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2016.10.20
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カテゴリ: 探訪

伏見稲荷大社境内の周辺という意味で一番近いのが、この楼門の右側、つまり南側に写っている建物のあるエリアです。稲荷大社のマップ (資料1) をご覧になるとこのエリアについての記述がありません。つまり、境外ということになります。

2014.6.17、2014.11.4および2016.10.5に伏見稲荷大社とその周辺を探訪した時に撮った記録写真から整理して、ご紹介します。6.17と10.5は曇天で、11.4は快晴の日でした。

稲荷大社の楼門を通り、外拝殿の右側に回りこむと、南方向の境内地に見える景色です。


                        東丸 (あずままろ) 神社
一見、稲荷大社の大きな境内社のように見えますが、ここは独立した神社です。

この境内に掲げられた「東丸神社由緒略記」の末尾に、「当社は御祭神の邸跡の一部に建っていますので伏見稲荷大社と境内が隣接していますが別の神社であることを御承知ください」と但し書きがあります。


社務所に隣接した 手水舎


境内の西側には 絵馬掛所 があり、そこには 祈願の千羽鶴 もたくさん奉納されています。
よく見ると、社殿に連接する形で前面に 山王鳥居の形式が組み込まれた拝所 になっているようです。山王鳥居の場合、額束に扁額が掛けられているのが普通ですが、ここは笠木の上の合掌造に「東丸神社」の扁額が掛けてあります。


祭神は荷田東丸命 です。 荷田東丸とは荷田春満 (かだのあずままろ) のこと 。江戸時代中期に国学を究めた人物です。その門下には賀茂真淵がいます。その後に現れるのが本居宣長、平田篤胤であり、これらの人々は「国学の四大人 (しうし/よんうし) 」と称されています(資料2)。「大人 (うし) 」は語義の一つとして「師匠・学者の尊称」として使われる古語だそうです (『日本語大辞典』講談社)



明治16年(1883)荷田春満(東丸)に正四位が贈位されたことを記念して、春満の学徳を偲ぶ有志の人々が相寄って社殿をここに造営して、当社が創建されたそうです。 (資料2)
菅原道真、豊臣秀吉、徳川家康、乃木希典などと同様に、神格化された人格神の一人ということになります。菅原道真を神として祀るのは怨霊封じ、御霊信仰という立場から始まっている点がこの中では少し異質ですが・・・。一方、菅原道真が学問の神様として信仰の対象となっている点からいえば、荷田春満(東丸)もまた学問の神様として尊崇されており、共通点があります。

「荷田東丸(春満)大人は寛文9年(1669)正月3日この地に誕生、本名は羽倉信盛(はくらのぶもり)と申し幼少より歌道並びに書道に秀れ、長じては国史、律令、古文古歌さては諸家の記伝にいたるまで独学にて博く通じ、殊に内容の乏しい形式的な堂上歌道を打破して自由な本来の姿に立返らしめんとしました。元禄10年、29才の時から妙法院宮に歌道の師として進講されましたが、大人は当時幕府が朱子学を政治の指導理念としていたため、書を学ぶ者皆極端に漢風にのみ走るをみて、古学廃絶の危機にあるを憂え、古学復興こそ急務であるとして
  われならで かけのたれをの たれかよに あかつきつくる こゑをまつらむ
の一首をのこして文化の中心たる江戸に下向されました。江戸在住の間、大人はあえて師を求めず、日夜独力孜々として研鑽、傍ら門人達に古学を講じましたが、その卓越せる学識は世に聞え高く、享保7年将軍吉宗は大人の名声を聞き伝え、幕府の蔵書閲覧をことごとくたのみましたので、大人はその間違いなどを訂正し不審の点は細かく説明されました。その後も吉宗将軍より建議並に百般の書籍の推薦検閲の特権を与えられ偽本の跡を絶たれました。享保8年錦衣帰郷された後も、日夜研究著述を旨とされる傍ら加茂真淵など門人多数に講義されておりましたが、古学普及のためその宿願たる倭学校を東山の地に創建せんとして幕府に提出すべく『請創造倭学校啓』を著されましたが志もむなしく、享保15年病を得、ついに元文元年7月2日68才をもって帰天せられました」 (由緒略記から転記)
蕪紅女の詠じたこんな句があります。 (資料2)

  初午や隣ひそけき荷田の宮

この句の雰囲気は、稲荷大社を訪れた折りにはいつも感じるところです。稲荷大社の楼門・本殿あたりの賑わいとは隔絶したかの如く、ひっそりとした静けさの中に参拝者が時折訪れているというところです。そこに惹かれて、私は毎回訪れています。




