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(10)サバイバーおやじの憂鬱 その3私はおやじの前に座り、ビール瓶をかざして言った。「最後の晩餐、しよか。しばらくお酒飲まれへんやろ」「おっ」おやじはこちらに向き直ってコップを持った。私がビールをなみなみと注ぐ。次いで、自分のコップにもビールを注いだ。「ま、頑張ってきいや。お医者さんの話では、まず大丈夫やろってことやし」「うん」おやじは言葉を継がずに黙ってビールを飲む。「なぁ」「え?」「何か不安なん?」「……」情けない顔をしている。「手術、延ばしてもええねんで。違う医者に看てもらったら、別の治療法を言ってくれるかもわからんよ」「手術はええねん。切ってもらったら治るんやから」「ほんなら、何が不安なん?」「……副院長が脅かしよるねん……」「何を?」「痛いって」「手術が? 麻酔するねんから、痛いわけないやんか」「手術やないねん。“管”や。先っぽから入れるねんやろ。『おとうさん、痛いよー』って言うんや、副院長が」ますます情けない顔になっている。私は呆れた。腹部を20cm以上切開する手術より、尿を出すための管を泌尿器の先端から入れることの方が不安だと言うのだ。本末転倒も甚だしい。「何を言うてるの。管を入れるのは麻酔をしてからやし、1週間は入れっ放しやから、お父ちゃんの場合、交換はないわ。痛い思いなんかせんで済むよ」「ほんまか?」おやじの顔が明るくなった。何と単純な人間だろう。「それだけで、そんな不安な顔してたん?」私の質問に、おやじは答えにくそうにした。「ほかに何かあるの?」手術費用のこと、母親のこと、チコのこと、その他、自分がいなくなると困ることを思ってのことかと私は思いを巡らせた。「看護婦さんに……」おやじは口ごもる。「え?」「管を挿すとき、“小さいな”と思われへんか心配でな」私は心の中でひっくり返った。ばからしいにも程がある。入院も手術も、初体験ではあるが、そんなことを気にして不安気な顔をする69歳はいないだろう。しかも、孫のような年の看護婦がおやじのナニを見て、小さいだの、大きいだの、曲がっているだのと思考を働かせるわけがない。患者の体の一部に過ぎない。「あほちゃう? つまらんこと考えんと、生きることの何たるか、生かされていることのありがたさに思いを至らせなさい」という言葉を残して、私は母の部屋に引き上げた。「どうや? お父ちゃん、気落ちしてたやろ?」「うん。でも大丈夫。励ましといた」真実は語れない。50年を経た夫婦でも、おやじの有様に母は失望するだろう。「そう、ありがとう」きっと、この事件に対しての、一般的に言うごく当たり前の「不安」は、母だけのものだったのだと思う。現状の生活や今後に直接影響があるおやじの状態を心配せずにいられない母は、かわいそうである。サバイバーおやじの、サバイバーなガン闘病記は母のそんな気持ちに関係なく繰り広げられるのである。清貧一家の次女の見守る中で。 合掌
2007.05.31
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ここ数年で実感した。「ガン」というものが与える絶望感を。治る、治らないという次元ではなく、「ガン」というだけで、ある種の“終末”を覚悟せねばならぬ自縄自縛の観念にとらわれてしまう。最初は祖母だった。「余命1ヵ月」だと医者から宣告された。その言葉どおり、祖母は1ヵ月で亡くなった。最期の日まで私の存在を理解してくれていた。若いときから最高の手入れをしていた顔は、死んでも美しかった。83歳には到底見えなかった。しかし、ガンは、天は、祖母の命を奪った。理不尽だと思った。次は、同居人のお姉さんの夫のお母さんだった。突然ガンが判明し、実にあっけなく亡くなった。周囲の人間が覚悟できないままの最期は、死の後、周囲の人間の生活をズタズタにした。慌てふためき、処理しようのないことが山積した。特に配偶者の問題。お父さんは、自分の下着が収納されている場所さえ知らないほど、家のことにうとかった。お母さんが亡くなると、生活のすべてが崩壊した。お父さんが自分を取り戻すために、長い時間を要した。そのお父さんも、5年後の今年、77歳で亡くなった。もしお母さんが生きていたら、健在だったのではないかと思う。その次はうちのおやじ。サバイバーおやじの胃がんだった。「ヘリコバクターピロリ」が原因の、比較的症状が限定しやすいガンだったが、そんなプラス要素は家族には見えないし、聞こえない。「手術と完治率・生存率」「手術の危険性」「手術失敗の状況」といった、マイナスイメージに振れてしまう状況が前提になり、それが私の思考を支配した。そして、小学4年生以来の友人のお母さんのガン。よほど悪い病気のことを「病膏肓に入る」と言うが、「膏肓」というのは、肋骨の内側、肺と心臓を除く内臓の空間のことを言い、特に、肩甲骨の際と背骨の周辺ツボに反応する部分を言う。こんなところに入り込んだガンは強烈である。あちこちに飛び散りながら、増殖を繰り返す。友人のお母さんも、何度も血を吐いた。飛び散ったガン細胞が、まるで下界に嫉妬するようにお母さんを襲う。一日が一年であるかのような変化をお母さんに与え、体力を奪い、命を奪った。そして、何よりショックなのが……同居人のお父さんへの「ガン宣告」の報告だった。我々より生命力があり、何事にも冷静に対処し、生きることへの執着と、場合によっては命を投げ出すほどの覚悟が混在し、子どもへの期待や教えなど忘れてしまった親のエゴは押し付けるべきでないと訴えるほど意志強固なお父さんがガンにやられているという事実はかなりショックだった。「治らない病気」ではないと思う。しかし、簡単に治る病気でもないと思う。有名なアーティストや俳優や、女優がこの精神病にかかり、どんどん亡くなって行く。季節や季節のうつろいを静かに愛でて、心を和ませることができたらいいと思う。泣こうがわめこうが、季節は静かに過ぎてゆく。桜の季節はまだ先だ。
2007.05.30
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(10)サバイバーおやじの憂鬱 その2清貧一家のおやじは憂鬱だった。69歳のとき、生まれて初めて入院することになった。原因は、ガンだった。20年ほど前から、胃の異常を訴えていたおやじは、幾度となく病院にかかっては大事なく回避してきた(仕事を休みたい怠け者のおやじとしては、少しくらい休む理由が欲しかったが、ついぞかなわなかった)。そのころは判明していなかったのだが、根本的な原因は『ヘリコバクターピロリ』だった。何度か胃潰瘍を繰り返し、治療を受けた経験があったが、田舎(故郷ではなく、定年後の生活を送るための居住地)に引っ込んでいたおやじは、ピロリの検査が保険対象になったのを知らなかった。「ピロリの検査した?」「してない」「保険でできるようになったよ。かかりつけの医者に検査してもらい」「そうか」おやじは私を信じ、かかりつけの医者に申し出た。しかしその医者は「そんな話、聞いたことがない」と、あり得ない言葉を吐き、おやじは一蹴されてしまった。おやじは私に「田舎はまだなんかな」と、気の弱いことを言い出した。常に強気でサバイバーのおやじが。「そんなわけないやろ。保険がきく、きかんは、地域の問題やない。国の行政に決まってるやろ! そんなわけのわからん医者は無視して大きな病院に行き!」おやじは私の言葉に従った。地域で一番大きな規模の県立病院に電話をして事情を説明した。「すぐに来てください」おやじは翌日朝一番に出向いた。ピロリの検査である血液検査とともに「おとうさん、もしピロリやったら、相当長い間持ってはったと思うので、生検も一緒にやっとこか」「そうでんな」医者が言っていることの意味もよくわからないくせに簡単に承諾してしまった。果たしておやじは胃カメラを飲まされてしまった。「おとうさん、何カ所か、ジクジクしてるとこがあるので、切り取ってみますね」胃潰瘍の痕と思われる部分が炎症を起こしていて医者は危ないと思ったようだ。切り取られたおやじの胃の一部から、「ガン細胞」が出現したのは言うまでもない。おやじが私に電話してきた。「悪い知らせや」「どうしたん?」「ガンが見つかったみたいや」不思議と私は動転しなかった。というのも、20年ほど前に、おやじが精密検査をした国立病院の医者と電話で話した記憶があったからだ。「良性でした。しかし、定期的に検査をしてください。悪性化する可能性は十分あります」おやじの胃にできたポリープの検査結果を、職場から電話で聞いたのだった。「ほんで、手術は?」「わからん。木曜日に検査結果が出るから、お前、電話して聞いてくれ」厄介な話である。移動距離にして250キロある実家に戻って医者の話を聞き、その後対処法を考えるような余裕はなかった。電話である程度の事を済ませ、手術するなら立ち会う、しないなら話だけ聞きに帰る、問題ないなら、うっちゃる……。いろんな方法があるが、とりあえず電話で状況を確認し、必要とされる対処法を取れるように努力する、ということだろうか。「お父さんはガンです。しかし、初期ですから切ってしまえばかなり高い確率で完治するでしょう」「浸潤性ではないですか?」「……はっきり言えませんが、違うと思います」「どうしてですか?」「……お、お父さんの胃ガンの原因は、胃そのものではなく、ピロリ菌だと考えられます。クレーター状にはなっていますが、……浸潤性ではないと思います」「切って治る確率は?」「…、ま、80%と言っていいでしょう」「手術してください」私は即答した。医療界で80%というのは、能動的な選択を回避する理由がないということだ。おやじは、主治医のこの言葉に励まされ、胃を半分以上摘出する手術を受ける決意をした。しかし、その後、おやじは憂鬱な顔をしていた。それに気づいた私は、おやじに聞いた。「いいの? ほかの医者にかかって、別の見方をしてもらうこともできるよ」「ええねん。悪いものは切ってもらったらすっとするわ」そう言っているにもかかわらず、おやじは憂鬱な顔をしている。「さしものサバイバーおやじも、ガンには勝てないか」そう感じていた私に、母が言った。「おとうちゃん、すごく不安みたいや。なぐさめてやってや。大した手術やないって、言ってやってや」母は不安そうに私に懇願した。私は意を決し、おやじの前に座った。「おとうちゃん」「ん? 何や」この後の会話は、おやじの「憂鬱」の実態をいやおうなく知ると同時に、常人にはあり得ないギャップを感じて、感心するやら、あきれるやら。それは、おやじならではの「憂鬱」であった。 合掌
2007.05.28
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その21【プリクラの怪】5~6年前、従業員を連れて、近くの百貨店のグルメフロアに出向いた。新入社員の歓迎会のためだった。イタリアンで食事をしていると、京都の得意先の男性から電話が入った。「会議で大阪支社に来てる。食事でもせえへんか?」食事の誘いだった。この男性は7歳ほど年下だが、食事に行こうと、気軽によく誘ってくれた。「従業員の歓迎会で、食事に来てます。こっちにいらっしゃいますか?」「行く、行く!」というわけで、得意先も加わっての楽しい宴となった。窓から、市内を流れる川や大阪中心部の夜景を望むことができるその席は、ワインによってほぐれる心をさらに軽やかにしてくれた。料理は大しておいしくないのだが、フロア係のお兄さんは男前だったし、オーソドックスながら空間デザインもそれなりで、ロケーション、サービス、料理、雰囲気の総合点は及第点だと言えた。夕方6時過ぎにレストランに入った我々は、閉店の10時まで、たっぷり食事を楽しんだ。支払いを済ませて外に出ると、柱の陰にプリクラの機械が見えた。「プリクラ撮ろうぜ!」得意先が言った。我々はプリクラの前に集結した。が、どのボタンを押してもプリクラはプスリとも言わなかった。どうやら警備員がコンセントから電源コードを抜いて回っているようだった。「これ、入れたらいけるやろ」得意先がコンセントを差し込んだ。果たして機械は『ウィ~ン』と鳴り出した。我々5人全員がプリクラのビニールカバーの内側に入ってポーズを取った。4枚連写を5種類撮影した。現像されたプリクラを私が持って帰り、翌朝、4種類のデザインが入るように切って従業員に渡した。「あ……」従業員の一人がプリクラを見るなり、表情を曇らせている。「どうしたん?」「……きのう、何人で行きましたっけ」「ご、5人やんか」いやな予感がした。「6人写ってる……」ほかの従業員が『キャーッ』と叫んだ。彼女の手元にあるプリクラを取って見てみた。確かに6人写っている。しかも、前列にいる私と後列にいる従業員の間に、ひげの生えた男性が……。たまたま通りかかった人間なら、後列の後ろに写るはずである。ルーペで詳細を見てみた。顔しかなかった。首や肩は写っていない。「これは、心霊写真かもね」私が言うと、6人目の人物を見つけた従業員が、「実は、きのう店の外に出たとき、気持ちが悪かったんです」「本当?」ほかの従業員が不安そうに言った。「あの百貨店と関係がある人のように思います」彼女はとりわけ霊感が強い体質だった。あながち間違いではないと思えた。そのプリクラはいまでも私の手元にあるが、なぜか6人目の人物が写っているコマだけどんどん色が抜けていき、いまではほとんど画像がない。ほかの3コマは全く問題ないのに、である。百貨店に問題があるのか、プリクラマシンに問題があるのか、はたまた土地やそこにいた人間に問題があったのかは定かではないが、何者かが、何らかの理由で我々と一緒にプリクラに写っていたのは確かのようだ。電気製品の周波数に反応する霊のことである。一旦切られた電源を入れるというような悪ふざけは、要らぬことを引き起こしてしまうのかもしれない。注意が必要である。 南無
