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念じつつ積み重ねる上に咲く花うむことなく積み重ねる果てに熟する実そのときあなたはその場に無くてはならない一隅を照らす人になるそれを信じて歩き続けることの幸せ今日は断食2日目で絶食の日です。食べないことの爽やかさを味わっています。知らぬ間にも受けている人様の恩を知るために、知恩院の除夜の鐘突きにでも出掛けようかなと思っています。この1年のご愛読を厚く感謝します。松の内中には5万人目が達成できると思いますが、メールを戴ければささやかなお礼をお送りさせて頂きます。
2006.12.31
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家庭とは、要するに夫・妻・子供の三つの心が心を合わせて一つになればいい。親子の対話とか、夫婦の話し合いを優先させよというが、エセ文化人のそんな巧言や妄想を真に受ける必要はない。優先すべきは日常における親の姿勢である、とある人が言いました。特に、母親の生きる姿勢が子供に重大な影響を与えます。団地の主婦たちが、夫を送り出した後、団地の一室で夕方までマージャンに興じていた。子供たちが空腹を訴えると、店屋物を注文しなさいと命令していた。そうしたことを毎日続けているうちに、メンバー二人の子供が非行で補導を受けた。母親たちはたぶん、自分はマージャンをしていただけでマージャンで遊ぶくらい自由だと考えている。だがおそらく子供たちは自分の母親の醜さ、だらしなさ、いやらしさに嫌悪を感じて非行に走ったのであろうと思われます。ローンのために働きだした妻に男ができて帰りが遅くなり、子供はインスタント食品などで夕食を済ませることが多くなった。やがて離婚し、子供は非行に走ったと言う話も聞く。昔から嫁を選ぶときは親を見ろというが、親の日常の姿が子供に与える影響は大きい。
2006.12.31
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今朝の新聞に「割れ窓理論」が紹介されていました。割れ窓が放置されている学校は規律が甘いので、少々のイタズラは見過ごすだろうと思われてしまう。イタズラを見過ごすなら、少々の悪事も見逃すと思われてしまう。そうやって見逃され続ければ悪事は加速し、やがて地域の荒廃、国家の衰亡に至る、という訳です。現在の日本を見ていると、まさに倫理観の割れ窓現象が起きていると思います。自分のブレーンが官舎に奥さん以外の女性と住んでいても何とも思わない一国の首相が教育問題を云々し、何人もの知事が贈収賄で捕まるかと思えば、下は税金をくすねた裏金作りに奔走し、末端では市営住宅や保育所の金を滞納し、何年も殆ど出社しなくても給料を払い続け、天下り先作りのための3セクは借金の山・・・書き出せばきりがありません。経済界では各種の欠陥隠しや汚い金儲け主義の横行、学校では先生がいじめを助長したり、いじめでの自殺の多発、家庭では子供の虐待や親殺し・・・、何時からこんなに破れ窓が広まったのでしょうか?戦後、私たちが追い求めてきた幸せの行き着く先はこんなものだったのでしょうか?昔の人は「衣食足って礼節を知る」と言ったが、衣食が足りると礼節が無くなるから礼節を重んじるように心掛けよと言う反語ではなかろうかと思えてきます。こんな愚痴が出るのも歳を取った証拠でしょうか?でも、そんな風潮に逆らうような私のブログを、600日余で5万人近い方が読んで戴いていると言うことは、まだまだこの世の中捨てたものじゃないと意を強くしています。私は今日から断食でリセットしますが、来年も宜しくお願い致します。(まだ明日がありますがね)世の中も雪で覆うように綺麗になれと願って(解ければまた同じだが、一時の間でも綺麗な社会を実現したいですね)京都金閣寺の雪景色でもお楽しみ下さい。
2006.12.30
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またある方は、毎日寝る前に、その日の楽しかったことだけを思い出して寝るそうです。すると、ぐっすり眠ることができます。ぐっすり眠れれば、翌日の朝は爽やかに目覚めることができます。そこに善の循環が生まれます。つまらないことから口喧嘩をしたり、腹が立ったりすると、すかさず顔に出ます。そんな時の顔を鏡で見ると、鬼のように恐ろしい顔をしています。逆に嬉しい時や楽しい時の顔は、恵比寿さんのように素晴らしい顔をしています。普段から穏やかな心を持っていると、自然と穏やかな顔になってきます。絶えず怒ったり不平不満を言ったりしていると、人相そのものが暗くなってきます。顔を造り出す心が変わってくると、自分の見聞する世界も変わってきます。それにつれて、自然と顔の相が変わってきます。だから大人の顔は自分の責任と言われるのです。微笑は、いつも人の心を和ましてくれます。赤ちゃんを見つめていると、自然と優しい心になってきます。赤ちゃんの無心な笑顔を思い浮かべて、笑顔の練習をしてみてください。何事にも明るく前向きに対処していると、トントン拍子に全てがよくなってきます。「悟りとは平気で死ぬことではなく、どんな境遇でも平気で生きていくことだ」と松岡子規は言いました。平気で生きていくには、今あることをあるがままに受け入れ、今という時をできるだけ愉快に生きることです。「花見んと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の 咎にありける」と西行法師が嵯峨野のひっそりとした庵室が花見客で騒がしくなるのを嫌って謡うと、「憂き世と見るも 山と見るも ただその人の心にあり 非情無心の草木の花に 憂き世の咎はあらじ」と老いた花の精が答える能の一節があります。花はただ咲いているだけ。それをどうみるかは、その人の心次第です。この世のすべてのこともそれと同じで、あなたがどう感じるかで辛くも楽しくもなるものです。ポリアンナのように、「うれしくなるゲーム」の達人、名人を目指したいものです。
2006.12.30
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昨日は通り雨のようににわかに雹が降りましたが、今朝は雪がうっすらと積もりました。我が家から見える送り火の鳥井も雪模様です。年ごとにびんの白さも加わりぬ京のわび居もやがてふさはむ(吉井勇)こんな歌に共感を感じるこの頃です。
2006.12.29
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『少女ポリアンナ』(エレノア・ポーター著)という小説をご存じですか?ポリアンナは、「嬉しくなるゲーム」の天才で、どんなことの中にも嬉しくなる要素を探し出します。嬉しいことがいっぱいある時なら、このゲームは簡単です。でも、悲しい時にこそ、どんな薬にも勝る大効果を発揮します。彼女は、どんなに辛いことや悲しいことに囲まれても、どこまでも食い下がって、必ず嬉しいことを見いだすのでした。そして嬉しいことを見つけたとき、自分一人が喜ぶのではなく、周りの人にも喜びを分けてあげる名人なのです。この童話は、何事も悪い面ばかりを見るのではなく、その裏に潜んでいる良い面を見ることが、前向きに明るく生きる秘訣だということを教えてくれます。事業を営んでいると、取引先が倒産したり不渡り手形をつかまされたりすることがあります。そんなとき、「こん畜生」とその人を恨んだり、あれこれと悩むのが普通です。京セラの稲盛和夫さんも、昔はそうだったそうです。しかし、あるときから、過ぎ去ったことに拘泥せずに前向きに考えるようになり、「火傷程度で済んでよかった。命までは取られなかった」と思えるようになるにつれて、運のほうも開けてきたそうです。ある経営者は、明るさが大事だと考え、毎日良いことだけを「光明日記」と名づけた日記に書いています。これを何年も続けていると、自分の人生はいいことだけで満たされている気分になり、自然と心が明るくなり、手相や顔までが変わってくるそうです。作家の五木寛之さんは、弟さんが亡くなられてからしばらくの間、ものが書けなくなってしまいました。そこで新しいノートを買って来て、どんなちっぽけなことでもいいから、その日嬉しいと感じたことを書き留めるようにしたところ、毎日の些細なことに喜びを感じるようになり、気力を取り戻したそうです。このエピソードを拙著『いい話のおすそわけ』(三笠書房)で紹介したところ、長野県のご婦人から次のようなお手紙をいただきました。息子のことで悩んでいましたが、私も正月から『喜びノート』を作って、身近に感じた楽しいこと、嬉しいことを書き始めました。『喜びノート』が一週間を過ぎた頃、不思議な力を発揮しだしました。毎日、楽しいこと、嬉しいことを書いていると、自然に「ありがとう」の言葉を書きたくなるのです。楽しいこと、嬉しいことが有り難く思えて、感謝の気持ちに変わるのが不思議でした。神々しい日の出、家の前を流れる清らかな千曲川の流れ、四方の山々の雄大さ、青く高く静けさに満ちている空、夜空には無数の星の輝き、電話の孫の声・・・。今までは当たり前と思っていたことが、有り難いと思えるようになりました。「私の小さな悩みなんてたいしたことはない。な~んだこれしきのことで悩んだりして」と、大きな気持ちになることができました。去年の日記を見ると、愚痴の何と多いことか。心の持ち方一つで、こんなに人生が楽しくなるなんて知りませんでした。私、56歳。これからの人生、楽しい楽しい人生になります。
2006.12.29
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今年も残り少なくなりましたが、貴方にとって今年はどんな年でしたか?様々な思いを胸に1杯いかがですか?(祇園の舞子がお注ぎします)1日3合以上飲む人は時々飲む人に比べて自殺率が2.3倍などという記事もありましたが、酒飲みの私には江戸時代の「酒に十徳あり」に共感を覚えます。その一 百薬の長であるその二 延命長寿をもたらすその三 旅の友となるその四 寒さしのぎとなるその五 推参に便利であるその六 心配事を忘れさせてくれるその七 労働を癒してくれるその八 位が無くとも貴人と交われるその九 万人と和合ができるその十 一人住まいの友となる私は、明後日が今年の飲み納めで断食に入ります。皆様、良いお年をお迎え下さい。
