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有田英光さんが、オペラ座にバレエを見に行ったとき、次のような経験をされた。ロビーに佇んでいた和服を着た初老の日本婦人の手元からスカーフが床に落ちたとき、傍らをすり抜けようとしたフランス婦人が、それを拾いあげて日本婦人に手渡した。日本婦人は、「ありがとうございます」と口調のはっきりした日本語で軽い会釈をして受け取った。相手の好意に対して、婦人は日本語でしかお礼が言えなかったのだろうが、そこには気品のような気配が漂っていた。するとフランス婦人はふと立ち止まり、一瞬表情を引き締めながら、「なんでもないことですわ、お気に留めることもございません」といった意味の丁寧なフランス語で答えた。お互いに言葉の意味を分からなくても、二人の間のコミュニケーションは、意を余すことなく交流したにちがいなかった。コミュニケーションには言葉が重要な役割を演じるが、もっと大切なことは、その人の思いではなかろうかと思います。思いがなければ、どんなに言葉を尽くしても真意は通じません。
2006.10.31
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「自分の思いを相手にうまく伝えられない、わかってもらえない」と悩んでいる人は多いが、そんな本人自身はというと、案外相手のことを正しく理解も認識もしていなくて、それでいて自分の思いが伝わらないと嘆いているように思います。「自分の思いを理解してもらいたい、分かってもらいたい」という自分にこだわっている気持ちを一旦横に置いて、まず相手の話に真剣に耳を傾け、相手の考えていること、願っていること、望んでいることなどを正しく理解しようと努力することです。すると不思議なもので、自分が相手を理解した分だけ、自分の思いが相手の心にも伝わっていきます。コミュニケーションは相身互いなのです。また、コミュニケーションが苦手な人は、「拒絶されたらどうしよう」とか「変なことを言って恥じをかいたらどうしよう」などと考えて、自ら話しかけることを躊躇しがちです。コミュニケーションは、そのときの自分をさらけ出したり、ある程度の痛みを覚悟しなければならない面もあります。それが怖くて、ある人は一方的に話すことで、ある人はできるだけ話さないことで、自分の中のそんな怯えから目をそらしがちです。◆勇気を出して自分から話しかけてみようでも、この世のほとんどの喜びや感動、それに運も、人と人との出会いやコミュニケーションから生まれます。それなのにコミュニケーションを避けていては、たった一回きりの人生を、自分らしく楽しく生きる機会を自ら放棄しているようなものです。あなたが、「どうして優しい声をかけてくれないの」、「どうして人は冷たいの」と思ったり、あなたが自分の殻に閉じこもってコミュニケーションを躊躇しているように、10人中9人まではあなたが声をかけてくれるのを待っているはずです。勇気を持ってあなたから声をかけてみれば、きっと楽しい出会いが始まると思います。あとは、話が続くように言葉のキャッチボールを心がければいいだけです。相手の話の内容がはっきりとイメージできないときは、たとえば「ディズニーランド楽しかったわよ」と言ったら、「そう、どんなことがあったの」などと、自分の頭の中にも具体的なイメージが浮かぶまで質問し、一緒に楽しむようにすればいいのです。自分が話すときも、一方的に話すのではなく、聴き手の側に立って相手の気持ちを想像し、どうしたら相手に正しく伝わり気持ちよく聞いてもらえるかを考えることです。そうした努力を深めていくと、言葉のキャッチボールが自然と続くようになり、相手も段々と好意的になってきます。
2006.10.30
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登校拒否の原因には、先生の目に見えない暴力もあると畠山博さんは語る。登校拒否の原因には、母親がべったりと子供について世話を焼きすぎて主体性やウエットさを失ったり、ルールを遵守できなくなった子もいれば、いじめにあっている子もいる。もう一つ、学校の先生の肉体的な暴力や体罰は問題外としても、意外と目に見えない暴力には気がついていない。デリケートな子供の心を傷つける先生の無神経な扱いに、子どもが恐怖心を持って学校に行けなくなってしまう場合がある。A子は気が弱い性格で、人前で一人で何かをやらされるのが苦手だった。例えば、横笛の練習で、一人ずつ前に出て吹かされたときなどはとても怖かった。ある時、風邪で体操をしゃがんで見学していると、先生が遠くの方で彼女を指さして皆に何かいいどっと笑い声が上がった。あとで友達に聞いてみると、「真面目にやらんと、あそこでトグロを巻いているA子のように落ちこぼれになってしまうんだぞ。就職も結婚もできないぞ」と言ったというのだ。それから、彼女は学校へ行けなくなった。こんな暴力は目に見えないし、言った本人も無意識だからこそ体罰よりも怖い。先日も先生の言動が引き金となっていじめに発展し、生徒が自殺したケースもあったように、先生が引き金になっているケースはかなり多いのではないかと思います。
2006.10.29
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お年寄りに専用の部屋を用意し、専用のテレビを置き、食事の時間以外は一人で静かに暮らせるようにするのも労りではありません。それは、お年寄りを姥捨て山に捨て置くようなもので、早くボケてくれと言っているようなものです。「高い和服が嫁に盗まれた」と姑に犯人扱いされたBさんは、思い余って姑の部屋に鍵をつけ、寄らず触らず、可能な限り嫌疑のかかりそうなことは避けてきました。そんなあるとき、老人ボケの相談員から、次のように言われました。「ボケて収めた場所を忘れると、無いから盗まれたと考え、普段から気に入らない嫁を犯人に仕立てあげるのです。気に入られる嫁に変身しないと、姑の思考も変わりませんよ」そこでBさんは、姑のご機嫌伺いに好物の和菓子を手に部屋を訪ねるようにしたところ、姑の物盗られ妄想はすぐに消えたということです。ある親孝行な息子は、マンションを買って両親を住まわせ、3度3度の食事も近所の仕出し屋から好きなものを取り寄せるようにしてあげました。年老いた両親は、「なんと良い息子だ。まるで極楽のようだ」と涙を流さんばかりに喜んだのですが、まだそんな年でもないのに、2年もしないうちに2人とも相次いで亡くなってしまいました。人間が生きていくうえでは、辛いことや面白くないことが色々あります。「それがなかったらどんなにいいだろう、極楽に違いない」と誰しも思います。ところが、地上に極楽はあってはならないのです。あの世にしかないから夢なのです。くだんの両親は、何もしなくて良く夢のような生活だと思っているうちに命が果ててしまい、本当の極楽に行ってしまったのです。逆に、何時も心配ばかりかけている極道者の息子を持っていると、親としても死ぬに死にきれず、何時までも気を張って生きていかなればと思い、それが生き甲斐になって、ボケずに長生きするかもしれません。矛盾するようだが、親孝行も難しいものです。こんな話を聞いたこともあります。90幾つの人が風邪をひき、大事をとって寝かせたところ、本当に寝たきりになってしまいました。ところが孫が結婚式を挙げることになり、「ワシも行く」と言って聞かないので、車椅子に乗せて式場に運んだそうです。ところが、宴会の尾頭付きの鯛をパクッと食べた途端に元気になり、帰りは自分で歩いて帰ったということです。これには、老齢社会への幾つかのヒントがあります。第一に、いかに体を動かすことが大切かということです。第二に、何か人生の先に喜び、楽しみ、希望を持って生きることです。
2006.10.28