2007.05.27
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(10)サバイバーおやじの憂鬱 その1清貧一家のおやじは、一言で言うと、「野生」だった。いわゆる“サバイバー”である。幼いころ、私はおやじに聞いた。「苦手なものは?」おやじは即答した。「マムシや」私は意外に思った。おやじはゴキブリを素手でつぶすような輩である。ヘビやウジムシごときに怖れおののくわけがないと思い込んでいたからだ。意外ではあったが、苦手なものがあると聞いてある意味、安堵した部分もあった。ある日、飼い猫だった「キコ」が悪さをした。外で見つけ、遊びでいたぶっていたマムシを半死にのまま口にくわえて家に戻ってきた。キコはきっと、勇敢な自分を褒めてもらいたかったのだろう。キコはリビングにしばしたたずんだ。チロチロと動くマムシをくわえたまま。しかし、そこには人の姿はなく、ゆえに褒めてもらえず、キコはすぐさまマムシに飽きたのだろう。そして、次の獲物を捕獲したい欲望にかられ、マムシを置き去りにしてどこかに消えた。「キコ」が去った後のリビングに、何気なく入ったおやじは目が飛び出るほど驚いた。「まっ、マッ、マムシや!!」おやじはひるむ間もなくマムシの頭に親指を、顎に人差し指を差し入れて挟んでつかみ、玄関に飛び出た。幸い、夏場だったため、玄関に下駄が出ていた。おやじはすかさず下駄を履き、庭先に出てマムシの頭を下駄の歯で思いっ切り踏みつけた。『グワシャッヒン』マムシは頭部をつぶされて絶命した。その話を夕食のときに聞いた(おやじは、食事時にエグい話をする癖があった)。「マムシ、苦手なんと違うの?」「苦手やがな。あんな気持ち悪いもん、おらん」「それやのに、素手でつかめるの?」「つかむのがいやなことはないがな」「え、ほな、何が苦手やのん?」「毒や! 噛まれたらわやや」おやじの理論はこうだ。“恐いのは毒で、マムシがいやなのではなく、毒を持つマムシがいやで、毒を排除するためにマムシをつかんだり踏みつけたりすることは平気”ということだ。理論的ではあるが、一般人にはその割り切りが理解できない。野獣のような「キコ」と暮らすならば、いつ何時マムシがおやじの生活環境に出現するか、危害を加えるか予測ができない。おやじは考えた。毒のある生物(可能性が最も高いのがマムシ)と遭遇せずに済む手段を。しかし、どう考えても「キコ」がいる限り、そんな安寧な状況が得られるとは思えなかった。かといって、猛猫「キコ」を“品猫”に変えたり、手放したり、外に出すのを禁じたりすることも考えづらかった。おやじは覚悟した。そして私たち家族に言った。「キコはマムシが好きや。いつまたくわえて帰ってくるかわからん」私は「キコ」の姿を想像した。マムシをくわえて私の部屋に入ってきたらどうしようかと危惧した。「もし、家の中でマムシを見つけたら」私は息を飲んだ。マムシ撃退の奇策か、緊急事態の際の危険回避の技を教えてもらえるのだと思った。「マムシの頭をつかんで、下駄でつぶせ」そのままではないか。奇策も技もあったものではない。しかし、おやじは極めて真剣に、かつ真顔で言った。「それ以外に方法はないの?」「ない」即答である。「子どものころから悩まされてきたからいろいろ考えたけど、踏みつぶすのが一番確実や」そんな方法を実行できるのは、おやじくらいだろう。我々に進言せずに、自分だけで覚悟してもらいたい。「マムシがいたら、ワシがつぶしたるから、すぐに言え」と。まぁ、おやじ自身、それを家族が実行する期待は余り持っていなかったのだと思う。人に言うことで自分の不安を多少なりとも和らげたかったのだろう。頼りにならない家族を傍らに、猛猫「キコ」の余りにも野生あふれる行動に、おやじの憂鬱は募るのであった。しかしそれは、それまで清貧一家に飼われた哀れな犬や猫たちの復讐ではないかと思えるほどの猛威をもっておやじに襲いかかり、定年を間近に控え、衰えを隠せないおやじを悩ませることになる。「キコ」だけではなく、“大人しくて臆病な”と思われていた「チコ」の所業にも。 南無
2007.05.26
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その20【電気製品に要注意】霊には波長があるとよく言われる。ビデオやCM制作で編集スタジオをよく使うが、不思議な現象が起こった話はあちこちで聞く。「夜中に編集したビデオに、素材テープにはなかったものが写り込んでいた」「編集中には何事もなかったが、再生すると砂嵐になっていた」「変な音が混ざり込んでいた」「システムがダウンした」「システムがクラッシュした」そうした現象は、我が家でも頻繁に起こった。AV器機やPC関連器機はとにかくよく壊れた。DAT、ビデオデッキ、チューナー、CDプレーヤー、アンプ、テレビ、MDプレーヤー、HDD、CDレコーダー、さらに、デジタルクロック(×3)、プリンター……。そして、“何かがおかしい”と感じたときに空気清浄機がフルスロットルになることも関係ないとは思えない。霊は、「臭気に近い波長を発する」と確信している。霊を感じないまでも、“そこにいるといやな空気を感じる“とか、“意味がわからずぞぉっとする”とか、“死んだ人の気配を感じる”というのは、そういうことではないかと思うのだ。テレビを見ているとき、オーディオ器機を使っているときに、おかしな現象に見舞われたり、スピーカーからあり得ない音が聞こえてきたりするのは、目に見えないエネルギーが波長や臭気に似た成分になって何かを訴えかけようとしているのだと思う。先週末、なかなか眠れなかった。言葉も出ないほどしんどい状況だったのに。深夜3時ごろ、同居人が声をかけてきた。「眠れんか?」「うん」「しんどい?」「うん」「……あ、空気清浄機が……」汚染度のレベルセンサーが振り切れて、真っ赤っかになっている。「ごめん、背中をたたいて」私は般若心経を唱えた。同居人は強く背中をたたいてくれた。しばらくして、ゲージは下がった。何が入ってきたのかさえもわからないが、確実に何かが住まいに紛れ込んできたのだと思う。“どういうわけか不幸が続く”とか、“妙に気分がイライラする”とか、“病気やケガが相次いで起こった”という人の中に、「これは霊の仕業?」と思っている人がいたら、電気製品をチェックするといいと思う。電気製品に異常がないなら、単なる思い込みか、それを「逃げ」にしているか、よほどおとなしい霊だと思う。いかなる動きもあろうはずがない早朝、空気清浄機がフルスロットルになった瞬間、私は、「出て行き! あんたらのいる場所やない!」と叫ぶことにしている。しかし、就業中に忍び込んできた霊には一喝することができない。そんな霊は潜行し、長く家に滞在する。そして、厄介な事件をちょこちょこ起こすのだ。気をつけたいものである。……あ、空気清浄機のゲージが……!
2007.05.25
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小学4年のときからの友達のお母さんが亡くなった。昨年末、思いついたように連絡を入れた友達から、「末期ガン」だと知らされた。夜中にそのメールを見た私は、翌日、とにかく病院に出向いた。お母さんに会ったのは30年ぶり。記憶も定かではないくらい子どものときだった。しかし、その表情ははっきり覚えている。ささくれ立った心を前面にたたえた、恐ろしい表情を。それには事情があった。お父さんとお母さんに大きな問題が持ち上がっていて、お母さんの心はズタズタだった。いま思えば、そのときのお母さんはいまの私くらいの年齢だ。あの状況を自分にあてはめてみると、その表情が痛いほど理解できる。しかし、そのときは、ひどいお母さんだと思った。子どもを苦しめ、泣かせる親は(自分の親も含め)一律に親の資格がないと思った。お母さんを見舞った私にとって、幼いころのそんな感情をきれいさっぱり洗い流すくらい、ベッドの上のお母さんはきれいで優しい顔をしていた。その事実が衝撃的過ぎて、どう考えればいいかわからなくなった。子どもに苦痛と不幸を与えたお母さんが、娘の前で、子どものように透き通った顔をしていることが、私にとっては余りにも衝撃的で悲しかった。おかあさんは、私のことも覚えてくれていた。思い出話をして皆で笑い合った。私は、友達のお母さんとそんな時間が過ごせることなど想像もしていなかったし、不可能だと思っていた。友達が中学生のときに家を出て以来、20年以上好き勝手に(ではないと思う。しかし、私はそう思うことで心の均衡を保っていた)暮らしてきたお母さんが、再び友達のお母さんとして私の前にあらわれるとは、想像もしなかった。3年ほど前に、老いたお母さんを心配して引き取って暮らし始めた友達は、しばらくしてノイローゼになりかけた。当たり前である。母子が一緒に過ごしたのはたかが10数年、離れて暮らしたのが30年。簡単に共生できるはずがない。生活リズムや波長が全く合わず、健全な生活を送ることが難しくなったが、妹やお母さんの姉妹の協力を得ながら、何とかお母さんとの生活ができるようになった。ようやく親子が長年解り得ないことを解り合えたとき、友達は医者から、間もなく離れる運命に置かれている事実を知らされた……。私にとっても飲み込めない理不尽さがあった。しかし、それが運命だった。ガン宣告から半年。お母さんは静かに亡くなった。そのことを彼女から直接知らされたとき、私は「よく頑張ったね」としか言えなかった。本当に彼女は頑張った。車椅子でしか移動できないお母さんを旅行に連れていき、すべての食事を持参のミキサーにかけて流動食にして食べさせ、できる限り美しい景色や自然の季節の姿を見せた。お母さんはそのことを温かさをたたえた瞳で私に語った。「できるときにしときや」親に何かをできる時間は短いということを言いたかったのだろう。では、あなたは親として、友達に何をしてあげたというのか……、そう考えてすぐに私は思った。「この親子にとって、お母さんの最期が、親子としての形が完成する瞬間なのだ」と。余りにも悲しくて悲劇的だが、そうすることで、友達は新しい人生を歩み始められるのだろうと思う。お母さんが友達を守護し、彼女にとって本当の幸福を得る機会をつくってくれるに違いない。親に苦しめられ続けた人生と決別する機会を。美しい笑みをたたえた表情を忘れません。お母さん、ご冥福をお祈りします。
2007.05.24
