失敗でちょっと自信を失くしている間に、東アジアでの中国のPresence(存在感)はいかにも大きく見え、さらには中近東からアフリカへ触手を伸ばしているようです。中国にとっては近接の日本というのは、過去の問題としてではなく、今の関係として眼の上のタンコブかも知れず、さしあたってかってに力を減殺してくれるのが一番望ましいのでしょうが、かといって完全につぶれてもらっても(資本投下が減るので)困る。 適当に弱まって、おとなしくしていてくれる(中国のいうことを聞く)のが、一番好いのです。そこで浮かび上がってくるのが、朝鮮半島ということになるのですが――。 青山さんが昨年末ごろに、テレビで「北朝鮮の核廃棄を、本当に望んでいるのは、日本だけ」という発言を聞いていて思ったことでした。 ― つづく ―
2007.01.09
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年明け少しヒマなので、ちょっと時間をかけて、去年からの自分のブログを、がまんして覗いています。 覚悟はしていましたが、それでも赤面ものの中味ばかりで、とくに初めのころのは気分の高揚だけが突っ走っている感じで、冷や汗が出てしまいます。 できればReloaded(更新)してしまいたい!という誘惑に負けそうになりますが、ガマンしてそれはしません。その時々のブログの中味は、その時々の自分の気分を表わしているので、絶えず過去の記事を更新していては、過去の自分も今の自分も、分けがわらなくなります。 しかし人にも民族にも、できれば過去を更新してしまいたい(掻き消してしまいたい)という願望は常にあるようで、作曲家のブルックナーやストラヴィンスキーは過去の自作を何度も書き直していました(ブルックナーにいたっては、弟子までも巻き込んでハース版やノヴァーク版といったクレジットがCDに付きます。ここには原典という考えかたは存在しないのです)。 民族や国家にも過去の更新、あるいは改ざんに熱心な民はいて、例えば大陸中国の歴史は歴代帝国(中原の支配者)の過去の塗り替えの記録といってもいいので、従って彼の国の今の姿は100年後、200年後にまともな評価を受けることになるでしょう(共産中国の体制が崩壊し、新たな支配体制が大陸に樹立されれば。ただし中国3000年の歴史には、好い悪いの価値判断は別として民主体制というものは、かつて一度も存在しなかったのです、民主体制でない民族や国家は、えてして歴史の改ざんをやりたがる)。かたや日本のように禊ぎをすれば、天地(アメツチ)はすべて更地にReloadされるというのも、ちょっと困るのですが。 まあそれはさておき、MyBlogに関して途中からUPするという態度(行為)の考え方を、少しずつ変えてきました。前にも書きましたが、MyBlogの原則は1. まず自分が書いていて楽しい中味であること2. 一応読む人がいるという前提なので、「書くに値するものを書く」ということ3. 同じく一応Public空間なので、できるだけ出典は明らかにしておくことということはもちろんなのですが、ブログの記事内容を毎日起こる事件や出来事を取りあげて書いていては、ジャーナリストじゃあるまいし、しんどくてしかたがない。まして政治向きの話は書けば書くほど頭に血が上ることが多くて、ブログの気分の発散としての効用など、どこかへ吹っ飛んでしまいます。 そこで途中から自分の情報系の外周がどの辺りにあるのか、試してみようと、できるだけ自分の感覚から最長距離の地点まで網を拡げて、あれこれ書いてきました。 今回赤面しながらも読み直してみて、どうやら同じことの繰り返しに近い記事もちらほら散見し、ここらあたりがわが電脳空間の境界面かと思ったりしますが、とりあえず(ブルックナー的大伽藍とは似ても似つかぬ)聖護院の土塀程度の外周は出来上がった?とはいえ(雨風ですぐ壊れる)、もう少し土塀の外に堀を張りめぐらせて、外縁を強化するか、はたまた外塀が次々と蚕食されてくるのを覚悟で、内周の色を塗り上げていくか迷っています。 しかし内周の深堀りは、たぶんほとんどブログ(=公開)という道具立てには、馴染みにくいのではないかという懸念があり、かといって土塀の外まで堀を拡げるとなると、今度は自分の無定見を世に曝しかねず、弱りましたな。 まあしかし、ここはやはり戦国の城造りと同じく、無定見を曝すことを覚悟で、天守閣の整備はいちばん後回しにして、外堀を掘ることにしますか。書いていておもしろいと思えるかぎりは。
