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先日、京都へ行った際に梅小路蒸気機関車館へ行ってきました。ここには、17両の蒸気機関車が保存され、一部は動態保存がされており、体験乗車に運行されています。 この日の体験運転は、国鉄最後の旅客用蒸気機関車のC62でした。1948年から製造されたこの車両、ボイラーなどは貨物用として製造されたD52を転用して作られているのは有名な話です。 主なスペックは、全長(石炭を積んでいる炭水車までの長さ)が約22mで、現在JR貨物で運行されているEF210が約18mですから少し長くて新幹線とほぼ同じ。重さ(炭水車込み)が約145tで、EF210が約100tですからかなりの重量です。見た目も真っ黒い巨体ですから、間近で見るとその大きさに圧倒されます。 このC62は、登場以降は国鉄の特急・急行列車を牽引し、戦後の旅客大量輸送に大きく貢献したわけですが、その巨体ゆえに地方路線では使うことができず、最終的には北海道の函館本線で運行終了となりました。 そして、このC62の2号機の除煙板(デフロスター。煙を上方に上げるための板。)には、当時日本を代表する特急といっても過言ではない「つばめ」を牽引していたことを示す「ツバメ」マーク、いわゆる「スワローエンゼル」がついています。 さて、体験運転には乗車しませんでしたが、多くの子どもたちが乗っていましたし、年配の方は懐かしそうにしていました。 体験運転終了後は、水と石炭を積むために転車台(ターンテーブル)で方向を変えました。この写真は、その回っている途中に撮影したものですが、正面から見ても格好いいですよね。 ところで、私は1989年夏に北海道で当時運行されていた「C62ニセコ号」に乗車したことがあります。北海道の北海道鉄道記念館(今の小樽市総合博物館)で保存されていた同じC62の3号機が現役復帰、小樽~倶知安間を運行されていましたが、1995年を最後に運行終了となりました。ホント、タイミングよく乗車することができたものです。 正月休みも残すはあすのみ、6日から再び通常の仕事となります。この蒸気機関車のように、がっしりと地に足をつけて粘り強く頑張っていきたいと思います。
2014年01月04日
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昨日の続きです。 紀伊駅近くに仕事に行きまして、その続きでJR和歌山線船戸駅近くへ移動、帰りは船戸駅から列車に乗りました。この駅も、私の父親の実家にほど近く、また母親の実家へ行く際にはこの近くを通っていたので、小さい頃から知っていました。 さらに、私が高校生だった1983、84年頃に何度か写真を撮りに来たことがありました。当時は、非電化でディーゼルカーが走行していました。 船戸駅の駅舎です。 木造の駅舎で、途中駅にありながらしっかりとした造りになっていますが、今は無人駅になっています。私が1983年に行った時は、もちろん有人駅でタブレット交換をしていたのを覚えています。 写真には写っていませんが、タクシーの乗り場があってタクシーも停まっていました。ただ、駅周辺は、とても道幅が狭いのです・・・。船戸駅近くの道路は、私も抜け道で使うことがありますが、すれ違うのが難しいところもあるくらいです。 駅名標は、一番上の写真のとおりJR西日本標準のものがあるのですが、なぜか国鉄当時の駅名標に似たものが紙で張り出されていました。字体は違いますが、国鉄当時はこんな感じでしたよね。駅の所在地が書かれていたので、その場所がよくわかったのですが、今の標準タイプではそこまで書かれていませんからね・・・。 ちなみに、今は岩出市になっていますが、かつては「和歌山県那賀郡岩出町」だったのですよ。 和歌山方面から王寺行の普通列車がやってきました。かつては4両編成が主体で、それよりも以前はもっと長かったであろうと思います。ホーム長がかなり長いですからね。 それにしても、昨日紹介した紀伊駅といい、今回の船戸駅といい、子どもの頃や高校生の頃に訪れたことがあるところへ、この歳になって再び行くことができてよかったのですが、仕事ではなかったら、もっとゆっくりと回りたかったんですけどね・・・。
2013年12月28日
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先日、出張でJR阪和線紀伊駅近くへ出張してきました。JR阪和線が天王寺から和歌山方面へ向かって、和歌山県内に入って初めての駅が紀伊駅になんです。 この紀伊駅からバスで10分くらいいったところに、私の父親の実家がありまして、私が子どもの頃、春休みによく行っていました。だから、この駅はよく覚えているのですが、下車するのは30年ぶりくらいでした。 今では、快速や紀州路快速が停車する駅になっていて小奇麗になっていますが、私が子どもの頃(1974年頃の記憶)では、構内踏切がありました。 ホームの長さが延長されていますが、写真のあたりに構内踏切があって・・・写真の自動改札機のあるあたりにつながっていたと思います。そのくらい当時と変わっていません。 駅舎はこんな感じです。 とても快速停車駅には見えませんね。駅舎の感じもあまり変わっていません。 タクシーがたくさん停まっているのも、前からこんな感じでした。 駅前の道路も、拡幅されておらず昔のままです。それにもかかわらず、交通量は多いし、バスも通っています。 ちょうど、バス停に近畿大学ゆきのバスがやってきました。近畿大学の和歌山キャンパス(生物物理工学部)があるので、そこへ行く学生が大勢乗車していきました。停車しているバスは和歌山バス那賀で、この写真のバスは大阪の南海バスからの移籍車です。 さて、30年ぶりにここへやってきましたが、そんなに変わっていなかったのがうれしくもあり、狭い駅前のままであまり進展していないんだなぁということに少し残念にも思いました・・・。
2013年12月27日
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先月、出張で奈良県五條市に行きました。JR和歌山線で五条へ行くのですが、途中に吉野口では、近鉄吉野線(橿原神宮前~吉野)と合流します。 手前のホームはJR線、向こう側のオレンジ色の車両が停まっているのが近鉄吉野線になります。乗り換えるためには、地下道を通って乗り換えることになります。 ところで、近鉄の特急車両以外の普通の車両は、白とあずき色のツートンの塗色ですが、この車両はかつて南大阪線(大阪阿倍野橋~橿原神宮前)で使われていた「ラビットカー」の塗色を復活させたものです。また、車体の隅には、ラビットマークが描かれています。 ラビットカーとは、近鉄6800系のことで1957年に製造された高性能車両でした。1993年に引退するまで南大阪線と吉野線で活躍、当初は写真のようなオレンジ色の塗色でしたが、その後あずき色(マルーン)一色になってしまいました。 ラビットカーの名前の由来は、文字通りうさぎがピョンピョン飛び跳ねて走る様が高加速高減速が可能な車両のイメージと合致していたようですね。 この塗色の編成は、この1編成しかありませんので、偶然見つけることができてよかったです。
2013年12月25日
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私は東京で宿泊するときは、JR京浜東北線の大井町駅近くにあるアワーズイン阪急に泊まることが多いわけですが、先日東京へ行った際には確保できずでした。そこで、なるべく駅に近いホテルで安いところを探して、京急EXイン大森海岸駅前に宿泊しました。ここは京急の大森海岸駅からすぐ、駅からほぼ雨に濡れなくて済むところにありました。 大森海岸、という駅名ですけど、駅前には海岸はありません・・・。 普通列車しか止まらない駅でした。 ホテルの部屋からは、このように京急本線が見られます。普通列車しか止まらない駅ということは、通過する列車が多いということ。眺めているだけでも面白い場所です。 駅周辺は、このようにマンションや住宅が立ち並んでいて、海は見えません・・・。 さて、ホテルの方は、ロケーションがいいし、駅周辺に24時間営業のお弁当屋さんやコンビニがあって、飲食店はそんなに多くはないものの、個人的にはまずますかなってね。
2013年12月07日
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先日の出張の際に、千葉県いすみ市のいすみ鉄道に乗ってきました。いすみ鉄道は、1988年3月まではJR木原線で、国鉄分割民営化の前後に各地で第三セクター方式で赤字のローカル線を引き継いだ線区がありましたが、ここもその一つです。赤字ローカル線を引き継いだわけですから、経営的にもなかなか厳しいかと思うのですが、このいすみ鉄道では、2011年3月から国鉄当時の古いディーゼルカーを動態保存して運行していることで有名なのです。 いすみ鉄道の起点、外房線の大原駅のいすみ鉄道線のホームに行くと、2両編成の懐かしいディーゼルカーが停車していました。先頭車両(出発後は先頭車両ではないですが)は、個人的に鉄道車両の中では好きな車両の一つであるキハ58系のキハ28 2346です。 キハ58系は、その一族として1823両も製造されて北海道から九州まで、非電化区間の急行列車用として活躍しました。車両のバリエーションがとても多いわけですが、これはキハ58系の出来の良さと扱いやすさからなのでしょうね。 個人的な思い出としては、私が育った大阪市住吉区や堺市には、阪和線が通っていて子どもたちは特急「くろしお」にあこがれを持っていたと思うのですが、私はそこから格が落ちるこのキハ58系が好きでした。華はないけれど、懸命に走る姿はどこの線区で用いられていても、気になる存在でした。 私が小学6年生のときの修学旅行も、このキハ58系で伊勢志摩へ行きましたが、思いがけなく乗ることができて、とてもはしゃいだこともいい思い出です。 就職してからは、仕事で乗る機会も増えて、キハ58系の活動期の晩年だったこともあって一般的にはウケは悪かったでしょうけど、私にはうれしかったですね。 そんなキハ58系も寄る年波には勝てず、2011年についに定期運用としてJR線内からは姿を消してしまいました。 この車両は、急行列車用として1964年に製造され、2011年に廃車になるまで活躍していた車両です。主に山陰方面で活躍していたのですが、新製間もない時期に海水浴客の運搬のために千葉県で活躍した記録(当時は道路事情が良くなく、鉄道での移動がメインだったんでしょうね)があるという千葉県に縁のある車両だそうです。 車内は、元々はクロスシートがずらりと並んでいたのですが、晩年は扉に近い座席がロングシートとなり、つり革まで取り付けられてしまいました・・・。 クロスシートは、こんな感じで半分の座席にテーブルが取り付けられていました。これは、この日の運用の中でイタリアンレストランとして使用されるための準備のためだそうで、急行列車として使われていたオリジナルのスタイルとは違うので、そこが残念でした。 それでも、大きな一枚窓から眺める風景は、かつて乗車したときのことを思い出させてくれます。 窓側の小さなテーブルには、「センヌキ」もありましたよ。テーブルが邪魔で使えませんが・・・。 この日利用した乗車券です。 右側は、いすみ鉄道と小湊鉄道の連続乗車券、左側は今回乗車した列車の急行の指定席券です。かつての国鉄の急行の指定席券をモデルにしたもので、なかなかいいものです。 そうこうしているうちに、列車は懐かしいディーゼル音を響かせながら出発、急行用の車両であるんですが、線形の関係で飛ばすわけにはいかないのか、のんびりと走ります。 この日は、天気があまりよくなくて、時折小雨も降る天気でしたが、こうして写真を撮るには少し曇っているくらいの方が私は好きですね。影の心配をしなくていいから。 途中の国吉駅では、これまた国鉄当時に製造されて、私が利用している電化前の関西本線で活躍していたキハ30系が置かれていました。これは、少し前まで同じ千葉県のJR久留里線で走っていたものだそうです。 いすみ鉄道の終点、上総中野駅で折り返して、途中の大多喜駅まで戻ってきました。上総中野からの折り返しには、キハ28に乗車することはできなかったのですが、今や大変貴重な車両を大事に保存し、運用もされているということで、とてもありがたいことだと思いました。 関西からはかなり遠いし、東京からでもちょっと遠いのですけど、機会があればまた行ってみたい、そう思いました。
2013年12月05日
