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血が不足しているそうだ。手術や事故で失血した人に輸血するための血液が足りていなくて、結構深刻な状態だということ。この報道には少し疑問を持つ。が、それを信じたとして、原因は二つ、信じないとしてもう一つあるように思う。「献血」は、明らかにその時点の自分に何ら関係のない善意の行為である。そんなことに時間や気持ちを裂いている暇はない、と思う利己主義な人間ばかりになった、ということかもしれない。確かに、何の見返りもないのに、腕に針を突き刺して血を採られるのを、そしてそれを20分以上も眺めているのを、許容する人間は少ないと思う。特に若い人には。「自己犠牲」「相互自助」「社会奉仕」などといういまとなっては死語に近いような思想の教育を受ける機会のなかった団塊ジュニア以降の世代には。それに、血が薄い。“競争”や“犯罪”を嫌う余り、屋外で自由奔放に体を動かす“運動”系の遊びをしなくなったからか、それとも栄養が偏っているのか、はたまた男も女もダイエットに執心なのか、献血できる比重に至らない血液になってしまっている若者が多い。以前、献血センターで、採血をした血液を試験液の中に落としながら、私は「十分な比重がありますね。おぉ、重い」と言われましたが、隣の男の子は「あぁ、残念ですが、これでは献血できません。比重が軽いです」「え、献血できないんすか」という状況だった。若くて背の高い男の子だったが、細かった。女の子のような小さくて細い顎で、見るからに力(生命力というか、体力というか、精力というか)がなかった。これは、「ゆるゆる日本」の象徴だと思う。「鍛える」「忍耐する」「我慢する」という教育を避けてきた日本が生んだ、人間たちだろう。が、それだけではないと思う。うそがあるのだ。「献血者が減少したのではなく、使える血液が減少した」のではないかと思う。日本は先進国においてダントツのHIV感染国である。顕在化している感染者など氷山の一角だ。それがわかっていながら、国は、役所は、きちんとコメントしない。それが何より、爆発的な感染の広がりを暗示するものだ。献血された血液がHIVに冒されていて、使いようがない、というパターンが余りにも多いのではないだろうか。日本は教育も遅れているが、個人の意識も貧困だ。以前は同性愛者だとか、発展途上国であらぬ行為を犯してきた男性だけの心配事だったのだが、乱交著しい日本においては、二次、三次、四次……果てしない広がりを実現していることだろう。アジアでやってきた夫から感染させられた妻、妻から感染させられた出会い系の相手、ホスト、息子の友人、そしてそれらが関係する複数の女性たち、さらに女性たちにかかわる男性たち……。ケガをしないように注意しなければならない。医療機関が準備している献血用の血液が不足しているから、頼るは身内、とはならない時代だ。採血したら、比重が軽かった、肝炎などの感染症に冒されていた、「近頃体がだるいので献血したくない」と言う……、我が身に起こることは、社会の縮図なのだ。それにしても、脆弱な国になったものだ。戦後から昭和30年代にかけては、「売血」という行為がまかり通っていた。「血」と「金」を交換できると、体の丈夫な男たちが集まった。いまではかなわない。しかし、食べ物が満足になかったような時代の人間は金に換えられるほど血が使えて、飽食のいま、血液が貧困とは。いずれにしても、病気やけがをすると、命にかかわるかもしれないと、自覚すべき時代のようである。 撃沈
2007.06.29
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【大事件発生!!】えらいことである。およそ2年間、週に1~2度、夜のひとときを過ごしてきた小料理屋Tがここへきてえらいことになった。そんな気もしていた。常々、心配していたことだった。常連客を見れば、想像に難くなかった。しかし、私のあずかり知らぬところで、私の心配を解消できる何かがあるのかもしれないと思っていた。必要以上に心配すると、酒がまずくなるし、それを仕事としている私が、真剣に考えるのはストレスの元だと、見て見ぬふりをしてきた。が、結論が出てしまった。えらく引っ張ったが、結論──「閉店」するのだ。理由は、「経営不振」。えらいことである。ママの体調が悪いとか、突然家庭の事情が変わって、違う土地に移り住む必要に迫られた、といった事情ではない。どうして早いうちに手が打てなかったのか。実は、「販売促進」というのは、難しいようで簡単なのだ。まず、出店前のマーケティングが必要不可欠なのは言うまでもない。「立地」は、飲食業の基本である。商圏500m以内におけるターゲットの人数、人の流れ、利用頻度、客単価、潜在需要、5年後の需要予想など、一応の数字を出した後、実際に一定期間地域の飲食店を客として回り、現実の数字を出す。これらを総合して、目指す1日単位の売上、月ベースの売上、年ベースの売上の実現可能率を割り出す。この作業があれば、予測と現実が乖離したときの修正方法が容易に見つかる。「来店客数」「客単価」「客席数」「客」を分けて考えて修正するのだ。もちろん、「原価率」や「損益分岐点」といった厳然たる数字を体内に置き、常に意識すること、テレビを設置したり、カラオケを置くなど、客の動向を左右する物理的条件が売上に与える影響を予想すること、雨の日や寒い日、暑い日、地域で祭など行事のある日、大きなスポーツイベントのある日、交通機関に問題が起こった日……、さまざまな物理的条件が売上に影響すること、そのことへの対応策を用意しておくこと、そういった、さまざまな事態を年ベースで考えることが「商売」である。それらを複合して考えても、「無理」となったら即撤退することである。予測間違いである。この作業ができていたのか、いなかったのか。いずれにしても、常連客のおやじたちは一様に残念がっている。なら、もっと態度を改め、金を落としてやっていたらよかったのだ。大騒ぎしてほかの客の顰蹙を買っても平気の兵左で、一見の客にちょっかいをかけてリピート不能にし、中途半端な時間までいるから回転できず、飲まず、食わずで金を落とさず、間もなく年金生活に入って、家に引っ込んでしまうのだ。ま、そういう地域であることはわかっていた。大阪は不景気だ。新しいことをする意欲がそがれるほど動きがなく、よどんでいる。ここのところ、大企業は業績を回復しているようだが、大阪に本社を置く大企業は本社機能を東京に移転し、機能だけではなく権利も移転している。ゆえに、大企業が大阪で落とすお金はひどく減っている。小料理屋Tのような飲食店は、毎日たくさん出現しては消えているのだろう。それにしても、残念である。もう少し早ければ、手が打てたのに。心配しておきながら、声をかけなかった私が悪かった。後悔先に立たず、であるが。。。 黙祷
2007.06.27
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社保庁の村瀬長官が、職員にボーナスの返納を求めた。村瀬長官は100%返納するそうだ。しかし、である。この発言には何ら拘束力がない。飽くまでも「自主返納」であり、拒否したからといって、罰則があるわけでも、減給されるわけでもない。蓋を開けてみると、村瀬長官一人が返納して終わったということもあり得る。この事態をどう見るか。村瀬長官は当然与党側の人間である。いや、思想信条は別にして、役所は政権の方針に従って動く。政権与党のやり方に“旨味”を感じる役人は(ほとんどの役人が感じているはずである。政権を取った政党は、役人の言うままに動くし、役人とは密接な関係を築いているのだ)、参議院選で自民党に勝ってもらいたいと思っているだろう。国民が自民党に反感を買わない方法は……と考えると、役所が全面的に悪かったと認め、責任を取る、という姿勢だろう。村瀬長官はそれに準じた行動を起こした。しかし、職員はたまったものではない。ボーナスがないなど、あり得ないだろう。それを視野に借り入れた借金もあるはずだ。こんな暴言には、黙っていられないのが「自治労」だ。公務員の労働組合である。組合をつくる権利も、交渉をする権利もあるのだから、村瀬長官の発言に異を唱えるはずである。いま、社保庁の職員であることで、20年近く前に行われた愚行とも言えるいい加減な仕事の責任を取らなければならないのか、と憤る職員も多いはずである。が、が、が! おかしなデータに対して苦情を言う国民に対して「頭がおかしいんじゃないですか?」と平気で言う職員ばかりだったというのも事実で、問題意識が全くなかった人間の集まりが社保庁で、それは、国民皆年金制度が始まったときから、営々と続いていた愚行だと思う。20年前の愚行を明らかにしなかった現在の職員に責任がないとは言えないし、時間がたつごとに被害が増幅することさえも無視できた体質は、まさに「お日さん西西」という、役所独特のものだと思う。省庁に採用されるような役人は、それなりの(いや、いまはトップクラスの)大学を卒業し、さまざまな恩恵(恩給、退職金、天下り、社会的地位、勲章)を期待して(ではなく、当然のこととして)入省(入庁)するのだと思う。そんな役人が、下賤な民の、貧困な発想が導くような「ボーナス返上」というあり得ない結論を受け入れる準備は全くなく、しかも、自分たちを擁護してくれるべき長官がそれを推奨するといいう、本末転倒な現状に反旗を翻さないわけがない。頼みの綱は「自治労」である。!!!こともあろうか、自治労は民主党の支持母体である。小沢代表は一貫して言葉を濁すが、自治労は村瀬長官にモノ申す状態である。役人の立場と収入を守るために動きたいが、そうすれば、国民の反感を買い、民主党の支持率を下げてしまう。結論であるが、民主党は解体すべきである。本当に、日本を思う議員が集まって、「民衆党」くらいの名前で、再生してもらいたい。「さきがけ」「社民党」「自民党」「国民新党」……思想信条信が全く違うし、それぞれがそれぞれの利益を追求する余り、国民の意志を無視するヤツばかりが集まった「民主党」は、自民党より悪質である。あ、いや、自民党がいいというのではない。しがらみや“利権”という尺度で計れば、自民党の方が上だろう。しかし、、、、自民党全員を集めても、小沢党首に対抗できるくらい「悪」や「利権」を抱えているような実力者はいないのではないかと思う。だれもがわかるくらいあけすけで、奥が浅く、アホで、欲の深い自民党より、民主党の方が恐いと思うのは私だけではないのではないだろうか。 合掌