2007.01.07
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こんな話をするというのも、近畿地方の私鉄の吊り下げポスターに、伊勢神宮の朝日に照り輝く写真が出ていたからです。 例の千木に施された装飾金具と白木の社殿が眩く、かつて元日の朝に一度だけお参りしたときの記憶が、その時の朝の空気のニオイも含めて、ありありと蘇ってきました。―― 底津(ソコツ)石根(イワネ)に宮柱(ミヤハシラ)ふとしり、高天原(タカマノハラ)に氷椽(ヒギ=千木)たかしりて…――とは、「古事記」の天孫降臨のくだりや「祝詞」に出てくる、社殿を言祝ぐときの常套句ですが、更地に丸太を突き立て、天高く千木をそびえさせた伊勢神宮の姿は、まさしくそれで、天照大神(アマテラスオオミカミ)が世界をあまねく照らす太陽母神であり、冬のこの時期、特に古代人にとっては、太陽の復活は重大事であったことでしょう。 前にも触れましたが、三種の神器とは天照大神の神代(よりしろ)として、天孫降臨の際に天照大神より瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に授けられた、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)=草薙剣(くさなぎのつるぎ)のことですが、伊勢神宮の御神体は八咫鏡とされ、鏡=光が古代人の世界観の中でも、ことさら大きな位置を占めていたことを表わしています。 弥生時代にさかのぼる銅鏡や、古墳時代に副葬品として棺に入れられた大量の鏡は、ヤマト王朝が出現する以前からの、光に対する古代人の強い渇望を示すかのようです。 伊勢神宮は天武天皇のころから、式年遷宮といって20年ごとに社殿をとなりの更地に建て替えるのですが、結果として私たちは神話時代の建築を、創建当初に近いであろう状態で見ることができるのです。この古くなった社殿を、その都度建て替えるという習慣は、どうやらヤマト政権が代替わりごとに繰り返してきた遷都の習慣を残したもののようで、清浄と新しさ(更新)は古代人に不可欠の生理であったようにも思え、これはそのまま神道の考え方にも連なるものでもありました(現在の伊勢神宮、その後の神道的世界観に彩られている部分も相当あるので、原古の日本を想像する場合は注意する必要があります)。 「古事記」や「日本書紀」にみることができるように、古代においては王権の継承争いは日常茶飯事で、女帝が何人か誕生したのも、多くは継承争いの決着が付くまでのつなぎの意味合いがありました。 これは私の想像ですが、王権の継承争いというのは、古代では社会的に認知されたしくみとして組み込まれていたのではないかと思うのです。先日も触れましたがタカのヒナ同士が、お互いの生存をかけて(強い遺伝子を残すために)殺しあうように、古代社会では強い首長が権力を勝ち取らないと、社会全体が崩壊する(食えなくなる)という意味で、権力を狙う親兄弟が血を血で洗う闘いを繰り返し、強いものが王座に付くというのは、一種の社会的要請であったような気がするのですが。 これを今日の目から王位継承の制度が安定していなかったとみるのは、間違っているような気がします。当時の社会はそれを必要としたのです。継承権が確定するためには、王位のトップが強くなくても構わない社会制度が必要でした。それを供給したのが大陸の律令制度で、天皇(スメラミコト)が政治の表に登場する時代は終わり、摂関政治をはじめとする政治の実際的権力者の時代に移っていきました。これは同時に代替わりごとの遷都の必要性も無くなったことを意味するので、式年遷宮の制度を定めた天武天皇とは、やはり相当時代の画期を明確に意識していた人だったようですね。 当時すでに大陸から仏教とともに大陸様式の建築法が伝来しており、法隆寺の創建は今の伊勢神宮よりおそらく古いのです。そして法隆寺は1300年前の姿を崩壊もせずに今に残しているわけで、もし天武天皇に永く伊勢神宮を残そうとする意志があれば、大陸風の瓦葺、石畳の社殿もありえたでしょう。それをあえてせず、わざわざ20年足らずで朽ちてくるのがわかっている古来の高床穀倉様式にこだわり、式年遷宮を定めたのは、やはり天武天皇自身が叔父甥の間で争って勝ち取った王権の意味を、後の世に残すためだったでしょう。 何だかまた前の話の繰り返しになってきました。歴史を考えるよすがとして、伊勢神宮の聳え立つ千木がいつにもまして新鮮に見えたので、こんなことを書いてしまいました。 ― おわり ―
