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東京のというか日本のLFJは中止になってしまいました。またやることがあるのかどうか.....まぁ、このブログの名前は変えませんけれどね。 で、本家ナントのLFJは先週末に実施されました。一応ライブでも聞けるというので、ちょっと聞いてみました。今年のテーマはシューベルトということですし。 もっとも、いくら決行するといっても、フランスもコロナは相当猛威を奮っているので、決していい状況ではないですね。LFJも広場みたいなところに滞留することは出来なくて、本当にコンサートを聞くだけ、みたいな状況だそうで。まぁ、その辺は多かれ少なかれ皆似たようなものでしょうから.... それはそれとして、日曜の夜中なので、向こうの午後の公演とか聞いていたのですけれども、プログラムを見ると、そもそもシューベルトなんだけど、シューベルトというには.......歌曲が恐ろしく少ない。 いや、見た限りでは、冬の旅も美しき水車屋の娘も白鳥の歌も無いのですよ。歌曲がまるで無い訳では無いのだけれど、例えば、私が聞けたのは、オケ伴奏編曲版のDu bist die Ruh とか、そんな感じで。まぁ、歌は狭いところで声を出すから、そういう意味で避けたのかも知れませんが、いやしかしそれにしても。 まぁ、LFJって昔から歌物にはあまり強くはないのですけれどもね。合唱はともかく、ピンで歌う的なものには弱い。加えて、やっぱりフランス人ってあんまりドイツリートには興味ないんじゃないかしらね。勝手な憶測ですけれども。 日本は、昔からドイツリートには一定の人気というか需要というか、があって、理由は色々あるのだとは思うのですが、実際レコードCDの類も、来日公演の類も、以前から結構あったのですけれども、ここ最近はその伝統も翳りが見えているような気はします。とはいえまだそれなりに需要はあると思うのですけれども、今回の本家ナントでの冷遇ぶりはちょっとね。 勿論シューベルトのピアノ曲も室内楽曲も、交響曲も、それはそれで面白いのではあるけれど、以前日本のLFJでシューベルトやった時に比べても、やはりちょっと弱いよなぁ、という気はします。日本でもし今年やるとしたら、まぁ、シューベルトじゃなくてベートーヴェンだったんじゃないかとは思うんですけれどもね。 そう、結局、日本のLFJの最初がベートーヴェンで、そのベートーヴェンをもう一回、というのがなくなってしまったのだけれども、やっぱりもう一度やってほしいなぁとは思うのであります。 まぁ、それはそれとして、ナントのLFJ、現場にいればまた違うのかも知れませんが、ちょっと物足りない感じはしますね。勿論、ドイツリートより交響曲なんかの方が普遍性は高いのかも知れませんが。ま、物足りなければ自分で歌えばいいんですけれどね.......勝手にLFJやったろうかしらん....
2022年01月31日
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東京文化会館 14:00〜 5階正面 レオノーラ:小林厚子 マンリーコ:笛田博昭 ルーナ伯爵:須藤慎吾 アズチェーナ:松原広美 フェランド:田島達也 イネス:松浦麗 藤原歌劇団合唱部 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:山下一史 演出:粟國淳 都内の新型コロナ感染者数は、金曜が1万6千人、今日土曜が1万7千人だそうで。いくら重症化しにくいとか言ったところで、インフルエンザだって嫌なものなのに、そりゃたまったもんじゃないですよ。 正直どうしようかとも思ったのですが、まぁ、トロヴァトーレだから、行っておくかと。行った甲斐はあったのか?さぁ、どうでしょう..... 昔の藤原はダブルキャストで3公演くらいやったものですが、今回はダブルで土日の公演のみ。どこかで来週もう1公演やるみたいですが、まぁ、文化会館ではこの2公演だけ。日曜は別を予定していたので、こちらを買っていたのでした。一般的には、どちらかというと明日のキャストの方が表になるのでしょうか。まぁ、率直に言うと、今の藤原に表も裏もあったもんじゃないというか、さっぱり分からんのですけれどもね。 客の入りは、満席ではないなぁ、という程度。特に上の方は。