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1. 遺 言(嘉右衛門夫婦宛) 「私事幼い時から父母に別れ、今の父母の御慈愛によって成人し た御恩は海山より大いなるものと存じます。 此度の縁談は父母の為にもよく、一家の繁栄の為にもよく、一家 の繁栄の為に早速御受けする筈で御座いますが、御存じの通り 幼い時に定められた長次郎様へ嫁ぐ事か誠の道と考え、まして 長次郎様には近頃家も衰えて落ちぶれはてたのを見捨て、他 に縁付いて、濁り榮華を極めることは私の心がとがめ、又長次 郎様の顔も立て親々の遺言を守れば現在の父母に不孝となり ます。よって我身一つに罪を負って覚悟を定めました。先立つ 不幸は御許し下さいませ。」2. 遺 言(長次郎宛) 「一筆申し上げます。私事強いて勝浦へ嫁入する事を迫られ早や 日取りも定まり悲しさで胸ははりさけるばかりで御座います。昨日 も色々と父母に事理を申上げたが一向に聞入れもなく、私から頼 んだ人迄が勝浦へ行く事を本意と勧められ、貴方の所へと勧める 者は一人もなく、まして貴方の御身の上が御痛はしく、どうして私 一人道ならぬ縁を結んで身に錦をまとうことが出来ましょう。この 悲しさは我身一つに罪を負い自害を致しました。」水莖の跡も美しく真心こめて認められてあった。お政の死は一村を驚嘆させた。殊にお政に義理を缺かせ無理矢理に許婚の縁を切らせようとした半五郎及村役人、庄屋は嘉右衛門と謀りお政を狂死としてつくろったが、その汚名は間もなく剥がれお政逝って十七年文化十四年の秋黒田候の知る所となってお政の貞烈を賞し白銀十四枚を下され、祭祀を営ませ、勝浦の半五郎及びそれに組した庄屋達はそれぞれ罰せられてその職を取り上げられた。
2006年09月29日
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その頃勝浦村に豪農の大庄屋に半五郎と云う者があって、その息子を源五郎と云い、早や二十才を迎えたのでよい嫁を迎えて家を譲ろうと方々を詮議して居た所、たまたまお政の風評を聞いて是非嫁にと所望し、嘉右衛門夫婦も初めは遺言を固く守って之を辞したが、あまりに切なる懇望に遺言とは云え落ちぶれた長次郎に入嫁させるよりはお政自身の為にも、又不運に傾いた自家の再興にもこの上なき縁談と心を変えて喜んで承知を與へた。間もなくお政は福岡から呼び戻されて、嘉右衛門夫婦に色々と説得されたが固く辞して「自分の夫は長次郎様です」と云って極力反對した。然しお政の決心が強ければ強い程、その潔操を目出て求婚を迫り、郡内の庄屋大庄屋は勿論村役人の權威を借って迄も盡せる丈の手は盡し、遂にはお政に覚えなき濡衣をきせ、脅迫的な言辞を弄して迄もその目的を達せんとした。お政の懊惱は讀いた。義理の貞烈の岐路に立っていずれを選ぶべきかお政の胸中は全くはりさくるばかり、余りの悲しさに病床に臥す身となり、飲食すら口を通らず姉夫婦の心配は又格別であった。遂にお政の決心はついた。急に態度を改め微笑を似て承諾を與へた。姉夫婦は勿論、二年越しの求婚が遂げられた半五郎の一家の喜びは一方ではなかった。いよいよ婚礼の日は来た。お政の門出を祝う酒宴のどよめきの中に女一代の喜びを今日の白無垢の晴衣に包んだが、之が死出の旅路の装いである事はお政より外に誰も知る由もなかった。その日の夕暮れになって管竹取りに外に出て、裏の土蔵の中に蓆を敷き、その上に端座して二通の遺言を側に置き、かねて用意の剃を以て見事に咽元切って自害した。
2006年09月27日
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お政の許婚の夫長次郎は正直素朴の性質で兄長三郎の家事を助けて居たが家運は年々に傾くばかりで、遂には先祖以来の大家も引拂ひ田畑も売って長次郎と共に裏の納屋に引篭り幽かに生活するような運命となった。お政も生まれ落ちると母を失い、四才の時には又父を失い嘉右衛門夫婦の愛育による楽しい日々も短く、すくすくと育つに運れて本家同様不運に向かい、その凋落は目に余るものがあった。お政十一才の時嘉右衛門夫婦は婚禮前の行儀見習いと云う事で黒田候の納戸頭を務める明石久衛門行憲と云う武家屋敷に禿奉行に出した。