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■全日本大学野球選手権の準決勝・第2試合、注目された東京国際大vs慶應義塾大はスコア4-6で東京国際大が敗退した。(6月11日、準決勝)慶 020 002 002 =6東 103 000 000 =4(慶)竹内-山形-福谷、(東)伊藤-鈴木-岩崎-藤井■以下、スポーツ報知より。プロ出身監督同士の対決は、巨人などでコーチを歴任した江藤監督の慶大(東京六大学)が、広島を日本一に3度導いた古葉監督率いる初出場の東京国際大(東京新大学)に6-4で競り勝った。古葉監督が指揮する初出場の東京国際大、快進撃は決勝目前で止まったが一塁側の応援席から「古葉さーん、ありがとう」の声が飛んだ。3点を入れた3回は2人のバント安打、ヒットエンドランを成功させた。勝ち越しを狙った8回の無死一塁では二盗だ。プロ野球で日本一3度の名将は「バント安打は人工芝の特徴を生かしたし、二盗は慶大守備陣を見ての判断」と全てサイン通りに選手が動いたことを明かした。2番手の鈴木は今大会初登板とは思えない投球だった。それでも古葉監督は「でもね、勝ってなんぼです。珍しい内野の失策、ミスが出て足を引っ張った。勝ちたい、いいプレーをしようという気持ちが強すぎた。いつものプレーをしないといけないんですよ」と振り返った。就任4年目で全国4強、「秋にもう一度、神宮に来たい」届かなかった日本一へ課題が残った。 (以上、スポーツ報知)■ボクが神宮に到着したのは5回表だった。この時点で東京国際大はスコア4-2で2点リード。このまま試合が終わることを願いながら、ボクはこの試合を観ていた。でも残念ながら、その願いは叶わなかった。敗因はいくつかある。とりわけ悔いが残るのはスコア4-4の同点で迎えた9回表、東京国際大の守り。二死二塁の場面だ。打席に3番・山崎錬(3年、慶應高)を迎えたが、この山崎と4番・伊藤隼太(4年、中京大中京高)を敬遠し、満塁策をとるものとボクは思っていた。慶應の打線で特に恐いのはこの2人、1点もやれない場面で勝負を避ける必要があると思った。だがバッテリーは山崎との勝負を選択した。結果は痛烈なライナーをセンター前に弾き返され、決勝点を献上してしまった。それまで山崎は、鈴木健太(4年、聖光学院高)の投球にタイミングが合っていなかったことは事実。それが理由で勝負したのだろうか。う~ん、残念! ■昨日の東京国際大の大応援団を見てボクは驚いた。こんなに応援している人がいたのか、と。先日、このブログにも書いたけれど、数年前までボクは東京新大学リーグをよく観戦した。ただいつも観客はまばらで、控えの部員や父兄・関係者を除けば、一般客はわずかしかいない。高校時代に盛大な応援に慣れた選手は、大学に入った途端、閑古鳥の鳴く球場でやる野球に戸惑ってしまう、といった話を聞いたことがあるが、東京国際大の選手も同じだろう。そんな状態だから、昨日の大応援団ぶりに高校時代のことを思い出した選手も多かったに違いない。■東京国際大のスタメンには8番・ショートで小名木弘毅(3年、聖望学園高)の名前があった。8回裏、二死三塁の場面、本格派右腕・福谷浩司(3年、横須賀高)の150km超の速球に喰らいつく姿勢は、結局三振に終わったものの十分に見応えがあった。この小名木は2008年、聖望学園高がセンバツ準優勝した時の中心メンバーだった(2番・ショート)。高校時代はいつも大応援団、大観衆の中にいた。センバツ準V後、春季県大会で県営大宮球場に凱旋した時は、スタンドから大きな歓声で迎えられたものだった。だから昨日の試合、久しぶりに大観衆を見て高校時代を思い出したひとりだったと思う。聖望学園、当時は大塚椋司(現・新日本石油ENEOS)をエースに擁し、履正社高、平安高、千葉経大付高らの強豪校を次々に撃破。決勝では沖縄尚学高と戦いスコア0-9で大敗したが、東浜巨(現・亜細亜大3年)に打線が封じられる中、チーム初安打を放ったのがこの小名木だった。1日1クリックお願いします
