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今日は写真一枚。4月27日に撮影しました。
2023.04.30
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私が17歳のときに書いた作文「光の中で」。 今の私から見れば、稚拙で文法的な誤りも多々ありますが、17歳当時の私としては魂を込めて作成した作品だったことがよくわかります。 「外燈は、一倍の寒さを二倍の寂しさに変えて、昼の光を三倍に恋しそうに見つめる目のようであった」とか、「彼の目の悲しみだけが唯一の連絡路となって、私の思いは、過去の光に溶けてゆく」など自分の感性をフル動員して絞り出すように言葉を紡いでいっていますね。感性の表現者として、今でも通用する表現が随所に見受けられますから、17歳の作文としては、上出来だったのではないでしょうか。 驚いたことに、当時はオカルトのことをよく知らないはずだった私が、たぶんにオカルト的だったことです。ここに登場する「象徴的な少年」も、まるで実際に見た霊であるかのように描かれていますが、想像して描いているだけです。それでも今の私から見ても、妙にリアリティがあります。時代に取り残された者たちの残留思念を描くと、このような描写になるかもしれませんね。 小学生の時以来、オカルト的なことは、どうせ話しても信じてくれないとわかっていましたから、封印してきました。 オカルトは体験のない人に話しても、決して理解されることはありません。 ところが、16歳、17歳ごろになると、徐々にその力が溢れてきたようにも思われます。 ここに描かれている言葉も、実はかなり啓示的に降りてきている言葉を書き留めて、それをつなぎ合わせて書いているように感じます。 それは今も変わらず、ボーっとしていると言葉がすぐに降りてきます。 その初期の現象が、高校生時代に起こっていたのではないでしょうか。 もっとも本当にオカルト的能力の封印を解くのは、21世紀になってからでした。 それも追々語って行きましょう。 ご参考までに、「光の中で」の全文を通しで再掲しておきます。お暇なときにお読みください。 『光の中で』 つい此の間のことである。私は、一人の少年に出会ってしまったのだ。 何故「・・・しまったのだ。」と書いたかというと、私はいまだかって、彼との出会いが、一つの意外な、奇妙な驚きであるというだけでなく、むしろ、自分の記憶の道の上で、なにかとんでもない、運命に逆らった落し物を拾ってしまったのだという気がしてならないからである。 そして、同時に、彼の静かな悲しみが深い湖になり、その細波が、ささやかな過去の足音とともに四方から、私の心の窓に押し寄せてくるように思えてならないからである。 思えば、彼を知ったということは、私に新しい光の存在を教えてくれたのに他なるまい。 実際、見方によっては、あらゆる光の中に、私は彼の存在を認めざるを得なくなるのだ。 時は少し流れて、やはり、季節は秋である。 ――それも黄昏時。 うす茶けた木の葉が地に散るように、黄昏は夜に流れる川のようであった。 一日の大地の光は、雲となって流れ、今まさに西の方へと沈もうとしていた。 時折、夕暮れの木枯らしは、息深い物思いを地に吹きつけ、寂しげな外燈の光が、芯の細いろうそくとなり、ぽつりぽつりと、青黒いカーテンの裾から、その姿を現わしていた。風は火花のように飛びまわり、人はその中を風に誘われて、家への道をひたすら急いでいた。 人は風に運ばれる枯葉のようなものである。 ただ、風の運ぶ場所が違うだけの事。 風は枯葉を冬に運び、人は、風の冷たさを嫌い、家の光の中へと歩を運ぶ。 やがて、夕焼けの空が、夜の中に次第々々に溶けてゆき、ポッと、ろうそくの火が消えるように、あたりは夜に包まれた。 自然の光は消え――いや、ささやかな天の星だけは残っていたが――そこには、文明の光が黒々と立って、独自の美しい光の世界を闇に投げ掛けていた。 そして、時は寂しげな秋の夜と変わった。 家路を急ぐ彼らは、外燈に照らされ、その幸福の道を歩いてゆく。 彼らは常に光の道を往来するのである。 ところが、ただひたすら光を求めるだけで、光の影に振り向こうとはついぞしたことがないのである。 外燈は、彼らにとっては、単なる文明にすぎないのだ。 しかし、何とその日の外燈の光の弱々しいことであったろうか。 外燈は、一倍の寒さを二倍の寂しさに変えて、昼の光を三倍に恋しそうに見つめる目のようであった。さて、私は、それらすべての中で、同様、光を求めて静かに歩いていた。夜の沈黙は、まるで生き物のように、ところどころに姿を現わしては、幽霊のように消え、また現れたりして、いろいろな寂しさを形成していた。 その沈黙の合間をぬって、木枯らしは低空飛行を続け、枯葉はカサカサと音をたてて舞い上がる。今宵の風は、その行方を知らぬらしい。勘違いの方向に、全く気まぐれに枯葉を飛ばしてしまう。私の目はそんな枯葉の後を追う。そして、それは、私の目を小さな人影の前へと運んだのである。 彼は、棒のように黒々と立っていた。彼と私の間に沈黙の川が流れ、私の感情は縦になって息詰まる。小さな恐ろしさと、大きな驚きが重なり合って交互に私の胸にやって来る。彼は静かに、彼は静かに青白い外燈の光の中に進み出た。その少年は何と寒そうな姿をしていたことであろうか。薄地の赤茶色のぼろをまとった、白く細った少年で、その姿はまるで永遠の貧しさを象徴するのに十分であった。 さらに驚いたことに、彼はいわば幽霊のようにうっすらと、落ち葉の上に素足を置いて、その目はあらゆる悲しみをたたえ、黒く光った湖の底のようであったのだ。 視線が私に注がれて、彼の悲しみがそのまま私にやってきた。彼は言葉を使わずに、自分の悲しみの深さを示したのだ。 彼は外燈の光の影に一歩下がり、その青白い光を見つめていた。今から思うとそれは、なんと不思議な光景であったことか。私と彼は、そのまま、夜の流れに流されるがままに、何時間も静かに立ち尽くした。いや、私はその時すでに眠っていたのかもしれない。何故なら、ふとあたりに気づいた時は、もう彼の姿はなく、自分だけが、その光の中に茫然と立っていたのだから。 そこで、私は、ベンチに座って考え込んだ。あれは、何であったのだろうか。外燈の光が造り上げた単なる幻影であったのだろうか。白い影のいたずらか。それとも、彼自身、光そのものであったのだろうか。 答えが浮かばないままに、闇が風に追い立てられて、あとからあとから通り過ぎた。時がその後を、駆け足で追って行く。不気味さがあたりを支配し、私の考えを惑わして行く。そして、彼の目の悲しみだけが唯一の連絡路となって、私の思いは、過去の光に溶けてゆく。(了)
2023.04.29
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17歳のときに私が書いた作文「光の中で」の後半です。 前半は秋の夕暮れ時の描写が続き、16歳のときの作文と同様に、内と外の二つの視点が提示されています。特に光と闇が対照的に描かれていますね。 そして後半では、闇と光が交じり合う怪しげな時空間において、幻影のような少年を見たと語り始めます。 では、後半をどうぞお読みください。 さて、私は、それらすべての中で、同様、光を求めて静かに歩いていた。夜の沈黙は、まるで生き物のように、ところどころに姿を現わしては、幽霊のように消え、また現れたりして、いろいろな寂しさを形成していた。その沈黙の合間をぬって、木枯らしは低空飛行を続け、枯葉はカサカサと音をたてて舞い上がる。今宵の風は、その行方を知らぬらしい。勘違いの方向に、全く気まぐれに枯葉を飛ばしてしまう。私の目はそんな枯葉の後を追う。そして、それは、私の目を小さな人影の前へと運んだのである。 彼は、棒のように黒々と立っていた。彼と私の間に沈黙の川が流れ、私の感情は縦になって息詰まる。小さな恐ろしさと、大きな驚きが重なり合って交互に私の胸にやって来る。