2006.12.28
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私たちは、誰かに会ったとき、相手が心地よい微笑や優しい言葉をかけてくれないと、不満が生じて、あの人は冷たい、私を無視していると思いがちです。しかし、本当にそうでしょうか?微笑や優しい言葉を期待しているのは自分だけではなく、相手も同様に、あなたから微笑や優しい言葉をかけてくれることを期待しています。人が自分に対して冷たいとか悪感情を持っていると感じるときは、大抵の場合は自分の方に原因があります。思い切って、自分から「おはようございます」とか「お元気ですか」と声をかけてみましょう。誰もがそれを望んでいるのです。こちらが心を開けば、相手もきっと心を開いてくれるはずです。自分から「おはようございます」と明るく声をかけて相手の心を開き、何か言われたら「はい」と元気に返事を返して自分の心を開き、何かをしてもらったら「ありがとう」と感謝の気持ちを示せば、誰とでもすぐに友達になれるはずです。コミュニケーションは、何も難しく考える必要はありません。こうした言葉を絶えず口にするだけで、驚くほど相手の心を開く効果があるはずです。生まれながらに社交的な性格の人がいるわけではありません。社交性を決めるのは性格ではなく、人とのコミュニケーションに勇気を持って飛び込んでいけるかどうかだけです。人とコミュニケーションを交わすと、時には生身の自分をさらけ出すことになったり、相手との葛藤によってさまざまな苦痛を生み出すこともあります。それが怖くて、ある人は一方的に話すことで(自分が一方的に話している分には、相手の口を封じることになって面倒は起きない)、ある人はできるだけ話さないことで、自分の中の脅えから目を逸らしがちです。でも、ほとんどの喜びや感動はコミュニケーションから生まれます。コミュニケーションを活発にして喜びや感動を感じて命を輝かすか、コミュニケーションを避けてその機会を逃すかは、自分の選択次第です。とにかく、自分から話しかける勇気を持つことです。時には拒否されて嫌な思いをすることもあるかもしれないが、ほとんどの場合は「話しかけて良かった」と思うはずです。10人中9人までは、あなたから声を掛けてくれることを待っているのです。こちらが陰気に心を閉ざしていれば、相手も同じように陰気に心を閉ざします。逆にこちらが明るく心を開くと、相手も明るく心を開いてくれるものです。
2006.12.28
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人間の本性は自愛と我欲だから、人から何かをしてもらったり、自分が何かができるようになると嬉しくなります。でも、この二つは、自分の欲望を満たすだけの幸せです。では、他人に何かをしてあげて心から喜ばれた時、あなたはどんな気持ちがしましたか?きっと、何とも言えない喜びを感じたはずです。人は共に喜ぶ時、喜びは2倍にも3倍にも膨らみます。喜びが人の数だけ増幅され、感動を呼び起こします。子供も多かった戦前までは、親は仕事で手一杯で、姉や兄が下の子供たちの面倒をみるのが当たり前でした。そうやって育った下の子供たちも、そのお返しではないが、今度は幼い甥や姪たちの面倒をみたものです。また、学校の行き帰りにしても、坂道で荷車をひいている人を見れば後押しをしたりして、お互いに自然と助け合ったものです。そうやって、「してあげる幸せ」を自然と身につけ、味わいました。ところが、この頃では自分一人だけの世界に閉じこもる子供や大人が多くなって、乗り物にしてもシルバーシートを作らなければならないありさまです。兄弟姉妹の間でも、「なぜ私が妹や弟の面倒を見なければいけないの」と言う子が多くなっています。そういう生き方をしていると、世の中が生き難くなってきます。人間はどんな生き方をしようとも、絶対に一人では生きていけないのだから、お互いに「してあげる幸せ」をもっと味わってほしいと思います。そうやって生きるようにすると、世の中が明るくなり、自分自身も自然とイキイキとしてくるものです。そして、人に何かをしてあげても、決して「してあげた」と思わないで、自分自身がさせていただける境遇にあることに感謝することです。つまり、「させて戴ける」幸せです。「してあげた」という気持ちを持つと、ついつい「~をしてあげたのに」と「のに」が出てきます。「のに」には、何かお返しを期待した打算が見え隠れします。そうすると相手も、素直に喜ばなくなります。何かをしてあげても、すっぱりと忘れてしまうことです。「してあげる幸せ」と「させて戴ける幸せ」は、慈善と布施の考え方に通じます。ケーキが一つある時、「相手がかわいそうだから半分あげる」というのは慈善で、「二人で分けて食べた方が楽しく、より美味しく感じるから半分あげる」というのは布施です。布施とは、そうした方が自分の気持ちが休まるから、自分の大事なものを人に貰って戴くのです。だから、「ありがとう」と言うのは布施を施した人の方です。それは、他人にしてあげられる(功徳を積ませていただける)幸せを、自らがかみ締めることにあると思います。そうやって、小さいうちは「してもらう幸せ」が多く、だんだんと「できる幸せ」や「してあげる幸せ」が増えてきます。「させて戴ける幸せ」に到達できればもはや悟りの境地です。一生を精算した時、「してもらう幸せ」(自利)から「してあげる幸せ」(他利)を引いた収支がゼロかマイナスになるのが理想だと思います。
2006.12.27
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今年も終わりに近づきましたが、身体を労ってあげるために年末の断食でも如何ですか?私は毎日お酒を飲んでいるので、胃腸を労るとともに、食えなくても大丈夫なんだという自信を持つために、毎年年末年始にかけて3日断食を行っています。年末年始にかけてすると、2年越しに断食をしたようで気分も良いですよ。“ウポワズ”・・・ヨーガでは、断食のことをこういいます。 これは、限りなく神に近づくために・・・・と言う意味で、一番低次元の欲求である“食欲”をコントロールできるようになることによって、より高次な欲求へのベースが生まれる第一歩とするものです。何ものにも囚われない心・・・それは無理でも 何も食べないことの爽快さを味わうことはできるかも知れません。余録として体重が落ちるが、一度だけでは直ぐに戻るでしょう。時々実行すれば、意思の強いあなたなら体重も精神も安定するでしょう。たかが食欲、それもたった三日・・・それができなくて何ができますか?食べないことの爽やかさ、少し胃に食べ物を入れたとたんに空腹を感じる人間の浅ましさ・・・やみつきになるも結構、「今度こそは」と再挑戦するも結構 私は毎日2食のうえに、年末から年始にかけて毎年実践しています。第1日 朝 普段の半分(但し動物性タンパク質は不可:よく噛む) 昼 食パン半枚(6枚切り);ミルクティー(砂糖なし)一杯 時間をかけて食べ、ティー一杯を飲み終わると同時に食も終わるように。 夜 クッキーかビスケット2枚;ミルクティー(砂糖なし)一杯第2日 終日水のみ・・・ゆっくりと飲み、夜は白湯に塩少々を入れたものを。第3日 朝 梅湯(湯飲み一杯の白湯に梅干し一個をほぐしたもの) バナナ一本か野菜サラダ少々 昼 食パン半枚;ミルクティー(砂糖なし)一杯 ゆっくりと飲む 夜 普段の半分(但し動物性タンパク質は不可)留意事項3日間とも 水分は多めにとる(難しければスポーツドリンクやすまし汁も可)酒とタバコは不可通常と同じ生活をすること便意をもようしたら直ぐに行くこと風呂はあまり暖まりすぎないこと睡眠時には腹式呼吸(息を吸う時に下腹をしぼませる)をゆっくりと10回以上行う四つ這いになれば自然と腹式呼吸になるので試してみて下さいいずこの空の下に生まれても命の泉は清らかに流れ他の何物にも代え難く時とともにすぎ去りゆく今日一日は愛すべき身命である今日一日は尊ぶべき重宝である (南禅寺 日々是好日より)
2006.12.26
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この頃、若者たちの顔に輝きがない、ということもよく聞きます。実際・何をしたいのか分からない ・学校や勉強が面白くない ・仕事が面白くないなどと、つまらなそうな顔をして愚痴ばかり言っている若者をよくみかけます。◆平成8年、ある団体が小学校五、六年生にアンケートを実施したところ、実にその85%が、程度の差こそあれ何らかのうつ状態であるとの結果も出ました。(注 平成15年熊本県郡部13中学2年生1,500人の調査では30%が抑鬱感)その原因として挙げられたのが次の三点です。・将来やりたいことがない・やってみたい仕事が見つからない・大人になっても特に面白そうでない一方、働き盛りの30代に対する調査でも、「老後に明るい見通しを持っている」と答えたのは男性で14.4%、女性で15.8%だけでした。若い学生たちの間でも、人口爆発と際限のない欲望増大に伴う地球規模の環境破壊や資源の問題、それに高齢化社会の進展などに不安を覚え、このままだと自分たちが歳を取る頃には地球や生活はどうなっているのだろうかと、心配する人が増えています。社会は物質的に豊かになったが、その裏側で、若い世代は目標を失い、将来への希望を持てなくなって活気を失い、また、中高年齢者たちも長寿化やリストラの嵐の中で、未来の展望を失っています。そんななかで、いま生き甲斐と言うことが注目されているように思います。◆生き甲斐は幸せ感の大きな要素と思うが、『二一世紀にあなたが幸せになるための条件』というアンケート調査によれば(同和火災が平成10年春発表)、1位「健康」56%2位「お金」24%3位「家庭円満」14%でした。「仕事」は30代では6位でしたが、29歳以下では24位でしかありません。本当に、これで幸せになれるのでしょうか?健康である、お金がある、家庭が円満である、確かに表面的には幸せそうにみえます。でも、健康で、お金があっても不幸な気持の人は一杯います。逆に、病気で、お金も余り無くても幸せな気分で毎日を過ごしている人も沢山います。私たちは、健康やお金、贅沢な生活、地位などという良い状態だけが幸せだと考えて、表面的な良い状態だけを求めすぎて不幸な気持に陥っている人が多いように思います。それでは、ごく一部の人しか幸せにはなれないことになります。どんな境遇の人でも、たとえば五体満足や健康でなくても、お金がそんなに沢山無くても、たとえいまが逆境にあっても、それでもなお毎日をイキイキと生きていくことはできると思います。それが大切だし、それこそが本当の幸せの姿だと思います。それは、どんなに小さなことでも良いから、自分にやるべきことがあり、それが誰かの役に立っているということから感じる生き甲斐にあると思います。例えば、お金がどれだけあっても、歳を取ってやるべきことが無くなると急速に生気を失うように、人間というものは自分の生きていることに対して何か手応えを感じないと心身共に健康に生きていくのが難しいようです。それでは、幸せとは言えません。(以下、明日に続く)
