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アートスペース・オー 16:00〜 ベートーヴェン:ピアノソナタ第30番ホ長調 op.109 / 第31番変イ長調 op.110 / 第32番ハ短調 op.111 ピアノ:児玉麻里 たまたまネットで見ていて見つけたのですが、町田市の成瀬にあるコンサートホール、というより、ちょっとしたスタジオといった趣のところでのコンサート。下が陶芸アトリエで、その二階という立地。この「アートスペース・オー」というところが、貸しホール業だけでなくコンサートもやっているのだそうですが、今回が第218回なんだとか。継続は力なりと言いますか、実は「え」というような人も過去にはやっているそうで、随分前ですがアルゲリッチとクレーメルとマイスキーのトリオで演奏してるんだとか。さすがにこれは相当ですが、その他にもそこそこ知られた、というとちょっと控え目に過ぎるだろうな、というような人達が。まぁ、お客さんの少なからずが常連さんというか知り合いというか、な感じで、50人はいるけど、てな感じのアットホームな演奏会。 まぁ、これで、児玉麻里でベートーヴェンの最後の3つのソナタ、というわけで、やって来たのでした。 まぁ、そういう感じだから、あんまり厳しいこと言うのもどうかな、とは思うんですけどね。 基本的には、面白かったです。ただ、小さいところなので、ピアノはフルサイズではない小型のグランドなんだけれど、ちょっと力が入ってしまっているかなぁ、という感じの演奏ではあります。 で、最後の111番を聞いていて、あぁ、と思ったんだけれど......きっとね、ベートーヴェンって、基本的に綺麗な音楽を書いてたんじゃないかなぁ、と思うんですね。 児玉麻里の演奏は、力演というか、非常に激しい表現を追求した、といっていいかと思うような演奏。それはそれで多分間違いではない。ただ、ベートーヴェンは、やはり、基本的に古典派の人なんですね。だから、幾ら形式に拘らない、新しい形式を模索する、と言ってみても、やはり「形式」というものがあって、ある種の「形式の美」というものが根底にあるんじゃないだろうかと。疾風怒濤だのなんだのいうんだけれど、やっぱり、ベートーヴェンの音楽は「美しさ」を求めるところが何処かにあるんじゃないだろうか、と。それが形式というものではないのかな、などと思ったりしたのでした。
2018年06月26日
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6/23 オーチャードホール 15:00〜 3階右手 バッハ=ブゾーニ:シャコンヌ (5位) シューマン=リスト:献呈 (7位) ラフマニノフ:ピアノソナタ第2番 (3位) ショパン:子守歌 (選外) / 舟歌 (1位) ベートーヴェン:ピアノソナタ第32番 ハ短調 op.111 (2位) <アンコール> バッハ:平均律クラヴィーア第1巻 ハ長調 プレリュード (13位) / アリア (ゴールドベルク変奏曲) (1位) ピアノ:小山実稚恵 6/24 オーチャードホール 15:00〜 3階正面 バーンスタイン:"キャンディード" 序曲 ガーシュィン:ラプソディー・イン・ブルー <独奏アンコール> シャルル・トレネ / ワイセンベルク:En Avril a Paris レスピーギ:リュートのための古風なアリアと舞曲 第3集 / ローマの松 ピアノ:萩原麻未 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:渡邊一正 普通、このブログでは、1公演1記事で書くのを常にしています。たまにまとめて書くことはあるけれど、一連のプログラムだとか、何かしら内容に連関がある場合でないと、基本一緒に書かない。ただ、今回は、たまたま2日連続で、同じオーチャードホール(の3階)で聞いた中で、比較してのある問題を、まぁはっきり言うとお客の問題というのを感じてしまったので、それを書こうと思います。 で、先に演奏を言ってしまうと、どっちも普通ですかね。悪いとは言わない。 小山実稚恵は、昨年完結した12年24回シリーズのアンコール公演という態で、アンケートで募ったやって欲しい曲を参考に組んだそうな。そういう意味では、ちゃんと上位3曲を押さえているという。ゴールドベルクは、まぁ、あれやったらそれで終わっちゃいますからね。