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不可知性の闇 と、見てくれば、「不倫」というテーマが、なぜ古今東西の文学芸術で厭きもせず、何度も何度も取り上げられて来たのか、分かるでしょう。「エロース的情動」は生命の根源的事態であって、社会道徳とか規制が入り込む余地がない、純粋に当事者のみが「引き受けざるを得ない事況」なのだということなのです。 「禁じられた恋=不倫」は、その「絶対的背理性」の動態によって、人間の心の奥に潜む、どうにもならない「邪悪性」を明示するのに、とても便利なシチュエーションなのです。 このあたり、このドラマはまことに「虚実皮膜」の狭間をたゆたうように、実際にあった基本的な出来事はキチンと押さえつつ、優れた「虚構性」を構築して、「明示的」な真実を開示しようと企てているように見える。私がここの初めのほうで、三島由紀夫の話をしておいたのは、まさしくそういう展開が期待できたらなあ、と思っていたからで、内心どうなることかと実はドキドキしていたのですが、書いておいて良かった、huhuhu … 。 それにしても、糸子の相手役周防の人物像は、他のどれもはなはだハッキリしたキャラクターに比べて、最初からずいぶんボヤかした描き方をしていましたね。何となくドラマのトーンじたいも、(昼メロふうに)変化したような印象を誰しも受けたでしょう。 しかしこれもまた、このエピソードを取り上げるときに、最初から仕組まれた演出であったか、という気がしてきました。要はこれは糸子の目、あるいは心象風景を通した周防像なのだと。糸子の心にはこのように記憶され回想されているのだ、ということなのでしょう。ということは私たち観ている側が、まさしく周防から受ける謎めいた典型的な二枚目像こそ、糸子の記憶として刻印されているということです。 私たちは、しばしば失ったものを「美しく記憶に止める」ということを、無意識に行うものであるらしい。で、「美しく記憶する」ということは、より多くのことを「記憶から消し去る」ということと同義で、であるからこそ、周防の立ち居姿は、どこまでも生身の人間から離れていくのです。彼の生身の生活は、彼の家族風景を見せれば、たちまち明らかになるはずですが、それをしない。しないということは、糸子がそれを望まなかったということを表しています。 とはいえ、そこはドラマですから、数秒ではあるけれども、周防の子供が糸子の家を覗くシーンが挿入される。視聴者には「現実」を示唆しつつ、それの目撃者が娘の優子であったことによって、糸子はそれを知らないことになっている。このあたりもかなり手の込んだことをしてますね。 ところで、こうして周防像の話をしていると、これまでに登場し、かつ舞台から去って行った男たちを思い出してしまいます。はたして父善作も勘輔も夫勝も泰蔵も、どこまでクッキリした描像を私たちは与えられていたのか?クッキリしていると思っていたのは、私たちの想像力の中でのイベントであって、自分たちが勝手に合点しているほどに、彼らはクッキリした人物像を見せていたのでしょうか? これらもまた糸子の記憶に刻まれた映像なのだとすれば、多かれ少なかれ彼らもまた周防と同じく、曖昧な記憶の霧の中に消えてゆく。そしてそれはおそらく糸子の記憶と、ほぼ同じような道程を辿って消えてゆく、ということなのでしょう。 これは、現在まだ存命中(?)の三浦組合長についても言えるので、はなはだ謎めいた格言を周防に残したこの人物、何やら背後に一抱え以上の「物語」を背負っていそうなのですが、はたして今後出てくるのか否か? などなど見てくると、どうやらこの脚本、男=オスに関しては、すべからく「不可知性」の闇に、いったん追っ払って見てみよう、みたいな下心まで感じてしまうのですが、どうなのかなあ?― つづく ―
2012.01.31
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「幸せ」の在り処 子供が是非善悪を越えた地点で「本態的に、親をかばう」ように、「エロース的情動」もまた、社会道徳とはまったく別の事況で出来する。「恋」というのは我から求めて出来するのではなく、まさしく外部から自我を溶かし込む形で「到来」するのです。この場合、お互いの社会関係的な事況はいっさい関係ない。そうしたものとは別の世界から、ふいに「予測不能な形」でやって来る(まさしくキューピッドの矢は、子供の「気まぐれ」そのものなのです)わけで、純粋に対相手(二人称)だけとの関係性なのでしょう。 これが発動している間は、周囲の娑婆の時間はいわば止まっている。「目線」を交わせば、自ずから笑みがこぼれる。その笑みが相手の笑みを呼び、さらに「幸せ感」を増幅する、という経路を辿るのでしょう。恋人同士の会話が、しばしば周囲からは「意味不明」で「聞いてられへん」のは、彼らの間では「好きよ」「僕も」というコトバの交換じたいが、「幸せ感」を構成しているであって、語っている中味はもとより関係ないからでしょう。 したがって、「エロース的情動」が、人妻であったり妻帯者の男に対して発動するのは、対象が「たまたま」そういう形で「到来した」のであって、これを「前もって選ぶ」ことは、誰にも出来ません。糸子は周防が独身であろうが、妻帯者であろうが関係なく、不可避的に「恋に落ちた」のです。 こうした事況にあるとき、周囲からの「社会道徳」的な非難や罵倒はまったく無力で、むしろそれらは二人の関係性をより強化する表象として立ち現れる。「あなたさえ、そばに居ってくれれば、うちは何言われたかて耐えられる」とは、世間の禁止が高くなればなるほど、「恋人」同士の絆は逆に堅くなる、という摩訶不思議な情動のメカニズムを現していますね。 こうした情動の果てが、何がなし「非人間的」な毒を予感させるのは、彼らの「欲望」の究極が、世界を遮断し時間を止めようとする方向に向かっているからです。そうした「恋」の在りようを端的に示したのが、G・クリムトの「接吻」とか、G・マーラーの「アダージェット」でしょう。ドラマ的にこれをもし貫徹しようとするならば、必然的に「失楽園」とか「トリスタンとイゾルデ」のように、「愛の死(破裂)」を遂げるしかない。 世間的非難や罵倒に微動だにしなかった糸子が、なぜ恋の「清算」に向かったのか(憑き物が落ちたのか)?それは土曜日の展開で、まことに美しく描かれていましたね。― 「ウチは、あんたを(永遠に絶対的に)『幸せ』に出来へんのやね」 ― 外部からの禁止には、いくらでも抵抗出来た糸子の心は、「幸せ」であるべき周防の表情が、そうであることが絶対的に不可能であることに気づく。「恋」の備給が、むしろ相手をますます困惑させ、その渋面が自分の困惑となって交互に増幅する、という真逆のメカニズムが作動するのです。 ここで大事なのは、これらの情動の変化に外部的な要因はいっさい入り込んでいないということです。一見、相手の家族(妻、子供)や自分の家族(子供)が、破綻を押し止めた原因だろうというふうに見えますが、じつはそうではない。「笑み」が「笑み」を呼んだように、「困惑」が「困惑」を呼ぶ、まさしくそうした「二人称の事況」において「恋」は去る(金色の矢は、鉛色に変わる)のです。 この解決編、人によって感想は様々でしょう。 おそらく、「実際は、そんなもんと、ちゃうで」と、したり顔で言う人が多いのでしょうが、じゃあ「実際」をそのまま追いかけていって、何か面白い(前向きな)ことが出て来るのか?と言えば、どうもそういうわけでもない。グチャグチャの「現実が、その本体を露出する」だけ、ということになるのでしょう。 私は、これくらいの「明示性」で始末した、この脚本と演出を支持しますね。― つづく ―
2012.01.30
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「虚実皮膜」の狭間で、 … 今日の終わり方を観ていると、小篠家の来歴とドラマとしての整合性というギリギリのところで、はなはだアクロパティックな括り方をしていて、よく作り込んだ筋書きだと思いますね。史実は外さないが、ドロドロ・メロメロにはしない。朝ドラとしては、このあたりが妥当な着地点とすべきなのでしょう(これを観てから、朝電車で出勤する人も多いわけですから)。 逆にあまりに、きれいに整序されてしまうと、「何や、これ?」ということにもなるのですが、そうでもなくて「不倫」の話は終わったけれども、糸子の未熟者としての「気付きの旅」というテーマは、まだまだ続くというところは、キチンと押さえてある。 お金で何でも押さえ込もうとする糸子の手からは、まさしくその身振りによって、こぼれ落ちていくものがある。そして、それに彼女自身が薄々気付いている。周防に用意した豪華な仕事机は、自身の心の不安を何とか消すためのものでしたが、それを見つめる周防の表情が、糸子に自分が何を隠そうとしているのか、無残にも露わにしてしまうのです。 彼女は昨日もそうでしたが、どうしても時々の自分の気持を「裏切ることが出来ない」。正邪を問わず、心を「鎧う」ことが出来ない人ですね(まるで、子供みたいに)。ここの気持の切り替え(「周防さんに月賦で、売り飛ばしました」)と別れの切なさ、並みのドラマなら濃厚なラブシーンとなるところですが、いかにもサラッと済ませている。私的には、もうちょっと「切なく」という感じですが、まあそれは横に置いといて … 。 話は変わりますが、昨日の子供の土下座シーン、これも秀逸。子供は親が社会道徳的な非難を浴びたとき、どういう態度を取るか。こういう時、子供は親のほうが何となく悪いと分かっていても、必ず親を「かばう」のです。よく心理をつかんでいる。 昔、「朝ごはんを食べてこない子供たち」という問題が盛んに議論になったことがありました。このとき「なぜ、朝ごはん食べてこない?」と学校の先生が聞いたとき、「お母さんが、作ってくれないから」と言った子は、一人としていなかったそうです(今は知りません)。子供は自分の親が、何とはうまく説明できなくても、何となく社会道徳的に「悪い」ということを感知している。感知しているからこそ、口が裂けても「親が悪い」とは絶対言いません。 なぜなら子供は、度々の詰まり、最後の最後で自分を庇護してくれるのは、「社会道徳=正義」の側ではなく、「親」であることを身体感覚的に知っているからです。そもそも「社会道徳」は、自分の命に換えて、子供を救ってはくれません。というより、そもそも「社会道徳」には、そのような規制はないのであって、こうした事態を整序する機能は持ち合わせていないのです。こうした事態とは「生きて行くための本能」ということです。 このあたり、小篠三姉妹は実際に土下座したのだから(事実なのだから)しかたがない、という書き込みが散見しますが、もしそういう仕方でこのドラマを観ているのだとしたら、上の例を見れば分かるとおり、その時点で視聴者は自身の心から、あえて眼を逸らしていることになる。「事実なのだから」、「そういう時代だったのだから」という身振りでドラマを観ようとした瞬間に、ドラマは他人事の安心感に閉ざされて、「真実」を開示しなくなるのです。我が身の子供の時の体験、あるいは(目の前にいる)子供の振るまいかたに、ちょっと眼を向ければ、この土下座シーンが「何であるか?」にすぐ気付けるはずなのですが。 小篠三姉妹の来歴をいくらほじくり返しても、そこからはスキャンダラスな下卑た好奇心をくすぐるだけの中味しか出て来ません(その時、観ている側は、はるか「心理的な安全地帯」に身を置いているのです)。 「真実」を観ようとすれば、観る側はわずかに「想像力の翼」を解き放って、そこから垣間見える「危険地帯」に飛翔しなければならない。で、その飛翔の安全を保障するのは、そこに構築された世界が、すべて「虚構」であるという信憑なのです。 と、また、ちょっと小難しい話をしてしまいました。すいません!― つづく ―