一階とかはもっと空いていたのでしょうけれども、結構入ってるようではありました。 全体的に言うと、まぁ.............まぁ、行って後悔はしなかったよ、というような。いい公演だったか?と言われると、正直に言えば、うーん。 率直に言うと、それほど大きな期待は抱いていなかったので、まぁ、歌唱陣はこのくらい出来れば、まぁまぁ、というところでしょうか。正直、飛び抜けていいという人はおらず、敢えて言えばアンサンブル、というよりはバランスの勝利、とか最初は思ったのですが、結局は結構出来はばらついてもおり。 一番前に出ていたのは、アズチェーナでしょうね。そういえば昔々「フィオレンツァ・コッソットのアズチェーナ」のコッソット抜き、というのを聞かされた(?)というのがありましたけれども、アズチェーナが飛ばす飛ばす。特に3幕1場はルーナ伯爵もフェランドも「あれ?君ら居たの?」というくらいに圧倒していて。ただ、いい歌唱か、と言われると、ちょっとね。4幕は最後失速してましたし、なによりちょっと飛ばし過ぎ。他を置いていくのが悪いのではなくて(置いてかれる方がまぁ悪いってことでいいんじゃないかと)、歌唱としてはもうちょっと丁寧にやってもいいとは思います。 歌唱的にバランスが取れていたのは、そういう意味では、マンリーコでしょうか。ただ、Ah! Si ben mioではいいのだけれども、Di quella piraは繰り返し省略の上途中歌わずに最後はB、そして歌い上げ切れず、という。ただ、まぁ、「本来はここは〜」なんて話は別にして、この人はそもそもそちらで勝負するという人ではないのでしょう。その程度には、Ah! Si ben mioはまぁ歌えていたと。それでマンリーコを受けてはいけないのか、というと、まぁそんなこともないと思うし。それ言い出したらデル・モナコ以外はマンリーコ歌うな、みたいな話になりますからね。 あとは、まぁ、特筆するほどのことでは。ただ、明らかにこりゃ破綻してるな、ということは、一応なかったと言っていいのじゃないかとは思います。いや、正確に言うと破綻してたんだけれども。 合唱は、まぁ、弱いよね。要は弱い。 問題はオーケストラ、というより指揮ですかね。それこそ3幕2場、マンリーコが歌い終わって、レオノーラと婚礼に向かおうとする場面。ここでオルガン、というよりあれはエレクトーンじゃないかというのが入るのですが、なんとここがグダグダ。はっきり言って合ってない。いや、この前後も、そして4幕もそうなのだけれど、合わないんですよ、歌とオケが。 大体こういうことは起きるものではあって、だから、それを上手く収拾するのが指揮者のお仕事だと思うのですが、まぁ、出来てないよね。あんなにはっきりと事故が見えてしまうのはちょっと。オケではないですね。 演出。 あのですね。この際はっきり言いますが、一体粟國淳っていいんですか?正直言って全然ダメだなとおもったのですけれども。 日本でオペラ見ているとそこそこ付き合わされるのですが、特に藤原は多いのだけれども、今回の演出は正直分からなかった。 まず、舞台自体が、東京文化会館の間口をわざわざ狭めるように壁で区切ってるんですね。これが何を意図しているのか分からないけれど、あるいはより間口の狭い劇場で使えるようにということなのか。でも、少なくとも、東京文化会館の横方向3分の1くらいは狭めてしまってるんですね。両側に壁を作ることで。こういうことは、例えば、より小さい欧州の地方劇場なんかのプロダクションを持ってきて日本でやる、みたいな時にやることはあります。逆に、何処かと共同制作でやるので、そこを合わせるために、というのもあり得る。でも、別に共同制作とは書いてないんですよね。そして、これが東京文化会館のプロダクションであるなら、やはり東京文化会館の造りに合わせてやるべきなのでは。 そして、この「箱」は舞台前面まで出て来ている訳ではないので、舞台前面は元の間口でそのまま広がっている訳です。私考えるに、この場合、この舞台前面の部分は使っちゃいけないんですよ。なんでかというと、本来の舞台である「箱」が、この場合、この劇の舞台=世界として機能してしまうので、その前の部分は「本来存在しないもの」なんですね。そこを使うと勝手に異化効果が発現しかねない。だから、不用意に使うべきではないんです。ところが、そこを何も考えずに意味もなく使ってしまうんですね。