本殿は春日造の建物の様に見えます。千木の交点には単梅の神紋が付けられています。これは荷田氏(羽倉氏)の家紋だそうです。




手水舎の南隣に、2つ小社が並んでいます。
左の小さい方 には、 「荷田社」 の駒札が立ち、大きい方の社の傍に「東丸神社」の石標が立っています。 大きい方 の小社は 「春花殿」 の扁額が掛けられています。ここには 「東丸大人御神像」 が祀られています。


神社の西隣の建物が 「史蹟 荷田東満𦾔宅」 です。東丸、春満、東満と異なる表記が使われていますが、全て同じ人物を意味しています。昔は表記にはこだわらなかったのでしょう。どれも「あずままろ」と読ませるのですから。

「建物は寄棟造り、桟瓦葺、玄関に切妻造りの屋根を付した武家風であるが、内部は書院造りとし、各室の襖をとりはずすと二十畳余りの広い部屋となり、講義室となるよう工夫がこらされている。その欄間の意匠も双葉形の透しをそれぞれ変化させ、すこぶる変化に富んでいる」 (資料2) そうです。
東西と南北の塀の端、北西角は 「神事舍」 と称される建物です。
現存の旧宅は春満生家の一部が残るだけだとか。荷田春満は稲荷神社(現伏見稲荷大社)祠官荷田姓御殿預・羽倉信詮 (はくらのぶあき) の二男としてここにあった邸で誕生したのです。 (門前に掲示の木札説明より)

雄略天皇の皇子磐城王の後裔と伝えられる荷田嗣を祖とする荷田氏が、荷田信幹の子息の代で東・西の羽倉氏に分家したそうです。 (資料3,4)
春満は「御殿預」の東羽倉家の系統です。






東丸神社の西側に幅の狭い通路があります。その角に石標が立っています。南に向かって道沿いに進むと、再び道標があります。 東丸神社の南東方向200mくらいのところ です。 在の山墓地 があります。そこには羽倉家はじめ稲荷神社関連の社家の墓地があるようです。






道路に近い一角に、 荷田春満の墓 があります。大きな自然石の墓石に 「荷田羽倉大人之墓」 と刻されていて、背面には享年他が記されています。

この墓碑の建立された一角は羽倉家代々の墓石地のようです。その一隅に、別に大きな墓碑が目に止まりました。
「羽倉可亭翁墓」の碑 です。
冒頭に諱 (いみな) が良信、字 (あざな) が子文で、可亭を号とした人。三峰稲荷社の御殿預を務めた人だとか。顕彰碑を兼ねた墓石のようです。羽倉家が永年稲荷神社と深く関わってこられたことの一例として参考になります。


この墓域で目にとまったのが、この自然石の墓碑です。
「尾崎潔道之墓」 と刻されていて、 その右上部分に「稲荷社雅楽創立者」 と記されています。

墓域の一隅に石仏群も。


この墓域の近くに、 「ぬりこべ地蔵」 のお堂があります。
「地蔵の前の石に触った手で患部をさするとご利益があるという」 (資料5) とのことです。なんと、「京都市伏見区 ぬりこべ地蔵様」という宛名書きだけでもこの地蔵堂に郵便物が届けられるとか。私は目視していませんが、「お堂には『左上奥歯』などと患部を記し、歯痛の平癒を祈るはがきや手紙が山積みされている」 (資料5) といいます。



右手に錫杖、左手に宝珠を持たれる像高1mたらずの石仏です。京のお地蔵さんとして、 歯痛祈願で有名 だそうです。「もと直違橋通の浄土宗摂取院の境外墓地にあって、塗込めの堂宇に安置されていたからこの名が生じたといい、塗込めをさらに病気を封じ込めるの義に解した」のではないかという解釈があります。 (資料2)

このお地蔵様、伝承や古文書、明治3年(1870)の深草村絵図の記載などを総合すると、現在地に落ち着くまでに転々と遷られたようです。
1) 稲荷山の奧にあった浄土宗寺院のお地蔵様としての建立  明治の拝仏棄釈の難に
2) 浄土宗派の摂取院の墓地(現在の京都府警察学校のあたり)に遷る
   深草に旧陸軍第十六師団が明治にできたとき、その場所が兵器庫になることに。
   お地蔵様に「立ち退き」の難。深草村絵図はこの辺りに「ヌリコヘ 墓」の記載。
3) 現在地に遷る。京都市伏見区深草石峰寺山町 
 JR稻荷駅からは、前の道を右方向(南)に少し歩き、踏切の傍にある摂取院の手前横の道路を真っ直ぐ東の方向に歩き、突き当たりで再度右折し、最初の辻の少し先です。


