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「両国江戸NOREN(江戸のれん)」を後にして、両国駅を振り返る。 JRの駅は東西に出入口があり(階段の位置はホームの両端ではなくやや中央寄り)、駅舎は高架下にある。ホーム横にはターミナル駅の面影を残す駅舎とホームが残されている。この旧駅舎コンコースを利用し、居酒屋チェーン「はなの舞」の独自業態「大江戸八百八町・花の舞 両国国技館前店」が営業していたが閉店(後に清澄通り沿い錦糸町方の高架下に「両国八百八町・花の舞 江戸東京博物館前店」として移転)。閉店後の旧駅舎を改装して2016年(平成28年)11月25日に複合飲食施設「-両国- 江戸NOREN」が開業した。都営大江戸線の駅はJR駅の東側を通る清澄通り(東京都道463号上野月島線)の地下に建設され、出口もその両側に設置されている。JR総武線と都営大江戸線の乗り換えはJR駅の東口から乗り換えるが、駅間がかなり離れている。時間に少し余裕があったので、両国駅南側・両国2~4丁目を散策することのした。そして両国駅南側、線路駅下にある道路を「錦糸町」方向に向かって進む。 磯丸水産 両国西口店 の外壁に描かれた、両国らしさを前面に出した大きな装飾看板(壁面イラスト)。JR両国駅西口のすぐ近くにある店舗。化粧まわしを締めた力士と大きな鯛、さらに蟹。背景には富士山と荒波が描かれていた。右側には別の力士と、巨大な鮪(マグロ)を中心に、貝類などの海産物が配置されていた。「磯丸水産 両国西口店」。 右手前方には「ちゃんこ江戸沢 両国総本店別館」の建物。何といっても目を引くのが、建物正面いっぱいに取り付けられた巨大な化粧廻し。その周囲には、太い横綱の綱を模した白い装飾が建物を取り巻くように配されていた。化粧廻しには、・「ちゃんこ 江戸沢」・「東京両国」・「総本店別館」と。また左側には、「最大50名 各種ご宴会予約承ります。」とも書かれていた。大きく掲げられているのは 「横綱横丁」。左下には小さく 「両国駅前商店会」 と。JR両国駅東口側にある飲食店街で、細い路地に居酒屋、ちゃんこ料理店などが並ぶ一角。「横綱」という名称も、もちろん相撲の街・両国にちなんだもの。そして更に線路沿いを進むと「清澄通り」が姿を現した。 東京東信用金庫両国本部ビル北側にあったのが、江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎のブロンズ像。「東京東信用金庫」の外壁に設けられた「THE HIGASHIN HOKUSAI GALLERY」。背景には『北斎漫画』が描かれていた。相撲の多彩な技や姿勢をユーモラスかつ的確に捉えた「相撲四十八手」が描かれ、人間の筋肉や動きの妙が表現されているのであった。・力士が一人で立つ姿・二人ががっぷり組み合う姿・相手を持ち上げたり、崩したりする姿・複数の力士が一緒になって稽古する姿・力士と行司らしき人物を描いた場面など、相撲のさまざまな動作を素早い筆致で写し取ったような図が並んでいたのだ。「銘板葛飾北斎KATSUSHIKA HOKUSAI江戸時代 すみだが生んだ 浮世絵師Ukiyo-e artist born from Sumida during the Edo period.建像 2023年12月20日」 さらに葛飾北斎の姿にズームして。深く刻まれた皺と鋭い眼差し、そして右手には一本の筆。晩年まで絵を描くことへの情熱を失わなかった北斎の、飽くなき探究心が伝わってくるような姿なのであった。この像は、80代、特に最晩年の『画狂老人卍』の時代の北斎を象徴的に表した像であろうか。北斎は1760年生まれで、75~90歳が晩年期にあたり、1849年に90歳で亡くなる直前まで制作を続けたと。すみだ北斎美術館も、この75~90歳を「晩年期」と位置づけているとのこと。その横には、北斎の浮世絵作品が並んでいた。「富嶽三十六景 御厩川岸より両国橋夕陽見(本所一丁目辺り)現在の厩橋の南にあった御厩の渡しの情景です。夕闇せまる一瞬をとらえ、左に両国橋、中央に富士山がシルエットで描かれているのが印象的です。今は対岸に並ぶ建物に遮られて富士山の姿は見えませんが、夕日が隅田川の対岸に沈む情景は昔と変わりありません。Viewing Sunset over Ryogoku-bashi Bridge from the Onmaya-gashi Embankment, from the series “Thirty-six views of Mount Fuji”〈The area around Honjo 1-chome〉This is a landscape of Onmaya-no-watashi (ferry that takes passengers acrossthe Sumida River), which was located south of the current Umaya-bashi Bridge.Capturing a moment when dusk falls, it portrays silhouette of Ryogoku-bashi Bridge on the left and Mt. Fuji in the center, which is impressive. Today, you are unable tosee Mt. Fuji as it is blocked by the buildings lined up on the opposite shore but a scene still remains unchanged, where the sun sets on the opposite side ofthe Sumida River.」 「富嶽三十六景 御厩川岸より両国橋夕陽見」。 ネットから。「風流隅田川八景 両国の夕焼」「風流隅田川八景 両国の夕照」。ネットから。「風流隅田川八景 両国の夕照〈中央区東日本橋~千歳一丁目辺り〉隅田川の美しい景色を8つ選んで描いたシリーズの1図。手前に隅田川を望む建物の二階でくつろぐ美人を、左手奥に両国橋、中央に一之橋を描いています。当時、隅田川沿いには、数々の茶屋や船宿がありました。美人がいる建物もその一つと考えられます。Sunset Glow at Ryogoku, from the series“Fashionable Eight Views of the Sumida River”〈Higashi-Nihombashi, Chuo City~around Chitose 1-chome〉This is one of the series Fashionable Eight Views of the Sumida River,featuring beautifulwomen at places of interest along the river. It portrays a beautiful woman relaxing onthe second floor of a building that commands a view of the river on the near side, Ryogoku-bashi Bridge in the left back and Ichino-hashi Bridge in the center. In those days, there were a large number of teahouses and shipping agents along the Sumida River. The building with the beautiful woman is believed to be one of them.」 「富嶽三十六景 御厩川岸より両国橋夕陽見〈本所一丁目辺り〉現在の厩橋の南にあった御厩の渡しの情景です。夕闇せまる一瞬をとらえ、左に両国橋、中央に富士山がシルエットで描かれているのが印象的です。今は対岸に並ぶ建物に遮られて富士山の姿は見えませんが、夕日が隅田川の対岸に沈む情景は昔と変わりありません。Viewing Sunset over Ryogoku-bashi Bridge from the Onmaya-gashi Embankment,from the series “Thirty-six views of Mount Fuji”〈The area around Honjo 1-chome〉This is a landscape of Onmaya-no-watashi (ferry that takes passengers acrossthe Sumida River), which was located south of the current Umaya-bashi Bridge.Capturing a moment whendusk falls, it portrays silhouette of Ryogoku-bashi Bridge on theleft and Mt. Fuji in the center, which is impressive. Today, youare unable to see Mt. Fujias it is blocked by the buildings lined up on the opposite shore but a scene still remains unchanged,where the sun sets on the opposite side of the Sumida River.」「新板浮絵 両国橋夕涼花火見物之図」。「新板浮絵 両国橋夕涼花火見物之図」 ネットから。「新板浮絵 両国橋夕涼花火見物之図(しんぱんうきえ りょうごくばしゆうすずみはなびけんぶつのず)〈中央区東日本橋~両国橋辺り〉中央に隅田川と両国橋、手前に江戸有数の盛り場・両国広小路が描かれています。この一帯は花火が打ち上げられる夏の期間、多くの人出で賑わいました。現在も隅田川は花火大会の中心地として知られています。Newly Published Perspective Picture:Watching Fireworks in the Cool of the Evening atRyogoku-bashi Bridge〈Higashi-Nihombashi, Chuo City~around Ryogoku-bashi Bridge〉In this painting portrayed are the Sumida River and Ryogoku-bashi Bridge in the center and Ryogoku Hirokoji, one of Edo’s leading amusement areas, on the near side. The whole area was crowded with many people during summer when fireworks were set off.Today, the Sumida River is still well-known as the central venueof a fireworks event.」「両国夕涼(りょうごく ゆうすずみ)」「両国夕涼(りょうごく ゆうすずみ)」「両国夕涼(りょうごく ゆうすずみ)〈中央区東日本橋一丁目~千歳一丁目辺り〉本図は墨田区の対岸、現在の東日本橋辺りから両国橋を望んだ情景で、手前に花火を眺める母と子がカラーで、画面の左奥に両国橋、中央に一之橋が墨一色でシルエットとして表されています。Evening Cool at Ryogoku〈Higashi-Nihombashi 1-chome, Chuo City~around Chitose 1-chome〉This painting portrays a landscape around Ryogoku-bashi Bridgeviewed from around currently Higashi-Nihombashi on the side opposite of Sumida City. With mother and child who are viewing fireworks in color on the near side, a silhouette of Ryogoku-bashiBridge in the left back and Ichino-hashi Bridge in the center is portrayed in Indian ink.」「葛飾北斎さんと 一緒に写真を撮ろう!📷 OK!是非SNSにアップして下さいね。#HOKUSAI #HIGASHINLet's take a photo together withKatsushika Hokusai !Please be sure to share it on SNS#HOKUSAI #HIGASHINひがしん東京東信用金庫」 『葛飾北斎さんと一緒に写真を撮ろう!』との案内板。北斎像の左右には腰掛けが設けられ、北斎と並んで記念撮影ができるフォトスポットになっていた。「「ひがしん北斎ギャラリー」をご利用の皆さまへ令和7年10月23日いつも「ひがしん北斎ギャラリー」をご鑑賞・ご利用いただき、誠にありがとうございます。皆さまに快適にお過ごしいただけるよう、下記の点についてご理解とご協力をお願いいたします。近隣にお住いの方々のご迷惑とならないよう、静かな環境づくりにご協力ください【ギャラリー内での留意点】・飲食はお控えください。・会話や談笑は周囲に配慮し、控えめな声でお願いします。・ごみは必ずお持ち帰りください。・喫煙される場合は、指定の喫煙スペースにてお願いします。皆さまのご理解とご協力により、より快適で心地よいギャラリー空間を保つことができます。今後ともひがしん北斎ギャラリーをどうぞよろしくお願いいたします。東京東信用金庫」 「October 28, 2025To All Visitors of the 「Higashin Hokusai Gallery」Thank you very much for always visiting and enjoying the“Higashin Hokusai Gallery.”To make sure everyone can enjoy their time here, please follow the rules below.AttentionPlease help us maintain a quiet environment so as not to disturb our neighbors.【Gallery Rules】・Please refrain from eating and drinking.・Please keep your voice low and be considerate of others when talking.・Please take your trash with you.・If you wish to smoke, please use the designated smoking area.Your understanding and cooperation help us keep the gallerycomfortable for everyone.Thank you for your continued support of the “Higashin Hokusai Gallery.”」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.29
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1階特別展示室で開催されていた「江戸東京博物館リニューアル記念特別展「洋館 明治の夢と挑戦」の見学を終え、無料のコインロッカーからリュックを出し、出口へと向かう。「東京都江戸東京博物館分館 江戸東京たてもの園」への案内ポスター。「四季折々の自然に恵まれた都立小金井公園内に、野外博物館「江戸東京たてもの園」があります。こでは現地保存が不可能となった、文化的価値の高い建物30棟を移築・復元しています。これらの建物によって江戸東京の歴史と生活文化の変遷をたどることができます」と。住所:東京都小金井市桜町3-7-1都立小金井公園内 「復元建造物」案内。復元建造物 リスト。「屋外展示物」リスト。「江戸東京博物館 Oh!Edo寄席」ポスター。 1階→3階へのエスカレーターを利用。「江戸東京博物館 断面図」。 3階にあった「常設展示室」への「エスカードーム」。江戸東京博物館(東京都墨田区)の象徴的な名物エスカレーターは、3階「江戸東京ひろば」から6階の常設展示室入口へと斜めに突き抜ける、通称「エスカドーム」と呼ばれています。未来的なチューブ状の外観が特徴で、乗ることでこれから江戸時代へとタイムスリップするような高揚感を味わえるスポットとして知られているのだ。 江戸東京ひろばから建物の間に姿を現した東京スカイツリー。江戸から東京へと続く歴史を紹介する博物館から、現代東京のシンボルを望む。「エスカードーム」を斜めから。江戸東京博物館の「江戸東京ひろば」から「両国国技館」の大きな緑青色の屋根を見る。 3階「江戸東京ひろば」に設置された館内案内「Information」。・7F 図書室/閲覧室/映像ライブラリー/本のひろば・6F 常設展示室[入口]・5F 企画展示室/常設展示室[出口]・3F 江戸東京ひろば・1F 特別展示室/チケットうりば/総合案内/ミュージアムショップ/レストラン・カフェ/ 大ホール・小ホール/会議室/学習室・左方向 → 都営大江戸線 両国駅・右方向 → メインエントランス(1F)・チケットうりば(1F)・JR総武線 両国駅 江戸東京ひろばから正面の両国国技館を望む。青空の下、緑青色の大屋根が堂々と広がる。広々としたひろばの白い構造物との対比も印象的な、まさに「両国」ならではの風景。白い波形の構造物は、休憩所の「膜屋根(まくやね)」。「大きさの異なるいくつものこぶが連なる形状の膜屋根」がユニーク。これは1993(平成5)年3月の江戸東京博物館開館時からある施設。設計は博物館本体と同じ菊竹清訓建築設計事務所、施工は鹿島建設。膜屋根部分は約435㎡で、使用膜材は「A種膜材」とされている と。「A種膜材」ととは、ガラス繊維の織物にフッ素樹脂(四フッ化エチレン樹脂)をコーティングした、建築用膜材の最高峰。耐用年数が30年以上と非常に長く、優れた不燃性と耐候性を持つため、東京ドームや駅舎、空港などの大規模な恒久建築物に広く使われているとのこと。休憩所の「膜屋根(まくやね)」の後ろの白い高層ビルはアパホテル&リゾート〈両国駅前タワー〉。北側の奥には「東京都慰霊堂の「三重塔(慰霊塔)」」の姿が。この三重塔は、建築家伊東忠太の設計による東京都慰霊堂(当初は「震災記念堂」)の一部で、1930(昭和5)年に完成した。外観は日本の寺院建築を思わせるが、三重塔には中国・インド風の意匠も取り入れられている。塔の最高高さは40.9m と。この塔は単なる装飾的な仏塔ではなく、納骨施設として造られた慰霊塔だと。 江戸東京博物館の巨大な高床式建築を、3階の「江戸東京ひろば」から見上げて。江戸東京ひろばから江戸東京博物館を見上げる。巨大な上部構造を太い柱で持ち上げた、まるで「空中に浮かぶ巨大建築」。青空の下、その圧倒的な大きさと独特な高床式の構造を改めて実感したのであった。赤い構造物は、2026年のリニューアルで新設された「鳥居」をモチーフとしたオブジェ(工作物)。江戸東京ひろばではなく、1階西側アプローチに設けられているのだ。西側アプローチに新設された「鳥居」をモチーフとした赤いオブジェ。24本の逆L字形の柱が連なり、その側面には現代の東京から江戸の世界へと誘う映像が投影される。2026年のリニューアルで加わった新しい空間演出である。この日は、このモチーフの下を通り、「江戸東京博物館」入口に向かったのであった。 3階「江戸東京ひろば」から1階へ続く階段を見下ろす。その先には、今回のリニューアルで設けられた赤いフレームが連なり、正面には両国国技館の大屋根。新しくなった江戸東京博物館と「両国」らしい景観が重なった瞬間。江戸東京博物館を後にして、JR両国駅に隣接する「両国江戸NOREN(江戸のれん)」へ。館内には大きな暖簾や提灯が吊るされ、寿司、そば、ちゃんこなどの店が並ぶ。江戸の町並みを思わせる空間をしばし散策。「両国江戸NOREN」の中央の館内の床には、なぜか土俵が二重に描かれていた。調べてみると、これは江戸時代から昭和初期まで使われた「二重土俵」を表したもの。内側13尺、外側15尺で、1931(昭和6)年から現在の一重土俵となった。その先には、日本相撲協会監修による原寸大の土俵が設けられているのであった。手前に「二重土俵」その先に日本相撲協会監修による原寸大の土俵が設置されていた。大正10年5月場所の仕切り風景<日本相撲協会webサイトより>。常陸山・梅ヶ谷や太刀山の時代、大相撲の本場所には、仕切りの制限時間がなく、仕切り線もありませんでした。また、土俵の内径は今より狭い十三尺(約3.9㍍)でした。※昭和3年(1928年)1月から大相撲のラジオ中継が始まったことに伴い仕切りに制限時間が定められ、同時に仕切り線が設けられた。また、昭和6年(1931年)5月場所から土俵の内径が十五尺(約4.5㍍)になった(二重土俵の内側の土俵を撤廃)と。日本相撲協会監修による原寸大の土俵に近づいて。手前には、土俵の四角い盛り土を囲む「角俵(かくだわら)」があり、その上の円形部分には勝負の境界となる「勝負俵」が埋め込まれている。さらに写真左下には、俵の一部が外側へずらされている部分も見える。これが「徳俵(とくだわら)」。「徳俵(とくだわら)」とは、大相撲の土俵にある、東西南北の4カ所で外側に1俵分だけずらして配置された俵のこと。徳俵の特徴と由来・配置:土俵の円周を作る全20個の俵のうち、東西南北の4カ所に外側へ突き出す形で 置かれている。・名前の意味:追い詰められた力士がこの位置で踏みとどまると、もう一踏ん張りできるため 「徳(得)」をするという縁起のいい名前。・作られた理由:昔、相撲を野外で行っていた頃に、土俵にたまった雨水を外へ逃すための 排水口(水抜き)として作られた名残りだといわれています。土俵の角には「土俵の解説」が。 「土俵の解説About the SUMO RING江戸時代から、ここ両国で興行が行われていた相撲。相撲は神事として、土俵は神聖な場所とされている。土俵とは土を盛って作る相撲の競技場のことで、俵に土を詰めた俵(土俵)を使って作るため土俵場(どひょうば)と呼んでいたが、縮まって「土俵」と呼ばれるようになった。Held here in Ryogoku since the Edo period, Sumo is a Shinto ritual, making the sumoringa sacred place. The base of the ring is made of pounded clay, with the ring made of clay-stuffed straw bales, known as 'Dohyo'. The sumo ring was originally named a'Dohyoba' (place made of clay bales), since abbreviated to 'Dohyo'.江戸時代の二重土俵Edo period Double Ring入口側の床に描かれた二重の円は江戸時代の土俵のひとつを再現。The double circle depicted by the entrance floor represents a style of sumo ring usedduring the Edo period.図からは、上がり段(踏み板) ― 正面の上がり段は一つ正面向正面東・西黒房・青房・赤房・白房勝負俵徳俵仕切線 ― 長さ70cm、間隔70cm、幅6cm蛇の目の砂塩土俵全体の外幅:670cm角俵の外幅:570cm勝負俵の内径:455cm」 ところで解説板をよく見ると、「円の直径 455cm」だけが後から貼り付けられたようだ。土俵全体の外幅670cm、角俵の外幅570cmは記されていたのに、肝心の勝負俵の内径455cmが抜けていたらしい(笑)。後になって気づいたのであろうか?ネットから。この図では4.55m、5.7mの寸法線が俵の中央付近に描かれているが、実際には4.55mは勝負俵の内側、5.7mは角俵の外側が基準。したがって、この図は説明用の模式図であり、寸法線の位置は厳密ではない。土俵中央には「山(盛砂)+御幣」の姿が。土俵の清めを表現し祭祀的な設えを行っているのであろう。本場所では、初日の前日に行う土俵祭があり、土俵中央に洗米・するめ・昆布・塩・榧の実・勝栗などの「鎮め物」を埋めます。そして千秋楽には「神送りの儀式」があり、土俵中央から鎮め物を掘り出す儀式が行われていると、ネットから。移動して再び「山(盛砂)+御幣」の姿を。そして「ちゃんこ霧島 両国江戸NOREN店」が最奥にあった。 霧島は、現在の陸奥親方(元大関・霧島一博)として知られた力士で、現役時代には「和製ヘラクレス」とも呼ばれた筋肉質の体で人気を集めた。「ちゃんこ霧島」は、その元大関・霧島ゆかりのちゃんこ料理店。元大関・霧島一博の優勝記念写真。上部:「優勝」左側:「大関 霧島一博関」右側:「平成三年一月場所」下部:「ちゃんこ霧島」平成3年(1991年)1月場所で、霧島は14勝1敗で幕内最高優勝を果たした。これが霧島にとって唯一の幕内最高優勝。化粧廻し中央の大きな文字は「力」。その下には「紀州商事㈱」と。近づいて。こちらは「両国ハンバーグ RIKISHI」 このロゴマークは?店のロゴは、漢字の「両」を力士の姿に見立てたユニークなデザイン?。・文字の上部(冠部分)は、力士の髪型である大銀杏(おおいちょう)を模している。・左右や中央の枠組みは、力士の逞しい肩や両腕、体躯のシルエットを見立てている と。アルファベット・RIKISHIを並べて漢字に見せていると友人から、下記のごとくに。大銀杏を結った頭とたくましい両腕が「両」の文字に溶け込み、いかにも相撲の街・両国らしいのであった。友人から、色分けされた図が送られて来ました。緑=R・K・S・H、赤=3個の Iとして読むと非常に分かりやすい と。1. R 「両」の最上部。 左の縦棒→上の横棒→右側の丸く曲がった部分→右下へ伸びる部分を一体として見ると、 大きな Rになる と。2. I その内側にある、最上段の白い横棒。 横倒しになった I と。3. K 中央上部。 左の縦棒から、右上・右下へ斜めに分かれる形で、明瞭な K と。4. I Kを挟む上下の横線のうち、Kの下側にある横棒を横倒しのI と。5. S 「両」の中央下部にある、左右へ折れ曲がりながら続く部分。 これはそのまま横長の Sに見える と。6. H その下。左右の縦棒と中央の横棒によって、かなり明瞭な H と。7. I 最下部の長い横線。 これを横倒しにした最後の I と読む と。なるほどと納得。真相はいかに!!多くの力士の写真とサインが並んでいた。「翔猿関」。「琴櫻関」「月島もんじゃ もへじ 両国」。 「「もんじゃ焼き」の名前の由来葛飾北斎が文政2年(1819年)に刊行した「北斎漫画」の中で「文字焼き屋」の挿絵があり、この時代・既に江戸にもんじゃや焼きの原型があったことが記されています。焼くときにタネで文字を書いて遊んだことから「文字焼き」と呼ばれ、その後、「もんじ焼き」から「もんじゃ焼き」となりました。」 不知火型 照ノ富士春雄とかかれた白い横綱も店頭に。「明太子もちもんじゃ」(写真はネットから)。 「相撲甚句 披露会」ポスター。 再び日本相撲協会監修による原寸大の土俵を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.28