2012.01.28
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「ギリシャ悲劇」のような、畢生の名場面! ひょっとして本編の最高傑作のシーンになるのかもしれません。 「絶対的背理」の中におかれて、なおかつ自身も他者も「生かす」道を、一歩も引かずに「引き受ける」。これまで何かと批判のあった周防の来歴(原爆症の妻を抱える夫という設定)についても、それはむしろこの「絶対的背理」に、糸子を追い込むためのまるで伏線であったかのようです。 松坂の叔父が言うのも、勝の弟が言うのも、近所のオッちゃんが言うのも、従業員の昌ちゃんが言うのも、すべて正論。しかし、そのすべての言い分に、決定的に欠けているのもがある。それはまさしく糸子が勝や父善作のことを持ち出された時の答え。― 「悪いとは思うけど、この人たち、もう死んでますやん」 ― そうなのです。死んだ人たちは、生きている者たちの「現実」を、いかなる意味でも「引き受けてくれない」のです。それはたんに他者を糾弾するのに、生きている側が「利用」しているに過ぎない。こういうのを「死者を墓場から呼び起こす」というのです。死者は常に生きているこっちの都合で、掘り返されたり葬り去られたりしている。 では、そのほかの批難に対しては、糸子の口は閉ざされるのか?「社会道徳」を受け入れて、一生バカな女の烙印を背負っていかなければならないのか?こういう事況に追い込まれた時、すべてを納得させたり、丸く収めるというようなことは、元より不可能。横から「お前が悪い」と非難罵倒するのは簡単ですが、その「結果の責任を誰も取るわけではない」。 肝心なことは、出来した事況に対して、ここでさまざま批難を口にする人たちは、誰一人「引き受け手にはなり得ない」ということなのです。あたりまえです(糸子の出来させた事態なのですから)。 しかし、糸子は自分の本当の気持を「裏切る」ことは出来ない。それはその前の松田との会話のシーンと、その後の周防とのラブシーンで、すべて出ていましたね。松田が「北村の金を、周防と組んでくすねた」という噂をした時、糸子はキチンとは反論しなかった。明らかなガセネタであるにもかかわらず、なぜ反駁しなかったのか?答えは簡単で、北村からはもっと重大なもの(新事業の展開という)を「壊した」という疚しさがあったからでしょう。同じように周防とのラブシーン(世にも美しく、切ない糸子の顔)では、二人がすでに「契り」を結んだ仲であることが暗示される。 要は、どちらの事況に対しても、その時の自分の気持を、後から偽ることはしない。というより、何度も言うように、おそらく彼女にはそれが身体感覚として出来ないのでしょうね。 自分の気持はキチッと「態度表明」し、その結果は甘んじて「丸ごと受け入れる」。いつぞや「嫌うなら、何ぼでも嫌うてくれ」と涙ながらに呟いていた糸子の態度は、今となってみると「開き直り」でも、なんでもない。どれだけ罵倒されようが、「引き受けるのは、私なんや。せやから、何ぼでも勝手に言うてくれ」ということだったのでしょう。 それにしても、こういう言わば「人民裁判」のような激しい衝突の場面を、避けようのない「必然」として進行させる脚本と演出と演技の力、たいしたものです。大げさに思われるかもしれませんが、何だか「ギリシャ悲劇」を観るような古典的匂いを、味わった気がしました。「絶対的背理」に向かって、あたかも神々の摂理のような「必然性」で破局が到来し、そしてその後に強い「昇華作用」を起す。これこそ古典劇の真骨頂なので、私がずうっと待ち望んでいた場面でもあったのでした。アッパレ!― つづく ―
2012.01.27
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糸子と奈津の関係は、本当に対等(チャラ)なのか? これは前にも触れたのですが、奈津が無意識に潜む「母性的愛の枯渇感」の裏返しとして、本当の中身を隠す鎧のような高いプライドを維持し、さらにそれを補強するような形での「救い難い『面食い』(美男を横に侍らすことは、自身のプライドを飾る記号として作用するのです)」であったことは、すでに糸子からも指摘されていたのでした。しかし、その居丈高さは「失うものが、すべて無くなってしまった」今となっては、もう維持する理由がない。したがって、何がなし小物的ではあるけれど「まるごと受け入れてくれそう」な男を、今は認めることが出来るのでしょう。 とはいえ、私たちは糸子と常にライヴァル関係にあって、正面から「シャキッと、しいよ!」と面罵できた奈津がなつかしい。 たとえパンパンに身を落としても、糸子とは別の悔しさと説明しようのない「怒り」だけをバネにして、まったくの孤立無援状態で、売春だの薬だの敗戦直後の混乱した日本の最底辺の諸相を経験する(これはまさしく、勘輔が見た大陸の風景と同じく、岸和田の街との両立不可能性を含んだものです)。で、なおかつ、人の手を借りることだけは一切せずに、いつの間にやらキタかどこかの有名クラブのオーナーに収まって、20年後ぐらいに糸子とバッタリ再開する、なんてシナリオだったら好かったなあ、と思うのは私だけでしょうか? で、その時「私がここまで生きて来れたのは、あなたのおかげよ」なんて、奈津がどんな表情で糸子に話するのか、その顔だけがすべてを物語っている、なんてものすごいスリリングな場面じゃないですか?そんなことを空想させるくらい、彼女と糸子との友達でも他人でもない(しかし、絶対無関心ではいられないという)関係性には、今までの日本のドラマでは観たことのないユニークさがあったのです(私見ですよ)。 とはいえ、実際のドラマでは、どうやら奈津の物語は、このあたりで「幕引き」のようですね。あるいはひょっとすると、また出て来るかもしれませんが、いずれにしても、彼女たちの真の意味での「対等な関係性」というのは、すでに失われていて、もはやどうにも修復しようがない。それはここ最近の、すっかり丸くなってしまった奈津のおとなしい姿に現れているでしょう。 こういう関係になってしまったのは、繰り返しになりますが、奈津の借金の保証人を糸子が引き受けたことから始まっているのです。糸子のつもりでは、自身の結婚式の借りを返したということなのですが、金銭というのはそれ自体は「価値中立的」、つまりただの紙きれであっても、用い方によっては人の関係を(奈津のことさらな引け目と、糸子の過剰な気遣いという形で)決定的に不均衡にする。そのあたり、お金が「呪い」の道具として機能する場合もあるということを、糸子はどれほど気づいているのかなあ? 彼女の周囲からは、真に対等な関係で面罵できる人が、居なくなってしまったのです。 で、ついでに言うと、このドラマ製作者じたい、そのあたりの「金銭貸借」の問題をどのように考えているのか、ちょっと心配なところがあるのです。糸子の太っ腹で、でしゃばりな性格を見せるのに、金銭をおおっぴらにかますのには慎重であってほしい。まあこの後に、それに絡めた大きなドンデン返しを用意しているなら話は別ですが、このままだと観ている側(特に子供)に、誤ったメッセージを送る怖れ無しとしないのです。 じつをいうと、それはここ最近話題沸騰の「不倫」問題より、はるかに子供の教育上に重大な要素を含んでいる、と私など思っています。金銭がそれじたいは「価値中立的」、つまりただのモノ(紙切れ)であって、商品の交換に使われるべき「記号」として機能しているぶんには、何の問題もないのですが、ひとたび貸借とか利子とか人の思惑が関与しだすと、途端に魔モノの様相を呈することがある。 このあたり、どこまでホントに分かって作っているのかなあ?― つづく ―
2012.01.26
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「言明」という、「態度表明」 こうした「いつでもどこでも、自分をすべて見守ってくれている(だろう)何ものか」に向けたような発語の仕方というのは、言わば自分自身を納得させるための一つの方法であり、簡単に言えば、「ここに言明した事柄を、私はすべて『引き受けます』」というような、糸子の態度表明であったでしょう。 「嫌うんやったら、何ぼでも嫌うてくれ」というのは、まあ強弁ですが、それでもそれを涙ながらに言っていたのが、かつての糸子でした。それを回想する糸子は、未熟者であった自分自身を、隠さずに「真正直」に語ろうとしているのです。 と見てくると、これらは先に触れた小篠綾子さんがクリスチャンであったということ、そして自叙伝に自らの「不倫」について(どういう表現であるにせよ)触れていたという話と直結してくるのです。 このドラマが事実そのものを描いたというより、小篠さんの考え方の「構え」に対して、それをかなり「真摯」に受け止め、朝ドラというまあ制約をともなう枠組みの中で、相当練り上げて作りあげようとした姿勢が見えてきません?細部の作り込みや演出に多少文句はあっても(ホンマに!)、やはりそこのところは評価しなければならないでしょう。 ここ最近、「不倫」に対する糸子の態度がなってないとか、観てられない(厳密に言うと、まだ始まってないのに)といったネガティヴな書き込みがあるようですが、私はそうは思わない。それを今言うなら勝の「浮気問題」もなぜもっと糾弾しなかったのか?という話になってしまいます。 さっそく「それは、時代がそうだったのだから(しかたがないじゃん)」という反論が返って来そうです。じゃあココ・シャネルのような生き様はどうなんだ?と聞けば、きっと「あれは、『外国』の話だから(価値感が違う)」と来るのでしょう。では時代とか外国とかいう理由で、「あれとこれとは、話は別」と言い分けるあなたは、いったい何を以って自分の判断基準としているのか? たんに平成の世の価値基準を漠然と「善し」としているだけではないか?今の世間的価値観に何となく同意し安住しているだけで、改めて自身の在りように「問い」を立てたことがあるのか?じゃあ、時代や場所が違ったら、無前提に別の世間的価値観を受け入れて、軽々と乗り換えて行っても「善し」なのか? となれば、それは例の澤田さんのマインドと一緒ということになってしまう。時々の世間的価値観(風、ムード)に取り分け敏感で、それに真っ先に順応して自身の権威性の衣装にし、ひるがえって他人の価値観を一意的に衆をたのんで糾弾する。そのほうが楽だから。だって、時々の世間的同意の中に身を置くということは、いつも「絶対多数」の安全地帯に居て、責任を感じることなく思い切り他者=異物を罵倒出来るわけですから。 「強面にまとったその衣装の中味は何なんですか?(空っぽでしょう)」と糸子は迫っているように見える。 空っぽでない「ブレない我」を立てようとすれば、価値判断は取りあえず横に置いておいて、まずは、それぞれの時況での自分の感性を「偽らない」こと、そして時々の自分の在りようを、後で「真正直に、すべて言明しておく」ことが先なのです。で、その結果に対する批判や忠告は、これは甘んじて「すべて引き受けます」ということなのでしょう。 う~ん、やはり糸子の「真正直さ」の顔は、対世間ではなく別の方向を向いてますね。― つづく ―