2007.06.26
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モノやお金に執着のない私は、「好きな食べ物」も、「欲しいものも」も、「やりたいこと」も、「好きなブランド」も、いわゆる「物欲」に属するものには興味がない。そんな感性貧困な人生観の中で、たぐいまれに“好み”というか、“お気に入り”というものが出現する。いまの“お気に入り”は、「歯磨き」だ。花王の「ピュオーラ」の「ワイルドミント」。「クリーンミント」という味もあるのだが、これより「ワイルドミント」がいい。歯ブラシにつけて口に入れた瞬間、「メンソレータム」の味が広がる。朝の歯磨きに際して、メンタムの香りは口腔においては最高の心地を醸す。舌に突き刺すようなからさがなく、鼻に抜ける爽やかなメンタムの香りは意外に“おいしい”のだ。ほかの歯磨きで磨くと、“ゥウェッ”となるところが、「ピュオーラ」だと“ホホホホッホ”となる。中年になると、制作作業中や文献を紐解いているような時間が長くなったとき、口渇感に気づくことがある、食事中以外には、分泌される唾液が減少するからだそうだ。そんな、無意識の口渇感を感じたとき、「ピュオーラワイルドミント」で歯を磨くと、HAPPYになれる。ずぅっと磨いていたくなる。ところが、不思議なことに“飲み込みたい”“食べたい”といった感覚ではない。「粗塩入り」といったような強引な歯磨きは、とにかくおいしい。“食べたい”と思う人もいるだろう。ところが、「メンソレータム」は、食べるわけにはいかない。チューインガムとか、消臭芳香剤のような、それ自体の香りが邪魔をする。しかし、“心地いいまでに爽やかでおいしい”のだ。歯磨きがおいしいとか、からいとか、甘いとか……そんなことを言っていられるのは幸せだと思う。世界ベースで考えると、貧困な状況に置かれている人民は、「歯磨き」自体が“贅沢”な生活行動だという認識を持っているはずである。しかし、文明国家は歯にかける医療費を減らす必要がある。食料事情がよくなると、歯が悪くなるのは、理解に難くない。歯によくないものを食う、噛まない、歯にいいものを食わない……。で、文明に頼って歯を治療する。文明国も途上国も、人民すべてが「ピュオーラ」で歯を磨いてほしい。途上国の人民は“う歯”を回避し、文明国の人民は“う歯”の進行と新たな発生を防げると思う。「ピュオーラ(花王)」の威力、太鼓判。 爽快
2007.06.24
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温泉施設が爆発した。死者が3名も出る大惨事だ。女社長が会見したが、実はこの母体はユニマットだ。消費者金融業から出発し、オフィスにコーヒーや水を定期供給する事業、ダスキンが先駆のダストコントロール事業、外食事業、温泉事業などを手広く事業を展開しているマルチ企業グループである。このグループは典型的なワンマン経営だそうだ。グループの総帥の年収は何と100億円にのぼるとか。絶大な権力と支配力、事業能力を持っているのだろう。偽装ミンチの例の企業もワンマン経営だったようだ。同族経営で風通しが悪く、だれ一人として社長にタテつくことができなかったか、もしくは、身内が無謀で節操はないがべらぼうに儲かる事業方針を是としたということかもしれない。会見に同席した長男は「やったんならやったと言ってください」と言っていたが、取締役だが顔を出さない次男や三男は、社長と同じ穴のムジナで、長男だけ真面目でやり方が不器用、ゆえに、一人だけ出てきてあんな状態になったのかもしれない。テレビを見ていた次男と三男は目をムイたに違いない。「な、何を……、だから言ったんだ、アニキなんて会見に出すなって! 全く、やり方が下手なんだよ」いや、「非難を一身に受けて取締役を退任し、オヤジの会社を潰してくれればいいんだ。オレたちは、新会社を設立して、社員と技術を引き取る。また、同じようなやり方で一儲けするさ」なんてことを言ったかどうかは知らないが。社保庁の職員およそ2万人と厚労省からの出向職員全員に夏のボーナスが支給されるらしい。「賞与」というのはそもそも、「功労」に対して与えられるもので、国民の年金を食いつぶすような、採算を度外視した事業を展開したり、いい加減なデータづくりをしてもらえる年金をもらえないとか、減額されたといった被害者を出した張本人を含め、一律に支給されるべきものではない。「責任」や「後始末」といったことも一切考えず、民間企業に丸投げするような職員に、これまた貴重な国民の血税が注ぎ込まれても、指をくわえて見ているしかないのか。ことほどさように、官製談合問題、公務員による犯罪多発問題、収賄問題、テレビ局の遼君取材問題、民企業の違法・脱法問題、民間人のモラルの低下……坂道を転げ落ちるように日本の国家としての質や品格が低下している。おまけに、子どもたちの学力や体力も著しく低下しているのに、教員も校長も親も教育委員会も実に体たらくである。こんなことになった原因は何であろうか。「緊張感」の欠如であろう。食べること、生きることに困窮することなく、都合の悪いことは何でも人のせいにして生きていけるという、ここ50年ほどの日本に蔓延する「ゆるゆる状態」が招いた結果だ。が、平和で豊かな世の中で、それと逆行するような過酷な状況をつくり出すことも、それに耐えることも容易ではない。自衛隊や警察学校の厳しさも、それなりに変容してきているのではないだろうか。知らなければならない。「人間は逆境にあって初めて身体・精神・思考の各能力を高めることができる」ということを。そして、「不要な人権や安心を与えると、人間は必ず堕落する」ということを。制限がなければダラケた生活をして体力や気力を低下させ、体に悪いものを食らって病を導き、頭脳を使わず脳の縮小を促進させるのだ。このことを認めない共産主義者が教育をダメにし、人間をダメにし、国家をダメにした。忌むべき事態であることは間違いない。 合掌
2007.06.22
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その23【ガンの霊気】1ヵ月ほど前の日曜日、休日にもかかわらず、出勤するため、駅に向かっていた。改札口が高架になっているため、エスカレーターに乗った。いつもは歩いて上がるのだが、その日は前に無神経な家族が行く手を塞いでいたため、その位置にとどまることになってしまった。イライラしながら視線を上に向けると、間もなく降り口というところに同居人のお父さんを見つけた。歩いて上がれない私は、エスカレーターを降りるまでイジイジしながら待ち、無神経一家をやり過ごした後、急いで改札口に向かった。しかし、既にお父さんの姿はなく、私がいつも降りる階段を降りてホームに出たが、そこにもお父さんの姿はなかった。もう一方の階段を降りたのだと思った。そちらへ回ろうと思ったが、すかさず電車がホームに入ってきたため、それもかなわなかった。電車に乗り込んだ私は、少し寒気を感じた。お父さんがどこまで行こうとしているのか、どこで降りるのかわからなかったし、電車の中で書類に目を通したり、読みたい本があったとしたら、探さない方がいいのだと自分に言い聞かせたりしたが、訳のわからない焦燥感に似た寒気が体を貫いた。そんな経験を以前にもしたことがあった。5年前である。正月休みに実家に帰ったときだ。自宅に戻る日、ふとダイニングを見ると、おやじが慌ただしく動いているのが見えた。私に、正月の食料を持って帰らせるために、タッパーに入れたり、箱に詰めたりしているのだ。その姿を見たとき、言いようのない寒気がした。私は慌てて仏壇の扉を開け、ろうそくと線香に火をつけた。りんを大きく鳴らしながら、般若心経を唱えた。続けて先祖に、「平穏と、健康と、安寧を侵す者を排除してください。何も悪いことはしていません。お願いします」などという願い事を繰り返し唱えた。すると、目から涙がボロボロこぼれた。悲しくもないのに、泣けて泣けて仕方なかった。驚くおやじを残して、私は自宅に向かった。音楽を聞こうが、車のスピードを上げようが、言いようのない焦燥感と胸騒ぎがおさまることはなかった。果たしてその1週間後、おやじから電話があった。「ガンみたいやわ」そのことを思い出した。いやな感覚が蘇った。同居人のお父さんを見かけてから4日後、電話があった。「ガンになった」ガンはいまや特別な病気ではないと言われている。多くの人が罹患し、治癒し、社会復帰できる病気の一つと考えられている。しかし、私が感じる寒気が物語っているのは、ガンは、確実に人間より強い細胞であるということと、人間の命を奪うために体に巣食うものであるということだ。ガンにかかった人のそばに行くと、恐ろしいほどの寒気を感じる。それは、肌感覚ではなく、体内、いや、命にまで及ぶ寒さである。おやじのときもそうだったが、ガンになると、寒くなるそうだ。ガン細胞が生きる力を、温度を容赦なく奪っているのだろう。同居人のお父さんのガンが、どのくらい強いのか、簡単に駆逐できるのかは、これからの治療にかかっている。肝心なのは、生命力で勝とうとする強さである。弱気になれば、どんどん命を吸い取られる。ガン細胞が、人間を無気力にし、寒く、暗くし、やせ衰えさせる。できる限り支えよう。寒さを感じたら、私の命の温度で温めよう。それくらいしかできないが、必ず「復活」すると信じて。それが、厄介な感覚を持つ人間の努めだと思う。実に厄介なことだが。
2007.06.20