2006.12.26
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【幸せ感=充足÷欲求】と序章で書いたが、欲求を「もっと、もっと」とドンドン膨らましてゆくと、充足もドンドン膨らませていかないと満ち足りた気分になりません。でも、逆に高まる欲求を抑えれば今のままでも幸せ感は高まるはずです。幾らお金があり長生きしても空しい心の人もいれば、お金や地位など目に見える物には恵まれていなくても、毎日を充実した気持ちで心豊かに過ごしている人もいます。幸せとは心の平安です。それは、他人と比較したり、無い物ねだりをする心を抑え、「いま、ここにあるがままの状態」に感謝し満足することでも手に入ります。幸せとは、幾ら儲けたかとか何歳まで生きたかという量の問題ではなく、与えられた時間の一瞬一瞬を心豊かに過ごす質的なものの中にあると、この歳になると思います。それには、江戸時代末期の歌人橘曙覧が楽しみは 朝起き出でて 昨日まで なかりし花の 咲ける見るときと詠むように、古来の日本人が大切にした時間や教養、精神と言った目に見えない物を大切にすることではないかと思います。◆経済学者の阪大筒井義郎教授は幸福感を研究テーマの一つにされているが、日米の比較調査から「お金も大事だが、お金だけではダメだ」と言う。日本では世帯所得が年1,500万円以上になると所得が増えても幸福感は高まらず、米国では20万ドル以上で幸福感が落ちるなど、一線を越えるとお金があっても幸福になれるということではないらしい。現代社会は様々な「効用」の観点からみれば利便性は高まっているが、生活満足度は「効用」の面から見れば不便な昔の人の方が高く、幸福感と効用は異なるとも言われます。また、因果関係は不明だが次のような日米の共通点もあるようです。・結婚している人は幸福で、子供の有無は幸福感にあまり影響しない。・喫煙する人は不幸だが、飲酒は幸福感に影響しない。・利他的な人ほど幸福感が高い。・失業している人は不幸で、それまでの給与と同じ失業保険をもらったとしても不幸。
2006.12.25
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昨日は原稿が上がった開放感から、知人と映画「硫黄島からの手紙」を観ようと行ったのだが満席で、八坂神社近くの隠れ家的料理屋で15時前から飲み始め、店を変えながら1時頃まで飲んでいました。どこのお店に行っても懐かしい顔に会うことができ、楽しい1日でした。帰りはクリスマスウイーク連休初日にもかかわらず、祇園花見小路前の道路はタクシーの空車で一杯、やはり庶民の暮らしは良くないようですね。安部さんも、企業よりの政策ばかりでなく、もっと我々の生活を活性化させることを考えて欲しいものです。八坂神社内の太田神社(芸能の神様で勝手に私の神社と決め込んでいます)にお参りし境内を通り抜けたらもうオケラ参りの準備が進んでいました。(オケラ参りの絵馬でもどうぞ)
2006.12.24
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「大人が変わらなければ、時代なんて変わらない」という声にビックリしてテレビを見ると、バッチリときめた坂本龍一さんが外車に乗って走り去るコマーシャルだった。ボロボロにもなってしまったこの時代を、何とか変えていかなければという思いを、多くの人が抱いています。誰もがそう思っているのに、今の世の中、一向に変わりそうな気配もありません。少年の凶悪犯罪や自殺が続発しているというのに、学校は、何時、どんなふうに変わるんだろう。派閥の圧力で大臣ポストが決まったりするようなバカな政治の世界は、本当にいつになったら変わるんだろうか。ダイアナさんの死ではあんなに大騒ぎしておいて、この国のワイドショーや芸能ジャーナリズムは、これからどう変わっていくつもりなんだろうか・・・と、コラムニストの天野祐吉さんは言います。(チョット古い情報ですが少しも変わっていません)これらに限らず、公害や企業犯罪でも、全ては私たち大人一人ひとりが変わらなければ何も変わりません。それには、他に原因を求めず、そのことに対して自分自身がどんなに小さな事であってもいいから、具体的にできることから始めるしか解決の道はありません。
2006.12.24
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先月の29日から書き始めた原稿も、やっと今朝一応終わりました。3千点の「おすそわけ」コンテンツの中から、まず750ばかりを選び出し、それから更に書き直したりしながらCD用に365話(経営者向けに1日1話 1年分)、別冊雑誌用に77枚分の原稿を整理するのに正味20日ばかりかかりましたが、腰は痛くなるは腕は腱鞘炎気味やらで散々です。そんなことで部屋に籠もっているうちに、世の中はすっかりクリスマスモードですね。私も今日は、昼間は温泉に入り、夕方からは美味しいものを食べつつ、お酒をたらふく飲みたいと思っています。来週1週間はノンビリしたいと思うのですが、そういえば年賀状書きもあるし、メルマガや「京 夢起こし塾」の原稿書きもあるし、30日からは断食もしたいと思うし、結構大変みたいですね。写真はローム本社前の電飾です
2006.12.23
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人生を明るく楽しく生きていくには、どんなにひどい状況の中でも、何かしら良いこと楽しいことを見つけ出し、希望を見いだしていくポジティブな思考が大切です。雨や雪が降っていると、つい、「いやだな」という思いがわいてきて、「うっとうしいな、早く上がらないかな」と考えてしまいます。でも、いくら考えたところで、雨や雪が降っているという現実は変わりません。旦那が多額の借金を残して蒸発し、借金を返済しながら三人の子供を女手一つで育てるために、鹿児島から京都に出てきて昼間も夜も年中無休で働き詰めの女性は、「雨が降って嬉しいな」、「素敵、雪見酒をやりましょうよ」といつも現実を肯定して受け入れ、どんな状況のときも明るく前向きです。そうやって現実を肯定的に受け入れてみると、雨に洗われて艶々とした木々の葉っぱや、生き返ったように元気な草花たち、普段とは趣の違う素晴らしい雪景色が見えてきます。ときには、から傘をさしてパラパラという雨の音を楽しんでみると浮き浮きしてきます。私たちは、晴れた日がよくて、雨や雪の日が悪いと考えがちです。でも、雨の日には晴れた日とはまた違った良さだってあります。そこに目をやることです。日々の生活には、面白くないこと、納得のできないこと、辛いこと、悲しいこと、理不尽なことがたくさんあります。しかし、それと心の折り合いをつけて意味付けをし、自分の人生の一番根本のところで満足が得られれば、きっと幸せに生きていけるはずです。肺ガンで12歳の子供を亡くしたお母さんは、「心残りはもちろんありますが、仕方がありません。あの子と12年間も一緒に暮らせたのを、何よりの幸せだと思うようにしました」と語ります。どんな場合でも、それが自分たちにとってどういう意味があるのかを考えて、自分なりに納得する答を見いだすことだと思います。もう一つは、自分自身の良かったときや他人の良い状況と比べないことです。「よかった時や他人と比べるから苦しくなる。『いま、ある状態』をそのまま受け入れれば苦はなくなる。すると、なんのてらいもなくなり、素敵な笑顔でいられるようになる」と、戦争の後遺症で両足を切断し、右肩も動かない僧侶は言います。目の前の現実を素直に受け入れたとき、不満の心は消え失せ、生きていることの本当の喜びを味わうことができるはずです。
2006.12.23
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感動するとき、命のリズムが蘇り、命がイキイキとしてきます。感動する素直な心が、人や生き物、自然に対して優しく振る舞う心を支えるもとであり、そうした優しい心を持つことが人から愛される根本です。感動を伝播させて人を感動させることができれば、人はあなたのために喜んで手を貸してくれます。部下は喜んで一生懸命に働き、成長していき、あなたを助けてくれます。子供は自分の才能を自然と開花させ、イキイキとしてきます。感動というと、私たちはとかく何か特別なことがないと無理だと思いがちだが、そもそもこの世の中に、大きな喜びに浸れるような機会など滅多にありません。大きな喜びばかりを求めていると、絶えず不満ばかり抱いて生きることになりがちです。特別な何かを求めるのではなく、普段何気なく見過ごしているものの中に感動の種を見つけることです。いつもフレッシュな気持ちで、何事にも好奇心を忘れずに関心を持って見ることです。すると、人生のいたるところで、小さなことにうっとりとする小恍惚を見出せます。美しい花や星、風景や絵、音楽、心のこもった料理、こうしたものも、関心を向ければ、「美しい」「素晴らしい」「美味しい」と素直に感動することができます。そういう小恍惚を見出せる人は幸せな人であり、どんな状況の中でも生き甲斐のある人生を送れると思います。「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」と芭蕉は詠んだが、好奇心もなく生きていると、そんなものはつい見逃してしまいます。また、江戸末期の歌人、橘曙覧は、「楽しみは 朝起きいでて 昨日まで なかりし花の 咲ける見るとき」と詠んでいます。本当に心豊かな幸せとは、日常のささやかな生活の中の小さな喜びを拾い集め、育んでいくところにあるような気がします。青空があり、風が吹き、雲が流れ、花が咲き、川がサラサラと流れ、海が光る。難しいパズルやゲームをクリアする。小説や趣味に没頭して時間を忘れる・・・。そういう喜びを当たり前のこととして見過ごしてしまい、何も感じられなくなったらおしまいです。幸せは、決してある朝突然に大きな足音を立てて近づいてくるものではありません。普段何気なく見過ごしている小さな幸せを見逃さないで、自らの努力で大きく育てていくことです。それが、幸せをより大きなものに育んでいくコツです。
