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新国立劇場 14:00〜 3階正面 ホフマン:ディミトリー・コルチャック ニクラウス/ミューズ:レナ・ベルキナ オランピア:安井陽子 アントニア:砂川涼子 リンドルフ/コッペリウス/ミラクル博士/ダベルトゥット:トマス・コニエチュニー アンドレ/コシュニーユ/フランツ/ピティキナッチョ:青地英幸 ルーテル/クレスペル:大久保光哉 アントニアの母/ステッラ:谷口睦美 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:セバスティアン・ルラン 演出:フィリップ・アルロー まぁ正直言うと、今日まで書いてないままだったのは、そんな感じではあるんですよね。良くも悪くも書くことがない的な。まぁ、のっけからあれなんですけど.... この演出、2003年が最初で、4回目。前回は2013年だけれど、あまり覚えがない。その前、2003年と2005年はどうだったのか。このブログ始める前なんで、記録は残ってないけれど、多分どっちかは観てると思います。この演出は記憶にある。あるけれど....... ホフマン物語は、この数十年かで随分いろいろ改訂というか改作というか、どっちにしろもうオッフェンバッハはとっくにいないので、あれこれ手ぇ入れられてしまっている作品ではあります。 特に、幕切れというか、最後がガラッと変わってしまっていたりする。私が最初に聞いて、それがスタンダードという風に刷り込まれているのは、もう随分古い録音になってしまっているけれど、クリュイタンスが入れたもの。1960年代だったかと。この意味は、1950年代ではなかった筈、という意味で。この録音は、最後はホフマンは酔いつぶれていて、ステッラはそのまま呆れて行ってしまい、学生達が酒を讃える合唱を歌う内に幕、というもの。 一方、この演出は、ホフマンを最後に自殺させちゃうんですよね。 どうも、この演出は、私個人としてはしっくりこない。何が正しいか、ではなく。 ちょっと話がずれるのだけれど、本当はクラシック音楽に於ける原典主義みたいなものについては、懐疑的なんですよね。私。 まず、原典に当たる。作曲者の意図を原典から探る。これは全く正しい態度。ただ、それは、敢えて言ってしまえばプロとしては当たり前レベルの仕事だと思っていて、そこで終わるのでは表現者とは言えない。何故なら、表現者としての音楽家は、じゃぁそれを演奏する時にどうであるべきだと考えてこれを表現するのか、という問題が残る筈だから。当然演出も同じ。 その意味で、この演出、必ずしも「新しく発見された資料に基づいて作られたあるべき姿」を無批判に踏襲しているわけではない、という意味では、まぁ、いいんだけれど、でも、この話の持って行き方はなぁ、ちょっとしっくりこないなぁ、と思うんですよね。 大体が、と、先日の愛の妙薬のように、作品それ自体に文句を言い始めるのですが、このホフマン物語というのは、そもそも舞台としては破綻してると思うんですよね。プロローグとエピローグで一応全体にストーリーがあるかのように艤装しているけれど、実態は3話のオムニバスみたいなもの。だから、あまりプロローグやエピローグに話を盛り込んでもしょうがないだろう、という気はするんですよね。 結局、個々には面白い場面はあるにせよ、全体としては散漫な印象を抱いてしまう。それを無理に瞬間接着剤でくっつけるような真似せんでも....とは思います。まぁ、それが演出の仕事と言ってしまえばそれまでだけれど。 歌手は、外題役のコルチャックが良かったですかねぇ。あとは、アントニア役の砂川涼子。そのくらいかな。良くも悪くも出演者数が多いこのオペラ、まぁ、外題役が良かったと言えるのだから、いい公演になったのだろうとは思います。そういう言い方もアレだけど。
2018年03月22日
