2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全8件 (8件中 1-8件目)
1
3、31、月昨日から本格的に一人暮らしを始めている。この文章も一人でワンルームの狭い部屋で書いている。僕はかつてかなり長く一人暮らしをしていたので、気楽な昔に帰った風である。今はまだ学校が始まっていないので、こんな夜中に呑気に日記を書いているが、さて授業が始まって文章を書く時間があるかどうか。文章を書かないとストレスが溜まる。ここは線路からも一本入っただけの場所だが、ほとんど音は気にならない。しかし住人には大学生が多く、夜中に騒ぐ声も聞こえることがある。連中は日付が変わってからドヤドヤと帰って来て、部屋の中でも奇声を上げて騒ぐことがある。余り酷いと大家に訴えねばならないだろう。このような煩わしさも、また新たな生活の味でもある。それでふと、自分の大学生のころを思い出した。僕はそのころ線路沿いの長屋に住んでいたことがある。厳密に言うと、長屋の横にぽつんと離れて建っている納屋のようなものであった。家賃は9000円。両親に負担をかけまいとして選んだ部屋であった。柱は傾き、壁と柱の間に三角形の隙間が出来ていて、そこから外が眺められるぐらいのもので、蟻が自由に出入りしていた。トイレは一応部屋の隅にあるドアを開くとそこにあって、元々床に穴を空けただけの厠であったことが想像できるが、そこにプラスチックの便座が無造作に置いてある。穴の下を見ると外の光で明るい。どういうことかと思っていると、ある日用を足しているときに、下から突然熊手が伸びてきて、便をかき集めて持って行った。なるほど、そのまま周りの畑の肥料になる訳だ。壁と柱の隙間は、友人が見かねてセメントを持って来て埋めてくれた。これでとりあえず部屋の中を寒風が吹きすさむということはなくなった。後、室内の壁が土壁で、指で触るとボロボロと土が畳に落ちる。歩くと建物自体が大きく揺れる。隣の長屋に友達が住んでいて、そこによく僕を含む四人が屯して騒いだ。ある時我々は外が白むころまで飲んで騒ぎ、朝には皆大学の授業に出かけて行き、何故か僕だけがその友人の部屋に残っていた。そこに勢いよく玄関の引き戸が開き、下駄を鳴らして一人の男が挨拶もなしに入って来た。男の出で立ちは法被に股引、鉢巻きに下駄を履いている。祭りでもないのに変わったファッションだ。僕が玄関に出ると、男は下駄のままその片足を框にドンと踏んで啖呵を切った。「テメー、ただで済むと思うんじゃねえぞ!昨夜はよくもあれだけ騒いでくれたな!何度も壁を叩いたのが聞こえねえとは言わせねえぞ!そら、どう落とし前付けてくれんだよ!」まるで長屋の金さんである。どうしてこんな大阪の下町の長屋に、江戸っ子が住んでいるのだろう。とにかくもの凄い勢いでまくしたてられて、僕は震え上がった。泥酔した記憶の中に、確かに壁を叩く音が残っていた。その時初めて隣の住民の迷惑というものを知った。我々は自分本意で、自分たちが楽しければそれでいいと思っていたのだ。小学生と何一つ変わらない。男はわめくだけわめいて、僕は頭を下げ続けてようやく帰って行った。その日の夕方に皆で菓子折りを持って隣の長屋に謝りに行った。入口の引き戸を開けると、男がステテコ姿で出てきて「何だおめえら!」と威圧した。さすがに男も怖かったのだろう。でも我々が謝りに来たと知ると、急に気を許したように世間話を始めた。おっさんは大工ということだった。男の娘が過激なミニスカートで出てきて、我々の横を通り過ぎて出かけて行った。僕たちと同じぐらいの年に見えた。この古ぼけた長屋とミニスカートのアンバランスな情景をよく憶えている。あのころはまだ明治か大正からある長屋がまだ存在したのだ。コの字に長屋が建っていて、その中庭のような狭いところに物干し竿が渡してあった。皆家族で雑魚寝をしながら生活していた。僕の部屋の反対側の家からは、薪を割る音さえ聞こえていた。今夜もこの部屋の隣室で学生たちが騒げば、あの時のおっさんのように下駄で啖呵を切りに出向くか。