彼は藩主の信任厚く文家兩道に秀でた立派な武士で十一才から十八才至る七ヶ年間の彼の本に於ける教化は後世節婦お政としての美名を残すに至った素地をつくったのである。生來怜悧で温和しく気品自ら備えるお政は勿論主人夫婦の気にいるところとなって、この上なく可愛がられ行儀、作法、読書、裁縫に至るまで心細かに教え導かれ、お政も立派な女としての道を修めたいと進んでその教えを受け、十三、四才の頃には既に論語、和歌等にも熱心に耳を傾け殊に女大学や小倉百人一首等は一度で暗誦して「赤石殿の腰元は實に見上げた者じゃ」と云って家中賛美せぬものはなく、お政は益々上品なゆかしい女に磨きあげられて行った。なをお政を最も感化したものは主人行憲の必生の著述と云われる三婦傅烈で「己の貞操を守り良人の身代わりとなって生命を果たした袈裟御前、死すべき時に死して良人の名を辱しめなかった細川忠興の妻、良人の留守中敵方に組した舅の奸計を退け、よく一城を守り通した真田信之の妻」この傅記こそお政の最も愛読したもので肺腑の中に深く深く喰い込んで行ったのである。
2006年09月26日
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今日から4回連続で、宗像高女編纂(昭和16年)の節婦お政をお話しましょう。_______________________【第一回】 光格天皇の天明年間本郡赤間の宿に松尾お政と云う節婦があった。父は七兵衞といひ代々此の宿に住んで酒造を營み、家號を大黒屋といって近郷に聞こえた大富豪であった召使も大勢で主人七兵衛の温良な性質に喜んで奉公し、家中は大へん睦び合って居たが、淋しい事には、七兵衛には妻に先立たれ繼嗣がない事で、遂に家は妹に同驛の恵比須屋甚兵衛の實弟七左衛門を養子に迎えて後を譲り、己は妻の残した幼い娘を連れて分家した。七兵衛は、其後、後妻を迎えて酢醤油油の業を営んで平和に暮らしていたがその妻も又1女を産んで早世した。その娘をお政と云い先妻の娘を千代と呼んで其後は妻も迎えず親子三人で仲良く平和な日々を過ごしていたが、お政が四才の時遂に七兵衛は世を去った。(ここから、昼の書き込み、付け加え)臨終に際して七兵衛は、「長女お千代には後妻の弟嘉右衛門を婿とし、お政には成人の後必ず本家七右衛門の次男長次郎が妻に」と固く遺言したので嘉右衛門は七兵衛の後を相続し、お政は姉婿夫婦を親として教育されることになった。年月は水のごとく流れて大黒屋七左衛門は家督を長男長三郎に譲って隠居したが間もなく他界し、叔父多左衛門も老病の為相次いで逝去した。その臨終に臨んでも、「七兵衛の遺言は必ず守りその霊を安んぜよ」と遺言した。
2006年09月22日
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突然のことですが、昨日、城山を守る会のボランティアに行くとき、右手の小指側の手の付け根が捻挫をした感じで痛かったんです。腰も痛くて、9月3日(城山87回目)以来、登ってない。そういうわけで、整形外科に行ってきました。調剤薬局で薬剤師から、腱鞘炎ですかって、聞かれてやっと、原因が分かったって感じ。パソコンのやり過ぎ。「おまさ」の打ち過ぎ。職業でもないのに、職業病にかかった。これが、腱鞘炎かって、今、しみじみと味わっています。
2006年09月20日
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今日で3回目、ちょっとその前に、頼山陽の「川中島」を一曲、鞭聲粛々夜過河べんせいしゅくしゅく よるかわをわたる暁見千兵擁大牙あかつきにみるせんぺいのたいがをよおするに遺恨十年磨一剣いこんなりじゅうねんいっけんをみがき流星光底逸長蛇りゅうせいこうていちょうだをいっす 良い声ざんしょ! 私の声!!!??________________________【第3回】万助がやって来て、政の遺体を見、口汚く罵って、「この強情な女め、罪をつくりやがって、とても成仏せぬわ」と。やがて大庄屋の善右衛門に知らせた。善右衛門は、役威を以って強要した罪をおそれ、狂死なりと言いふらし、郡奉行には賄いして、表ざたになるのを免れた。