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新国立劇場 14:00〜 4階左手 アディーナ:ルクレツィア・ドレイ ネモリーノ:サイミール・ビルク ベルコーレ:大沼徹 ドゥルカマーラ:レナート・ジローラミ ジャンネッタ:吉原圭子 新国立劇場合唱団 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:フレデリック・シャスラン 演出:チェーザレ・リエヴィ 結局まだ書いてないホフマン物語で書こうと思っていたけれど、結局書かずにこちらを先に書いているわけなのですが、何の話かというと、大抵の公演はそれほど面白い訳ではないということ。 いや、実際身も蓋もない話をすると、そんな風に思ったり言ったりする人は確かに多くなくて、その結果大抵の人は毎回名演奏を聞いて帰ってくることになってる訳ですが、正直、そんなこたないんだよね。 大抵の演奏は、むしろ凡庸か凡庸プラスマイナス1ポイント、みたいなもんであって。ただ、それでも、掃き溜めに鶴的に、凡庸ならざるものが隠れていることはある。ただ、なんというか、尋常ならざるものが生まれることはやっぱり殆ど無いのです。むしろ、だから、尋常ならざるものに出会った時は凄いなぁと思う訳であり、尋常ならざるものが生まれる確率も、結構真剣に吟味せざるを得ない、という。二期会なんて、まぁ死んでも尋常から一歩も出るこたないだろうな、と思う訳です。 じゃぁ、尋常なものはつまらないかというと、それでもそれはそれで面白かったりもする。でないとやってられないわけです。まぁ、その中でも、二期会みたいに吐き気のするような腐臭が先に立つようなものは出来るだけ避けて通る、というかハエたたきで追い回して駆逐したいくらいだったりする訳ですが、そこまで忌むべきものはまぁさすがに多くなくて。例えばこの間とうとう定期会員をやめた新日だって、聞けばそれなりに面白かったりするし、演奏以上に客層が厭な都響だって、聞いたなりのことはあるかも知れないと思ったりする訳です。 が、それにしても、それは演奏者だけの問題ではなくて、演奏そのものもあるけれど、演目自体の問題もある訳です。 オペラだって、皆同じように聞こえるのかも知れないけれど、やはりそれなりに演目毎の優劣というか面白みというのはやっぱりある。 で。単刀直入にいうと、「愛の妙薬」ってつまらないよね、という話でして。いや、そういうと多分ちょっと違うんだよな。 愛の妙薬。一番よく覚えているのは、昔々、パヴァロッティが歌ったのをウィーンで観た、というか聞いた時。あそこの天井桟敷、ガレリエの斜め正面くらいの席でしたが、よく聞こえはするんですよ。なるほど、パヴァロッティってのはどっから声が出てるんだかよく分かんねーんだな、というのが正直な感想。他の配役は忘れてしまいました。もう四半世紀ほど前のこと。 その後何度か観てはいるんですよね。覚えてるのは、20年くらい前、藤原歌劇団で、高橋薫子が歌った時のこと。あれは、良かった。その後、10年は遡らないと思うけれど、やはり藤原歌劇団が、やっぱり高橋薫子で、マルコ・ガンディーニの現代演出で出した公演。 この新国立劇場の演出は、今回3回目だそうですが、前回、シラグーザが歌ったのはよく覚えてる。 で。 今回の公演。正直言うと、5分で退屈してしまったのですね。 ネモリーノは?ああ、まぁ、普通だねぇ。シラグーザみたいでは、ないよな。アディーナは?うん、普通だね。普通、何です。ダメじゃない。下手じゃない。でも、普通。シラグーザのように、もう一歩先へ行った感じの、耳目を惹く声ではない。高橋薫子のように、凄くはないのかもだけど、何かしら惹きつけるような声でもない。いや、或いは、ドレイの方が上手いかも知れない。でも、普通なんですよね。 で、この演出。現代演出だから、というのではなくて、「だからどうなんだ」というのがない。私は率直に言って好みではないけれど、ガンディーニが藤原でやったショッピングモール演出の方がよほどインパクトがあった。 そうするとね。退屈なんですよ。これが。 何がいけないって、愛の妙薬というオペラが、そういうところがあるんですよ。正直、漫然と構えていると、つまらない。これがロッシーニだと、たとえ舞台にも歌手にも恵まれなくても、意外と音楽で救われたりするのだけれど、どうも愛の妙薬はそうはいかない気がするんですよね。 ロッシーニって、結構シンフォニックというか、響きで楽しませる部分があったりすると思います。メロディメーカーでもあるので、退屈しないんですよ。ドニゼッティでもね、悲劇だと結構いけてるという気はするんですが....... .....これだけでええんかしらん.............
