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最後、第五に、 「日本圏」の成立と日本の首都東京の肥大化 との関係を見忘れてはならない。 一九八七年十二月に出た四全総 (第四次全国総合開発計画)の中間報告は、 東京を世界都市として捉え、 そのための都市機能と環境整備とをつよく求めた点で、 いわば画期的な問題提起をしてみせた。 「東京は、環太平洋地域の拠点という地理的位置からも、 世界の中枢的都市の一つとして、 国際金融、情報機能の巨大な集積が予想され、 世界的な交流の場としての役割が増大する。 このような役割にふさわしい業務、 居住環境を整備することは、 二十一世紀に向けての国土政策上の重要な課題である」。 中間報告のなかにあったこの文章は、 東京が「日本圏」の基軸としてもつ 存在感と比重とを実に正しく捉えていたといえる。 私は、四全総の最終案よりは、 この中間報告の素直さに好もしいものを感じている。 一九七〇年代後半以降、 日本経済は東京集中の傾向をつよめることになった。 全国に分布した重厚長大型産業の行き詰りもあったが、 石油危機に端を発する経済活動をめぐる 情報化の深まりによって、 東京の中枢的意義がいっきょに重視されることになり、 本社機能の集中をみることになった。 加えて、 国際金融の比重の高まりと不可逆的な円高傾向とは、 これまた相乗しあって、 アジア-太平洋地域における 東京の比重を圧倒的に高めることになった。 国際化の時代にたいする対応力を、 東京ほど備えているところは、 ニューヨーク、ロンドンなど一部の例外はべつとして、 世界でもあまり類例をみないのである。 学術、文化あるいはマスコミも、 急速に東京集中をみることになった。 日本は、 東京が国際的水準での創造性を備えるにいたったいま、 アジア・太平洋地域の文化活動の 中心舞台になってしまっている。 東京は、 日本人およびアジア地域の生活様式の形成にまで 決定的な力をふるうようになっている。 ファッションの流行や風俗を生み出す力は、 これまた東京の排他的独占物である。 東京は、 日本圏全域にたいして、 いわば文化的動員能力をもっているとさえいえる。 日本の地方およびアジアの国ぐにからみたとき、 東京は、市民社会的な空間として、 限りない魅力をもってみえる。 自由、創意、人間性など、 市民社会的価値が充満している都市 というイメージが定着している。 そのイメージ効果も抜群であって、 多くの人びとを引きつける魅力となっている。 要するに、 東京は日本の首都というより、 「日本圏」の首都なのである。「フローの文明・ストックの文明」 矢野暢 PHP
2017年04月28日
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価値ある人生を活きるには 先ず自分の本質の尊さを 正しく自覚することが必要である 真人としての理想的な生活目標とは何? というと、 曰く[霊性の満足]ということなのである。 すなわちこれがほんとうの人間としての もっとも正しくもっとも尊い生活目標なのである。 価値ある人生に活きるには、 いかなる場合にも 「霊性の満足」を終始その生活の目標として 人生に活きられんことを、 真人としての本領発揮のためと同時に、 ひろく人の世のために熱奨(ねっしょう)する。「真理のひびき」 中村天風 講談社
2017年04月27日
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屈辱、坎壈(かんらん)、薄命、数寄(すき)、 千辛万苦皆天命に任す。 恬煕楽易、従容自得し、分に安んじて固窮し、 心広く体胖(ゆたか)に 縲緤鞭笞(るいせつべんたい)も 辱(はじ)と為すに足らず。 絶食無衣、其の楽しみ余有り。 (論語、君子固より窮す。小人窮すれば斯に濫す) 然りと雖(いえど)も、 宇宙を包括し、天地を震動するの心、 未だ嘗(かつ)て頃刻(しばらく)も忘れず。 人生航路において、はずかしめをうけたり、 思いもかけぬおちこみにあったり、 運命にめぐまれなかったり、因果に支配されたり、 いろいろな経験をする苦労等は すべて天命であるとして、これに対処していくがよい。 そして心をひろく体をゆたかに、 正しく道をあゆんでおっても、 ときに縄目の恥をうけることがあるが、 これも問題としないほうが良い。 そのうえ、食べ物や着る物がないような貧乏をしても、 楽しみはその中にあることを知って努力する。 このように運命に恵まれず、またどんな災厄にあっても、 宇宙をつつみ、天地を動かす心というものを しばらくも忘れない。 つまりどんな貧窮状態にあっても 悠々として自由の精神を失わない、といことであります。「先哲講座」 安岡正篤 竹井出版