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先日、群馬や埼玉へ出張した際に、東京で一泊しました。その時に、東急東横線祐天寺駅近くにあるカレーショップの「ナイヤガラ」へ行きました。ここは東京へいって時間があれば毎回行っていますが、鉄道グッズ満載のお店なのです。 実は、前回行った時に移転するとの話を聞いていたので、今回は行く前にケータイのネット情報で移転先を調べて行きました。以前の位置から線路沿いを中目黒方面へ少しもどるような感じで歩いて約3分くらいで到着、以前よりも狭くなってしまいましたが、こんな感じのわかりやすい外観でした。 お店のドアは客車のドア(14系か24系あたりかな・・・)で、これを開けて入ります。 こんな感じで、定番のSLのナンバープレートや・・・ かつては大きな駅で見ることができた列車の発車時間の案内看板といった珍しいものが展示されていました。今では、見やすい電光掲示板になっていますけどね。これはこれで、味のあるものだと思います。 また、ガラスケースの中には、SLに取り付けられていた製造銘板もあったり・・・ 戦前の国鉄の名称、「鉄道省」の銘板もありました。こういったものは、なかなか貴重なものなんですよ。博物館では見ることができても、普通のお店でこういったものが置いてあるのは、非常に珍しいのです。 忘れてはならないのは、このお店はカレーショップであるということ。ついつい鉄道グッズに目を奪われがちになりますが、これを食べながら鉄道グッズを眺める。しかも、置かれている座席も古い客車や電車のものですから、雰囲気もあります。 ところで、この写真の左側にある「DATING MACHINE」という古めかしい装置は、何かご存知ですか? 古い鉄道ファンの方なら覚えておられると思いますが、これは切符に日付を入れるものです。昔の切符は手売りでしたから、出札口(この名称も死語かな)で行き先を告げてお金を出すと、係員が切符をケースから取り出してこの装置を通してお釣りと切符を差し出す。そのような光景が当たり前のように見られていました。私がよく利用した阪和線の鳳駅なんかは、阪和線の中では比較的大きな駅ですから、中距離区間の切符はそのように売られていました。 こんな感じの切符ですね。いわゆる「硬券」という切符には、このように前出の装置を使って日付が入れられていました。そして改札口では、駅員が切符にハサミをいれるとこのように切符の一部が切り取られる、これも少し前は当たり前のように見られた光景でした。今でも、地方の私鉄では見られるかもしれませんが・・・。 そのような懐かしい話を、忙しい合間を縫ってこのお店のマスター(駅長さん)と話していました。失礼ながら、駅長さんの年齢を考えると日々大変だと思いますが、これからも博物館級の貴重な鉄道グッズを守りつつ、いつまでもお元気でがんばってほしいと思いました。 また、東京へ行った際には、立ち寄りたいと思います。
2013年11月29日
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先日の群馬への出張の途中、埼玉へも行きました。埼玉といえば、野球は西武ライオンズ、サッカーは大宮アルディージャと浦和レッズがありますね。私の上の子どもは、野球は広島東洋カープ、サッカーは浦和レッズとどちらも赤がチームカラーのファンだったりします。 浦和駅の駅名標です。 次の駅が北浦和、手前が南浦和となっていますが、この「浦和」とつく駅は他にもあります。 写真の駅は、いずれも東北本線にある駅ですが、「西浦和」(武蔵野線)、「中浦和」(武蔵野線、埼京線)、「武蔵浦和」(武蔵野線)、「東浦和」(武蔵野線)と「浦和」がつく駅の多いこと。この武蔵野線の西浦和から東浦和まで、全て「浦和」がつく駅になっていますが、全国的に見ても珍しいでしょうね。 っていうか、なぜこんなことになっているんでしょうね。 「浦和」という名前にブランド力があって、駅を設置するときに「浦和の名前をつけてほしい」ということだったのか、それとも元々からある字名を駅名にしたのでは、住民同士でもめるからこんな駅名にしたのか。 埼玉に土地勘のない私なんて、さっぱりわかりませんわ~ ちなみに、前出の字名を駅名にしようとしてもめるケースは、意外とあるようです。だから、大阪市営地下鉄では、「西中島南方」とか「太子橋今市」のように、字名をくっつけた駅名になっているものがあります。これも、大阪に土地勘のない人は、びっくりするでしょうね。また、その駅名の意味を聞いて二度びっくりするかなぁ・・・。 話をもどして、この写真を撮ったのは、この話題を紹介するのではなく、上の子どもからのリクエストでした。
2013年11月20日
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撮りためていた写真の中から、この写真を取り上げました。写真のデーターによると、2011年3月11日午前7時頃の撮影で、場所は私の家の近くのJR大和路線王寺~三郷間の大和川にかかる鉄橋です。 天王寺方面へ向かって走っていく列車なので、少し車両の後ろの方がブレた感じになっていますね。そんなにいいデジカメで撮ったわけではないので、その辺はご容赦を。JR大和路線を走る381系も過去のものになりましたが、ほんの2年半前のことなんですけどね。 このやまとじライナーは、帰宅時にはよく使いました。天王寺を20時に出発(大阪は1945だったかな)し、乗車整理券310円が必要でしたが、必ず座れますから重宝しました。特急用の車両を使うし、乗り心地もいいですから、仕事で疲れた時はこれに乗って爆睡でした・・・。 そんな利用価値の高いこの列車も、この年の3月の改正で消えてしまいました。この写真はそんな廃止直前の様子を撮影したものだったんですね。すっかり忘れていました。 ところで、2011年3月11日といえば、未曾有の大震災が東北の太平洋側を襲った日。この撮影したときは、そんなことが起こるとは全く予想なんかできるわけなく、普段通りの平日の朝でした。 そう思うと、大きな災害って、いつどこで起こるかわからない、ということなんですね。この写真とその撮影したデータを見て、改めてそのようなことを思い出させてくれました。
2013年11月06日
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昨日は姫路方面へ出張へ行きました。その列車で通過する駅の一つに、この駅があります。 御着駅です。姫路の一つ手前の駅です。 読み方はそのままなんですけど、変わった駅名だなぁって思っていました。 名前の由来は、元々お城があってその名前が「御着城」だったとか。そこから来ているみたいですね。 現在、この御着駅があるのは姫路市ですが、1957年までは飾磨郡御国野町だったそうです。駅自体は、1900年に山陽鉄道の駅として開業していますから、100年以上の歴史ある駅なんですね。
2013年10月19日
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JR東日本とJR西日本は10日、2015年3月に長野新幹線を金沢まで延伸して開業する北陸新幹線の列車名を発表した。東京-金沢間の直通列車速達タイプを「かがやき」、同停車タイプを「はくたか」、富山-金沢間運転列車(シャトルタイプ)を「つるぎ」、東京-長野間運転列車(現長野新幹線タイプ)を「あさま」とした。【時事通信ネット版から引用】 2015年3月開業の北陸新幹線。東京から現在の長野新幹線を経由して北陸を結ぶわけですが、そこを走る列車名が発表されました。 東京~金沢間の速達タイプ(東海道山陽新幹線でいう「のぞみ」) 『かがやき』 〃 停車タイプ( 〃 「こだま」) 『はくたか』 東京~長野間はそのまま現行の『あさま』 金沢~富山間のシャトルタイプは『つるぎ』 北陸方面の特急や急行の列車名としては、かつては「白山」とか「立山」などがありましたが、それらは採用されなかったんですね。「つるぎ」は、かつて大阪と新潟を結ぶ寝台特急(ブルートレイン)で使われていましたが、思わぬ復活ですね。 それにしても、東京~金沢間の速達タイプの名称が「かがやき」になるとはねぇ。早速口の悪い人からは、「加賀焼」って言われていますけど・・・。もしかしたら、それも狙った? そんなわけないだろうけど。 「かがやき」もかつては、金沢~長岡間の特急で使われていましたが、数年で廃止となっています。 ところで、東海道新幹線が開業するまでの間、東京~大阪間を走る特急の名称として「こだま」がありました。東京~大阪間を6時間30分で走る特急だったわけですが、そんな列車名が東海道新幹線の各駅停車タイプに使用されるなんて、当時の人たちはどのように感じたんでしょうね。東海道本線を疾走する特急のはずだったのに、新幹線では各駅停車かよってね。 そして、速達タイプが「ひかり」でしょ。当時の日本の最新鋭の鉄道の列車名だから全く新しい名前を、ということだったのかもしれないけど、この「ひかり」はその前には九州のローカルの急行の名称だったんですよね・・・。 今回の列車名は、公募により決定したようですけど、ホントに「かがやき」が多かったのかなって思いたくなるんですよね・・・。JRの思惑がかなりの部分で加味された結果ではないかと。 さて、開業まではまだ時間があるのですが、気になるのは第三セクター化される現行の北陸本線の状況です。鉄道の運営って、維持経費が莫大にかかるし、事故なく運行できて当たり前ですからね。JRの運営から切り離されて、うまくやっていけるのか。華やかな新幹線開業の裏で、そういうことが気になってしまいます。
2013年10月10日
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大阪万博当時から運行する大阪市営地下鉄の「30系」車両が引退することになり6日、ラストランがあった。多くの鉄道ファンらが、「シルバーカー」の愛称で大阪の発展を支えた市営地下鉄現役最古の車両との別れを惜しんだ。 30系は1968年に御堂筋線に導入。従来、1車両3枚だった扉を通勤車両として4枚としたほか、アルミやステンレスの車体を塗装せず、機能性や経済性を重視した。70年の大阪万博では人員輸送の中心的役割を果たし、84年には市営地下鉄全車両の約4割にあたる363両が運行した。【毎日新聞から引用】 わたしの職場の近くを走る地下鉄谷町線で、最後の活躍をしていた大阪市営地下鉄30系が引退したとのこと。最近は、このようなマニアックな内容まで新聞で紹介してくれるなんて、うれしいものです。 本文にもありましたが、30系は大阪万博を控えた1968年に登場、大阪が活気に満ち溢れていた時期を地下から支えていた車両でした。当初は室内のシートがプラスチック製のまるで公園のベンチのような硬いもので、長く座っているとお尻が痛くなるものでした。後にそれは今のようなモケットに置き換わりましたが・・・。 また、最初期の車両の客室扉は、ハメ殺し窓の位置が非常に高くて、子どもの頃はドアのところに立つとアルミ製のドアしか見えない状況でした。 長い期間製造されていたのですけど、バリエーションとしては「アルミカー」か「ステンレスカー」の二種類がありました。見分け方は、車体側面にデコボコがないのがアルミカー、あるのがステンレスカーでした。 この写真は、谷町四丁目駅に展示されていたものですけど、真ん中の二編成が今回引退した30系です。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、車体側面にデコボコがありません。これがアルミカーです。 この写真は、2007年1月に撮影したものですが、車体にデコボコがあるステンレスカーです。 大阪市営地下鉄では、この二種類をあわせて「シルバーカー」とよんでいました。例えば、私が利用している谷町線では、かつて50系というさらに古い車両も運転されていたのですが、扉の数が違う(30系は4扉、50系は3扉)ために、乗車位置を示す看板に30系の乗車位置にはあえて「シルバーカー」の文字が入れられていました。 まぁ、利用者にとっては、アルミであれステンレスであれ、「シルバー」には違いないですものね。 話が少しずれたついでに、この30系はバリエーションは二種類だけなのですが、よくよく見ていくとなかなかマニアックな車両でして、使われた線区によって編成の長さが違ったために、編成の組み換えや不足する車両の新製、改造などが複雑怪奇に行われていました。だから、一つの編成の中に昭和56年製造の車両があったかと思えば、昭和48年製造の車両が混在していたりと、いろいろ複雑でした。マニアックなファンしかわかりませんけどね、そんなこと・・・。 もうひとつついでに、この30系は1968年に登場しているのですが、これの先行試作車的な車両が1967年に登場しています。 この写真も谷町四丁目駅に展示されていて、少しわかりにくいかもしれませんが、「8002」の番号が書かれています。この車両は、当時8000系と呼ばれていた車両で、谷町線の東梅田~谷町四丁目間が開通した時に導入されました。後に、30系に編入されましたが、細部がオリジナルの30系と異なっていました。 ところで、私が就職した1986年当時は非冷房車ばかりで、この30系にも冷房がありませんでした。窓は上側しか開かない(下が全く開かないか、開いてもわずかだけ)のため、夏場は暑かったのです。その窓の開く取手も登場時期によって少し異なっていたことも覚えています。後に、冷房がつくようになって、取手も共通化されてしまいましたが・・・。 また、前出の50系を置き換える際には、四つ橋線から転属してきた車両なども混じって、ファン的にはなかなかおもしろかったのも覚えています。 話を戻して、今回引退してしまいましたが、アルミカー及びステンレスカーの先頭車両の1両ずつは、今でも大阪市交通局によって保存されています。前出のとおり大阪の成長期を支え続けた車両ということで、交通局にとっても思い入れのある車両なのかもしれませんね。
2013年10月07日