だから、「壁」が額縁として機能せず、さりとて意味も無く、という、非常に中途半端なものになってしまう。 その一方で、1幕でバカでっかい月、それもちゃんと兎が見えるそれなりにリアルな月を舞台に出すんですね。これ、舞台に立っている人との対比で言うと、明らかに大きくて、低い。問題は、じゃぁ、その月に意味があるのかというと、少なくとも私には何の為にその月を出したのか、まぁ分からなかった。 そして、人の動き。特に合唱。これはもうどうしようもなく雑。30年くらい前からなんにも変わってないな、というような動かし方。いや、新国とか見てると、流石にここまで粗雑じゃない動かし方をするので、はっきり言って退化していると思います。 具体的には、例えば3幕1場の兵士達。この場面はルーナ伯爵の、城攻めの陣営なので、素直にやろうとしたらそれなりに活気があって然るべきなのですね。だけれども、兵士達が、ろくすっぽ兵士らしくない。ただ立っているだけで、歌に沿って歩くだけ。要は、仕事してないんですね。劇として。 オペラファンを自称する人はよく見落としているのですが、オペラというのはやはり劇なのです。だから、そこにいる人は、必ず意味がなくてはいけない。「意味がない」という意味を与えられるのはありだけれど、つまり、無駄に、雑に、舞台にいてはいけないのです。その意味で、よく言っても凡庸。 2幕2場のレオノーラ争奪戦のところも同様。伯爵の兵士、マンリーコの兵士、修道女、この三者の動きはまぁありきたりで緊張感がない。要するに「睨み合うー間に入って止めるー」というなんの感情もないト書きを棒読みしているような人の動き。だってそれで意味が通るんだからいいでしょ?とでもいうような。 キリがないけれど、主要人物の動かし方も。4幕幕切れの場面もあまりに不用意。レオノーラが死に行く、マンリーコが慨嘆する。そこにルーナ伯爵がいつしか現れて事実を知り嘆き怒り、レオノーラが死ぬとマンリーコを死刑に処す。そうですね。そうしないといけないので、レオノーラとマンリーコの愁嘆場に伯爵は現れないといけないですね。その出し方がもう何も考えてないというか、そこにいると都合がいい位置に行かなきゃいけないので行きました、という感じなのです。そしてその前から殆ど何の仕事もしていないアズチェーナ。 これはね。演出の責任ですよ。こういうことがどれだけ劇としての世界をぶち壊すか。 演出というのは確かに解釈だのコンセプトだのに目が向きがちだけれど、まず第一にオペラは演劇なのですよ。舞台芸術を名乗る通り。日本という国は平気で「これなら舞台なしの演奏会形式の方が良かった」なんて当たり前に言う人が沢山いる国で、まぁ分からないでもないけれど、そもそもそれならオペラ見るのやめればいいのです。オペラは演劇なんだから。演出のコンセプトや内容がどうとかではなくて、その舞台をどう舞台として成立させるかは演出家としての当たり前品質の大前提の仕事です。それが雑なのは、もう、ね。 粟國淳は前はもう少しちゃんとした演出していたと思うけれど、ちょっとこれは酷い。この舞台、お客さん面白いと思って帰ったのかね。コロナ禍だから掛けずにさっさと帰ったけれど、そうでなかったらブーイング出してるよこれは。いや、こう言った方がいいかも知れません。「俺の方がきっと上手く出来ると思うぞ」って。やらんけど。誰も頼まないけど。でもこんな雑なの見せられるとそのくらい言いたくなる程度には腹立ちますよ。うん。 でもねぇ、やっぱりトロヴァトーレはトロヴァトーレなんですよね。やはりこんなもの書けたヴェルディは凄いと思うよ。うん。
2022年01月30日
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https://twitter.com/LFJtokyoBLOG/status/1485492723155357699?cxt=HHwWhsDSgdzww50pAAAA 好意的に見れば、本家サイドとの調整もあるから、落ち着くまで暫く待ちましょう、来年も分からないし、とも取れるし、見ようによってはこの際だからやめちゃおうか、とも取れるし..... ともあれ、今年も無理そうだなぁというのは思っていたけれど、こう来た以上は放っておくともうやらないかも知れないですね..... 本家のナントは今度の週末にやるのですけれどもね.....