ちなみに単独4位で展覧会の絵、単独6位がテンペスト、同列7位に月光とショパンのバラード1番、8位シューベルトのソナタD.960、9位ドビュッシーの月の光、10位ショパンのソナタ3番、11位にハンマークラヴィーア。 ....いや、あの、この順位.......どうなんだろう..........? 一体、どういう人達がどう投票したんだろう......いや、お客さんなんだけどね、基本。 プログラムに微妙に纏まりがないのは、まぁ、そんな理由。 演奏としては、このプログラムだと、個人的には後半に主たる興味がある。で、op.111は、前回、つまり昨年11月の24回目の本公演の時よりはかなり弾けてました。あの時は正直「え?」という感じでしたからね。今回はかなり良かったかなと。実は今書いてないのだけど、先週もこの曲を聞く機会があって、まぁその辺から思うところも無いでもなかったけれど、こちらはこれでいいかなと。それと、舟歌。これも良かった。 後半だけ、皇后が来てらしたのは、去年の秋の紫綬褒章受勲のお礼、てなことになるんでしょうかね。はい、場内少々騒然。2階の左手サイド席の最前列に座られてました。 だからというわけではないと思うけれど、後半の方が締まってた感じはあります。 一方東フィルはというと、まぁ、不可は無いよね、という演奏。そもそも曲目が曲目なんで、あまり問題の起きようが無いんじゃないかという。簡単ではないけれどね。でも、こういう曲目は、解釈とか様式とかいうことはあまり問われないので.......そして、東フィルの金管は、ローマの松は流石にエキストラ入れてたけれど、それにしても言うほど下手くそではないのですよ。 ラプソディー・イン・ブルーは、最近は小曽根真や山下洋輔のガーシュインばっかり聞いてる身には、普通だねぇ、と言う印象。普通ですよ、普通。普通にちゃんとした演奏。そして多分一番落ち着いてたのは、弦楽のみのリュートのための古風なアリアと舞曲。 で。お客なんですがね。 小山実稚恵は、まぁ、年配客を中心に、比較的年齢層は高く、うるさ方も多そう。一方の東フィルは、少なくとも3階は、なんかインターナショナルスクールの学生か?みたいな若いTシャツ姿の、高校生くらいのアメリカ人(ちょっと小耳に挟んだ喋りの感じだとそうじゃね?)や、子供連れとか、まぁ、曲目が曲目なんでね。 でねぇ。もうね、集中力が全然違うように感じるんですよ。集中してないの。小山実稚恵の客の方が。 意外でしょう?でもね、あっちの方が全然ダメな印象なの。 そういう言い方をするなら、どっちも、「あんた何しに来たの?」と言いたくなるような変な客は、まぁ、いないんですよ。ただね、ある程度コンサート通いをしてると、お客が全体的に落ち着いてるかどうか、集中して聞いてるかどうか、という雰囲気は、まぁ、なんとなく感じられるようになります。で、それって、お客に伝播するんですよね。 東フィルのお客は、とにかく、聞いてるんですよ。私の隣のおっさんは寝てましたがね(爆)でも、全体的に、曲目もあるんだろうけれど、皆意識が舞台に、音楽に、向いてるんですよね。だから、簡単にいうと、ノイズが少ない。というか、「おやっ?」と思うくらい、皆集中してる。 一方の、小山実稚恵の方は、とにかく落ち着きがない。カサカサカサカサ、どっかで音が立つ。例えば、舟歌の終わりまであと1分足らず、といったところで、飴を取り出そうとガサガサ。op.111の変奏曲の最後の方で、足元をカサカサ、カサカサ。我慢しろよ、と。もうちょっと音立てずに耐えろよ、と。それも、くしゃみだのなんだのじゃないんですよ。人が意図を持って為すような音を平気で立てちゃう。それは単に音が立つという問題でなくて、妙に、集中力がない。だから音が普通に出ちゃう。そんな感じ。 なんだろうね、これは....... と思って、思いついたのだけれど。終演後、割とゆっくり降りてくると、人だかり。皇后陛下がこれから出られる、それを見てやろうという人波。まぁ、それはいいんですがね。ただ、ふと思ったのは、この人達、ひょっとして「小山実稚恵のコンサートを聞く」ことと「皇后陛下を見る、写真に撮る」ことと、等価なんじゃないだろうか、ということ。 いや、悪いと言ってるわけではないんです。ただ、これ、前から思ってることなんですが、小山実稚恵のこのシリーズのお客、微妙に行儀が悪いっつーか、なんか違和感があったんですよね。 多分、東フィルの客は、普通なんですよ、一般的には。小山実稚恵の方が、ちょっと変。