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あなたには、次のような能力の衰えを感じる兆候はありませんか?1.「いつ、どこで、何を」したかを覚えているエピソード記憶2.複数のことに同時に気を配りながら仕事を進める注意分割3.行動の計画を立てるプランニング東京老人総合研究所の矢冨直美さんは、この三機能を高めておくことが大切だと仰います。それには、大勢で話し合い、経験を思い出して話したり、相手から記憶すべき課題を与えられたりする会話は、記憶や注意分割の訓練にとてもいいそうです。スエーデンでの研究では、独り暮らしで子供や友人の訪問が週一回未満の高齢者は、家族同居で子供や友人が週一回以上訪ねてくる高齢者より、年間の痴ほう発生率が八倍も高いということです。他者との交流の大切さがわかります。自治医科大学の植木彰教授は、動脈硬化を防ぐことも大切で、魚に含まれる脂肪酸と肉などに含まれる脂肪酸の摂取量の比率が大切で、魚が肉より多くなるように勧める。お勧めは、1日に魚1回、野菜2回、果物1回を献立に入れることです。痴呆症老人の医療が専門の御殿場高原病院院長の清水允煕さんは、人間は本来90歳まではボケないもので、アルツハイマー型を除いて90歳までにボケるのは、それまでの生活史が引き起こす症状だと言われます。ボケない秘訣は、色々なことが言われるが、家族の心掛けとして次の二点が大切です。・優しく接し楽しくさせる・お年寄りを引退させないシェクスピアの『リア王』では、老いたリア王が、誠実だがお世辞を言えない三女コーディリアを退け、「お父様は太陽」と追従する長女と次女を愛したことから悲劇が始まるが、老人専門家からは痴ほう老人の見事な描写だと評価されています。老人が耳に快い褒め言葉を期待し始めたら、リア王の長女や次女のように大げさに照れずに褒めそやして、いつもニコニコ生活するようにするとボケないそうです。普段からお年寄りに優しい配慮を忘れず、家庭や地域社会の営みに参加したり協力したりできる機会を作り、自分の存在価値を実感させることが大切です。
2006.10.27
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ポーランドの民話にこんな話があります。ある時、海辺のあばら家に住む漁師が魔法の魚を釣り上げました。その魚は、自分を海に帰してくれるなら、その見返りに、漁師のつましい願いに応えて、丸太小屋と十分な食べ物を与えてあげると約束します。漁師は魚を放し、願いはかなえられました。1週間後、漁師は最早それでは満足できなくなり、また海に行って魔法の魚を捕まえて、より大きな住まいを願い、手に入れました。それでも1週間もするとまた満足できなくなって、また魔法の魚に頼みました。そんなことが何度も繰り返され、ついに漁師は王宮を要求するまでになりました。そのあまりの厚かましさに、魔法の魚は彼を元の海辺のあばら家に戻してしまいました。この漁師のように、もっともっとと欲望を膨らませていくのが人間の性で、昔も今も変わりません。人間には欲望があり、それを満たそうとして頑張るから進歩する面があります。適度に欲望を持つことは、成長のために必要です。問題は、欲望との付き合い方です。「ヒマラヤを黄金と化すも一人の満足を満たすこともできない」とお釈迦様も言ったように、人類は有史以来、「もっと、もっと」と欲望を限りなく高めてきました。ですから、常に今以上に充足を高めないと幸せ感は高まりません。そこで次から次へと、モノを買い、お金を貯め、旅をし、美味しいものを食べ・・・と、欲望を満たすために狂奔してきました。その頂点がバブルです。これでは、有限なる宇宙が資源や環境に限界をきたし保たなくなります。一人ひとりの人間も、いつまでも飢餓感を癒やすことができず、心豊かな生活をすることはできません。本来、欲望というのは、苦しむためのものではなく、楽しむためのものであるはずなのに、際限なく膨らました欲望が満たされないと言って苦しんでいるのが私たち人間です。財産を沢山持っている人には、怒りと辱めの二つの難が必ずやってくると言われます。人がその財産を奪おうとし、それを取られまいとする時、たちまち怒りが出ます。口争いから訴訟になったり、殴り合いになったりして、辱めを受けることにもなります。「貧しく欲張らなければ、その難を逃れて常に安らかで心配のない生活ができる。証拠は目の前に明らかで、仏教の教えを待つまでもない。それなのに道に暗い人は、財宝を蓄えて常に怒りを抱いている」と『正法眼蔵随聞記』は説きます。人間のすべての苦労や嘆きは、際限のない欲望から起きます。現在の私たちは、物質的には大変豊かな時代に生きています。それでもなお、もっと儲けたい、もっと贅沢な生活をしたいと血眼になり、奪い合い、蹴落としあう醜い争いが、いたるところで繰り広げられています。何かを得ようと必死になりすぎて、逆にひっくり返る人もいっぱいいます。例えば、日本では統計に出るだけで年間六万件の詐欺事件が起きています。「自分の欲以上の損はしない」という諺があるが、もっと多くのものを簡単に手に入れたいという欲望があるために騙されてしまい、却って財産を失う人が後を絶ちません。◆次回に続く
2006.10.26
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私たちの幸せ感は、『充足÷欲望』の式で表すことができます。幸せ感は、充足は今のままでも、欲望を小さくすれば高まります。充足が減っても、それ以上に欲望を小さくすれば高まります。つまり、「足るを知る」ことが肝要なのです。お釈迦様の最後の説法といわれる『遺教経』も、「足るを知るの法は、すなわちこれ豊楽安穏のところなり」と教え、老子も「足るを知る者は富む」と、次のように説きます。得ると無くするとは、どちらかが害か?蓄え多ければ無くすも多い。足るを知れば辱めがない。止まるを知れば危なくない。欲望の穴を塞ぎ、入口を閉ざせば、一生疲れることがない。欲望の穴を開き、やりたいことをやるならば、一生救われないものだ。凹めば水が満ちる。朽ちれば生まれ変わる。少なければ得るし、多ければ惑う。誇示しないから現れる。でしゃばらないから明らかになる。誇らないから成功し、いばらないからよく続く。争おうとしないから、誰も争う者がいない。私は時々、3日断食(初日の朝は植物性タンパク質無しで普段の半分、昼は食パン半枚と砂糖無しのミルクティー、夜はクッキー2枚とミルクティー。2日目は水のみで絶食、夜は白湯に塩少々。3日目の朝は梅湯とバナナ半分、昼は食パン半枚とミルクティー、夜は動物性蛋白質無しで普段の半分。毎夜寝る前に腹式呼吸10回。この間、酒、タバコは一切なしで普段通りに生活する)を行うが、何も食べない日ほど爽やかなことはありません。ところが、少しお腹に食べ物を入れた途端に、次の食事が待ち遠しくなります。欲望もこれと同じです。ほんの少しのお金と健康さえあれば、この世は楽しく暮らしていけます。得よ、う得ようとする気持を捨ててみると、新しい局面が開けてくるはずです。胸を張れる仕事さえ一生懸命にしていれば、必ず衣食はついてきます。名声や地位を得ようとする必死の努力を止めたとき、その両方が手に入ります。何も見返りを求めずに尽くすとき、自然と大きなものが手に入っているものです。昔から恐れられてきた鬼を、実際に見た人は誰もいません。鬼は私たち一人ひとりの心の中にいるからです。赤鬼は「貪欲」、青鬼は「嫉妬」、黄鬼は「愚痴」を表しています。誰もが持っているこの三つの鬼を心の中から追い出せば、気持ちがスーッと楽になるはずです。そして、自ずと心の平安と幸せがやってきます。
2006.10.25
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同じ事を言っても、人によって事がスムースに進む場合とそうでない場合があります。気難しい上司でも匠に説得して自分の意見を通してしまう人、怒っている相手の心をやんわりと解きほぐしてしまう人、依頼されたことを断っても相手に嫌な感じを残さない人・・・そんな人を見ると羨ましく感じることもあります。社会生活の中心となるのはコミュニケーションだが、正論だから通るというものではなく、合理性だけでなく好き嫌いなどの感情など、話し手、受け手の心理が影響します。説得が巧い人というのは、人格者であるとか性格が良いと言うことではなく、心理スキルが身に付いている人だと言えます。どんなに相手のことを思っていても、それを伝える技術が無くては人は動いてくれません。的確に人を動かすためのスキルを身につけることです。(ビジネス編、特にメルマガで詳しく解説しています)◆語彙を増やすこの頃の若い人たちは、語彙が少なくなり、何でも簡単な言葉で済ませてしまいがちです。人間は言葉でものを考えるから、語彙が少なくなると思索も薄っぺらになってしまいます。また、相手に合わせて話すことが出来ず、自分の思いを伝えることも難しくなります。マンガばかり読んでいると、擬音や擬態語がたくさん使われ、単純な言葉が多いので、どうしても語彙が少なくなってしまい、思索や表現が薄くなってきます。食べ歩きのテレビを見ていても、若いタレントたちはどんな感じに美味しいのか表現できなくて、「美味しい!」の一言しかいえない。これでは、見ている人に何も伝わりません。名作や名文に触れて、自分の中の語彙を増やし、広い視野を身につけて欲しいものです。あやふやな言葉や、意味を知らない言葉に出合ったら辞書を引くことです。すると、「この言葉の本当の意味はこうだったのか」とか、「こういういわれから使われるようになったのか」などと思うことがあり、一つ賢くなった思いをすることがよくあります。
