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朝、起きたら寒かったのでまた温泉に入った。湯船に入っていると、また気配がする。「ここには長いの?」うなづく気配がした。そのまま風をまとって出て行った。部屋に戻って身支度をして、残しておいたおにぎりを食べた。ロビーに行くと旦那さんがいて、すずはまた女将さんを追い掛けて飛び回った。避難してきている奥さんと話をしながら、ご主人を待った。正直、本当にガソリンが分けてもらえるのか不安だった。やっぱり手に入らなかったらどうしよう・・・気が変わってたらどうしよう・・・10時過ぎにご主人が宿について、ガソリンを分けてくれた。「15リットルはあるから、かなり行けるはず」ありがたかった。ちょっとだけ気持ちを添えて代金を払った。やっと、出発できる。戻るか、進むか迷ったがやはり進もう。明るい気持ちで疎開地に向かった。高速に乗れれば給油できると勝手に思っていた。ところが、まさかの欠品。心底あわてた。ツイッターで・・・いや、ここはオーディエンスより、テレホンだ!知人にメールした。次で入れられる。電話で確認してくれたらしい。そのまま80km走行で次のSAに向かった。ぎりぎり、給油できて本当にほっとした。その日の夜遅くに疎開地に到着した。
2011年03月21日
日本海側では普通に給油できると聞いていた。残ったガソリンは10リッターあるか無いかだった。Aさんはおにぎりを握って持たせてくれて、寂しそうに見送ってくれた。心が痛んだ。それでもここから離れられることが嬉しかった。山を越えて、日本海側に入っても給油できなかった。不安になった。行けども行けどもガソリンスタンドは開いていなかった。そのうち、給油ランプが付く。・・・あと40km程度は走れるだろうかツイッターで情報を探す。良い情報は何も無かった。車を停めて、エンジンを切って、すずと一緒におにぎりを食べた。周辺情報を調べて、片っ端から電話したがガソリンは無かった。日が傾きだす。こんな雪がたくさんあるところで、車中泊は無理かも・・・宿泊した方がいいかも。今度は宿を探す。一番近くて、安くて、可愛い名前の宿に電話をする。感じのいい女将さんが、とりあえずいらしてみたら、と言ってくれた。行ってガソリンのことを相談すると、ご主人があちこちに電話してくれたがけんもほろろなのが、こちらにもわかる。どうしよう。「このままここに泊まった方がいいのでしょうか?それともガソリンスタンドに並んだ方がいいのでしょうか?」ご主人も黙り込む。その内ポツリと「情報が入っても、何日か前のことだったりするからね」・・・そうだろうなあ。私が聞いてた情報と違うもの。ずっとロビーにいた女性が、電話をしながら席を立っていった。初め娘さんかと思ったら、被災地からこちらに避難しているお客さんだと言う。他にお客さんは居ない。沈黙だけが空間に広がる。さっきの女性が電話しながら戻ってきて、突然「10リッター、都合できます」・・・びっくりした。話を聞いていて、ご主人に頼んでくれたらしい。あまりのことに泣き出してしまった。 女将さんはすずも一緒に部屋に連れて行っていいと言ってくれた。すずも女将さんが気に入って、飛んで行っては肩でなんだかんだと女将さんに話しかける。「すずちゃん可愛いでしょ?」「ご飯食べる?」「お仕事?」女将さんも楽しそうにすずをかまってくれた。「はいはい、遊びたいの?」「うんうん、かわいいねえ」急な出費だったので、食事は持参したおにぎりとクッキーで済ませた。すずとクッキーを分けて食べたが、5枚も食べると満腹になった。震災体質に進化したらしい。これから美味しいものを出されてもちょっとしか食べられないのは残念だ。お宿のお湯は硫黄泉で、美肌効果があるらしい。・・・お風呂に入ろうと脱衣所にいると、視界の端に着物姿の女の子が映った。下駄が似合いそうなむちむちした足が見えた。顔を上げると女の子はいなかった。浴室から子供達の声がしていた。中に入ると男湯の方からの声だったみたい。女湯には誰も居なかった。他にも泊り客が居るんだ・・・髪を洗って、シャワーを手探りで探していたら、誰かが手首をつかんで持たせてくれた。顔をシャワーで流してから、お礼を言おうと振り向いたら誰も居なかった。体を洗っていると、後ろを通っていく気配。「ありがとう」と一応声を掛けた。立ち止まった気配がしたが、鏡には誰も映っていなかった。座敷わらしが居るのは、決まったところだけじゃないみたい。