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大阪・南森町にあるカレーの名店「ハチ」がピンチです。ブログや口コミの影響なのか、カレーマニアが急増したのかはたまた長蛇の行列に惹かれて人が並ぶのか、理由は定かではないけれど、とにかく来店者が増えました。よって、行列の時間がどんどん早くなり、従って、早い時間にご飯がなくなり、閉店になる時間もどんどん早くなり、おまけに週に3回限りの営業ですから、いつ行くかの幅が果てしなく狭まってしまいました。通い始めた5年くらい前は、さほど並ばずに食べられた記憶があります。運のいいときは、ママと雑談する余裕すらありました。しかし、いまはダメです。最近、ママは私の顔を見ると「久し振り」と言うほどで、1ヵ月以上行けないときもままあるという状態。以前は週に1回、多いときは2回通っていたのに、今年などは2月に1回、3月2回、4月1回の、まだ4回しか行けていません。きょうも、「行こう!」と決めていたのに、寸前に得意先から連絡が入って早急の作業が必要になり、トップ入店が不可能と決定した時点で萎えました。しかし! 諦めきれずに2時過ぎにテイクアウトしようと出向きました。ママは快く入店させてくれました。「室井さん、来ました?」「きょうは来ませんでした」“室井さん”というのは“室井佑月”さんのことで、毎週水曜日に、関西テレビの番組の出演前に食べにきます。きょうは、来られなかったようで。テイクアウトの容器にママがカレーを注いでいるときに声をかけました。「腰はどうですか?」「痛い」即答でした。ママは、椎間板ヘルニアを患っています。「手術とか、何か手はないんですか?」「先生は、手術のことは言わないわね。…入院したら、何週間か、店を休まなきゃならないし」「でも、やしきたかじんが、朝、入院・手術して、夕方には退院したって言ってましたよ」「そう。そういう手術もあるのかしらね」「手術しないで、治るんですか?」「治らないでしょう」「腰痛ベルトは、動きにくいんですよね」「もうこの季節になっちゃうと、暑いし」状況が好転する方法や方向が見えなくなっていきます。「結局、やめないと、ダメね」驚きました。ママの口から“店をやめる”などという言葉を聞こうとは。「えぇっ! そんなこと、言わないでくださいよ」“生き甲斐”とまでは言わないまでも、必ず週に1度通ってくる常連さんは、ハチがなくなることによって生きる目的を失い、鬱病などの精神障害にかかって、やっかいな事件を起こしかねないと思います。常連さんは、長期休暇が怖くて仕方がないのですから。正月休みの前に、「あるだけちょうだい」とルーのテイクアウトを申し出る客が多数いるほどです。「23人前頼まれたけど、8人前しか残ってなかったの」と、ママが笑いながら言っていたのを覚えています。23人分手に入ると思っていた常連さんは、正月休みの間じゅう強迫観念に苛まれる精神障害に悩まされたのではないかと思います。かく言う私も、“ハチがなくなったらどうするか”と考えて、答えが出ぬまま思考を停止しました。ハチのカレーに代るものがないことはわかっています。ハチのカレーは「カレー」ではなく、「ハチのカレー」なのです。同じ物はほかにありません。ハチに行った後、「もうしばらくいいわ」と思いながら、夕方には「次回はいつ行けるかな」と悩むほど中毒になっています。自制心のある私は、1ヵ月くらいは我慢できますが、そうでない人もいるでしょう。……自制心があるなら、ママの椎間板ヘルニアにこれほど切羽詰まることはありません。ママがダウンする前に、弟子入りしたい!レシピをマスターしたら、ママの代わりに店を切り盛りしたい! ……そう思う(思うだけでしょうけれど)人もかなりいると思います。そんな、波乱含みの展開を裏に抱えながら、相変わらずハチには、ハチキチガイが集まってきます。 臨終
2007.05.23
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この季節(秋もだが)、通勤時間帯に小学生が大勢乗り込んでくる。私は子どもが嫌いだ。自分の子どものころを思うと、子どもが“かわいい”とか、“いたいけな”とは、どうしても思えない。“大人を観察”し、抜かりがあれば“非難”し、“軽蔑”し、“あんな大人にはなりたくない”と侮蔑したものだった。という経験があるので、小学生が乗り込んでくると、できるだけそばに来ないでほしいと思う。が、意に反して子どもが集まってくる。親しい知人や同居人曰く「子どもや動物は、同じ匂いのする生き物に集う」のだそうだ。低学年の子どもは乳臭くて閉口する。何とも言えない子どもの匂いがし、近くに寄られると、放置してはおけなくなる。高学年の子どもには、危うさを感じる。どちらに振れるかわからない、先行きの危うさを全面にたたえている。要は、気になるのだ。子どもであることに義務があるその年頃に、きちんとお勤めをしているかどうかが気になって仕方がない。“子どもらしく”なんていう大人の論理ではない。“生き物らしく”という生命の力強さを身につけるべき時期に、余りにもフワフワとした時間を過ごし過ぎではないかと危惧するのだ。大人が悪いのは明白である。親が、祖父母が、教師が、近所の大人が悪い。バカで、未熟で、能力がなく、生命力も乏しい子どもを野放しにする大人が断然悪い。そして、常識や、基本的な身体能力がなく、病気やケガに見舞われた我が子をすぐに119番に委ねてしまう親のわきまえのなさは、子どもの生命力を醸成する機会を奪ってしまっているのだと理解しないと、近い未来、えらいことになると思う。遠足か社会見学かはよく知らないが、小学生が大勢で電車に乗るのなら、電車の中であった出来事がその子どもたちにとって、社会道徳(公衆マナー)の何たるかを実感でき、習得できる機会であってほしいと思う。もとより、毎日うんざりするような通勤ラッシュの試練をかさ増しするような、子ども独特の臭気と騒音と混雑と高テンションの苦痛を、疲れた大人にもたらすだけのものであってはならないと思う。……大人らしくない意見だろうか。余裕のない大人は、通勤電車の中の子どもの団体を「苦痛」と思わないならば、何だろうか……。大人の許容量を確保することが、まず第一、ということか……。いずれにしても、子どもが世の中に与える影響力はそれ相当なものだと感じる季節である。子どもを通して親や、学校の担任のあり方を見るに至り、“教育の危険性”を感じるのである。私の近くに集まってきてくれる子どもたちは、きっと健全だと思うが……。日常に疲れた私に、小学生をしつける力は残っていない。情けない限りである。 南 無
2007.05.22
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立てこもり犯の逮捕に29時間もかかった。人質が自力で逃げ出してからでさえ、6時間も要した。息子と娘が撃たれ、警察官1人が重傷を負い、一人が死亡した。いつ発砲するか、何発銃弾を持っているか明確にわからない相手ではあるが、29時間は長過ぎる。なぜこんなにも時間がかかったのか。警察の腰が引けたことが大きな原因だろう。突入時にけが人や死者を出すことを恐れたことと、特殊班が犯人を撃ち殺さざるを得ない状況になったとき、警察及び警察官が「殺人罪」で訴えられることを嫌ったのだろう。事実、1970年に起きた「瀬戸内シージャック事件」で犯人を狙撃した狙撃手(警察官)と、狙撃命令を出した県警本部長が弁護士に告発されている。アメリカのように、立てこもったり、拳銃を持って他人を攻撃している人間は、即撃ち殺していい、というのがいいとは思わないが、さらに罪を重ね、被害を拡大させる可能性のある人物を29時間も野放しにせざるを得ないというのは、どう考えてもおかしい。皆が責任を取るのがいやなのだ。県警本部長は「自分がいる間は、騒動は回避したい」と思っているだろうし、国民は「こんなときのために警察があるのだから、早く何とかしろ」と思う。マスコミは、すべて結果論で論じる。しかも、“有識者”の意見や街頭インタビューの無責任な国民の意見をダラダラと流すだけで、局として、マスコミとしての意見や姿勢を明確に言うということはしない。殉職した警察官の通夜や葬儀に大挙して押し掛け、悲しみに暮れる関係者へのインタビュ-を各局、各番組それぞれが無神経に繰り返す。もし、犯人が狙撃され、死んでしまったら、「警察の判断は間違っていなかたのか」「狙撃しか方法はなかったのか」「命が軽視されたのではないか」などと批判するのだろう。変な人権派の弁護士に警察が訴えられるかもしれない。「警察の責任を問う!」と。だから、責任を取ろうとする人間がいなくなったのだ。特に役人に。「公僕」などという考え方はさらさらない。「自分だけが責任を取るなんてバカバカしい」と思っても、無責任な国民はそれを責められない。いま、大流行している「はしか」のように、今後、行政や役所の無責任体質が生む悪弊がどんどん発露するだろう。「薬害エイズ」「C型肝炎」「中皮腫」……、いまでさえ被害者から国が訴えられ、次々に敗訴し、高額な賠償金が支払われている。今後のことを考えるとゾッとする。しかし、「リセット」することはできない。いまから改めたところで、今後しばらくはこの状態が続くだろう。昨日書いた教育問題がすべての出発点だと思えるが、先行きの暗さに、絶望的な気持ちになるのは私だけだろうか。
2007.05.21
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最近、でもない。金属バット殺人事件が起きたのが27年前だから、そのあたりから日本の「家族」という単位のあり方が変わってしまったのだと思う。自分の娘や息子を拳銃で打ち、元妻を人質に立てこもるというあり得ないような事件を起こす50歳の男もいれば、「殺すのはだれでもよかった」と言い、母親の手を白く染めて植木鉢に差し込む17歳もいる。スクーターのメット入れにいたいけな子どもを押し込めて死なせ、山中に遺体を遺棄するバカ両親もいれば、自分の子を身ごもっている元嫁を殺して海に投棄する男もいる。どうしてこうなったのか。しかも、今後さらに悲惨なことになると、確信に満ちた気持ちを抱くのはなぜなのか。答えはすぐに出る。間もなく親になる年齢の若者に全く期待が持てないからだ。教育が悪過ぎる。大人の「はしか」が大流行しているそうだ。我々が子どもだったときは、皆が感染した病気だった。以後、ワクチン接種が普及し、子どもがはしかに苦しむことがなくなった。と、思った途端、副作用が問題になり、予防接種が「任意」になった。その世代がいまになって感染しているのだ。大人になってかかると、極めて危険な病気である。今年の大流行以前にも、年間20~30人は死者が出ていた。今年は大きく上回るかもしれない。副作用が発現する確率と、大人になって罹患し、死者が出る確率は同じかそれ以上なのだろうか。よしんば、副作用が出る確率の方が低いなら、副作用を恐れて予防接種を受けさせなかった親は、大人になってはしかで死んだ我が子にどう詫びるのだろう。人の生死にかかわることを、「任意」という役所の責任逃れのやり方に従ってしまった親もまた、間違った戦後教育の産物である。個人の権利ばかりを主張し、利己主義に抵抗を感じず、義務を果たさなくてもいいと教えてきた教育の悪しき産物であり、信念や威厳をなくした親がつくり上げた自分自身のコピー人間だ。日本がこんなことになった原因は、“平和ボケ”そのものだが、根本は、“食うに困らない”という状況だ。食べることに困り、命の危険を感じ、親や周囲の大人が自分を生かしてくれているということを子どものときに実感していれば、家族はいつまでも家族でいられるし、自分もまた、自分の子どもにそれを教えることができる。生きることの難しさ、生きられることのありがたさ、生きる意味、生まれてきたときから背負っている義務、家族のあり方、家族としての生き方、そうしたものをきちんと見詰められる教育をしてもらいたい。今後60年、日本は荒れ狂うだろう。60年かけて人間をダメにしてしまったのだ。浄化するまでに60年はかかるだろう。前頭前野の形成が終わっていない、12歳以下の子どもには早急に正しい教育を施さなければならない。……しかし、正しい教育ができる人材がいない……。絶望的である。
2007.05.20