2006.10.24
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家庭や学校での生活であろうと、会社での仕事であろうと、相手の話を「聞いて(読んで)」、その対応の仕方を「考え」、それを「話して(書いて)」相手に伝えることで、「人間関係を円滑に」したり(人は話しを聞いてあげるだけで相手に好意を持つ)、「情報(=知識)を収集」したり、「共通理解」を図ったり、相手を「納得」させたり、相手を「説得」したり、相手の潜在的な「能力を引き出し」たりしています。このコミュニケーションが巧くできるか否かで、社会の中での生き上手か否かが決まることも多く、ある意味では人間の「生きる力」の根源とも言え、人間はコミュニケーションの中の存在とも言えます。だが、コミュニケーションの基礎である相互理解さえ、前述(2割分かれば真の友人)のように不可能に近いと言えます。現に親子の間でさえ「自分のことを分かってくれない」と断絶が起きることが多いが、生まれも育ちも違う他人との間ならなおさらのことです。このように大切で難しいコミュニケーションであるにもかかわらず、誰もがあまり深く意識してコミュニケーションをすることもなく、真剣に学ぼうともしません。◆コミュニケーションが難しいのは、翻訳の難しさにあります。すなわち、私たちが話すとき、聞き手に送っているのは単なる音波に過ぎません。聞き手は音波を耳でとらえ、それを映像や印象などに翻訳して理解します。丁度、自分の頭の中にあるイメージをジグソーパズルのように分解して、1ピース、1ピースを言葉で相手に送って、相手の頭の中に同じ絵を完成させるようなものです。つまり、送り手は自分のイメージを音波や字に変えて送り、受け手は受け取った音波や文字を再度イメージに変換します。そうやって、お互いの頭の中に同じ絵が完成したとき、初めて相互理解が成り立ったことになります。なぜ変換がそんなに難しいのでしょうか?1.自分のイメージがどれだけ鮮明か?自分自身があやふやで不鮮明では、相手に鮮明なイメージを送ることは不可能です。2.自分のイメージをどれだけ言葉に置き換えられるか?絵や写真のイメージを、言葉で伝えるのが難しいのと同じです。3.相手がどれだけ聞く耳を持っているか?人間は自分に興味や関心のないことは、いくら見たり聞いたりしても素通りしてしまい、つまり落ちこぼれてしまって絵が虫食い状態になってしまいます。4.相手の理解度に合わせどれだけ正確に伝えられるか?言葉の意味の取り方は、国により、世代により、育ちによって違います。その結果、ジグソーの片々を全く違う場所に置いてしまうのと同じで、同じ絵は完成しません。例えば、「情けは人のためならず」という諺があるが、本人は「情けは他人のためではなく、自分に跳ね返ってきて自分のためになるから、人には情けを施しなさい」という意味で話をしても、今の若い人の多くは「情けは人(相手)のためにならにから、人には情けを掛けるな」と理解しているので、全く正反対の取り方になってしまいます。5.受け手がどれだけ心のバイアスをかけずに受け取れるか?人間は、耳や目を通して情報を受け取るが、それを心の鏡に映して理解します。その人間の心はと言うと、それぞれに心の中に蓄えている物は違い、おまけに自愛と我欲にまみれ、自分に都合の良いようにしか受け取りません。このように、送る途中で沢山のピースが落ちこぼれてしまったり、翻訳する過程でイメージの受け取り方の違い(情報の解釈の違い)から置き場所を間違ったりしがちです。従って、心理学では、情報は最大でも4分の1しか伝わらず、なかでも言葉だけの比重は7%(声の調子や表情、動作などが加わっても35%程度)程度でしかありません。歪みのないコミュニケーションをするためには、「伝達する」ことではなく「相手の受信を助ける」ことを心がけ、図や写真などを併用して視覚を刺激することも大切です。
2006.10.23
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小学校四年生の女の子が、あれこれと理由をつけて学校をさぼるようになった。家族全員で説得に努めたが効果はなく、朝になると高熱を発するようになった。病院に連れていっても原因が分からず知人に相談したところ、知人は女の子に次のように言った。学校に行きたくなければ、行かなくてもいいんだよ。皆、もうこれからは学校へ行けとは勧めないそうだ。君が学校に行かなくても、誰も困らないんだからね。君は自分のために学校に行っているんだし、学校をさぼって困るのは、この世に君一人しかいないんだから。とにかく、行きたくないんだったら絶対に行くな。友達全員がドンドン進級していくのに、君一人が取り残される。そのときになって、損をしたのは自分だと気がつくさ。そう気がつくまで、ずっと学校にはいかない方がいい。その代わり、学校へ行かずに毎日家でブラブラされては困る。学校に行かない人は、働くことにはなっているんだ。君は明日から、掃除と洗濯、それにお使いを引き受けるんだ・・・。それで万事解決だ。親が、頭を下げ、甘言を用い、頼み込み、機嫌を取るのでは、子供が自分のためという意識を失うのは当然である。突き放すのも一つの手かもしれない。
2006.10.22
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皆さんの中には、悪党どもから子供を守った主人公のシェーンが去って行くとき、子供が「シェーン」と叫ぶ映画のラストシーンに涙した人も多いと思います。あのシーンを、あなたはどう受け取りましたか?最後の決闘で悪党を全部倒したとき、彼も撃たれケガをしています。そして、ケガの手当てもせずに、傾きながらも馬に乗って砂漠の方へ消えていく。手当てもしないで、人も居ない所へ行ったら、必ず死が待っているはずです。それを暗示しているのですが、アメリカ人は孤独に強く、死ぬ時もシェーンのように一人で死んでいける人が多い。ところが、日本人は全くの孤独には耐えられず、今のホームレスの人たちもそうだが、隠居といっても昔から人里離れた所で隠者のような生活をすることはできません。せいぜい、私のいる嵯峨野のような適度な孤独が味わえる街の周辺に止まっています。老後の孤独が嫌なら、早いうちから地域に知り合いを作るようにすることです。92歳になるお婆ちゃんは、自宅に新しい風呂があるにもかかわらず、毎日電車に一駅乗って銭湯に出掛けます。そのために定期券まで持っています。暑さ寒さも何のその、少々の風雨でも休まない。夕食後のほぼ決まった時間にやってくる。実は、その同じ時間帯に常連のお婆さんたちがやってくる。「あら、誰それさんは遅いわね。何かあったのかしら」、こんな会話から情報交換が始まり、本音を聞いてもらったり聞いてあげたり、まさに裸の付き合いです。銭湯のメンバー・タイムの積み重ねが、彼女たちの元気で長生きの秘訣らしい。傾聴ボランティアという言葉をよく聞くようになったが、人間は誰かに話を聞いてもらうだけで心までスッとして軽くなるものです。汗も垢も疲れも洗い流し、お互いに愚痴を言い合い聞き合って心の垢も流してしてしまう場として、銭湯を見直してみるのも面白いと思います。ところが、今の年配者、特に男の人たちは、仕事だけが生き甲斐で、仕事が人生の時間の大部分を占め、会社や仕事での人間関係のほうが家族や地域の中での人間関係よりも濃い(いや殆どというべきかもしれない)という人が多いはずです。そんな会社や職場という他人から与えられた生き甲斐は、いずれ定年がくれば否応なく返上しなければなりません。職場での人間関係も、定年になって職場を辞めてしまえばゼロになってしまうのが普通です。定年後、数年であの世にいけた時分はそれでもよかったが、その後20年も30年も生きる時代になった今日、生き甲斐も人間関係も失った生活は惨めです。金や地位を得ることだけを目標に生きてきて、急に人間の触れ合いを求めてもできることではありません。結局、本人の普段からの生き方がとわれることになります。
2006.10.21
