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話を戻します。糸子は紛れもなく「コトバの匠」たちによって語られているわけで、となれば彼女の言わんとしていることは、あるいは作り手の構えを見ていけば明らかになって来るかもしれない。しかしそれは作り手が糸子に「何をどういうふうに、語らせようとしたか」ではなく、糸子から「何をどういうふうに、聞き取ろうとしたか」という視点から考えていったほうが良さそうです。 以前にも触れしたが、渡辺あやさんの基本的な姿勢は、自分の思いとか考えは「いったんカッコに入れて」、人物がかってに動き出すのをじっと待つ、あるいは耳を澄ませるという態度であると思うのです。それを確か「糸子が話したがっている」というような言い方をされてましたね。これってイチローが自分の願望や思念を「いったん棚に上げて」、我が身に到来した何物かをずうっと観察し続けている姿勢とよく似ているじゃないですか。 これは何もムリに感情を排して、対象を突き放して見るということではなく、むしろ逆にその到来物を「敬意をもって」扱い対面しているということなのです。あやさんの場合なら、例えば澤田女史に端的に現れたように、主人公の敵役であるにも拘らず、その渋面の背後に何やら隠れた「物語」を想像させるでしょう。これは「この人物はこう描いてやろう」という構えからは、絶対出て来ないスタンスなのだと思う。以下同様で、出て来る登場人物のほとんどが、何やらここではほとんど「語られない別の物語」を大量に抱えていることを否応なく想像させてしまうのです。 これは配置された人物それぞれをないがしろにせず、敬意を払って見詰めているということに他なりません。 かといって、それが最初からそうであったかといえばそうでもない。作品から「竜が飛び出して、どうにも止められなくなった」という転換点は確かにあったようですね。 登場人物が勝手にしゃべり出す時、作家は自分が「書いている」というよりも、今そこにいる人物が話したがっていることを、一言も聞き逃すまいと「書き留めている」という感じに近いのではないか。モーツァルトが五線譜に音符を記し始めた時には、すでに彼の頭にはその音楽全体が「ありありと舞い降りていた」とは有名な話ですが、創造の現場ではときに寝食を忘れて何物かに「憑かれた」ように、あるいは「引っ張られる」ように作品が生み出されてしまうことがあるらしいのです。 時々それと命と引き換えにするような創作者も現れるので、私たちはそれを「神の声」だの「「悪魔の手」といった、日常から懸け離れた何やらミスティックな捉え方をしてしまいますが、たぶんそんな大層なことではない。 あるヴァイオリニストの話ですが、自分が弾いていて一番調子の良い時には、「弾いている自分の背後(頭上)に、それを聴いているもう一人別の自分が現れる」という言い方をした人がいました。彼女(神尾真由子さん)はそれを「もう一人の自分」と理解していますが、これは言わば自分であって自分でないもの、「いつでもどこでも確かに聞いていてくれている何者か」つまり「内なる他者」に他なりません。こうした時、現にヴァイオリンを奏でている我が身空は、言わば外から「操られている」ように意識されるのかもしれませんね。 このあたりも例の内田樹さんの「武道論」のはなはだ怪しげな受け売りですが、我が手我がバットであるにも拘らず、それを外から観ている「他者がいる」。その時我が身空は確かに「我が身」であるにも拘わらず、あたかも「操り人形」のように、自分の意志とは無関係に振るまっているように見えるということです。 イチローのメジャーデビュー当時、向こうの新聞でHand-Eye Coordination(手と眼の連携、協調)ということが、さかんに言われました。「彼は突出してHand-Eye Coordinationが優れている」というふうに。今考えてみると、これはたんに彼の運動神経の卓越性を指摘しているだけでなく、もう一つ大事な点を突いていることが分りますね。 あるいは向こうの新聞も気付いていなかったのかもしれませんが、この場合のHand-Eyeの関係にはダイレクトな感じがあって、脳の中枢系をいちいち経由していないというニュアンスがあるのです。間違いないのは時速160kmの球の弾道を、眼で見て脳で判断してからバットを振り出しても、絶対間に合わないだろうことは素人でも推測できる。それでも当たるはずのない球をホームランするメジャーリーガーが実際にはけっこういるわけです。では彼らはデタラメにヤマカンで振り回しているのか、と言えばそうでもない(まあ中には、そういうのもいるかもしれないけど)。 これは私の完全な勝手想像ですが、彼らは基本的にあまり「頭で考えることをしない」んじゃないか、言い換えると「身体でだけ考える」のが得意というか、生来的にそういう在りようを知ってるんじゃないか、という気がしているのです。― つづく ―