で、その源泉は、おそらく、東フィルのお客は「音楽を聞きに来てる」のに対して、小山実稚恵の方は「小山実稚恵のコンサートに来てる」のじゃないかなと。つまり、音楽は、割とどうでもいいんじゃないかなぁという人が、一定数いたんじゃないかなと... 独断と偏見、ですけどね。ただ、随分前に、そういえば、このシリーズで「曲毎に拍手してやたら変なブラボー叫ぶ」という話でこのブログでちょっと論争になったのを思い出したのだけど、あれに通じる気がするんですよね。 確かあの時はショパンだったと思うんだけれど、あの時は確か「ブラボーや拍手というものはコミュニケーションの手段なのであって...」という話をしていたと思うのだけれど、そもそもを言えば「ここでブラボーとかちょっとおかしくね?」ということだったんですね。それは言ってしまえば他人が感じていることの全否定にもなりかねないから、ある程度抑制していたのだけれど、正直言えば、あれはやっぱり「拍手してブラボーしている私」、その事実、に酔っ払ってたんだと思うんですね。だから、多分、音楽はどうだってよかったんですよ、あの人は、ってどの人か知らんけど..... 小山実稚恵のあの企画は、結構アグレッシヴだったと思っていて、曲目が結構厳しかったと思うんですね。今、ああいうプログラムで普通に演奏会やる人って、あまりいない。というのは、多分、集客が厳しい。この演奏会ではほぼ満席ではなかったかと思っていて、実は東フィルも8割くらいは入ってた、或いはそれ以上、という感じで、だから、お客は入ってるんだけど..... そういえば、2月にも青葉台で小山実稚恵がベートーヴェンを弾くのを聞いていたのだけど、あの時も「お客が集中力がない」という話をしてまして。そういうお客が付いちゃってるんですかね。お客が付くのはいいことなんだけど.... 個人的には。東フィルの方が、よかったかなぁ。演奏でいうなら、或いは小山実稚恵の方が、とも思うんだけれども。でも、コンサートに於いては、やっぱりお客というのも一要素ではあるんですよね.....
2018年06月25日
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オーチャードホール 15:30〜 3階 チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 <独奏アンコール> ショパン:ワルツ第19番イ短調 チャイコフスキー:交響曲第5番 <アンコール> チャイコフスキー:弦楽セレナーデ 〜 ワルツ ピアノ:アリス=紗良・オット NHK交響楽団 指揮:ウラディミール・アシュケナージ オーチャード定期も第100回。20年なんですかね。 前回の99回は4/29、ブロムシュテットがベートーヴェンの7番と8番をやって、これはこれで良かったけれど、LFJに取り紛れて書かず仕舞い。で、第100回がアシュケナージ。 なんつーかさぁ、デュトワといい、アシュケナージといい、音楽監督の時は散々に言っておいて、いざ客演となると掌返したように、の逆か、という扱いをするN響もN響の定期会員も、歪んでるよね。 なんつーかベタベタなプログラムではあります。善かれ悪しかれ。でも、これはこれで悪くない。まぁ、言えば、ベタなのはどっちかだけでもいいかもね、とも思わなくもないですが。チャイコフスキーの協奏曲は、たまには生で聴くのはいいな、と思う。交響曲の5番、これはまぁ聞かなきゃ聞かないで構わないけど、聞く機会があればそれはそれでいい。でも、本音を言うと、この2曲、って言われると、もう少し捻りが欲しいかな、とも思いますね。好きな曲で言えば、アンコールで出た弦楽セレナーデを全曲やるとか、組曲の方、例えば「モーツァルティアーナ」とか、プロコフィエフやショスタコーヴィチでもいいけど.... まぁ、N響オーチャード定期ってそういうもの、と言ってしまえばそれまでだけども。 演奏的には、そうねぇ....... 良かったとは思いますよ。特に、ピアノ協奏曲とか、久々に聞いたし。 ただ、なんともなぁ、と思ったのは、交響曲の終楽章。5番ですからね。大騒ぎですね。これ、あくまで綺麗に演奏するんですね。アシュケナージとN響は。これは、流石。力んでるのはこれはもう日本のオケの常道だから、ある意味しょうがない。しょうがないんだけど、力み返らずに、力奏してますと言いながら、あくまで綺麗の範疇に収めるというか。それはそれで納得の行くもので、立派だと思うんだけど....さぁ.......でも.......