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その19【高速道路の大事故の謎】10年ほど前はよくゴルフをした。“接待”が多かったが、嫌いではなかったので、仕事をやりくりしてよく出掛けた。月1回のペースくらいだっただろうか。その日もいつものように用意をし、得意先が迎えに来てくれるのを待っていた。準備万端で、仕事の資料に目を通したりしていたが、「早く来てくれないかな」と思うほど余裕があった。『ピンポ~ン』「来た」満を持した感に包まれながら荷物を持ち、部屋を出た。マンションの玄関前に車をとめ、トランクを開けて得意先が待ち構えていた。トランクに荷物を入れながらふと、あることに気づいた。「あ、ゴム……」当時、髪が長かったので、ゴルフのときには髪を縛るゴムが必要だったのだが、忘れていることに気づいた。「済みません、ちょっと忘れ物をしたので、取ってきます」そう言って、私は部屋に戻った。普通なら気にしない。それまでもそんなことがあったが、ハンカチで髪を縛ったり、ゴルフ場が用意しているものを使ったりしていたのだ。しかし、その日はなぜか取りに戻った。「お待たせしました」そう言うまで、30秒から1分かかっただろうか。得意先が車を出した。阪神高速から中国自動車道に乗り継ぎ、軽快に走っていた。が、名塩のSAの手前で突然の渋滞に見舞われた。3車線すべてが詰まってしまった。「何でしょうか」「事故かな」私が乗った車は最も右の車線を走っていた。出口や入り口があって車が動く左に移動した方がいいのではないかと思った。「この車線でいいんですか?」「事故なら、左に車を移動するから、左に車線規制がかかる。こっちでいいと思うよ」車は、そのままの車線でにじるように進んでいった。ちょうど1km進んだところで、前の車が左に移動しているのが見えた。「開いているのは左みたいですね」「そうやね。どうなってるのかなぁ」ほどなくして事故現場が見えた。トラックが横転し、積み荷の白菜が路上に散乱していた。中央分離帯の近くに1台の乗用車がとまっていて、助手席の人は窓から腕を出してぐったりしていた。後部座席にも人影が見えた。高速道路で窓を開けるというのはナンセンスなので、きっと衝突のときにガラスが割れたのだろうと思う。少し離れたところに救急車が1台とまっていた。パトカーの姿はなかった。我々は、前の車に従って、白菜を避けて路肩を通過した。予定より、30分以上遅れてゴルフ場に着いた我々は、フロントでスタートを遅らせてもらうよう頼んだ。神戸方面からやってきた得意先は事故の影響なく到着していたのだが、我々と同じルートでやってくる予定の人物が到着していなかったのだ。「ええ、結構ですよ。きょうは、ほとんどのお客様が遅れていらっしゃいますから」ようやく到着した我々のメンバーは、我々より少し後ろを走っていたようだった。距離にして1km、時間にして1分も違わなかったのではないかと思う。我々の車が何とか現場をクリアした直後、パトカーが到着して通行止めになってしまったそうだ。どうりでお客さんが来られなかったわけだ。ハーフを回り、食事をした後テレビのニュースを見て、事故の詳細がわかった。広島から大阪方面へと走っていたトラックが長く続く緩やかな「魔のカーブ」で惰性がつき、中央分離帯を突っ切って反対車線に飛び出してしまい、最も右の車線を走っていた乗用車に激突、横転したという悲惨な事故だった。乗用車もゴロンと1回転したのかもしれない。あるいは、水平にクルクル回りながらあちこちにぶつかったのかもしれない。窓が割れていた理由になる。助手席には運転者のお父さんが、後部座席にはおじさんが乗車していたが、二人とも亡くなり、運転者は重傷を負って病院に運ばれたということだった。目撃した救急車には、既にストレッチャーに乗せられた運転者が収容されていたのだろう。お父さんとおじさんは即死だったようだ。はっとした。もし私が、髪どめのゴムを取りに部屋に戻らなかったら……。我々も最も右側の車線を走っていた。あのまま何事もなく車を出していたら、ちょうど1分、1km程度前を走っていたはずである。ぞっとした。助手席のお父さんは亡くなった。それが私だったかも……。霊感があるわけではないが、命拾いをしたのには、何かの力が働いているように思えて仕方がない。 南無
2007.05.19
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【嫉妬の嵐吹き荒れる】最近、常連さんその1と仲良しになった。ゴルフはシングルさんで、おじいさんの時代から我が事務所近辺の土地の大地主で、ぼんぼんだが偉そうにすることなく、いつも他愛ない話をしては、ビールや熱燗をおごってくれる。「T」の牢名主のように偉そうに振る舞う常連さんその3のグループは、常連さんその1と違う一派で、やかましいし、ケチ臭いし、何より、前回登場した常連さんその5がいるので、顔を合わせるのがいやで、常連さんその3のグループがやってくる月水金を避け、火曜か木曜に出向くようにしていた。常連さんその1はそれを知って、火曜と木曜に来てくれるようになった。ほかの曜日にも足を運んでいるようだが、火曜と木曜は、私と話すためにやってきてくれているのではないかと思う。カウンターで隣合わせに座り、コップやお猪口を手に、ゴルフの話や、政治や、野球や、事件やと害のない話題を口にしながら、2時間ほどを過ごすと、決まって奥さんから電話がある。店の外に出て通話した後、「犬の散歩があるので」とそそくさと帰る。この間合いが絶妙なのだ。しゃべり疲れたり、神経を使い過ぎたりすることなく、楽しいままその日は別れ、また次に会ったときは新鮮な雰囲気で話が始まる。私にとって、こういう距離感が気持ちいいのだが、最近、不穏な動きが見られるようになってきた。常連さんその3が邪魔をするのだ。常連さんその1と私が話していると、すかさずその3がその1に声をかけ、その1がこちらを向けないほど矢継ぎ早に質問をする。それはいい。無理矢理話そうと思うほどその1とも親しくないし、執着もない。常連さんその3に恐怖を感じるのは、グループで別の店に行くことが決まっている火曜日、別の店に行った後にやってくることだ。瓶ビールを1本飲んで帰るのだが、私がいるかどうかを確認するために来ているように思う。先日などは、常連さんその5を連れてやってきた。私より先に帰った常連さんその1と、その3が店の近くの信号で会った後だ。常連さんその1がそのことを電話で教えてくれた直後だった。その1の話では、グループの4人でカラオケに行くと言っていたそうだ。私も家に帰ろうとしていたときに、二人で入ってきた。生ビールを1杯飲み、あてを1品食べただけで店を出ていったが、「◯◯(常連さんその1)がこの時間にここを歩いているということは、「T」に必ず◯◯(私)がいる」と常連さんその3がその5に言ったのだと思う。(不本意だが、常連さんその5はどうも私を気に入っているようだ。“初恋の人に似ている”とありもしないことを店のママに言っていたそうで)二人とも、常連さんその1と私が仲良くするのが気に食わないのだ。自分たちの存在を主張してくる。ま、いい。酒のおごり合戦になったり、ゴルフの誘い合いになったりと、ややこしいことはあるが、所詮いい年のおじいちゃんである。そのうちに現場から退くだろう。これらとは比べ物にならないくらい厄介なのがいる。サイババである。ナルシー、強引、勘違い……始末に負えない状況に陥ることがままあるのだ……。 撃沈
2007.05.18
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(9)哀しき次女の幼少時代 その3命の危険を感じ、ハイハイもおすわりもすっ飛ばして立ち上がった私は、以後の人生において何度も命の危機を味わった。一つはネズミの攻撃だった。そのころの家に、ネズミが出没するのはごく当たり前のことだった。ゆえに、近所ではよく猫を飼っていた。いまの猫はネズミなど見て見ぬふりをするが、昔の猫はネズミと見ると、俄然闘志を燃やしたものだ。さすがに“食べる”ということは、少なかったが、絶命するまでいたぶった。長屋ゆえ、ネズミが各家庭を行き来していたようだ。ネズミが原因だと断言はできないが、そうではないかと考えられる出来事が起きた。「腎炎」である。隣家の主人、長女、うちの姉、隣の四女、私の順で腎炎になった。何らかの細菌が体内に入ったことは明らかだった。しかも、世帯が違うのに、連続して同じ病気にかかったということは、ネズミが原因としか考えられなかった。眠っている間にネズミが唇を噛むのだろう。おぞましいことだが、それが戦後十数年の日本の当たり前の姿だった。高熱と全身の発疹に襲われた私(当時7歳)は、「お前はこっちに来るな」というおやじの言葉に従って、皆が食事する姿を離れて眺めていた。おなかがすいているのに、食べ物を口にすることができない。切なかった。その年齢だと、はしかやおたふく風邪などの感染症にかかるので、親は放っておいてもいつかよくなると思っていたのかもしれない。しかし、そういった感染症とは明らかに違う症状だったはずである。おかゆなどをつくってくれることもなく、皆の食事が済んだ後、果物だけの夕食を済ませた。数日後、偶然祖母が訪ねてきた。私を見て驚いた。「病院に行ったの?」母に聞いた。「そのうち治るやろ。子どもの病気や」「違うよ、これは。明日、病院に連れて行きなさい」「そう?」「とにかく連れていきなさい」祖母が母をたしなめてくれた。夕食のとき、祖母は自分の箸で私に食事を食べさせてくれた。そんな祖母におやじが言った。「そんなことしたら、うつるで」「かめへん。子どもが病気のときに、そんなこと気にして食べさせへん親があるかいな!」祖母はおやじを一喝してくれた。命拾いをした。満足に食事をしない日が何日も続いていたのだ。翌日、病院に連れて行かれた。腎炎だった。姉は入院したが(入院費は兄と私のお年玉等々の貯金から支払われた)、私は経済的な理由から、自宅療養となった。1ヵ月間学校を休み、家でひたすらゴロゴロしていた。そのことが、後に学力面で私に負担を強いることになるのだが、元来、怠け者の私にとってはうれしい限りであった。それにしても、祖母がいなかったら、私はいないと思う。出生にまつわる出来事がすべてではあるが、事あるごとにあらわれて私を救ってくれた。親より大きな愛情を注いでくれたと思う。残念ながら、恩返しをすることもできぬままに天国へと見送ったが、いつかまた会えると思っている。来生でも、きっと私をすくってくれるだろう。しかし願わくは、私も少しくらい、生まれ変わった祖母に尽くしたい。心配せずとも、それができるような気がする。輪廻転生である。 合掌
2007.05.17
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【独身おやじの悪あがき】サイババと同様、極めて個性的でご迷惑な常連さんがいる。常連さんその5である。身長はせいぜい175cmくらいだと思うが、異様にでかく感じる。その原因は、顔のでかさだ。遠近感を失うほどでかい。正面を向いてしゃべりかけられると、その圧迫感に息がつまる。のりがはりついたようなベタベタの髪や、ふけのたまった肩や、型の崩れた背広や、足が太短いくせにくるぶし上にとどまっている無様なズボンや……、そんな、物理的な状況もいやなのだが、バカボンのパパか、共産党の志位委員長か、というほど間の抜けた顔もいやなのだが、変に早口で、人を小馬鹿にしたようなしゃべり方や、全く笑えないギャグもいやなのだが、いつも同じ席に陣取り、常連然としていながら、オーダーするものはショボく、飲み方もショボく、支払いもショボいのもいやなのだが、女性客がいると、だれかれ構わず話しかけ、ビールやお酒をふるまい、しつこくつきまとうストーカー体質なのもいやなのだが、私の顔をチロチロ見て、「エェワァ、エェワァ」と気持ち悪い独り言を言うのもいやなのだが、生涯独身で、唯一、25歳のときの恋愛経験をいつまでも武勇伝のように言うのもいやなのだが……、ま、早い話、すべてがいやなのだが、昨日、最もいやな状況を目の当たりにした。小料理屋「T」のお嬢さんが何を思ったか、以前から撮りだめしていた写真を店の壁にべたべた貼っている。「肖像権の侵害や! やめて」と言っても、へらへらと笑って取り合ってくれない。ややこしいことになったらどうするのかと思いつつ、そのときは、痛い目に遭わせてやろうと決意した(見ておれ!)。常連さんその5は、来店するなり壁の写真に注目した。老眼鏡を上げて、一心不乱に見ている。「ビリッ」その音に驚いて振り向くと、常連さんその5は次々と写真をはがしている。“何のつもり?”と心の中で叫びながら見ていると、店のママの妹(いとしのエリィ・三女)が、何かを言っている。常連さんその5は写真を壁に戻している。が! 1枚だけ懐に入れた!開店時には手伝っていたが、いまでは自宅に戻っているママの妹(次女)と、自分が写っている写真だ。オーダーされた料理を運んだママが常連さんその5に聞かれている。「番号書いてないやん」「え? 番号?」「焼き増し頼みたいねんけど。番号なかったら、頼まれへんやん」「あ、欲しいのがあったら言ってください。Jちゃん(ママのお嬢様)に言って、プリントしてもらいますから」「ほんなら、これして」常連さんその5が指差したのは、ママと妹二人、お嬢さんの4ショットだった。そんな写真を手に入れて、どうするというのだ! しかも、懐に入れた写真には触れていない。生涯独身(享年62/否、まだ亡くなってはいない)の彼が2枚の写真をどう使うのかは想像し難いが、ろくな使われ方はしないだろう。……毎夜、枕の下に敷かれたり、スキャナーでパソコンに取り込み、首下のすげ替え(ヌードとか、動物とか)画像をつくって楽しんだり、いつも持ち歩いて「俺の女」と披露されたり……。いずれにしても、気持ち悪い。なぜに写真を貼り出したりしたのだ、お嬢さん!厄介なおやじがいるのだ、世の中には。オーダーがあっても、決して私の写真は提供しないでもらいたい!!!! 昇天
2007.05.15