2006.12.22
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掃除に学ぶ会で有名な株式会社ローヤルの鍵山秀三郎さんは、高崎の小学生との交流で、私たちには、・してもらう幸せ・できる幸せ・してあげる幸せの三つの幸せがあると言いました。私は、これを次のように解釈しています。赤ちゃんの時には、泣けば、お母さんがお乳をくれたり、おしめを替えたりしてくれました。それは、父母の愛に守られた「してもらう幸せ」です。社会人になっても、仕事をくれたり、何かプレゼントをもらえば嬉しくなります。その証拠に、この世の中に賄賂や接待がなくなることはありません。年をとって子供たちに面倒を見てもらい、何不自由なく暮らせるのは幸せなことです。他人から何かをしてもらうのは、いくつになっても嬉しいものです。当たり前のように思っているが、「してもらう幸せ」のなんと多いことでしょう。大きくなるにつれて、自分でいろんなことができるようになると嬉しくなります。「できる幸せ」です。ハイハイができ、やがて歩けるようになる。一人で服が着られたり、ご飯が食べられたり、トイレに行ったり、風呂に入ったりすることができるようになる。遊びやスポーツができ、絵や字が書けるようになる。達成感は人間を成長させ、生きている幸せを感じさせてくれます。さらに、大人になっても、欲しい物が買える、贅沢ができる、綺麗な家に住んで美味しいものが食べられる、仕事がうまくできる、ゴルフがうまくなるなど、「できる幸せ」をいっぱい味わっています。これら当たり前のように思っていることも、実は大変幸せなことです。体が不自由になってみて、自分で「できる幸せ」が初めて分かります。できて当たり前の「今」に感謝したいものです。◆次回に続く
2006.12.21
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「他人の苦しみを自分のことに置き換えて、その2割でも考えられるようなら真の友達であり、5割も考えられたら聖人で、8割を超すようならもはや神か仏であろう」と言った人がいました。人の苦しみや悲しみ、苦労などというものは、自分が実際にその立場になってみないことにはなかなかわからないものです。私たちには、自分用の尺度と他人用の尺度の二つがあります。これを自在に使い分けて、「自分のすることは、そんなに悪くない」「自分の苦しみや痛みは非常に大きい」、「他人のすることは、ちょっとのことでも悪い」「他人の苦しみや痛みは大したことない」などと考えがちです。例えば、あなたが大切にしている何百万円もする高価なツボがあるとします。ある時、家族の誰かがつい過って割ってしまいました。あなたは、「あれほど触ると言っておいたのに!」などと言って烈火のごとく怒るはずです。でも、自分が過って割ったとしたらどうでしょうか? 自分の過ちは咎めるわけにもいかないので、ちょっと肩をすくめて残念そうな顔をすることはあっても、「済んでしまったことは仕方がない」と諦めるはずです。「落として割った」という事実は同じでも、自分のしたことはそう責めもしないのに、他人のしたことは何十倍にも思うものです。人間とは、自己中心的な存在です。自分には甘く、他人には厳しいために、どうしても相手の気持ちを思いやる心が不足しがちです。ですから、何事も自分から出発しては、争いが起きるばかりで、上手くことが運びません。なぜなら、自分に都合のよいことは、大抵は相手にとって都合の悪いことだからです。そのため、お互いの自己都合がぶつかりあって、なかなか上手くいきません。「自分のして欲しいことをまず他人になせ」と聖書にあるが、自分のして欲しいと思うことは、大概相手もして欲しいはずです。そこで、自分の立場でばかり物事を考えないで、一歩自分から離れて相手の立場で物事を見てみると、いろんなことが見えてきます。仏教では、「忘己利他」(己を忘れて他を利する)とか、「自利利他」(他人の利益が自分の利益につながる)を説きます、私たち凡人にとって、「忘己利他」までは難しくても、「自利利他」くらいなら努力してできないことはないと思います。一歩下がって相手のことを先に考えると、人間関係は自ずと円滑になってきます。
2006.12.20
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私たちは、誰もが幸せな生活を望んでいます。では、幸せとは何でしょうか?私たちの心は常に目に見える外界の対象物である財貨や地位、権力などを追い求めて止まず、魅力的に映る物を手に入れるために脇目もふらずに邁進しがちです。そして、運良くそれを手に入れることができると、その当座は幸せ感を感じます。だが、それを手に入れた途端に、すでに二つの不幸が芽生えていることには誰もなかなか気がつきません。◆一つは、もっと欲しいという欲求です。何かを手に入れたとしても、私たちはそれで満足して止まるわけではありません。たとえば、最初は10万円もあれば嬉しいなと思っていたのが、やがて100万円になり、1千万円になり、1億円になり、何十億円、何百億円となり、ドンドンと満足のレベルを高めていきます。洋服を買えば、今度は靴やアクセサリーが欲しいというように、すぐにまた別のものが欲しくなり、さらに次々と別のものが欲しくなります。お金や地位もそこそこあって、他人から見れば十分に恵まれているようにみえても、他の人と比較して自分の方が劣ると不幸と感じ始めるのも人間です。このように、物質的なものや相対的なものは麻薬と同じで、次々と刺激を強くしていかなければ効かなくなり、一時の幸せ感をもたらしてはくれても長続きはしません。そうやって、人間は『もっと、もっと』と欲望をふくらませていき、永遠に心が満ち足りるということがありません。ですから、常に今以上に充足を高めないと幸せ感は高まりません。そこで、次から次へと、モノを買い、お金を貯め、旅をし、美味しいものを食べ・・・と、欲望を満たすために狂奔してきました。本来、欲望というのは、苦しむためのものではなく、楽しむためのものであるはずなのに、際限なく膨らました欲望が満たされないと言って苦しんでいるのが私たち人間です。◆もう一つは、手に入れたものを失うかも知れないという恐怖です。富にしろ、地位や権力にしろ、あるいは最愛の家族にしろ、いずれは手放さなければならないときが必ずやってきます。それが何時来るかと恐れます。多少なりとも財産なり地位を得ると、人がそれを狙っているのではないかと絶えず不安になり、疑い深くもなります。人がそれらを奪おうとすると、それを取られまいとして口争いや殴り合いになったり、ときには訴訟になったりもします。「子ある者は子によりて喜び、牛ある者は牛によりて喜ぶ。まことに頼りは人の喜びなり。頼りなき者は喜ぶことなければなり」と悪魔が歌うと、お釈迦様がこう応えます。「子ある者は子によりて愁い 牛ある者は牛によりて愁う。まことに頼りは人の愁いなり。頼りなき者は愁うことなければなり」私たちは、愛する子供や、財貨や地位、名誉など、何かを得ると嬉しくなります。しかし、得れば得たで、今度はそれを失うまいという苦が生じ、失えば愁いが生じます。ですから、物質的なものや相対的なものを求めるかぎり、決してあなたを平安で心豊かな暮らしには導いてくれません。トルストイ著『戦争と平和』の一節に、「自分の心中に幸福を求めなさい。幸せの泉は外ではなく内にある」とあるが、幸せ不幸せは心の内にあり、すなわち心が感じるものです。(以下、次回に続く)
2006.12.19
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「自分は何のために生まれてきたのだろうか」と考えたことがありますか?私の好きな歌、梁塵秘抄に次のような今様があります。遊びをせんとや生まれけむ 遊ぶために生まれてきたのだろうか戯れせんとや生まれけん 戯れるために生まれてきたのだろうか遊ぶ子供の声きけば 遊んでいる子供の声を聴いていると我が身さえこそ動(ゆる)がるれ 感動のために身体さえも動いてしまうこの歌ではないが、人は皆幸せになるためにこの世に送り出されてきたのだと思います。だから、人は皆 幸せ(生き甲斐)を求めて旅をします。歌を歌うのも、楽器を奏でるのも、絵を描くのも、スポーツをするのも、恋をするのも、真理を探求するのも、モノを作るのも、様々な仕事をするのも総ては生き甲斐を求めての一つの旅姿だと思います。そうやって、求め続ける幸せの形は人それぞれです。登山に例えると分かり易いと思うが、登山などまっぴらという人ハイキング程度が良いという人日本百名山に登りたいという人富士山に登りたいという人ヨーロッパアルプスに登りたいという人・・・人さまざまで、どの程度の山に登りたいかで準備も努力の仕方も違ってきます。人生も同じで、どれだけ高い理想を持つかで日々の生き方が違ってきます。倉本聡さんは、「人生の価値を、どれだけ金を稼いだとか、どれほど蓄えたかではなく感動や笑いでどれほどの量の涙を流させたか、その量で自分の人生をはかりたい」といっているが、あなたは人生の価値=幸せ感を何に求めますか?◆そこでまず、自分の求める幸せの形について次回から考えてみたいとおもいます。その上で、あなたの「幸せ計画書」を書き上げて下さい。
2006.12.18