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そして「第4章 羨望の住処ー明治の洋風邸宅「洋館明治の夢と挑戦」へ。「多彩な洋館が花開いた明治時代。建築家たちに課せられた使命の中心は、国家を飾る大建築を設計することでしたが、皇族や財界人など上流階級の邸宅も、重要な創作の対象でした。たとえば、ジョサイア・コンドルは、邸宅の設計を最も得意とした建築家として知られます。彼は、早くに有栖川宮邸(明治17)や北白川宮邸(同)、岩崎家深川別邸(明治22)などを手がけ、日本に本格的なヨーロッパ式の邸宅と住まい方を伝えています。コンドルに学んだ日本人の弟子たちも、少なからず邸宅の設計を手がけました。辰野金吾が設計した兜町渋沢邸(明治21)は、日本人による洋風邸宅作品の先がけであり、詩情豊かな姿を水面に映す名品として、多くの錦絵にも描かれました。そして1909年(明治42)、設計者の片山東熊にとってのみならず、明治建築の集大成ともいえる東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)が完成します。明治期の洋風邸宅は、ほとんどの人々にとって日常からはかけ離れた「羨望の住処」でした。言い換えれば、生活の舞台というよりも、美しく輝く「名所」として、明治の日本を華麗に装飾したのです。今、遺された家具と対峙するとき、かつて明治という時代に展開された夢の残影を目にすることができるかもしれません。」 「憲法発布式大祭之図 江戸橋ヨリ鎧橋遠景」井上探景。近づいて。「憲法発布式大祭之図江戸橋ヨリ鎧橋遠景井上探景/画1889年(明治22)清水建設株式会社1889年(明治22)2月、大日本帝国憲法が発布された。その発布式を祝賀する街の様子を描いた錦絵。作者の井上探景は、「光線画」で名高い井上安治の弟。画面中央に兜町渋沢邸が、その右側に渋沢が設立した第一国立銀行が描かれている。Celebration of the Constitution of Japan PromulgationCommemoration Ceremony; Distant View of Yoroi-bashiBridge from Edobashi Bridge」 「4-2 日本人による洋風邸宅の先がけ(兜町渋沢邸)「日本資本主義の父」と称される実業家・渋沢栄一は、金融通として知られ、東京府内でも屈指を誇った。兜町渋沢邸はその5番目にあたり、渋沢が設立した日本最初の銀行・第一国立銀行のほど近くに建てられた。設計者に起用された30代半ばの若き辰野金吾は、日本橋川沿いという立地から、水映りを意識したヴェネチアン・ゴシック様式を採用している。この様式は、師のコンドルが来日して間もない1881年(明治14)、永代橋の袂に完成した開拓使物産売捌所でも採用しており、辰野ら工部大学校の教え子たちも、実施設計として関連図面を描いていた。ヴェネチアン・ゴシック様式の最大の特徴は、運河に沿って配されるヴェランダだが、これはコンドルの邸宅作品における「日除け」としてのヴェランダとは意味合いが異なり、運河を眺め、そして眺め返されるための装置である。渋沢栄一。(ネットから)建設中の兜町渋沢邸。(ネットから)兜町渋沢邸。(ネットから)「有栖川宮邸 舞踏室 長椅子」。 ジョサイア・コンドル設計の有栖川宮邸に置かれていた家具.非常に華やかな造りです。金色に仕上げられた木製フレームには細かな彫刻が施され、背もたれと座面には花や植物を織り出した布地が使われている。背もたれ上部中央には、紋章を思わせる大きな装飾もある。近づいて。正面から。特に興味深いのは、この椅子が単なる「明治時代風の家具」ではなく、有栖川宮邸の舞踏室にあったことが確認できる現存家具だという点。「有栖川宮邸舞踏室 長椅子1884年(明治17)博物館明治村有栖川宮邸の舞踏室で使用されていた長椅子。1931年(昭和6)、ジョサイア・コンドルの没後に刊行された『コンドル博士遺作集』にも同形の長椅子の写真が掲載されている。遺された資料が少なく、謎の多い同邸宅の貴重な現存家具である。Couch from Prince Arisugawa's Residence Ballroom」 右隣にあったのが「兜町渋沢邸 応接室 テーブル」。楕円形の天板、重厚な脚、脚を結ぶ横木(貫)、植物文様の彫刻など、明治期の洋風邸宅にふさわしい重厚な意匠。また、正面中央には大きく「S」の文字が彫られている。これは非常に目を引くが、Shibusawa(渋沢)の頭文字「S」を意匠化したものなのであろうか?「兜町渋沢邸応接室 テーブル渋沢史料館渋沢邸の内部に関する資料はきわめて少ないが、写真中央に写っているテーブルが現存しているのは、大変貴重である。Table from Drawing Room of Shibusawa Residence at Kabutocho」 「4-1 2つの宮邸(有栖川宮邸・北白川宮邸)コンドルが来日して最初に手がけたのが有栖川宮邸(明治17)であった。宮家の邸宅に洋館があてられたのは、明治天皇が和ではなく洋を暮らしの基本とすることが決められていたからで、皇位継承権を持つ宮家も、当然、洋館に住まなければならなかった。コンドルが当時得意としていたゴシック様式を採らずネオ・バロック様式でまとめたのは、おそらく宮廷建築はフランス王宮を範とするという当時の世界の建築界の習いに従ったのであろう。中央車寄せを強調し、左右に翼部を張りだし、正面二階の付け柱を双柱化するなどネオ・バロックらしさを踏襲するものの、力強さや華麗さは乏しく、ネオ・バロックがこなし切れていない、と評せざるを得ない。宮家の中で皇位継承第1位と言われていた有栖川宮の邸宅に引き続いて手がけた北白川宮邸(明治17)は、得意のゴシック様式でまとめられた煉瓦造2階建ての邸宅で、現在、部分的に残る図面によると、細部にわたりゴシックでまとめられていたことがわかる。一方でコンドルならではの作りもあり、赤煉瓦造に大きなゴシックのアーチ窓が開いた正面の妻壁には木造ゴシック風の造りが露出している。小屋組に使われていた木造をわざと現すことで、軽快さと変化の妙を表現したかったのであろう。一般的洋館につけないヴェランダを好むのも当時のコンドルらしい。コンドルは、アジアらしさをヴェランダに求めており、ヴェネツィアのもたらす深い陰影をゴシック様式に通ずる空間の質と考えていた。コンドルに教えられた辰野金吾ほかの日本人建築家が、欧米の邸宅にはヴェランダがつかない事実を知るのは、コンドルのもとを離れ留学してからになる。」 左:有栖川宮邸と右:同舞踏室。「北白川宮邸」外観。 「北白川宮邸」外観。「旧東宮御所 孔雀之間」の家具類。当時の室内写真と組み合わせて見せているコーナー。左:肘掛椅子淡い青緑色の織物張りで、木部には金色の装飾。背や座面には植物文様が織り込まれている。右:花台天板が高い位置にあり、細長い4本脚を横木でつないだ華麗な金色の家具。肘掛椅子に近づいて。「旧東宮御所孔雀之間 肘掛椅子1909年(明治42)博物館明治村孔雀之間は、妃殿下用の謁見室にあたる。室内の様式は朝日の間と同様にフランス18世紀末に流行したルイ十六世様式で、壁には室名の由来となった孔雀の図の刺繍が飾られている。室内の家具はフランスから輸入されたもの。肘掛椅子は絹の布張りであったとされる。Armchair from Kujaku-no-Ma Salon of Former TōgūPalace (Crown Prince's Palace)」 「旧東宮御所 孔雀之間 花台」。 「旧東宮御所孔雀之間 花台1909年(明治42)博物館明治村Flower Stand from Kujaku-no-Ma Salon of Former TōgūPalace (Crown Prince's Palace)」 「旧東宮御所 朝日之間」の家具が並ぶ。 「旧東宮御所 朝日之間 椅子」。創建当時『第一客室』と呼ばれた最も格式の高い部屋の家具で、背もたれには十六葉八重表菊の紋章が大きくあしらわれている。 「旧東宮御所朝日之間 椅子1909年(明治42)博物館明治村朝日之間は創建当時「第一客室」と呼ばれていた部屋で、最も格式の高い空間である。室内と家具はルイ十六世様式を基調としながらも、室内装飾には鎧や兜などの日本的モチーフも取り入れられている。椅子の背もたれには十六葉八重表菊の紋章が大きくあしらわれ、格調高い雰囲気を醸し出している。Chair from Asahi-no-Ma Salon of Former Tōgū Palace(Crown Prince's Palace)」 十六葉八重表菊の紋章に近づいて。「旧東宮御所 朝日之間 サイドボード」。 「旧東宮御所朝日之間 サイドボード1909年(明治42)博物館明治村朝日之間のサイドボードの脚部には前代のルイ十五世様式(ロココ様式)の影響が残されており、曲線的な猫脚がみられる。天板は大理石を使用し、本体正面には緻密な装飾が加えられている。Sideboard from Asahi-no-Ma Salon of Former Tōgū Palace(Crown Prince's Palace)」 さらに左から・「花鳥之間 食器台」・「花鳥之間 椅子」・「彩鸞之間 花台付円椅子」・「孔雀之間 円机」 背景写真は、長大なテーブルと多数の椅子、大型シャンデリアが並ぶことから、旧東宮御所の「大食堂」?であっただろうか。左から:・「花鳥之間 食器台」・「花鳥之間 椅子」「花鳥之間 椅子」を正面から。左から・「彩鸞之間 花台付円椅子」・「孔雀之間 円机」 「彩鸞之間 花台付円椅子」。円形(あるいは環状)の大型ソファで、中央から背もたれが放射状に伸び、複数の人が互いに異なる方向を向いて腰掛けられる構造になっている。東宮御所 彩鸞の間(『東宮御所写真帖』より) 小川一真/撮影 1909年(明治42)頃 。そして「孔雀之間 円机」。 最後に「フジモリ先生の教室」へ。 「フジモリ先生の教室」は、江戸東京博物館で開催中のリニューアル記念特別展「洋館 明治の夢と挑戦」(会期:2026年6月23日〜8月23日)内にある、同館館長で建築史家の藤森照信氏(フジモリ先生)が等身大パネル等で洋館建築の魅力を分かりやすく解説する特設コーナー。建築史家・藤森照信先生が、ホワイトボードいっぱいに文字や図を描きながら、近代日本の建築について熱く講義する姿が再現されていた。壁に貼ってあったパネルを追う。「日本近代建築系統図各系統図の幅の大小はその時期における存在感の大きさを示す。図中には、明治の歴史主義様式・フランス派・イギリス派・ドイツ派お雇い外国人建築家・エンデ&ベックマン・コンドル・ボアンヴィルとカッペレッティ・ウォートルス洋式工場コロニアル・ヴェランダ・コロニアル・木骨石壁コロニアル・下見板コロニアル擬洋風・漆喰系・ナマコ壁系・木骨石壁系・下見板系といった系統が、開国(1858年)から大正期(1920年代)まで、時間軸に沿って描かれていた。50年前、幕末から明治初めにかけて日本の洋風建築に私が初めて取り組んだとき、何やら怪しげな外国人技術者や日本の大工が入り混じって、洋風ではあるものの本当のヨーロッパの建築とは外見も技術も明らかに違う建築がたくさん生み出されており、体系的に理解することができなかった。生物界でそうした混乱を整理し、時間に沿って体系付けたのが、19世紀の博物学者ダーウィンによる進化の系統図にほかならない。その前提になるのは、多種多様な動物を群に分けて分類する作業である。分類には、昆虫の脚は6本、クモの脚は8本のように分類指標が必要になり、それを参考として洋館相手に指標を決めつつ分類をはじめ、結局、開国に始まり辰野金吾ら第一世代の日本人建築家が没する大正半ばまでの60年間を5群に区分し、5群14系の系統図を描き出した。」 「洋式工場系統図「洋式工場」の大きな流れ・長崎製鉄所・旧集成館機械工場・富岡製糸場・横須賀製鉄所・鹿児島紡績所・造幣寮鋳造所・銀座煉瓦街・竹橋陣営図の下部には外国人技術者の動きとして、・ウォートルス → 上海へ・レスカス・バスチャン → 上海へなどが示されている。最初に日本で作られた洋館は工場である。幕末期、幕府と日本列島の西南に位置する雄藩(薩摩、長州、土佐、肥前)は、進出してきたヨーロッパ列強と交戦し、列強の戦艦と大砲の破壊力に驚き、自分たちも戦艦と大砲、その背後にある近代的工業力の必要性を痛感した。洋式工場の建設に乗り出し、幕府と雄藩は明治維新の前にそれぞれ別々に実現している。洋式工場の分類指標は二つあり、一つは人脈で、欧米からの外国人技術者の指導、もしくは欧米文献からの懸命な学習による建設。もう一つは技術面で、構造は石造か煉瓦造、鉄骨造を採り、小屋組はトラス小屋組である。姿形については、分類する指標はなく、指導した欧米の技術者により異なり、オランダ人の場合、古典主義系を採り、フランス人による木骨煉瓦造の場合は、祖国の民家や工場や駅舎に使われていた簡便なスタイルを採る。その中でウォートルスを一系として区分するのは、“ウォートルス時代”と呼ぶにふさわしい大活躍を見せてくれたからだ。」 上段:【竹橋陣営】東京名所 竹橋内下段:【銀座煉瓦街】東京名所之内銀座通煉瓦造鉄馬車往復図【竹橋陣営】東京名所 竹橋内(ネットから)。【銀座煉瓦街】東京名所之内銀座通煉瓦造鉄馬車往復図(ネットから)。「コロニアル系統図系統図に記された建物上段のヴェランダ・コロニアルには、 旧グラバー住宅、旧オルト住宅、旧鹿児島紡績技師館、旧リンガー住宅、泉布観、西郷従道邸。中央の木骨石壁コロニアルには、 大浦天主堂、イギリス仮公使館、新橋停車場、横浜開港、横浜町会所。下段の下見板コロニアルには、 旧アメリカ領事館、札幌農学校、札幌農学校演武場、豊平館。この群は3系からなる。産業革命によって大量生産、大量消費の時代に入った欧米列強は、大量の農産物の入手と、大量に生産した農産加工品の販路を求めて、アジア各地へと進出する。進出にあたり、欧米列強はアジア各地に居留地を次々と開いていく。こうした進出は、産業革命以前の大航海時代から始まっており、東西のルートに分かれて丸い地球の上を進み、主流となった東回りのルートの場合、暑いインドで手に入れた広いヴェランダを分類指標とする簡便な住宅を建てて更に東に進んでいき、東南アジアを経て北上し中国沿岸部を経て、長崎、神戸、横浜、函館の開港場へと上陸している。これをヴェランダ・コロニアルと呼ぶ。西回りルートは、大西洋を越えて上陸したアメリカ大陸で下見板を手に入れ、アメリカ大陸を横切り、太平洋を越えて、主に北海道に上陸している。木造下見板張りを分類指標とし、下見板コロニアルと呼ぶ。アメリカ大陸の横断中、下見板コロニアルと別に木造の骨組の外側に石の壁を別に積み、木の壁と石の壁を鎹(かすがい)でつないで一体化するという見た目に石造の技法が加わる。ブリジェンスがカリフォルニアから横浜に運び込んだこの特異な技法を分類指標とする洋館を木骨石壁コロニアルと呼ぶ。」 「新橋停車場」 「擬洋風系統図上段の図はピンボケで解読不能。本展でも紹介した擬洋風建築は、4系に分かれて日本各地に拡がる。最初はナマコ壁系で、ブリジェンスと清水喜助による築地ホテル館に始まり、発達している。これを起点として擬洋風建築が広がり、清水喜助は、築地ホテル館の成功の後に第一国立銀行を手掛けた。築地ホテル館に並んで日本の擬洋風の発展を考える時、常に重要となり、ブリジェンス渡来の大きな成果であった。次に出現する擬洋風は木骨石壁系擬洋風で、横浜でブリジェンスに学んだ立石清重が、横浜の建築に刺激されると、木造洋風造りのほかの技術を学び、ここから各地の地方官庁へと広まっている。フランス人、ベランジェもいたる石造建築物を造り出すことで、元は地方官庁の発展し擬洋風であったウォートルスに通じる。木骨石壁系の一部に移りも登場し、建物の外観を木造洋風造りという表面の技術だけで作ったものが擬洋風には少なからず、ここを擬洋風は第二期を迎える。擬洋風の最後を飾るのが下見板系である。アメリカから入った下見板系コロニアルに着目した建築好きの学校建てである三島通庸が各地の小学校で擬洋風の建築・土木事業を実施し、ここに下見板系擬洋風が誕生する。国が主導する下見板系擬洋風は、三島の学校などの信州……へと広がり、そこを起点に横浜でモダンな洋館の造り方として各地の大工や棟梁に広く受け入れられ、やがて全国で擬洋風らしい建物の系譜が続いていくことになる。」 上段:第一国立銀行下段:三井呉服店 東京駿河町三井正屋之図第一国立銀行をネットから。三井呉服店 東京駿河町三井正写之図をネットから。上段:「開智学校」伊藤隆之撮影。下段:「済生館本館」米山勇撮影。 「開智学校」(ネットから)。「済生館本館」(ネットから)。「お雇い外国人建築家系統図系統図の主な人名・建物図を見ると、大きく次の3系統になっています。ボアンヴィル/カッペレッティ系・参謀本部・工部大学校講堂コンドル系・上野博物館・鹿鳴館・開拓使物産売捌所・有栖川宮邸・ニコライ堂・海軍省・三菱一号館・岩崎久彌邸エンデ&ベックマン系・官庁集中計画・仮議院・司法省・裁判所ヨーロッパの建築家たちは、ウォートルスのような建築技術者(ビルダー)ではなく、ヨーロッパの建築の最先端を設計し、その学術を工部大学校の日本人学生に手渡すことが任務であった。分類指標としては、欧米の建築家、最先端の歴史主義様式、最先端の技術、そして教育、となる。3系に分かれ、まずはイタリア人カッペレッティ、フランス系イギリス人ボアンヴィルからなる。彼らは分類指標の“教育”において不十分であり、それを埋めるためイギリスからコンドルが招かれた。コンドルは実作と教育の二つで日本の近代建築の父ともいうべき働きをしたことから1系としてまとめている。そのコンドルを追い越すような勢いで登場したのがドイツのエンデ&ベックマンであったが、パリのような首都東京を作りたいという明治政府の「官庁集中計画」の夢は破れ、撤退している。エンデ&ベックマンの撤退をもって、幕末から始まる日本の西洋館の激動の時代は幕を閉じる。」 上段:【参謀本部】古今東京名所 外桜田 陸軍参謀本部中段:【游就館】下段:【開拓使物産捌所】【参謀本部】古今東京名所 外桜田 陸軍参謀本部(ネットから)。【游就館】(ネットから)。【開拓使物産捌所】(ネットから)。上段:鹿鳴館下段:法務省旧本館鹿鳴館(ネットから)。法務省旧本館(ネットから)。「明治の歴史様式主義系統図系統図の3つの流れ上段が フランス派、中央が イギリス派、下段が ドイツ派 ・フランス派 旧東京音楽学校奏楽堂、奈良国立博物館、京都国立博物館、兵庫県庁舎、東宮御所、 表慶館、旧竹田宮邸、台湾総督府。・イギリス派 銀行集会所、兜町渋沢邸、日本水準原点標庫、日本銀行本店、東京海上保険会社、 盛岡銀行本店本館、三菱一号館など。・ドイツ派 東京府庁、同志社クラーク記念館、横浜正金銀行本店本館、日本橋。そして図の下には建築家個人の活動期間として、 山口半六―フランス 辰野金吾―イギリス 妻木頼黄―アメリカ・ドイツ 片山東熊―ヨーロッパ工部大学校において、コンドルによりもたらされた建築と教育は、教え子たちにより引き継がれ、ここに日本人による西洋歴史主義群の時代が始まる。この群は、本流となる工部大学校卒業者によるイギリス系のほかに、ドイツ系、フランス系の3系に分かれて進む。3系に分けるのは、ヨーロッパの各国は少しずつ歴史的様式が異なるためである。ドイツ系は、コンドルに学んだ妻木頼黄(つまき・よりなか)と河井浩蔵、渡辺譲がエンデ&ベックマンに従ってベルリンに留学してドイツ建築を身に付けたことによる。フランス系は、フランスに学んだ山口半六に始まり、コンドルに学びながらも宮廷建築家としてフランス建築を身につけた片山東熊が続いて一派を形成している。3系に分かれた流れも、大正半ばには、それぞれの中心となった辰野金吾、妻木頼黄、片山東熊が没し、日本人建築家第一世代の時代は終わりを迎える。」 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2026.09.27
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5F~6Fの見学を終え、1Fに下りる。1階特別展示室で行われていた「洋館 明治の夢と挑戦」を訪ねた。WESTERN-STYLE ARCHITECTURE IN JAPAN江戸東京博物館リニューアル記念特別展「洋館 明治の夢と挑戦」ポスター。 2026.6.23[火]-8.23[日]東京都江戸東京博物館 1階 特別展示室EDO-TOKYO MUSEUM 日本建築史のはじまりともいえる法隆寺の建立から1,000年あまりの時が流れ、到来した明治という時代。江戸から明治への転換は、長きにわたり閉ざされていた西洋文化の入口が開き、洋風建築の流入が一気にはじまることを意味しました。本展では、人びとが建築に夢を抱いた「明治の洋館」の世界を、多種多様な資料と立体的な展示手法で描きます。大工棟梁による擬洋風ぎようふう建築、外国人技術者による非本格的洋館や外国人建築家たちの手がけた本格的西洋建築、工部大学校卒業生等の挑戦、そして皇族や上流階級のための大邸宅にいたるまで、日本の建築史上稀にみるこの大変革の時代の多彩な成果を活写します と。「ごあいさつこのたび東京都江戸東京博物館では、江戸東京博物館リニューアル記念特別展「洋館 明治の夢と挑戦」を開催いたします。日本建築史のはじまりともいえる法隆寺の建立から1,000年以上の時が流れ、到来した明治という時代。江戸から明治への転換は、長きにわたり閉ざされていた西洋文化への入口が開かれ、洋風建築の流入がはじまることを意味しました。洋風建築の受容から本格的西洋建築の成立までを取り上げる本展では、大工棟梁による擬洋風建築、外国人技術者による非本格的洋館、外国人建築家たちの手がけた本格的西洋建築、工部大学校卒業生等の挑戦、そして皇族や上流階級のための大邸宅にいたるまでを取り上げ、日本建築史上稀にみる大変革の時代の多彩な成果を活写します。日本建築における有史以来の大変革。その驚きと胸躍る風景――。人々が建築に夢を抱いた「明治の洋館」の世界を、ご体感いただけましたら幸いです。最後になりましたが、本展開催にあたり、ご支援、ご協力を賜りました関係各位に心より御礼を申し上げます。2026年6月東京都江戸東京博物館(公益財団法人東京都歴史文化財団)館長 藤森照信」 「洋館 明治の夢と挑戦」のポスター。特別展「洋館 明治の夢と挑戦」のポスターを飾る壮麗な建物は、明治20~21年(1887~88)頃、ドイツ人建築家エンデとベックマンによって描かれた「国会議事堂案」。実際には建設されることのなかった、まさに“明治の夢”を象徴する幻の建築なのであった。そして「洋館 明治の夢と挑戦」👈️リンク の展示会場へ。入口では、江戸の町並みの向こうに広がる海と鮮やかな夕景が迎えてくれた。長い江戸の時代を終え、海の彼方から新しい西洋文化を受け入れようとする日本――。これから始まる「明治の洋館」の世界へと誘う、印象的なプロローグなのであった。出品リスト👈️リンク。「ここは幕末の横浜。海の向こうから欧米文化とともに洋館がやってきた。」幕末の横浜を舞台に、海の向こうから欧米文化と洋風建築が日本へ入ってくる場面を表現しているのであろう。――この言葉に迎えられ、いよいよ「明治の洋館」を巡る旅が始まった。 そして目の前には、開港間もない横浜の町並みが広がった。瓦屋根の日本家屋が立ち並ぶその中に、海の向こうからやって来た外国人たちの姿が。幕末の開港をきっかけに、横浜は欧米文化との新たな出会いの舞台となり、やがて日本の町に「洋館」という新しい建築が姿を現していくのであった。そして、ここから「第1章 ナマコ壁と擬洋風建築」へ。幕末から明治へ――突然目の前に現れた西洋建築を、日本の大工たちは自らの技術と知恵で受け止めた。西洋風の姿の中に日本伝統の技法を巧みに取り入れた「擬洋風建築」。明治の大工たちによる、新しい建築への挑戦が始まるのであった。左上:歌川国輝(二代)/画「東京海運橋兜町為換座五階乃図」左下:歌川国輝(二代)/画「東京名所海運橋五階造眞圖」右:蜂須賀国明/画「軽気球之図」歌川国輝(二代)/画「東京海運橋兜町為換座五階乃図」(ネットから)。「東京名所海運橋五階造眞圖」(ネットから)。蜂須賀国明/画「軽気球之図」(ネットから)。「東京築地ホテル館」歌川国輝(2代)/画 1869年(明治2)。「東亰海運橋第一国立銀行の全図 并近円の市中一覧の図」 歌川芳虎/画 1876年(明治9)。場面は雪の降る夜へ。「海運橋のほとりにたたずむ奇妙なたてもの。しんしんと降り積もる雪のなかの、夢のような光景。」「海運橋」とは、現在の日本橋兜町付近にあった橋。明治元年(1868)にこの名となり、明治8年には西洋風の石造アーチ橋に架け替えられた。そのたもとにそびえていた「奇妙なたてもの」が、日本最初の国立銀行・第一国立銀行。和と洋が入り交じったその姿は、当時の人々にはまさに“夢のような光景”に映ったのであろう。見慣れぬ洋風建築を初めて目にした当時の人々には、まるで異国の世界が突然目の前に現れたかのように映ったのであろう。和装の人々と洋館が同じ風景の中に佇む姿に、まさに日本が大きく変わり始めた時代を感じたのであった。展示室内は原則として撮影禁止であった。但し、「撮影可能」のパネル表示があるものは撮影可と。 「海運橋 第一銀行雪中 小林清親/画」。 「海運橋第一銀行雪中小林清親/画1877年(明治10)東京都江戸東京博物館雪景色の中に第一国立銀行が建っており、番傘をさした女性の後ろ姿と美しく調和している。第一国立銀行を描いた錦絵は、建物の新奇さを強調したものが多いが、清親の作品は、街並みの中に建築が溶け込んでいる。」 近づいて。さらに近づくと、雪の中に浮かび上がる第一国立銀行の姿。その前を番傘の女性が静かに歩いていた。小林清親が明治10年(1877)に描いた『海運橋 第一銀行雪中』の世界が、目の前に立体的に再現されているのであった。「第一国立銀行シャンデリア」 近づいて。現在東京都小金井市の[江戸東京たてもの園]にある[三井八郎右衛門邸]の廊下を飾る、日本に現存する極めて貴重な明治初期の西洋風照明器具。「銀座煉瓦街の煉瓦」赤褐色の煉瓦表面に灰白色のモルタルが厚く付着したまま残っています。きれいに整えられた展示用の煉瓦ではなく、実際に建物の壁などに使用されていたことを感じさせる姿。明治初期、東京の街を「燃えない街」へと変えようとした銀座煉瓦街。その建物を実際に支えていた煉瓦なのであった。明治5年(1872)の銀座大火を契機に、政府は火災に強い近代都市を目指して銀座煉瓦街を建設した。英国人技師トーマス・J・ウォートルスの設計による、文明開化を象徴する西洋風の街並みであった。展示されているのは、実際に銀座煉瓦街で使われていた明治期の煉瓦。表面には目地材が残り、欠けた姿からも、東京の近代化を支えた建物の歴史が伝わってくる。年代:明治前期 明治10年 1877 19世紀 法量:11.0cm x 23.3cm x 6.8cm「銀座煉瓦街の煉瓦1877年(明治10)東京都江戸東京博物館銀座八丁目付近から出土。銀座煉瓦街の建設は、大量の煉瓦をいかにして供給するかという課題があり、そのためウォートルスは、銀座煉瓦街の計画とともに、煉瓦を大量に焼成するための窯の建設も指導した。」 「銀座煉瓦街の碑 中央区銀座8丁目」👈️リンク(ネットから)。この記念碑の煉瓦は、1988年(昭和63年)に銀座8丁目の金春屋敷跡から発掘されたもの。「第2章 建築家がやってきた―外国人建築家と「都市風景」棟梁たちが見よう見まねで建てた擬洋風建築はどれも個性豊かなものでしたが、日本政府が求めていたのは個性よりも「本物の西洋」でした。欧米建築文化の摂取に努めるため、さまざまな国から技師や建築家が来日します。イギリス人のジョサイア・コンドル、ドイツ人のヘルマン・エンデ、ヴィルヘルム・ベックマンらがその代表です。彼らのつくりだす建物は、擬洋風建築とはひと味違う本格的なものとして、都市・東京の風景を壮麗に刷新していきました。」 「明治初期の日本では、江戸以来の大工棟梁たちによる和洋折衷の擬洋風建築が盛んに建てられていました。横浜、築地等の居留地を通じ、外国人が建てる西洋建築の姿を目にすることはあっても、実際にどうつくるかは、まさに「見よう見まね」で独学するしかなかったのです。棟梁たちによる擬洋風建築はどれも個性豊かなものでしたが、日本政府が求めていたのは個性よりも本物の西洋の様式でした。欧米建築文化の摂取に努めるため、多数の「お雇い外国人」が招かれることになります。アメリカ人のリチャード・パーキンス・ブリジェンスとアイルランド出身のトーマス・ジェームズ・ウォートルスをはじめとして、フランス人のシャルル・ド・ボアンヴィル、イタリア人のジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カッペレッティ、イギリス人のジョサイア・コンドル、そしてドイツ人のコンビ、ヘルマン・エンデ&ヴィルヘルム・ベックマン等々。さまざまな国から技術者や建築家が来日し、西洋建築の様式や構造が東京を中心に伝えられていきました。初期のお雇い外国人技術者がつくる建築には、少なからず怪しいものも見られましたが、ボアンヴィル以降の建築家たちは、棟梁の擬洋風建築とはひと味もふた味も違う本格的な建築作品で都市・東京を変えていったのです。彼らが見せてくれたのは紛れもない新時代の「都市風景」でした。Part 2Arrival of Foreign Architects and Transformation of the Urban Landscape」 前の「銀座煉瓦街」からさらに一歩進んで、日本人棟梁による「見よう見まね」の擬洋風建築から、お雇い外国人建築家による本格的な西洋建築へという流れを説明する、第2部への導入パネルなのであった。正面に「鹿鳴館」。 「鹿鳴館」に近づいて。設計:ジョサイア・コンドル着工:1880年(明治13)竣工:1883年(明治16)場所:現在の東京都千代田区内幸町付近解体:1940年(昭和15)文明開化の夜空に浮かび上がる鹿鳴館。青い星空と三日月を背景に、明治の欧化政策を象徴した洋館が幻想的な姿を見せていた。「鹿鳴館」を振り返って。「鹿嗚館軒先飾り(持送り)」 持送り(もちおくり)またはコーベル(corbel)は、壁から突き出した石などの構造物で、その上に張り出した重量を支持する建築技術の1つ。持出し・持送り積み・受け材ともいう。同じ構造でも木で出来たものは、「梁受け(tassel)」と呼ぶ。近づいて。「第1章 なまこ壁と擬洋風ぎようふう建築」展示風景。 「凌雲閣(りょううんかく/浅草十二階)」の展示模型。凌雲閣は1890年(明治23)落成、英国人技師ウィリアム・K・バルトンの設計で、10階までは煉瓦造、11・12階は木造の楼閣でした。高さは約60~67mとされ、8階まで日本初とされるエレベーターが設けられていた。「国会議事堂案 外観透視図」。 「国会議事堂案外観透視図エンデ&ベックマン/設計1887~8年(明治20~21)頃ベルリン工科大学建築博物館官庁集中計画の一環として設計された建築案の中でも、ひときわ壮大である。水彩による国会議事堂案の透視図であり、寸法は縦95.4cm、幅166.9cmある。ドイツ・バロック建築の特徴であるランタンを戴きながら中央にそびえる巨大なドームと随所に配された小尖塔に加え、二層を貫く柱(大オーダー)は、二本ずつ束ねられたペアコラム(双柱)として、建物外観に圧倒的な威厳を示している。現在の国会議事堂よりも高く、実現すれば、当時の東京の中でも群を抜く高さであっただろう。建物前面のあちらこちらに人物が描かれており、左下には侍らしき姿も見られる。」 「東京裁判所 第一案外観透視図」(エンデ&ベックマン設計)(1887年頃)(ベルリン工科大学建築博物館蔵)「東京裁判所 第一案 外観透視図エンデ&ベックマン/設計1887年(明治20)ベルリン工科大学建築博物館官庁集中計画の直接の目的は、不平等条約改正にあった。日本の“法”が、欧米並みに充実していることを見せるため、立法の国会、法行政の司法省、法の番人の裁判所、この三施設の建設が急がれ、裁判所はその一つとして建設されている。エンデの構想を受けた日本人建築家・妻木頼黄が指揮し、1887年(明治20)に着工、1896年(明治29)に完成した。隣に建つ司法省と対をなすネオ・バロック様式の壮麗な建物は、赤煉瓦の外壁、マンサード屋根、タマネギ型の曲線を描く三つの高いドームなどで人目を引きつけ、東京のランドマークになった。」 「東京裁判所 第二案 正面図」。 「東京裁判所 第二案 正面図エンデ&ベックマン/設計1888年(明治21)ベルリン工科大学建築博物館東京裁判所については、国会議事堂と同じく和洋折衷の第二案が残されている。煉瓦造と思われる躯体に瓦葺きの屋根、唐破風、千鳥破風といった意匠が折衷され、圧倒的な視覚効果を呼んでいる。塔屋の位置に鎮座するライオンの彫像が「阿吽」のペアとなっている点にも注目したい。国会議事堂第二案とともに、明治初期の擬洋風建築を彷彿とさせるユニークなデザインをドイツ人建築家が試みた事例として興味深い」 「警視庁案 正面図」上部には薄い文字ですが、POLIZEI-PRÄSIDIUM FÜR TOKIO・KEI-SHIーCHO(東京警視庁)右側に、METROPOLITAN POLICE-COURT AT TOKIO下部には、PERSPECTIVISCHE ANSICHT ・ YENKENDZU ・ PERSPECTIVE VIEWさらに、ARCHITEKTEN: ENDE & BÖCKMANN(建築家:エンデ&ベックマン)と確認できます。 「YENKENDZU」、これは日本語の「遠見図(えんけんず)」をローマ字表記したものであろう。近づいて。「警視庁案正面図エンデ&ベックマン/設計1887年(明治20)ベルリン工科大学建築博物館警視庁案は、官庁集中計画ベックマン案において「天皇大通り」と「皇后大通り」の交差点に面して計画された。間口約100m、奥行き約60mの規模で、コの字型に中庭を囲む平面計画が採られた。急勾配のマンサード屋根、赤煉瓦の外壁、東京裁判所と共通するタマネギ形のドームなどが、ドイツ的な特徴を示す。」 前の「警視庁案」に続く、エンデ&ベックマンによる「皇居(宮殿)」の計画案。上部左:KAISERLICHER PALAST FÜR TOKIO=「東京の皇帝宮殿」中央:KO-KIOおそらく日本語の「皇居(Kōkyo)」を表そうとしたローマ字表記。上部右:PALACE FOR HIS MAJESTY THE EMPEROR=「天皇陛下の宮殿」下部:PERSPECTIVISCHE ANSICHT ・ YENKENDZU ・ PERSPECTIVE VIEWARCHITEKTEN: ENDE & BÖCKMANN=「建築家:エンデ&ベックマン」最下部は、LICHTDRUCK DER REICHSDRUCKEREI「皇居案 正面図エンデ&ベックマン/設計1887年(明治20)ベルリン工科大学建築博物館皇居案は、中庭を大きく囲んだ馬蹄形のバロック様式的平面構成を採っている。