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(9)次女の哀しき幼少時代 その2年子の食欲旺盛な兄がいたせいで、私はミルクもろくに割り当てられず、お茶を飲んで空腹を紛らしていたと姉に教えられ、わずかにショックを覚えた。それよりもショックなことが姉の口から明かされた。「あんた、突然立ったんやで」「え、どういうこと?」「生まれて7、8ヵ月くらいのときかな。おかあちゃんは○(兄の名)ばっかり世話してるし、あんたも泣かへんから、ほったらかしにされてたんや。いつも黙って畳のベッドの上で寝とったわ。ある日、ふとあんたの方を見ると、立ってるからびっくりしたわ」「ハイハイも、おすわりもなしに?」にわかには信じ難かった。「そう。畳の端につかまって、立ってたんや」「……」「毎日、お茶ばっかり飲まされてたから、命の危険を感じたんと違うか? “こんなことしてたら、殺される。自分で食べ物を手に入れなあかん”って」そんなことがあるものか、と幾ら想像しようとしても、わが事ながら想像ができない。母に聞いてみた。「私って、突然立ったん?」「えぇ? 覚えてないわ……」しばらく母は考えているようだった。「さぁけど、おすわりやハイハイをさせた記憶がないなぁ。もしかしたら、そうやったかもしれん」「そんなこと、あるの?」「普通はないわ。お兄ちゃんなんか、2年間寝たきりやったんやから」「ひょっとして、私の方が早く立ったの?」「そんな気もするなぁ。あんたは何でも早かったから。ちゃんとは覚えてへんで、それどころやなかったから」“それどころ”というひどい扱いを受けていたのだ。兄の方が大切だったというわけだ。夜泣きをすることなくいつも静かに寝ていて、ごはんというと決まってお茶で、ある日、命の危険を感じて突然立ち上がった赤ん坊……。涙なくしては語れない。ことほどさように、私の人生はこんなことの繰り返しだったように思う。次女の幼き時代の物語、まだまだ続く。 合掌
2007.05.14
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【勘違い王サイババ】よく行く小料理屋「T」には、個性的な客が集まる。『サイババ』もその一人だ。医薬関係の会社を営んでいる社長であることと、夙川に自宅があるのだが、ゴルフ練習場でレッスンをした後、シャワーを浴びたいという理由で(端から聞くと不条理な理由だが、サイババはそれを自分を格好よく見せる情報として周囲に流している。サイババが出没する別の食事処でも話しているのを知っている)「T」の近くにマンションを借りていることくらいしか明かさない。サイババと見まごうような髪型、一般人の1.8倍(面積ベース。体積ベースなら、2.5~4倍と推測)もあろうかという大きな顔、威圧感のあるでかい体、ルイヴィトンのバッグ、外国製の布地で仕立てた高そうなスーツ、テカテカ光るエナメルの靴、ダイヤモンドがちりばめられたロレックスの時計、趣味が悪い(が高い)ネクタイ、高級ブランドのタイピンとカフスピン、そして何より、ものすごく強い香水(オードトワレかもしれないが)の匂い(「T」の店内はもちろん、サイババが歩いたあと100mは残り香がするいうほど)と、その存在をこれでもか、と主張するサイババは、他の客とは一言もしゃべらないが、私とは話したがった。その日、私の隣には常連さんその1が座って、楽し気に話していた。サイババは、常連さんその1の向こう側に座り、こちらを向いた姿勢で食事をとり始めた。ちらちらとこちらをうかがっていることに気づいていたが、極力目を合わさないようにしつつ、常連さんその1と話を続けた。常連さんその1は愛妻家で恐妻家なので、通常なら21時ころには「遅くなると奥さんに怒られる」とそそくさと帰ってしまうのだが、その日は22時まで長居した。サイババは早食いであるにもかかわらず、間をもたせるため、次から次へと料理を注文し、胃袋におさめていった。常連さんその1が帰ったときには、「しんど」と漏らしたほど、食べたようだった。サイババは自慢話が大好きである。いつものスーツ姿とは違い、ポロシャツに変なパンツ、靴下に雪駄、というおかしな格好のサイババだったが、何かを褒めないといけないと思い、私は雪駄に注目した。ヴィトンの雪駄だった。「ヴィトンですか!」「ブランドを気にしたわけやないんやけど、面白いな思うてね」サイババの自尊心には効果的に作用したようだった。「楽しそうにしゃべってたね」「そうですか? 常連さんです」「どっかの社長さん?」社長である自分を優位に置きたいから出た言葉だろう。常連さんその1は、“社長”といった風貌ではない。ゴルフのレッスンプロ的なラフで遊び人的な雰囲気を持っていた。「いえ、会社では専務さんです」サイババはニヤリと笑った。私はすかさず言った。「跡継ぎですから、次期社長ですけど。おじいさんの代からこのあたりの大地主で、幾つもビルを所有していらっしゃいます」サイババの顔が曇った。話を変えた。「わし、歩いとったら女性によく振り返られるんやけど何でやろうって不思議やねん」とうれしそうな顔で言う。“ハンサムだから”とか“素敵だから”といった言葉が私の口から飛び出すと思っていたようだ。しかし、それは無理だ。私には嘘はつけない。女性たちが振り返る理由、それは“火を見るより明らか”だ。サイババと見間違うのだ。私は本物のサイババがするヴィブーティー(聖灰)や指輪のような小さな物を出現させる「奇跡」の物真似を右手でした。サイババは気づかなかった。「T」のママの顔を見た。ママは私の右手に注目していた。目が合った。その途端、“満面の笑み”ではなく、“苦痛を伴った笑み”を浮かべ、喉元にこみ上げてきた笑いを抑えるのに必死という状況に陥った。次の瞬間、ママはたまらず立ち上がり、トイレに駆け込んだ。思う存分笑って、涙を流していることだろう。私は続けられるサイババの自慢話に相づちを打ちながら、「個性的な」とか「目立つ」とか「品のいい持ち物」といった、曖昧な言葉を使って褒めそやした。サイババは満足して帰っていった。残ったママと私は涙を流して笑った。腹筋を使ったおかげで、いい運動になった。明日も懲りない常連たちが、ガンクビを揃えるのだろう。小料理屋「T」の夜は、毎夜、そうして更けていくのである。 南無
2007.05.13
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昨夜遅く、新しいシリーズを書いていました。【小料理屋「T」のお気楽爆酔日記】というタイトルで、よく行く小料理屋で目撃、あるいは経験したノンフィクションを書こうと思っていました。くだんの小料理屋のお嬢さんと約束していたし、常連さんその8のタチバナ君にも予告したので、眠い目をこすりながらせっせと書いていました。不覚にも、ラストを残して眠ってしまいました。ベッドの上に置いたパソコンの前に座ったまま、突っ伏して眠っていたので、その不自然な体勢がしんどくなり、深夜3時半ごろ目が覚めました。「眠ってしまってた。いけない、書き上げないと……」茫然とした頭で執筆を再開したので、思いのほか時間がかかり、5時ごろになってようやく書き上げました。約束が守れたことにほっとしながら、「送信」ボタンをクリックしたら……、恐怖のメンテナンス画面があらわれ、ブログは一文字残らず消え去り、「戻る」ボタンも「進む」ボタンも機能せず……。というわけで、「サイババ」の爆笑ネタは本日、もう一度書くことにします。皆様、お許しください。これで3回目です。いい加減学習しないといけませんね。 合掌
2007.05.12
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(9)次女の哀しき幼少時代 その1私は清貧一家の次女、末っ子としてこの世に生を受けた。“生を受けた”といっても、家族や世の中に望まれた誕生ではなかった。仕込まれたのは、兄が誕生したばかりというときだった。長女の出生から6年を経て、ようやく誕生した待望の男の子に、子ども嫌いのおやじも喜んだそうだ。ある日、子育てに追われる母に、近所の仲良しのおばさんが言った。「あんた、子ども、できたんと違う?」「え? そんなわけないよ」「病院行こ。私、ついて行くから」かたくなに“妊娠していない”という母をおばさんが無理矢理病院に連れていった。「6ヵ月を越えていますね」母は呆然としたらいし。「基本的には人工中絶できないのですが、母体に危険が伴うと予想できる場合は、私の判断で中絶できます。どうしますか?」母は27歳のときに大病を患い、手術に起因した後遺症が残っているし、大病のせいで虚弱体質になっていた。大病から3年しかたっていないし、折しも兄を生んだ直後である。もちろん、貧困が何より大きな理由であったことは、言うまでもない。「堕ろせるんなら……」さすがに母は、生む自信がなかったようだ。近所のおばちゃんと相談し、中絶すると決めた。手術日を予約し、母は帰宅した。すべてをおやじに話したら、「そうか」と言っただけだったそうだ。果たして手術日の当日、荷物をまとめて家を出ようとしたとき、突然訪ねてきた母方の祖母に母は玄関で出くわした。「どこに行くの?」「病院」「何かあったんか?」「子どもできてん。堕ろしに行くねん」そう話す母に向かって、祖母は「あかん! そんなことしたらあかん」と強く言った。「生むのは危険やって、お医者さんが言いはった」「あんたが死んだら、私が子どもを育てたる。子どもを堕ろすなんて、絶対したらあかん」かくして私は命拾いをした。陣痛もほとんどなく、スルスルと生まれたそうだ。「お兄ちゃんのときは、あんまり頭が大きくて、全然出てけぇへんから、殺せー! って叫んだんやで。あんたはほんま楽やったわ」母には感謝された。生まれはしたが、扱いはひどかった。ベビーベッドは兄に占領されていたので、私は、近所の人からもらったものの、サイズが合わずに積んであった畳の上に寝かされていた。私は本当に泣かなかったそうだ。必要以上に泣く兄とは対照的だった。多分、本能的に“泣いたら殺される”と感じていたのかもしれない。とにかく大人しい赤ん坊だったようだ。大人になって、「赤ん坊のときにミルクで育った人は太りやすい」という事実を知った。私は驚愕した。「あんたは1滴も母乳を飲んでないんや。お兄ちゃんに吸い取られて、あんたが生まれたときは、出ぇへんようになってたんや」どうやら、兄は食欲旺盛な赤ん坊だったらしく、母乳では足らずにミルクも飲んでいたそうだ。しばらく私は悩んだ。“太る体質”という言葉が脳裏から離れなかった。姉に会ったときに聞いた。「ねえちゃん、ミルクで育った赤ん坊は太りやすいねんて。いややわ。いままで太ったことないけど、これから太るねんやろか」「え、ミルク? あんた、ミルクなんか飲んでないで」「でも、おかあちゃんの母乳、出ぇへんようになってたやろ」「ミルクは○(兄の名)が飲んでたわ。あんたはいつもお茶飲んでたなぁ」「お茶?」「うん。好きやったんと違う? いつもお茶やったで」何ということだ。お茶で育った赤ん坊……。あんまりというべきだろう。しかし、おかげで“太る体質”の恐怖は回避できたということになる。いいのか、悪いのか……。
2007.05.11