2022年01月24日
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まぁ、そういうのが本来の目的のブログではないんだけれどもね.... もう2年になりますのでね。いい加減慣れてきたというかいちいち動じなくなってるという話ではありますが、東京都では昨日1/22の感染者確認数は1万1千人を超えて、日本全体でも5万人越えだそうで。今日は日曜なので大体少なめに出る日だけれど、それでもやっぱり国内で5万人越えだとか。 一方で、重症者の数はそこまで増えていないとかで、急増こそしているものの、424人だとか。自宅療養者の数は増えて、29万人いるとか、まぁ、数は大きいけれど、即大変なことに、というはなしではない、というニュアンスで伝わってるようで。検査しなくても症状があればコロナと診断すればいいんじゃ、みたいな話も出たりして、まぁ、大混乱ですね。 インフルエンザと同じようなものになりつつあるのだ、なんて言い始めてるようですが、しかし、去年に続いて今年もインフルエンザは絶滅寸前の様相を呈しているわけで。その一方で猛威を振るう新型コロナ、オミクロン株、ということは、同じ環境下で、圧倒的に新型コロナの方が強いってことじゃないの、というね。 世界的にもかなり蔓延している一方で、もうこれはそこまで警戒しなくてもいいんだ、という、どっから見てもホラー映画で「もう大丈夫だ!」って迂闊に出て行ってやられるタイプの言動だよなぁ、と思うのですけれども。でも、相変わらず毎日40万人くらい感染者が出ているフランスでは、ラ・フォル・ジュルネを来週開催するらしいです。かなり色々体制は取るらしいけれども。意地でもやってやる、的な感じなんでしょうか。 ラ・フォル・ジュルネが、という訳ではないんだけれども、なんとなく、全世界的にヒステリーが蔓延っている気はします。どちらかというと、コロナ恐怖症が、ではなくて、「制限」される状態に耐え切れなくなって「元通り」を求める系のヒステリーですね。正常化バイアスヒステリーみたいな。 マスクしてないのはパンツ履いてないのと同じくらい破廉恥で恥ずかしい行為になるんじゃね?というのがただの与太話でなくてやや現実味を帯びてきそうな雰囲気ではあるので、分からなくもないけれど、でも、うっかりすると、マスクをしなくていい日常なんてもう2度と戻って来ないんじゃないかとちょっと思ったり。いや、パンツ履くのだって、人類は最初からそうだった訳じゃないし。まぁ、そこまで言わずとも、正直、個人的には、「日常」が戻るのにはもう2年くらいは掛かるんじゃないかな、と結構本気で思ってたりするんですけれどね。まぁ、たかだか2年ですよ。きっと。せいぜいそんなもん。 それまで我慢のつもりではあるのだけれど、しかし、足元では、「大丈夫だろう!」と企画されていた来日ものが軒並みキャンセルになってるようで。既に今週の東フィルはチョン・ミュンフンが来られなくなって中止に。新国は「さまよえるオランダ人」「愛の妙薬」のキャストが大幅変更になっているし、3月の「椿姫」は....まぁ、まだわからないよね。1月末に来る予定だったバッティストーニはやはり来日不能だそうだし。他も色々あるのでしょう。 一方で、蔓延防止等重点措置が出されているけれど、今のところコンサートは入場者数制限はせず。東フィルのように公演内容からして指揮者来ないなら中止、というものはごく少数派で、代役でやります、払い戻しはしません、決行します、ということで。まぁ、もう疲れちゃったんでしょうね。金銭的にもだけれど、そもそも、あれこれ対策打つこと自体に。マスクはしてるし、消毒薬も置いてる。これ以上どうしろっていうんだよ、的な、ね。 気持ちは、まぁ、分からないではないな。だからといってそれでいいやって気もしないんですけれども。 どうなるものやらね。もう暫く様子を見てみないと、なんともですね.....