これ実に享和元年(1801年)11月のことであった。しかしながら。真相はそれとなく広まり、善右衛門らを非難する声はやかましくなった。しかし、これをあえて領主に訴えようとする勇気のある者はいなかった。 それから18年たって、福岡藩の儒臣・竹田器甫が、あるとき学問所において、諸生に詩を作らせるのに、試みに節女の遺言を題とし、自分から長篇を賦して政の事歴を概括した。藩侯はこの詩を見て怪しみ、事の真相を左右に問うた。藩侯の生母も賢明で同情の念深く、その召使の女中に、赤間村の者があるので、呼び寄せて尋ね、さらに近習を現地へやって、真相が分かったので、これを藩侯に知らせた。藩侯は改めて、家臣を派遣し、関係者を吟味せしめた。かくて、遂に善右衛門と半五郎の大庄屋の職を奪い、当時の郡奉行以下の主な役人を糾問し、罪にしたがって夫々罰した。また、政のいいなづけ長次郎に白銀15枚を与え、政の墓を修め碑を建て、政の貞烈を表彰したという。私が思うには、政は何という貞烈であろうか。政のいいなづけにしても、その心のなかを推し量るに、また憐れむべきである。政がかかる辺地の片田舎に生を受け、何に学んでか、かくも事理に明らかに、栄達を以って節義に見返らず、凛々たる勇気を示したのか。或いは亦、彼女が極めて情深いというべきか。私は、都会の婦女を多く見聞しているが、たいていは争って富貴に就き、貧しさを恥と考え、集って噂するところは、誰は玉の輿に乗ったとか、或いは乗らんとしているとか、或いは誰は前の亭主と別れて、今度は金持ちのところへ嫁ぎ、一転して大いに得をしたとか、しきりに喋りたてるのは、栄華に対するあこがれである。反面、夫婦の誓いとか、貞節だとかは、全く関心の外である。まるで、いやしい商売女の魂胆と同じである。そして、それを少しも恥かしいとは思っていない。 婦女のことだから、浅はかなのは仕方がない、許してやるとしても、ひげを偉そうに立てている男子にして、日ごろ豪傑ぶって威張っていても、赤いすそをひき、優雅なかんざしを挿している者の前で、面目ないことをしている者が多い。どうして善右衛門や嘉右衛門が、政を叱って義理を履き違えていると云ったのを、咎める資格などがあろうか。男子が主君の前で出仕の誓いを立てるのは、女子が婚約に当たって貞節を誓うのと同じである。私は、かつて北九州の歴史を編んだとき、近世戦国の世に、立花氏についたり、大友氏についたり、日夜、その去就を決している者がある。あおの主君を見ること、あたかも駅舎のごとくで、わずか一時的に身を委ねるに過ぎない。ああ、何と敬慕の情も忠愛の情もないことよ。 したがって、いわゆる忠臣なる者は、ほかでもない、その主君に情味のある者である。孝子とは、ほかでもない、その父に情味のある者である。そして節女とは、その夫に情味のある者である。いったい情味のある者は、これを以って背くに忍びない。背くに忍びないから、大事に際しては身命を拗つことを忍ぶのである。私は政の貞節に同情し、その心情を憐れんで、政の伝記を綴ったのである。【編者・安藤英男の余考】山陽の書いたものでは触れていないが、政は11歳の時から、嘉右衛門の計らいで、教育のためとて、福岡藩士・赤石久左衛門の家に奉公に出された。政は18の春まで、赤石家に奉公しており、にわかに故郷より呼び戻されたので、政は本家の長次郎に嫁入りのことであろうと思い、赤石の家を辞して帰ってみれば、勝浦への縁談であったという。政の教養は、赤石家で授けられたものらしい。(このあたりの説明・描写は、宗像高等女学校、昭和14年発行が優れている。このブログの責任者の一言)
2006年09月19日
