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「日本は敗北したとはいえ、 アジアにおける西欧帝国の終焉を早めた。 帝国主義の衰退が容赦なく早められていったことは、 当時は苦痛に満ちた衝撃的なものだったが、 結局はヨーロッパ各国にとって利益だ と考えられるようになった。 日本自身は一時あのように落ちぶれたが、 高価で無駄な軍事力増強の道を避け、 かつて剣によって確保することのできたものよりも はるかに大きく、 かつ永続的な富と力を得ることができた。 (日本の産業構造は改造された。 一方戦争が中国や米ソ関係に及ぼした影響のために ワシントンにとって日本の価値は増大した)。 アメリカは一九四一年には、 使命感に燃えるルースたちが、熱心に望んでいたように、 ついに中国の側に立つことになったが、 その後「目覚めた」新中国との関係は、 すぐに厳しい敵対関係に変わっていった。 そして「アジアで打席に立ち」、 ステイムソンやマッカーサーらが、 長いあいだ「世界のなかのわれわれの領分」 と見なしていた地域の運命を (米国自身のためだけではなく、 他の国の人びとのためにも)切り開いて、 米国の安全と繁栄が今後脅かされないようにし、 そこでも「恵み深い米国的生活様式」を擁護して、 それをもっぱら 必要としていると思われる人びとに分け与える、 戦争の結果、 そのような時がきたと信じるようになったアメリカ ―― 一九四五年には極東戦争の まぎれもない「勝利者」だつたアメリカ、 そのアメリカが一九七〇年代にはある意味では、 長期にわたる最大の敗者 と見られるようになったのである」『太平洋戦争とは何だったのか』 クリストファー・ソーン 草思社
2017年12月29日
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たとえば、社会契約説というのがある。 社会は、まったく白紙の空間に、 個々のメンバーが寄り集まって、 自由意志で人為的に契約して 作り上げたものだというのだ。 歴史的事実であるか否かは問題でない。 「社会」という理念型の基本は、 そうであるにちがいないという思想である。 しかし、すでに述べたように社会は歴史的空間である。 空白ということはありえない。 人はその具体的な歴史的空間に生活するとき、 いろいろな社会的な 慣習、規範、信条などの制約を受ける。 しかも、その社会的な制約は、 無名で無人格で無責任な体系である。 長期的にはこれを変えることは可能だが、 とりあえずは、自然法則のごとく横暴である。 社会の基本的なルールは、 このように説明しないとつじつまが合わなくなる。 社会契約説で言う契約は、一つの制度である。 だから、それは作為の契機で説明できる。 しかし、その前提問題である 「契約は遵守せらるべし (バクタ・スント・セルヴアンダ)」というルールは、 どうやって説明するのか。 社会契約説は、途端に立ち往生せざるをえない。 そのルールは、文明を「社会」と その上に構築された「御度」とを区別して、 前者の社会という場で 生まれ出たものと考えるほかはない。 つまり、具体的な個々の人間にとって、 自然の果実のように外から与えられたもの、 つまり与件と考えざるをえないではないか。 社会契約説は誤りであった。 それも西洋人らしい誤謬であった。 すでに述べたように、 国際連盟や国連をややもすると、 国際社会そのものと混同する傾向がある。 これは現在の国際社会の病いの根源の一つである。 西洋人は作為の契機の過大評価によって、 国際社会を社会契約説によって作り直した と錯覚を起こしている。 日本人は、両方とも 自然であるかのように対応することで、混同している。 なんとも皮肉な光景ではある。「新戦争論」 小室直樹 KAPPA BUSINESS
2017年12月28日
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「聖なる言語」の第一義は、 何よりも、それが、異なった言葉を話す 二重言語者たちのあいだでの 交流を可能にする〈書き言葉〉だったことにある。 「聖なる言語」が「秘儀的」だということは、 「聖なる言語」で書かれたものは、 大多数にとっては、 閉ざされた「蓋つきの大箱」にしまいこまれたもの、 インターネット時代の言葉でいえば、 自分たちにアクセス権がないものであることを意味する。 だからこそ、「聖なる言語」は、 その「秘儀的性格」ゆえに、 少数によって悪用されるものとなる。 「聖なる言語」を読むことができる少数は、 「神を頂点とする宇宙の秩序のなかで、 戦略的な階層を構成」する。 かれらは、読み書きを 「秘儀的」なものにとどめることによって、 自分の権力を守ろうとする。 事実一千年にわたって、ラテン語の聖書は ほかの言葉に翻訳するのを禁じられていた。 俗語の出版物が増え、 宗教革命が広がるのを見たローマの法王庁は、 「ラテン語の砦を守ろう」とし 『禁書目録』を作ったりもする。 「聖なる言語」は、圧制者が多数を 無知のなかに閉じこめるための言葉だと 糾弾されるに至るのである。「日本語が亡びるとき」 水村 美苗 筑摩書房