2022年01月23日
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神奈川県民ホール 15:00〜 3階左手 チャイコフスキー:バレエ音楽「眠れる森の美女」〜 序奏とリラの精 プッチーニ:交響的奇想曲 ニーノ・ロータ:映画「ロミオとジュリエット」より 愛のテーマ R.シュトラウス:交響的幻想曲「イタリアから」より 第4楽章 プッチーニ:オペラ『ラ・ボエーム』より「冷たき手を」(村上公太)~「私の名はミミ」(伊藤晴)~「私が街を歩くと」(高橋維)~「さようなら、朝の甘い目覚めよ」(第3幕四重唱/伊藤晴、高橋維、村上公太、宮本益光) グノー:オペラ『ロメオとジュリエット』より「私は夢に生きたい」(伊藤晴) ビゼー:オペラ『カルメン』より「花の歌」(村上公太) マイアベーア:オペラ『ディノーラ』より「軽やかな影(影の歌)」(高橋維) マスネ:オペラ『エロディア―ド』より「はかない幻」(宮本益光) チャイコフスキー:バレエ『眠れる森の美女』より グラン・パ・ド・ドゥ(上野水香/厚地康雄) ロシア民謡:黒い瞳(上野水香/ブラウリオ・アルバレス/石田泰尚/中島剛) ヘンデル(ハルヴォルセン編曲):パッサカリア(石田泰尚×門脇大樹) <アンコール> ヴェルディ:オペラ『椿姫』より「乾杯の歌」 J.シュトラウスⅠ:ラデツキー行進曲 司会・バリトン:宮本益光 ソプラノ:高橋維、伊藤晴 テノール:村上公太 バレエ:上野水香、厚地康雄、ブラウリオ・アルバレス ヴァイオリン:石田泰尚 ピアノ:中島 剛 神奈川フィルハーモニー管弦楽団 指揮:三ツ橋敬子 曲順忘れちゃった........プログラムというかチラシもどっか行っちゃいましたし......... オケ演奏の後で歌あり、バレエあり、が前後半、って感じだったんですけれどね。 まぁ、正直言うと、長い冬休みだけどあまり出掛けられる訳でもなく、コンサートもいまいちなので、まぁ、なんか聞きに行きましょうと思って買ったんですけれどね。なので、そんなに期待はしていない。久々にホール裏の味奈都庵の本店で富士山盛り食べようかと思ったけれど、寄る年並みで、もう大盛りしか食べられそうにありませんでした........ 演奏は...........そうねぇ..............まぁ、面白かったですよ。いや、忘れたって訳ではないけれど、まぁ、それほど記憶に残る訳でもなかったような.......伊藤晴は、今藤原で新進気鋭のソプラノってことになるのでしょうか。いや、まぁ、悪くないんですが、しかし、まぁ、個人的にはそれほどでもないかなぁ...... むしろバレエが楽しかったかな。まぁ、ガラコンサートですし、ちょっと踊ってくれただけですけれどもね。 そもそもコンサートの性格からして、賑々しく楽しめばいいじゃない、という類のものでしょうから、あまりわぁわぁいうものでもないし、ね。 久しぶりに神奈川県民ホールで舞台付きを観た訳ですが、やはりこのホールは大きい割に見やすくていいなぁと思います。NHK ホールを参考にしているとは思うのだけれども、この間口の広さは昔の歌舞伎座に近いのかなとも思ったり。今の歌舞伎座はまだ行ったことないから知らないんですけれどもね。 てなよしなしごとを思いつつ帰ってきたのでした.....
