全6件 (6件中 1-6件目)
1

「丑寅の二人旅」 第47弾 吉野の桜と高野山 4日目 急遽根来寺へ4月17日:「天空の城ラピュタ」そっくりだと、静かなブームになっている由良要塞の友が島砲台・弾薬庫跡への立ち寄りが却下されました、急遽行き先を変更し根来寺へ根来寺、鉄砲で武装した僧兵、傭兵集団としての活躍でも有名織田信長とは友好的でしたが、秀吉には怖れられ、秀吉の紀州征伐で焼き討ちされ、大塔・大師堂以外は焼失。小説では根来忍者がよく登場します、当時は特殊技能だった鉄砲と傭兵のスタイルから忍者集団をイメージしたのでしょうね根来寺の桜境内入口に置かれていた達磨、その意味するところは??光明真言殿、本堂ですかね? それとその内部国指定の名勝庭園根来寺の開祖は覚ばん上人、高野山で弘法大師の真言密教の布教に励んでいました、他の高野衆徒との間に不和が生じて、高野山を降り根来に移りましたが、根本は弘法大師の真言宗弘法大師像を祀った大師堂国宝の大塔秀吉の紀州征伐の焼打ちから残りました、高さ40m横幅15m日本最大の木造多宝塔多宝塔とは二層一階建ての塔で、初層は平面が方形/上層が円形、どうやら如来様を祀る塔高野山の根本大塔も多宝塔で大日如来様が、高さ50m四面30m・・・ん?、根来寺大塔よりも大きい??再建され木造ではないのかぁ大傳法堂、本尊は大日如来根来寺を最後に紀州を離れ、三重県は鳥羽に向かいます5日目 最終日 4月18日: 根来寺から家までは560km、一気に帰るにはちょっと遠いので鳥羽まで出て一泊しました鳥羽の海の写真を2題鳥羽から家まで491km、鳥羽から渥美半島伊良子まで24kmをフェリーで渡ると、その後伊良子から家までは342km、車での走行距離が149km短くなるのは大きいです、かなり楽になりますこれが中継地を鳥羽にした理由伊良子行のフェリーが到着しました乗り込んだ自動車、ワイヤー/タイヤ止めをしませんね、 サイドブレーキだけ、内海で穏やかな伊勢湾だからフェリー内部、今日は空いてますすれ違った貨物船、港まで未だ距離があるのに、自走でなく、タグボート3隻に曳航されてます豊橋の市街地、市電に「パト電車」の表示が、「振り込め詐欺に注意」の標語が書かれてました豊川ICから東名高速へ、安全運転で帰ります ー 「丑寅の二人旅」 第47弾 吉野の桜と高野山 終了です -
2014.04.19
コメント(0)

「丑寅の二人旅」 第47弾 吉野の桜と高野山 由良要塞跡吉野の桜を鑑賞した後、15日・16日は和歌山市中心部から北西方向15km紀伊半島西の端の海岸縁にある紀州加太に2連泊、淡路島までは紀淡海峡を挟んで10km程、この紀州加太には由良要塞跡が由良要塞(ゆらようさい)は、大日本帝国陸軍の要塞の一つで、大阪湾防衛の目的で紀伊半島と淡路島の間の紀淡海峡周辺に作られました当初の由良要塞は大きく3つの地区に分けられる。1903年5月、鳴門要塞が編入され鳴門地区が加わり4地区となる。生石山第一砲台跡由良地区: 淡路島の由良(現洲本市由良)を中心に要塞司令部が置かれ、要塞の心臓部友ヶ島地区: 友ヶ島群島の内、沖ノ島と隣の虎島から成り、由良地区と共に要塞の主力深山砲台跡加太・深山地区: 紀伊半島の加太町(現和歌山市加太)を中心に北部の深山地区に設けられた鳴門地区・旧鳴門要塞: 鳴門海峡に置かれた鳴門要塞が編入され鳴門地区に由良要塞の建設は、明治22年(1889年)開始され、日露戦争の明治37年(1904年)時点では全て完成していたみたい深山砲台跡加太地区休暇村紀州加太の駐車場に隣接している弾薬庫跡海岸縁の小高い丘に設置された砲台・弾薬庫跡28cm榴弾砲2基が設置されていた広場写真左上のトンネルの先に同じ様な広場、さらにトンネルと広場が続き、3か所の広場に砲台2基づつ合計6基の砲台が設置されていました。トンネルの縁には下に降りる階段があり地下の弾薬庫へ広場と広場を結ぶトンネルと地下に降りる階段地下の弾薬庫友が島は加太のすぐ近く、下の写真で手前の丘が加太砲台跡、地の島・沖の島(総称して友が島)、その沖の島に友が島砲台跡が、後方のぼんやりしている島影が淡路島(生石山第一砲台跡由良地区)友が島の要塞跡、その朽ち果てた砲台跡・弾薬庫跡が宮崎アニメの「天空の城ラピュタ」そっくりの風景だと静かなブームに、行こうとしたのですが、丑寅の片方が「強烈な駄目出し」 加太港です、友が島へはここからフェリーでたったの20分なのに - 4日目に続く -
2014.04.18
コメント(0)