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この頃では、運動会で差別になるといって一等賞とか二等賞とかいう上順位をつけない学校があります。では、試験の点数や通信簿は差別ではないのか?昔は、駆けっこが速い子やガキ大将は、ある意味では勉強ができる子よりも一目置かれていたもので存在感がありました。平等とは、何でも一緒にすることではなく、各人が自分なりの特徴を発揮して、個性と個性が共存することだと思います。運動会といえば、親と一緒に食べる弁当も楽しみだったが、両親が忙しくてこられない子供が可哀想となくなりました。昔だって、そんなことはあったのだが、忙しければお互い様で、「○○ちゃん、こっちに来て一緒に食べなよ」と、自分の子供をも様の子供もほとんど一緒だったものです。何時の頃からか、自分や家族のことだけしか考えないエゴの固まりの大人が多くなりました。子供達は、駆けっこで一等賞になれなかったり、親がこられなかったとしても、別にそれが差別だと思っていないはずです。我愛と我愛、事なかれ主義に凝り固まった大人の貧困な発想から、逆に子供を差別しているように思えてなりません。
2006.12.17
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「人の大いに恐れることは、必ずついに襲い来る」と哲学者ベーコンは言いました。私たちは、自分の心が創り出した益もないさまざまな感情のるつぼの中で不安になり、悶え、喘ぎ、怒っています。でも、心配すれば物事が上手く進んで良い結果が出るわけではなく、むしろ逆に心配した通りになりがちです。そればかりか、心配が伝染して周りの人まで憂鬱にし、全体が沈み込んでしまいます。心配症の人を見ていると、実によく失敗例を知っていて、すぐに「できない理由」や「失敗した例」を数え上げます。そして、及び腰になり現実から逃避しがちです。そんな人は、石橋を叩き壊すことはしても、どうしたらうまく渡れるかを考えようとはしません。何事もネガティブに見て、不平や愚痴ばかりこぼし、反対ばかりする人は多分、不平不満という角度からしか物事が見えないのだと思います。でも、恨み、妬み、愚痴、後ろ向きの言葉からは何も生まれず、決して何事も解決しないと思います。一方、どんな逆境の時でも、楽しそうに明るく振る舞い、乗り切っていく人もいます。そういう人は、心が明るく、どんなことの中にも光の当たる面を見ることができる人です。明るさは人間を前向きにし、創造につながります。楽しい状態の時は、「よしやってやるぞ」というやる気が生まれます。その「気」が伝播して周りを明るくします。そんな明るい人の周りには人が集まってきて、それが成功に導く原動力にもなります。どんな小さなことでも、心の持ち方一つで生き甲斐が生まれます。目の前のことに明るい心の光を投げかけ、温かい心の潤いを注ぎかけることです。考え込んだり後ろ向きになったりして、縮こまりがちな心を解放してあげることです。できるだけ明るい面、良い面だけを見て、日々を明るく生きていくことが大切です。それには、身の回りに小さな喜びの種を見つけて、大きく育てることです。赤ちゃんの揺り籠を揺すってやると、赤ちゃんはうれしそうにニコッと笑います。それと同じで、あなたが少しでも何か楽しい気分になれることを見つけたら、揺り籠を揺するように、優しく揺すってやることです。するとその喜びがだんだんと大きくなってきて、とても楽しい気分になってくるはずです。私たちに必要なのは、目の前にある障害を乗り越えることです。心配症の人は、失敗例を集めるのと同じ熱心さで成功例を集めてみることです。この世には、暗い話や失敗例と同じくらい明るい話や成功例があり、きっと明るい未来が見えてくるはずです。
2006.12.16
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昨日は沢山の方々から誕生祝いのメールを戴き有り難うございました。60才から始めた第2期の5年計画も2年目に入ります。今後とも、少しでも皆様の「明るく、楽しく、心豊か」にお過ごし頂けるためのお手伝いができればと念じております。「朝礼にも使える経営者のための自己啓発 1日1話」の原稿もやっと下書きがあがり、腰痛を和らげようと温泉で汗を流してきました。今年の漢字は「命」が選ばれましたが、命とは「いま」という一瞬の時間だと思います。「いま」あなたが何を思い、何を行うか、その積み重ねが人生です。この「いま」という一瞬を「明るく、楽しく、心豊か」に過ごすことができれば、あなたの人生はすべてが素晴らしい日々であることになります。今日という1日を大切に過ごしたいモノです。
2006.12.15
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念仏の『念』という字は『今』と『心』からできています。これは、今という瞬間の心が念であるという心がけです。今、仏さんの心を冷ましてはあかん、今、仏さんの心を忘れてはあかん。今という時間は再びやってくることはないのだから、今を無駄にしてはいけませんよ、一瞬たりともおろそかにしてはいけませんよということが、念仏の念なのです。この『今』というものは、時間であり命でもあります。今という時間は常に過ぎていくものであり、今という生命は再び現れることがありません。ですから、私は念仏とは人間の命そのものではないかと思うのです。こう清水寺の森清範さんは仰います。今という時間は、一つひとつ貴重なもので、今していることに打ち込むこと、今の自分の行いに全力を尽くすこと、その積み重ねがあなたの永久の命につながります。今この時を、無為なものにするもしないも自分の心ひとつです。今に打ち込めないのは、いろいろと先のことまで取り越し苦労をしすぎるからです。思うようにならないことを、思うままにしようとするから苦になります。ですから、思うようにならないことを、思うようにしようと思わなければ苦は芽生えません。「災難に逢時節には災難に逢がよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難を逃るる妙法にて候」と、地震の見舞いをくれた友人に良寛さんは書き送りましたが、このように現実を現実として受け入れる心があれば、自ずと苦から逃れることができるはずです。例えば病気になるとします。どんな病気でもすぐには治りません。ところが、病気になったことにイライラしたり、治らないのではないかとクヨクヨしたり、すぐに良くなって欲しいと思ってあせったりしがちです。そんな思いが病気には一番よくありません。何事も、イスラム教の「イン・シャー・アッラー(神の御心のままに)」ではないが、「どうあがいても罹ったものはしようがない」「誰でも死ぬときがくれば死ぬものだ」と自然の力に任せて生きていくことです。そう達観するのは凡人には無理だと思いがちだが、明日を思い煩うことなく、日々の小さなことの中に喜びを見つけていく限り、そう難しいことではないと思います。
2006.12.15
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「この世の中に、根っから悪い人はいません。自分と気が合う人と、気が合わない人がいるだけです」と精神科医の齋藤茂太さんは言っています。誰にでも、気が合わない人はいます。要は接し方です。「この人は、なぜこんなに物わかりが悪いのだろう」「あいつは、何と扱いにくい奴なんだ」などと、相手のことを非難したところで、相手を変えることはできません。相手が自分の思う通りに変わってくれれば、これほど楽なことはありません。相手に変わることを強要するのではなく、まず自分を少しでも変える努力をしてみることです最初から「話が合いそうにもない」と思ってしまうと、そういう気持ちは、相手にもなんとなく伝わります。ですから、相手もそう思って対応します。そこで、気が合わない人ほど、心の中でほめてみることをお勧めします。どんなことでも、自分だけが正しくて、相手が全部間違っているということはまずありません。逆に、相手の考え方が一方的に正しいということもありません。ですから、自分が正しいと思って、相手を一方的にやっつけても問題は解決しません。まずは相手の意見を認め、相手をほめてみましょう。それには、相手の良いところを探す努力が必要です。そうやって相手の良いところを探しているうちに、だんだんと良いところが見えて、自然と好きになってくるものです。愛とは、相手に対する関心なのです。人間は誰でも、長所も短所も併せ持っています。見方によっては、短所は長所になり、長所が短所にもなります。例えば、ここに「話し下手で訥々と話す人」がいるとします。その人に好意を持っていれば、「何と誠実な人」と思うはずです。その人に良い感情を持っていなければ、「なんて愚図な人だろう」などと思うはずです。このように、自分の心の持ち方一つで、相手への感情はどのようにも変化します。相手をほめているうちに、だんだんと相手の良いところが見えてくるから不思議です。すると、だんだんと相手とも気が合うようになってきます。要は、気が合わないと思われる人を、自分の中でどう消化するかです。うまく消化できれば、人生は楽しいものになってきます。
2006.12.14
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明日は赤穂浪士の討ち入りの日で赤穂市では写真のような行列があるそうです。大石内蔵助が一時住んでいた京都山科でも行列があります。私の誕生日でもあり、その前後にはテレビなどでも良く忠臣蔵が放映されるので、自己紹介では「元禄を昭和に代えて頂くと私の誕生日になります」と良く言うのですが段々と分からない人が多くなりましたね。
2006.12.13