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頼山陽の節女阿正傳、第2回です。ちょっと、その前に、なぜ頼山陽が「筑前国赤間宿おまさ」を書いたかを一言。文政元年(1818)3月,39歳の山陽は,広島で春水の三回忌を済ませた後,九州旅行に出発しました。この旅行は11か月にも及びましたが,この間豊後の広瀬淡窓や田能村竹田らの学者・文人を訪ねるとともに,「天草洋に泊す」の詩や,水墨画「耶馬渓図巻」などの傑作を生み出しました。http://www.ccv.ne.jp/home/raisanyo/top.htmというわけで、九州に来たとき(昨夜のブログの書き出しのように、博多を訪れた際に)、「おまさ」の話を聞いたのです。頼山陽の「節女阿正傳」に感動した明治の豪商・渋沢栄一は、その感想を世に残しています、→ 宗像郡誌下巻(昭和7年発行、伊東尾四郎)____________________________(第2回)かくて政を婚礼前の行儀見習いということで黒田候の赤石久衛門行憲と云う武家屋敷に禿奉公に出していたが、呼び寄せ、利害を説いて、因果を含めた。政は黙っていて何も答えない。しばらくして、「皆様は私のために考えてくださったのだから、私はどうして承諾しないわけにまいりましょう。しかしながら、私の父は臨終の際、私を愛撫しつつ、大きくなったら長次郎のところへ行きなさいと言われました。その慈愛の心を思えば、決して背くことはできません。これすなわち、私にとっては天命であります。どうしてもお言葉に従うわけにはまいりません」と、涙ながらに語った。道仙らは大いに怒って、「俺たちがこう言うのは、ただお前のために、嘉右衛門の福利を図るのではない。延いては俺たちも得をし、共に福利に預るのだ。こんな大きな福利を棄てて、落ちぶれた長次郎を敬慕するのは、どだい考えが間違っている。」と言った。嘉右衛門も怒り罵って、「お前がこの縁談を承知しないのは、どうやら訳がありそうだ。お前は密かに長次郎とねんごろで、不義を重ねてきたのであろう。俺はお前たち二人を、姦通の罪で追い出してくれよう」と。政は、うなだれて何も言わない。万助は、「もはやぐずぐず言っても仕方がない。はやく吉日を選んで、結納を交わしたらいい」と言い、善右衛門を促して暦を調べさせ、「この日がよかろう、これに定めよう」と言った。かくて連中は、前祝いだと、酒を食らって飲み明かした。政は、すみの方に向かって、すすり泣くばかりであった。これより政は、娘らしい装いをしなくなった。家人は、異変の起こるのを気遣い、用心して政を監視していた。それから数日後、政は人が変わったように、髪をとかし、清潔にしだした。家人は政が思い直したものと見、安心して警戒を解いた。政は、隙を見て、髪を洗い、湯浴みし、着物をきちんとつけて、母屋の後ろなる炭小屋に入り、包丁で咽を突き、両手を膝にのせ、端座して逝いた。時に享年18であった。義母の千代にとっては、本来は実妹のこととて、胸騒ぎがし、政がいないので隣家に問い合わせたところ、隣家では、「近頃久しく妹さんお目にかかりません」と言った。家に帰って方々を探して見れば、炭小屋に流血がしたたり落ちていた。嘉右衛門は、外出して居なかったが、事件を聞いてはせかえると、かたわらに2通の遺言が置かれていた。その1通は、義父母たる嘉右衛門らに宛てたものである。それには、「私は幼きより、両親に別れ参らせ、只今の~~~~~~~ あとで、昼から書きます~~~~~~~両親にいつくしみ育てられました。ご恩は海とも山とも申しつくし難いものがあります。しかるにこの縁談、すでに両親のためにもよし、また一族の皆様のためにもよく、さっそくお受け申し上ぐるべきであります。しかしご存知の通り、私は幼きより、いいなづけの長次郎殿があります。しかも近年はわけて世渡りも覚束なく、その落ちぶれたさまを聞いています。この時を幸いとばかり、これを見捨てて他家へとつぎ、わが身ひとり栄華をきわめましては、亡父の遺言に背くのみならず、長次郎どのにも背くものです。そうかと申して、長次郎殿も立つように、亡父の遺言を守れば、只今の両親に不孝になります。我が身はひとつ、これを恨み、覚悟を決めました。先立つ不幸はお許し願いあげます」と。 他の1通は、長次郎殿に宛てたものである。それには、こう書いてあった。「私の一身は、貴方様へいいなづけのことは、申すまでもありませんが、近頃、どうしても勝浦へ参れとのことにて、すでに結納の日もきわまり、今更悲しさやるかたもありません。昨日も、人に託して、只今の両親に訳を話してみましたが、一向に聞き入れられず、その話した人までも、婚礼前の行儀見習いということで黒田候の赤石久衛門行憲と云う武家屋敷に禿奉公に出していたが、帰って来て勝浦へ参ることを勧めます。