2011.06.12
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東京国際大が4-6で敗退した。決して勝てない相手ではなかった。ただひとつの判断ミスさえなければ。勝敗を分けたのは9回だった。4-4の同点で迎えたこの回、東京国際大は二死二塁のピンチを招く。打者は3番、山崎。慶應で怖い打者は、この山崎と4番の伊藤の二人。どちらも敬遠して満塁策をとると思った。1点もやれない場面だから。ところが山崎に勝負を挑み、適時打を浴びた。あ~ぁ。たしかにこれまで山崎はタイミングが合っていなかったが、それにしても。詳しくは後ほど。
2011.06.11
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「江夏の21球」について続き。■1960年(昭和35年)の日本シリーズ第2戦、大毎監督だった西本幸雄さんが同点に追いつくために出したスクイズのサイン。だが失敗に終わり、それをきっかけに大毎は大洋に4連敗、日本一を逃すことになった。そしてこの第2戦終了後、すかさず大言壮語な語り口で「永田ラッパ」と呼ばれた永田雅一オーナーからは怒りの電話が。「なんでスクイズなんかやるのか?」と非難し、西本さんを「バカヤロー」と罵倒してガチャンと電話を切った。2人の間は険悪な事態になったことは言うまでもない。■このスクイズ失敗は、翌日の新聞各紙の格好の標的になった。「西本 スクイズ失敗 / 大毎 消極的な作戦」「ペース乱れた? 西本作戦 / とにかく打つこと / 併殺が恐くてスクイズ」などなど。 後者の記事は、評論家・佐々木信也さんの署名記事である。後年、『プロ野球ニュース』(フジテレビ系)で見せた温和そうな表情からは想像できない、痛烈なものだ。「併殺が恐くてスクイズ」という表現に、佐々木さんの西本さんに対する特別な感情をボクは感じた。■調べてみると、1959年(昭和34年)オフ、2人にある確執があったことがわかった。大毎の監督に就任したばかりの西本さん、球団からまず与えられたミッションは「少数精鋭主義」という名の「選手数削減」だった。そして当時、選手としてのピークは過ぎたものの大毎の中心選手として活躍していたのが佐々木さんだった。以下、『私の履歴書-プロ野球伝説の名将』(日経ビジネス人文庫)より引用。西本さん曰く、苦い思い出は、佐々木信也をクビにしたことだった。一人でも二人でも選手を減らしたい球団は、頭数の多い二塁手を一人切れと言ってきた。坂本文次郎、須藤豊、八田正に佐々木。さらに、小森光生、柳田利夫も二塁を守ることができる。佐々木の打撃は素晴らしかったが、二塁しかできないのが、「少数」を強行する上で問題だった。辞めてもらうには、後の仕事の問題もあった。野球を離れてもやっていけそうなのは佐々木で、他の連中はなんらかの形で野球にかかわらないと、食っていけないと思って佐々木を指名した。あれから30年たった今も、佐々木とはマスコミの世界で仕事をすることがある(※注、本文は1992年8月、日本経済新聞に掲載された)。あの時はお互い苦しんだが、今の佐々木を見ると、あそこで辞めて大成功だったのではないかと思う。 (以上、『私の履歴書』)西本さんの話は本当だろうか? 監督就任1年目、ぜひ実績を残したいときに選手一人ひとりの今後の生活を考える余裕があるものだろうか。もし本当なら素晴らしいことだし、懐の深さに敬服するしかないが、佐々木さん自身がどう感じていたかは疑問が残る。■wikipediaにはこう書いてあった。以下に引用。1959年オフ、大毎オリオンズの監督に西本幸雄の就任が決まる。その西本は身長の低い選手はいらないとの考えを打ち出し、身長170cmに満たない佐々木も解雇の対象となり、他球団からの誘いも有ったが現役引退を決意する。その後、プロ野球ニュースで「自分が引退するきっかけとなった西本と仕事をする事になるのだから、人生というものは不思議なものだ」と(佐々木は)語った。 このwikipediaに書かれた内容の方が、ボクは理解しやすいが、本当はどうなんだろう?1日1クリックお願いします