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毎朝、うんざりする季節がやってきた。目覚ましは「タバコのニオイ」である。朝、5時から6時の間に我が家の寝室に強引なまでに侵入してくる。マンションの隣家に住む住人が放ったものである。隣家は、スナックのママをしている老年の女性と、内縁の夫であるが、二人ともタバコを吸う上、年寄りの早起きのせいで、早朝からタバコをフカすようだ。4月から梅雨時にかけての気候のよいとき、朝晩は窓を開けて寝る。我が家の寝室は隣家に通じる廊下側に面していて、隣家の開け放った窓やドア、換気扇からエクトプラズムのように執拗にうねりながら、寝室に入ってくるように思える。とにかく臭い。タバコが苦手な体質なので、昔から煙を浴びたり吸ったりすると不快に気持ちになったが、最近はアレルギーとも言えるほど嫌煙度が増している。それは、「禁煙」スペースが増えたため、スモーカーが歩きタバコをするからだと思う。駅から会社に向かう道すがら、タバコの煙を浴びない日がない。しかも、前方に歩きタバコをしている人物を見つけ、風上に回ろうと走って追い抜いても、まだ前方に歩きタバコの人物がいる。またそれを追い抜かし……、結局走りながら会社についてしまう。体力の消耗度は半端じゃない。その上、我が事務所の隣の事務所の社長が超ヘビースモーカーである。冬以外は常にドアを開け放ち、ニコチンの匂いを周囲にぶちまけている。エアコンを切って、外の風を入れると爽快だろうと思える季節でも、そんな暴挙はできるはずがない。無駄にかかる電気代を請求したいくらいである。日本の喫煙率は47%くらいだったのではないだろうか。先進国は、一様に10%台である。40%を超えるのは、アジアの発展途上国レベルだろう。政府や厚生労働省の対策が生ぬるいことが招いた結果である。喫煙者は言う。「タバコを買うことは、多額の税金を払うことだ。国の税収増に貢献している!」と。大きな間違いである。タバコを販売することによって得られる税収より、タバコが原因で発症する病気(肺気腫や肺がん等)のために支出される医療費の方がはるかに上回っているのだ。政府や役所が手ぬるいのは、「禁止」という究極の措置がもたらす弊害を考慮してのことだと思う。いや、政府や役所の人間に、喫煙者が多いので、何とか権利を守ろうとしているのかもしれない。いずれにしても、タバコは害が多過ぎる。「タバコを吸う権利」を主張するなら、「タバコを吸う人間の口やタバコの先からあふれ出た煙を顔や体にかけられるのを拒否する権利」を確保してからにしてもらいたい。タバコを吸う人物がいる部屋のガラスや家具を雑巾で拭いてごらんなさい。ベトベトした茶色い物体が、雑巾を汚します。それが髪や顔や洋服や鞄や、そして肺をも汚しているのです。望みもせず、回避の手段を講じることさえできず。しかも、肺にべっとりついた茶色い物体に起因して発症した病と格闘する日々は、理不尽にして何の保障もされないのです。それを、先進国家と言えるでしょうか。むむむむ…… 南無
2007.06.18
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おかしな人々その3【災い続きの男】ビデオ制作のとき、私は監督、つまりディレクターをやるが、プロデューサーという立場でタッグを組む男がいる。身長が184cmで結構甘いマスクをしている。2歳年下だが、立場が上ということもあって、彼は私を同等に見ている。それはとてもやりやすく、気の置けない同志のような感覚で、何本ものビデオを制作した。しかし、彼は身体能力が極めて低く、短距離走をやると私に完敗し、腕相撲でさえ私に太刀打ちできないという不格好な男だ。そこが愛らしい、とも言えるのだが、マッチョな男が好きな私にとっては、「男」というカテゴリーで意識することは皆無だった。しかも彼は、厄介な運命を背負っているようである。彼が、TV番組制作プロダクションで映像制作の修行をした後入ったのは、父親が常務を務める上場企業だ。父親は、グループ企業の会長の親戚筋で、その立場は揺るぎないもののように思えたし、それを知っている社内の人間や、関係会社の担当者は、彼との関係をうまく築きたいと考えていた。が、私は、そういう面倒なことはいやだし、よくも悪くも男と女である。つまらぬ噂になるのもいやなので、仕事だけの付き合いにとどまるように注意していた。そうこうしているうちに、彼は父親が常務を務める会社を辞めてしまった。しばらくして、彼が離婚したことを知った。しかし、彼の連絡先も知らない私は、慰めることも、励ますこともできずにいた。ある日、休日であるにもかかわらず、仕事に出向く準備をしていたところ、くだんの彼から電話が入った。「どうしてるの?」「いま、近くにいるねん」「え、どういうこと?」「足を折って、自宅から通えないから、ウィークリーマンションを借りて生活してるねん」「どこ?」聞くと、歩いて10分くらいのところだった。私は、近くのスーパーで大量の食料と酒を買い込み、彼が言ったマンションを訪ねた。「ピンポーン」彼が玄関のドアを開けた。足は、石膏のギブスで覆われている。私は荷物を部屋の中へ運び入れ、「まず、このアルミ鍋に入った海鮮鍋を食べ。アルミ鍋を置いといて、このおでんやカレーを湯煎して食べたらいいわ。お酒は、あんまり飲んだらあかんよ。ほかに欲しいものがあったら電話して。すぐに持ってくるから」そう言うと、私はすぐに辞退しようとした。「え、もう帰るの?」「いてもしゃーないやんか。仕事があるから」そう言って部屋を出た。実は、部屋に男性の匂いを感じて少々焦ったのだ。いや、そんな経緯はいいとして、彼が足の骨を折った理由を書かねばならない。酔っぱらって、単車で自動車専用道路を走っていたとき、ガス欠で立ち往生してしまった。家までは20キロ以上あるが、大阪から郊外へ向かう方向なので、空車のタクシーがくる確率は激しく低かった。しかし、真冬で寒く、とにかく家に帰りたい彼は、高架になっている自動車専用道路から地道に降りたかった。酔った頭ではあったが、次の出口まで数キロあるはずだと記憶していた。彼は下を見た。少し先に、道路拡張のために建てられた道路の支柱を見つけた。“あれだ”と思った。彼は支柱に近づいた。彼がいた道路から下に2mくらい下にあるように思った。酔いも手伝って、“飛び降りられる”と感じたそうだ。その後、どうするねん! と思うが、彼曰く「点検用のはしご的足場がついているはず」と思ったそうだ。果たして彼は飛び降りた。たった2mだったが、運動神経のない彼は、降り立った支柱の上で足に激痛を感じた。着地の体勢が不安定になり、足首を複雑骨折したのだ。酔いのおかげでそれほど激痛と感じることがなかったので、彼は地上に降り立つべく無意識の行動を起こして、何とか病院に運ばれた。その後も、ひどい事件が彼を襲う。知人名義の市営住宅で一人暮らしをしていた彼が、酔って階段を昇っているとき、意味なく飛び跳ねた瞬間、脳天を階段の桟に強打して大量の流血をし、救急車で運ばれたり、雨の降りしきる夜の山道を、一か八かとも言えるような速度でバイクで走っていると、これまた一か八かのような速度で走ってきた車にはねられ、大腿骨を複雑骨折するという、不運な事故に見舞われたりと、一生に一度経験するかどうかというような稀有な状態に陥る事件に遭遇した。こう見ると、彼は宿命的に不運だと思うのだが、大学時代から付き合っていた彼女とは結婚し、姑の問題で離婚したものの大腿骨を複雑骨折して入院した病院で会った女性と再婚し、二人の子どもをもうけている。彼にとって「災い」とは、「幸福」の助走だと言えるのではないだろうか。 南無
2007.06.17
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おかしな人々その2【賛辞に弱いタクシードライバー】※タクシードライバーネタが続きますが、決して他意はありません。タクシードライバーをひとくくりにして非難するものでもありません。悪しからず。タクシーに乗った。取材後、撮影機材を抱えた上、降りしきる雨の中を傘を差して駅に向かう気になれなかった。また、同行してくれたクライアントの男性営業マンがいい男なので、一緒にいる時間を引き延ばしたかったという邪な気持ちが働いていたのも事実だった。車中で仕事の話をしていると、運転手がググッとスピード上げた。前方に路駐の車があるためにあいていた右端の車線(走っていたのは大阪名物の一方通行の幹線道路)を他の車線と明らかに違う速度で走っている。と、前方に路駐の車が出現した。運転手はすかさず左の指示器を点滅させ、元の車線に戻ろうとした。しかし、左側の車線を走っていた車は、それを完全無視して、前に出た。「ケッ、コイツ! 入れてくれないんですわ。大阪の運転手は」タクシードライバーは吐き捨てるように言った。しかし、指示器を点滅させた車の後方にいる車は、その車を入れないといけない。無視して接触事故を起こすと、入れなかった車の過失になる。幸い、後方の車は変なリアクションをすることなくスムーズに入れてくれた。その後も、タクシードライバーは中途半端にあいている右端の車線を活用しながら、スイスイ走ってくれた。「こっちはお客さん乗せてるんやから、トロトロ走ってられんのや!」大阪弁ではないイントネーションでひとりごちながら、タクシードライバーは車線変更を繰り返した。やがて、男前のクライアントが降りるポイントを迎え、惜しみながら別れを告げた後、我が事務所に向かう道をタクシードライバーに告げた。「三つ目の信号を右折してください。あ、次の信号の方がいいかな」「いや、信号の連絡を考えると、三つ目の方がいいでしょう」運転手は一つ目の信号をやり過ごした。すると、三つ目の信号の手前で車の流れがとまってしまった。私は思わず言った。「あ、信号変わってしまうかな」「大丈夫、かえって右折しやすいです」私は猜疑心を持った。こういう場合、大抵信号が変わって、『1回待ち』ということになる。自分で運転しているときにも、何度もそういう事態を経験している。やはり、前の信号で右折しておけばよかった、と思った。「ほら、いけたでしょう」タクシードライバーの言葉どおり、スルスルと前の車が動き、うまく交差点に侵入できた。対向車線は渋滞していて、信号は青だが動きをとめていた。「あら、ほんと」「あそこはタイミングがよければ、これがあるんです。多分いけると思いました」「運転手さんでよかった。こんなうまくいったのは初めてです」お世辞ではなかった。が、“初めて”というのは言い過ぎではあった。「ありがとうございます」タクシードライバーは照れ笑いをした。「あ、このあたりで」「わかりました。…1,880円です」私は2,000円を差し出した。「レシート、出しときましょうか?」「あ、下さい。済みません」「はい。ほんの気持ちです」そう言うと、タクシードライバーは領収証と釣り銭を差し出した。“気持ち”という言葉が理解できないまま、私はそれらを受け取った。「ありがとうございます」タクシードライバーは高らかにそう言い、颯爽と走り去った。私は手の中にある釣り銭を見た。150円あった。120円のはずである。領収証を見た。1,880円だ。“気持ち”というのは、逆チップだったのだ。驚いた。長年タクシーを利用しているが、多めの釣り銭をもらったのはまさに“初めて”だった。「運転手さんでよかった」と言った私の言葉がよほどうれしかったのだろう。残念ながら、タクシードライバーの名前を確認しなかった。もし、次に乗ることができたら、上手にほめちぎって、また逆チップをもらってやろうという作戦は、多分実現しない。それにしても珍しいタクシードライバーだった。逆チップ……、大阪には二人といないだろう。 嗚呼