彼は静かに、彼は静かに青白い外燈の光の中に進み出た。その少年は何と寒そうな姿をしていたことであろうか。薄地の赤茶色のぼろをまとった、白く細った少年で、その姿はまるで永遠の貧しさを象徴するのに十分であった。 さらに驚いたことに、彼はいわば幽霊のようにうっすらと、落ち葉の上に素足を置いて、その目はあらゆる悲しみをたたえ、黒く光った湖の底のようであったのだ。 視線が私に注がれて、彼の悲しみがそのまま私にやってきた。彼は言葉を使わずに、自分の悲しみの深さを示したのだ。 彼は外燈の光の影に一歩下がり、その青白い光を見つめていた。今から思うとそれは、なんと不思議な光景であったことか。私と彼は、そのまま、夜の流れに流されるがままに、何時間も静かに立ち尽くした。いや、私はその時すでに眠っていたのかもしれない。何故なら、ふとあたりに気づいた時は、もう彼の姿はなく、自分だけが、その光の中に茫然と立っていたのだから。 そこで、私は、ベンチに座って考え込んだ。あれは、何であったのだろうか。外燈の光が造り上げた単なる幻影であったのだろうか。白い影のいたずらか。それとも、彼自身、光そのものであったのだろうか。 答えが浮かばないままに、闇が風に追い立てられて、あとからあとから通り過ぎた。時がその後を、駆け足で追って行く。不気味さがあたりを支配し、私の考えを惑わして行く。そして、彼の目の悲しみだけが唯一の連絡路となって、私の思いは、過去の光に溶けてゆく。(了) 以上が私の17歳の作文「光の中で」です。 これに対する私の講評は次回にするとして、とりあえず当時の現国の担当教諭の「評」が掲載されていますので、ご紹介しておきましょう。 <評>多分に創作的なものでしょう。象徴的な登場人物が描かれています。まだ知らない光を知らせ、忘れ去った光を思い出させ、彼はあらわれました。光は明るい頼もしいものばかりではありませんでした。静かなかなしい光もあるのです。しかし明るい光を目指してください。いろいろな光の悲しみを知った上で。(山川) (続く)
2023.04.28
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今朝は快晴で、富士山がよく見えたことから、富士山を近くまで見に行きました。最初の場所では雲がかかっていましたが、二か所目に寄った場所ではこの通り。富士山がくっきりと浮き上がって見えておりました。昨日(26日)夕方も、虹が出て空が賑やかできれいでした。それらの写真も今度ご紹介いたしましょう。
2023.04.27
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あればあったで忙しくて煩わしいし、なければないで暇で物足りないのが部活や生徒会の活動でしょうか。 高校二年の11月くらいまでには部活を一切辞めて、生徒会役員にも立候補せず、ひたすら受験生として生きる日々を選びました。 そのころ書いた作文が、1976年2月に発行された「作文集25」に掲載されていますので、それをご紹介しましょう。 このころの私は、何を思い、何を考えていたのでしょうか? そのヒントが作文にあるかもしれません。 課題となったテーマは「光」でした。五年後の就職試験の作文の課題も「光」でしたから、いわば「お題」の定番というわけですね。長いので前半と後半にわけましょう。 「光の中で」 つい此の間のことである。私は、一人の少年に出会ってしまったのだ。何故「・・・しまったのだ。」と書いたかというと、私はいまだかって、彼との出会いが、一つの意外な、奇妙な驚きであるというだけでなく、むしろ、自分の記憶の道の上で、なにかとんでもない、運命に逆らった落し物を拾ってしまったのだという気がしてならないからである。そして、同時に、彼の静かな悲しみが深い湖になり、その細波が、ささやかな過去の足音とともに四方から、私の心の窓に押し寄せてくるように思えてならないからである。思えば、彼を知ったということは、私に新しい光の存在を教えてくれたのに他なるまい。実際、見方によっては、あらゆる光の中に、私は彼の存在を認めざるを得なくなるのだ。 時は少し流れて、やはり、季節は秋である。――それも黄昏時。うす茶けた木の葉が地に散るように、黄昏は夜に流れる川のようであった。一日の大地の光は、雲となって流れ、今まさに西の方へと沈もうとしていた。時折、夕暮れの木枯らしは、息深い物思いを地に吹きつけ、寂しげな外燈の光が、芯の細いろうそくとなり、ぽつりぽつりと、青黒いカーテンの裾から、その姿を現わしていた。風は火花のように飛びまわり、人はその中を風に誘われて、家への道をひたすら急いでいた。人は風に運ばれる枯葉のようなものである。ただ、風の運ぶ場所が違うだけの事。風は枯葉を冬に運び、人は、風の冷たさを嫌い、家の光の中へと歩を運ぶ。 やがて、夕焼けの空が、夜の中に次第々々に溶けてゆき、ポッと、ろうそくの火が消えるように、あたりは夜に包まれた。自然の光は消え――いや、ささやかな天の星だけは残っていたが――そこには、文明の光が黒々と立って、独自の美しい光の世界を闇に投げ掛けていた。そして、時は寂しげな秋の夜と変わった。家路を急ぐ彼らは、外燈に照らされ、その幸福の道を歩いてゆく。彼らは常に光の道を往来するのである。ところが、ただひたすら光を求めるだけで、光の影に振り向こうとはついぞしたことがないのである。外燈は、彼らにとっては、単なる文明にすぎないのだ。しかし、何とその日の外燈の光の弱々しいことであったろうか。外燈は、一倍の寒さを二倍の寂しさに変えて、昼の光を三倍に恋しそうに見つめる目のようであった。(前半終了) うーん、突っ込みどころ満載の作文。 作文の後半と全体の講評・解説は、次回以降にいたしましょう。 (続く)
2023.04.26
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この一週間の植物の動きです。我が家のナニワイバラが満開になりました。あちらこちらで、つつじが満開。そして、今日は薔薇がちょこちょこと咲き始めました。その間、藤も綺麗でした。花々の季節ですね。
2023.04.25
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私が通ったのは、米国ビジネススクールの入学に必要な試験GMAT対策予備校です。確か土曜日か日曜日に週一回二時間の授業が6~8回ほどあったように記憶しています。 基本的にGMATの過去問題を解きながら解説してくれます。 予備校はこうした試験の傾向と対策をある程度教えてくれるので非常に役立つことを知りました。 そして、受講後にGMATを受けたところ、640点まであっという間に点数が上がったんですね。2、3か月という短期間で100点もアップしました。 長年勉強していなかった英語を思い出したことも要因かもしれませんが、同時にTOEFLのスコアも自然にグングン伸びて、630点(多分667点満点で)に達します。GMAT対策の方法を応用して、TOEFLの過去問題を徹底的に解いて、傾向と対策を練ったからです。この点数(通常当時で600点以上)なら米国の一流名門大学大学院にも十分入ることができるスコアです。 実際、ハーバード大学ケネディスクール(行政大学院)、ジョージタウン大学ビジネススクール、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院(SAIS)といった主だったところに出した願書はすべて通りました。その中で、ケネディスクールとSAISを選び、最初にケネディスクールで行政学(公共政策学)修士号をとって、その後SAISで国際公共政策学修士号を取ることに決めました。GMATは受けたものの、ビジネススクールは、やはり私には向いていないと思ったからです。 こうしたことができたのも、予備校で過去問題を次から次へとこなしたお陰です。 で、再び私の大学受験時代に話を戻すと、当時の私に欠けていたのは通常予備校が教えてくれる傾向と対策をほとんどしなかったことです。その背景には、学校の授業を受けていれば大丈夫と純粋に学校側の言い分を信じていたことがあります。つまり個別の大学入試の対策を練らなくても、普遍的な学力さえあれば受かるはずだと思っていたわけです。だからほとんど受験大学の過去問題をやらずに、事実上ぶっつけ本番で大学受験に挑んだことになります。 誰かさんは確か、泣かなければ面接試験に受かると言った母親のことを信じて、入学試験に合格した実績がありました。それにちょっと似た状況が大学受験にもあったように思われます。 ちょっと無謀でしたね。過去問題をもっとやっておけばよかったと今では思っています。 その結果についても、追々語ることにいたしましょう。 (続く)