2011年03月20日
リッターあたり180円。それでもスタンドは長蛇の列だった。どんなに並んでも緊急自動車が優先で、なかなか順番は回って来なかった。いつか入るタンクローリーを待ってスタンドの列に車を置いて帰宅し、朝もう一度車に戻るとパンクさせられていると言う嫌がらせが横行した。スタンドに並んでいるうちに、朝になって動かなくなっている人も居た。あまりの救援の多さに機能が麻痺しているロードサービスに「ガス欠で動けなくなったからガソリンをもってこい。金払って入会してるんだ。」と電話してる人も多かった。ロードサービスだって動けなくなっているのに。常識は津波と共に流されてしまったんだろう。お菓子類は定価だからまだいい。中くらいのジャガイモが5個500円ちょっと大き目のたまねぎが3個で500円にんじん1本100円両手にすっぽり収まるような小さなキャベツが350~400円お米が30Kgで20000円値段があって無いようなものは、何でも高かった。それでも人々が並んで買った。避難所にいないと救援物資はもらえない。もらえないわけではないけど、もらうまでも大変だった。何もかも高い。何もかもが無い。だんだん食料も底をつき、燃料もつき、個人的に送ってもらう物資も届かない。Aさんの娘は、実父の元へ“遊びに”行くことに。私も疎開することを決断した。残ったわずかな食料を全部、Aさんと友達のアンナに渡して、残ったガソリンで日本海側に抜け、ガソリンを入れて疎開先に向かうことに決めた。
2011年03月19日
会社での説明は、「しばらく自宅待機」とのことでした。・・・確かに今扱っている商品は現状にそぐわない。アクセサリーや財布は必要ないし、ブランドショップを開けてもしょうがない。短くても3月中は自宅待機になるだろうと言う説明でした。・・・と、言うことは。あのアウトロー旦那の怒鳴り声をまだまだ聞かなくちゃいけないのか・・・朝、緊急自動車のサイレンと自衛隊のヘリコプターの音で目が覚めて、夜はアウトロー旦那の怒鳴り声を聞いて、耳鳴りと頭痛と腹痛に悩まされるわけだ。・・・って言うのは嘘で。耳鳴りと頭痛と腹痛に慣れ始めていて、痛いのが普通になり始めて何日かたっていた。耐えられるだろう。きっと。・・・頭で考えるより症状は進んでいた。いつものように腹痛がする中布団に入る。でもいつもと少し違ったのは吐き気がしてきたこと。耳鳴りとセットの吐き気が、今日は腹痛ともセットなんだ。その内耐えられなくなった。トイレに駆け込んで胃の中の物を全部戻してしまう。落ち着くまもなく今度はお腹をくだす。全身冷えて、顔は冷たい汗がびっしょりで痛いほど冷えた。この症状は覚えがある。前はここに引っ越したすぐで精神的に不安定だった時。この症状が出た何日か後、偏頭痛フラッシュで運転中に目が見えなくなった。次はモデルの仕事にストレスを感じてた時。パニック障害で突然すとんと倒れるようになった。・・・もうダメだ。動けるうちに環境を変えないと。ここでは重傷者が優先で病院に行くこともできない。一時避難することにしたほうがいいんだろうか。心が揺れた。でも、この時県内ではガソリンは全く手に入らなくなっていた。*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-この日、久しぶりにお風呂に入りました。Aさんからメールでお湯出た~!!!!!!!!!!と。Aさんの部屋の電気温水器が夜間電力を通電、お湯が出たのです。洗髪、洗顔、体を洗って、湯船に浸かって・・・夢の贅沢三昧。足を伸ばして手足を見ると、あちこちにあった真っ黒な内出血は、だいぶ薄くなってました。