2013.01.30
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「天賦の才」というのが、本来的に「天からの授かり物」である以上、それを我が身一つに「専有」しておくのは何となく「居心地が悪い」のではないか、という話について少し補足します。 要は「天賦の才」とは、本人の「意志」とか「手柄」の類は、いっさい「関与出来ない」領域のものだということなのです。これはほとんど「子どもは自分の親を選ぶことが出来ない」というのと同類の話であって、本人の意志とか努力とは無関係に、それらは我が身に「不可避的に付着」している。 イチローが「天才と言われると腹が立つ」というのは、たいていの人がその当の「天賦の才」のことを指して、一種の羨望を隠しつつ彼の才能と騒ぐからでしょう。彼からすれば、それじたいは自分の「手柄」でも何でもない。このはなはだ扱い難い「悪魔的な中味」といかに付き合ってきたか、「そこをキチンと見てくれよ」と言いたいところではないか? それがたまたま世間から称揚される才だったから良かったものの、もし天からの授かり物が殺人の才として、我が身に「逃れがたく付着」していたらどうだったのか?ということなのです。こういう問いの立てかたというのを、普通なかなかしないのですよね。 さて次に、なぜそれが「どこかから譲渡されたもの、他へ受け渡しすべきもの」として意識されるのか?ということなのですが、これは上の話と連動している。要はもともと自分のものでない以上、いずれは我が身から去るもの、と意識されるからではないか?でなおかつ、それが我が身に付着しているのが避け難い「運命」であるならば、せめてその中味を出来るかぎり「コトバ」にすることで、いくらかでも「見通し」をつけたい。さらに言えば、ある程度「コントロール可能」なものにしておけるかもしれない、ということではなかったか? イチローは天からの「授かり物」を「敬意」をもって扱い、我が身において最適化出来るよう、まるで儀式を執り行うように常に注意を払っている(彼のバッターボックスに入る時の、完全にルーティン化された「しぐさ」を見てごらんなさい)。だけど結果としてのパフォーマンスは厳密に我が身一つの出来事、それらをもたらした元々の「才」はいずれ天に戻すべきもの、と捉えているのではないかしらん。 彼が繰り返し「語ろう」としているのは、「天賦の才」の中味ではなく、その扱い方なのだと思う。彼に現れた一回的な出来事は、それが厳密に個別的な出来事であるために、改めてコトバでなぞることは不能というか無意味。しかしこの厄介な到来物の「扱い方」だけは、あるいは示すことが出来、受け渡すことが出来得るものなのかもしれない。 で、その「扱い方」には永久に解はない、なぜならそれを見詰める我が身は、時間性の中にあって常に「変化し続ける」からです。我が身にそれが避け難く付着している以上、自身が生きている間はそれを「問い続ける」しかない、言わば避けようのない一種の「義務」として、それを受け止めているのかもしれないのです(想像ですよ)。 こういったものの捉え方を、たぶん「対自化」というのだと思うのです。 話がどんどん飛躍しますが、中味がじつは悪魔(危険、毒)であっても、それを何とか「なだめすかして」使いまわして来たというのは、火を我が手にして以来の人類史の振るまいそのものでもあったと言えるでしょう。あるいはもっと遡れば、生命が扱いのきわめて厄介な「酸素」を飼いならす術を身につけた瞬間から、そうした悪魔=異物との共存が始まったのかもしれない。 異物を異物のまま取り込んで「使いまわす」には、どこかでそれと「折り合っていく」しかない。人類史的にはそれを鎮魂だの地鎮だの圧倒的な自然に対する「畏敬」の態度表明の繰り返しによって、やって来たような気がするのですが、近代文明はそうした他者=異物に対する「敬意」の表明を忘れてしまっているようです。「フクシマ」はまさしくそうした人類史的な刻印を押された事故のような気もしますが、まあそれ以上に敗戦後日本の民族的疾病が生み出したものという見方も出来そうです(これについては、またまた内田樹さんの「原発供養」という面白いエッセイがあるのですが、話が離れる一方なので、これ以上ここでは触れません)。― つづく ―
2013.01.23