2023.04.24
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生徒会の役員(委員?)も部活も辞めることに決めたのは、大学受験に専念するためでした。それは受験浪人をしないためでもありました。 というのも、両親との間には、現役で大学に合格すれば欧米の大学に一年留学させてくれるという暗黙の了解のようなものがあったからです。 とにかく一度外の世界を見てしまった若者としては、世界に飛び立ちたくてしょうがなくないわけです。だから「目指せ、現役合格!」です。 私の通う高校は受験校ではありませんでしたが、それでも大学受験生用のコースというのがあって、そのコースをちゃんと取って勉強すれば、予備校に行かなくても合格できるという触れ込みでした。 私はそれを信じて、予備校には一切通わずに、学校の勉強と独学で大学受験に挑むことを決意します。でも、今だから言えるのですが、ちゃんと大学受験予備校に通っていたらどうなっていたかなと思うこともあります。 そう思うようになったのも、実は社会人になってから「受験予備校」なるものに初めて通わざるをえなくなる出来事があったからです。そのいきさつは次の通りです。 1994年の末ごろだったと思います。当時、旧大蔵省(財研)担当のサブキャップをしていて大忙しだったとき、理由は明かせませんが、一身上の都合で急にアメリカの大学に留学しなければならないような状況に陥ったんですね。 当時は、大蔵省の取材が忙しくて、それどころではなかったのですが、幸い翌95年2月ごろ人事異動があって、首相官邸の経済担当になります。財研担当時代に与党の政策担当議員にかなり深く食い込んでいた実績(特ダネをよく書かせてもらいました)があり、回されたようです。でもこの部署は、忙しいときは大変忙しいですが、大蔵省担当よりはるかに暇で楽な職場です。 これ幸いとばかりに、米国の大学院入学に向けて準備を開始することにしました。 米国の一流(the first tier)と呼ばれるビジネススクールなどの大学院に入学するには、TOEFLが600点以上、GMATも600点以上が必要とされています。 そこで、実力を知るために、ほとんどろくな勉強をせずに、腕試しに春先の試験を受けたところ、TOEFLが583点、GMATが540点と一流大学の合格点に達していないことが判明しました。 「これはいかん!」とばかりに勉強を始めて、一か月後くらいに再びTOEFLを受けても590点までしか伸びません。このままでは合格できません。 そこで、生れて初めて受験予備校に通うことを決断したわけです。 (続く)
2023.04.23
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甲子園の夢も花園の夢もこれで露と消えて、私の高校時代の部活人生も終わりました。二年生の秋のことです。 同時にこのとき、これからの長い人生で、こうした競技を続けるのは、正直難しいかなという実感がありました。 ラグビーに関しては、私は視力が良くないので仲間に迷惑をかけることがわかっていましたから、これ以上続けるつもりはありませんでした。眼鏡をかければなんとかなる野球も、練習や試合に時間がかかり過ぎるという難点があり、自由時間が好きな私には苦痛になっていました。 そこで思いついたのが、イギリスで始めたテニスです。 眼鏡をかけていても、それほどハンディになりません。年齢を重ねてもやって行けそうです。そうだ、これからはテニスをやろう、と漠然と思い始めます。 運動部を辞めたことで空いた時間と持て余すことになった運動能力は、公園までのランニングと、その公園でのテニスの壁打ちに使うことになりました。最もお金のかからない、効率的な運動方法です。 家での勉強の合間にはしょっちゅう公園で壁打ちをしておりました。 それとは別に、進路を明確に決める必要もありました。 このとき既に大学はエスカレーター式に進学するのではなく、他大学を受験することに決めておりました。 ただ、どこの学部を狙うかはまで決めていませんでした。 私は理系も文系も得意でしたから、理系に行くのではないかと思う人もいたかもしれませんが、実は文学が好きで物書きにあこがれる「夢見る高校生」だったんですね。 将来は物書きの道に進むと既に決めておりました。 では、その物書きになるには、大学で何を勉強すればいいかと言うと、なんでも知っていた方がいいということもわかっていました。 そこで決めたのは、専門を狭く固定せずに幅広く勉強ができる教養学部系の大学です。 進路はだいたい決まりましたが、もう一つ決めなければならない厄介な問題もありました。 生徒会の役員を受けるかどうかという問題です。 一年生のときに学内の生徒会役員候補の投票を実施したところ、後にラグビー部の主将となる先輩のIさんに次ぐ第二位になってしまったこともあり、役員候補になるのは既定路線になっていたんですね。もちろん断ることもできます。でもその場合、誰かほかに候補者を見つけなければならなくなります。非常に頭の痛い問題でした。 生徒会の役員を務めれば、学校推薦で大学に行く可能性が高まります。 私の記憶では、実際にラグビー部主将のIさんは、確か生徒会の役員をやったうえで慶応大学工学部に推薦入学しています。 でも、推薦入学だと大学と学部が限られてしまうんですね。 好きな大学を選びたいという理由もあり、あえて推薦入学を狙うことはしませんでした。 O先生やY先生といった何人かの先生と相談して決めたことは、受験勉強を優先させようということでした。そこで私は、受験勉強が忙しいからという理由で生徒会の役員に立候補をすることを辞退、同じクラスのEさんに頼み込んで、役員に立候補することに同意してもらいました。Eさんには今でも頭が上がりません。その節は本当にお世話になりました。 ありがとうございました。 そのようなEさんに、先日久しぶりに同窓会で出会いました。 高校時代と同じで、快活で元気にあふれる方でした。 私が書いた「竹内文書」の本に興味を持っているとのことでした。 そのときはバタバタしていたのでお礼が言えませんでしたが、いつかちゃんとお礼をしようと思っています。 (続く)
2023.04.22