2011年03月18日
昨日、帰ってきたら工事の人が来ていて、通水可能だと言う。ありがたい。もう、7階まで水汲みをしなくていいんだ。通水に来てくれた人たちも被災者だ。帰るところが無いので会社に寝泊りしていたり、家族の安否がわからなかったり・・・そんな中来て頂いて、本当にありがたかった。水が出たのでいい気になって、電気ポットでお湯を沸かして、バケツにお湯を張って、顔と体を洗った。上手にやれば、バケツ一杯のお湯で全部洗える。・・・洗髪は無理だけど。そして寒いけど。水で髪を洗うと、芯まで冷えて、とんでもなく頭痛がしてきます。汚れも落ちないのでお勧めしません。昨日はエコ運転だったせいか、ガソリンはまだ大丈夫そうだったので、通ったばかりの水道から、水をたくさん汲んで津波被災地に運んだ。昨日道路にあった屋根や家は自衛隊の方たちが片付けてくれていたが、相変わらずのヘドロ・・・長靴に履き替えて水を運んだ。代わりに泥だらけの洗濯物を山のように預かって、自宅に戻る。何度洗っても水は茶色。きれいに見えても触るとザスザスした手触りだった。自衛隊の人が入るようになって、屋根の上で凍死した人たちが見つかりだした。津波で濡れて、何とか屋根に逃げて、救助を待つ間に耐えられなかった人たち。高い木の上や、電線に無数に引っかかっていた御遺体も、TVが入る前には収容したと現地の人たちに聞く。ゆらゆら漂う御遺体を避けながら、水に浸かり、腰にロープを結んで何人もで列を組んで海沿いの職場から一日歩き詰めで帰ってきた人たち。半分閉まったシャッターの下を津波の中を潜ってくぐり、意識が朦朧としながら必死に泳いで帰ってきた女性。潜って出た後、そこかしこから無数の声が「助けてー!助けてー!!!」と聞こえたけれど振り向くことはできなかった。私の両親は、9日の地震の時に海で磯遊びをしてました。地震の後、がぼっと水が引いたので、津波が来るからとさっさと避難。そのときの津波の高さは60cmでした。今度の揺れは大きかったけど、せいぜい2~3m程度だろう。母はそう思って、出先から家に戻って、神棚から落ちた榊の水や、畳の上にこぼれたお神酒を、座って拭いていたそうです。拭いていたら両脇から黒い水が影のようにす~っと見えて、振り向いたら、窓の外を真っ黒な水が湧き上がってくるのが見えたそうです。父親も地震のすぐ後に戻ってきて、自室を片付けていて、母親の叫び声に「・・・津波?」と思ったときには腰まで水が来て、「どこかにつかまれ!外に出るな!」と叫ぶのが精一杯。柱にしがみついていると、ふすまがふわっと浮き上がり、パタンパタンと倒れていく次は家具が浮き上がり倒れ、黒い水の水位はどんどん上がっていく・・・引き波が弱かった為、二人とも流されずに助かりました。水が引いた後、さっさと濡れた服を脱ぎ、たまたま押入れの上のほうに置いてあった服に着替え、食料の確認をし、隣近所の安否を確認して、押入れで夜をすごしたそうです。流れていく船や車、雪の中濡れたまま呆然と立ち尽くす人たち。避難所にあてがわれた学校も公民館も、津波の跡がありました。瓦礫の山だけでも大変だったけど、本当はもっと悲惨な地獄絵図が展開されてました。初め、私住んでいるところは、数キロ先まで津波に飲まれたと報道されました。その日のうちに遺体が200~300体あがったというのも報道されました。津波の被害を受けた人たちは、自分達の体験と重ねて、皆諦めていたらしいです。実際は水路を津波が上っただけで、飲まれることはありませんでした。*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-Aさんとアウトロー旦那、本当に釣り合わない夫婦だと思ってたら、宗教つながりでした。