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明日から2/2まで、田舎に帰ります。実家や友達と連絡とったりして、準備にバタバタしています。息子と二人の珍道中になりそうです。では、行って参ります。
2005.01.30
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ルカのさんから、夢に関する日記をと、リクエストいただいたのですが、最近は夢をあまり信用しなくなっています。(最近の科学で、睡眠中の人に人工的に夢をみさせることができるだろうか、などと考えているせいなのですが。)昔は、あまりにくっきりと覚えている夢にはやはりこだわりがあって、私の場合はそれをもとにしてよく詩を書きました。フリーページに載せている「紅い凧」なんかもそうですし、夢の中のできごとを物語的にしたものも多いです。これは、十数年飼っていた犬のレオが死んで、レオがキジバトの死骸をくわえている怖い夢をみたときに、書いた詩です。 犬 浅い土の下に埋まる おまえの脇を 今日も 上皮や髪や定着液が 排水管をつたって流れていく 私たちは 私たちの分身たちと相討ちしている 寄生虫が巣くい 連なる手に操られ 苦痛を孕んだおまえの顎や腹部は ばらばらに融けて 地底を住処にするという番犬にとどいたろうか 掘り起こされて 曝された果て おまえの眠った穴だけが残っている 山鳩を喰む首の無いおまえの低いうめき もうおまえは挨拶もいらない 仕組まれた 鎖を切って 吠えればいい わたしはおまえに間に合わなかった わたしはおまえに及ばなかった夢をもとにして書いた、短い詩を選んで書いて見ました。十年以上も前の古いもので、ごめんなさい。
2005.01.29
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テレビでみた映画です。*「北京ヴァイオリン」TOGETHER 2002/中国 監督:チェン・カイコー 出演:タン・ユン、リウ・ベイチー、ワン・チーウエン●番組案内:天才的なヴァイオリンの腕前を持つ少年と、彼の大成をひたすら願う実直な父親。中国映画界随一の実力派、チェン・カイコーが父子の情愛を繊細に綴った感動のドラマ。まず出だしの、ヴァイオリンの音色と赤ちゃんの出産の泣き声を合わせたところで、まいってしまった。笑ってしまうのだ。そこからずっとヴァイオリンの音色と共に天才少年とその父の物語が綴られていく。音楽の厭世的な師と成功して権威ある師との対比、音楽家への道の実力だけではない裏側や、競争。消費社会に変貌していく中にあって、リリィのやさしさ。すべてが、最後の北京駅でのヴァイオリン演奏/選抜コンサートの演奏の場面へと集約されていく。これはできすぎた、よくある話じゃないか。でも、最後は泣いてしまいます。この弦の音色を聞くだけで、泣いてしまっていいと、思うのでした。
2005.01.25
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ケイト・ブッシュのCD、「天使と小悪魔」が届いて、さっそく聴いていたのですが、ん?この変わった歌い方はどこかで聞き覚えがあるぞ、と思い出しました。探してみたら、ありました。その昔、すごく音楽通の人にご自分で編集したカセットテープを頂いたことがあるのですが、その中に入っていました。 1. THE INFANT KISS ~NIGHT SCENTED STOCK 2. ARMY DREAMERS 3. BREATHINGの3曲です。この声と歌い方は一度聴いたら、忘れられませんね。歌詞も歌手のことも知らずに、ただ聴いているだけでしたが、これを歌っているのがケイト・ブッシュでありました。この3曲は届いたCD「THE KICK INSIDE」には入っていなかったですが、CDには日本語の解説や訳詩がついているので、二十数年目にしてはじめて、輪郭がわかったというおかしなご縁であります。かわいいのに不思議な妖しい雰囲気のする歌い方ですね。「嵐が丘」の歌詞も見ましたが、これは泣いちゃいますね。これからまた、折を見ては聴いていきたいと思います。ルカさん、カインさんに多謝です。-------------うう~足元から冷えてきます。今日は午後から粉雪が舞っています。今夜は積もるかも。寒い~