2012.01.25
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糸子は誰に向かって、語りかけようとしているのか? このドラマは糸子の一人語りで進行しているのですが、時々彼女はいったい誰に向かって語っているのだろう?と思ってしまうのです。 すでに多くの感想にあるように、私たちはタテタテヨコヨコと綿密に張りめぐらされた人生絵模様の中の、岸和田の洋裁店主小原糸子の人生に、たまたま「焦点化」したような物語に立ち会っているわけです。これは例えばGoogle Earthのようなとてつもなく高い眺望を背後に意識しつつ、任意の時と場所を選んで拡大したような視座といって好いのですが、では当の糸子は誰に向かって語りかけようとしているのか? ドラマですから、一意的には視聴者だろうということになりますが、例えば「日記」ならばそれを後々読むかもしれない未来の自分を措定して書くわけでしょう。しかしここの語りかけの印象はそういうのとも違うし、未来の娘たちに向かってのものでもなさそうだし、語り口からいって、亡くなった父善作や勘輔へ向けてというのでもない。 となると考えられるのは、先ほどのこのドラマを観ている私たちが、まさしく背後に感じている高々とした視座に向かって、あるいは糸子は語っているのではないか?すべてを見守っていてくれる(だろう)「何者か」に対する「語りかけ」を、私たちはさながら、「途中で傍観している」という構図が見えて来るのです。 では語っている糸子本人は、今現在進行中の糸子なのかと言えば、そうではない。すべて過去形で語られているわけです。ということは、これは後々の糸子、すなわち「回想」形式の語りであるということなのですが、では我が身の人生を振り返って語りかけようとしている相手は誰なのか?と考えた時に、容易に浮かんでくるのが、例えば「神(The God)」というような観念でしょう。 しかし、そうした一神教的な観念を用いずとも、先ほどのGoogle Earthのような視座を想像すれば分かるように、拡大していけば地球上のいかなる場所も時代も、ありありと見渡せるような(つまり、すべてを見守ってくれているはずの)視座を措定すれば、彼女の語りかけの(自分自身でもなく、娘たちでも亡父でもない、要は地上界に向けてではない)独特な話し方も腑に落ちて来るわけです。 で、ここで大事なのは、Google Earth的な視座を用いれば、地球上の「いつかの、どこかの、誰か」に「焦点化」していけば、どこまでも我々はそれに立ち会って行くことが出来るけれども、逆に地球上(全宇宙と、言っても好い)のすべての事象を、一挙に一望俯瞰的に、かつその細部までを「瞬時に、すべて見渡す」ということは、私たち人間には絶対出来ないということなのです(あたりまえです)。 それが出来るのは、例えば「神(The God)」と西欧社会が措定するもの、あるいは「超越者」とか「絶対者」と言われる存在なのですが、よく考えてみれば、そういうものが本当に存在するのかどうかというのも、じつは誰も分からない。そうした「超越的なるもの」は、語りかけるこちら側が「在る」と「信じない限り」存在し得ないのです。 つまり、こうした「発語」の仕方は「絶対的なる何ものか」を「信じない限り」、誰も出来ない語り方ということになる。かと言って、じゃあ一神教社会ではない日本人には、それが出来ないか?と言われれば、どうもそんなことはない。「相手先不明の発語」というのは、日本のドラマや小説では、ごく頻繁に現れるでしょう。 となると、こうした発語形式というのは、宗教形態とは関わりなく、生き物としての人間というのが、もともとそういう仕方ででも、時には話さずには居られない存在だ、ということを示しているのではないか? 「そういう仕方」とは、「何でも知っている相手」あるいは「いつでもどこでも、自分をすべて見守っていてくれている相手」を、仮にでも念頭に置いて語る仕方というようなものの事です。 ちょっと、難しいかなあ。― つづく ―
2012.01.24
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最近ちょっと不思議に思うことの一つに、「カーネーション」に関するマスコミの記事とか話題が、新聞はじめテレビ週刊誌にほぼまったくと言っていいほど、出ていないということなのです。NETの書き込みがバカみたいに過熱しているのを話題にしないのはおかしい、というような話ではなくて、何やら組織心理的なネグレクトを行なっているのではないか? 私の見るところでは、「週刊新潮」の小欄でどなたかコラムニストが絶賛されていたぐらいで、とんと話題に上らない。いつも視聴率順に話題の番組を取り上げるテレビ番組でも、「カーネーション」だけは完全にオミット。私は関西に居るので分かるのですが、地元民放バラエティでもあえて避けて通っているのがバレバレ(先日、駿河太郎をゲストに迎えた局の話です。司会もホスト芸人も、ドラマの中味については一言も触れない。同じ大阪芸人で、観てない訳がないにもかかわらず、です)。 なぜそうなるのだろうと、一応これのひいき筋という立場を離れて、いろいろ詮索しまいます。 一昨年でしたか、「ゲゲゲの女房」の時は民放各局までが、「丸乗り」でブームを煽っていたのとは大違いでしょう。で、「ゲゲゲ」に丸乗りしたのは、明らかにそのほうが視聴率を取れると踏んだからでしょう。なぜ視聴率が取れるのか?答えは簡単で、モデルの布枝さんが誰からも好感を持たれる人だったからです(何も布枝さんを、くさしているわけじゃないですよ)。 逆に言い換えれば、今回のモデルについて、これが一意的に万人受けするタイプとは、マスコミは明らかに見做していないということを示していることになる。 しかし、何度も言うように、この一意的な人物評価、ものの見方を一切しないという、この「構え」こそこのドラマの真骨頂なのでしょう。主人公を含めて、すべての人物像が歴史の網目の中で、「相対化」され未熟未分化された状態で描かれる。これを指摘するコメントがないのです。 私はこの「万人受けしない(だろう)」というマスコミの判断の中に、じつは「このモデルを、どう取り扱っていいか分からない」という逃げの心理が、底意として働いていると見ています。そういう「判断停止」の心理を「視聴率」とか「発行部数」という大義名分にすり替えて、自分たちの立ち位置を「なるべく表明しないで、済ませられるように」組織心理的にネグレクトしている、ということだと思う。 その心理は例えば、シンクロナイズの井村元コーチとか前衆議院議員の鈴木宗男氏などに対する取り扱い方とよく似ているでしょう。要は、俗に言うところの「キャラの立つ人物像」というのが、マスコミは苦手なのです。 なぜ、そうなのか?その答えも簡単で、こうしたキャラの立った人物を取り上げようとしたら、取り上げるほうの立ち位置も同時に明らかにせざるを得ないからでしょう。当人をどう評価するかが、同時に「自分たちの判断力を試されている」という仕方で迫られるのがイヤなのです。 で、その原因が、小篠綾子さんに関して言えば、その開けっぴろげ(?)な「不倫告白」の評価を、どう評価するのかということと、明らかにストレートに繋がっているわけです。ヘタな取り上げ方をすれば、「お前は『不倫』を奨励するのか(中国のコーチになった奴を、評価するのか?請託の有罪確定者をかばうのか?)?」というバッシングを覚悟せねばなりません。 とは言え、そうした立場表明を迫られた時こそ、むしろマスコミの識見を示す時でもあるはずなのですが、日本のマスコミはそれをようしませんなあ。 せめて一社あるいは芸能リポーター一人でいいから、×でも○でもまともな評価をしたら、まだ捨てたもんでもないのでしょうが、結局、せいぜい「不倫」というキーワードで、週刊誌ネタにまで話題を貶めて、逃げを打とうという腹づもりのようですね。― つづく ―
2012.01.23
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繰り返しますが、このドラマは「不倫」というテーマを、人間の心の奥に潜む「情動」の邪悪性という普遍的な問題を「明徴化」する材料として、あえて正面から取り上げようとしているのでしょう。それは何も「不倫」を推奨しているということじゃないですよ。何度も言いますが、現実社会では不倫も浮気も殺人もアカンのです。 芸術というのはそれが「虚構」であることによって、A・カレーニナやラスコーリニコフと想像的に付き合うことが出来る。したがってその際、カーネーションは実話だったからという判断も、いったん棚上げにしたほうが良い。 このことに関連して「不倫」にかんする、このところの書き込みの過熱ぶり。「実際にあったんだから、どうだ」とか「子どもに『不倫』は、どうも」とか、はなはだ下世話なレベルでの「熱い議論」が続いているのです。こういう関心の持ち方自体が、ドラマとか文学とか、要は「芸術」一般を享受する場合の「構えかた」に対して、基本的な誤りを犯しているような気がする(ベタな例をあげれば、「糸子が告白したんだから、私も勇気を出して妻子ある男性に告白しようと思います」なんてね。冗談としても、何というナイーブさ!あ~あ)。 前にも触れましたが、「芸術」というのは本質的に「虚構」によって、享受する者に「夢」とか「真実」を明示して、心に「昇華作用」を与えるものなのです。 それがたまたま実話に基づいているとか、リアリズム的に描いたドラマだから、話が不分明になっているのかもしれません。早い話、もし正真正銘の事実だけを、何一つ細工せずに並べていけば、それでそのまま「真実」を明示することが出来るのか?と言えば、決してそんなことはない。他人の一生をそのまま並べられても、それにお付き合いするなんて長すぎて誰も出来ないでしょう。 