2007.01.05
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明けましておめでとうございます。 今年が私たちにとって、良い年でありますように。 さて、新年にちなんで、というわけではありませんが、お伊勢さんの話をしたいと思います。 以前にもふれましたが、日本の古代のニオイを嗅ぐなら「伊勢神宮」に行くに限る。 伊勢神宮は中に入ることは許されず、また全景を撮影することも禁じられているので、塀の外から望見し、あとは図面などで想像するしかないのですが、その起源といえば、弥生時代来の定置農耕社会にとって、もっとも大切な建物であった穀倉庫「高床式倉庫」、これは神奈川県で復元された遺跡ですが(それにしても、すごい復元ですね、掘立柱も藁屋根もたわんでる)、一見して神明造といわれる、もっとも古い神社建築様式の伊勢神宮社殿が、高床式倉庫の直系であることがわかります。 伊勢神宮の建物の特色は、掘建柱・切妻造・平入(入り口が棟方向に開いている)の構造で、円柱と鰹木(カツオギ、屋根の上にのせた丸太の補強材)を除けば、すべてが平面の板で形作られ、きわめて直線的な簡潔さを印象付けます。その印象をさらに強くしているのは、神社建築の看板でもある、両側の切妻から交差して飛び出している千木(チギ)、簡潔さを旨とする伊勢神宮といえども、千木には金色の装飾金具が施されて、実際に見ると思いのほか華美な感じがします。 とはいえ、いくら装飾されていても、もともと千木が棟木(屋根を乗せる横木)の上に乗っかって妻側の屋根を支える構造であり、鰹木が屋根の頂上部を覆う板を上から押さえて、萱葺きや板葺きの屋根が飛ばないように、補強した部材であることは明らかです。下図参照して下さい(ネットで調べていたら出てきためずらしい構造図ですが、どこの出典なのか分らなくなってしまいました、すいません)。 こうした直線の織りなす簡潔さと力強さは、同じく古い起源を持つ「大社造」のカーブをえがいた屋根(大陸の影響でしょう)とは著しい違いを感じさせます。大社造の特色は、構造が田の字型の古典的な日本家屋であることから、穀倉庫由来の神明造と違い、古代の宮殿由来であるとされますが、現在の形が鎌倉時代以降のものであることから、この形が原古のものであったかどうかはわかりません。千木と鰹木もここでは完全に装飾としての扱いで、この社殿が時代とともに構造も変遷したことを表わしています。 したがって神明造の伊勢神宮との、一番の違いは何といっても、そのケタ違いの大きさで、現在の出雲大社の社殿の高さは約24m、かつて上古においては現在よりもはるかに高く、始めはおよそ96m、そのうちに48mとなったという伝承があり、同時代の東大寺大仏殿や天皇の御座所(大極殿)より巨大とされました。 その巨大さは、日本神話の例の大国主神が天津神に国譲りを行う際、その代償として天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい、と求めたのに由来するとされ、大和政権の平定時における出雲の勢力、あるいはその平定の仕方など、これまたいろいろあるのですが、それは別の話。 その当時の想像図がコンピューター・グラフィックスで再現されたりしていますが、異様に柱を高くした構造体のために、倒壊を繰り返したようですね。この巨大構造物に対する執着というのは、何かピラミッドやバベルの塔ではありませんが、古代人の定置農耕的感覚とは別のパッションがあるように思え、少し前までちょっとブームだった超古代的想像力を刺激しますが、そちらへの興味は今のところ、直接に日本の文化や心象に反映していないということで、ここでは取り上げません。 ― つづく ―
2007.01.04
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