2005.01.23
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以前から楽しみにしていた、シネマ歌舞伎「野田版 鼠小僧」を見てきました。シネマ歌舞伎というのは、歌舞伎に最新の映像・音響技術をドッキング、映画作りのノウハウも駆使してスクリーンで生の舞台の楽しさを味わってもらう、というものです。これは、平成十五年八月に歌舞伎座で上演された、野田秀樹作・演出による「野田版 鼠小僧」を映像化したもので、シネマ歌舞伎第一作目の試みです。生の舞台は平成十三年に上演された「野田版 研辰の討たれ」とともに、ぜひ観たかったものでしたが、とてもチケットは手に入らずと、あきらめていたものでした。出演は、中村勘九郎、中村福助、中村橋之助、片岡孝太郎、中村勘太郎、中村七之助、坂東新悟、中村獅童、坂東弥十郎、坂東吉弥、中村扇雀、坂東三津五郎の面々。歌舞伎を観た事のない私でも、名前を知っているという華やかさ。場内案内も、「どうぞ大いに笑い、手を叩き、足を踏み鳴らしてお楽しみください。」と観客の気分をかきたてます。野田ワールドと歌舞伎のフュージョン、大いに楽しみました。いやあー、面白かったです。笑ったり泣いたりしんみりしたり、歌舞伎役者の方たちの、野田流台詞回しやスピード感の演技の上手さに感心!生の舞台を見ているようでした。映像化のいいところは、セリフがはっきり聞き取れるので、言葉遊びの面白さが生きること。細かい演技や、生の舞台での空気感まではだせないかも知れませんが。物語は、意表もついてひねりも効いて、お金・お金も笑えます。野田さんの舞台はいつも何かが降ってきて、感動を呼び起こします。見終わった後、免疫力アップの快感がありました。
2005.01.22
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*シャルル・ボードレール(1821-1867) 1821 4/9パリカルチェラタンに生まれる 1827 父死す 1828 母再婚 1839 中学校を放校 1840 売笑婦サラと関係 1842 実父の遺産七万五千フランを相続 1844 民事裁判所により準禁治産者の判決 1850 この頃より梅毒の再発 1857 6/25「悪の華」発表 7/7「風俗壊乱の疑い」で起訴。発売中の書物押収される。 8/20 詩人及び発行人に罰金と六詩篇の削除を命ずる判決。 1865 重大な発作、悪化。 1867 8/31永眠 1949 5/31 破毀院は「悪の華」の著者及び出版社に対する1857年8/20の判決の無効を宣告する。●ボードレール(ジョルジュ・バタイユ「文学と悪」より)<人間は、みずから自分を断罪するのでないかぎり、自分を徹底的に愛することはできない>*ところで、たとえ自由が詩の本質であり---略---至高の自由な生き方こそ「うめきながら求める行為」にふさわしいものであるとしても、わたしはほとんどそれと同時に詩の悲惨と自由のくびきとを認めるものである。それというのも、詩とは、すでに確立されている秩序を言葉の上では踏みにじることはできるが、しかしその秩序にとってかわることはできないからである。したがって、無能な自由におぞ気をふるって、詩人が雄々しくも政治活動のなかにとびこんでゆくなら、彼は詩を捨てたことになる。そのかわりに、その時から彼は、きたるべき秩序への責任を一身にひきうけ、行動性の方向づけ、すなわちひとり立ちできる態度を復権させることができるだろう。こう考えてくると、至高の態度への可能性があるとわたしたちが考えた詩的実存とは、実はひとり立ちできない態度であり、単に子供の態度、無償のたわむれでしかないものと考えざるをえないことになる。<行動性の散文的な世界と詩の世界>*サルトルも、詩人の悲惨について語りながら、それは、存在etre と実存existenceとを客体的に結合させようとする気ちがいじみた欲望であると断定して、この不可能性を的確に表象している。