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大事な準々決勝の試合で、私は痛恨のミスをします。 本郷高校は下馬評通り強く、試合は一進一退を繰り返しながらも本郷高校の優位に進んでいきました。 しかし後半、思いがけなく大チャンスが到来します。 私がハーフウェイライン付近でタイミングよくボールを受け取ると、初速で対面を抜き去りライン際ギリギリを抜け出すことができたんですね。 とにかく思いっきりラインに沿って快足を飛ばしました。 私は当時、100メートル走の後半を普通の運動靴でも5秒4で走っていましたから、加速がついた以上、高校生のレベルで私に追いつくことはまずできません。相手も味方も完全に「置いてけ堀」になってしまいます。 ところが、前方の相手のフルバックだけは、必死で私を止めようとライン際を走る私に向かって突進してきます。あとゴールラインから5メートルくらいになったところで、私は決断を迫られます。 このまま飛び込むか、右に舵を切るか。 私はそのまま飛び込んでも大丈夫だと思い、インゴールに向かって思いっきり飛び込みます。 インゴールにボールを設置させてトライ! ・・・と、自分では確信していましたが、ジャッジはタッチラインを割ったと判定しました。 私は訳がわかりません。「確実にボールをインゴールに置いたのになぜ?」と、狐につままれた気分です。同時に私はグラウンドにしたたかに激突した衝撃で軽い脳震盪を起こしてしまい、しばらく立ち上がれませんでした。 後でわかったのですが、インゴールのゴールラインとタッチラインとタッチインゴールラインが交わる角の内側にコーナーフラッグが立っているのですが、私がインゴールにボールを置く前に、私の体がコーナーフラッグに触れたと判定され、トライ不成立となったのです。 そういえば空中で相手のフルバックに押され、体が左に振られました。そのときにコーナーフラッグに確かに触れたような気がします。「しまった!」と私は思い出します。 中学で最初にラグビーを習ったときに、トライのときにコーナーフラッグに気をつけるように教わっておりましました。 失念! 痛恨のミスです。 結局、そのときは敵陣に攻め込んだものの、相手にしのがれ、得点できませんでした。 試合はその後も膠着状態が続き、結局、本郷が接線を制しました。 後半の中盤のあのとき、私のトライが決まっていたら、流れは変わっていたかもしれません。 それだけに非常に惜しまれるプレーです。 主将のIさんからは、「まあ、ラグビーの正規部員じゃないからしょうがないけど、ああいうときは、相手に一度当たってからトライをすればいいだよ」と諭されます。 私は走るという才能はありましたが、そうしたラグビーのスキルが足りませんでした。 ところで、高校ラグビーの試合ではタッチジャッジは双方のチームから出してレフリーを補佐します。私のトライを認めなかったタッチジャッジは、わが校のラグビー部のOBの白石さんでした。白石さんは文武両道のラガーマンで京都大学に進学して、その時も大学でラグビーを続けておりました。たまたま東京に来ていたので、タッチジャッジを志願したのだそうです。実は私の姉と同級生で、このとき初めて会いました。 その白石さんが試合後、私のところにやってきて、「惜しかったね。わずかにフラッグに当たるのが早かったと判断してタッチにしたけど、レフリーからはあの位だったらトライにしてやったのにと言われたよ」と告白してくれました。それほど微妙で際どい判定であったということです。でも確かに味方に有利なように判定するわけにはいきませんよね。 フェアーなジャッジであったと誇らしく思っています。 (続く)
2023.04.21
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失敗から学びながら、徐々にラグビーにも慣れてきました。 といっても、細かいプレイはへたくそなので、あくまでもパスを受けて走るという単純なスキルだけの話です。 第二戦では、その本来の走力の片鱗を示すことができたと思っています。 試合の中盤、ハーフウェイライン付近でパスをもらった私は、スペースが十分にあったのでコースを右に切りながら初速で対面のディフェンスを抜き去り、内側からのディフェンスに対してはすぐに左に切り返してよけ、最後は多分フルバックだとおもうのですが、右にステップを切ってディフェンス網を切り裂きます。 もう後はゴールまで一直線。残りの25メートルほどをひたすら無人の前を見て駆け抜け、相手のディフェンスに一度も触れられることもなく、ゴールポスト下にトライしました。三、四回ステップを切っただけで、約50メートルを独走したと記憶しています。相手はただ呆気にとられていたと思います。 今度はゴールポストの真下のトライですから、コンヴァージョンも成功。先輩には怒られることもなく、主将のIさんからは「ナイストライ!」と声をかけてもらいました。 なぜそのような独走ができるかというと、たぶん、子供のころから鬼ごっこで避けるのが上手かったからではないでしょうか。 何となく、どのコースをどの程度のスピードで抜けばよいかが直感的にわかってしまうのだと思います。1990年12月2日、東京・国立競技場で開かれた関東大学対抗戦ラグビーの早明戦で早稲田のフルバック今泉清が終了間際に劇的な同点につながる80メートル独走トライを決めたときに「パッ、と走るコースに光の道が見えた」とその時の体験を語っています。レベルが違うので比較はできませんが、私の独走トライもその感覚に近いです。瞬間にわかるので、そのように体が自然に動くわけです。 このトライがどれだけ勝利に貢献したのかはわかりませんが、この日の試合も順調に勝利しました。準々決勝に進出です。 次の相手は、優勝候補にも時々挙がる本郷高校だったと記憶しています。 (続く)
2023.04.20
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上級生が厳しかったので、結構緊張しましたが、高校生になってからの初めてのラグビーの試合では何とか最低限のウィングの役割をこなすことができました。センターからのパスを受け取って、そのまま走り切ってトライ。 しかし、ここでミスをします。 ゴールラインからデッドボールライン(これを越したらプレーができないというライン)までをインゴールといって、そのエリア内でボールを手で押さえればトライとなるのがラグビーのルールです。デッドボールラインを少しでも踏んだらアウトです。そのインゴールの中でできるだけセンターに近いところでトライすれば、角度的にコンヴァージョンキックが決めやすくなり、二点を追加できます。 つまり本当はもっとセンターに寄りにトライできたのですが、私は勢い余ってデッドボールラインを踏みそうになり、慌ててエリアの端の方にトライするという失態をしてしまったんですね。先輩からは当然、「もっとセンターにトライしろ」と怒られました。案の定、キッカーはコンヴァージョンキックを外して、加点できませんでした。 実は、このミスがどこから来るかと言うと、私の目の悪さから来ています。 私は弁解しませんでしたが、ゴールラインとデッドボールラインがはっきり見えなかったんですね。 目が良ければ、相手選手の動きを見ながら途中で減速してセンター付近へと回り込めたはずです。 でもそれが出来なかったのは、ひとえに視力の悪さ、特に乱視から来ています。 ラインがよくわからないから、そのまま猛スピードでゴールラインを突破、減速のタイミングを失して曲がり切れなくなってしまったわけです。 それでもトライはしたので、インゴールでノックオン(ボールを落とすこと)をするよりははるかにましです。 トライは取りましたが、私にとってはほろ苦い高校ラグビーデビュー戦になりました。 それでも先輩たちのお陰で、初戦は完勝したように記憶しています。 一週間後に、次の試合がありました。 さらに一週間ラグビーの練習をしたので、段々勘を取り戻してきました。 大学生のコーチからも及第点をもらうようになりました。 東京都秋季大会本戦で1回勝ったことで、たぶんベスト16に勝ち上がったのだと思います。次に勝てばベスト8だと言っていたように記憶しています。 次の試合も私は左ウィングで先発出場しました。 (続く)
2023.04.19