このようなダイナミックな曲面は、のちの東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)のはるかな先取りである。東宮御所を設計した片山東熊がエンデ&ベックマンの皇居案に影響された裏付けはないが、同じ「御所」のプランとして、その類似性には興味をそそられよう。」 闇夜に浮かぶ新橋駅舎を「光線画」の画家・小林清親が詩情豊かに描いた と。近づいて。「武蔵百景之内 江戸橋より日本橋の景」。1882年(明治15)。刺青のある棒手振の腕を大胆に画面いっぱいに配し、その向こうに舟の行き交う川、コンドル設計の開拓使物産売捌所、さらに遠く富士山を望む。江戸の面影と近代化する東京が同居する、実に大胆な構図の作品である。「武蔵百景之内江戸橋より日本橋の景小林清親/画1882年(明治15)東京都江戸東京博物館コンドルが来日して早々に手がけた開拓使物産売捌所は、隅田川沿いの永代橋際に建設されたヴェネチアン・ゴシック様式の作品で、その美しい姿から、特に多くの錦絵が遺された。なかでも面白いのが本作品で、上腕に刺青のある棒手振が魚を運んでおり、その左の縁に囲われながら、画面の中央ぴったりに、うっすらと富士を従えた開拓使物産売捌所の遠景が描かれる。清親らしいダイナミズムと才気あふれる構図で描かれた作品である。」 展示風景。「慶應義塾図書館旧館 ステンドグラス原画和田英作/画。1912年(明治45)頃慶應義塾図書館重要文化財◯和田英作の原画をもとに小川三知が制作したステンドグラスは、1915年(大正4 )に完成した。甲冑姿の武士は武力や封建制を象徴する存在として描かれ、校章のペンマークを持つ女神は西洋文明を象徴している。また、下部にはラテン語で「ペンは剣よりも強し」と記されており、知や学問を重んじる理念が表現されている。これは、日本橋を大きく再現した展示。写真で特に目立つのは、橋の中央上部に立つ翼を広げた麒麟(きりん)の像。この「麒麟像」は現在の日本橋にもある非常に特徴的な装飾。現在の日本橋は1911年(明治44)完成の石造二連アーチ橋で、橋の中央部には麒麟像、四隅には獅子像が置かれている。日本橋が日本の道路の起点であることを象徴するように、今にも大空へ飛び立ちそうであった。ズームして。「東京駅」の歴史を。 正面から。「バルツァー提案による中央停車場模型2014年(平成26)鉄道博物館(東京ステーションギャラリー)フランツ・バルツァーは日本で初めての鉄道高架橋をつくるため、その指導者としてドイツから招聘された。バルツァーは帰国後、「東京の高架鉄道」という論文を発表しており、その中に東京駅の立面図案を掲載している。掲載されたものは、和風の四棟からなる案で、日本側が当時求めていたのは洋風の駅舎であったことから、採用されることはなかった。その後の設計を託された辰野金吾は、バルツァーの提案のうち、皇室用の玄関を中央に配置する案を絶賛し、この配置案を引き継いで現在の東京駅の設計が進められた。こうして東京駅は、中央に皇室用の玄関をもつ、珍しい駅舎となった。」 現在の東京駅丸の内駅舎。1914年(大正3)に完成した東京駅丸の内駅舎は、赤煉瓦と白い石材を組み合わせた長大な建築。前の展示で見たバルツァーの和風案と並べると、その違いが非常によく分かる。バルツァー案→ 瓦屋根を持つ和風の中央停車場辰野金吾案→ 赤煉瓦を主体とする洋風の巨大駅舎「3-4 東京駅辰野金吾は、1903年(明治36)、数えで50歳を迎え、東京帝国大学工科大学長という要職を辞して独立し、念願の設計事務所を開いている。作風も当時“辰野式ルネサンス”と呼ばれた赤煉瓦と石の混じる古典系とルネッサンス系の折衷からなる様式へと一転する。この様式は、イギリスの建築家ノーマン・ショーがゴシック・リヴァイヴァルの次にヴィクトリア朝を飾るスタイルとして始めたもので、辰野のイギリス留学時代にロンドンで隆盛していた。辰野は「建築家として生まれたからには東京に3つの建物(日本銀行、東京駅、国会議事堂)を作りたい」と述べており、日本銀行に続く作品が1914年(大正3)に完成した東京駅であった。」 「中央停車場建物展覧図 185 1911年(明治44)頃」 実際の東京駅と同様に横に長い絵図。当時の東京駅は入口と出口が分かれていたのだ と。「中央停車場建物展覧図1911年(明治44)頃鉄道博物館約3.5メートルで描かれた東京駅。その横方向への広がりは、資料の長さからも実感することができる。また画面右手の人々は東京駅へ向かい、左手の人々は駅から出てくる様子が描かれている。これは、現在とは利用形態が異なり、当時の東京駅では乗車口と降車口が明確に分けられて利用されていたためである。」 近づいて、左から。中央停車場建物展覧図。右に。さらに。右。離れて。東京駅丸の内駅舎と、その前にある街路・橋梁の景観を大きな写真・映像で再現した展示。 移動して。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.26
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「東海道五拾三次之内 原」 ネットから。この絵の最大の特徴――「画面からはみ出す富士」まず目を奪われるのが、富士山の大きさです。富士山頂が画面の上端を突き抜け、山頂の一部が画面の外へはみ出しています。これは偶然ではなく、広重が意図的に用いた大胆な構図です。富士を画面の枠内にきれいに収めるのではなく、あえて収めきれないほど大きく描くことで、「富士山はこの画面よりもさらに大きい」という感覚を鑑賞者に与えています。空を横切る「赤い一文字」展示解説にある「上部に摺られた赤色の一文字」とは、画面上端を左右に走る細長い赤色の帯のことです。「一文字」は文字そのものではなく、横一直線に施した色の帯という意味です。この赤いぼかしによって、朝日が昇り始め、空が赤く染まる朝焼けが表現されています。そのため題名も「原 富士」ではなく、「原 朝之富士」なのです。富士山右側の山は「愛鷹山」富士山の右側に連なる黒々とした険しい山並みが愛鷹山(あしたかやま)です。広重は、淡い色で巨大な富士を描き、その手前に濃い墨色の愛鷹山を重ねています。この濃淡によって、富士がさらに遠く、さらに巨大に感じられる構成になっています。また、富士の左側遠方にも小さな山が描かれています。巨大な富士との大小の対比も見事です。手前の旅人が富士をさらに大きく見せる画面左下には、二人連れの女性と荷物を担いだ男が描かれています。人物は非常に小さく、その背後には巨大な富士。この「人間の小ささ」と「自然の大きさ」の対比が、富士の雄大さをいっそう強調しています。さらに田畑の中には、首を曲げて餌を探しているような二羽の鶴も描かれています。巨大な富士だけではなく、旅人や鳥といった日常の小さな営みを添えるところも、この作品の魅力です。「はら あさのふじ原 朝之冨士Hara, Mt. Fuji in the Morning作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃朝焼けに照らされた富士が描かれる。上部に摺られた赤色の一文字が朝焼けを表現している。富士の右手に見える山は、愛鷹山(あしたかやま)である。画面奥に描かれた雄大な山々を背景に、手前の街道を二人組の女性と荷を担ぐ男が歩いている」 「東海道五拾三次之内 吉原」 ネットから。なぜ「左富士」なのでしょうか江戸から京都へ向かって東海道を西へ進むと、基本的に富士山は進行方向の右側に見えます。ところが吉原付近では、街道が大きく北寄りに曲がるため、一時的に富士山が左側に見える場所がありましたこれが有名な「吉原の左富士」です。画面を見ると、旅人たちは奥へ向かって進んでいます。その進行方向に対して富士山が左手奥に描かれています。三人の子供に注目ですこの絵で富士山とともに面白いのが、中央の馬に乗った三人の子供です。前方の二人は身体を左へ向け、珍しい「左富士」を眺めているように見えます。ところが右側の一人は、せっかくの名所にもかかわらず、馬上で居眠りしているような姿。「名所だから皆が感激して富士を眺める」という理想化された旅ではなく、疲れて眠ってしまう子供もいるという日常の一瞬を広重は描いています。展示解説がいう「現実感」とは、このようなところでしょう。松並木も重要です画面を大きく占めるのは富士山ではなく、街道沿いの松並木です。太い松の幹を画面のすぐ手前に大きく配置し、その間から遠方の富士をのぞかせています。近景の松 → 旅人と馬 → 遠景の富士という三段階の奥行きがつくられています。前回の「原 朝之富士」が画面からはみ出すほど巨大な富士だったのに対して、この「吉原 左富士」では富士を遠く小さく描いています。同じ富士山でも、広重が宿場ごとにまったく違った見せ方をしていることがよく分かります。「よしわら ひだりふじ吉原 左冨士Yoshiwara, Mt. Fuji on the Left作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃東海道を西に進む際には、富士山を右手に見ながら進むが、街道が北に曲がると左手に富士を見ることもあった。副題の左富士はこれを指し、吉原宿は左富士の名所として知られた。三人の子供が馬の背に乗り、富士を眺める左手の二人と対照的に右側の子供は旅の疲れからか眠っているようにも見える。名所の旅の風景に現実感を表現する広重の特徴が表れている。」 「東海道五拾三次之内 蒲原」 ネットから「実景」ではなく、広重が生み出した雪の世界展示解説で重要なのは、蒲原は温暖で、実際には雪があまり降らない土地だという点です。それにもかかわらず、広重は山も家々の屋根も道も、すべて深い雪に包まれた世界として描きました。つまり、これは単純な「蒲原の実景写生」というより、蒲原という宿場を舞台に広重が創り上げた詩情豊かな雪景色と見ると、この作品の魅力がよく分かります。「しんしんと降る雪」なのに、雪の線がないこの作品をよく見ると興味深い点があります。画面には、雪が斜めに降る線や白い雪片がほとんど描かれていません。それでも私たちは、「静かな夜、雪がしんしんと降っている」と感じます。白く覆われた屋根や山、黒く沈んだ空、そして音のないような人物の動きによって、広重は雪そのものを描かずに、雪の気配を描いているのです。三人の旅人雪道には三人の人物がいます。左の人物は傘を差し、中央の人物はやや前屈みになって歩き、右側の人物も雪の中を急ぐように進んでいます。人物を小さく描くことで、雪に覆われた自然の広がりと、冬の夜道を歩く人間の心細さが強調されています。とりわけ中央の人物の傾いた姿勢からは、寒さに耐えながら雪道を歩く様子まで伝わってくるようです。「初摺」と「後摺」の違い展示解説では、この作品には大きく、初摺り=空の上部に「一文字ぼかし」後摺り=地平線に近い部分を黒くしたものという違いがあると説明されています。今回撮影された作品は説明板によれば後摺りです。画面中央の地平線付近を黒く沈ませることで、雪をかぶった家々や山の白さが浮かび上がり、夜の深さがいっそう強調されています。この「黒」と「白」の対比こそ、この作品の美しさの大きなポイントでしょう。「かんばら よるのゆき蒲原 夜之雪Kambara, Evening Snow作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃蒲原は温暖な土地で、雪はあまり降らないという。しかし、本図では一面に雪が降り積もっている。積雪風景が少ない「東海道五拾三次之内」でも印象的な図である。この図には、天の部分を一文字ぼかし摺りにした初摺りと地平に近い部分を黒くした後摺りがある。後摺りの本図は、山や家屋の輪郭が際立ち、闇夜にしんしんと雪が降り積もっているようで見ごたえがある。」 「東海道五拾三次之内 由井」 ネットからこの作品で広重が強調しているのは、「険しい薩埵峠」と「その先に開ける雄大な眺望」の対比です。画面左側には巨大な崖が迫り、その崖の向こうに富士山が姿を現します。そして右側には駿河湾が大きく広がり、海上には白い帆を上げた船が浮かんでいます。特に面白いのが、説明板にもある崖際の旅人です。写真では暗くて分かりにくいのですが、画面左下の険しい崖のところに小さく人物が描かれています。危険な場所まで身を乗り出して、富士と海の絶景を眺めています。一方、その少し上には杣人(そまびと)、つまり山で木を伐採したり運んだりすることを仕事とする人が描かれています。旅人にとっては息をのむ絶景でも、地元で働く人にとっては日常の風景――その対照も興味深いところです。富士山と帆船画面中央左奥に見える白い山が富士山です。富士山を絵の中央に大きく置くのではなく、崖と松の向こうから覗かせるように描いているところが巧みです。さらに海上の白い帆船を点々と配置することで、広い駿河湾の奥行きが生まれています。手前の暗い崖 → 松 → 青い海 → 白い帆 → 遠くの富士山という重なりによって、非常に深い遠近感がつくられています。「ゆい さったとうげ由井 薩埵嶺Yui, The Sattatoge Pass作者:歌川広重(初代)/画年代:天保5~7(1834~36)頃薩埵峠は切り立った崖沿いに道が引かれた難所だったが、見晴らしが良いため富士山や三保の松原を眺めることができる景勝地としてよく知られた。図は薩埵峠を左に写し、奥に海と堂々たる富士山を望む。左の崖には旅人とおぼしき人が一歩進めば崩れ落ちそうなところまでにじり出て絶景を見ている。その少し上には周辺に住んでいるだろう杣人が淡々と坂道を登る。東海道の旅路のひとときを描いた図である。」「東海道五拾三次之内 興津」ネットからこの絵で何より目を引くのは、興津川を渡る二人の力士です。手前では、四人の人足が駕籠を担いで川を渡っています。中には大柄な力士が座っています。水の中を進む人足たちは、駕籠を濡らさないよう肩に力を入れ、足を踏ん張っています。その後ろには、もう一人の力士が馬に乗って渡河しています。馬の横にも人足が付き添っており、当時の東海道における川越しの様子が生き生きと描かれています。面白いのは、「力持ちの力士が、人足たちに担がれて川を渡っている」という構図です。堂々とした力士の体格と、それを懸命に運ぶ人足たちの姿との対比に、広重らしいユーモアも感じられます。また背景を見ると、川の向こうには松原、そのさらに向こうには駿河湾を行く白帆の船が描かれています。手前の人物を大きく、遠景の松や帆船を小さくすることで、広々とした空間が表現されています。「勧進相撲」とはここでいう勧進相撲は、寺社の建立・修復などの費用を集める「勧進」を目的として催された相撲を起源とします。江戸時代には次第に興行として発達し、現在の大相撲につながっていきました。この二人は、そうした相撲興行のために東海道を旅している力士の一行と考えられています。「おきつ おきつがわ興津 興津川Okitsu, Okitsugawa River作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃興津川を渡る旅人を描く。馬上と駕籠の中にいる恰幅が良い二人は力士であり、勧進相撲の一行のようである。この図は『東海道名所図会』の安倍川を描いた挿絵を参考に描かれたと考えられる。元々、橋を渡る図であったところを、川渡りの図に変えることで緊張感のある構図に仕上がり、体に力の入った本図の力士の様子に説得力が出ている。」 「東海道五拾三次之内 江尻」ネットからこの作品は、これまでの「由井 薩埵嶺」「興津 興津川」とは趣が大きく変わり、人物をほとんど描かず、広大な海景そのものを主役にした作品です。画面最下部に江尻宿の家々の屋根をわずかに置き、そこから高い場所に立って駿河湾を見下ろすような構図になっています。特に目立つのが、海上に浮かぶ多数の白い帆です。手前の船は大きく、遠くなるにつれて帆が小さくなり、水平線近くでは白い点のようになります。これによって、駿河湾の広さと奥行きが巧みに表現されています。そして画面中央を横長に伸びる黒々とした陸地が、三保の松原です。松原を横方向に長く配置することで、青い海を手前と奥に分けると同時に、視線を遠方へ導いています。「富士山がない」のも重要です三保の松原といえば、現在では「松原越しの富士山」を思い浮かべます。しかし、この作品では富士山を主役にしていません。展示解説にもあるように、広重は三保そのものよりも、江尻から眺めた広々とした海、松原、帆船、遠くの愛鷹山を組み合わせて、駿河湾の開放感を表現しています。画面左奥の赤褐色や青色で重なる山々が愛鷹山方面です。「えじり みほ えんぼう江尻 三保遠望Ejiri, Distant View of Miho作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃江尻の宿場を手前に、三保の松原と遠方の愛鷹山を高所から見た風景が描かれている。三保は富士山を眺める場所として有名だが、本図では松原を画面の中心に据え、江尻から見る海景を見渡す。帆船が点々と海に浮かび、視線を奥へと誘導する。本図も『東海道名所図会』を参考にしていると思われる。ただし、右上部から水平線が見えている点に違いがあり、開放感のある構図となっている。」 「東海道五拾三次之内 府中」ネットからこの絵の主役は、実は「安倍川をどうやって渡ったのか」という江戸時代の旅の一場面です。安倍川には東海道の橋がなく、旅人は川を歩いて渡りました。しかし、誰もが自分の足で歩いたわけではありません。画面右手では、女性を乗せた駕籠を川越人足たちが担いでいます。人足たちはほとんど裸に近い姿で、水の中を進んでいます。女性は駕籠の中に座っていますから、衣服を濡らさずに対岸へ渡ることができます。一方、画面左側では、荷物を積んだ馬も川の中を進んでいます。その周囲にも人足が付き添っています。さらに中央奥には、衣服を頭上に掲げたり、胸近くまで水につかったりしながら、自力で渡る人々が描かれています。つまり広重は一枚の中に、「駕籠で渡る人」「馬と渡る人」「自分の足で渡る人」を描き分け、当時の安倍川の川越しの様子を生き生きと見せています。そして人物たちの背後には大きな山がどっしりと描かれています。広重は雄大な山を背景に置く一方、手前では川越しに苦労する人々を細かく描き、自然の雄大さと旅人の日常を対比させています。「ふちゅう あべかわ府中 安部川Fuchu, The AbegawaRiver作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃駿河の国府があった府中は現在の静岡市にあたる。周辺には安倍川があり、江戸時代当時の旅行客は徒歩渡し(かちわたし)で川を渡っていた。本図の手前には女性3人とお供の男性の一行が描かれる。駕籠の女性は、座布団をつかみ、不安げな顔で川を見ている。奥には馬を引く3人と、服を脱ぎ川を渡る男性が見える。胸まで水に浸かっているところから、渡りにくいと思われる。」 「東海道五拾三次之内 鞠子」ネットからこの作品は、これまでの川越しや峠越えのような「旅の難所」ではなく、旅人が茶店で一休みする、東海道の穏やかな日常を描いたところが魅力です。中央の茅葺きの茶店には、「名ぶつ とろろ汁」の看板が大きく掲げられています。店先では二人の旅人が腰を下ろし、食事をしながらくつろいでいます。展示解説のとおり、『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛・喜多八を連想させる二人です。また、店の前には梅と思われる花木が咲き、背後には丸みを帯びた山。左側には街道を歩いていく旅人が小さく描かれています。「歩く旅人」と「休む旅人」を同じ画面に置くことで、東海道の旅の時間が感じられます。特に面白いのは、広重が名所旧跡ではなく、「とろろ汁を食べる」という旅の楽しみそのものを題材にしている点でしょう。「まりこ めいぶつ ちゃみせ鞠子 名物茶店Mariko, Local Specialty Teahouse作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃鞠子は丸子とも書き、昔からとろろが名物として知られていた。松尾芭蕉の句にも詠まれているが、本図が着想を得たのは『東海道中膝栗毛』ではないかと考えられる。「名ぶつとろろ汁」、「御ちゃづけ」、「酒さかな」などと書かれた茶店には二人の男性がくつろいでいる。弥次さん喜多さんを思わせる風貌の二人組である。旅の途中ののどかなひと時を切り取った図である。」 「東海道五拾三次之内 岡部」 ネットからこの絵で広重が強調しているもの第一印象は、何といっても道の狭さと山の深さです。画面の大部分を左右から迫る巨大な山肌が占め、旅人の通る道は、その谷間に細い一本の線のように描かれています。右側には青く描かれた谷川が流れ、足を踏み外せば落ちてしまいそうです。さらに右上には高い杉のような木々がそびえ、空はわずかしか見えません。広重はこの構図によって、宇津ノ谷峠が昼間でも薄暗い山道だったことを視覚的に表現しています。中央奥には茅葺きの家がわずかに見え、その近くに赤く色づいた木が一本描かれています。青緑色を主体とした暗い山間の景色の中で、この赤が鮮やかなアクセントになっています。そして小さく描かれた旅人たちと巨大な山を比べると、人間の小ささと自然の圧倒的な大きさがよく分かります。「おかべ うつのやま岡部 宇津之山作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃盛り上がった両脇の山に挟まれて、一本の細い道が通っている。手前から道を登る男女が現れ、奥から薪を担いだ杣人(そま)がやってくる。すれ違えば隣の川に落ちそうな、人ひとりがやっと通れるような狭い道である。ここは東海道の丸子宿と岡部宿の間の宇津ノ谷峠で、昼でも山に遮られて薄暗いため難所とされた。」「東海道五拾三次之内 藤枝」 ネットから「人馬継立」とは?ここがこの作品を理解するポイントです。人馬継立(じんばつぎたて)とは、宿場ごとに荷物や公用の旅人を運ぶ人足や馬を交替させ、次の宿場へ送り継ぐ制度です。江戸時代の宿場には、荷物輸送などを取り仕切る問屋場(といやば)がありました。藤枝宿もその一つです。つまり現在にたとえるなら、「人足と馬を交替させる中継基地+荷物の配送センター」のような役割を果たしていました。絵を見ると大変な賑わいです右上の建物が問屋場で、役人が仕事をしています。その前には仕事の順番を待つ人足たち。中央では大きな荷物を二人で担ぎ、左側では馬に荷物を積んだり降ろしたりしています。裸に近い姿の人足、馬、旅人、役人が入り交じり、広重は宿場の忙しさを人物の動きで表現しています。面白いのが、展示解説にもある「広告」です。荷物には、この浮世絵を出版した版元「保永堂」の札。さらに馬には版元主人の名である「竹内」の文字が入っています。現代風にいえば、広重の絵の中に出版社の名前をさりげなく「商品広告」として登場させたわけです。江戸時代にも、こうした遊び心のある宣伝があったことが分かります。「藤枝 人馬継立(ふじえだ じんばつぎたて)Fujieda, Station for Changing Horses and Porters作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃間屋場の前の人馬の群像を描いた一図である。右上の屋内にいる役人の前に並ぶ人々は、みな思い思いの行動をしながら順番を待つ。宿場の活気が画面から伝わる。中央付近、二人の人が担ぐ荷物には版元「保永堂」の札がさがり、馬の腹には版元の主人の名である「竹内」の文字が見える。本図にはいわゆるコマーシャルの意図があったのだと考えられる。」 「東海道五拾三次之内 嶋田」ネットからこの作品は、これまでの東海道の風景画とはかなり違います。広重は大井川を高い位置から見下ろす「俯瞰(ふかん)」の構図で描いています。画面上部を大きく横切る青い流れが大井川。その手前の広大な河原には、驚くほど多くの人や馬が描かれています。よく見ると、川の中を実際に渡っている一団も見えます。橋を架けず、舟も使わず、人足の力で旅人や荷物を渡していた当時の大井川ならではの光景です。そして興味深いのが、画面中央付近の人々です。展示解説にあるように、川越人足らはふんどし一丁になって渡河の準備をしています。広重は人物を非常に小さく描きながら、馬に餌を与える者、荷物を運ぶ者、駕籠を担ぐ者、渡河の準備をする者、川を渡る者を細かく描き分けています。そのため、遠景なのに河原のざわめきまで感じられるようです。なぜ大井川に橋がなかったのか「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と歌われたほど、大井川は東海道最大級の難所でした。江戸時代には大井川で架橋や渡船が認められず、基本的に人足による徒歩渡しが行われました。旅人は川越人足の肩や台、あるいは連台などを利用して川を渡りました。そのため増水すると「川留め」となり、何日も渡れないこともありました。「しまだ おおいがわすんがん嶋田 大井川駿岸Shimada, The Sungan Bank of the Oi River作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃大井川は急流の大河で、かつ、当時は徒歩渡ししかゆるされておらず、東海道屈指の難所だったという。駿岸とは、駿河側の岸のことである。本図は、この駿岸から川を渡って西の遠江に行こうとする大名行列を俯瞰している。馬に餌をやる者、籠を担ぐ者、ふんどし一丁になって川渡りの準備をする者など、小さい画面ながら一人ひとりの様子が緻密に描きこまれている。」 「東海道五拾三次之内 金谷」 ネットから前の「島田」は駿河側=駿岸から大井川を見る作品でしたが、こちらは川を渡った先の遠江側=遠岸を描いています。「遠岸」の「遠」は「遠江(とおとうみ)」の意味です。広重は、画面の大部分を広々とした河原と山並みに使い、その中に大名行列を非常に小さく描いています。特に左下を見ると、川越人足たちが水の中に入り、大きな連台(れんだい)を担いで川を渡る姿が描かれています。川の中央から対岸へも人馬の列が続き、大井川越えが大掛かりな仕事だったことがよく分かります。そしてこの作品で印象的なのが、「霞」です。山の麓や河原の一部をあえて描かず、白く抜くように霞を表現しています。そのため、手前の青い川、広い河原、霞、その奥の山々へと視線が自然に導かれ、画面に非常に大きな奥行きが生まれています。前作「島田」と並べて見ると「島田 大井川駿岸」では、河原に集まった大勢の人や馬を細かく描き、川越しの賑わいを見せていました。一方、この「金谷 大井川遠岸」では人物を小さくし、広大な河原と山々を大きく描くことで、大井川と自然の雄大さを強調しています。二枚を続けて見ることで、旅人が島田側から大井川を渡り、金谷側へ到着するという東海道の旅そのものを追体験できる構成になっています。「かなや おおいがわえんがん金谷 大井川遠岸Kanaya, The Engan Bank of the Oi River作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃前図に対して、こちらは遠江側の風景である。本図も同様に大名行列が大井川を渡る様子が描かれているが、遠方の山々も望む構図となっている点に違いがある。山の麓と川岸に霞を引くことで、距離感を際立たせている。」 「東海道五拾三次之内 日坂」ネットからこの作品でまず目を引くのが、画面中央下に描かれた大きな丸い石です。これが「夜泣き石」の伝説を表しています。広重は佐夜ノ中山の険しさを強調するため、道を画面右下から右上へ向かって急角度に立ち上がるように描いています。旅人たちは坂道を登り下りし、その途中で何人かが丸い石の周囲に立ち止まっています。画面左奥には山々が幾重にも重なり、遠くの山は青く淡く描かれています。一方、手前の山肌は黒々と表現され、白い幹の松が配置されています。この明暗と色彩の対比によって、深い山中を通る東海道の険しさが伝わってきます。「佐夜ノ中山」とは佐夜ノ中山(小夜の中山)は、現在の静岡県掛川市にある峠で、東海道の金谷宿と日坂宿の間に位置します。箱根峠、鈴鹿峠などとともに、東海道の難所として知られた場所です。この作品は単なる峠道の風景ではなく、「夜泣き石」という土地の伝説を東海道の風景の中に組み込んだ作品であるところが大きな特徴です。「日坂 佐夜ノ中山(にっさか さよのなかやま)Nissaka, Sayo-no-Nakayama Pass作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃急な坂の真ん中に大きな丸い石が転がっている。旅人たち数人がそれを囲む。静岡県掛川市の小夜の中山には夜泣き石という石がある。賊に殺された妊婦から生まれた赤子がこの石の下で泣いていたのを助けられた伝説からこの名で呼ばれるようになった。」 「東海道五拾三次之内 掛川」ネットからこの絵の面白いところ――「凧」に注目この作品で広重が非常に面白い表現をしているのが、画面上部の凧です。よく見ると、凧そのものは画面の外へ出てしまい、長い凧糸だけが画面上端を突き抜けています。つまり広重は、「空高く揚がっている凧」を小さく描くのではなく、あえて絵の枠外に出してしまったのです。これによって、画面に描かれている範囲よりも、さらに高く広い空が続いていることを想像させます。さらに遠方の山の上にも、小さな凧が一つ見えます。近くの凧と遠くの凧を組み合わせることで、空間の広がりも表現しています。橋の上の人物橋では旅人たちと僧がすれ違っています。中央付近の人物は、風に飛ばされた笠を押さえる、あるいは追いかけているようにも見えます。水面の葦も風になびき、空には凧が舞う――こうした細かな描写を重ねることで、広重は目には見えない「風」そのものを描いているともいえる作品です。手前に立つ黄色い灯籠は、展示説明にある秋葉権現の常夜燈。旅人にとって、秋葉山信仰の土地へ近づいたことを知らせる目印でもありました。「かけがわ あきばさんえんぼう掛川 秋葉山遠望Kakegawa River, Distant View ofAkibayama Montain作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃三瀬川に架かる大池橋と秋葉山が描かれる。秋葉山は火難除けの神である秋葉権現が鎮座する山として知られる。橋の手前には、この秋葉権現の常夜燈が描かれる。橋上では旅人や僧が行き交う。彼らの頭上では、凧が画面の枠を突き破って空高く揚がっている。遠くにも、凧が飛んでいるのが見える。爽やかな風を感じさせる一図である。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.25