2017年04月26日
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武器輸出三原則、 つまり共産圏や紛争地域への戦争グッズ輸出について、 彼はどこにも出さない全面禁止とした。 平和、平和と念仏を唱えていれば いい政治家だと思い込んでいる。 その結果がどうなつたか。 イ・イ戦争のさなか、 戦場取材にいくから 防弾チョッキを送ってくれと本社に頼んだが、 通産省の貿易管理部長が 戦争グッズにつきダメといってきた。 サンタモニカの航空博物館が古戦場をめぐつて 名機の零戦の部品を集めた。 できるだけ忠実に復元したいからと 日本に同機の設計図貸し出しを求めた。 貿易管理部長が 「古くても戦闘機の設計図は武器輸出に該当する」と 拒絶した。 防衛庁がボーイング767型機をベースにした AWACS(早期警戒管制機)を米国に発注した。 この機種は日本で胴体を作っている。 AWACS用に窓のない仕様で米国に出そうとしたが、 また貿易管理部長が出てきて 窓なしでは武器に該当するとわざわざ窓を開けさせた。 米国で改めて窓をふさぐ作業が行われ、 この手間でコストは倍になつたが、 三木の言う通りにやっている部長は満足そうだった。 ただこの貿易管理部は、 本来監視すべき対共産圏輸出には日をつぶってきた。 おかげで北朝鮮はミサイルも核も 日本から輸入した機器で誂えることができた。 ヤマハが実戦に使える無人ヘリを 中国に輸出していたのも 米国に指摘されるまで気付かなかった。 頭の悪い貿易管理部長は 面倒臭いから難しそうな製品を みな輸出禁止にした。 そうしたら最初に悲鳴を上げたのが米国だった。 実は世界最強のF22ラプタは 宇部興産のチラノ繊維でステルスを実現していた。 それがなければF22の製造はできなくなる。 日本側は政治判断で禁輸を解き、 米国は自国分の生産を終えた。 ところが日本向けのF22は作らないと オバマが言い出した。 世話になっておいて、なんて言い草だ。 日本もこんな国はそろそろ見切りをつけたほうがいい。 (二〇〇九年八月六日号)「偉人リンカーンは奴隷好き」 高山 正之 新潮社
2017年04月25日
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たいていは、 まちがったことをした失敗を通じてであるが、 われわれはコミュニケーションの四つの基本を学んだ。 すなわち、 (一)コミュニケーションは知覚である。 (二)コミュニケーションは期待である。 (三)コミュニケーションはかかわりあい (インボルブメント)である。 (四)コミュニーケーションと情報はまったく相異なる。 しかし情報は、 機能的なコミュニケーションを前提にしている。「知識時代のイメージ」 P・F・ドラッカー
2017年04月24日
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第四に、「日本圏」の一部では、 政治学でいう 国家の「被浸透システム(penetratedsystem)」化が 生じてさえいる。 それは、 相手国の政策決定や経済の中枢にまで 日本の意思がおよび、 「親日派」の形成をみ、 日本とのパイプが国家運営上不可欠と みなされる傾向のことである。 マレーシアがマハティール首相のもとで 「ルック・イースト」政策を打ち出したことがあったが、 そのときは必ずしも「被浸透体系」化はみなかった。 しかし、むしろそのようなスローガンを出さない国ぐに、 たとえばタイやインドネシアなどについて、 そのような傾向が語られることが多い。 一九八七年初頭に発生した若王子氏誘拐事件は、 フィリピンにおける事態の一端を象徴したと いえるかもしれない。「フローの文明・ストックの文明」 矢野暢 PHP
2017年04月21日