君らさ、きっと、例えば小林研一郎の指揮だったら、絶対そういう音出さないだろ、というか.......指揮者に求められれば、って言うんだろうけどさ........... そういう意味での、節操の無さというのかしら。「人を見て」というのと同じ意味での、指揮者を見て演奏するN響って............やっぱ、俺ぁ、嫌いだ............ そう言いながら定期演奏会聞きに行くわけだけれどもさ。 アリス=紗良・オットはいいんじゃないでしょうか。ショパンも、まぁ、チャイコフスキーの後にやる必要ないだろうに、と思ったけれど、それもまたそれでいい演奏で、いいんじゃないでしょうか。 そういう意味では、オケのアンコールの弦楽セレナーデのワルツも、なるほどね、という選曲ではありました。これも悪くない。アンコールを、それも選曲を褒めるのもおかしな話ではあるけれど、ね。 協奏曲で、コンマスが、右手、つまり一番外でなく、左側に座って、右側に若いの座らせてやらせてたけど、あれは演奏上の指揮者との位置とかだったのか、それとも教育の一環だったのかしらん。交響曲では定位置だったし。
2018年06月17日
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という訳で今頃になってもまだ総括したりしている訳です。いや、正直言うと、結構危機的な状況なんじゃないかなーとね..... よく確認した訳ではないのですが、来年のラグビーW杯や再来年のオリンピックで、国際フォーラムをプレスセンターにすると言う話があるとかないとか。それで、その準備が大変だから....とかいう話があるんじゃないの?という。 まぁ、典型的な小役人が考えそうな話ですね。 やるんだよ。やれよ。言い訳してんじゃねーよ。全く。 それはさておいて。 やろうがやらなかろうが、2021年になろうが、LFJをやるのなら。まず、前回書いた通り、「誰が」「何のために」というのをちゃんと考えないといけない。それがただのイベントでもいいんですよ。でもね、100万級の集客を、数え方はあるにせよ、やってみせたのに、どうして今そんなに来てくれないのか? 「元々そんなに魅力的なもんじゃなかったんだよ」という意見は、あります。それこそ、最初の熱狂に加えて、一時はのだめとかに乗っかって集客力があったように見えただけ、というのも。 でも、言わせて貰えば、クラシック音楽なんて、ちょっとやそっとのブームでそんなに上下動するほどちょろいもんじゃないんですけどね。本当は。それに、その後だって巷じゃ辻井くんだの四月は君の嘘だの今だとピアノの森だの、そういうネタが転がってない訳でもない。いや、むしろ、クラシックは鉄板とまではいかないけれどもある程度引き付ける力があるネタとして機能している訳です。 じゃぁ、なんで、皆来なくなった? ある程度コアなお客は、まぁ、来るんですよ。だから、その周辺の人達を考えなきゃいけない。そういう人達は、有料公演は聞いてもせいぜい1つかそこら、で、展示ホールや地上で無料の公演をまったり聞いたりしてる。そういう人は今でもいますけど、そういう人達がやっぱり減ってると思うんですね。じゃぁ、何故か? 多分、今のテーマ性が分かりにくいんだと思います。 あのねぇ、マルタンは多分怒るんですけどね、日本じゃクラシックはベートーヴェンとモーツァルトとバッハくらいしかウケないんですよ。だから、テーマは、3年ごとにベートーヴェンとモーツァルトとバッハのローテーションでいいくらい。それか、ショパンとかチャイコフスキー、いや、下手するとチャイコフスキーですら「マニアック」って言われるかも知れない。 そんなもんすよ。 やるな、って言ってる訳じゃないんです。だってさ、今だって、どうせこじつけてなんだって演奏するじゃないですか。何やったっていいんですよ。でも、皆に向けて掲げるテーマは分かりやすくていいんです。「モーツァルトです」つって、やって来たお客にヒンデミット聞かせるくらい構いやしないっすよ。2つくらい経由すりゃきっとヒンデミットやる理由くらい言えるって。 それか、開き直って、「TVとクラシック」とか、もっと俗っぽいテーマでもいい。 テーマなんて、キャッチコピーと同じです。まず掴まなきゃ。掴んで、「ん?」と思って来てもらうこと。これが大事。 あのねぇ。マルタンの理想はよく分かるんですよ。でもねぇ。私はフランス社会はあまりよく分からないけれど、ドイツ語圏やUKは多少はイメージがあって、なんだかんだ言ってまだ音楽と教会の関係は強いんですよ。