2018年03月20日
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さすがにプレイガイドの抽選や先行発売もあって、あとは公式一斉発売ですね......... まぁ、もう殆ど押さえちゃったしね...........小ホール公演ばっか。 ええ、例によってやる気でないっつーかテンション低いっつーか、ねぇ............というか、個人的にはこのところ忙しいというのが大きいかな。 とはいえ、何しろ、殆ど目移りしないんですもの。で、取りに行ったら取れちゃうってのがまた、ねぇ。 言えば、知らない曲、音楽に挑む、という楽しみもあるにはあるんです。イ・ムジチ合奏団とか、リュリだのなんだの取り混ぜて演奏したり。中世の伝統歌とか、ロマとか..... ただ、今年のテーマ、Un Monde Nouveau、新しい世界へ、というのが、まぁこのところは結構毎回そうなのだけど、ちょっと焦点がぼやけてる気はしますよね。Exile、亡命、というのがもう一つのテーマではあるらしいのだけれど、中世の伝統歌とか、どう繋がるのかしらん、という。と思えば、ドヴォルザークの「新世界より」に「アメリカ」と、これはこれでベタだなぁ..... まぁ................いいと思うんですけどね.............. ちょっと今年は東京・春・音楽祭の方が惹かれる率が高いなぁと........うむー......... いや、きっちり買ってますけどね.................... なんかこう、お祭りらしいブレークスルーみたいなもんが欲しいなぁと思うんですけどね。 ボランティアやってたからそう思うのかも知れませんが、やっぱり、以前のLFJには、何かしら+αがあったと思うんですね。ただのコンサートでなく。それは出演者の特別性であったりでもあるんだけれど、テーマ性であったり、周辺を巻き込んだ何某かのアクティヴィティ的な要素であったり、何か「ここでしか得られない」的なものがったと思うんですけどね。 ここ最近、それが薄れているのかなぁと。 やはり、主催者側の弱さは否めないと思います。池袋に拡大してみたのはいいけれど、それがどうした、離れた場所に会場立てただけじゃん、という感じではあります。 私みたいなのは、どうせ行きますからね。でも、そうでない人達を巻き込んでやれ、という感じが、本当に薄れている気がする。発信力が弱いんですね。それは、広報が弱いのではなく、多分、発信するものがないからなんじゃないだろうかと。 2005年、NHKが朝のニュースで流した結果、「室内楽とかいうの聞いてみたいんですよね」という類の「なんだかよく分からないけど面白そう」的なインパクト、そういう風にクラシックを聞かせてやれ、というような意思というか.....ああいうのと同種のものはなかなかないんだろうけれど、そういうものが欠けている。そんな気がします。 やっぱり、国際フォーラムとか、そこを母体にしただけじゃ、限界があるんだろうと思います。プロデューサーかつ学芸員的な存在を置いて、企画していくようにしないと、惰性で続いてる感は否めないなと思います。無論ルネ・マルタンというプロデューサーはいるんだけれど、もう、今のチケットは決してかつてのような安さのインパクトは無くなってしまった。それはそれでしょうがないけれど、それなら何で勝負するのか、考えないと、惰性のままフェイドアウトしちゃうよ、という気はします。 くどいようだけれど、東京・春・音楽祭は、期待してない分、緩く、でもいろんな周辺を巻き込んで、ゆるゆると、でもただのコンサート+α的な要素を持ち込んでいるんですよね。そこが、なんとなくでも続きそうな気がする理由なのかなと。 もう今年はしょうがないんだけれど、来年に向けては、そういう、ただ規模や会場を拡げるだけでない「何か」を考えて欲しいとは思います。今から来年の話かよ、ってことではあるんだけれど。
2018年03月13日