2017年12月27日
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艱難は亦たこれ事を経ざる人の良薬なり。 人生の最も不幸なる処は、 是れ偶々一失言して禍の及ばず、 偶々一失謀して事の倖成し、 偶々一恣行して小利を獲ることなり。「活学としての東洋思想」 安岡正篤 PHP文庫
2017年12月26日
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プリンス・オブ・ウェールズが 不沈艦を名乗ったように 米の4発爆撃機B17は高い連動性能と ハリネズミのように装備した対空機関銃で、 絶対に落とされない爆撃機を豪語していた。 事実、後の欧州戦線では迎撃するドイツ機を 逆にかなり撃墜している。 「空飛ぶ要塞」の名は決して伊達じゃあなかった。 プリンス・オブ・ウェールズが沈められた翌日、 そのB17がフィリピン上空でゼロ戦と遭遇した。 彼らは日本にはまともな戦闘機は作れないし、 乗員も「おんぶで育てられ、頭を揺すられた結果、 三半規管に異常をきたし、さらに近眼で鳥目だから まともな急降下もできない」(軍事評論家フレッチャー.プラツト) と信じこんでいた。 しかし彼らが気付いたとき機体は炎に包まれ、 B17が初めて戦闘機の餌食になったことを知った。 米国はショックを受けたが、半分はまぐれと思っていた。 ところがその半年後、ニューギニア・ブナ上空で 5機編隊のB17と9機のゼロ戦がぶつかつた。 坂井三郎も加わったゼロ戦隊は 敵機の真正面に突っ込んで行って20ミリ弾を叩きこんだ。 弾の速度に機速も加わって凄まじい破壊力が生まれ、 5機のB17は全機撃墜された。 B17神話が砕け散った瞬間だった。「日本よ、カダフィ大佐に学べ」 高山正之 新潮社
2017年12月25日
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すべての言語はまず話しことばとして存在したし、 数千もの言語は 今までいちども書かれることがなかったか、 あるいは書かれたにしてもごく最近のことなのである。 さらに付け加えると、 子供は読み書きを学ぶ前に 話しことばを使えるようになり、 それも何の訓練もせずに、自然にそうなってくる。 一方、読んだり書いたりすることは 特殊な技術であって、 子供はふつう前もって習得している 話しことばの知識に基づいた 特別の教育を施されるわけである。 本書では音声学については何も触れず、 また実例はすべて 通常の書記形式で引用することになるだろうが、 主として話しことばに関心を向けているということは、 つねに銘記しておかねばならない。 話しことばが書きことばに先行するという 原則を固守することは、 書きことばへの関心の欠如を意味するものではないし、 ましてこれを軽蔑しているのではない、 ということは強調しておかねばならない。 またそれは、必ずしも 書きことばがまったく派生的なものだ ということを意味するものでもない (多くの言語学者がこの条件をつけるのを 怠ったことは認めなければならないが)。「現代の思想家 チョムスキー」 ジョン・ライアンズ 新潮社
2017年12月22日
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ニーチェは、 デモクラシーの平等化(水平化)が 人間を凡庸と化し卑小化し頽落させて 〝家畜の群れ〟にすると、 「大衆」をもって〝家畜の群れ″ とまで激越な表現をするが、 その指摘はそれなりに鋭く正しい。 「人間の全体的な堕落が、ついにはやがて、 今日の社会主義者の頓馬や愚かものどもが (未来の人間)と見なし、 彼らの理想と見なしている状態にまで ゆきつくかも知れない! このように人間が完全な家畜の群れにまで堕落し、 卑小化するということ、 すなわち平等の権利と要求をもつ矮小動物まで 人間が動物化するということは、可能なのである」。 