全67件 (67件中 1-50件目)
ボリビアの首都ラパスの近郊には、インカ時代の前のティワナク遺跡がある。photo: Bolivia 現在復元をしながら発掘を続けていて、民家の下にも遺跡は広がっている。お次は、月の谷へ。チリで見た月の谷とは違って、こちらは小規模。さて翌日。「晴れてくれないなあ」と、言いながら私達はバンへ乗り込んだ。今日は、標高5000メートルの山から、マウンテンバイクで下る予定。バンはボリビアの首都ラパスの街中を抜け、雲の中を頂上へ向かっていく。一時間程で、バンは大きな岩のある所で停車。「朝食です」と、ガイドの青年。車の戸を開けると共に、冷たい風が車内へ流れ込んできた。「ところどころ、青空があるけど」と、言いながら私は車から降りた。ガイドがプラスチックのテーブルを車から出してきた。そうしている間にも、青空がどんどん広がってきた。朝食の準備が出来た頃には、すっかり晴天!!photo:artitude 5000m 「山頂でこんな風に朝食なんて、これはいいね~」と、まあくんは言いながらホットティーをつくりだした。「うんうん!こんな経験、今までに無い!」と、私。photo :breakfast at the top of the mountainそして食後は、マウンテンバイクのギアチェンジの説明をうけた。「途中、上りがあるので苦しくなったらいつでも後方にいるバンに乗って下さい。無理をすると高山病の症状がでてきます」と、ガイドの青年。ガイドの青年の後に続き、いざ、出発!二人は緩い舗装道路を、あっという間に数百メートル先へ行ってしまった。かつてマウンテンバイクを担いで富士山の山頂まで上り、降りてきたまあくんにとって、こんな山はちょちょいのちょい。私は構わず慎重に降りていった。車の通りは少ないので、慣れてくると次第にスピードもあがる。標高5000メートルの山は、空気も澄んでいて非常に気持ちが良い。ところどころ、まあくんと、デジカメを片手に持ったガイドの青年が私を待っててくれる。「ちょっとおお。一緒に降りていこうよ!」と、私はまあくんに言った。「俺はスピードをだしたいの!」と、まあくんは再びあっというまに、姿を消した。ふん。気分転換に、私は一人でコンドルの歌を歌いながら下っていった。そのうち上りになった。ただでさえ標高の高さで、すぐ疲れるってのに。苦しい。 全然進まないなあ。私はバイクから降りて、高校時代のバスケ部の練習を思い出しながら、必死に押した。ゼエハアゼエハアだめだ、このままじゃあ高山病になっちゃう。ゼエエハアアゼエエハアアた、助けて~!そうだ!車に乗っちゃおっと!!私は後ろに控えてたバンに合図をしてバイクを積み、さっさと車へ乗り込んだ。ああ、楽ちんっ!さっさと諦めて良かったあ~しかし、部活ではで苦しみに耐えるのが美徳だったのに、なんだったんだ?人生ただでさえ難しいんだから、敢えて苦しむ道を選ぶより、楽な道を選んだ方がいいに決まってるっ!がむしゃらに耐えるのが人生ではない!!より良いものを選択していくのが人生だ!と、独自の人生論を構築しながら、私は水を飲んだ。暫くすると、まあくんの後ろ姿が見えてきた。あははっ、頑張ってる!車は距離をおきながら、まあくんの後ろを走る。やっと登り切ったまあくんのバイクが、今度は勢いよく下る。暫くして、休憩ポイント。「お疲れ~」と私は言いながらバンから降りると、ガイドが「この先がDEATH ROAD(死の道)です」と言った。見ると、舗装道路の脇に幅3メートル程の砂利道がある。「10ヶ月前に舗装道路が完成する前までは、全ての車がこの道を通っていました。当時は崖から何台もの車が落ちて、毎年数百人が亡くなってました」とガイドは穏やかな表情で言う。数日前に、ガードレールのない崖の道を、大型バス2台がギリギリにすれ違ってる衝撃的な写真を見た。ちょっとハンドルを誤ると、谷底へ転落するのだ。にしても、年間数百人が亡くなるとは…..予想以上に危険。とはいえ、マウンテンバイクにはあまり関係ない。いざ、出発!砂利道にもかかわらず、二人はものすごいスピードで視界から消えた。photo:DEATH ROAD :most dangerous road in the world そういう私も大分慣れてきて、スピードアップ。全身で砂利道の振動を感じながら坂道を下って行と、次第に左側の道が噂の崖になってきた。過信すると、結構危ないなあ。ちょっと減速しよっと。右カーブにそってハンドル切ると、視界の悪い道は予想以上のカーブ。おおっと!やばいやばい!一瞬ひやりとしながら、なるべく山側へ進路をとる。無事にカーブを曲がりきると、二人が私を待っていた。「ここでは以前、21才のイスラエル人の女性がマウンテンバイクで転落して亡くなりました」と、ガイドがお墓の前で説明してくれ、私はゾッッとした。崖下を覗き込むと、草木で覆われていて底は見えない。「あの辺の木とかに掴まれないのかなあ」と、まあくん。「あの辺の木とかにグッサリささりそうじゃん!あそこのカーブはマジで危なかったよ。調度慣れてきた頃だし、調子乗ってスピード出したら曲がり切れないよ」「でも、相当運動神経悪いとしか思えないけどなあ」「友達から遅れをとらない様に必死だったんだよ」私は気をひきしめて、再びバイクに乗った。あっという間にいなくなる二人に「勝手に行ってろ」と言いながら、私はマイペースで漕いだ。次第に、山側の草木が鬱蒼としてきた。ところどころ湧き水が上方から流れている。DEATH ROADとは想像つかないほど、日の光と水を浴びた草木は生き生きとしている。と同時に、小さな十字架がコンスタントに視界に入ってくる。photo:about 200 people died every year.暫くすると、再び二人が私を待っていた。「あそこ見て」と、まあくんが言う先を見ると、乗用車が一台、15メートル下方の崖の途中に、無惨な形で残っている。「ここを運転する人達は、本当にクレイジーで、もの凄いスピードで曲がってくるんです。あの舗装道路ができてからは、この道は静かになってマウンテンバイクで降りていくのも楽しいですけど」と、ガイド。「じゃあ、以前はバイクでも危なかったのね?」「一度、女性二人と一緒にカーブを曲がってると、突然バスが前方から現れました。ハンドルを切ったバスはそのまま転落しました」「目の前で!?」「女性達はショックで泣き叫んで、私はロープで救助にあたりました。しかし、60人ほど乗ってた乗客は全員亡くなりました」一瞬、言葉を失ってしまう。「目の前で起きたのはその時だけですが、事故はよく起きてたので、何度も救助にあたってました」「何回くらい?」と、まあくん。「数えられません」「何人かは助かりましたか?」ガイドは首をふり、「一度転落したら、助かる人はいません」と言った。「観光客が亡くなったことは?」と、私。「私がガイドをしてる時は、一度もありません。でも、マウンテンバイクで亡くなった人は20人います。そのうち12人がイスラエル人です」「どうして!?」と私は驚いた。「兵役後の旅してるイスラエル人は、無茶苦茶なのが多いからなあ。マリファナやったり酒飲んでスピード出し過ぎたんじゃないの?」と、まあくん。ガイドは頷きながら、「私と一緒の時は禁止です」と言った。アホさ加減に呆れてしまう。「この先のカーブで私がビデオを撮るので、一緒に来てください」と、ガイドは話を変えて先に行った。「ビデオの前くらいは仲良く一緒に降りていこうね」と言いながら私はバイクにまたがった。一緒に左カーブをいくと、道の上方が草木で覆われている。木漏れ日の中、雨のように湧き水が滴り落ちている。私はビデオの近くに行くと「わあああああああっ」と声をあげながら両足をあげて通りすぎた。そして私達は200メートル程行った所で止まった。一段と際だった崖の下を恐る恐る覗き込むと、ゆうに300メートルはある。「絶対に落ちたくないなああ」と私は思わず言った。「10ヶ月前だったら、ここへは来てなかったね」と、まあくん。そして更に先へ行くと、再びテーブルを出して一休み。今度はハンバーガーがでてきた。高度が下がってきたため暖かくなり、気分は最高!軽食が終わるとガイドはバイクを持ち上げ、斜めになってるところにポンと置いた。「こっちへ来てください!バイクの横へ行って!」私達は斜めになってるバイクの横へよじ登って横になった。まるで底へ落ちたかのような写真のできあがり。「こんな風にとった写真を上司が見て、驚いてたんですよね~」と、無邪気にガイドは笑ってる。更に下ること30分で終了。そのままリゾートホテルへ行き、シャワーを浴びて昼食。ガイドと運転手は、そのままプールで泳いでいる。「あのガイド、いくつだと思う?」と、まあくんが私に聞いた。「30くらい?」「21だって」「マジで??随分落ち着きがあるなあ」「相当修羅場をくぐってきたって感じだね」「だろうね」と、私はソーダ水を飲み干しながら言った。世界一危険と言われているDEATH ROADで、いくつもの死を目撃した結果ということか。プールサイドには、色とりどりの花が咲き乱れていた。
2008.02.18
コメント(57)
「今日も雨か」と、私は窓の外を眺めながら言った。「洞窟探検は、無理だね。一日どうしよう?」と、私はベットの上のまあくんを見た。「最近移動が続いてるから、たまにゆっくりしよう」と、全然動く気がないまあくん。「昨日のガイドのマリオが、洞窟以外では川の上流に行くのもあるって言ってたけど」「どうせ、大したことないよ。これ以上歩きたくない。マリオも今日は他でガイドの仕事があるって言ってたし。」「だね。たまに休まないと体力がもたないね~」と言って、私もベットに飛び込んだ。しばらくすると、宿のマリアがやってきたので、私達の今日の予定をつたえた。その後、朝食をとりに行くと12才くらいの子供がやってきて、何故か私達のテーブルに座る。「???どうしたの?この子?」と、私達が不思議に思ってると、マリアが昨夜のマリオの息子だと説明してくれた。「あれ?もしかして、ガイドのために来たとか??」と言いながらマリアを見ると、「今日は彼がガイドをしてくれるわ」と、笑顔で言ってくれる。「あちゃあああ。勘違いしたかあ」と、まあくん。「ここまで来て、まさか部屋に一日中いるなんて思わないんだよ」と私は言いながらパンをかじった。期待して来た子供を追い返すのも可哀想なので、仕方なく私達は出発することにした。幸い、雨も止んで太陽が出てきた。photo:a smaaaaall village , called TOROTORO in BOLIIA「洞窟の方はどうなの?」と、少年に聞いた。「一晩中雨だったから、水がありすぎて無理です」と言いながら、ドロドロの道を歩いていく。そっか。じゃあ、あまり興味のない川の上流に行くしかない。とりあえず、ガイド料を聞くと、50ボリビアーノと、お父さんより20ボリビアーノ少なく言ってきたので了解した。「ガイドの仕事はよくするの?」と、私は聞いた。「たまに。最近は、たくさんガイドをする人がいるから」確かに、こんなド田舎じゃ他に仕事はないからなあ。「コチャバンバとか、ラパスに行きたいと思う?」「前はコチャバンバで働いてたけど、こっちの方がいいので戻ってきた」「へええ。向こうでは一日働いていくらくらい稼げるの?」と、まあくん。「一日中働いて25ボリビアーノ。すごく大変」と言いながら当時を思い出してるようだ。「じゃあ、ここでは自然の中を歩いて半日で50となると、それは美味しいかも」と、私はまあくんに言った。「まあ、そうは言っても毎日あるわけじゃないからね」どんどん川に沿って歩いていくと、だんだん川の水が増してくる。少年は、足場を探しながら私に気を使って、手を差し伸べながらゆっくりと進んでゆく。「これは貝の化石です」と、15メートルくらいの崖一面にあるものを差した。まあ、昨日見たのとはさほど変化は無い。photo: fossil of shellそのうち、水かさが増えてきて足場がなくなった。少年は、岩に登って私を誘導する。「ちょっとお、これ、落ちたら足の骨くらいは折ってもおかしくないよおお!」と私は言いながら、ロッククライミングのように少しだけ凹みのある所を足場としながら慎重に行く。「俺に荷物ちょうだい!先に行くから」と、まあくんは追い越していく。「ちょっっと、滑るって!!!これ以上行けないっっ!!」と言っても、今更戻るのも難しい。私は岩に這い蹲りながら、ギャアギャア言ってると、「大丈夫!落ちても死なないから」と、まあくんが勇気?づけてくれる。「あのねええ、骨おったら今後の旅に支障があるでしょうっっ!!」「ああ、そうだねええ。優美ちゃん、気をつけて!」「ったく」まあくんに先導して貰って、なんとか岩場を切り抜け成功。でも、写真で見るとたいしたことないなあ。そして、さらに行ったところでランチタイム。「もう、学校は行ってないの?」と、私は少年に聞いた。「はい」「観光客は、たくさん来る?」「あまり来ません」少年は、私達が話しかける以外は話さないけど、質問したことには答える。「ここにはスペイン語のガイドしかいないって本に書いてあるの。だから来れる観光客が限られてくるんだよ」と、私は言った。少年は、ピンとこない様子。「もしも、君が英語を話せたら、もっとたくさんの人が来るよ」と、まあくん。軽く少年は頷く。「本には君のお父さんが、村一番のガイドって勧めてるよ」と、私は、一番分かりやすいところから言ってみた。少年は、やっとピントきたのか笑顔をみせた。「最近ガイドが増えて、仕事が少なくなってるって言ってたけど、もしも君が英語を話せたら、ガイドには君の名前がのるよ。そして、みんな君にガイドして欲しいって頼んでくるよ」と、まあくんは続ける。ちょっと想像ができたのか、少年の表情が明るくなってきた。「そのうち、君のお父さんよりも、もっともっと仕事を頼まれるよ」まさかという気持ちで、少年はうつむいて笑う。「村には英語を習えるところはあるの?」と、私は聞いてみた「あるけど、英語を話せる先生がいない」と、少年は答える。「なるほどね。それがネックか」「となると、一年くらい辛抱して街で働きながら習うしかないね」と、まあくんは言う。「10代だと、語学はすぐマスターできるんだよ。それに、英語とスペイン語は似てるから簡単だよ」と、なんとかやる気をだせるように私は続けた。その後も私達は、少年がイメージできるように、なるべく分かりやすく話続けた。「少しは、分かったかなあ?」と、私はペットボトルを飲み干しながら言った。「まあ、後は本人次第でしょう」と、まあくん。ランチ終了後は、山へ登って村へ戻った。「予想通り、何もなかったね」と、私はぐっったりとしながら言ってると、村の青年二人が、少年の頭をからかいながら叩いて通り過ぎていった。「親の七光りで仕事が入ってくるから、嫉妬されてるんだね」と、まあくん。少年は、期限悪そうな表情をしたけど、私達の前なので、すぐに平静になった。恐らく、しょっちゅう同じ目にあっているのだろう。その日の夕方、私達はコチャバンバへ向かった。
2008.02.02
コメント(2)
「化石の見学を手伝ってくれるガイド、手配しておきました。朝食が済んだら、私がガイドの家まで案内します」と、昨夜私達を迎えてくれたマリアという女性が笑顔で言ってきた。「ありがとうございます」と言いながら私達は朝食を食べるため席についた。「夕食はどうしますか?主人がイタリア人のシェフなの」それは期待できそう。「じゃあ、お願いします」と、まあくん。「ところで、私が電話で話した人は誰だったんですか?」と私は聞いた。「彼女はここのオーナーで、ラパス(ボリビアの首都)に住んでるの。私も以前はラパスのホテルで働いてたけど、今はずっとここに住み込みなの」「電話が無いって聞いたけど、どうやって連絡とるんですか?」「この村に一カ所だけ電話があるから、しょっちゅう確認に行くの」と、マリアは愛想よく言いながら、朝食の準備へ行った。「住み込みかあ。彼女はいいとして、イタリア人の旦那はどうなの?南米の最貧国のド田舎で!!??」と、私は言った。「バックパッカーあがりで、帰国しても仕事がないんだろうね」「こんなド田舎で現地通貨で働きだしたら、帰国の飛行機代だって稼げないじゃない」「まあね」「この村で骨を埋めるってことなのかなあ」と言いながら、私は奥にいる50才くらいのイタリア人を眺め「まあ、可愛い奥さんもいるし、このロッジもタダだろうから、そういう人生も有りか」と言った。朝食を終えると、マリアと一緒に宿の門を出た。昨夜の雨で、粘度のようになった土が、道一面を埋め尽くしている。photo:TOROTORO village in Bolivia..TOROTORO means bad road.「うわああっ、なに?この汚さ?」と、私が驚いてると、「トロトロという村の名前は、現地人の言葉で、汚い道という意味なの」と、マリアが説明する。「雨期になると、車は通ることが出来なくなって、この村は隔離されたようになるの」それは、想像がつく。「なんか、ちょうど日本語のドロドロといった表現がぴったりだねえ」と、私はまあくんに言った。私達が道を選びながら慎重に歩いてると、ちょうどガイドが反対側からやってきた。「彼は、村一番のガイドのマリオよ」と、マリアが私達に紹介してくれた。「ガイドブックに、彼の名前がのってますよ」と、まあくん。私達は軽く挨拶を交わし、マリオの後に続いた。村を離れ川を渡った所に、大きな岩盤がいくつもある。photo: a fossil of dinosaur「この跡が恐竜の足跡です」とマリオが差す。見ると、直径10センチ程の凹みがある。photo: a fossil of dinosaurえ?これが??化石って言われても、本当??と、疑いたくなる。「一応、写真撮っておこうか」と、まあくん。次第に雨がパラパラと降り出してきた。さらに川沿いを下っていくと、「これも、足跡です」と、マリオ。photo: a fossil of dinosaur教えて貰わないと絶対気付かない凹みだ。ふうう、こんな所までやってきて、こんなもんか。一段と雨が降りしきる中、更に進むと、今度は確かに爪の先まで分かるような跡があった。photo: a fossil of dinosaur「あ、これは本当に恐竜の足跡だね~」と、いいながら私はシャッターを押した。「さっきまでの嘘だと思ったの?」と、まあくん。「だって、あんな凹み、どこにだってあるでしょう。でも、これはハッキリしてるよ」更に行くと、今度は10メートル程の岩盤に、規則正しい歩幅で直径20センチ程の足跡が続いてる。「これはすごいなあ。見たこと無いよ!」と、まあくん。「ほんとだ!!でも普通、化石ってプロテクトされてるものじゃないの??こんな野ざらしで大丈夫なの??」と私は心配してしまう。「この辺一帯は隆起して出来上がった土地で、数え切れないほどの化石があるんです」と、マリオはいいながら、平気で触っている。「いつ、この化石は発見されたんですか?」と、まあくん。「オフィシャルに化石と認定されたのは1970年以降です。でも、私は小さい頃からずっと化石だろうって思ってました。」「しかし、見事に残ってるな~」と、小さい頃は、自称、恐竜博士だったというまあくんの表情がほころんでる。「足跡から推測するところ、約10メートル前後の恐竜です」「恐竜にしては小さいね。もっと大きいのも有るんですか?」「いえ。この辺は、だいたいこのサイズの化石だけです」「でもこれって、まだ観光客が少ないから、触ったり出来るんだろうね」と言いながら、私は化石を踏まないように歩いた。「スペイン語のガイドしかいないし、殆どの人はこんなに遠い所まで来ないでしょう。でも、この化石は見に来た甲斐があったなああ」と、まあくんは超ご機嫌。「でしょう?ここは私が行きたいって言ったんだよね」と私は自慢げに言った。「優美ちゃんは”行きたいっ”て言っただけでしょ。その後の手配は誰がしたと思ってるの?」「ええ?でも、宿の予約の電話したよ!あれ、大変だったよ~」「それは、俺がやれって言ったからでしょ。ほんっっと、優美ちゃんはパッケージツアーに乗っかったようなものだからねえ」「ああ、それいいなああ~、まあくんがアレンジしてくれるパッケージツアーかああ」「おいっ、ふざけんなよ」その後私達は、同様の足跡をいくつも見ながら、渓谷まで降りていった。確かに、あまりにもたくさん有りすぎて、ありがたみが無くなってくる。貝の化石も、そこらじゅうに転がっているといったかんじだ。「あそこには、壁画があります」と、10メートル程上の崖を差して言う。photo:a wall paintingうううん。ちょっと遠くて分かりずらいなあ。「この先、ずっと渓谷を下って行く道と、このまま登って村へ戻る道に分かれますが」「何かこの先特別な物あるの?」と私が聞くと、「同様に貝や恐竜の化石があります」と、マリオは答える。「ううううん。もう、十分見たよね」と、私はまあくんに言った。「これ以上行っても同じだから、戻りましょう」と、まあくん。そして坂を登り切ったところで、雨がやっと止んだので、ランチタイム。再び歩いていくと、小川の真ん中にある物を差して、「恐竜の爪の化石です」とマリオが言う。photo:a nail of dinosaur「これは、マリオが見つけたの?」と聞くと、マリオは笑顔で頷く。更に30分程歩いていくと、やっと、トロトロの村が眼下に広がってきた。細い道を下っていくと、下からお婆さんが登ってくる。「あのお婆さんはどこに行くの?」と、マリオに聞くと、「家に帰る途中です」と、マリオが答える。「え?民家なんて一軒もなかったけど」「ここから2時間歩いたところに住んでるんです。村まで買い出しに来たんです」えええええ??こんなド田舎の、更に歩いて2時間のところって、いったいどんな所に住んでるんだ??思わず、お婆さんの後ろ姿を眺めてしまう。例の、ボリビアで一番貧しい村かな?宿の前に戻ると、「マリオのガイドは良かったなあ。チップはずもう」と、まあくんが渡した。マリオは思いがけないチップで、満面の笑顔だった。
2008.02.01
コメント(0)
「バンが来ましたよ」というフロント係の声で、私は目が覚めた。「1時間も遅れて来たよ。行くよ、優美ちゃん!」と、まあくんが私を急かす。「うわっ、もう20時30分?いったい何時に着くの??」と、私は言いながら荷物を持った。「分からん。0時前には着くんじゃないの?宿の方、大丈夫かなあ?」コチャバンバからトロトロという小さな村への定期的な交通手段は、存在しない。お迎えのバンは、宿のオーナーが村へ向かう車を探して、手配してくれたものだ。8人掛けの車を覗くと、後部座席に50歳くらいの男性が座っている。その後ろの席は毛布でくるまれた荷物で、天井すれすれまで一杯。私達が男性の隣の席へ腰掛けたと同時に、車は出発。「うええっ、なんかこの席狭すぎない??まあくんの腕一本じゃまだなあ」といいながら、私は靴を脱いで足を前方へ伸ばした。「俺の席はお尻がいたいんだけど」「ここに三人座るのは無理があるんじゃない?」「でもまあ、アフリカの乗り合いバスよりはマシだよ。でも、動物の臭いがするなあ」などと言っている内に、運転手は車を止め、外で人と話しだした。暫くすると、私達が足を置いていた所へ男性三人が乗り込んで座った。「まじかよ。超、狭苦しい。アフリカと変わらなくなってきたよお」と言いながら、私はまあくんを見た。とはいえ、席でもないところに詰め込まれてる3人は、もっと苦しそう。30分ほど走ると舗装道路がなくなり、でこぼこの道を車は登っていった。なんか眠くなってきたなあ………………………………..ウィーンウィーンウィーンウィーン「なになに?…..?どうしたの??」と私は、寝ぼけ眼で言った。いつの間にか眠っていたようだ。「道が前夜の雨でドロドロで、なかなか上っていかないんだよ。四駆なんだけどね」ヘッドライトで照らされてる道を見ると、柔らかそうな土にタイヤの跡が複数残っている。「今何時?」「0時過ぎ。優美ちゃんはぐうぐう気持ちよさそうに寝てたねえ。俺は寄っかかられて、その上お尻は痛いし死にそうだよ」と言いながら、私の体を元の位置へ押す。「うん、結構寝たなあ」と言いながら私は右側の窓を覗いた。街灯が約1キロ下方にポツンとひとつだけある。「相当登ってきたみたいだね。これ、滑り落ちたらやばいんじゃないの??」と、言ってる矢先に車が右後方へズルズルと滑っていく。もちろん、こんな山道にガードレールなんて無い。うううううっっっ お願いっっっ 止まってっっ!!!と、全身に力が入る。1メートルほど下がったあたりで車が止まった。ふううううううう車内に安堵の空気が流れる。思い通りにならない道に腹たてたのか、運転手がイライラとした感じで水分補給をした。「運転手が今飲んでたの、アルコールだよ」と、まあくんが言う。「えええっっ??マジ!!??こんな道、まともに走ってられないってわけ??」カーブに差し掛かる度に、何度もバックを繰り返して登ろうとする運転手。「あいつ、すげえ運転下手だよ。いちいちバックする必要ないのに」と言うまあくんの声が、次第に遠くに聞こえてきた。眠いなあ……………………………….ガタンゴトン ガタンゴトン ガタンゴトン「んん…なになに?どうしたの??何の音?」と言いながら、私は重い目蓋を必死に開けた。どうやら、再び眠りに落ちてた様だ。,窓の外を見ると、車のタイヤが半分以上川の中につかって渡っている最中。しかも、フロントガラスには雨が打ち付けられている。「ちょっとちょっと…….川に流されないでしょうねっっっ!!??」ズズズズウウウ……ガタン……..ズズズズズズ…….. ガタンゆっくりと前進する度に、車の底が石にすれる。15分程でなんとか、川の通り抜け成功。「ふうううう……なんかとんでもない所に向かってるみたいだね」と私は言った。「ほんっと優美ちゃんはお気楽でいいねえ。ずっっとグウグウ寝てるだけだもんねえ」と、一睡もしていないまあくんは、イライラぎみ。「あれ?どのくらい寝てたの?」「1時間くらい寝てたよっ。ったく、誰だよ、こんな所に来たいって言ったの」「どんな所かは、来てみないと分かんないの」暫く行くと、車が止まり、隣にいたおじさんが、後ろに積んでた山のような荷物と共に降りた。「あの荷物、蜂みたいだねえ」と、まあくん。「こんな山奥に家があるけど、何して生活してるんだろ?」と、暗闇に消えていくおじさんの姿を見ながら言った。「蜂蜜でもつくって、一発当てようと思ってるんじゃないの?」再び車に乗り込むと、私達の前に小さくなって座ってた人達は、やっと後ろの席に座ってくつろいでるようだ。暫くすると、いっそう雨が降り出し、道はさらにドロドロ。「この村に行けない時期があるってガイドブックに書いてあったけど、きっと雨期はこの道閉鎖されるんだろうね」と、まあくん。「え?じゃあ、この先に住んでる人は、どうなるの?」「知らん」更に1時間ほどいくと、ヘッドライトに照らされて、平屋の建物が並んでるのが確認できた。既に時計は3時半を回っている。「一応、こんな山奥にも村があるんだねえ」と、私は不思議な気分だ。目的の宿へやっっと到着。インターホンを鳴らした。しかし、闇につつまれた宿からは何の反応もない。「ちょっとおおお、どおしよう。。。。。」運転手が、料金を払うように言ってきた。「今お金を渡したら、行かれちゃうから」と言いながら、まあくんは運転手を軽く無視。「携帯電話で連絡してもらえる?」と私は運転手に聞くと、「ここの村には電話回線がない」と言う。「えええっ??じゃあ、俺たちが来るって話も伝わってないんじゃないの?」「でも、一応ここには誰かがいるようなこと言ってたよ。まいったなああああ」雨は容赦なく降りしきる。こうなったらこのバンの中に居座ろうか……と、思ってしまう。「他にも宿はある?」と、まあくんが運転手に聞くと、頷いた。そして諦めて去ろうとした頃、奥の方で明かりがついた。よかっったあああああああ私達は荷物を取り出す用意をして、運転手にお金を渡した。暫くして背の小さい感じのよい女性がでてきた。「話は聞いてたけど、今日来るとは知らなかったわ」と言って、私達を中へ促した。え?そうだったの?「昨日からずっと雨なの。昨夜は18時に寝たから、たまたまベルで目が覚めたのよ。運が良かったわ」と、女性は言いながら、部屋のドアを開けてくれた。あぶないあぶない。部屋を見るとベットが4つ置いてある。他に客がいないせいか、私達だけで使えるようだ。そして、私達はまもなく、深い眠りについた。
2008.01.30
コメント(0)