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道元禅師は、「向かって愛語を聞くは、面を喜ばしめ、心を楽しくす。向かわずして愛語を聞くは、肝に銘じ、魂に銘ず」と言いました。「あの人が」と思うような人が、自分のことをほめていたと人づてに聞かされると、面と向かって言われるよりも嬉しいものです。その逆に、よく愚痴や人の悪口を言う人がいます。そんな人の周りには、暗い空気が漂い、人があまり寄りつきません。陰気で暗い顔をした人、いつもブツブツと不平を言う人、周りの人の陰口を言う人・・・。こんな人が一人いるだけで、部屋全体が暗くなります。「泥棒」と「人の悪口を言う人」のどちらが罪深いと思いますか?金や物なら、どんなに高価な物を盗まれても、惜しいとは思っても心まで傷つけません。ところが、悪口を言われたら、心が深く傷つきます。人の言った悪口がグサリと胸に突き刺さり、自殺した人もいます。悪口を言われて、カッとなって相手を傷つけたり、殺してしまった人もいます。そう考えると、泥棒よりも罪作りなのは言葉とも言えます。言葉のご馳走は無料です。次のような黄金の言葉を絶えず使いたいものです。・感謝の言葉 「ありがとう」の一言で、どんな苦労も吹き飛んでしまいます。・相談する言葉 相談されれば、誰でも嫌な気はしないし、やる気が出てきます。・期待と激励の言葉 多少の不安があっても、おのずと元気と自信がわいてきます。・「任せる」の一言 「君に任せた、頼むよ」と言われて頑張らない人はいません。・ほめ言葉、 ほめられれば嬉しくなり、自信が湧いてきて積極的になります。とりわけ大事なのは、相手の心の琴線に触れる言葉、ほめ言葉や励ましの言葉です。悲しい時、辛い時、嬉しい時、自分の気持ちを本当に分かってくれたと思える一言で、「ああ、生きていてよかった」と思うことさえあります。物事の長所を見つけるのがとても上手なA子さんは、彼氏といても「すごい、あなたって本当に才能があるのね」と何時も口から出ます。そんな彼女と一緒にいるうちに、平凡だった彼が、周りの人からも一目置かれるようになったという実例もあります。日本人はほめ言葉をうまく使うのが下手だが、直接面と向かってほめるのが面映ゆければ、間接的に言うといいでしょう。道元禅師も言うように、そのほうが効果的です。
2006.12.13
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原稿書きに疲れて夜の嵐山を散歩してきたが、端境期の観光客誘致を狙った花灯路も好調なようで大層な人出でした。
2006.12.12
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どこの家でも ご飯を食べるしかし なぜ食べるのかは知ろうとしない私がこんなことを言うと みなは馬鹿にして笑うだろう (良寛)君たちも同じで、「なぜ勉強するのか」「なぜ就職するのか」「なぜ会社を経営するのか」「なぜお金を儲けるのか」・・・などをあまり深く考えようともしません。良い学校(同志社)に入るのが(最終)目的ではなかったはずだしまた良い会社に就職するのが(最終)目的でもないはずです。ホリエモンのように事業を興して沢山のお金を儲けるのも本来の目的ではないはずです。目的があって手段があることを忘れ、目的を考えることもなく手段だけにこだわっているから変なことになります。日々の勉強や仕事にも身が入らず、やり甲斐や生き甲斐が感じられないのも、人が苦労して育てた会社を外からゲームのように金で掻き回して何とも思わないのも、みな目的意識や志が欠けているからです。絶えず「目的は何か」を意識し、目的と目標・手段の関係をキチンと押さえておくことが大切です。勉強も仕事も、あくまでも「幸せな人生を送る」ための手段にすぎません。だから、生き甲斐のある人生を送りたかったら、自分にとっての「勉強の意味、就職の意味、幸せの意味」の三つを関連づけてしっかりと認識する必要があります。◆たった1回の人生 君はどう生きたいのか?「自分は何のために生きるのか」という人生の目的をまず明確にする必要があります。つまり、夢の持てる健全なビジョンを持つことです。志に裏打ちされた壮大なビジョンを持つことで、人間は将来に希望をもって明るく精進することができ健全な人生が形創られていきます。それは、国や会社、学校などの組織体でも同じ事です。求める幸せの形は人それぞれだが、たった1回のやり直しのできない人生なのだから毎日「明るく、楽しく、心豊かに」ワクワクして命一杯に生きていかなければ、人間として生まれてきた甲斐がないと思いませんか?生き甲斐に溢れて毎日をワクワクドキドキしながら送るには、自分は「何によって心が満たされ平安になるのか」をまず良く考えてみることです。そして、私たちは自分の最も貴重な壮年時代の大部分を仕事に費やすのだから、仕事に働き甲斐を感じることができなければ生き甲斐も生まれません。自分のエキスパートパワーを見極めて特性が最も生きる場を見つけ、その場になくてはならない人になることが大切です。それをいい加減にすると、自分の存在価値が感じられずに鬱病になることになります。そして「勉強する目的」は 自分の隠れた能力を見極めるとともに、人生を愉快に生きるための知恵を身につけるためです。そう思えば、自ずと勉強にも身が入るはずです。そのことを良く理解して大学生活を送り、職選びをして欲しいと思います。◆やり甲斐の有無は自分自身の心の持ち方次第転職者の36%が「やり甲斐がない」と言って辞めると言うが、新人に始めからやり甲斐のある重要な仕事が与えられるほど会社は甘くもありません。また、元々やり甲斐のある仕事とやり甲斐のない仕事が最初からあるのでもありません。どんな仕事であろうと、その仕事の意義や目的を認識すればやり甲斐が生まれます。自分がその仕事に気持ちを込めることもなく、雑に流したときに雑用になるだけです。幸せの青い鳥が山の彼方の空遠くに住んでいるのではなく自分の心の中に棲む(心の持ち方次第である)ように、やり甲斐が有るか無いかもあなたの心の持ち方次第で決まります。永遠に実現しないかも知れない大きな夢と志を抱いて、それに向かって諦めることなく歩き続けるとき、すべてが彼方の血肉となりやり甲斐、生き甲斐につながってくるはずです。真の幸せとは、夢見て行い続けている過程で微かに光る希望の灯りにポッと感じ取るものだと思います。
2006.12.12
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快晴の天候に誘われて小倉山の麓まで散歩し、日だまりのベンチで原稿のチェックをしていましたが、目の前の嵐山もすっかり模様代わりをしていました。今年最後の雨に洗われた紅葉と冬枯れ間近の嵐山の紅葉をお送りします。
2006.12.11
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玉川大学宇宙物理学の佐藤春夫教授は、『わかる』とは『わ』と『か』を入れ替えること、つまり『かわる』ことであると言う。それには、学んだことを実際の行動に取り入れる必要があります。でも私たちは、とかく知識や情報を頭に詰め込むだけで現実の行動にそれを生かそうとはしません。それでは、結局、「知っているつもり」だけにすぎず、何も分かっていないのと同じです。◆人に好意持ってもらい仲良くするには、相手の話をにこやかに傾聴することです。でも、つい自分が主役になって話しすぎる。特に女性に多い。◆人間関係をスムースにするには、挨拶、返事、感謝の言葉を忘れないことです。でも、つい無言で受け流しがちです。それでは、相手は無視されたと思います。◆微笑みは相手に好意を持っているとのサインであり、相手の警戒心を解きます。でも、いつも苦虫をかみつぶしたような顔をしている人が多いものです。◆人を育てるには、相手の良いところを見つけてほめることです。でも、つい相手の欠点ばかりが目について苦言を呈しがちです。
2006.12.11
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早朝に雨も上がり小倉山に虹が架かりました。竹林・渡月橋の花灯路
2006.12.10
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批判ばかりされた子供は 非難することを覚える。殴られて大きくなった子供は、力によること覚える。笑いものにされた子供は、物を言わずにいることを覚える。皮肉にさらされた子供は、鈍い良心の持ち主となる。しかし、激励を受けた子供は、自信を覚える。寛容に出会った子供は、忍耐を覚える。称賛を受けた子供は、評価することを覚える。フェアプレーを経験した子供は、公正を覚える。友情を知る子供は、親切を覚える。安心を経験した子供は、信頼を覚える。可愛がられ抱きしめられた子供は、世界中の愛情を感じることを覚える。 (スウェーデンの中学校の教科書より)
2006.12.10
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『一期一会』とは、人によってさまざまな解釈があるが、「二度とない今の一瞬を、ただ楽しくあれ」と理解していると、唯心円成会主宰無能唱元さんは仰いました。【「いま」の「ま」と言うとき「い」はなし】というように、「いま」は一瞬ですぐに過去になってしまいます。その一瞬に生じた自分の気持ちや行動こそ、人間の生の総てです。だから、あなたが「いま、楽しい」のなら、あなたは「いま、幸せ」なはずです。そして、この「いま」の積み重ねがあなたの人生そのものなのだから、「いま、幸せ」ならあなたの一生は毎日が幸せなはずです。こう考えると、人生の幸福なんて実に単純で簡単なことです。一期一会の精神で、「いま」を自分の気持ちに正直に楽しめばいいのです。私たちは、いつでも、美味しいものや、美しいもの、楽しいものに浸っているとき、生命エネルギーがどんどん体内に注ぎ込まれてきます。大きな幸せを求めると大変だが、普段の何気ない生活の中に小さな幸せの種を見つけて、それを揺さぶり続けることをすれば、あなたは何時もイキイキと暮らせるはずです。だが、あなたは、思い通りにいかなかった過去を悔やみ、どうなるか分からない未来を思い患っていませんか?それでは、苦しくて惨めで不幸なだけです。どうしようもない過去や未来にこだわらず、あなたが「いま、ここ」に精一杯生きていれば、きっと幸せが永遠に続くはずです。過去のことを振り返り、教訓を見いだすのは、賢明なことだ。しかし、過去を生きるのは、賢明なことではない。それは、現在の自分を否定することだから。未来のことを考え、準備するのは、賢明なことだ。しかし、未来を生きるのは、賢明なことではない。それも、現在の自分を否定することだから。そして、自分を否定することは、何よりも大事なものを否定することだ。 スペンサー・ジョンソン『人生の贈り物』
2006.12.09