「(現代の知識人が) 全力をあげて手に入れようと望んでいるのは、 あの家畜の群れの一般的な(緑の牧場の幸福)、 すべての人のために 生活の保証、平安、快適、安楽を与える というあの幸福である」 ところでこの二つの引用は いずれもニーチェの『善悪の彼岸』からであり、 つまり善悪の峻別をもって成立しうる道徳を 否定し破壊する情念で書かれた著で論じられている。 だが、道徳の存在こそ人間を動物と区別するものである。 「善悪の彼岸」という思想こそ、 デモクラシーの下の「大衆」の 道徳(倫理)喪失という病いの 匡正(きようせい)ではなく、 この病いを悪化させるさらなる媚薬ではないか。 どうもニーチェの「大衆」批判とは、 嘲笑であり冷笑であり、 臆病とないまぜになった傲慢からのもので、 真正の自由への真剣な思索からのものではない。 チェスタトンは、ニーチェについて、 「孤立した倣慢な思考は白痴に終わる」、 とまで批判している。「正統の哲学 異端の思想」 中川八洋 徳間書店
2017年12月21日
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地域社会、 国内社会(ナショナル・ソサイアテイ)、 国際社会などというときの 社会とは、何だろうか。 人は特定の社会の中で生まれる。 まったく白紙で空自の空間に生まれるのではない。 社会とは、きわめて具体的な歴史と 環境を担った空間なのである。 したがって、人間はまったく自分の意思と能力で、 自分の所属する社会を作るのではない。 すでに作られた社会に生まれてきて、 その作られた社会に順応しながら生活をする。 この意味では、社会は「そこにある」ものである。 つまり、「自然」に酷似するものだ。 他方、そのような人間の形成する社会は、 自然とはちがって、きわめて長期的巨視的には、 人間の集団的努力が積み重なって変化するものである。 その限度では、 作為の契横がまったく存在しないわけではない。 したがって、図式的に割り切って言えば、 社会は自然と文明との中間的なものである。 両方の性格を兼ね備えたものである。 「社会的なもの」をこのように理解しないと、 考え方の混乱が起こる。「新戦争論」 小室直樹 KAPPA BUSINESS
2017年12月20日
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そもそも、私たちはあまりに長いあいだ (国語)の時代にどっぷりとつかっていたせいで ――つまり、(自分たちの言葉)を発する人間の 「オリジナリティ」という神話に どっぷりとつかっていたせいで、 そもそも翻訳という行為がもっていた根源的な 歴史的役割をも忘れてしまっている。 翻訳とは、歴史的には、 とことん非対称的な行為であった。 すなわち、それは、言葉のあいだに、 はっきりしたヒエラルキーがあるのを 前提とした行為だったのである。 それは、たとえば、フランス語の小説を 英語に訳したりすることではない。 それは、たとえば、ラテン語を アンダーソンの言う「口語俗語」に 訳すことである。 翻訳とは、そうすることによって、 上位のレベルにある(普遍語)に蓄積された叡智、 さらには上位のレベルにある (普遍語)によってのみ可能になった思考のしかたを、 下位のレベルにある(現地語)の (書き言葉)へと移す行為だったのである。 その翻訳という行為を通じて、 (現地語)の言葉が(書き言葉)として 変身を遂げていく。 ついには、 (普遍語)に翻訳し返すことまで可能なレベルの (書き言葉)へとなっていく。 (国民国家)の誕生という歴史を経て、 その(書き言葉)がほかならぬ (国語)として誕生するのである。「日本語が亡びるとき」 水村 美苗 筑摩書房
2017年12月19日
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自衛隊蔑視論は官僚世界にも根を張っていた。 90年代半ば、ルワンダ内戦で難民が出ると 外務省はその救済に自衛隊員派遣を言い立てた。 難民キャンプにも武装ゲリラが出没する。 エイズは流行る。危険千万で、 内戦に責任のある西欧諸国も尻ごみしていた。 で、米国が安保理常任理事国入りを餌に 日本に派遣を要請してきた。 外務省は喜び、派遣部隊に被害が出れば より外交効果があると読んで、 装備は小銃のほか機関銃一丁と ほとんど丸腰で送り出した。 自衛隊はそんな悪条件下でも 任期を無事務め上げたうえ、 武装ゲリラに襲われたNGOの 日本人医師の救出もやってのけた。 外務省には期待外れだった。 お前らは死ねばいいのに、なに勝手をやるのか。 共同も朝日新聞も 自国民救出など自衛隊の越権行動だと非難した。「日本よ、カダフィ大佐に学べ」 高山正之 新潮社