結局、「事実」とか「実人生」とかいったものは、ナマのままでは、ただたんにグチャグチャした「混沌」に過ぎない。それに何らかの「明示性」を与えようとすれば、まさしくその瞬間に「事実と記憶の選択」が行われている。これはどれだけ「事実」に沿った「自伝」であっても、ドラマあるいはドキュメントであっても一緒で、「事実の選択と合理化」がなければ「明示性」は持ち得ないのです。 話を芸術一般に広げれば、もっと分かりやすい。絵画に描かれてあるモノを「本物」と思う人は誰もいないわけで、それでなおかつ描かれている「虚構」が、観るものの心を動かすのは、人の「情動」が事実ではなく事実に基づいた「虚構」で動かされている、ということを示しています。 芸術という「非現実」が、あたかも「実在」するかのような「明示性」を獲得するには、作り手側の真摯さとそれゆえの妥協を許さないスタッフ同士の「ぶつかり合い」が必用なのです。「ウェスト・サイド・ストーリー」の冒頭二十分に現れた映像を観てごらんなさい。 ハリウッド一のリアリズムの巨匠R・ワイズと、求心的手法で知られたブロードウェイの鬼振付師J・ロビンスが、殴り合いのようにして作り上げたニューヨークでの野外バレエシーンは、それゆえジェット団のリーダーがバスケットボールをパスした瞬間に、現実から軽々とジャンプして、あたかも夢を見ているかのような、幻惑された「実在感」の世界に観る者を誘い込む。 そういうまことに不思議な「明示性」を示していて、観ている私たちは、あたかも「現実と夢の間を、行きつ戻りつしている」かのような、幻惑された気分に陥るでしょう。― つづく ―
2012.01.22
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今週はこのドラマの、特に「喜劇」としての面白みが秀逸でしたね。 「喜劇」と「笑劇」の違いは何か?と言われれば、要は作り手が「客に媚びて」ないかどうかの違いということでしょう。作り手が客の下卑た心象に擦り寄るような仕方で人を笑わせようとする時、その笑いは双方の人としての品格を劣化させるのです(笑えても、後味が悪いでしょ)。 それをそうでなくさせるのは、ひとえに作り手側の人に対する態度の「真摯さ」なのであって、そのためには一般に想像されるより、かなり高い「知的な構え」というのが要求されているのではないか?演技者にとって「喜劇」が「悲劇」より難しいとされるのは、たぶん「悲劇」は、まさしくナマの人間の在りようを、そのまま指し出すことで成り立つのに対して、「喜劇」は人間の在りようをいったん別の視座で「ろ過」したうえで、なおかつそれを敢えて演じてみせるというような、かなりアクロバティックな演技が求められているということなのです。 人(生き物)というのは本質的に「悲劇的存在」として、この世に在ると思うのです(これは私見ですよ)。で、その悲劇の根源とは、結局のところ人は「時間性の中にあって、絶対的に有限であること」、言い換えれば「有限であることが、生き物の本質である」ということを「知ってしまった存在である」ということに尽きるのではないか?「喜劇」というのは、そうした本質的な人間の「悲劇性」をいったん棚に上げて、別の視座から逆に、そこに「滑稽味」を見止めて笑い飛ばそうとする。たぶん、そうした「困難さ」なのだと思うのです。 ある意味、若干の「非人間性」を秘めて演じ切るという様態において、「喜劇」は「知的な構え」を必要とするのではないか? ちょっと難しい話になってしまいました。 昔、司馬さんでしたか「大阪人ほど、地元のことをボロクソに言う人種は見たことがない」とおっしゃってましたが、ここには何やら「我が身を、真っ先に笑い飛ばす」ことで、関係性とか対象を一挙に相対化してしまうという含みがあるように見える。自分を笑い飛ばしてしまえば、他人のことも遠慮せずに「笑える」じゃないですか(ついでに言うと、「自分から先言うたんやから、アンタに言われる筋合いはないんやで」という底意もあります)。 自身と相手を瞬時に「相対化」してしまえば、互いの虚飾が剥がれて本音が顔を出す。商売は虚飾では出来ないわけで、大阪の「笑い」とは、かつてはその商人的合理主義の産み出した、知恵の一環だったのかもしれませんね(ちょっと、ホメ過ぎかもしれません)。 例のC・イーストウッドの「グラントリノ」、お互いプア・ホワイトであるポーランド系の主人公とイタリア系と思しき床屋の主人が、互いの人種的罵詈雑言を口を極めて言い合う。そしてその「悪口の巧みさ加減!?」で勝負を決めるというか、時に喧嘩一歩手前まで行くこともあるものの、要はそれを「楽しんでいる」。まして他のマイノリティ(ユダヤ人、黒人、ヒスパニック等々)の悪口ともなれば … ということなのですが、この言わば「禁止用語」の氾濫を、カミシモを着てマジメに観る人は眉を潜めるしかない(糸子の罵詈雑言、舌打ち、DVの数々を観る時のと同様に)。 しかしこの映画は、ある意味「異人種(他者)同士の共生は可能か?」という、アメリカ社会の根源的課題を取り上げているのです。 イーストウッドはここで、観る側に「日常生活のカミシモを、いったん外してみたら」と誘っているのでしょう。豪も「登場人物と同じような、言葉遣いをせよ」とは言っていない(あたりまえです)。でもそこで日常をカッコに入れて一時棚上げにしてみれば、「想像力」は驚くほどの広がりと飛翔力を持ち得る。時に芸術が邪悪的なまでに、暴力とかセックスとかに固執するのは、それがそもそも「日常」から隔離されて「在る」ということを知っているはず、という観客への信憑があるからです。 早い話、現実生活では「浮気」や「不倫」や「暴力」はアカンに決まってる(あたりまえじゃないですか)。 享受する側がそうした「現実生活」を取りあえず棚上げにしている、ということを前提にしているわけで、だからこそマダム・ボヴァリーの不倫にも、ラスコーリニコフの老婆殺人にも、最後までお付き合い出来る、ということなのです。「観劇」を想定すればもっとハッキリするでしょう。舞台のセットを「ただの張りぼてじゃん」と言い出したら、芝居を楽しむどころじゃないでしょう。見物人はそれが本物(であるか)のように自らに「魔術」をかけて観ているのです。 つまり、芸術というのは享受する側に、現実をいったん棚に上げるという「成熟」した視座を求めている。芸術を真に楽しもうと思ったら、「大人に、成るしかない」ということなのです。― つづく ―
2012.01.21
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昨日あたりから、糸子は完全に「恋に落ちた」ようですね。 周防の話し言葉が、徹底して「長崎弁」であるのには、何かしら脚本家の意図が込められているのでしょう。一言でいうと、今までとまったく異なった「外部からの到来者」であることを印象づけるみたいな(まあ、もちろんそれ以外にも、長崎被爆者の家族持ちという伏線もあるにせよ)。 三浦にしても北村にしても(松田も)コテコテの「泉州弁」である、というまさしくその事況において、すでに彼らは糸子の守備範囲にある、つまり「空気が読める相手」なのですが、周防はまったくその要素が欠如しているという形で登場するのです。 当然、彼の訥弁を聞き取ろうとする姿勢を(糸子も視聴者も)余儀なくされるのですが、その周防の語ろうとしている言葉が、何やら糸子の「服飾に対する思い」を写し絵のように代弁していることに、やがて(糸子も視聴者も)気づく。ことさらにネイティヴな(したがって、他地方では聞き取り難い)長崎弁であることによって、コトバが別の表象を帯びて聴こえてくるのです。 これがもし、従来どおりの「泉州弁」で語られていた(早い話、北村から)なら、前もって「空気が読める」ために、その言葉の意味するところを、糸子は逆に「聞き逃していた」かもしれない。しゃべりコトバというのは、当人がしゃべろうとする中味より、そのものの言い方(空気感)のほうが、先に相手に届くものです。 同じ泉州弁であるために、前もってすでに共有された空気感が、肝心の中味を聴きそれを吟味するという気持を起動することを邪魔したかもしれない。長崎弁という「外国語」であることによって、コトバが素の状態で新鮮な響きを持って、糸子の前に立ち現れたということなのでしょう。 さて、男(勝も含めて)はおろか、同性においてさえ糸子的なものの考え方が、正確には理解されていなかったかもしれない糸子にとって、「話の分かる者」がこうしてまったく別の回路で出てくるのは、まったく予想していなかった。不意打ちのようにして現れた「異邦人」が、じつは「私の『志』を、ホントに共有してくれるかもしれない人」、しかもそれが、いわゆる「男のフェロモン!?」なるものを、色濃く発しながら現れたのであれば、女性は誰しも抵抗できない(三浦も北村も、たんに汗臭いだけ。松田にいたっては、糸子だけでなくほかの誰にも、ほとんど男と意識されてない)。 こういう、「意図してか」「意図せずにか」今のところ不明ですが、何をやっても男の色香をプンプン漂わせるタイプ(ブラピだの、ヨン様みたいな)というのは、確かにこの世にいるのです(女性群にも、おります!)。周防が最後に「小原さんに会いたかったから」と言ったのを以って、これが彼の口説きの「決め科白!」と罵るのは、ちょっと速い。現実問題として彼には家族の生活があるわけで、北村の会社に来たのは(給料が相場より高かった、ということと)糸子の服飾への熱意と商才が、自分のキャリアにとってプラスになると判断したからでしょう。 それを早合点して、勝手にコーフンしているのが当の糸子であって、「恋患い」というのは、本人が意識する以前に本人の無意識に先回りして顕現する。理由なく顔が赤くなったり、相手の仕草が気になったり、要はフツーの動作が阻害される。つまり、意識がそれを否定しようとする、まさしくその身振りにおいて、彼女はすでに「恋」の虜囚(矢の刺さった状態)なのです。 意識は事柄を時間軸に整序してくれるのに対し、無意識は時間観念を越えてランダムに意識下から発現して来る。糸子は「恋」かもしれないと覚知した瞬間に、これは時間に逆行したあらかじめ「運命付けられた」「決定付けられた」邂逅であると、感じたでしょう。 糸子の「自我」は完全に溶かされたのです。 ― つづく ―
2012.01.20