2007.06.16
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【ゴルフおやじは耳ダンボ】常連さんその3は、中小零細企業の社長である。親の会社を継いだそうだ。詳しいことは知らないが、現在64歳で、若いころはゴルフはシングルの腕前だったようだ。常連さんその3と我々(私と同居人)がTで会ったときは耳がダンボになる。我々の会話を逐一聞いているようだ。たまに、笑い声で割り込んでくることがある。適当に会話するが、気持ちいいものではない。先日、常連さんその3が奥さんを連れてTにやってきてカウンター席に座った。本当に1歩違いで店に入ったこちらもカウンターに座ったので、横並びになった。その後、トラキチの常連さんその6や、私に興味を持っていた(初恋の人に私が似ているそうで。最近は、完全に無視されているが)常連さんその5やらがやってきて、カウンターがいっぱいになった。その後、仲良しの常連さんその1がやってきたのだが、席を移そうかと提案すると「ほかの人が何で? ってうるさいから」と遠慮されたので、我々は早々に引き上げた。昨日、常連さんその1に会った。常連さんその1が不思議な顔をして私に聞く。「今週この店で、ゴルフの話、してはりました?」「ゴルフ? いえ、してません」「◯◯さん(常連さんその3)が、“あの二人(我々のこと)は土日、ゴルフ旅行してきた”って言うんですよ」「え? 我々が?」「土曜日、ここでボクと飲んでたって言ったけど、信じないんですよ。◯◯さん(同居人)はゴルフされませんでしょう。だから、違うって言うのに……」常連さんその3が、なぜそんなことを言うのかを考えた。「あっ」「ゴルフの話、してはりました?」「違うんです。FIです」そう。我々はFIの話をしていた。先週の土曜日予選、日曜日本戦のカナダグランプリの話を。「ハミルトンが優勝したよ」「あら、強いなぁ。今年デビューやろ」「子どものころからカートでダントツやったんや。8歳で始めて10歳でチャンプになったわ」「子どものころからやってんとあかんなぁ」「ボクもやりたかったけど、おやじに言ったら“アカン”って……。金要るからな」「コースに出ようと思ったら、ヒロ松下みたいに資産家の家やないとな」「ハミルトン、22歳やねんで。チャンプになったら、ミハエルを超えるで」「ミハエルって、25くらいやったかな。チャンプになったの」「そんなもんかな。セナが死ぬ前やったような、後のような」「ミハエルは、何回チャンプになってるの?」「7回くらいかな」「毎年?」「ケガして出場でけへんかったときがあるし、フェラーリに入ってからしばらくあかんかったけど、1回優勝した後は連続やな」「ケガしたことあるの?」「クラッシュして足を折った。そのときはテストドライバーのミカサロが走ってた。ミカサロもいい選手やったけどな」「土曜の結果から日曜の結末は予想でけへんかったわ」こんな内容の会話だった。共通の用語が多いことに驚いたが、これをゴルフに置き換える能力は大変なものだ。ミハエルやミカサロやハミルトンは海外のプロゴルファーになったのだろう。それより、奥さんと一緒にいながら、われわれの会話を盗み聞きし、土日にゴルフ旅行してきたと判断する常連さんその3って……。うかつなことは口にしないことである。 撃沈
2007.06.15
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日本は「官僚国家」である。「官僚」というのは、いわゆる「キャリア」だ。いや、広義ではそうではない。が、「国家」に冠するような力(必ずしも「能力」「統率力」「実行力」といった、国家を支える力ではないが)のある存在は、とりもなおさず「キャリア」である。「旧帝大」の上位何校かを卒業した(勉学的に)優秀な人物が役所(省庁)に入り、国家を動かす行政や立法を先導する。顔が見え、自分の犯した悪事や醜聞に自縄自縛されながら、それをマスコミに暴かれることに戦々恐々とせねばならぬ国会議員より厄介にして権力のある存在だ。こうした「官僚」の共通点は、「挫折を知らない」ということ。挫折を知っていれば、官僚になりたいなどと思うはずがない。賃金が保証されていて(が、それ以上もそれ以下もない)、天下りできるポストまで昇格すれば、定年後にがっぽり儲かるから、若いときから天下り先をつくることに躍起になる、そんな毎日に人生を預けようと思うわけがない。失敗を恐れずに、大きなものにチェレンジし、失敗をバネにもっと強く、大きくなろうとするものだ。「挫折」を知らない、のではない。「挫折」を受け入れないのだと思う。勉学に優れた人間は、勉学がすべてになり、勉学の優劣が人の価値を判断する基準になる。そうなれば楽だ。身体能力も、創作能力も、表現力や芸術感覚も、人間を形成する多くのものから目を背けて生きていける。計算や読み書きは、日常生活が不自由なく送れる程度できればいい。もっとやりたいならやればいい。やりたくないなら、ほかのことをやってもいい。ただし、評価が数値化される勉学以外のことで、人の評価を得るのはとても難しい。しかも、鍛錬が必要だ。勉学は、「学校」という場が与えられ、幼少のころから当たり前のようにやらされている。そこで、他から頭一つ、二つ抜け出すのは、たやすいことだ。人より勉強すればいい。残念ながら日本は、その子が「いかに勉学を修得したか」より「他人よりいかに優れているか」を計る偏差値教育なのだから、人よりできればOKなのである。成績を上げたいなら、まず、勉学に興味を持たねばならない。生活に密着していない勉学などない。生活の中に勉学を見つけることだ。そうやって、勉学に興味が持てたら、半分以上勝利といっていい。やり方を工夫し、人より時間をかけ、人より脳を使えば、必ず成果が出せる。勉学なんてチョロい。それに比べて、音楽や、スポーツや、芸術というのは「素養」が必要だ。努力がそのまま成果に結びつくわけではない。ある程度のところまで行っても、それ以上の高みにのぼることができるのは、ほんの一握りの才能とセンスの持ち主だけである。しかも、「ほんの一握り」に入ることができたとしても、それで富を得るとか、名声を得るという保証はない。生涯極貧のまま死んでいった芸術家はごまんといる。それに比べて「勉学」は、将来を勝ち得る簡単にして有効な手段だ。才能も人間的センスもないどうしようもない人間が、数値化された学力だけを頼りに役所に入る。挫折を経験する機会すら拒否し、挫折が与えてくれる人間の能力伸長のチャンスに触れることもなく、挫折を知らない者が勝者であるかのような錯覚を抱き、人生のつらさも、面白さも、可能性も知らないまま、使い切れぬ大金を持ったまま死んでいくのだ。「勉学」の過程にある学生にとって、成績が上がった下がったという事実は、とても大きなことだと思う。上がるに越したことはないが、そうそううまくいくものでもない。思いもかけず上がることがあるが、下がるには必ず原因がある。下がる原因を分析してそれを排除すれば、上がる保証はなくても下がることはない。「勉学」などというのは、それがなければ死ぬ、というものではない。そんなものより、身体能力を磨く方がよほど生きる能力を上げることになる。ただし、将来「役人」「医者」「教師」「法曹」などになりたい人は、その立場につくまでに数値化された勉学的能力が問われるので、いやがおうでも勉学的能力を上げなければならない。成績が上がった、下がったと、一時的なことに一喜一憂することなく、受験や就職までの長いスパンを常に視野に入れ、いつまでに何をどうしよう、と計画を立てつつ勉学に興味を持って勤しんでもらいたい。大人になって思う。勉学は、それそのものより、それを習得する過程、習得するために脳を使うこと、効率的に脳や時間を使う計画力を養うことが、人生に必要だということだ。学生時代をいかに生きたかは、その後の人生を決めると言っても過言ではない。まだ、生まれて10数年の子どもにとって、その現実は過酷だと思うが、「いま頑張れば、輝かしい未来が待っている」と思って、フルに頑張ってほしい。頑張れば、それなりの結果が待っているというのもまた真なり、である。 合掌
2007.06.14