・・・まさかの。時々言ってる事が?だったのはそういうことか・・・あんなに蝋燭があったのも当たり前。とりあえず、釘を刺した。「私は神社を崇めてるから。異教徒だけど、仲良くしてね!」・・・ギャグみたい。初めは一生懸命「間違った考えを改めるべき」だと言っていたが、私が聞く耳を持たないと知ると、それ以上言わなくなった。ただ、時々「東北の人はこうだ(良くない方)」「関東の人はこうだ(良い方)」と、十把一絡げに悪く言われるのがちょっと辛かった。私も東北の人ですけど・・・。Aさんは関東出身。関東で買占めが始まったと言う報道が出ると、今度は何も言わなくなった。だんだん私の存在に慣れてきて、アウトロー旦那はAさんの娘(連れ子)をめちゃくちゃに怒鳴る。居間に居られなくなって部屋に引っ込む娘の背中にまた怒鳴る。怒鳴り始めると耳鳴りがして頭痛が始まる。夜になると腹痛で眠れない。ストレスが原因だとはわかっていた。他にも言われたことにピンと来ない。何度も同じことを確認する。そんな事が起きていた。そんな時に「一時避難しておいで」と知人が言ってくれたが、全くの赤の他人な上にご家族で住んでいる。知人だって居候に近いのに・・・。そして何より車で10時間以上の距離。初めは断っていたが、この状況にだんだん耐えられなくなってきた。本当に考えた方がいいのかも・・・。思えばこの時、すでに正常な思考ができなくなっていたんだと思う。 生き残った罪悪感に苛まれていたけど、これもお役目だと自分に言い聞かせた。すずがいるうちは死ねない。参加を表明したイベントが終わるまではがんばらなくちゃ。7月になるまでは生きててもいいはずだ。だんだん理由付けがおかしくなっていった。*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-*/-会社から全員出勤するように連絡が来た。もう何度も会社に顔を出していて、髪どころか、ろくに顔も洗えない日が続いていたし、気にしていなかったがAさんが電気ポットのお湯をバケツに二杯分作ってくれて、流しで髪を洗ってくれた。「長い髪だし、1人では大変よ。女の子は人前に出るときはきれいにしてなくちゃ」・・・女の子って歳でも無いけど、好意に甘える。アウトロー旦那を寝室に押し込んで、上半身バスタオルの私を流しに立たせて、泡立たない髪を何度かお湯で軽く流してくれる。やっと泡立ち始めてから、私が地肌をこすって洗って、Aさんがコーヒーカップでお湯をすくって流してくれる。髪を洗えなくなってから一週間たっていた。なんて気持ちいいんだろう・・・時々頭皮に触れる指がたまらなく心地よかった。
2011年03月17日
ラップに韓国海苔を置いておにぎりを握る。一升っていっても、こんなに少ないんだな・・・それをバスタオルで包んで、保温バッグに詰めた。寒いだろうから、温かい方がいいだろう。車に乗り込んで燃料系を見てため息をつく。行って帰ってこれるだろう。でも、その後は?見つからなかったら?・・・できるだけエコ運転するしかない。安否確認のためか、被災地に向かう道路でお客さんを乗せたタクシーに何度も道を譲る。燃料に余裕があるのか、タクシーの心意気なのか。結構とばしている。ミツバチちゃんの家に着くと、まだ支度中。・・・想定内。のんびりやだし、ここの人たちはそんなに悲壮感が無い。でもできれば3時までに戻って来たい。道路も凍るし、吹雪いてきている。ミツバチちゃんのほかにミツバチママも一緒に来ることに。・・・想定外。これは大変な道中になりそうだ。予感は的中。リストを見るにも何人もの名前を挙げて、なかなか進まない。「苗字言って。苗字確認したら下の名前確認したらいいでしょ」つい声が荒がる。淡々と私がリストを目で追う。ミツバチママが探していた人は一人だけ見つかったが、違う避難所に移っていた。