「船の生活は本当にいいよ」と、朝食のオレンジジュースを飲み干しながら、ハンスが自信を持ってように私達に言った。ハンスとナタリー夫妻は、現在ヨットでの生活をして4年近くなる。ハンスはスイス人58才。ナタリーはフランス人44才。「ハンスは、家庭の事情から15才で学校を止め、仕事を転々としたの」と、ナタリーは私にフランス語で話し出した。「その後、独学でコンピューターのプログラムを作成売却して、20代で派手な生活をしてたのよ」よくよく聞くと、当時3億ほど稼いだそうだ。「私の前に付き合ってた二人の女性と、それぞれ子供が二人いるの」と、特に負い目もなくナタリーは笑顔で話す。「へえええ。そして最後に14才年下のナタリーと結婚したんだ。本当の愛を見つけたって事ね」と、私は言った。ナタリーは頷く。ハンスは信じられないくらい、エンジョイライフしてるなあああ。ちなみに2人の間に子供はいない。「私がハンスの会社で働きだした当時は、彼と一緒に食事に行っても、一切おごって貰うのを拒否したわ。そしたら、そんな女性は今までにいなかったって感動しちゃってね」「分かる。MASAも女性は自立してないとダメだって言うから」と、言いながら私はコーヒーを一口飲んだ。「私と付き合う前は、モデルとばっかり付き合ってたのよ!でも結局、私を選んだのよね」と、ナタリーは笑いながら言う。「私の周りにはモデル友達いっぱいいるから、奢ってくれる男性と知り合う機会が多いの。でも、結局私は、そういうことをしないMASAを選んだの。だって、初めてあった女性に奢るって事は、他の女性にも同じ事をしてるでしょ。ってことは、結婚した後にだって、当然そういうことをするもんね」「YUMIも、そういうのを求めてなかったのね!」「そうなのおお」と、私達は意気投合。まあくんと二人で話をしていたハンスが「ナタリーとは結婚するしかなかったんだ」と、ドイツ語訛りの強い英語で私に言ってきた。「数年完成できていないプログラムがあったんだ。ところがある日、彼女にプロジェクトを任せたら、一週間で完成してしまったんだ」「え?ナタリーが解決したの?」ナタリーは、大きな笑顔で頷く。「それだけじゃない。彼女は語学力にも優れているし、プログラムのセールスもしてくれて、そこそこの値段で売れたんだ」ナタリーは、六カ国語を相当高いレベルで話す上に、もの凄く社交的なので想像がつく。まあくんは日本語で「そこそことは言っても、10億くらいだろうね」と、私に言う。なるほど。そういう桁ね。。。「こうなったら、彼女と結婚するしか解決法はなかったんだ。だって、彼女に給料を払いきれないだろう?」と、ハンスは冗談と尊敬の眼差しでナタリーの肩を抱き寄せる。ハンスは若い頃は格好良かっただろうし、羽振りも良かったのだから、いくらでも綺麗な女性がよってきたはず。結局、ナタリーの自立心とインテリジェンスに惚れたというわけだ。にしても、この二人、お互い尊敬しあっていて、本当にお似合いのカップル。「でも、ヨットの生活って、どうなの?そこまでする決心は簡単についたの?」と、私は質問しながら、まあくんの腕時計を見る。まだ、出発まで時間はある。「そうねえ。私達は、素敵な家もあったし、何もかも上手くいってたのよね。かなり躊躇したけど、実際全てを売却して、この生活を始めたら、なんの後悔もないの」と、ナタリーは生き生きと言う。「その代わり、小さい船じゃダメだよ」と、ハンス。「小さい船に乗ってる人は港に船を置いて、近くのホテルに泊まったりするのよ。そんなんじゃ意味がないでしょう」と、ナタリー。「僕達のヨットは、客室もあるし、キッチンもしっかりしてリビングルームもあるから、家としての機能性は十分なんだ」と、ハンスは続ける。「是非、一度遊びに来たらどう?」と、ナタリーは私達に聞いてきた。えっ?ほんと?嬉しいお誘い!!「え?ああ、そうですねえ。いいですねえ」と、まあくん。「2008年の八月くらいなら、どの辺にいるの?」と、私は聞いてみた。「今はヨットをタヒチに停泊してるのね。で、一度飛行機でスイスに戻るから……」と、ナタリーは考える。「ニュージーランドとか、トンガあたりかなあ」と、ハンス。「その辺なら日本からも近いし、簡単に行けますよ」と、まあくん。「その代わり、一度船の生活をしたら、絶対あなたたちハマって、船を買うって言い出すわよ」と、ナタリーは悪戯っぽく言う。「いやああ、どうかなあ」と、私達は適当に反応。「もし太平洋の真ん中でハンスに何かがあったら、ナタリーは自分で操縦できるの??」と、私は聞いてみた。「ううううん。一応、出来る事にはなってる」と、笑って言う。「今の船のテクノロジーはすごく進んでるんだよ」と、言いながらハンスは専門用語を使いながら、熱く語り出した。難しい機械の話はまあくんに任せよう。「そろそろ子供をつくる予定だからなああ」と、私はナタリーに言った。「子供は5歳くらいまでなら、本当に問題ないわ。海はお母さんの体内にいるようなものだから」「でも、教育とか…..」「船で生活してる子供は、普通の子供よりも知識があって責任感もあるわ。親がインターネットで通信教育の手伝いをするから短時間で集中するの。でも、そう言う子は、普通の学校へ行くと、義務的な生活に耐えられないわね。」「でしょう??好きで船で生活するのと、選択肢がなくて船の生活しかできないのとじゃあ、えらい違いだよね」「確かに、私達もハンスの一番下の息子を預かることになったときは、スペインに家を借りて4年間普通の生活をしたわ」「やっぱり?」「でも、あなたたち日本に住むって言ってるけど、MASAは半年で飽きるわよ」「はははあああ」と、言いながら私は合わせて笑っていると、隣のまあくんが「船の生活、興味わいてきた」と、ハンスに言っている。「え?そうなの?」「キャンピングカーが良いかなと思ってたけど、船、よさそう。とにかく、ヨットに行ってみますよ」「ちなみに、どのくらいの期間必要かなあ?」と私はハンスに聞いてみた。「ううううん。最低2週間はいないと、航海はできないよ」「あ、そうなんだあ。じゃあ、3~4週間くらいなら、休みとれるから……」「それなら完璧だよ」「さて、そろそろ迎えのタクシーがくるから用意しないと」と、まあくんは言いながら時計を見た。「OK、じゃあ、また後でね」と言いながら私達はそれぞれの部屋に戻った。photo:Sucre in Bolivia「でもなあ、ナタリーみたいにしっかりしてる人だったら、航海中、安心して交代しながら寝れるけど、優美ちゃんだったら、肝心なときに居眠りしそうだからなあ。で、気付いたら珊瑚にぶつかって座礁しそうだよ」「何言ってるの?まあくんは、バスの中で本読んで酔っちゃうくせに。大波で大変だ~って時に、船酔いで倒れていそうじゃん。で、船酔いしない私が、必死になって働いていそうだよ。ったく……。まあ、何にしても船の操縦なんてそう簡単じゃないんだから」「俺は大学時代に小さなヨットを友達と共同で買って乗ってたんだよ」「そうなの?贅沢な学生だなあ。でも、船の方が難しいでしょ」「小さいヨットが操縦できれば、大きいのなんて簡単なんだよ」「ふううううん」そして、私達はその日の夕方、10日間一緒にいたナタリー、ハンス夫妻と別れてコチャバンバ行きの飛行機に乗った。ちなみに首都ラパスで、ハンス夫妻とは5日後に再開の予定。
2008.01.28
コメント(0)
「日曜だけやってるマーケットに一緒にいかない?」というナタリーとハンスからのお誘いで、私達もツアーに参加することにした。ポトシの街から小型バスに乗ること約2時間。photo: Bolivia market小さな街の広場には、露店が所狭しと並んでいる。「売ってる物が観光客向けだね」と、私は商品を見ながら言った。「昔は違ったんだろうけど、観光客相手の方が儲かるんだよ」と、まあくん。ふと見ると、ナタリーは現地のおばあさんに捕まって、物を買うようにつきまとわれている。私達は、現地の人達の写真を撮ることに、集中することにした。とはいえ望遠レンズが無いので隠れ撮りするのは、結構難しい。そのうち、わたしも腕輪売りのおばあさんたちに捕まった。しょうがないので、写真を撮る代わりに、購入。一通り撮り終わり、私達はレストランでコーラを頼んだ。すると、全く冷えてない2リットルサイズがドンとくる。「飲みきれないよ」と、私達は言いながら半分以上あまらせた。座ってても、どんどんと物売りが私達の所に来て、結構うざい。「こういう観光客相手のマーケットは、いまいちだなあ」と、まあくん。私は、追い払う為に余ってたコーラを少しあげた。そしたら、今までこんな物は飲んだことないかのように、「ありがとう」と、心を込めて言われた。「コーラは観光客が飲むものなんだよ」と、まあくん。「ってことは、ここでは結構高級品なのかな?」次に来た人にも同じ事をした。同様の反応。入れ替わり立ち替わり来るので、次から次へと分けてあげた。みんな、嬉しそうに味わって、感謝の気持ちを述べていく。「あははっ、なんか、気分良くなってきたな~」と、私は言いながら、コップにコーラを注いでいった。左隣で働いてる男性にも、笑顔でおすそ分け。右隣で働いてる女性にも、笑顔でおすそ分け。「あああああ、もう無くなっちゃったよお」と、私は最後におすそ分けした人からコップを受け取るなり言った。「優美ちゃん、ご苦労様~」と、まあくん。「うん。今日は、いいことした」と、私は超満足。そして、時間が来たので私達は小型バスに戻った。
2008.01.25
コメント(2)
photo:sucre in Boliviaスクレの街を南へ歩いて行くと、公園にエンジン付きゴーカートが数台置いてあった。「あれ乗ろう!!」と、まあくんは嬉しそうに言いながら、管理してるおばさんに、一台5ボリビアーノ払って乗ることにした。私達は公園内を1周。意外と楽しめるものだ。「あ~楽しかったなああ」と言いながらベンチに座ってると、靴磨きの道具を持った3人組の少年が現れた。ちょうど靴が汚れてたので、「いくら?」と、まあくんは聞いた。「いくら払ってくれる?」と、兄貴分の少年が私達に聞いてきた。「そうだなあ。ここの相場からして…..」と少し考えて「1ボリビアーノ」と、まあくん。「OK」と兄貴分が言うと同時に、子分の二人が私達の片足を台の上に乗せて磨きだした。私の靴を手際よく磨いてる少年が、「僕たち汚れてるからプールに行きたいんだけど、5ボリビアーのかかるんだよ。お願いだから、5払って」と、言い出した。まあくんの靴を磨いてる一番小さい少年も、「5払って!5払って~!」と、調子よく繰り返す。「プールが5もするわけないでしょう」と、まあくんは言いながら、「プール行くとか言って、絶対行くはず無いよ」と、私に言う。全然とりあわない私達に、「僕は隣の町から来たんだ。今、おばさんの家に住みながら、夜は学校に行ってる」と、兄貴分は話を変えてきた。おばさんの家にいるなら、シャワーなり沐浴なり出来るはず。「勉強は好きなの?」と、私は聞いた。「大好きなんだ」ふうううん。なんか、ちょっと協力してあげたい気もしてきたけど、勉強するための鉛筆代やら本代が欲しいと言って、お金をせびる子供達はアフリカで何人も見てきた。より多くの利益をあげるための、常套手段。試しに「何の勉強してるの?」と、聞いてみた。「算数とか英語とかフランス語とか」と、言いながら、英語とフランス語で簡単な挨拶を言う。まあ、挨拶程度は誰でもできる。「いくつなの?」「僕が11歳で、9歳と7歳」と、利口そうな兄貴分は、淡々と説明する。「一日に、どれくらいお客さんいるの?」「1人か2人くらい」「そんなわけないよ。さっきだって、他の人の磨いてたじゃん」と、まあくんは私に言う。10分もしないうちに、両足終了。予想外にピカピカの仕上がりだ。「上手かったから、ちょっと多めに払ってあげようよ」と、私はまあくんに言った。「5ボリビアーノ5ボリビアーノ!!」と、私の靴を磨いた少年が強調する。「まあ、そうだね」と、まあくんは言いながらポケットの小銭を探す。「じゃあ5ボリビアーノあげるから、皆でちゃんと分けるんだよ」と、言いながら私の靴を磨いた少年に、まあくんは渡した。すると、その少年はお金を数えて、左右を見て少し考えた後、「ありがとう」と言いながら、二人を置いてその場を去った。え??と、私達がきょとんとしていると、一番小さい少年が、「僕にも払って~僕にも払って~」という。「今、彼に5ボリビアーノ渡したから、ちゃんと分けてもらいなさい」と、私は言った。ところが、少年は「僕にも払って払ってええええ」と、聞く耳を持たない。「あああ、始まったよ。さっさと行こう」と、まあくんは立ち上がる。じっっっと私を見つめてる兄貴分に、しょうがないから手持ちの高級チョコレートを渡すと、表情を明るくして「ありがとう」と言って、一番下の少年を置いて去っていった。ちょっとちょっと……..と、思っている間にも、「払って払ってええええええ」と、少年は続ける。「2ボリビアーノのところを5払った上にチョコもあげたんだから、十分でしょう」と説明しても、聞こうとしない。私は諦めて、まあくんの後について小走りした。ところが少年は公園を出ても、ずうううううううううっっっとついてくる。しかも、「払って払って」といいながら、泣き出してきた。「ちょっと、まあくん、いつまでもついてくるよ~。なんで一人ずつにあげなかったの?」「あげようとしたときに、この子がいなくなったんだよ」「あ、そうだったの?」「それが手だったんだよ。優美ちゃんだって、なんであの兄貴分にチョコ渡したの?」「みんなで分けて食べると思ったから。もしかしたら、本当に分けてくれないのかも知れないよ??」「そんなわけ無いでしょう。あの兄貴分は何もしなかったけど、何も稼がないと思う??」「それは有り得ないね」「子供は優美ちゃんが思ってるほどバカじゃないんだよ」「子供がバカだなんて思ってないよ。でもまあ、この子に直接手渡さなかったっていう私達の落ち度もあるから、ちょっとあげようよ。小銭いくらあるの?」「1.5ボリビアーノ」と言いながら、私の言葉に多少納得して、まあくんが渡そうとした。すると、少年は「NOOOOOOOOOO!5ボリビアーノ!!」と、泣きながら叫ぶ。なにいい?こうなると、もう同情の余地無し。「1ボリビアーノでやるって約束したのに、なんで1.5じゃダメなの?」と私が言うと、「NOOOOOOOOOOOOOO!!!!!」と、これ以上出ないくらいの声で叫ぶ。「あっそう。分かったよ。いらないのね」と、私は少年に言って反対方面に歩き出した。道行く人が、私達3人の奇妙な光景に振り返っていく。「まあくん、実は5くらいが相場なのかなあ???」と、私も弱気になる。「なんでいきなり5倍も払わなきゃいけないんだよ。さっきのゴーカートのおばさん、いったいいくら投資して、5ボリビアーノ稼いでるんだよ。こんな子供がちょこちょこっと磨いただけで5も稼げるわけ無いでしょ。1ボリビアーノあったら、1食は食べれるんだから」「でも、昼のレストランだって20ボリビアーノしたじゃない」「優美ちゃん、全然わかってないねえ。なんで子供が、観光客が行くような高級なレストランで食べなきゃいけないの?」「ううううん…..確かにねえ。日本で時給900円で働いたとしても、1食分程度だよね。てことは、この子が10分で1食分稼ぐとなると、高給取りになるね」初めて行く国で、相場というものを割り出すのは、そう簡単ではない。でも、まあくんは以前、相場を割り出す職業をしてただけあって、計算が速いのだ。「でも、本当に泣いてるから、本当に彼らから分けて貰えないのかもよ??」「泣き真似に決まってるでしょ。一番小さい子が、こういう役をすれば、大人は諦めてお金を出すと思って、ぐるになってやってるんだよ」「でも、目が赤いよ。あ、もう涙は出てないみたいだねえ。なんで涙も出ないのに泣いてるの?どうしてどうして??どうして泣いてるの~?」と、私は立ち止まって子供をおちょくってみた。こどもは一生懸命目をこすって、更に泣き声をあげてる。すっかり私達は人々の注目の的。すると、現地の50歳くらいの男性が、「どうしたんだ?」と、私達をいぶかしそうに見ながら子供に尋ねてきた。子供はここぞとばかりに「靴を磨いたのにお金を払ってくれない」と、言ってくれる。私は慌てて「NONO,この子の友達にちゃんと払ったの!」と、男性に説明しても泣いてる子供の前では私達の方が立場が弱い。「待ってなさい」と言いながら、その男性は自分の店に入っていった。「あのおっさんにお金払われたらウザいなあ」と、まあくんは言いながら、さっきあげようとした1.5ボリビアーノを渡そうとした。「NOOOOOOOO!!」と、いいながら、今度は「2ボリビアーノ、2ボリビアーノ!!」と言って泣き続けながらも、1.5ボリビアーノはしっかりと受け取った。「あのねえ。これ以上小銭が無いの。さっさと仲間の所に戻らないと、チョコレート食べられちゃうよ!」と、私が言うと、さらに大きい声をあげて、泣きじゃくる。暫くすると、おじさんが店から出てきて、「いくら足りないんだ?」と、少年に聞く。「4ボリビアーノ!!」すると予想通り、おじさんは4ボリビアーノを子供に渡して去っていった。泣きやんだ少年は、そそくさと公園へ消えていった。「まあくん。すっっっごく後味悪いんだけど…..」と、言いながら、私達はホテルの方へ向かって歩いた。「うん…….ちょっとね」「結局あの子が、一番稼いだんじゃん!!5.5ボリビアーノ!」「そうだね。恐らく仲間の所に戻っても、5貰ってきたって言いそうだよね」「次回もあの三人は、同じ手を使うって事か……そうやって人からお金をもぎ取ることを学んでいくのね」「言ったでしょ。子供はバカじゃ無いんだよ」その後、街を歩いてても、私はずっっっっと気分が晴れないままホテルへ到着。夕食時に、ナタリー、ハンス夫妻にその話をすると、「本には、靴磨きは1ボルビアーノで十分って、書いてあったわ」と言いながらナタリーは水を飲み干した。それまでまあくんの相場観に半信半疑だったけど、もう疑う余地はなかった。「本当に子供にやられたんだねえ」「俺は最初から分かってたよ。ああいう子供はずるがしこいってね」「ふうううん。まあくんも、相当ずるがしこかったんだろうねえ」「そりゃあそうでしょう。優美ちゃんもそうだったでしょう」「私はまあくんほど頭まわらないもん。でも、そういえば小さい頃はよく泣いて勝とうとしてたなああ。兄貴達がいっつも怒ってたよ」「今でもやってるでしょう。あの子と変わらないねえ」といいながら、まあくんは私の頭をなでた。「でもまあ、ズルして儲かった時なんて凄く喜んでたよなあ。まあ、いいんじゃないの?今頃あの子達も大喜びしてるよ。まあくんは、なんでそんなに厳しいの?」「そういう問題じゃなくて、それなりの価値のあるものに対してお金というのは払われるべきなんだよ」なるほどねえ。
2008.01.21
コメント(0)
「パスカルも、スクレまで一緒にタクシーで行こうって言ってきた」と、ハンスが私達の部屋まで来て言う。「しょうがないからタクシー2台で行こう」と、うんざりといった様子だ。一週間前にウユニ湖ツアーで知り合ったハンス夫妻とパスカル。ツアー終了後も、ウユニやポトシでハンス夫妻と私達が泊まろうとするホテルに、必ずパスカルも泊まるのだ。かれこれ知り合いになって一週間。なんとか会わないようにしても、夕食時になると部屋までやってきて一緒に行こうと誘ってくる。とことん無視できないハンス夫妻と私達は、嫌々ながらも最終的には相手をしてしまう。とはいえ、私達は昼間はさっさと出かけるので、まだマシ。ハンス夫妻は、私達の3倍は相手にしてるはず。23才の彼は同じ年代の知り合いをつくろうとしても、皆に相手にされないので、最終的にナタリーの所へ戻ってくるのだ。ようするに、ナタリーは面倒見のいいお母さん役。とはいえ、限界というものがある。「私はあなた達と一緒に乗るわ。パスカルはハンスにまかせる」と言いながら、ナタリーは私達のタクシーに乗った。「パスカルには何て説明したの?」と、まあくん。「説明なんていらないわよ。」と、ナタリーはさばさばしている。「パスカルをまくには、高めのホテルにいくしかないわ」とナタリーは言いながら、新聞広告のパティオ形式の素敵なホテルを私達に見せる。車が走り出して30分程で、一時休憩。パスカルに「どう?ハンスと二人っきりは?」と、私は聞いてみた。「ハンスは話がとまらないみたいだよ」と、パスカルは顔をしかめる。どうやらハンスは、パスカルのどうしようもない自慢まじりの話を聞き続けるよりも、自分で話し続ける作戦にでたようだ。「ハンス、頑張ってるみたい」と、私はまあくんに言った。「パスカルと二人っきりは、相当つらいだろうからねえ」と、気の毒そうに言うまあくん。そして1時間ほどでスクレへ到着。白く塗ることを義務とされているコロニアル風の建物には気品がある。photo:sucre in Bolivia南米一貧しい国とは想像がつかない綺麗な街だ。4星ホテルの前で車が止まると、パスカルが車から降りてきて「俺は違うホテルへ行く」と言った。私達4人はホッッとしながらも、表情には出さないようにした。「じゃあ、また後で」というパスカルに、「多分、もう会うことはないんじゃない?」と、ナタリーは、はっきりと笑顔で言う。。。。さすがのパスカルも言葉につまってたので、思わず私が「また、後でね~」と、フォローをしてしまう。4つ星ホテルの部屋へ案内されると、値段の安さとクウォリティーの高さに、思わず笑みがこぼれた。「ちょっと、二人とも、上にあるスウィートルーム見た?」と、ナタリーが言う。どれどれ?と、行ってみると、なんと部屋にジャグジーがあるではないか!「うわあああ、ここいいなああ!」と、私は一目惚れ。まあくんが早速フロントで交渉。「一泊40ドルでいいって!!こっちにしよう!」と言いながら戻ってきた。「まじでっっ??たったの40ドル?でも、ナタリー達は?」スウィートルームは一室しかない。「私達は、もう20年も一緒にいるんだから、いまさらいいわよ!」と、笑顔で言うナタリー。じゃあ、お言葉に甘えさせていただきま~す。その後、私達4人はスクレの街を見学。カフェでくつろいでると、ナタリーが携帯のメールをチェックした。「パスカルから、今晩は女の子2人とご飯を食べに行くってメールが入ったわ」「えっっ??そんなこといちいちメールしてくるの?」と、私は驚きながら言った。「しかも、知り合いできたんだ」と、まあくん。「チリで知り合ったらしく、その後のルートがほぼ同じで、たまたま同じホテルだったみたいだよ」と、ハンス。「私がいなくて寂しい?ってメールしたら、NOだって」といいながら、ナタリーは笑ってる。「なんか、どうしようもないくらい、おこちゃまだねえ」と、まあくん。「彼と話し続けるのは、不可能だよ!何もかもが自分中心でないと、気が済まないんだ」と、ハンスが思いあまったかのように言い出す。「まあ、彼はきっと小さい頃のトラウマがあるのは間違いないわ。でも、私だってストレスが溜まるわよ。せっかくのバケーションなのに。まあ、可哀想といえば可哀想なんだけど」と、ナタリー。確かに二人はパスカルの面倒を良く見てきてた。ほんと、お疲れ様と言ってあげたい。
2008.01.20
コメント(2)
「私達はやっぱりマイン(鉱山)ツアーに参加するのは止めるわ」と、ナタリーが出発間際になって残念そうに私達に言ってきた。話を聞くと、ハンスが窮屈な所に行くのは嫌とのこと。しょうがない。と言うわけで、私達は二人でツアーバスへ乗り込んだ。10分程行った所で、「これを着用してください」と上下の作業服とヘルメットを渡された。「ジャケット着たままがいいかなあ?」と、私が迷ってる横で、「好きにして」と言いながらまあくんは分厚いハイテクジャケットの上に作業着を着た。悩みつつも、私はジャケットは脱ぐことにした。photo:preparing for going to mine tour「マイナー(鉱山で働いてる人達)には、ジュース、コカの葉、ダイナマイトを買っていくのがならわしです」と、ガイド。仕事場に観光客が押しかけて嫌がらないのかな?と疑問だったけど、こういうギブアンドテイクをしてるだ。ちなみにコカの葉はコカインの材料。こちらではお茶にして飲んだり、そのままかじったりすると、空腹感がなくなるそうだ。鉱山現場へ着くと「鉱山の中は、アスベストやサーベックスなどの粉塵が舞ってるので、なるべく直接吸わないようにしてください。まあ、吸ったら多少寿命が縮まると考えてください」と、冗談まじりにガイドは言う。「アスベスト?日本で盛んに問題になってたやつじゃない!大丈夫かなあ?」と、私は心配。「はいはい、大丈夫大丈夫。しっかりバンダナ巻いてねえ」と、まあくんは言いながら、私のバンダナを後ろでぎゅっと結んだ。私達他、一名は、トロッコの線路が敷いてある洞穴を、ガイドについて歩いていった。photo:entrance to the mineひんやりとする中は電気がなく、たよりになるのはヘルメットについてるライトだけ。ところどころ水たまりがあり、段々と天井が低くなってくる。photo:insaide of the mine is dark.lots of dust.壁にはパイプが張り巡らされていて、シュウウウウウウッッという空気の漏れる音が、暗闇の中響いている。「これは、機械用に空気を送っているパイプです」と、ガイドは言いながら、スタスタと歩いていく。「ただでさえ標高が高くて息苦しいのに、バンダナつけてると余計息苦しい」と言いながら、私はかがみながら歩いた。「この辺だと標高4500メートルはあるだろうね」と、まあくん。空中を照らしてるライトの光線をみると、いかにも体に悪そうなダストが舞っている。このダストは吸いたくないなあさらに腰を曲げながら1メートル弱の狭い道を歩く。こんなのが続くと閉所恐怖症になりそうだ。その上、バンダナ越しでは吸っても吸っても息苦しい。もう限界。私はバンダナをはずし、鼻から思いっっっきり吸った。酸欠に近かった私の体は、寿命が縮まると脅されてる酸素でも、十分満たされていく。少し行くと、電気のついた広めの場所へ到着。photo:a temple for damons閉所恐怖症になる手前で、解放された気分。「鉱山に住む悪魔を、ここで祭ってます」と言いながら、ガイドはろう人形を指した。photo:this is the damonその横には、「黒人の奴隷が港に着いた」というかつての新聞広告の記事が載っている。「こんなところに強制的に連れてこられて、こきつかわれてたんだ」と、私は言った。とはいえ、現在働いてるマイナーだって、悪い条件の下で働いていると本に書いてあったから、大差は無いのかな?と思ってると、「最近の鉱石の急騰で、マイナーの中には医者よりも稼ぐ人がいます」と、ガイド。なるほど。再びバンダナを巻きガイドについて行くと、今度は2メートルくらい段差になっているところをよじ登っていく。登り切ると3畳ほどの広さのところに直径1メートル半程の穴がある。穴を覗くと10メートルほど下方に明かりが見える。ガイドは直径1メートル程の皮の入れ物を見せながら、「ここでは、下でとれた鉱石をこれに入れて、機械で引きあげる作業をします」と説明。photo:a bag to carry minerals「この先、第三レベルまで降りていきますけど、限界だったらいつでも言ってください。すぐに出口へむかいますから」「まあくん、大丈夫?」実は昨夜、腹痛で二度目の病院にかけこみ、モルヒネをうってもらっていた。「大丈夫」と、表情を変えないで答えるまあくん。人が一人やっと通れる道を、四つんばいになりながら進み始めた。だんだん空気が生暖かくなり、更に息苦しさを増す。薄着をしたのに、うっすらと汗ばんでくる。「一時休憩しましょう」とガイドは言いながら、ぎりぎり頭がつかないところで座った。私達も座り、バンダナをはずして思いっきり息を吸う。時折、左右上下からの圧迫感で「うわあああああっっ」と言いながら、壁を叩き壊したくなる衝動に襲われる。「今朝はミーティングで作業開始時間が遅れたから、それほどダストは舞ってません。午後になると、ひどくなります」と、ガイド。「えええっっ?昼からのツアーにしないでよかったねえ」と、私は言いながらまあくんを見た。無言のまあくん。photo :really hard.「そういえば厚着してたよね?サウナ状態じゃないの?」と言っても、応答無し。大丈夫かなあ?「簡単な道と難しい道に分かれますが、どちらがいいですか?」とガイド。「簡単な方」という、私の即答で決定。引き続き、四つんばいで前進。私の前方を行っている男性が、段差で足を滑らせて1メートル半程ずり落ちた。桑原桑原。photo:watch out!次第に普通に歩ける道がでてきて、電気のついている第三レベルへ到着。3メートルほどの高さのあるところで、やっと閉所から解放された。そこには、二人のマイナーが、先ほど見た皮の入れ物にスコップで鉱物を積んでいる。ガイドが私達からのおみやげを渡す。マイナー達は、一切私達と会話をすることもないし、目を合わせることもない。「ツアー代金の15パーセントはマイナー達に渡り、その上手みやげを持ってくる観光客を、彼らは歓迎しています」と、ガイドは私達に説明した。「私も10歳から15歳まで、昼はここの鉱山で働き、夜は学校に行ってました。私の父、今でもここで働いてます」と、ガイドが言う。暫くすると、次の観光グループがやってきたので、ガイドは「行きましょう」と私達を促した。さて、後は戻るだけ!とはいっても、結構距離あったよなあ。ガイドに続き、先ほどの休憩ポイントで休憩していると、「この先に行ってみてください」と、さらに奥まった所へガイドが私達を促す。気が進まないけど、しょうがない。道をよじのぼっていくと、暗闇の中に高さ2メートル程の空間が左側にあった。ふと見ると、誰かが背中を向けて座っている。うわっ、こんな真っ暗な所で、作業してるっ!私達の存在を気にするわけでもなく、金槌で鉱石を砕いている後ろ姿は機械的だ。感情を閉じこめないと、恐らくこんな所では仕事を続けられないのだろう。戻ると、「彼らは、人生の大半をここの鉱山で過ごします」と、ガイドが言う。狭く、汚く、暗く、害のある誇りが舞う場所は、彼らにとっては普通ということだ。私も小さいときからここで働いてたら、どうってことはないのかな?でも、このガイドはここで働くのがいやで頑張って勉強をして、ここから抜け出したのだろう。選択肢があれば、他の仕事をしたい人は沢山いるはず。再び私達は四つんばいになりながら歩き出した。レールがひいてある天井の高い所に来ると「壁に身をよせて!」という、ガイドの声。スレスレの所を、マイナー二人がトロッコを押しながら、走り去っていく。更に、足場の悪いところを、ゆっくりよじ上っていくと、他のグループが座ったまま待機していた。そろそろ出口に近いな。余裕が出てきた私は「まあくんは、こんなところで働けないねえ~」と、おちょくってみた。まあくんは、無言のまま私を完全無視して、苦しそうに息をしている。次第にかがみながらでも歩ける場所になり、ついに外の光が見えた。やっったああああ!走って行きたいところだけど、苦しくて無理。徐々に光を受けながら前進し、ついに鉱山から抜けた。「ああああ、助かったああああ」と言いながら、私はバンダナとヘルメットをはずし、思いっきり綺麗な空気を吸った。「まあくん、相当辛そうだったね」と言いながら見ると、なんとジャンパーの上の作業着にまで汗が染み込んでいる。「うわっっ!中はどんなことになってるの!?」「暑くて死にそう。それに俺は病み上がりなんだよ!優美ちゃん、マジでうざかったっ!」と、やっと答えるまあくん。「ごめんねえ。でも、南アフリカの鉱山と違って、ここはきつかったね。二度と戻りたくない」「あそこは閉山してて、観光客しかいなかったからね」photo:dynamite demonstrationその後、ガイドはデモンストレーション用のダイナマイトに引火。100メートル程先の所に置いて走って戻ってきた。ドオオオオオオオオオオオオオンという地響きと共に、爆風がきた。「おおおおおお」という、観光客のどよめきの声。「予想より、すごかったね」と、満足そうなまあくん。そして、私達は小型バスに乗り街へ戻った。