親戚の中で、もはや誰一人として、貴方様のところへ参れと、意見して下さる者はありません。それにつけても、ひとしお、貴方様のお身の上が痛ましく、我が身一人道ならぬ縁を結び、身に錦を装い、おいしい物を食べましても、世の人はさぞかし、我が身を義理知らずと、さげすむことでありましょう。また、義父が申すには、私と貴方様との間に、不義をしているとのお叱り、そんなことがありましょうや。かつて一度も御情けに預ったことがないのは、貴方様がよくご存知のことです。ただただいいなづけの義理にひかれ、また、先立たれたお互いの親親への申し訳、かれと云い、これと云い、一方ならぬ悲しさに、自害をとげる次第でございます。お察し下さい。かしこ」と。嘉右衛門は、茫然と自失していた。万助がやって来て、政の遺体を見、口汚く罵って、~~~~~~~continued
2006年09月18日
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今日から、3回シリーズで頼山陽の節女阿正傳をアップします。頼山陽は、漢文で書いてます、漢文の達人ですから。このブログでは、口語訳。山陽は、和音を自在に操って、日本人の肌にぴったりの漢文を作り上げた。今日、どの『緩和大辞典』を見ても、山陽が造語した熟語が実に多いのに驚かされる。漢文の日本化に、山陽の果たした役割は大きい。(昭和56年5月、安藤英男、『頼山陽文集』はしがきより)__________________________________私は、筑前に遊歴し、赤間駅(あかまのうまや、即ち、赤間宿。現在の宗像市赤間、JR教育大前駅から南600mまで)を通った。家数は5,60に過ぎず、瓦の屋根、茅葺の屋根が、山を背にして木立の間に点々とし、かまどの煙がものさびしく立ち上がっていた。やがて博多の町に入り、かの赤間駅(あかまのうまや)に貞節な女性がいたことを聞いた。博多の人・松永花遁が私の為に、そのことを詳しく語ってくれた。この貞節な女性は名を政といい、父を松尾七兵衛といった。家は農業に酒造業を兼ね、すこぶる豊裕であった。同じ邑より妻をめとったが、一人の女子を挙げて逝き、再び妻を迎えるも、これも一女を生んで逝いた。妻の子を千代といい、後妻の子が政である。七兵衛は、50歳になって、家を外甥の七左衛門に譲り、自分は別に家を立てた。老いて臨終のとき、一族を集めて遺言して、「わしの余命はいくばくもないが、不幸にして跡取りの男子をもたない。しかし、女の子が二人いるから、一同に証人になってもらい、嘉右衛門を養子に迎えて千代をめあわせ、政(時に4歳)は成人の後、長次郎の妻として本家を継がせたい」と。嘉右衛門というのは、後妻の弟である。長次郎というのは、七左衛門の子なのである。ここに於いて親戚一同、その遺書に従い、嘉右衛門を相続養子として迎え入れ、政は幼少なので彼に娘分として育てさせた。政は生まれつき咲き乱れた花のように美しく、しかも素直で正直で、嘉右衛門夫妻によく仕え、甚だしとやかでもあった。一方、嘉右衛門は、天性の遊び人で、生産に従事せず、毎日、同村の馬医者・万助なる者と、大酒を食らって、養父から与えられた田畑を借金の質に入れ、まもなく蕩尽してしまった。親戚は代わる代わるやって来て、彼をいさめたけれども、一向に効き目がなかった。このとき政もようやく娘になり、いいなづけの長次郎も20歳前後に達していた。この長次郎は、生まれつき実直で、よく働いたが、災禍がうち続いて、家産が傾きかけていた。よって、政を迎え入れることをためらっていた。ところで、赤間の隣村(実際はかなり離れている、車で15~20分)を勝浦村といった。庄屋の永嶋半五郎というのは富豪であった。彼は、その長男の源五郎に新婦を迎えようとして、いろいろ物色していた。そのうち、政のことを伝え聞き、容色も才気もあり、しかも家柄の娘なればとて、これを迎えようと思った。たまたま馬医者の万助が、勝浦村へやって来たので、このことを彼に諮った。万助はひそかに喜び、もしこの縁談を成功させれば、半五郎に貸しができるので、その勢力を借りて何でもできるだろうと、請合って帰り、これを嘉右衛門に申し入れると、嘉右衛門も欲に目がくらんで、大いに喜び、親戚一同に相談せず、直ちに応諾しようとした。