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先日、鷹取駅周辺に出張した話はこのブログで紹介しましたが、今日はその鷹取駅を紹介します。 前のブログでも紹介しましたが、鷹取駅には国鉄鷹取工場がありまして、主に国鉄の機関車の修理が行われていました。古くは蒸気機関車、晩年でもディーゼル機関車や電気機関車が入場(工場に入ること)しているのを見かけたものです。 今年は水害で運行が中止になってしまいましたが、山口線の「やまぐち号」を牽引するC57の1号機もここでメンテナンスを受けていました、1995年の阪神淡路大震災のときには損傷したこともあったようですが・・・。 そんな鷹取工場ですが、2000年3月末に廃止されてしまいました。跡地は住宅地やコンテナターミナルになったのは、先日のブログでも紹介したとおりです。 そんな鷹取工場を偲んでか、鷹取駅の正面にはこのようなモニュメントが設けられていました。左から1801形、真ん中が9600形、右がC57型のナンバープレートです。このうち、9600形のものが本物のように思いました。(あとはレプリカかと) さて、鷹取駅から列車に乗ろうとホームに上がると、保育園児がホームの端の方にたくさんいるのと、変わった車両が停まっているのに気がつきました。 みんなこの見慣れない車両を見ていたんですね。 この車両は、E6系とよばれるJR東日本の車両で、秋田新幹線の「こまち」に使われる車両だそうです。 ここはJR西日本管内なのになぜJR東日本の車両が、と思われるかもしれませんが、この鷹取駅の二つ大阪よりの兵庫駅から分岐して通称・和田岬線という路線があって、そこに川崎重工の神戸工場があり、そこで製造されたのがこの車両なんです。 この写真の窓のところには、「Kawasaki」のマークが掲げられています。この車両は、Z17編成となるようで、車番はE621-17となっていますね。 ちなみに、今は鉄道車両を作っていませんが、富士重工製の客車は表示を当時運行されていたブルートレインの「富士」のサインを表示していたとか・・・。 ところで、新幹線の線路幅(ゲージ)は1435mm、JRの在来線は1067mmなのになぜって思われるかもしれませんが、現在の台車は仮台車で正式な新幹線の台車ではありません。先方に到着してから、正規の台車に付け替えられます。 話を戻して、鷹取駅にやってきて思いがけないものを見ることができて、よかったです。
2013年09月20日
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先日、出張する際に地元の王寺駅から列車に乗るときに見かけた光景です。JR大和路線のラインカラーは緑色、でも車両はかつての山手線のような黄緑色の103系や201系が活躍していますが、それに混じって水色の103系を時折見かけます。この日もそうでした。 先日のブログでも紹介しましたが、大和路線で快速等で使われている221系(上の写真の奥の方の車両)がリニューアル工事を行っているために、一時的に車両が不足しているようで、阪和線の車両を借入れているとのことです。阪和線のラインカラーはオレンジですが、車両の色は水色となっています。 このような光景がいつまで見られるのかわかりませんが、気がついた時に撮っておこうということで、ほかのお客さんがいる前で恥ずかしかったのですが、ケータイのカメラで撮りました。 さて、上の写真は221系が入線してくるのを待ち構えて撮ったわけではありません。大和路線ではこの駅で、奈良行きと高田行き(又は五条行き)と切り離す列車がありまして、これはちょうど奈良行きの列車を切り離したあと、高田行きの列車が出発を待っているところです。
2013年09月17日
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私がよく行く散髪屋さんは、大阪市営地下鉄今里筋線のだいどう豊里駅近くにありますが、その行き帰りにこのJR学研都市線の鴫野駅で乗り換えを行います。天王寺などの雑踏を通らなくていいし、鴫野からおおさか東線を経由すると座れることもあるし。(久宝寺からは座れませんが・・・) そんな鴫野駅ですが、現在ホームの改良工事を行っています。鴫野駅の開業は、1932年ですからかなり歴史のある駅なのです。 線路がカーブしているところにホームがありまして、停車中の列車の写真を撮るにはちょうどいいようです。(昔の写真では、この駅で撮影したものをみかけます) この写真の向かって左側、そこに新しいホームを建設中なのです。 こんな感じですね。現在のホームとちょっと似ているかな。いや、なんだか仮設の屋根みたいかな。ちなみに、数ヶ月前はこんな感じでした。 この写真は、京橋方面を撮ったもの。 この写真は、四條畷方面を撮ったものです。 まだ屋根はかかっていないですよね。ケータイのカメラの記録によると、1月末でしたからそりゃ工事も進みますわな~ ところで、この工事は、おおさか東線用のホームを鴫野にも作ることを目的としているとか。要するに、現在のホーム(一番上の写真)をおおさか東線向け、新しく造っているホームを学研都市線用にするようです。 ということは、現在おおさか東線の列車は、放出~久宝寺の運行にしているのを、京橋~久宝寺に変更するのかな・・・? まぁ、いずれにしても、この鴫野駅が大きく変貌するようです。こういう定点観測って個人的に好きなので、また機会があったら紹介したいと思います。
2013年09月06日
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物事には始まり(起点)と終わり(終点)があります。それは鉄道路線も一緒です。例えば、東海道新幹線。起点は東京、終点は新大阪ですよね。それに続く山陽新幹線は起点が、新大阪で終点は博多です。 では、在来線の東海道本線の起点と終点はどことどこでしょうか。鉄道ファンならこんなのは基礎知識レベルでしょうけどね。 東海道本線の起点は東京ですけど、終点はどこになるのか。 大阪なのか、新大阪なのか、これら以外の駅なのか。実はここだったんです・・・。 そうです、神戸だったんですね。 神戸駅構内にはこのような表示がありまして、神戸までが東海道本線、神戸からが山陽本線ということになります。すなわち、東海道本線の終点であり、山陽本線の起点でもあるということですね。 ちなみに歴史的には、神戸から先はかつては山陽鉄道という私鉄でして、明治39年(1906年)の鉄道国有化法の際に国有化されました。 話を戻して、日本の鉄道の大動脈の一つである山陽本線の起点となる標識ですので、今回紹介いたしました。私にとっては明石・姫路方面へ出張に行く際に、いつも見かけるおなじみの標識であるんですけどね・・・。
2013年07月16日
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先週のガゼルスの試合では、高石市の鴨公園運動場へ行きましたが、移動は列車移動でした。駐車場の台数が少ないということだったので、私は奈良から行きますが早めに出て列車で移動。最寄駅はJR阪和線富木(とのき)駅から徒歩15分ぐらいとのことだったので、それなら歩けますから。ただ、とっても暑かったけど・・・。 天王寺から快速に乗って、鳳で普通列車に乗り換え。鳳は私が実家から通勤している時の最寄駅、駅前の雰囲気は少し変わりましたが、駅構内はエスカレータがついたくらいでそんなに変わっていません。20代の頃はここから毎朝出勤して、夜遅くまでがんばっていたんですよ。 普通列車に乗り換えて出発、すぐにかつては阪和線の車両基地だった鳳電車区の跡地の電留線を見ながら、ほどなく富木駅へ。 富木駅は1940年に開業。今の阪和線が私鉄の阪和電鉄だった当時に開業しています。今でこそ駅周辺は住宅地ですが、当時はもっと住宅がすくなかったんでしょうね。 和歌山方面(駅の東側)の駅舎です。富木駅は上り下りで別々の駅舎があります。元々はこちら側だけだったようですが、駅の西側にも改札口ができているとのこと。そんなに大きな駅ではないですよ。 阪和線にはこのようなスタイルの駅が多いように思いますが、やはりかつて私鉄だったからなのかもしれません。 この写真は駅の南方にある踏切から撮ったものです。そんなに大きな踏切ではありませんが、車が通るのでそのタイミングを見計らって撮りました。 ホームは対向式とよばれる上り下りに向かい合わせに配置された標準的なホームです。阪和線は直線区間が多いのですが、この区間もごらんのように直線ですので列車のスピードも出るところです。 だから、学生時代はこのあたりの区間や前出の鳳電車区付近で、よく写真を撮ったものですが、今では住宅が立ち並んだりマンションが建ったりして、すっかり雰囲気が変わってしまいました。 ところで、今日もガゼルスの試合があったのですが、チームメイトのA31さんに「最近は鉄道ネタが少ないですね」とのことだったので、先日写真を撮ってまだアップしていなかったものを載せてみました。 ガゼルスの試合結果は、また明日にでも。
2013年07月15日
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先日、出張した際に、ある家の軒先にツバメの巣を見つけました。 これは雛鳥なのでしょうか、全部で5羽が親鳥を待っているようです。 ツバメはちょうと子育て真っ最中というところでしょうね、忙しく飛び回っている姿をよく見ます。虫を捕食してくれる益鸟ですからね、とてもありがたいです。図体だけでかくて、ゴミを荒らしまくる役たたずのカラスとはえらい違いです。 そんなツバメですが、数が少しずつ減ってきているという話を聞いたことがあります。都市化が進んで、餌場となる田んぼや畑が減ってきていることもあるのでしょうか。そうはいいながらも、都市の中でたくましく生きているツバメもいます。 ツバメの巣というと、泥を固めたようになっていて、糞などが落ちてくるということもあって巣づくりをしている時に撤去してしまうところもあるようですけど、ツバメの巣があると縁起がいいと言われていますから、あたたかく見守ってあげられればと思っています。 ちなみに、私の和歌山の親戚のところにもツバメの巣がありました。軒先ではなくて、家の玄関の内側、すなわち家の中ですね。なぜそんなところに巣を作ったのかわかりませんけど、親戚の家ではそのままにしていまして、毎年のようにツバメがやってきて子育てをしていました。 そのため、玄関のドアは日中は締められず、開けっ放しになっていました。夜になったら締めて、早朝に開けていたようですけど、田舎だからできたんでしょうね・・・。
2013年06月17日
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先日、私の家の最寄駅である王寺駅に水色の103系が停車していました。これは阪和線の日根野電車区(近ヒネ)所属の103系(クハ103-127他4連)なのですが、最近移籍してきたようです。だから色も大和路線の黄緑色に塗り替えられずに使用されています。 この日はどのような経緯でここに停車していたのかわかりませんが、ほかのサイトの情報によると、大和路線の主力車両である221系が更新工事のために不足していることから、その穴埋めにやってきたようです。 この103系も高経年車であるので、そんなに長くは活躍しないかもしれませんから、この写真もいずれは貴重になるかもしれません。
2013年05月24日
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先日、大阪市役所へ行った際に、地下鉄開業80周年のパネル展示がありました。その話はまた別の機会として、そのパネル展示に合わせて京阪電鉄の天満橋~淀屋橋間の工事の状況を紹介しているものもありました。同じ淀屋橋界隈ということで、一緒に展示されていたのでしょうか。 その中でも、目に付いたのが京阪天満橋駅から土佐堀川(大川)に沿って行われている工事の写真です。 この写真の時期はわかりませんが、天満橋から淀屋橋への延伸工事が始まったあたりではないかと思われます。 写真の川は、土佐堀川(大川)です。そして、そこにかかっている橋が天満橋。今では上下二段の橋になっていますが、この当時はまだ一段ですね。 その橋のところにある大きな建物が、この当時の京阪天満橋駅です。京阪電鉄開業時からこんな川と道路に挟まれた場所起点になっていまして、今ではOMMビルが建っているあたりになります。 もちろん、この時点では京阪シティーモール(旧松坂屋天満橋店)は、まだありません。 この写真は、天満橋を西方向から見ている写真です。土佐堀川(大川)沿いに延伸工事を行っている様子がわかります。ちょうど工事しているあたりが、今の京阪天満橋駅になります。 その工事を間近で見るとこんな感じだったようです。開削工法で進められていますね。すべての区間が開削工法ではないと思いますが、この天満橋あたりはそうだったんですね。 写真の向こうの方に見えるアーチ状の橋が、天神橋です。 川沿いの工事ということと、地下鉄の工事もそうだったそうですが、地盤がゆるかったようでかなり苦労されたと思います。でも、何とか1963年には淀屋橋までの延伸工事が完了しました。 ちなみに、京阪電鉄にとっては会社開業時からの悲願の一つであった「大阪市内中心部への鉄道乗り入れ」がここに達成できたとのこと。開業当時は、「市営モンロー主義」というのがあって、「大阪市内の交通は、大阪市が整備する」という方針の下、泣く泣く天満橋にて開業したのですが、天満橋~淀屋橋間を走る市電を廃止する方針が打ち出せされたことにより、延伸できたのでしょうね。 話をもどして、私の職場のある天満橋周辺の様子を紹介したパネルだったので、じっくりを見ておりました。その後の開発等ですっかり変わってしまったのですけど、貴重な写真を見ることができてうれしかったですよ。