2008.01.15
コメント(2)
ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンうるっさいなああああ…….人が寝てるってのに。ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン音は更に激しさを増し、一向に止む気配がない。「please!」ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン気にせずに眠り続けようとするんだけど、あまりのしつこさから察するところ、この先1時間くらい続きそうだ。しょうがないなあ~と思いながら私はベットから起きあがった。オレンジ色の街灯がついている窓の外を覗くと、見知らぬバックパッカーが2名いる。車一台も通っていない静まりかえった外は、窓越しでも寒さが伝わってくる。私が窓を開けると、二人はすぐ気付いて私の方を見た。「隣にある小さなドアが、開いてるはずだよ」と、私が大きい声で言うと「どこも開いてないの!!」と、返事がきた。「チェックインは済ませたの?」と、聞くと「yes, yes」と返事をする。「じゃあ、待ってて!」と私が言うと、二人は安堵したようだ。「わざわざ開けに行くの?」と、隣のベットで寝てたまあくんが言った。「この時間に従業員は帰ってるんでしょ。可哀想だから行ってくる。それに、ほっておいたら私達の方が寝れないよ」と言いながら、まあくんのジャンパーを羽織って下へ向かった。鍵をはずしドアをあけると、白い息を吐きながら毛糸の帽子をかぶった女性が二人、目を見開きながら立っていた。絶望の中から救われたといった感じで「Thank you soooooo much」と心の底から言う。ふと見ると、バックパックを持っている。「あれ?チェックイン、済ませたって言ってなかった?」と私は、やばいなあと思いながら聞いた。「予約はしたのよ。でも、着いたら閉まってるし、他のホステルも全部閉まってるのよ」と言いながら入ってくる。ウユニの街は小さいので、この時間(午前2時過ぎ)には店もホテルも閉まってるのは想像つく。とはいえ、勝手に宿に入れちゃってまずかったかな??と思いながら、あまりかかわらないように私はさっさと3階の部屋へ戻った。部屋に入ろうとすると「勝手に入れたらまずいでしょう」と、まあくん。「でも女性二人だよ。こんなに寒いのに、今更追い出せないでしょう?」と、私がドアの所で立ったまま話してる間に、二人は空き部屋を探しながら3階まで来た。そして隣の部屋を開けようとしている。「あ、そこは駄目!!友達がいるから!!!こっちの向かいの部屋は誰もいないよ!」と、結局もぐりこみにかかわってしまった。まあ、しょうがない。そして「もう寝よっと」と言いながら、私はベットにもぐった。しかあし、なかなか眠れない。一時間ほどすると、再びドンドンドンドンと、新たな旅行者が助けを求めてきた。これ以上かかわれない。ここは心を鬼にしてほっておこう。もうすぐ日も昇ってくることだし、辛抱してもらおう。15分くらいで、戸を叩く音はおさまった。すると今度は、「腹いてええええええ」と、そうそう痛いという言葉を口にしないまあくんが言った。「昨日のレストランのサラダにあたったかなあ」と、かなり苦しそうだ。とはいってもこんな時間じゃどうしようもない。「ホッカイロで暖めよう。以前、ナタリーからもらった痛み止めも飲んでみる?」しかし1時間ほどしても症状は一向に変わらない。「外も明るくなってきたし、病院行く??」と、私は眠気が襲ってくる中、試しに聞いてみた。ちょっと考えたまあくんは、頭をたてにふった。こりゃあ、単なる痛みとは違うってことだ。再びジャケットを羽織って下へ行ってみたけど、案の定、誰もいない。ふとカーテンの隙間から外を見ると、朝早いというのに現地人のおじさんが立っている。私は、数時間前に開けたドアを再び開けた。数人のバックパッカーが、やっと昇った朝日の下で足ぶみしながら立っている。可哀想に……..と思いながらも、こっちはそれどころではない。「すいません、病人がいるんですが、この時間に開いてる病院はありますか?」と私は、タバコを吸っている男性に聞いた。ちょっと考えて「あるよ。この先にあるよ」と言いながら、車に乗るように促してくれる。どうやらタクシーの運転手のようだ。私は走って部屋へ戻り、「病院あるって!!用意して!!」と、まあくんを促した。二人でタクシーへ乗り込み、5分もしないところで車は止まった。平屋のしょぼい建物で、運転手がドアをドンドンドンドンと叩いた。暫くすると、三つ編みをした色黒の女性が険しい表情で、小さな窓から顔を覗かせた。運転手が事情を説明すると、ドアを開けてくれた。ほっっっっとしながら中へ入ると、手動式の古いタイプの血圧気を、まあくんの腕にあてる。大丈夫かなああああと、シュッポシュッポと空気を入れる音を聞きながら、私は不安をつのらせる。奥からは、寝起きの男性が頭をかきながら、廊下を通り過ぎていく。血圧と体温をはかり終え診察室へ行くと、先ほどの男性が白衣を着て座っていた。あ、先生だったんだ。確かに、今まで会ったボリビア人とは違って、落ち着きのある信用できそうな雰囲気だ。とりあえず痛み止めをうち、検査用の血液を採取してもらった。そして2時間後に検査結果を聞きに再びもどると、微量のサルモネラ菌のようなものが見つかったとのこと。「今日、10時のバスでポトシへ行く予定なんですが」と、私が言うと、「まあ、これくらいなら乗っても大丈夫でしょう」と、先生は言いながら抗生物質を処方してくれた。宿へ戻ると、心配してくれてたナタリーとハンズが、私達の荷物の移動を手伝ってくれた。こんな時は、知り合いがいて本当に助かる。「アフリカでは一度もこんな目に遭わなかったのに、アルゼンチンの生活で気が緩んじゃってたね」と、私はバスの中で言った。「あと、最近ツアーで生野菜食べてたから、ついつい気をぬいちゃったよ。本当は温野菜を食べたかったのに、昨日は無かったからなああ」と、まあくんは悔しそうに言い、「ところで優美ちゃんはなんで大丈夫なの?」と続ける。「まあくんのはタマネギ入ってたでしょ。生のタマネギは水につけたりするからね」「そうかあ。今後は歯磨きもミネラルウォーターにしないと」「そうだね。しかし、なんだか昨夜は忙しかったなあ」ほぼ睡眠をとれなかった私達は、ポトシまでの6時間、バスの中で眠りに落ちた。
2008.01.12
コメント(0)
今回のツアーのメイン、ウユニ湖へ向かうため、私達はランドクルーザーに乗り込んだ。ウユニ湖は、最高地点3760m 面積12000キロ平米 およそ20億トンもの膨大な塩でできた世界最大の塩湖。湖といっても水分は干上がり流れる川が無いので、陸地の続きのようになっている。車が一面真っ白な所をガタガタと音をたてながら走り出した。「あれ?もうウユニ湖なのかな?」と、私は太陽の光で反射して眩しい外を見ながら言った。「うん。多分そうだと思う」車輪の跡が何本かあり、向かう先はイスラ・デ・ペスカという、ウユニ湖の真ん中あたりにある島。「しかし、30分くらい車が走ってるけど、まだ一面真っ白だよ」と、珍しくまあくんが感動。「雨が降ると、地表に溜まった水が鏡の役目をして、まるで空と塩湖の境目が無くなるように見えて、いいらしいんだけどね」と、晴天の空を眺めながらまあくんは続けて言った。一時間ほどでイスラ・デ・ペスカへ到着。。photo; Lake Uyuni in Bolivia 島一面にはサボテンが塩湖に向かって生えていて、どこかイースター島のモアイ像を思い起こさせる。島の頂上まで登ると、360度の大パノラマの塩湖が広がっている。写真撮影~!車の所へ戻ると、私達のグループが、コミック写真撮影を初めてたので私達も参加。「もうちょっと右!もっと!もっと!行き過ぎ!!」などと叫びながら、1時間ほど撮りまくり。photo:MASA regreted after taking this picture まあくんは、写真のできあがりを見て、後悔してました。photo:This is the salt lakeその後は、塩で出来たミュージアムへ。中へ入ると、昼間にもかかわらずひんやりする。photo:this chair is made by salt これは、塩でできた椅子「あれ?ここにベッドあるけど、もしかして私が泊まりたがってた塩のホテルってここ?」と、私は部屋を覗きながら言った。「そうだよ」「うわああ、こんな所に泊まってたら、なんかウザそう。見るだけで十分だね」「でしょう? ここはシャワーも無いらしいからね」photo:this room is made by salt.You can spend a night here,but there is no shower.photo:Yes, it is salty! やっぱり、しょっぱい!その後はウユニ湖の近くの小さな街へ到着すると同時に、2泊3日のツアー終了。「どこに泊まる予定?」と、ナタリーとハンスが私達に聞いてきた。「もう、予約してあって、バストイレ付きで10ドルくらいのところ」と、まあくん。「じゃあ、私達もそこにするわ。でもパスカルには……」と、ナタリーは言いながら何も言わないでというようなジェスチャーをとる。無理もない。自分中心にしか話をしないパスカルを、ここ3日間ずっと相手するはめになってたのだ。ハンスも特にコメントは避けながらも、目が「もう、うんざりだ」と語っている。アントレはこのまま真っ直ぐ次の街へ行くというのでお別れの挨拶をして去っていった。私達は、運転手に頼んでホテルの前まで行ってもらった。そして車から荷物を下ろしてホテルのロビーへ持って行くと、「どこへ泊まるんだ?」とパスカルがナタリーに聞いた。「MASAとYUMIが泊まる所と同じにしたわ」「OK….」と、パスカル。ん??何がOKなの?と、思ってると、パスカルは当然のように私達と同じホテルへ自分の荷物を置きだした。「ちょっとちょっと…..まさか同じホテルに泊まる気?」と私はまあくんに言った。「そうみたいだね。うぜえええええ」ナタリーとハンスが私達を見ながら首を振っている。「まあ、本人がうざがられてるのに気付いてたら、こんなにうざいままの性格ではいないんだよね….」と、まあくん。「確かにね」と、私は呆れながら、機関銃のようにナタリーとハンスに話し続けるパスカルを眺めながら言った。
2008.01.08
コメント(2)
「YUMI,調子はどお?」と、ベット越しにいたナタリーと目があうなり聞かれた。昨夜の宿は、男女5人一組で一部屋。その上、バス、トイレも共同。というのも、チリとボリビアの国境を越えて車で3時間のところには、街なんてものは無く、ツアー専用の宿を敢えて造ったといった感じだ。「ううううん、昨夜は吐いたのね。お陰で大分楽になったけど、まだ頭が痛い。昨日ナタリーからもらった薬飲んでみるね」と、私は言った。さすが標高4500メートルとあって、早速高山病にかかったのだ。標高2500メートルのアタカマ(チリ)で3日間過ごして、少しずつ慣らしたつもりだったのに。「今日はこれから下がるだけだから、大丈夫だからね」と、まあくん。「うん。まあくうううううんん、優しくして~」と、私は言いながら、まあくんのベットへ潜り込んだ。「優しくしてるでしょおおお」「うん。もっともっとおおお。にしても、昨日より大分楽になって良かったあああ」朝食を済ませ、私達は昨日同様、車の一番後ろの席に乗り込んだ。photo:South of Bolivia「しかし、このパスカルってやつ、超うぜえやつだなあ。。。。」と、まあくん。「あ、やっぱり?なんか人の話に割り込んでくるよねえ。質問してくるくせに、人の答えを聞かないし」と言いながら私の右手前にいるパスカルを見た。28歳、スイス人、フォトグラファー志望。ナタリーとハンズ夫妻もスイス人なので、彼らが車の中ではパスカルの話し相手をしている。しかし、時折うんざりといった感じで私達の方を見る。「いつも自分が中心になってないと気が済まないんだよ。こういうタイプは実は自分に自信がないんだよね」と、まあくんは分析を続ける。「まあ、5人いれば一人くらいはこういう人がいても、おかしくないよ」と、私。ところどころ写真タイムで停車した後は、小さな街でランチタイム。photo:we took lunch at this small town.photo:a lot of women have this hair style.私達が昼食を終えた頃、例の昨日ガソリンをきらしたグレーの車が到着。ものすごい形相で5人が降りてきた。「もう、冗談じゃないわよ!!」と、隣のグループの小太りの女性が怒って言う。話を聞くと、なんと今度はタイヤのねじが全部とれて、テープで巻いて走ってきたとか。「まあまあ、でも、これこそアドベンチャーってものでしょう?」と、ナタリー。「私達なんか、単に走ってるだけで、だんだん飽きてきたところ」と、私は冗談で言った。「確かに、一生忘れられない思い出だよ」と、もう一人の男性。「でも、さすがに崖の所を走ってたときなんて、いつタイヤが外れるかと思ってひやひやしたわよ」と、小太りの女性。それは、洒落にならない。食後、外へ出ると、グレーの車を見終わったハンスが「あれはひどい」と言いながら私達の所へ来た。「え?どれどれ?」と言って私達もグレーの車の方へ行った。本当にテープがぐるぐる巻きになってるではないか。photo:Fortunatly,this is not our car.「えええっ?マジでこれで走ってきたの??」アントレとパスカルもやってきて「OH~」と言いながら、写真を撮っている。「まあくんの言ったとおり、このグレーの車だけは避けて良かったね」「この車は相当やばいよ。トヨサだって」「え?何?」見るとトヨタではなく、トヨサというロゴがついている。「終わってるなあ」と、まあくん。食後もひたすら走り続け、ウユニ湖の近辺の宿へ到着。前日同様ドミトリー式だけど、今度は部屋にバストイレがある。部屋の質も前日にくらべて、ちょいとアップ。私の高山病もその頃にはすっかり治ってた。
2008.01.06
コメント(0)
チリのアタカマから、ボリビアへの国境越えは二泊三日のツアーに参加するしかない。というわけで朝8時、エージェンシーの前で待機してる小型バスに私達は乗り込んだ。「ここは標高2500メートルだけど、これから一時間ほどで一気に4800メートルまで上ります」と、現地のガイドがスペイン語で説明。この辺になると、英語のガイドはすっかりお目にかからない。40分程で国境までいくと、各自3台用意されているランドクルーザーに乗り換えるように指示された。ここで変な車にあたると、砂漠の真ん中で故障する可能性があるという情報を事前にキャッチしたまあくんは、早速、車の品定めに入った。photo:In Bolivia. You have to choose the best car otherwise you might get stuck in the middle of nowhere in dessert...「この中では、赤のが一番新しいなあ。あっちのグレーは20年前くらいの型だから、絶対やばいよ。この紺のはまあまあかな」と、まあくんが私に言う。赤は他のツアー会社の車だったので、私達は目の前にある紺のランドクルーザーにさっさと乗り込んだ。車には既に、4人座っている。私達は、一番後ろの席に座って、みんなと挨拶をかわした。アイルランド人のアントレ、スイス人のパスカル、そして年配夫婦のナタリーとハンズが、この先三日間一緒に回ることになった。間もなく車は、真っ青な空の下、砂漠の大地を走り出した。舗装道路なんてものは存在しなく、ガタガタと車は激しく揺れる。しばらくすると、急にガタンッという音がした。「何?今の音?」と、私は言った。「分からん」と、まあくん。運転手は車から降りて、確かめに行った。「おおっ、4WDに変速するパイプを持ってるよ!」と、まあくんは後ろを見ながら言った。「えええっ??大丈夫なの?」「うううんん。これは運が悪かったなあああ」緊張した空気の中、運転手がエンジンを掛けてアクセルを踏む。車が前進すると共に、安堵の空気に変わった。photo:We took this car. Actually while we are driving a connecting shaft fell down....but this is not the worst...because the other car ran out of gasoline in middle of dessert....we couldn't believed it...しばらく行くと、エメラルドグリーンの湖が現れた。この湖は外見の美しさとは反対に、毒のかたまりらしい。ハンスが気を利かせてくれて、私達の写真を撮ってくれた。液晶画面を見ると、バックと私達のバランスが上手く撮れている。「あれ?偶然にしては上手く撮れてるね」と、私は喜んだ。「ハンスは良いカメラ持ってるから、ちゃんと構図を考えて撮ってくれたかもね」そして更に走っていくと、今度は赤い湖が遠くに見えてきた。「湖までは車で行けないので、宿に着いてから各自歩いていって下さい」と運転手。宿へ着き、車を降りてちょっと歩くと体が重くて仕方がない。「ねえ、なんか息が切れるんだけど??」「ここはもう、標高4500メートルだからね。優美ちゃん、そんなに高いところ初めてでしょう?」「富士山に登ったのが最高」「ってことは、3800メートル」赤い湖に行くのは諦めて、先に昼食をとることにした。1時間ほどすると、もう一台の同じツアーの車が到着。隣のテーブルで、何やら興奮してハンスとナタリーに事のいきさつを話している。「どうしたの?」と、まあくんはナタリーに聞いた。「ガス欠で立ち往生してたらしいわ。たまたま私達の運転手がパイプの修理で戻ってる途中に車を見つけてガソリンを供給したんですって」「いったいどういう意味??ガス欠って。。。。。。出発する前に気付くでしょう?」と、私は驚いた。「オーナーにガソリンが無いって言ったにもかかわらず、出発させられたって運転手の話よ」と、ナタリー。「そんなバカな。それはきっと、運転手の言い訳だよ。ありえないでしょう」と、まあくん。「でも、私達の車が戻ってなかったら、砂漠の真ん中でどうなってたの??」と、私はまあくんに聞いた。「うん。それは洒落にならないねえ」「あっちの車じゃなくて、良かったああ……」と、到着したばかりの5人の怒り絶頂の様子をみながら、私はつぶやいた。
2008.01.03
コメント(0)
チリの首都サンチアゴから夜行バスに乗って24時間、標高2500メートルのサン・ペドロ・アタカマという砂漠の小さな街へ着いた。私達にとって、この街はボリビアへの中継地点。大した期待もせず小さな街中を歩いてると、火星のような殺伐とした崖の上に巨大な満月が撮されてるポスターを目にした。「なにこれ?超幻想的なんだけど」と、思わず私は近寄った。聞くと、どうやら砂漠ツアーでお目にかかれるらしい。私達は翌日の夕方のツアーを、早速予約をした。「優美ちゃん、ついでにサンドボードもやろう!アフリカにいるときから気になってたんだよね!」「はあい」と私はさほど乗り気ではないけど、同意した。と言うわけで、翌朝朝一番で4WDに乗って砂丘まで。。。。photo:sand board in Atacama in North Chile 「スノボーとは違って、重心を常に後ろにしながら滑っていくのがこつです」と、インストラクターが砂丘を登り切ったところで説明しだした。私達他約15名が、ボードにロウソクを塗った後、次々とトライ。でもみんな、フラフラしながら途中で転倒。そんな中、唯一まあくんは転倒もせず下まで辿り着いた。さすが、まあくん!うふふっっphoto:you have to walk to the top of the dune each time...so tiring.滑った後は2500メートルの標高だというのに、砂に足をとられながらひたすら砂丘を登らなきゃいけない。「こんなの一度だけの体験で十分だね。どう考えたって疲れるだけだよ」と、私は息をきらしながらやっと辿り着いた頂上で言った。「まあ、予想どおりだよ」と、ボードにろうそくを塗りながらまあくんは答えた。そして7回ほど往復したころには、まあくんはすっかりインストラクターと変わらないくらいに滑ってるではないか。「あいつ、誰だ?」と言うインストラクターの声に、他の人が「MASAだよ」と返答。私はそれを小耳に挟みながら、思わずほくそ笑む。ふふふ…..昼にはサウンドボード終了。宿に戻り、お次はサンセットツアーへ参加。「楽しみだな~。ところで、今日の月はどんなんだ??」と、私は車の中で言った。「ううん。満月ではなさそうだなあ。考えてみたら三日月とか見てもおもしろくないかもね。申し込む前に確かめればよかったなあ」「まあ、でもあれだけ大きかったら、三日月でも悪くないよ」スターウォーズの撮影現場?と思わせるような数カ所のビューポイントを廻った後、目的の場所バレ・デ・ラ・リューナ(月の谷)へ。写真で何度も見た、大きな崖が見えてきた。photo:Valle de la lune.あそこの右上あたりに、月が現れるはず。うまく写真に納めないと!!ビューポイントへは、10メートルくらいの岩を昇っていった。頂上へ着きガイドに今日の月はどんなのかを聞いた。「今日は、月が現れない日なんです」と、吹きざらしの頂上でガイドは言った。え??スペイン語で聞いてるし、聞き間違いかな??「いや、ええっと、満月?三日月?どんな大きさかなあ?」と、私は言い直してみた。「あと15日程しないと、大きい月は見られないんですよ」ちょっと待ってよ。「もう一回、ゆっくり言ってくれますか?風が強くて、聞き取れない」「ちょうど今日は月が見えないんです」ええええええええっっっ!!!???話が違うっっ!「まあくん、やられたっっっ!」「どうしたの?」「今日は月が見れないって!」「何言ってるの?」と言いながら、まあくんもガイドに再び同じ質問をしだした。「よく分かんないけど、今日は月が見れないみたいだね」とまあくん。「そういうのはツアーを予約する時に説明するもんじゃない?単なる砂漠ツアーなら、死ぬほどアフリカでやってきたよ。ったく、よくも月の谷なんて名前つけたなあ」と私はなかなか怒りが治まらない。「ちなみに月の谷と呼ばれてるのは、景色が月面に似てるからだってパンフレットに書いてあったよ」と、まあくん。そうきたか。そして最後は気を取り直して、夕陽を見るのに絶好のポイントへ……..行くには、またひたすら砂丘を上り続ける。photo:I don't want to walk any more!砂丘上りは、もう勘弁してええええと言っても始まらないので、ひたすら上り続ける。やっっと頂上へ到着。そして強風の中待ち続けること1時間半。(待ちすぎだよおお)やっとのこと、夕陽でそまった渓谷を見ることができた。
2008.01.02
コメント(0)