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人間は心が燃えると目が輝く。 そして混沌状態に あるひとつの流れが出来てくる。 心が何ものかで満ちてきて、 やる気が湧き、好奇心がさらに広がる。 それはちょうど道元の 「正法眼蔵現成公案」の中にうたわれている “心身脱落“に当たる状態でもある。 物に対するこだわりが消え、 我執や不安が減少して、 現在ただいまの対象だけに没入する(一如となる) といったいわば心身の完全燃焼状態 (これをすべての機能がフル回転している という意味で「全機現」と呼ぶ)が達成されるのだ。 こうした状態を測定するモノサシは何かと問われれば、 それはもはや「物的生産性」といったものではなく、 「知的燃焼性」あるいは「知的興奮性」 とでも表現すべき新しいものである、 と私は答えざるを得ない。 「どれだけうまく生産されたか」ではなく 「どれだけ快適な心のリズムで回転したか」ということ。 「生産効率性」ではなく 「精神燃焼度」とでも呼ぶべきメジャー、 それが求められるもが脱工業社会の姿なのではないか。「知的興奮集団のつくり方」 小川俊一 日本経済新聞社
2017年04月20日
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「心操(こころそう)なれば則(すなわ)ち 動(うご)くこと妄(もう)、 心蕩(こころとう)なれば則(すなわ)ち 視(み)ること浮(ふ)、 心歉(こころけん)なれば則ち気餒(きう)え、 心忽(こころこつ)なれば則ち貌惰(かたちおこた)り、 心傲(こころごう)なれば則ち色矜(いろおこ)る。」 昔人(せきじん) 嘗(かつ)て此(こ)の言有(げんあ)り。 之(これ)を誦(しょう)して 覚(おぼ)えず惕然(てきぜん)たり。 昔、王陽明はこういった。 「心が騒がしく、落ち着かないと、 動作がみだらになる。 心がだらしなくなると、視ることも皆浮ついてくる。 心にあきたらぬものがあると、 気力もだんだん衰えて、縮まってしまう。 心が留守になると、 顔も形もだらしなくなってくる。 心におごるところがあると、 その顔色も人にほこる所があるようになる。」 自分はこれを読んで、 覚えず恐れ慎まなければならないと痛感した。「言志後録」 佐藤一斉 講談社
2017年04月19日
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日本は弥生式農耕が入ってきて以来、 さまざまな時代を経、 昭和30年代の終わりごろになって やっと飯が食える時代になった。 日本人の最初の歴史的経験であり、 その驚嘆すべき時代に成人して 飢餓への恐怖をお伽噺としか思えない世代が やっと育ったのである。 いま国家的緊張はなく、 社会が要求する倫理は厳格を欠き、 キリスト教国ではないために神からの緊張もない。 こういう泰平の民が 2000年目にやっとできあがったのである。 目に力を失うということはそういうことであり、 泰平のありがたさとは、 いわばそういう若者を社会がもつ ということかとも思われる。「人間の集団について」 司馬遼太郎 中央公論社
2017年04月18日
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1. 女性の解放 技術は、大いに女性の解放をもたらし、 女性に新しい社会的地位を与えた。 2. 作業組織の変化 技術は筋肉労働を駆逐しはじめたのである。 3. 教育の役割 社会はエキスパートの働きを必要とし、 また尊重しているので、 エキスパートの才能を十分に承認し 報酬を与えなければならない。 完全な技術文明では「教育」は、 地位および機会の指標として 金銭および身分にとって代わる。 4. 戦争の変化 大規模な近代技術戦争のもとでは、 「勝利」もなければ、 「敗北」もないからである。 あるのは全面的破滅だけである。 「中立」もなければ、「非戦闘員」もない。 というのは破滅の危機は、 全人類に及ぶからである。 5. 世界的規模の技術文明 近代技術は世界的規模の技術文明を確立した。 この地球から人類が消滅する という結末にならないかぎり、 われわれの文明は不可逆的に 共通した技術文明になっていよう。「知識時代のイメージ」 P・F・ドラッカー
2017年04月17日
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八月十五日、 靖国神社を参拝した三木は「私人できた」と わけの分からぬことを言い出した。 中国やその腰巾着の朝日新聞が ごちゃごちゃ言い出したころだ。 明大の雄弁部出身なら きっちり反論すればよかったのに、 彼はいじましく言い訳をした。 この臆病な対応が先例となって以後、 日本の宰相は よその国の機嫌を窺って行動をするという パターンを生んだ。「偉人リンカーンは奴隷好き」 高山 正之 新潮社