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高校2年生の夏の大会をもって野球部を退部した話から、社会人時代の社内野球大会に話が飛びましたが、再び高校二年生の時の話に戻りましょう。 二学期からは野球部を辞めたことで、時間が持てるようになりました。 これで思う存分、漫画を読んだり勉強をしたりすることができるわけです。 しかし、そうは問屋が卸さないんですね。 ラグビー部の先輩Iさんから、「お前、暇なら、ラグビー部を手伝え」と半ば強引に誘われます。高校一年のときはラグビー部からお呼びがかからなかったので、そうなれば二年ぶりのラグビー部復帰です。 ただし、私には問題がありました。 漫画の読み過ぎと、勉強のし過ぎにより、極度の近視と乱視になっていたんですね。 野球なら眼鏡をかければ支障はありませんが、ラグビーの試合中に眼鏡をかけるわけにはいきません。「眼鏡がないと、よく見えないのですが、大丈夫でしょうか」と尋ねると、Iさんは「ラグビーボールぐらいなら見えるんだろ。じゃあ、大丈夫だ」と太鼓判を押してくれます。 早速、翌日からラグビー部の練習に加わります。秋の大会まで一週間。 ブランクがありましたが、自慢の走力で何とか練習についていくことができました。ただし、暗くなるとボールが見えにくくなるので、エラーをしやすくなることもわかりました。中学時代に比べたら、ずいぶんと目が悪くなりました。 それでも先輩からは合格点はもらえました。 私の足の速さは武器になるからです。 試合では私が左ウィングで、後に日本コロンビアの社長になる、一つ下の原君が右ウィングで先発することになりました。そのほかのメンバーには、中学時代に全日本に選ばれた三年生の選手たちがずらっと並びます。 初戦は、試合前の練習でパスを受け取るときにボールを落としてしまい、先輩たちから厳しく叱られます。 すぐにIさんが来て、ボールを受け取るときは体の正面で受け取るようにとアドバイスしてくれます。すると、今度はうまくパスを受け取ることができました。 いよいよ試合が始まります。 果たして私の走力が通用するのでしょうか。 (続く)
2023.04.18
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決勝の試合前日の土曜日、私は運動を再開しました。 五日間は十分静養を取ったつもりです。 しかし、やはり大腿四頭筋は傷んだままで、痛みが走ります。思い切って走ることはできない有様でした。 それでも無理をしなければ何とか走れる状態であることが判明します。 土曜日の運動はほどほどにして、日曜日の決戦に備えることにしました。 決勝の対戦相手は、都内の別のテニス・クラブの大会で優勝したばかりだというH(桧垣)さん。私が前年(1990年)に優勝するまで、3年間連続してこのクラブのチャンピオンだった手ごわい相手です。 前年の大会では、私が決勝で接線の末破った東大テニス部の主将でダブルスがインカレ、シングルスが関東学生だったY(吉川)さんに準決勝で敗れていたので、Hさんとの対戦はこの日が初めてでした。 Hさんと対戦してみてわかったのは、フットワークがすごくいいことです。素早く動いて的確にボールを打ち返してきます。 私は痛みをこらえての対戦でしたが、そのことは一切黙って、顔にも出さず、何とかボールに食らいつきます。前年チャンピオンの意地がありますからね。簡単には負けられません。 お互いに我慢比べのような状態が続いて、試合は一進一退の攻防が続きます。 どのようにボールを打ち返していたかほとんど覚えていませんが、試合の終盤にちょっとした隙をついて私がポイントを重ね、僅差で試合を物にしたと何となく記憶しています。 二連覇を達成したわけです。 「栄えある野球部の決勝」を袖にした手前、勝たないわけにいかないという事情もありました。 経済部(の野球チーム)から破門された私は、テニスのシングルスで優勝した翌日の月曜日に社内野球大会の結果を知らされます。 私の代わりに、硬式野球で甲子園に出場経験(ただし補欠)があるという1年後輩のK(開米)君が先発を務めたそうなのですが、滅多打ちに遭い、完敗したとか。 「お前が投げていれば」と余計に嫌味を言われました。 同時に私は「金(テニスの優勝者は2万円の商品券がもらえるから)で野球部を裏切った戦犯」のレッテルを貼られ、以後一度も野球の試合に呼ばれなくなりました。 私はそれで満足でした。16年前に引退した野球には未練がなかったからです。 「今はテニス」とばかりに、1996年に米国の大学院に留学する前までの6年間、クラブチャンピオンに君臨し続けました。 元東大テニス部主将のYさんと組んだダブルスでも、二度優勝しています。 今は昔の話です。 (続く)
2023.04.17
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テニスと野球の決勝戦が重なってしまうというほかに、もう一つの誤算も発生しました。 ダブルヘッダー二試合を完投したことによって、普段使っていない筋肉を極端に酷使してしまったことに気づいていなかったんですね。 だから二試合を投げ切ったその日の夕方、決勝戦が近いこともあってテニス・クラブに立ち寄って、テニスの練習をしてしまいます。 異変に気付いたのは、テニスを1時間ほどやってからでした。 左太ももが妙に痛み出したんですね。 「なんだろう。ただの筋肉痛にしては痛いな」と思いつつ、クールダウンのために水泳をして筋肉をほぐしました。 その後、お風呂でもゆっくり浸かってほぐしますが、一向に痛みが引きません。 そのとき気づいたのは、太ももの前側の筋肉(大腿四頭筋)がえぐれたように凹んでいることでした。 クラブの「ドクター」に聞いたら、筋線維の一部が断裂する部分断裂(肉離れ)でした。しばらく運動は控えるように言われます。 つまり大ピンチ。もとへ年寄りの冷や水。 いつまでも若くないということを痛感させられました。 ダブルヘッダー二試合完投した後に、テニスの練習で走り回るのは、無謀以外の何ものでもありませんでした。 ちょっと過信していましたね。 でも、この人は全く懲りないんですね。 「ドクターストップ」がかかったにもかかわらず、「4、5日休めばいいだろう」くらいにしか思っていませんでした。 つまり、仕事がある月火水木金と五日だけ休めば、土曜日から運動できるはずだと勝手に解釈しました。ここまで行くと、もはや、つける薬もありません。 (続く)
2023.04.16
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テニスと野球の決勝戦が重なってしまうというほかに、もう一つの誤算も発生しました。 ダブルヘッダー二試合を完投したことによって、普段使っていない筋肉を極端に酷使してしまったことに気づいていなかったんですね。 だから二試合を投げ切ったその日の夕方、決勝戦が近いこともあってテニス・クラブに立ち寄って、テニスの練習をしてしまいます。 異変に気付いたのは、テニスを1時間ほどやってからでした。 左太ももが妙に痛み出したんですね。 「なんだろう。ただの筋肉痛にしては痛いな」と思いつつ、クールダウンのために水泳をして筋肉をほぐしました。 その後、お風呂でもゆっくり浸かってほぐしますが、一向に痛みが引きません。 そのとき気づいたのは、太ももの前側の筋肉(大腿四頭筋)がえぐれたように凹んでいることでした。 クラブの「ドクター」に聞いたら、筋線維の一部が断裂する部分断裂(肉離れ)でした。しばらく運動は控えるように言われます。 つまり大ピンチ。もとへ年寄りの冷や水。 いつまでも若くないということを痛感させられました。 ダブルヘッダー二試合完投した後に、テニスの練習で走り回るのは、無謀以外の何ものでもありませんでした。 ちょっと過信していましたね。 でも、この人は全く懲りないんですね。 「ドクターストップ」がかかったにもかかわらず、「4、5日休めばいいだろう」くらいにしか思っていませんでした。 つまり、仕事がある月火水木金と五日だけ休めば、土曜日から運動できるはずだと勝手に解釈しました。ここまで行くと、もはや、つける薬もありません。 (続く)
2023.04.16
