遊心六中記

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2016.10.09
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カテゴリ: 探訪

権殿の北側に立つこの鳥居の石段を上っていくところから続けます。

鳥居の前に配された狐像、ここでは向かって左側が巻物を咥え、右側が宝珠を咥えています。

石段を上っていくと参道の左側(北側)に境内末社が並んでいます。

西端にまず「長者社」 です。一間社流見世棚造、檜皮葺きで、江戸時代前期の建立。
「社殿は、『明応遷宮記録』(1499)に境内社としてすでに現れており、天正の社頭図に本殿の北方に『長者社 西向』と描かれている。社殿の化粧部材はほとんど江戸初期の材が残されており、元禄七年(1694)以前からある建物を現在の地に遷したものと考えられる」 (駒札転記) 。長者社の祭神は、稲荷神社の旧社家である秦氏の祖神だそうです。

その東隣りは「荷田社」
「この社殿は、安元二年(1176)、荷田氏の祖・荷大夫没後、『稲荷山の命婦社の南に社を造り霊魂を祀る』とあり、『明応遷宮記録』(1499)には『命婦ノ南ニハ荷大夫明神在之云々』と記されている。元禄7年(1694)、現在の地に再興された」 (駒札転記)
荷田社の祭神は、稲荷神社の旧社家である荷田氏の祖神だそうです。秦氏と荷田氏の関係は、後で触れたいと思います。

五社相殿 (ごしゃあいどの)
この社殿は、五間社流見世棚造、檜皮葺で、五社を相殿形式にして、元禄7年(1694)にここに奉祀されたそうです。長禄3年(1459)の記録には各社が境内地に祀られていたことが記されているとか。駒札に記された末社名と祭神名を列挙します。
 八幡宮社 :応神天皇
 日吉社  :大山咋神(オオヤマクイノカミ)
 若王子社 :若王子大神
 猛尾社  :須佐之男命(スサノオノミコト)
 蛭子社  :事代主神(コトシロヌシノカミ)

両宮社 (りょうぐうしゃ)
東端には、二間社切妻見世棚造、檜皮葺で、元禄7年(1694)の建立。

「この社殿は、天正17年(1589)の社頭図に『伊勢両宮南向再興』とあり、神明造の社が描かれている。その後元禄7年(1694)現在の地に社殿が再興された。」 (駒札転記)
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外宮の祭神である豊受皇大神は、豊受大神、豊宇気媛神、豊宇気毘売神、豊由宇気神などとも表記されるようです。トヨは美称の接頭語、ウケはケと同じで食の意味であり、「天下万民の食して生くべき食物を主宰する産霊の大神」を意味します。稲荷大社の祭神である宇迦御魂之神、保食神(ウケモチノカミ)、大気津比売神(大宜都比売神:オオゲツヒメノカミ)と同様に、稲の精霊の神格化されたものと考えられているのです。 (資料1)

玉山稲荷社
石段を上ると境内の正面に、唐破風の向拝が設けられた社が見えます。

一間社流造、檜皮葺の社殿で、明治8年(1875)にこちらに遷座されたといいます。
もとは、東山天皇(1687年即位~1709年退位)が宮中で奉祀されていた稲荷社を天皇崩御後に、「天皇にお仕えしていた松尾月読神社の社家松室重興氏がお預かりした。その後高野(左京区)の私邸内に遷座」 (駒札より) を経て、現在に至るようです。

扉の前には白狐が向かい合い、左は巻物を咥え、巻物の一端には総角 (あげまき) 結びの先に房が付いています。右は宝珠を咥えています。 頭貫の上の蟇股は、鶴に乗る仙人と雲流文が浮彫にされています。この種の意匠はあまり見かけないように思います。