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その18【老舗旅館の恐怖】小学4年生のときからの友達がいる。「心霊現象な日々 6」に登場した怖がりの看護婦さんである。3年ほど前、彼女と旅行した。旅行といっても、彼女が勤めている病院や家から車で10分ほどの老舗旅館に温泉につかりに行っただけだった。対向の車がやってきたら、延々とバックせねばならない細い道を走りきり、到着した旅館はいかにも「(安物の)老舗」といった雰囲気だった。玄関を入ったら、いわゆる「絨毯」が敷き詰められたロビーがあり、古びた応接セットが置かれてある。大きなイノシシのはく製が置いてあるのには少々引いたが。部屋に通された。気分が悪かった。部屋は決してきれいとはいえず、掃除や手入れはいい加減な雰囲気がした。しかし、そのことが私の気分を曇らせているとは思えなかった。気にしないことにして、露天風呂に入ることにした。脱衣所は極めて汚かった。渓谷の中腹に位置する露天風呂から下を見ると、川が勢いよく流れている。ある意味絶景なのだろうが、私には湯の表面に浮かんでいる、あるいは沈んで底に堆積している葉っぱや枝などが気になって、湯を楽しんでいる場合ではなかった。早々に湯から上がり、廊下に設置されている自動販売機で缶ビールを買って部屋で飲むことにした。やはり気分が悪い。不透明なガラス越しに見えているのは多分山肌だと思う。開けてみた。やはりそうだった。正面はほとんど視界がなく、わずかに開けている左手を見ると、赤い鳥居があり、その先に玄関の横顔が見えた。「気持ち悪い部屋やなぁ。下に鳥居があるよ」「えっ、ほんまにぃ?」友達の顔が曇った。「もう閉めて!!」怖がり炸裂の瞬間である。私は窓を閉め、再び酒宴を再開した。食事が終わって一服していたとき、「写真撮ろか」私が提案した。先に友達を撮った。床の間を背景にほほ笑む友達をおさめた後、友達を怖がらそうと、くだんの窓の桟に座った。「そんなとこで撮るの?」「きっとこの辺に何か写るわ」私は自分の右肩の上あたりを指し示した。「やめてよ! 気持ち悪い!!」そう言いながら彼女はシャッターを切った。フラッシュが光った。私は窓を開けて窓の外に迫る山肌を撮った。「鳥居、写したろ」と、カメラのレンズを下に向けた。「やめときって! そんなん写したらあかんねんで」彼女のその言葉に根拠があるかどうかわからなかったが、妙な説得力があった。しかし、時既に遅し、である。シャッターを切った後だった。フラッシュがたかれ、あたりが明るく光った。玄関の横顔も撮った。何をどうする、ということのない旅行だったが、それはそれで思い出になった。フィルムは、我が社が常々使っているプロラボに現像だけ依頼した。朝出すと、夕方には上げて持ってきてくれた。仕事の画像もあったので、早速スキャナーにかけて反転して見てみることにした。「えっ……」背筋が凍った。友達が撮ってくれた私の写真には、私が冗談で指し示したまさにその位置に、おかしなものが写っている。オレンジ色と黒色が入り交じったような変な色の発光体だった。おまけに、周囲がとても暗い。友達の写真はごく普通の明るさで撮れているのに。同じ部屋でこうも明るさに差があることが理解不能だった。「あれっ……」鳥居の写真がない。確かにフラッシュが光った。シャッターが切れた証拠だ。山肌と、玄関の横顔の写真はちゃんとあるのに……。『そんなん写したらあかんねんで』彼女の言葉が耳の奥で響いた。彼女に見せたらさぞや驚くだろうと、事務所にしばらくネガを置いていたのだが、現像して以来、よくないことが立て続けに起こったので、さしもの私も怖くなり、近くの神社に奉納することにした。いたずら心で、鳥居や祠の類いを写そうなどと思ったときは、『そんなん写したらあかんねんで』この言葉を思い出してほしい。 合掌
2007.05.10
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(8)置き去りにされた幼子たち 4久々に私の目の前に姿をあらわした母は、私の顔を見るなり床に突っ伏した。むせぶような嗚咽が聞こえる。人生初の衝撃的なガムを噛んでいた私は、そのおかげか冷静にその状況を眺めていた。「おかあちゃん、帰ろ」私は言った。親切で色白の、美人のおねえさんが私の様子を見て言った。「◯◯さん(母の名前)、きょうは一緒に帰ってあげ。あとは私らで何とかなるから、今後のことは、後で考えよ」母は少し顔を上げ、おねえさんの顔を見て、姿勢を正した。「うん。ありがとう」後ろめたそうな表情をしながら、母は再び奥に消えた。次に母が姿をあらわしたときは、見慣れた洋服(とはいえ、いわゆる“よそいき”というカテゴリーで大切に保管されていた、少し高級な服。家出するときに着て出た服装なのだろう)を来た母があらわれた。私としては、紫の制服の着物の方がよかったのだが。〈桃の木〉から駅までは1km以上あった。母と私は終始無言で歩いた。意味があったわけではない。意味がないから話さなかったまでだ。電車に乗るときも、乗ってからも、電車を降りてからも、母の口から言葉が出ることはなかった。私としても、学校のことを聞かれたり、おやじや兄のことを非難されたり、家出していた間の母の生活のことを聞かされたりしたら、どんな反応をしていたか知れない。しかし、母は黙っていた。それゆえ助かった。家に着いた。家には珍しくおやじがいた。母の霊感がおやじを呼び寄せたのかもしれない。おやじは兄とテレビを見ていた。私は玄関に入っておやじの存在を確認し、玄関の外にいる母に言った。「ここで待ってて」私は靴を脱ぎ、玄関のたたきに正座して、奥の部屋でテレビを見ているおやじに向かって大声で言った。「おとうちゃん、おかあちゃんを連れて帰ってきました。上がります」どんな言葉が返ってくるか、戦々恐々としていた。すると「おう」おやじはそう言っただけでテレビの画面を見ている。「おかあちゃん」振り向いて言うと、「ありがとう」母はそう言うとすっと家に入り、荷物を置いて台所へ。男ども二人が汚した食器を洗う音をさせながら、自分の存在を肯定していた。どうしても気になったので、後日母に聞いた。「〈桃の木〉はおばあちゃんの紹介?」「ちがうよ、求人のチラシを見て、おかあちゃんが勝手に面接に言った。おばあちゃんはやめとき、って言うたけど、やけくそやったから何でもよかったんや」と言った。祖母は、母が働くということにこの上ない心配をしていたようで、母が家出をして“働きたい”というたびに、家に戻るようにと強く説得してくれていたそうだ。いずれ倒れるか、母自身がいやになるか、雇用主がいやになるか、他の従業員と不和を起こすか……。いずれにしても祖母は、母が働くということに関してはかなり厳しい考え方を持っていたようだった。ゆえに、祖母が〈桃の木〉を紹介することはなかっただろう。としたら、なぜ母は、こんな職場を選んだのだろう。理論的には、「母(祖母)の家に近いから」というのがベースで、「時給がいいから」「食事にありつけるから」というのが必要条件だったのだろう。もう一つ、あの、ソーダガムをくれた優しいおねえさんがいたから、と言ってもらいたい。私にとって、母より頼りになり、初体験のガムをもらってうれしくなり、ありがたいと思った経験は、そのころにはなかったことで、親以上に大きな存在になったおねえさんは、以後、私の心を和ませてくれる存在になった。紫の着物、朱色の帯、純白の襦袢……。それらの整合性は取れないと思うのだが、男女の仲もまた整合性が取れないものが多い。それを旅館勤めの間に母が知り、彼女なりに直感的結論を見つけたのかもしれない。家出から戻った母から、〈男と女は不毛〉ということを見せつけられたような気持ちになった。「不毛」は男女にとっていい状態だと思っている。早計な結論を回避し、諦めの境地を誘い、人生の不条理を肯定して受け入れる姿勢を生む。少なくとも我が家の両親にとっては。金婚式を迎えたいまでさえ、不毛な議論を日夜続けている哀しき清貧一家の両親である。
2007.05.09
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★ここのところ連載している「哀しき清貧一家の哄笑な日々」はちょっとお休みします。できれば、今晩遅くに更新できればと考えています。悪しからずご了承ください。◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇このタイトルで書くのは2回目だ。深い意味はないのだが、イイ男がいればダメな男もいるもので、極めて独断と偏見に満ちた意見を書かせていただく。前回は、汎論的な体になったので、今回は私個人の各論にしたいと思う。ダメな男の理由その1「歩幅が狭い」。チョコチョコ小股で歩く男は格好悪い。大きなストライドで力強く歩く男は格好いい。姿勢も大切だ。決して背が高いわけではないのに背筋を曲げ、肩を前に出してダラダラ歩く様は何とも無様だ。最近の若い男の子がチョコチョコ歩くのは、ズボンをずらすファッションのせいもあるだろうが、相対的に筋力が弱いのだ。筋力があり、精力的に生きている男の子は“ずんだれ”ファッションなんてしない。きちんとウエストでズボンをはく。ダメな男の理由その2「食べるのが遅い」。お昼の定食屋に行くと、皿や茶碗を決して持ち上げず、片手はだらんとひざに置いたままの前傾姿勢を保ちつつ、おかしな持ち方の箸で料理をつつくようにしてまずそうに口に運ぶ者や、両肘をテーブルについて食べている者、マンガを読みながら食べている者、さまざまなのがいるが、そういう者は皆食べるのが遅い。“食べる意欲”がないせいか、箸を操るテクニックにかけているせいか、食が細いからか、ゆっくり食べている。見ていて気持ちのいいものではない。イイ男は、たくさん口に含んでも見苦しくなく、強い顎で確実に食物を噛み砕く。姿勢がよく、箸遣いも見事だ。そして、残さずきれいに食し切る。ダメな男の理由その3「声が小さい」。最近の男の子は、腹から声を出した経験がない。我々が子どもだったころは、外で、みんなで遊んだ。遊ぶときに使用する地面の面積が極めて広かった。よって、腹の底から声を出し合うことが、絶対的なコミュニケーション手段だった。ダメな男は声が小さい上に、発音が曖昧だ。割舌が悪い。相手を“説得する”“納得させる”“魅力的だと思わせる”という話し方の訓練がされていない。利己主義教育の弊害だろう。で、すぐ言う。「自分のことわかってもらえなくてもいい」と。わかってもらう努力もせずに。言葉は最も重要で、最も端的なコミュニケーション手段だ。それが欠落していてはいけない。ダメな男の理由その4「浮気性である」。女はいい。“少しでも条件のいい男を”と、求め続ける本能がある。“これだ”という男が見つかったら、一途になればいい。男はいけない。浮気性の男はこらえ性がないし、人の心を理解する努力をしない。そのときどきに都合のいい女を選んで遊ぶ。落ち込んだときは慰めてくれる女、遊びたいときはお金のある女、やりたいときは好きモノの女、といった具合だ。一生女の心を理解する努力をしないから、よしんば結婚しても不倫し、離婚してはまた結婚して不倫し、を繰り返す。そんな男が格好いいわけがない。ダメな男の理由その5「何でも羨ましがる男」。羨ましいと思ったら負けである。相手より自分が劣っていると認め、肯定しているようなものだ。“羨ましがる暇があったら、それを超える努力をしろ”である。もちろん、“妬む男”もいけない。この種の男は卑屈だ。心で妬んでいるだけでは飽き足らず、人の足を引っ張ったり、攻撃をしてきたりする。“男なら、人から羨ましがられる人物になれ”である。まだまだあるように思う。きょうは、仕事で疲れているせいで、“腹いせ”的な書き方になってしまった。じっくり分析して、楽しめるような「ダメな男の理由」を再度述べてみたいと思う。 撃沈
2007.05.09
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(8)置き去りにされた幼子たち 3祖母の不在を知り、近くのスーパーでサルや九官鳥たちと暇つぶしをした後、ようやく会えた祖母は、憐れみの表情を浮かべながら私に言った。「旅館で働いてるわ。行くか?」「行く。どこ?」「八百屋の角を駅と反対側、市場の方に行くやろ、市場を通り過ぎてしばらく歩くと、大きい道に出る前の右側にあるわ。〈桃の木〉いうい旅館や」「わかった。行ってくるわ」「気いつけていきや」「うん。ありがとう」2階の窓から顔を出して見送ってくれる祖母に手を振り、私は『桃の木』を目指して歩き出した。いま考えると、どうして祖母は一緒に行ってくれなかったのかと不思議に思うが、そのころ祖母はまだ働いていたので、仕事があったのかもしれないし、ほかの用事があったのかもしれない。もしくは、自分が行かない方が、母が素直に家に戻ると思ったのかもしれない。いずれにしても私は一人で〈桃の木〉に向かった。果たして、祖母の家から1km弱歩いたところに〈桃の木〉はあった。〈桃の木〉は、紫色地に桃色の文字(多分。“淫靡だ”という記憶がある)という、子どもが見てもドキンとするような、本能をかき乱すような看板がかかっていて、門の代わりなのか、タイルレンガの壁がジグザグになっていて、玄関が見えない。さすがに、その淫靡な隙間に入っていく勇気がなく、私は裏に回ってみた。すると、お勝手口が開いていて、中がすっかり見えている。中には、紫の着物を着たおばさんたちが、忙しそうに動き回っている。母が家を出てから10日ほどたったときによこした手紙の文面を思い出した。“旅館で働いている。部屋を与えてもらい、制服の着物を着て頑張っている”と書いてあった。これのことか、と得心した。ふと気づくと、お勝手口の最も近くにいた女性がこちらを見ている。目が合った。「どうしたん、あんた。だれかに用?」色白の、ふくよかな美人顔の若い女性が声をかけてくれた。「◯◯(姓)◯◯(名)の娘です。母はいますか」私は緊張して言った。「いや、◯◯(姓)さんの娘さん? ちょっと、◯◯さんを呼んできてあげて」その女性は近くにいたおばさんに指示してくれた。「わかった」そう言って一人のおばさんが母を呼びに行ったようだった。親切なお姉さんは、私に何かをくれた。「食べ。おいしいよ」「ありがとうございます」私は少々ためらいながら、手渡してもらった四角い物体を口に含んだ。辛いのか甘いのか、固いのか柔らかいのか。はたまた、海のものか山のものか。あにはからんや、歯ごたえのある甘い壁を噛み切ると、そこからシュワーッと舌に心地よい刺激を伴って何かが広がった。ソーダだった。もっと噛むと、弾力のある甘い物体が口の中を満たしてくれる。はっとした。お菓子屋さんで見かけたことはあるが、値段が高くて買えなかったガムだ。我が家のレベルではせいぜい5枚30円(いまだと120円)の板ガムだった。ドーナツ型になっていて笛のような音が鳴るガムは5つで10円しただろうか。そんな時代に、そのガムは5個包みで50円したと思う。私は“大人のお菓子だ”と買うのを諦めたものだ。ガムのおいしさを味わっていると、勝手口から見える奥の入り口に、思わず“懐かしい”と思えるような、見覚えのある人が姿をあらわした。その人は、私の顔を見るなり、床に突っ伏した。私はそれを見ながら、なおもガムのおいしさを味わっていた。次の展開を予想し、対応について思い巡らせながら……。 つづく