「もう、お手あげだあああ!この地図にはその住所がのってないっ!」と言いながら、私は探すのを諦めた。まあくんは何も言わずに、そのまま運転を続けてる。無言の威圧とでもいおうか。ったく。 再び地図を見だした私。 既にワイン説明ツアーの予約時間になるというのに、まだワイナリーの場所が分からないのだ。そもそも移動も含まれてるワインツアーに参加すれば、道に迷うなんてことは無いのだけど、そうなると、お気に入りのワイナリーには行けないというのが難点だ。 というわけで、私達は自力でチリの首都サンチアゴからワイナリーに向かっているのだ。 「あれ?この道を真っ直ぐ行くとそのうちコンチャ・イ・トロっていう道に変わるみたいだけど。ってことは、ここに沿って行けば、コンチャ・イ・トロのワイナリーに着けるんじゃない?」「じゃあ、その道をずっと追って、その住所探してみてよ」と、まあくんは感情を抑えながら言う。2枚ほどページを開いていくと、もうそれ以上の範囲がのっていない。「やっぱり無いって!!!誰かに聞こうよ!」人に聞くのを何故か嫌がるまあくんは、「じゃあ、優美ちゃんが聞いてね」と苛立ちを抑えながら言った。 それから走ること10分、私は道行く人に行き方を聞き、やっとワイナリーへ着いた。チケット売り場へ走っていくと、先方は既に私達の名前を確認していた。もう英語の説明コースは出発してるけど、10分後にはスペイン語のコースがあるというので、それに変更してもらった。 ガイドのお姉さんについて、まずオーナーのお城のような家や庭へ。 photo:winery in Santiagoそして、ブドウの畑へ。「カベルネソーヴィニョンの種は、フランスから持ってきた物です。ところが本家本元のフランスの種は病気で途絶え、結局ここの種をフランスへ持ち帰ったとのです。ですから、ここの種はワインの歴史でも非常に大切な地位をしめているのです」と、おねえさんは誇らしげに説明。 つづいて、ワインの貯蔵庫へ。「私達の主力の銘柄にディアブロというのがあります」ちなみにディアブロとは悪魔という意味。「その名前の所以はその昔、怠け者の従業員達がオーナーの目を盗んで毎晩ワインを飲んでました」と、ガイドのお姉さんは説明しながら、古い貯蔵庫へ私達を促した。「頭を悩ませたオーナーはある日毛布をかぶって真夜中に脅かすために現れました。すると従業員は悪魔が現れたと勘違いして、それ以来ワインを盗み飲みするのをやめたんです。ここが、その場所です」古いワインが左右に並んでいて、赤いライトで悪魔のシルエットを映し出している。観光客が、入れ替わり立ち替わり、シャッターを押していく。そして、最後はバーでテイスティングをしてツアー終了。「しかし、10年前に来た時は、こんな立派な門なかったのになあ」と、まあん。「へええ。ところで次のUNDURRAGAのワイナリーに行く前にご飯食る?」「いや、また道に迷ったら困るから、着いてから食べに行こう」「だね。じゃあ今回は住所を地図で確認してから出発しよう!!」そして再び走ること30分。高速道路を降りて、予定通りメイピーヤという通りに到着。ところが、今度は番号が見あたらない。 「まあくん、4000番まではあっても、32番は無いよっっっっ!!!」「そんなはずないって!!その先をずっっと探してよ!一度名前が変わってまた戻るって事もあるんだから!!」前も後ろも見たけど、やっぱりそんな番号は載ってない。その間にも、どんどんまあくんは車を走らせてる。「まあくん、やっぱり無い!!!誰かに聞こうよっっっ!!!!」「誰にでも聞けば分かるってもんじゃ無いんだよ!」人に聞くのを嫌がるまあくんを説き伏せて何人かに聞いたけど、どうも説明が怪しい。最後にガソリンスタンドにいたオジサンに聞くと、UNDURRAGAのワイナリーは遠い。といって、さっき通った高速道路に戻るように説明してくれた。 「ってことは、メイピーヤって、他にも道があるんじゃないの??」と、いいながら、再び高速道路に乗った。「この地図にはこのほかには無いよっっ!!でも、この広告には出口がMALLOCOって書いてあるから、そこで降りればいいんじゃないの?」「それは違うルートだよ!!今、どの辺走ってるか探して!!」私は必死で探す。「どうやらサンチアゴに戻ってるよこの道っ!」 いったん降りて、再び道を聞くと今度はルート78に乗るように言われた。数回間違って、やっとルート78に乗ると「優美ちゃん、どこで降りるか調べて!」と、まあくんが言った。また必死で探す。「このまま行くと、さっき言ってた出口MALLOCOがあるよ!!」広告に載ってる名前と同じなので、私達はやっと安堵した。「ツアーの時間に間に合うかなあ?」と、私が聞くと、「もう無理だよ」と、まあくん。「じゃあ、もう帰ろうよ」と言っても、まあくんは向かったまま。 そこのワイナリーは、以前からまあくんは行きたいと思っていて、その思いは捨てきれない。その後2度ほど間違ってやっと着くと、最終ツアーは既に始まって40分が経過していた。受付のおねえさんが、最後の試飲を一緒にするように勧めてくれたので、その間ちらりと屋敷内を見学。「まあ、ワイナリーの説明なんてどこも一緒だからいいでしょう」と、まあくん。「まあね。しかし、自分たちで来ると、こういう目に遭うという危険性もあるんだねえ。せっかく余裕を持って向かってたのに」そして、ツアーの観光客が戻ってきて、私達も一緒に3種類のワインを試飲。まあくんは、最近市販では買えなくなったお気に入りのワインを購入。そして、私達は車へ乗り込んだ。「でも、ここにこれてよかった」と、まあくんは言いながらアクセルを踏んだ。
2007.12.31
コメント(0)
「イースター島一週間滞在は長いなあ~」といいながら、私は朝食を食べ終えた。 「しょうがない。今日はスクーターでも借りて、南へ行ってみよう」と、まあん。 あやしい曇り空の中、私はランチの買いだしへ行き、まあくんはスクーターを借りに行った。 エンパナーダを注文してテラスで待ってると、突然強い風とともに雨が降り出してきた。 あちゃあ~ まもなくウィンドウブレーカーを来たまあくんが現れた。 しかもちゃんとスクーターにまたがってる。 「あのさあ、普通、レンタカーにしようと思わない?」と、私はほおづえをついたまま近づいてくるまあくんに言った。 「借りた後に雨が降ったんだよ!」と、うざそうに答えながら私の隣に座た。 「じゃあ、換えてもらえばいいじゃん」 まあくんは、うざそうに立ち上がりながら再びレンタカーショップへ。しばらくして、まあくんが小型4WDに乗って戻ってきた。 温かいエンパナーダをパーカーでくるみ「随分時間かかったね」と言いながら車へ乗り込んだ。 「スクーター借りた店に車がもう無かった上、おつりがなかったんだよ!後からとりに行かないと」と言いながら、まあくんはアクセルを踏み出した。 「で、新しい店で契約書書いて、マジでうざかったよ!優美ちゃんはいいよね。換えてって言ったら自動的にかわるんだもんね」と、イライラしながら車を走らた。 「大変だったね。有り難う、まあくん。でも、車に換えてよかったね」と、さらに激しくフロントガラスに打ち付ける雨の中、私は言った。 「うん」と言いながら、海岸線の所でまあくんは車を止めた。 私達は早速、まだ暖かいエンパナーダを食べ出した。 「いったん部屋へもどって待機する?」と、私は雲で覆われてる南方を見ながら言った。 「いや、北のビーチへ向かおう」 「ああ、あっちなら晴れてるかも」 ランチをすますなり、私達は既に何度も走ったことのある道を北へ30分走った。 すると、予想通り青い空が見えてきた。 「メインのビーチではない方へ行こう」と言いながら、まあくんはハンドルをきった。 岩陰にある10メートル程のビーチには、カップルが一組いる。 そして浜辺でお昼寝すること30分。 そろそろ車へ戻ろうとすると、再び雨が降ってきた。 「運良く雨かわせたなあ」 「スクーターなんか借りてたら、今頃びしょ濡れで部屋に戻ってただけだったね~。私の的確な判断のお陰で楽しい思いができたね~」 「優美ちゃんの言うこと聞いてたら、今頃部屋で待機でしょ」 「北なら晴れてるかもって言ったでしょ」 などなど言ってる内に再び現れた青空の下、メインビーチのモアイが見えてた。「あっ!車止めて!ここからだと、海とモアイが一緒に撮れる!」小高い山の所で停車。 前回よりお気に入りのショットが撮れた。 暫くしてお次は、石切場の山へ。 「やっぱり、青空の下で撮る写真は、全然違うな~」 「そろそろ南の方も、晴れてるかもね」と、私は言った。 「行ってみるか」 予想道理、こちらも晴天~! 火山の上に出来たカルデラ湖が美しい。 「まあくん、きょうは雲も無いから、夕陽とモアイ像が撮れそう!」 「だねえ。じゃあ、もう行った方がいいよ」私達は、宿の近くにあるモアイ像へ向かった。 そこには、夕陽ショットを待ちかまえる観光客が集まっていた。 私達は撮影ポイントを考えながら、広い敷地をあちこち吟味。 3種類のモアイを一つのカメラには抑えられない。 短い夕焼けの時間に、いかに効率よくシャッターを切っていくかが勝負。 「ここいいよ!5体のモアイの真ん中辺りに太陽が沈みそう!海もバッチリ入る!」と、私は記憶にとどめ、さらに違うポイントも探しながら走り回た。だんだん夕陽が傾いてきた。 シャッターを押していく。 「優美ちゃんカメラかして!あっちのモアイ撮ってくる!」 まあくんが走っていき、もう一つの小さいカメラで撮ろうとしたら電池切れ。 ったく、つかえない。 戻ってきたまあくんと記憶したポイントへ戻ると、そこには既にプロの撮影隊が陣取っているではないか。「やられたああああ!あそこからだと、バックの海の量が多く撮れるのにいいい」 これだけ広い敷地の中、私とプロが選んだポイントが同じ。 私ってセンスいいな~という、違った意味での満足感を味わいつつ、私達はさらなるポイントを探しながら走り回った。 望遠レンズがない中100枚以上撮って、この辺が最高のできでしょう。 雲の感じがよくでてるな~。写真を撮り終えると再び雨が降り出した。
2007.12.30
コメント(2)
今日は、スキューバーダイビングをすることにした。まあくんは、もう既に100回以上は潜ってるのでお手の物。しかし、私は昨年タンザニアで15年ぶりに潜り、危うく窒息死しそうになった。(ちょっと、大袈裟かな?)というのも、ほぼ初心者状態にもかかわらず、中級者と一緒に練習無しで潜ろうとしたからである。で、今回は迷った結果、二人で100ドル払って初級コースをとることにした。「今回は、ダイブを初めてやる人もいるから大丈夫でしょう」と、まあくん。「うん」「明日は中級者のスポットへ行くから、優美ちゃん頑張ってマスターしてね」「うん」表情を変えないで言う私に、「高いお金払うんだからね!!だいじょおぶうううう?」と、まあくんは私の体を揺さぶる。photo:Easter Island Diving 「うん」と、私は同様に答えた。とはいえ、潜るの怖いなあ。。。。。また、息できなくなったらどうしよう。。。。。。と不安が過ぎる。ダイブショップへ行き道具を選び、ボートへ乗り込んだ。幸い、今日は私達以外、二名しかいない。海を覗くと、なんと1メートルくらいの亀が一匹優雅に泳いでる。「なんか、期待できるね!」と、私はまあくんに笑顔で言った。「ん?まあ。。。。」と、まあくんはそっけない返事。ったく、人がせっかく気持ちを前向きにもりあげようとしてるってのに。。。。。まあいいや。。私達を乗せたボートは、10分ほどでダイブスポットへ到着。怖いなあ怖いなあ。。。。いやいや大丈夫大丈夫。。。。落ち着いて普通に呼吸すれば大丈夫だから。。。。。。などなど思いを巡らしてるうちに、あっという間にみんな用意万端。「行きましょう」というかけ声と共に、次々とボートから海へ飛び込んでいく。ゲッッもう早??心の準備が出来てないよおおおううううう、なんか既にウェットスーツで締め付けられて息苦しいのにいいいいっっ!!怖いよおおお怖いよおおおおおいやいや、ここで出来なかったら、この先行くカリブ海でも出来なくなっちゃう。えええええいっっっ!! ザッパアアアアアアアアアン水温は21度のわりに、5ミリのウェットスーツは冷たさを感じさせなかった。しかし、私の心臓はストレスのせいか、バクバクと鳴っている。酸素マスクを口でくわえ息をすると、案の定息苦しい。まじかよ。。。こんなんで1時間近くも呼吸すれっての??やだなやだなやあな~途中であくびとかしたくなったら、どうすれっての??ふと10メートル程の海底を見ると、コバルトブルーでものすごく綺麗だ。そうだ、息のことは忘れて綺麗なものを考えよう。。。。。と、気を取り直してると、インストラクターが私の空気調節器を調整して下に潜らせようとしだした。だんだん不安がつのってくる。うわああっっっ、どんどん下がっていくよおおおおっっっ!!!耳抜きしなきゃ いたたたたたっっっ!!私は慌てて耳抜きをした。インストラクターの指が、私の耳抜きは大丈夫か?と指で合図をしてくる。それに答えてるうちに5メートルほどの海底までついた。大丈夫か?という合図に、もうだめだから上へいったんあげて!!と言いたいのをぐっとこらえた。合図をしないでいると、今度は直接目を見て大丈夫か?という合図をされた。安心感のある眼差しのせいか、不思議と不安が少し緩和された。そして大丈夫と合図した。なんとかなるかな?左手をインストラクターに捕まれて、前へ進み出した。定期的な呼吸と、その泡の音だけしか聞こえない海の中の世界は、リラックスしてれば気持ちいいのだろうけど、緊張してる私にはリラックスしなきゃしなきゃという思いで必死だ。あんまり呼吸にとらわれずに、他のことを考えなきゃ!!と思っても、そんなに魚がいない初心者のポイントでは、気をまぎらわせてくれるものがない。。。。。しばらくすると、大きな珊瑚が左右に現れてきた。こんなに大きな珊瑚の大群は見たことがないなあ。。。。。もうしばらくすると、珊瑚が無くなってて、死んだ海のような雰囲気になった。ああ、こんな風に、このまま死にたくないなあ。。。。。。このまま死んだらやだなああ。。。。。うっっ苦しいっっっ苦しいよおおおおおっっっふと隣にいるインストラクターと、今日初めてダイブするおねえさんの顔が視界に入ってきた。不思議とふたたび落ち着きを取り戻すことができた。。。。。大丈夫大丈夫、彼女だってやってるんだから、大丈夫。。。。。。。インストラクターの指示方向を見ると、亀が気持ちよさそうに手足を動かしながら上方に向かって泳いでる。気持ちよさそうだなあ~と思いながら、亀と同じリズムで呼吸をしてみると、だんだん息苦しくなってきた。。。。やばいやばい、亀は見ないでおこう。。。。こっちのリズムがくずれる。。。。。。しかし、あとどのくらいで戻れるのかなああああ。。。。。30分くらいはありそうだなあ。。。。。。腰の重りが左へずれるのを時折直しながら、必死で気持ちをコントロールするんだけど、時折やってくる恐怖感だけはコントロールしきれない。。。。明日は、まあくんには悪いけど、中級者スポットでは潜らないでおこう。。。。明日は潜らない潜らない。。。。。潜らない潜らない。。。。。いやいや、もっと前向きなことを考えないと。。。。。。あ、黄色い変わった魚だなああああああここの、巨大な珊瑚と珊瑚の間なんて、写真とかにでてきそうだなああ。。。。。。方向転換をして、珊瑚の間を通り抜けていった。そしてインストラクターの指示の先を見ると、海底に水玉模様のふぐみたいな魚がいる。あはっかわいい。。。。。一生懸命泳いでるよ。でも。。。。。もう、魚はいいよ。。。これ以上、見たってしょうがないから、この息苦しいのなんとかしたいなあ。。。。。でも、方向転換したばかりだから、まだ半分か!!????などなど思っていると、再び息苦しくなってきた。やばくなってきたなあ。。。。。。この状態でまだ半分なんて。。。。。。。しばらくすると、インストラクターが私の酸素値を見せてくれ、100をきるので上へあがると指示をした。やっったああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!早く着かないかな早く着かないかなあああと、思った途端、気持ちが大分軽くなってきた。。。。。。上へ昇るにつれ次第に太陽の光が多くなってきた。も大丈夫、もう大丈夫。。。。。。。あああああああああ、もう少しで海面に到達だああああああああ辺りが光で白くなり、私の頭がついに海からでた。と同時に酸素マスクをはずし、思いっきり息を吸った。はああああああああ、やっぱり普通の空気はいいなああああああ続いて、まあくんやもう一人の男性も出てきた。ボートに乗り込むと、まあくんが、「俺のレギュレーター、息を吸うたびに水が口に入ってきて超うざかったよ。でも途中で予備用があるのを思い出して、とりかえた」と、言った。「マジで!!??そんなの私の身に起こってたら、パニクっちゃうよ」と、私はゾッッとしながら言った。「どうだった?今日は?」「うん、もう早く終わって欲しくって、しょうがなかった。明日は、やらないよ」「えええっ?ちょっっとおおお。じゃあ、中級者はいいから、もう一回初心者レッスンとってよ!」「やだよ。たいして観るものが無いから気がまぎれないよ。呼吸のことばっかり気になっちゃう」「今やっておかないと、また一に戻っちゃうでしょおおおお」「明日はやらないって、さっき心に誓ったの」「じゃあ、俺一人で行ってくるよ。写真に載ってた岩場に行きたいんだよね」 「いってらっしゃ~い」と、私の気持ちが揺らぐことは決してなかった。
2007.12.28
コメント(11)
「Ken、ちゃんと起きてるかなあ?ちょっと、見てくる」と、まあくんはいいながら、部屋からでた。朝日に照らされるモアイ像を見にいこうと昨日Kenから提案され、私達は朝5時に起きて準備万端だった。「まだ寝てたよ」と、いいながらまあくんが戻ってきた。「え?自分から誘っておいて、かわってるねえ」それから15分くらいでKenが、「おはよう」と言いながら、サイクリング用のヘルメットとサングラスをして、暗闇から現れた。「メキシコ人は誘ったの?」と、私が聞くと、Kenは首を横に振った。「Good。4人じゃ乗るの大変だなって思ってたんだよね」と、私が言うと、Kenも分かってるというようにうなずいた。二人乗り禁止とかいてある4WDのモーターバイクに三人で乗り込み、いざ出発。空には、どんよりとした雲がところどころある。一台も車が通ってない通りを、まあくんが慎重に運転。「雨降らないといいけど」といってる矢先に雨が降り出した。「ひどいなああ、結構降ってきたよ。戻る?」と、一番雨を全身に受けてるまあくん。「うううん。結構モアイまで距離があるから、そのうち止むかもしれないし」と、私。「行こう行こう」と、Kenは一番後ろで気楽に行っている。そのまま進んでいくと、10分程で雨は止んでくれた。さらに30分程行くと、昨日の夕方見た15体のモアイ像が、ひっそりと立っているのが見えてきた。水平線をみると、雲がかかっているようだ。「今日はだめそうだね」と、まあくんが言った。とはいえ、一応朝日の時間まで待機。モアイ像の背後を、徐々に薄明かりが照らしてきた。「ううん、やっぱりイマイチだなあ。。明日にでもまた戻ってこようか」と、私はまあくんに言った。「そうだね」ある程度写真をとり終えると、イースター島のメインである、モアイ像がつくられた火山へ行くことにした。昨日のツアーで既に見学をしていたKenを先頭に、山の随所にある作りかけのモアイ像の解説をしてもらった。4~5世紀頃にこの島に来たと考えられる島民は、最高潮に達したのは12~15世紀。モアイ像を運ぶために、次から次へと木を切り倒したそうだ。そのため自然環境が破壊され、食料危機に襲われた。その結果16世紀頃から部族間抗争にあけくれる。島の原住民が今でも使う辱的な言葉に「昨夜食ったお前の母さんの肉が歯に挟まってるぜ!」というフレーズがある。最終的には、人肉を食べるに至ったのだろう。そんな彼らが残したモアイ像が、山のあちこちに埋まっている。権力誇示の為に造り続けたモアイ像の為、自らの滅亡に至ったという空虚感が山全体に漂ってるかのようだ。 「結構、あちこちに分散してるのね。私達二人で来てたら、相当見逃してるところだった」と、私はKenに言った。 photo: 島で一体だけある、お座りをしているモアイ「ツアーでは行けなかったけど、この先の頂上までいっちゃおう」というKenに私達は続いて、カルデラ湖を通り過ぎ、どんどん上へ登った。 山頂まで行くと、先ほどの15体のモアイ像が背後から日の光を受けて建っている。その周りには何台かの車が集まっている。かつての文明はモアイ像によって崩壊した。しかし残された遺跡は、私達のような観光客を引きつける。そして彼らの生き残りの子孫は、モアイ像によって恩恵を受け続けるというわけだ。
2007.12.20
コメント(2)
愛想は良いけど。裏のありそうな宿のおばさんが勧めてきた半日ツアーは二名様80ドル、そして一日ツアーだと120ドルになる。しかしバイクを借りると、24時間で一台60ドルで行きたいところへいける。となると断然バイクにするでしょう。「あのおばさん、いったいいくらコミッション取ってるか分かんないからなあ」といいながら、まあくんは赤いバイクにまたがった。「ほんとだよ。やられないようにしないと。。。」と私も言いながら、日焼け対策をバッチリして、地図を片手にまあくんの後ろにまたがった。まず、15分くらいのところにあるモアイ像へ。。続いて舗装されてない道を走ること45分。AHU AKIVIという綺麗に並んでる8体のモアイ像が、高台から海を眺めるように立っていた。ちなみに1868年のヨーロッパ人の記録によると、イースター島のモアイ像は部族間の争いで全て倒されていたらしい。つまり、現在あるモアイ像は全て、あちこちの国の援助によって再建されたもの。さてさて、更に40分ほど行くとPUNA PAUという赤い石切場がある。ここではモアイの帽子に当たる部分を作っていた。初期のモアイ像に帽子は無いのだけど、そのうち更に優れた物を造ろうという競争心で造り出したとか。。。。争いの途中で放棄したかのように、作りかけの帽子が無造作に放置されている。更に島の中心をつらぬいてる舗装道路を北に向かうこと30分。真っ白なビーチとココナツの木が生い茂っていた。そして顔つきのちょっと鋭めなモアイ像が、海を背にして並んでた。「なんか、そろそろモアイ象にもあきてきたなあ」と、まあくんは屋台のチキンサンドイッチを食べながら言った。「そうだね。ほぼ半分近いモアイ像は見たようだしね。。。。。残りの五日間、どうする?」「まあ、あとはダイビングでもして、ゆっくり過ごそう」「ゲッッ…..ダイビングかああ。。。。。。」と言いながら、昨年の東アフリカのザンジバールでの恐怖体験が頭を過ぎる。ちなみに、当初はイースター島三泊四日の予定だったけど、一週間にすると飛行機代が半額の5万円になると判明したため、滞在を延ばしたのだ。再びバイクにまたがろうとすると、同じ宿のKen(アメリカ人と日本人のハーフ)とRodorigo(メキシコ人)が一日のツアーバスから降りてきた。軽く挨拶をかわすと、「僕たちはツアーで反対のルートから来たんだけど、この先には日本人の資金で再建されたモアイ像があるよ。」と、Rodorigo。「あそこのは、一番感動的だったよ。僕は明日、サンチアゴまで戻る予定なんだけど、もうイースター島は十分満喫したね」と、Kenは満足そうだ。だろうね。私がトイレから戻ると、「Kenが、明日の朝、日が昇る前にこのバイクで一緒に見に行こうって言ってきた」と、バイクにまたがるなり、まあくんが言った。「え?じゃあ、あの太ったメキシコ人も一緒だよね。。このバイクに4人で乗るの??」「わかんない」「うううん。。無理矢理乗って乗れないこともないか。。。。」「優美ちゃん、前の方に捕まって乗る?」「絶対やだね。。」そして走ること30分。噂のモアイ像15体が、海を背に一列になって、不揃いの姿を現してきた。「あれが島のハイライトかああ。。。」と言いながら、私は車を降りて近づいていった。「日本の機械の会社が宣伝代わりに、モアイ像復活を数億かけてやったって書いてあったよ」と言いながら、まあくんは後ろからやってきて「ちなみに朝日は、ここから昇るって」と続けた。「晴れるといいなあああ」宿まで戻る道中にあるモアイ像は、当時の争いの残骸のように全てうつぶせになって壊されていた。その後は、ネットカフェへ。。。。「あの宿のばあさんに、ツアー料金ぼったくられたって言うレビューが書かれてるよ」と、まあくんは、ホテルの評価が載ってるサイトを見ながら言った。「あ、やっぱり?」「予想道理だなああ」「あははっ、よかったね~。やられないで済んだね~」そして、原住民のダンスショーへ。。。予想外に迫力があった。
2007.12.16
コメント(0)
前日は、朝の3:00までサンティアゴのミロンガ(タンゴのサロン)で踊っていた。そして睡眠無しで5:00には宿を出て空港へ直行。7:00のイースター島行きの便に乗ったときには、もう体力を使い果たしていてシートに座ると共に私は眠りに入っていた。「優美ちゃん、もうそろそろイースター島に着くよ。用意して」と、まあくんは私の腕を揺すった。「え?もうはや5時間半もたったの?早いなあああ」と、私は寝ぼけ眼の目をこすった。小さなトロピカル風の空港へ降り、出迎えにきていた宿のおばさんの車に私達他4名が乗り込んだ。photo:with owner of hostel in Easter Island島のお勧めめレストランの説明をうけながら、メイン道りを抜け、海へ面した宿へ到着。ここは、まあくんの友達のウォルフガングが2ヶ月前に見に来て、私達に推薦してくれてた宿だ。一番お勧めの部屋は一ヶ月前に既に予約が入っていたけど、私達の部屋のベランダからも、海やモアイ像が見えて最高。しかし他の客がベランダの前を通り抜けていくという、唯一の難点があった。。。「ううん。。プライベート感がちょっとないけど、まあ、しゃあないでしょ」といいながら、まあくんは荷物を置いた。しばらくすると、おばさんが笑顔満面でやってきて、ベランダで3つあるツアーの説明をスペイン語でしてくれた。「なんか、あのおばさん、商売商売って感じだね。ツアーの値段、他でも確かめた方がいいなあ」と、まあくんは言いながら、部屋へ入ろうとすると、車に一緒に乗ってきた、メキシコ人とアメリカ人の男性が、一緒に近くのモアイ像を見に行こうと誘ってきた。特に予定の無かった私達は、一緒に行くことにした。だだっぴろい海に面した芝生の道を、私達は歩いていた。10分程歩いて近づくと、4体の並んで立ってるモアイ像が巨大だということに、始めて気付かされる。「これが、噂のモアイ像かあああ。なんか、デザインが可愛いよねえ」と、言いながら、私はシャッターをきる。そこから、ちょっと離れたところにも、もう一体。そして更に奥には、島で唯一、目がついているモアイ像が一体そびえ立っている。「いいなああ、この目つき」と私は満足。何のために、どうやって作ったのか謎だらけのモアイ像。おそらく、村同士の競い合いの為につくったというのが有効な説だ。島全体には、887体ものモアイ像があるらしい。よくまあ、造りにつくったものだ。。。。。
2007.12.13
コメント(0)
「サンティアゴは、観光する物は特になにもないけど、パブロ・ネルーダの家にでもいってみる?」と、シャワールームから出てくるなり、まあくんが言った。photo:Pablo Neruda「誰それ?」と、私は服を着替えながら聞いた。「映画「イル・ポスティーノ」にも出てきてる人物だよ」「知らないね」「絶対見たことあるよ。優美ちゃん忘れているだけだよ」「知らないものは知らないんだよ」「ノーベル文学賞を受賞した詩人だよ!」「へえええ~そうなんだ…….」そしてちょっと間をおいて「すごいじゃん」と、私はつけたしておいた。パブロ・ネルーダは若くして詩人として世界に名を馳せた人物であり、外交官であり、のちに政治家にもなった人物…….らしい。パブロ・ピカソなどを始め、各界での有名人とも交流があったとか。そして1973年のピノチェト将軍による軍事クーデターの際、左派思想だったネルーダの家は没収され、イタリアへ亡命。PHOTO:santiago in chile:House of Pablo Neruda「ここは後に妻となった愛人マチルダの為につくった家なんだよ」と、以前来たことのあるまあくんは、ボヘミア風の地区の一角にあるネルーダの家へ着くなり説明してくれた。「愛人ねえ。まあ、有名で金持ちの男は、ほぼ同じ行動をとるのね。ったく」ガイドに案内されて山沿いにある家を見学すると、どの部屋も船内をイメージしてるらしく、こじんまりしていていた。photo:house of Pablo Nerudaちなみにネルーダ本人は、船を操縦することはできない。そして翌日はレンタカーで、ビーニャ・デル・マールという小さなビーチリゾートへ。車から砂浜を眺めながら「まあ、大したこと無いビーチだね」と私は言った。photo:vina del mar「サンティアゴに来たついでに立ち寄る程度の街で、わざわざ外国からここへくるような場所ではないからね。この次に寄るバル・パライソって街も、こんなもんだよ」と言いながらまあくんはアクセルを踏んだ。photo:valparaisophoto:port of valparaisoバル・パライソで昼食を取った後は、イスラ・デ・ネグラという、海沿いにあるパブロ・ネルーダのもう一つの家をみにいった。「さっき説明したイル・ポスティーノの映画の舞台はイタリアという設定なんだけど、実際はここ、イスラ・デ・ネグラで起こった話というのが真相なんだよ」と、まあくんは再び説明を始めた。「へえええ….」と私は軽く相槌を打っておくと、「本当に分かったの?」と、まあくんは言ってくる。「うん。わかった」と、私が言うと、「じゃあ、説明してみて!」と、ひきさがらない。「ええええっっ!!??うるさいなあああ」「ほらあああ!話聞いてなかったでしょ!」と言いながら、私の肩をつかんで揺らすまあくん。しょうがないから、同じ説明を今度はしっかりと聞くことにした。こちらの家も船をイメージした内装に、世界中を旅したネルーダの、お面、パイプ、昆虫標本などのコレクションが、所狭しと並べられてた。ちなみに全て二束三文の品々。「ネルーダは相当オタクだよね」と、自称アウトドア系オタクのまあくんは、自分の仲間のように喜んでる。リビングルームへ行くと、「ネルーダが病でここの家にいたとき、再び軍人が現れました。しかし、死にかけてるネルーダを見て、そのままにしておいたんです」と、ガイドが説明してくれた。「そして彼の死後、マチルダはこの家に住むことを許可されず、没収されました。でも月に一度は掃除のために来ることを許されていました」「ふううん。先立たれるのはつらいなあ…..。まあくん、絶対私より先に死なないでね!」と言いながら、私はまあくんの腕にしがみついた。「なんだそりゃあ??」と、まあくんは言いながら頭をかしげていた。photo: house of Pablo Neruda
2007.12.10
コメント(0)