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老ゆるは嘆くに足らず。嘆くべきはこれ老いて虚しく生きるなり。 『呻吟語』老いることは誰も避けることができないが、お迎えが来るのをただジッと待つだけの人生には私は絶えられません。私の最大の願いは、ボケて周りの人に迷惑をかけるようなこともなく、何らかの形で誰かのお役に立ちつつ、ある日コロリと逝くことです。年金制度でギリギリのところではあるが経済的には保障され、医療保険や介護保険で病気や身体の面でもギリギリの線は保証されています。では、今のサラリーマンが高齢者になったときに何が足りないのか?それは、友達、人間の触れ合い、心の豊かさである、と堀田力さんは言います。「今日の最大の不幸はハンセン病でも結核でもなく、皆から自分がいてもいなくてもいい見捨てられた存在だと感じることである」とマザー・テレサも言いました。ある街の路地裏に、生きていることすら誰も知らないようにひっそりと生きている老人がいました。老人の部屋に入ると、窓は閉め切ったままで、部屋は一度も掃除をしたことがないようなひどい状態でした。教会のシスターたちが老人の家を訪れて掃除をしようとすると、老人は「ほっといてくれ」と大声で怒鳴ったが、老人にニッコリと微笑んで構わずに掃除を続けた。「ほっといてくれと言うのがわからないのか」と老人はまた言ったが、さっきよりはいくらか穏やかな語調だ。翌日から窓を開け、掃除や洗濯をし、いろいろと話しかけるようにしたところ、やがて老人の目に輝きがよみがえったといいます。今の日本では何不自由なく生きているように思えるけれども、心の飢えを持っている人はたくさんいます。誰からも必要とされず、誰からも愛されていないという心の貧しさ、それはひと切れのパンに飢えているよりもひどい貧しさではないでしょうか?そして、お金の有無に関係なく、これほど寂しく生き甲斐を失わせるものはありません。以前は子供や孫を含めた家族や地域社会がその面を支えてきたが、核家族化が進んで親と子が同居する習慣はなくなりつつあり、地域社会の絆も薄れてきています。残るは夫婦関係だけだが、どんなに絆の深い夫婦でも必ずどちらかが先に死にます。配偶者に死なれたら周りには誰もいなくなり、誰も訪ねてくる人もいないとなると、孤独に弱い日本人は耐えられなくなり、急に老けたり呆けたりする人が多いようです。◆明日に続く
2006.10.20
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関根さんは、その体験についてこう振り返っています。「生徒が変わったのでしょうか。いや、そうではありません。変わったのは私の方だったのです。生徒が今まで聞かされるのは小言ばかりで、『ありがとう』なんて言われたことがなかった。この子が本当に言いたいのはどういうことか、そして、こちらが本当に言いたいのはどういうことかを、お互いに分かり合うことが大切だったのです」誰でも、聞いてもらいたい、知ってもらいたいという気持ちを持っています。・言い分をよく聞いてもらえた・自分のことを本当に分かってくれた・あるがままの姿を受け入れ尊重してくれたそう思えることができたら、人は自ずと心を開きます。相手の反応は、自分の心の反映で、自分の思いがそのまま返ってくるだけです。自分が変われば相手も変わることを示す、素晴らしい実例だと思います。相互理解の第一歩は、まず自分が相手のことを知ることです。そうやって相手のことが分かった分だけ、相手も自分を分かってくれます。ところが、私たちは、相手のことを理解しようと少しも努力しないでおいて、「自分のことを少しも分かってくれない」とか、「私の言うことを少しも聞いてくれない」と言いがちです。相手の立場に立って物事を見れば、つまり自分の心の持ち方を相手思考に変えてみれば、解決できない問題はないはずです。自愛、我欲が先立って、自己都合だけで見たり考えたりしがちだが、相手の立場に立って見ることが大切なのです。相手の立場を想像できる心が、思いやりの本質です。
2006.10.19
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パスカルがこんなことを言っています。「相手に注意を与える時は、まずその人がどの面から見ているか、よくわきまえないといけない。というのは、その人が見ている側からすれば、それは真実なのだから」例えば、十円玉を上から見れば丸だが、横から見れば長方形です。それを、この物体は「丸い」「いや、長方形だ」と言い争うのは無意味です。どちらも、見ている側からすれば真実なのですから。しかし、私たちは案外、普段からこんな過ちを犯しているような気がしてなりません。世の中のことは複雑だから、その人の置かれた立場や損得勘定などによって、さまざまな見え方がします。自分が置かれている状況も、別の角度から見直してみると、全く新しい局面が開けてくるはずです。関根正明さん(武蔵野音楽大学講師)が、ある中学校に新任の校長として赴任したときの話です。朝から爆竹が鳴り、壁は蹴破られ、消火器の中身がばらまかれ、カーテンは焼け焦げ、ゴミは溢れ、先生や生徒の怒声が飛び交う。それほど、その学校は荒れていました。そこで関根さんは、学校が綺麗になれば生徒も先生も変わってくれるだろうと考え、先生たちにゴミ拾いを提案しましたが、とても手が回らないと拒絶されます。そこで、関根さんは、一人でゴミ拾いを始めることにしました。「おう校長、あすこにもゴミが落ちているぞ」と、突っ張りの連中が来て言います。「何を言うか、ゴミがあったら自分で拾え」と、思わず答えます。「俺が捨てたんじゃねえや」と、彼らはゴミを蹴飛ばし、唾を吐き捨てて行きます。そんな光景が毎日繰り返され、事態は一向に好転しませんでした。夏休みに、関根さんはあるきっかけで一種の心理療法の研修を受けました。夏休みが終わり、再びゴミを拾い始めると、また突っ張り連中がやって来ました。「おう、校長。頑張っとるな。ここにもゴミがあるぜ」すると関根さんは、「ああ、ありがとう」と、何の構えもなくごく自然に答えていました。突っ張りの一人が言います。「汚ねえな、この学校は」「そうだね」そのうちに、その子が一緒にゴミを拾い始めました。そして、「もっとゴミがいっぱいある所を教えてやる」「オレが授業に出たくないのは・・・」などと話し始めました。◆明日に続く
2006.10.18
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昔々、インドのある村に鬼子母という女性がいました。彼女には可愛い千人の子供がいて、子供によいお乳を飲ませるには人の生き血が良いというので、毎夜あちこちから子供を盗んできては食らっていた。子供を奪われた親の嘆きが地に満ち、お釈迦様は何とか鬼子母の残忍な魂を改めさせたいと思って、彼女が一番可愛がっている末っ子を、神通力で手に持たれた鉄鉢の中に隠してしまわれた。いつものように余所の子供を盗んで帰った彼女は、我が子が見えないので気が狂わんばかりになった。10日の間ものも食べず、髪を振り乱し、素足であちらこちらと我が子の行方を尋ね回り、とうとうお釈迦様の前に出て、泣き崩れて子供を失った悲しみを訴えた。お釈迦様に、「鬼子母よ、自分の子が奪われてどれほど悲しいかがよく分かったであろう。おまえに子を奪われた親も同じ嘆きをしているのだ」と諭されて、ようやく他人の悲しみに気がつき、それから鬼子母は子供たちの守護神となった。人間は誰でも、自分が経験しない他人の痛みなどは本当には分からないものだが、少しでも他人の痛みを思いやることのできる(想像できる)人になりたいものです。(注)現代のいじめの問題も同じです。先生がいじめを誘引し、子供が自殺をしたニュースがあったが、これなどはまさにいじめられる側の気持ちを想像できないイマジネーション力の不足にあります。◆二通りの生き方石田一鼎は山本常朝に、「常朝よ、おれは人間の生き方には二通りあると思っている。それは、子供の頃から体験した不幸を、この世の中に対してどう使うかということだ。つまり、自分が経験した不幸を、その後の生き方にどう使うかということだ。一つは、自分の不幸を世の中への対抗要件にして、仕返しをしてやろうとか報復してやろうと思う生き方だ。しかし、これは不幸の活用ではない。悪用だ。つまり、その動機はすべて私心だからだ。私欲だ。自分がこれだけ不幸な体験をしたのだから、世の中のあらゆる人間にも不幸をばらまき汚染させてやろうという考えだ。これは間違っている。もう一つの生き方は、自分の不幸をバネにして正しく生きようと努力する人だ。自分の体験した不幸は、絶対に他人には味わわせてはならない。そのために自分の不幸を隠して、あくまでもそれを忍び、世の中の人を喜ばせようとだけ考えることだ。これは自分の不幸を活用していることになる」と語る。順送りに目下の者や新入りをいじめるのも同じ発想で、前者の生き方をする人が9割以上だと思います。ぜひ、後者の生き方をしたいものです。