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先週のドラマのお題は、「愛する力」というものでした。 そこで、「恋」に対する「愛」という言葉の語感はというと、はるかに高々と抽象的一般的な拡がりがあって、例えば「師弟愛」だの「郷土愛」「人類愛」などといった言い方がなされます。これは主として明治以降入ってきたキリスト教的「愛」の観念から来るものかと思われますが、要は「恋」の語感にくらべると、「我から働きかけて行く」というニュアンスが強い。 糸子が玉枝おばちゃんに奈津の救済を頼みに行く時、気持ではなく具体的な「手」が必要だといっていたのは、まさしく「愛」というのが、こちらから「働きかける」身振りとして意識されていることを表します。この時、「自我が溶ける」とか「変容する」といった仕方では、「愛」は明らかに意識されていないでしょう。 「手」というのは、まさしくそれを相手に「差し伸べる」という身振りで、きわめて正確に「愛」の形を現しているのです。このドラマを観ていると、渡辺ふみという脚本家は、科白に時々こうしたきわめてニュアンスを込めた言葉を入れますね。「愛」は「自我を損ねる(溶解する)」という形では顕現しない。むしろ「自我」をより高い次元に引き上げるというような含意があるでしょう。言い換えれば、「愛」という言葉には強い「倫理性」が付与されているということです。 「エロース的情動」には、明らかにこのような「倫理性」は感じられません。ある意味、生き物一般に普遍的な態様としてあるものと理解したほうが早い。で、これまた誤解の無いよう注意しないといけないのですが、糸子は「エロース的情動」も含めて、生き物一般の普遍的な様態に関して、きわめて鋭敏な感覚を持っていただろうということなのです。 彼女の際立ったヴァイタルな強さは、こうした生き物一般の様態に、あきれるほど「正直」であるところから来ているので、その本源もまた父善作の存在が大きかったのではないか?と勘繰りたくなるのですが、しかし、この「父性性」に関する事柄は、私のつもりではかなり重大かつ厄介なテーマなので(なぜ社会的には失敗者なのに、「父性性」を維持できたのか?)、改めて考えてみたいと思っています。 ところでこうして、いろいろ考えてくると(ホンマに!?)、周防にあって勝になかったものが見えて来ますね。先に勝は「いつも、上機嫌で」、糸子の「内部」にみだりに侵入するようなことはしなかった。だから糸子の「自我」が損なわれるような事態は、少なくとも生前の勝との夫婦生活では起きなかったのですが、客観的に言って、この夫婦には「恋」=「エロース的情動」に当たるような関係性はなかっただろうということなのです。 しかし、かと言って、それが冷え冷えとした乾いた夫婦であったか?と言われれば、もちろん誰もそうは思わない。「夫婦」というのは、「恋」とか「恋愛」という事況では語り切れない関係性なのです。それはまさしく「夫婦愛」という言い方で表されるもの、つまり「倫理性」抜きでは測れない要素があるのでしょう。 糸子が勝に対して、あるいは「情動的継起」を発し得た機会が一回ありましたね。初めて夫婦で歌舞伎見物に行った時のことです。糸子はその時、勝の普段知らなかった「女あしらい」の鮮やかさに、「惚れ直した」という言い方をしていましたが、我々は片やで糸子の呑気さかげんに呆れる一方で、もし浮気問題が露見しなければ、彼らはけっこう好い夫婦関係を営んだであろう、自営業も順調に進行しただろうと想像してしまいます。 結局、浮気が露見したものの、それは「惚れ直した中身」を糸子が検証する以前に起こったうえに、勝は出征した後だったので、それを難詰するわけにもいかない(本人がいたら、絶対したでしょう)。さらにはそのまま大陸で戦死してしまったので、永遠に答は封印されたまま。人の死というのは、一切合財をいきなり「遮断」するのです。糸子がめずらしくため息をついたのも無理がないのでした。 しかしこれがもし、「エロース的情動」を経た夫婦であったなら、糸子は何が何でも愛人を探し出して、決着をつけたかもしれない、たとえそれが狂気に至る道であったとしても。コワ~!― つづく ―
2012.01.19
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昨日考えたようなことを、もう一度補完するつもりでWikipediaの「恋(恋愛)」を調べてみたのですが、もう一つピンと来ません。だいだいが「恋」と「恋愛」ではちょっとニュアンスが違うような気がする。 「恋」がどうやら厳密に、「対面している相手(二人称で、たいてい異性)」を対象とし、なおかつ、その「相手」にこちらが働きかけようとする「身振り」ではなく、まさにその当の「相手」によって、自我が「心地良さ」の幻惑をとともに「溶解」して行く形で、「外部が、内部に侵入して来る」というのが、「恋」というものの作用動向だろうというのが、昨日の話なのでした。 「恋愛」とい言い方には、その自我溶解の過程は終わって、すでに「お互い同士が、求め合う」という性愛の兆候が含意されていると思うのです。まあいずれにしても、「恋」という言葉が発するニュアンスには、かなり身体的な感触がありますね。 古代ギリシャでは「愛」の在りようを四つに分けて、エロース(性愛)、フィリア、(隣人愛)、アガペー(真の愛)、ストルゲー (家族愛)と呼んでいたそうです(エロースとアガペー以外は、今回初めて知りました)。「恋」はまさしくその「エロース」にあたる観念なのですが、神話に現れるエロース神は弓矢を携え翼を持った幼児(古くは、青年)という表象で描かれます。 ローマ神話にいうところの、ご存知「愛のキューピッド(クピド)」にあたるのですが、Wikipediaに「受苦として起こる『愛』を意味する普通名詞が神格化されたもの」とあるとおり、エロース的「愛」は「受身」であるのが特徴で、しかもそれが「受苦」として捉えられているということ、つまり必ずしも「恋の鞘当て」は幸福をもたらすのではなく、むしろしばしば人を「苦痛に陥らせる」もの、あるいは「迷路に誘い込む邪悪性」を秘めたもの、という含意があるような気がする。 キューピッドの矢が刺さった者は、たとえ神々であっても、自身を理性で統御できない。それほどに、この「情動」の激しさは、危険を隠し持っているということを、古代ギリシャ人はよく知悉していたのです。 糸子が明敏に察知した「恋に落ちる」ことの危険もまた、これに類したところでの危機意識であって、仮に周防を「好き」になってしまったら、おそらく仕事も家族もグチャグチャになるだろう、世間体も道徳倫理もすべて放擲してしまうだろう、という予感をその細部までありありと見通していたに違いない。 そしていちばん肝心なことは、「恋」という情動が、糸子がこれまで作り上げた絶対的当為であるべき「自我」を「溶解するもの」、自身を「コントロール不能」にしてしまうものとして、自分に作用して来るだろうというのが、もっとも認め難い点なのではなかったか? したがって、このところの書き込みで、「不倫」問題がかなり賑やかでしたが、糸子にとってそうした世間的なモラルというのは、必ずしも重点的ではないような気がするのです(まるきり無かった、とは言いませんよ)。あくまで、我が身(自我)を毀損して到来するものとして、この「エロース的情動」の在りようは危ないと見做したのだと思う。― つづく ―
2012.01.18
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私的に何となく面白くないので、先週来あらたに始まった糸子の恋について考えています。前に「恋に落ちる」とは、「自我の溶解=他者への目覚め」なのだ、という言い方をしたのですが、先日の周防とのシーンを思い出してみると、これが糸子にとっての初体験の事態だったというのが、なかなか微妙に描かれていて、ちょっと救われたのでした。 彼女にとって「自我」というのは、物心ついて以来、疑問の余地ない「絶対的当為」として在ったのですが、それはたぶん父善作が、いつも岩のように彼女の前に在ったからでしょう。対象がこのように明晰である場合、糸子は我が身を振り返る必要がなく、全力を「前」に集中することが出来る。 ところが、それがはなはだ明晰でない仕方で、糸子の前に最初に現れたのが勝で、彼女にとってそれが「気色悪い」経験であったのは、前にも触れた通りです。しかし勝というのが「いつも上機嫌」で、糸子の中に善作のような仕方で介入してこなかった結果、彼は糸子にとって「自我」を脅かされるものとは認識されなかった。むしろ「こういうのも、好いやん」という感じだったのではないか?ハルばあさんの「あんた、使用人雇たわけちゃうやろ」というのは(まあ、何とも口さがない、物言いですが)、言い得て妙なのです。 では、今回の周防との邂逅はどうだったのか?それはまず「絶対的異物」として糸子の前に現れた。長崎弁とはまるきり取り付くシマのない「異物」としての対象の感じを象徴しているのです。しかしその「外国語」を聞き取ろうとしながら、糸子は自身が別の境位に立ちつつあることを、その動物的嗅覚によって感知する。糸子はもともと生き物としての嗅覚は、人一倍強い人なのです。 彼女が二階で周防としゃべるシーン、前を向いた糸子の姿が右寄りに配され、背中に当たる左側が大きく開いている。これは彼女の不安感を漠然と表しているのではなく、眼は周防の方を見ているけれども、彼女のセンサーは「見えない背後」、すなわち我が身に向けられている、ということを表わしているのです。 なぜ、すべてのセンサーが「見えない背後」に向っていくのか?それは彼女の嗅覚が「絶対的当為」としての「自分」が「揺らいでいる」ことを検知したからです。では、なぜ眼は周防に注がれているのか?それは自身の「揺らぎ」の原因が、まさしく対面している周防から発せられているのを知ったからでしょう。 この時の糸子の内心を、漫画の吹流し風に背後に描いてみると、まず最初は「これって、何?」という初物の感覚に対する当惑であり、続いてそうした「自我の揺らぎ」が、普通なら「不安」とか「防御」とかの反応となって現れるべきところ、なぜかその「揺らぎ」の感覚が、糸子にとって「心地良かった」のです。とすれば、その「揺らぎ」の「心地良さ」の原因は、対面している周防以外にあり得ない。 おそらく当日の夜、糸子はこの物心ついて以来、初めての感覚を何度も反芻したでしょう。反芻した結果、こういうのが世に言う「恋心」というものだったんだな、とハッキリ覚知したに違いない。彼女の覚知というのは、常に身体感覚的であり、いかなる意味でも、あれこれ頭に描いた「概念」から判断するということがないのです。 と同時に、彼女はこの「恋心」という情動の在りようが、かなりヤバイということも、すぐに覚知したに違いない。いったん「揺らぎ」の在り処を知れば、それが自身の振るまいに対してどのような作用をするか?そのあたりの作用動向の予測などは、たぶん糸子の最も得意とするところだったでしょう。 それと知ってからの彼女にとって、再びの周防との会話は、自身が覚知した感覚を再検証するプロセスとなったに違いない。そしてその予測が確信となった時、彼女は彼と話す機会を出来るだけ避けようとしたのです。なぜなら「恋」という情動が、自我を溶解するもの、自身の「コントロール不可」なものとして顕現することを、彼女はこれまた身体感覚的に覚知したからに違いない。 彼女の「これ以上(周防と)話すると、好きになってまいそうだったから」というのは、そういう意味を込めているのでしょう。― つづく ―