2013年05月22日
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今年は大阪市営地下鉄が開業して80周年だそうです。1933年に梅田~心斎橋間が開業しましたが、「公営交通の地下鉄」としては日本初だったんですね。(日本最初の地下鉄は現東京メトロ銀座線ですが、これは東京地下鉄道(のち帝都高速度交通営団)が開業) その当時使われていた車両が、現在大阪市役所の前に展示されています。開業80周年を記念した展示だそうで、それにあわせて大阪市役所の1階でパネル展も行われています。先日、淀屋橋へ行く用事がありましたので、見てきました。 これが開業当時に使われていた100形の105号です。車体長17mと今の大阪市営地下鉄の車両と比べるとやや小さいのですが、どっしりとした雰囲気のある車両です。 車体側面には、形式プレートが取り付けられています。昭和8年に製造されましたが、この105号は田中車輌(現在の近畿車輌)製造だそうです。 この展示は車体のみとなっております。また、この車両は、普段は四つ橋線の車庫のある緑木検車区(住之江区)で保存されております。 ところで、車体の前に何やらヘンテコな装置がついておりますが、これは何かわかりますか? これは「折りたたみ垣」とか「安全たたみ垣」とよばれるもので、今の地下鉄やJRの車両にも形状が異なるものの、似たようなものが取り付けられています。 前出のとおり、パネル展示がされておりますが、その中で開業当時の心斎橋駅に停車している100形写真がありました。 車両もさることながら、パネル展示はなかなかおもしろかったので、また紹介したいと思います。
2013年05月15日
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私の実家のある堺市にあるJR阪和線の鳳駅。ここから支線が分岐しています。通称・羽衣線、正確には阪和支線というそうですが、鳳~東羽衣間1.7kmで途中駅のない盲腸線は1929年に阪和線の前身・阪和電気鉄道(阪和)が開業した時からあった路線とのこと。歴史はかなり古いんですね。 なぜこんな盲腸線が伸びているのか。これは、阪和の歴史にも関係しておりまして、大阪~和歌山間にすでに開業していた南海鉄道(現・南海電鉄)に対応してつくられた路線だった阪和は、南海よりも山手を走っていたことから民家が少なくて乗客の獲得にも苦労しただけでなく、海辺がありませんからレジャーの一つである海水浴とか潮干狩りには全く縁遠くなっておりました。 そこで、鳳から分岐して東羽衣(当時は阪和羽衣)へ路線を敷いて、何とか南海に食い込もうとしたんでしょうね。羽衣はその北にある浜寺とともに、高度成長期までは海水浴場があったそうなので、阪和と南海の客引き合戦もあったとか・・・。 さて、そんな羽衣線にはながらく乗っていませんでしたが、今日久しぶりに乗ることができました。 阪和線鳳駅の5番のりばが羽衣線のホームになっております。この写真ではもう一つ線路が敷かれていたような跡がありますが、ここにはかつて6番のりばがありました。私が子どもの頃には、6番線を発着する列車も運行されていました。 この羽衣線で使用されているのは、全国でも珍しくなった103系の3両編成の車両が往復しています。一時期(1987年~1995年まで)は荷物電車のクモニ143を改造したクモハ123という見た目が奇妙な車両が活躍していました。さらに、もっと昔は旧型国電といわれるもっと古い車両が活躍していまして、これは私が子どもの頃でしたがよく覚えています。その後は一時期を除いて103系の3両編成の活躍となっています。 鳳を発車すると、すぐに高架線路となります。国道26号線をまたぐためですが、かつては高架線路ではなく、地上を走っておりました。また古い写真をみると、かつては複線だったようですね。田畑の中をのんびりと旧型国電が走るさまを古い写真でみると、とても大阪近郊には見えないものでした。 遠くの方に東羽衣駅が見えてきました。このまま行き止まり式のホームへ到着するわけですが、地上の土地の形状は、実は海の方(写真の奥側)へ下り坂になっています。そんなこともあってか、旧型国電の頃には車止めを突破する事故もあったようです。効果線路ではそのようなことは、わかりませんけどね。 高架線路になっているのは、国道26号線(第二阪和国道と行ったほうがわかりやすいかもしれませんが)の延伸によるものだと思いますが、高架線路の立派な路線にもかかわらず、103系3両編成が一日中往復している様子はちょっと変わった光景です。 沿線には学校もありますし、南海本線とを繋ぐ路線として利用されています。
2013年05月06日
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私がかつて住んでいた甲子園の一つ大阪寄りにある鳴尾駅。ここには、西宮市役所の鳴尾支所があって、住民票や印鑑証明などを取りに行きました。甲子園に住んでいるときは、自転車で取りに行くことができたのですけどね・・・。 現在、私は奈良に住んでいるので、住民票や印鑑証明は奈良になっていますが、戸籍だけは未だに西宮のままなんです。だから、戸籍抄本などが必要な時は、郵送で取り寄せるか、直接鳴尾支所まで行く必要があります。 さて、その鳴尾駅をはさんで武庫川駅から鳴尾駅を通って甲子園駅までの間、現在高架工事中でありまして、これが完成すれば阪神梅田駅から香櫨園駅(阪神西宮駅の一つ神戸寄り)まで高架が完成します。 先月、鳴尾支所へ行く用事がありましたので、写真を撮ってきました。 阪神鳴尾駅です。鳴尾支所のほかに、近くには武庫川女子大学もあります。 かつての駅の改札は、地下にありました。 こんな感じですね。仮囲いになっていますが、この左側のところに自動改札があって、大阪梅田へのホームと神戸三宮へのホームに分かれていました。 鳴尾駅はカーブしているところに駅がありまして、このプラットホームは元々のものではなく、仮のものです。いずれは高架駅になりますからこの状態は貴重なものになると思います。 ちなみに、阪神はカーブの多い路線で、ここのカーブも以前は通過する列車がタイフォンを鳴らしながら通過していました。 ところで、鳴尾駅から鳴尾支所のある方へは、国道43号線をくぐる地下道を通ります。殺風景な地下道の壁には、子どもが喜びそうな絵が描かれていました。かつても絵が描かれていましたけど、古くなったのか更新されていました。以前のものより可愛らしくていいと思いました。
2013年04月26日
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先日、関西でも有名な桜の名所の一つである夙川へ行った話は、このブログでもとりあげましたが、今日は阪急甲陽線の夙川駅を取り上げます。 阪急甲陽線は夙川から甲陽園までを結ぶ全長2.2kmの短い路線です。何ゆえこの路線ができたのか、いろいろ説はあるようですけど、沿線の通学や通勤に利用されています。全長2.2kmですから、前回行ったときは甲陽園から夙川まで歩いたくらいです。 使われている車両は、阪急6000系の3両編成でワンマン運転されています。 車体の行き先表示も「甲陽園~夙川」というようになっています。(本当はもう少しちゃんと写したのですが、人の顔が写っていたのでカットしました) ところで、甲陽線は地図で確認してもらうとわかるのですが、阪急神戸線の夙川駅から垂直に北上しているようにみえます。2.2kmという短い路線ですし、後からできた路線ならそういうこともあるでしょう。 では、この甲陽線を走る車両は、どのようにして車庫から運ばれているのでしょうか。甲陽線の中には車庫はありませんから、別の場所に車庫はあります。 実はこの引込線を通ってやってくるのです。向こう側が阪急神戸線の線路になっていまして、西宮北口駅近くにある西宮車庫から車両が回送されてきて、この引込線を通って甲陽線にやってくるというものです。 (線路の中にある白い物体は野良猫です) それにしても、カーブの半径としては、結構急カーブですよね。3両編成とはいえ、長さは3両分で約60mくらいありますから、ゆっくりと曲がってくるんでしょうね。 こんな感じで微妙にカーブしながら、甲陽線の夙川駅のホームを一旦通り過ぎて、バックしてホームに入っているんでしょうね。 阪急にはこの夙川駅のほかに、西宮北口駅の今津南線(西宮北口~今津)ホームにもこのような引込線があります。カーブの半径は西宮北口の方が大きいかも。
2013年04月08日
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二週間前の3・16のJRのダイヤ改正で、阪和・紀勢本線の関係では特急「オーシャンアロー」と特急「スーパーくろしお」はいずれも特急「くろしお」に名称が統一されました。元々は、国鉄時代から「くろしお」だったのですが、ようやく元に戻ったということになりますね。 写真は、だいぶ前に撮影した特急「スーパーくろしお」です。「スーパーくろしお」は国鉄当時からの381系を使用していますが、塗色は国鉄当時の塗色ではなく、スーパーくろしお色ともいえる軽快な塗色になっています。室内もシートピッチが広くなっておりまして、窓の配置と一部一致していませんが、快適になっています。 ちなみに、この写真は何気に撮ったわけですが、こういう写真って後で見るとよく撮っていたなぁって思うことが多々ありますね。この写真はそんなに大したことないとは思いますが・・・。
2013年03月30日
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【鉄橋で中学生はねられる・・・】 小中学校や高等学校では春休みが始まったところですが、私の上の子どもが通っていた中学の在校生が昨日、近くの鉄橋で列車にはねられて2人が死傷したとのこと。場所は、JR和歌山線の王寺~畠田間の葛下川鉄橋で、鉄橋を渡ろうとしていたのかもしれませんが・・・。 さて、鉄道の軌道内は鉄橋やトンネル内も含めて立入禁止になっているわけですが、昔のニュース映像をみてみると、平気でトンネルや鉄橋を通っている地元民の話題があったりしますけど、いくら大雑把な時代とはいえども「何かあっても自己責任」ということだったのかもしれません。もっとも、昔なら蒸気機関車が使われていたり、今のように家が立ち並んでいなかっただろうから見通しも効いたでしょうけど、今は線路際まで家が立ち並んでいるし、蒸気機関車でもないから音では気が付きませんよね・・・。 ところで、地方のローカル私鉄では警報器も遮断機もない踏切があるので、警笛を鳴らしまくって走っていたのを覚えています。見通しが効かない区間もうるさいくらい鳴らしていましたが、今回の事故もそのような取扱いをしていたら子どもたちも気がついたかもしれませんね・・・。ただ、沿線住民は四六時中うるさいでしょうけど・・・。 とにかく、軌道線内は立入禁止なので、絶対に立ち入らないでくださいね。危険だけでなく、列車の運行に支障がありますからね。【鉄ヲタ、桜の木を切り倒す?】 3月16日にJR各線は新ダイヤになり、関東では新しい渋谷駅とその前後の路線が直通運転が行われるようになったそうですが、そのようなダイヤ改正前には「葬式鉄」といわれる鉄ヲタが人の魅惑省みず運行に支障をきたすようなことがあります。要するに、自分勝手に写真を撮りたい、邪魔されずにきれいな写真を、ということなんですけど、だったらもっと普段の写真をとっておけ、バカ!っていうことなんですけどね。 それはさておき、先日どこかで読んだのですが、長野県のしなの鉄道沿線で線路際の桜の木が何者かに切られ、それが鉄ヲタの仕業ではないかというものでした。その後撤回されたようですが、そう思われても仕方ないようなことを連中は鉄道会社に対して普段からやっている、ということなんだと思います。 そりゃそうでしょう、その鉄道に乗車して運賃を支払うなどして鉄道会社にお金を落としてくれるならいいんだけど、カメラの機材がたくさんあれば車で移動しているだろうから、鉄道を利用することはないでしょうからね。 そういえば、1994年に廃止された和歌山県の野上電気鉄道は、元々愛想のよくない職員が多かったのですけど、廃止前にはそれが顕著になって車内撮影はもちろんのこと、駅構内での撮影も禁止されてしまう有様でした。それは無人駅でも注意されたことがあるくらいでしたけど、それもこれもこんな鉄ヲタと言われる連中の仕業から来ているのだと思っています。 私も鉄道ファンの端くれですけど、こんな鉄ヲタにならないように細心の注意を払って申し訳程度に写真を撮っているつもりですけどね・・・。なんでも、やりすぎはダメですわ~【交通ICカードが相互利用可能に・・・】 今日から全国の10種類のICカードが相互に利用できるようになりました。相互利用サービスには142事業者が参加しているようで、全国の駅の半分近くに当たる約4300駅を1枚のカードで乗降できるとのこと。 だから、今までは私が持っているICOCAでは、例えば東京駅から高田馬場駅を経由して西武新宿線久米川駅まで行こうとするときには、東京駅から高田馬場駅間はJR東日本はICOCAが使えるものの、西武線は使えなかったんです。そこで、私は関東エリアではsuicaをわざわざ利用しておりました。それも今日からはICOCAで西武線も利用することができるようになりました。 相互利用できるようになったメリットは、現地でいちいち料金表をみなくても列車やバスに乗ることができるようになったのが大きいです。あまり行ったことがないところでは、どれくらい料金がかかるのかわからなかったり、急いでいる時にさっと改札を通ることができるのも大きいです。 でも、142事業者が参加しているとのことですが、例えば私の実家のある大阪府の南海バスはまだ参加していませんから、最寄駅からバスに乗り換えるときには現金で支払わなければならないのです。また、同じ大阪府の路面電車である阪堺電気軌道も同じく、参加していないのが残念です。まぁ、いろいろ事情があるんでしょうけどね。 なかなか便利だし、他の事業者にも広がっていけばいいなぁと思いますけど、切符を買わなくなるので、それはそれでなんだか残念かなって思ったりもします。