2006.10.17
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昔々「この世で、誰が一番愛しいだろう?」とインドの王様が考えたが、いくら考えても自分ほど愛しい者はいません。そこでお妃様に、「お前は、誰が一番愛しいか?」とお聞きになりました。お妃様もよくお考えになった末に、「やっぱり、自分以上に愛しい者はいません」とお答えになりました。信心深い二人は、「こんなことでいいのだろうか」とお釈迦様に伺いに行きました。するとお釈迦様は、「それでいいのだよ。でも、自分が自分を一番愛しいように、他人もそうであることを忘れないように」と優しく諭しました。誰でも自分ほど愛しい者はなく、自分がまず幸せになりたいと願っています。その各自の自愛と我欲の本性と本性とがぶつかり合って、争いが起きるのが人間社会です。小は親子、兄弟、夫婦の喧嘩から、大は国と国との戦争まで、すべての根は同じです。何かを考えるとき、自利と他利とはコインの裏表のようなもので、自利が増えれば他利が減り、他利が増えれば自利が減るので、お互いに自分のことだけが前に出て争います。◆人の気持ちは分からないものそれに、私たちは何かを判断するとき、「自分のすることは悪くない」「自分の苦しみや痛みは非常に大きい」、「他人のすることは少しのことでも悪い」「他人の苦しみや痛みは大したことはない」などという、自分用の尺度と他人用の尺度の二つを自在に使い分けています。「他人の苦しみを自分のことに置き換えて、その2割でも考えられるようなら真の友達であり、5割も考えられたら聖人で、八割を超すようならもはや神か仏であろう」と言った人がいたが、人の苦しみや悲しみ、苦労などというものは、自分が実際にその立場になってみないことにはなかなかわからないものです。ある外科医がガンの手術を受けた後で、「私はいままで、何気なく手術をして、苦しむ患者に『頑張りなさい』なんて言ってきたが、切られる方はまさに死ぬ思いだよ。今度、手術を受けて、患者の苦しみが本当に分かったよ」と述懐していたが、そんなものです。このように自分本位なのが人間の本質で、そこから「自分は正しい」という自己肯定の気持ちが生まれます。これが嵩じると、他人の人生に横車を押し、自分の考えを押し付けがちになります。それでは、人間関係が上手くいくはずがありません。そこで、『私が、私が』という気持を少し押さえて、『あなたからどうぞ』と相手を先に立てる気持ちで対応すると、相手は気分を良くして自ずと人間関係が良くなります。そうやって譲ったとしても、禅語に「終身道を譲るとも100歩を出でず」とあるように、結果としては殆ど違わないものです。なぜなら、人間には、相手から良いことをしてもらうと、相手にも良いことをお返ししたいという優しい気持が芽生えるからです。北風と太陽の話しと同じで、自分が良い気持ちでいたければ、遠回りのようだが、まずは相手を良い気持にさせることです。◆自分が変わるしかない結局、人間関係を良くするコツは、相手に変わることを求めるのではなく、自らが相手思考に変わることです。そのあたりを仏教では、忘己利他(己を忘れて他を利することを考える)という言葉で教え、四無量心(慈悲喜捨)と四摂法(利業・同事・愛語・布施)を説きます。・慈=人を楽しませてあげたい、幸せにしてあげたいと願う心。・悲=人の苦しみを和らげてあげたい、取り除いてあげたいと願う心。・喜=相手が幸せになることを見て、自らも満足する心。・捨=善行を意識したり、自慢したり、恩に着せたり、見返りを期待したりしないこと。・利業=相手の役に立つことをする・同事=相手の身になって苦楽を共にする・愛語=相手の身になって親身に話しかける・布施=自分の大切にしているものを差し出して、相手に精神的・物質的な恵を与える。慈善と布施をよく混同しがちだが、次のように考えると分かりやすいと思います。ここにケーキが一つある時、「相手が可哀想だから半分あげる」というのは慈善で、「二人で分けて食べた方が楽しく、より美味しく感じるから半分あげる」というのは布施です。布施とは、憐れみではなく、そうした方が自分がより楽しくなるから、自分の大事なものを人に貰って戴くのです。だから、「ありがとう」と言うのは布施を施した人の方です。それは、人に「してあげられる幸せ」を感じることであり、徳を積ませて戴く感謝の心でもあります。
2006.10.16
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高校受験を控えた長女が登校拒否になり、昼間家の中でごろごろ寝ていて、夜になると起き出してきてテレビやラジオの深夜番組を聞くようになった。父親は転勤が多く、長女は小学校の時に4回、中学校でも1回転校した。今回も最初は普通に登校していたが、5月頃から登校を渋りだし、10月には全く登校しなくなった。もともと内向的な性格で、友達づくりが苦手だったようだ。また、関東から福岡へ来たという環境の変化もストレスになったようだ。くどくど説教するよりも、登校拒否の子供には気分転換が必要だし、大自然に触れると小さなことを気にしている自分が馬鹿らしくなるから、一緒に登山をしてみてはと勧める人があった。11月の末に親子3人で近くの山に出かけた。2カ月間家にこもっていた彼女は随分と疲れたようだったが、久しぶりに笑顔を見せてくれた。そして数日後、彼女が急に学校へ行くと言い出し、12月のある日、とうとう自らの意志で登校した。冬休みには塾にも通い、学力挽回のために精を出した。それから2カ月、彼女は無事に志望校に合格した。今では、保母になることを夢見て頑張っているそうです。
2006.10.15
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人間誰しも、生まれたくて生まれてきた人もいなければ、いくら生きていたいと思っても時が来れば命が尽きる儚い存在です。だからこそ、山本有三著『路傍の石』の一節にも、たった一人しかない自分を たった一度しかない人生を本当に生かされなかったら人間に生まれてきた甲斐がないじゃないか・・・とあるように、たった一回しかない自分の短い人生を、悔いなく明るく楽しくイキイキと生ききらなければ、人間として生まれてきた甲斐がないと思います。それも、チェーホフ著『三人姉妹』の一節に「私は、よくこんなことを考えます。もし、生活をもう一度始めから、しかもちゃんと意識してやり直せたらね。すでに費やしてしまった生活はいわば下書きで、もう一つほかに清書があるとしたらとね」とあるように、私たちの人生はやり直しのきかない『たった一回きりの本番だけの旅』です。そんな最も大切な人生の旅において、「いかに生き、いかに死すべきか」に心を傾けることもなくうかうかと老い、「自分の人生は何だったのだろう? もうやり無しもできない。生き甲斐を見つけることもできずに人生を終わるのか」と嘆く人は多いものです。だが、人生とは「自分は何者で、どうすれば幸せになれるのか、充足感をもてるのか」を見つけ出す終わりなき自己発見の旅であり、今からでも遅くないと思います。「人生って、死ぬまでの時間をどう過ごすかってことなのね。そのために何かに夢中になる。何もしないでじっと死ぬのを待っているのって、ちょっと耐えられないよね。でも、何かをしていれば、その間に命が燃え尽きる。問題は何で燃え尽きるか。自分に適したものは何か。それが人の使命でしょ。その与えられた目的に夢中になっていれば、死ぬなんて恐くない」と、歌舞伎役者の坂東玉三郎さんも語ってみえました。理想的な人生とは、坂東さんではないが、死ぬまでの一瞬一瞬を夢中になって燃焼させられるものを持ち、毎日ワクワクドキドキしながら生きていくことだと思います。結局、一生夢中になれて自分の命を燃焼し尽くして悔いのないものとは何か、つまり「自分の人生には生きる価値がある」と自ら思える最大のものとは何かを突き止め、後は、蓮如が「幸せとは、実際に財産や名誉を獲得することではなく、実現を夢見ることにある」言ったように、自己実現を夢みて楽しく歩き続ければいいのではないでしょうか?