2012.01.17
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毎度、苦言を呈するようで申し訳なく、また現場スタッフの皆さんの努力に水を注すようで、はなはだ僭越な感じですが、それでもなお今日などの展開を観ていても、演出上の「作り込み」が甘いような気がして仕方がない。濱田マリさんの鬼気迫る熱演を以ってしても、このトーンの軽さはカバーし切れません。完全に普通の「朝ドラ」の味付け(したがって、ここに取り上げるまでもない)になっているのです。 繰り返しになりますが、糸子と玉枝の先日の邂逅シーンは、私はあれで良かったと思っています。時の経過は感情の噴出を鎮静させるということはある。さらには、今日の奈津に対する「過去のことは、言うな」という科白も正解。同じ心の外傷をかかえる玉枝だからこそ、それで充分なのです。 とはいえ、それで一足飛びに「安岡美容室」開店だの、借金の保証人だのと持ってこられては、やはり「朝ドラ」かァ、となってしまいませんか?特に借金については、奈津と糸子のユニークな関係性を毀損しかねない要素を含んでいて納得できません。糸子が「ええやんか!」と昌ちゃんなんかに言い募るのは、彼女のキャラらしくてまだいい。 問題は糸子と奈津の、女同士としてはまことにユニークな関係性(今までのドラマに、無かったような)の造形が、お金が絡むことによって決定的に「不均衡」が生じ得るということなのです。お金の多寡の話ではありません。両者に(奈津の引け目と、糸子の過剰な気遣いという)心理的な上下関係が出来る、ということを言っているのです。 これはリアルな社会を経験すれば誰しも知っていることですが、いかなる友達、親友であっても、お金がその間に絡めば、その瞬間から対等な友人関係は結べなくなる、というのは社会の常識です(世の政治家は、その不均衡な関係性を、あちこちに構築することによって、娑婆をエラそうに仕切っているのです)。 糸子が「自分は結婚式の時、奈津に助けてもらった借りの礼をしてへんから、今回の礼は言わんでええよ」というのは、落剥した奈津に決死の思いで玉枝を引き合わせたことに照応するレベルの話であって、お金の話はそんなことでは済みません。 同じようなことは、糸子や八重子に対する玉枝の侘びにも現れていて、「あんたは毒や!」とか「疫病神!」というような決定的なコトバを吐いてしまった側の立場というのは、とてもじゃないけど、「堪忍してや」の一言では、これによって傷ついた側の気持は済まされない。この先、長い長い償いが必要なのです。 何やら「とにかく話を、先へ速く」というような拙速が、こうした「作り込み」の甘さに繋がっているような気がする。 まあ、あえて同情的な見方をするとするなら、ここにも「東日本大震災」の影響があるのかもしれません。「東北」への応援メッセージに力をいれるあまり、前半が長くなりすぎて、もともとの「岸和田洋装店主」の話がちっとも動かない、ということはあるのです。今日の「前だけ向いて行こ。私もそうするさかい」という科白など、まさしくそうですね。これ自体は、それが玉枝によってしか語れない「言葉」である、という意味でとても秀逸なのです。 まるっきり「震災」を意識しないというのも、このドラマの今日性(「なぜ今、糸子なのか?」)という点において「問題あり」ですが、そもそもの主題を損ねてまで強調するのは、「やり過ぎ」というものでしょう。 大上段に大ナタを振り上げたとき、それなりの覚悟が製作側にあったはずで、それがこのような腰砕けになったのは残念。いっそ作品もろとも粉みじんになるほどに、振り下ろしてほしかったという気がする。何も「大言壮語」や「号泣」を繰り返せ、と言っているのではありません(「韓ドラ」じゃあるまいし)。真剣勝負で「作り込み」を行ってほしいと思うのです。厳しすぎるのかなあ。― つづく ―
2012.01.16
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出来上がった作品について、後からあれこれ言うのは、国会における野党の「何でも反対!」に似て、はなはだ無責任かつ不毛な感じが否めないのですが、しかし、これはあらかじめ予想された事態なので、やはりあともう一つだけ指摘しておきたいのです。 奈津と玉枝の和解の前に描かれた糸子と玉枝の和解シーン、あっさりし過ぎじゃないかと言う声もありますが、私は悪くないと思っています。感情の激発は時間が鎮静化するということもあるからです。ただしそれならば、八重子と玉枝の和解もあってしかるべし、という気がする。事実的な苦痛(実家に戻るのを、決意するほどの)を日々受けていたのは八重子だったからです。 要は、玉枝を巡っての糸子と奈津の和解を一括りにするのには、かなりの「妙手」を連発しないと難しいんじゃないか、という当初の危惧が、現実に起こってしまったということでしょう。 であるなら、「妙手」ではなくても「穏やかな一手」で、全体のトーンを毀損することなく、振り上げた刀を収めることも出来たのではないか?奈津とは別に玉枝カードを切るタイミングは、これまで幾つもあったのでした。一番早い時期は父善作の葬儀の時、二番めは勝の葬儀前後、そして最近ではハルばあさんの死の時でしょう。 いずれも玉枝のほうから膝を屈する、というシチュエーションになりますが、それは何も、今回力点が置かれた、糸子の「自らリスクを取る」というアグレッシヴな姿勢を壊すことにならない。面罵したほうから詫びを入れるのは別に不自然ではないと思うのです。 それと奈津にとって玉枝が「代理母」だったという(私の)想定で描くとすれば、玉枝が奈津に会いに行く前に、彼女の造形として何らかのエピソードが必要で、それは例えば糸子との和解の途中で、明らかにすることも出来たはずです。同じ戦争未亡人として、どう子どもたち(泰蔵、勘助)を育ててきたか、とかね。奈津が泰蔵の母ということで玉枝を慕っていたということではなく、隠された奈津の母親願望を糸子があらためて知る、ということになれば、今回の奈津と玉枝の邂逅シーンは、もう少し「凄み」のあるものになったことでしょう。 まあしかし、「死んだ子の年を数える」ような、愚かな繰り言は止めにしましょう。そもそも、とてつもないアクロバティックな三者の邂逅を演出して、それでなおかつ逆転サヨナラホームランを観るような、強い「昇華作用」を明示するのも可能と目論んだのは、NHKの製作スタッフおよび脚本家なのですから。 面白くないのは、私のような「ヒネ」た観かたをしている人間が、このドラマについてあれこれ詮索する気を無くしてしまうということだけです、あ~あ! とこう、年甲斐もなく興奮していますが、我ながら笑ってしまいますね。たかが「朝ドラ」ごときに、このように毎日気分を浸潤されるというのは。どこかの「阪神ファン」じゃあるまいし。― つづく ―
2012.01.15
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辛抱していましたが、何だかドラマのトーンが変わっちゃっいましたね。私の中では、初めてこのドラマの評価を下げました。 今週に入ってからのトーンの変化はいったい何なのだろうと、思っていたのですが、今日の糸子、玉枝、奈津の間の和解シーンを観ていて、どうしてもそれを指摘しないわけにはいきません。時代が戦後史に移り配役も変わるということもあるのでしょうが、それ以上に演出その他の細かい「作り込み」が、月並みになりつつあるような気がするのです。ドラマの流れがゆったりとするというのは、演出の一つとして別にあっても構わない。さらには、「不倫」が世間の禁止テーマであっても、それが「しかるべき必然性」において語られるなら、むしろ大いに結構。 しかし、ドラマの「作り込み」自体を変更するのは、いかがなものか?ということなのです。 私はかつて繰り広げられた玉枝の糸子への面罵シーン、奈津との料理屋での最後の対決シーンは、ドラマ史上における名場面だと思っています。女優同士が帯刀はしてないけれど、ほとんど肩を突つきあうようにして、立ったまま対峙しぶつかり合う。何だか「椿三十郎」の三船と仲代の決闘を髣髴とさせたものです。 その落としどころが、このような月並みで説明的な形になるというのが、ガマンならないのです。このドラマは常に観る側の予想をはるかに上回る形で、まるでギリシヤ悲劇のような「破局」と「昇華」を垣間観せてくれていたのですが、今日のような形はいかなる意味でも、私たちの予期以上のシーンにはなっていない。 このままだと、普通によくある「朝ドラ」、あるいは「昼ドラ」に堕ちてしまいそうです。 一例を挙げます。 そもそも、奈津という人物像には、「母殺し願望(エレクトラ・コンプレックス)」という古典的なテーマが付与されていたと思うのです。生まれた時から、料理屋の女将として成るべく育てられた奈津が、本来子供が母親から受けるべき愛情薄く成長したことに、本人は気づいてない。そうした無意識の枯渇感が、人一倍のプライドの高さとなって現れ、深層心理的には「母を憎む」というトラウマが浸潤する。 玉枝は言わば母親の代償として奈津の前にいたのであり、だからこそ玉枝の前では甘えられたということになるのですが、以前にそこのエピソードが省かれて、糸子によるたんにナレーションで済ませてしまったのが、ここへ来てコケる因だったのかも知れません。 実をいうと、現在の奈津にはこの心理的なトラウマが、現実の「母殺し」として実体化したかもしれない、という嫌疑があるのです。 敗戦の直前直後の混乱期に、病弱の母親をどうして失ったのか、現在のところ明らかにされません(永久に明かされないかもしれません)が、少なくとも奈津の心理には、それまで意識されざるトラウマが、現実の母親の死によって「意識の表面にハッキリと姿を現した」という、明らかな心の傷を抱えているはずなのです。 とすれば、今日の奈津の振るまいは、たんに密かに恋していた泰蔵の死を初めて知ることによって、感情が涙で溢れ出すというようなレベルではなく、玉枝に対して以前よりはるかに激しく、幼児返りしたような「甘える」姿があってもよかったのではないか?ということになります。 ずいぶん、差し出がましい話で、製作者の皆さんには申し訳ないですが。 和解の段取りが「あまい」とか、「いい加減」とか言っているのではなくて、「作り込み」があまいといっているのは、その点なのであって、ドラマ全体の主題を否定しているわけではありません。 悪しからず。― つづく ―
2012.01.14