2011.06.11
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■前回、今年の全日本大学野球選手権、準決勝(慶應義塾大vs東京国際大)にまつわるいくつかの「人間関係」を書いた。(1)慶應義塾大・江藤省三監督と、東京国際大・古葉竹識監督の「元プロ指導者どうし」(2)同じく江藤監督と東京国際大・古葉隆明コーチ(古葉監督の三男)の「慶應つながり」そして2年前の全日本大学野球選手権の決勝で対戦した、法政大・金光興二監督と富士大・青木久典監督の「法政つながり」。■前回ここまで書いて、実はもうひとつ思い出したことがある。それは古葉さんと金光さんの関係。古葉さんの経歴は熊本・済々黌高-専修大-日鉄二瀬(ノンプロ)を経て広島-南海でプレー。現役引退後は南海では野村克也氏のもとでコーチを経験し、広島-横浜の監督を歴任した。一方、金光さんは広島商-法政大を経て三菱重工広島(ノンプロ)へ。その後、広島商高監督-法政大監督になり、現在に至っている。一見、2人の接点はどこにも見当たらない。でも古葉さんの広島監督時代、そして金光さんが法政大の4年だった1977年(昭和52年)秋、この2人には接点があった。それは悲しいかな、金光さんの人生を大きく転換させる出来事になった。この年、法政大の金光遊撃手はドラフトの目玉選手の一人だった。1年からレギュラーポジションを獲得し、ベストナイン受賞回数は計5回。主将として法政大を2度全国制覇に導いた。通算95試合出場、打率.313、本塁打4、打点41。この堂々たる成績は、プロ球界から熱烈なラブコールを受けるに十分なものだった。「花の昭和49年組」と持て囃されたチームメイトにも逸材が揃っていた。77年のドラフトでは、江川卓(クラウン1位、拒否)、袴田英利(ロッテ1位)、島本啓次郎(読売6位)、植松精一(阪神1位)らがプロ球界から指名を受けた。■さて金光さんのこと。金光さんも指名を心待ちにする選手のひとりだった。希望球団は広島。両者の関係は「相思相愛」と伝えられ、広島の1位指名は確約されたと見る向きもあった。だが、実際に広島が1位指名したのは盈進高の田辺繁文という投手。そして4位指名は広島商高時代に金光さんのチームメイトだった東洋大・達川光男さんだった。金光さんの熱烈なラブコールを袖にした広島。その当時、広島の監督だったのが古葉さんだった。結局金光さんは近鉄から1位指名を受けたものの、これを拒否。プロ入りを断念してアマ野球選手・指導者志望へ方向を転換し三菱重工広島に進むことになった。なぜ相思相愛だったはずの広島が指名しなかったのか。古葉さんが金光さんを必要としない理由が何かあったのか。広島の敏腕スカウト・木庭教さんが「金光を獲るより達川のほうがいい」と進言したという説もある。真実は分からないけれど、古葉さんと金光さんの間には、金光さんの人生を大きく転換させる関係があったのだ。もし、もし法政大が東京六大学リーグで優勝し、全日本大学野球選手権で準決勝に勝ち進んでいたら、金光・法政大と古葉・東京国際大の因縁対決が実現していたのかもしれない。■ちなみに、1977年ドラフトの主な指名選手を以下にメモしておきます。(上記選手以外)<読売>1位 山倉和博 (早稲田大)5位 鈴木康友 (天理高)<ヤクルト>4位 尾花高夫 (新日鉄堺)<中日>2位 小松辰雄 (星稜高)<大洋>3位 遠藤一彦 (東海大)6位 屋鋪要 (三田学園高)<阪急>1位 松本正志 (東洋大姫路高)2位 三浦広之 (福島商高)<近鉄>2位 山口哲治 (智弁学園高)・・・「江夏の21球」があった79年、この山口の活躍が近鉄を初のリーグ優勝に導いた。※尚、江川卓はクラウンの指名を拒否し、これがきっかけとなって、その後「空白の一日」事件が起きた。1日1クリックお願いします