2017年12月18日
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菊池寛は、西洋への憧れというものを、 ひじょうに幸せな時点でとらえた存在だと思う。 つまり、もうちょっと年代が上の人たちは、 同じ西洋化一代目でも、 鴎外(おうがい)とか漱石(そうせき)となると、 外国語ができたし渡欧もしたし、 ここで自分が西洋というものを 受け止めていくのだといった、 使命感みたいなものがあったと思う。 本人にしてみれば、それは苦しいことであったろう。 しかし、菊池寛のように次の世代になると、 第一高等学校とか帝国大学へ入れば、 西洋の事はちゃんと教えてくれるという 安心感もあったし、 プランタンなんていう「カフェ」もできていたし、 西洋化ということに、 そう肩肘(かたひじ)張る必要はなかった。 それに、作家になってからの菊池寛は たいへん儲かっていた。 金で購(あがな)える西洋的価値は、 どんどん手に入るという事情があった。「西洋のなくなる日」 篠沢秀夫 朝日出版社
2017年12月15日
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政治権力の諸条件が変化したのである。 戦争は、全体的なものになって、 政治的、あるいは軍事的であるだけではなく、 経済的、技術的でもある 大きな力を政府の手に握らせたために、 個人的利益は自分を守ることができなくなり、 だんだんと共同体のなかに吸収される。 戦闘の緊張と喧騒がおしつけた制度は、 少くともそうしたものであるが、 しかしこの点考えちがいしてはならない。 ということは国家は こうした特別な事情のおかげで手に入った 武器を手ばなすことはないだろう。 国家は、それらのものを保持し、 さらに強固にしようと努めるだろう。 次いで、 群衆の目に白分を正当なものとみせるために、 それらのものを利用して、 群衆の物質的あるいは感情的欲求 (パンと闘技、規代のことばでいえば、 食糧切符と、スポーツおよひ映画)、 さらには、平等に対する群衆の本質的な 渇望を満足させるであろう。 大衆は、 暗黙のとりきめによって彼らに認められている 主権を自分で使う能力がないために、 大きな組織が発達した集団生活の 必須条件となったような時代においては、 主権を全面的に政府に委任するほかはない。 このようにして達するところは、 一人の人間、一つの党派、 あるいは官僚主義の独裁であり、その道の端には、 一つの枠のなかへの屈服があるが、 人はそれでも、依然として習慣から、 その枠を民主的と呼び続ける。「民族の心」 アンドレ・シーグフリード ダヴィッド社
2017年12月14日
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西洋人には、 作為の契機はわかりすぎるほどよくわかっている。 西欧における近代社会の成立は、 まさにこの点を基本とする。 しかし、同時に、西洋人も誤謬を犯した。 皮肉なことに、日本人の誤謬と逆の誤謬なのだ。 日本人は、「自然」偏向であるが、 西洋人は「文明」偏向なのである。 西洋人は、日本人とちがって、 自然と文明を峻別するのだが、 文明の取り扱いに当たって、 少し次元が異なるところで偏向に陥った。 すなわち、日本人が自然を広げすぎたように、 西洋人は文明を広げすぎたのではない。 ここのところをまちがってはいけない。 では、西洋人の犯した誤謬とは何だろうか。 それは、文明と言っても、 じつは二つに分けて考えなくてはならないことに 十分気づかなかったのである。 それは、「社会」という場と、 その場の上に構築される諸「制度」との 区別があいまいなことである。 むしろ、極端に言えば区別をしたがらないのである。 すべてが作為の契機だと、 簡単に片付けてしまう傾向があるのだ。「新戦争論」 小室直樹 KAPPA BUSINESS
2017年12月13日