*なるほど詩は、反射されている諸事物と、それらの事物を反射するものとしてある意識との、一体化をのぞむという点で、不可能をのぞむものであるが、しかし、諸事物の反映だけに還元されてしまわない唯一の方策とは、つまり不可能をのぞむことではないだろうか。<詩は、ある意味では、つねに詩の反対物である>*詩人の宿命の根源には、たしかに唯一性unicite の確信、選ばれた者としての確信がある。これがなければ、世界を自分自身に還元するとか、自分を世界のなかにまぎれこませるとかいう試みは、その本来の意味を失ってしまうことになるだろう。*---このはみ出ている[余計者としての]立場を彼は十全に利用することができたのだ。すなわち、恍惚と恐怖とが入りまざっているひとつの完璧な動きのうちに、彼の詩は、自由奔放な感受性の極限にたゆむことなく維持されている充実感と、精根を打ち涸らしてしまうほどの希薄性と不毛性とを、帯びることになったのである。<ボードレールと不可能の彫像>*サルトルはこう言っている。ボードレールは、「不変の、手を加えることもできない」過去でしかないものになろうと心がけ、「まるで早期の終末がすでに自分の生を凝固させてしまっているかのように、自分の生を死の観点から眺める」ことをえらんだ、と。*---その意味で、『悪の華』からこの錯乱にまで、彼の夢みたものは、不可能な彫像ではなく、まさしく不可能の彫像だったのである。<『悪の華』の歴史的な意味づけ>*すべての行動様式とおなじく、詩もまた、経済的な角度(アングル)から考察することができる。さらに詩と同時に、道徳もこれにふくめて、そうすることができる。*彼はただ、詩人の追いつめられた精神状態を、弁護の余地もないその不可能な姿のままに、表現することしかしなかったのだ。ところで、詩人がでっち上げた悪よりは、詩人がそれに眩惑された悪の方が、より悪の名にふさわしいものではなかろうか。*こうして旧来の詩は、詩のなかにふくまれている自由に制限の手を加えたが、ボードレールは、この擾乱にみちた大海のさなかに、もはやなんの責任もとらずひとに満足をあたえることができようなどとは思いもおよばない破壊的な眩惑に、ただ手放しに身をゆだねる呪われた詩という陥没[意気消沈]depression をきりひらいたのである。こうして詩ははじめて、外部からおしつけられる諸要求すなわち意志の諸要求にきっぱりと背をむけ、自分を眩惑するものと詩を結びつけ、詩を意志の反対物とする内心の要求だけに対応するものとなったのだ。詩のはたす、このひとり立ちできる決定には、弱い個人としての選択以上のものがある。*いずれにせよ、ボードレールの詩それ自体は、現在すでに超出されている。つまり、善(持続への関心と結びつく任意の価値)に対する拒否と、持続的な作品の創造とのあいだに横たわる矛盾のゆえに、詩は、急激な解体の一路をたどり、次第次第に否定的な相貌を呈して、意志の完全な沈黙というかたちで抱懐されるにいたるのである。-------------ボードレールの章では、サルトルのボードレール論を基に語られる部分をはじめとして、読み応えがありすぎて難しいため、もっとも現在の私に印象に残った部分のみ抜書きして、あとは項目のみ記して、逃げることにします。(笑)年譜は、手元にあった1973年版ユリイカの「特集ボードレール」より、ほんの少し書き出してみましたが、改めて生涯をたどると、「悪の華」の意味するところの手がかりになりそうです。---------------サルトルとの論点、また私が興味を持ち、共感を覚える部分を、最小限ですが、抜書きしてみました。怠け者の背中を押してくださった、ゆさんに感謝いたします。(1/28 15:00記)
2005.01.21