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『掘り出された祈り―瘡守稲荷信仰のかたち―』を見終え、次に向かったのは、「特別展示 東海道五拾三次之内 歌川広重」。 歌川広重の代表作である保永堂版「東海道五拾三次之内」から、日本橋を出発し静岡県の掛川に至るまで27点を展示。江戸時代に多くの武士や庶民が往来した宿場町を、広重は美しい景観に描き上げました。江戸の人びとが憧れた旅の風景を楽しんだのであった。開催概要会期2026年6月13日(土)-2026年7月12日(日)会場:5階常設展示室内開館時間:9:30-17:30 土曜日は19:30閉館(入館は閉館の30分前まで)休館日:毎週月曜日主催:東京都、東京都江戸東京博物館(公益財団法人東京都歴史文化財団)展示コーナー:5階「江戸の美」コーナー 特設ギャラリー「特集展示歌川広重 東海道五拾三次之内展示期間日本橋~掛川 2026年6月13日(土)~7月12日(日)袋井~三条大橋 2026年7月14日(火)~8月11日(火)初代歌川広重[1797(寛政9)年-1858(安政5)年]が、名所絵の名手として広く知られるきっかけとなった保永堂版「東海道五拾三次之内」を展示します。本シリーズは、東海道の53か所の宿場に江戸と京を加えた55の場面を描いています。このうち、起点の江戸の日本橋から静岡の掛川までの27点を前期[2026年6月13日(土)~7月12日(日)]、静岡の袋井から終点の京の三条大橋までの28点を後期[同7月14日(火)~8月11日(火)] でご覧いただきます。広重は各宿場の名物や難所、見どころに、四季や天候、時刻の変化をつけながら描きました。広重の描く東海道は、自然の変化を伴う旅の風景のなかで、旅人の姿を抒情的に表しています。実際に現地を旅しているかのような心地にさせる広重の「東海道五拾三次之内」は、当時から大評判となりました。」 「歌川広重(1797-1858)1797(寛政9)年、定火消同心安藤徳右衛門の子として生まれる。13歳の時に父母が病没し家職を継いだが、15歳で浮世絵師の歌川豊広の門人となった。翌1812(文化9)年に広重の号を与えられ、歌川を称することを許された。はじめは他の浮世絵師と同じように役者絵、美人画、武者絵、風景画などを制作していた。1832(天保3)年に家職を子の仲次郎に譲り、制作に専念する。保永堂版「東海道五拾三次之内」は、好評を博し多くの再版が制作されたため、広重の出世作となった。名所絵の名手として知られるようになり、諸版元から名所シリーズが出版され、人気浮世絵師の仲間入りを果たす。風景画のほかに、花鳥や魚類を描いた浮世絵版画も評価されている。最晩年には集大成といえる「名所江戸百景」を制作した。1858(安政5)年に病没し、浅草東岳寺に葬られた。「東海道五拾三次之内 日本橋」ネットから。この作品は55図からなる「東海道五拾三次之内」の第1図、旅の出発点。まず目に入るのが、中央の日本橋をこちらへ渡ってくる大名行列です。先頭には荷物を担ぐ者、その後ろには高く掲げられた毛槍(けやり)が見えます。まだ朝早い時間ですが、すでに江戸の町は動き始めています。一方、橋の手前には魚を運ぶ棒手振り(ぼてふり)の魚屋たちがいます。天秤棒を担ぎ、魚を入れた籠を下げています。大名行列が来るため、道の脇へ避けているところです。ここがこの絵の面白いところです。広重は格式高い大名行列だけを描くのではなく、そのすぐそばに魚を売って生計を立てる庶民を描きました。さらに右下には、周囲の緊張などお構いなしに戯れる二匹の犬までいます。つまり一枚の中に、「大名」―「働く庶民」―「犬」というまったく異なる存在を同時に描き、早朝の日本橋の日常を生き生きと表現しています。なぜ魚屋が多いのでしょうか日本橋の北側、現在の日本橋から日本橋室町にかけてには、江戸を代表する魚河岸がありました。ですから、この魚屋たちは単なる風景上の添景ではありません。「朝の日本橋」を象徴する人々なのです。魚河岸で仕入れた新鮮な魚を江戸市中へ売り歩こうとしているのでしょう。そして、空をご覧ください。上部は深い藍色ですが、地平線近くには淡い橙色が広がっています。これが題名の「朝之景」を表しています。まだ夜の色を残した空と、朝焼けの暖かな色。その下では、すでに魚屋も大名行列も動き始めている。「江戸の一日が始まる瞬間」と「京都への長い旅の始まり」を重ね合わせた構成と見ることができます。左右の「木戸」にも注目です解説板がわざわざ触れている重要な部分です。画面の左右手前には、大きな木戸が描かれています。広重は、この開いた木戸の間から日本橋を眺めるような構図にしました。そのため鑑賞者は、単に日本橋を遠くから眺めるのではなく、「今、自分もこの木戸を通り抜け、日本橋を渡って京都へ出発する」ような感覚になります。55枚にわたる東海道の旅の第1図として、実に巧みな「入口」になっています。「にほんばし あさのけい日本橋 朝之景Nihonbashi Bridge, Morning View作者:歌川広重(初代)/画年代:天保5~7(1834~36)頃東海道の起点である日本橋を描いている。橋を渡る大名行列に道をあけるように、棒手振りの魚屋たちが脇に避けるが、犬は橋の前で戯れる。橋の向こうの北側には魚河岸があり、大勢の人が往来した。画面両端に描かれた木戸が左右に開き、中の扉を経見る構図は、鑑賞者がこの風景に入っていくかのように思わせる。朝やけの空のもと、賑やかな日本橋の景色とともに「東海道五拾三次之内」が始まる。」 「東海道五拾三次之内 品川」 ネットから。「日本橋 朝之景」で江戸を出発した一行が、東海道第一の宿場品川宿へやって来ました。この絵で広重が大きく描いたのは、宿場そのものだけではありません。画面左側のかなりの部分を品川の海が占めています。海上には帆を張った船が何艘も浮かび、江戸湾に面した品川が陸上交通と海上交通の接点だったことを印象づけています。一方、右側には御殿山の麓を通る東海道と、街道沿いにびっしり並ぶ家々・茶屋が描かれています。大名行列の「最後尾」画面中央から右へ進んでいる青い衣服の人々に注目すると、これは解説板にある通り大名行列の最後尾です。前の「日本橋 朝之景」では、大名行列が橋を渡ってこちらへ向かってくる姿を描いていました。ところが品川では、その行列を後ろから見送る構図になっています。つまり二枚を続けて見ると、日本橋――これから旅立つ大名行列 ↓品川――街道の先へ遠ざかっていく大名行列となります。広重は単に名所を一枚ずつ並べたのではなく、連続する作品の中に旅の進行を感じさせています。茶屋と茶屋娘街道左側、海との間に並んでいるのが茶屋です。軒先には赤い提灯のようなものが並び、店先には女性の姿も見えます。これが解説にある茶屋娘です。品川は日本橋から約二里、現在の距離感なら約8kmほど。江戸を発った旅人にとっては、最初の休息場所となる宿場でした。画面右下には、行列を見送る人々の頭がいくつも見えます。広重はこうした小さな人物を配置することで、宿場の賑わいを表しています。「日之出」なのに太陽を描いていないここも面白いところです。題名は「日之出」ですが、画面に赤い朝日は見当たりません。広重は太陽そのものを描く代わりに、空の色の変化によって日の出を表現しています。上空にはまだ濃い藍色が残っていますが、水平線に近づくにつれて明るくなっています。前作の「日本橋 朝之景」と比較すると、日本橋=まだ朝焼けの残る早朝→ 品川=日の出を迎え、空が明るくなるという時間の経過が分かります。「しながわ ひので品川 日之出Shinagawa, The Sunrise作者:歌川広重(初代)/画年代:天保5~7(1834~36)頃品川宿は東海道の第一宿であり、品川湊の近くにあった。本図では、御殿山(ごてんやま)の麓の街道に並ぶ宿場町から、港を眺める景色が描かれる。街道を通る列は大名行列の最後尾である。街道には茶屋が並び、店先に茶屋娘が立っている。街道の右脇には、大名行列を見送る旅人たちが集まっている。副題に「日之出」とあるように、日本橋を出発したときより空は明るくなり、時間の経過を感じさせる。」 「東海道五拾三次之内 川崎」 ネットから。この作品で広重が描いたのは、東海道を進む旅人にとって重要な難所の一つ、多摩川(六郷川)の渡河です。現在なら橋を渡って簡単に行き来できますが、この時代の東海道では、ここを渡し船で越えて川崎宿へ向かいました。画面手前を大きく横切る船が「六郷の渡し」です。船頭が長い竿を操り、対岸へ向かっています。船の中の人物が面白い広重は船そのものよりも、そこに乗り合わせた人々を実に細かく描いています。中央には笠をかぶった旅人。その周囲には男女が座り、右側には立った男性がいます。展示解説によれば、船上にはキセルを吸う男女も描かれています。身分も旅の目的も異なる人々が、ひととき同じ船に乗り合わせる――。江戸時代の旅の一場面が感じられます。対岸に目を移すと、馬に大きな荷物を積んだ人、旅人、家々などが描かれています。川を渡った先にも街道の生活が続いています。右奥には富士山この絵でぜひ見ておきたいのが、画面右奥の白い富士山です。それほど大きく描かれてはいませんが、山頂には雪が積もっています。品川から川崎へ向かって南西方向へ旅をしているため、富士山が進行方向の右手遠方に現れます。これから東海道を西へ進むにつれて、富士山は次第に大きく、そして様々な姿で登場します。広重の「東海道五拾三次」を見る楽しみの一つが、旅の進行とともに変化する富士山の見え方です。なぜ橋ではなく「渡し船」だったのか六郷川には江戸初期には橋が架けられていました。しかし洪水による流失などを経て、江戸時代後期には渡船による往来となっていました。そのため東海道を行く旅人は、ここで一度歩みを止め、船に乗らなければなりません。広重にとっては、この「歩く旅」から「船の旅」へ一瞬切り替わる場面が、格好の画題になったのでしょう。さらに川崎宿には、東海道を往来する人だけでなく、川崎大師への参詣客も集まりました。そのため六郷の渡しは多くの人々に利用され、展示解説にあるように、渡し賃も川崎宿の繁栄に結びつきました。構図にも注目ですこの絵は、手前=渡し船と旅人中景=対岸の川崎側の人々・家々遠景=富士山という三段構成になっています。特に手前の船を斜めに大きく配置することで、私たち鑑賞者まで「同じ船に乗って川崎へ渡っている」ような感覚になります。前の二作品と並べると、日本橋「朝之景」―旅立ち→ 品川「日之出」―東海道第一宿→ 川崎「六郷渡舟」―多摩川を船で越えると、まさに江戸を離れて旅が本格化していく様子が分かります。「かわさき ろくごう わたしぶね川崎 六郷渡舟Kawasaki, The Rokugo River Ferry作者:歌川広重(初代)/画年代:天保5~7(1834~36)頃多摩川を渡る六郷の渡し船を描いている。川崎宿は東海道を通る客だけでなく、川崎大師を詣でる旅人でも賑わった。品川宿から川崎宿へと向かって描かれているため、遠景の右端には雪の積もる富士山が見える。渡し船の上には、キセルを吸う男女、乗り合いの人々が描かれる。川崎宿は多くの利用客による渡し賃によって繁栄した。」 「東海道五拾三次之内 神奈川」ネットから。この作品の最大の特徴は、題名の「台」です。「台」とは高台のこと。神奈川宿の西側には海に面した高台があり、東海道はその斜面を通っていました。広重はその地形を利用して、画面を大きく右=高台を通る東海道と茶屋・旅籠左=眼下に広がる神奈川湊と海に分けています。前の「川崎 六郷渡舟」が川を横切る平面的な景色だったのに対し、ここでは一気に高低差のある風景になりました。海へ落ち込むような急坂右側の街道をご覧になると、画面奥から手前へ向かってかなり急に下っています。その坂に沿って、屋根を重ねるように茶屋や旅籠が並びます。この建物の連なりを斜めに配置したことで、広重は高台の高さと坂道の急勾配を強く感じさせています。そして左側には遮るもののない海。坂道を歩いていた旅人がふと横を見ると、眼下いっぱいに神奈川湊が広がった――そのような眺望を描いた作品です。客の手を引く女性右側の街道をよく見ると、旅人たちとともに、店先から出て客の手を引いている女性が描かれています。展示解説がわざわざこの人物に触れているのは、当時の神奈川宿の賑わいを象徴する場面だからでしょう。茶屋や旅籠が立ち並び、店の女性たちが旅人を呼び込む。広重は美しい海景色だけでなく、宿場で実際に営まれていた商売の様子まで描き込んでいます。海には多くの船左側の海も重要です。大きな帆を張った船、帆を下ろした船、小舟など、さまざまな船が浮かんでいます。神奈川宿は東海道の宿場であると同時に、神奈川湊を擁する港町でした。そのため、陸路を行く旅人と海で働く船頭たちが行き交う町でした。この作品には、「陸の東海道」と「海の神奈川湊」が一枚の中に見事に収められているわけです。広重らしい構図特に面白いのが、右手前の建物です。最も手前の家は屋根の一部しか描かれておらず、画面から大きく切れています。一方、街道と建物は奥へ行くほど小さくなります。この大胆な切り取り方によって、鑑賞者自身が高台の街道に立ち、眼下の海を眺めているような臨場感が生まれています。日本橋からここまでを続けて見ると、日本橋「朝之景」→ 品川「日之出」→ 川崎「六郷渡舟」→ 神奈川「台之景」と、早朝の江戸を出発し、海や川を眺めながら東海道を西へ進む旅が、連続した物語のように展開していることが分かります。「かながわ だいのけい神奈川 台之景Kanagawa, View from an Overlook作者:歌川広重(初代)/画年代:天保5~7(1834~36)頃神奈川宿(現在の神奈川県横浜市神奈川区)は、神奈川湊の傍にあり、東海道の利用客だけでなく、船頭たちでも賑わった。高台の上にあった街道には、茶屋や旅籠が並び、本図でも客の手を引く女の姿が描かれる。高台から見える港に、たくさんの船が浮かぶ景色を見ることができた。」 「東海道五拾三次之内 保土ヶ谷」ネットから。この絵の主役は、右手前から中央へ斜めに架かる新町橋です。橋を渡れば、そのまま家々が連なる保土ヶ谷宿へ入っていく構成になっています。広重は橋を手前に大きく配置し、見る人の視線を、新町橋 → 旅人 → 宿場の家並み → 背後の山々へと自然に導いています。橋を渡る「虚無僧」橋の上で特に目立つのが、頭全体を覆うような深編笠(ふかあみがさ)をかぶった人物です。展示解説にある虚無僧で、尺八を吹きながら諸国を巡ったことで知られる僧形の人々です。顔を隠すような大きな編笠は非常に特徴的で、広重は東海道を行き交ったさまざまな旅人の一例として描き込んでいます。その近くには駕籠も見えます。徒歩の旅人、虚無僧、駕籠に乗る人――江戸時代の東海道には、身分も目的も異なる人々が行き交っていたことが伝わります。「二八そば」の店橋を渡った先、宿場入口付近にある店が、解説板に記された「二八そば屋」です。「二八そば」は江戸時代に広く使われた呼び名です。「二八」の意味については、そば粉と小麦粉の割合を指すという説と、二×八=十六、すなわち一杯16文という値段に由来するという説があります。こうした食べ物の店まで描かれているところが面白く、広重の作品は単なる風景画ではなく、当時の東海道を旅する人々の生活を伝える風俗画としても楽しめます。宿場の「表」と「裏」この作品で私が特に注目したいのは、宿場町だけを描いていないことです。中央には宿場の家々が密集し、多くの旅人が行き交っています。しかし、その左側から奥へ目を移すと、景色は急に開け、田畑の広がる農村風景になります。さらに解説によれば、そこには農夫の家族も描かれています。つまり一枚の中に、街道の賑わい ― 宿場町 ― 農村の暮らし ― 山々という異なる世界を同居させています。前作「神奈川 台之景」が海と港町を印象的に描いたのに対し、「保土ヶ谷 新町橋」では、旅人はいよいよ海辺から離れ、内陸の田園と山の道へ入っていくことが感じられます。「ほどがや しんまちばし保土ヶ谷 新町橋Hodogaya, Shinmachi Bridge作者:歌川広重(初代)/画年代:天保5~7(1834~36)頃帷子川(かたびらがわ)の手前から保土ヶ谷宿を眺める風景を描いている。深編笠を被る虚無僧(こむそう)や駕籠の一行が橋を渡り、その先には二八そば屋が見える。宿場の屋根が連なる街道には、旅人が列をなし、賑わいが伝わる。一方で、宿場の向こうには田園風景が広がり、農夫の家族が描かれる。」 「東海道五拾三次之内 戸塚」ネットから。この作品は、名所の雄大な景観というより、東海道を旅する人々の一瞬の動作を捉えたところに面白さがあります。画面右には橋があり、その橋を渡った先が戸塚宿です。一方、左手前には大きな旅籠が迫るように描かれ、看板には大きく、「こめや」と書かれています。広重は旅籠を画面の端で大胆に切ることによって、私たち自身も街道を歩きながら「こめや」の前を通りかかったような臨場感を生み出しています。「大山講中」の札「こめや」の軒先には、展示解説によれば「大山講中」の木札が下がっています。これは大変興味深い部分です。大山は現在の神奈川県伊勢原市にある大山で、江戸時代には大山詣りが盛んでした。各地で「講」という参詣者の集団をつくり、まとまって大山へ向かいました。「大山講中」の札は、この旅籠がそうした大山詣りの人々を受け入れる宿・休憩所だったことを示しているのでしょう。つまり広重は、単に戸塚の風景を描くだけでなく、当時の人々がどのような目的で街道を旅していたのかまで描き込んでいます。馬から飛び降りる旅人画面中央左にいる馬と、そのそばの人物に注目です。展示解説が特に取り上げているのが、「馬から下りる笠の男」です。よく見ると、男は静かに立っているのではなく、身体を大きく前に傾け、片足を上げています。広重はこの一瞬の姿勢によって、「馬が着いた → 旅人が飛び降りる → 宿へ入る」という、絵の前後の時間まで想像させています。解説にある「旅の一幕を切り取ったかのよう」という表現は、まさにこの作品の魅力をよく表しています。橋を渡る旅人にも注目右側の橋には、荷物を背負った旅人がこちらへ歩いてきます。橋の向こうには茅葺き屋根の家々が並び、そのさらに奥には山があります。つまり、手前=旅籠「こめや」と到着した旅人中央=橋を往来する旅人奥=戸塚宿の家並みと、人の移動を重ねて描いています。宿場とは「建物」ではなく、人が到着し、休み、また出発していく場所だったことがよく伝わる作品です。題名の「元町別道」とは「別道(わかれみち)」という題名も重要です。戸塚宿の元町付近には街道の分岐がありました。作品中央付近には道標らしい石柱も描かれています。戸塚は東海道を西へ進む人だけでなく、大山などへ向かう人々にとっても重要な交通地点でした。そのため、この作品には「宿場」と「分かれ道」という二つの性格が表されています。そして現在の藤沢方面へ旅を続けるなら、この先はいよいよ藤沢宿へ向かうことになります。「とつか もとまち わかれみち戸塚 元町別道Totsuka, Motomachi Junction作者:歌川広重(初代)/画年代:天保5~7(1834~36)頃右手の橋を渡った先が戸塚宿である。橋の手前に描かれた旅籠には、「こめや」の看板が見える。軒先には「大山講中」の木札が下がっているため、大山講の休憩所だったのだろう。馬から下りる笠の男の躍動感にあふれた姿が、旅の一幕を切り取ったかのように見える。」 「東海道五拾三次之内 藤澤」ネットから。この作品で最初に目を引くのは、画面左手前に大きく描かれた鳥居です。これは遊行寺の鳥居ではありません。展示解説にあるように、江の島弁財天へ向かう参道の鳥居です。つまり広重は「藤沢宿」を描くにあたり、東海道だけではなく、ここから分かれて江の島へ向かう道も同時に描いたのです。鳥居の向こうに遊行寺画面上方の山をご覧ください。木々に囲まれた高台に堂宇があり、中央には長い石段が描かれています。これが遊行寺(清浄光寺)です。広重は、手前=江の島への入口中央=藤沢宿と川奥=遊行寺という構成にしています。藤沢を象徴する二つの信仰――遊行寺と江の島弁財天――を、一枚の中に巧みに収めているところがこの作品の大きな特徴です。鳥居の下を歩く「座頭」鳥居の下には、何人もの旅人が歩いています。その中で展示解説が注目しているのが、頭を剃った盲人たちです。当時「座頭」と呼ばれた人々で、音曲や按摩などを生業としていました。江の島弁財天には鍼術にまつわる逸話があり、盲人たちから信仰を集めていました。そのため広重がここに座頭を描いたのは、単なる旅人の点景ではなく、江の島詣でとの結び付きを示す意図的な人物配置と考えられます。「藤沢」は交通の分岐点この絵を見るうえで重要なのは、藤沢宿が単なる東海道の一宿場ではなかったことです。旅人は東海道をそのまま西へ進むこともできれば、ここから道を分かれて江の島へ参詣することもできました。さらに藤沢宿は遊行寺の門前町としての性格も持っていました。したがって広重の「藤沢」は、東海道を行く旅人+ 遊行寺への参詣+ 江の島弁財天への参詣という三つの人の流れが交差する土地として描かれているのです。川と橋中央には川と橋が描かれています。これは藤沢宿を流れる境川(当時は大鋸川などとも呼ばれました)と、東海道に架かっていた橋の景観です。水面を鮮やかな藍色で描き、右手前の土手を大きく取り入れることで、画面に奥行きを与えています。そして視線は、鳥居から橋、宿場の屋根、さらに遊行寺の石段へと自然に導かれます。「ふじさわ ゆぎょうじ藤沢 遊行寺Fujisawa, Yugyoji Temple作者:歌川広重(初代)/画年代:天保5~7(1834~36)頃藤沢宿側から対岸の戸塚宿を見ている風景である。山の上には遊行寺が見える。手前に大きく描かれた鳥居は、江の島弁財天へと向かう参道に立っている。鳥居の下に描かれた剃髪した盲人は、座頭と呼ばれた音曲や按摩を生業とした人々である。江の島の弁財天には鍼術の逸話があり、盲人たちの信仰を集めた。」 「東海道五拾三次之内 平塚」ネットから。この作品は、これまでの「藤沢 遊行寺」などとは雰囲気が大きく変わります。宿場の建物はほとんど姿を消し、目の前に広がるのは水田と松、そして山々。東海道の旅が、開けた相模平野へ入ったことを感じさせます。題名の「縄手(なわて)」とは、田んぼの間をまっすぐ、あるいは細長く延びる道を意味します。「縄手道」は、まさに田の間を通る畦道・田園の街道を表した言葉です。走っているのは「飛脚」画面中央手前には、二人の人物がいます。特に目立つのが、上半身裸で鉢巻きを締め、勢いよく走っている飛脚です。手には何かを持ち、荷物を背負っています。その隣には荷を担いで歩く人物。広重は静かな田園の中に疾走する飛脚を置くことで、画面に強い動きを与えています。江戸時代の東海道は、美しい景色を眺める旅人の道であると同時に、人・物・情報が江戸と上方を結んで行き交う大動脈でもありました。飛脚はそれを象徴する人物です。三つの山が重なる見事な構図この作品で最も注目したいのが山の配置です。展示解説によれば、中央の大きな丸みのある山=高麗山(こまやま)右側の角張った山=大山その二つの間の白い山=富士山です。写真を見ると、富士山は高麗山の右側から、白い三角形をほんの少しだけのぞかせています。広重は富士山を画面いっぱいに描かず、あえて二つの山の間から「ちらり」と見せたのです。これによって、遠くにある富士山の距離感が一層強く感じられます。高麗山が非常に大きい理由一見すると、富士山より中央の高麗山の方がはるかに巨大です。これは実際の山の高さを比較して描いているのではありません。高麗山は平塚・大磯のすぐ近くにあるため大きく、富士山ははるか遠方にあるため小さく見えます。さらに広重は、手前の松を大きく、奥へ進むにつれて小さくし、田んぼの道も折れ曲がりながら遠方へ導いています。つまり、大きな手前の松 → 曲がる縄手道 → 高麗山 → 大山 → 遠方の富士という幾重もの奥行きを作っています。展示解説にある「遠近感を表し、大きな山容が強調されている」とは、この巧みな構図を指しています。「ひらつか なわてみち平塚 縄手道Hiratsuka, A Footpath between Rice-Fields作者:歌川広重(初代)/画年代:天保5~7(1834~36)頃平塚宿の西端から西の大磯宿方面を眺める風景である。街道の田んぼ道には、上半身裸で鉢巻きを締めた飛脚が走っている。中央遠くに見える山は高麗山(こまやま)で、右手に見える角張った山が大山である。そして、両者の間からは雪の積もった真っ白な富士が見えている。折れ曲がる田んぼ道と、徐々に小さくなる松を配して遠近感を表し、大きな山容が強調されている。」 「東海道五拾三次之内 大磯」ネットから。「虎ヶ雨」とは?この作品を理解する鍵が、題名の「虎ヶ雨」です。「虎」は動物の虎ではなく、虎御前(とらごぜん)という女性を指します。曽我兄弟の仇討ちで知られる兄・曽我十郎祐成には、大磯の遊女・虎御前という恋人がいたと伝えられています。曽我十郎が陰暦5月28日に討ち死にしたため、その命日のころに降る雨を、「十郎を失った虎御前が流す涙」に見立てて、「虎ヶ雨」「虎が涙」などと呼ぶようになりました。したがって、この絵の雨には単なる天候描写以上の意味があります。画面いっぱいに降る雨写真をよく見ると、画面上から下へ、細長い雨の線が無数に引かれています。広重は後に「庄野 白雨」などでも雨を巧みに表現しますが、この「大磯」では激しい夕立というより、しっとりと降り続く物悲しい雨として感じられます。さらに画面最上部には、横一文字に濃いぼかしが施されています。展示解説のいう、「画面上部の一文字で、暗い空を表している」部分です。この暗い空と斜めに落ちる雨によって、虎御前の悲しみを思わせる沈んだ空気が画面全体を包んでいます。左側には太平洋画面左奥には海が広がっています。平塚から大磯へ進むと、東海道は再び海に近づきます。広重は大磯宿の入口を描きながら、その向こうに相模湾へ続く海を見せています。右側には街道沿いの家並みが続き、松の間を旅人や馬が進んでいます。雨が降っていても、東海道を行く人々の旅は続きます。雨の中を行く旅人右手前を見ると、馬に乗る人物、その前後を歩く人々がいます。傘を大きく広げた華やかな雨景ではありません。人々は雨の中を黙々と進んでいるように見えます。そのため、暗い空+ 降り続く雨+ 海+ 松並木+ 雨の中を進む旅人が重なり、前作「平塚 縄手道」の明るく開放的な田園風景とは対照的な、静かで哀感のある景色になっています。「大磯」を選んだ意味虎御前は大磯の遊女と伝えられる人物です。ですから広重は、大磯を単に「海辺の宿場」として描くのではなく、その土地に伝わる物語を取り入れて、大磯 → 虎御前 → 曽我十郎 → 虎ヶ雨と結び付けました。これも「東海道五拾三次」の魅力です。広重は各宿場の景色だけでなく、その土地の歴史・伝説・名物・風俗まで一枚の絵に織り込んでいるのです。「おおいそ とらがあめ大磯 虎ヶ雨Oiso, Tora's Tears (Rain)作者:歌川広重(初代)/画年代:天保5~7(1834~36)頃大磯宿の入口と左手に広がる太平洋を描いている。雨の図である理由は、副題の「虎ヶ雨」に由来する。曽我兄弟の仇討ちで知られる曽我十郎は、陰暦五月二十八日に討ち死にした。この日は愛人で大磯の遊女であった虎御前の涙が雨になって降るといわれた。画面上部の一文字で、暗い空を表している。」 「東海道五拾三次之内 小田原」ネットから。手前の酒匂川――「徒歩渡し」この絵で特に面白いのは、橋が描かれていないことです。江戸時代の酒匂川では、東海道を旅する人々は川を歩いて渡りました。画面中央下を見ると川の中に何人もの人足がいます。なかでも目立つのが、数人の人足が担いでいる「輦台(れんだい)」です。旅人を台に乗せ、人足たちが担いで川を渡しています。そのほか、人足に肩車されて渡る旅人も描かれています。つまり広重は、単に酒匂川という景勝地を描いたのではなく、江戸時代の東海道の「川越し」の実際の姿を画面の中心に置いています。中景――小田原城と城下町川を渡った先には広い草原があり、そのさらに奥、画面右寄りの山裾に小さな建物群が見えます。これが展示解説にある小田原城と城下町です。非常に小さく描くことで、手前の川から小田原までの距離感を出しています。背後の巨大な山――箱根そして、この絵で最も強い印象を与えるのが、画面右上を占める巨大な山々です。これは箱根の山々。実際の景色をそのまま写したというより、広重は山をかなり大きく、険しく強調して描いています。それには意味があります。旅人は小田原に到着すると、次はいよいよ東海道屈指の難所、箱根越えに向かいます。そのため、この巨大な山は、「この先には険しい箱根が待っている」ことを予告するような存在になっています。前景の酒匂川、中景の小田原、そして背景の箱根へと、旅人のこれから進む道を一枚の画面に重ねているところが、この作品の大きな見どころでしょう。「おだわら さかわがわ小田原 酒匂川Odawara, The Sakawagawa River作者:歌川広重(初代)/画年代:天保5~7(1834~36)頃大磯から小田原へと向かう酒匂川の渡し場の風景である。川の中には人足が輦台を担いでいたり、肩車をしたりと徒歩渡しの様子が描かれている。川を越えると草原が広がり、その先には小田原城と城下町が見える。その背後にそびえる巨大な山々が箱根であり、小田原のあとに控える険しい箱根越えを思わせる。」 「東海道五拾三次之内 箱根」ネットから。この作品で何より目を奪われるのは、中央にそびえる巨大な箱根の岩山です。広重は山肌を緑・黄・青・赤褐色などに大胆に塗り分けています。写実的な山の色というより、岩肌の複雑さと険しさを強烈に印象づける表現です。そして、よく見ると画面右下の細い道に、笠をかぶった大名行列の人々が描かれています。巨大な山に比べると、人間は驚くほど小さな存在です。この極端な大小の対比によって、「天下の険・箱根」という難所の厳しさが強調されています。左側は「芦ノ湖」画面左半分を占める濃い青色が芦ノ湖です。湖岸の山裾には、非常に小さく建物が描かれています。展示説明では、これを「箱根権現らしき社殿」としています。箱根権現は、現在の箱根神社です。さらに面白いのが、画面左奥です。山々の向こうに、ほとんど背景に溶け込むような白い三角形が見えます。これが富士山です。箱根の山を巨大かつ色鮮やかに描く一方、富士山は真っ白に、静かに遠景へ置かれています。この対比も非常に美しいところです。前の「小田原 酒匂川」と並べて見るとこの2枚は続けて見ると、東海道を旅している感覚がよく伝わります。「小田原 酒匂川」では、遠くに巨大な箱根の山を見せて「これから難所へ向かう」ことを予告していました。そしてこの「箱根 湖水図」では、旅人はその山中に入り込み、巨大な岩山の間の細い道を進んでいます。つまり、酒匂川から仰ぎ見た箱根の山 → その箱根の懐へ入っていく旅人という流れになっています。「はこね こすいず箱根 湖水図Hakone, The Lake作者:歌川広重(初代)/画年代:天保5~7(1834~36)頃東海道の難所として知られる箱根の岩山が大きく描かれ、画面下方から右上に向かう狭い山間の道には大名行列の一行が見える。山の左手には芦ノ湖が広がり、湖畔には箱根権現らしき社殿が描かれる。湖の上部の遠方に見えるのは、真っ白な富士である。険しい箱根の山々を色とりどりの色で色分けする表現が特徴的である。」 「東海道五拾三次之内 三島」ネットから。この絵の最大の見どころ――「朝霧」の表現この作品では、広重が朝霧そのものを描こうとしているところが大きな特徴です。画面右側の鳥居、石灯籠、木々などは比較的はっきりしています。それに対して、左奥へ行くほど人物や家並みは輪郭だけの薄い灰色のシルエットとなり、朝霧の中へ消えていきます。現代の写真でいえば、遠景になるほどコントラストが弱くなる「空気遠近法」に近い効果です。色を塗り重ねて霧を描くのではなく、「遠くのものを描かない・薄くすることで霧を見せる」という広重らしい巧みな表現です。右側の大きな鳥居は「三嶋大社」画面右に青灰色で大きく描かれているのが、三嶋大社の鳥居です。その周囲には石灯籠が並び、右奥には境内を思わせる木立が見えます。ただし、現在の三嶋大社の景観をそのまま描いたものとして見るより、当時の東海道を旅する人が目にした「三島宿を象徴する風景」として見るのがよいでしょう。中央の旅人たち中央には、朝早く出発する一行が大きく描かれています。目立つのが、駕籠(かご)と馬です。駕籠には旅人が乗り、担ぎ手たちがこれを運んでいます。その後ろには荷物を載せた馬が続き、その上にも旅人が乗っています。展示説明にあるように、この一行は三島から東へ、これから箱根越えに向かう人々です。つまり、先ほどの作品とは旅の方向が興味深く対照的です。「箱根 湖水図」=箱根の険しい山中を行く旅人「三島 朝霧」=三島を発ち、これから箱根へ向かう旅人となります。人物の表情にも注目広重は朝霧の静かな情景だけでなく、旅人たちをかなり生き生きと描いています。特に駕籠を担ぐ人足の姿を見ると、脚を大きく踏み出し、前方を向いて進んでいます。一方、馬上の人物は深く笠をかぶっています。静かな朝霧の風景と、動き始めた旅人たち。この「静」と「動」の対比も、この作品の魅力です。「みしま あさぎり三島 朝霧Mishima, Morning Mist作者:歌川広重(初代)/画年代:天保5~7(1834~36)頃現在の静岡県三島市の三島宿は、箱根を越えた次の宿場のために賑わった。鳥居は三島大社のもので、副題に朝霧とあることから、この風景が早朝の朝もやの中であることがわかる。左手奥の人物や家々の屋根もシルエットで描かれている点が興味深い。手前の人物はこれから箱根越えに向かう一行である。」 「東海道五拾三次之内 沼津」ネットから。この絵で最も目を引く「天狗の面」画面中央手前の白装束の旅人が背負っている大きな赤い顔は、やはり天狗の面です。長い鼻、赤い顔、険しい表情が非常に目立ちます。展示解説によれば、この人物は金毘羅参りの旅人です。つまり、単に奇抜な旅人を描いたのではなく、江戸時代に盛んだった寺社参詣の旅を表しています。面を箱などに入れず、あえて背中に外向きに背負わせているため、広重はこれを画面の大きなアクセントとして利用しています。満月と天狗の顔この作品では、面白い構図上の対比があります。画面上方には大きな丸い月。その下には大きな天狗の顔。さらに、その間を縦に伸びる木々が区切っています。月の淡い黄色、天狗の赤褐色、旅人の白い衣、深い青の空と川――限られた色彩の中で、それぞれが強く印象に残ります。「黄昏図」ですが、かなり暗い時間「黄昏」と聞くと夕焼けを想像しますが、この絵では空はすでに深い青色です。満月が大きく昇り、旅人たちは暗くなった街道を歩いています。しかし、遠くの沼津宿にはまだ白い家並みが見えます。広重は完全な夜ではなく、「昼の光が消え、月の光が主役になる瞬間」を捉えているのでしょう。「拭きぼかし」とは展示説明にある「拭きぼかし」は、この作品を見るうえで重要です。版木に絵具を均一につけるのではなく、布などで絵具を拭ったりぼかしたりして、色の濃淡を滑らかに変化させる木版画の技法です。画面上部を見ると、濃い藍色 → 青 → 淡い青へと自然に変化しています。これによって、夕暮れから夜へ沈んでいく空の深さが生まれています。「ぬまづ たそがれず沼津 黄昏図Numazu, Twilight Scene作者:歌川広重(初代)/画年代:天保5~7(1834~36)頃沼津宿へと向かう狩野川沿いの風景である。道の先に見える三枚橋を渡ると沼津宿に至る。街道を進む二人連れと、天狗の面を背負う金毘羅参りの旅人が描かれる。天狗の面は金毘羅大権現に参詣する際に奉納された。月があたりを照らす夜の風景を、拭きぼかしで描き出している。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.24