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イチローは自身の身体が示す特異的な才能を、自前の専有物としてではなく天賦の「授かり物」として扱い、それをどうやって現実の局面で最適化していくか、ということにいちばん注力しているように見えるのです。これって「我が身に敬意を払う」ということに他ならないでしょう。彼が他人から簡単に「天才と言われると腹が立つ」というのには理由があったのでした。 ここには何がなし、自身が有する才能を「半公共物」とは言わないまでも、一歩引いて見つめているような構えがあるじゃないですか。こうした言わば中空を移ろいながら、たまたまある個人の身体に付着するような特異的な才とか振るまいの在りようを、古代人は例えば「魂(たま)」と呼んだのではないかしらん。 「魂」は特定個人に帰一するのではなく、フワフワと複数の身体を通り抜けるようにして「継承」されて行く。対するに「心(こころ)」とは我が手足と同様、個人に専一に付属した器官であって、それは肉体が滅ぶと同時に失われるもの。 さてさて、イチローがまさしくそうした仕方で我が身を意識しているなどとはもちろん思いませんが、彼が自分のことを語ろうとする時、とても慎重かつ重くなることがあるのは、一つにはこうした特異的な感覚とか体験を人に「語ること」の難しさとか不可能性を、彼は常に感じているからではないのか?考えてみれば「純粋個人」の感覚とか体験などというのは、本来他人に伝えようの無いものです。語るということは「分かってもらえる(共有できる)」という信憑があって初めて成り立つものでしょう。 でなおかつ、それをざっと「要はフィーリングですよ」とか「絶好調!」といった雑駁なワンフレーズで片付けてしまわず、あえて口重で意味不明に聞こえようと、出来るかぎり当の出来事に寄り添うようにして「語ろう」とするのは、語ろうとする当の「何か」がイチローの「純粋個人」に帰一するものではなく、何がしか「どこかから継承されたもの、他へ受け渡しすべきもの」として意識されているからだと思うのです。たまたま我が身に到来した「継承物」である以上、それを自分のところで「専有」し「退蔵」しておくのは「何やら気持が悪い」、そうした得体の知れない「居心地の悪さ」が彼をして語らずには居れなくさせているのだと思う。 断っておきますが、それは何も「秘伝公開」のような口ぶりを指すのではないですよ。我が身の「分からなさ加減を知る」仕方を、何としても知らせようとしているのだと思う。 とはいえ、彼は言うまでもなくアスリートであってコトバの専門家ではないわけで、「本当に語りたいこと」がなかなか正確に口から出てこないのはこれは仕方がない。でなおかつ、私たちがついつい彼の発するコトバに首を捻ったり、何やら哲学的な深読みしたりしてしまうのは、取り合えず「何を言っているのか、イマイチ分らないけれども、確かにとても大事なことを、我々に向って言おうとしているらしい」という不思議な信憑があるからです。彼自身、ベタなインタビューには韜晦してふざけたりしていますが、それは逆にこうしたことを「語ること」の困難さを意識しているからに他なりません。 というわけで、糸子もまた同様に「あの時の私はこうだった、その処し方はどうだったのか?で、これをいつでもどこかで確かに聞いてくれている誰か(あなた)は、どう思います?」という仕方で問いかけているでしょう。イチローと違うのは糸子が「コトバの巧(たくみ)」たちによって造形された「虚構の人物」であるということです。生身の綾子さんやイチローとは違う「明晰性」を彼女が把持し得ているのは、それがコトバの専門家によって語られているからでしょう。― つづく ―
2013.01.21
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誰かに向ってどうしても言っておきたい、聴いてほしい何かがあるとき、最も効果的な語り方とはどのようなものなのでしょう?声高に叫ぶことでしょうか、人のあげ足を取る仕方でしょうか、他責的な安全地帯からもの言う形でしょうか、こうした今はやりのディベート的な発語の仕方では、どれも他人の共感を得ることはできないと私は思う。理念なきディベートほど不毛な対話はありません(勝ち負けだけを目的とした発語法に、他者との共有共感などという概念は、初めから想定されてない)。 そもそも自分を隅から隅まで分かってくれる「他者」など、この世に存在しない。理屈からすると、それでは「他者」ではないことになってしまう。この「他者」との共感共有の意味している本質的な「不可能性」を思い知ることこそが、最初の大前提なのだと思うのです。 