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ブロンテ三姉妹*シャーロット・ブロンテ(1816-1855) 「ジェーン・エア」/1847*エミリ・ブロンテ(1818-1848) 「嵐が丘」/1847*アン・ブロンテ(1820-1849) 「アグネス・グレイ」/1847「三人詩集」/1846●「文学と悪」より*衆知の様に、ブロンテ三姉妹は、この牧師館のいかめしい空気のなかにありながら、同時に文学創造の灼熱した擾乱のなかに生きた。*エミリだけは、自分の精神の孤独をまもりつづけて、そこに彼女の想像からうみ出された亡霊どもをひそかに養い育てていたのである。<エロチスムとは、死を賭するまでの生の賛歌である>*{死こそ愛欲の真理である、という命題}<少年時と理性と悪>*まったく、ヒースクリッフの悪魔的な意志が、なんとしても断念しようとはしなかったあの少年時の王国とは、不可能と死とでなければ、いったいなにを意味するものだろうか。*それに、ロマネスクの文学の中で、このヒースクリッフほど、現実的に、素朴に、ひとの心に訴えてくる人物はいないのだ。しかも、その人物が、善の世界、おとなたちの世界に反抗し、その情け容赦のない反抗を通じて断固として悪の側に与しようとする、子供の真理という直接的な真理を具現している人物なのである。<エミリ・ブロンテと背反>*真正な意味での悪とは、単に悪人のいだく夢ではなく、ある意味では、善が心に思い描く夢だということにもなる。*『嵐が丘』には、ギリシア悲劇の動きにも比すべきひとつの動きがある。それというのも、この小説の主題が、掟への悲劇的な背反ということにあるからである。*ところで『嵐が丘』の究極的な意味とは、要するに、この道徳律への背反と超道徳(イベルモラル)との緊密な調和にあるのだ。*エミリ・ブロンテの態度において突然あらわれるものとは、犯しがたい強固な道徳に寄生しながらも、組織づけられている社会とどんなに和合し強調しようとしても弱まることのない、聖なる暴力への夢想だったのである。<文学と自由と神秘的体験>*有機的に他と結びつかないところから、文学は無責任なものである。なにものも文学をたよりにすることはできない。それというのも、文学はなんでもかまわず言ってのけることができるからである。*エミリ・ブロンテの諸作品のなかでも、もっとも荒々しく、もっとも詩的な作品の題名である『嵐が丘』には、真理の啓示される場所としての「丘(高所)haut lieu」という言葉がふくまれている。<悪の意味>*さまざまの反対物のこの調和のなかでは、悪はもはや、理性の圏内にある時とはちがって、自然の秩序と真向から対立する原理ではないことになる。それというのも、死が生の条件であるからには、本質的に死と結びついている悪もまた、両義的な意味でだが、存在の基礎にほかならないことになるからである。そうはいうものの、存在は、別に悪にささげられているわけではない。*誇り高い存在は、自分の犯した挑戦の最悪の諸結果をも、誠実に自分の身にひきうけようとする。いやむしろ、それに敢然とたちむかってゆかずにはいられないのだ。それというのも、「呪われた部分」とは、賭の、僥倖の、危険の部分であり、さらに至高性の部分でもあり、しかも至高性とは、自分の罪をつぐなうものだからである。--------------ジュルジュ・バタイユ「文学と悪」1957 山本攻訳/1992 よりエミリ・ブロンテの章を項目順に抜書きしてみた。もちろん、これがバタイユの言説の特徴を捉えているとか考えたわけではなく、単に今現在の私の琴線にふれ、「嵐が丘」を読むにあたって鋭く指針となる文章であったからです。
2005.01.20
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テレビで見た、映画です。*「攻殻機動隊 GHOST IN SHELL」 監督:押井守 原作:士郎正宗 音楽:川井憲次一度見ただけでは、内容はよくわからなかった。日・米・英で同時上映されて、アメリカでヒットし一躍有名になったそうですね。そしてウォシャウスキー兄弟の「マトリックス」に影響を与えたとか。(←このことは納得できる)音楽がとてもよかったです。今言えるのはそれだけかな。(笑)*「キル・ビル Vol.1」KILL BILL VOL.1 2003/米 監督:クエンティン・タランティーノ 出演:ユマ・サーマン、ルーシー・リュー、千葉真一●番組案内:全てを奪った男、ビルに復讐を誓う女、ザ・ブライド。鬼才タランティーノが、カンフーからアニメまでB級映画のエッセンスを濃縮した活劇大作の第一部。[R-15指定]これまたびっくり。タランティーノが撮った、勝新の座頭市か、やくざ映画か、バトルロワイヤルか。アニメまで入っていて、笑っていいともなのか。まあキルは切るなのでもありましょうが、めったやたら切りの血の海でした。日本語がやや聞き取りにくかったですね。でもこうなったら、2部も見たいです。