2007.05.08
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(8)置き去りにされた幼子たち 2朝、起床した私は、兄に私のクラス担任への伝言を託し、送り出してから、前夜に使った食器を洗い(このときは冬だったが、湯沸かし器がなかった我が家では、水道口から出る冷たい水で食事をつくり、食器を洗い、顔を洗い、洗濯した)、たらいいっぱいにたまった洗濯をした後、共同通路側にあった物干竿に洗濯物を干し、着替えをした。お年玉をためて自分で買ったディズニーの時計を腕にはめ、財布を入れた鞄を持って、家を出た。安物の家に似つかわしい簡単な鍵で施錠をした私は、徒歩で駅へと向かった。最寄り駅には10分ほどで到着した。我が家には電話がなかったので、事前の連絡を入れてはいなかったが、母方の祖母の家に向かうつもりだった。持病がある母が、一人で仕事をして生活しているわけはないのだが、母が家出して10日ほどして、私あてに手紙が届いていた。内容は、“旅館で仲居をしている。自分の部屋と制服をもらって、これまでにない充実した生活を送っている”というものだった。私は、祖母の計らいがあったはずだと直感した。とりあえず祖母の家に行けば、何らかの情報が得られると確信していた。それまでにも何度か一人で祖母の家に行ったことがあった。要領はわかっている。もちろん、8歳の子どもには難しい漢字はわからないし、少しでも勘違いするととんでもないところへと行き着いてしまう危険性があったが、私には自信があった。景色を覚える能力にたけていたからだ。音(駅の場内アナウンス)や文字の形に加え、自分が歩いた景色を、色やモノや距離感で鮮明に覚えていた。近鉄大阪線(普通)から大阪環状線へと乗り換える。最寄り駅からおよそ1時間、常々親が「子ども一人で電車に乗っていると“子取り(子どもをさらう輩。そのころ決まって〈サーカスに売られる〉と説明された。子どもには言いようのない恐怖感を与えた)”が来る」と言い、「知らないおばさんでいいから、親子に見えるようにくっついていなさい」と教えてくれていたので、シートの端に座っていたおばさんの横に陣取り、おばさんに寄り添うようにして立って、親子に見える演技をした。無事、目的の駅に到着し、祖母の家に向かった。そのころも、若いころ花柳界で生きた経歴を生かし、祖母は働きながら一人で暮らしていた。駅から15分ほど歩き、祖母の家(アパート)に着いた。しかし、折悪しく祖母はいなかった。私は時間をつぶすべく、街に出た。歩いて10分ほどのスーパーに行った。このスーパーはおもしろかった。1階は食品売り場、2階は衣料品や日用雑貨を置いているという、ごく普通のスーパーだったが、1階から2階への階段に、いろいろな動物や小鳥がかごに入れられて展示されている。もちろん売られているのだが、とてもかわいいサルやオウム、九官鳥がいて、見ていて飽きない。祖母や母と来ると、満足に見させてもらえないので、このときとばかり、存分に見て、声をかけて楽しんだ。そして、靴屋にも行った。そのころはやりのエナメルの靴が欲しかった。母や祖母と行けば、気に入ったのがなくても見栄を張って「どれがいいの?」と聞いてくる。いいのがなければ、店を出ればいいと思う私を制止し、どれかを選ばせようとする。私は自分のお金で、自分の欲しい靴を買いたいと思っていた。一人で、靴屋のショウウィンドーから、ディスプレイしてある靴をつぶさに見た。しばらくしてお目当ての靴を見つけた。小遣いを貯めて買いにくることができるのはいつかと計算した。そんなこんなで時間をつぶした後、再び祖母の家に向かった。幸いなことに、今度は祖母がいた。「おかあちゃんはどこ?」「言うたらあかんって言われているんや」「……」私は、“1時間かけてここまで来たことが無駄になるのか”と、わずかな脱力感を覚えた。しかし、祖母は優しかった……と言えるかどうか微妙な結末を迎えるのだが。 つづく
2007.05.07
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シリーズものをフリーページに移しました。頁容量があるので、最新編まで移せませんでしたが、ワンクリックで見えない部分はある程度すぐに見えるようになりました。突然「その15」なんていう数字を見ていやになって読んでくださらなかった方、ぜひ読んでみてください。で、補足説明をしておきます。「迷う男」:完全創作です。いつも、何をするにも迷ってしまい、ようやく出した結論に後悔し続ける男の物語です。最近、しばらく新編を書いていないので、近く更新しようと思っています。「心霊現象な日々」:完全実体験です。いまのところ、霊感の強い母にまつわるもの、特異な立地にあった以前の住居にまつわるもの、私が営む会社の事務所にまつわるもの、現在の住居にまつわるもの、私の体質によるもの、という具合です。まだまだネタはあります。「哀しき清貧一家の哄笑な日々」:私の家族の物語です。すべて実話です。貧しい幼少時代で、「私の幸せはいつ来るの?」と常に思ったものですが、大人になって思い出すと、とても愉快な家族だったことに気づきました。楽しく読んでいただきたいと思います。「駄猫『チコ』の真実」:実家で飼っていた猫の話です。昨年逝去しました。わずか1歳で亡くなった兄の「キコ」の話も混じっていますが、駄猫ゆえの笑える話を集めています。にわかには信じ難い話も多いのですが、すべて実話です。「チコ」のあほさ加減を楽しみながら、偲んでやってください。いずれにしてもバカな話ばかりです。気楽に楽しんでください。
2007.05.06
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(8)置き去りにされた幼子たち 1清貧一家の母は、キレやすい体質だった。いわゆる「ヒステリー」というやつだ。一度火がつくと、収まりどころを用意してやらないと、どんどんエスカレートしていく。その当時、おやじは賭け事に精出していた。母は気真面目な性格ゆえ、「賭け事」と聞いただけでヒステリックになったが、それより、おやじが家に帰ってこないことが気に食わなかったようだった。おやじは、通常深夜2時くらいに戻るはずなのだが、朝、登校時に折り畳んである父の布団を見ると、ドキンとして、母の顔色をうかがったものだった。たまたま、ある日の深夜、おやじがまともに帰ってきたとき、言い争う二人の声が聞こえてきた。たまさかトイレに起きた私は、話の内容を盗み聞いた。どうやら“給料が少ない”“麻雀をしている”とうい母と“みんな同じ(社宅に住んでいたので、近隣の同僚たちと同じという意味)給料でも、お前よりちゃんとやっている”“麻雀は小遣いの範囲内でやっている”という攻防のようだった。いまになって思う。母が“麻雀”をとがめるのではなく“帰ってこない”ことをとがめていたら、事態は違った展開になっていたように思う。何せおやじが帰ってこないのは、麻雀がしたいことより病弱な母やうるさいだけの子どもの顔を見るのがいやだったからだ。母が、“居心地のいい家にするから帰ってきて”と一言言えば、おやじはそれなりの対応をしたように思う。しかし、お嬢様体質の母は、下手に出るということができない。相手の落ち度を容赦なく突いて、真っ正面からぶつかってしまう。果たして翌日の朝、母は私と兄(姉は既に家出をしていた)を学校へと見送った後、家出をした。いやな予感とともに学校から戻った私は、鏡台に母が日常使っていた化粧品が根こそぎない有様を見て、「家出した……」と悟った(それまでにも、プチ家出は何度もしていた。家出をしたときの身辺の変化はよくわかっていた)。母が家出したら、おやじは幼い子ども(兄9歳、私8歳)を守るために家に戻ってくるだろうと思っていた。……甘かった。母がいないことをいいことに、おやじは前にも増して戻ってこなくなった(いつものこと)。兄と私は、おやじに禁じられていたガスコンロが使えない中、何とかして食事をせねばならなかった。母がいて、見守ってもらっている中では、卵焼きも炒り卵も、みそ汁もつくれるようになっていた私だったが、おやじの言いつけを守ろうと思えば、“調理”は極めて困難だった。インスタントラーメンを小さな電熱で煮た。毎日それではつらいので、炊飯器で炊いたご飯と、総菜屋で買ってきたコロッケやポテトサラダで食事をしたこともあった。ご飯にふりかけをかけて済ませたこともあった。焼いた餅や果物をしこたま食べたこともあった。いずれにしても、空腹さえしのげればそれでいいという考え方だった(学校の給食頼みだった。そのおかげで生きてこれたようなものだ。ありがたし、給食!)。やがて醤油がなくなり、米がなくなり、家にあった金が底をつき、心あたりのある家で麻雀をしているであろうおやじの元に金をもらいに行くはめとなり、もらった金を握りしめて兄と手をつないで米を買いに行ったら、背後でガラスが割れるような唐突な音がして、持っている金を心配しながら全速力で走って家に戻ったりした。子どもの持つ「生活力」としては「限界」だった。私はその夜、いつものように電熱でインスタントラーメンを煮て、兄と二人で食べながら、ある決意をした。そのままコタツに寝転びながら、「明日は学校を休む」と兄に告げ、私のクラス担任への伝言を頼んだ。そのまま眠りにつこうとしながら、明日、訪れるであろうさまざまな出来事に思いを馳せていた。残酷なことに、翌朝はまさに瞬く間にやってきた。おやじは相変わらず帰っていなかった。兄を見送った私は、意を決して鞄に財布を入れ、お年玉をためてようやく自分で買ったディズニーの腕時計をはめて、家を出た。母がいなくなって1ヵ月ほどの間に展開されたひどくわびしく寂しい生活の記憶を蘇らせながら。 つづく
2007.05.05
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その17【コックリさんの怪】小学5年生のとき、夕食を終えて兄や父とテレビを見ている私のところに母がやってきた。小さな声で背後から私を呼ぶ。振り返ると、尋常ではない顔つきの母がこちらを凝視して立っている。ただごとではないと察し、立ち上がって母のところに行った。母はダイニングキッチンの隣の部屋(唯一、他の部屋から独立していた)へ私を導いた。引き戸(ふすま様)を開けると、部屋の照明は消されていて、真っ暗だったが、なぜかほのかな明かりがどこからか放たれていた。足元を見ると、ろうそくが2本、灯されていて、その間に白い紙があり、何かが書かれている。「おかあちゃん、何これ?」「コックリさんや」「……」知らない言葉だった。「どうするの?」「これからおかあちゃんの手がとまったところの文字を紙に控えてほしいねん」母が後ろ手に扉を閉めた。私は言いようのない恐怖を感じていた。この後何が起こるのか想像できないこともそうだが、母の表情が異様なことが恐怖を増幅させた。間もなく母は胸の前で手を合わせ(仏教式ではなく、キリスト教式の合わせ方。母は仏教徒だったが、なぜかこうする癖があった)、ブツブツ言い始めた。次に、母は割り箸を持ち、鳥居のマークが書かれた部分にのっかっている十円玉の上に箸を置いた。再び母は何かをつぶやいた。するとすごい速度で、鳥居の右に書かれた「はい」という文字の上に箸の下の十円玉が移動した。と、すぐに鳥居に戻る。終始母は下を向き、目を閉じている。次に母がぶつぶつ言った後、箸と十円玉は、紙に書かれた50音の中の「な」の上に移動した。次が「お」。私は慌てて紙に書きとめた。すると、母の手の動きがおかしくなってきた。箸を持った手が激しく文字の上をこするように動く。手はラ行あたりだった「る」か「り」かわからない位置だった。もはや十円玉は箸の下からはずれ、遠くへ飛んでいってしまっている。次に手が動いたのは「ね」だった。箸もすっ飛び、母の手は拳を握ったような格好で「ね」の文字をどんどん叩いている。