2011.06.11
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■開催中の全日本大学野球選手権は、ついに4強が出揃った。明日(11日)準決勝2試合が行われる。第1試合は東洋大vs九州共立大、そして第2試合は慶應義塾大vs東京国際大。巷の話題は第2試合、プロ野球の元指導者どうしの対決だ。巨人、ロッテ、横浜でコーチを歴任した江藤省三さんが率いる慶應大と、広島や横浜の監督を務め、広島を3度、日本一に導いた古葉竹識さんの東京国際大が対決する。明日、できればこの試合を神宮で観てみたい。天気予報は雨のち曇りだが。■今日、準々決勝で、ボクの田舎・花巻市にある富士大が九州共立大に逆転負けを喫した。以下、時事より。被災地の岩手から出場の富士大が、土壇場で準決勝進出を逃した。天願の満塁本塁打などで試合を優位に進め、2点リードで迎えた九回。八回から救援した2年高田がつかまり4失点。その裏反撃する力は残っておらず、2年ぶりに決勝に進む望みも消えた。 「あす(11日)試合をやりたかった。震災があってから3カ月となる日だし、地元にいい報告をしたかった」と青木監督。 (以上、時事)(6月10日、準々決勝) 九州 002 001 004 =7富士 400 010 000 =5(九)川満-大瀬良(富)河野-畠山-高田■富士大・青木久典監督は、2年前のこの大会でエース・守安玲緒(現・三菱重工神戸、菊華高)を擁して準優勝した。決勝の相手は青木さんの母校・法政大だった。金光興二監督との先輩・後輩対決といった側面のある決勝戦だったが、富士大が勝利をつかみかけた終盤、法政大・大八木誠也(現・王子製紙、平安高)の意表をつくバスターが決定打となり、惜しくも優勝を逃した経験がある。だから青木さんは「今年こそは全国優勝!」と期するものがあっただろうに、今大会もベスト8にコマを進めながら、9回に逆転を許して逆転負けを喫した。 「地元にいい報告がしたかった」のコメントに、ボクは富士大に勝ってほしかったなぁ~、と改めて思うのだ。■明日の慶應vs東京国際大も、似たような側面がある。先日のブログに書いたように、東京国際大の古葉隆明コーチは古葉監督の三男、そして慶應大のOBでもある。江藤省三vs古葉竹識の図式に、江藤監督と隆明コーチの、慶應大先輩・後輩対決という図式も加わる。さて明日の結果はいかに?1日1クリックお願いします
2011.06.10
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■今日(6月6日)、早稲田後輩の広島・福井優也がホークスに大炎上し、西武・大石達也と日本ハム・斎藤佑樹が二軍で調整する中、横浜の須田幸太(土浦湖北高-早稲田大-JFE東日本)が西武を相手に、やっとプロ入り初勝利を挙げた。6回、被安打4、奪三振5、自責点1。上記のだれが勝利投手になるより、須田の勝利がボクは一番うれしい。■さて、今日も「江夏の21球」にまつわること。1979年11月4日、日本シリーズ「近鉄vs広島」第7戦。9回裏、1点差を追う近鉄の攻撃時、一死満塁の場面で西本幸雄監督が打者・石渡茂に送ったスクイズのサインは失敗に終わり、これが原因で、近鉄にとっても西本さんにとっても「悲願の日本一」を逃してしまった。