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オーチャードホール 15:00〜 3階正面 フリードリヒ・グルダ:コンチェルト・フォー・マイセルフ <独奏者アンコール> 小曽根真:My Witch's Blue ラフマニノフ:交響曲第2番 ホ短調 op.27 ピアノ:小曽根真 エレクトリック・ベース:ロバート・クビスジン ドラムス:クラレンス・ペン 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:アンドレア・バッティストーニ 久々のエントリーと言えば久々。少なくともこの間に2つは聞いてるわけです。東フィルの2月の定演と、新国のホフマン物語。書くことはあるんですけどね、気が乗らねーなー、LFJの前売りも始まったしなー、とか思いつつ、書いてなかったところに、これ。 さぁ、どうしようかな、とか言いつつ、まぁ書く気満々なわけではありますが.....あの2つは、気が乗れば、この1週間の内に、書く。うん。 グルダ。冷静になって考えてみると、もう、過去の人なんですよね。演奏家というのは良し悪しとは別に、録音ででも生き残るタイプと、そうでないタイプと、やっぱりあると思うんですが、グルダは後者。いや、グルダの録音はまだ生きてますよ。発掘されたテープ、なんてのも出てくるし、グルダに師事したアルゲリッチとか、まだ健在だし。だから、忘れられるというわけではないけれど、でも、今、グルダを改めて聞こうという人はどのくらいいるのでしょうね。言うほどはいないんじゃないだろうか。 亡くなったのは2000年ですから、もう18年前。そんなになるのか。しかも、最後の来日は、1993年。3回しか来なかった、その最後の時に、辛うじて聞けたのですが、それがこのオーチャードホール。 しかし、25年前ですからね。その頃と今とで一番違うのは何だと言ったら、恐らくは、音源を含めた情報量の差。グルダは、その頃は、「大ピアニスト」の一人だった。ということは。「聞いておくべき人」の一人だったわけです。バッハの平均律第1巻の演奏とか。と同時に、「ジャズも弾く人」としても有名だった。そういうクロスオーバーな人、という位置付けだったんですね。 でも、今となっては..... 正直、今、敢えてグルダを聞こうという人がどのくらいいるものやら。まして、グルダの自作協奏曲とか、殆ど録音無いし。オーストリアのAmadeoレーベルにある筈だけれど、あそこ、まだやってるの? そんなグルダの「コンチェルト・フォー・マイセルフ」、1988年3月9日が初演なのですが、それを30年後に演奏してやろうというのが今回のプログラムな訳で。7日にオペラシティ、9日はサントリー。そして11日の今日がオーチャード。これはバッティストーニ、小曽根、どちらの発案だったのやら。 演奏は、良かったですよ。というより、率直に言って、グルダより良かったんじゃないだろうか。 正直いうと、グルダは「ジャズを弾く人」と、クラシック側からは言われていたけれど、別段言うほどのことはないよね、というのが正直なところだったんではないかなと。少なくとも、幾許かの残されてる録音や、一回だけだけど生で聞いた感じで言うと、あれはジャズっていうのとはちょっと違うと思う。何というか、クロスオーバーではあるけれど、「クラシックじゃないもの」としか言い様がないというか。 この曲、ザクっと聞いていると、特に第1楽章とか、なんというか、1980年代の音楽が聞こえてくるんですよね。この辺、やっぱりグルダは「わかってなかった」んだと思います。つまり、それはジャズではない。ただ、いわゆるクラシックではない。そこが大事だった。そして、多分、彼は、自分で弾くことしか考えてなかったから、今聞いて首を捻りそうな陳腐さというのは気にしてなかったんじゃないかと。 で、小曽根真。率直に言って、小曽根真がジャズミュージシャンとしてどれほど凄い存在なのか、或いはそれほどでもないのか、よくわかりません。わかりませんが、しかし、少なくとも彼の演奏は「面白い」。それは単に変わっているというだけでなくて、音楽として面白い。で、最近頓に激しいクラシックへの「越境」でいうと、これまた、凄いかどうかは別にしても、「面白い」。