2006.10.14
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働き盛りの30代に対する調査では、「老後に明るい見通しを持っている」と答えたのは男性で14.4%、女性で15.8%だけでした。また、幾つになっても生き甲斐は幸せ感の大きな要素と思うが、『21世紀にあなたが幸せになるための条件』というアンケート調査(同和火災が平成10年春発表)によれば、1位 「健康」 56%2位 「お金」 24四%3位 「家庭円満」 14%でした。「仕事」は30代では6位でしたが、29歳以下では24位でしかありません。本当に、これで幸せになれるのでしょうか?健康である、お金がある、家庭が円満である、確かに表面的には幸せそうにみえます。でも、健康で、お金があっても不幸な気持の人は一杯います。逆に、病気で、お金も余り無くても幸せな気分で毎日を過ごしている人も沢山います。私たちは、健康やお金、贅沢な生活、地位などという良い状態だけが幸せだと考えて、表面的な良い状態だけを求めすぎて不幸な気持に陥っている人が多いように思います。それでは、ごく一部の人しか幸せにはなれないことになります。どんな境遇の人でも、たとえば五体満足や健康でなくても、お金がそんなに沢山無くても、たとえいまが逆境にあっても、それでもなお毎日をイキイキと生きていくことはできると思います。それが大切だし、それこそが本当の幸せの姿だと思います。それは、どんなに小さなことでも良いから、自分にやるべきことがあり、それが誰かの役に立っているということから感じる生き甲斐にあると思います。例えば、お金がどれだけあっても、歳を取ってやるべきことが無くなると急速に生気を失うように、人間というものは自分の生きていることに対して何か手応えを感じないと心身共に健康に生きていくのが難しいようです。それでは、幸せとは言えません。『生き甲斐』を辞書で引いてみると、「生きる張り合い・生きていて良かったと思えること・生きている幸せ、利益、効験」などとあるが、私は、生き甲斐とは、たった一度しかないこの人生を自らの命を輝かせて、『心豊かに、明るく』ワクワクドキドキしながら、イキイキと生きていくことに尽きると思います。
2006.10.13
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心を明るく楽しく保つための、朝、昼、夜、それぞれの簡単なコツを伝授します。◆朝、起きたら、ヒゲを剃ったり化粧をしたりする前に、鏡に向かってニッコリ笑って、「今日一日、この笑顔を崩すまいぞ」と自分に誓いましょう。笑顔になると、内面からイキイキとした活力が湧いてきて、顔に艶も出てきます。若さを保つ秘訣は、外面の化粧ではなく、心の化粧です。こうして笑顔を絶やさない努力をしていれば、良いことが向こうからすり寄ってくるはずです。◆日中は、どんなことがあっても良い面だけを見て、ニコニコと笑って過ごしましょう。例えば、上司に叱られても、落ち込んだり恨んだりするのではなく、自分が成長するために励ましてくれたのだと思えば、やる気もわいてくるはずです。お客さまから苦情をもらっても、シュンとしてしまうのではなく、まず「すみません」とお客さまに心から謝罪し、それを機会に改善に取り組みましょう。そうすることで、お客様に信用されるようになった例は数多くあります。どんなに悪く思えることにも、見方を変えれば、プラスになる面がきっとあるはずです。◆夜には、その日出会った楽しかったこと、嬉しかったことなどを思い出し、日記に書きとめたりしましょう。楽しかったことがどうしてもなければ、「だからよくなる」と一言つけ加えます。一日の終わりをいかに楽しく終わるかは、とても大切なことです。ベッドにまでストレスや暗い気持ちを持ち込んでは、よく眠れるはずがありません。今日一日の中で楽しかったことを思いだし、それを心の中で膨らませてから休むようにしてください。この三つを毎日実践すれば、あなたは一生、楽しく、心豊かに生きていけるはずです。
2006.10.12
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新羅の学僧元暁は、中国留学の夢を抱いて旅に出たある夜、山中の洞窟に泊まりました。夜中に喉が渇いて目を覚ますと、入口に月を映した美しい清水があるのが目に入ったので、これ幸いと一気に飲み干したところ、まさに甘露の水でした。ところが、翌朝になって清水を探すと、それはサレコウベにたまった汚水だった。その時、元暁は、「あらゆるものは己の心の影に過ぎぬ」と悟り、故郷へと帰っていきました。この世に初めから美しいものや楽しいことがあるのではなく、その時々の自分の心が美しいと感じ、楽しいと感じるだけなのです。同様に、初めから辛いことや悲しいこと、苦しいことがあるのではありません。すべて、自分の心の表れです。もし、この世が愚劣にしか見えなかったり、辛いことばかりに思えたりするなら、それは自分の心が愚劣だったり、マイナス思考ばかりしている結果にすぎません。自分の心が新鮮で豊かで、前途に希望の光が赤々と輝いていれば、過去にどのようなことがあろうとも、現在がどんなに苦しいものであっても、「すべてはこれからだ」という期待と意気込みで心に張りをもって生きることができるはずです。状況は同じでも、自分の心の持ち方を少し変えるだけで、気持ちは180度違ってきます。何事も悪く考えたり、悪い面ばかりを見たりするのではなく、良い方に考えたり、良い面だけを見るようにしていると、毎日が楽しく、積極的になってきます。◆良いことばかりも、悪いことばかりも続かないのがこの世の中です。笑って生きても、しかめ面で生きても、一生は一生です。辛いことがあっても、「ああ嬉しい、今日もこうして元気に生きていられる」と思うなら、ニコニコ暮らしていけるはずです。病気に罹ったとき、「痛い」と言えば治るわけではありません。「熱がある」と言って熱が下がるわけでもなく、ますます嫌な気分になるだけです。また、「明日はどうなるだろう」と心配したからといって、明日が良くなるわけでもありません。心配は、周りの人まで知らず知らずのうちに暗くしてしまいます。それが自分に跳ね返ってきて、一層惨めで暗い気持ちになるだけです。この世は、辛いことを探せば辛いことばかり、嫌なことを探せば嫌なことばかりです。でも、嬉しいことを探せば嬉しいことばかり、楽しいことを探せば楽しいことばかりのはずです。いつもニコニコと楽しそうにしている人に、その秘訣を聞いたところ、「涙を一杯こぼしたからですよ」という答が返ってきました。あの涙をこぼした経験に比べれば、今の状況などは何ともないというわけです。「一日一生日々元旦」という言葉のように、今日が人生の最初の日と希望を持ち、今日を人生の最後の日と思って努力する。そうやって、降っても照っても、今日を最高の一日としたいものです。◆明日に続く
2006.10.11
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一人の旅行旅行者が、ある田舎町の改札の駅員に、「この町の人は、実に陰気で閉鎖的だね。道を尋ねても、ろくに返事もしてくれない。挨拶もしないで無愛想な顔で通り過ぎる。本当に不愉快な町だ」と言うと、「本当におっしゃる通りです。この町の人は無愛想で、困ったものです」と改札係は答えました。別の旅行者が改札係に、「この町の人は、本当に温かい気持ちの人ばかりだね。道を尋ねれば親切に教えてくれるし、気軽に挨拶の声をかけてくれる。素朴で実にいい町だ」と言うと、「おっしゃる通りです、何もない田舎町ですが、人々の明るくて素朴な人情だけは自慢できます」と改札係は答えました。それを聞いていた旅行者が、「君は嘘つきだ。言っていることが、相手によってまるで違うじゃないか」と難癖をつけました。あなたはどう思いますか?人間というものは、こちらが陰気に心を閉ざしていれば、相手も同じように心を閉ざしてしまいます。逆に、こちらが明るく心を開くと、相手も心を開いてくれるものです。つまり、どう感じるかは「自分の心の持ち方次第」と彼は言いたかったのだと思います。付記 一昨日来、海山が荒れていますが、穂高連峰は綺麗に雪景色です。下記をご覧下さい。http://shinshu-online.ne.jp/livecam/kamikochi/day1_10.html
2006.10.10