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私は糸子の生れて初めての「恋愛」が「不倫」であったことに、「それが実話だから」といった消極的な意味じゃなくて、むしろ驚くほどのドラマ性を感じてしまう。この先どのように描かれるのか想像もつきませんが、「自我の溶解」の過程が、同時にキリスト教的な意味での「原罪」意識とセットになって提出されているからです。 これまで長々とおしゃべりしてきて、このドラマに一貫する「構え」とは何だろうか、確かにある一貫した「明示性」を感じながら、それと言うことが出来なかったのですが、例によって「テレビ感想欄」の書き込みを見ていたら、はたと手を打つことが書いてありました。その書き込みが事実なのかどうか、私には知る術はないし、また知ろうという興味もないのですが、少なくともこのドラマが暗喩する事柄を知る手がかりにはなるかもしれない。 それは、「小篠綾子さんがクリスチャンだった」という話なのです。というわけで最低限のウラを取ろうとWikipediaを見てみたら、確かにクリスチャンだったとある! 私は宗教に対して、ことさらな違和感や先入観は(イスラム教や道教も含めて)できるだけ持たないように心がけている者ですが、今になってこのドラマを振り返ってみると、何がなしキリスト教ミッションのようなニオイも感じないわけではない(例えば、「ベン・ハー」みたいな)。一言でいうと、「無明の境」にある「罪深き人間たち」の贖罪の物語のような。 例えば、主人公の糸子はじめ、奈津も玉枝も「我が身の罪」に、今だ気づかない「無明の淵」をさまよっている人間たち(寡婦とか娼婦とか)という見方も出来ますよね。 小篠さんが、いつからクリスチャンだったのか、これまた私の知るところではないのですが、あえて偏見ではなく指摘しておきたいのは、彼女が自伝に我が身の「不倫話」をあえて記したというのは、たとえそれが世間周知の話であったにしても、「自ら記しておく」という行為において、一種の「告解(罪の告白)」に似た構えがあったのではないか?ということなのです。 「不倫」という言葉に蔵された「不道徳」「汚れ」といったことではなく、おそらく小篠さん自身は、「罪を意識しつつ、しかしそれはその時の我が意に正直だった事柄だから、その時の偽りない心だったから、書き記すしかない」と思っていたでしょう。こういう心理のプロセスは、普通の日本人にはあまり見られない在りようだと思うのです。私たちはこうした秘密の「告白」をすることが、あらためて周囲の人たちを傷つけはしないか?という方向に先に気が回ります。たとえ、いくら世間周知の事実であっても、本人の口から語り出さないかぎり、無かったことにはしないまでも、「あえて触れない」という気遣いをするのが、本人に対しても周囲の人たちに対しても示す普通の日本人の感覚でしょう。 脚本家の渡辺あやさんやNHK大阪のディレクターたちは、そのあたり、この自伝の持つ特性をどこまで読み切って、このドラマの製作を決断したのか?私はかなり意識していたのではないかと、これまであれこれ詮索をしていて思うのです。しかし自伝ならば「自身がクリスチャンであること」は自由に書けるけれども、朝ドラのテーマにもしキリスト教ミッションのようなものが入り込んだとしたら、公共放送の立ち位置として、一つの信教の構えを取り入れるのはかなり問題だし、だいいちそれと分かって観てしまうと、今まで新鮮だった糸子や奈津、玉枝の人物造形が、「何だ、そうだったのか!」ということになりかねません(私などかなり、そうなってしまいそうです)。 というわけで、このドラマでは表向きこうした「キリスト教的構え」を、前景化させないように進行させているように見える。ミッション臭を極力排することが出来れば、これはこれで、はなはだ斬新な人物造形として、私たちは観ることが出来るのです。それは例えば大岡昌平の「野火」で使われた手法であったでしょう。大岡自身はクリスチャンではなったにもかかわらず、聖書的イメージを欧文がかった語法で散りばめることによって、彼は日本語に新たな地平を切り拓いたのでした。― つづく ―
2012.01.13
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その意味で糸子が「裁縫」という、きわめて地道な身体的動作が不可欠な「仕事」を、「生業」としたのには大きな理由があるのでした。 さて、そうしたきわめてシンプルで身体感覚に直結したような二項対立の図式(内と外)を、発想の基本として振るまってきた糸子的な内面のありようを揺り動かす事態が、どうやら過去からではなく先に未来からやって来た。この先周防(綾野剛)という長崎生まれの妻子ある男との恋愛(不倫)模様が描かれようとしているのです。実話のほうでも触れられていることなので、このドラマではたして取り上げるのかしないのか、書き込みのほうでもずいぶん話題になっていたようですが、またまたこのドラマの製作者たちは、世間の「禁止空域」に大きく足を踏み入れようとしているかのようですね。 しかし逆に考えてみると、今までさまざまに描かれて来た糸子のバイタルな生きざまの中で、本当の意味での「恋愛模様」は語られなかった、というより実際問題としてその暇がなかったわけです。 糸子の二項対立的な発想からすると、北村(ほっしゃん)のような「分かりやすい外部=敵」に対しては、糸子のパワーは何なく全開で起動できる。なぜならその間は、何度も言うように「自身を省みる必要が、ない」からです。 彼女が困ってしまうのは、内か外か分からない(こちらがコントロールできない)仕方で、身内に「侵入」してくるような在りようであって、勝とはまさしくそうした立ち位置だったのでしょう。したがって勝の浮気問題は、表面上「許しちゃら」になってますが、実は糸子の内部でまだ片付いてないと私は思う。「許しちゃる」でも「許しちゃれ」でもなく「許しちゃら」という言い方には、おおいに「含み」がありそうです。 でないと、観ている側は(少なくとも私は)納得できない。何も勝についての新証言が他から出てきたり(例えば、一度だけ出てきた勝のしっかり者の弟夫婦とかね)、別の遺言が出てきたりといったことを期待しているわけではありません。それこそ死者からの証言を、今を生きる糸子にいきなり出してこられても、当事者がすでにこの世にいない以上、誰もそれに反論できないうえに、陳腐な新事実が出てくるたびに、生者は死者の書き直しを迫られる、つまり「呪われる」ということになるからです(これは何もドラマだけじゃなくて、近隣諸国が歴史認識問題で、いつもやっている手法です)。 これでは糸子ともども、私たちは勝の在りようを腑に落とすわけにはいかない。腑に落とす唯一の道は、何度も言うように、今の糸子とそれを観ている私たちの目線のほうが、「変容」する以外にないのです。 で、それを展開させる触媒として、今まで語られなかった糸子の恋愛模様が描かれるということなのでしょう。なぜなら恋愛とは「外」から招来するように見えて、じつは「内」の変容なのだからです。「恋に落ちる」とはまさしく「自我の溶解」=「他者への目覚め」なのですから。 自身が自分の「完全なコントロール下にある」というのが、「自立単独主義」的生き方の前提であるとするなら、「自我の溶解」などという現象はあり得ないはずなのです。今の糸子は、まさしく生まれて初めての「自我の溶解」を経験しようとしている。 尾野真千子さんの演技の見せ所ですね。― つづく ―
2012.01.12
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先の「身内」というキーワードで、糸子の闇市での「値切り」の場面をつらつら観ていると、ふと考えてしまうことがあるのです。 大阪人にとって「値切り」とは文化のようなもので、街場の合理精神として理解されることが多いのですが、糸子的発想でこれを見ていると、こうした「値切る」行為とは、どうもそのような、少しでも安くといった損得の経済概念だけでは、測りきれない部分があるような気がする。「値切り行動」とは、外にあるモノを身内に迎え入れる時の、一種の「儀式」的な要素が働いているのではないか?ということなのです。 要は外にあるモノを、売り手の言い値でそのまま身内に取り入れる、というのが「気持ちが悪くて、しかたがない」。「値切り」という売り手と買い手のやり取りを通して、今そこにあるモノの「値打ち」を当事者同士で決めていく。で、その場かぎりで了解しあった「価格」をつけることによって、糸子はそれまで外部であったモノを、安堵して「身内」の一部として迎え入れることができる、ということではないのか? もちろん当の糸子は、そんなことを意識したこともないでしょうが。 こんなことを思ったのは、先にも触れましたが、現在の糸子的発想の根底には、強烈な「身内」と「外部」という意識が働いていると思うからです。それはたぶん生物レベルでの、身体の「内」と「外」という感覚と直結しているところがあるのではないか? 逆に、「身内」で縫った下着その他を市場に持っていくとき、闇市では「物々交換」も可だったようですが、作ったモノの価値は市場(外部)が決める。糸子は「お札代わりに、下着を縫ってました」と言いますが、要は「そのお札(作った下着)の値段は、市場(外)に出してみないと分からない」。しかし、それは何も作ったモノの価値に、作り手(身内)が関与できないということではなく、否むしろ出来るかぎり値打ちをつけて、市場(外部)に送り出そうとするでしょう。 別の番組でやってましたが、実在の小篠綾子さんは、お金持ちの奥さんにはずいぶんと高い値段で、作った洋服を売っていたそうです。これは何も、「よらずボッタクリ」の商売をやっていたということではなくて、「あなたには、これだけの値打ちで引き取ってもらう価値が、このモノにはある」というしかたで、顧客を「評価(リスペクト)」しているということであって、ここでヘンに安くするということは、逆に「顧客をバカにしている」ということになるでしょう。 モノは、素通しで「身内」から「外部」に流れていくのではなく、その都度「内」と「外」のやり取りで、その「価値」を決めていく、という「回路」を必ず通さないといけないのです。 先の「値切り行動」と、これはパラレルな関係にある。要は「内」と「外」との間には巨大な懸隔があって、そこを食べ物でも着る物でも通過させるためには、しかるべき手順を踏まないと、何か「怖いこと」がある。だから、たとえ「儀式」であってもそうした手順がないと、糸子たちは「気持ちが悪くて、しかたがない」。 身体レベルで外部の栄養を内部に摂取するときの精妙なシステム、あるいは外部の予期せぬ侵入に対する強烈な免疫反応に酷似して、糸子的発想の根源は、その「生きている」という身体感覚の反応に、きわめて近いところで働いていると思うのです。 そういえばこのドラマ、「食べる」「着る」「寝る」といった場面が、やたらと多いですよね。― つづく ―
2012.01.10