いや、多分、腕の立つ人って他にもいると思うんですよ。でも、この人はいろんなことをやれるのと同時に、この人独特の「ハーモニー」を持ってるんですよね。協和音と不協和音とを問わず。それを躊躇なく繰り出してくる。それも、毎々聞いていると、「ああ、またこのパターンね」と思う事が無いかと言えば嘘にはなる。けれども、それでも、その和声進行がやはり独特で、つい引き込まれてしまう。それが、多分、彼のジャズとクラシックのクロスオーバーを成立させる「橋」になっていると思うんですが、それがこういう曲には見事にハマってくるんですね。 この和声は、グルダには出せなかったんじゃないかな。草葉の陰でグルダが喜んでる?いえいえ、実は悔しがってると思います。妬いてるんじゃないかな。「こんな音出しやがって!」って。 アンコールに、小曽根の持ち曲、My Witch's Blue。これも不思議な和声進行をさせる曲。この協奏曲の後にはよく合います。クビスジン、ペンとのトリオですが、いい感じでした。 後半はラフマニノフの交響曲第2番。まぁ、前半の付け足りみたいな気分ではありますが、この曲聞くのも久々。そして今更に聞くと、あざといよねぇ、第2,3楽章......あざといけれど、思わず涙ぐみそうになってしまうような音楽ではある。なんでしょうね、この、ノスタルジーというか、何かを掻き立てるような音楽は..... そして、こういうのやらせると、バッティストーニは、上手いよねぇ.......
2018年03月11日
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なんかねぇ、年々熱量が下がっていくわけですよ........ 理由の一つには、ボランティアやらなくなっちゃったってのもまぁもちろんあるんですけどね...... でもさぁ、それ以上に、やっぱり、ちょっといけてなくない?と思うわけですよ...... というわけで、ジャポンが消えてTOKYOになったLFJです。新潟も金沢も琵琶湖っつーか大津も撤退、とうとう東京だけに戻ってしまいました。こうなってくると、やるのはいいんだけど、って話になるよなぁ..... やっぱり、理念って、バカに出来ないんですよね。この辺、理念なんてどうにでもなると思ってる広告屋、イベント屋、役人にはちょっとわからない。こういう人達ってまぁ大体が誇りってものがないからね..... いや、役人みんなダメってわけじゃなくて、やっぱり、理念と熱量なんだよねぇ。LFJに比してすぐにも廃るだろうと思っていた東京のオペラの森が、いつの間にやら名前を変えて、看板の小澤も失って、それでも何故だかまだ続いてるのは、やっぱり熱量の問題なんだと思うんですよね。熱量って、瞬間の触った時の熱さだけじゃないから。大した理念じゃなくても、大した熱量じゃなくても、関わってる人が、時間が長いと、なんとなく続いてしまうし、それがまた認知力になり、原動力になるんですよね。それがなんとなく回ってるのが、東京・春・音楽祭であるわけです。多分。 で、LFJですがね......... 熱量がね、下がるわけですよ........ 池袋も投入した。定番の人達も、新しく加入した人達も、いる。ラルス・フォークトって、確か以前ボストリッジと組んでたピアニストだなぁ、とか、今年は歌モノが多いなぁ、とか。冬の旅もあるし、ヘンドリックスも歌うし。そういや、イ・ムジチもいるなぁ、とか。正直、抽選でも結構申し込んでしまったし。 でもね、熱量がね........ 小曽根真がいない?うん。渋さ知らズが池袋に行っちゃった?うん。全体に渋い?その通り。でも、やっぱり、なんというか、熱量が足りないんだよねぇ..... これを書いているのは、2/28の夜、日付変わって3/1。公式サイトの抽選が終わって、先着先行発売の始まった後の夜。この時点でも、まだ、小ホール公演が買えないでもないですからね....... まぁ、そうは言っても、今年も有楽町に入り浸るんですけどね.....
2018年03月01日
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