2013年03月23日
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先日、仕事で私の家の近くの現場へ出張してきました。場所は近鉄生駒線の信貴山下(しぎさんした)駅近くで、私の家からでもがんばれば歩いて行ける距離でした。そういう出張も珍しいんですけどね・・・。 さて、信貴山下駅から信貴山へケーブルカーが運転されていました。ただ、1983年に廃止されてしまい、今でその姿を見ることはできません。 信貴山下駅です。近鉄生駒線は生駒側は複線化されたところもありますが、基本的には単線です。信貴山下駅で列車が交換しています。 駅前から信貴山方面へ伸びる真っ直ぐな道がありますが、ここにはかつてケーブルカーが通っていました。写真ではわかりづらいかもしれませんが、結構な上り坂なんです。車がないとなかなか大変そうなところです。 信貴山下駅構内には、あるかつてのケーブルカーの車輪などが保存されていました。近鉄の東信貴鋼索線とよばれていたんですね。1930年に信貴生駒電鉄が開業したのですが、沿線が住宅化してきたこともあって(1960年代前半から宅地開発がすすんでいたよすが、意外と早いですよね)1983年に廃止されてしまいました。 ちなみに、大阪側には同じ近鉄の西信貴鋼索線が今も運転されています。
2013年03月22日
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2008年3月15日に放出~久宝寺間が開業したおおさか東線。これは部分開業で、本来は新大阪(本来は北梅田だそうですが・・・)~放出~久宝寺間が本来の姿になるようです。この未開業区間である新大阪~放出間は、現在部分開業している区間と同じく城東貨物線を複線化するのですが、工事は進んでいるものの開業は2018年になるそうです。 さて、この路線が開業した時にどのような運行形態になるのか想像してみました。現在、京都~新大阪~天王寺~関西空港で運転されている特急「はるか」がこの路線を通るのではないかと思っています。例えば、京都からJR京都線で新大阪へ。方向が変わって、新大阪~放出~JR長瀬の南方から貨物線を経由してJR大和路線に合流して天王寺へ。ここで再度方向が変わって、JR阪和線を経由して関西空港へ向かうのではないかと。逆に関西空港からは現在のルートと同じ経路で京都へと向かうのではないかと。 ただ、この運行形態は新大阪と天王寺で二度も方向が変わるから、それはないかなってね。だから、京都からの往路は新大阪を経由しないか、もしくは思い切って「はるか」を新大阪発着にするか・・・。 どちらにしても、おおさか東線が開業してどのような運行形態になるのか、今ひとつわからないなぁって思っています。もっとも、私のように奈良に住んでいるものにしてみたら、大阪環状線を通らずに新大阪へ行くことができるのがメリットかなってね。 そんなおおさか東線ですが、開業5周年を記念して運行されている201系の一部に写真のようなヘッドマークが取り付けられています。
2013年03月19日
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私の住んでいる王寺駅には、桜井線と和歌山線へ運転される列車がありまして、その大半がこの写真の105系(正確には105系500番台)という車両が使われています。この車両は昭和59年に関東の常磐線・営団地下鉄千代田線直通用として使用されていた103系1000番台を改造したもので、もうすでに103系として使われた時期よりも105系として使用されている時期が長くなっています。 これは車体側面部に取り付けられている銘板ですが、「日本車両 昭和46年」と書かれていますように製造後42年も経過しております。 昭和59年というと、国鉄が赤字に頭を抱えていた時期で、当時新たに電化開業する奈良線の奈良~京都間と和歌山線の五条~和歌山間用として新しい車両ではなく、ちょうど新型車両投入で余剰となった103系1000番台を改造したのがこの105系だったというわけです。塗色もクリーム色にオレンジのラインという改造車ながら綺麗に塗り替えられて、お色直しされたわけですね。 以来、奈良線からは撤退しましたが、桜井線と和歌山線で引き続き活躍しているわけですが、最近になってこの塗色が青緑一色に変更されつつあります。 そんなわけで、先日たまたま桜井線に乗る機会がありましたので、撮影してきました。 桜井駅に停車中の105系二両編成です。先頭車両はクモハ105-516。103系時代はモハ103-1015という車両でした。中間車両に運転台を取り付けるという、国鉄末期にはよく見られた工法で運転台が取り付けられました。 電気関係は改造時に一新されていますが、当時の国鉄の財政状況から一部はほかの車両の廃車発生部品を活用されていまして、例えばドアの開閉やブレーキに使うコンプレッサーは、種車の103系よりもさらに古い101系のものが使われています。よって、コンプレッサーの作動音がなんともレトロな音がしています。 反対側はクハ105-6、こちらはかつてクハ103-1012だった車両です。こちらは元々運転台がありましたから、若干の改造にとどまっています。っていうか、正面の顔は常磐線・営団地下鉄千代田線直通の時と同じです。 ちなみに、一番上の写真の銘板はこのクハ105-6のもので、この二両は昭和59年に山口県の国鉄幡生工場で改造されています。 途中駅で交換する105系同士の列車ですが、向こうの105系が新しい塗色です。青緑といってもパッと見は青色にみえます。この色の105系がだんだん増えてきており、いずれは全て塗り変わります。 先にも書きましたが、105系として登場して29年、車両としては40年を超えているのですけど、塗り替えつつもまだ使うということなんですね。JR西日本は古い車両を大切に使う会社ですけど、この車両に関しては二両編成で動くことができる適当な後継車両を投入するほどの余裕がない、ということなのかもしれません。車両自体も国鉄当時の車両ですから、しっかり造られていますし。 まだしばらくは、105系としての活躍はみられそうです。
2013年02月16日
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二日連続の鉄道ネタ、すみません。 先日、仕事で奈良県五條市へ行きました。その際に利用したのが以前このブログでも紹介した「スイッチバックの駅」、北宇智駅です。2007年3月18日にスイッチバックは廃止されましたが、その後は行ってませんでした。 写真の左側のホームが新たに設けられた現在のホームです。そして、右側の砂利が放置されたようなところが、かつての線路跡です。かつてのホームも残っております。 あれから6年たち、こんな感じになっていたんですね・・・。 特に跡地利用がなされているということはなく、かつて撮影に利用した跨線橋もなくなっていました。
2013年02月01日
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先日のガゼルスの練習試合は、東大阪市で行ったことは先日のブログでも紹介しました。その最寄駅が近鉄けいはんな線の吉田駅です。 まず、関西以外の方には「けいはんな線」ってどこ? って思いますよね。 大阪市営地下鉄の中央線の長田から東側、東大阪市を通って生駒山をトンネルでくぐって生駒市、さらに奈良市の学研奈良登美ケ丘に至る路線が「近鉄けいはんな線」という路線です。以前は「近鉄東大阪線」とよばれていたのですが、2006年に生駒~学研奈良登美ヶ丘間が開業した際に今の名称となっています。 そんな中にあるのが今日ご紹介する「吉田駅」です。東大阪線とよばれていた時期から駅はありまして、上は阪神高速道路の東大阪線が通っています。 さて、この駅の読み方はなんと読むでしょうか? 「吉田」ですから、「よしだ」としか読まないと思いますよね。人名にも「よしださん」」って普通におられます。私の職場の同僚の苗字もそうです。 ところが、この駅は「よしだ」とは読みません。こう読みます。 「よした」(YOSHITA) そうなんです、まさかの「よした」と読むんです。「だ」ではないんですね、「た」なんですよ。変わっていますよね。 地元では、やはり「よしだ」とも読むようですけど、なぜ「よした」になっているのかわかりませんでした。 駅の周りには、工場や倉庫、住宅地といった「住工混在」のような感じのところでした。この路線は何度も利用しているのですが、この吉田駅に降りるのは初めてでした。
2013年01月31日
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JR東日本「Suica」(スイカ)など交通系ICカード10種類を発行する全国11の事業者・団体は18日、来年3月23日から全国でICカードの相互利用を始めると発表した。10種類のカードのどれかを持っていれば、全国どこの鉄道でも乗れるようになる。 今回は共通化できなかった「電子マネー」機能についても、将来的には共通化する計画だ。 共通化する交通系ICカードは、▽Kitaca(JR北海道)▽PASMO(東京メトロや関東私鉄系)▽Suica(JR東日本)▽manaca(名古屋交通開発機構とエムアイシー)▽TOICA(JR東海)▽PiTaPa(関西私鉄系)▽ICOCA(JR西日本)▽はやかけん(福岡市交通局)▽nimoca(西日本鉄道)▽SUGOCA(JR九州)。 北海道から九州までの各地域の鉄道を中心に使われている10種類。今月1日現在の発行枚数は約8009万枚と、相互利用できる枚数としては世界最大規模。全国の鉄道52、バス96の各事業者で使え、全国約20万店舗でも買い物が楽しめる。 JR東の田浦芳孝常務は「1枚のカードで切符などを買う手間が省け、より利便性が増す。画期的なことだ」と強調する。関西の「PiTaPa」は他地域の店舗で買い物ができないなど、完全共通化には課題もある。【産経新聞ネット版から引用】 私もいつも利用しているICカード。JR西日本ではICOCAという名称で、JR四国を除く全国のJRの路線(主に都市圏が中心ですが)を利用できるだけでなく、関西では主な私鉄と一部のバス路線まで利用することができます。また、岡山や広島の路線バスと路面電車の一部も利用することができます。 ただ、ICOCAでは関東の私鉄やバスに乗れなかったりするので不便でした。このため、私は関東へ出張した際に私鉄やバスにキャッシュレスで乗れるように、わざわざsuicaを買って使っていましたが、そういうこともしなくて一枚のICOCAで大丈夫なんですね。 このような便利なカードなんですから、早く規格を統一して欲しかったのですが、やっと来年3月23日から相互利用ができるようになるんですね。これで東京に行っても、九州に行っても、JRであろうが私鉄であろうがチャージさえしておけば安心して利用することができるというものです。 しかし、問題がないわけではありません。すなわち、「エリアをまたがっての利用ができない」というところです。これは今でもそうなのですが、例えば、大阪から在来線を使って岡山へ行こうとすると、大阪も岡山もICOCAの利用可能エリアであるものの、利用不可となっているんです。この区間の相生~和気間の駅がICOCAが利用できないためではないかと思われます。 他の地域でもこのような状況があるようで、このような「エリアをまたがっての利用」ができるようになれば、本当の意味で完璧なんですけどね。 あと、独自にICカードを導入している会社も参入できるようになればいいんですけどね。例えば、先日四国で利用した高松琴平電鉄(ことでん)もICカードの「イルカ」というのがあるのですが、これなんかも規格が合うようにできたらいいんですけどね。 話をもどして、あまり詳しくない地方で駅の券売機で料金表をみたり、券売機の列に並ぶ手間はなくなりましたが、一体その目的の駅までどれくらいの料金がかかるのか、また一体いくらそのカードにチャージされていてその残額で本当に目的地まで利用できるのか、別の意味で心配になりますね。