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どうやら来週あたり、糸子の「変容」のカギを握っているらしい安岡のオバちゃんと奈津が出てきそうなので、今までに現れた糸子的発想の特徴をキーワードのようなものにまとめてみましょう。 これまでの逸話で糸子的「単独自立主義」の考えかたをハッキリと現しているのは、「手柄」と「身内」という言葉だと思うのです。 彼女が勝と結婚することになったとき、周囲の大騒ぎと対照的に本人は白けるばかり。それを糸子は「これは自分の『手柄』と違うし」と言っていましたね。自分の腕が紡ぎ出す裁縫は、彼女にとって紛れもなく自分の「手柄」なのですが、他人が持ち込んだ祝い事というのは、たんに「気色悪い」だけでちっとも気合が入らない。何で「気色悪い」のかといえば、自分の身柄が自分がコントロール出来ない仕方で、外部から勝手にいじくられるからでしょう。 これが今回は「慶事」だったから「気色悪い」で済んだものの、同じような仕方で「凶事」が外部から侵入して来た場合どうするのか?それこそ、例の国防婦人会の澤田支部長とのバトルの原因なのでした。自分の腕だけを生業(なりわい)の根拠にしている糸子にとって、他所さんの権威(「愛国心」とか)など無関心の極みなのですが、そうした他人の権威をカサに着て、身内の生業に彼女たちは土足で入ってくる。その借り物のマインドをなんとも思わない姿勢がガマンできないのです。「自分の『手柄』でも何でもないのに、何を偉そうな!」ということでしょうか。 彼女はその意味では、まことに非政治的な人間なのです(他人を言い含めるなら、「愛国的」でも「非国民」でも構わない、というようなエピソードもありましたな)。 もう一つは玉枝に面罵された翌日、八重子の「もとは好え人なんやし、しばらくは辛抱してあげんと」という取りなしに対して、「ウチはあんたらの身内と違う(から、辛抱するいわれはない)」とは、糸子的考えかたから必然的に出て来る発想でしょう。世の中を外部(敵)と身内という「二項対立の図式」で裁断すれば、世界は限りなく単純化され行動しやすくなるのです。 この場合、外部(敵)が大きく立ちはだかるほど、糸子のパワーは増大するという仕組みになっている。なぜなら、外部に敵を定置すれば、その間は我が身をいちいち省みる必要がない(行動だけしていれば良い)から。これって(今はやりの)「強者の論理」で、腕に自信のある当時の糸子にとっては自然な発想なのでした。 さて、こうした今現在のスカーレット的「単独自立主義」の在り方を突き崩すのが、何度も言うようにどうやら玉枝、奈津(そして、すでに死んだ勘輔)という創作上の人物らしいのですが、どのタイミングで、どのようにしてこれらのカードを作者が切ってくるのか?注目していたところが、それがどうやら両者絡みで出て来そうなのです。 さらには、夫勝の話も出て来るらしいところを見ると、どうも作者は物語前半の括りを一挙に行ってしまうかとも思え、多少の危惧も抱かざるを得ません。戦後の話が、子育て物語と並行して急いている以上、ある程度の拙速はしょうがないのかもしれませんが、安易な手法と月並みな明示性にだけは到ってほしくない。 今までが、とくに安岡のオバちゃんの面罵以降、予想をはるかに超える出来ばえで、自然観ているこちらの期待のハードルも、どんどん高くなっているということを勘案したとしてもです。 いずれにしても、来週は見逃せませんね!― つづく ―
2012.01.07
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ヴェトナム戦争における、さまざまな黙示録的風景を経過したあと、ウィラードが見たカーツ大佐の王国とは、死者と同居する生者の村であり、彼は死体の見える風景に「心の安寧」を見出している。優秀なコマンドーであったぶん、さまざまな殺戮と残虐を繰り返してきたであろうカーツにとって、復員したアメリカ社会という風景が、実際には「戦争(死体の山)」で成り立っているという「現実」からかけ離れ、到底受け入れ難いものであっただろうことは想像に難くありません。 結果的に彼の心の平衡は、「死体の風景」と同居することによってしか保たれない。それが彼自身「異常」であることは百も承知、しかし世界と繋がっているためにはそうするしかなかった(そうしなければ、おそらく気が狂う)、という意味で彼は正気だったのです。勘助が「心が、のうなってしもた」と言うとき、彼の心もまた「正気」だったのでしょう。戦争ショックによるPTSD(心的外傷後ストレス障害)などと、簡単に医学用語で片付けてしまってはいけない。 「死の淵」に立つ、とはまさしく一度それを見てしまったものは、二度と元の世界に戻ることが出来ない、元の世界は修復不可能で、でなおかつ正気を保つには「地獄と同居」するしかない、そういう種類の経験を指すのでしょう。 勘助が見たもの遭遇したものが何であったのか、このドラマはそうした説明は一切しない。事柄はすべて我々のほうから「想像」するしかないのです。それは現在に到るも、日本の表向きの「現実」社会が、面と向かっては決して見ようとしてこなかった、真の無慈悲なまでに冷え冷えとした「現実」なのでしょう。勘助はすべての日本人に、その冷え冷えした「現実」の感触を「想像」することを迫っている。かん違いしてはいけないのは、そこで「あらゆる残虐を並べ立てよ」、ということではありません。そうした現実を想像的に「引き受けよ」ということなのです。 カーツがウィラードに殺されることを許した(なぜならウィラードは、ほとんどカーツの「死の淵」の風景を共有していたから)ようには、勘助はいきませんでした。孤絶した彼が選べるのは「死者の仲間」に入ることしかなかったのであり、正気でそれを選んだ以上、糸子と会うわけには行かない(糸子は完全に別個の「生者の世界」にいるのだから)。「会いたいけど、俺には、資格がないんや、もう」とはそういう意味でしょう。 「そやけど、それも終わりや」という最後の言葉は、言うまでもなく惜別の辞であり、彼にとって再出征は、それが確実に死を招来するという意味で、むしろ「安堵」を誘うものだったかもしれません。 こういうエピソード、しかもそのあと間髪入れず、勘助の葬送風景が挿入される(勘助の希望は成就されたのです)と、どうしても「反戦」や「平和」のメッセージを読み込みがちですが、私はあまりそれを強調し過ぎるのは良くないと思う。そういうふうにこのドラマが見えてしまうのは、戦後連綿として続いてきた「反戦平和教」とも言うべき、日本人全体が組織的に行ってきた「記憶の合理化」のなせるわざなのです。私たちはこうしたエピソードを見ると、無意識に「これは反戦ドラマだ」というレッテルを貼って、それ以上に中味を吟味しようとはしません(少なくとも「新保守主義」の人は、絶対立ち入ろうとはしないでしょう)。 勘助が何を「引き受けよう」としたのか?そしてなぜそれが、ヘタレの勘助でなければならなかったのか?例によってドラマは直接応えようとはしませんが、それは糸子の「勘助!」という慟哭に表れている。我欲の先走った糸子のキャラというのは、決して周囲を安穏な空気には置かない。むしろ、多くの人にとって煙たい存在であったはずで、実際には避けて通る人も多かったでしょう。その中にあって、勘助だけが糸子を全面的に「受け入れていた」、なぜそうだったのか勘助自身にも説明できないけれど、無前提に糸子の在りようを「すべて受け入れていた」のは彼だけなのであって、糸子のほうもこれまたなぜかと説明はできないけれど、彼だけが自分を「受け入れていてくれた」ことだけは、ありありと分かっていたのです。 それが何かと分かるには、糸子自身の「変容」が必要で、それこそ、たぶんこのドラマの主題なのでしょう。― つづく ―
2012.01.05
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明けまして、おめでとうございます。 本年が私たちにとって、平穏な年でありますように。 さて、昨年暮れに残された未解決の問題を整理するとすれば、1. 父善作は社会的には、どうみても「失敗者」であること。であるにも拘らず、なぜ「父性」性を維持できたのか?2. 勝の浮気問題。当事者が戦死して、このあとどう始末するのでしょう?3. 勘助が最後に吐いた言葉「(糸子に)会いたいんやけど、俺には資格がないんや、もう」の意味が、今ひとつ不明であること。4. それに関連して、「あんたは今の勘助には、毒や!」と、糸子を面罵した安岡のオバちゃんが、その後勘助の葬儀のとき以外顔を出していないこと。5. 八重子の夫泰蔵の取り扱いが、はなはだ軽るかったこと。6. 奈津と糸子のユニークな関係性を、どう捉えたらいいのか?「あんたら、仲が好いの悪いの、どっち?」という芸伎の質問は、そのまま視聴者代表質問になっています。と、いったところでしょうか。 これらの疑問には、いくつかのヒントになるエピソードが、すでに撒かれているのですが、総集編ではそのあたりの「含み」がきれいに消されて、何だか普通の「朝ドラ」に見えてしまいましたね(しかたないけど)。 さて、いきなり「勝の浮気問題」とか「父善作の父性性の問題」などといった難題から始めるのは大変なので、さしあたって難問ではあるけれども、解決不能ではないかもしれない「勘助」の話から。 彼が戦地から帰還したとき「心が、のうなってしもた」と語り、再出征のとき「(糸子に)会いたいんやけど、俺には資格がないんや。もう」と語って去っていったことの意味するところについて、一時さまざまコメントがあったようですが、私には必ずしも腑に落ちていないのです。彼の戦地での衝撃がいかなるものであったか、ドラマでは例によって観る側の想像力に「丸投げ」してあって、いかようにも考えられるようにしてある。 そこでヒントになりそうなのが、勘助が気狂いして自殺未遂を図ったあとの、母親である安岡のオバチャンが糸子に迫ったシーン、「今のあんたは、勘助には毒や!」、つまり旺盛な「生命力」を発しつづける糸子の存在感は、地獄を見てきたらしい勘助には「強過ぎる」。だから「家には来んといて!」となるわけですが、じつは安岡のオバチャンも勘助の地獄の中味を「知ることが出来ない」。うろたえつつ見守るほかなかったのではないか? 「死の淵」を見てしまった勘助の心の内は、この岸和田の街では覗きようがない。誰とも共有できない地獄を勘助は抱えてしまって、しかもそこから瞥見する街の「風景」は、彼にはすでに「ウソ臭く」見えているのです。いわゆる「解離性症候群」にみられるような現実生活への極度の不適応を示しているのですが、これまた相似形の事例を私は「地獄の黙示録」に描かれたM・ブランドのカーツ大佐にみるのです。 かつてグリーンベレーの伝説の勇士として名をはせたカーツが、ヴェトナムとカンボジアの国境近くで行方不明となる。その後うわさに上って来たカーツの所業とは何であったのか?それを探索し「始末」する指令を受けたウィラード大尉の目を縦糸に映画は進行します。― つづく ―
2012.01.04
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