側面の蟇股には、鳳凰が浮彫にされ、屋根の獅子口には菊紋が付けられています。


玉山稲荷社に向かって右隣には、「神馬舎」があります。

左隣は (くもつしょ) です。
入母屋造、銅板葺、妻入の建物で、安政6年(1859)の建立だそうです。
前面に鳥居が建てられていますが、「この建物は、稲荷山に坐す神々への供物をする所として建立、正面中央格子戸の下部に開口部があり、供物を外部より差し入れる特異な形式である」 (駒札転記)
なお、もとは桟瓦葺だったものが、平成の修理により銅板葺に切り替えられたそうです。また、安政6年に「稲荷山のお塚参りに際しての祈祷所として新設されたもの」

 供物所から少し北の方向に進むと 「納札所」


ここにある狐の一匹は鍵を咥えています。米倉の鍵でしょうか?


玉山稲荷社の前を右折すると、この区域の南端にもう一つの 「神馬舎」 があり、左手側に幅の広い石段があって、奧宮が一段高い境内地に見えています。


石段を上がると、北側にあるのが 「白狐社」 (重要文化財)です。
その名称の通り、稲荷の神使の白狐、つまり「稲荷大神の眷属を祀る唯一の社」 (駒札より) です。古くは『奧之命婦』『命婦社』とも称されていたそうで、「往古の下社の末社『阿古町』ともいわれ」るとか。 (資料2)
一間社春日造、檜皮葺で、寛永年間(1624~1644)の建立。「元禄7年(1694)までは現在の玉山稲荷社あたりに祀られていた」 (駒札より) といいます。

祭神は「命婦専女神(ミョウブトウメノカミ)」と称するそうです。

この背景には、稲荷明神の神徳を示す一つの説話があるのです。『稲荷大明神流記 (るき) 』という書に「命婦事」として記されているとか。
興味深いので、孫引きですが引用してご紹介しましょう。少し長くなりますが・・・。

「昔、京都の船岡山あたりに年老いた夫婦の狐がいた。男狐は銀針を並べたような白い美しい毛並みで、尾は先が巻き上がっていて五鈷杵 (ごこしょ) をはさんだようなかたちをしていた。女狐は鹿の首に狐の身体であった。夫婦には五尾の子狐がいたが、それぞれが不思議なすがたをしていた。弘仁年間(810~823)、この夫婦の狐が子狐を連れて稲荷山に来て神前に跪き、『我等畜類ノ身ヲ得リト雖トモ、天然トシテ霊智ヲ備フ、世ヲ守リ物ヲ利スル願深シ、然而 (しかるに) 我等カ身ニテハ、此望ヲトケカタシ、仰願ハ、今日ヨリ当社ノ御眷属トナリテ、神威ヲカリテ此願ヲハタサン』といった。これを聞いた稲荷明神は喜んで願いを聞き届け、夫は上宮に仕えてその名を小薄(ヲススキ)、妻は下宮に仕えてその名を阿古町 (アコマチ) としなさいと告げた。そして十種の誓約をたて力を得た夫婦の狐は、稲荷明神を信仰する人々の夢にも現つにもそのすがたを見せ、お告げを下すようになり、告狐 (つげぎつね) とよばれるようになった、というのである。先の白狐社は阿古町を祀った社であるという。」(資料4)
阿古町と名付けられたことで、宮中の女官をさす命婦の名称が付いたということでしょう。
向拝の蟇股


左の写真、建物の北側土台下の亀腹と称される弧状の部分の中央付近にご注目!
亀腹に開口部が設けてあります。これは床下への出入口構えが作り込んであるのです。祭である白狐に由来する装置、つまり出入口です。
「天正17年(1589)に秦継長によって画かれた『社頭図』に『奧命婦』と記された社があり、その左傍に半円形の絵を画き『ホラ』と記してある」といいます。 (資料3)