じゃあ共感とか共有などというのはマヤカシで、自己満足の宇宙に引きこもるしかないのか、と言えばそうでもない。 この一見不可能性に満ちた共感とか共有を、かろうじて可能にするのは「他者への配慮と敬意」をもってコトバが発せられる時だけなのだと思うのです。自分宛に発せられた「親展」のようにしてコトバを聴き取った時、人はそのコトバの意味をしかと吟味せざるを得ない。それは聴き手それぞれが自分のコトバで新たな「物語」を、想像的に語り始めることと言ってもいいのでしょう。 大事なのはそれを仲介しているのが、充分に配慮された糸子のコトバだということなのです。この場合の「配慮」とは、糸子の選ぶコトバが彼女のたんなる「一人語り」ではないということ、例えば父善作が祖父母から受け継ぎ、糸子に受け渡そうとしたような仕方で発せられたコトバとして扱われているということでしょう。イメージとしては走り続ける「だんじり」を担ぐ人々の態度に重なりますね。 コトバがこのように「他者に対する配慮、あるいは敬意」をともなって発せられる時、初めて語り手の切実な思いは、「ただならぬことが語られている」あるいは「私宛に特別に発せられている」という仕方で、聞き手の心に届くのだと思う。 先に糸子のナレに満ちている「敬意と配慮」は、一意的には「かつての自分に対して」向けられていると言いましたが、これは言い換えれば、一番めの「他者」とは我が身に他ならないということも示しています。「我が身」の分からなさ加減を思い知ることによって、軽々にはコトバを発することができないということになる。それは同時に「我が身」を最大の配慮をもって、「処する」ということでもあるでしょう。「身を処する」とは自己チューの対極にあるものです。一見矛盾するように聞こえるかもしれませんが、「我が身」に最大の敬意を払う人は自己チュー足り得ない。「我が身」の至らなさ加減を思い知っているからです。 「我が身大事」というようなコトバは、本来こういう地点から発せられるべきかもしれませんね。 少し話が飛びますが「教育」とは突きつめれば、この「我が身の未熟さ加減を、真の底まで思い知らせること」の一点に尽きるのかもしれない。「分からなさ加減を知る」とは、絶えざる成熟(大人)への欲求を起動させることでもあるです。 イチローを見てください。四十近くになっても自身のアスリートとしての身体と、ずうっと対話をし続けているじゃないですか。彼ほど「我が身」に敬意を払っている人は、そういないんじゃないですか?たぶん彼は身体を十全に自身のもの(所有物)とは見做していないのだと思う。むしろはるか彼方のどこかから、たまたま到来して我が身に付着している、この異能なる「他者」の振るまいを、驚きの眼をもって観察するような仕方で見つめているのではないか知らん。 で、同じような態度が、糸子のナレにもあるような気がするのです。確かに彼女は自分の発するコトバを、自身固有の体験(所有物)とは見做していない。異能なる我が内なる「他者」を見つめるような仕方で語っているのです。― つづく ―
2013.01.17
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何度も言うように、このドラマの「語り手」には主人公との間に微妙な距離があって、それは「時制」の違いとも言えるでしょう。先の見えない現在形で頑張っている糸子と、事が確定した過去を見詰める糸子の立ち位置には当然違いがあるわけです。「カーネー」で面白いのは自身の過去を見詰める「ナレ」が、思いのほか冷静じゃなくて物語に割り込むように、「しどけなく」しゃべっていることが時々あるということでしょう。 それはドラマに強い「倍音」を与えると同時に、別人格の糸子の存在も予感させる。同じ人物でありながら後年の糸子が若かりし「無明な自身」を振り返るのは、現在形の糸子が今もなお自分は何であったのか(あるのか)考え続けている構図に他なりません。 という意味で、このドラマは「ナレ」じたいが全面的ではないけれど、別のドラマ性を感じさせる仕掛けになっていてホントに面白い。「ナレ」もまた一つの役を演じているのです。こういう造りの映画やドラマって、今まであったのかどうか? 紫式部は「物語」について、光源氏に「世に経る人の有様の、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、…心にこめがたくて、言ひおきはじめたるなり」と言わせていますが、糸子もまた「この世の人の生き様で、見るに飽かせず、聞き捨てにも出来ないことを、…どないしても心に収めておくことが出来ず、思わず言葉に発してしまった」ということだったのかどうか? 