JR稻荷駅から数分のところにある 「摂取院」の半丈六の地蔵菩薩坐像 も一見の価値ありです。 「腹帯地蔵尊」 として知られています。平安時代末期の作。「遊心六中記」の方で一度ご紹介しています。 尚、この2枚の写真は2015.5.8に撮った写真。

この辺りの位置関係はこちらの地図(Mapion)をご覧ください。

伏見稲荷大社の拝観、観光に訪れる人は多いですが、このあたりの探訪までする人は比較的少ないと思います。ある講座を受講して、その一環で稲荷大社と稲荷山の一部探訪をした折りに、私も知った次第です。
上掲の地図をご覧になるとお解りいただけますが、稲荷大社の本殿から白狐社・奧宮を巡り、そこから境内地を南の方向に抜ける道を辿っても、このぬりこべ地蔵の方に行くことができます。


奧宮の近くにお山巡りを始める千本鳥居の参道があります。その傍にこの狐像がありますが、この辺りに行けば、南方向に降る道がわかると思います。

この近くで、こんな石標が目に止まりました。神馬の為の墓碑だろうと思います。

最後に、上掲の「東丸神社由緒略記」の最後に、「東丸大人と赤穂義士」のエピソードが記されています。江戸在住の荷田春満は、通称羽倉齋 (いつき) と称されていたそうです。江戸では多くの門人に古典古学を講じていたそうです。「吉良上野介もまた教えを受けた一人でありましたが、大人は彼の日頃の汚行を見聞するに及んで教えることをやめられました。たまたま元禄十五年に以前から親交のあった大石良雄の訪問をうけ、その後堀部弥兵衛同安兵衛、大高源吾等とも交わり、吉良邸の見取図を作り大高に与え、12月14日吉良邸に茶会のあることを探って赤穂義士を援助したこともありました」 (由緒略記を転記) 。春満の若き日に、こんなエピソードがあるのをこの略記で初めて知りました。

忠臣蔵には少し関心を持っていますので、購入し積ん読になっている本を少し調べてみると、次の経緯が理解できました。要約と引用で補足します。
羽倉齋(=春満)は国学を志し、元禄13年(1700)4月に家光50回忌の勅使となった右大臣・大炒御門経光に随従し江戸に出て、そのまま江戸に住みつきます。吉良邸での茶会に出入し交流のある山田宗?という宗匠が居ました。この山田宗徧の弟子に中嶋五郎作という富裕な町人がいて、五郎作と友人だったのが大石三平です。この五郎作の借家に羽倉齋が住んでいたのだとか。中嶋五郎作は吉良邸の茶会に呼ばれたこともあり、羽倉齋は和歌の添削で吉良邸に出入りしたことがあったとか。大石三平は五郎作と齋の二人から吉良の様子を聞きだしていたといいます。一方、大高源吾は脇屋新兵衛と名乗り、宗匠山田宗?に弟子入りしたと言います。吉良邸の茶会の予定について、12月13日に羽倉齋は大石三平宛に急使を送っていて、文面は巧みにカモフラージュした形で、「尚々書」としてメッセージを明確に伝えているそうです。「彼方の義は十四日の様にちらと承り候」と。その書面が現存するのだとか。羽倉齋には京都の筋から吉良邸の茶会の予定を知ることができるコネがあったのでしょう。そして、12月13日には、富森助右衛門が大石無人宛てに、「彼 (吉良邸) ニ、弥 (いよいよ) 明日客これ有り候段、承知致し候えども、心もとなく候間、齋を以て申し来たり候つもりに付き、今日昼過ぎ、垣見五郎兵衛 (大石内蔵助の変名) 宿え内々御出下され候」と急報した文面があるそうです。羽倉齋が情報提供の協力をしたという事実がうかがえます。大石無人・三平父子は大石一族であり、赤穂浪士の援助者だったそうです。 (資料5,6)

次回は稲荷大社の北側周辺に移ります。

つづく

参照資料
1) 大社マップ  :「伏見稲荷大社」
2) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂  p67
3) 荷田氏  日本の苗字七千傑 :「笑顔のたまご」
4) 伏見稲荷神社 秦氏/羽倉氏
5)  (176)ぬりこべ地蔵(京都市伏見区)  :「ふるさと昔語り」(京都新聞社)
6) 『「忠臣蔵事件」の真相』 佐藤孔亮著 平凡社新書 p120-123
7) 『忠臣蔵 -赤穂事件・史実の肉声』 野口武彦著 ちくま新書 p142-143

補遺
荷田春満   :ウィキペディア
荷田春満   :「コトバンク」
[補論] 近世稲荷社と荷田春満  :「江戸思想研究ネットワークのブログ」
近世国学の展開と荷田春満の史料的研究  :「國学院大学」

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