それは何に繋がるかというと、社会の中で、その構成要素の根幹の部分に、リアルに音楽が根差しているんですよね。彼らにとって、例えばバッハやモーツァルトの音楽は、決して自分の社会と関係のないものではない、というのが、伝統的な社会観の一部としてあると考えていいと思うんですね。 そういう中で、「クラシック音楽を身近なものに」というのは、「クラシック音楽を自分のところに引き戻す」、元々身近だった筈のものを、という感覚ではないかな、と思うのです。でも、日本では、そういう素地はやっぱりないと言っていい。そこは、やっぱり、違うと思うんですね。 だから、媚びる必要はないけれども、テーマは分かりやすく打ち出す方がいいんじゃないかと思うんです。羊頭狗肉にならない程度には曲目も妥協するとしても。そういうことははっきりマルタンに言って行かないと、日本では立ち行かないと思うんです。無論、曲目に共通性がなくなるとかの問題もあろうけれど、そこはこじつけで行って、日本のテーマの部分は多少は日本独自で賄うとか。 で、それと関連するのが、アマチュアの活用、なんですけどね。 日本にも「クラシックの素地」は薄っぺらいけれどもやっぱりあって、それは何かというと、音楽教育、なんですね。日本人は今のところ、多分60歳以下の義務教育を受けた人は、皆リコーダーくらいの楽器はやってる筈なんです。もうちょっとディープな世界でも、部活でブラスバンドやってたなんて人も少なくない。ただ、日本の特色は、学校出ちゃうと、まぁ大体高校出ちゃうと、自分から余程求めて行かない限り、演奏する機会がないんですよね。 楽器なんかやったことない私には分からない世界なんだけど、一時期やってた「前夜祭」のみんなでなんちゃら、あれ、結構集まるじゃないですか。あれ、ああいう風にやる人もいていいと思うんだけど、例えば展示ホールでやれ、とか言われると、苦しいですよね。 そこで。無謀なんですけど。例えば、D1。今映画上演とかに使ってるあそこ。あそこで、ぶっ通しで入れ替わり立ち替わり、希望者に演奏してもらう。演奏権は15分で1,000円とか。聞く方は200円くらいで整理券買って、1時間単位で入れ替えとか。これ、なんならもっと大きいとこだって構わないと思います。B5の反対側だっていいけど、さすがに本公演に支障が出るか..... ポイントは、「参加」です。多分。 自分がボランティアやってたから言うのじゃないですが、最初期や、震災前くらいの、参加してる感じが、今のLFJには希薄であるような気がします。ただ、皆んな来て、提供されたものを聞いて、帰る。それだけ。それでは、普段のコンサートと何も変わらない。昔は子供向けの企画とかももっと充実してたんですけどね。そういうのもない。 今は、例えば観光なんかでも「体験」が言われる時代ですが、体験だったら聞いてるだけでも体験になっちゃう。でも、そういう意味では、「自分が何かする」体験でないとインパクトない気がするんですよ。良くも悪くも能動的な体験が本当の体験なんじゃないだろうか、と思うわけです。 言うほど簡単じゃないですけどね。ただ、これは一例に過ぎないけれども、違う方向性であれ、「誰が」「何の為に」を考え抜いたところに、何某か必ず出てくる筈なんですよね。そういう意味での「手抜き」というのは、思い返してみれば、ひしひしと感じた今年であったのかなと。愛情であれ情熱であれ、何でもいいんだけれど、全然考えてねーだろお前ら、というのが伝わってくる。 そういうのね。私、大っ嫌いなんですよね。考えてみると。仕事でも、音楽でも。 我ながら、「うわぁ、そこ一緒なのか....」と自分にドン引きではあるんですが。
2018年06月11日
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オーチャードホール 15:00〜 3階正面 ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」(演奏会形式) フロレスタン:ペーター・ザイフェルト レオノーレ:マヌエラ・ウール ドン・ピツァロ:ルカ・ピサローニ ロッコ:フランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ マルツェリーネ:シルヴィア・シュヴァルツ ヤキーノ:大槻孝志 ドン・フェルナンド:小森輝彦 東京オペラシンガーズ 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:チョン・ミュンフン これねぇ.....