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この世の悩みも争いも、また楽しみや悲しみも、そのほとんどは、人間関係から発していると言っても過言ではありません。ですから、楽しく生きていくためには、人間関係が良いことが絶対条件だが、人間関係ほど難しいものはありません。あなたには、どうしても好きになれない人はいませんか?一度、「あの人は嫌いだ」と思いこんでしまうと、どんな些細なことでも悪い方へ悪い方へと解釈しまうのが人間の性です。でも、「この世の中に、根っから悪い人はいません。自分と気が合う人と、気が合わない人がいるだけです」と精神科医の齋藤茂太さんは言っています。誰にでも、気が合わない人はいます。要は接し方です。「この人は、なぜこんなに物わかりが悪いのだろう」「あいつは、何と扱いにくい奴なんだ」などと、相手のことを非難したところで、相手を変えることはできません。どんなことでも、自分だけが正しくて、相手が全部間違っているということはまずありません。逆に、相手の考え方が一方的に正しいということもありません。ですから、自分が正しいと思って、相手を一方的にやっつけても問題は何一つ解決しません。相手が自分の思う通りに変わってくれれば、これほど楽なことはありません。相手に変わることを強要するのではなく、まず自分を少しでも変える努力をしてみることです◆まずは相手をほめてみよう最初から「話が合いそうにもない」と思ってしまうと、そういう気持ちは相手にもなんとなく伝わります。ですから、相手もそう思って対応します。そこで、気が合わない人ほど、心の中でほめてみることをお勧めします。それには、相手の良いところを探す努力が必要です。そうやって相手の良いところを探しているうちに、だんだんと良いところが見えて、自然と好きになってくるものです。愛とは、相手に対する関心なのです。人間は誰でも、長所も短所も併せ持っています。見方によっては、短所は長所になり、長所が短所にもなります。例えば、ここに「話し下手で訥々と話す人」がいるとします。その人に好意を持っていれば、「何と誠実な人」と思うはずです。その人に良い感情を持っていなければ、「なんて愚図な人だろう」などと思うはずです。このように、自分の心の持ち方一つで、相手への感情はどのようにも変化します。相手をほめているうちに、だんだんと相手の良いところが見えてくるから不思議です。すると、だんだんと相手とも気が合うようになってきます。要は、気が合わないと思われる人を、自分の中でどう消化するかです。うまく消化できれば、人生は楽しいものになってきます。◆お互いを認め合う大切なことは、お互いに他との違いを認め合うことです。人間は、一人ひとり違います。だからこそ、一人ひとりに存在価値があり、お互いに助け合う必要があるのです。二人の人間が、お互いの違いを認識し理解しあって、お互いが共感し尊重しあう。良い人間関係はそこから始まります。人間関係がうまく行かないという人は、自分には自分の思いや考えがあるように、相手には相手の思いや考えがあることを理解しないで、自分の思いや考えだけで物事を判断したり、自分の思いや考え方を一方的に押し通そうとしているではないでしょうか。親子、夫婦、友達、上司と部下、売り手と買い手、大きくは国と国・・・。これらの間で起こるいさかいは、すべて両者の思いや考えが違うところから発生しています。同じ人間同士なのです。お互いの同じ所と違うところを認め合うことから、良い人間関係はスタートします。あなたが相手を理解した分だけで、相手もあなたを理解してくれます。まず、勇気を持って相手に話しかけ、相手を理解するところから始めることです。
2006.10.09
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知能に重い障害を持つ子供の「ために」歩んでくださる人は多いが、「ともに」歩んでくださる人は少ない、と止揚学園の福井達雨さんは言う。「ために」と「ともに」には、大きな違いがあります。「ために」は、汗を流さなくてもよい。疲れなくてもよい。重さを感じなくてもよい。汚れなくても、自分が責任を持たなくてもよい。上(優位な立場)から、何かをしてやったらいいのです。「ともに」は、汗を流し、疲れ、重さを感じ、責任を負い、自分が汚れ、他者に自分を投げ出し、命をぶつけなければなりません。「ために」は楽な歩みができるが、『ともに』は苦しい歩みです。だから、「知能に重い障害を持つ人のためではなく、ともに歩んでいただきたい」と叫べば多くの人は逃げ去ってしまう。自分を犠牲にすることは、不合理だと考える時代だからです。だからこそ、「ともに」歩んで欲しいとなお強く叫ぶことの大切さを思う・・・と。皮相的な同情ではなく、身を挺しての奉仕は生半可な覚悟ではできません。これは総てに言えることではないでしょうか?私たちは、とかく何事においても「あなたのために」と言って押しつけがちだが、もっとあるがままに「ともに」歩くことが大切だと思います。
2006.10.08
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アメリカの医学解説書に甲状腺の項を執筆したこともある菅谷昭さんは、25年勤めた信州大学医学部助教授を辞めて、ベルラーシで放射線被曝患者の治療を自費で続ける。23歳のとき、母の通夜の席で、「昔、母さんが易者に昭は43歳で死ぬといわれてずっと気にしていた」と聞かされたが、その時は笑い飛ばした。だが、米国の学会から帰る飛行機の中で今年43歳であることに気づき、「今、飛行機が落ちたら自分は死ぬが、『面白かった、十分に生きた』と満足して死ねるだろうか」と思った。仕事は多忙を極め、自分が何をしようとしているのかさえ分からなかった。そんな時(91年1月)、テレビでチェルノブイリ5年目の報道があり、多くの小児甲状腺ガンが発生し、現場の医療機関が対応しきれないことが報じられていた。自分の専門は甲状腺外科だから、何かやれることがあるかもしれないと思った。その春、民間の調査団に加わってゴメリ市を訪れた。国立ガンセンターの施設を視察すると、旧式の手術で幼い子供の首に大きな傷痕が残っている。「こんなむごいことをしてはいけない。自分なら違う方法でやれる」と大学を辞めてベルラーシに渡ったのです。大抵の人は、「いつ死ぬかもわからない」という事実を、「明日も生きている」という惰性に置き換えて、昨日のままに生きています。だが、私たちの命は、今日よりも明日、明日よりも明後日と確実に減っていきます。問題は、そのことをいかに自覚していくかです。今の仕事に打ち込めないというのも、そんな自らの命の尊さに気づいていないからです。◆ガンで余命数カ月と告げられた50歳のベンチャー経営者は、延命治療を拒否し、明晰な意思で死ぬ準備を始めました。後継者には経験と知識から会社経営のノウハウを詳細に書き遺し、家族にも今後の生活のことをメモにして遺した。友人たちにも、自分の心に去来する思いを偽ることなく書き遺し、膨大なメモのそこかしこに「○○さんに感謝する」というメッセージを記した。ガンは死の準備をできる時間があるから良いと言った人がいるが、誰にも生に限りあることを忘れて、私たちは命が永遠にあるかのように生きています。だが、生き甲斐のある充実した人生は、成り行き任せ、人任せでは決して開けません。就職、結婚、出産、異動、法事など人生の節目節目で、「いかに生き、いかに死すべきか」を真剣に問いつめて生きていくことが大切だと思います。極端に言えば、絶えず後3年とか5年の命と思って真剣に生きれば、今とはまた違った生き方が見えてくるはずです。
2006.10.07
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お年寄りに専用の部屋を用意し、専用のテレビを置き、食事の時間以外は一人で静かに暮らせるようにするのも労りではありません。それは、お年寄りを姥捨て山に捨て置くようなもので、早くボケてくれと言っているようなものです。「高い和服が嫁に盗まれた」と姑に犯人扱いされたBさんは、思い余って姑の部屋に鍵をつけ、寄らず触らず、可能な限り嫌疑のかかりそうなことは避けてきました。そんなあるとき、老人ボケの相談員から、次のように言われました。「ボケて収めた場所を忘れると、無いから盗まれたと考え、普段から気に入らない嫁を犯人に仕立てあげるのです。気に入られる嫁に変身しないと、姑の思考も変わりませんよ」そこでBさんは、姑のご機嫌伺いに好物の和菓子を手に部屋を訪ねるようにしたところ、姑の物盗られ妄想はすぐに消えたということです。ある親孝行な息子は、マンションを買って両親を住まわせ、三度三度の食事も近所の仕出し屋から好きなものを取り寄せるようにしてあげました。年老いた両親は、「なんと良い息子だ。まるで極楽のようだ」と涙を流さんばかりに喜んだのですが、まだそんな年でもないのに、2年もしないうちに2人とも相次いで亡くなってしまいました。人間が生きていくうえでは、辛いことや面白くないことが色々あります。「それがなかったらどんなにいいだろう、極楽に違いない」と誰しも思います。ところが、地上に極楽はあってはならないのです。あの世にしかないから夢なのです。くだんの両親は、何もしなくて良く夢のような生活だと思っているうちに命が果ててしまい、本当の極楽に行ってしまったのです。逆に、何時も心配ばかりかけている極道者の息子を持っていると、親としても死ぬに死にきれず、何時までも気を張って生きていかなればと思い、それが生き甲斐になって、ボケずに長生きするかもしれません。矛盾するようだが、親孝行も難しいものです。こんな話を聞いたこともあります。90幾つの人が風邪をひき、大事をとって寝かせたところ、本当に寝たきりになってしまいました。ところが孫が結婚式を挙げることになり、「ワシも行く」と言って聞かないので、車椅子に乗せて式場に運んだそうです。宴会の尾頭付きの鯛をパクッと食べた途端に元気になり、帰りは自分で歩いて帰ったということです。これには、老齢社会への幾つかのヒントがあります。第一に、いかに体を動かすことが大切かということです。第二に、何か人生の先に喜び、楽しみ、希望を持って生きることです。
2006.10.06