糸子のナレには確かにそうした一種の切迫感というか「召命性」があって、糸子自身がどうしてもそれを語ることを必要としているという感じがあるのです。あの時の私はなぜああだったのか、勘助や玉枝や奈津たちは私にとって何だったのだろうと振り返る時、初めて「コトバ」による「物語」が生まれて来るのでしょう。 たんなる嘆きや叫びなら動物の咆哮と同じで、他者との共感とか共有は生じようがない。という意味で「コトバを発する」とは優れて人間的な在りようなのだと思う。 私たちは彼女のナレに導かれて、普通観ることの出来ない他者の「個人史」に我知らず立ち入って、自問し続ける糸子とともに内省している自分がいることに気付く。これぞ優れた「物語」だけにだけ許された「想像力のマジック」のなせる技なのです。 さて、一種の召命性を帯びた切迫感をもって、我が身の「内なる他者」と自問自答を繰り返しているらしい糸子のナレが、なぜ私たちの耳にも尋常でない響きで語りかけて来るのか?ここの感想欄だけでなく多くの人たちが、いわば他人事でない仕方でこれを聴き取ろうとしていたでしょう。 これは例えば自分宛への特別なメッセージを感知するのと似ている。「たかが朝ドラだけど、そこに何やら自分だけに発せられた声を聴いたような気がする」という仕方で、です。 こうした想像力の起動を可能にしているのは、彼女のナレがたんに切迫性を帯びているからではなくて、同時に「聴き手への配慮、あるいは敬意」をもって話されているからではないか?一意的にはかつての自分に対して、二義的には「いつでもどこでも、確かに聞いていてくれている誰か」に対して。早い話、召命性が絶叫や独りよがり、あるいは自慢話に満ちたものなら、そのコトバをしかと聞こうとは誰も思わない。現にそのように聞いた方々もおられたようですが、決してそんなことはない。 巻き舌、舌打ちに満ちて一見下品で明らかに未熟な彼女を、背後からいとおしく見詰めている糸子のナレが支えているのです。それは何も過去の自分を客観的に「突き放して語る」ということじゃなく、むしろ逆で「そうであった我が身を、軽々には扱わない」という態度であったでしょう。この場合、過去の自分とは「内なる他者」に他なりません。 我が身を「ないがしろにしない」という意味で、糸子のナレは「他者への配慮と敬意に満ちている」のです。― つづく ―
2013.01.14
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ここまでの話は、二年ほど前にあげた橋元淳一郎さんの「時間はどこで生まれるのか」(集英社新書)以下一連の時間論にほぼ完全に寄りかかり、さらに自分流に曲解して話しています。もうお分りのように、私の時間論はヒトの主観とか意識に現れる「時の経過とは何か」に限定したおしゃべりであって、例えば「歳をとるとなぜ月日の流れが速く感じられるのか?」といった類と同レベルのごく素朴な「問い」なのです。 さて、橋元さんの本によるとイギリスの哲学者J・マクタガートの時間論では、これは流れそのものを対象にしているので、おおまかに彼の言うA系列に属する話らしい。対するに物理の座標系に配置されるような静止的な時間はB系列。さらにB系列を拡張して座標系じたいを取っ払ったみたいなのをC系列というらしいのですが、これはもう完全にバラけた世界であって、こうなるとそもそも時間を論ずることじたいが無意味になってしまう。 ちなみにマクタガートの結論は、A、Bいずれの系列でも「時間が実在するとは証明されない(証明の仕方に矛盾がある。したがって時間は実在しない)」ということらしいのですが、ハッキリ言ってこうした観念論的哲学論議はちっとも面白くない。 それでもこんな話をグズグズしているのは、先の「日にち単位での記憶の折りたたみ」という言いかたが、どうもここのB系列C系列という話に影響されているらしいからなのです。ベタに言うなら、テーブルに番号順に並べられたトランプのカードと、シャッフルされてバラ撒かれたカードみたいに、私は記憶の在りようを捉えているらしい。バラけた外部データを番号順に接着して折りたたむために、コトバは生まれて来たのだろう。事象はコトバで名指しされる(意味づけられる)ことによって、初めて時間として意識されるのです。 これは言い換えると、物事を出来れば「因果関係で捉えたい」という、ヒト一般の願望の現われかもしれない。早い話、ヒト以外の生き物は、物事を因果関係では判断していないでしょう。 物事を因果関係で捉え直すということは、逆に因果的に整序できない事柄(コトバで名指しできない事柄)は、記憶の蓄積から「捨て去っている」とも言えるのではないか?