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きょう、夕方以降の報道番組をにぎわしているニュースがある。『神奈川県秦野市南矢名1の小田急小田原線東海大学前駅下りホームで、同市の女性(57)が発進しようとした新宿発箱根湯本行き急行電車(10両編成)のドアに指を挟まれて約40メートル引きずられた。ホームの乗客が気づいて車掌に伝え、電車は急停車したが、女性は電車とホームの約18センチのすき間から約1.2メートル下の線路上に転落し、胸の骨を折る重傷を負った。電車内の乗客約150人にけがはなかった』というものだ。電車とホームの隙間は「40センチ」と伝える報道機関もあったが、概ねこのような内容のニュースだった。そして、キャスターが言う。「指を挟んでいながら、自動停止装置が感知しなかったのはなぜか」「車掌が安全確認を怠っていたということはなかったのか」「ホームに駅員がいなかったのは、問題ないのか」そして、「鉄道の安全確認システムや、事故防止システムの整備が望まれます」と締める。事故の原因は一つ。「無理な駆け込み乗車」である。この駅は、学生が大勢乗り降りしたりするようで、改札口に通じる階段付近は特に混雑するそうだが、それを知っていれば、そんなややこしい場所から乗り降りするより、空いたドアから乗ろうとするだろう。が、当該のご夫人は、階段付近のドアから乗ろうとされたそうだ。乗車寸前にホームに到着されたのではないだろうか。挙げ句、ドアに挟まったのは手の指だったとか。中途半端なものを挟むものである。鞄とか、足とか、肩なら、確実に安全装置(自動停止装置)が働いていたであろうし、車内の人間も助けようがあっただろう。しかし、「指」ではどうにもならない。(自動停車装置が働くためには、直径1.5cmの厚みが必要だそうだ。指はそれに及ばない)大阪ではあり得ない。57歳の婦人が、是が非でも電車に乗りたいとしたら……、まずは、車掌に向かって手を振り、こう言う「開けといて!」。万が一、車掌がそれに気づかなかったら、顔をドアに差し入れる。そして叫ぶ「イタタタタタ、開けて!!!」ホームも車内も騒然とし、車掌が素早く気づく。ホームでは、「駆け込み乗車は危険です。駆け込み乗車はやめましょう」と常にコメントされている。極論になるかもしれないが、JR西日本の尼崎脱線事故で、合理的なダイヤを「無理なダイヤ」と言わしめたのは、まさしく関西独特の駆け込み乗車である。無理矢理乗車しようとする輩が、関西には極端に多い。次から次へとやってきて、車掌はドアを閉めるのに恐怖を感じるほどだろう。なぜなら、わかっていながら顔やら、首やら、体やらを挟んで、「イタタタタタ」攻撃を繰り広げるからだ。つまり、得手勝手な行為が招いた結果なのだ。しかし、テレビの報道番組はそうは言わない。理由はわかっている。57歳のご婦人の責任を問うては個人攻撃になるからだ。報道は、「大きいもの」を批判するのが無難なのだ。しかし、今後の日本にとって、利己主義、個人主義はぜひとも禁句にしたい事柄である。年金、保険、介護、地方自治……。“他人事”では生きられない世の中にする方向で世の中の再編が進んでいるのだ。昔の日本なら、こんな事故はあり得なかった。この事故に併せて紹介されたのが、ベビーカーの車輪を挟んで発車してしまった過去の事故だ。いつから、ベビーカーが電車内へ平然と乗り込めるようになったのか。20年前は、「ベビーカーは折りたたみ、ほかのお客様の迷惑にならないようにお持ちください」という車内放送があったし、お母さんは子どもを抱っこするか、背負って電車に乗ったものだ。しかしいまでは、大きなベビーカーをひいている母親が多数いる。しかも、急行など、先着の電車に乗り換えるのだ。最も空いている各駅停車で行くのが常識だろう。そんなに急ぎたいなら、タクシ-に乗ればいい。経済的に余裕がないなら、早起きして2、3本前の電車でのんびり行けばいいのだ。国政安定にとって、無意味にして有害な個人の権利や利己主義を必要以上に煽っているのは、マスコミだと思える。何でも他人のせいにする姿勢は、マスコミの「事なかれ主義」が生んだのではないかと思えるほど、根拠がないくせに強気である。ゴルフの関東アマチュア選手権のヘリコプターによる空撮騒動や、盗聴騒動など、マスコミの節操のなさは尋常ではないが、そういう局に、犯罪者呼ばりされた鉄道会社は憤慨していることだろう。役所、警察、学校、医者……、節操のない人種が想像もできないくらいあふれている世の中である。せめて善良な市民は、「報道」のあり方を常に考える機会を与えられ、意見が言える存在でありたいと思う。いみじくも、マスコミ側にいる人間として。 焦燥
2007.06.13
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最近、身の回りで激増しているものがある。「ハト」「カラス」「自転車」である。「ハト」は、異様なほどその姿を街中で見る。歩道上の残飯か何かを食べているのか、10羽余りのハトが行く手をふさいでいる。構わず歩いていくと、手間の数羽が歩いてよける。速度を弱めずに進むと、先頭のハトが飛び立つ。それに合わせて全員が飛び立ち、私から離れる。と、すかさず向き直り、こちら目がけて襲いかかる。10数羽といえども、かなりの迫力である。ハトの羽根が切った風は、不純物(ホコリ、ゴミ、虫、細菌……)を含んでいるような気持ち悪さがある。しかし私は、腕で顔を覆うとか、手ではらいのけるような動作をするといったことはしない。そんなことをしたら、ハトは「ふん、人間など弱いもの」と思うに違いない。平気な顔をしてやり過ごす(後で、ほこれまみれになった髪や上着を見て辟易するが、人間の威厳を示すためには致し方なかろう)。朝、「カラス」の交信の声に恐怖を覚える。絶対しゃべっている。ものすごくたくさんの声色があるのだ。「ア、ア、ア、ア、ア」と声を短く切る音、「アー、アー、アー、アー」と伸ばす音は、高低差が多彩だ。「アァー、アァー、アァー」と、後ろのアが高い音になる声のときは、遠くのカラスまでが反応する。隣のマンションの屋根の上、中層階の非常階段の手すり、向かいの消防署の屋上、その間の高架の線路の照明の上、小学校のフェンスの上……。私が住んでいるマンションをぐるっと取り囲むようにカラスがとまり、けったいな鳴き声を放つ。じっくり観察して、声の意味を分析したいと思う。しかし、カラスをいじめるのは絶対避けたい。カラスは、人の顔を見分ける能力がある。これは、他の動物にはあり得ないことだそうだ。顔が見分けられるということは、仕返しされる危険性を有することを意味する。「自転車」に至っては、看過できないほど増殖し、あちこちで迷惑をまき散らす存在になっている。私が通勤に使用するのは、歩行者専用道路である。ゆえに、道幅が狭い。4人ほど並ぶと、道幅いっぱいになる。その道を歩いているとき、背後にある歩行者側の信号が青に変わると、一斉に自転車が動き出すのに恐怖を感じる。ものすごい台数である。「ここは北京か!」と叫びたくなるほど自転車天国である。ラッシュ時ともなると、1回の信号で動き出す自転車は、30台にものぼらんとする。我れ先に、という自転車と、マイペースを守ってトロトロ走る自転車がいるので、歩行者は、自然にできた自転車の長蛇の車列に長い間遠慮しつつ歩かねばならない。しかも、対向の自転車や歩行者もある。かなりのスピードを出す奴もおり、前後左右に気を配らねば、危ないことになりかねない。どうして自転車が増えたのか。一時期、“バブル崩壊で、自動車やバイクに乗っていた人が、経費のかからない自転車に切り替えた”と言われたが、どうもそれだけではないようである。なぜなら、歩いて行けるところに自転車で行こうとする人物が増えていると実感するからである。コンビニといわず、スーパーといわず、ファストフードショップといわず、パチンコ店といわず、ケーキショップといわず、居酒屋といわず……。どこに行くにも自転車を使う人が増えたのだと思う。その理由は、とりもなおさず、「歩くのがいやだから」である。「ハト」「カラス」「自転車」の共通点は何だろうか。“周囲を顧みない、我が群の行動を優先する”“歩行者に挑みかかる”“歩行者に不快な思いをさせる”“やり逃げ的無責任・無神経な行動を是とする”“卑しい”“臭い”“うるさい”“うっとうしい”……。個人的な不快感の爆発というような展開になったが、いずれにしても、その存在に快感を覚える人は皆無といっていいのではないだろうか。「ハト」は「平和の象徴」である。しかし、ベランダや雨といや塀の上に巣をつくられた人の気持ちは絶望感に似たものである。ハトが一度巣をつくると、どんなふうに巣を処理しようが、そこにいついてしまう。しかも、子孫が永々と。それがわかっていても、殺虫剤をまいたり、卵を捨ててしまったりといったことは、普通の人間には実にしづらいことだ。……まさに閉塞感である。解決策などないように思う。「ハト」と「カラス」に求めるのは不可能だが……、人間には求められるはずだ。野鳥と同レベルになり下がった自転車ライダーたち、せめて人間に昇格できるよう、歩行者や社会に配慮するよう努められたし。あなた方が扱っているのは、おもちゃや遊具ではなく、「軽車両」というれっきとした「車両」であり、「道路交通法」が行動を規制しているのだということをきちんと認識して。【道路交通法/罰則規定】●酒気帯び運転:3年以下の懲役又は50万円以下の罰金●無灯火運転:5万円以下の罰金●信号無視:3ヶ月以下の懲役又は5万円以下の罰金●並走:2万円以下の罰金又は科料●指定場所における一時停止義務違反:3ヶ月以下の懲役又は5万円以下の罰金よく覚えておいてもらいたい。カァーァァ、ポーポー。 瞑想
2007.06.12