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あなたには、どうしても好きになれない人はいませんか?不幸なことに、OLのA子さんにとっては、上司が顔を合わせるのも嫌いな人でした。一度、「あの人は嫌いだ」と思いこんでしまうと、何もかもが悪く見えてくるのが人間です。上司の言うことなすことが、いちいちA子さんの神経に障ります。そこで、彼女はできるだけ上司の顔を見ないように努め、廊下で会っても走りながら挨拶するというありさまでした。「どうしてこんなことになってしまったのか」原因を考えれば考えるほど、上司にまつわる不愉快な出来事ばかりが思い出されます。そして、とうとう「会社を辞めよう」と思い詰めるほどになったある日曜日、彼女は街で偶然、奥さんや子供と一緒に穏やかに笑っている上司の姿を見かけました。そのとき、彼女はハッと気がつきました。「自分が嫌で嫌でたまらない人も、他の人にとってはそうとは限らない」という事実にです。それ以来、彼女は、その上司があまり気にならなくなったということです。「あの人は嫌いだ」「物分かりが悪い人だ」などと思ってしまうのは、何があっても、悪い方へ悪い方へと受け取ってしまう自分の心が原因であることに気づいたのです。私たちは、周囲の人や物事を見る時、自分なりの分類方法に照らして、無意識のうちに「好き・違い」「良い人・悪い人」「良い・悪い」などと分類しています。例えば、AさんとBさんという「よくしゃべる」同じようなタイプの人が2人いても、Aさんに対しては「気さくで話好きな」人だと思う一方で、Bさんに対しは「しゃべり過ぎる」人だと思うことがよくあります。これは、Aさんに対しては普段から好印象を持っているのに、Bさんに対しては良い感情を持っていないためです。つまり、自分の好き嫌いという色眼鏡を通して相手を評価しているのです。昔から「アバタもエクボ」と言うように、相手がどう見えるかは心の持ち方次第です。その人の癖や性格、行動も、相手は少しも変わらないのに、好きと思えば好ましく思え、嫌いと思えば嫌悪感を抱くだけのことです。恋いの破局も、何かをきっかけに相手の好ましいと思っていた点が、嫌悪感に転ずることから起きる場合が多いものです。人の好き嫌いなど、そんなものです。
2006.10.05
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19世紀に、オランダである政治犯を使ったこんな医学実験があります。囚人のベッドの周りで、医者たちが「人間は、血液がどれくらい無くなったら死ぬか」という議論を始めます。議論の結果、「大体3分の1ぐらい無くなったら死ぬのではないか」という結論に至ります。「それでは実験をしてみよう」と言って、医者がその囚人の足の指の間をメスで切り、管を通して血液をベッドの横に置いたビーカーに流し始めます。何時間か経った時点で、一人の医者が、「どれくらい血液が無くなったか」と質問しました。それに答えてもう一人の医者が、「間もなく3分の1ぐらいになります」と言いました。その瞬間、囚人は事切れたということです。実際は、囚人にメスは当てたが出血はしておらず、別に用意していた赤い水を流していただけだったのです。ところが囚人は、「血液の3分の1が無くなったら死ぬ」という情報が前もってインプットされていたために、「3分の1が無くなった」と聞いた途端に、「あっ、俺はもうだめだ」と思い込んでしまった。それが本当に死を招いたということです。◆アウシュビッツ収容所でも、こんな実例があります。ある脚本家の囚人は、戦争が5月30日に終わる夢を見て、もうすぐ開放されると希望に満ちていました。ところが、とても戦争が終わらないと分かった5月29日になると、失望からか突然高熱を出し、31日には死んでしまったということです。◆しかし、その一方で、末期ガンで医者から余命いくばくもないことを宣告された人の中にも、治る人がいます。そんな末期ガンを克服した人たちを九州大学医学部心療内科で調査したところ、医学的な共通事項は何もありませんでした。ただ一つ共通していたのは、「私はガンなんかに負けるはずがない」「良くなったらあれをするのだ、これをするのだ」と、将来に向かって夢と希望を抱いていたということでした。アメリカでも、「ガンをやっつけるのだ」と前向きに明るく立ち向かっている人は、「もうだめだ」と悲観的で後ろ向きな人よりも生存率が高いという結果が報告されています。心の持ち方一つで、人間の生死さえ変わってくるのです。
2006.10.04
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日本人は議論が下手で、反対の意見を述べると感情論になったり、本人の人間性など全てが否定されたとでも思うのか後々までしこりが残ったりしがちです。長野や徳島などの議会がいい例です。小泉さんもその例かな?それでは、これからの多様で変化の速い社会を生き残っていくことはできません。江戸時代、黒田藩には、藩士たちが藩政改革について自由に意見を言い合うことのできる『異見会』というのがあった。ときには激論にもなるが、会には『怒らず・恨まず』というルールがあった。徳川300年の間には沢山の藩が廃絶されたが、黒田藩が生き残ったのは、この異見会のおかげだとも言われています。社内だけでなく広く外部の異なる声を聞いて、時世の転換や人心の動向を客観的に見極め、新しい方策を情実や思いこみに流されることなく模索してゆく姿勢が大切です。中国にも『巨耳細口』という言葉があるが、「大きな耳」とは人の話を聞くこと、「細い口」とは話すのを少なくして上手に相槌などを打ちながら人の話を聞くことです。そんな聞き上手は説得上手の決め手でもあり、異見を大切にする姿勢のある個人や組織は、どんな時代になろうとも人に信頼され、道を誤ることもなく生き残っていくはずです。ああ、残念かな小泉さん。安部さんはどうかな?小者を頭に戴いた国民は哀れです。でも、それを選んだのは国民。あなたの一票が未来を決めます。
2006.10.03
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異質の情報に触れて、「アッ、そんな見方、考え方もあるのか」とハッとしたり、「これをあの問題に当てはめてみたら」と触発されることがあります。物事を複数の視点から見ることは、全体像を正しく把握するためにも、新鮮な発想をするためにもとても大切です。複眼思考をするには次の点に留意することです1.自分とは異質の人と交わる独創性が求められる今日だが、皮肉なことに、情報化が進めば進むほど、同じ情報に基づいて思考、判断する危険性が高まります。毎日、同じ生活をし、同じ人と付き合っているだけでは、考え方や話題も固定化してしまいます。異分野の人や趣味、関心事が違う人、年齢の違う人、異性、外国人などと積極的に付き合い、そこに流れるさまざまな情報を自分の耳と目で確かめ、自分の肌で感じることです。自分の見方、考え方と違うからといって、「それは違う」と避けるのではなく、「そんな見方もできるのか」と素直に受け入れ、多面的に考える習慣をつけることが大切です。2.自分とは異質の思考パターンをするパートナーを持つどんなアイデアも、最初のヒントを思いつくのは個人だが、一人では大きく育ちません。「創造の場には、化学反応を起こす人の存在が不可欠である。例えば、硫酸にいくら硫酸を混ぜても硫酸だが、塩酸や硝酸を混ぜると激しい化学反応が起きてやがて沈殿物ができる。それが発見であり発明である。創造の場にも、そういう異質な化学反応を起こす人が必要である」とシャープの佐々木正さんは言ってみえます。「異質のものの組み合わせからしか新しいものは生まれない。ペアというのは組み合わせの最小の単位である。個性と自分の専門を持っている人がペアになると、10+10が20になるのではなく掛け算で100にもなることがある」と糸川英夫さんも言います。歴史上の偉大な人たちも、その業績は一人で成し遂げたわけではなく、必ず誰かとペアを組んで実現しています。異質の二人が激しく議論し、不得手な分野を補い合うことで、一人の人間では考えつかない思いもよらない知恵や成果が生まれるのです。意見や見解が割れるからこそ、そこに今までにない大きな可能性が潜んでいるのです。議論をして二人の同じ点を探すのではなく、違う点を拡大していくことがポイントです。違いが生じるのは、自分が見落としていた視点や、異なった情報から判断しているからです。そんな他人の視点からもう一度考えてみると、自分の単なる思い込みであったり、情報の取り違えであったり、新しい見方の提示であったりして、物事の本質が見えてくることが多いものです。それが間違いを防ぎ、新しい知恵に育っていく本になります。
2006.10.02
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雑踏の中で小さな子供が迷子になって、「お母ちゃん、お母ちゃん」と泣いていると、母親が現れて「バカだね、お前は。よそ見をしているからでしょう」と頭をたたいた。でも、本当は迷子にしているのお母さん。ショーウインドーに気を取られて歩いているうちに、お母さんが子供のことを忘れていたからである。子どもが人生に迷うのも同じです。きよう パパが かたぐるまをしてくれたそのとき ゆかはわかったんだどうしておとなは まいごにならないのかが (小学校三年生、かつきゆか)ゆかさんは「大人は迷子にならない」と言うが、親自身が人生の迷子になっていないだろうか? 『親』という字は「木の上に立って見る」と書く。ゆかちゃんが言うように、高いところから物事を見て判断し、進むべき正しい道を子に示すのが親の役割です。それには、親自身が確たる人生の目的や生きる目標、生きていく上での価値観を持って、大地をしっかりと踏みしめて歩き、子供に道をしっかりと指し示す必要があります。
2006.10.01
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