事態を把握できず、慌てるばかりの私に母は「痛い、痛い」を繰り返す。「とまれへんの?」「とまれへん」母の顔は苦痛に歪んでいる。意味のわからない私は、ただ手をこまねいて見ているばかりだった。やがて手がとまり、ぐったりした母の手は、鳥居のところに戻った。母は再び手を合わせて「ありがとうございます」と小さく言った。「書いてくれた?」母がこちらを向いて言った。憔悴し切った表情だった。紙を見せた。「そう」そう言ったきり、母はしばらく言葉を発しなかった。「何をしたの?」「神さんに、おかあちゃんの病気が治るかどうか聞いたんよ」母は、若いころに大病を患って以来、薬を飲まなければ発作が起きるという厄介な持病に苦しめられていた。『なおるね』と出たということは、治るということだと私は子ども心に安心した。母は私をベランダに導いた。50音の書かれた紙と割り箸、十円玉を燃やしながら「このことは、人に言うたらあかんよ」私はきっと、人に話すと効力がなくなるのだと察知した。違う理由があったのかもしれないが、そのときの母に理由や感想を聞いたりする勇気は、そのときの私にはなかった。数日して、学校で「コックリさん」が話題になった。「小学5年生」にこの言葉が登場し、瞬く間に子どもたちの関心事になった。みんなでやってみよう、ということになったが、「間違ったやり方をすると、のろいがかかる」という者が出現したりして、実行には至らなかった。学校から戻った私は、母に言った。「おかあちゃん、学校でコックリさんが話題になってるねん。やり方教えて」「“コックリさん”……、あぁ、おかあちゃんが子どものころはやったなぁ。そういえば。やり方は覚えてないわ」「え、この間やったやん」「何を」「コックリさん」「おかあちゃん、コックリさんなんかしてないで」母の表情に、何かを隠すために嘘をついているといった作為的なものは感じなかった。本当に知らないのだ。では、ついこの間コックリさんをやったのは母ではなかったのか……。私は言いようのない恐怖を感じた。目の前にいる母とこの間の母は別人ではない。しかし、母はその事実を覚えていない。“憑いた”のだ。何者かが母に憑いて、コックリさんをやらせたのだ。何のために? 私に見せるために?いま思い出しても、背筋が凍る。
2007.05.04
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先日、「女性の顔の法則」というのを書いた。不公平になってはフェミニストから苦情が来そうなので男性版も披露してみようと思う。「額」と「眉毛」と「目」と「鼻」と「口」について分析した。髪を上げて「額」を出し、艶があって存在感を示す男性は“精力的”だ。いや、勢力を誇示しているといっていいかもしれない。いわゆる“やる気満々”ということだ。また、独特の美学がある。ファッションや仕事、生活スタイルに対して独特の考えを持っていて、それを貫こうとする強さがある。逆に、額を隠す男性は、何らかの劣等感を持っているのだが(額に直接関係ないこともある)、認めたくない人種だと考える。「眉」は「意志」の強さをあらわす。濃い、薄いではなく、形が基準だ。真一文字の眉は押しが強い。しかし、間違いや考えの間違いを認めると素直に軌道修正する。眉山が高い場合は曲者だ。人を食おうとする。その人に力がない場合は全く問題ないが、立場とプライドがある人なら、ぞんざいにはできない。少しでもぞんざいな扱いをすると、一生恨まれ兼ねない。人に間違いや考えの浅さを指摘されてもそれを認めず、「そういう考え方もありますね」とか「なるほど、それはそうですね。しかしこの場合は」といった逆説を用いて自分を正当化しようとする。しかも温和な雰囲気をつくって言うので、こちらも「そうですね」と言わざるを得ない。眉が“短い”とか、“ゲジゲジ”といった場合は、注意が必要だ。こだわりやコンプレックスが異様に強いように思う。その人なりの生き方や現状に大きく影響を受けているのだと思うが、精神状態が不安定だったり、生い立ちが複雑だったりして、一概に言うことのできない事情があるようだ。ちなみに、薄い眉は「策士」だそうだ。ネゴシエーターやM&Aの交渉担当に多いということを付け加えておく。「目」は、生き方に対する姿勢を表す。戦闘的な人物の目はギラギラと輝き、頭脳派の目は深くて鋭い。優しい人は目尻が下がって黒目がち、自信のない人は上目使いに人を見、短時間で視線が動く。視線の移し方にも系統がある。下から上へと見上げる癖のある人は自信家で理論家。上げ足を取るのが得意。しかし、自分の知らないことを指摘されると、意外なほどわかりやすい形で論破できる。顔しか見ない人は、当該の案件だけで勝負しようとする人。キョロキョロ視線を移す人は、相手への興味など、本題以外のことが気になっている人だと思う。「鼻」は、「傲慢」かどうかを示す。鼻と口の回りの筋肉はつながっている。傲慢な男性は口が「エ」列になる。それが格好いいと思っているきらいがある。“苦み走った”とか、“渋い”といった言葉に憧れているのであろう。口が「エ」列になると、小鼻の脇の筋肉が開き、小鼻が広がる。口角が下がり、小鼻の広がった男は、社会や仕事、女性に対して傲慢だと思う。「口」はさまざまなことを映す。いつも不満を持っている人は口角が下がっているし、脳天気な人はうっすら唇が開いている。そうしたこまごまとした分析は別にして、統計的なことを書いてみると、嘘つきの口元は受け口になる、仕事や生活が充実している人は唇の色がよくてつやつやしている、うそつきは唇が薄い、女性が苦手な人は、唇が歪んでいる、自分に自信がない人は口の形がだらしない。※文中の「人」はもちろん「男性」です。こうして見てみると、男性は、女性のように「知性」や「教養」「理性」「品性」といった、学習によって獲得した人間的な要因による反応より、本能による動物的反応が顔に反映されるのだと思う。「本能」がかかわるだけに、女性より分析は難しいと思うが、おつき合いするときにはぜひこれを参考にしていただきたいと願う。そして、男性が酔ったときの反応もこれとは違って興味深い。長くなるので、それは、後日解説することにしたい。お楽しみに。
2007.05.03
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私は肩凝り性です。制作の仕事のときは、パソコンを20時間使うなんてことも珍しくありません。座りっ放しだと血行も悪くなるし、同じ姿勢を続けていれば、背中や肩の筋肉も固まってしまいます。キーボードを敏速に打つので(「特打」というタイピングソフトでは、10分間で1300字以上打ちます)、腕も目も疲れます。ところが、“肩が凝った”という自覚がありません。なので、マッサージに行ったりすることも余程のことがないと(吐き気がするとか首を回すと変な音がする)ないので、いつも凝っているという状態なのだと思います。出張に行ったとき、ビジネスホテルにマッサージ師さんを呼ぶのが楽しみだった時期があります。いまから5~10年くらい前でしょうか。女性のマッサージ師さんを呼ぶと、必ず「あら、若いのに」という説教が入ります。でも、肩や背中に指を当てると「まぁ、えらく凝ってますね」というのが常でした。マッサージはそのときと、以後1~2日はいいのですが、すぐに元に戻ってしまいます。それもそのはず。原因を是正しないのだから。で、マッサージに行くのをやめました。お風呂にゆっくりつかったり、温泉旅行に行ったり、ちょっと激しい運動をしたりすると、凝りがほぐれるということを知ったこともありますが、折からの不況も手伝って、40分かそこらで5000円も支払うのが苦痛になったのです。ここのところ(半年ほど)、とても忙しく、今年に入ってからは、休日が取れずにいます。久々の忙しさです。といっても、「忙しい=儲かる」ではないのがつらいところ。それがより「凝り」に拍車をかけるのかもしれません。首、肩、背中が、自分のものでないような固さと重さで私を苦しめます。食欲はあるのに食べられないという状況。少し食べると背中に激痛が走る。凝りのせいで消化器の血流が滞り、その苦痛が背中の神経に伝わるのだと思います。“これはいけない”と、凝りに対する応急処置を施しました。肩凝り性の人はぜひ試してください。☆背筋を伸ばしていすに腰掛けます。☆後頭部を両手で持ち、両手の指を組みます。☆息を吐きながら肘を閉じていきます。このとき、肩甲骨を広げるようなイメージで背中に力を入れます。☆そのままの姿勢で息を吸い込み、次に息を吐きながら両手で後頭部を押して頭を前傾させます。背筋をピンと伸ばしたままです。☆これ以上前傾できない、というところで10秒間キープ。☆息を吸いながら力を緩め、ひじを開きます。☆ひじを真横に開いたら、息を吐きながら胸を反らすと同時に肩甲骨を寄せるようなイメージで背中に力を入れます。この一連の動作を10回。その後、首をぐるりと回し、痛いポイントは念入りに伸ばします。頭に手を添えて、より強く伸ばしても効果的。お風呂でぬる目のお湯につかりながらなら、なお効果的。これで、首、肩、背中の血流が改善して凝りが軽減されるはずです。肩こりは、骨盤のゆがみや歯の噛み合わせ、仕事中の姿勢、運転の癖、靴が合う合わない、筋力のバランスなど複数の要因がありますので、それを改善しないと根本的な治癒には結びつかないのですが、とりあえずの応急処置としては、効くのではないかと思います。いま肩が凝っている、という人、お試しを。
2007.05.02
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以前から、女性の顔に興味を持って観察している。長い人生経験と直感で分析したことがある。それを、時間をかけて検証した。ほぼ間違いない、と言えることがある。女性の顔(男性には当てはまらない)には「法則」があり、「目は教養(理性)を、鼻は品格を、口は知性を映す」ということだ。視線が涼やかで真っすぐ、遠慮深そうで慎みのある目元は教養があり、理性で自らをコントロールできることをあらわしている。だらしなく開いた小鼻は品がない。しかし、キュッと締まった小鼻はすがすがしい。“そんなの、遺伝よ。親がこんな鼻なんだから、仕方ないわよ!”という声が聞こえてきそうだが、遺伝のせいにしてはいけない。顔にはたくさんの筋肉があって、自分の意志である程度変化させることができる。顔に緊張感があれば、おのずと締まってくるものだ。親と同様、あなたも“緊張感”も“締まり”もなく生き方をしているということだ。口角が下がった口元は見苦しい。そういう女性は必ずといっていいほど小鼻から口角にかけてあらわれるほうれい(法令・豊齢・豊令)線が深く入り、二重あごになり、首にギャオスのような輪っかが出現する。“だらしない”“老けている”といった印象が否めない。また、パカンとあいた口もいけない。よく見ていただきたい。パカンとあいた口元の口角が上がっているためしがない。いや、上がっていたら、「ベラ」である。怖い。口元がキュッと締まり、口角の上がった美しい形の唇は知的レベルが高いことを匂わす。電車の中ですべての条件にあてはまる女性に出会った。彼女は本を読んでいた。ひじの高さに左手で持たれた本は、茶道に通じる柔らかな丸みをもった指に支えられ、涼しく真っすぐな視線を受けていた。口角がわずかに上がった唇は引き締まっていてほどよい厚みがあり、小鼻は上品にまとまっている。足元はきれいにそろえられていて、姿勢がいい。背筋は真っすぐ伸び、後頭部から背中にかけてのたおやかな傾斜が謙虚にして優雅な印象を与える。そのころ、若かった私は、“こういう姿が自然と身につくように生きたい”と思ったものだ。滅多にいない人種だが、芸能人で言うなら、吉永小百合が最も近いのではないだろうか。イメージの部分もあるが、原節子や八千草薫も該当するかもしれない。いずれにしても、昔の女性だ。最近の女性には極めて少ないタイプかもしれないが、この女性像は日本では普遍的だと思う。そうした女性像が女性の憧れであってほしいし、男性の理想像であってほしいと思う。ここは「日本」である。文化レベルは高いが、利己主義で権利を主張する欧米とは違う。また、政治や軍部に思想や生活まで支配される途上国とも違う。日本ならではの儒教、仏教、神道の複合的な教えを受け継ぎ、謙虚な姿勢を是とする尊い文化を継承してくれる教養・品格・知性を身につけた女性が増えてほしいものだ。それは、女性でなければならない。なぜなら、子にその教えを伝える大きな役割を担っているからだ。それは、日本の未来に多大な影響を与えるのだから。
2007.05.01
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