例えば「夢」に現れる映像などは因果的な整序が出来ない結果、たちまち忘れ去ってしまう。したがってここには時間は存在しないのです。同様にヒト以外の生き物にも、上のような意味での時間は存在せず、外界は「夢」のようにランダムに彼らの眼前を通り過ぎているのではないか。 「因果」に含まれない事象が、私たちが日頃感じている時間世界の外側に、じつは大量にあるのかもしれない。しかもそれらが無意識のうちに、私たちヒトの振るまいに大きな影響を与えているのかもしれないというのが、S・フロイト以来の精神分析学あるいは哲学の流れでしょう。その中味や最近の動向などといった話は、とても私では手に負えないし、ここの話題とも関係ないのでこれ以上触れません。 それでも「糸子は誰に向って、語りかけようとしているのか?」という主題には、次第に近付いているような気がする。 彼女が何度も何度も「語りかけよう」としている先は、おそらくこの時間世界の外側(あるいは背後)に、大量に広がっている無意識界だと思うのです。繰り返し語りかけることによって、あらたに見えてくるものがある。もちろんすべてが明らかになるというような、「全面的解決」などということはあり得ないにせよ、生きている(意識がある)うちは、絶えずこうした「問いかけ」を繰り返す、否こうした「絶えざる問いかけ」の姿勢こそが、「生きている」ことの証だろうということなのです。 というわけで私には結局、糸子のナレは我が身の「内なる他者に向って」語りかけている、と考えるのが一番腑に落ちるような気がする。 と、大騒ぎして来たわりには、何だかごく平凡な線に落ち着いた感じですね。― つづく ―
2013.01.11
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我々が普段感じている時間感覚というのは、客観的な時計とかカレンダーを周囲から取っ払ってみれば、あんがい曖昧な信憑に拠っているわけで、過ぎ去った記憶の整序はたぶんコトバが行っているのだろう、次々ランダムに蓄積されてくる外部データは、コトバで「物語られる」ことによってはじめて秩序づけられる。で、その秩序感を私たち人間は、例えば「時の経過」という仕方で認識しているのだろうということなのです。私はそれを「日にち単位の折りたたみ」という仕方で蓄積されていくのだろう、とお話したわけでした。 時計やカレンダーがなくても日にち単位の区切りは、覚醒と睡眠という身体感覚で誰でも意識するわけです。それが昼と夜の太陽と月の交代というような、何やら人智の及ばぬ天体の運行と関係しているらしい。で、それがよりダイナミックな季節単位、年単位という大きな周期性とも連動しているらしい、と古代人が考えたのはごく自然な成り行きであったでしょう。 と言われたって、現に客観的な時間が、この世には流れてるじゃん?と反論されそうですが、ここ最近の物理の入門書や時間論などをみていると、はたして客観的な時間などというものが本当に実在するのかどうか、何やら怪しくなってくるのです。少なくとも物理で示される時間=t(time)という概念は、3次元+1という座標系の単位に過ぎず、t(時間)そのものが本当に実在するかということに関しては、それじたいは何も説明しているわけではない。たんに「あるのだろう」という我々の漠然とした信憑だけで使われているのではないかしらん。 それはこの世の事物や現象を物理的に説明するさいに、一つの「物差し」として想定されているのであって、それ以外の何ものも意味していないということです。逆にそうであることによって、数理的には-t(反時間)だのit(虚時間)だのにいくらでも拡張できるわけで、そうすれば我々の日常感覚とはまったく懸け離れているけれど、素粒子レベルの物理現象については、もっとうまく説明できるということなのでしょう(想像ですよ)。反粒子というのは時間逆行(過去からやってきて、未来へ飛び去っていく)型の粒子だというような議論は、まさしくこの種の「物差しの拡張」によってなされるものだと思うのです。 話がますます晦渋になっていますが(本人が分からないまま、しゃべっているので)、ここ最近の物理の入門書を読んでいると、世にポピュラーなアインシュタインの「相対性原理」よりも、「量子力学」のほうがよほど現実の生活には関わっているらしい。「相対論」は文系の我々にとっては、いわば「頭の体操」的な知的遊戯のレベルなのですが、「量子力学」はすでに日常生活にはるかに深く入り込んでいる。原理的な解明は後回しにして、とりあえず量子的効果を利用する技術は、半導体だの量子暗号、量子コンピュータといったぐあいに、どんどん進んでいるらしいのです。 