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野球の大会といっても社員数2000人ほどの共同通信社の社内大会ですから、学校の校内大会のようなものです。しかしながら、後で気づきますが、結構みな本気で勝ちにいきます。 何でも宿命の対決みたいなのがあるらしいのですが、もうどこの部だったかも忘れました。 出場したチームは、覚えている範囲ですが、経済部、社会部、政治部、通信部、外信部、総務部あたりでしょうか。もしかしたら社会部は人数が多いのでAチームとBチームがあったかもしれません。とにかく8チームほどが参加して、トーナメントを開催します。 つまり三回連続して勝てば優勝というわけですね。 場所はどこかの河川敷の野球場です。 捕手を務めてくれた先輩のTさんは東大の野球部だっただけあって、とても投げやすかったです。体も大きいし、頼りになる大先輩です。 こうした草野球の大会で大事なのは、とにかく四球を出さないことです。打たれてもいいから、真ん中を狙って投げました。 そうしたらどういうわけか、この日は絶好調で、中学時代の対砧中学戦のときのようにビュンビュン直球が決まります。伸びがあるせいか、対戦相手はバットに当たらないんですね。ひたすら空を切り続けます。途中振り逃げでランナーを出しましたが、初回から三回まで記録上は9人連続してバッターを三振に取る快投でした。 その後も、相手を零点に抑えたかどうか覚えていませんが、一回戦は圧勝だったように思います。私は五回くらいを完投したように記憶しています。 そして、少し休んでから、二回戦の準決勝が始まりました。 相変わらず、私の球威は衰えず、相手のバッターをなぎ倒します。 次の試合も五回くらいを完投して勝利を挙げました。 何点に抑えたかは覚えていませんが、取られても二点くらいだったと思います。 ダブルヘッダーを二試合とも私が完投して抑えたので、経済部は久しぶりに決勝に進みました。 何年ぶりかの優勝が狙えるとかで、先輩たちは大騒ぎです。まるで救世主が現れたかのような喜びようです。 しかしながら、ここで私にとって大誤算が生じます。 私はこの日だけで試合が終わると思っていたのですが、何と決勝は次の週の日曜日にあるというんですね。 ところがその日は、私が所属するテニス・クラブのシングルスの決勝がある日だったんです。 しかも私は前年(1990年)のシングルスのチャンピオンでしたから決勝戦を欠席するわけにはいきません。 そこで、私が決勝は投げられないと告げると、先輩たちからは「お前は経済部を裏切るのか」「お前のようなやつは経済部にはいらない」などと非難轟轟、雨霰のように罵倒されまくります。まさに英雄から裏切り者へと真っ逆さまに転落しました。 (続く)
2023.04.15
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17歳の夏の日記はここで終わっていますが、実はこの後、日本に帰る途中にパリで二泊しています。エッフェル塔にセーヌ河下り、そして夜はムーランルージュと、初めてのフランスは非常に刺激的でした。当時、フランス語はまったく話せませんでしたから、言葉の不自由さを実感します。驚いたのは、フランス人も英語を話すのが苦手な人が多く、日本人の英語力とどっこいどっこいだったことです。ちょっと自信になりました。 ほかにもいろいろ体験しましたが、書いていると切りがないので、割愛します。 さて、日本に帰った私には、ある種の試練が待っていました。 野球部をこのまま続けるかどうかの試練です。 肩を壊したのをいいことに一時的に休部していましたが、実はあんなに酷使したのにもかかわらず、肩はほとんど治っていました。 ですから私にやる気さえあれば、まだまだ投手として投げられるのは明らかでした。その一方で、野球部がもつ不平等と不合理、そして不条理に対するわだかまりも強く残っていました。 このまま続けると、勉強よりも野球優先となって、不利益を被ることは目に見えていました。 練習の仕方にも大いに問題があります。 当時の練習といえば、うさぎ跳びに肩の酷使など体に悪い事ばかりやっていましたからね。 ただの我慢大会です。何か馬鹿らしくなって、野球に対する情熱がなくなってきたんですね。 英国語学研修を経て外の広い世界を知った私にとっては、野球部は閉鎖的で小さな世界にしか思えませんでした。 そこで私はあえて肩が治ったことは言わずに、野球部から距離を置くことにしたんですね。 私がどうしても必要にならない限り、野球部には戻らないと決めたのです。 幸いなことに、野球部は同級生のM君をエースピッチャーに育て上げ、何とか試合をこなせるようになりました。そのことを知った私は、2年生の夏で野球をきっぱりと辞め、引退することにしたのです。私の公式戦の戦績は2勝3敗で終わりました。一勝もできない年が何年も続くこともある高校の野球部で、1年半で2勝したのはラッキーだったといえるかもしれませんが、甲子園は叶わぬ、ただの夢と消えたわけです。 それから16年後の33歳になった1991年に、まさか再び野球をやることになるとは思ってもいませんでした。共同通信社本社経済部の記者をやっているときに、私が高校時代に野球部のエースだったことを知った先輩から、社内野球大会で経済部のピッチャーをやれと命令が下ったんですね。 野球といっても軟式野球ですから、ほぼ18年ぶりです。 東大野球部だったという財界担当の先輩Tさんが捕手を務め、土曜日午後の空き時間に経団連の裏の駐車場で投球練習を再開しました。体は投げ方をよく覚えていました。まあまあいける感じです。 そして翌日の日曜日に共同通信社内の部対抗のトーナメントにエースとして先発することになりました。(続く)
2023.04.14
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英国語学研修の旅の最後の8月22日の日記には次のように書かれています。 「最後の授業はさぼり、卒業証書だけもらい、ボーンマス・スクウェアーに買い物にでかける。2時間かけて一応、お土産を買いそろえる。West Cliffに出かけ、最後にボーンマスの海を心に刻み込む。リスが手の平の上の餌を食べた。すべてが静かで平穏な町ボーンマス。いろいろな人に道をたずねると、彼らはみんな親切に教えてくれた。やがて、このWest Cliffの公園にも秋が訪れる。ほどなく潮風が秋の香りを緩やかに注ぐようになるだろう。」 「満たされない感情のほとばしりはすべてこのボーンマスが受け止めてくれた。夢のような三週間をすべてこのボーンマスがつくりだしてくれた。そして今、その夢が流れ去ろうとしている。夏が絹糸のように流れていく。潮風が心を秋へと運ぶ。そしてあの秋が、降り積もる雪のように木の葉を小道に注ぐとき、僕は日本にいて、ボーンマスのことを思うだろう。優しさに溢れたあの感情が再び僕を包み込むだろう。今胸は、去り行く日々のことで、ボーンマスの海のように満たされている。同時に荒波のようにかきたてられてもいる。」 「心地よい風に乗って、思い出のリズムが蘇る。白波がWest Cliffの崖を見上げ、静かな別れを告げている。僕は上を見上げる。にわかに曇った空から涙のように雨がポツリポツリとやって来る。僕にやって来る。遠くから切なさがやって来る。」 「なぜ雨など降る必要があろうか。もう十分だ。雨が僕を正確に木の下へ追いやる。この小さな木の下で、僕は静かに挨拶を交わす。“さようなら、すべてが思い出の町ボーンマスよ。またいつか会おうじゃないか。その時は夏がいい。夏はボーンマスとの出会いの友だ。断りはしないだろう。いや季節など気にはすまい。秋でも冬でも春でも、ボーンマスはいつも心の中にあり続けるのだから。”」 「いつの間にか、雨が辺りを支配していた。水平線が遠くでかすみ、雨音と潮風の音に追い立てられるように、僕の夏が忍び足で遠ざかっていく。」 よほど楽しかったのでしょう。随分感傷的な日記を書いていますね。今から読むと、表現はとても稚拙です。それでも「夏が絹糸のように流れていく」など、ところどころに感覚的に優れた表現が見受けられます。「なるほど夏は絹糸のように流れるのか」と、ちょっと感心しました。 自分の感覚をどう表現するか、というのは私たちにとって大きなテーマでもあります。私はロビン・ウィリアムズが主演した『今を生きる』(1989年)という映画が大好きなのですが、その中で若者たちが自分の内なる感情や感覚を必死に詩的に表現しようとする「死せる詩人の会」の場面をこの日記を読みながら、思い出していました。後に記者や作家となる片鱗をこの日記が示しているように思います。 (続く)