10月28日、ブエノスアイレスの空港から、私達はチリの首都サンティアゴ行きの便に乗った。ラテンアメリカの旅を再開するためだ。今回は、チリ~ボリビア~ペルー~エクアドル~コロンビア~キューバ~ジャマイカ~メキシコ~アメリカ~日本を、約4ヶ月で廻る予定。「もう少しブエノスアイレスにいてもよかったなあ」と、合計8ヶ月の滞在をしたまあくんが、飛び立つ飛行機の中で言った。ちなみに私は、前回と今回合わせて4ヶ月の滞在。「たしかに、まあくんも、最後の3週間で、いきなりタンゴうまくなりだしたもんね~」「まあね。老後はアルゼンチンに来て、若いねえちゃん相手に踊ろうかな・・・」ちなみにサロンでは、年期が入ったタンゴの上手な老人と踊りたがる若い女性はたくさんいる。しかし年期の入った老婆は、老人からすら誘われる可能性はまずないといっても過言ではない。つまり老婆は必ず、パートナーと一緒にいくか、タクシーダンサーとよばれる人にお金を払って踊ってもらうしかないのだ。「私だって、70になっても50くらいに見えるように保って、若い兄ちゃんに誘って貰えるように頑張らないと。。。。。」「50に見えたら、もう、誘われないんじゃない?」「じゃあ、40に見えるようにするっ!!」「それは無理でしょう」「そんなあああ!!やだやだやだっっっ!!!じゃあ、しょうがないから、まあくんとだけ踊ってようっと」「ううんん、それはどおかなあ??」「そんなこと言わないでっっ!!私が生きてるうちは私とだけ踊ってよおお!!!」 そうこう言ってるうちに、5時間半のフライトを経て、サンティアゴへ到着。とくに観光都市というわけでもないこの街は、私達にとってはイースター島へ向かう中間地点。とはいえ、あまり急いで移動をしたくないので3泊することにした。長旅で欲張ってあっちもこっちも見ようと一カ所の滞在期間を短くすればするほど、疲れ果ててしまう。。。そんな旅は西アフリカで散々経験した。。。。。と言うわけで、その日は、10日後に乗る予定の長距離バスの切符を購入して終了。。
2007.12.09
コメント(2)
朝8時15分、予定通りバスはハルディンアメリカというバス停で止まった。ブエノスアイレスから北へ、夜行バスで約10時間のところだ。バスを降りると、眉間に皺の入った頑固そうな小柄の日本人男性がいた。photo:my family in Buenos Aires「市太郎さんですか?」と私は聞いてみた。「ああ、はいはい」と言いながら、特に笑顔を見せるわけでもない。「初めまして」と言いながら、私達は握手を交わした。市太郎さんは、私の母の従兄弟で、15才の時、親と共にアルゼンチンに来た。私は5日前に初めて電話で話し、今回二泊三日で彼の家にお世話になることになった。「もろ、日本人って感じだね。」と、さっさと歩いていく市太郎さんの後ろ5メートル程を歩きながら、小さい声でまあくんに言った。「そうかもね」と、まあくん。車に乗り込むと間もなく、「あそこは僕の弟の家で、その隣が倉庫、そしてこっちが僕の経営するショッピングセンターで、その上が僕の家。この辺は、全部うちの土地ですよ」と、市太郎さんが矢継ぎ早に説明する。街のメイン通りに面してる敷地は、ざっと見ても1000坪くらいはありそうだ。「この家は、何度も何度も建て増して造ったんですよ」と、市太郎さんは言いながら戸をくぐり階段を上っていった。確かに、やたらとあちこちに戸があり、豪華な造りというよりも、使ってなさそうなスペースが相当ある。「はい、この部屋使ってね。。一休みしたら、母の家へ行きましょう。食事の用意してくれてるから。。」と市太郎さんは言いながら、バス・トイレ付きのホテルのような部屋を与えてくれた。「その前に、コーヒーでも飲む?」「あ、お願いします」そして私は戸を閉め荷物を置くなり、「疲れた~」といいながらベットへ仰向けになり「父方の親戚(前回のアルゼンチン滞在で知り合った)とは、雰囲気が全然違うなあ~」と言った。「あっちは、奥さんがイタリア系でカルチャーがミックスしてるけど、こっちはどう見たって、奥さんは日本人以外考えられないでしょう」「でもアルゼンチンに小さい頃から住んでいながら、あんなに日本人のままでいるってのも、珍しくない?」「そんなことないよ。外国に住んでると、却って自分が日本人ということを否応なしに自覚させられるからね」「確かにね。。。。。」暫くして、ミルクと砂糖がたっぷり入ったコーヒーをダイニングルームでいただいた。「お子さんはいるんですか?」と私は、友達になれるかなと期待しながら言った。「ああ、そのうち会わせますよ。3人いて、一人は今北海道に研修に行ってるんですよ。みんな、そこそこの日本語は話せます」「あ、私達もある程度のスペイン語は話せますから…..」と、私が言い終わる前に「奥さんはね、数年前に別れました」と、市太郎さんは続けた。「ブラジル系の日系2世でね。。ある日知り合ったブラジル人の男性がいて、ものすごく僕たちに親切だったんですよ。。で、僕はポルトガル語なんてぜんぜん分からないから、奥さんの言うとおりにしていたら、マンションまるごと騙されて持ってかれました。。数億やられましたよ」といいながら、平静を保ちながらコーヒーを飲み干した。「親切そうに近づいてくる人は、絶対に信用しちゃ駄目だよ」と、私達に言い聞かせるとともに、自分にも言っているようだ。「で、奥さんはそれでも、あの人はいい人だって信用してきかないから、下手したらこっちにある財産も生命も危ないと思って、やむなく離婚したんですよ」と、会ったばかりの私達に、隠すようでもなく説明した。「ところで、二泊三日なんて言わないで、もっと長くいたらどうなの?」と、市太郎さんは、嬉しいことを言ってくれる。「残念ながら、5日後にはイースター島へいく飛行機の予約がはいってるので」と、私は説明した。「あ、そお。。。。。あ、もう時間だ。行きましょう」と、市太郎さんは、私達を促した。車で5分くらいのところに、私のおばあちゃんの妹にあたるトメさんの家はあった。綺麗な庭を通り家の中へ入ると、市太郎さんの妹、エイコさんとチエコさんが二人、そして、トメさん夫婦が私達を歓迎してくれた。テーブルには、日本食のようなものがたくさん並んでいて、テレビはNHKの衛生放送が流れている。「今、日本からはどのくらいで来れるの?」と、83才の元気そうなトメさんが私の手を握りながら言った。「いやああ、長いですよ。飛行機で30時間以上かかります」と、私は言った。あ、でもトメさんはかつて船で1ヶ月以上かけてここまで来たんだっけ。。。。。ちなみに、彼女は移住して以来一度も日本に戻っていない。「この家の隣にある土地見た?」と、エイコさんは、ちょっと訛りのある日本語で聞いてきた。「お兄さん(市太郎)が、また家を建ててるのよおお」と、笑いながらつづけた。「家を建てるのが趣味だから。。。変わってるのよお」と、チエコさん。「なあんで、家ばっかり建ててるの?市っちゃんは可哀想だよ。働いてばっかりで」と、トメさん。数億も騙されたというのに、それでも家を建てる余裕があるとは、感心してしまう。。。そしてお腹いっっっぱい昼食を食べると、私達は夜行バスの疲れで1時間ほど休んだ。その日の夜は、市太郎さんの会社の従業員の娘が16才のお祝いでホールを借り切って盛大に行うということで、私達も参加した。(ちなみに女子の16才は、日本で言う20才のお祝い)翌朝は、パラグアイまで市太郎さんの運転でエイコさんも一緒に行き、ランチをとって帰ってきた。そして夜は、ほぼ親戚全員が集まって、市太郎さんの家でバーベキュー。photo: 市太郎さんの息子仕事で忙しいはずの市太郎さんは、私達の面倒をよく見てくれる。。。。「あんたは、仕事は何をしてるの?」と市太郎さんはビールを飲みながら、まあくんに聞いた。「以前はアメリカの金融会社で働いていて、当時働きすぎたので一度止めました。それから世界を見ようと思って旅をしてるんです。。」「旅はいいねえ。。。必ず人生に役にたつよ。旅は絶対にするべきだ。若ければ若いほどいい。僕もヨーロッパを旅したいなと思ってるよ」「でも、かれこれ8年くらい旅してるんだよね」と、私が言うと、あんまりにも想像つかない年月のせいか、市太郎さんの耳にはまったく入らなかったと見え、無反応のまま「日本へはいつかえるの?」と、聞いてきた。「来年の2月末くらいです。。。。」「えっ?4ヶ月間??随分先の話だねえ。。。。。」と、今頃反応。。。「で、帰ったら何をするの?」「以前働いてた金融の世界は、金から金を生み出すだけの生活だったので、もうそんな生活をするつもりはないんです。だから…..」と、まあくんが説明をする前に、市太郎さんは、「金を稼ぐのは簡単だよ」と、切り出した。そして「パラグアイみたいな発展してないところへ行って数年辛抱したら、あっという間に稼げるよ」と、肉をほおばりながら言った。「でもね、仕事の奴隷になったらいけないよ。絶対に、仕事の奴隷はいけない」と、市太郎さんは、まるで自分に言い聞かせるように、私達に言った。ちなみに私達こそ、そんなものから一番遠い人生を送っているんだけどなあ…….市太郎さんは15才の時、親と一緒にアルゼンチンに移民としてやってきて、がむしゃらに働いてきたはずだ。貧困から抜け出そうとした多くの移民がそうであるように、とにかく仕事で成功をするのが人生の目的だったのだろう。そして、彼は数少ない成功者という輝かしい栄光をつかんだ。しかし人生の目的が達成されたと同時に、人生の目的が失われたのだろうか。今、彼は人生の目的を、必要もない家を建てるということに置き換えて、働き続けているように見える。仕事の奴隷というあり地獄から抜け出したいにもかかわらず、抜け出す術を知らないことは、十分自覚しているようだ。仕事をするのは、人生の目的ではなく、人生を謳歌するための手段と捉える西洋人の傾向。それに対し、人生を謳歌するなんて不謹慎で、人生は仕事をするのが目的となっている日本人の傾向。戦後まもなくの貧しい時期なら納得できても、世界でも指折りの豊かな国となった今でも根本的な気質は変わっていないように思われる。市太郎さんのように住む国が変わっても、成功を手にしても、根本的な日本人という気質は、なかなか変わらないのだろう。。。。
2007.12.05
コメント(2)
リオ・デジャネイロに3ヶ月以上住んでたまあくんは、ビザの関係で再びブエノス・アイレスへ戻っていた。成田を出発し、ロス、サンチアゴ(チリの首都)経由で30時間以上のフライトの末やっっっっとブエノスアイレスへ到着。。。。。5ヶ月半ぶりに会うから、ワクワクっっと言いたいところだけど、遠距離恋愛も3年続くと当初の感動というものはちゃんと薄れていくもの。荷物を積んだカートを押し到着ゲートへ着くと、数十人の人達からの視線が集まる。そして5メートル先あたりにまあくんらしき人物を見つけ、私は仰天!!「どうしちゃったの??その頭??」と、笑顔で近づいてくるまあくんに、私は思わず言った。「え??伸ばしてるんだけど。。」といいながら、まあくんは髪を抑えながら近づいてきた。「っていうかさあ、伸ばしっぱなしって感じなんだけど。」と言いながら私は横の髪をつまんでみた。「え?ああ、そういやあ、優美ちゃんと最後に一緒にいた時以来、一度も髪切りにいってないや」「で、なに?そのパンダ焼けのおでこ??日焼けの段差、ひどくない??」「ああ、こないだウォルフガング(ドイツ人の親友)が遊びに来て、一緒にチリまでスノボーしに行ってきた。。頭にバンダナ巻いてたんだよね。。。。」photo:日焼け前 (この日の髪型はいいんだけど。。。。)photo:日焼け後「日焼け止めクリームはつけたの?」「ん?忘れた。。」「鼻の頭、むらになっちゃってるし、耳の裏まで、皮むけてるじゃんっ。。ひっどいなああああ。。。。。ったく。。。どこの原始人が笑顔で近づいてきたかと思ったよ。。。。。」「ああ、そお?優美ちゃんにもらった化粧水、無くなっちゃったんだよね」「もお、久しぶりに会うんだから、ドキドキさせてよねえええ!」「よし。じゃあ、早く髪切りにいかなきゃ」といいながら、まあくんは荷物を持って、待たせておいたタクシーへ乗るように私を促した。こうして私の第二弾ブエノスアイレスの初日が始まった。。。。。そして、まあくんが借りてるアパートへ到着。「やっぱりブエノスアイレスは最高だよ。。物価は安いし、クウォリティーは高いし、スペイン語は通じるし。。。。。」「そうだよね。私も、もうちょっとスペイン語勉強したいしね。。。。」「俺はもう、相当完璧だよ」「あのねえ、そういう私も、日本に帰って直ぐメキシコ人の友達が出来て、しょっちゅう話してたんだから。。。。。そんなに衰えてないよ!!いや、むしろ上達してるから!」と、負けない。「まあ、いいや。。。。。ところでどのくらいブエノス・アイレスにいようか。。。。。。もうちょっとタンゴのレッスンもしたいんだよね~」「そうだね。せっかく踊れるようになってきたんだから、最後の仕上げでしっかり体にたたきこまないとねえ。でないと、まあくん、すぐに忘れちゃうから。。。。。」「あのねえ、優美ちゃんだって忘れてるだろ!」「女性は憶えること殆どないもん。。でも丈夫だからね~。男性のパートは難しいからね~」と言いながら、私はまあくんの頭をなでた。「あのねえ。優美ちゃんはすぐフラフラするんだから、一人でも回れるようにしっかり練習しろ。」「は~いっ」というわけで、二人用の新しいアパートを一ヶ月借りることにした。。。。。。。そして、来る日も来る日も、私達はスペイン語とタンゴのレッスンに明け暮れた。。。。
2007.11.30
コメント(0)
「うわああああ、さっすが噂通りのコパカバーナだねっ!!」と言いながら私は数キロ続く白いビーチを走った。photo:copacabana in Rio de janeiro今回の旅の最終地点、リオ・デジャネイロの巨大なビーチの反対側には高層ビルが建ち並ぶ。とはいえ、日陰一つない海で泳ぐことには全く興味の無い私は、写真を撮ってビーチ観光終了。なんせ、これ以上日に焼けたら日本に戻ったときに仕事が無くなっちゃう。お次は「救世主キリスト像」のあるコルコバードの丘の頂上へ向かった。。しかあし、ここの山頂は、どんなに天気が良い日でも雲がかかってることが多く、なかなかお目にかかれない。案の定、山頂までたどり着いたのはいいが、肝心のキリスト像はすっかり雲の中。「うううううん、なんとか晴れないかな~。。。。晴れろ~晴れろ~」と、私は念力を送った。「こりゃあ、無理じゃないの?」と、まあくん。。。15分くらい待っても一向に晴れる兆しはない。。。。「帰ろう。。。」と、まあくんに促されながらも、私は「晴れろ晴れろ~」と、念力を送り続けた。すると、急に雲の動きが早くなった。「まあくんっっ!!!!ちょっと待って!!!!もしかしたら見れるかもっっっ!!!!」と言いながら私は像の前へ引き返した。「えええっ?」と、面倒そうにまあくんは私に付き合う。。。雲に覆われていた巨大なキリスト像が、その風体を徐々に表した。「やったあああああああ!!」全貌を間近で見上げると、圧倒される。そして5分もしないうちに、再びその姿は雲の中へ隠れてしまった。ううううむ。。。。まるで神通力のような数分だった。。。。。。翌日は、まあくんの念願の、グレーシーのファミリーがやっているというブラジリアン柔術道場へ訪問。。。。。。したけど、休館中。次に、ノゲイラが所属するブラジリアントップチームを訪問することにした。20人程の鍛えられた体の血気さかんな男たちが、各自トレーニングをしている。photo: Brasilien top team (martial art)その中に、何故か場違いな若いお姉さんが一人、筋トレをしている。「なんだろうねえ、あの人。。。。。。」と、私はあまり視線をおくらないように言った。「うううん。。。。わからん。。。。」と、まあくん。アップが終わり、二人一組になって寝技を掛け合いだした。「ノゲイラはいないけど、あそこにいるヤツ、プライドで見たことあるなあ。。結構やってるやつだよ」と、まあくん。。柔術といえば元々は日本のものなので、漢字の入れ墨を入れてる人や、中にはちょっとした日本語を話せる人もいる。まあ、彼らにとっては日本のプライドで有名になるのが夢なのだろうから、日本人の私達としてはなんとなく気分がいいもの。しばらくして、タンクトップを着た男性が入ってきた。「ヒカルド・アローナが入ってきたよ!優美ちゃん、一緒に写真撮って貰えるかどうか聞いてみて」「ええ?やだよおお。。私そういうミーハーなことは嫌いなんだよね」「いいから!俺からよりも、女から頼まれた方がいいんだよ」「ええええ?自分のことは自分でやるのが、私達の鉄則でしょ?」「いいからっっ、ほらっっっ」と言いながら、私の腕を押す。「ったく、しょうがないなあああああっっ」といいながら、入り口近くに立っている彼に聞いてみた。そもそも、私はアローナが誰だか知らなかったけど、彼は喜んで私達と一緒に写真をとってくれた。photo:with a champion Ricard Aronaなんとなく、周りの人達が羨望のような眼差しで彼を見ているような気もする。。。。。恐らく、多少は試合に出てる人もこの中にはいるのだろうから、「写真を撮ってください」と、言われたいのだろう。。。。。「ああよかった。。。。。彼は格闘技界では超有名だけど、一般的にはそれほど有名じゃないから、ファンがいるってだけで嬉しいのかもね。。。。」と、まあくんは急に恩着せがましい。そして、「ちなみにヒカルド・アローナは、アブダビ・コンバットで2年連続優勝してるし、プライドでシウバも破ってるんだよ。ヒクソン・グレーシーの再来とも言われてるし」と、続けたが、私には知らない名前のオンパレードだった。そして練習を引き続き見てると、さっきの女性とアローナが一緒に練習をしだした。「なんなんだ?あのお姉ちゃんは。。。。」と、私は興味をそそられた。「アローナに練習相手をしてもらえるってことは、相当強いのかなあ?」と、まあくん。ところが、よくよく様子を見てると、どうも女性がアローナに技を教えてるようだ。。。。。ううううん。。。。謎が深まる。。。。。。(後に判明したこの女性は、女総合格闘技のチャンピオンだったらしい)「ところで、どうするの?まあくん。。。。ここで習うの?」と、リオ・デジャネイロに数ヶ月滞在予定のまあくんに聞いてみた。「うんん。。。。そうだね。悪く無いかもね。。。。」と、まあくんは自分が習ってるのを想像したのか、嬉しそうに笑顔で答えた。「ま、頼むから、怪我した~とかいって身体障害者にならないようにしてね。。。。。。」と、私は興味全くなしといった感じで答えた。そして、翌日、私は4ヶ月の南米の旅と、まあくんに別れを告げ、3月末日、成田行きの飛行機に乗った。ちなみにまあくんは、その後ブラジリアン・トップチームに2ヶ月間入門。南米日記は引き続き第二弾が始まります。。。。。。
2007.11.29
コメント(2)
「カポエラは、奴隷としてつれてこられた黒人達が編み出した格闘技なんだよ」と、以前に習ったことのあるまあくんは、道端のショーを見ながら言った。「音楽にあわせて、まるで踊ってるかのようだねえ」と、私はしなやかな動きに感心。ブラジルの東海岸にあるサルバドールは、アフリカから多くの奴隷が連れてこられ、未だに貧困にあえいでる黒人の街だ。その彼らが救いを求めたコンデンフレという黒人密教の集会が、毎晩街から数キロ離れたところで行われている。その見学ツアーがあるとかで、私達は参加することにした。10人乗りの小型バスにのり、20時頃出発。30分ほど走ると、いかにも貧困層が住む街へ到着。。。。。ガイドに続いて細いエントランスの道をいくと、個人の家の隣に20畳ほどの広さのホールがあった。ホール内は小学校の学芸会のような飾りつけがしてある。観光客は男女に分かれて、部屋の左右にある背もたれのない椅子に腰を掛けて儀式が始まるのを静かに待った。しかし儀式はなかなか始まらず、待つこと1時間。。。。。待ちくたびれた頃に、やっっっっと真っ白いウエディングドレスのような衣装に身を包んだ男女が登場。そして二人一組ずつ床にはいつくばって、入場の挨拶をしている。15人くらいの男女が円を描き、各自目をつぶりながら自由に踊り出す。次第にトランス状態に入っていくようだ。私は、どんな事が始まるのかと興味をそそられた。30分経過。。。。。。彼らは、同じように踊り続けている。そして1時間経過。。。。。。とくに変化もなく、彼らは踊り続けている。。。なんか、お尻が痛くなってきたなあ。。。。。。そろそろ終わってくれないかなあ。。。。。。すると太鼓の音が止むとともに信者たちが踊るのを止め、床に座りだした。。。。。終了かと思いきや、どうやら休憩時間のようだ。。。。。。こんな所に座ってられない。。。。外へでよっと。。。。。しばらくして「もう飽きた。。。。」と言いながら、まあくんが私の方へ近づいてきた。「もうこの踊りは十分だよ。。。。多分、他の観光客も飽きてるはずだから、みんなで一緒に帰ろうって聞いてみようか?」と、私は言いながら観光客の様子をうかがった。案の定、もう帰りたいという反応。。。。ところが肝心の運転手が見あたらない。。。。。。「おそらく儀式が終わるまで戻ってきそうにないね。。。。。」と、まあくん。「勘弁してよ~。。。。お腹も空いてきちゃったよおおおおおお」と私は言った。次第に雨が降りだし、仕方なく全員元の席へ戻り、儀式の続きを鑑賞。。。。。。前半より衣装は派手になったけど、やってる内容は全く同じ。。。。。。。背もたれのない椅子に座っているのが絶えられなくなったので、私は再び外へ出た。次々と他の観光客も、私の後に続く。。。。。もう、うんざり………というのが雰囲気で伝わる。。。。。相変わらず運転手の姿は見えない。。。。「どうしても終わるまでいなきゃいけなさそうだね。。。。」と、まあくん。。。。。間もなく雨が止むと、ホールに隣接している家の方へくるようにと促された。「ご飯とかあったら嬉しいのにな~」と、私は言いながら傾斜している道を上った。行ってみると、なんと本当に食事が用意されてるではないか!!!!しかも、お肉の量もたっぷり!「これは、嬉しいねえ。」と、まあくんも急に笑顔になる。そして私達が食べている間も、ホールではさらに人が増え、儀式が0時過ぎても続いている。。。。。。もちろん、観光客は食事が終わり次第、やっと解放?され、無事帰りのバスに乗ることができた。。。。。
2007.11.27
コメント(0)
photo: Belem , Brazilアマゾン川下流の主要港である.ベレンの空港へ着くと、蒸し暑い空気が漂う。「まあくん、大丈夫?」と私は荷物をタクシーに積みながら聞いた。「ううん、だめ。。。。。。今日は何もしないで部屋で休んでる」と、まあくん。実はアマゾンから帰る途中あたりから、急に体調をくずしたのだ。翌日になっても回復しないまあくん。「優美ちゃん、一人で観光しておいでよ」と、まあくんは地元で買った薬を飲みながら言った。「やだね~。一人で行ったってつまんないもん。」と、言いながら私はパソコンに向かった。「ベレンなんて、もう二度と来ないんだから、ほらああ、行っといでよ!ほらあ!!ったく、俺がいないと何にもできないんだからああ。。」「うるさいなああ。まあくんがいなければ、一人でなんでもできるんだよ。」「じゃあ、行っといでよ!!」「ええええ!!??」という、まあくんの執拗なプッシュのせいで、私はどこかへ行くはめになった。。。「しょうがね~な~。。。このエミリオ・ゴエルディ博物館とやらへ行ってきてやるよ」と、私は捨て台詞?をはきながら、「行ってらっしゃい~」と言うまあくんを残して、いやいや部屋を出た。この博物館は1866年設立、民俗資料や動物園で世界的に有名。。。。らしい。。。タクシーに乗って、緑で鬱蒼としている博物館の前へ到着。photo: museum入り口で切符を買おうとすると、「博物館は休館中です。でも庭と動物園は見れますよ」と、おじさんが説明してくれた。動物園とはいっても、博物館に隣接のしょぼい動物園で、私はさっさと一周して戻ることにした。「ちょっっとお!!ひどい目にあったよっっっ!!」と言いながら私は部屋へ勢いよく入っていった。「どうしたの?」と、まあくんはパソコンを止めて私の方を向いて言った。「わざわざ行ったのに、休館中だったっっっ!」「大変だったねえ~」と、人事のように言い「何も見れなかったの?」と、まあくんは続けた。「ん?なんか、亀とか見てきた。。。。」「それだけ?」「あと、見たいと思ってた植物もあったから、写真にとってきた。。。。。」「どれどれ。。。。。」とカメラを覗き込み、「あ、いいじゃんこれ。」と言った。「。。。。。。うん。。。。」そして「優美ちゃん、「行った甲斐があったねえ。。」と、わざとらしく私の頭をなでる。「。。。。。。。。」「さて、腹減ったな~。。。どこかへ食べに行こう!!」「えっ?まあくん、体調悪いんだから、ちゃんとベットに寝てなよおおお!!」「大丈夫。もう、大分直ったっ」「何だそれええええええ??大したことなかったんじゃないのお??」「いや、さっきまで、すごく辛かった。薬が効いてきたんだよ」と言いながらガイドブックを調べるまあくん。。そして、私達はまずベレンの港を一望できる要塞を、閉館間際に見学。。。。その後その隣にある街一番のレストランで夕食をとった。。。。。どうやら、まあくんは単なる風邪だったようだ。
2007.11.26
コメント(0)
「昨夜寝てるときに、コウモリが来たのわかった?」と、インディアン青年は朝食を取ってる最中に言った。photo:Breakfast in Amazon jungle 「あ、そういえば夜中にパタパタしてきたの、あれ、コウモリだったの?」と、私は言った。「そう。ああやって風を送って体温をさましてから噛みついてくるんだよ」もちろん、私達はモスキトーネット(この場合はコウモリネット??)でプロテクトされてたので大丈夫。それにしてもアマゾンのジャングルで一夜を送ったわりには、とくに危険な目にもあわなかったし、予想より超楽勝。。。。というちょっと肩すかしな印象をいだきながら、ロッジへ向かうボートへ乗り込んだ。「前回ツーリストを連れてあそこへ泊まったときは、非常に危険な毒蛇がいたんだ。」と、インディアン青年が言った。「ど、毒蛇??」と、私は聞き返した。「僕は命がけで一匹殺したんだ。でも蛇はつがいで行動するので、もう一匹が夜通し近くで鳴いてて、いつ襲われるかと思って一睡もできなかった。」「え?それ、ツーリスト達はびびってたんじゃないの?」と、まあくん。「いや、彼らにはあそこを去るまで一言も言わなかった。言ったらパニックになるでしょう?僕はあまりに恐ろしくて、その後ずっとあそこには行ってなかったんだ。」「ひえええ、洒落にならないなああ。。。」と私は言った。「あと、あそこの隣の島では、40年くらい前まで石油が出て、50人くらいの人が住んでたんだ。」と、いいながら青年は指を指した。「でも、ある日娼婦がいなくなっんだ。そして一ヶ月後もう一人違う娼婦が姿を消した。その数日後、近くで鹿を食べたばかりのアナコンダがお腹をパンパンに膨らませているのを島の人間が見つけたんだ。」「え??まさか………」「二人とも、アナコンダに食べられたんだ。。。。。」「ええええっっ??人間食べちゃうの???」と、私は驚いた。「そう。まず、首をねらって巻き付き息の根を止める。そして死んでから食べるんだ。」「ひええええええええええ」「この辺りの川でも、以前知り合いが一人でボートを漕いでいて、水中を泳いでたアナコンダに体当たりで攻撃されてボートが転覆したんだ。」「で、どうなったの?」「ラッキーなことに、川岸の近くだったので、あそこの家に逃げ込んだんだ」といいながら少年は岸辺のところにある掘っ立て小屋を指した。「この辺で???ってことは、今、私達がアタックされてもおかしくないの??」と、聞くと、青年は特になにも言わない。「ちょっとちょっと、アマゾンって何にもないなあと思ってたけど、何かあったら死と隣り合わせってことじゃないっ!!!」と、私はまあくんに言った。「当たり前でしょ。。。優美ちゃんは何も分かってないからねえ。。」と、まあくん。無事ロッジへ着くと「そこの川で泳いだらどお?」と、青年は私達に言った。「え?だって、ピラニアもいるし、アナコンダもいるんでしょ?」「ここのピラニアは人を食べないから大丈夫。でも、泳ぐときは必ず二人で泳いでね。そうでないと、アナコンダに攻撃されるから」「ちょっと待ってよ、二人だったらアナコンダは攻撃してこないの??」「大丈夫。必ず二人以上で泳いで」と、青年は行ってロッジへ向かった。「なんで二人だったら、大丈夫なんだ?」と、私はまあくんに言った。「知らん。。。。一人が攻撃されてる間に逃げるとか??」「まあくん、私が襲われたら助けてくれる?」「アナコンダが相手だったら勝ち目がないでしょう」「じゃあ、私がアナコンダに食べられてもいいっていうのっっっっっ!!!?」といいながら、私はまあくんの腕にすがった。「いやああ、二人で死ぬより、一人が助かった方がいいでしょう」「ねえええええ、優美ちゃんが死んじゃうんだよっっっ!!それでもいいのおお??」「相手はアナコンダだよ??わかってんの??」「あっっそう。。。。ったく、思ったほど頼りにならないねえ。。。。。。わかったよ。。。あんただけは当てにしないよ。。。。」と言いながら、私はロッジへ向かってスタスタ歩いた。「あのねええ。。。。。」私達はもちろん泳ぐのは遠慮して、マナウスへ戻る荷造りをすることにした。。。。。