2014.03.31
コメント(0)
・3、19、水A氏が持ち帰った中国古来の宮廷鍼灸技術は会得が大変困難で、優れた脈診、視診、触診の才能を必要とするようで、それに加えて理数系の聡明なおつむが必要なようだ。誰もが若い時から熱意を持って取り組んでも会得し切れないものを、僕がこの年齢から会得出来る訳はないと思うが、それでもやはり何処まで出来るかやってみたい。西洋医学の治療というのは、どうしても症状に出たものを切り取る、薬で抑えるということになる。地面の外に出て来た植物に除草剤を撒いて、目の前の痛みや痒みを取り去る。患者にしてみれば、兎に角今ある苦痛を取り去ってくれればそれが一番嬉しい。しかしその症状の原因を突き止めて、根っこが地面の下で芽を吹こうとする前にそれを取り去り、生活態度の中に含まれる問題の原因を突き止めようとする作業、それが僕の興味のある鍼灸である。とは言え、一旦癌になれば開腹して切り取ってもらうしかない。だから東洋医学と西洋医学はどちらも必要で、二つ合わせて「医学」と呼ばねばならないと思うのだけれど。兎に角日本での鍼治療の観念がとても浅く、鍼の持つ遥か深い能力を我々は知らない。この流派では、視覚障害者の弟子を受け入れた経験がないという。視診の出来ない僕がそれをどのように補って、なおかつ見えないからこそ健常者よりも秀でた部分を見つけ出し、自分独自の活路も合わせて探り出さねばならない。「急げ!人生は短い」とベートーヴェンは言い残したが、正に僕には時間が足りない。
2014.03.19
コメント(0)
・3、18、火とは言え、僕の年から始める鍼灸の勉強に関して、超えられない大きな壁が横たわることは予想している。通っている鍼灸院の先生とそのことを話すことがある。いつも治療を受けている鍼灸師は、この流派を日本に持ち帰った人の弟子の一人である。彼は素晴らしい技術を手にしていると思うのだが、彼自身はいつも自分を卑下する。もともと日本での門弟は数少ないのだが、その中でも本当に継承している者はほとんど一人だけ、ということである。それだけ難しいのだ。以下のことは噂として聞いただけの曖昧なことではあるが、あえて紹介したいと思う。そのことで僕が今からやりたいと目標にしていることがどれだけ困難で、またどれだけ魅力的で、且つどれだけ遠い道のりかが分かってもらえると考える。A氏が10歳のころ、小学校で毎日苛めに合っていた。彼は相手の連中をどうしても力で圧倒したい、と考えるようになり、様々な情報を駆使して弟子にしてもらえる武道家を探し、こともあろうにその武道の名手を台湾に見つけた。彼は手紙を書き、船で台湾に渡る。10歳という年齢で、一人で渡ったのかは不明である。以前台湾は日本の領地であったこともあり、片言の日本語を話す人も多い。A氏は実際に師匠を前にして「弟子にして下さい」と懇願した。そこで師匠は彼に尋ねた。「お前は幾つだ」と。「10歳です」と答えると「遅い!」と言われ、弟子入りを断られたという。それでも諦めず何日も弟子入りを請い、結果何とか入門を許された。入門してみると、自分は武道を習いに来たのだがそれだけではだめで、三つの修行がセットになっていることを知る。武道・料理・鍼灸である。毛沢東の文化大革命で、知識人は中国から追われた。ある者たちは殺され、ある者たちはアメリカに逃げ、ある者たちは台湾に逃げた。医者、教師、学者のような人たちで、鍼灸師もその知識人に含まれていたようだ。その師匠は台湾に逃げた人で、その技術は中国古来の宮廷内に育ったものだという。そこでは王の健康と身を守るために、古来から鍼灸・料理・武道はセットとして学ぶものだったそうだ。普通修行は2・3歳から始め、技術を叩き込まれて宮殿で王のために働く。A氏はそのような環境で18歳まで修行し、免許皆伝を受ける。その後日本に戻り、鍼灸師になるのかと思うと、そうではなく医者になった。ということは日本での学校教育も終えて、ということになる訳だが、その辺りの詳しいことは不明である。まあ兎に角彼は50歳を迎えるぐらいまで医者を務め、それからきっぱり辞めて鍼灸院を開業することとなる。 つづく