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「発掘された日本列島」の展示もいよいよ最後。「地域展掘り出された祈り― 海を渡る信仰のかたち ―」へ。見学してきた展示を振り返って。「キッズ考古学新聞コンクール第6回入賞作品選全国子ども考古学教室を通じて小さな考古学者たちの輪が広がっています。全国子ども考古学教室は、史跡妻木晩田遺跡(鳥取県)の普及・活用に取り組むNPO法人「むきばんだ応援団」が、設立20周年記念事業として令和2年から公開した学習情報サイトです。考古学に興味がある小学生の学習支援とともに、考古学の専門知識を持たない教員の授業支援も目的としています。この趣旨に賛同した研究者や教員経験者によるボランティア集団「キッズ考古学研究所」の協力により、学術的な信頼性と小学6年生にも理解できる平易な文章表現でコンテンツを提供しています。活動の中核となるのが、自分で調べてまとめることへのチャレンジである「キッズ考古学新聞コンクール」です。応募作品は全てサイト上に公開され、入選作品は全国各地の博物館等で開催する「全国巡回展」で紹介されます。また、入賞者たちのオンライン交流会は、考古学が好きな子どもたちの友達作りの場にもなっています。今回は、「5・6年の部」と「チャレンジの部」の応募作品の中から令和7年度の第6回コンクールに入選した7作品をご紹介します。※受賞者の学年は令和7年度の応募・受賞時のもの」 この展示は、子どもたち自身が興味を持った考古学のテーマを調べ、「新聞」という形にまとめた作品を紹介するもの。「5・6年の部 最優秀賞「黒曜石バトル新聞 長野県 VS 北海道」橘詰 麻央さん(新潟県 長岡市立四郎丸小学校 5年生)・黒曜石バトル始まる!!・黒くかがやく長野の鉱山・最古の国宝かがやく北海・どっちがすごい? 黒曜石・Q & A」 「5・6年の部」最優秀賞に選ばれた『黒曜石バトル新聞 長野県VS北海道』。長野県と北海道の黒曜石を、産地や特徴、遺跡などから比較した小学5年生の力作である。「チャレンジの部 最優秀賞あおいの古墳探検新聞坂 逢桜生さん(岐阜県 岐阜市立合渡小学校 4年生)」岐阜県内の古墳を実際に訪ね歩き、位置や年代、大きさ、墳形などを地図やグラフに整理した小学4年生の力作。 この作品の大きな特徴は、岐阜県内の古墳を実際に自分で訪ね歩いて調査していること。中央から下半分には岐阜県の大きな地図が描かれ、訪ねた古墳を色分けした記号で記録している。凡例を見ると、おおむね前期 0~50m中期 50~100m後期 100m~不明など、築造時期や大きさを色分けして地図上に整理している。さらに古墳の形についても、円墳、方墳、前方後円墳、前方後方墳、群集墳などを記号で区別。集めたデータを地図・グラフ・写真にして比較分析しているところが見事。上部には、「10月まで35コの古墳をまわった」と。岐阜県内の古墳を実際に訪ね歩き、位置や年代、大きさ、墳形などを地図やグラフに整理した小学4年生の力作。「5・6年の部 優秀賞船来山の宝玉たち 古代の人々が大切にしたもの菊地 充さん(岐阜県 本巣市立真桑小学校 5年生)岐阜県本巣市の船来山古墳群(ふなきやまこふんぐん)から出土した「玉類」を中心に調べた新聞中央には、「船来山古墳群 玉類の出土量(24号墳を除く)」として、出土した玉を種類別に整理・勾玉(まがたま)・管玉(くだたま)・臼玉(うすだま)・土玉(どだま)・空玉(うつろだま)・棗玉(なつめだま)・切子玉(きりこだま)・算盤玉(そろばんだま)・ガラス丸玉・小玉・トンボ玉・雁木玉(がんぎだま)「ガラス玉について詳しく」左上ではガラス玉そのものについて調べ、・〈ガラスの伝来〉・〈ガラスの製造〉・〈製作工程〉などに分けている。船来山古墳群から出土した約6000点もの玉類を種類別に調べ、ガラス玉の製法や用途、さらには自らの製作体験までまとめた小学5年生の力作。」 「5・6年の部 ジュニア考古学博士賞「お気にいりの遺物レプリカをつくろう」河野 日香さん(和歌山県 和歌山市立川永小学校 6年生)」 「チャレンジの部 優秀賞「縄文定食 虎の巻」宮谷 晴香さん(神奈川県 横浜市立矢上小学校 3年生)縄文人が食べていた野菜・肉・魚などを調べるだけでなく、自ら「縄文定食」を作って味わい、縄文時代の食生活を体験的に探った小学3年生の作品。」 「チャレンジの部 縄文貝塚探検にワクワクしたで賞『縄文探険 創刊号』大塚 史翔さん(東京都 豊島区立駒込小学校 3年生)」 身近な縄文遺跡や中里貝塚を訪ね、巨大な貝塚の成り立ちや縄文人の食生活、貝加工の様子などを、小学3年生ならではの視点で楽しく追究した作品。「チャレンジの部 家形はにわ愛があふれてていたで賞『家形はにわ新聞 第2号』福田 あづささん(三重県 津市立立成小学校 3年生)」 家形埴輪を中心に、イラストや四コマ漫画、ニュース、次回予告まで盛り込んだ楽しい新聞。小学3年生の旺盛な好奇心と、家形埴輪への“愛”が紙面いっぱいにあふれていた。この一角は、地域展「掘り出された祈り ― 瘡守稲荷信仰のかたち ―」の展示が。「ごあいさつ埋蔵文化財の発掘調査は、日本全国で毎年約8,000件実施されています。企画展「発掘された日本列島2026」は、こうした発掘調査の最新の成果や注目の出土品をわかりやすく紹介する展覧会で、全国各地を巡回します。当館では、同展の開催に合わせて地域展「掘り出された祈り―瘡守稲荷信仰のかたち―」を開催いたします。令和5(2023)年度に東京都埋蔵文化財センターにより発掘調査が行われた文京区原町西遺跡では、大量の土玉(土団子)とかわらけが出土しました。この土玉とかわらけは、江戸時代の民間信仰神の一つである瘡守稲荷の奉納物でした。これまで瘡守稲荷については、文献や絵画資料によってその信仰の様子が伝えられてきましたが、今回の発掘により、考古資料を通して当時の信仰のかたちを目にすることができるようになりました。本展では、土玉やかわらけが出土した土層断面の剥ぎ取りを中心に、当時の瘡守稲荷に関する文献や錦絵・版本挿絵などの図像資料を展示し、考古資料と文献・図像資料の双方から、瘡守稲荷信仰の実態をご紹介します。本展にご協力を賜りました関係者の皆様に、心より御礼申し上げます。令和8年6月主催者 GreetingApproximately 8,000 excavations of buried cultural properties are conducted throughoutJapan each year. The feature exhibition, “Excavations in the Japanese Archipelago2026,” is a traveling exhibition that presents the latest findings from these excavationsand introduces notable artifacts to the general public. In conjunction with this exhibition, our museum will host a local exhibition titled “Unearthed Prayers: Forms of the KasamoriInari Worship.”During an excavation conducted by the Tokyo Metropolitan Archaeological Center in fiscal year 2023 at the Haramachi-Nishi Site in Bunkyo Ward, a large number of clay balls and earthenware were excavated. These clay balls and earthenware were offerings dedicatedto Kasamori Inari, one of the deities in Edo period folk belief. While the nature of the worship surrounding Kasamori Inari has been passed down through historical documents and pictorial materials, the excavation revealed the physical forms of the faith through archaeological evidence.This exhibition features the stripping of soil cross-sections from which clay balls and earthenware were excavated, as well as documents and visual materials, such as ukiyo-eprints and illustrations from printed books, related to the Kasamori Inari faith. Through both archaeological findings and textual and visual sources, we present an overview of the Kasamori Inari faith.We would like to express our deepest gratitude to all those involved who has supported this exhibition.June 2026Sponsor」 「文京区原町西遺跡―土玉とかわらけの大量発掘―場所:東京都文京区白山4丁目付近発掘期間:2023年~2024年調査範囲:約1150㎡■ 原町西遺跡の変遷原町西遺跡の地点は、徳川綱吉が館林城主であった時代の家臣団の屋敷地でした。1680年(延宝8)に綱吉が五代将軍となると、隣接する小石川台地では小石川御殿の整備が進められ、1684年(貞享元)には小石川御薬園が設置されました。1698年(元禄11)には御殿の拡張に伴い、広道や御殿堀が構築され、本遺跡でもその一部が確認されました。1713年(正徳3)に小石川御殿が廃止されると、この場所は拝領屋敷地として再編され、北西側を橋本家、南東側を大前家が拝領しました。近代には実業家・政治家として活躍した阪谷芳郎の敷地となり、岡山県出身学生の寄宿舎「備中館」も置かれました。戦後は最高裁判所職員住宅として利用されました。本調査では、近世から近代にかけての土地利用を示す多様な遺構が確認されました。その中でも、土玉とかわらけが大量に出土した2号遺構は、本遺跡を特徴づける重要な発見です。■ 2号遺構の発見2号遺構は、調査区南端に位置する不整形な土坑で、長さ約4m、幅約3m、深さ約3mにおよびます。内部からは土玉とかわらけが大量に出土しており、層状に堆積する様子が確認されました。出土状況からは、これらの遺物が一度に廃棄されたのではなく、一定期間にわたり繰り返し投じられた可能性が考えられます。このような遺構は、江戸時代の都市空間における特異な利用のあり方を示すとともに、人々の行為や意識を読み解くうえで重要な資料となります。」 この土地そのものも、綱吉の家臣団屋敷 → 小石川御殿に関連する土地 → 拝領屋敷 → 阪谷芳郎の敷地・備中館 → 最高裁判所職員住宅と、江戸から近現代まで大きく用途を変えてきたことが分かるのであった。「瘡守(かさもり)稲荷と祈り■ 瘡守稲荷とは瘡守稲荷は、江戸時代に数多く信仰された民間信仰神のひとつで、特に皮膚病の平癒に利益があるとされました。「瘡守」とは、できものや皮膚病の病を守り治すことを意味し、同じ読みの「笠森稲荷」とも表記されます。参詣者は、かわらけや土団子(土玉)を供えて病の平癒を祈願しました。病が治った際には百個千個を納めるなど、同じものを大量に奉納する習俗があったと伝えられています。■ 橋本大前家の瘡守稲荷正徳4(1714)年、小石川御殿跡地に橋本大前家が屋敷を構えました。大前家では、先祖の出身地である摂津国芥川の瘡守稲荷を勧請し、屋敷内で祀っていたことが文献資料に記されています。江戸時代の地誌『江戸砂子』には、「瘡守稲荷」が大前家屋敷内の鎮守として祀られ、皮膚病平癒の信仰を集めていたこと、参詣者が土団子を供える習俗があったことが記されています。一方で、瘡守稲荷が大前家屋敷内に存在したことは文献史料から知られていたものの、その具体的な所在は長らく不明でした。■ 発掘調査が示す祈りの痕跡今回の発掘調査では、2号遺構から大量のかわらけと土玉が出土しました。かわらけは数千点規模におよび、土玉とともに層状に堆積していたことから、長期間にわたり繰り返し供えられていた可能性が考えられます。出土地点は大前家屋敷地の北東隅付近にあたり、長らく不明であった瘡守稲荷の位置を推定する重要な手がかりとなりました。これまで、瘡守稲荷信仰は文献や絵画資料によって知られていましたが、今回の発掘によって、実際に祈願に用いられた遺物が確認されました。これらの遺物は、江戸の人々が病の苦しみと向き合いながら、回復を願って神の奇跡にすがった姿を、具体的に伝えるものです。」 ・かわらけ+土玉(土団子)は、皮膚病平癒を願う瘡守稲荷信仰に関係する奉納物だった・病が治った際には百個千個を納めるなど、同じものを大量に奉納する習俗 と。「土玉(どたま)とかわらけ」。 「原町西遺跡(はらまち にし いせき)土玉(どたま)とかわらけClay Ball and Earthenwarefrom the Haramachi-Nishi Site1714~1797年(正徳4~寛政9)頃東京都教育委員会 所蔵」 「白団子(レプリカ)」。 「瘡守稲荷に奉納された白団子(レプリカ)White Dumplings Offered tothe Kasamori Inari Shrine (replica)土玉とかわらけと共に奉納物として販売されていた白団子を再現した。病気の平癒の祈願では土団子を、お礼参りでは白団子を供えた。土団子と同じく一定量になると廃棄されていたと考えられるが、白団子は生もののため残存はしていない。」 「土玉」と「かわらけ」が実際にどのような状態で出土したかを示す写真。・左側かわらけの上でつぶれた未焼成の土玉東京都教育委員会/画像提供・右側出土した土玉とかわらけ東京都教育委員会/画像提供「かわらけの上でつぶれた未焼成の土玉」は、単なる出土品写真ではなく、江戸時代の人が実際に手で丸め、病気平癒を願って奉納した土団子の姿を直接伝える資料というところが、この地域展「掘り出された祈り」の核心なのであろう。「原町西遺跡2号遺構 発掘の様子▲ かわらけ片が集中して出土しはじめた状態かわらけと土玉が土壌よりも占有率が高い状況 ▶▲ 上層部の包含層がとぎれたため、底が出たかと考えられたがさらに下層に遺物包含層 あることが判明▲ 2号遺構 上部からの様子◀ かわらけと土玉の数量的な容量を把握するために、南東部で50cm×50cmの ブロックサンプルを採取大量の同様遺物は平らに均して乾燥したうえ、ブルーシートで屋内作業を行った ▶」 最後の写真を見ると、掘り出された土と遺物を大量に広げて乾燥させている。江戸時代の人々が瘡守稲荷へ奉納したものが、これほど大量に地下から現れたということがよく伝わるパネルなのであった。原町西遺跡土層断面の剥ぎ取り(下層)と土層断面の剥ぎ取り(上層)。「原町西遺跡 土層断面の剥ぎ取り(上層)」。 近づいて。「原町西遺跡(はらまち にし いせき)土層断面の剥ぎ取り(下層)(どそう だんめん の はぎとり〔かそう〕)Stripping of Soil Layer Cross-Section (Lower Layer)from the Haramachi-Nishi Site1714~1797年(正徳4~寛政9)頃東京都埋蔵文化財センター 提供」 「原町西遺跡土層断面の剥ぎ取り(上層)Stripping of Soil Layer Cross-Section (Upper Layer)from the Haramachi-Nishi Site1714~1797年(正徳4~寛政9)頃東京都埋蔵文化財センター 提供原町西遺跡の2号遺構からは、大前家の屋敷内に鎮座していた瘡守稲荷への奉納物である土団子とかわらけが無造作に積み重なった状態で出土した。大前家では参詣者によって供えられた土玉とかわらけが一定量になると、それらをごみ溜めに廃棄したと考えられる。本資料は、土玉とかわらけが出土した土層断面を剥ぎ取り、標本にしたものである。」 「土層断面 剥ぎ取り位置▲ 土層断面の様子(写真提供:東京都教育委員会)土層断面の剥ぎ取り位置▶(公益財団法人東京都スポーツ文化事業団東京都埋蔵文化財センター『文京区原町西遺跡―最高裁判所司法研修所地区における埋蔵文化財調査―東京都埋蔵文化財センター調査報告第389集』掲載図に加筆)図中:上層下層凡例:■上層剥ぎ取り部分(赤)■ 下層剥ぎ取り部分(青)0 1/100 2m」 「描かれた瘡守稲荷(かさもりいなり)瘡守稲荷に関する資料は、文献だけでなく絵画資料としても残されています。大前家の瘡守稲荷を描いた絵図には、屋敷内に祀られた社の様子が記されています。また、谷中の笠森稲荷門前を描いた浮世絵には、谷中の笠森稲荷門前の茶屋娘として知られた「笠森お仙」が団子とともに描かれていることから瘡守稲荷信仰との関わりをうかがうことができます。これらの絵画資料は、瘡守稲荷信仰を視覚的に伝えてきた貴重な資料です。図版の説明旗本大前家屋敷内の瘡守稲荷 門前の様子『瘡家示訓』よりKasamori Inari Shrine within the Grounds of the Hatamoto Omae FamilyResidence: View in Front of the Gate, from Sōka jikun1810年(文化7)小川巳菊斎/著国立国会図書館 所蔵(国立国会図書館デジタルコレクションより)下の解説文は、旗本大前家屋敷内の瘡守稲荷の門前の様子が描かれている。「瘡守稲荷大明神」と書かれたのぼりが門の奥に並んでおり、石碑にも同じく「瘡守稲荷大明神」と記されている。門前の「御休所」と書かれた茶屋では、団子が売られており、ここで土団子もしくは白団子を求め、供えたのだろう。」 発掘された大量の土団子とかわらけだけを見れば、「何のためにこれほど大量に?」という疑問が残ります。ところが1810年のこの絵図には、実際に大前家屋敷内に「瘡守稲荷大明神」があり、その門前に「御休所」があって、そこで団子が売られていた**ことまで描かれているのであった。瘡守稲荷信仰について記した江戸時代の文献資料2点。上段「摂津名所図会 巻之五嶋下郡・嶋上郡Illustrations of Famous Places in Settsu Province,Vol. 5: Shimashimo and Shimakami Counties1798年(寛政10)秋里籬島/著 竹原春朝斎/画当館蔵大前家にあった瘡守稲荷の勧請元である摂津国嶋上郡真上村芥川の笠森稲荷の由来について記す。小児や瘡疾に苦しむ人が遠方からも訪れ、皮膚病に悩まされた人々は瘡神に土団子を奉納して平癒を祈願したとされる。」 下段「再校 江戸砂子Saikō Edo sunago ("Gilded Edo")1772年(明和9)菊岡沾凉/編当館蔵瘡守稲荷が大前孫兵衛の屋敷に鎮守していたことを記す。「願成就の時、土団子といふて土をもってだんごのごとくまるめて神前に捧ぐ」と土団子の奉納方法が記されており、摂津から勧請された後も同じ方法で平癒を祈っていたことがわかる。」「○瘡守稲荷 御殿跡大前氏やしきの鎮守也小児の疳・かさなどのでき物、此神にいのればよしとの稲荷也願成就の時、土団子といふて土をもってだんごのごとくまるめて神前に捧ぐ。武家の鎮守なれば初穂等かたく請けられず。現代語にすると「瘡守稲荷は、御殿跡にある大前氏の屋敷の鎮守である。子どもの疳(かん)や、瘡(かさ)などのできものは、この神に祈ればよいとされる稲荷である。願いが成就したときには、『土団子』といって、土を団子のように丸めて神前に捧げる。武家の鎮守なので、初穂料などは固く受け取らない。」 浮世美人寄花 笠森の婦人 卯花(鍵屋お仙)。「浮世美人寄花 笠森の婦人卯花(鍵屋お仙)Deutzia Flowers: The Lady of Kasamori (Kagiya Osen),from the series Beauties of the Floating WorldAssociated with Flowers1768~69年頃(明和5~6頃)鈴木春信/画当館蔵お仙とは、谷中の笠森稲荷前の茶屋娘であり、その美貌から「笠森お仙」として江戸三大美女としてその名前が知られている。お仙の存在により有名な笠森稲荷と原町西遺跡の瘡守稲荷は別の場所であるが、茶屋で団子を売っている様子から谷中の笠森稲荷でも団子が供えられていたことがわかる。」 「謝辞本展開催にあたり、下記の方々にご協力を賜りました。記して感謝申し上げます。<協力機関>公益財団法人東京都教育支援機構 東京都埋蔵文化財センター東京都教育委員会(順・敬称略)」 最後に、この展覧会の公式図録の販売案内。「発掘された日本列島2026」展公式図録発掘された日本列島お求めはミュージアムショップで発行中!!定価:3,300円(税込)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.23
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そして展示は「古墳時代」から「古代」へ。「天竜遺跡・小田沢遺跡」の展示へと進む。案内役の衣装も変わり、次なる時代へと歩を進める。「Ancient Periodc. 1,400 BP to c. 900 BP■Overview:It is during this period that the state of Japan emerged. Drawing on models for national-building, including the ritsuryo system of codified penal and administrative laws, anddocumented governance from China's Sui and Tang dynasties, as well as from the Baekje and Silla kingdoms on the Korean peninsula, a centralized national state wasformed, centered in the Asuka region. The capital was moved from Fujiwara during the Asuka period to Heijo in the Nara period, and then to Heian (Kyoto) duringtheHeian period. The transmission of Buddhism led to the construction of temples in manyareas, with local government offices built in large administrative regions known as kuni, as well as medium-sized units called gun in order to control outlying areas. Hokkaido and Okinawa were not under national control. Hokkaido had its Satsumon culture and inOkinawa the Kaizuka period continued.■Sites in exhibit:The Tenryu and Odazawa archaeological sites in Gunma Prefecture are located in aninlandbasin within a mountainous region and date from the late Asuka period to theend of theHeian period (late 7th–12th centuries). Excavations have revealed the remainsof ancient government offices, residences of local elites, roads, and rare Buddhist-related artifacts from the settlement area. These discoveries indicate that the area functioned as an important transportation hub and had adopted advanced cultural influencesfrom an earlyperiod.The Noborioji Tile Kiln Site in Nara Prefecture is located north of Kofuku-ji Temple, part ofthe UNESCO World Heritage property “Historic Monuments of Ancient Nara.” Analysis of excavated roof tiles has shown that the kiln produced tiles for Kofuku-ji Temple. The kiln remained in continuous operation from the latter half of the Nara period through the end of the Heian period (late 8th–12th centuries) and serves as important evidence ofthecycles of destruction and reconstruction experienced by the temple.」 【古代約1,400年前~約900年前■ 概要(Overview)この時代に、日本という国家が成立しました。中国の隋・唐の王朝、さらに朝鮮半島の百済・新羅などから、国家建設の仕組みを学びました。その中には、刑罰や行政について成文化した法律に基づく律令制度や、文書によって行政を行う仕組みなどが含まれていました。こうして、飛鳥地方を中心として中央集権的な国家が形成されました。都は、飛鳥時代の藤原京から、奈良時代には平城京へ、さらに平安時代には平安京(京都)へと移されました。仏教が伝わると、各地に寺院が建てられるようになりました。また地方を統治するため、大きな行政区域である「国(くに)」や、その下に位置する中規模の行政単位である「郡(ぐん)」に地方官衙(役所)が置かれました。一方、北海道と沖縄は、この国家の支配下にはありませんでした。北海道では擦文文化(さつもんぶんか)が営まれ、沖縄では貝塚時代が続いていました。■ 展示されている遺跡(Sites in exhibit)群馬県の天竜遺跡・小田沢遺跡は、山地に囲まれた内陸盆地に位置し、飛鳥時代後期から平安時代末期(7世紀後半~12世紀)にかけての遺跡です。発掘調査によって、古代の役所、地域の有力者の居宅、道路などの遺構が確認されたほか、集落域からは珍しい仏教関係の遺物も発見されています。