2023.04.13
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8月6日から16日までの日記は飛ばしましたが、8月17日の日記には一人でロンドンからボーマスまで電車に乗って帰ってきたと書かれていましたので、ちょっとご紹介しておきましょう。 この日はペチコートレインの青空市場を見て回り、帽子、ネクタイ、小道具を買ったと書かれています。その後、ハイドパークの凧揚げを見て、公園近くでミニゴルフをして遊び、自然科学博物館を見学したとあります。そして、ロンドン発18時30分の電車に乗って、ホストファミリーの家のあるボーンマスの隣町のプールに到着(多分22時30分ごろ)。夜のプール港を散策しました。 その時の日記の描写がこちら。 「夜の港はとても寂しい。街の灯がぼやけて、ゆらゆらと水面に反射する。辺りは静かで、どのような音も暗い海に吸い込まれてしまうようだ。ただ、時折、遠くの汽車の音がこの静かな世界を揺さぶろうとする。不気味な月がきれいだった。」 と、17歳の私の日記には、このような情景描写がところどころ入っているんですね。 当時の私の表現力や感受性のレベルがわかって面白いです。 18、19日の日記は飛ばして、英国滞在あと二日ほどに迫った8月20日の日記を見ると、面白いことが書かれています。 「授業が始まる前に、ボーンマス・スクウェアーに自転車で。しかしバルブが緩んでいたのに気がつかず、タイヤがパンク。やっとのことで自転車屋さんを探し出し、直してもらうことに。直してもらっている間に授業を受けて、再びスクウェアーに戻ってきて、買い物をする。買い物の途中でシルビアと会い、一緒に買い物を手伝ってもらう。午後3時ごろ別れて、自転車を取りに行く。本を五冊、その他の文房具用品を買う。お土産を買わねばと、このごろ焦り出す。みんなに何を買っていこう?」 シルビアはホストファミリーの家のお嬢さんです。 都市の中心街でたまたま出会うというのが面白いですね。彼女からは英国の教育制度についていろいろ教えてもらいました。 私の一つ下ですが、しっかりとした人生観を持っていました。 彼女は理系短期大学に進学し、エンジニアになってカナダで働きたいという夢を持っていました。母親がドイツ人ですから、ドイツ語がペラペラでした。 弟のマークは、裏庭でのバドミントンやピンポン玉野球遊びに付き合ってくれました。彼らは今、どこで何をしているのかな、と時々思い出したりします。 本当に楽しい仲間たちでした。 (続く)
2023.04.12
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17歳の夏の語学研修旅行を超特急で振り返ると、週末はホストファミリーのご主人とドッグレースを見に行ったり、スポーツセンターで卓球をしたり、海を見に行ったりしたようです。ご主人は卓球がものすごくうまく、ほとんど勝つことができませんでした。21ポイントのゲームで1勝10敗くらいでした。 二週目から英語のクラスを一つ下げてくれたことにより余裕ができて、安物のテニスラケットとシューズを購入して、一緒に旅行で来た日本人(確か中学の英語の先生)やクラスメートのトルコ人と初めてテニスをしたと書かれています。 戦績は2勝1敗。私はすっかりテニスが気に入って、こののち大学ではテニス部に入ることになります。 週末を利用したオプショナルツアーで、ロンドンにも一泊二日の旅行に行っていますね。 ロンドンでは初めてミュージカルを観劇しました。 当時大ヒットしていた『ジーザス・クライスト・スパースター』。 舞台は、ものすごい迫力と熱気でした。この時の衝撃は忘れられません。この世界にはこんなにも面白い世界があるのかと大感激しました。 結局、このときの感激があるから観劇が趣味になり、大学では劇文学を専攻することになったわけです。 ロンドンではほかにバッキンガム宮殿の衛兵交代式や蝋人形館「マダム・タッソー」、大英博物館を楽しんだと書かれています。 日本から一緒に語学研修旅行に来た人のことも書かれています。 一番親しくしてもらったのは、外資系石油企業で働くHさん。 スイス人のクラスメートの車で、Hさんと一緒に近くのコーフ城を訪問したのはよく覚えています。別の週末には、Hさんとロンドンに出かけて、Hさんの同僚宅に泊まらせてもらったこともありました。非常に充実した毎日で、ボーンマス滞在の後半は自転車を一週間2ポンド(当時約1400円)で借りて、あちらこちらを自転車で走り回っています。イギリスの田舎がすっかり気に入って、時々授業を休んで、日帰り自転車旅行をしていたようです。 今までやりたくてもできなかったことを、すべてやってみたという、素晴らしい日々でした。 (続く)
2023.04.11
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1986~87年の取材ノートの話をすると長くなるので、再び1975年夏のイギリス語学研修旅行の話に戻りましょう。 私が17歳のときの英国滞在三日目(8月5日)の日記です。 朝食はコーンフレークと卵とジャムとバターをごっそり塗り付けたパンと紅茶。なかなか美味しい。朝はあっさりとしたものを食べるに限る。 「Coco(犬の名)、お前は行儀が悪い!」――食卓の下で物欲しそうな目を上に向けているその犬に向かって、恐ろしい声が響く。怒られたCocoは頭が良いからすぐ外に出て行く。 学校の授業は難しい。2割程度しか理解できない。それに宿題がたくさん出て、遊ぶ暇を与えない。Horrible! 授業は8時半から10時までunderstandingのレッスンで10時10分から10時50分までspeakingのレッスン。 Understandingでは、先生の話す物語の内容について先生が質問をし、それを答えさせ、理解度を確かめるもので、時にはその中に出てくる難しい単語について詳しく説明(易しい単語に言い換えてくれる)したりする。またspeakingでは、たとえば高級レストランに行ったとき、どのような話し方をすればよいかなど、実用的な会話を取り上げる。クラスには日本人(ほとんどが社会人か大学生)が8人、スペイン人2人、ルクセンブルクの人が1人(名前はモーリスで、よくバスの中で会うので話をする)、ドイツ人1人、トルコ人が1人。彼ら外国人はこのクラスのではみんな優等生、日本人はやや劣る。 モーリスは私と同じ17歳。たった3年しか英語を勉強していないのにペラペラ。ただ時々文法上でミスをする。ボクシング部だとか。 スペイン人のアントニーは毎日車で登下校。やはり英語がペラペラ。 午後はボーンマススクエア付近を散策。近くにロマンチックな公園があり、足を留める。宿題のことを思い出して、急いで家に帰る。 以上が三日目の日記です。 この文面から授業にはかなり手こずっていたことがわかります。 大学生ならともかく日本の高校二年生の語彙力ではとてもついて行けませんでした。 当時は悪戦苦闘して何時間もかけていた宿題も今なら5分もかからずにできますが、当時の私にはそのような語学力も素養もありませんでした。背伸びしすぎて、アップアップのような状態だったと思います。 夏目漱石の気持ちも、これに近かったのかなと想像したりして。 落ちこぼれ学生の私は、翌週から一つ下のクラスにしてもらって息を吹き返しました。 日記を詳しくお伝えするのはここまで。次からは、駆け足でこの語学研修旅行を振り返って次に進みましょう。 (続く)