2022年01月16日
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https://www.tpo.or.jp/information/detail-20220112-01.phpあーあ……まぁ、マーラーの3番だからね。チョン・ミュンフン だしね。中止かぁ……特別演奏会とかやらないのかな。やらないんだろうなぁ。
2022年01月13日
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杜のホールはしもと 15:00〜 2階左手 小曽根真:Gotta be happy / Struttin' in Kitano モシュコフスキー:20の小練習曲 op.91 〜 第8番 小曽根真:Need to walk / O'berek ラヴェル:ピアノ協奏曲 ト長調 〜 第2楽章 小曽根真:Always together / Lazy uncle* / The puzzle* / For Someone* <アンコール> クーツ:Santa Clause is coming to town* 小曽根真:Home ピアノ:小曽根真 ベース:小川晋平 (*) 冬の休みの最初がこれだったなぁ.....もうずっと前のような気が...... クリスマスコンサートというわけです。場所は、横浜線と相模線と京王線の乗り換え駅、橋本。今は相模原市なんですね。まぁ、相模原市も広いですけれども。杜のホールはしもとは、500人ほどのホールなので、こういうライブを聞くにはなかなか良いホールではあります。 今回は一連の小曽根60'sシリーズということで、ソロをメインに若手を加えて、というパターン。この日はベーシストの小川晋平。なんとなくベーシストと言われてエレキベースかと思っていたら、コントラバスでした。まぁ、そう言われりゃそうかも.... 曲目は、セットリストの通り、小曽根真のオリジナルがメインですが、モシュコフスキーとかラヴェルとかをアレンジして弾いたりとかもあって。そういえば、クラシック系の曲を取り上げることが増えてるかも知れないですね。 演奏はいつもの通り切れもよく。楽しい2時間でした。後半の方が、ベースが入ったこともあって、面白かったかなと。なんだかんだと結構聞きに行っている気はしますが、毎々少しづつテイストの違うセットで、飽きることがありません。はい。
2022年01月11日
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ミューザ川崎シンフォニーホール 19:00〜 3階右脇 J.S.バッハ:甘き喜びのうちに BWV729 / カンタータ《神の時こそいと良き時》BWV106 〜 第1曲「ソナティーナ」/ トッカータとフーガ ニ短調 BWV565 ベートーヴェン:交響曲第9番《合唱》 ニ短調 op.125 オルガン:石丸由佳 ソプラノ:市原愛 アルト:山下牧子 テノール:錦織健 バリトン:青山貴 日本フィルハーモニー協会合唱団 日本フィルハーモニー交響楽団 指揮:小林研一郎 去年の話になってしまいましたが、順次書いていこうかなと。 ミューザ川崎だしなぁ、ちょっと高いしいい席ではないけれど、今年はN響聞き逃してるし、小林研一郎だしなぁ......とかいろいろ考えて聞きに行ったのでした。 実の所、新日を聞いてうむー、となっている上に、バーンスタインのをリマスターで観ているので、まぁ、聞く方としては苦しいっていやぁ苦しいんですが。 流石に4階席の後ろの方とかは多少は空いていたようにも見受けられましたが、かなり埋まってました。 前半、オルガン演奏は、まぁ、宜しいんではないでしょうか。正直何か期待して聞いている訳ではないですしね...... で、後半。というかメインの第九。 まぁ、良かったと思います。敢えて奇を衒ったことはせず、炎のコバケン、みたいな大爆発させるというよりは、きちんと、ちゃんとやるといった感じの演奏。オーソドックスですね。それが嫌だという人もまぁいるのでしょうが、個人的には「うん、第九ってこうだよね」という演奏だったかなと。 特筆すべきは、合唱。一言で言うと、ちゃんとしてました。要するに、ドイツ語がドイツ語に聞こえる歌唱。発音の問題というよりは、前に新日のところで書いたけれども、Millionenが、Wohnenが、1語として歌っているのですね。少なくとも、これは一つの言葉なんだと思って歌っているように聞こえる。 発音としては、どちらかというとTochterはトホターというよりはトホテルに、Bruederはブリューダーよりはブリューデルにやや寄っている方なのでしょう。それは古臭い発音なのかも知れない。でも、それ以上に、Wohnenが「神の住われるところ」という一節の中の1語としてちゃんと歌われる。当たり前のことなんだけれども、当たり前のことが当たり前にきちんと歌われている。 この合唱団は、ご当人達の自己評価がどうなってらっしゃるかは存じませんが、定義的にはアマチュアの合唱団です。プロではない。少なくとも、例えば二期会合唱団だの新国立劇場合唱団だのが自分達を定義する時「プロ」というならば、「プロ」ではないと思いますが、少なくともこの日の合唱はきちんとしていた。余程真っ当な歌唱だったと思います。そういう意味では年の最後にいいもん聞いてよかったな、と思いながら帰って来たのでした。