というわけで、「量子力学」の基礎概念ぐらいは知っておこうかと入門書を引っぱるのですが、どれも肝心なところでまるっきり腑に落ちないというもどかしさが残る。これは何も書き手の専門家の説明がヘタということではなくて、「量子的効果」を日常感覚に置き換えて説明するのが、基本的におそろしく困難なうえに、一見分かりやすい説明がかえって大きな誤解を招く、というところがあるのではないか?したがっていずれの入門書も入り口はとても緩やかで、途中からいきなりまったく理解不能の世界にジャンプするという形を呈するのです。理系の頭は「日常」をどこかですっ飛ばして、中空で数式だけをどこまでも展開できるようになっているらしい(と、負け惜しみ)。 とはいえ、理系の時間論がまるっきり分らないまでも、何となく面白いのに比較して、文系の哲学的な時間論の退屈さ加減は、いかにしたものでしょうか?あたかも素人をこの手の議論から、ことごとく追っ払ってしまおうとしているかのようですね。― つづく ―
2013.01.08
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いささか遅くなってしまいましたが、明けましておめでとうございます。 本年が私たちにとって幸多き年でありますように。 昨年の秋ごろから、いろいろ考えることが多くUPが滞りがちですが、前にも触れたようにしゃべりたい事柄は、おなかの中に山ほどあふれているのに、今それをしゃべるのには何やらためらうところがある。「臆してしまう」と言ったほうがいいのかもしれません。それはたぶんそれらをコトバに書き記す都度、自身の不明さを露呈するという、まことに簡明な理由からなのでしょう。 以前は個人ブログの気楽さでもって、かなり「エイヤッ!」という鉈のようなおしゃべりも平気だったのですが、何だかそれを押しとどめる気分が、最近とくに多いのです。どちらが好いのか悪いのか、今までの書き跡を見てみても一概には言えないし、そもそもそういう価値論じたい不毛な感じもする。 要はこのブログを書きつづける趣旨が以前と今で、いささか変化して来ているのではないかという気がするのです。私がこのブログに勝手に課した三原則、1. 何よりも自分自身が、本当に楽しんで書いているか?2. 半公共の場である以上、他人が見ても一応まともに読める体裁になっているか?3. 出典をきちんと明示できているか?というのは変わりないにせよ、このところ、― このブログはいったい誰に向って、語りかけようとしているのか? ―という命題が頭に付いて離れないのです。先日来の糸子の話はじつはそれを探る意味合いも隠し持っていたのですが、ずいぶん晦渋な話になっていて我ながら辟易しています。 そもそもなぜ私たちは、どういう形であれ「発語せずには、いられないのだろう」、で「発語するとは、結局どういうことなのだろう」、そしてそうした「発語は結局、誰に向って発せられているのだろう」という疑問は、このブログじたいの意味合いも決めてしまいかねない筋のものでしょう。 というわけで、糸子がらみの話はドラマ本編からはかなり離れたまま、気難しい体裁で依然としてまだしばらく続きそうです。とはいえ彼女がらみで話するというのは、ごく抽象的な「発語論?」に終始するよりは、私的にはよほど楽しいし、たぶん読み手の方もそのほうが疲れないでしょう(読む人がいたとして)。糸子は本当に「内なる他者」に向って語りかけようとしているのか?なぜ一種の「召命性」を帯びた切迫感を、彼女のナレは発し続けているのか?は、そのままこのブログの存在理由に繋がっているような気がする。 ところで以前、「やっぱり本屋さんが好き」(2012年11月25日)という項で、今どき侮り難い本としてあげた四冊とは別に、年末に例によって内田樹さんの「呪いの時代」(新潮社)を買ってしまい、またもやこれも相当面白かった。この人の本は結果的にほとんど買っているような気がするのですが、これはその中でもベストの部類に入るものではないかと現在私は思っています。読み解く鍵語はたぶん「「呪詛」と「贈与」という語句ですが、やはり今の私が取り上げるのには早過ぎる。まあとくに「贈与論」は構造人類学の根幹部分の概念みたいだし、いきなりそこから「理解せよ」と言われても、ほとんどお手上げなわけです。 それでも「贈り物」をするという人の振るまいだけは、ずうっと頭の隅っこにとどめておいて、今年もおしゃべりを続けていきたいと思っているのですが。
2013.01.05
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