2007.11.25
コメント(2)
さあ、今日はアマゾンのハイライト、ジャングルのド真ん中で一泊。手こぎボート一台にフランス人3人と私達、そしてインディアン青年を乗せ、カフェ・オレ色のアマゾン川をゆっくりと漕いでいった。観光地化していないアマゾン川の支流ネグロ川には、私達以外誰もいない。一時間ほどで岸に到着すると、更に20分ほど静かなジャングルの中を歩く。するとジャングルの中に、大きな葉を何枚も重ねて屋根にした、ドーム型の寝床??が現れた。青年が数週間前に作った物らしい。5~6センチくらいの太さの木を柱としていて、今晩はこの木にハンモックを6人分つって寝るとのこと。こんな小さい所にどうやって??と思いきや、インディアン青年は真ん中の柱から三人分のハンモックを両端と真ん中にくくりつけ、残りの三人分を、左右の端と奥側にくくりつけた。photo: one night stay in Amazon jungleうまいことまとまった。そして、テーブルを補強するため太めの木を各自集める。その木を青年が太めのナイフで切ろうとしたけど、なかなか切れない。続いてフランス人のへなちょこ男がやろうとしたけど、勿論てんで駄目。そして、まあくんが試したら、あっというまに切れるじゃない。しかも、その切りっぷりが男らしい。(うふふっっ)食事の用意をしていると、インディアンの青年がシーっと合図をする。緊張が走る。「猿が10匹くらい木の上で食べ物を狙ってるけど、襲ってはこないよ」と、青年は言った。なんだ、猿かよ。。。。一瞬見ても分からないけど、よく見ると7メートルくらいの高さで木が揺れてるので、おそらくあの辺りにいるのだろう。。。。。ちなみにインディアンの青年はギアナ出身なので、英語が話せる。その上小さい時からアマゾンのジャングルに住んでいるので、ジャングルのことは熟知している。話を聞いてると、この青年は可哀想な生い立ちで、小さいときに親からひどい体罰をされたとか。。。。「兄弟達の前で、僕だけ目の中に唐辛子のエキスを入れられるんだ」えっっ??そういやあ、私がアフリカを旅した頃四六時中ペッパースプレーを携帯してたけど。。。。。「どうなっちゃうの?」私は、想像つかないので、聞いてみた。「もう、目が焼けるかと思うくらい痛くて転げまわって、その後一週間は視界がほぼ無いくらいだよ」あまりにも、ひどい仕打ちに私達は息をのむ。「でも、もっと一番ひどかったのは、僕がぐっすり眠ってるときに、突然叩き起こされるんだ。僕は寝てるんだよ!何もしてないんだよ!!」「それで?どうなったの??」「両親は、煮詰めて用意してた唐辛子を、僕のお尻の中に詰め込みだしたんだ」そんな経験は一度もしたことがないので、想像がつかない。。。。。。。「いくら泣いて叫んでも、次から次へと詰め込むんだ。。。。」「ど、どんな感じなの?」「もう、体中の血という血が頭まで上る感じで、僕は川へ駆け込んだんだ。いくら出そうと思っても奥まで入り込んでるのは出てこないんだよ。。。。。あの経験が一番つらかった。。。。。。」「でも、どうしてあなただけそんなことをされたの?」「僕は、他の兄弟と違ってたんだ。。。。例えば、お父さんが今日は狩りに行くと言ったら、僕は食べ物は十分あるからわざわざ動物を殺す必要がないじゃないかと言う。。。。すると、他の兄弟は従うのにどうしておまえは言うことを聞かないんだ!!と怒られる。。。。。。」「。。。。。」「でも、父が亡くなり、母が死を目の前にして病床にいるとき、兄弟の中で僕だけが残って看病してたんだ。」「兄弟はどこへ行ってたの?」「みんな、鉱山に働きに行ってた。。。。そして母が言うには、僕は他のことは違うから、ブラジルへ行ってみなさいと言い残して死んだ。。。。。。」「でも、どうやってブラジルまで行ったの?」と、まあくん。。。。「ジャングルの中を、数週間歩いた。危険な毒蛇の臭いがすると、すごく恐ろしかった。近くを豹が歩いていったこともある。。。。。立ったまま寝たこともある。」おおお、これぞアマゾンのサバイバル。。。。。。。一瞬今回の楽勝アマゾンツアーがアマゾンの実態かと勘違いしそうになるけど、やはりここは危険地帯なのだ。「そして、ブラジルの小さな街へついた。。。。。。。その時は、髪も長く、腰に汚い布を巻いてただけ。。。道行く人が、何事かと振り返っていくけど、言葉が通じない。。。。。」私達は、身動きもせず話に耳を傾ける。「みんなにジャングルへ帰れとジェスチャーで言われたけど、僕は帰らなかった。帰るところはなかった。。。。。。だから最初はレストランの残飯をあさってたんだ。一週間ほど同じレストランへあさりに行ってると、最初は追い払ってたオーナーから庭の掃除をするよる仕事を与えられたんだ。。。。」青年は紅茶を飲んで一息つく。。。。「そして間もなく、ある女性に出会ったんだ。彼女は僕の生い立ちを聞いて同情し、彼女の家にひきとってくれた。。。。。」ちょっと、明るい話になり、私達の緊張も少し緩んだ。「最初は、コップ一つ持つにしても力加減が分からないから、すぐ壊してた。。。。。でも、彼女は辛抱強く、人間としてのマナーなど僕に教えてくれた。。。彼女は僕の第二の母親なんだ」すぐ感動する私は、話を聞いてて、ちょっと目頭が熱くなってきた。。。。「次第にポルトガル語も分かるようになり、今のツアーを経営してるフランス人と出会ったんだ。この出会いは、僕の人生にとって非常に重要な出会いだった」と、青年は目に力を込めて言った。そういえば、ツアーのオーナーが、アマゾンのジャングルを熟知して、英語が話せるネイティブインディアンは、ガイドとしてパーフェクトだと、青年との出会いを喜んでいた。。。。。そんなインディアンは、彼以外、他にいない。。。。と。。。。。そして、少年は雇われているのではなく、独立して仕事をしていると言っていた。。。。。「もしも、街だけの生活だったら、僕は耐えられなかったと思う。でも、この仕事はジャングルと街を行き来しながら、僕のジャングルでの知識を最大限に生かせる仕事なんだ。」「兄弟は何をしているの?」と、まあくんが聞いた。「彼らは、汚い鉱山で真っ黒になりながら働いてるよ。。。。」という青年は、特に感情を見せない。なるほど。。。。。立場逆転か。。。。。。「僕は今、本当に幸せだ。。。。」という青年の言葉が印象的だった。。。。。。
2007.11.24
コメント(4)
アマゾン二日目の今日は、本格的にジャングル体験~ どうなるかな~とワクワク。インディアンの少年を先頭に、私達の他フランス人3名が、あとに続いていった。しかし、かつてコンゴで体験したマウンテンゴリラのジャングルとは違って、ここは軽井沢の林にちょっと植物を増やした程度。。。。photo:Amazon jungle観光客がずっと来てるせいか、ある程度道もできている。。。。。。ちなみに今回私達が選んだアマゾン川の支流、ネグロ川のジャングルは、川の水が酸性のため、蚊などが生存しずらい。マラリアにかかる可能性も低く、私はご機嫌。川の水は、紅茶のような色だ。ジャングルを歩き出して15分くらいすると、インディアン少年が私達に向かってシーっとして立ち止まるように指示した。危険なアマゾン地帯。一瞬緊張が走る。安全を確認してから、「この辺には前に2メートル近い蛇がいたって他のガイドがいってた。でもこの穴は、古いから大丈夫。手を入れてみて」なんとかいって、実は一匹くらい入ってたりして。。。。と、疑いながらそっと手を入れてみた。photo:Snake holeまあ、大丈夫。。。。。彼が小さい頃は、父親につれられて肝試しのように、蛇の穴に手をいれさせられたらしい。しばらく行くと、少年が指した木に無数の蟻が集まっている。少年が木に手をあてると、手が埋まりそうなほどの蟻が集まってきた。その集まった蟻をすりつぶして腕にのばすと、蚊にさされにくいらしい。というのも、この蟻は蚊を食用とするからだ。つまり、天敵。私達もやるように勧められたけど、ちょっと躊躇しながらも、まず、私が先頭をきってやってみた。「うわあああああっっ、集まってくる集まってくる!!なんかチクチクするよ~」photo:Antsそして、気は進まないけど手の上で蟻をすりつぶす。仏壇の前に座ったときのお香を思わせるような、独特な臭いがした。。。。。。更に先へ進むとターザンがジャングルを渡り歩くときにつかうような、ツルが木の上からぶら下がってる。photo:tarzan treeみんな試してみたけど、ツルに全体重を乗せる前に、スルッと滑ってしまう。でも、少年は、やっぱり慣れているせいか、ちゃんと自分の体重を支えられる。。。。しばらくいくと、低めの滝が現れた。ジャングルの中を歩いてきたので、みんな汗をかいている。服の下には水着の用意をしているので、そのまま全員滝壺へ。。。。。。。意外と適温。とまあ、今日のジャングル体験は、ここが最終地点でした。。。。。なんか、予想よりアマゾンのジャングルって楽勝だなあ。。。。。。
2007.11.23
コメント(0)
アマゾン川流域最大の港町マナウスの空港へ着くと、出迎えの宿のオーナーと共に車で街中へ向かった。1890~1920年にゴム・ブームでさかえたこの街は、人口150万人程。アマゾンツアーの手続きをとってから、茶色いアマゾン川と黒いネグロ川が合流する所へボートで見学。二つの川は性質が全く違うらしく、絶対に交わることがないそうで、境界線がはっきりしているのが特徴だ。さて、翌朝10時。。。再びオーナーの所へ行き、まず港の隣に隣接する市場の見学。捕れたばかりの魚が次々と運ばれてくる。その後、同じツアーに参加するフランス人の留学生3名と合流。彼らはフランスのトップエリートが集まる大学の法学部生で、流暢な英語を話す黒人の女性以外は、どことなく排他的とでもいおうか。。。。自分が選んだ国で一年間の交換留学をするのが義務で、自国とは全く違う文化のブラジルのアマゾンを選んだとのこと。まあ私達からしてみれば、所詮キリスト教のうえにラテン語圏なんだから、驚くほどの文化的違いはないと思うけど、まあ、彼らにとっては思い切った選択だったのでしょう。。。。(フランス語、ポルトガル語、スペイン語、イタリア語等は語源が共通のラテン語圏)にしても、多くの海外留学経験のない日本のトップエリートと違って、もうこんな年で異文化にふれるのを義務としているフランスのシステムは、さすが。。。。。とでもいおうか。。。。。ちなみに、フランスでは学費は無料。流域面積600万km、1000本以上あるアマゾンの支流のへ到着すると、私達は小型バスからモーターボートへ。。。。水源から河口まで6400キロある世界第二のアマゾン川に、熱帯雨林が半分ほど飲み込まれている。20分ほどすると、雨がぱらつき始めた。「やばいやばい、まあくん、ジャンパー着ないと!!」と、言って私は雨具を上下で着た。すると、私達がフランス語を分からないと思ってる留学生達は、なにげに用意周到の私達をこばかにしたような言葉を言って、うちわでうけている。あんまり、フランス語を話せるのを隠してもしょうがない。。。。私は「寒くないの?」と、隣に座ってる小太りの女性にフランス語で聞くと、「私達は自然を受け入れるのよ」と下手な英語で答えてきた。「こいつら、なにげに私達の行為に批判的だよ、まあくん。。」「そうなの?まあ、半年ここに住んでるって言ってたから、得意げなんでしょう」「もっと雨、降らないかな~。。。。。。。。。」しばらくすると、急に大粒の雨が私達をうちつけてきた。やったああああああ!!ざまみろ~!しかも、ボートは容赦なく風をきって走っていく。相当熱をうばわれだしたのか、彼らの表情もさっきまでとは一変している。ったく。。自然をなめんなよ。。。。。そして、更に30分ほどすると、川沿いの密林に何故か白い砂場があり、そこにロッジが見えてきた。そして宿に着く頃には、ちょうど雨も止んでくれた。ちなみに樹木を切り崩していくと養分が流れ、白い砂に変わるらしい。。。。背の低いインディアンの女性が食事を作る人、そして若い男性がジャングルのガイドと紹介された。とりあえず、その日は、ロッジ裏のジャングルを軽く探検。夕方からはピラニア釣り。といっても、なかなか釣れるものではなく、奮闘すること40分。私が一匹獲得!!! その後も、私だけ他の魚をつって、残りの皆さんは何もつれなかった。へへへ~ちなみにここのピラニアは人を食べないらしく、この川では泳ぐことが出来るらしい。夜になると、ワニを探しに、反対側の川岸へ向かった。インディアンの少年は、なんでもみつけるのが早く、すぐにワニの赤ちゃんを発見。暗闇でも見つけられるのは、ワニの目が赤く光るからだとか。。。。。川の深いところには親のワニがいたようだけど、ボートで近づくと結局逃げられてしまった。。アマゾンツアー第一日目、終了。。。。。。
2007.11.21
コメント(0)
ブラジル側から見るイグアスの滝を完全無視して、私達はサンパウロ行きの夜行バスへ飛び込んだ。残り2週間でブラジルを回る予定なので、あまりのんびりしている時間がない。ちなみにサンパウロは大都会だけど、観光するにはそれほど興味をそそるものはない。それでも私達が来たのはアマゾンへ飛ぶ飛行機に乗るのと、世界最大の日本人街があるからだ。今回の旅へ出発する前に、アマゾンで悲惨な目にあった日本人移民についての「ワイルド・ソール」という本を読んでいたので、私達は移民について相当興味を覚えていた。この物語で描写されている日本人移民について簡単に説明をします。日本政府から約束され、希望にみちて南米に向かった日本人移民たちは、到着と同時にそれまでの夢は絵に描いた餅であったことが判明する。分け与えられるはずの肥沃な土地は、不毛の土地アマゾンのジャングルだった。日本人移民たちの中には、悲惨な状況を見て、近郊の大都市へ逃げ出す者もいたが、ブラジル政府はそんな移民達のパスポートをとりあげ、与えた土地から逃げ場を奪った。そこでは飢えやマラリアで死んでいく者が絶えなかった。無一文になり、乞食となる者も少なくなかった。そんな移民達の中でも、成功した人達も存在するが、彼らはごく一部に過ぎなかった。朝方バスを降りて日本人街にあるホテルへ着くと、経営者は中国人だった。ホテルを出て街を歩くと、店先で大阪系の愛想の悪い日本人が、眉間に皺を寄せながらタコ焼きを焼いている。店の中には日本、中国、韓国と、アジアをごちゃまぜにした食材が売っている。小柄な日本人のおばあちゃんが、「何をお探しですか?」と、日本語で問いかけてきた。どこか、日本人をなつかしがっている雰囲気だ。最近は中国人の移民が多いこの街は、少しずつ日本風から変化しているようで、町並みは私達からしてみれば中国風にも見える。アマゾン行きの飛行機の予約に旅行会社へいくと、日系3世の女性が、ちょっと訛りのある日本語で対応してくれた。彼女は日本へ一度出稼ぎで行ったことがあるが、偏見を持って待遇されたようで、あまりいい思い出でがなかったとのこと。日本人は一般的に白人系には優遇しても、アジア系や中途半端に日本語ができる日系人に対してフレンドリーではないのは想像がつく。そうはいっても、私の親戚の日系3世のマリアの場合は、白人との混血で見た目も白人なので(その上可愛いし感じがいい)、偏見を持って待遇されることは一度もなかったに違いない。。。その後は、移民博物館へ行った。本に書いてあったような、アマゾン移民が当時の日本政府から受けた詐欺行為については、いっさいふれていなかったことが印象的だった。。。。。。どうやら歴史の汚点は、かき消されるようだ。
2007.11.20
コメント(0)
朝方バスを降りると、プエルト・イグアスは一変して湿気の多い街だった。ここは、世界三大滝のうちの一つ、イグアス滝への入り口の街。既にアメリカのナイアガラ滝、アフリカのビクトリア滝と見た私達は、滝に対する期待というのは特に無くなってきているが、この滝を見ずにラテンアメリカを去るわけにはいかない。。。到着した当日はブラジル行きのビザの手続きを済ませる。そして翌日、アルゼンチンとブラジルの国境にある滝へと向かった。ローカルバスに乗ってジャングルの間を通りぬける舗装道路を行くと、ゲートが見えてきた。料金所でマップをもらって中へ入ると、3カ所ほどビューポイントがあるようだ。まず、熱帯樹林の山間を1キロほど歩くと、次第にイグアスの爆音が聞こえてくる。更に進んでいくと岩と樹木で覆われた島によって 200 以上の滝でできているイグアスの滝全体が眼前に広がった。街に囲まれたナイアガラとは違い、イグアスはエキゾチックだ。幅 4km、平均落差が 60m ほどの馬蹄形の滝壺近くまで、叫び声をあげた観光客を乗せた小型のボートが何度も行ったり来たりしている。「あれ、乗らなきゃ!!」と、私は言ってまあくんの腕を引っ張る。歩くこと更に20分。一番前の席をゲット!!すぐに観光客でうまったボートは、怒号する一番巨大な滝壺の付近へ。。。。。水しぶきで視野が殆ど無くなり、頭全体から土砂降りのような水をかぶる。叫び声と共にモーターボートは限界の所まで行っては戻ってくることを、10回ほど繰り返した。ジェットコースターを乗り終えたような気分の次は、もう少し小さめの滝壺へ。。。。。。こちらはある程度近くからでもシャッターチャンスがある。二つめのビューポイントへは、園内の汽車に乗っていく。途中、おびただしい数の蝶々が観光客を歓迎するかのように、列車のスピードと一緒に舞ってくる。列車を降りて密林の中を歩いてると、全身を毛に覆われた蜘蛛が私達の足下の先をゆっくりと横切る。川に架かっている橋の下にはワニがいたりと、さすがジャングルの真ん中。滝壺へ向かうイグアス川は、その後の爆音を予想できないほど静かにゆったりと流れる。橋を15分ほど歩いていくと、次第に滝壺へ落ちていく爆音と水しぶきが空中に広がる。「ビクトリアの滝の方が岩と岩に挟まってたせいか、もっと迫力があったかもね。。。」と、まあくんは眼下に広がる滝壺を覗きながら言った。「まあ、水量の時期によっても違うけど、あっちの方が、もっと至近距離で水が落ちていくのが見れたからね」と、私は言った。もう一つのビューポイントはここからさらに1時間以上歩かなければいけなさそうなので、歩くのが嫌いな私達はこれで終了~。
2007.11.19
コメント(2)
ブエノスアイレスの新居の管理人は、私達がタンゴを学んでいると知ると、ちょうど隣の部屋に先生が住んでると言って紹介してくれた。60過ぎくらいの白髪のおじいさんはエマニュエルという元弁護士で、タンゴの先生もしてるとのこと。何度か海外へも招待されて教えにいったこともあるとか。。。。。。社交的なおじいさんは、何度か一緒にサロンへ行こうと誘ってくれたので、私達もスペイン語の練習を兼ねて、三度ほど彼の仲間へ加わった。photo:右端がエマニュエル「今度私がプライベートレッスンをしてあげるよ」と、マニュエルは話が盛り上がってる最中に言ってくれた。私は喜んで「ありがとう!!」と言うと、後でまあくんが「あのさあ、優美ちゃん、そうはいってもタダってわけにはいかないんだから。。。。。」と、私に言う。「え?やっぱり?」「あのねえ。。。。。霊気オヤジといい、なんでもタダだと思うのやめてね」「そうかあ。。。となると、彼は一般的には上手いのだろうけど、先生としては古いスタイルだし遠慮したいところだねえ。。。。」ある日、エマニュエルに「今晩はグループレッスンをとるので、終了後はそこのサロンで踊ってる」と告げた。すると、エマニュエルも22時頃になってサロンへやってきた。私は確保していた席にエマニュエルを呼んで、その日の先生であるマリア、そしてレッスンの仲間に「隣に住んでるタンゴの先生です」と紹介した。すると、まあくんが「優美ちゃん、じいさん苦笑いしてたでしょう。。。。」と言う。「なんで??」「だからさあ、じいさんは自称タンゴの先生だと俺たち素人には言えても、実際サロンでクラスをやってる先生を前にしてそこまで言えないんだよ。。。だから、自分は弁護士だって言い直してたよ。」「そうなの?」「ったく、じいさんの立場、理解できないようだねえ」といいながら、まあくんは私の頭をなでた。しばらくしてマリアとマニュエルが踊り出した。その後、エマニュエルは私とも踊ってくれた。色々と教えてくれるエマニュエルに満足して席へ戻ると、まあくんが「マリアに、エマニュエルの踊りがどうだったかと聞いてみたら、同じステップばかりでイマジネーションが足りないっていってたよ」と、水をのみながら言った。「そうなの?ったく、まあくんは、どうしてもエマニュエルに否定的だなあ~」と言うと、「俺は、事実を述べてるだけだよ」とのこと。数日後、私達はブエノスアイレスを二日後に発つことをエマニュエルに告げた。「じゃあ、プライベートレッスンしてあげなきゃ!」と、エマニュエルは笑顔で再び言ってくれた。あやあああ。。。。。。これ以上逃げ切れないなああ。。。。。「じゃあ、おいくらくらい払えばいいでしょうか?」と、遠回しに聞くと、「友達なんだから、そんなのはいらない」とのこと。えっ・?本当?? となると、話はかわってくる。私たちの今のレベルでは、エマニュエルからでも何かと学べることはあるだろうと喜んでお願いすることにした。「やっぱ、エマニュエルじいさんは、親切でやってくれるんだよお」と、私はまあくんに言った。「いやあ、ああやって俺たちに良くしておいて、もしかしたらそのうちに日本で何かあったら先生として呼んでくれって思ってるんだよ」「ええええ?まさかあああ。私達なんて、日本のタンゴ界に何のつながりもないじゃん」「じいさんは、そうは思わないんだよ。優美ちゃんはその辺のことわかってないからねええ」「ったく、まあくんはどうして人の好意を素直に受け止めないのかなあ。。。」「タダでわざわざ誰が教えるってんだよ。んな分けないでしょ。。。。」ブエノスアイレス最終日。。。。。アパートを12時にひきわたし、隣のエマニュエルの部屋に荷物を置き、3人でまずランチをとった。夕方のバスの時間までは、まだ時間がたっぷりある。エマニュエルは予想以上に熱心に教えてくれた。。。。けど、先生としてはそれ程上手くはない。子供の頃から踊って体にしみついてるものは、なかなか人には説明つかないものなのだろう。とはいっても、私はそれなりに満足した。(そもそもタダなんだから文句はいえまい。。。。)レッスンが終わると、「二人とも日本へ帰ったら、タンゴを続けるんだろう?」といいながら、彼は私達に20枚ほどの名刺と雑誌(彼の写真がちょこっとだけ載ってた)などを取り出しながら、「もし、日本でタンゴの先生が必要だっていうときは、エマニュエルがいるっていってくれよっ」と、笑いながら言った。「了解了解~」と、私もにこやかに言って旅には荷物になりそうな雑誌と名刺を受け取った。そして、迎えのタクシーに乗り込んで、エマニュエルにお礼を言って別れた。「俺の読み通りだっただろ?親切心だけで、そこまではやらないんだよ」「まさか、本気じゃないでしょう??」「本気じゃなかったら、あんなに一生懸命レッスンしてくれるわけないでしょ!まだ分かんないの?」「うううん。。。。これどうしよう。。」と、私は名刺の束を見ながら言った。「捨てたらだめだよ。彼だって一生懸命に作ったんだから」「うん。。。。。でも、この雑誌は??すごく邪魔なんだけど。。。。」「それくらい、どっかに入れておけばいいでしょう」「。。。。。。。しょおがないなあ。。。。。。まあ、そうはいっても、一生懸命やってくれたしね。。。。。。」その晩、私達はイグワス行きの夜行バスに乗って、3ヶ月半のブエノスアイレスでの生活に別れを告げた。
2007.11.19
コメント(3)
今回のメンドーサの宿は、ドミトリー形式の安い部屋もあるのでバックパッカーが集まってくる。私達としては、そこでも一番高い部屋を借りてるので、天井が高く広めの部屋とクウォリティーがいい割りに値段がお手頃。。な物件を、まあくんはしっかり見つけ出してきたのだ。朝食をとりにいくと、テーブルに座ってた45歳くらいの髪の毛を後ろに縛った白人男性が私に話しかけてきた。話をしていると、バンコクで詩を教えてるとかで、霊気治療なんかもするとのこと。。。。なかなか自分の国籍をあかさなかったけど、ある程度自分のバックグランドを話しおえると、アメリカ人だと打ち明けた。最近のイラク戦争のせいで、ヨーロッパ人系からはアメリカ人というだけでちょっとした軽蔑の風潮がある。そのせいか、自分は本土のバカなアメリカ人とは違うことを示したかったのだろう。。。。。「インドで一年半修行してた私の彼氏も、霊気マスターらしいんだけど、本人が信じてないからやってくれないんだよね」と、私は遅れてやってきたまあくんを紹介しながら言った。「じゃあ、よかったら私がやってあげましょうか」「え?ほんとう??」と言いながら私はまあくんの方を見た。「いいんじゃない?やってもらえば?」と、まあくんの了解を得、昼からボデガーへ行くので夕方5時くらいに約束をしてわかれた。さて、今日行くボデガーは、以前知り合ったアメリカ人の二人組がお勧めのワイン。まあくんがネットで調べたら、メンドーサ市内にあるらしい。。。早速、アポイントをとってタクシーで向かった。すると、そこは一軒家。どうやらファミリーでこじんまりとやってるらしく、自分の家を倉庫としても併用しているようだブザーをならすと感じの良い若い男性が10畳ぐらいの部屋にぎっしりワインを置いてる部屋に通してくれた。私達二人に対して、シャトーの歴史を説明してくれながら、気前よく新しいワインを数本あけてくれてテイストさせてもらった。2本購入して宿へ直行。「霊気治療、効くのかなあ?」と、私はタクシーの中でまあくんに聞いてみた。「効くと思えば効くし、効かないと思えば効かないよ。それはそうと、霊気オヤジにいくらくらいあげればいいかなあ」と、まあくん。「え??お金いるのかなあ??そんな話はしてなかったけど」「あのねえ、優美ちゃんは世の中のこと分かってないねえ。なんでもただだと思ってるんだから。」「えええ?そうななお??でも、なんかお金の執着心はなくしたような雰囲気で物事話してたから断ってきそうだけどねえ」「それとこれとは別なんだよ。絶対受け取るにきまってるでしょ」約束より30分ほど遅れて私達の部屋へ現れた彼はエドワルドと名のり、線香を部屋の四隅にたきだした。うううむ。。。。怪しげ。。。。。私はベットに横になるようにいわれ、目をつぶるように言われた。しかし、まあくんがいるからいいけど、二人っきりだったら絶対この体勢でやってもらいたくないなあ。。。。。。私は肩こりと足のむくみが気になると説明した。まあくんは、少し離れたところからパワーを送ってくれと頼まれてるようだ。どうやら始まったらしく、時折、数珠のような物がすれる音がする。もしも、何か頭の中の記憶がよみがえったりしたら言うようにいわれた。そういうのがきっかけで、心の中のトラウマが引き出せることが何度もあったとか。。。。。彼は私にパワーを送り続けて、最後に足のむくみをとるのに石で土踏まずを軽くふれていた。1時間近くの霊気治療が終了。。。。。何にもよみがえるような記憶はなかったけど、途中寝てしまったと答えると、それだけリラックスできたってことだと言われた。「あなたの問題は、もっともっと奥深いところにある。何度もやっていくと、そのうちにわかってきますよ。体はらくになりましたか?」「ん?ううううん。。。そうだなあ。。いわれてみれば楽になったような気もする。あっっっ!ふくらはぎが柔らかくなってる!!」と、私は一生懸命やってくれたので、なるべく大袈裟に効果があったようにいった。「一週間くらいは持続します。その後効果なくなっていくけど、私が遠くから霊気をおくっておきますから。。。。」え??遠くから?? ううううううんん。。。まあくんが10ドルほど渡そうとしたら、特に断るわけでもなくうけとって部屋を出て行った。「ったく、優美ちゃんみたいなお気楽さんが、小さいときに奥深い問題合ったら、こんなに天真爛漫には育ってないよ。。。。。ああいう説明は、誰にだって何か一つはあてはまったりするから、結局あてにならないんだよ」と、まあくん。「うん。。。。。でも、霊気おくってくれるって。。。親切じゃん。。。」「そんなの効くと思ってるの?」「え?いやあ、あれは怪しかったねえ。。。。。。」にしても、その後一週間ほどふくらはぎのむくみがまったくなかったのは、霊気治療効果のせいだったのだろうか??