2012年12月18日
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今年10月に山口県へ出張した際に、厚狭から宇部までJR山陽本線で移動しました。その際に厚狭駅で撮影したのは、関西でかつて新快速として使用されていた117系です。 前にもとりあげましたが、JR西日本では国鉄当時からの古い車両は一色塗りにしていく方針をとっておりまして、岡山・広島地区ではこのような黄色一色としております。 117系といえば、ここでも取り上げましたようにかつてはクリーム色にあずき色のラインが入った戦前の関西急電をイメージしたようなシックは塗色だったのですが、この色はちょっとイメージと合っていないかな~ 黄色い電車といえば、関西ではかつて福知山線がそうでしたし、関東では総武線がそうでしたね。色あせにしくい色であるのは確かですけど、車両によってはきつく思えてしまいますね。 とはいえ、一色塗になってしまいましたが、きれいに塗装されておりますので、まだしばらくは活躍すると思われます。
2012年12月08日
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先日の広島・山口への出張の際には、初めての乗車となる九州新幹線乗り入れのN700系8000番台を利用しました。昨年の九州新幹線開業に合わせて登場した8両編成の新しい車両で8000番台はJR九州が、7000番台はJR西日本が保有しているとか。 外観上の違いはわかりませんが、車内の案内チャイムが会社によって異なっているそうです。ロングノーズの形状はすっかりおなじみになりましたね。 このロゴは、JR九州とJR西日本が手を携えている様子を表しているそうです。 ちなみに、車内の撮影は行えませんでした。っていうか、九州新幹線乗り入れの車両は、8両編成と他の「のぞみ」「ひかり」と比べて半分の両数なので、かなり混雑していましたためなのです。本来なら、かなり座り心地のいいシートに加えて、指定席は他の新幹線標準の2席×3席の配置ではなく、2席×2席というゆったりとした配置になっている様子を紹介したかったんですけどね・・・。 この辺は、今では山陽新幹線の「こだま」での活躍が増えてしまったJR西日本700系レールスター譲りなのでしょうけどね。 さて、新大阪を959に出発する「さくら551号」に乗車しました。この「さくら」というネーミングにも、まだ違和感があります。どうしても「さくら」というとブルートレイン時代のイメージが強いし、関西の鉄道ファンの端くれである私としては、ブルートレイン時代の「さくら」は『東京対九州』のブルートレインであり、関西は深夜時間帯に通過していた列車なので馴染みという点でももう一つなのですわ~ それはさておき、雨の広島に定刻に到着。ゆったりとしたシートで快適でした。
2012年10月20日
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このブログで何度か取り上げたことのある近鉄田原本線。近鉄の数ある路線の中で、唯一近鉄の他の路線と接続していない路線(連絡線としては接続していますが)であるのは、歴史的に大和鉄道という別会社だったためですが、西田原本駅にはその名残を示すものがあります。それがこの写真のホーム跡と言われています。 大和鉄道では、1918年に新王寺~田原本(今の西田原本)間を開通させ、さらに1932年には桜井まで開通しているわけですが、戦時中の1944年に田原本~桜井間が不要不急路線(戦時中はそういう路線に指定されるところが多かったようです)ということで休止、その後1958年に正式にその区間が廃止されて、現在の形になっているとのことです。(近鉄への合併は1964年) さて、現在田原本線で使われている線路は、写真の左側と写真には写っていませんが写真のプラットホームの反対側の2本であって、写真の右側の線路は使われていません。保線車両用の線路とのことですが、使われているところは見たことがないです。 また、ホーム跡の長さから想像するに、現在使われている3両編成が十分停車することができる長さがあるようです。大和鉄道は戦後になって電化されたとのことですから、それより前は蒸気機関車が客車3両くらいを牽引していたのかもしれませんね。 こういう遺構をみることができるのも、歴史がある路線だからこそなんでしょうね。先にも書きましたが、近鉄の他の路線と繋がっておらず、ちょっと地味な路線なのですが、なかなか面白みがある路線かもしれませんね。
2012年10月13日
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私の実家のある堺市を通るJR阪和線には、鉄道ファンにとってはよくご存じの今や貴重となった103系電車が活躍しています。もっとも、私が毎日通勤で使うJR大和路線や大阪環状線、JR奈良線でも活躍する姿をみることができますが、他形式の車両と共通運用されていることが多いのです。ところが、この阪和線ではほぼ主力として活躍しているところがすごいんですね。 103系は1963年から製造開始されて日本の高度成長期に合わせるかのように年々その台数を増やし、1984年に製造終了するまで2000両近い車両が製造されました。首都圏や関西圏のみならず、その後は中京圏や岡山、広島にまで運用を拡大していきましたが、その後に登場した新しい他形式の車両によって引退していきまして、残っているのは関西圏と広島のごく一部のみとなっています。 関西圏では1968年にまず阪和線に登場して、東海道・山陽本線や大阪環状線等通勤路線に次々と登場していったわけですが、前出のとおり阪和線やJR大和路線や大阪環状線、JR奈良線での運用になっています。 ということは、阪和線は関西圏における103系の投入一番手であり、未だに活躍している路線と言うことですね。もちろん、車両そのものは製造年の新しいものに代替わりしているのですが、一般の方には見てもわかりませんよね・・・。 関西圏でもステンレス車体の207系や321系など新しい通勤形車両が投入されていますが、阪和線には依然として103系が集められたような感じになっています。阪和線は元々国鉄じゃなかった(阪和電気鉄道という私鉄で、南海に合併されたのちに1944年に国鉄へ買収)からという歴史的背景があるから冷遇されている、なんていう方がおられますけど、それはちょっと違うかなってね。 阪和線は前出のとおり、元々私鉄だったせいもあって今でこそ関空・紀州路快速が大阪環状線へ乗り入れしていますが、普通列車の運用そのものは基本的に天王寺~和歌山間ですから車両は固定運用できるし、103系の車両の性能自体が阪和線の状況(駅間が短い)に合っているのではないかと思っています。(確かに国鉄時代は冷遇されていたのは事実だけど・・・) そんなこともあって、今日も今や貴重となった103系が運転されているわけですが、天王寺駅の阪和線ホームにいると青色に塗られた103系が次々にやってきます。夏休み中は熱心なファンの方が写真を撮りに来られていたのではないかと思います。 そんな中でも、上の写真の103系は正面の窓周りが黒いゴムで囲われておりまして、実はこの仕様は数が少ないのです。多くはこのゴムの上に金属製のカバー状のものがかかっているのです。(一枚目の写真と比べてみてください) JR西日本ではまだしばらくはこの103系を使用すると思いますが、よく鉄道ファンの中には「葬式鉄」とよばれる無くなるという話を聞いてからあわててやってくるヤツらが騒動を起こすことがあるので、そんなことにならないように「普段の状況」を記録してもらえればと思います。
2012年09月07日
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最近、政治関係のネタが多かった(今日もホントは書きたかったけど)ので、ちょっとブレイク。っていっても、鉄道ネタですが・・・。 先日神戸からの帰りに、大阪駅11番乗り場をみると今年3月の改正で定期運用が終了した急行「きたぐに」が停車していました。夏期のみの臨時運転として運行されていたようです。定期運用ではないとはいえ、ちょっと懐かしかったですよ。 急行「きたぐに」は大阪~新潟間を運転されていまして、私も利用したことがあります。大阪から新潟までは夜行バスも運転されているのですが、個人的には少々高くても空間に余裕のある夜行列車が精神衛生上いいかなってね。使用されている車両は国鉄が1967年に登場させた581・583系、このブログでも紹介したへんてこな寝台電車改造419系の母体となった車両なのです。元々はこんな感じで寝台列車として使用されていまして、夜間は寝台列車、昼間は特急座席車として活躍するという国鉄らしい発想の車両だったわけですね。 ↑ 参考まで419系はこれでした・・・ このような特徴的な車両も、新幹線の開通で到達時間が大幅に短縮されて夜行列車で行く意味が薄れたり、車両自体の老朽化も加わって次々に引退していったわけですが、この急行「きたぐに」だけは今年3月まで定期で運転されていました。それでも、利用客の減少と言うこともあって廃止されてしまったんでしょうね。 そんな急行「きたぐに」でしたが、夏期の多客時には利用される方が多いということで臨時列車として復活、懐かしい光景が再び見られたわけです。この日の利用客も多かったようですよ。 ちなみに、同じ時に廃止された大阪~青森間で運転されていた寝台特急「日本海」も同じように臨時列車として運転されているとのこと。大阪から青森まではさすがに夜行バスの運転はありませんから、利用価値は高いと思います。 このような臨時列車としての運転は、この先いつまで運転されるかわかりませんけど、機会があれば乗ってみたいと思います。
2012年08月24日
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今年のNHKの大河ドラマは「平清盛」でしたね。絵(映像)があまりきれいでないとか散々言われているようで、実は私も見たことがないんですけどね・・・。私が大河ドラマで真剣に見たのは、かなり以前の「山河燃ゆ」くらいであとはほとんど見ていないです。 それはさておき、その「平清盛」の舞台となっているのが山陽電鉄の沿線ということもあって、山陽電鉄の特急に使われている5000系の一部に写真のようなヘッドマークが取り付けられています。山陽電鉄ではこれに限らず、このようなヘッドマークを取り付けて運用されることが多くて、姫路方面への出張の際に気が付けば撮影しています。 山陽電鉄と阪神電鉄では1999年から山陽姫路~阪神梅田間を直通運転する「直通特急」が運転されているため、このヘッドマークをつけた車両が阪神線内でもみることができます。 このようなヘッドマークは、キャンペーンが終わると取り外されてしまうので、今だけということで撮影しました。
2012年07月07日
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私が妻と結婚して居を構えたのがこの阪神甲子園駅の南側、浜甲子園近くにある団地でした。そして、毎日の通勤に使っていたのがこの阪神甲子園駅でした。だから、今でも列車が通過する時なんかは、ちょっとうれしくなってしまいます。また、今でも時々行くことがありますが、ちょっとホッとした気持ちになります。 この写真は梅田方面へいくホーム(2番ホーム)から梅田方面を映しています。ここからみる光景は私が利用していた時期とほぼ変わりません。 でももう少しホームを梅田方面へ歩いてみると、高架工事のために線路の状況が変わっていました。すなわち、2番ホームは通過ホームとなっていて、神戸方面からスルーしていたのですけど、今回のこの工事から1番ホームがスルーするようになっていました。ちょうど、上の写真では梅田行き各駅停車が出発していきますが、ポイントをスルーしていますよね。 このような写真も、いずれは貴重な記録写真となるので、私はなるべく機会があるたびに残すようにしています。 それにしても、阪神甲子園球場で野球があるときには大勢の観客で混雑するこの駅ですが、普段のときは普通の駅なんですよ。私がこの甲子園から引っ越して13年になりますけど、未だにいいところだったなぁって思っています。
2012年06月23日