「丑寅の二人旅」 第47弾 吉野の桜と高野山 3日目は高野山4月16日:待望の高野山に宿の紀州加太から高野山までは66km、約2時間程高野山麓の橋本から高野山まで30km、山道なので時間が掛かります高野山金剛峯寺弘法大師空海上人が816年に真言密教の根本道場として開創(余談ですが、ほぼ同じ時期の787年に伝教大師最澄が天台宗の総本山として開創した比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺と並び立つ日本仏教の原点の双璧「丑寅の二人旅」第26弾で比叡山延暦寺を訪問、その際、錚々たるお坊さんが延暦寺で修行した事実に驚いた記憶があります調べてみました、延暦寺で修行した後、独自の宗派を開創したお坊さん達 良源(慈恵大師、元三大師 912年 - 985年)比叡山中興の祖。 源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者 良忍(聖応大師、1072年 - 1132年)融通念仏宗の開祖 法然(円光大師、源空上人 1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖 栄西(千光国師、1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖 慈円(慈鎮和尚、1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。 道元(承陽大師、1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖 親鸞(見真大師、1173年 - 1262年)浄土真宗の開祖 日蓮(立正大師、1222年 - 1282年)日蓮宗の開祖凄いですね一方、高野山金剛峯寺で修行して、独自の宗派を開創したお坊さん?? 聞かないです、何故??)高野山の総本山 金剛峯寺高野山町のユルキャラ「こうやくん」に迎えられて金剛峯寺の中に新別殿の広間でお坊さんから有難い講和を真言宗の奥義を簡単に言うと、「無常(常ならぬ)」と言う事で、弘法大師作の無常を解いた歌「いろはにほへと・・・」をお坊さんと一緒に二度唱和(演歌調の一寸変な節が付いています ) 色はにほへど 散りぬるを我が世たれぞ 常ならむ有為の奥山 今日越えて浅き夢見じ 酔ひもせず これで丑寅は解脱し悟りの境地に・・・とはいかないですねところで、このお坊さん「南無大師・・」と唱えました、「南無阿弥陀仏」ではなく。大師は弘法大師空海上人ですよね、阿弥陀仏(仏さん)でなく弘法大師と唱えるみたいですね広間にあった曼荼羅?この金剛峯寺の売りは(お寺さんで売りと言う言い方は不謹慎ですね)、日本最大の石庭「蟠龍庭(ばんりゅうてい)」、2,340m2 雲海の中で雄雌2匹の龍が奥殿を守っている様が表現されているとか台所の大竈、これ現役です、重要行事の際には使用されます金剛峯寺から出たところの高野山の桜壇上伽藍に向かいます、伽藍とは本来僧侶が修行する閑静清浄な場所と言う意味壇上伽藍一番の見所「根本大塔」根本大塔の中央には大日如来・四方に金剛界四仏・周囲の16本の柱に十六大菩薩を配して曼荼羅を立体的に顕しています宿坊です、それにしても宿坊を一般客に解放しているお寺さん多いです、50軒以上ありそう高野山の山門「大門」一の橋から御廟まで約2キロメートルの道のりには、おおよそ20万基を超える諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年を超える杉木立の中に竹田信玄の墓碑と上杉謙信の霊屋が近くに在ったり、信長の供養塔、光秀の供養塔、豊臣家の墓所などえぇっ! 親鸞聖人の墓所って? 比叡山延暦寺で修行した浄土真宗の開祖なのに??花菱アチャコの句碑こちらは株式会社福助の慰霊碑日産自動車、小松製作所、建設業組合など企業・組合の従業員物故者慰霊碑が多くあります大霊園が終わる所に水向地蔵(地蔵さんにしては立派)高野山の一番の聖地「奥之院・弘法大師御廟」(写真奥の建物)手前の御廟橋から先は撮影・マイク使用・喫煙・飲食禁止 - 由良要塞跡に続く -
2014.04.17
コメント(0)