2007.11.09
コメント(0)
かねてより、まあくんが行きたがってたメンドーサというワインの産地へ到着。ここは、フランスで言えばボルドーとでもいえよう。。。。。早速、ワインツアー(10名で小型バンで行く)に参加して、3カ所のボデガーを見学。とはいえ、一度も飲んだことのないワインボデガーへ来ても、さほど感動はないもの。。。。というわけで、翌日はアルゼンチンに来て以来はまってるワイン、「ALAMOS」のボデガーを訪ねて、直接タクシーで行くことにした。ここのワインは、値段が手頃なのにもかかわらず深みのある味で超お勧めなのだが、残念ながら日本へは輸出されてない。タクシーの運転手が道に迷いながら、やっと辿り着いたのは5つ星ホテルを思わせるような美しい建物。そこがALAMOSのボデガーと判明したときには、さすがに驚いた。「やっぱり私達がはまっただけあって、相当儲かってるんだね。。。。。。」と、私は自分たちのワイン選びのセンスがあるなあとちと自慢。へへっ私達の他、もう一名というたったの3人に対してボデガーの案内をしてくれるのが、ツアーで来たのとは違って大切に扱われているようで気分がいい。。。。一通り見学したあとは、お手頃なのから一番値段の高い3種類のワインを試飲。やっぱり一番高いのが美味しいっっっっ!!と、いいたいところだけど、いつも飲んでるお手頃なワインの方が美味しいような気もする。。。。。高級なワインは私の味覚にあわないってことか!!???いやいや、食後に飲んだりすると、また味も変わるってもの。。そもそもこんなに立て続けに昼真っからワインを飲む事なんてないし。「どお?まあくん」「ん? うううん。。。。普段飲んでる方が、美味しいかも。。。。。。」「だよねええええ」といいながら、内心ほっとした。というわけで、お気に入りのALAMOS見学終了。。。。。。
2007.11.08
コメント(0)
今日は、バリローチェ(ブエノス・アイレスから1650キロ)にある、ナウエル・ウアピ湖に浮かぶ島へ行くことにした。市内からローカルバスに揺られること40分程で、港へ到着。大型のクルーザーが5台ほど並んでいる船着き場にもかかわらず、真っ青な湖にはゴミ一つ浮いていない。湖面が太陽の光に反射し、美しさを増している。どのクルーザーに乗ればいいのかなと戸惑ってると、係の人に促されて乗ったのは、一番おんぼろの船。いや、見方を変えると、一番味のあるアンティークな船だ。。。。。船内がほぼ満員に近い状態になると、船はゆっくりと第一の目的地アラジャネスの森へ向けて動き出した。ちなみにこの森は、かつてウオルト・ディズニーが訪れ、“バンビ”のインスピレーションを受けたそうだ。。。。青い空の下、180度、湖と山との景色に囲まれ揺られること約1時間。。。船が停止すると共に、次々と観光客が降りていく。。。。。。ここでの停泊時間は約40分。人々は、群れをなして、森の中に敷かれている簀の子のような板の上を、前進していった。私達は、人混みを避けるため、15分程、入り口で待機。辺りが静かになった頃、歩き始めた。どうってことのない森だな~と思いながら歩いてると、奥へ進むにつれ、木の色が肌色になってきた。これはアラジャーネという木の種類で、普通は5メートルくらいまでしか大きく鳴らないが、ここの森ではそれ以上の高さにまで育つらしい。森を一回りして、船へ戻ると、今度はビクトリア島へ。。。。船から下りると人々は四方へ散らばった。「あれ?この島では何すればいいの?」と、私はまあくんに聞いた。「ビューポイントが2カ所あるだけで、特にこれといったものは無いみたいだなあ。。。。。。」と、まあくんは地図を見ながら言い、「とりあえず腹減ったから飯食いに行こう。。。。。」と、私を促した。食後は、澄んだ空気の中、緑濃い森林を散策。。。。。。やっぱりとくにやることはなかったので、私達は島を一周した後、お迎えの船が来るのを待っていた。とはいえ、本当に南米のスイスというだけあって、どこもかしこも美しかった。。。。
2007.11.06
コメント(4)
長いことブログの休業をしてしまい、大変失礼しました。。。いいわけとしては、 1 旅中にブログの制作に追われるのが突然面倒になった。 2 3月末の帰国後、再開しようと思ってたけど、まあくんからの英語を更にブ ラッシュアップするようにプレッシャーをかけられ、毎日必死だった。 3 リズムをいったん崩すと、どうも復帰が困難。。。。 などなど。。。。。私なりに、いろいろと気にはしてたのですが、ここへきてやっとやる気がわいてきましたっっ!というのも、実はラテンアメリカ第二弾が9月半ばから既に始まってるんです~。というわけで、前回の続きから、徐々にアップしていく予定なので、今後も宜しくお願いします~
2007.11.06
コメント(0)
今日は、バリローチェの市内から車で30分。標高1052mのカンパリオの丘へ向かった。バスを降りると、頂上へ向かうリフトを待つ観光客でいっぱいだ。。。。。待つこと15分。山林の間をリフトがゆっくり登って行くにつれ、背後に真っ青な湖が広がってきた。そして、頂上へ着くと、人の流れに従って展望台へ。。。。ビューポイントに向かうにつれ、だんだんと視界がひろがってきた。大パノラマを眼前にし、「すっごく綺麗だね。。。。。。」と、ありきたりな台詞が思わず口からこぼれた。世の中の公害問題を笑い飛ばすかのような、清らかな深みのある青いナウエル・ウアピ湖。。。。その湖を取り囲む、ロペス山、カテドラル山、オットー山。まるで一枚の絵ハガキのような美しさだ。なんとかいい写真を…….と思い、一眼レフを構えた。が、構えるたびに人の頭がレンズを横切る。そう。。。。ここの唯一の難点は、狭い頂上に詰めかけてきた、観光客の量。。。。。。 「あ~うざいなああ~こ人集り。。。。。。これじゃあ、いい写真なんて撮れないよ。。。。。。」と、いいながら、私はシャッターを押すのを諦めた。ふと見ると展望台の反対方向にも、何やら人が向かっているので、私達も足を運んでみた。100メートル程歩くと、十字架の塔が建っていた。こちらは特に素晴らしい景色が見れるわけではない。。。。。「さて、そろそろ戻ろうか。。。。。」と、私はまあくんに言った。「うん。。。。さっき、展望台で、いろんな種類のペンギンがうつってる絵はがきがあったんだよなあ。。。。欲しいなあ~。。。。。。。。。ちょっと行ってくる」と、言って、ペンギン好きのまあくんは一人で展望台へ戻った。私は、リフトに並ぶ人の列の最後尾で、待つことにした。ニコニコして戻ってきたまあくんが買った絵はがきには、10種類以上のペンギンが映ってる。中には、黄色と黒の前髪みたいなものに、異常に目つきの悪いペンギンがいる。「なんだこれ~不良ペンギンみたい~~~~っっっ超可愛くないいいいいい~~~~~」と、大うけ。。。。。。「ROCKHOPPERっていう種類らしい。。。。。」と、絵はがきの裏側を見ながらまあくん。。。。「この一番下の端のが、一番ペンギンらしくって可愛いなあ」「それはADELIEペンギンだ。。。。。この右側の皇帝ペンギンが見たいんだよな~ブエノスアイレスの動物園に行けば、いるかな~」ちなみに皇帝ペンギンは、1メートル30センチほどある、巨大なペンギン。そうこうしているうちに、リフトの順番がきた。本日の観光は、これで終了~。
2007.03.07
コメント(3)
ブエノスアイレスから1650キロ、標高770メートルのところに、バリローチェという街がある。湖、カテドラル山に囲まれ、19世紀の終わりに多くのスイス人が移民したため、“南米のスイス”と呼ばれる風景を造り出している。というわけで、ここバリローチェでは、有名なスイスのチョコを真似して、山小屋風の建物のチョコレート専門店が、しのぎを削っている。チョコレートが大好きな私達は、早速“おばあちゃんのチョコレート”という、いかにも心をそそられる名のチョコレート専門店へ行った。。。。お目当ては、併設されてるカフェでのホットチョコ!カウンターでオーダーをした後、私達はテーブルに着いた。「イタリアのルッカにある喫茶店で飲んだホットチョコは最高だったなああ。マジでトロットロの解けたチョコって感じでさあ。。。。。。」と、私は、その時の感動を思い出しながら言った。「パリのポール(有名なパン屋さん)で飲んだのが上手かったんだよなあ。。。。」と、まあくん。「ああ、あれね。。。。まあ、そこそこ美味しかったねえ。。。。。」「あと、ラトビアのホテルで飲んだのも美味しかったよなあ。。。。。」「あれは結構よかったね。でも、やっぱり、イタリアのカフェは、断トツだよなあ。。。。」と、私達はそれぞれホットチョコに馳せる思いを語りながら、バリローチェでのホットチョコを楽しみにしながら待っていた。そして、ウェイトレスが持ってきたホットチョコをテーブルの上に置いた。カップの中が見た途端、私達はちょっと言葉を失った。。。。。「。。。。なんか、牛乳が多そうだなあ。。。。」と、まあくん。「うん。。。。。。」まあ、見た目はどうあれ、味は特別かもと気を取り直して、とりあえず、一口!「全然駄目じゃん。。。。。。」と、私は言いながら、ガックリしながらカップを置いた。「うん。。。。。。粉を溶かしたみたいな味だなあ。。。。」と、まあくん。ちょうど、小さい頃よく飲んでたミロみたいな味だ。。。。。。まあ、他にもたくさんチョコレート専門店はあるので、私達は気をとりなおして街の観光をすることにした。なんせ、100メートルも歩かないうちにチョコ専門店が2~3つあるのだ。大手の専門店では、ショーウィンドーにも力をいれている。そして道端でお店の勧誘をしている女性から、お試しチョコを一口!「これも、いまいちだなあ。。。」と、私。「うん。。。ちょっと、深みが足りないね」と、まあくん。まあ、お試しなので、安めのを配ってるのかもしれない。。。。と、思いながら、中へ入ってみた。ガラスの奥に並んでるチョコレートを見ると、見た目からして、超美味しそうではない。photo:写真にすると、照明があたって綺麗かも。。。。。やはり、ヨーロッパ辺りで見るチョコレート専門店とは、レベルが断然違うようだ。。。。「なんか、もう、チョコレートはどうでもいいや。。。。」と、私。。。。。「だね。。。。夕食にしよう。。。。。チーズフォンデューも結構有名みたいだから。。。。。」「うん!!そうしよう!!!」まあくんが目をつけてたレストランに入ると、まだ時間的に早いせいか、3組くらいしかいない。席に座って注文を取り終わると、「やっぱりスイスのチーズフォンデューは美味いんだよな~」と、まあくんが言った。「スノボーしに行った時なんて、3日連続で死ぬほどチーズフォンデュー食べてたもんね~。あ、でも、こないだ私の家でチーズフォンデューパーティーしたんだけど、あれはマジで美味かったよ。スイスで食べたのより美味しかったと思う」と、私達は、それぞれチーズフォンデューに対する思いを語り始めた。20分くらいで、チーズフォンデューが用意された。早速、期待の一口!!!!!!!「。。。。。。。。全然駄目じゃん。。。。。」と、またしても期待を裏切られガックリしながら私は言った。「うん。ワインの香りがほとんどないし、恐らくキルシュも入ってないな。それに、そもそもチーズが、グリエールもエメンタルも使ってないよ。。。。。そもそもアルゼンチンのチーズ自体、美味しいの売ってなかったしね。。。。。。。やられたなあ。。。」と、まあくん。“南米のスイス”と呼ばれてるバリローチェ……….どうやら、完全には真似しきれてないのが判明した。。。。。ま、そうはいっても、バリローチェのメインは、その自然にあるから、明日からの観光に期待しましょう。。。。。
2007.03.05
コメント(2)
「朝食です」という、バスのウェイターの声で、目が覚めた。アイマスクをはずすと、すっかり明るい日が差し込んできている。時計を見ると8時をまわったばかりだ。前日の15時にブエノスアイレスを出発したバスの目的地は、バリローチェ。鉄道のないアルゼンチンでは、長距離バスが発達していて、座席は3種類のグレードに別れている。1, セミ・カマ 普通の椅子。2, カマ 広めの椅子で、椅子の倒れる角度はセミ・カマより少し深め。3, スーパーカマ 広めの椅子で、水平に倒れ、前後には薄い壁(1メートル30センチの 高さ)があり、横にはカーテンもある。ちなみに、全て2階建て。そして、今回私達が使用したのは、もちろんスーパーカマ!!言ってみれば、バスのファーストクラスだ。しかも、夕食、朝食のサービス付き。バス会社によっては、シャンパンサービスまである。世界の旅でコンディションの悪いバスに散々乗ってきたまあくんは、「もう二度とバスには乗らない!!」と宣言をしていたが。。。「よく寝れた?」と、隣で横になってるまあくんに聞いてみた。「うん。すごくよく寝れた。あああ、いいなあ、スーパーカマは最高だな~」と、期待通りの快適さに、超、ご満悦。かれこれブエノスアイレスを出発して既に18時間以上たっているというのに、全く長時間乗ってるという感じがしない。ちなみに、ブエノスアイレスから、バリローチェまで、一人約80ドル。朝食を終え、しばらくすると目的地のバリローチェ到着。予約済みのホテルへ直行。今日は、のんびりして、観光は明日からすることにした。。。。。ブエノスアイレスでは、ここ2ヶ月間、毎日スペイン語とタンゴのレッスンに追われてたから、これから二週間は、バケーションのバケーションだ!ははっ。。
2007.02.26
コメント(2)
「なんかいい物件あった?」と、私は、まあくんのパソコン画面を覗き込みながら言った。「ちょっといいなと思ったら、どれも契約済みだよ」と、まあくん。週末からは、2週間、アルゼンチンの東へ旅行する予定。その後、ブエノスアイレスへ再び戻ってきて、一ヶ月間、滞在延長することを決定したため、新たなアパートを探すことになった。今、借りてるアパートが、好立地、ハイセンスな上、値段も適切。あまり、このレベルを下げたくないというのが本音。。。。しかし、入居日間近となると、良い物件は既に抑えられているのだ。。。。。ちなみに、条件順にあげると、1.ネット回線つき2.スペイン語レッスンの場所から近く、環境のいいところ3.ある程度センスがいいこと4.40平米以上5.上記を総合したうえで、値段が適切であること。ここ数日、まあくんは、相当な数の物件をしらみつぶしに探している。しかし、これといった物件は、一つも見あたらない。。。。。「この物件、一応、見せてもらおうか?」と、言いながら写真を私に見せてくれた。「ええええええっ??これ、全然センス悪いよおおおお」「あのねえ、優美ちゃんは自分で探してないから分からないかもしれないけど、マジでいいのは無いんだよ。」と、まあくん。「でもさああ、今せっかく、こんなにお洒落に暮らしてるのに、へんてこりんなアパートに移ったら、せっかくのブエノスアイレスの素敵なイメージが、急変しちゃうなあ。。。。」「ったく、優美ちゃんは、好きなこと言って、お気楽でいいねええ。。。。」と、言いながらも探し続けるまあくん。そして、2日経ち、3日経ちしても、さっぱりこれといった物件は見あたらない。まあくんは既に数百件以上にのぼる、ブエノスアイレスの物件を、ほぼ見尽くした状態。。。。「明後日には出発だから、今日、明日中にはどれかに決めないと。。。。」と、まあくんは、めぼしい物件を2つピックアップ。立地条件もいいし、写真で見る限り、悪くはなさそう。。。。。早速、物件を見せてもらいに行った。まず、一つめの物件。。。。。アパートの入り口で待ち合わせた女性に案内されて、部屋の中を見せてもらうなりビックリ。。。。。。「ひええええええ、あのソファー、座ったらダニにやられそう」と、私は、薄暗いリビングを見渡しながら言った。「不動産が仲介してないから、お得かと思ったけど、写真と全然違うよ。とんでもねえなあああ」と、まあくん。当然却下。そして2件目の物件。少し狭いけど、センスはそこそこ。しかし、寝室、リビングの両方の窓から、墓場が一望できる。。。。。(したくないっっちゅうの!!)「まあ、俺は大して気にならないけど。。。。。。」「うんんんん。。。。。」 もう、あれだけ、めぼしい物件を見尽くした結果、これとは。。。。。。。これ以上、何もでてこないのは、私も納得済み。。。。。仲介の女性に、「今日中に、ネットでカード決済すればいいですよね」と、まあくん。すると、「今日でも明日でも、大丈夫よ」と、女性は言った。そう??んじゃあ、まだ、ちょっと余裕あり。。。。という印象。早速、帰ったら、まあくんは、ひたすら探し始める。夜中の2時頃になっても、必死にやり続けてる。「だめだああああ、やっぱり、何もねえええええええええ!!!!!」と、言いながら、ベットへやってきたのが、夜中の4時。「まあくん、ありがとうねえ、ありがとうねえ。。。。。」と、私も寝ぼけ眼で答えた。そして、朝9時起床。まあくんは、再びパソコンに直行。ここの部屋を明け渡すのは14時。その後のメンドーサ行きのバスは15時。まあくんは、ねばる。ねばりにねばる。。。。。。12時を回った頃、「おおおっっっっ!!!なんか、良い物件が、今、ネットの掲示板場にアップされたぞおおおおっっっ!!!!しかも、オーナー直だっっっ!!」と、突然、まあくんは大きい声で言った。「どれどれどれどれ????」と、いいながら、私もかけつける。許容範囲の値段。写真では、同程度の物件に比べて、遙かにセンスが上回る。早速まあくんが電話し、14時15分にアポをとった。私達は、速攻で住んでたアパートの引き渡しの準備に取りかかった。しかあああし、急いでるときに限って、14時にくるはずの引き渡し先の不動産の人が15分程遅れるとのこと。。。。。。私はアパートの1階へ荷物を全て下ろして、イライラしながら待つこと15分、のんびりと不動産の女性がタクシーを降りてきた。引き渡し手続きはまあくんに任せたので、私はタクシーを掴まえ、荷物をトランクに入れ、後部座席でまあくんを待つことにした。5分ほどで、まあくんが降りてきてタクシーに飛び乗り、出発!2時28分、到着。60前後の落ち着いた感じのオーナーに促されて、ドアを開けると、照明に照らされたお花が目に飛び込んできた。やっっったああああああああああ!!!!センスばっちりっっっっっっ!!!!!!!!!そして、リビング、ベットルーム、バスルーム、どれを見ても、そこそこの高級感のある家具で統一されている。(今まで住んでたところに比べると劣るけど、こっちの方が、安いので良しとしましょう)まあくんは、私に確認をとるまでもなく、オーナーに契約したいとすぐに申し出た。そして、15分近く、契約にとまどり、待たせたタクシーに飛び乗ったのが14時47分。「嬉しいなあああああああああ、有り難うまあくん、ああああああ、神様ありがとう!!!!」と、私は、タクシーの後部座席で、まあくんの腕によりかかりながら言った。「あのねえ、神様じゃないでしょ。俺が、諦めないで探し続けたのっ。ったく、神頼みしたって、探すのを止めたら、何も変わらないんだよっっっ。。。何回言っても、分からないんだねえ優美ちゃんは。。。。」「あ、そうだそうだ、まあくんだ!!!まあくん、凄いっっっ!さすがっっ!!!有りがとおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっっっっ!!!!」そして15時のバスにすべりこみセーフ。。。。。。。ふううううううううううううううううううにしても、墓場の見えるアパートにならなくって、マジでよかった。。。。。素敵なブエノスアイレスの生活が、憂鬱になるところだったよ。。。。。。。これで心おきなく、明日からのバリローチェ、メンドーサの旅行ができる!!
2007.02.22
コメント(2)
「ウォルフガングは、何時までにアパートを出れば間に合うの?」と、私はスペイン語レッスン修了後、私はまあくんに聞いた。「18時半までに出れば大丈夫だって。あいつに構ってる時間があんまり無かったから、最後の日ぐらいは遅い昼飯を付き合ってやらないと」と、言いながら急ぎ足で歩くまあくん。今日は、この1ヶ月半近く、ほぼ私達の生活の一部に溶け込んでたウォルフガングが、ついに帰国の途につく日なのだ。16時15分、煉瓦造りのリコレッタビレッジへ到着。緑に囲まれた広場のベンチで座ってると、ウォルフガングが現れて、「二人にプレゼント」と言いながら小さな袋を私達に差し出した。中を見ると、20ページくらいの小さなタンゴの本。「おおおおおおおっっっ!!!有りがとおおおおおおっっっ!タンゴの歴史が分かる上に、スペイン語の勉強になるじゃんんんんっっっ!!!」と、私は超感激。でも、一ヶ月に及ぶ滞在のお礼の割には、ずいぶん安くすませたなあ。。。まあ、いっか。。。。「そう思って買ったんだ。これを見たら、もう、口論をする必要なくなるでしょ」と、ウォルフガングはふざけたような笑顔でウィンク。そして、1時間半ほど、レストランで最後のランチ。アパートへ戻ると、ウォルフガングはほぼ帰る準備をし終えていた。あと、6時半までは15分程の余裕がある。「あああ、ウォルフガングがいなくなったら、私は誰とスペイン語会話の練習をすればいいの??」と、しんみりした口調で、彼の帰国を惜しむように私は切り出した。ちょっと嬉しそうな感じで、ウォルフガングが「でも、しょうがないんだ。。。。男は旅立つもので、女は…….」と、話し出そうとしたその時…………ピンポーンと、呼び鈴が鳴った。「え?誰?」と、私はまあくんに言った。「あ、あいつらだよ。。。。バックパッカーについてのインタビューをしたいって言ってた、山で出会ったイギリス人。。。。。。。6時半にくるって言ってたのに、早めに来ちゃったよ。。。。。。」と、まあくんは言いながら、1階まで迎えに行った。ありゃ、ウォルフガングとの最後のひとときだというのに。。。。。二人が部屋まで来ると、私達は軽く挨拶をかわした。そして、まあくんは、すっかりその二人との会話で盛り上がってる。ウォルフガングとのお別れを惜しむモードは、一気に吹き飛んだ。せっかく盛り上がってるところ悪いけど。。。。という感じで、「じゃ、マサアキ、俺は行くよ。。。。。。」と、割り込みながらウォルフガングは言った。「ああ、じゃあ。。。。後で連絡いれるよ。。。。」と、まあくんは軽く言って、再び二人との会話を続けた。「私は、下まで見送りにいってくるね」と言いながら、ウォルフガングと部屋を出た。外へ出ると私は、「せっかくの、お別れのひとときだってのに、ごめんねええええ」と、言いながら、半分、そのタイミングの悪さに笑いをこらえながら言った。「うん。大丈夫。人生こんなもんだよ」と、言いながらウォルフガングはタクシーをつかまえた。「本当は、最後のひとときくらい、もっと良い感じで送り出したかったのに~っっ」と、私は、大袈裟に惜しみながら言った。「大丈夫。人生は、あまり期待しちゃだめだって、YUMIも言ってただろ」と、言いながら、ウォルフガングはタクシーのトランクへ荷物を入れた。「でも、こんなのは、ひどすぎるよおおおっっ!ウォルフガングが可哀想~っっっ!!」「大丈夫。僕は、男だから、大丈夫。。。。。。。ありがとうYUMI、いろいろ有り難う」と、ウォルフガグは言いながら、タクシーに乗り込んだ。窓から顔を出したウォルフガングが「大丈夫。。僕は大丈夫。。」と言ってる中、静かなアクセルと共に車は走り出した。まあ、ウォルフガングとは、近いうちに又会えるから、お次は、出迎えの準備だ!!部屋へ戻るとカウンターの上には、おみやげのワインが二本並んでる。冷蔵庫を見ると、人参が一本だけあったので、野菜スティック状にして醤油マヨネーズと共に出した。話も一段落が済み、二人はインタビューの準備。「意外としっかりした機材を持ってきているなあ」と、まあくんは、日本語で私に言った。そしてベランダで取材開始。最初は私も、隣で何を語るのか聞いてたけど、なかなか終わらないので、ソファーで横になった。ふと気づくと、日が傾きだしたからと言って、部屋の中で続きを始めた。既に1時間が経っている。「いやああ、哲学的な話が非常に興味深かったです。。。どうも有り難う」と、インタビューの男性が満足気に言った時には、既に9時半をまわっていた。話を聞くと、二人は今後1年間、旅をしながら取材を続け、ドキュメンタリーをつくるらしい。。。。ちゃんと、契約書(?)まで用意してある。相当、本気のようだ。。。。二人が去った後、私は、「また、だらだら話してたんじゃないの?」と、まあくんに言いながら、後片付けを始めた。「ん?いやあ、まだ言いたいことはいくらでもあったんだけどね」と、まあくん。「どうせ編集されたら、数分にしかならないのに」「まあね。。。。。にしても、彼らがもってきたこのワイン、まずいなああ。。。料理用行きだな」と、言いながら、まあくんはグラスのワインを飲み干した。
2007.02.18
コメント(4)
「すいません、このバスは、エスコバール行きですか?」と、私は、バスの運転手に聞いた。「そうだよ」と、愛想良く頷く運転手。まあくんと私はバスに乗り込み、一番前の席を確保。バスが走り出すと、私は「終点で降りるようにって、マリアに言われた」と、言った。「どのくらいかかるって?」「1時間くらい」マリアとは、私のはとこ、ダニエル・アライワの娘(27歳)。父のいとこ(男性)が戦前にアルゼンチンへ移住したということを、私が日本を出発する直前に初めて教えてもらった。そして先日、日本大使館の職員に電話番号を調べてもらい、思い切って連絡してみたのである。父のいとこは既に亡くなっていたけど、今日は、その息子のダニエル一家と、初対面の日なのだ。どんな人達かなあ。。。。。すごく貧しい暮らしをしてたらどうしよう。。。。。チビ、デブ、禿げの三点セットだったりして。。。。。等々、いろいろと心配するものだ。。。。スペイン語の先生曰く、アルゼンチンでの、日本人移民に対するイメージは、中国人や韓国人に比べ、非常にいいらしい。。。。ということは、人種差別による劣等感の中で生き抜いてきたという悪要因が、ある程度は緩和されるな。。。。と、私はホッとした。多くの移民は、アルゼンチン人がやりたくない仕事を低賃金でする。そして勤勉な日本人には、成功した人達も多いとのこと。。。。エスコバールへ到着。早速、ダニエルへ電話すると、10分もしないうちに、アジア人の運転している車が目前で止まった。中からは、175センチくらいのすらりとした、男性が出てきた。サングラスをはずすと、予想外にさわやかな雰囲気だ。チビ、デブ、禿げの、どれにも当てはまらないとは、50過ぎた男性にしては優等生だ。。。なんせ、まあくんの手前、初めてあった人とはいえ、私と血縁関係にある人なんだから、救いようのない見てくれよりも、外見がいいに越したことはない。「始めまして」と、私達は挨拶をかわしながら、握手をした。ダニエルの日本語は、外人が話してる日本語といった感じ。。。。まあ、9年前にお父さんが亡くなって以来、日本語を使う機会もないのだから、仕方がない。。。。ダニエルが運転席に戻る間に、私はまあくんに、「意外とかっこいいじゃん。。。。。」と、小声で言った。「雰囲気が小泉元首相ふうだね。。。。。」と、まあくんは言いながら、車へ乗り込んだ。さて、何から話していいものやら。。。。。とりあえず、父から聞いた荒岩家の親戚情報などを話してる内に、家の門の前へ着いた。門の先には、綺麗に芝生が敷き詰められた、大木が数本ある大きな庭があり、その150メートル程先に、石造りの家がある。おおおっっ??超貧乏だったらどうしよう……という、もう一つの心配事も、一気に吹き飛んだ。ダニエルに促されて、家の中へ入ると、白人系の50前後の女性が、優しい笑顔で出迎えてくれた。ダニエルの奥さんで、ドイツとイタリアのハーフ。彼女の両親も、アルゼンチンへ移民してきたとのこと。ちなみに話せるのはスペイン語だけなので、必然的に、ここからは、スペイン語。。。。。私達が席に着くと間もなく、マリアが彼氏と共に奥の通路から現れた。可愛い!というのが、第一印象。お母さんに似て、柔らかい雰囲気を持った、誰からも愛される感じの女性だ。アジア系の血が入ってるとは、全く思えない。。。。「Encantada!!(始めまして)!!」国籍も育った環境も全く違うというのに、彼女と私は、多少の血縁関係があるのかああと、ちょっと感激。しかも、この年になるまで、そんな親戚が存在してたなんてことすら知らなかったのだから、尚更だ。ダニエルに会ったときよりも、もっと感激。。。。「先日の説明で、どのバスに乗っていいかすぐ分かりました??」と、マリア。「うん。すぐ分かったよねえ。。。」と言いながら、私は隣で頷いてるまあくんを見た。しかし、こんなに感じのいい家族が私の親戚とは、まあくんの手前、私も鼻が高い。。。。マリアと、お母さんは、美味しそうなケーキやお菓子を、次から次へと持ってきて、ダイニングテーブルへ置いた。しばらくして、息子二人の登場。朝帰りとかで、寝ぼけ眼だ。一番下の息子は18歳で、ダニエルには全然似ていないけど、もろアジア人の顔立ちで、性格も内向的。その上の息子は22歳で、既に独立して店を持ち、一見、メキシコあたりにいそうな顔立ちだ。私達のスペイン語で、間が持つかな??と、ちょっと心配しながらも、お互いの生活のことを話し始めた。亡くなった父のいとこは、なんと戦前に移住してきたらしい。ブラジルで船を下りる日本人が多かった中、とにかく日本から一番遠い国へ行きたいということで、アルゼンチンまで来たとのこと。そして、日本人の女性と結婚して、バラ園を経営。しかし、言葉も通じない地球の裏側まで、当時、よく来ようと思ったもの。。。。その後に日本は敗戦したのだから、この地で築き上げて良かったとも思っただろうけど、まさかその後、日本の経済がここまで発展するとは、予想外だっただろう。。。。そういう激変を遠くの地で見てた日本人は、どんな心境だったんだろう。。。。と、本人がいたら是非つっこんで聞きたいところだった。ダニエルはというと、2001年のアルゼンチン通貨危機の際、会社を倒産させてしまったらしい。しかし、現在は、ドッグフードなどを取り扱う会社を新たに作り、ほとんどの借金は返したとのこと。両親から受け継いだ財産で、悠々と暮らしてるのかと思ったら、一度こけても、ここまで這い上がってこれるとは、凄いなあ。。。。。時間と共に、すこしずつ私達の間の緊張感もやわらいでく。私達の生活から旅の話などで、かなり盛り上がりをみせた。一段落して、家の中の案内をしてもらい、家の裏にある庭へ出ることにした。外へ出ると、なんと、サッカーのコートをつくっても余るくらいの綺麗に芝刈りされた土地が広がっている。と、同時に、数十匹の犬が一気に私達の所へ向かってきた!!!!ワンワンワンワンワンワン!!!!!!と、高い声から低い声のオンパレード!!!!!「うわあああああっっっっ!!!どうしちゃったの???これ???」と、私が驚きをあらわにした。「さっきの、あなたたちの野生ゴリラの話みたいに、センセーションでしょ!!!??私、犬が大好きで、道ばたで見捨てられた犬を見てると、ついつい、家に持って帰ってくるの」と、ダニエルの奥さん。犬好きのまあくんは、「しかし、こんなに広い庭もあるし、自分でドッグフードの会社やってるんだから、食費も全然かからないだろうし……..いいなああ、これ」と、言った。「ダニエルも犬好きなんですか??」と、私は聞いてみた。「んんんん」と、特に、ダニエルは頷かなかった。「でも、どうしてこんなに広い土地を購入したんですか?」と、聞いてみた。「本当は、養鶏所をやろうと思ってたんだけど、止めたんですよ」と、ダニエル。なるほどねえ。。。。まあ、理由無しには、ありえないサイズだよね。。。。。その後、私とマリアはメールアドレスの交換をした。「本当は、来週いっぱいでブエノスアイレスからは去る予定だったんだけど、2週間ほど旅行してから、また戻ることにしたの」と、私は言った。「じゃあ、その時にでも、また会いましょう」と、マリア。そして19時頃、私達は大満足の中、マリアの彼氏の車に乗って帰路についた。