2005.01.19
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今日は久しぶりに、野良猫たちのことを書きます。うちの同居人は、何故か魚肉ソーセージに愛着を持っています。それでお酒のおつまみに、時々自分で買ってきます。(魚肉ソーセージ=着色料+添加物のイメージが刷り込まれている私が、買わないからです。)楽しみは、一杯飲みながらそれをノラたちと分け合って食べることなのですが、いまだかって、どの野良猫も魚肉ソーセージに見向きもしませんでした。匂いをかいだだけでプイと行ってしまいます。意地になっている彼は、失礼な奴だと憤慨するのですが、今回はじめて「チロ」が一本まるごと食べたのです。目を輝かせて喜んでいました。が、三回目にはやはりチロも拒否して行ってしまいました。それから2日来ませんでした。お正月に、福袋に入っていたぬいぐるみの子犬を見せられて、一目散にすっとんで逃げて、2日姿を見せなかったとき以来の出来事です。ネコの食べ物の好き嫌いは、ほんとに謎であります。が、何か怪しい物質が隠されているのかも知れません。
2005.01.18
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今まで見た映画の「嵐が丘」のメモ。1.嵐が丘 WUTHERING HEIGHTS 1939/米 監督:ウィリアム・ワイラー 出演:ローレンス・オリビエ、マール・オベロン、デビッド・ニーブン2.嵐が丘 ABISMOS DE PASION 1953/メキシコ 監督:ルイス・ブニュエル 出演:イラセマ・ディリアン、ホルヘ・ミストラル3.嵐が丘 WUTHERING HEIGHTS 1992/英 監督:ピーター・コズミンスキー 音楽:坂本龍一 出演:ジュリエット・ビノショ、ラルフ・ファインズ4.嵐が丘 1988/日本 監督:吉田喜重 音楽:武満徹 出演:松田優作、田中裕子、名高達郎、石田えり、高部知子、古尾谷雅人、三国連太郎吉田喜重監督の「嵐が丘」も、私は好きで印象に残っています。------------------------今日は町内会の「防犯パトロール隊」に声がかかって、行ってきました。方角オンチの上に、ほとんどお付き合いがないので、この町の地理については全くの無知。6名の方々の後ろについて、割り当てられた地区を回って歩きました。空き巣、放火、子供の誘拐などについての防犯パトロールです。所々に市によって消火器が設置されていることも、はじめて知りました。この地域の放火やひったくり、空き巣の多発に加えて、昨年の日本各地の災害の甚大さが加わったため、防犯パトロールも回数が増やされたようです。あと一回で、町内会の環境協力員の駅周辺のゴミ拾いの仕事も終わると思っていたのに、そうは問屋がおろさなかった。とほほのほ。
2005.01.17
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昨日は世田谷の、ぼろ市に行くつもりだったのに、悪天候だったため近場で映画を見てきた。*「ネバーランド」Finding Neverland 2004/米・英監督:マーク・フォースター出演:ジョニー・デップ、フレディ・ハイモア、ケイト・ウィンスレット、ジュリー・クリスティ、ダスティ・ホフマン、ラダ・ミッチェル童話劇「ピーター・パン」が生まれるまでの劇作家ジェームス・バリの実話に基づいた物語であった。美しい物語で涙したのだが、何故か一抹の違和感が残り、考えてみたら「ピーターパン」について何も知らないことに気がついた。それでもって帰りに「ピーターパンとウェンディ」石井桃子訳(福音館書店)を買ってきてしまった。これを読めば、ネバーランドについてもっと何かがわかるかもしれない。ジョニー・デップについては、「デッドマン」DEADMAN 1995/米、ジムジャー・ムッシュ監督の映画で知ったのが最初だった。この映画はとても好きな映画だったのだが、ほとんど忘れてしまっていた(嗚呼)。当時のバンフを出してきてみたら主人公デップの名前は“ウイリアム・ブレイク”であったのである! そしてネイティヴ・アメリカンの名は“ノーボディ”。こんなところでも、「文学と悪」で語られているウイリアム・ブレイクに会えるという接点が見つかったのであった。ところで、デップは魅力的です。昨日は公開初日だったためか、デップのブロマイドを配っていて、もらってきてしまいました。おほほ。41才ですって。