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南海和歌山市駅には南海本線と支線の加太線、和歌山港線が接続していますが、これ以外にJR紀勢本線が乗り入れています。紀勢本線というと和歌山~新宮~亀山間というイメージがあるかもしれませんが、実は和歌山から和歌山市間も紀勢本線なのです。もっと正確に言うと、和歌山市駅の手前1.0kmまでがJR線となっているのです。 この和歌山市~和歌山間は1984年に電化されましたが、それ以前は非電化区間でしたのでディーゼルカーが走っておりまして、私も何度も訪れたことのある場所なのです。 非電化時代の国鉄時代は、1番ホームと2番ホームがあってその間に機まわし線(機関車を付け替えるための引込み線)があったわけですが、その後上の写真のように2番ホームのみになってしまって、機まわし線も1番ホームもなくなってしまいました。上の写真でいうところの現在駐車場になっているところに機まわし線と、ちょうど屋根がかかっているあたりに1番ホームがありました。 ちなみに、この写真は2009年12月に撮影したものです。 この写真は先日和歌山へ出張した際に撮影したものです。1番ホーム跡にあった屋根が一部取り払われていますね。現在、和歌山市駅は駅構内の改良工事をしているようです。 こんな写真も撮りたくなるんですけど、これは3番ホームと4番ホームになるのかな。その間の線路の一部が撤去されています。 かつては南海の急行「きのくに」が難波からここまでやってきて、そのまま前出の紀勢本線を和歌山まで行って、国鉄の急行「きのくに」に併結されて白浜や新宮まで運転されていました。1985年に廃止されてしまったのですが、その前には何度も写真を撮りにここまで来たのを思い出します。
2012年06月22日
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18日午後5時35分頃、愛知県豊田市竹町の名鉄三河線竹村駅構内で、ポイントにカメが挟まって切り替わらなくなり、一部区間で約25分間にわたり運転を見合わせた。上下計4本が運休し、約1500人に影響が出た。 名鉄によると、4両編成の電車が同駅に入ろうとしたところ、停止信号だったため、駅手前で停止。運転士が線路を確認したところ、体長約15センチのカメがポイントが切り替わる可動部分に挟まっていた。運転士は取り除いた後、線路脇に逃がしたという。【読売新聞ネット版から引用】 「線路に人が立ち入ったため」「踏切の直前横断のため」「踏切の遮断棒が折られていたため」などいろんな理由で最近は列車が遅れたり、最悪の場合運転取りやめなんていうこともあります。急いでいるときにこれかよ! っていうことも多々あります。 前出の例で行けば、「線路に人が立ち入って・・・」 → 全力で轢いてしまえ!ってなりますわな。後者の二つについても、絶対探し出してシバキ上げたいところです。 でも、本文のようなポイント故障の原因が「亀が挟まっていました」なんて言われると、思わず笑ってしまいそうです。実際に居合わせた方の話もネットで紹介されていましたが、乗客も笑っていたそうです、ほのぼのとした話ですね。確かに急いでいた人もおられるでしょうけど、「亀なら仕方ないか~」っていうところでしょうか。 もっとも、「亀が入らないように対策をしろ!」とかいう無粋なヤツもいるんでしょうけど・・・。 ところで、意外とこの手の話は聞いたことがあるんです。前にもどこかの鉄道であったかと思いますけど、何故亀さんはポイントの中に入り込んでしまうんでしょうかねぇ。寝ぐらだと思ったのかな、適当に暗いし。でも、びっくりしたでしょうね。急にガチャンって挟まって動けなくなったんだから。「でら、いたぁ~ていかんわ~」って言っていたことはないんだろうけど・・・。(すみません、名古屋弁も三河弁もわからないので。正しい名古屋弁や三河弁で変換してください) ちなみに、私が朝走っている川の堤防上の道路でも亀が真ん中で動かずにじっとしていることがあります。パッと見は石ですから思わず蹴飛ばそうとしたら、「あっ! 亀かよ」って思わず蹴飛ばすのをやめて、道の端っこへお引き取りいただきました。
2012年06月19日
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先日このブログで紹介した阪堺電気軌道のモ351形の車内には「帝国車両」と書かれた銘板がありました。帝国車両といっても若い鉄道ファンの人にはピンとこないかもしれません。帝国車両は後に東急車輌と合併した会社で、戦前は梅鉢鉄工所という会社名でした。元々は路面電車など小型の鉄道車両を製造していたようですが、その後鉄道省(後の国鉄)指定の客車をも製造を手がけており、その流れで国鉄や私鉄の車両を多く製造していました。 工場が大阪府堺市の阪和線鳳駅の南側にあって、かつては製造された車両が阪和線を使って回送されていたようで、今だったらJR神戸線兵庫駅近くにある川崎重工やJR学研都市線(片町線)徳庵駅近くにある近畿車輛のような感じだったんでしょうね。 製造されていた車両も電車はもちろんのこと、ディーゼルカーも製造されていてどこかの写真でディーゼル特急用のキハ80系も製造していたのを見たことがあります。 前出のとおり、かつては鉄道省指定の客車を製造していたという古い歴史があった会社で、その技術力もかなり高かったようですが、1968年に東急車輌と合併しました。 その後は主に国鉄コンテナなどコンテナなどの製造を行っておりまして、私も真新しい国鉄コンテナが敷地内に並べられているのを見たことがあります。 そして、2003年に工場自体が和歌山へ移転して長らく続いていた堺での製造が終了し、その跡地にはショッピングセンターのアリオ鳳ができています。 さて、前置きが長くなったのですが、表紙の写真の銘板は格好よくみえると思いませんか。例えば前出の近畿車輛は近鉄グループということで、以前は近鉄のマークが入っていましたし(最近は「K」の文字をあしらったマークになっていますが)、川崎重工に至っては「川崎重工」の文字のみだったりします。もっとも、帝国車両も東急車輌との合併前には単に「帝国車両」と書かれただけの味も素っ気もない銘板になっていますが・・・。 帝国車両がなくなって40年が経過していますが、帝国車両で製造された車両が今でも活躍していることは、元堺市民の私にとってもうれしいものです。例えば、南海本線で活躍している7000系には帝国車両製の車両が多くて、そろそろ廃車が始まってきているもののまだまだ活躍しています。 これは南海7000系の銘板ですが、年代と共に味も素っ気もないデザインになってしまっています。ちなみに、昭和42年製造って私と同い年ですわ~ 車両は整備をきちんとしていたら如何に長持ちするかということになるんですけど、この先も走り続けてほしいと思いました。
2012年06月01日
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先日、和歌山へ行ったときに時間の関係上JRの特急で移動することになりました。JRの特急というとイメージ的には高いということになりますが、JR西日本管内では路線によってはネット利用で安く移動できる場合があります。今回利用した和歌山~天王寺間もその一つでした。 まず、ネットで乗車する特急を選ぶところはこれまでと一緒なのですが、チケットレスすなわちケータイの画面が特急指定席券になるという優れものなのです。このサービスは前から知っていましたが、利用するのは初めてだったので特急に乗ってからも不安感いっぱいでした。車掌が検札に来たときに画面を見せると、「ご利用ありがとうございます」と言ってもらえたので大丈夫でした。 料金は600円と通常料金よりも200円ほど安くなりましたし、何よりチケットレスですからね。切符の紛失ということも防げます。もっとも、ケータイの電源がヤバイとダメですが・・・。 さて、乗車したのは近々新型車両に置き換わる予定の381系でした。国鉄当時の1978年に阪和線・紀勢本線を走る「くろしお」として登場して以来30年以上走り続けてきまして、私にとっても憧れの車両の一つでした。学生の頃は乗る事なんてできなかったわけですからね。 その後、JRになって車両自体もリニューアル化されてパノラマ車両の導入(クロ380)などてこ入れもなされてきましたが、後継車両の導入により置き換わることになっています。私にとっては就職後に何度も利用することがあったのですっかりお馴染みの車両なのですが、細部を記録すべく写真に撮っておきました。 今回乗車した車両はリニューアル化された車両なので、シートの前後の間隔(シートピッチ)が拡大されています。このため、窓とシートの位置が合っていないことからちょっと変わった席があるんです。 ぽつんと一席だけ独立していますよね。 これは381系の室内の特徴のためでして、通常の車両では冷房装置は車体の上に取り付けられているのですが、381系は床下に設置されています。そのダクトなどが車体中央にあり、シートピッチを拡大したことによりシートが回転できなくなったことによるものなのです。こういうところはちょっと変わっていますね。 それから381系の窓は二重窓になっていまして、かつてはペネシアンブラインドとよばれるブラインドが二重窓の間に入っていました。この写真に丸く蓋をしたような跡がありますが、ここにブラインドを上下させるためのレバーがありました。これも381系と寝台特急車両だった581・583系の特徴でしたが、その他の車両には波及しませんでした・・・。 ところで、この写真をご覧ください。 写真の向こうに特急の先頭車両が見えますね。それもそのはず、この日私がこの日乗車した特急「くろしお32号」は基本編成の6両に増結編成の3両を加えた9両編成で、私は7号車に乗っていたんです。だから、写真の先頭車両は6号車ということになりますね。 現在の「くろしお」は基本編成が6両で、多客時には途中の白浜駅で3両を増結又は解結することになっているようです。ちなみに、国鉄当時には9両編成が基本でシーズンオフは7両編成でしたが、長大編成を見慣れた私にとっては短編成の特急は寂しく思ったものです。 天王寺駅でこのように見かけるのも少なくなりました。 写真は改正前の「スーパーくろしお」で使われた時に撮影したものです。何気なく撮影した写真でしたけど、今や貴重な写真となりました。
2012年05月11日
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私が鉄道ファンの端くれであることは、このブログをご覧の方ならご存知かと思います。鉄道ファンの端くれだからこそ、自分の得意分野について間違った内容を公共のメディアを通じてコメントされると不快感が増すわけで、ましてやその発言が「なんでも正しい」なんて思われるようなヤツに発言されると余計ムカつくわけです。 だから、この先記載した内容については多少過激な内容を含みますのでご了承いただくとともに、批判的なコメントはご遠慮ください。あくまでも私の意見ということで。 関西国際空港の利便性向上へ懸案となっている大阪都心部からのアクセス改善をめぐり、大阪府市統合本部の市営地下鉄改革に関するプロジェクトチーム(PT)が、地下鉄四つ橋線(西梅田-住之江公園、11.8キロ)を活用し、大阪のキタとミナミで私鉄との乗り入れを可能にする案を検討していることが7日、関係者への取材で分かった。四つ橋線北端の西梅田駅で阪急電鉄、ミナミのなんば駅で南海電鉄と接続させる案で、8日の府市統合本部会議で提示される予定。 大阪都心部からの関空アクセス向上をめぐっては、橋下徹市長が府知事時代に「関空リニア」の建設を提唱したほか、JR新大阪駅から大阪駅北側を経て南海やJRの難波駅へつなげる「なにわ筋線」の新設プランが浮上。都心部-関空間はリニアなら10分程度、なにわ筋線なら最速34分で結べると想定され、1時間前後かかる現状から大幅に改善するが、なにわ筋線でも1800億~2500億円かかるとされる巨額の事業費が課題となっている。 市関係者によると、PTの検討案は、ミナミで四つ橋線と南海を直結させ、キタは阪急十三駅と西梅田駅をつなげる構想。 実現すればキタと関空がダイレクトに結ばれる上、神戸・京都方面に伸びる阪急沿線と、和歌山方面に伸びる南海沿線が1本につながることになり、市関係者は「関西の新たな南北軸として大きな価値を生むことができる」とメリットを指摘。コスト削減に努めれば、事業費は数百億円に抑えることができるという試算もあるという。 ただ、四つ橋線を活用する場合でも、鉄道事業者によって給電方法やレール幅の規格が異なるため、新型車両の開発などが新たな課題となりそうだ。【産経新聞ネット版から引用】 鉄道には会社によって、電気の種類(交流か直流か、あとは電圧)やゲージ(線路の幅)、車両の大きさ、扉の数など異なっておりまして、本文にもありました阪急と南海、地下鉄四つ橋線の3社を比較しても異なっております。 例えば、電気の種類はいずれも直流ですが、電圧は地下鉄のみ750V(阪急と南海は1500V)と異なっておりますし、その電気を得るのも阪急と南海は架線方式に対して地下鉄は線路の横に設置された第三軌条によっています。 また、線路の幅は南海は1067mmというJRなどと同じ幅に対して、阪急と地下鉄は1435mmという標準軌(新幹線と同じ)で幅がちがいます。 さらに、車体の大きさも南海は1両あたり20mに対して、阪急や地下鉄は19mと若干短くなっています。 まぁ、車体の大きさは現在の阪神と近鉄の直通運転からもわかるように何とかなるものですけど、本文にもありますように架線方式や線路幅はどうしようもないわけです。 だからこんな話、鉄道のことをよくわからないヤツが地図だけ見てこんなことできそうやんという「ゆめ物語」を語っているわけで、実際にはゆめ物語にもなりませんな。 課題多すぎ、っていうか、「そもそも、鉄道の基本的なこと、知ってる?」って言いたくなるわけです。 そんなことを今朝のニュースでハシモトが大真面目に「選択肢の一つとして検討」的なことをコメントしていて、飲んでいた牛乳を喉に詰まらせて咳き込んでしまいましたからね、あまりにも馬鹿すぎて。 