丑寅の二人旅」 第47弾 吉野の桜と高野山 2日目-2桜本坊に咲くしだれ桜愛称は「夢見桜」この桜本坊も役行者縁の道場で、山伏文化が多く残っているらしく、住職が法螺貝を吹いていました。ここにも鬼を従えた役行者の像夢見桜の隣で一輪だけ開いた別種の桜???中千本が終点辺りからキツイ上り坂になるので、上千本を通り越して奥千本口までバスで移動、ホテル花夢花夢(ホテル カムカムと呼ぶ)前にあるバス乗り場現在09:00、未だ空いてます、上から降りて来た11:00頃は300mの行列でした奥千本の金峰神社境内の桜を2題奥千本金峰神社から下ります布引の桜、花矢倉から上千本を見下ろす眺め水平方向に眺めた上千本2題桜の大群落一目千本が吉野の醍醐味ですが、一本桜にもスポットを赤とのコントラスト「桜と椿」桜に飽いたら少し緑にこれは・・・桜?? 梨の花???吉野山花見参道の風景を数題椎茸? 茸を干してますその干した茸で作った?? 美味しそうこちらは鮎の塩焼き花見な人達10:30頃になると花見客、増えてきました下千本から奥千本まで登って降りて、4時間たっぷりと吉野の桜を堪能飛鳥・吉野の奈良を離れ和歌山に吉野から紀州加太(和歌山市の北西の瀬戸内海の海辺の街)まで86kmの中で、奈良県五條市から和歌山県紀の川市までの36kmは京奈和自動車道の一部分が完成しており、快適かつ時間短縮になります - 3日目に続く -
2014.04.16
コメント(0)

「丑寅の二人旅」 第47弾 吉野の桜と高野山 2日目4月15日:満を持して吉野山へ、渋滞無し・駐車場待ち無しで07:30に到着吉野の桜は「一目千本」、一目で千本の桜が見られると言う桜の大群落が売りその千本が吉野山の麓から頂上まで「下千本」「中千本」「上千本」「奥千本」とあり、開花・満開が2-4日づつ遅れて行きます(奥千本だけは7-10日遅れる)嵐山の桜、下千本駐車場近くのこんもりした丘の桜下千本の一目千本を2題下千本の名所「七曲りの千本」金峰山寺・蔵王堂、東大寺の大仏殿に次ぐ日本で2番目に大きな木造建屋、ここも桜の名所蔵王堂境内にある「四本桜」(写っているのは2本だけ、満開を少し過ぎています)御所桜、蔵王堂境内から吉野朝宮跡方面に見える桜中千本入口にある吉水神社「上に駐車場あります」の看板が、だけどぉ、その駐車場に続く道がこれ吉水神社からの一目千本、中千本を眺めますこの吉水神社、凄いですよ元々吉水院として役行者が設立した僧坊、鬼を従えた役行者の像1185年兄頼朝の追手から吉野に逃れた義経が静御前・弁慶等と隠れ住んだのがここ吉水院義経・静御前潜居の間ですここで静御前が詠んだ歌が「吉野山 峯の白雪踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」、義経千本桜の舞台もここ、さらに義経と静御前が最後に過ごした場所もっと凄いのは、南朝の皇居でした1336年に京都から逃れた後醍醐天皇がここを南朝の皇居と定め、南朝4代57年の歴史が始まっています(余談ですが、南朝はその後九州は菊池に逃れ、菊池一族に擁護されていますが、菊池と言えば熊女さんです)更に、1594年豊臣秀吉が行った吉野の花見の宴での本陣として滞在、秀吉愛用の金の屏風 ー 2日目-2に続く -
2014.04.15
コメント(0)