今となっては完全な「後出しジャンケン」になってはしまうんですが、新国について先に書いてしまったので、書いとかないとねということで。 正直言うと、聞いた時点では、まぁ一生懸命書こうと思うほどの出来ではなかったということ。 ペーター・ザイフェルトは、一体最後に聞いたの何時だっけ、というくらいの懐かしい名前というか。まぁ、歌えば流石だなとは思わせるけれど、ロートルではありますよねー、という。あとも、格別これは!というほどの歌手ではないなという感じ。 合唱は、どっこいどっこい。こちらも叫ぶのが本業って感じでありまして、まぁ、アレよね、といったところ。 オーケストラは、私は東フィルの方が好き。こちらもそれほどいいというわけではないけれど。 演出は.....演奏会形式ですからね。それは関係ない。 じゃぁ、飯守泰次郎とチョン・ミュンフン、どっちがいい?と聞かれると、正直私はチョン・ミュンフンはそれほど好きではないけれど、まとまりの良さに於いてチョン・ミュンフンかなと。 アプローチは、両者意外と違います。敢えて言えば飯守泰次郎が「古典としてのベートーヴェン」といった趣を持つのに対して、チョン・ミュンフンはあくまで「オペラ」を振ってる感じ。実は、この公演、ちょっと慣習的なものと違って、序曲をやって、2幕2場の前にレオノーレ序曲第3番を置くやり方と違い、本来の序曲としてレオノーレ第3番を置き、2幕2場の前には何もしない。「フィデリオ」序曲よりこちらの方がふさわしい、だそうで....さてどうかなぁ、という気はしなくもないですが、ただ、この形は、「勝手な改変」とまでは言えないとも言えなくもない(?)のかも知れず・そういう意味では、チョン・ミュンフンはオペラとしての楽曲のドラマの運びに着目した、とも言えるかと。 そのどちらがいいとも言い難い。ただ、音楽としての一貫性が見えていて、それ故か良くも悪くも分かりやすいこちらに比べると、新国の飯守泰次郎のアプローチは、悪くはないけれど、音楽としての目指すところが若干曖昧としている面も無くもないのかと。結果、オケも、合唱も、落ち着きどころが見えない感はあったような。それは必ずしも演出が悪影響を与えた、的な話ではないように思います。 今にして思えば、これ聞いておいてよかったかなと。新国のがそれほど酷いという訳ではないけれど、物語としての相応のアクロバティックな取り扱いを思えば、これあっての未だしも冷静な受け止め方が可能だったやも。それで褒めるってのもどうかとは思いますが。
2018年06月05日
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新国立劇場 14:00〜 3階右手 フロレスタン:ステファン・グールド レオノーレ:リカルダ・メルベート ドン・ピツァロ:ミヒャエル・クプファー=ラデツキー ロッコ:妻屋秀和 マルツェリーネ:石橋栄実 ジャキーノ:鈴木准 ドン・フェルナンド:黒田博 新国立劇場合唱団 東京交響楽団 指揮:飯守泰次郎 演出:カタリーナ・ワーグナー ドラマトゥルク:ダニエル・ウェーバー LFJの総括もまだ済んでないけれど、コンサートもオペラも進むのであります。順番に書きたかったけれど、ちょっと色々飛ばして、これ。 初日には盛大にブーイングが飛んでいたそうですけれども、さて、それも含めてどう評価したものやら。 で、ちょっとネット上の声を見て見たのだけれど、ざっと見た限り、まぁ、そういう受け取り方しか出来んのよね、やっぱり.....という感想ではあります。唯一、失礼な言い方にはなりますが、音楽評論家の東条氏のブログがある一線で違っているなぁ、と思ったくらいかと。流石といえば流石なんだけれど、けなすわけでなく、これ、むしろ、観客としては基本の筈なんだよねぇ.... 先に音楽について書くと、率直に言ってどうということはなかったと思います。歌唱陣は、多分、主役級の二人はもういい加減疲れてたのではないかなと。フロレスタンのステファン・グールドは、確かに2幕出たとこは前半結構調子よく歌ってたけれど、後半はあれ?という感じだったし、レオノーラ役も元々それほど声があるわけではなく。ブログにまだ書いてないのですが、5月初めに東フィル定期でチョン・ミュンフンが演奏会形式でやっていて、それも決していい出来と言えなさそうな感じではあったけれど、オケも含めてそちらの方がまとまりは良かった。 