白狐社の左側、つまり東に位置するのが 「奧宮」 (重要文化財)です。
三間社流造、檜皮葺で、身舎側面は二間、向拝三間で、天正年間(1573-1592)の建立。
「この社殿は、本殿と同様の流造で建てられ、摂社でも末社でもなく稲荷大神を祀ることから、他の境内社とは別格の社である。『長禄3年(1459)指図』には『命婦』として記され、存在が確認できる。『明応遷宮記録』(1499)には西側に八間の廻廊があったことが記されているが、この廻廊は現存していない」 (駒札転記) 。元禄7年(1694)に修復され、また平成21年(2009)に解体修理が行われています。 (資料4)
駒札の記載にありますが、祭神は稲荷大神です。

向拝の木鼻は白像に彩色されていて、目元が可愛い印象を受けます。
この建物は、蟇股に彩色された樹木や草花が透かし彫りで彫刻されているのを近くですべて眺められるのが一つの魅力です。


 向拝は向かって左の蟇股から松、梅、竹の順に。








数えてみると、撮り忘れがあるようです。現地でご確認いただき、装飾彫刻の彩色美をお楽しみください。

奧宮の背面 。高欄の架木・平桁・地覆などの先端を覆う 金具には菊紋 が使われています。


奧宮の傍にある境内案内図


奧宮の南側に、稲荷山への鳥居のトンネルが始まる起点があります。
ここが、「京都一周トレイル」、そのうちの「東山トレイル」の起点でもあります。
2005~2012年には、毎年正月東山トレイルのウォーキングを恒例に行っていたのが懐かしい思い出です。


  鳥居入口の傍には、こんな狐像もあります。

上掲の「荷田社」に関わる荷田氏のことに触れておきます。稲荷明神に関連し、秦氏とは別系統として、荷田氏の存在があるのです。
上記の『稲荷山明神流記』(東寺観智院蔵)には、「龍頭太事」という文章が記されているそうです。龍頭太は、和銅年中以来、稲荷山の麓の庵に住み、昼は田を耕し、夜は薪を樵(きこ)ることを生業とし、その顔は龍のようで顔の上から光を発するという異形の人だったので、人々は龍頭太と呼んだとか。その人は稲を荷なっていたので、姓を荷田氏と言ったと言います。この龍頭太が山中で行をする弘法大師と出会ったとき、この山の山神であると名乗り、真言秘密の法を授けられれば仏法護持のために力を尽くす約束をしたという伝承です。弘法大師は心を打たれ、龍頭太の顔を面に彫り、ご神体とし稲荷明神の竃殿(かなえどの)にかけたといいます。 (資料4)
一方、『水台記』という稲荷社資料に、「稲荷の山神は頭が龍のごとく光っていて、神人(大己貴おおなむち神)の前に現れて、姓は荷田、名は竜頭太であると名乗り、汝とともに国土を護らんと誓ったとあり、また竜頭太は弘仁年中(810~823)に弘法大師と約束してこの山を護ったと記されている」 (資料5) そうです。
ここから、秦氏が渡来人としてこの地に定着する以前に荷田氏が稲荷山を神と崇める形でここに住んでいたと考えれます。そして伊奈利(稲荷)信仰が形成される段階で、荷田氏と秦氏が同じ神を祀るものとしての統合化が行われたのではないでしょうか。そして両方が稲荷神社の社家となっていく。

それでは、次回は朱色鳥居の連続するトンネルに入っていきましょう。

つづく

参照資料
1) 『日本の神様読み解き事典』 川口謙二編著 柏書房 p174
2) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著  駸々堂  p60
3) 『伏見稲荷大社御鎮座千三百年史』 p481-482, p494
4) 『日本の古社 伏見稻荷大社』 三好・岡野他共著 淡交社 p92-93
5) 稲荷信仰の成立と展開の諸相 星宮智光氏 『伏見の歴史と文化』清文堂 p44


補遺
命婦  :「コトバンク」
大己貴命   :「コトバンク」
狐と瀬織津比咩(其の五) :「不思議空間『遠野』-遠野物語をwebせよ!-」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

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Last updated  2016.10.21 14:50:05
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