2023.04.10
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恒例の富士山と桜です。こちらは標高が高いため、まだ桜には早かったです。その代わり咲いていたのがこちら。木蓮と富士山ですね。こちらは定番の河口湖の桜と富士山。ちょうどほぼ満開でした。最後は別の場所からもう一枚。大勢の人が花見に来ておりました。いずれも4月4日の撮影です。
2023.04.09
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今年は何でも花が咲くのが早いですね。今日は藤棚の藤が咲いているのを見ました。驚くべき早さです。つつじなども場所によっては、それこそ咲き誇っています。我が家のナニワイバラも3日前の4月4日、例年より2週間以上早く咲き始めました。こんなに早く咲いたのは、おそらく初めてです。近所の山桜も昨日の風ですっかり葉桜。新緑の季節に突入した感じです。初夏の風景ですね。上の写真は4月2日に撮影。いつもなら花見でごった返すのですが、花ではなく新緑の中、宴会をしておりました。
2023.04.07
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「1986年11月4日~7」の共同通信社時代のノートには、秋山氏のほかにも多くのコンタクティーを取材したメモが刻まれています。翌87年3月のメモ。左側が後に『アーリオーンメッセージ』(1996年、徳間書店刊)を著した北川恵子さんを取材したときのメモ。3月17日に宇宙機動船「オズマ」と交信したことが書かれています。右のページは、秋山氏を3月22日に取材した時のメモで、秋山氏は3月2日に「アルツ」と四日間コンタクトがあり、49日間で次のことを実行せよ、という内容のアドバイスを受け取っているようです。この後、秋山氏は『ボストンクラブ』という経済と精神世界を融合させたような月刊誌を発刊していくわけです。この二人を会わせるきっかけをつくったのは、当時「エージェント」の役割をもっていたとされる私です。秋山氏のメッセージ解読は見事でした。メモでは4月に二人が会ったように書かれています。次のメモは画家の岡美行さんを取材したもの。岡さんのハチャメチャ体験談はSFよりもはるかに面白かったです。彼が見たという宇宙都市も非常に参考になりました。次のメモは、大阪大学工学部の工作センター長を務めた正木和三氏を取材したもの。正木さんは、アトランティスの記憶を持つ不思議な方でした。発明家やゴルファーとして知られていました。本にも書きましたが、神官の石の話は非常に面白かったです。横尾忠則さんや稲盛和夫さんとも親交のある方でした。左のUFOのイラストは、秋山氏が描いたっぽいですね。まだ本人には確認していません。中央の円筒部がスライドすることや、どのように入り口が開くのかを説明している図のようです。右の英語は、日本人なのに宇宙人が英語でテレパシーを送ってきているという人が受信したというメッセージです。女性で娘と一緒にUFOと交信しておりました。大ヒットした有名な曲の詞を書いていた方でした。とにかく、1980年代には本当に多くのUFOコンタクティーがいて、その中で取材に応じてくれる人を探して取材しておりました。もちろん今もたくさんのUFOコンタクティーがいますが、80年代は全盛期といってもいいくらいでした。そうしたUFO側の働きかけやUFOとの交信の意味・意義を解説して、その集大成として出版したのが、今回の新刊『UFOと交信すればすべてが覚醒する』だったのです。
2023.04.06
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新著『UFOと交信すればすべてが覚醒する』を秋山氏本人がYouTubeで紹介していますので、ご覧ください。こちら→新刊紹介。最近はYouTubeが非常に有効な広告手段になっています。私はやりませんが、秋山氏が新刊についてYouTubeでアップすると、アマゾンのランキングが急上昇します。昨日の時点では全体で800位くらいまで上昇しました。2020年に出版された『世紀の啓示書オアスペの謎を解く!』も、おそらく誰かがYouTubeで取り上げて、急上昇しているのだと思います。3月28日に急上昇、アマゾンランキング全体でも、再び121位まで浮上しました。かつては40位くらいまで上がったことがあります。既に三刷りまで増刷され、アマゾンでも品薄状態になっているようです。価格も倍近くになっておりますが、絶版になったわけではありませんから、出版社のほうで考えると思います。時代は変わっていきますが、本や新聞などの活字文化は残ってほしいなと思っています。
2023.04.05
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満開の桜。逆さ桜。桜吹雪の道。お花見三点でした。
2023.04.03
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3月30日は東京でお花見でした。見事な咲きっぷりです。花見は神事、お酒は直会でしたね。今日は桜吹雪を楽しみに出かけます。
2023.04.02
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1986年11月中旬に書いたとみられる取材メモ。 この難解なメモを解読してみましょう。 残念ながら日付が書いてありません。 いきなり中国の「洛書」の話のことが書いてあります。 亀の甲羅の紋様から易経が生まれたという話の説明ですね。 さらに安倍晴明の話。その左横に秋山氏が出会ったというレミンダ、ベクター、ルレムアール、カザレーという宇宙人の名前が記されています。 その下には、「ヨハネの黙示録」の第八章に記されたニガヨモギが「チェルノブイリ」のことであるとの解釈を披露しています。次の記述がその部分ですね。 第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。この星の名は「苦(にが)よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ。(『新約聖書』ヨハネの黙示録第八章) チェルノブイリの右のメモでは、経済界が物流システムと教育システムの価値観を変える必要があることを秋山氏が力説しています。 排他的な人は駄目で、人にしてもらいたいことを他人にしてあげるのがいいのだとの哲学が展開されています。 これらは、今ではお馴染みの話で、当時から秋山氏が繰り返し語っていたことがわかります。 で、こうした一連の秋山氏の持説を聞いた後、私は「地球にはどのような種類の宇宙人が来ているのか」と聞いたことを覚えています。 そのとき秋山氏は、「どのような種類の宇宙人が来ているかはわかりませんが、宇宙人と交信している日本のUFOグループなら分けることができます」と言って描いてくれたのが右ページのチャートでした。 左上には、広島の塾講師安井清隆氏がチュエレイ星人とコンタクトを取っていることが書かれています。その下の「ヨリズーダカ」は、茨城県の画家・海後人五郎氏が振り子で交信していた宇宙人名ですね。 右は「リンゴ送れC事件」でも有名な松村氏のCBAの系統図が描かれています。 CBAは結局、渡辺大起氏のオイカイワタチのグループや、ラエリアンムーブメントなどに傾倒していった高坂克巳氏のグループ、アダムスキー研究で有名な久保田八郎氏のグループに分かれていったことを説明しています。 (続く)
2023.04.01
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