2014.03.18
コメント(0)
・3、14、金忠敬は、結局約20年ほどの間に、日本を10箇所に分け測量している。その測量の度に江戸に戻り、測量結果から地図を作成している。何故いちいち江戸に戻らねばならなかったかというと、幕府から「今回はこの部分を測定せよ」とお達しが降り、費用が出る。だからその命令の箇所しか測定出来ず、一回ずつ江戸に戻らねばならなかった、ということらしい。測定値と江戸の行き帰りだけでも大変な動力である。忠敬率いる測量隊は一日40キロを歩き、縄で測る測量器具を使用していたが、余りに時間が掛かるため歩幅によっての測量に切り替えた。海岸沿いの人の踏み入れないような岸壁にも果敢に出向き、船の上と岸で縄を使って測量した。北海道でも東北でも、まず海岸沿いを測定してから内陸の直径を計る。当時の北海道など、ほとんどの場所は人の踏み入れない未開の土地で、そんなところをどうやって計ることができたのだろう。もちろん野宿して進むのだろうけれど、熊や狼に襲われる危険だってある。寒さはどうやって防ぐのだろう。それに人間それだけ歩き続けることが可能なのだろうか。忠敬一行は、約5年ほどで日本の東側を測量し終わっているが、人間業とは思えない。現在車を使ってさえそんなに早く出来るものだろうか。師匠の至時はこのころ翻訳の過労から江戸で死去している。測定を重ねるごとに幕府からの信頼も厚くなり、支給される費用も増えていった。日本の東側の地図を完成させ時の将軍に見せると、大層感心し「西日本も作成せよ」ということになった。そこから約12年ほど掛かって残りを測定し、地図を完成させるところまで漕ぎ着けている。仕事を終えた時点で忠敬は73歳。忠敬が歩いた距離は、地球一周に相当するという。そこで忠敬が完成した全二本地図を前にして行った一言に驚嘆する。「こうやってみると、西日本に比べて、東日本の完成度が見劣りする。是非もう一度東日本を測定し直させて欲しい」と幕府に申し出ている。もちろんこれは却下されたが、自分がやると決めた仕事に対する執着心にただただ驚く。忠敬は55歳から測定を始めて、73歳まで、正に「存分に生きた」と言うべき老後を過ごし、地図完成後間もなく死去している。地図を作成しながら、もちろん自分の好きな暦作りも怠らなかったことだろうが、本来の自分の目的ではない地図作りが、これほどまでの偉業を成し遂げることにまでなろうとは、全く不思議な人物である。彼の死去のずっと後にヨーロッパの技術で日本の地図を作成することになった際、忠敬の地図がほとんどくるいのないものであることが証明され、また人々を驚嘆させた。 つづく
2014.03.14
コメント(0)
・3、11、火この度の入学を決心するに当たって、ある人の影響が根底にある。僕はその人を密かに敬愛し、勝手に門下生と称している。師と仰ぐは、伊能忠敬、その人である。伊能忠敬は最初の日本地図を作成した人物として知られているが、もともと彼は地図が作りたかった訳ではないのだ。成り行きでそうなった訳で、もともとは彼が50歳から全く違う分野の暦学に没頭することになり、趣味に留まらず、正に研究者を目指した。僕は彼が地図を作り上げた偉業にはさほど興味はなく、当時の50歳と言えば今の70を越えたほどの年で、全く違う分野に命を掛けて飛び込む、その熱意に惚れこむのである。彼は延享2年(1745年)1月11日、上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町)に生まれ、17歳の時養子として伊能家に入る。