NHKの番組『NHKアーカイブス 江夏の21球』によると、打席に向かう石渡に対し「3球とも打て!そうでないと(消極的になると)なかなか江夏は打てる投手ではないから」と指示した。だが江夏豊の初球、簡単に絶好球を見送った石渡を見て、「打てと指示された打者の姿ではない」と石渡の打撃を見限り、急きょスクイズのサインに変更した。■そしてスクイズのサインを出した時、西本さんの頭によぎったのは1960年(昭和35年)の日本シリーズのことだった。「もしまたスクイズを失敗したらみんなに叩かれるなぁ」と。この年、大毎(現・ロッテ)の監督だった西本さんは就任1年目で、田宮謙次郎、榎本喜八、山内一弘、須藤豊ら強力打者を擁する「ミサイル打線」の爆発でパ・リーグを制覇。三原脩さんが率いる大洋と日本シリーズを戦っていた。西本さんには、このシリーズでのスクイズ失敗が苦い思い出となって蘇ったのだ。それはこんな試合だった。大毎が第1戦を落とした2戦目、スコア2-3と1点差を追う8回表、大毎は一死満塁をつかむ。打者は5番・谷本稔。大洋の投手はシンカ-が武器の秋山登。谷本はミートの巧い打者だったが、西本さんは秋山のシンカ-が気になって仕方がなかった。そこでひとまずタイに持ち込めば、追う側の強みを発揮することができる。そうふんでスクイズのサインを出した。ところが、バントした打球はホームベースのわずか前に落ちて転がらなかった。捕手土井淳が拾って本封のあと一塁に転送して併殺、最悪の結果となった。この試合の敗戦後、すかさず「永田ラッパ」で有名な永田雅一オーナーから西本さんに怒りの電話があった。以下、『私の履歴書-プロ野球伝説の名将』(日経ビジネス人文庫)より引用。「ミサイルと言われている打線なのに、どうしてスクイズをやるのだ」と言われた。それだけならともかく、「中沢会長も鶴岡君も、あんなスクイズ、と言っていたぞ」と追い打ちをかけられた。永田オーナーは、中沢不二雄パ・リーグ会長、南海・鶴岡一人監督と並んで観戦されたらしい。私も40歳で血気盛んだった。「そのお2人より、私の方が大毎の状態をよく知っています」と言い返した。すると「バカヤロー」である。「バカヤローだけは取消してください。その言葉は撤回してください」と言うと、永田オーナーはガチャンと電話を切った。(以上、『私の履歴書-』)このことがきっかけとなり、西本さんは監督1年目でリーグ優勝したのに、たった1年で大毎のユニフォームを脱ぐことになってしまったのだ。以上、西本さんのスクイズにまつわる苦い思い出。1日1クリックお願いします
2011.06.06
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■今日(6月5日)、東都大学リーグ1部・2部入替戦(1部6位、國學院大vs2部1位、日本大)の2回戦が行われた。1回戦は日本大が4-0で先勝、そして迎えた2回戦は意外な結末が待っていた。以下、日刊スポーツより。日大(2部1位)が08年秋以来6季ぶりの1部復帰を決めた。国学院大(1部6位)との2回戦は2点差を追う9回、谷康士朗内野手(1年=報徳学園)が満塁走者一掃の三塁打を放つなど、5点を奪って逆転した。仲村恒一監督(51)は「2部の開幕戦(対東農大)と同じ展開になりました。去年の入れ替え戦(3部1位の順大に辛勝)を考えると成長してくれました」と話した。国学院大は鷲尾拓也投手(4年=能代)が6回まで無安打の力投をしながら、最後につかまり、昨秋の初優勝から一転2部への転落となった。 (以上、日刊スポーツ)日本大 000 000 105 =6國學大 030 000 001 =4(日)松本-湊-戸根-○山井-吉田、(國)●鷲尾-中河-杉浦■神宮への到着が遅れ、ボクがゲームを見始めたのは6回表だった。