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人間、ここまで堕落した思考を持てるのかと、驚異とも思える事実がまた発覚した。日本がまだ「働き蜂」だら、「働き蟻」だら、「エコノミックアニマル」だらと言われていた時代に、「パソコンのキーにタッチする回数を5000に限定する」という取り決めが、労働組合と社会保険庁の間で交わされたそうである。にわかには信じ難い話だが、理不尽とも言えるような要求を突きつける労働組合と、交渉するつもりがなく、自分の保身と天下り先のことしか考えていない役所(幹部役人)との間の話だけに、納得できるところが恐い。民間企業でこんな条件を出す労働組合があったら、その会社は間違いなく倒産するだろう。私が毎日のように、酒を浴びるように飲みながら書くこのブログは大抵3000文字を超えている。タッチ回数で言ったら、多分5000を超えるだろう。「特打」というタイピングソフトがある。これは、「変換」や「確定(enter)」の必要がないので、打ったままの数字のはずだが、私は10分間に1300文字以上を打つ。とすると、5000タッチなど40分もあればクリアしてしまうことになる。いみじくも、手書きの台帳からデータ化するという変革の時期においてこの条件は、あり得ないし、これで給料をもらうという行為は犯罪に等しい、ではなく、犯罪だろう。公務員の給料は税金である。税金の「横領」か「不当取得」か「詐欺」か。どうやら、「入力」などという“面倒にして簡易な作業”は、お役人様の仕事ではない、ということのようで、煩雑なお仕事は、主婦や学生のアルバイトがこなしていたのだとか。主婦や学生が悪いというのではないが、こうした人種に責任ある仕事ができるわけがない。過酷にして残虐な「経済活動」に接しないようなお気楽な人種に、国民の将来が託されるような、重要かつ切実な作業をさせた役所の問題である。しかし、だれも罰せられないのだ。当時の社会保険庁長官も、データ化の責任者も、データ入力を担当した無責任なアルバイトの連中も、1日5000タッチだけして、後は新聞を読んだり、コーヒーを飲んだり、テレビを見たり、居眠りしたりしていた社会保険庁の職員も、その状況を知りながら、叱咤も告発もしなかった掃除のおばさんも、そんな怠惰な役所の実態を熟知していながら何ら対策を打たなかった飲み屋のママも、知らないはずがなかった厚生省(現厚生労働省)の「族議員」も、調査や管理を怠っていた政府や国会議員も。以前に提唱した『日本国民総無責任時代』は、とっくの昔に始まっていたのだ。日本の中枢である「役所」から。日本の未来を崩壊させようとする人物はだれなのか。暗澹たる未来が、日本の前途に広がっているように思えて仕方がない。「コムスン」「医者不足」「給食費・保育料不払い」「NHK不祥事」「幼児虐待」「放火」「金属ドロ」「保険料不払い」「官製談合」「自治体破綻」「親殺し」「企業の不祥事隠し」「ゴミ屋敷」「インサイダー」「ニセ札」「医療費・介護料不正請求」「劇物混入飼料」「黄砂」「環境破壊」……。果てしなく暗い気持ちになるが、我々が是正する方向を見い出さないと、未来の人類に影響する。そのためにはまず、役所と役人にメスを入れ、寄生虫のように税金に群がる者どもを精査し、悪なるものを排除することから始めないと、大企業の従業員と詐欺師集団以外は総貧乏人に成り下がった日本人の懐は持たないだろう。ま、お役人様方は「そういう無能な貧乏人が排除されるべき」とのたもうだろうが。日本の未来は……。 観自在菩薩……
2007.06.11
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金曜日から、テレビ画面に頻繁に登場する人物がいる。ウルトラマンのダダである。あ、違った。介護事業を展開する「コムスン」の親会社「グッドウィル」グループの折口会長だ。まだ45歳だそうだが、皮膚のツヤのなさ、はげ上がり具合、目つきの胡散臭さは数段年配者のような印象を受ける。が、意に反して、話す声は弱々しく、唇も震え気味で、手の動作と言葉が合致していない不安定さが何とも嚥下し難い違和感を感じさせた。日商岩井にいたときに巨大ディスコ「ジュリアナ」を企画したという大胆さや発想の豊かさを想像する余地もないほど小心者的な雰囲気で、稚拙な言い訳を繰り返す。なぜ、テレビに登場したのだろう。いま、「グッドウィル」グループ傘下の企業の株価が急落を続けている。そのことを考慮して金曜日に記者会見を開いたのだと思うが、ストップ安を繰り返す株価をどうにかして食い止める必要がある。当然、明日、月曜日は株取引が再開され、さらなる安値をつける可能性がある。週末、株式市場が閉じている間に奇策を打つ必要があった、ということではないだろうか。1.この事態に、折口会長が出る以外の方策は考えられない。2.折口会長の辞任は、グループ企業の株価下落の追加要因になる。3.折口会長は、金に異様なまでの執着がある。4.確実に犯罪性があり、言い訳をできる材料を持たない。5.理論的に破綻しているので、キャスターの問いに答えられない。6.過去、強気に出た経営者(堀江、村上、JR西日本など)や代議士、市議会議長、官僚などは叩かれまくっている。7.グループ内に、ほかにも後ろ暗い要素があり、隠す必要がある。8.日本人は「成功者」が嫌いである。9.折口会長は不遇だった。10.人情に訴えるのが得策。というようなストーリーだったのではないだろうか。稚拙だが、テレビを見る国民はさらに稚拙な思考を持っていると思われたのだと思う。「ダダ」は、金への執着が激しいのだと思う。「サンデープロジェクト」に出演したダダが、田原総一朗から「なんで、防衛大学なんですか」と出身大学について聞かれたとき、「家にお金がなかったので、自衛隊の少年工科学校に行って……」という旨の発現があった。幼少のころに父親の会社が倒産したようだ。で、彼は、一般の高校に進学するのを断念して自衛隊の生徒としての学業を経て、防衛大学校に入学・卒業したそうだ。自衛官の任に就く意志などさらさらない人物に、2,000万円の税金をかけて多彩な知識や技術を習得させたが、彼は恩義を感じることもなく任官を蹴って一般企業に就職、時代の寵児となった上に、最後には、またしても税金を食い物にする事業を展開、父親の会社を倒産させた行政や政府に徹底的に仕返しする姿勢を貫くという姿勢を見せている。彼のヒストリーを知ると、同情する余地もあるだろう。あながち、芯から悪い人間ではないのかもしれない。と、思わせるために、あの会見が開かれ、テレビ出演があったのではないかと思う。いずれにしても、責任逃れができる話ではない。税金(保険料)の不正詐取と、自らの企業に所属するスタッフを欺き、お客様である介護される人をないがしろにしたやり方は、糾弾され、それに見合う制裁を受けるべきである。でないと、彼は、歪んだ欲望と、世間への間違った禍根、自分や家族へのコンプレックス、何よりも、自縄自縛の呪われた思いから逃れることができないだろう。生涯不幸である。貧乏など、人間を否定するものでもないし、経験して悪いものでもない。問題は、貧乏の事実をひた隠し、身の丈以上の生活や考えを持とうとする不毛の発想である。そんなことをしていると、「ダダ」にとどまることなく、「シーボーズ」や「ジャミラ」といった、悲しい末路をたどる怪獣の心境を味わってしまうだろう。そんな、世間に何ら影響を与えることなく、過激にして他愛もないことを言える立場であるということは、本当に「気楽」である。「幸福」かどうかは、甚だ疑問ではあるが…。
2007.06.10
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最近、我が事務所の近くでは「ノックアウト強盗」が頻発しているとか。夜、暗闇でお金を持っていそうな中年男性の背後に忍び寄り、鉄パイプやバールなどで襲い掛かって金品を奪った上、重傷を負った被害者をその場に放置して逃走するという野蛮な凶行がまかり通っているということは、実に恐ろしいことです。以前、一人暮らしをしていたとき、強姦魔に侵入されかけたり、空き巣に入られたりしました。幸いなことに、命を奪われることも、強姦されることもありませんでしたが、ほんの少しタイミングが違ったら、どうなっていたかわかりません。以前、強姦された女性が告訴し、逮捕・服役・出所した男が、仕返しをするために告訴した女性を捜し出し、エレベーター内で殺害した、という事件がありました。女性には何ら落ち度がなく、2度もひどい目に遭い、しかも2度目には殺されてしまったのです。実に恐ろしいことです。で、私は決意しました。家にいるときによしんば侵入してきた者があったら、絶命するまでこらしめようと。私は枕元にゴルフクラブ(一番使いやすい7番アイアン)を置いて寝ました。何者かの侵入を感知したら、即座に起き上がって殴り掛かる訓練もしました。まずは胸か腹を「突く」、ひるんだところで頭を「叩く」、伏せたところで思いっきりクラブを振り下ろす。頭蓋骨が粉々になるまで殴るのをイメージしました。それを「過剰防衛」と言えるでしょうか。侵入した男が私に何をするかわかりません。強姦してその場は逃げ、再び強姦するために侵入してくるかもしれません。くだんの事件のように、よしんば逮捕・服役することになっても、お礼参りをされて、殺されるかもしれません。私を強姦した後、ほかの女性を次々と強姦していくかもしれないし、私は強姦された後、殺されたかもしれない。だれが「そんなことはない」と言えるでしょう。アメリカで、ハロィーンの日に日本人留学生が「フリーズ」を「プリーズ」と聞き間違えて一般住民に撃ち殺される事件がありましたが、アメリカではそれが常識(と言えば言い過ぎかもしれませんが)のようです。我が国でも、「過剰防衛」などという性善説に立った考え方はやめて、犯罪者にはもっと強烈なペナルティを与えてもいいのではないでしょうか。以前から言っていることがあります。重要犯罪(殺人、強盗、放火、強姦)を犯した者には、丸3日間、針1000本を目の前に置いて「ご自由にお刺しください。ただし、眼球は傷つけないように。視力を失うと、恐怖と痛みが半減します」と書いた張り紙を設置した「市中張りつけ」を実施するのです。道行く人は、自由に針を犯人に刺していい。刺して、抜いて、刺して、抜いて、また刺してもいい。うそをついただけで1000本の針を飲まされると教えられた日本です。重要犯罪を犯したものには、針1000本を何度刺してもいい、くらいの罰はあり得るでしょう。で、その後、正式な裁判と罰を受けるのです。罰の大きさが犯罪抑止力になる、というのは妄想です。犯罪を犯す者は、罰を熟知する機会がないのです。自分の犯している犯罪が刑法上のどんな位置づけにあるかなど、知るよしもない毎日を送っている人種なのです。そんなことはどうでもいい。被害者の無念を少しでも晴らしたい。「やられ損」を許す世の中はダメです。犯罪者の「権利」ばかり優先する考え方は、人道に反します。そんなことばかり言っているから、給食費を払わない、保育料を払わない、責任転嫁をする人間ばかりが生み出されるのです。犯罪者には権利がないことを教える教育、犯罪を犯すとつらい目に遇う仕組み、犯罪を犯さないような健全な人間を育成する社会をつくることが急務であることは確かですが、それが実現するまでは、「やり損」という認識を浸透させることが必要ではないでしょうか。