そこで酒造を営む伊能家を大いに栄えさせ、村が飢饉に襲われた際も貧民に金銭や食べ物の支援を行い、一人の餓死者を村から出さなかったという逸話を残す。50歳の時息子に代を譲り、以前からやりたかった全く違う分野の研究に踏み出す。それは、暦学である。そのため江戸に出て、当時その分野で権威と言われた高橋至時に弟子入りする。その際忠敬は50歳、至時は31歳であった。今とは違い、男が息子ほど年下のものに、頭を下げて弟子入りを請うなど考えられないことであるという。至時は「どうせ金持ちのご隠居さんの道楽だろう」と思っていたが、忠敬の直向な勉強意欲に感服し、見る目を変えて行った。忠敬は暦学研究で天体観測を行うため、自宅に天文台を作り観測をおこなった。至時の弟子となって5年ほど過ぎたころのことである。至時と重富は、寛政9年(1797年)に新たな暦『寛政暦』を完成させた。しかし至時は、この暦に満足していなかった。そして、暦をより正確なものにするためには、地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知ることが必要だと考えていた。地球の大きさは、子午線一度の長さを測ることで計算できるが、当時日本で知られていた子午線一度の距離は25里、30里、32里とまちまちで、どれも信用できるものではなかった。忠敬は、自らおこなった観測により、黒江町の自宅と至時のいる浅草の暦局の緯度の差は1分半ということを知っていた。そこで、両地点の南北の距離を正確に求めれば、1度の距離を求められると思い、実際に測量をおこなった。そしてその内容を至時に報告すると、至時からは「両地点の緯度の差は小さすぎるから正確な値は出せない」と返答された。そして、正確な値を出すためには、江戸から蝦夷地ぐらいまでの距離を測ればよいのではないかと提案された。しかし当時蝦夷地(北海道)に行くには、幕府の許可が必要で、何の理由もなしに一般人が渡ることは出来なかった。そのころ帝政ロシアが少しずつ日本に近づき、択捉島などを占拠したりしたことで、幕府が正確な蝦夷地の地図を欲しがっていることを知っていた至時は、地図を作ることを提案し、蝦夷地へ渡る許可を得ようとした。かなり苦戦したが結局許可を得ると、その役目として研究熱心で財力もある忠敬が任命された。最初のうちは忠敬は幕府から信用されていなかったため費用もほんの少ししか下りず、第一回目の測定はほとんど忠敬の自費で行われた。忠敬は出発直前、蝦夷地取締御用掛の松平信濃守忠明に申請書を出した。そこでは自らの思いが次のようにつづられている。「前略、私は若い時から数術が好きで、自然と暦算をも心掛け、ついには天文も心掛けるようになりましたが、自分の村に居ったのでは研究も思うようには進まないので、高橋作佐衛門様の御門弟になって六年間昼夜精を出して勉めたおかげで、現在は観測などもまちがいないようになりました。この観測についてはいろいろな道具をも取りそろえ、身分不相応の金も使いました。隠居のなぐさみとはいいながら、私のようなものがこんな勝手なことをするのはまことに相済まないことでございます。したがって、せめては将来の御参考になるような地図でも作りたいと思いましたが、御大名様や御旗本様方の御領内や御知行所などの土地に間棹や間縄を入れて距離を測りましたり、大道具を持ち運ぶなどいたしますとき、必ず御役人衆のお咎めにもあうことでありましょうし、とても私どもの身分ではできないことでございます。ありがたいことにこのたび公儀の御声掛りで蝦夷地に出発できるようになりました。。ついては、蝦夷地の図と奥州から江戸までの海岸沿いの諸国の地図を作って差しげたいと存じますので、この地図が万一にも公儀の御参考になれば重ね重ねありがたいことでございます。地図はとても今年中に完成できるわけではなくおよそ三年ほど手間取ることでございましょう。」 つづく
2014.03.11
