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副題は「何を信じるべきか」。 著者は、千葉大学大学院人文科学研究院の山田圭一教授。 本著は、千葉大学で行われた2回の講義資料をもとに書かれたもので、 タイトル通り「哲学」の視点から「フェイクニュース」について考える一冊。 まず、序章で「フェイクニュースとは何か」について考えてから、 第1章で「他人の言っていることを信じてもよいのか」 第2章で「うわさは信じてもよいものか」について考えていきます。 そして、第3章では「どの専門家を信じればよいのか」 第4章では「マスメディアはネットよりも信じられるのか」について考えたうえで、 第5章では「陰謀論を信じてはいけないのか」について考え、 終章「真偽への関心は失われていくのか」を考え、締めくくっています。 *** そして、うわさの伝達において「恐ろしい」「悲しい」「許しがたい」等々、 伝え手が抱いた感情を付け加えることで、そのうわさはニュートラルな事実としてではなく、 不快なものとして、恐るべきものとして伝えられていく。 単に「ある事件が起こった」ことではなく、 「許しがたい事件が起こった」ことが伝えられることになり、 ここでの事実の共有は感情の共有と一体となる。 そして感情の共有に重きが置かれれば置かれるほど、それと反比例して、 その情報が事実かどうかを吟味するという認識的な規範は働きにくくなっていく。(p.75)これは、第2章「うわさは信じてもよいものか」の一文。リアル社会でもネット空間でも、このような状況は日常茶飯事で、溢れ返っています。特にネット上で見られる、膨大な数の感情的で過激なコメントには驚かされるばかり。感情的になればなるほど、事実かどうかは二の次になっていくことがよく分かります。 この点で、判断を委ねるべき場面で判断を委ねるべき相手に きちんと判断を委ねることができる人こそが 知的に謙虚さという徳を持っている人であり、 その判断を自律的に行える人こそが 本当の意味で知的に自立している人だと言えるだろう。 (p.113)これは、第3章「どの専門家を信じればよいのか」の一文。本著の中でも、私の心の中に深く沁みこんできた一節です。常に「謙虚」であること、そして「委ねるべき相手」を見極めること。心がけていきたいと思います。 われわれはやらせや捏造が発覚したニュースに接すると 「だから、マスコミは信用できない」と考えてしまいがちだが、 そのような過度な一般化は活用できるメディアの範囲を不必要に狭めてしまうことになる。 あるいは「新聞の書いていることは信用できない」とか 「テレビの言っていることは信用できない」と言いたくなるが、 そこをもっと細かくみていくことで 「▲▲新聞は信用できない」「□□新聞の△△という記者の記事は信用できない」 「××テレビの○○という番組は信用できない」 「○○という番組のコメンテーターである△△氏は信用できない」といった具合に、 よりきめ細かい評価が可能となる。 さらに「○○が伝える医療についての内容は信用できないが、 経済についての内容はおおむね信用できる」のように話題ごとに細分化して評価することで、 該当メディアのすべてを切り捨てることなく、 活用できる部分を可能な限り残していくこともできる。(p.131)これは、第4章「マスメディアはネットよりも信じられるのか」の一文。これには、もう頷くしかありません。この姿勢なしに、「委ねるべき場面で、委ねるべき相手に。きちんと判断を委ねる」ことなど決してできないでしょう。 たとえば、われわれは偶然の一致を偶然の一致で済まさずそこに意味を見出す傾向性をもち、 偶然起こった出来事に何らかの意図を読み込む傾向性を持つ。(中略) しかし少なくとも、陰謀論に陥る心理的傾向性は 多かれ少なかれ誰でももっているのだと自覚したうえで、 自分がいま信じていることはもしかしたらそのようなプロセスに対する 最低限の知的自律性を確保することはできる。(p.164)これは、第5章「陰謀論を信じてはいけないのか」の一文。「最低限の知的自律性を確保すること」は、情報を受け取る側にとって必須事項。ヒトには「偶然起こった出来事に何らかの意図を読み込む傾向性」があるからこそ、深読みしすぎて、真相から離れていくこともありうるのだと自戒せねばなりませんね。
2025.01.20