2005.01.16
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昨日は、中島たい子著「漢方小説」を読んだ。ちょうどうちの子供と同じくらいの世代を描いているので、身につまされるように、一気に読んだ。明るく軽いタッチで書かれているので、暗くならずに読めるのだが、こんなに効く漢方とそのお医者さんがいらしたら、私、すっとんで参ります。バタイユ・ショックおさまらず。まだウロウロと“まえがき”付近に停滞中。*その世代は、シュールレアリスムの擾乱のさなかに、文学の世界に目ざめた。第一次大戦につづく数年のあいだ、あふれるばかりの感情が渦まいていた。文学は自分の枠のなかで窒息しかかっていた。当時、文学はひとつの革命をはらんでいるように見えた。*……わたしの考えでは、文学とは、本質的なものか、そうでなければ、なにもないものである。ところで、文学の表現するものとは、まさしく悪---悪の極限の状態---なのだが、その悪こそ、わたしたちにとって至高の価値をもつものだとわたしは考えている。しかしそうだからといって、別に道徳(モラル)の不在を主張しようというのではない。むしろこれは「超道徳」(イベルモラル)を要求するものである。*文学とは、無垢のものではなく、もともと罪深いもので、ついには自分の正体を暴露せざるをえないものである。現実の世界では、行動ばかりが権利をもっている。*---文学とは、ついにふたたび見いだされた少年時のことではなかろうか。ところで少年時とは、もしそれがこの世界で支配的な立場に立つことがあるとして、その時もなお真理を宿しているものだろうか。行動の必然性を前にして、はじめて、自分に対していかなる権利をも認めようとしなかったカフカの誠実さがひとの心に迫るものがある。 「文学と悪」山本功訳 まえがきより
2005.01.14
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急に月末に息子と二人で田舎に帰省することになった。今日ははじめて楽天で、航空券と宿泊の予約をしてみた。あーだこーだやって、予約完了。結構割引が利用できるのであった。なんだかトクした気分。パソコンにへばりついていて、その他あたふたと雑用を済ませて、あっというまに一日が終わってしまった。無為というのか、空虚というのか、ヘンな感じ。パソコンで実務をすることって、とらえどころのない感覚が残る。たぶん、慣れていないからなのだろうけど。なんだろ、この何もない感覚。
2005.01.12
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本を四冊くらいとっかえひっかえ読んでいます。ジュルジュ・バタイユの「文学と悪」、「刑苦」長田弘著「私の二十世紀書店」三浦しをんさんの「月魚」なんだかあまりの乱読で、“ここはどこ?”“私は誰?”の状態です。「文学と悪」は読みでがありすぎて、とてもまとめての感想は書けそうもないので、少しずつ書いていこうと思います。今年は花粉がすごい年だそうで、我が家にも花粉症患者が早々に発症。鼻をズルズルいわせながら「ああ、気分が悪い」とため息つきながら、家の中をやるせなさそうに歩き回っています。少し静かにしてくれい!と内心思っている私は、今のところ花粉には鈍感を誇っています。
2005.01.11