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社会や制度によって 個人の幸福がもたらされるものではないのに、 大衆は、 社会や制度にこそ個人の幸福のすべてがある として現在の個人の「不幸」は 社会制度のせいだと考える。 このために、 大衆はみずからが不幸だとの認識において 社会に対する憎悪と怨念を煮えたぎらせ噴火させる。 かくして未来をバラ色に約束する「神託」の形で、 社会制度の改革をアピールし煽動すれば、 大衆の大暴走が生じて革命が起爆される。 ル・ボンの言うように、 「民衆は、灯火に向う昆虫のように、 幻想を提供する修辞家のほうへ本能的に向うのである。 ……むしろ誤謬でも魅力があるならば、 それを神のように崇めようとする」 からである。 すなわち、大衆社会とこの大衆を主体として その政治参加が神聖視される デモクラシー制度がある限り、 革命へのマグマは死火山になることはない。 せいぜい休火山である。 だから二十一世紀の自由社会においても、 雲仙普賢岳を懐に入れている政治状況が 改善されることはないのである。 要するに、大衆とは、 みずから個人の経済的な物欲の追求しか頭になく、 そして現在の制度(秩序)に変化がありさえすれば、 未来にこの追求は実現し何事も好転するという 不断の夢想に立脚した思考しかしないとすれば、 二十世紀に破綻したはずの「進歩の宗教」は 二十一世紀には「進歩の信仰」に格下げされても 力強く残ることになる。 全体主義への革命の情動(マグマ)はなくならない。「正統の哲学 異端の思想」 中川八洋 徳間書店
2017年12月12日
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これは Civil Censorship Detachment 民間検閲支隊の略語です。 次に掲げるのは、 削除又は発行禁止処分の対象となる項目を 略説したものである。 (月例報告書・付録一の書式に列挙してある。)一、SCAP(連合国最高司令官又は最高司令部の略号)批判 SCAPに対するいかなる一般的批判、 及び以下に特記されていないSCAP指揮下の いかなる部署に対する批判もこの範疇に属する。二、極東軍事裁判批判 極東軍事裁判に対する一切の一般的批判、 又は軍事裁判に関係のある人物もしくは事柄に関する 特定の批判がこれに相当する。三、SCAPが憲法を起草したことに対する批判 日本の新憲法起草にあたって SCAPが果たした役割についての一切の言及、 あるいは憲法起草にあたって SCAPが果たした役割に対する一切の批判。四、検閲制度への言及 出版、映画、新聞、雑誌等の 検閲が行われている事に関する 直接間接の言及がこれに相当する。 つまり検閲は現実に行っているけれども、 検閲が行われているということを 日本人に少しも知らせてはならない というわけであります。「利と義と」 江藤淳 TBSブリタニカ
2017年12月11日
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かって私は、 一日中考えにふけったことがあったが、 ほんのしばらくの学習の方が 秀(すぐ)れていることがわかった。 かって私は つま立ちして遠くを見ようとしたことがあったが、 高台に登った方が広く見渡せることが分かった。 高台に登って手招きすれば、 ひじが長くなった訳でもないのに、 より遠くの人にも見える。 風上から呼べば、 声が大きくなった訳でもないのに、 よりはっきりと聞こえる。 車と馬とを利用すれば、 足が強健になったわけではないのに、 千里の遠くまで行ける。 舟と梶(かじ)とを利用すれば 泳げるという訳ではないのに、 大きな川や湖をも渡り切る。 君子は、 生まれつき他人より秀(すぐ)れている訳ではなく、 他物をじょうずに利用している人なのである。「荀子」 岩波文庫
2017年12月08日
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この国は忌まわしいインディアン虐殺まで 「フロンティア精神」とか美し気に言って 世界を騙してきた。 「嘘で国家再建」もとっくに フランクリン・ルーズベルトがやっている。 彼はニューディール政策に失敗し 「見捨てられた指導者」 (W・ルクテンバーグ『ローズヴエルト』)だった時期、 経済再建の解決策として白人国家の敵、 日本との戦争を企てた。 日本は白人が第三世界を支配する 「国際秩序を破壊する疫病」 (彼の隔離演説から)という位置づけだ。 彼はまず蒋介石を白人国家側に寝返らせて 「中国を侵略する日本」像を創り上げ、 それを百回言って真実に仕立て、経済封鎖をやり、 国際機開から追い出し、真珠湾を実現させた。 あの戦争で株価は大恐慌前の水準に回復し、 米国は大国に伸し上がった。 米国の凄いところは戦後も 「日本は疫病」政策を続けていることだ。「日本よ、カダフィ大佐に学べ」 高山正之 新潮社
2017年12月07日