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『涼宮ハルヒの直感』以来、約2年ぶりの新刊。 超常的能力者・涼宮ハルヒ、未来人・朝比奈みくる、超能力者・古泉一樹、 対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース・長門有希、 普通の人間・キョンのSOS団5人による、いつも通り奇想天外の大活劇です。 ***「act.1 ファンタジー篇」は、「ザ・スニーカー」2004年8月号に掲載された作品。勇者・ハルヒ、魔法使い・朝比奈さん、戦士・キョン、盗賊・長門、吟遊詩人・古泉の5人が、王様の依頼で魔王城に監禁されている王子と王女の救出に向かうというお話。いきなり最終地点に乗り込んで一撃で全てを吹っ飛ばすも、ミッションインコンプリート。「act.2 ギャラクシー篇」は、「ザ・スニーカー」2006年6月号に掲載された作品。宇宙艇隊長・ハルヒ、操舵要因のキョンと古泉、レーダー要員・長門、通信士・朝比奈さんが、スキズマトリックス号で宇宙海賊に軟禁されている王子と姫の救出に向かうというお話。しかし、救出した王子と姫が偽物だったため、ミッションインコンプリート。「act.3 ワールドトリップ篇」は、本著のための書き下ろし。アメリカ西部開拓時代、禁酒法時代のシカゴ、17世紀のイギリスっぽい国、第2次世界大戦中のヨーロッパ等々、次々に舞台が移り変わる中、キョンと古泉は、ここが仮想空間であると気付き、長門の協力を得て脱出を企図します。「final act エスケープ篇」も、本著のための書き下ろし。次なる舞台は、紀元前13世紀頃にギリシャとの戦を繰り広げたトロイアの円形劇場。ヘラ・ハルヒ、アフロディーナ・朝比奈さん、アテナ&アルテミス・長門の女神たちにゼウス爺さんからのフクロウの力も加わって、遂にミッション、コンプリート。
2025.01.12
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1942年2月7日、ドイツ軍がソ連・イワノフスカヤ村を急襲。 ただ一人生き残った18歳のセラフィマは、赤軍上級曹長・イリーナに救われる。 セラフィマは、似たような境遇のシャルロッタ、オリガ、ヤーナ、アヤらと共に、 イリーナ教官長の指導の下、中央女性狙撃兵訓練学校で厳しい訓練を重ねていく。 そして、狙撃兵旅団第39独立小隊の初実戦はスターリングラード奪還攻防戦。 ウラヌス作戦敢行の最中、訓練学校で最も優秀な狙撃兵だったアヤは敵戦車の砲弾に倒れ、 敵兵16人を葬ったセラフィマは、逃亡兵の助命嘆願を上級大将に直訴するも一蹴される。 セラフィマは失意のうち意識を失うが、目覚めると傍らに看護師・ターニャがいた。スターリングラードでは、マクシム隊長率いる第12大隊の生き残り4人を支援して奮戦。夫を殺され非占領地で暮らすサンドラは、ドイツ兵・イェーガーと愛し合う関係になっていたが、彼女が戦地から逃がしたその男こそ、セラフィマの母の命を奪った狙撃兵だった。ソ連軍はスターリングラードで勝利を収めたものの、戦争の終わりは未だ見えないでいた。セラフィマは、再会した幼馴染・ミハイルに赤軍兵士によるドイツ女性への乱暴について問う。それは事実だが、自分は上官に言われたり仲間にはやし立てられても暴行はしないと彼は答える。また、講義を終えた天才的狙撃兵・リュドミラに、頂点へ上り詰めた者の境地について尋ねる。「愛する者を持つか、生きがいを持て。それが、戦後の狙撃兵だ」と彼女は最後に言った。ケーニヒスベルク陥落に向けての最終段階、ヤーナは撃たれ生死の境を彷徨うが生還。セラフィマは、敵兵捕虜からイェーガーについて訊き出すと、単身敵陣に乗り込む。セラフィマは捕虜となるも、オリガの死体を盾にして、イェーガーの胸元に銃弾を放つ。その後、ドイツ人女性を路上に引き倒していたミハイルに向けても銃弾を放つことに。1978年、セラフィマはイリーナと二人で、イワノフスカヤ村の村外れで暮らしていた。セラフィマは、愛する者と生きがいの二つとも手に入れることが出来たと思う。 ***巻末の著者による「文庫化によせて」は、色々と考えさせられるところの多いものでした。2022年に始まったロシアとウクライナの戦闘は、他国兵をも巻き込み未だに続いています。以前、2022年の本屋大賞について『赤と青とエスキース』の記事で触れましたが、この二つの作品を比べて順位を付けるのは、とても難しいことですね。あまりにも作品の質が違うというか、扱っているものの次元が違うというか……でも、こちらの作品が1位に選ばれたことは、とても意義のあることだと思いました。
2025.01.12
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「教員不足」という現実に正面から向き合った一冊。 著者は慶應義塾大学教職課程センターの佐久間亜紀教授。 「第1章 教員不足をどうみるか - 文科省調査からはみえないもの」では、 教員不足を「各都道府県・指定都市等の教育委員会において 学校に配当することとしている教師の数が 正規雇用教員で充足されなかったために、 実際に学校に配当されている教師の数に不足が生ずる状態のこと」と再定義。そして、「第2章 誰にとっての教員不足か - 教員数を決める仕組み」では、必要教員数決定の仕組みを概説し、国からみえる実態と学校現場からみえる実態が異なると指摘。続く「第3章 教員不足の実態 - 独自調査のデータから」では、著者の研究室が実施した調査データに基づいて、教員不足の実態を明らかにしていく。