コメント(0)
・3、4、火4月8日の入学式に向けて、いろいろと準備に追われる。何しろ生活が一変するので、もう大変である。僕が大変というより、周りの人々が振り回されるのである。まず現在CA声楽コンセルヴァトワールの午後に来て頂いている生徒さんに頼んで、夜か土日に変ってもらわねばならない。それが無理なら、夏休み、冬休みの集中レッスンも考える。それと、午前に行っている合唱団に話し合いを持ってご理解いただいた上、こちらの提案を受け入れてもらわねばならない。学校が16:00ごろに終わると、そのまま阿波座のスタジオに向かい、20:30までレッスンをし、次の朝8:30には教室に入っていなければならない。毎日河内長野まで帰っていると体を壊さないとも限らないので、学校の近くに下宿することにする。これで少しは睡眠時間が確保できる。生徒さんだが、これを切っ掛けに退会される方が続しつか、と思ったが、皆さん我がままを聞き入れて下さり、ほとんどの方が夜か、土日に時間を作って下さることになった。朝の合唱団も三年間別の先生を立てて、本番は僕が振らせていただく、というこれまた我がまま極まりない提案を聞き入れて下さり、模索しながらやって行く事となった。これほど周りを振り回す人間も少ないであろう。早速学校の近くにワンルームの部屋を探す。部屋代も安く、綺麗で、日当たりも良い部屋を見つける。ただし、難はエレベーターなしの四階で、出掛ける時に忘れ物は厳禁である。「部屋代が安い分、足で稼いで下さい」と不動産屋に言われた。何だか大学に入学して、初めて親元を離れて一人暮らしを始めたころの昔を思い出した。やってることが若いよな、と自分で感心する。さてこれでちゃくちゃくと準備は進んだ。ただ不安は、学校に通いながら残りの時間でびっしり仕事をして、予習復習の時間も宿題をこなす時間もないまま授業に付いて行けるのか、という問題である。おまけに当然のことながら、学期ごとの中間テスト、期末テストが存在する。それを仕事を持ちながらこなすことができるのか、という不安である。今の状況では、まるまる一日休みという日は全くない。そこを周りの人たちは心配する。おそらく無理だろう、と皆思っている。しかし兎に角、夏休みまでの三ヶ月間をやってみようと思う。それでだめなら、その時に考えて方法を模索しようと思う。母に言わせると「立ち行かなくなれば、すぐに学校を辞めなさい」という。家族のことを心配するのだ。しかし、そう簡単には行かない。 つづく
2014.03.04
コメント(0)
・3、3、月発表を見に行くことが不可能なら別に無理して行かずともよかったのだが、どうしても行きたかったので駅まで歩くことにした。バスもタクシーも運行停止だけあり、河内長野市内はどこも銀世界。駅に向かって少しずつ山を下る。こんなに雪が降ることも少ないので普段のショートブーツしかなく、ゆっくりと恐る恐る進める足に雪が入り込んで来る。駅も近づくと、横を通り過ぎる車が無遠慮に泥雪を浴びせかける。改札に辿りついた時に時計を見ると、家を出てから1時間半経っていた。電車に乗ってから気が付くと、靴の中が水浸し。目的の駅から学校までも、ますます強い雪が降り続ける。学校に着くまでに靴下を履き替えるチャンスもなく、合格発表の時間。皆が集まる前にごろごろと掲示板が引っ張り出され「発表です」という声。「掲示板が見えないものはどうするのだろう」と思っていると、試験官が近づき「茶木さん、受験番号は何番ですか?」と尋ねる。番号を言うと「はい合格しています。とりあえず自分で確認して下さい」と点字の発表表を手渡される。いくつもの番号を指で辿り、最後の方に僕の番号を見つける。その後合格者への入学説明会が始まる。1時間ほど掛かったが、濡れた足が氷のように冷えて来て、そのせいで頭がずきずき痛んで来た。どうやらやはり10代の若い子達は見当たらない。