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眼球譚[初稿] オーシュ卿(G・バタイユ) 生田耕作訳 河出文庫 2004/6 2刷発行 読み終えました。ジュルジュ・バタイユ(1897-1962)(フランス)が、オーシュ卿(便所卿)の匿名によって1928年に地下出版されたポルノグラフィーである。いやはやびっくり。この本を読んでいるとき、ふいの訪問客があって困ってしまった。引き込まれているので、すぐにはこちらの世界に戻って来れないのである。構成はからなる。まず、題名に興味を持ったのだか、想像をこえた猟奇的世界が繰り広げられる。まあ、ものすごいです。手がかりになるのは次の箇所あたりからでした。*他の人間にとってはこの世界はまっとうなものに思われる、そのわけはまっとうな人間は去勢された目をしているからだ。彼らが淫らなものを恐れるのはそのためだ。雄鶏の叫びを耳にするときも、星空の下をさまようときも、彼らは何の苦悩も体験しない。総じて、世間の人間が《肉の楽しみ》を味わうのは、それが色褪せたものであるという条件のもとにおいてだ。 (物語 8、死者の見開いた眼 より引用)この後は、第二部 暗合 で納得させられ唸ったのでありました。面白かったです。アンチモラル、超道徳だと思います。解説に引用されているロラン・バルトの、この作品では「すべてが明るみに出されている。円環的で、明白で、なんらの秘密もとどめない。いわば、からりと晴れた大空の文学を組み立てている。これがこの作品の常ならぬ美しさであり、新しさだ」という言葉が、私にはすんなりと入ってきました。名作だと思います。昔、子供のころみたモノクロームの日本映画で、題名も覚えていないのですが、エレベーターの裏側の仕組みががものすごく怖かったことと、眼球が落ちているのを知らず拾って、悲鳴をあげる場面があり、その二つが長く脳裏に焼きついていて、眠れなかったことを思い出しました。これから「文学と悪」を読みますが、わくわくするものがあります。カインさん、多謝です。
2005.01.07
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遅ればせながら、江ノ島に初詣に行ってきました。さすがに三が日を過ぎているので、並ぶことなくスムーズにお参りも、食事もできました。毎年、強風にあおられながら江ノ島大橋を渡り、裏の岩やの荒波を見て、やきはまぐりを食べて、甘酒を飲んで、納得します。今年は稚児が淵の風が、一段と吠えておりました。富士山もうっすらと姿を見せてくれました。トップページに写真を数枚、アップしてみました。
2005.01.04
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昨日(2日)は、娘と映画を見てきた。「ハウルの動く城」宮崎駿監督 2004年/スタジオジブリ現実の世界と魔法の世界が融合していることが、妙にリアルに感じられるのだった。これは何故なのだろう。アニメだから出来ることでもあるのだろうけれど、現実にある出来事は魔法の世界に置き換えることができると思えたのだった。愛について細やかに軽やかにストーリー性を持たせて、ひとときの和み。映画のあと、若者の後について歩いて珍しいお店などをプラプラ。珈琲屋で食べた"くるみパンパフェ"が、パンを香ばしく焼いてあって、美味だった。そして今日はごろんごろん、寝正月してました。七日までに初詣に行きたいものです。海も見たいし。
2005.01.03
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昨日大晦日の雪は5時頃より雨に変わり、一部ストップしていた電車も徐行で運転開始。娘は鼻の頭を赤くして帰宅。息子も凍結した坂道を避けて迂回しながら無事帰宅しました。オトーサンは、せっせと雪かき、ご苦労様でした。今朝元日の朝は真っ青に晴れ渡っていましたが、午後より曇天となり、寒ーい一日でした。仕事をおえて子供たちが帰宅し、やっとビールで乾杯。明日は主人が仕事ですので、普通の日より普通的年の初めとなりました。☆明けましておめでとうございます。☆今年もどうぞよろしくお願いいたします。
2005.01.01
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