これらの発見から、この地域が重要な交通の要衝として機能し、早い時期から先進的な文化を取り入れていたことが分かります。奈良県の登大路瓦窯跡(のぼりおおじ・かわらがまあと)は、世界遺産「古都奈良の文化財」の構成資産である興福寺の北側に位置しています。出土した瓦を分析した結果、この窯では興福寺で使用する瓦が焼かれていたことが明らかになりました。この瓦窯は、奈良時代後半から平安時代末期(8世紀後半~12世紀)まで継続して操業していました。そのため、火災などによる被害と再建を繰り返した興福寺の「焼失と再建の歴史」を知るうえで重要な証拠となっています。】「天竜遺跡・小田沢遺跡(てんりゅういせき・おだざわいせき)吾妻路の にぎわい示す 椀や瓶■ 天竜遺跡・小田沢遺跡■ 飛鳥時代後半~平安時代末■ 7世紀末~12世紀所在地:群馬県東吾妻町7-1(公財)群馬県埋蔵文化財調査事業団◇古代◇」「どんな遺跡かな?遺跡の位置地図には、・●下郷古墳群 ・●天竜遺跡・小田沢遺跡・中之条町・伊参郷・長田郷・中之条盆地・吾妻川・金井廃寺・小渕沢B遺跡・大田郷・市代牧の比定地・四戸遺跡・東吾妻町・榛名山・渋川市・吾妻郡の三郷(推定)などが示されています。天竜遺跡と小田沢遺跡は、群馬県北西部に位置する中之条盆地南部の吾妻郡東吾妻町に所在します。吾妻郡は、南に隣接する群馬郡(現高崎市等)・碓氷郡(現安中市)に通ずる南北路が分岐し、東・北方では利根郡(現沼田市等)を介して新潟県や福島県にも通ずる交通の要衝でした。両遺跡は、吾妻川右岸に位置する遺跡です。」7-2 天竜遺跡・小田沢遺跡 (公財)群馬県埋蔵文化財調査事業団◇古代◇「くわしくみてみよう天竜遺跡天竜遺跡では、8世紀前半の竪穴建物から完形の銅鋺や、畿内で使われた暗文土師器を模倣した土器が出土しており、居住者は一般農民層とは異なる階層であったことがうかがえます。その他、9世紀末から10世紀初頭の竪穴建物からは、郷名の「大田」または吉祥文字を表す「大」や「宴」「馬」等の墨書土器が多数出土しました。小田沢遺跡では、9世紀後半の竪穴建物から、灰釉陶器の浄瓶がほぼ完形で出土しました。この他、9~10世紀の「寺」「御」や「観自在菩薩」等、仏事を示唆する墨書土器も多数出土しています。7-3 天竜遺跡・小田沢遺跡(公財)群馬県埋蔵文化財調査事業団◇古代◇」 ① 銅鋺8世紀前半の竪穴建物から「完形」で出土しています。一般的な農民の生活用品とは考えにくく、展示では居住者が「一般農民層とは異なる階層」であった可能性を指摘しています。② 暗文土師器を模倣した土器「暗文(あんもん)」は、土器の表面にヘラなどで施した細かな磨きの文様です。畿内で使われていた土器をこの地域で模倣していたことは、都・畿内の文化が山間部の吾妻まで伝わっていたことを考える材料になります。③ 「大」「宴」「馬」などの墨書土器土器に墨で文字を書いたものです。「大」は郷名の「大田」を示す可能性と、縁起のよい「吉祥文字」である可能性の両方が示されています。④ 灰釉陶器の浄瓶小田沢遺跡からほぼ完全な形で出土した点が重要です。「浄瓶(じょうへい)」は水を入れる瓶で、特に仏教との関係が深い器物です。「くわしくみてみよう写真キャプション:小田沢遺跡 全景(東から)これら仏事関連遺物や多量の墨書土器の出土は、両遺跡のほぼ中間に位置する白鳳期に建立された金井廃寺との関連をうかがわせます。また、天竜遺跡の西方約4キロの四戸遺跡の9世紀後半の竪穴建物では、8世紀後半の奈良三彩短頸壺が出土しています。こうした各時代の希少な出土遺物の数々は、古代吾妻郡が山間地ながら交通の要衝であり、古くから中央をはじめとする先進文化に浴した土地であったことを物語っています。7-4 天竜遺跡・小田沢遺跡(公財)群馬県埋蔵文化財調査事業団◇古代◇」奈良三彩(ならさんさい)は、奈良時代を代表する施釉陶器で、主として緑・褐・白系の釉薬を用いた非常に希少な焼き物。「短頸壺(たんけいこ)」は、その名のとおり頸部が短い壺。しかも四戸遺跡では、9世紀後半の竪穴建物から、8世紀後半の奈良三彩短頸壺が出土したという点が面白いところ。「天竜遺跡7-補 天竜遺跡出土墨書土器墨書須恵器が数多く出土した。接合して完形になるものが多く、祭祀の場、あるいは他所での祭祀後に一括廃棄された場所であることを示唆している。墨書に「大」や「太」が多いのは、吾妻郡の「大田郷」などの頭文字、あるいは祈りや願いを託した縁起の良い吉祥文字として記されたと考えられる。9世紀後半~10世紀前半。7-補 四戸遺跡の奈良三彩短頸壺天竜遺跡から約4km南西に所在する四戸遺跡の9世紀後半の竪穴建物から出土した完形品。8世紀後半に平城京周辺の官営工房で製作されたと推定され、ろくろ成形で内外面に釉が施される。奈良三彩は唐三彩にならい国内で製作された陶器で、緑釉、褐釉、透明(白)釉の三色で彩られる。口径13㎝、高さ18.7㎝。銅鋺(どうわん)ろくろで全体を削り、底部から体部、口縁部まで1㎜の厚さに仕上げる。口唇部の内側は上から7㎜が肉厚になり、上端部は4㎜の厚さで平らにしている。外面は口唇部・胴部・体部中位の3カ所に三重の沈線が巡り、底部は周縁部に二重の沈線が、中央部にはろくろ回転による螺旋状の線が巡る。飛鳥時代の銅鋺は古墳に副葬される例が多く、竪穴建物から出土することは非常に珍しい。口径13.6㎝、底部径6㎝、高さ5.7㎝。飛鳥時代前期(7世紀前半)。」小田沢遺跡7-補 浄瓶出土状況(小田沢遺跡9世紀後半の3号竪穴建物のカマドの前の床面近くから石にもたれかかるように出土。竪穴建物の廃絶に伴う儀礼的行為の中で置かれた可能性がある。灰釉陶器 浄瓶底部の高台は打ち欠かれ、一部に摩耗の痕跡があることから、蔵合で祭祀した際に打ち欠いて平坦にし、そのまま使用したとみられる。ほぼ完形での出土例は珍しく、受け口の反対側の頸部に延びた突起内部に刻字されている。意図的に自然釉がかかるようにした灰釉陶器である。高さ28.2㎝、尖端径1.2㎝、胴径11.3㎝、底径5㎝。平安時代初期(9世紀前半)浄瓶とは?肩にある受け口(添水口)から水を入れ、尖台と呼ばれる頂部から水を飲むスタイルの水瓶。出家した僧侶が常備すべき経典・仏像・香炉・房子をはじめとする18種の持ち物の一つとされ、寺院でも使用された。展示ラベル浄瓶water bottle used by monks in ceremonies史跡興福寺旧境内 登大路瓦窯跡(こうふくじ きゅうけいだい/のぼりおおじ かわらがまあと一大事!瓦を焼いて復興だ■ 史跡興福寺旧境内 登大路瓦窯跡Kofuku-ji Temple, Noborioji roof-tile kiln■ 奈良時代後半~平安時代Late Nara Period – Heian Period■ 8世紀後半~12世紀Late 8th – 12th century所在地:奈良県奈良市Nara Prefecture, Nara City8-1 奈良県立橿原考古学研究所◇古代◇」 「どんな遺跡かな?遺跡遠景(北から)写真内の表示:・登大路瓦窯跡・興福寺五重塔・奈良県庁・裁判所・県立美術館・奈良文化会館地図:遺跡位置図凡例:■興福寺旧境内■興福寺現境内■当時の大路ー史跡指定範囲奈良県奈良市に所在する登大路瓦窯跡は、興福寺の北約200mに位置しており、江戸時代までは興福寺境内の北端にあたる場所でした。昭和44年の発掘調査で複数の瓦窯の存在が知られていましたが、平成29年に本格的な発掘調査を行った結果、奈良時代後半から平安時代にかけて、計12基の瓦窯が築かれていたことが分かりました。8-2 史跡興福寺旧境内 登大路瓦窯跡奈良県立橿原考古学研究所◇古代◇」「くわしくみてみよう写真キャプション:窯F(手前が焚き口)右図:時期ごとの遺構平面図・8世紀後半~10世紀中頃・11世紀 永承の大火の再建にも利用・12世紀 南都焼き討ち後の再建にも利用瓦窯はいずれも有畦式平窯(ゆうけいしきひらがま)と呼ばれる瓦専用の窯であり、南に向かって焚き口が開いています。焚き口の南には、灰原(はいばら)が広がり、瓦の焼成時に発生した廃棄物(焼土や失敗品など)が厚く堆積していました。東西に列を成すように築かれた瓦窯は、重複関係や出土遺物の年代から、大きく三つの時期に分かれることが明らかになりました。8-3 史跡興福寺旧境内 登大路瓦窯跡奈良県立橿原考古学研究所◇古代◇」 平窯(ひらがま)は、焼成室の床が大きく傾斜する登窯とは異なり、比較的平らな焼成室をもつ窯です。「有畦式」の畦(けい)とは、窯の内部に設けられた細長い仕切り・畦状の部分を指します。そこを利用して瓦を効率よく並べ、熱を回して焼成しました。「くわしくみてみよう第1段階(第4焼成面)焼成室と燃焼室の段差が低い。写真内: 焼成室 燃焼室第2段階(第3焼成面)焚き口が北に移設され、燃焼室の空間が縮小。焼成室は床面が高くなり、畦を改築。写真内: 焼成室 燃焼室第3段階(第1焼成面)燃焼室、焼成室ともに側壁が内側に設けられ、空間がさらに縮小。写真内: 焼成室 燃焼室 焚き口窯Bの補修・改築による構造変化」 興福寺は創建から現在に至るまで、幾度も災を受けています。特に平安時代には、永承元(1046)年の大火や治承4(1180)年の平氏による南都焼き討ち等により主要伽藍が焼失し、その度に再建されてきました。長期間にわたって操業した瓦窯からは、メンテナンスを行いながら、継続的に使用した状況も明らかになりました。このように登大路瓦窯跡は、興福寺の被災と復興の歴史を物語る遺跡といえます。8-4 史跡興福寺旧境内 登大路瓦窯跡奈良県立橿原考古学研究所◇古代◇」 上段は:軒丸瓦(のきまるがわら)下段は :軒平瓦(のきひらがわら)いずれも札から 奈良時代(8世紀)。文様上段左・右:中央に蓮の実を表す「中房」、その周囲に花弁を配した蓮華文が明瞭。・上段中央:黒く焼き締まっていて文様がやや見えにくいものの、こちらも軒丸瓦。・下段左:軒先に見える瓦当部分に、渦を巻きながら連続する唐草文が。 内側に残る細かな平行線も確認できる。・下段中央:こちらも唐草系の文様を持つ軒平瓦で、非常に黒く焼き上がっている。 登大路瓦窯跡の展示に並ぶ、奈良時代(8世紀)の軒丸瓦と軒平瓦。 軒丸瓦には蓮華文、軒平瓦には唐草文が施され、寺院の屋根を美しく飾ったのだ。奈良時代だけでなく、平安時代まで瓦窯が使われ続けたことがよく分かる展示。上段:皿や碗などの土器が並んでいた。・軒丸瓦 平安時代(9~12世紀)・土師器皿 平安時代(12世紀)・瓦器碗 平安時代(12世紀)下段:・軒平瓦 平安時代(11~12世紀)登大路瓦窯跡に関する出土品。奈良時代から平安時代に及ぶ軒平瓦や土器が並び、窯が補修・改築されながら長期間使用された歴史を実物からたどることができるのであった。「8-補 有畦式平窯の構造図中:上から・焚き口・燃焼室・焼成室・畦・断面横から・焚き口・薪・廃棄物・軒丸燃焼室・隔壁・通炎孔・焼成室・畦・奥壁仮設天井製品薪を入れる「焚き口」、燃料を燃やす「燃焼室」、燃焼室で生じた炎で畦状の焼き台に並べた生瓦を焼成する「焼成室」で構成。瓦は国内での導入以来古墳時代の須恵器窯からの系譜を引く窖窯で焼成されていたが、8世紀後半以降、有畦式平窯による焼成が主流となった。窖窯との大きな違いは畦の有無で、畦と畦の間の溝を熱風が通り、均等に効率よく焼くことができる」 「有畦式平窯(ゆうけいしきひらがま)」 の「畦」とは何なのかが、こ断面図ではっきり示されていた。焼成室の床に、細長く盛り上がった畦=焼き台を何本も設け、その上に焼く前の瓦(生瓦)を並べます。そして、焚き口 → 燃焼室 → 通炎孔 → 畦と畦の間 → 焼成室という経路で炎・熱風を送る。つまり、瓦を直接炎の中に置くのではなく、畦の上に瓦を並べ、その下・周囲に熱風を通して効率よく均等に焼く仕組み。ここから展示は、紫色の「古代」から、赤色の「中世(Medieval Period)」へと移る。中世(ちゅうせい)Medieval Period人物は烏帽子(えぼし)をかぶった中世の人物として描かれていた。「Medieval periodc. 900 BP to c. 400 BP■ Overview:A new samurai class emerged during this period and managed to take power away fromthe imperial court in Kyoto. Political power shifted from the imperial court to the Kamakura shogunate, and later to the Muromachi shogunate. The late Muromachi period led intothe Warring States period. Highly fortified castles in many locations come fromthis period, conveying the nature of the wars of the period. In Hokkaido, the Ainu culture flourished, and in Okinawa gusuku (castles) were built in many locations, giving theperiod the name“the Gusuku period.”■ Sites in exhibit:The Honedera-Mura Manor Site in Iwate Prefecture preserves the remains of an estatebelonging to Chuson-ji Temple in Hiraizumi, which continued to exist for approximately300 years beginning in the late Heian period (12th century). The site retains the remainsof temples, shrines, residences, and landscape features depicted in illustrated mapscreated some 700–750 years ago, making it an exceptionally valuable site for understanding the world represented in those historical documents. Archaeologicalinvestigations continue today, and artifacts associated with the rule of the Oshu Fujiwaraclan and the culture of Hiraizumi have also been excavated.」【中世約900年前~約400年前■ 概要この時代には、新たに武士階級が台頭し、京都の朝廷から政治権力を奪うようになりました。政治の実権は、朝廷から鎌倉幕府へ、さらにその後は室町幕府へと移っていきました。室町時代後期になると、やがて戦国時代へと入っていきます。各地に残る防御性の高い城郭の多くはこの時代のもので、当時の戦乱の様子を伝えています。北海道ではアイヌ文化が栄え、沖縄では各地にグスク(城)が築かれたことから、この時期は「グスク時代」と呼ばれています。■ 展示されている遺跡岩手県の骨寺村荘園遺跡(ほねでらむらしょうえんいせき)には、平泉の中尊寺に属した荘園の遺構が残されています。この荘園は、平安時代末期(12世紀)から約300年間にわたって存続しました。遺跡には、約700~750年前に作られた絵図に描かれている寺院・神社・住居、そして地形・景色などの痕跡が残されています。そのため、当時の歴史資料に描かれた世界を理解するうえで、非常に貴重な遺跡となっています。現在も発掘調査が続けられており、奥州藤原氏の支配や平泉文化に関係する遺物も出土しています。】「史跡骨寺村荘園(ほねでらむらしょうえん)遺跡Honedera-Mura manor site陸奥(みちのく)の 荘園今も 目の前に ■ 平安時代後期~江戸時代Late Heian Period – Edo Period■ 12世紀~19世紀12th – 19th century岩手県一関市Iwate Prefecture, Ichinoseki City9-1 一関市教育委員会事務局文化財家課◇中世◇」 この展示で注目したいのは、年代が「平安時代後期~江戸時代」「12世紀~19世紀」と非常に長いこと。「どんな遺跡かな?世界遺産「平泉」と遺跡の位置地図には骨寺村荘園遺跡と、世界遺産「平泉」の構成資産・関連資産が一緒に示されていた。骨寺村荘園遺跡/中尊寺/毛越寺/観自在王院跡/無量光院跡/金鶏山/柳之御所遺跡/達谷窟/長者ヶ原廃寺跡/白鳥舘遺跡 という位置関係平安時代後期に陸奥国一帯を統治した奥州藤原氏の拠点である平泉。その西約15キロに位置する骨寺村荘園遺跡は、平泉にある中尊寺の荘園の跡です。天治3(1126)年、藤原清衡により中尊寺経蔵の初代別当に任じられた天台宗の僧・自在房蓮光は、私領だった骨寺村を経蔵に寄進し、以後約300年にわたり経蔵別当領となりました。藤原氏滅亡後は、この地方の地頭となった葛西氏との相論(訴訟)を繰り返しながら、15世紀の室町時代まで伝領されました。9-2 骨寺村荘園遺跡 一関市教育委員会事務局文化財家課◇中世◇」 「くわしくみてみよう史跡「骨寺村荘園遺跡」及び重要文化的景観「一関本寺の農村景観」範囲図」 非常に面白いのが、絵図に書かれた中世の名称と、現在確認できる場所との対応。たとえば、・「不動石屋」→ 不動窟・「白山」→ 白山社・「山王」「山王石屋」→ 山王窟・「六所宮」→ 現在の駒形根神社がある場所とされる鎌倉時代後期に描かれたものと考えられている2幅の『陸奥国骨寺村絵図』から、中世の骨寺村の姿をうかがい知ることができます。骨寺村荘園遺跡は、絵図に描かれた内容が現存している慈恵塚及び大師堂(「慈恵塚」とその拝殿、※「 」内は絵図に書かれた名称)、不動窟(「不動石屋」)、若神子社(「若御子神田二段」とみえ、関係をうかがわせる)、伝ミタケ堂跡(「ミたけたう」「ミタケアト」)、白山社(「白山」)及び駒形根神社(「六所宮」のあった場所とされる)、山王窟(「山王」「山王石屋」)、絵画に描かれた屋敷地とみられる遠西遺跡、梅木田遺跡の他、中世後期の山城と考えられる要害館跡から構成されます。9-3 一関市教育委員会事務局文化財家課◇中世◇」 「くわしくみてみよう慈恵塚(じえづか)直径10㍍の経塚。18世紀には慈恵大師良源の信仰と結びつき、中尊寺経蔵別当によって付近に慈恵大師碑が建立された。山王窟(さんのうのいわや)骨寺村の西の境として『吾妻鏡』にも記載がある。自在房蓮光ら天台僧が比叡山延暦寺の守護神である山王神を勧請したと伝えられている。絵図に描かれた寺社や窟(石屋)などの施設が現存し、中尊寺経蔵の法会を支えた荘園の具体的様相を知る上で重要な遺跡です。周辺の地形や環境、景観が極めて良好に保存されており、現地で絵図の世界を実際にうかがうことができます。遠西遺跡や梅木田遺跡などでは、一関市教育委員会により継続的な発掘調査が行われており、さらなる実態解明が期待されます。9-4 史蹟 一関市教育委員会事務局文化財家課◇中世◇」 「陸奥国骨寺村絵図(むつのくにほねでらむらえず) 詳細絵図原史料 中尊寺大長寿院蔵」 中世の骨寺村荘園の景観を描いた絵図です。山や川・道だけでなく、田畑、家屋、寺社、石屋(窟)などが絵画的に描かれているところが大きな特徴。「9-補 骨寺村荘園遺跡の発掘調査」 「9-補 骨寺村荘園遺跡の発掘調査遠西遺跡では、平安時代後期の常滑三筋壺とかわらけが出土しました。かわらけと国産陶器が出土する東北の12世紀の遺跡は、奥州藤原氏の支配領域を示すとみる説もあり、平泉文化を象徴するものといえるかもしれません。駒形根神社では、鉄磬や鎌倉時代後期の灯明皿が出土しました。鉄磬は仏教の行事でお経を読む前後に叩いて合図する道具です。近代から現代にかけての墓地跡から出土しましたが、形状から平安時代後期から鎌倉時代のものの可能性があります。陸奥国骨寺村絵図(むつのくにほねでらむらえず)pictorial map of Honedera-mura簡略絵図(仏神絵図)西を天、東を地として描く。山の稜線を太線で表現し、絵図全体に標筆と思わしき「寺領」「田」の注記がある。宗教施設やそれを支える田(神田)が表現の中心で、天台修験の道場を描いたという説がある。「ミたけたう(ミタケ堂)」の表記が詳細絵図では「ミタケアト」となっていることから、簡略絵図が先行して成立したと考えられる。右上と下部が欠損。鎌倉時代後期(13世紀後半頃)。簡略絵図(仏神絵図)西を天、東を地として描く。山の稜線を太線で表現し、絵図全体に荘園と思われしき「寺領」「田」の注記がある。宗教施設やそれを支える田(神田)が表現の中心で、天台絵図の道場を描いたという説がある。「ミたけたう(ミタケ堂)」の表記が詳細絵図では「ミタケアト」となっていることから、簡略絵図が先行して成立したと考えられる。右上と下部が欠損。鎌倉時代後期(13世紀後半頃)。」骨寺村荘園遺跡の発掘調査で出土した遺物をまとめた展示。上段左奥の復元された壺常滑焼 三筋壺Tokoname ware jar with three horizontal grooves→ 「3本の横方向の溝をもつ常滑焼の壺」右上「宝珠(ほうじゅ)」 stone cintamani慈恵塚(じえづか)中央の小型遺物左から、青磁片celadon bowl→ 青磁碗かわらけbiscuit ware small dish→ 素焼きの小皿灯明皿lamp dish→ 灯明用の皿中央の丸い瓶白山社及び駒形根神社陶器瓶子(とうきへいし)pottery bottle→ 陶器製の瓶子その右の細長い瓶磁器瓶子porcelain bottle→ 磁器製の瓶子さらに右陶器壺pottery jar→ 陶器製の壺下段左鉄磬(てっけい)iron flat gong→ 鉄製の平たい磬中央鰐口(わにぐち)waniguchi gong→ 鰐口(寺社で鳴らす金属製の鳴物)その右蓋状鉄製品lid-shaped iron product→ 蓋のような形をした鉄製品右側磁器皿porcelain plate→ 磁器製の皿最も右陶器すり鉢pottery mortar→ 陶器製のすり鉢「古きを守る新しきわざ内部を視る(なかをみる)写真 【左:X線写真 右:クリーニングの様子】鉄磬(てっけい)や鰐口(わにぐち)など、金属製品の保存修復の際には、X線透過撮影をすることで状態確認を行います。この結果や表面観察などの情報を参考にしながら資料の形態や内部の状態を確認しつつ、表面の土や砂、錆などについて、どこまで除去するべきか、判断を行います。史跡 骨寺村荘園遺跡―1資料所蔵:一関市教育委員会製作:公益財団法人 元興寺文化財研究所」「古きを守る新しきわざ サビとの闘い写真:【樹脂塗布の様子】金属でできた資料は水分や酸素と結びついて錆びようとしてしまいます。そのため、合成樹脂を内部に浸透させたり、表面に塗布したりすることで資料を強化・コーティングし、空気中の水分や酸素との結びつきを防ぐ処置を行いました」 史跡 骨寺村荘園遺跡―2資料所蔵:一関市教育委員会製作:公益財団法人 元興寺文化財研究所」 「古きを守る新しきわざ活用のための接合・復元(処理前)→(接合後)→(復元後)→【破片の接合状況と樹脂による復元】鉄磬は処理前に一部に崩れが生じていましたが、接合検討を行って可能な範囲で破片を本体へ接合して戻しました。また、資料の理解を助け、さらに今後の活用をしやすくするという意味も込めて欠損した一部については復元を行いました。史跡 骨寺村荘園遺跡―3資料所蔵:一関市教育委員会製作:公益財団法人 元興寺文化財研究所」 「古きを守る新しきわざ保管・管理の工夫【作製した保管台と設計図】資料を安全に保管・活用できるように個別の保管台・保管ケースを作製しました。資料に影響を与えにくい素材を選択して使用することはもちろん、湿度を調整する薬剤を収納するスペースを中に設けることで、この台単体で資料管理ができる工夫も施されています。史跡 骨寺村荘園遺跡―4資料所蔵:一関市教育委員会製作:公益財団法人 元興寺文化財研究所」 ここまでで保存修復の一連の流れが完成します今回の4枚は、鉄磬(てっけい)が発掘された後、どのように文化財として保存されていくのかを非常に分かりやすく示している。①「内部を視る」X線透過撮影で内部の状態を確認する。②「サビとの闘い」クリーニングと樹脂処理によって腐食の進行を抑える。③「活用のための接合・復元」破片を接合し、欠損部分を復元して資料の形を理解できるようにする。④「保管・管理の工夫」資料専用の保管台・ケースを作り、湿度まで管理しながら長期保存する。ここから展示は、赤色の「中世」から、緑色の「近世・近代」へ移る。「近世・近代(きんせい・きんだい)Early Modern Period to Modern era」 「Early Modern to Modern erac. 400 BP to c. 80 BP■ Overview:The Azuchi-Momoyama period gave way to the Edo period during which the new Tokugawa shogunate unified regional domains and established a period of peace thatlasted approximately 250 years. The shogunate restricted foreign relations andoverseas trade, allowing a distinctive Japanese culture to develop. Ainu culture flourished in Hokkaido, while the unified Ryukyu Kingdom ruled Okinawa. Following the opening of the country and the influx of Western influence, politicalpower was transferred from the Tokugawa shogunate to the newly established Meiji government. As modernization progressed in many forms, Hokkaido and Okinawa were incorporated into a unified, modern state.■ Sites in exhibit:The Nishifutaba-cho archaeological site in Aichi Prefecture is located adjacent to Nagoya Castle, constructed by Tokugawa Ieyasu. The site contains the remains ofthe Edo-period residence of the lord of Inuyama Castle as well as modern-era schoolfacilities. Excavations have uncovered buildings depicted in historical maps and illustrations, along with the remains of a garden that was not recorded in those documents. Structuralremains from successive generations of modern school buildings were also found superimposed upon one another. The site provides valuable evidencefor tracing changes in land use from samurai residences to educational institutions.」【近世から近代へ約400年前~約80年前■ 概要安土桃山時代から江戸時代へ移ると、新たに成立した徳川幕府が各地の諸藩を統合し、約250年間続く平和な時代を築きました。幕府は外国との関係や海外貿易を制限し、その中で日本独自の文化が発展しました。北海道ではアイヌ文化が栄え、沖縄では統一された琉球王国が支配していました。開国して西洋の影響が流入すると、政治権力は徳川幕府から新しく成立した明治政府へ移りました。さまざまな面で近代化が進む中、北海道と沖縄も統一された近代国家へ組み込まれていきました。■ 展示遺跡愛知県にある西二葉町遺跡は、徳川家康によって築かれた名古屋城に隣接する場所にあります。この遺跡には、江戸時代の犬山城主の屋敷跡とともに、近代の学校施設の遺構も残されています。発掘調査によって、古い地図や絵図などの歴史資料に描かれていた建物の遺構が確認されました。さらに、それらの資料には記録されていなかった庭園の跡も発見されました。また、近代になって次々と建て替えられた学校建築の遺構が、互いに重なり合った状態で発見されました。この遺跡は、武家屋敷から教育施設へと、この土地の利用のあり方がどのように変化していったのかをたどるうえで、貴重な証拠を提供しています。】続いて「西二葉町遺跡」の案内パネル。 「西二葉町遺跡(にしふたばちょういせき)「狗犬と 犬山焼と 三角定規」■ 西二葉町遺跡Nishifutaba-Cho sit■ 江戸時代~近代Edo Period – Early Modern Period■ 17~20世紀17th – 20th century愛知県名古屋市Aichi Prefecture, Nagoya City10-1(公財)愛知県教育・スポーツ振興財団 愛知県埋蔵文化財センター◇近世・近代◇」「どんな遺跡かな?【地図内】西二葉町遺跡遺跡の位置庄内川矢田川特別史跡名古屋城名古屋城下のおおよその範囲熱田台地西二葉町遺跡は、名古屋市東区の特別史跡名古屋城の東に隣接する遺跡です。この地には、江戸時代を通じて犬山城主・成瀬隼人正の中屋敷が所在していたことが知られています。犬山城白帝文庫に所蔵されている『成瀬隼人正中屋敷絵図』を見ると、調査地の西側には屋敷建物が展開し、東側は屋敷裏となっていることがわかります。10-2 西二葉町遺跡(公財)愛知県教育・スポーツ振興財団 愛知県埋蔵文化財センター◇近世・近代◇」 「くわしくみてみよう成瀬隼人正中屋敷の間取り図と調査区を重ねた図【左上・凡例】● 遺物の出土地点■ 令和6年度調査区■ 令和7年度調査区― 建物区画の範囲-- 堀や区画のライン」 調査の結果、屋敷は17世紀中頃に造営され、火災などを契機に建て替えを重ねますが、明治初年に解体されるまで屋敷配置に大きな変化がなかったことがわかりました。また、玄関2付近では地下室、屋敷裏エリア1周辺では池状遺構や築山が複数確認され、絵図に描かれない庭が存在していたこともわかりました。」 「くわしくみてみよう」 写真上部:成瀬家屋敷 三和土枠の井戸成瀬家屋敷 地下室(北西から)成瀬家屋敷 池状遺構(東から)西二葉町遺跡の土地利用変遷表 時代 年代 出来事江戸時代 延宝5(1677)年 成瀬隼人正中屋敷 造営 火災による建て直し数回 明治・大正・ 明治8(1875)年 愛知県裁判所・監獄開設/仮設病院など昭和 明治40(1907)年 愛知県立第一中学校 西二葉校舎落成 修文寮(寄宿舎)が取り壊され、敷地西側も グラウンドになる 昭和14(1939)年 名古屋帝国大学設立 本部・理工学部として利用 まもなく工学部のみとなる 昭和・平成・ 昭和22(1947)年 愛知県立第一高等女学校 校舎落成 令和 昭和23(1948)年 愛知県立明和高等学校 設立(明倫高等学校との統合 による) 昭和25(1950)年 音楽科新設 昭和36(1961)年 旧北館校舎新設 令和7(2025)年 附属中学校 開校 明治初年、屋敷は解体され、明治40(1907)年には、愛知県立第一中学校の校舎が落成しますが、昭和14年には名古屋帝国大学の校舎となります。昭和20年の空襲を経て、当地は、愛知県立第一高等女学校、翌21年には愛知県立明和高等学校が設立されます。発掘調査では、これらの変遷を裏付ける基礎や側溝などの痕跡が確認されました。今回の発掘調査により、成瀬隼人正中屋敷について新たな知見を得られるとともに、江戸期の屋敷から近代の中等・高等教育施設までの土地利用の変遷を裏付けることができました。10-4 西二葉町遺跡 (公財 )愛知県教育・スポーツ振興財団 愛知県埋蔵文化財センター◇近世・近代◇」 延宝5(1677)年に成瀬隼人正の中屋敷が造営されたこの地は、明治維新後、裁判所・監獄などを経て、第一中学校、名古屋帝国大学、第一高等女学校、明和高等学校へと受け継がれた。発掘調査によって、武家屋敷から近現代の教育施設へと続く約350年間の土地利用の変遷が明らかになったのだ。西二葉町遺跡から出土した資料を、江戸時代の武家屋敷から近現代の学校時代まで連続して見せる展示。左上から丸に片喰紋丸瓦(round eave tile)瀬戸水注(Seto ware water jar)急須美濃油壺(Mino ware jar)御室茶碗(Omuro ware tea bowl)瀬戸鉄尾呂碗(Seto ware tea bowl)陶製狛犬焼塩壺灯明皿(lamp dish)肥前小皿犬山焼皿(Inuyama ware plate)先ほどの江戸時代の遺物から続いて、西二葉町遺跡の近代、特に学校関係からの出土品を紹介。愛知一中 ・硯(ink slab) ・茶碗(bowl)―「愛知一中」銘 ・インク瓶(ink bottle) ・学生ボタン(school uniform button) ・「一中」徽章(school badge)第一高等学校 ・端反碗(curved-edge bowl) ・湯呑椀(teacup)明和高等学校 ・端反碗(curved-edge bowl)「10-補 『成瀬隼人正中屋敷絵図』(公財)犬山城白帝文庫所蔵18世紀後半以降(幕末期)の様子が描かれていると考えられる。尾張藩付家老であった犬山城主成瀬家の屋敷は、名古屋城下に上屋敷・中屋敷・下屋敷の三つが所在していた。中屋敷は、名古屋城東隣の大手門前にあり、成瀬家当主が名古屋城下滞在の際に日常的に生活していた場所とされる。」 「10-補 愛知一中期の三角定規愛知一中のゴミ捨て穴から出土した三角定規。上は「一中/ワタナベ」、下は「恋しい人/愛人/マタアイタイ」とあり、名前や恋など、時の学生たちの思いが刻まれています。セルロイド製。近代(20世紀前半)。上縦8.5センチ」 「10-補 明治時代以降の土地利用変遷時期ごとの校舎と調査区を重ねた図川瀬邦雄2005「西二葉町遺跡における明治期以降土地利用変遷史」『研究紀要26』愛知県埋蔵文化財センターより引用」・明治43(1910)年 愛知一中 図中には、 三角定規 「一中」徽章 インク瓶 の出土位置が示されている。・昭和15(1940)年 名古屋帝大 図には、大学時代の校舎配置が示されている。・昭和17(1942)年 名古屋帝大 本部・理工学部が移転・昭和33(1958)年 明和高 第一高等女時代からの木造校舎の 建て替えが始まる 下部の発掘写真左:学校校舎基礎の重複(西より)色分けして、・愛知一中 T字状の基礎・第一高等女 和楽会館の基礎・明和高 北館校舎基礎それぞれの校舎基礎が重なっている様子を示している。右:名古屋帝大 管状実験器具出土状況(東より)管の径が均一でなく、製作に失敗したものが一括廃棄されていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.22