2007.02.13
コメント(6)
土曜の夜。今日はサロン・カニングというタンゴで有名なサロンで、二つのタンゴレッスンがある。熱心な私たちは、その両方のレッスンを受講。レッスン後は、そのサロン自体が、朝方までアルゼンチンの人々のタンゴの踊り場と化す。せっかく習ったことを本番(?)でやればいいものを、まあくんは踊りもせず、いつも「アパートへ帰る」….と言う。。というのも、まあくんは、レッスン以外で、人前で練習するのが大嫌い。だから、レッスン修了後は、いつもアパートへ帰ってから復習する。裏を返せば、隠れて練習するタイプ。「一生懸命練習しちゃったよおおおお」と、必要以上に宣言する私とは、正反対。裏表ゼロの私からしてみれば、「コソコソやりやがって。。。。。。」と、思うのと同時に、「私って馬鹿かな??」と、考えさせられる。。。。「今日はどうする??」と、私は、踊り場を囲んでいる椅子で一休憩しながら、期待せずに言った。「うん。。。。そうだなあ。。。。。そろそろ試してみるか。。。。。。」おおっと。。。。意外な展開。。。。「じゃあ、さっき練習したの、組み込みながらやってみようよ!!」と、私は一気に明るい声で言った。「ちょっと待って。もうちょっとしてから。。。。。」踊り場を見ると、まだ時間も早いので、少数のカップルしか踊ってない。スペースがある分、人にぶつからなくて踊りやすいのだけど、その代わり、中央に位置する踊り場を囲んで着席している人達から、ジイイイイイイイイイっと、観察される。この観察眼が、非常に痛い。。。。。上級者にとっては、ここぞとばかりに披露できる機会でも、初級者の私たちにとっては、一番踊りずらいのだ。。。。。いや、私たちというよりも、完璧主義のまあくんにとっては、最悪のコンディション。なんせ、全てのリードから、技の組み込み方、人にぶつからないように咄嗟に機転をきかせて他の技に持って行く等々、瞬時に判断する男性の仕事はたっっっっっくさんある。そうとう体に、技が染み込んでないと、機敏には対応できない。30分もすると、次第に踊り場は、タンゴのセンチメンタルなリズムにのって踊る人々で満たされてきた。「よしっ、行くぞ」と、まあくんは言いながら立ち上がった。「うん」と言って、私も続いた。基本のステップから入り、八の字ステップ、ガンチョなど、最近アパートで練習してた技が次々と出来る。一曲目終了。「なんか、それなりに、格好ついてるんじゃない??」と、私はまあくんの耳元で言った。「うん。。。。。こないだ練習した、足を引っかけるのやりたいなあ。。」と、まあくん。次の曲がかかりだしたけど、皆、すぐには踊り出さない。曲と曲の間は、初めて踊ったパートナーと感想を述べたりしているものだ。。。。。そして、次第に踊り場全体が動き出す。この頃になると、今度は、自分の踊るスペースを確保するのが難しくなる。上手ければ上手い程、ちょっとした隙間をみつけては、スムーズに踊っていくらしい。「人が多くって、バックステップから入っていく技は、やりずらいなあああ」と、まあくん。サロンでは、常に一定方向に踊るので、バックステップをすると、後ろから来た人とぶつかるのだ。流動性の激しい外回りは避けて、内側へ。。。まあくんの合図で、まあくんの足に私の右足を引っかけて蹴り上げる技が決まった。そして、反対側へリードされて、同様に、蹴り上げる。「おおっっっ!決まった決まった!!!」と、私は大喜び。「うん。今、ちゃんと足が入ったね」と、まあくん。サロンで、この技をやるカップルは、あまりいない。当初、全く踊れなかった私たちが、踊り場を遠目で眺めてたとき、この技を決めてる人を見て、私もやりたいなあああ。。。。と思っていた。。。。。ちょっと優越感まじりの嬉しさが込み上げる。タンゴの曲が終わり、ポップスが流れ出すとともに、全員が、自分の席へ戻る。「初めてまともに、踊れたね!!」と、私は今まで踊れなかった不満が一気に解消された笑顔で言った。「うん。。。。。」と、まあくんも、笑顔。「あと、ブエノスアイレスも残り一週間かああ。。。。。せっかく、踊れるようになってきて、スペイン語も話せるようになってきたのに。。。」と、私は不満げに言った。「ここで辞めたら、スペイン語もタンゴもすぐに忘れちゃいそうだね。。。」「この後のブラジルの滞在期間短くする?」「優美ちゃんが行きたがってる2月末のリオのカーニバルを諦めれば、いくらでも調整きくよ」「うううううんん。。。私たち、サンバとかサルサの曲自体が、好きじゃないもんねえ。。。。」「来週の旅行から戻ったら、他のアパート借りて、もう一ヶ月ブエノスアイレスに滞在するか?」「それいいねえ。。そうしようか。。。。。」と、言ったとたん、私の気分は、急に明るくなった。そして、再びタンゴの曲が流れ出したので、私たちは踊り場へ戻った。
2007.02.10
コメント(0)
なんだか、毎日が忙しい。朝9時頃に起きて、まず、寝ぼけ眼でスペイン語の自習。そして、11時頃から支度をして、12時にはアパートをでる。1時から4時までスペイン語のプライベートレッスン。5時にアパートに戻り、昼食と夕食をかねた料理の準備。夕食を終えたら、タンゴのレッスンへ。。。。家に帰ると、10時過ぎ。シャワーをあび、スペイン語の予習をして、2時~3時ころに就寝。「ああああ、忙しい忙しい」と、言いながら、私はちょっと空いた時間を見つけて部屋の掃除。「優美ちゃん、屋久島のおばさんみたいだなあ。。。。。」と、まあくんは、読んでた本から目を離して言った。“屋久島のおばさん”とは、以前、屋久島にまあくんと行ったときに、泊まった宿のおばさんのこと。島に住んでるのだから、のんびりしてればいいのに、敢えて自分でやることを見つけ出しては、あたふたと必要以上に忙しく歩き回っていた。。。「あのねえ。。。。私は、本当に忙しいのっっっ!!あのばあさんと一緒にするなっっ!!」それとは対照的に、一人で一日中、暇をもてあそんでるウォルフガング。せっかくのバケーションだというのに、まあくんも私も、やることがあるので構ってあげられない。週末にウルグアイに行こうと私たちを誘ってたけど、それも結局、私の親戚に会うことになったので駄目。。。。。しかも、私たちは、夜遊び好きでもないし、酒好きでもないので、バーに行くわけでもクラブに行くわけでもない。ウォルフガングの最近の行動パターンは、11時頃、私が朝食を取ると共に目覚めて、パソコンに向かう。私たちがアパートを去るとシャワーを浴びる。外に出ようかなと思った頃、私たちが帰って来て、夕食を共にする事になる。お腹がいっぱいなので、わざわざ外に出る必要が無く、私たちがタンゴに行ってる間、アパートにいる。一日中籠もってるのに耐えきれなくなり、帰ってきたまあくんを引き連れて、夜に映画鑑賞へ。「こんなんじゃ、だめだ。。一日があっという間に終わってしまう」と、ウォルフガングは、朝食のコーンフレークを食べてる私の側で、自問自答しだした。朝のこの時間帯は、私にとって、ウォルフガングとスペイン語会話の時間にもなる。「ん?人生なんて、そんなもんだよ。ウォルフガングの人生は、こんなもんだって、受け入れないと。。。人生に、あんまり大きな期待を持つのは、良くないんだよ」少し間をおいてから、「うん。。。。。」と、素直に答えるウォルフガング。「大きな期待を持つ人間は、不幸になるんだよ。」「。。。。。。うん。。。。」「ウォルフガングの人生は、スペシャルじゃないの。普通なの。。」と、言いながら、私はりんごの皮を剥きだし、「ふ・つ・う。。。。分かる?」と、付け加える。私の言葉に、笑いを含みつつ顔を歪めながら「うん。。。。ふつう。。。うん」と、いったん納得してみせる。「でも、何か、プランだけでも持たないと、何もしないまま、一日が終わってしまう!!!」と、ウォルフガングは言いながら、カウンターをわざとらしくドンッと、たたいた。「規則のある生活をしてた人が、急に規則が無くなる生活をすると、何をしていいんだか分からなくなるんだよね。。。。。よくあるパターン。。。。」と、言いながら、私は平然とりんごを一口。「よくあるパターン…….」と、神妙そうに考えているウォルフガング。「自分の時間を自分でコントロールするのは、もの凄く難しいんだよ。分かるかなあ。。。。」「。。。。。。うん。。。。分かる。。。。。。」「あっ、やばいっ!もう、レッスンに行かないと」と、私はカウンターの椅子から飛び降りて、二階へ荷物を取りに言った。朝方までウォルフガングに連れ回され、ベットでぐったりとしてる、まあくんに、「じゃ、後でね!!」と、言って私は慌ただしくアパートを出た。
2007.02.09
コメント(4)
実は、私にはアルゼンチンに住んでいる親戚がいる。とはいっても、非常に遠い親戚で、今回アルゼンチンに行くと父に話をした時に、初めてその事実をしった。私の父のいとこが移民として、その昔、アルゼンチンに移住したらしい。もしも生きてるとしたら、85歳くらい。。。。その子供にしても、50~60歳。話が合うとも思えない。。。。既にアルゼンチンへ来て2ヶ月近くが経とうとしている。その間、連絡をとろうかどうか、迷ってはいたのだが、敢えて何もしなかった。考えても見たら、会ったこともない人に、「親戚で~す!!」とか言ったって、どう対応するべきか相手も戸惑うだろう。。。。等々、色々考えてしまうものなのである。私と同じ先生のスペイン語のレッスンを受けているイギリス人の女性が、同様に、この国へ移住した遠い親戚を訪ねたら、大歓迎されたと、先生から聞いている。果たして、私の親戚も、同じなのかなあ???んんんん~と、この2ヶ月、色々と模索していたのだけど、パタゴニア旅行から帰ってきて、急にそんな心配がふきとんだ。歓迎するしないは、私が心配する事ではなく、先方が決めることだ!!「日本大使館に、名前だけで住所分かるかどうか聞いてみる」と、言って、私は受話器を手にした。その手の話には、面倒くさがるんじゃないかな?と、思いきや、意外と大使館の人は、丁寧に受け答えをしてくれて、住所が分かり次第、折り返すとのこと。。。。そして、翌日には連絡がきた。「確かにその方は、アルゼンチンにいましたが、現在は亡くなられました。その、息子さんが、現在、ブエノスアイレスの郊外に住んでらっしゃいますよ。娘さんがいて、数年前に日本へ留学していたそうですよ。電話番号を、教えても構わないと言うことなので、今からいいますね。。。。」おおおおおおおおおお(感動)「日本語は、話せるようでしたか?」「問題は無いようでしたね」電話を切ると、早速、そのまま、荒岩さんという親戚へ、電話してみた。もしも彼が日本に住んでたら、私のはとこに当たるとはいえ、わざわざ連絡なんかはしないだろうに。。国が変わると、行動もかわるもの。。。。受話器の向こうで「Hola」という若い男性の声がした。「もしもし、日本語は大丈夫ですか??」というと、少しして若い女性に変わった。あちゃ、お父さんがいないのかあ。。。。。しゃあない、私のスペイン語でトライしてみるか。「もしもし、あのう、私、そのう・・・・・あなたの親戚なんですけど」と、いきなり親戚宣言。というか、それぐらいしか言いようがない。。。「あなたのことは、聞いてます」と、非常に喜んだ感じの声で受け答えをしてくれる。「もしかして、あなたが娘さんですか?日本に留学してたっていう??」「そうです。でも、日本語は最近使ってないから、少ししか話せない。。。。」「ああ、大丈夫、大丈夫。私のスペイン語で、なんとか話するね。ええと、私は今、彼氏とブエノスアイレスに住んでるんだけど、あと2週間しかいないから、その前に是非お会いしたいなあと思って」「私たちも、大使館から話を聞いて、驚きました。是非、来てください。いつがいいですか?」「今週の日曜はどうですか?」「父が、平日は仕事で忙しいから、日曜ならちょうどいいです。後で、父から連絡させますね」「そうですね。じゃあ、また、詳しいことはその時に」そして、受話器を切ると、まあくんと、ウォルフガングが私の方を見た。(ウォルフガングは、二日遅れでブエノスアイレスに到着)「YUMI、電話で現地の人と話せるなんて、すごいじゃないか」と、驚きのウォルフガング。「ん??なんか、ここ数日で、急にスペイン語が一気に上達していってる気がする。まあくんも、ビックリした???」「ん??あああ、うん、凄いねえ凄いねえ」それにしても、私の親戚と会うのは5日後だから、それまでに、スペイン語、更なる磨きをかけなきゃっっっ!!
2007.02.09
コメント(2)
バスを降りると、湖岸から500メートルほど先に、湖全体を覆うかのように押し寄せてくる雪のかたまりが見えた。「あれが氷河?」と、私は確認するかのようにまあくんに訪ねた。まあくんは、私の言葉を聞き取れなかったのか、「ボートのチケット買ってくる」と言い、チケット売り場へ向かった。想像してたものと、ちょっと違うなあ。。。。。イメージでは、タイタニックに出てくるような氷山が、たくさん浮いていて、その周りをボートで近づいて見に行くものかと。。。。。でも、まあ、ボートに乗ってもっと近づけば、迫力があるのかな??私たちが来たのは、アルゼンチンのロス・グラシアレス国立公園。直訳すると、氷河国立公園。4459キロ平米(山梨県とほぼ同じ大きさ)の公園内には47の氷河がある。南極、グリーンランドに次ぐ氷河面積で、特徴は、動きが活発であること。冬の最低気温が比較的高いので、氷の溶融、再氷結が短いサイクルで繰り返されるからだ。私たちの目の前に広がっている氷河は、公園内最大のペリト・モレノ氷河。フェリーに乗ると、まもなく日本人の団体一行が次から次へと乗り込んできた。ああ。。。。これで、何を話しても、聞かれちゃうよ。。。。。さて、フェリーが出発してだんだん氷河に近づくにつれ、フェリーの両端に人が集まり、我先にとシャッターを切り出す。「前の人の頭がじゃまで、これじゃ、ろくな写真が撮れないよ~」と、言いながら、私もなんとかいいアングルを探す。フェリーは、いつ崩れてくるか分からない氷河から、100メートル以上は距離を置いて、左そして、右へとゆっくりと旋回した。高さ約60~100メートル 幅1キロ程の氷河。(フェリーで見える範囲外にも続いてるのを計算すると5キロはあるらしい)期待していた迫力というものは無いけど、まあ、こんなものかな?20分も同じ箇所を廻ってる内に、飽きがでてきたのか、シャッターの音が次第に少なくなっていった。フェリーが湖岸へ着くと、再びバスに乗り、フェリーから見えなかった方の氷河のビューポイントへ。。私たちが、着く直前に、観光客の驚嘆の声が聞こえてきた。何事かと思って走っていくと、丁度、氷河が湖面に崩れ落ち、煙のようなものを吹き上げてる所だった。「ああっっっ!!逃したよっっっっ!!」と、私は悔しがってると、「まあ、次があるでしょう」と、まあくん。。。。どうやら、氷河見学の醍醐味は、崩れる氷河を見物することのようだ。。。。流れの速いのが特徴である、ここの氷河は、平均して1日に中央部で2メートル、両端でも40センチ進んでいる。この動きが崩落を引き起こす。パン、パンという、乾いた銃声のような音が聞こえると、どこかで氷に亀裂が入ったサインだ。しばらくすると、雷鳴を思わせるような轟音と共に、氷河の一部が崩れ落ちる。しかし、音の割には、小さな崩落だ。。。。。photo:フェリーに乗ってるときに崩壊したのを観れたら、最高だったのになああ。。。。記録に残る大崩落が最後に起きたのは、1988年2月17日とのこと。こんな小さな崩落でも、すごい音だから、その時の崩落をビデオで見るだけでも恐怖さえ憶えるという。。。「なんか、最初に逃した規模の崩落は、なかなか起きないねえ。。。。。今日は曇り空だからいまいちかも。。。」と、私は空を見上げながら言った。そしてひたすら待つこと30分。。。。「だめだ。。。。もう行かないと、帰りのバス乗り遅れる」と、まあくんは言って立ち上がった。結局3度ほどの小規模な崩落を見て、私たちは、バスの集合場所へ向かった。これで、一週間のパタゴニア旅行は終了。私たちは、夕方の飛行機に乗って、ブエノスアイレスのアパートへ向かった。
2007.02.08
コメント(3)
チリのプエルト・ナタレスから、バスでアルゼンチンの国境を渡ってエル・カラファテへ着いたのは、15時を過ぎたころだった。私たちは駅内にあるインフォメーションセンターへ直行。「まあくん、どれもこれも1日がかりのツアーしかないねえ。。。。。どうしよう」「うううん、まいったねえ」と、まあくんは、ロス・グラシアレス国立公園にある氷河パンフレットを見ながら言った。「明日は、何時に飛行場に行かなきゃいけないの?」「3時には着いてないと。。。。。」「うううううっっっ ってことは、ここまで来て、氷河を見ないで帰らないといけないのおおお??」「まあ、しょうがないよね」「楽しみにしてたのにいいいいいいいいいい」事の発端は、昨夜プエルト・ナタレスの宿へ到着したとき発覚した。「予約してたバスは、今朝、出発しちゃったわよ」と、3日ぶりに会った宿のおばさんが、私たちに言った。「え??明日の朝を予約してませんでしたか?」と、まあくん。「NO NO あなたたちは今朝のを予約してたのよ。お陰で、昨夜の宿も、あなた達の為にキープしてたのに、無駄になったわ」と、おばさんは、古いコンピューターをチェックしながら言った。「え?どういうこと?まあくん」「あれ???勘違いしてたのかなあ???」と、まあくんは言いながら、指折り日にちを計算している。「ああ、どうやら、俺の勘違いみたい。。。。。明日の朝、同じバスとれますか?」「ちょっと待って」と、おばさんは、受話器をとって確認しだした。「やばいよ。。。。これでバスなかったら、翌日の飛行機にも乗れないよ。。。。。。」と、まあくん。。。「えええええ???ちょっっとおおおおおお」幸い、バスは2席だけ余ってた。。。。。ふううううううう。。。。そして、バスのキャンセル料もしっかり払わされて、到着したのが、ここ、エルカラファテ。2泊するつもりだったのが、当然1泊しかできないのだ。「まあいいや、とりあえず宿でも見つけに行こう」と、まあくんは言いながら、思いバックパックをしょった。「先に、宿に連絡してからの方がいいんじゃないの??」「大丈夫だよ。もし、本に載ってるのが埋まってても、他にもたくさんあるから」と言って、外へ向かった。10分程で着いた宿は、全て満室。。。。近所にも3件ほどあったけれども、どれも満室。。。。「ちょっと、どういうこと???観光シーズンとはいえ、信じられないなあ。。。。」と、私は、まあくんの後ろを歩きながら言った。私たちは、駅に戻って、インフォメーションに聞いてみることにした。インフォメーションの女性は、2カ所ほど、まだ空き室のある宿を教えてくれた。先に確認の電話をしようとしたが、公衆電話も使用中でなかなか空きそうにない。直接、行ってみると、15分ほど待たされたあげくに、4人部屋しか残ってないとのこと。その近くにあった3つの宿に行ってみると、やはりどこも満室。やむなく4人部屋のある宿へ戻り、部屋を確保。「そんなに人気のある観光スポットだったの??」と、私は言いながら、リュックをベットの上へ置いて、そのまま横になった。「まあ、南極にでも行かない限り、ロス・グラシアレス規模の氷河は観れないみたいだからね」「そおなのおお??余計、その氷河、観たかったなああああああああああ」「じゃあ、タクシーでもチャーターしていくか。。。。。1万円くらいかかるけど」「あ、そういう手もあったの??」一休みしてから、私たちは、エル・カラファテの街を見学。メインの通りを歩いてると、ツアー会社があった。こりずに、私たちはツアーの内容を確認すると、「私たちのエージェンシーでは取り扱ってないけど、朝8時発~14時に戻ってくるバス会社はあるわよ」と、デスクの女性が教えてくれた。「えええっっ?・?本当???」と、私たちは、その言葉に飛びついた。詳しく場所を教えてもらって、私たちはそこへ直行。幸い、バスの空席もあり、予約!!!!!!タクシーで1万円かかるところ、二人で2000円ですんだ。やっったああああああああああああああああああ!!!!!!!!まあ、氷河トレッキングもしたかったけど、この際、氷河を観れるだけでもいいや!!!!
2007.02.05
コメント(0)
前日は、何もせずに、一日中雨空の中をうだうだしていたせいか、まだ夜も明けないうちに、私は目が覚めた。まあくんの腕時計を覗くと、朝の3時半。まあくんも同時に目が覚めたようだったので、「どうしよう、もう、上りにいこうか?」と、提案してみた。「んんん?」と、それほど気の乗らないまあくんの返事。15分ほど眠気眼で考えたあげく、ちょっと外の様子を確かめることにした。まあくんにテントのジッパーを開けてもらい、頭をテントから出すと、辺りは一帯、闇に包まれていた。寝起きの体温の下がった体に、外の冷えた空気がこたえる。木の葉の隙間から、夜空を見上げると、どうやら雲一つない。「まあくん、これは行けるかも。。。。。」と、言いながら、私はトレッキングシューズを履いて、山の頂上が見える所まで行ってみた。ここ二日間、雲なしではお目にかかれなかったトーレス・デル・パイネ(トーレスとは、スペイン語で、塔という意味)が、くっきりと闇夜に浮き出ている。私はテントに戻るなり、「まあくん、まあくん、今日は紛れもない快晴だよっっっっっ!!!」と、ウキウキしながら言った。「今からだと、日の出には山頂に間に合わないけど、行こうか」と、まあくんは、一度決断すると、さっさと用意をしだした。私もテントの中に再び入って「あっはっは~!!ウォルフガングに予言したとおり、バッチリ快晴だよっっっ!!!!」と、辺りのテントには聞こえないように、喜びながら私は言った。20分程で用意を終え、私たちは小さな懐中電灯を手に、ロッジ前の橋を渡った。足下を懐中電灯で照らしながら、川岸をどんどん進んでいった。そして山道を1時間ほど歩いていると、次第に朝焼けが背後を彩り始めた。「やばいやばい、日が昇っちゃうよ!!」と、私は言いながら、足早に進んで行くと、急に木々が無くなった。「あ、ちょっと待って!!」と、まあくんは標識を見て、「ああ、ここから右に行くと、もう一つのロッジだね。ってことは、左側だ。これでちょうど、真ん中辺りまで来たって事だよ」と、まあくん。「え?ってことは、あと1時間かかるってことね。。。。やっぱり、日の出には、いくら急いでも間に合わないんだあああああ。。。。残念。。。」というなり、私は、速度を緩めて登ることにした。しばらく進むと、山の陰になったところに巨大な岩がたくさんあった。「岩についてる、赤い表示に従って、登っていけばいいんだよ!」と、まあくんが、私の後ろから背面から、言ってきた。私たちは、ひたすら、上り安い岩を選んで登った。15分ほどすると、朝日が差し込んできた。「しっかし、私たち以外、山に登ってる人、誰もいないね」と、私は言った。「うん。ちょっと中途半端かもね。朝日を頂上で見ようとしてる人達は、もう、着いてるはずだからね」と、まあくんが言って間もなく、上から男性二人が下りてきた。「Hola!」と、まずスペイン語で挨拶。二人は20代半ばくらいで、まあくんと、何やら話し出した。(ここは英語)話を終えたまあくんは、「あと、15分くらいで着くって。二人とも、朝日を見て下りてきてるらしいけど、今から行く方が、いいんじゃないかって。。。。。」「あ、ほんと?まあ、そうだよね。朝日だけだったら、まだ辺りも暗いだろうしねえ。。。。。」次から次へと、上から下りてくる人達を尻目に、私たちはひたすら上り続けると、絶大なる岩の後方に、ロッジにかけてあった写真の、トーレス(塔)と呼ばれる岩山3つが、その頭を少しずつ覗かせているのが見えてきた。朝日も段々明かりの強さを増し、青空の下、1200万年前に地下から隆起したという3つのトーレスはその全貌を、次第に明らかにしていった。そして、やっっっっっっっっと、頂上到着!!!!!!!!!!!しかもっっっっ、朝日を見てた人達は、この頃には、全員下山!!!!!!!!!!二人だけの、山頂だああああああああああああああ!!!!!あっはっはあああああああ!!!PHOTO:なぜか、タンゴポーズのまあくん汗をかいて登ったせいか、吹きざらしの山頂は、風でいっきに体温を奪われる。私たちは、いままで脱いでた服を再び着込み、岩の陰で、アボガドとツナのサンドイッチを作り出した。「寒くなってきたな~」と、言いながら、まあくんは、サンドイッチにかぶりついた。「せっかく、太陽が昇ってきた今が、見るのにいいチャンスだってのに、朝日めがけて登ってきた人は、寒さに耐えられずに、下山したんだね~。あ~よかった、ちょっと遅れて登ってきて!!」十分、満喫したあとは、下山。明るい日差しの中だと、山の様子も、行きとは全然違う。PHOTO:水が滴ってるそして、山小屋へ戻り、テントに荷物をおいて戻ってくると、まあくんが、さっき山ですれ違った二人組と何やら話をしている。「どうしたの?」と、言いながら、私は近づいていった。「ん?この二人イギリス人なんだけど、会社をやめて、これから1年がかりで世界一周するんだって。それで、旅で知り合ったバックパッカー達を取材して、ドキュメンタリー映画を撮ってるんだってさ。。。。」「へええ。。。。。」「で、俺の取材したいんだって。。。。。。二人とも俺と同じで、金融業界を辞めたみたいでさあ。。。。。なんか、さっき、山ですれ違ったときに、なかなか教育レベルの高い話し方をしてると思ったんだよね」「ええっっ??あんだけの会話で何か分かるの???」「うん。。違うんだよ。。。。。。」「へええええ。。。。。。」どうやら、インテリ同士はインテリ同士の話し方があるらしい。。。。。というわけで、その二人組とはブエノスアイレスで再び会うことになった。その後、私たちは、荷物をまとめて、二泊したロッジを後にした。
2007.02.04
コメント(2)
全67件 (67件中 1-50件目)