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何かと暗い話題の多いこの頃ですが、それだからこそ生き甲斐を持ち、毎日を『心豊かに、明るく、元気に、逞しく、命輝いて』生きていきたいものです。それには、取り返すことのできない過去にとらわれたり、まだ来もしない明日を思い患って暗い気持ちで生きるのではなく、今ここにある状況に満足して、今日という日に感謝し、明るく、元気に生きることです。なぜなら、人生は今日という日の連続だからです。「今日」という日を楽しく生きることができれば、明日という日の「今日」もまた楽しく生きられるはずです。そうすれば、過去は総て楽しい思い出で埋まり、たとえ何時死のうとも、「ああ、楽しかった」と人生を終わることができます。白隠禅師の師、正受老師の書いた『一日暮らし』という文章があります。「一日暮らしという工夫をしてから、精神はすこやかで、健康増進のコツを得た。一日は千年万歳の初めだから、一日を良く暮らすように努力すれば、その日がうまく過ぎていく。それを、翌日はどうしてこうしてとか、あてもないことを苦にして、しかも翌日のことに呑まれて、その日のことを怠りがちである。(中略)どんなに苦しいことでも、一日と思えばこらえやすい。楽しみもまた、一日と思えば溺れることもない。愚かな者が親を孝行しないのは、先は長いと思うからである。一日一日のことだけを思っていたら、退屈なこともない。一日一日つとめたら百年、千年もつとめやすい。何とぞ一生、と思うから大層である」苦労も幸福も実態があるのでなく、自分自身の心の中にあります。それは、心が創り出した虚像なのです。ですから、人間は心のもち方がすべてです。人は誰でも、心の持ち方次第で幸せになれます。自分の生まれ持った運命を嘆くことなく、毎日を「明るく、楽しく、逞しく、心豊か」に過ごすことができれば、たとえ短い人生であったとしても、素晴らしい人生にすることができます。今日一日、この一日を充実した日とするために精一杯の努力をして、結果が良くても悪くても、そのことに満足して生きることができれば、きっと充実した幸福な日を永遠に過ごせるはずです。
2006.12.08
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ミヒャエル・エンデ著『モモ』を読まれたことがありますか?小さなモモにできたこと、それは他でもありません。相手の話を聞くことでした。「なんだ、そんなことか」と言う人が多いと思います。「話を聞くなんて、誰にでもできるじゃないか」と。でも、それは違います。本当に人の話を聞くことのできる人は、滅多にいないものです。そしてこの点でモモは、それこそ他に例のない素晴らしい才能を持っていたのです。モモに話を聞いてもらっていると、バカな人にも急にまともな考えが浮かんできます。別にモモが、そういう考えを引き出すようなことを言ったり質問したりするわけではありません。彼女はただじっと座って、注意深く聞いているだけです。その大きな黒い目は、相手をじっと見つめています。すると相手には、自分のどこにそんなものが潜んでいたのかと驚くような考えが、すうっと浮かび上がってくるのです。どうすればよいかわからずに思い迷っていた人は、急に自分の意思がはっきりしてきます。引っ込み思案の人には、急に目の前が開け、勇気が出てきます。不幸な人、悩みのある人には、希望と明るさが湧いてきます。例えば、こう考えていた人がいたとします。「俺の人生は失敗で、何の意味もない。俺は何千万人もの人間の中のケチな一人で、死んでしまおうとどうって違いはありゃしない」この人がモモのところに出かけて行って、その考えを打ち明けたとします。しゃべっているうちに、不思議なことに自分が間違っていたことがよくわかってくるのです。「いや、俺は俺なんだ。世界中の人間の中で、俺という人間は一人しかいない。だから俺は俺なりに、この世の中で大切な存在なんだ」こういうふうに、モモは人の話が聞けたのです。これが、人の話を聞く神髄です。皆さんは、こんな話の聞き方ができますか?「知っているよ」「前にも聞いたよ」「忙しいから」「要するに何が言いたいの」などと、相手の話を封じ込めたり、相手の話を横取りして自分が話したりしていませんか?「それからどうしたの」「ほう凄いね」「ふんふん」「まあ!」などと相づちを打てば、相手は気持ちよく話を続けることができ、あなたに好意を抱くはずです。そして今度は、あなたの話を聞いてあげなければと思うようになるものです。
2006.12.07
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小春日和(正式には3日までですが)に誘われて、疲れを癒やしがてら散歩に出掛けたら化野念仏寺の前で今日もクリを売っているのを見て、ふとこんな童謡が頭に浮かんできました。静かな静かな 里の秋お背戸に木の実の 落ちる夜はああ母さんと ただ二人栗の実煮てます 囲炉裏ばた
2006.12.06
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お母さんが子供に言う言葉を聞いていると、「ダメな子ね」「本当に愚図なんだから」「そんなことしたらだめよ」などという言葉を無意識に使っています。いつも言っているうちに効き目が無くなるので、だんだんと表現がエスカレートしていきます。小さい頃から「あなたはダメな子ね」と、いつも言われ続けて育った子が、ゆったりと自信を持って生きていけるようになるかというと、かなり難しいといわざるを得ません。いつも先生や親などからマイナスの言葉を投げ続けられていたら、その子が自信を持って前向き行っていくのは難しいはずです。子供に投げかけられる言葉の80%は、否定語や消極的な言葉だと言われています。何時もそんな言葉を聞き続けている子は、本当は素晴らしい才能の芽を内に秘めているのに、それを開花させることなく、いつしか言葉通りになってしまいます。言葉そのものの力もさることながら、最も問題なのは親や先生によって長期間にわたって繰り返し、繰り返し植え付けられる不安感、不信感、劣等感などです。何気なく吐いた一言が、相手の心の奥深くに入り込んで潜在意識となり、気がつかないうちにマインドコントロールを行い、プラスにもマイナスにも作用するのです。消極的な言葉や怒り、悲しみ、迷い、悩み、苦しみ、憂いなどを含んだ言葉が自らの口をついた途端に、自分自身の行動に大きな影響を与える危険性もあります。人間の精神には、暗示への感受性があるからです。たった一言であろうとも必ず自分が気づかないうちに、ものの声に応じたように暗示への感受性が働いて潜在意識となり、言葉通りの状態が無意識のうちに働きだします。例えば、頭が痛かったり、ちょっと熱があると思われる時に、「熱があるようで、頭は重いし、体がだるくって」と愚痴を言っていると、ますます自分自身で暗い気持ちになってきて、本当に病人になってしまいます。逆に、「今日は嬉しいです」とか「今日は楽しいです」という言葉を発した時は、何とも言えない爽快さを感じるはずです。その感じる主体は、あなたの実在意識です。実在意識が感じた感覚は、直ちに潜在意識となって、生体機能にも知らず知らずのうちに影響していきます。言葉は口の端から出た途端に飛び散ってしまう儚いものだと思われがちだが、それが一度人の心のすき間に入り込むと、そこに根をはり、人の一生を左右するほどの恐ろしい力を発揮します。結局、自分の使う言葉の善し悪しによって、自分の生きる力が良くも悪くなります。つまり、言葉があなた自身やあなたの周りの人の運命を創ると言えます。
2006.12.06
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今日は散歩がてらに片道30分ばかりの酒の神様を祀る松尾大社まで行ってきました。もお、来年の干支である猪の大きな絵馬が架けられ、年賀状用に写真を撮っている人も沢山いました。私は、今年も無事腹一杯お酒が飲めたお礼と、来年も飲めますようにとお祈りをしてきました。
2006.12.05
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2.説得するには行動させると良い人は、言葉や文章だけではなかなか説得されない傾向もあります。ところが、自分自身があまり信じていないことでも、自分が相手を説得する行為をしている間に、自分自身が説得されてしまう側面があります。例えば、断酒の会では、新しい入会者があると、まだ完全に酒を止めることができない人に説得役をさせます。そうやって人を説得している間に、自分自身も酒を止めることができるようになるそうです。多くの宗教が、まだ深い信仰に達していない人に、他人を入会するように勧誘させるのは、この人間心理の応用です。共産主義が、非常に実践を重視したのも同じことです。3.役割を与える東大の社会心理学者水原泰介教授は、学生のソ連(現ロシア)人に対する好き嫌いを慈善に調べておき、「君の文章が高校生のソ連観をどれだけ変えられるか調べたい」と言って、ソ連人を好きと答えた学生たちにはソ連人を悪く思いこませる論文を、ソ連人が嫌いと答えた学生にはソ連人に好感を抱かせる論文を書かせました。その直後に、再びソ連人に対する好き嫌いを調べたところ、なんと60%の人が前とは態度を変えていたそうです。つまり、論文を書いている間に、自分が説得されてしまったのです。だから、説得率を高めるには、相手に役割を与えることが効果的です。4.協力者作りは、結局は人間関係作りです。「やりたいこと、やらなければならないこと」を行うには、とくに企業などで改革に取り組むような場合には、いかに協力者たる仲間を得るかがポイントになります。仲間作りには、両者の間に好意と信頼関係がなければ不可能です。「同じことを言っても、言い手によって納得したりしなかったりする」という一種の物差しが人間にはあります。だから、他人を納得させるためには、「何を」という内容だけではだめで、「誰が」という言い手にも努力と工夫がいります。それは結局、良い人間関係作りともいえます。普段から、笑顔で明るく挨拶を交わし、「はい」と素直に返事を返し、相手の話には快く耳を傾けて、相手の好意を勝ち取っておくだけで、説得率が大幅に上がるはずです。・相談する言葉(君ならどうする) ・期待する言葉(君ならできる、期待してるよ)・ほめ言葉(良くやった、素晴らしい)・任せる言葉(これは君しかない任せたよ) ・労りの言葉(ご苦労さん、お疲れ) ・感謝の言葉(ありがとう、助かったよ) などを多用し、時間やお金などの小さな約束も守り続けることで、相手との間に深い信頼関係を築いておくことも大切です。つまり、普段の心がけが説得には大きな影響を与えます。