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「縄文時代」のコーナーへ。「茱萸ノ木遺跡(ぐみのきいせき)・秋田県・白神山地南麓、米代川支流の藤琴川右岸Guminoki site縄文時代中期初頭~後期初頭Middle - Late Jomon Period約5,000~4,000年前About 5,000 - 4,000 years ago」「縄文土器円筒上層式系統」 いずれも口縁部が波状に大きく変化し、その周囲に隆帯や縄文を組み合わせた装飾が施されている。特に左奥と中央奥の土器は、口縁部の装飾が非常に力強く立体的。「円筒上層式」は、主として東北地方北部を中心に分布する縄文時代中期の土器型式。「円筒」という名のとおり、基本的には筒形・深鉢形の器形をもつ。時期が進むにつれて口縁部の突起や隆帯などの装飾が発達していく。「どんな遺跡かな?茱萸ノ木遺跡は世界自然遺産の白神山地南麓、米代川の支流である藤琴川右岸の丘陵に位置します。縄文時代中期初頭から後期初頭(約5,000年前~4,000年前)の千年続く集落と祭祀の場であったことが分かりました。」 形の違う土器が多数並んでいる。中央の大型深鉢は、胴が長く、上部が大きく開き、口縁には突起がある。周囲には縄文や隆帯による文様が見られる。一方、奥には浅鉢形のもの、右奥には丸みを帯びた壺形に近いものなどもあり、約1,000年間にわたる遺跡での土器文化の変化を見る展示になっているようだ。茱萸ノ木遺跡の縄文土器群。前の展示より器形の種類がさらに豊富になっている。中央の札には単に 「浅鉢」、右手前の大型品には 「広口壺」。「広口壺」は文字どおり、口が比較的広く開いた壺形の土器を指す。展示品の奥にあった説明板には「くわしくみてみよう南盛土遺構 検出状況(左)と完掘状況(右)(南から)縄文時代中期初頭から末葉の2基の盛土遺構と竪穴建物、墓と推定される土器埋設遺構が見つかりました。調査区内における盛土遺構の規模は、南盛土が最大長36メートル、最大幅32メートル、厚さ最大1.5メートル、北盛土が最大長19メートル、最大幅18メートル、厚さ最大1メートルと巨大なものです。写真の人の大きさとの対比でわかるように、土地の景観を大きく変えるほどのものでした。」 上段は、・十字形土偶(じゅうじがた どぐう) cross-shaped clay figurine 十字形に手足を広げたような形の土偶で、上段には形や大きさの異なる個体・破片が並んでいる。・中央の小さな丸い顔のようなものは、 顔形土製品(かおがた どせいひん) face-shaped baked clay object 小さな円形の土製品に、目・口など人の顔を思わせる穴や表現が施されている。・そして下段に放射状に並べられているものが、 三角形土製品(さんかくがた どせいひん) triangular clay object上段右端の十字形土偶は、頭部に目や口を思わせる表現があり、左右に腕を広げた人の姿がかなり分かりやすい個体。一方、三角形土製品は何に使われたのかが一見して分からず、縄文人の精神文化を考えるうえでも興味深い遺物である。 茱萸ノ木遺跡から出土した縄文時代のさまざまな道具・装身具などをまとめた展示中央上の細長い2本:石棒中央左の平たい石製品:石皿中央右のごつごつした石:線刻を施した石、石冠左下の輪状品:石製の装身具類右上の小さな三角形の石器群:小型の石鏃(せきぞく=矢じり)右下の黒い細長いもの: 「有撮石器」 「くわしくみてみよう【凡例】■ 盛土遺構(中期初頭~末葉)■竪穴建物(中期初頭~末葉)■ 墓域(中期初頭~前葉)■ 列石・配石遺構(中期末葉~後期初頭)■ 掘立柱建物(中期末葉~後期初頭)■ フラスコ状土坑(中期末葉~後期初頭)○ 土器埋設遺構(中期末葉~後期初頭)盛土遺構と列石・配石配置図特殊な形態の配石(中期末葉~後期初頭)ハの字を呈する部分は、扁平な礫の側面部を上にして並べられる。本遺構の構成材として凹み石1点が含まれる。盛土遺構は、祭祀を伴う廃棄行為と土地造成という2種類の盛土から成り、盛土に伴う祭祀が約千年間、同じ場所で行われることで造られました。縄文時代中期末葉から後期初頭になると、盛土遺構の形成は終了し、列石・配石が築かれ、その周囲には、掘立柱建物や墓と考えられるフラスコ状土坑や土器埋設遺構が造られるようになります。東北地域北部における縄文時代中期の盛土遺構を中心とした集落から、後期前葉の環状列石への移り変わりを考える上で重要な遺跡といえます。」 ここから展示は「縄文時代」から「弥生時代」へ移る。「どっちなの壺か甕かのお葬式■ 中原遺跡Nakahara site■ 弥生時代中期後葉Middle Yayoi Period■ 約2,100年前About 2,100 years ago静岡県沼津市Shizuoka Prefecture, Numazu City 沼津市文化政策課」 「Yayoi Periodc. 2,900 BP to c. 1,750 BP■ Overview:Wet rice cultivation spread systematically from the Chinese mainland and the Koreanpeninsula to the archipelago. This period saw the use of bronze, iron and other metaltools. People used simple biscuit-fired Yayoi pottery, while bronze instruments such as bells, swords and spears served as ritual symbols. At this point, social integration ofeach area began to take shape, accompanied by the emergence of social stratification.Rice cultivation did not reach the northern island of Hokkaido nor Okinawa in the south, but these two extremes had cultures linking back to earlier cultures. In Hokkaido, this was called the Epi-Jomon period, and in Okinawa it was called the Kaizuka(shell mound) period.■ Sites in exhibit:The Nakahara archaeological site in Shizuoka Prefecture is located along the coast. Excavations have identified three square moat-surrounded tombs dating to the latterhalf of the Middle Yayoi period (approximately 2,100 years ago). Thick deposits of sand and gravel, together with pottery fragments, accumulated within the surroundingditches, suggesting that the tombs were buried by flooding events such as storm surges or high tides. The large square moat-surrounded tombs at Nakahara are among thelargest known in Shizuoka Prefecture and indicate the presence of a major settlementin the area.」 【弥生時代約2,900年前~約1,750年前概要:中国大陸や朝鮮半島から日本列島へ、水田稲作が本格的に広がりました。この時代には青銅器・鉄器などの金属器が使用されました。人々は比較的簡素な素焼きの弥生土器を使用する一方、銅鐸・銅剣・銅矛などの青銅器は祭祀の象徴として用いられました。また、各地域の社会的なまとまりが形成され始め、社会の階層化も進みました。稲作は北の北海道や南の沖縄には及びませんでしたが、これらの地域では、それ以前から続く文化が展開しました。北海道では続縄文文化(Epi-Jomon)、沖縄では貝塚文化(Kaizuka / shell mound period)と呼ばれます。展示遺跡:静岡県の海岸沿いに位置する中原遺跡では、弥生時代中期後半(約2,100年前)の3基の方形周溝墓が確認されています。周囲の溝には、土器片とともに厚い砂礫層が堆積しており、高潮や高波などの洪水によって墓が埋没した可能性が示されています。中原遺跡の大型方形周溝墓は、静岡県内でも最大級のもので、この地域に大規模な集落が存在していたことを示しています。】「中原遺跡(静岡県沼津市)から出土した弥生土器の展示」。胴が大きく膨らみ、細い頸部から口が大きく外側へ開く大型の壺が並ぶ。中原遺跡では弥生時代中期後葉(約2,100年前)の方形周溝墓が確認されており、この土器群はそうした墓や葬送のあり方を考える資料として展示されているのであろう。中央の大型品は、球形に近く膨らんだ胴部に長い頸部、外反する広い口縁を持つ、非常に堂々とした形。また、右中央の土器は肩が強く張り、口縁部が大きく外へ開き、肩部には細かな線刻による文様も確認できる。単なる日常容器というより、墓に供えたり葬送儀礼に使用したりした可能性も考えたくなる造形であろうか。 「どんな遺跡かな?」図中には、遺跡の位置中原遺跡・愛鷹山・沼津市・駿河湾・寺尾原遺跡遺跡周辺の地形中原遺跡・浮島ヶ原低地・中原遺跡・千本砂礫州・黄瀬川扇状地中央の航空写真には、方形周溝墓・遺跡範囲・JR東海道本線とあります。中原遺跡は、静岡県沼津市西部の海辺に立地する複合遺跡です。鉄道高架事業に伴う調査により、古墳時代から奈良・平安時代の集落跡にくわえ、弥生時代中期後葉の大型の方形周溝墓が3基確認され、当地に古くから墓域が形成されていたことが明らかとなりました。」 「くわしくみてみよう調査区全体図 第1号・第2号・第3号の3基の方形周溝墓と高杯(D)、それぞれを取り囲む周溝が示されています。写真内:第1号方形周溝墓東周溝の遺物出土状況 受口太頸壺 小型壺 大型壺右写真:異形壺出土状況3基の方形周溝墓のうち、第1号は一辺約17メートルの方台部をもつ大型墓で、静岡県東部でも寺尾原遺跡に次ぐ規模の大きなものです。出土した壺の底部には小さな孔があけられたものが見られますが、これは供献に使われた土器に見られる特徴です。第2号の周溝からは、全国的にも珍しい壺と甕が一体となった異形壺が出土しました。下部:3-3 中原遺跡沼津市文化政策課◇弥生時代◇」 方形周溝墓で行われた葬送・供献儀礼を知る資料として見るのが、この展示の重要なポイント と。写真内:・JR東海道本線・第1号・第2号・第1号方形周溝墓右の断面写真:・砂礫・砂礫堆積状況(断面)写真解説周溝内に堆積した砂礫と褐色土の遺構検出面との識別が明瞭で、周溝の輪郭が際立つ。右側の複数の方形は奈良・平安時代の竪穴建物。過去の調査で200棟以上の竪穴建物が確認されているが、方形周溝墓とは重複せず、後世の人々が意識的にこの場所を避けていた様子がうかがえる。全体解説周溝には砂礫が厚く堆積しており、築造後間もなく高潮などの水害で埋没したと考えられます。同様の被害は周辺遺跡でも確認されており、当時の人々が自然の脅威に直面していたことがわかります。大型墓の存在は地域の中心的集落があったことをうかがわせ、環境と共に生きた歴史と社会のあり方を今に伝えています。3-4 中原遺跡沼津市文化政策課◇弥生時代◇中原遺跡(弥生時代中期後葉)から出土した弥生土器。弥生土器第3号方形周溝墓Yayoi pottery・胴部が大きく膨らみ、頸部が細く、口縁が外側に開く典型的な形。・中央奥の脚付きの器は壺ではなく、食物などを盛るための高坏(たかつき)。・左奥の大型品は、肩部に細かな文様が施されており、単なる日常容器というよりも、 墓に供えられた土器として見ると興味深いもの と。次に「古墳時代」へ。 「古墳時代」右側には、甲冑を身につけた古墳時代の人物が描かれている。先ほどまでの展示は、縄文時代 → 弥生時代 → 古墳時代と時代順に進んできたことが、この色分けされた大きな時代表示からもよく分かるのであった。「Kofun Periodc. 1,750 BP to c. 1,400 BP■ Overview:This era saw increased social stratification and the emergence of a polity extending overa broad swath centered around the Kinki region. Many tumuli (kofun – large, earthenburial mounds) were constructed for local chieftains in various areas. These mounds contain many funerary goods and ornaments, including bronze mirrors and iron weapons. Arranged above and around the tumulus are biscuit-fired ceramics (haniwa) representing various things. This stage brings us up to the formation of the early state. The kofun culture did not extend to northern Tohoku, Hokkaido, or the southern islands, where distinct cultural developments continued.■ Sites in exhibit:The Nishiiwata archaeological site in Osaka Prefecture is now located inland, but in ancient times it stood along the shores of Lake Kawachi. Excavations of flood depositsdating from the end of the Yayoi period to the beginning of the Kofun period (late 2nd tomid-3rd century) have yielded a wide variety of wooden artifacts. Among these, wooden masks and red-painted wooden objects are exceptionally rare nationwide and arethought to have been used in agricultural rituals. The discovery of pottery and boat components from various regions of Japan suggests that the site was actively engagedin long-distance exchange and transportation networks.The Kohijiri archaeological site in Kyoto Prefecture is a settlement site situated on thefloodplain along the right bank of the Kizu River. Excavations have revealed a river channel dating to the early Kofun period (4th century), as well as a large ditch from the middle Kofun to Nara periods (5th–8th centuries) that was repeatedly re-excavatedin the same location. Water-control facilities believed to have been used in water-relatedrituals have been discovered along the riverbank. The large ditch has attracted attention for its possible connection to descriptions found in the Nihon Shoki (“Chronicles of Japan”),and ritual-related artifacts have also been unearthed there.The Tennomori Kofun in Yamaguchi Prefecture is a keyhole-shaped burial mound approximately 50 meters in length, constructed during the first half of the Late Kofunperiod (early 6th century) on the tip of a hill overlooking Kasado Bay. Numerous figurative haniwa employing techniques similar to those used at Imashirozuka Kofun — believed tobe the tomb of Emperor Keitai — have been excavated from the moat surrounding themound. Since Kasado Bay served as an important hub for maritime traffic in the SetoInland Sea, the tomb is thought to belong to a person closely connected to EmperorKeitai, who placed great importance on maritime transportation throughout the region.」【古墳時代約1,750年前~約1,400年前■ 概要(Overview)この時代には、社会の階層化がさらに進み、近畿地方を中心として広い地域に及ぶ政治勢力が出現しました。各地では、地域の首長たちのために多くの古墳(kofun=土を盛り上げて造った大規模な墓)が築かれました。これらの古墳からは、青銅鏡や鉄製武器をはじめ、多くの副葬品や装身具が見つかっています。古墳の墳丘上やその周囲には、さまざまなものをかたどった素焼きの焼き物である埴輪(haniwa)が並べられました。この時代を経て、日本では初期国家の形成へと進んでいきます。一方、古墳文化は東北地方北部、北海道、南方の島々には及ばず、これらの地域では、それぞれ独自の文化的発展が続きました。■ 展示されている遺跡大阪府・西岩田遺跡大阪府の西岩田遺跡は、現在では内陸部に位置していますが、古代には河内湖の湖岸にありました。弥生時代末から古墳時代初頭、すなわち2世紀後半~3世紀中頃の洪水堆積物を発掘したところ、多種多様な木製品が出土しました。そのなかでも、木製の仮面や赤く彩色された木製品は全国的にも非常に珍しく、農耕に関係する祭祀に使用されたものと考えられています。また、日本各地に由来する土器や舟の部材が発見されたことから、この遺跡が遠距離の交流や交通のネットワークに積極的に関わっていたことがうかがえます。京都府・小比叡遺跡京都府の小比叡遺跡は、木津川右岸の氾濫原に位置する集落遺跡です。発掘調査によって、古墳時代前期(4世紀)の河道と、さらに古墳時代中期から奈良時代(5~8世紀)にかけての大規模な溝が確認されました。この溝は、同じ場所で繰り返し掘り直されていました。川岸からは、水に関係する祭祀に使用されたと考えられる水を制御するための施設も発見されています。この大溝は、『日本書紀』の記述との関連性がある可能性から注目されており、さらに祭祀に関係する遺物も出土しています。山口県・天王森古墳山口県の天王森古墳は、全長約50メートルの前方後円墳です。古墳時代後期前半、すなわち6世紀初頭に、笠戸湾を見下ろす丘陵の先端部に築かれました。古墳を取り囲む周濠からは、今城塚古墳で用いられたものとよく似た技法による多数の形象埴輪が出土しています。今城塚古墳は、継体天皇の墓であると考えられている古墳です。 笠戸湾は瀬戸内海における重要な海上交通の拠点であったことから、天王森古墳に葬られた人物は、海上交通を非常に重視した継体天皇と密接な関係を持つ人物だったのではないかと考えられています。】「木仮面 そこから何を見てきたか■ 西岩田遺跡Nishi-Iwata site■ 弥生時代終末~古墳時代初頭Late Yayoi Period – Early Kofun Period■ 2世紀後半~3世紀中頃Late 2nd – Middle 3rd century大阪府東大阪市Osaka Prefecture, Higashi-Osaka City西岩田遺跡(にしいわたいせき)(公財)大阪府文化財センター」 「どんな遺跡かな?写真キャプション:遺跡の遠景(南から)地図:遺跡の位置西岩田遺跡東大阪市玉串川大和川大阪府奈良県史跡纒向遺跡大福遺跡大阪府東大阪市に所在する西岩田遺跡は、河内平野の南側に位置しています。河内平野には、弥生時代から古墳時代にかけて河内湖が広がっていました。西岩田遺跡は、その湖の南岸、玉串川の河口付近にあったと考えられます。モノレールの延伸事業にともない発掘調査を行った結果、弥生時代終末から古墳時代初頭に洪水に見舞われた痕跡が見つかりました。4-2 西岩田遺跡(公財)大阪府文化財センター◇古墳時代◇」 「くわしくみてみよう写真キャプション:洪水堆積層の地層断面図:地層断面図右側の地層説明は、上から、近世の耕作土層~現代の盛土中世耕作土層弥生時代終末~古墳時代初頭 洪水堆積層木製仮面が出土した層弥生時代~古墳時代初頭の湿地状堆積層弥生時代の湿地状堆積層(一部土壌化の可能性あり)厚さ2mほどもある洪水堆積層からは、特殊な木製品が出土しました。特に木製仮面と赤彩木製品は、全国的にも珍しく貴重なものです。木製仮面は、農耕儀礼の際に使用した可能性があり、この時期のものとしては全国3例目の出土です。赤彩木製品は、精密な直弧文を刻み、水銀朱を塗っています。用途は不明ですが、儀仗など権威の象徴となる遺物の一部とみられます。」 4-3 西岩田遺跡(公財)大阪府文化財センター◇古墳時代◇」 「くわしくみてみよう写真中の表示:焼けた木材有孔板材腰掛槽(そう)写真キャプション:木製仮面出土状況洪水堆積層からは、他にも工具・農具・紡織具・船材など多様な木製品が多く出土しています。また、在地の土器だけでなく、中国地方や東海地方から運ばれた土器も出土しています。このような遺物の出土から、西岩田遺跡は河内平野の対外交流の窓口であり、政治性の高い祭祀・儀礼を執り行う場が近辺にあったことが推測されます。4-4 西岩田遺跡(公財)大阪府文化財センター◇古墳時代◇」前のパネルにあった木製仮面・水銀朱を塗った赤彩木製品と合わせて、この場所を、「河内平野の対外交流の窓口」+「政治性の高い祭祀・儀礼を執り行う場が近辺に存在した可能性」という二つの面から評価していることが分か。 西岩田遺跡4-4パネルに登場した木製品の実物展示。写真左上の細長い木製品は、・櫂(かい) paddle舟を漕ぐための道具。先端が幅広い「水かき」になり、反対側が細い柄になっている。西岩田遺跡が河内湖の南岸付近に位置し、水上交通と深く関係していたことを具体的に示す資料。写真左下の大きな板状の木製品は、・腰掛(こしかけ) stool現代でいう腰掛け・スツールに相当。先ほどの4-4パネルの出土状況写真にも「腰掛」と表示されていたもの。そして右側の細長い木製品は、・槽(そう) tub木製の容器の一部と考えられるもの。「槽」は、木をくり抜くなどして作った細長い容器で、水や食物などを入れたり、何らかの作業に使ったりするものを指す。赤彩木製品と土器類左側:赤彩木製品(せきさいもくせいひん) red colored wooden object中央~右側:土師器 壺(はじき つぼ) Haji ware jar 個々の破片の札には、大和型・河内型・吉備系・東海系など、土器の系統・地域を 示す名称が付けられていた。祭祀や儀礼、あるいは有力者の権威を示すための特殊な木製品だった可能性がある と。「みなで掘る エッホ エッホと 大溝■小樋尻遺跡(こひじりいせき)Kohijiri site■古墳時代前期、古墳時代中期~奈良時代Early Kofun Period,Middle Kofun Period - Nara Period■4世紀、5~8世紀4th, 5th - 8th century京都府城陽市Kyoto Prefecture, Joyo City5-1 小樋尻遺跡(公財)京都府埋蔵文化財調査研究センター◇古墳時代◇」 「どんな遺跡かな?小樋尻遺跡は、京都盆地を北流する木津川の右岸中流域に位置する集落遺跡で、古墳時代前期(4世紀)の流路と、その真上に古墳時代中期から奈良時代(5~8世紀)の溝が見つかりました。周辺には、史跡久津川古墳群といった首長墓、史跡久世廃寺跡などの古代寺院などが位置しており、各時代に中央政権と結びついた有力な地域勢力が存在していました。」地図内で確認できる主な名称左の広域図には、京都府/鴨川/宇治川/桂川/木津川/城陽市中央の詳細図には、遺跡の位置調査区 小樋尻遺跡史跡久津川古墳群史跡平川廃寺跡史跡久世廃寺跡史跡芝ヶ原古墳史跡正道官衙遺跡この説明板で重要なのは「二つの時代」。小樋尻遺跡では、同じ場所に、① 古墳時代前期(4世紀)=流路② 古墳時代中期~奈良時代(5~8世紀)=その真上に溝が存在していた、ということ。しかも周辺には久津川古墳群という有力者の墓、久世廃寺跡などの寺院、正道官衙遺跡などが集中している。したがって、このあと出てくる「大溝」は、単なる一集落の生活排水用の小さな溝というより、中央政権と関係を持つ地域勢力が存在した地域の大規模な遺構として見る必要がある と。