「丑寅の二人旅」 第47弾 吉野の桜と高野山 初日一度は行きたかった高野山、560kmの彼方、車で9時間以上、近隣で何処か見所は無いかと検索すると、 おおっ! ありましたぁ 吉野の桜、今が満開、この時期最高の見所「日本一の桜の名所」、高野山の脇役でなく主役かな?と言う事で、「吉野の桜と高野山」と銘打って出発4月14日: 初日は飛鳥観桜期の吉野、のんびりと昼前に到着すると、道路渋滞・駐車場待ちで桜観賞時間よりも車観賞時間の方が長くなると言う悲惨なことに、平日でも現地入りは08:00以前が鉄則らしいと言う事で、初日は飛鳥に新東名高速道路・浜松SAにあった可愛いオブジェ、楽器の街なのでピアノの鍵盤の上で踊っています余談ですが、06:00に家を出て、関越道練馬出口から環八経由用賀へ、駄目です渋滞でノロノロ、環八は使えませんね!!カーナビが自動で空いている道を検索し、いつの間にか山手通りへ、更に初台南から首都高に誘導され大橋JCTへ、東名高速に入ったのは08:00過ぎ、1時間以上の遅れ1時間遅れのまま14:30飛鳥に到着飛鳥の歴史の主役と言えば、欽明天皇・聖徳太子・推古天皇・蘇我入鹿・物部氏・中大兄皇子・中臣鎌足・大化の改新・天智天皇・壬申の乱・天武天皇見所は古墳群を中心とした史跡高松塚古墳です壁画で有名な高松塚古墳ですが、外から見たら、単なる小さな丘そしてこちらが有名な通称「飛鳥美人」の高松塚古墳西壁女子群像(もちろんこれは本物ではありません、模写したものです)本物は、10年掛けて、修復し劣化保護を施した後に2017年頃に古墳に戻す予定らしいです今では飛鳥と言えば高松塚古墳壁画、教科書にも載っている・・・、ん? 教科書で学んだ記憶が無い???壁画が発見されたのは1972年、丑寅が学んだ教科書には載っていませんね通称「猿石」です欽明天皇陵の西に隣接する吉備姫皇女王墓内にある奇石、ユニークな人面石像ですが、猿ではなく渡来人を象ったものらしいです4体の像にはその外見から『女』『山王権現』『僧(法師)』『男』とそれぞれに愛称がつけられている。僧以外は像の背面にも顔が彫られている二面石で、僧の背面には肋骨らしきものが彫られている、さらに一部の像には性器を露わにしたものがあるらしいです飛鳥と言えば、高松塚古墳・石舞台古墳等の古墳群逆に古墳と言えば飛鳥のイメージですが、飛鳥にある古墳の数は未発掘のものを含めて300基程だけ、奈良県全体にある古墳総数は6,000基、 さらに日本全国にある古墳総数は160,000基、都道府県別では兵庫県の16,000基余りが最多、飛鳥にある古墳の数は意外と少ない因みに古墳の定義は「3世紀後半から7世紀前半の間に造られた墳丘を持つ古い墓」らしいです欽明天皇陵、堀で囲われた墳丘欽明天皇陵、別の角度から古墳群、歩いて廻るには結構離れて点在、車で廻るとその場その場で駐車料金が発生、更に車が入れない路地も。そこでレンタ・サイクル、高松塚古墳まで超快適な下り坂、あっと言う間に到着ん? と言う事は、何処かで地獄の登り鬼の雪隠(おにのせっちん)元々古墳の横口式石槨の石室であったもの、数十m離れた場所にその底石(通称:鬼の俎)がありますこちらは亀石この亀石は川原寺の境界を表す標石であるという説がありますが、それとは別に、昔むかし、大和が湖であったころ、湖の対岸の当麻と、ここ川原の間にけんかが起こり、長いけんかのすえ、湖の水を当麻にとられてしまい、湖に住んでいたたくさんの亀は死んでしまった、何年か後に亀をあわれに思った村人達は、亀の形を石に刻んで供養したそうです。今は亀は南西を向いているが、もし西を向き当麻をにらみつけたとき、大和盆地は泥沼になるという長く飛鳥の代名詞を背負って来た石舞台古墳、墳丘の盛土が無くなり露出した横穴式石室です封土(盛土)の上部が剥がされているため、その墳形は明確ではないですが、2段積の方墳とも上円下方墳とも、あるいは、下方八角墳とも推測されています、また、一辺51メートルの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83メートル、東西81メートル)をめぐらした壮大な方形墳であったとのことライオンが伏せているみたい後ろから石室の覗く石室の中この石舞台古墳は蘇我馬子を埋葬したと言われていますこちらは石舞台古墳横の野外ライブ用の舞台古墳群のある国営飛鳥歴史公園内の風景です - 2日目に続く -
2014.04.14
コメント(0)
全6件 (6件中 1-6件目)
1

![]()