合唱は、どっちもよくなかったけれどね.......ともあれ、まず、歌詞を歌おうよ.......その点では新国の方が若干まし......いやいや........ オケは、東響の金管は随分ですね。昔から東フィルは悪く言われてたけど、東響もかなりアレだよ?全体としては飯守泰次郎退任公演ってぇことで(音楽監督としてはまだあるけれど)、それなりに気は入っていて、一部「お」と思うような「響き」をさせることもあったけれど、特に前半はアインザッツまるで合わないし、それを犠牲にして何かを達成しようとしているわけでなし、という。 で、演出ですが。 そもそも、日本人は何のためにオペラ観てるんでしょうね、と考えた時、そもそも日本人にとっての舞台物というのは、「芸術」じゃないんじゃないでしょうか。要は「娯楽」。相撲観戦みたいなもの。本当は、幕の内弁当喰って冷酒飲みながらヤンヤヤンヤ言いながら観たいのではないかなと。流石にそふぃすてけいてっどされた現代の観衆は、新国立劇場でそうはしないとは思うんだけれど、ただ、これって、150年前の欧州ならまだ十分有り得る姿なわけですよね。今回の演出家の曾祖父さんがそれを嫌って「お客が音楽に、舞台に集中する」劇場をドイツの片田舎に作ったのは有名な話で、それほど昔の話じゃない。 で。それはそれで一つの在りようなんです。悪いとは言えない。 ただ、例えば今のドイツではもうそういうものではダメなんじゃないか?という考え方から、今回のような演出が出来ているわけです。が、その潮流自体は決して思いつきではなくて、その根底には「オペラが、オペラハウスが、現にそこにあって、それはそれで我々の文化だから維持したい」という想いがあるのだと思うのですね。実際、オペラハウスの苦境はあちこちで顕現している問題です。聞くところでは、今、中東などでは欧州の著名なオペラハウスの支援を受けてオペラ劇場を作ろうとする流れが結構あって、それもつまりはオペラを維持して行く為の活動でもあるわけで。その中から浮かんでくるのが「じゃぁどうしたらオペラはオペラとして続けられるのか?」という問題。勿論お金も問題なのだけれど、同時にあるのは「オペラは必要とされるのか?」「オペラは観衆を得られるのか?」という命題で、乱暴ですが、それに対する答えが「今の観衆に対して芸術として響かなければならない」ということだと思うんですね。 もっと乱暴に言ってしまうと、ある種の演出は、現代美術みたいなもんなんですよ、きっと。あるいは現代音楽といってもいいけど、そうすると話がややこしくなるのでね。現代美術。 無論、古典芸術としてのオペラを称揚するのも全然構わない。ただ、申し訳ないけれど、例えば今回の演出、これは端的に言ってしまえばオリジナルの「社会としての愛」(確かに夫婦愛だけれど、一言で集約するとこっちに入ってしまう種類だと思う)をひっくり返して見せた訳だけれど、これに文句を言う人達のどれだけが、古典芸術としてのフィデリオ、社会愛だとか、夫婦愛でもいいけれど、そういうものを表現したものとして捉えて観ていたのか。ブーイングを仕掛けた人達、これも否定しないのだけれど、だが、その人達は、何処まで演出家の意図を汲み取って批判したのか。 別にね、ショックを受けて拒否反応、ってことで全然構いやしないんですよ。ただ、気になったのは、この舞台を「わたしのこと」だと受け取っていた人がどれだけいたのだろうかと。 私もそんなに詳しいわけではないけれど、今のドイツでのある程度優れた「現代演出」の場合、大きく分けると「物語自体は大きく変えずに受け取り方や光の当て具合を工夫する」というのと、「そもそも物語の筋を変えてしまうことで何某か表現する」という二つの方向性があるように思います。 今回の演出は、これで行くと、後者に当たります。明らかに筋は違っている。では、そのことによって破綻しているのか?というと、破綻はしていない。演出としては物語としての落とし前は一応付けている。更に言えば、この演出は、確かにオリジナルの、端的に言えば「社会愛」とでもいったもの、或いは「社会は最終的には良い方向に行くだろう」という期待のようなものにNOを突きつけたわけです。 これを、観衆は、どう受け取ったのか。 「違う、そうじゃない、我々はそんな風にしちゃいけないんだ」と受け取ったのか。「そうだよねー、現実なんてそんなもんだよねー」と受け取ったのか。