2017年04月14日
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第三は、 日本がおよぼす関係国への社会的影響のことが 検討されねばならない。 それは、 それぞれの国の伝統的な 生活様式の破壊にはじまり、 近代的諸制度あるいは経営感覚の導入にいたるまで、 日本の影響力は、 よかれ悪しかれひろくおよんでいる。 〈フローの文明〉としての日本は、 それが文明としてのつよい浸透力をもつことから、 関係諸国の社会のなりたちを たわめる力学をはたらいている。 つまり、 「日本圏」の範囲内で、 日本はけっして無為の存在ではないのである。「フローの文明・ストックの文明」 矢野暢 PHP
2017年04月13日
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子白 由 誨女知之乎 知之爲知之 不知爲不知 見知也 子白く、 由や、女(なんじ)に之を知るを誨(おし)えんか。 之を知るをば之を知ると爲し、 知らざるを知らずと爲す。 これ知れるなり。 孔子が子路に向って言った。 由や、 お前に知るということを教えようか。 知っていることを知っているとし、 知らぬことを知らぬとする。 それが知っていることだ。「論語の新研究」 宮崎 市定 岩波書店
2017年04月12日
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従来のピラミッド型組織の主なネライは ‘力の伝達’にあり、 さらに力を特定の点に作用させることに 重点が置かれていた。 これから述べようとする組織では、 力そのものを対象とした回路は、 もはやあまり重要ではない。 ネライはあくまでも “情報の組織化”であり “知力の動員のための回路”である。 このような回路によってのみ、 力を必要な個所に作用させ、 仕事を遂行することができる。 われわれの周囲で進行中の変化の中で、 特にこの面の重要性は いくら強調しても足りない。「組織の生理学」 バーナード・J・ミュラータイム プレジデント社
2017年04月11日
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人生の出来事に対応する 其精神態度が 積極か消極かということで その結論の成否が決定する 健康や運命が意のままにならないときほど、 「心」の態度をよりいっそう積極的にするのが 最も大切で忘れてはならないことなので、 そういすればいわゆる生命の内在力(潜在勢力)が 期せずして湧然(ゆうぜん)として現れて、 健康も運命も、自然と好転してくるというのが、 尊厳なる宇宙真理である。「真理のひびき」 中村天風 講談社
2017年04月10日
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西洋文化の人間が例外であって、 常例でないのは 歴史的な感覚を持っているためである。 「世界史」はわれわれの世界像であって、 「人類」の世界像ではない。 インドとギリシャ・ローマとの人間は、 成るところの世界の像を有していなかった。 そうして多分、 西洋の文明がひとたび消滅した時には、 「世界史」を覚醒存在の 非常に強力な形式となしている文化は、 したがってその文化の人間の型は 決して存在しないだろう。 それでは――世界史とは何であるか。 疑いもなく順序立てられた過去の表象であり、 内的な公準であり、形式感情の表現である。 しかし感情はどんなに明確であっても、 実際の形式ではない。 そうして誰もが世界史を感じ、 これを体験し、 これをその形態に基づいて概観していると、 心から確信していることは確かである。 同時にわれわれの知るところのものが、 今日でもなお まだそのいろいろな形式だけに止っていて、 われわれの内生括の反映像である 「形式」自体でないことも確かである。 もとより誰でも問われた時には、 自分は歴史の内的形式を明確にまた明瞭に 見ぬいていると確信的にいうだろう。「西欧の没落」第一巻 O・シュペングラー 五月書房
2017年04月07日