そして避難所で知っている顔に合う度に喜び合うのは見ていて微笑ましいが、懐かし話で盛り上がり、いつまでたっても動こうとしない。まだ避難所は何箇所もある。焦りが顔に出てしまう。・・・もしかしたら安置所も回らなくてはいけないのに。遺体の引渡しはどうするんだろう。集合住宅だから渡されても困る・・・悪い方に頭が回る。本当に情報が少なかった。何もわかっていなかった。この時点で災害伝言ダイヤルにさえつながらなかった。やっと避難所を出て、次の避難所に向かう途中、瓦礫の山に船や車。ワンセグで見た光景がそこここにあった。ヘドロを浴びた犬が、止まる車を見るたびに覗き込んでいる。飼い主を探してるんだ。ミツバチママは瓦礫と泥に「怖い怖い」とハンドルが怪しくなった。「私が運転代わるから」運転席に乗り込んでふと思った。あの人たち、前の地震でも、その前の地震でも避難しなかった。・・・もしかしたら家にしがみついているかも。「ちょっと実家を覗いてきたい」そういって、家の方にハンドルをきる。線路がぐにゃぐにゃに曲がって、瓦礫が駅に溜まっている。保育園の門の上に、のっているRV車。家は、あった。でもヘドロが溜まっていて、これ以上行けない。「少し待ってて」ヘドロの中をつま先で歩きながら歩いていると、実家の西側の家に流された家が突っ込んでいた。何とか実家の前にたどり着くと、瓦礫の山の脇に雪かきしたようにヘドロが寄せてあって、通路が作ってある。居るかもしれない。そのまま家に向かって歩くと、中で人影が動いた。声がする。たぶん母親。玄関まで瓦礫を乗り越えていくが、玄関が泥に埋まってなかなか開かない。開けると二人がひょいと顔を出した。お互いに死んだかもと思って、覚悟していた。弟夫婦も弟夫婦の家も津波にはあったものの、無事だったらしい。そしてこの二人、こんな中でも普通にご飯を炊いて食べていた。その話を車に戻ってしたら、ミツバチちゃんは「さすが、ちはやさんのご両親。妖怪だけあるね」・・・何も言えなかった。
2011年03月16日
Aさんのパートナー、帰ってきてから日がな一日ごろごろしている。「・・・何の役にも立たなくて」とAさんがため息をつく。水も汲みに行かないのにうっかりトイレを流しちゃったり、食料調達も大変なのに、あるお酒をどんどん飲んじゃったり、食べ物にも遠慮が無い。そのうち、私に「酒ないすか」「食い物どれくらいあるんすか」「ガスボンベは」Aさんは困惑している。そのうえ、食事中に食卓で子供を怒鳴る。自分の子供の頃を思い出してブルーになる。・・・ブルーになるくらいなら良かったけど、とうとうフラッシュバックするようになってしまった。怒鳴られたら殴られる。殴られたら外に出される。子供の頃、家族で食卓を囲むのが怖かった。いつか殺されると怯えてた日々。タバコの臭いも父を思い出させた。耳鳴りや吐き気や腹痛の症状が出始めて、できるだけ自分の部屋に戻るようにした。昼間も、用も無いのに会社の事務所に居座る。・・・帰るのしんどいなあ・・・そう思っていたら、携帯に着信。見たこと無い番号だったが出たらAさんの子どもだった。「お姉ちゃん、電気きたよ。早く帰ってきて」通電したんだ。立体駐車場が動かせる。やっと、身内を探しにいける。両親の家は津波が到達した地点より、はるかに海側。ワンセグで見ていたとき、たまたまTVに近くが映し出された時は、そこにあったはずの家は流されてなくなっていた。もう少し西側を写して。もう少しターンして。願いは虚しく、画面は動かずリポーターの顔だけ大写しだった。ツイッターで情報を呼びかけたが反応は無かった。明日探しに行くと言うと、皆に止められた。警察に電話して確認した方が早いとか、避難者のリストがHPで公開されてるとか。警察に電話がつながるくらいならとっくにやってる。あんな重いHPが見られるくらいならとっくに見ている。だいたいの避難所を確認して、津波を逃れたミツバチちゃんに物資を届けながら、避難所に向かうことにした。残ったお米の半分をといで、炊飯器にセットした。一人なのに一升炊きの炊飯器がこのときだけは頼もしかった。