これを実現させようとすると、地下鉄の電圧の昇圧(750→1500)は当然として、第三軌条を架線方式に変更する必要があるんですけどね。なるほど、その昔国鉄信越本線の横川~軽井沢間の旧線にアプト式とよばれるラック式レールを用いた特殊な路線がありましたが、ここは一部で第三軌条と架線方式を併用していましたから、車両側の改造と地下鉄トンネル内の改修は必要かと思います。 ネックはゲージですね。スペインにはタルゴとよばれるゲージが異なる路線でも走ることができるように設計されたものがあるようですけど、いわゆる「フリーゲージトレイン」ではないようです。だから、1067mmと1435mmの両方の線路を敷くわけにはいきませんしね。 首尾よく以上の状況がクリアできたとしても、地下鉄内の運行はどうするんですかねぇ。地下鉄内は各駅停車にするなら、現行の地下鉄の運行に支障はないですけど、地下鉄内はノンストップあるいは一部の駅に停車なんていうことになると、現行の地下鉄の運行本数よりも減少するわけですから利用客の反発はあるでしょう。 もっというと、現在でもJRが大阪環状線を経由して「はるか」が運行されているのに、そこまで費用かけても意味ないじゃん、っていうところが大きいですね。だいいち、誰がそんなカネを出すねん? これから地下鉄網を整備していくならまだしも、ここまで成熟している状況の下で何するねん、っていうことですよ。私が牛乳を喉に詰まらせたっていうことがお分かりいただけたでしょうか。 そもそもハシモトは新大阪から関空までリニア路線を敷くようなことを言ってなかったっけ? あれはどうなったんや? ゆめ物語でもいいんだけど、もっと現実味があることを語ってくれないかな。そのためには、もう少し鉄道の状況を勉強して語ってくれるかな、ってね。 個人的には、阪急と地下鉄、南海の直通運転は必要ないかと思います、JRがあるからね。そのJRも過密路線の大阪環状線を通過していることから、これはなんとかする必要があろうかと思います。現在、おおさか東線の新大阪への北方向への延伸が続いているようですが、南方向へは進んでいない様子。そこで、今は廃線になってしまった阪和貨物線の跡地を利用することができればいいんですけどね。単線の幅しかないから無理かな。 阪急と地下鉄、南海は直通運転するのではなく、JRが大幅に遅れた時のリリーフ役としてそれぞれの会社線内を運行する形態の方がいいと思います。どうしても、直通や他社への乗り入れは、事故やトラブルの影響がその前後へ広く波及するから解消に時間がかかるわけですからね。 長々と書きましたけど、私に言わせたら「なんじゃこりゃ?」ということだったので、取り上げさせていただきました。
2012年05月09日
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阪堺電気軌道(阪堺電軌)が先月1日にえびす町~浜寺駅前間が開業して100周年となったそうです。もっとも、それより前の1900年(明治33年)に前身の会社が開業していたわけですけどね・・・。 かつては南海電鉄の直営だったのですが、1980年(昭和55年)に分離されています。また、現在の阪堺線、上町線のほかに平野線もあったのですが、1980年(昭和55年)に廃止されています。そして、今では堺市内の路線が廃止されるのではないかなんて噂されていますが、今日も元気に走っています。 さて、先日浜寺駅前から乗車する機会がありました。 この日はモ351型の353号でした。曇り空がうっとうしいのですけど・・・。 車内です。 南海電鉄当時に製造された車両なので、古き良き時代の南海の車両の形状になっています。すなわち、窓が下降窓になっていて当時の特急車両の11001型や21001型に似ています。この下降窓は下の二つの取っ手を少し上に持ち上げて手前に引くと窓が下に降りて、上のひとつの取っ手を上にあげていくと窓が閉まるようになっています。もっとも、この車両は冷房がついているので、夏場は窓を開けなくてもいいんですけどね。 運転台です。 床にある丸い装置を足で踏むと「チンチン」と音がします。これがチンチン電車たる所以の一つです。 車内の銘板です。 昭和38年製造ということですが、実はこの車両、車体は確かに昭和38年なのですが、足回りであるモーター等は古い車両からの転用なのです。だから、走り出すと昔懐かしい「ブォーーーン」という吊り掛けモーターの音がします。これがまたいいんですよね。 さて、この車両に乗って途中のあびこ道で下車しました。えびす町方面へ行く列車はこのあびこ道か住吉で乗り換えとなります。 ピンボケしていますが、あびこ車庫の車両たちです。 黄色の車両は東京都電の塗色を模したものです。 古いモ161型の172号が出発していきます。 続いてえびす町へ行く165号が入ってきました。古い車両が活躍しているのはうれしいです。これらの車両は昭和3年製造ですから80年以上経過していますね。 車内です。 これまた、古き良き時代の車両ですね。扉のあたりにある手すりは真鍮製だと思うのですが、いい感じの色になっていました。 それ以上に天井が高いと思いませんか? 今の車両ならジャンプしたら手が届きどうですが、この車両は冷房がついていないこともあって天井が非常に高いのです。 もちろん、この車両も吊り掛けモーターですから、鈍重のいい音を響かせながら走っていました。 ところで、運賃は以前は大阪市内と堺市内を相互に乗車する場合は290円だったのですが、堺市が支援しているおかげで全区間200円で乗車することができます。堺市内の廃止が噂される中で、こうした支援によって少しでもお客さんを増やそうということですね。 私も堺市内へ仕事で行くときには、今後も支援するために利用したいと思います。
2012年05月04日
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JR西日本管内では国鉄当時の車両が今なお活躍している話はこのブログでも紹介していまして、国鉄当時の塗色で活躍しているものもあれば新しい塗色となっている車両もあります。 最近では、エリアごとに単色化されている話も紹介しましたが、今回は岡山・広島地区にて活躍している単色化された国鉄当時の車両を紹介します。 これは115系という車両ですけど、見事に黄一色になっていますね。岡山・広島地区の115系は徐々にこんな黄色い塗色に塗り変わっていくことになっています。まだ全車ではないので、オリジナルの湘南色(緑色とオレンジのツートン)やJR西日本オリジナルのいわゆるカフェオレ色もあるんですけど、この黄色も増えつつあってインパクトがあります。 ところで、黄色い車両というと関西ではあまり馴染みがないんです。かつて福知山線が宝塚まで電化された時に登場した103系が黄色で登場した時にはびっくりしたのですけど、関東では総武線や私鉄なら西武鉄道が黄色ですから意外となじみがあるかな。 だから、この黄色い115系を見ると違和感があるんですけど、まだ全車に広がっていないせいか「幸福の黄色い電車」と呼ばれているとか・・・。 写真は山陽本線竜野駅に停車中に撮影しました。岡山・広島地区の車両なのですが、運用の関係で姫路まで乗り入れてきますので、時々こうして見かけることがあるんですよ。 これをみたらいいことあるかな、なんてね。
2012年04月29日
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昨年、出張で兵庫県の豊岡や京都府の久美浜へ出張に行きました。その際には大阪から特急で福知山を経由して豊岡へ行ったのですが、このコースは1986年に電化されるまでディーゼルカーや客車列車が数多く運転されていました(福知山線の宝塚まではもう少し早く電化されていましたが)。 そして、私は電化前に運転されていた車両、特に旧型客車とよばれる古い車両に乗ることと撮影することを目的によく通っていました。その時にいつも気になっていたのが、この写真のレンガ庫のある和田山駅です。かつては機関区があってSLが配置されていたそうですけど、私が通っていた頃はSLの姿はなく、それ以上に解体待ちの旧型客車がずらりと並んでいたのを覚えています。 今では線路が取り払われて、レンガ庫だけが残っています。また、機関車が出入りしていたであろう入口も閉鎖されてしまっています。 写真の右下の方にフェンスが見えますが、これは停車中の列車内から撮影したものですが、フェンスの向こう側はいずれは転売されてしまうのかもしれません。そうすると、この光景も貴重なものとなります。 歴史的な価値のあるレンガ庫ですけど、なんとかうまく活用してもらえたらいいんですけどね・・・。
2012年03月02日
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先日、姫路に出張した際に姫新線で活躍しているキハ40を見つけました。姫新線は少し前から新しいディーゼルカーのキハ122、キハ127が活躍していますが、写真のキハ40も残っていまして、中でも写真のキハ40 2091号は2006年に兵庫県でおこなわれたのじぎく国体の時のマスコットキャラクターの「はばタン」がラッピングされた車両となっています。 国体自体はもう6年前の開催になりますけど、そのデザインがよかったのか2007年から兵庫県のマスコットとして活動しているとのこと。だから、最近各地で人気のゆるキャラのなかでご覧になったことがあるかもしれませんね。 ちなみに、はばタンのプロフィールなどは、兵庫県のHPに載っておりますのでどうぞごらんください。 さて、このはばタンのラッピングが施されたキハ40は主に姫新線での運転となりますし、前出のとおり他の新しい車両が主力ですから見つけるのは難しいかもしれませんけど、かわいいはばタンの表情をみてください。
2012年01月29日
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去年、三重県の養老鉄道に乗車する機会がありました。養老鉄道は近鉄名古屋線の桑名から大垣を経て揖斐までを結んでいる路線で、2007年10月に近鉄から運営が移管されました。近鉄になる前も複雑な経歴を経ているわけですが、線路の幅も近鉄標準の1435mmではなく、南大阪線と同じ1067mm(すなわちJRと同じ)となっています。 使われている車両は600系とよばれ、元は名古屋線の1800系や南大阪線の6000系だった車両です。色も近鉄標準のマルーン(小豆色)に白のツートンカラーではなく、旧標準だったマルーン一色になっています。 表紙の写真の612号は元名古屋線だった1800系の1802号だそうです。塗装も近鉄の旧標準色だったマルーン一色です。私にとっては「近鉄=マルーン」ですから、とても懐かしいものです。 それから、かつての近鉄では行き先の方向板をさげていました。意外と認識性がよくて好きだったのですが、行き先表示器がついてからはせいぜい方向板をさげていたところは時々臨時の方向板をさげるくらいになっています。この612号には養老鉄道の利用を促す広告板がさげられています。 さて、乗車したのは石津駅まででしたが、のんびりと乗車することができました。その様子はまたの機会に・・・。
2012年01月21日
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一般的に鉄道車両の妻面(連結部分)はいわゆる「食パン切り」のようにまっすぐに切られていることから、「切妻」とよばれています。これはカモノハシのような風貌が特徴の東海道・山陽新幹線のN700系もそうです。正面はあのような特徴ある顔であっても、中間車両との連結側は切妻になっています。 車両によっては元々運転台があったものを中間車両化するときに、運転台を撤去する工事を行いますが、運転台があったことがわからないような方法をとる場合と残す場合があります。関西の私鉄では後者の「残す」方が多いようです。例えば、京阪2200系とか阪神5000系とか・・・。 表紙の写真の近鉄8459号もそんな車両の一つです。ご覧になると分かるように、角ばったスタイルではなく、曲面が見て取れるかと思います。この車両は元々8559号として登場したものの、1972年8月に発生した「近鉄奈良線爆破事件」により被災した車両で、それを復旧したのがこの8459号というわけです。ちなみに、この事件は結局未解決となったもので、ついでに同じ事件で被災したもう一両も8167号として復旧しています。 この車両の特徴としては、前出にもあった丸みを帯びた妻面と運転台の跡地を独立した窓を設置しているところでしょうか。近鉄の場合は2枚を1つにまとめた連続窓が外観上の特徴ですから、こんな窓は珍しいです。 さて、この車両は近鉄8000系のシリーズの一つであり、奈良線や京都線で主力として使われている車両でしてよくみかける車両です。あまりスタイル的に特徴のあるものではありませんが、その中にあるちょっと変わった車両、というわけです。昨日のブログの話にあった近鉄田原本線で運用についていることがありまして、たまに乗るときにこれが入っているとちょっとうれしいかな・・・。
2012年01月20日
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