2007.06.09
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☆新シリーズです。ノンフィクションで展開します。おかしな人々その1【歌うタクシードライバー】タクシーに乗った。電車で行けるのだが、時間的に全く余裕がなく、ドア・ツー・ドアのタクシーでギリギリかな、という状態だった。得意先に急ぎたいという切実な思いを持っていた私は、「できるだけ急いでください」と言った。その一言が死を招いた。そのタクシードライバーは、後部座席の私を振り返ってニヤッと笑い、言った。「かしこまりました」私はいやな感じがしたが、得意先の元に行くまでのほんの20分ほどのことなので、不問に付すことにした。「フン」運転手の声がした。打ち合わせの書類に目を通していた私の耳に、運転手の、明らかに不満の感情が見える声がした。私は運転手を見守った。果たして運転手は張りのある声で言った。「お客さん、割り込む方法、知ってまっか?」「……?」あっけにとられた顔をする私をルームミラーで確認したタクシードライバーはすかさず言った。「こうするんですわ」そう言うと、入りたい車線を走っている車の少し前に出て、指示器を点滅させた。タクシードライバーは横を走っている運転手に視線を送る。すると、運転手はタクシードライバーを見ずに速度を上げて前に出ようとした。タクシードライバーは、速度を上げた車と、後続の車との間に出来た隙間にすかさず入り込む。「大阪の運転手は、割り込もうとすると必ず速度を上げます。前にいなした後、後ろに入り込むのが一番簡単です」なるほど、と思った。しかし、そんな駆け引きをわざわざ客に解説するタクシードライバーというのが正統なのか、と疑問に思った。しかし、次の仕事に心を奪われていた私は、深く考えることもなく、「あぁ、そういうテクニックがあるんですね」と適当な受け答えをし、再び書類に目を落とした。数十秒ほどの沈黙の後、タクシードライバーが言った。「お客さんが乗ってくださったのも、何かの縁です。その縁に感謝して、一曲歌います。聞いてくれまっか?」状況をうまく飲み込めない私は、適当に返答した。「は、はい」果たして、タクシードライバーのアカペラが始まった。題名も歌手も知らない、「演歌」とだけわかる歌をタクシードライバーが歌っている。私は、不本意ながら、手拍子を打った。そうしないと、雰囲気が悪くなることが容易に理解できるほど、タクシーは閉ざされた空間である。不思議なほどに、得意先に到着する寸前、タクシードライバーの歌が終わった。「ありがとうございます」そう言ってタクシードライバーが後部座席の私に向かって手を伸ばしている。拒否することもできず、「どうも」と言って、タクシードライバーと握手した。料金を満額払い、無言のまま降りようとする私にタクシードライバーは「また!」と声高に言い放つと、アクセルをふかして走り去った。私には、虚無感だけが残った。あの運転手は、どの乗客にも歌を披露したのだろうか。割り込みの方法を伝授したのだろうか。降りしなに、客の手を握ったのだろうか。すべては謎のままだが、私にとっても奇跡的におかしな人である。「また!」がないことを、生涯望む。 合掌
2007.06.07
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きょうは、我が居住地では「ペットボトルの日」だった。自治体が出したマニュアルの「ペットボトルの出し方」には、「ペットボトルに巻いてあるビニールフィルムとキャップを取り、中を洗って出してください」とある。私はそのとおりに処理している。同居人と出勤するべく歩いていると、大きなマンションのゴミ置き場に遭遇し、いつものことながら、フィルムもキャップもとっていないペットボトルが大量に積まれているのを目にする。「民度が低いなぁ」子どものころから居住地に住んでいる同居人へのあてつけではない。現状を分析して言ったまでだが、同居人はプライドが傷つけられたようで、「どこでもそうや!」と怒る。「決まりを守らないと、リサイクルできないやろ」「面倒臭いんや。お前みたいにきっちりやる方が珍しいわ」「いや、リサイクルのための必要最低限の条件なんと違うんかな。それをやってないと、分別する意味もないとなると、やるでしょう」「これでも回収してくれるから、そんなもんやと思うんやろ。みんなもやってるんやし」「そんなこと言うてるから、うちの自治体は、中国にまんま売るっちゅうような恥ずかしいことするんや」有史にないほど異常なレベルで展開されている中国の地球環境破壊に加担しているということだ。朝から、そんなエキサイティングな会話をしていた。要は、地球環境を真剣に思っている人間など、皆無に近いということを互いに言い合っていたのだ。「地球環境」というお題目の元、きちんとしたリサイクル施設もないまま分別回収を始めた地方自治体は、現実、ペットボトルもプラスティックも焼却処分していたようだ。「地球環境」や「分別回収」は“政争の具”にされたということなのだろう。ことほどさように、「地球環境」は「政治」や「経済」のネタになる。地方自治体による「ゴミの回収」は、以前は週に2回程度だった。何でもかんでも一様に「ゴミ」として出せたからだ。いま、我が居住地は9分別である。週に1回収集されるプラスティックとビン・カン、月に1回のペットボトル、古紙・古布、ガラス、粗大ゴミ、小型家電などといったものが、(平日の)毎日収集される。収集には「収集車」が使われる。収集車はガソリンで動くので、化石燃料が消費され、当然CO2が排出される。化石燃料が使用されることにより地球環境へ与えるマイナス要因と、温室効果ガスのCO2が排出されることで、地球が温暖化される科学的数値を総合して、ペットボトルやその他の資源ゴミをリサイクルすることによって貢献できる地球環境保全の効果を指数として比較したなら、「リサイクルが上回った」ということであれば、努力する価値もある。しかし、それは実証されてはいない。最近話題の「バイオ燃料」にしても、燃焼されるときのCO2排出は、当該植物の成長過程で(光合成によって)排出されるO2に相殺される、というような適当な定義によって成り立った定義である。なぜ、そんな曖昧な状況で事が進んでいるのか。金になるからである。「とうもろこし」を牛のエサにするより、「バイオ燃料」にする方が高く売れるから、「環境」を偶像化するのだ。そんな、先進国(主にアメリカ)の何振り構わぬ暴挙を見逃さず、自分が生きていく環境をきちんと見詰めて生きていきたいものである。「みんながしてないんやから、一人だけしても意味がないよ」というような、本末転倒な意識だけは抱かないようにしたいものである。それを実現するために必要な、幼少のころの教育に真剣に力を入れてもらうことが前提だが。中国や韓国の「対日本教育」を見てもらいたい。史実に反しようが、国際的軋轢があろうが、強行する教育の強さ、独断さを。日本は、教育者自らが責任や非難を回避するために、強制力がなく、余りにも正統過ぎる概念を自分なりに認識することもなく弱々しく吐くか、多様な解釈ができる文言で、生徒・学生を丸め込んでしまうかだ。教育の重要性をいまほど感じる時代はない。
2007.06.06
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その22【虫の知らせ】9歳のときからの友達がいる。30年越しの付き合いである。彼女はかなり数奇な運命に翻弄されているが、そのことを彼女に言うと、「身辺がおかしなときに限って、あんたが連絡してくるのよ。いつもは平穏な日々を送っているのに」と言う。そんな気もする。最初は、高校を卒業してしばらくたったときだった。なぜか彼女の顔が浮かんで、気になった。思わず電話をした。電話の向こうの彼女の声は暗かった。途中から、涙声になっている。翌日会う約束をした。話を聞くと、付き合っていた男性がとんでもない奴だと判明したようだった。7マタかけられていて、しかも彼女の順位は低いものだったと言う。私は、とにかく話を聞いた。彼女はポツポツと夜通し話をした。次は、彼女がバイク事故を起こして大けがをしているときだった。びっくりした私はすぐに彼女の元にかけつけた。ケガだらけの彼女は、苦笑いをしながら心配をかけたことを詫びた。次は、私が就職したときだった。ふと「どうしてるかな」と思った。彼女は高校卒業後、就職した会社を早々と辞め、水商売の世界に入っていて、私はそれを心配していた。「店を任されそうやねん」彼女の言葉に、私は驚いて言った。「あかん! 責任持ったら、辞められへんようになる。飽くまでもアルバイトにしとき。新しい仕事を始めなあかんよ」彼女自身も不安があったのだろう。それを機に水商売から抜け出した。次は、それから2年ほど後だった。「看護婦になろうと思うねん」私は耳を疑った。が、根無し草のような暮らしからようやく脱することができると、私なりに喜んだ。正規のルートである、看護学校に入学するという方法は生活面から無理なので、病院で働きながら看護師の勉強をするという方法を取らざるを得なかった。大変だったようだが、それを乗り越えれば、きちんとした仕事につけるのだ。彼女は頑張るだろうと思った。次が、看護師の試験の寸前だった。私は励ました。私はそのころ、試験会場のすぐそばに住んでいたので、最終試験の後、一緒に食事をする約束をした。気持ちが軽くなった彼女はお腹いっぱい食べて飲み、私の部屋でゆっくり休んだ。間もなく合格の知らせを受けた。我が事のように、大きな人生のハードルを越えた気持ちになってうれしかった。