2011年03月15日
水が出ないので、1日1~2回の水汲みをしていた。バケツ2つにビニール袋を入れて、たぷたぷまで汲んで、ビニールの口を縛って運ぶ。非常用水までの距離は往復50m離程度だけど、7回までの階段が辛かった。トイレのタンクに1杯だけ入れて、残りは非常用。トイレもできるだけ流さない。部屋の中でも家の外と同じ格好をしていた。とにかく寒い。動けばお腹も空くが、動かないわけには行かなかった。昼近くに、また会社に行った。携帯の充電をするために。雪や雨が降っていたので、やっと運行を始めたバスで出かける事にした。バスは待っても待っても来ない。並んでる人たちに食べてくださいとキャンディーを回した。とけてなくなるうちにバスも来るだろう。1人、又1人と知人を見つけて車に同乗させて貰って行く。結局残ったのは私と、次に並んだ年配のご婦人、若い女の子だけになった。年配のご婦人は何の被害も受けてなくて、家族が水や食料を調達してくるので何の不安も無いけど、暇だから街に行ってみようと思うと話した。・・・ご家族が居て良かったですね、と言いながらも複雑な思いがした。黒い自分。情け無い。そんな事を考えていると、バス停に青い乗用車が停車。いつもなら、「ちっちゃいバスだこと」くらいの軽口も出るのに、なんだろうとぼんやり見ていたら、窓が開いて、小奇麗な女の人が「あなたたちどこまで行くの?駅までなら乗せてあげる、乗って」と声を掛けられた。ありがたく乗せてもらう。食品が手に入らなくてと言うその女性に、開いているお店の情報や炊き出し情報を話して、自分の行く先を告げると、会社まで送ってくれると言う。女性は一人降ろすとまた1人拾って駅に向かい、私を会社まで送って行ってくれた。非常用に持っていたお菓子をお礼に渡して、食品が売っているお店まで案内して、寒そうにしてたのでカイロも手渡した。女性は長い列に並んで、お互い手を振って別れた。
2011年03月14日
朝。毎朝5時に目が覚める。明るくなり始めると目が覚めて、暗くなると眠くなる。退化してるな…。メールを受信しようとするが相変わらず受信できず、同じ携帯会社の携帯番号でできるメールだけは、遅れるものの何件か受信できた。10時頃会社から安否確認の電話が。ところが電話をとってまもなく、バッテリーが切れてしまう。本当は今日が出勤日だし、と、会社に出勤する事にした。自転車でゆっくり会社に向かう。会社までずっと上り坂なので、結構しんどい。何とかたどり着くと、会社の前に見知った顔が。同僚達は皆、無事だった。会社で炊き出しのおにぎりをご馳走になって、事務所で携帯電話の充電をさせてもらった。中心部なので、電波の状況がいいらしく、ぽつぽつとメールの受信や着信を始める。何とか一杯に充電する事ができた。仕事のほうは、再開のめどが立たず。でも、見知った顔に会えて嬉しかった。社員食堂で、お菓子や水の販売をしていた。Aさんの子供達にお菓子を買って帰る。それだけで、気分的に明るかった。隣の隣に住んでいる奥さんとはAさんと言うのだが、とてもきちんとした人で、かっちりスーツを着こなしているイメージがある。旦那さんはガテン系で、よく玄関を叩いてフロア中に響くような声で「開けろ!!!なにやってやがんだこの野郎!!!!」と怒鳴っているのを見たり聞いたりしていたので、闇金の取り立ての人かと思ってました。そんな旦那さんが帰ってきた。津波の被害が大きく、生存者も少ないと聞いている中で、どうやって帰ってきたんだろうと思ったら、バイクを無断で借りたと自慢げに発言。・・・出た。アウトロータイプの男だよ・・・色々と、帰ってくるまでの話を聞けば聞くほど、無言になる私。ろうそくの明かりで食事をとった後、早々に退散した。その後、布団の中で8時間近くかかって40件以上のメールを受信。