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忠というのは 理想・目的に向かって まめやかに努力することである。 ところが、 まじめな人にありがちなことですが、 どうかすると尖鋭になる。 そして往々目的に急なるあまり人情味が薄くなり、 人心が離反する。 大事を成し遂げることは多数の協力を要するから、 何事においても忠にして同時に厚である、 人情に厚味がなければなりません。 これは非常に難しいところで、 したがって尊いことである。 忠厚にして大事を断行する、 こういう人が 大臣として大功を成就したように見受けられる。 上っ調子で薄っぺらな人間では 大事も成就することは難しい。「偉大なる対話」 安岡正篤 福村出版
2017年04月06日
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三木が許せないのは 米国がちらつかせた怪しげな証拠に飛びついて、 いやしくも一国の宰相だった者をお縄にしたからだ。 仮に角栄に何らかの疑惑があるなら日本は法治国家だ、 そのための司法機関がきちんと捜査して、 それで罪あれば罰すればいい。 しかしロッキード事件では 「米国人は聖書に誓うから嘘は言わない」ことにして 反対尋問抜きで嘘つき米国人の 言いたい放題を証拠にしてしまった。 検察はその言いたい放題に沿って全日空社長を逮捕し、 罪をでっち上げて角栄逮捕に漕ぎつけた。 法治国家が聞いて呆れる。「偉人リンカーンは奴隷好き」 高山 正之 新潮社
2017年04月05日
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今世紀における、 技術作業の全面的な性質変化には、 三つの別個な、 だが密接に関連しあった側面がある。 すなわち (一)構造の変化 - 技術作業の 知的専門職業化、専門化、制度化、 (二)方法の変化 - 技術と科学間の 新しい関係、組織だった研究の出現、 新しい概念の革新、 (三)「システムズ・アプローチ」 というものである。 これらはみな同じ基本的動向の 一側面である。 技術は、これまでとは違ったもの、 すなわち組織だった体系的な学問になった。「知識時代のイメージ」 P・F・ドラッカー ダイヤモンド社
2017年04月04日
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「力と力の計算」に基づいた世界の見方が 「現実的」であり、 憲法の前文にうたはれてゐるやうな「国際社会」は 「幻想」にすぎない、 と言つてしまふのは正確でない。 われわれの「国際社会」が幻想ならば、 彼等の「力の計算」もひとしく幻想である。 彼等の見方も又、 他者と他者とは対立し争ふものであるといふ、 同じく無根拠な前提に支へられてゐるのだからである。 たしかなことは唯ひとつ、 われわれは我々流の幻想をもち、 彼等は彼等流の幻想を抱いてこの世にある、 といふ事実である。 そしてこの事実には、 もはや目をつぶつてゐてはならない ――余りにも危険だからである。 目をつぶることによつて 自分自身であることを守る時代は終りつつある。 目を開けて、 自らを知り、 しかもなは自分自身であり続けるといふ難題に、 いよいよ本格的に取り組むべき時が来てゐる。 ここ十年程の「日本論」の流行は、 そのことを漠然と 人々が感じ始めてゐることの表はれである。 けれども人々は、 まだそれをどんなふうに考へ始めたらよいのか解らずに、 ちやうど、 まだ積み木が積めないので それをただ投げたりしやぶつたりして遊んでゐる 赤ん坊のやうにして「日本論」を扱つてゐる。 われわれは一体何なのか? われわれがわれわれ自身であるためには いつたいどうしたらよいのか? ――さういふ素朴な疑問が 本当に意味をもつたものになるためには、 われわれはもう一度、 「あの戦争」を振り返らなければならない。 永い日本の歴史の中ではじめて、 われわれがわれわれ自身であるために 戦はねばならなかつた百年間。 そして戦ふために 益々われわれ自身ならざることを 余儀なくされた百年間。 その頂点であり終結であつた 「あの戦争」を虚心坦懐に振り返らねばならない。 そしてそれを正しく 底の底から理解したときはじめて、 われわれはあの<聖なる戦ひ> 「大東亜戦争」を「否定」して、 新しく歩み始めることができるのである。「からごころ」 長谷川三千子 中公文庫
2017年04月03日
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