2006.12.05
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このところ毎日10数時間も原稿書きで、腰は痛くなるは目はかすむはで参り気味です。整体士の所に行きたくても閑もないが、後2週間位はかかりそうなので、明日あたりは温泉に行くか自然歩道を歩いて気晴らしでもしたいと思っています。
2006.12.04
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人間は感情の動物だから、正論(元々、世の中の問題には唯一の正しい論理などと言うものはなく、自分にとって都合が良いかどうかだけで、反対の人にもそれなりの正論があります。アメリカとイラクが良い例で、それぞれの正論と正論がぶつかり合って泥沼になっている)をディベートのように論理的に話すだけでは人を説得することはできません。企業の中でも、こんな例があります。一流大学を卒業してからアメリカに留学し、向こうで働いた後帰国して外資企業で働いている優秀な女性のAさんは、事務処理能力が抜群なので総務的な仕事を任されることが多い。当初は上司をはじめ皆の信頼も厚いのだが、徐々に皆から浮き上がってきます。彼女は、自分が正しいと思ったことは、たとえ上司だろうとストレートに言動に表して喰ってかかるので、誰もが徐々に敬遠するようになります。仕事に打ち込めば打ち込むほど、ちぐはぐな結果になることが多く、それで一カ所に二年ぐらいしか続きません。ビジネスの場だけでなく人間関係においては、真実を素直に述べることが必ずしもよい結果を生むとは限りません。時と場、相手の置かれた状況などをよく心得ていないと、かえって反発を喰ったりしてスムーズにいかないことの方が多いものです。人間関係の問題は、ときには回り道をした方が良い結果が出ることが多いものです。そうしたテクニックを小細工だと軽んじる人もいるが、相手に反発を食らっては、どんなに正しいことでも説得はできません。要は説得するのが目的なのだから、手段を選ぶのが真に賢いやり方です。1.「か?」一つが説得のコツあるとき、たこ焼きの屋台でお金を台の上に置いたら「ここに置いてください」と店員に受け皿を指して言われ、思わずムッとなりました。別の店でも、「ここにお金を入れてくださいませんか?」と言われたが、「ああ、そう」と別段気にもならず素直に従った。あるとき、「なぜだろう」と気になって考えたら、「か?」一つ有るか無しかの違いに気がつきました。私たちは、自分に係わる事項で選択の余地がなく一方的に「ここに置いて下さい」などと指示されると、命令された気分になって反発します。ところが、「置いて下さいませんか」と言うように選択の余地が少しでもある(お願いであって置かなくても良い)と満足し、心に余裕が生じて、相手の要求をすんなりと受け入れることになります。よく気をつけてみると、周りの人によく反発をくっている人には、断定的な言い方をする人が多いような気がします。その言葉が的を射ていればいるほど、もっともだと思ってもカチンとくるのが人間です。自分の意図する通りに受け入れてもらいたければ、「来週、残業やってくれないかな」ではなく、「来週の火曜日か水曜日に残業して欲しいのだがどうかな?」というように、相手に選択の余地を残しながらも、その選択の幅を狭くするのがコツです。予定が既定事実であるかのように問いを組み立て、なおかつ選択肢のある問いを仕掛ける。だが、そこには「これ以外の何も」選択の余地がない。その場合、初めの前提まで戻って疑うことはまれで、相手がその選択肢の範囲を超えることは滅多にありません。
2006.12.04
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いじめには、周囲と違う人がいじめられやすいという面がある。背が低い、太っている、成績がよすぎるなど、周囲から突出してしまう人はいじめの対象になりやすいんです。その背後には、画一的社会の影響があるんじゃないでしょうか。例えばアメリカなら、肌の色や紙の色もそれぞれで、違いが当たり前のこととして受けられるが、日本は違いに対してすごく敏感、欠点でもないのに「あいつ、おかしいぞ」って・・・。また、いじめに関して大人が与える影響も少なくない。テレビや雑誌で伝えられるのはお金のドロドロした部分ばかり。そういうのを見て、子供は大人だって約束は守らないし自分勝手。結局、あんなもんだよと思います。小学生同志がお金の貸し借りをして、返さないのを住専ゴッコと呼ぶ。教師だって時間を守ると言いながら、授業が始まっても教室に来ない。生徒の服装を注意しながら、自分はダラーッとした格好で授業に来たり。これでは生徒は言うことを聞きません。「俺たちはいい。でもお前たちはやれ」という道理は通用しない、といじめられた経験のあるT君が語ってくれました。子供のことを言う前に、大人が子供に与える影響の大きさを自覚することが大切です。
2006.12.03
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朝早くから修学旅行生や観光客のみなさんが嵯峨野を歩いて見えます。穏やかな陽気で、原稿書きに疲れて目の前を見れば、紅葉した嵐山がモヤにかすんで見えます。私は「ザ・マン・オブ・ウエーク」と言う言葉が好きです。ウエークは航跡で、船が走り去るとき、もし船尾に白い航跡が生じなかったら余韻もなく風情が減じてしまいます。人との別れも同様に、余韻のある人とでも言うか、「もう一度会いたくなる人」でない限り生涯の友とはなりえないと思います。こんな文章を書きながら大堰川を走る料理屋の送り迎えの船を思い浮かべています。紅葉も少し色が褪せてきた気もしますがこの週末をお楽しみ下さい。
2006.12.02
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定年を間近に奥さんが末期ガンと診断された佐藤さんは、有休を取って朝7時から夜の9時まで付き添った。奥さんが夜になると寂しがるので、個室を取って24時間付き添い、ソファをベッドに並べ、手すりを外して手を握って添い寝した。「いいわね」と看護師に言われて照れた。医者に「お正月は自宅で楽しんで下さい」と勧められ、注射の打ち方をはじめ入浴や排泄時の介護の仕方を学び、自宅のトイレや浴室に手こすりもつけた。家ではゆったりと時を過ごした。昼頃に起きて一緒に風呂に入り、縁側に面した部屋で西日を浴びながら好きなシューベルトを聴いた。思い描いた定年後の生活に少し近づいた気がした。「幸せってこういうことなのかしらね。今まで気付かなかった」と漏らし、奥さんは2月のある日そっと旅立っていった。乳ガンを手術した樹木希林さんも、「ガンになったとき、死ぬと思った。だから、その前に夫との関係だけは修復しておきたいと考えた。夫婦の仲違いなんて両方が悪い訳なんだけど、私はもう死ぬんだから、今までのことはすべて自分が悪いと思ってみたんです。それで、結果的にお互いが通じるようになり、その時初めて、これは相手の心を癒やすだけでなく、自分自身が癒やされたんだなと実感したわけです。ガンになる、死を意識する病気になるということは、心の浄化が起きるのだと思います」と語ってみえました。 人生の贈り物 ダ・カーポ季節の花がこれほど美しいことに 歳を取るまで少しも気付かなかった私の人生の花が 散ってしまうころ やっと花は私の心に咲いた並んで座って沈む夕日を一緒に眺めてくれる 友がいれば 他に望むものはない並んで座って沈む夕日を一緒に眺めてくれる 友がいれば 他に何も望むものはないそれが人生の秘密 それが人生の贈り物この頃では、この歌がしみじみと心に響くようになってきました。
2006.12.02
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「あと5年したら桜前線を追いかける旅をしよう」と40代の後半に約束した。あと五年という設定に特別な意味はなく、それは「いつかはきっと」と同意語であり、5年もすれば今よりもゆっくりと暮らしているだろうという強い願望でもあった。ところが、5年たった今、その友はもういない。その友は病院のベッドで、「もう少ししてからでも、十分間に合うと思っていた。だから、したいことを後回しにしてきた。『いつかはきっと』と」とつぶやいたことがあった・・・。そう作家の落合恵子さんがエッセイに書いてみえた。子供のころ、「いつかはきっと」「大人になったらきっと」をポケットに一杯隠し持っていました。それは同時に、貧しい今日を明日につなぐはずみでもありました。そして、大人になってからも、たくさんの「いつかはきっと」がありました。そうやって、「今、したいこと」を我慢し、目の前の現実に対処してきました。そして、いつの間にか人生の黄昏に臨んでいるのが私たちの年代です。ある勤続25年目のサラリーマンが、会社から10万円の旅行券をもらって夫婦2人で2泊3日の旅行に出かけたときの話です。奥さんは、結婚以来の我が家の大きな出来事を思い出すためにとアルバムを持って行きました。食後アルバムを繰っていた奥さんが突然、「気がついてみると、夫婦二人の写真がない。毎年、郷里に帰る以外はどこにも旅行もせず、何も美味しいものを食べることもなしに今日に至った」と言って泣き出したそうです。家を建てるため、子供の教育のため、子供の結婚資金のため、それが済んだころには老後のためにと、いつも何かに追われ、楽しみは先に延ばして働き、始末し続けてきました。そんな思いのサラリーマンの方は多いはずです。先憂後楽の思想は、貧しかったころからの日本の伝統的な思想でした。でも、人生には「いま」しかなく、「いま」の連続が人生そのものです。「今、ここ」を楽しまないで、何時楽しむことができるのでしょうか?ある年齢になったら、一番好きなものを最後まで取っておくなんてしないで、「後はどうにでもなる」と達観して、「今、したいこと」を今やり、「今、ここ」を楽しむに限ります。
2006.12.01
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