…でも読むまでに更に時間がかかった。読もうとすると“本文受信中”うまく受信できなくて何度も繰り返す。やっと受信すると、ピカピカきらきらのデコメ…内容は安否確認。返事が無いからと同じメールを何度も。その合間に留守番サービスにアクセスするまで呼び続けられるお知らせ着信。読めた順に返信していく。更にその返信を受信。安心すると皆デコメになるんだね。みんなの気持ちもわかるから、私もテキストメールだけど絵文字付きで返す。あっという間にバッテリーの残量が減っていく。夜中だったけど、また駐車場によじ登って充電した。初めに満タン近くまであったガソリンは、半分まで減ってしまっていた。
2011年03月13日
何度も何度もお知らせ着信があるメール、留守番電話センターへの着信、わかっているけど受信できない。何度もトライするけど、電波状況が悪いため、結局受信に至らず。電池だけがどんどん減り、とうとう無くなって充電できなくなってしまった。車をとめている立体駐車場が上がったままだけど、停電してるので降ろすこともできない。仕方なく、真っ暗な駐車場を懐中電灯を頼りに、余震で揺れる中、よじ登って車のエンジンを掛けて携帯を充電した。…まもなく着信!携帯は混線している為、機転を利かせて自宅に掛けてくれたらしく、転送電話で着信できた。励ましの言葉が何より嬉しかった。その後、寒さに震えながら何度も受信しようとするけど、センターまでで受信できず。諦めて部屋に戻る。受信と充電の為に使ったガソリンはかなりの量だった。
2011年03月12日
電話も携帯もつながらない。かろうじてワンセグは見られる。ここだけじゃないんだ・・・あちこちに被害が出ているもう助けは望めない自分が住んでいる所の間近まで津波が来ていた。映し出される映像は絶望的。そのまま昼近くまで眠る。・・・鬱の時と同じ。周りは見えているのに、体が動かない。眠っているのに、どこかが起きている。不思議と涙は出ない。泣くこともない。ぼんやり、何かを見ている。気がつくと夕方。ドアを叩く音がする。何度も何度も誰?持ち出し袋を背負って、家具を乗り越える。すずは怯えて肩から離れないドアを開けると、隣の隣に住んでいる奥さんだった。ご主人は津波の被害が大きかった地区に仕事に出かけていて、帰ってこれないけど無事だそう。「避難所では寒すぎて眠れないないの。コートも毛布も持って行ったけど・・・」マンションの方が布団があるだけマシだからと戻ってきたらしい。やっと普通に思考が回りだす。・・・そうだ。備蓄食糧は10日分はある。水はもっとある。冷凍庫にはぎっちりの食糧。奥さんと相談して、二人で協力し合うことにした。まだ生きていてもいいんじゃない?日が落ちた空は真っ暗で、見たことがないくらい星がたくさん見えた。
2011年03月12日
雪が吹雪く中、懐中電灯で照らしながらの避難所からの帰り道。避難所は倒壊してました。ほかの人たちは保育所に分散したそうなので、一応寄ってみる。・・・アザラシの群れだってこんなに密集してないよあきらめてマンションに帰る。足元は物が散乱していて、家具をよけながら、懐中電灯の光を頼りにベッドにたどり着く。すずはずっと肩にとまって、髪の毛の中に入らんばかりのすり寄りよう。ベッドの上のテレビをどかして、持ち出し袋を脇に置いて、ダウンコートを着たまま座って寝る。少し眠ると、高速バスで移動する夢を見た。車線変更したのかな・・・目が覚める。違う、地震。何度も何度も繰り返す余震に、だんだん気力がなえてくる。もういいや。目が覚めなくても。布団にくるまって、足を伸ばした。潰されて死んじゃったらそれはそれ。そう思っても、余震が来ると目を覚ます。諦めの悪い自分。早く明るくならないかな・・・まだ夜は始まったばかり
2011年03月11日
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