そうではなく、「違う、俺たちが観たいのはそんなもんじゃないんだ、いつもの予定通りのハッピーエンドを見たいんだ」と思ったのか、「現代演出ってこういうもんだよねー、面白い〜」とでも思ったのか、或いはそもそもそういうことも含めてなーんにも考えずにいるのか。 どうなんでしょうね。 そこに自覚的であるようにあまり思えないなぁ、というのが個人的に思ったこと。東条氏のブログからは、こんな言い方は失礼かも知れないが、その視座の存在を感じたのが、やはり違うな、ということ。 演出の細かい評価はあまりしませんが、ざっくり言うと、2幕でレオノーレがピサロに逆に武器を奪われて、結局二人とも刺されてしまい、その上地下牢をブロックで塞がれ、最後は死んでいくという筋。大臣ドン・フェルナンドの登場によりピサロが窮地に陥る、というのには、フロレスタンとレオノーレの衣装を入手したピサロが、自分はフロレスタンになり、偽レオノーレを仕立てて、人々を、恐らくは大臣も欺き、一旦は解放されたかに見えた囚人達とその妻達は再度牢に囚われる、というもの。 最後、ピサロは元の姿に戻り、大臣と向き合う、というのは対峙しているように見えましたが、これは、2幕2場を最終的には抽象的、寓話的に取り扱う、ということにしたのでしょう。 演出的には、個人的にはあまり出来がいいとは言えないと思います。というのは、確かにわかりにくい。いや、表面的にはわかるんだけれども、これは誤読や反発を生むよな、というのもあるんですが、正直いうとパッと見では、元の話を知らなければ「何故こうなるのか?」がわからないかも知れない。率直にいってコンヴィチュニーあたりの「この話は皆さんよくご存知ですよね」というのにどっぷり依存して作ってるのに比べれば全然いいのだけれど、でも、わかりにくい。わかりにくいからドラマトゥルクの説明を載せるのだけれど、これまたわかりにくい。その意味では失敗に近い。 ただ、述べた通り、かつてのホモキ演出のように、話の落とし前が付かないようなものではなく、この舞台自体は落とし前をきちんと付けている。そして、話を書き換えて違うことを言っているんだけれど、逆にテーマとしてはぶれていない。その意味ではフィデリオは依然としてフィデリオに辛うじて止まっているかも知れない。そういう演出だと見ます。 細部に関して言うと、色々と考えられている演出だとは思います。ひとつ、なるほど、と思ったことを。 この演出、3層構造(正確には4層と言ってもいいのだけれど)の舞台になっていて、一番上は牢獄の事務所的なエリア(この「外」の世界があるのだけれど、そこは結局描かれない)、一番下は囚人達の牢獄。で、真ん中の層、これはほぼ全編通じて見えているエリアだけれど、ここがフロレスタンの牢獄エリア。つまり、フロレスタンも全編通じて見えている。で、絵を描いたりするのだけれど、このプラン、たまたまなのかも知れないけれど、結果的にフロレスタンの牢獄がずっと見える化されていることになります。しかも1幕の芝居が行われているすぐ下に。これはちょっと斬新で、というのは、普通、フロレスタンの地下牢は「ずっと深い闇の底」というような抽象的な描かれ方をしていて、それ故に1幕では出てこないし、逆に2幕ではずっと深い地下なので地上は同時に出てこない。地上との関係はせいぜい階段が見えるくらい、という、いわば「地下牢という御伽噺」に描かれるのが一般的と思うのだけれど、この舞台は同時に見えていることで地下牢が現実化されるんですね。 これは、最後には、「フロレスタンとレオノーレの死に行く二人の世界」に転化してしまうのだけれど、少なくともこの話が「御伽噺」じゃないだろ?ということを示す、ひいてはこれを「わたしのこと」として受け取らせる補助線にはなっているし、2幕の展開に整合性を持たせる一因にはなっていると思います。 でも、再演は無いだろうなぁ..... これも折に触れていうのだけれど、日本で行われた現代演出で一番鋭かったのは、15年くらい前に宮本亜門が911後のアメリカを舞台にした「ドン・ジョヴァンニ」だと思うのだけれど、あの時も誤読と他人事モードの評価ばかりで、否定的に受け取られた。で、日本のオペラの現状としては、こと演出に関する限り、一旦営業的視点で否定的に受け取られると、まずその路線は封印なんですよね。路線自体が封印される。いい悪いではなく。 日本人にとってのオペラって、やっぱり、表現じゃないんですよ。娯楽。それがいけないわけではないけれど、ね。
2018年06月03日
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