2022年01月10日
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あけましておめでとうございます。 って、もう9日ですがね。 休み中ほったらかしにしておりました。別に深い意図があるでなし、ただ単に書いてなかっただけです。はい。 年末年始に何も聞いていない訳ではなくて、ぼつぼつ書いて行こうかとも思ってはいるのですが、まぁ、それはそれでおいおいと。 コロナも足掛け3年目に入りました。もうすぐ丸2年。この年末年始もオミクロン株というやつで、感染が急拡大、昨日時点で全国で8千人超えとか。まぁ、落ち着きそうで落ち着かないですね。USじゃ一日100万人とかなんとか。欧州も各国10万単位で感染者が出る始末。 こんな状況なので、そもそも海外からも来日出来ない状況ですし(今時点では原則日本国籍を有しない人は入国不可)、勿論海外に行くあてもないし。オミクロン株は比較的軽症で済む、という話もありますが、まぁ、あてになったものではないしなぁ。 2年もこんな状態が続くと、色々知らず知らず変わっていることもあります。 一番は、やっぱり生演奏を聞きたいというのがむしろ薄れてきたこと。聞いてますけれどね。でも、聞けないという状態が続けば、それはそれで仕方ないので、聞かないうちに、割とどうでもよくなってきた面はあります。オペラなんかは、元々この20年くらい凋落の一途、とまでは言わないまでも、昔ほどこれは聞きたいと思うものはないといえばないですし。他もねぇ......シフやポリーニは、聞けるなら聞きたいと思うけれども、まぁ、そのくらいかなぁ。オケは、定期演奏会のチケットは持ってるし、そこそこ聞きには行くと思うのだけれども。 最初の1年、2020年は、結構ストレスも掛かったし、我慢してる感が強かったけれども、更に1年経ってみると、もうそういうものだろう、という感覚は強くなってはいる気がします。特にこの半年くらいは半ば緩んでいただけに、まぁまた元に戻るだけか、みたいな感じですしね。そういうものとして生活していくものだなぁ、という。 それが敗北なのか、というと、そんな気もしないんですけれどもね。大体が自然現象なんだから、抗えなければ折り合いをつけるだけなんだし。その結果今までやれていたことが出来なくなる、というのは、確かにストレスなんだけれども、どういうんでしょうね。人の決めたることは人が変えられるけれども、人が決めたのではないことは、人にとっては与件なのだから、ある程度干渉は出来ても、そんなに変えられるというものでもないと思うのでね。 昔から吉田秀和をよく読むのだけれども、最近読んでいて思うのは、結局、この人は音楽を聞くことを楽しんでいたのだな、ということですね。いろんな言い様はあるのだけれども、何をどう言ってみたところで、この人はやっぱり根底には音楽を楽しむという態度があったのだと思います。それしか書いてない。だから、この人の書くものは面白い。今でも面白い。注いて、書かれている人も、聞きたくなってくる。知っていてももう一度聞きたいと思う。そういう人はやっぱり多くはないし、今書いている人でそういう想いを起こさせる人はほとんどいなくなってしまった。他には、黒田恭一なんかもそうでしたね。ドナルド・キーンは、音楽のことを書かせるとあまり面白くはなかったけれども、でも、やっぱりそれに通じるところがあった。そう思います。 そんなわけで、吉田秀和なんか読んでいると、改めてまた聞いてみたくなったりします。でもそれはレコードなので、生演奏にはならなかったりするのだけれども。でも、たとえば、昨日もちょっと聞きに行っていて、聞いた結果はどうだったかと言われればまぁ色々なんだけれども、メインが始まる前、それほど好きな曲じゃないよなぁと思いつつも、やっぱり楽しみにしている心持ち、敢えてそういうならワクワクしている気持ちがないでもない。そういうのは、やっぱり、レコードではなかなか味わえない感覚なのではあります。だから、やっぱり、聞きに行くことは、回数は減らしても、なくなりはしないとは思うんですけれどもね。 ともあれ、今年もよろしくお願いします。
2022年01月09日
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