次は、家を出たお母さんがややこしくなっているときで、同時に妹が自動車事故を起こして大けがをしていた。お母さんが同居していた男性の問題があって、彼女は気をもんでいた。話を聞くくらいしかできなかったが、とにかく、厄介な状況だった。次は、彼女が医者を好きになって悩んでいるときだった。一緒にゴルフコンペに行く予定があると聞いたので、ゴルフ練習に誘った。うまくいくはずがなかったが、淡い恋心を携えたゴルフは楽しかったようだった。次は、ダイビングを趣味にしている彼女が、サイパンでダイバーズショップを営む男性に恋心を寄せているときだった。珍しく、写真を見せてくれ、楽しそうに思い出話を披露してくれた。しかし、彼は妻子持ちだった。最後に厳しい顔をして彼女を見る私に向かって「わかってるよ。わかってる」と言った。「ま、ええやん。人を好きになるのはとめられないし、好きになること自体は自由なことやから。でも、人の不幸の上に、自分の幸せは成り立たないよ」私の言葉に、彼女は素直にうなづいた。次は、お父さんの借金の連帯保証人になっている彼女の給料が差し押さえられそうだという、のっぴきならないときだった。しかし、妹の仕事関係の弁護士のサポートによって、何とかそれだけは回避できる状態になりそう、というような、際どいタイミングだった。次は、お母さんを同居人から奪還し、一緒に暮らし始めた直後だった。「温泉にでも行こう」と誘うために電話をしたのだが、ストレスをため、イライラしていた彼女は、すぐにその誘いに応じた。1泊1.5日の簡単な旅行だったが、それなりにリフレッシュできたようだった。その次が、お母さんが脳梗塞で倒れた直後だった。お母さんは病院にいたので、夜会って妹の家に泊まらせてもらい、朝家を出るという予定だった。前夜、酔っぱらい過ぎて、家を出たのは夕方だった。申し訳なく思った。次が、お母さんのガンが発覚した直後だった。私は翌日病院に出向いた。お母さんは優しい笑顔で私を迎えてくれた。30年振りに会うお母さんは、昔とは随分違っていたが、会えてよかったと思った。ずっとお母さんのことが気になっていたが、余命宣告を受けていたので、彼女にとって煩わしいだけの連絡は、極力控えていたのだが、どうも喉の調子がおかしくて、その状態が数日続いたとき、もしかしたら、と思ってメールを入れたら、私がメールを入れた時間に、救急車を要請して入院したということを少したってから知らされた。喉から吐血したのだという。最後は、ついこの間である。なぜか眠れずに夜を明かした私は、何かがあったのだと理解できていた。果たして、早朝連絡が入った。未明にお母さんが亡くなった。彼女と私は前世からつながりがあったのかもしれない。彼女はそうは思っていないかもしれないが、私はそう思えて仕方がない。常に、“虫の知らせ”から彼女に連絡を入れた。“虫の知らせ”ほど意識していなくても、あるタイミングで何かを感じ、それに反応してアクションを起こしていたのは間違いない。「霊感」や「心霊現象」ではないかもしれない。しかし、「シックスセンス」であると思っている。 南無
2007.06.04
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職業柄、「スポンサー」を意識しないわけにはいかない。テレビやラジオの制作にかかわると、「スポンサー」が仕事の、精神面の、生活の、「ネック」になる。スポンサーは非常に横暴である。同業他社に少しでも有利な情報は決して出してはいけないと言う。自らに有利な情報でも、である。自らの有利が、他社の有利にもつながれば、すべてを排除しようとする。企業にとって、「情報」は、出すべきものだと思う。視聴者、聴取者が、提供された情報からその企業をイメージできる土台をつくっていたなら、何ら不利なことはないと思うが、他社のイメージが入り込む余地があると、絶対排除、という方向に向かう。そんな懐の小さいスポンサーは、スポンサーの資格はないと思うが、宣伝しないと業績が伸びないような切羽詰まった企業なのに、中途半端なお金があると、媒体のスポンサーになりたがる。そんな、中途半端な企業に限って「スポンサー」になると無理難題を言ってくる。長年の経験と分析から、その方向に持っていくといい結果は得られないと思われる方向に行くのを希望する。しかも、自信がないせいか“中途半端”で、“やめた方がいい”逆効果の表現を強いる。我々がどう言おうが聞き入れることなく、幾度とないやり取りをした後、致し方なくスポンサーの要望を容認する。しかし、スポンサーの言う通りにやったにもかかわらず成果が出ないと、「高い金を出して依頼した意味がない!」と責任転嫁される。「金」を軸にした関係がそうしてしまうのだろう。互いの能力を信じ合い、無条件に任せる領域を持つからこそ、自分が思った以上の成果を得られると信じるのが「宣伝」というものの神髄であるはずで、素人が、素人の意見を言ったその言葉に広告のプロが従うのはいかんともしがたい苦痛だが、「スポンサー」は「金づる」であるわけで、“金がもらえるなら”と、スポンサーの不本意な申し出を受け入れるのは、下請けの当然の心情であろう。私のように、端からスポンサーの希望をはねのけて、仕事を失ってしまうのもどうかと思うが、仕事にできるものは、多少のべんちゃらやうそを言っても取り込んでほしいと思う。スポンサーの立場にある人は、「自分はスポンサー」と、意味のないプライドを持たず、金をかける成果をきちんと上げるために、下請けの意見を乞うくらいの懐の深さを持ってほしいものである。日本のメディアを窮屈にし、視聴者、放送局、自社の利益を半減させているのは、とりもなおさず「スポンサー」という立場にある企業だと思う。プライドがあり、懐具合がああるので、厄介だし、どうにもならない領域だとは思うが、外国人にやりたい放題やられない方策を考える必要があると、切に思う。「スポンサー」……、金を持つ厄介な存在である。
2007.06.02
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いまの日本は、坂道を転げ落ちるように堕落している。人間の能力が、これほど低下していいものかと嘆かわしく思う。人間は、逆境に置かれたときに能力を伸ばすものだ。小さなところでは、兄弟げんか、大きなところでは国家間の戦争。「平和」は実にありがたいし、幸せだが、平和を幸せだと感じるには、平和ではない状態を知っていることが条件になる。いまの日本は、有史以来の平和状態だろう。江戸時代は、政治は安定していたが、いまほど文明が発展していなかったので、衣食住には不自由していたはずである。暑いし、寒いし、ひもじいし。皆がそうであったので、“そんなものだ”と思えただろうが、人間の能力としては、それなりに鍛えられたのではないかと思う。もちろん、裕福な商人や地位の高い武家は、いまの日本人のように飽食で、身体能力を使わなかったと考えられるが、大方は、ギリギリの状態で生きていたと思われる。もとより、「医学」については「未開の聖地」と言えるほどで、ちょっとした病気で命を落とした。いまは、医療技術が発達して「死」が遠のく一方、栄養状態や生活環境が改善して、子どもが生命力を強められるようになった。がしかし、抗菌対策や抗ウィルス政策によって、ある意味で「病気」から遠ざけ、生命力の向上の機会を排除してきたのがいまの日本である。「病気」にかからなくて済むという状況、病気にかかったときに、生命力でクリアするのではなく、文明の力で回避してしまうことで、生命体としての能力を劇的に低下させることに、人々は余り気づいていなかった。「現代病」と言ってもいいアレルギー疾患、精神疾患、前頭前野の未発達による、異常行動や異常発想、そして何より、自分が存在する意味を見い出せないという、生物の中で唯一思考を持つことが許された人間であるにもかかわらず義務を果たせない人種の増加は、文明社会の根幹を揺るがすものであると言っていいだろう。このことが深くかかわっているとしか思えないことがある。「ルール」や「マナー」を守らない人間が激増しているということである。「ルール」も「マナー」も頭脳を使い、社会平和を保つために体力も使う。しかし、それに耐え得るほどの頭脳も体力もない人間が、世間にはあふれている。自転車は歩行者に突っ込み、原動機付き自転車は「道路交通法」を完全無視して、歩行者並みのいい加減さで道路に飛び出し、歩いている人間は、周囲の人間のペースに配慮することなく、マイペースで動く。メールをしながら、音楽を聴きながら、あるいは通話をしながら別の歩行者に向かって突進してくる。「自分」しか見えていない証拠である。そんな場面に遭遇すると、韓国のように徴兵制度があれば、日本も変わるだろうにと思う。極限状況に置かれ、自分の身体能力、気力、判断力、生命力の何たるかを実感することができれば、偉そうなことは言えないと思う。「権利」は、「義務」を果たして初めて与えられるもので、「権利」をかざして「義務」を果たさないような人間は、自衛隊や機動隊で訓練してみればいい。「連帯責任」で他人にかける迷惑によって、自らの無能を、非力を思い知ればいい。自分に何ら能力がないことを実感すれば、大きなことは言えなくなるだろう。と、考えてくると、間違った「平等」教育が人間をダメにしてしまったことは明白である。共産主義、社会主義、ジェンダーフリー、歪んだフェミニズム……。社会に迷惑をかけない方法……、それは、身体能力、頭脳、思考力をできるだけ向上させ、人に不快感を与えないこと。社会に貢献する方法……、それは、人より秀でることのできる能力を磨いて、人や会社、社会を助けること。……ま、いまの日本では、いずれも無理だろう。そんな教育は、ここ30年以上されてこなかったのだから。そして、少なくともこれから20年以上待たなければ、このことの意味がわかる人間は生まれてこないだろう。外に出るたびに、絶望感にとらわれるのは、それが予想できるからだろう。 沈没
2007.06.01
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