親戚一同は揃って嘉右衛門のところへ来り、七兵衛の遺言に背いて、利欲に走るの不道を責めたてた。嘉右衛門は、困り果て、その翌朝、万助を呼んで、事の次第を語り、どうすればいいかと謀った。万助は、「俺の兄・道仙は知恵があるので、これに謀ってみよう」と言った。道仙を呼びにやると、すぐやって来た。道仙は言った。「この村の大庄屋の善右衛門は、永嶋半五郎とは庄屋同志で親しいから、善右衛門に媒酌を頼んで、役威を以っておどしつけ、この話を聞き届けなければ、後でどんな目に遭うかしれないぞ、と言わせればいい。そうすれば、あの連中がいくら騒いでも、阻止することはできはしない」と。嘉右衛門は、「それはいい方法だ」と、万助をしてひそかに善右衛門のもとへ行かせ、善右衛門を説かせたところ、善右衛門は承諾して万助と共に嘉右衛門の家へやって来て、政を永嶋家へやることに一決した。
2006年09月17日
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台風前夜、というより、秋雨前線だったらしいですが、朝から雨。6時47分のJRで博多、そして日銀前へ。「筑前6宿と黒田6端城」企画の第4回目に同行。そこで、母里太兵衛の子孫と名刺交換、彼の系図本を拝読。今日は、後藤又兵衛、母里太兵衛の城・益富城に行って来た。そして、飯塚宿と内野宿。いい勉強だった。こういうのが性に合っている。アマ郷土史家ってやつだ。__________________________ 一緒にバスに乗った47名に言い忘れたこと、10月8日の我が家での「おまさ事件」独演会のお誘いをここに記そう。10月8日(日)午前11時より、赤間宿歴史講座第2弾『おまさ事件』を、うちの座敷で講演します。是非来てね。前回6/17は、47名の参加でした。次回は、チラシ配布なし、週刊モエへの宣伝なしでの声かけ。10/8は、九州大道芸祭もこの通りでありますヨ。是非、見てネ。
2006年09月16日
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今日は、朝、北九州市北区役所に行ってきた。教員の登録!そして、松本清張記念館に寄ってきた。すごすぎる。40歳を超して、作家活動に入って40年間、よくぞ書いたり、全集で56巻。信じられません。私なぞ、20年かけても、彼の全集の1冊も書けやしない。今のところ、自費出版5冊だが、彼の1冊の分量には及びません。ーーーーーーーーーーーーーーーー午後は、宗像ユリックス。節婦おまさを徹底して調べます。10月8日の準備。どうして、まちづくり協議会が、半五郎、源五郎の親子を間違えたのか、そしておまさが自殺した場所を間違えたのか、究明する次第。絶対、読み間違いか、何かの取り違えざんすよねえ。頼山陽、青柳種信、神屋目鼻、宗像高女の出版物は読み候。他に、福岡日日新聞(大正2年)も読み候。そして、親子の名前を取り違えたわけ、判明。山中で自殺は勝手な創作。結論として、まちづくり協議会のおまさ案内板の著者は、昔の本を読み込んでいない。失格ですよ、とてもじゃないが、郷土史家とは言えない。その方が、市史の編集委員であったり、又、「つたがたけ」の編集委員であったりなんて、信じられません。
2006年09月06日
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9月14日→公民館10月18日から→東京10月29日→釣川11月14日、15日→知覧11月19日→ユリックス12:00_______________1年のスケジュールに書いている、大きな暦に書いているパッとは、内容が思い出せないことがあるボケの始まりだ。ボケとの戦いを強いられている、昔はもっと記憶力があったと強がっている自分がいる、元々、こんなもんだったんじゃないかって?うーむ、そうかも?\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\つい最前、何をするつもりだったのかを忘れることが増えてきた、怖い、怖いお話に発展する予感!!!!!!
2006年09月02日
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