説明会が終わり、受験相談に乗っていただいた理療科の先生に挨拶した時に、思い切ってそのことを尋ねてみると「最近は少子化で、今年の高等部卒業生も三人でした。その子らも大学進学や、障害の中重複もいて、一人も理療科への受験がありませんでした」ということであった。なるほど世間は少子化で、必然視覚障害者も減る訳だ。結果僕の同級生は中年ばかりであるようだ。一体皆どのような理由で、この年になって理療を志すことになったのだろう。クラスが打ち解ければ尋ねてみたいものである。この説明会に出席しているものは、理療科と保険理療科に分かれる。保険理療かは按摩、マッサージの視覚で、理療科は鍼である。僕は理療科だが、クラスが何人なのかはまだ分からない。授業によっては一緒に受けたり、分かれたりするのだろう。先生方に「どうぞよろしくお願いします」と頭を下げ、学校を出る。駅までにコンビニを探し当てることが出来ず、そのまま電車に乗り、予約していた鍼治療に向かう。街中のコンビニでようやく靴下を買い履き替える。頭はづきづき痛んでいる。治療院に着き冷えを抜いてもらい、ほかほかした体で帰宅。別に特別機具を使って暖めなくても、鍼だけで体はそうなるのだ。治療の予約を入れていなければ、今頃風邪を引いて熱を出していたかもしれない。不思議なものである。僕は京都の盲学校に育ち、高等部を出ると皆が進む理療科に拒絶間を強く持ち、そこから逃げ出す手段として音楽大学に進んだ。「目の不自由なものが生きて行くためには、理療しかないのだ」という風潮がいやでいやで仕方なかった。本当に歌をやりたいと思うようになったのはずっと先のことなのだ。大学を出て教師をやっているころ、研究室に一人で居る時に突然「これが僕の歩む道ではいやだ。僕はやはり歌い手を目指したい!」と思った。一体何が切っ掛けで突然そう強く思ったのか不明だ。しかしその時を始まりとして僕は行動に移った。関西二期会のオペラスタジオに入り、京都芸術大学の大学院に入学し、その語ドイツに渡る。それ以来ずっと音楽の世界、歌の世界に身を置いて来た。そして志半ばで視力が低下し、実質上音楽活動は不可能となった。「音楽は耳の問題だから、目が見えなくともいくらでも活躍は出来るだろう」と言われることがある。とんでもない、見えなければ舞台に一人で出て行くことすら出来ないし、指揮を見ることすら出来ないのだ。オペラはもとより、指揮者の横に立って歌うオラトリオさえ不可能だ。それでは仕事にはならないし、依頼もない。そんな状態で歌い手を名乗ることがずっと辛かった。辛いままその苦しさから逃れることも出来ずもがいていた。音楽以外で生きていく術を僕は手に入れることが出来なかったし、音楽を離れる勇気も見出せなかった。とても苦しい道であった。惚れた女に振り向いてもらえず、かといって忘れてしまうこともできず、何年も見えない鎖に縛り付けられ女の周りをうろうろする愛の奴隷者のようである。昔見た「アマデウス」という映画の中で、忘れられないサリエリのセリフがある。彼は敬虔なクリスチャンであり、作曲する時はいつもチェンバロの上に掛けてある十字架に感謝を捧げて仕事をした。モーツァルトに出会い、彼の溢れる才能を知ることで「神がお選びになったのは自分ではなく、モーツァルトだったのだ」と思うようになって行き、ある日十字架を火にくべてしまう。しかしモーツァルトの発表する新しいオペラの素晴らしさを誰よりも理解し、歌劇場の桟敷席で、モーツァルトの指揮するフィガロの結婚四幕フィナーレを聴きながら心の内に語るセリフ「神は何故、私に性の快楽にも似た音楽への情熱を植え付け、その、声を奪われたのか!」。この映画を見た20歳のころからずっとこのセリフが心にこびり付き、このセリフを恐れた。広い意味で語れば僕は盲学校を卒業するとき、間違ったドアを開いてしまったのかもしれなかった。そして今、視覚障害があっても実力を発揮することが可能で、何よりも僕自身が溢れる興味を抱いていて、なおかつ仕事に繋がる分野に活路を見出すべく踏み入って行くのだ。