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情報が情報を呼ぶ。 情報は情報を誘導する。 このことは本書がたいそう重視していることだ。 「情報は孤立していない」、 あるいは 「情報はひとりでいられない」ともいえるだろう。 また、 「情報は行先をもっている」というふうに 考えてもよいかもしれない。 情報が情報を誘導するということは、 その誘導にはおそらく柔らかい道筋のようなものが あるかもしれないということである。 また情報に行先があるのなら、 その行先をうまく予測しさえすれば、 あらかじめ単語や概念のネットワークを つくっておくこともできるということだ。 もしそうだとすれば、(単語の目録)を いちいち(イメージの辞書)に対応させずとも、 (単語の目録)の内部だけでも 一定の連環をもてるようになる。 単語と単語がリンクを張りあって、 それだけでも連鎖してくるのだ。 これは、 (単語の目録)が内部構造をもった というふうに考えることができる。 単語リストがそれぞれ樹木状につながり、 リストからリストへ移動する 指示セットが用意できたからである (このことを専門的には「有限状態モデル」とか 「マルコフ・モデル」という)。 連想ゲームは、このようなことを 私たちに示唆してくれるのだ。 かくて私たちは、 連想ゲームなどの遊びをとおして、 (編集的状態)というものがどういうものか ということを知っていく。 情報の連鎖の中にいかに入っていくかということ、 そこにこそ編集の秘密が待っているのである。「知の編集工学」 松岡正剛 朝日文庫
2017年12月06日
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戦争は文明の所産なのだ。 制度なのだ。 自然現象ではない。 文明であるならば、それ相応の構造があり、 論理があり、手続きがあるはずだ。 したがって、根本的な問題は、 わが国に戦争が起こったらどうするか、ではない。 わが国をめぐって、 どのようにして戦争は起こるか、である。 戦争にいたらざるをえない深刻な紛争があるのか。 近い将来に想定されるのか。 それを回避する手段があるのか。 あるとすればどの程度の効果が期待されるか。 ないとすれば危険点はどこにあるのか。 それにはいかに備えるべきか。 このように考えないとおかしなことになる。 このような場合は、 紛れもなく日本は主演俳優の一人であるはずだ。 戦争は、少なくとも主演俳優が二人いる。 まさに、双方が作為の契機そのものだ。 一方を固定しないと、 具体的に思考活動ができないようでは困る。 それでは自然に対する野蛮人のようなものだ。「新戦争論」 小室直樹 KAPPA BUSINESS
2017年12月05日
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生命は力闘主義に貫かれる。 一部の非常に活力ある人間と、 それにつき従う多くの人間。 経営者は、 一部の非常に活力ある人間である。 活力あるとは、 声が大きいとか良く動くことではない。 人をして働かしめる人間のことである。 これには人々の長所を見て活用させるのが一番である。 どんな人間も認められたがっている。 そして、どんな人間も認める価値のある処がある。 良い処を認めて伸ばしてやる。 欠点をただすより、 欠点が気にならない程、長所を伸ばしてやる。 これが活力ある人間を造るコツである。「現象としての人間」 テイヤール・ド・シャルダン みすず書房
2017年12月04日
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民衆は「平等」が〝向上″否定となる、 恐ろしい「平等のパラドックス」などわからない。 そればかりか、 民衆は他人の〝低落″による「平等」化も欲求する。 富裕者の富を強制的に奪って喜ぶ。 民衆はしばし、 富裕者が貧乏に強制されて「平等」が達成されれば、 たとえみずからの経済状況が〝低落″しても 満足するのである。 〝低落″による「平等」要求とは 人間のもつ最も卑しく下劣な欲求である。 しかし、「平等」のドグマはこの反道徳を正当化する。 「平等」には道徳を破壊する麻薬効果がある。 「平等」のドグマは、 人間を卑しくさせ、さもしくさせ、 ついには人間の動物化を進める。「正統の哲学 異端の思想」 中川八洋 徳間書店
2017年12月01日
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