「第4章 なぜ教員不足になったのか(1) - 行財政改革の帰結」と「第5章 なぜ教員不足になったのか(2) - 教育改革の帰結」では、深刻な教員不足に至ったここ20年の経緯を、行財政改革と教育改革の観点から明らかに。p.153~154に示されたその経緯は、凡そ次のようなもの。(1)行政改革により公務員の削減と義務教育費の削減が行われ、 地方自治体が教員の雇用控えと非正規化を促進、正規雇用教員数が大幅減に。 国は、子ども一人あたりの教員数を改善する中長期計画も中止。(2)教育改革により効率化できない仕事、福祉・危機管理等に関する仕事が大幅増。 教員管理も厳しさを増し、子どもと向き合う時間が減少。(3)様々な規制緩和により地方自治体の裁量は増えたものの、 教員の身分や給与保障の仕組みが失われ、職業としての安定性が弱化。(4)格差拡大やイデオロギーの対立、価値の多様化等の社会の変化が重なり、 学校が直面する課題が高度に複雑化、教職の難しさが大幅に増大。(5)教員の長時間労働が深刻化し、心身を病んで休職・退職に追い込まれる教員が増加。 政策による雇用控えと非正規化に加え、更なる非正規の需要が発生し教員不足に。(6)教員免許取得が難しくなったり、更新研修が必要になったりしたことで教職の魅力が減。 教員志望者が減少し、教員不足がさらに深刻化。さらに、「第6章 教員不足をどうするか - 子どもたちの未来のために」では、①何を基準にした誰にとっての不足か、②いつの時点での不足か、③どの地域の不足か、④どの学校種の不足か、⑤どの雇用形態の不足か、という視点から、教員不足という事態にどのように対処していけばよいか、著者が具体的な提言を行う。そして、「第7章 教員不足大国アメリカ 引く日本の未来を考える」では、アメリカの公立学校の現状から、このままだと日本社会がどうなっていくかを考え、最後に、「第8章 誰が子どもを支えるのか - 8つの論点」では、今後の教員不足対策について求められる議論について、著者が次の8つの論点を示す。論点① 教員数の地域格差をどこまで容認するか論点② IT技術は教員の代わりになりうるか論点③ 教員数の決定方法をどうするか論点④ 教員の待遇をどうするか論点⑤ 教員の数をどう確保するか論点⑥ 教育予算をどうするか論点⑦ 今後も公務員数を削減し続けるのか論点⑧ ケア労働者を社会にどう位置づけるか *** この背後には、日本社会の学校に対する期待がある。(中略) 単なる教科学習だけでなく、身体的・精神的・社会的な成長も含んだ 全人的な成長を包括的に支援することが、学校教育に期待されてきたのである。(p.42)教育基本法第1条に「教育は、人格の完成を目指し」とあるように、これまでの学校教育では、「全人的な成長」の支援が求められてきました。しかし、業務改善が叫ばれる中、部活動の地域移行なども進められており、日本の学校も「単なる教科学習だけ」の方向に大きく動き出しているような気がします。 これまで日本はアメリカと異なり、教育の機会均等を原則とし、 生まれた地域によって受けられる教育の格差を 小さくしようとする努力を続けてきた。(中略) もしも私たちが、せめて義務教育段階では、子どもがどんな境遇のもとに生まれても きちんとした教育が受けられる社会を望むなら、 全国の公立学校に教員を確保していこうとする政策努力が欠かせない。(p.214)これも、流れが変わりつつあるように思います。広く浅く投資するよりも、少数精鋭に重点的に投資する方向へ。際立った才能を持つ者を見つけ出し、伸ばし、飛び級も認め、超エリートを養成する。新自由主義の名のもとに1億総中流から脱却、教育の担い手は官から民へと移行。 子どもを安心して通わせられる公立小中学校は、水道や電気、医療と同じように 欠かせないライフラインの一つだということである。(中略) 公立高校がない地域からは15歳人口が流出してしまい、 地域社会や自治体そのものが成り立たなくなる。(中略) 公立学校の教員をどうするかという問題は、日本の多くの地域にとって、 地域の存続そのものに関わる死活問題なのである。 また、日本の公立学校が教育の機能だけでなく、社会福祉の機能や、 地域の防災拠点としての機能なども担わされていることも忘れてはならない。 私たちの当たり前の日常生活が、公立学校教員の働きにどれほど支えられているかは、 もっと知られる必要がある。(p.210)地域社会の中で、学校はこれまで大いなる役割を果たしてきました。しかし、業務改善が進む中、地域との関係性はかつてに比べ急速に薄れつつあります。この状況で、社会福祉や地域の防災拠点としての機能を、これまで通り果たせるのでしょうか?地域社会崩壊へのカウントダウンは、もう既に始まっている気がします。
2025.01.12
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