不思議なものだ。音楽にすがり付くまで、あれほど嫌悪していた理療の世界に、自ら望んで帰って行く。もちろん、あえて残念ながらと付け加えるが、音楽を捨ててしまうことは出来ないだろう。僕にとって歌うことはそんなに簡単に脱ぎ捨ててしまえるほど、僕の体から分離したものではないのだ。これから違う世界に踏み出せば踏み出すほど、歌うことへの恋しさは募るだろうと予想している。しかし、それでも、僕は僕の身を守るために、もう一度僕自身の人生を意味のあるものにするために、違うドアのノブに手を掛けなければならないのだ。 つづく
2014.03.03
コメント(0)
・3、2、日紅葉の時期が過ぎ、クリスマスと正月が過ぎ、僕の誕生日が過ぎて「NSK合唱Combinare」演奏会の準備と本番のことであたふたしているうちに1月も過ぎ、追い込みの勉強が充分出来ないうちに2月8日の試験日がやって来た。当日は朝8時半までに試験場に入る規則になっていて、前の夜から雪混じりの雨がしとしと降る日だった。筆記用具(点字盤)・上履き・昼の弁当・受験表などを携えてたパンパンのリュックを背負って、まだ暗いうちから家を出る。さすがに緊張している。舞台本番の朝なら快い楽しみの含んだ緊張だが、それとはまた違ういやな緊張である。この感じ、何十年ぶりだろう。中学のころみたいに試験中に必ずトイレに行きたくならなきゃいいけど。試験場に辿りつくと、部屋の中にはすでに数人の人が音も立てずに座っていた。見渡すと僕と同じぐらいの年か、それ以上の男ばかりである。盲学校の高等部を卒業する18歳の子達と一緒に受験すると思い込んでいたのに、何だか雰囲気が違う。おそらく彼らは別の部屋で試験に望むのだろうと思い、開始時間を待った。最初に40分の小論文。点字で言えば40行書けと指示があったが、未熟な僕の点字では時間が足りない。「そこまで!」と言われた時には25行しか書けていなかった。内容はなかなか濃いいものだと思ったが。休憩を挟んで、90分の50問一般教養。これもおぼつかぬ僕の点字では時間が足りない。手を止めて考えている暇さえない。何とか最後まで答えを書いたが、後で考えようと思って捨てておいた問題に戻ろうとした時「そこまで!」の声が掛かる。やれやれ、答案を見直す時間さえない。これは後一年点字をじっくりやって出直しだ、と思って諦めた。昼食を取って、次に面接。長く待たされてから部屋に呼ばれる。指摘された椅子の前に立ち、名前と受験番号を述べてから着席。前には4人の試験官が座っていた。「貴方はなぜこの学校を受験しようと思われたのですか?」と一言質問が出るや否や、僕の口はすらすらと滑り出し、弁論爽やか、語っている僕自身が感動するような説明を返す。試験官から「はー、はー」と相槌の溜息が聞こえる。語りながら「僕の本当の特異とする分野は歌でも鍼灸でもなく、しゃべることなのかもしれないな」と考えていた。試験官が口を挟む暇もなく面接は終了。次に適正検査。一人ずつ呼ばれるので、控え室で他の受験者と雑談。そのころには皆の緊張も解けて、べらべらしゃべり出す。僕は数少ない女性の受験者と、僕より随分年上の男性と三人でいろんな話をした。適正検査は、指の押す力、入れ物から細い鍼を選び取れるか、ストロに紐を決められた時間に何度通せるかなど、後は簡単な体力テストをして終わった。荷物をまとめて学校を出ると、自分がくたくたに疲れていることに初めて気付く。結果発表は一週間後の14日。受験は終わったのに、それから数日時間があれば「勉強しなくっちゃ」という意識が消えなかった。14日の発表の日が来た。この日はまた近年珍しい大雪。僕の住んでいるのは小高い山の上なので雪もものすごく、朝から河内長野市内のバスもタクシーも運行停止。これは困ったことになった。 つづく
2014.03.02
コメント(0)
全8件 (8件中 1-8件目)
1