すでに3-0と國學院大がリードし、鷲尾拓也投手(4年、能代高)も初回から無安打ピッチングを続け、この回も内野ゴロ1、外野フライ2と無難に乗り切った。入替戦特有の緊張感もグラウンドには感じられず、このまま國學院大が1勝1敗のタイに持ち込むものとボクは思っていた。ところが、さすがに入替戦は何が起こるか分からない。日本大が7回に3番・井上彰吾(3年、筑陽学園高)の適時打で1点を返すと、次第に「流れ」が日本大に向き始め、そして9回に打線が爆発した。この回先頭の1番・平五陸(3年、日大山形高)、2番・田中健(4年、筑陽学園高)が連続安打で無死一・三塁のチャンスを作る。たまらず國學院大・鳥山康孝監督がマウンドに向かい、バッテリーに指示をする。投手を交代する様子はない。そしてダグアウトに戻る途中、「ピッチャーを代えるのが遅いんだよ。負けたら、お前が責任をとれよ~!」。内野席最前列にいる國學院大OBから、目の前にいる鳥山監督に容赦ない罵声が飛んだ。その声がマイナスに作用したか、直後から國學院大の歯車が微妙に狂い始める。3番・井上は平凡な一塁ゴロ。だが真部雄斗一塁手(2年、鎌倉学園高)がバックホームの構えを見せるものの、それを躊躇。慌てて一塁ベースに駆けたがこれもセーフ。スコアは2点差に。しかも日大は一死一・二塁のチャンスが続く。ここで4番・村田穏行(2年、PL学園高)がしぶとくセンター前に打球を運んで満塁になった。そして代走で途中出場していた5番・谷康士朗(1年、報徳学園高)が打席に入った。165cm、60kgの小柄な左打者。この打者に大きな当たりはない、なにか小技を仕掛けるかも? とボクは思った。國學院の外野陣はバックホームに備えて前進守備をする。ところが、だ。谷が初球を叩いた打球は右翼手のはるか頭上を越える大飛球になり、満塁の走者を一掃する三塁打となった。スコアは5-3。意外な打者の一打が日本大に逆転勝利を呼び、結局、1部昇格を決定づけた。逆転適時3塁打を放った谷康士朗のこと。昨年(2010年)夏、甲子園の決勝で興南高にスコア5-6で敗れた報徳学園高の2番打者だった。9回裏、一死からライト前にヒットを放ち出塁すると、すかさず二盗を狙って捕手の悪送球を誘い、一気に三塁へ達した。だが生還することはできず惜敗した。1部に昇格することで中央大・島袋洋奨との再戦が可能になった。・甲子園・決勝、三塁に駆ける谷のフォトはこちら。・同じく甲子園・決勝、9回裏の場面をYOU TUBEでも見れます。→こちら。■日本大と國學院大、実は2008年秋季の入替戦でも対戦している。この時は立場が逆で日本大が1部6位で入替戦に臨み、2部1位の國學院大に敗れ2部に転落した経験がある。今回は、その時のリベンジともいえそうだ。■日本大・中村恒一監督のコメント9回の大逆転で6季ぶりの1部復帰を決めた日大ナインは喜びを爆発させた。ベンチ前で胴上げされた仲村監督は、まずひと言「ほっとした」。昨春は2部最下位で2、3部入れ替え戦も経験した。1部優勝22度の名門を率いて4季目の同監督は「選手が、ここまでよく成長してくれた。練習の時から自分たちで考えるようになった。(自身も)合宿所に寝泊まりして選手との会話を増やしたのも良かったのかな」と最後は笑顔だった。 (前出)國學院大・鳥山康孝監督のコメント試合後、しばらく沈黙した。昨秋に就任してすぐに国学院大を創部80年目の初優勝に導いただけに、2部落ちの現実を受け入れるのに時間が必要だったようだ。やっと「この結果を真正面から受け止めないと強いチームになれない」と話した。"戦国東都"を象徴する前季優勝校の2部転落は昨春の立正大が喫したばかり。指揮官は「私も含め精神力を鍛え直す」と課題を挙げた。 (前出) 1日1クリックお願いします
2011.06.05
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