5-2 小樋尻遺跡(公財)京都府埋蔵文化財調査研究センター◇古墳時代◇」 「くわしくみてみよう写真キャプション:古墳時代前期の流路と導水施設(南東から)古墳時代前期の流路は、幅約25メートル、深さ約2.7メートルの規模で、自然流路を改変し、その両岸は敷葉工法を用いた盛土によって護岸されていました。南西部の岸では、全国でも18例程度しか見つかっていない堰板と木樋による導水施設が見つかりました。周囲には壁や覆屋などの遮蔽施設があったと考えられます。導水施設は水の祭祀を行う施設であると考えられ、周辺では、土器の他、漆塗り木製盾、燃えさし、桃種など祭祀に用いたと考えられる遺物が出土しました。」 5-3 小樋尻遺跡(公財)京都府埋蔵文化財調査研究センター◇古墳時代◇」「くわしくみてみよう古墳時代中期から奈良時代の溝(南東から)溝古墳時代中期から奈良時代の溝は、古墳時代前期の流路を埋め立て、同じ位置に直線的に掘り直されたもので、幅約11メートル、深さ約1.8メートルです。流路や溝は、地域首長による大規模な平野開発の一環として整備されたと考えられます。本遺跡周辺は「山城国久世郡栗隈郷」に比定されていますが、『日本書紀』には仁徳朝と推古朝に「栗隈に大溝が掘られた」と記されており、本遺跡で見つかった流路や溝との関係が想起されます。5-4 小樋尻遺跡(公財)京都府埋蔵文化財調査研究センター◇古墳時代◇」 発掘された実物の大溝と『日本書紀』の記述が約1500年を隔てて重なって見えてくる場所。「小樋尻遺跡から出土した木製品2点左:漆塗り木製盾(うるしぬり もくせいたて)lacquered wooden shield表面が黒く見えるのは、単に木材が黒変しただけではなく、漆を塗った木製の盾だから。この小樋尻遺跡では水に関係する祭祀施設と考えられる場所から出土しているため、祭祀・儀礼に用いられた盾だった可能性も考えられると。右:二股鍬(ふたまたぐわ)two-pronged hoe木製の農具で、先端が二つに分かれているため「二股鍬」と呼ばれる。土を掘り起こしたり、耕したりするための農耕具だが、この写真の品は木製部分だけが残ったもの」 小樋尻遺跡の出土品中央:櫂右:勾玉勾玉は、湾曲した「コ」の字・コンマ状の形をした装身具で、首飾りなどに使われたほか、古墳時代には身分や権威、祭祀との関係をもつ装身具。「5-補 遺構平面図・断面図上図:古墳時代前期の流路図中の文字:琴土器集積A土器集積B埋没樹漆塗り木盾脚付き盤・櫂勾玉二股鍬導水施設流路遺物出土地点つまり、先ほど見た漆塗り木製盾・櫂・二股鍬・勾玉などの出土位置が、この赤い点で示されていた。下図:古墳時代中期~奈良時代の溝堰杭列溝造成土」 「継体と海でつながる埴輪たち天王森古墳(てんのうもりこふん)■天王森古墳 Tennomori Tumulus■古墳時代後期前半 Late Kofun Period■6世紀前半 Early 6th century山口県下松市Yamaguchi Prefecture, Kudamatsu City6-1 天王森古墳下松市生涯学習振興課◇古墳時代◇」「継体と海でつながる埴輪たち」とは?「継体」は、継体天皇(けいたいてんのう)を指している。天王森古墳は6世紀前半、ちょうど継体天皇の時代(在位は伝統的年代では507~531年)と重なる古墳。そして下松市は瀬戸内海に面している。この展示タイトルは、単に「継体天皇と直接関係する人物の墓」と断定しているのではなく、瀬戸内海の海上交通を通じて、継体大王の時代の畿内と周防地域が結びついていたことを、出土した埴輪から考えるという意味合いなのであろう。「どんな遺跡かな?天王森古墳(北東から、奥の海が笠戸湾)天王森古墳は、古墳時代後期前半(6世紀前半)に築かれた墳長約50メートルの前方後円墳です。下松市の中心市街地である末武平野と笠戸湾が一望できる丘陵の先端に位置し、同時期の周防東部を代表する古墳です。令和2年度に団地造成に伴う調査が行われ、造り出し周辺の周濠から形象埴輪が極めて良好な状態で出土しました。6-2 天王森古墳下松市生涯学習振興課◇古墳時代◇」この写真は、天王森古墳の立地を非常によく示している。手前の芝生状になった場所が古墳で、その向こうに現在の下松市街、さらにずっと奥に笠戸湾が見えている。前のパネルにあった「継体と 海でつながる 埴輪たち」という言葉の「海」が、まさにこの笠戸湾なのだ。 「くわしくみてみよう天王森古墳形象埴輪出土状況(北から)出土した形象埴輪は、家・大刀・盾・靫(ゆき)・人物・猪など多岐にわたります。造り出しに家と人物、大刀・盾・靫を配置し、猪は前端部のテラス面に並べていたとみられます。円筒埴輪や大刀・盾といった形象埴輪の形や製作技法は、真の継体大王墓とされる史跡今城塚古墳から出土した埴輪とよく似ており、大王墓の埴輪作りに従事した工人の関与がうかがえます。6-3 天王森古墳下松市生涯学習振興課◇古墳時代◇」 図中の「靫(ゆき)」は、矢を入れて背負うための武具をかたどった埴輪のこと。今城塚古墳の埴輪製作に携わった工人、あるいはその技術を直接受け継いだ工人が、遠く離れた周防・天王森古墳の埴輪製作にも関与した可能性がある と。「くわしくみてみよう左図:墳丘平面図と調査区配置図図中:・形象埴輪群・周濠・周濠?・埋葬施設?・猪形埴輪■令和2年度調査区■埴輪集中出土範囲 墳丘裾想定ライン■令和7年度調査区●遺物出土地点右図:笠戸湾と古墳の分布●古墳■砂堆(推定)ー現海岸線笠戸湾と古墳の分布こうした埴輪の存在は、王権中枢と強いつながりを持つ、継体大王の政治体制に参画した被葬者の姿をうかがわせます。この頃に、九州で磐井の乱が起こり、討伐軍が西進した時代状況を考え合わせると、笠戸湾が継体大王の軍事施策に関連した軍港的役割を有していた可能性も見えてきます。緊迫する国際情勢下における継体大王の戦略を示唆する重要な成果となりました」 天王森古墳から出土した「家形埴輪(いえがたはにわ)」house-shaped haniwaかなり大型の家形埴輪で、建物を立体的に表現している。特に次の特徴がよく分かるのであった。切妻屋根をもつ建物を表現している。・屋根の棟には、丸い突起状の装飾が連続して付けられている。・上部には大きな開口部があり、建物内部まで作り込まれていることが分かる。・下部には柱を表現した縦長の部分が並び、その間が大きく開いている。・多数の破片を接合して復元されており、欠損部分は補修材で補われている。この家形埴輪は、単なる「当時の住宅模型」というより、首長の館や祭祀に関係する重要な建物を象徴したものと考えられている。古墳の墳頂などに置かれ、被葬者が生前に持っていた権威・身分・生活空間、あるいは死後の世界における住まいを表現した可能性があるとのこと。こちらがネットから。復元した場所が正確に判る写真。天王森古墳から出土した埴輪が3点。左:円筒埴輪中央:底部タタキ調整 「タタキ調整」とは、粘土で形を作った後、表面を板状の工具などで叩いて整える技法。 したがって「底部タタキ調整」は、この円筒埴輪の底部に、叩いて成形・調整した痕跡が 認められるという意味。右:解読不能「6-補 天王森古墳『日本書紀』には、雄略大王の治世に朝鮮半島に派遣された将軍・小鹿火宿禰が、帰国後に都怒国(現下松市周辺)で過ごし角氏を名乗ったという記述があり、本古墳を角小鹿火、あるいはその次代の人物の墓と想定する見解もあります。令和7年度の調査では、朝鮮半島産の金製垂飾付耳飾が出土し、被葬者が王権の中で対外的な役割を担っていた可能性が浮かび上がりました。写真下:金製垂飾付耳飾り直径約2センチの円環にちいさな垂飾が付く」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.21
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次に「5階企画展示室」で行われていた「発掘された日本列島」を訪ねた。 この展示は前回は行われておらず、6月13日~展示発表が行われていた。「常設展示室案内図」。 紫の部屋がこの「発掘された日本列島」の展示会場。この先左手が、「5階企画展示室」・「発掘された日本列島」展示会場。「発掘された日本列島」展示会場入口。全国で毎年約8,000件の発掘調査が実施されていますが、その成果に実際に触れる機会は、極めて限られています。このため「発掘された日本列島」は、近年発掘調査が行われた中で特に注目された出土品を中心とした展示を構成し、全国を巡回することにより、多くの方が埋蔵文化財に親しみ、その保護の重要性に関する理解を深めることを目的として開催されています。リニューアルオープンを経て、江戸東京博物館での開催は約5年ぶりとなります。様々な考古遺物を通して、各地の発掘調査の成果をご紹介します と。「ごあいさつ 文化庁長官 伊藤 学司我が国には四十七万カ所以上の遺跡が知られており、まさに遺跡の宝庫といえます。これは単なる過去の遺産ではありません。それぞれの土地の気候や風土に適応して地域独自の生活を営み、世代を繋いできた私たちの先祖の文化的なDNAというべきものであり、私たちが未来を切り開いていく礎といえるでしょう。こうした遺跡をまもるため、毎年およそ八千件の発掘調査が行われ、数多くの成果が日々蓄積されています。文化庁では、そうした発掘調査のうち全国的に注目された成果を、多くの方々にご覧いただくことを目的に、平成七年度から「発掘された日本列島」展を開催しております。今年度も中核展示として、「我がまちが誇る遺跡」と「新発見考古速報」を行います。「我がまちが誇る遺跡」は、継続的な発掘調査の成果に基づく地域研究によって明らかになった「地域の特性や魅力」に目を向け、発信するものです。今回は、岐阜県飛驒市、千葉県富津市、福島県伊達市・桑折町、山形県米沢市・宮城県仙台市による三つの企画を取り上げます。「新発見考古速報」では、旧石器時代から近代まで、近年広く注目を集めた一〇遺跡を取り上げ、速報展示を行います。特集展示「遺跡から読み解く多様な歴史文化」では、さまざまな視点から遺跡や遺物を見ることにより浮かび上がる、個性豊かな日本の歴史文化をパネルで紹介します。今回は、「幕末日本にみる産業革命の萌芽 一冊の教科書を頼りに独学で挑んだサムライたち」と題して、明治日本の産業革命に先駆けて行われた幕末の鉄製大砲鋳造等に向けた試行錯誤の取り組みについて、代表的な五つの遺跡を取り上げて展示します。また、特集展示「キッズ考古学新聞コンクール」では、考古学に興味がある小学生が、自分で調べてまとめた「キッズ考古学新聞」について、「キッズ考古学研究所」が開催した第六回コンクールに入選した作品を紹介します。今年度、本展覧会では五四遺跡、約四三〇点の出土品等を、東京都江戸東京博物館、市立伊丹ミュージアム、八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館、松本市立博物館、新潟県立歴史博物館の五館で巡回展示します。多くの方々が本展覧会をご覧になり、様々な発掘調査の成果を間近にすることで、我が国の歴史や文化の価値と多様性を感じ取り、発掘調査の意義と埋蔵文化財の保護への御理解を一層深めていただければ幸いです。最後になりましたが、本展覧会の開催に当たり、御協力を賜りました関係各位に深く御礼を申し上げます。 令和八年六月」 「Exhibition of Excavations in the Japanese Archipelago 2026Approximately 8,000 archaeological sites are excavated annually across the Japanese archipelago. Buried cultural properties tell an eloquent story of the history and cultureunique to each area. While the public can only interact with a fraction of the many excavated sites, to allow as many people as possible to view the results of particularly notable excavations from around the country in a timely and accessible way, the Agency for Cultural Affairs has held the “Exhibition of Excavations in the Japanese Archipelago” each year since 1995. This year marks the 32nd exhibition.Three exhibits are planned for this fiscal year.The first is an exhibit entitled “Archaeological Sites, the Pride of Our Town”. The Japanese archipelago, long and narrow from north to south, has long been hometo a rich variety of local cultures since ancient times, and some of them have been handed down to the present day. This exhibit compiles findings from ongoing researchinto each region and introduces the “appeal of the history of the region” through unique archaeological sites in an easy-to-understand format.This year, the exhibition will feature three regional projects: Hida City in Gifu Prefecture,which flourished during the Middle Jomon period (approximately 4,000–4,500 years ago)as a crossroads where multiple cultures converged; Futtsu City in Chiba Prefecture, home to the Dairizuka Kofun Group, one of the largest clusters of burial moundsin the Kanto region, spread across the plains facing Tokyo Bay; and a project spanning Date City and Kori Town in Fukushima Prefecture, Yonezawa City in Yamagata Prefecture, andSendai City in Miyagi Prefecture, where visitors can trace the roots of the Date clan,one of the foremost daimyo families of the Tohoku region that produced Date Masamune, the famed “One-Eyed Dragon.”The second exhibit introduces 10 excavated sites from around the country, spanningfrom the Jomon to Early Modern periods. We invite you to enjoy these recent discoveries.The third is a special exhibition entitled “Diverse Historical Cultures Revealed from Sites”. By viewing sites and artifacts from multiple perspectives, the exhibition delves into theunique historical culture of Japan. This year’s theme, titled “The Dawn of the Industrial Revolution in Late Edo Japan,” introduces five archaeological and historical sites that can still be visited today, highlighting the various modernization initiatives undertaken during the closing years of the Edo period by the shogunate, the Satsuma and Choshu domains, and others prior to the Meiji government’s policies of enriching the country, strengtheningthe military, and promoting industry.」 「日本列島の年表」。上段に日本の時代区分を置き、今回紹介される遺跡・遺物を年代上に配置。右の古い時代からおおむね次のように並んでいる。各時代を代表する出土品として、写真付きで、石器 → 土偶 → 縄文土器 → 木製仮面 → 弥生土器 → 大刀形埴輪 → 三股鉾 → 浄瓶 → 軒丸瓦 → 鉄鍋 → 丸に片喰紋軒丸瓦 などが並べられている。飛驒の遺跡が物語る縄文時代の文化圏・史跡香坂山遺跡・茱萸木遺跡(ぐみのきいせき)・中原遺跡史跡内裏塚古墳群・西岩田遺跡・天王森古墳・小穂尻遺跡・天龍遺跡・小田沢遺跡・史跡興福寺旧境内 登大路瓦窯跡伊達氏300年の軌跡・史跡侍寺村荘園遺跡・西二葉町遺跡「出品遺跡 ① 飛驒の遺跡が物語る縄文時代の文化圏 岐阜県飛驒市 ② 史跡内裏塚古墳群 ― 房総半島ウォーターフロントの古墳群 ― 千葉県富津市 ③ 伊達氏300年の軌跡 ― 遺跡からみる大名権力の形成 ― 福島県伊達市・桑折町・山形県米沢市・宮城県仙台市新発見考古速報・10遺跡青色の番号①~⑩。①史跡香坂山遺跡 長野県佐久市②茱萸ノ木遺跡 秋田県能代市③中原遺跡 静岡県沼津市④西岩田遺跡 大阪府東大阪市⑤小樋尻遺跡 京都府城陽市⑥天王森古墳 山口県下松市⑦天龍遺跡・小田沢遺跡 群馬県東吾妻町⑧史跡興福寺旧境内 登大路瓦窯跡 奈良県奈良市⑨史跡骨寺村荘園遺跡 岩手県一関市⑩西二葉町遺跡 愛知県名古屋市」 「展示会場に掲げられた「我がまちが誇る遺跡」の大型バナー。中央の文字は、「我がまちが誇る遺跡」。背景には英語で縦方向に、EXHIBITION OF EXCAVATIONS IN THE JAPANESE ARCHIPELAGO今回の2026年展の「我がまちが誇る遺跡」は、① 飛驒の遺跡が物語る縄文時代の文化圏② 史跡内裏塚古墳群 ― 房総半島ウォーターフロントの古墳群 ―③ 伊達氏300年の軌跡 ― 遺跡からみる大名権力の形成 ―という3つの地域企画で構成されている。「我がまちが誇る遺跡発掘調査によって大切なことは、遺跡や遺物の「新発見」だけではありません。むしろ、たくさんの発掘調査の成果を積み上げ、それを分析することで明らかになる「発見」のほうが、実は多くあるのです。「我がまちが誇る遺跡」では、そうした継続的な発掘調査の成果に基づく地域研究によって明らかになった「地域の個性的な歴史」や「魅力的な遺跡」を、全国の地方公共団体の企画提案により紹介します。今回は、北アルプスとも呼ばれる飛驒山脈の山々に囲まれ、はるか昔から豊かな自然を享受してきた岐阜県飛驒市、東京湾に面した平野に広がる東国屈指の古墳群である内裏塚古墳群を擁する千葉県富津市、「独眼竜」として知られる伊達政宗を輩出した東北屈指の大名、伊達氏のルーツを辿ることができる福島県伊達市・桑折町、山形県米沢市、宮城県仙台市の三つの企画を取り上げました。南北に細長く起伏に富んだ日本列島には、古くから多様な地域文化が花開き、その一部は現在にも継承されています。このような個性豊かな地域文化に目を向けることは、日本の歴史や文化の魅力・面白さを「再発見」することにもつながるでしょう。そして本企画が少しでも「地域を元気にする」ことにつながれば、と考えています。」 左:縄文土器 北陸系・信州系混雑右:北陸系奥:信州系移動して。左:信州系左:縄文土器 北陸系・信州系混雑右:北陸系やや上部から。縄文土器・信州系にズームして。上部には、粘土紐を何本も横方向に並べたような太い隆帯があり、その隆帯が大きくU字形・弧状に垂れ下がっている。胴の中央にも、横方向の隆帯と大きな弧状の文様が配置されている。「全国公立埋蔵文化財センター連絡協 全国埋蔵文化財センター連絡協議会日本列島を発掘する私たちはそれぞれの地域で、開発により失われてしまう遺跡の発掘調査を行っています。全国公立埋蔵文化財センター連絡協議会全国の道・府・県・市・町といった地方自治体が設立した、公立組織の埋蔵文化財センター67機関が加盟しています。当協議会では、埋蔵文化財の調査研究等の充実、文化財の保護と活用を目的とした活動を行っています。」 私たちが目にする出土品の背後には、開発によって失われる遺跡を記録し、後世へ伝える人々の地道な仕事があるのであった。「■ 全国埋蔵文化財法人連絡協議会全国の自治体等が設立した公益財団法人の組織です。全国に44法人の組織があり、発掘調査・資料整理・保存科学・普及活動等のさまざまな分野で活動しています。ご自宅の近くにも埋蔵文化財センターはあります。一度、訪れてみてはいかがでしょうか・・・」 「「発掘された日本列島2026」展を支えています全国公立埋蔵文化財センター連絡協議会全国埋蔵文化財法人連絡協議会写真中、右下の赤い垂れ幕には、「新発見考古速報」とあります。」 「国の埋蔵文化財センター等を地域ブロック別に示した一覧図」 ・中部・北陸ブロック:新潟県、富山県、石川県、福井県、長野県、岐阜県、愛知県、静岡県、 山梨県・北海道・東北ブロック:北海道、青森県、岩手県、宮城県、秋田県、福島県、・関東ブロック:茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県「国の埋蔵文化財センター等を地域ブロック別に示した一覧図」 ・中国ブロック:鳥取・島根・岡山・広島・山口・四国ブロック:徳島・香川・愛媛・高知・九州ブロック:福岡・大分・長崎・宮崎・鹿児島など・沖縄:沖縄県立埋蔵文化財センター・近畿ブロック:滋賀・京都・大阪・兵庫・奈良・和歌山・三重「全国史跡整備市町村協議会の概要1 設立 昭和41年1月7日 (設立時加盟市町村:39市町村で発足)」 2 組織・目的 主として史跡名勝、天然記念物及び重要文化的景観を所有する市町村をもって組織され、 加盟市町村が協調して、史跡等の整備に関する調査研究及びその具体的方策の推進を図り、 もって文化財の保存と活用に資することを目的とする協議会です。 活動は、史跡保全議員連盟や文化庁との密接な連携のもと行われ、全国史跡整備市町村 協議会関係予算(「史跡等公有化助成」、「史跡等整備活用事業」、「埋蔵文化財発掘調査等」 「能登半島地域における文化財の復旧」の4本柱)の確保に向けた陳情活動等を積極的に 行っています。3 加盟市町村数 639市町村 (市:437 町:183 村:19)以下 略。「史跡等の買上げと整備・活用みんなの心のよりどころ 豊かな歴史遺産を今に活かそう上段左「整備された外郭西辺北半地区」上段中央「甲冑の出土した井戸遺構の整備」 → 史跡 徳丹城跡 岩手県矢巾町」中段左「震災遺構覆屋の整備」中段中央「覆屋内遺構露出展示」 → 天然記念物 布田川断層帯 熊本県益城町3段目左「石積遺構の保存・活用のための拠点施設整備」3段目中央「大平作業場のガイドツアー」 → 重要文化的景観 長崎市外海の石積集落景観 長崎県長崎市最下段左「平櫓下・石門北側石垣の解体工事」最下段中央「宇土櫓続櫓下石垣の角石解体作業」 → 特別史跡 熊本城跡 熊本県熊本市 右下部 →「史蹟 小牧山 愛知県小牧市」 「全国史跡整備市町村協議会令和8年度史跡等関係予算重点要望事項一、史跡等買上げの充実一、史跡等整備活用事業の拡充一、埋蔵文化財発掘調査等の充実一、被災した文化財の復旧支援・防災事業の拡充」 「木製仮面(もくせいかめん)」。 「木製仮面(もくせいかめん)wooden mask」。 「4-補 木製仮面(もくせいかめん)髪の毛を表現?ヒゲもしくは入れ墨を表現?□ 黒みがかった部分■ にかわが検出された部分「木製仮面(表面)実測図」 木製仮面の表面を赤外線で調べると、頭部には「髪の毛」、顎付近には「ヒゲもしくは入れ墨」を表した可能性のある痕跡が確認され、一部からは接着剤として使われた「にかわ」も検出されている と。近づいて。「特集遺跡から読み解く多様な歴史文化背景には英語で、DIVERSE HISTORICAL CULTURES REVEALED FROM SITES」 「遺跡から読み解く地域の多様な歴史文化日本列島に生きた人々は、それぞれの立地や歴史的背景をもとに、多様な歴史や文化を育んできました。過去の人々の活動の痕跡である遺跡には、当時の人々が生き抜くための知恵や工夫が凝縮されており、それぞれの地域性を垣間見ることができます。本特集は、さまざまな視点から遺跡や遺物を見ることによって、個性豊かな日本の歴史文化を読み解き、紹介するものです。今回は「幕末日本にみる産業革命の萌芽」と題し、明治政府による富国強兵・殖産興業政策に先駆けて行われた、幕府や西南雄藩による幕末の近代化に向けた各種取り組みをご紹介します。幕末の日本は、世界に先駆けて産業革命を成し遂げた欧米列強が開国と通商を求め、鉄製大砲を搭載した蒸気船で度々押し寄せ、植民地化の危機にありました。当時、貿易統制下にあって、外国からの直接的な技術移転が限られる中、幕末のサムライたちが1冊の西洋技術書を頼りに、日本の在来技術を駆使して試行錯誤のもと、鉄製大砲鋳造や洋式艦船建造に取り組みました。今回紹介する遺跡からはそういった痕跡を読み取ることができます。地域が辿ってきた歴史文化の写し鑑としての「遺跡」の特徴的な姿を、ぜひご覧ください。下部:特1-1 幕末日本にみる産業革命の萌芽」 「幕末日本にみる産業革命の萌芽 Ⅰ18世紀から19世紀にかけて、イギリスに端を発した産業革命は欧米を中心に波及し、工業化が進められていましたが、鎖国と呼ばれる外国との貿易統制を行っていた日本では産業革命の動きは見られず、欧米諸国との技術的格差が生じていました。そのような中、天保13(1842)年に、当時東洋の大国として知られていた清がイギリスにアヘン戦争で敗北したことは、日本にとって、欧米列強による植民地化に対する大きな危機感を抱く契機となりました。幕府は海防強化を図るため、諸藩にそれまで禁じていた大船建造を解禁するとともに、江戸湾や長崎などの幕府直轄地や、全国各地の海防の要衝における台場の整備を促進しました。こうした歴史背景のもと、幕府自らや西南雄藩等により、日本に来航する外国船を象徴する蒸気船と船に装備されていた鉄製大砲の生産のため、様々な試行錯誤による取り組みが行われたのです。下部:特1-2 幕末日本にみる産業革命の萌芽」 「幕末日本にみる産業革命の萌芽 Ⅱ鉄製大砲鋳造という、日本では全く前例のないチャレンジを支えたのは、長崎を通じてオランダから入手した1冊の技術書でした。この技術書は、鉄製大砲鋳造の一連の工程や必要な施設が記載された入門書的なものであり、幾名かの蘭学者により翻訳され、幕府や諸藩の取り組みの際の参考にされました。洋式艦船建造の取り組みは、従来の和船には必要のなかったドックという新たな施設の建設が要求され、日本におけるドック建設の嚆矢となりました。こうして取り組まれた鉄製大砲鋳造、洋式艦船の建造は必ずしも成功裏に終わったとはいえないものの、幕末に蓄積されたこれらの技術は、その後の明治政府による富国強兵や殖産興業の取り組みの礎となり、その後の日本の産業革命に大きな役割を果たしたと言えます。これらの歴史的事実は教科書で語られることはあまりありませんが、今回ご紹介する遺跡や関連する遺跡を訪れ、情熱をもって国難に対応したサムライたちの姿に思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。特1-3 幕末日本にみる産業革命の萌芽」 「幕末日本にみる産業革命の萌芽 Ⅲ産業革命の萌芽となった幕末の挑戦地―幕末の主な反射炉・高炉など―地図上で青枠□になっている、今回の展示で特に取り上げているの遺跡は、1 史跡旧集成館2 史跡韮山反射炉3 史跡橋野高炉跡4 史跡萩反射炉・恵美須ヶ鼻造船所跡5 史跡三重津海軍所跡」 幕末に反射炉・高炉などが築かれた場所として、古武井高炉跡史跡大板山たたら製鉄遺跡史跡萩反射炉六尾反射炉跡史跡水戸藩那珂湊反射炉跡史跡大橋高炉跡及び釜石鉱山跡那珂湊反射炉跡大多羅反射炉跡安政反射炉跡築地反射炉跡多布施反射炉跡集成館反射炉跡・高炉跡右下の用語説明高炉: 鉄鉱石や砂鉄を溶かして大量の鉄(銑鉄)を生産する施設。反射炉: 金属を溶かし、大砲を鋳造するための施設。熱を天井に反射させて鉄千度の 高温を生み出す。水車: 炉に空気を送り込む「巨大なふいご」を動かす動力源。鉄鉱: 高炉で生産された鉄。2%以上の炭素を含み、鋼や鋳物の原料となる。「反射炉」と「高炉」。「薩摩藩による日本の南の海防史跡旧集成館(鹿児島県鹿児島市)〔写真〕反射炉の下部構造提供:(公社)鹿児島県観光連盟日本の南の窓口に位置する薩摩藩は、当時琉球までその統治下においており、海外への危機感を持つ環境にありました。安政元(1854)年に薩摩藩主に就任した島津斉彬は、佐賀藩からオランダ技術書の訳本を入手し、鉄製大砲鋳造の取組を開始しました。大砲鋳造施設である反射炉の建設に当たって、薩摩藩では、軟弱地盤や日本独特の高湿度に対応するため、城の石垣の技術を応用して、通風孔を有する堅固な基礎を築きました。また、当時日本になかった耐火煉瓦については、薩摩焼の職人が試行錯誤のもと、生産に当たりました。さらに、鉄を生産する高炉への送風動力として、当時ヨーロッパで使用されていた蒸気機関の代わりに水車動力を用いるなど、西洋技術書を参考に、日本の様々な在来技術を駆使して鉄製大砲の鋳造に挑戦しました。」 西洋の技術をただ模倣したのではなく、日本に古くからあった石垣、焼物、水車などの技術を組み合わせ、試行錯誤しながら近代化への道を切り開いていったのであった。「幕府による江戸湾の海防史跡韮山反射炉(静岡県伊豆の国市)〔写真〕韮山反射炉の全体提供:伊豆の国市韮山反射炉は、幕府が江戸湾防衛のための台場に設置する鉄製大砲を鋳造するため、安政4(1857)年に建設したもので、日本で唯一完全な形で残されている反射炉です。本反射炉は、2つの炉を有する反射炉2基を直角に配置し、2つの反射炉から溶けだした鉄をまとめて大砲の鋳型に流し込むことにより、大型の鉄製大砲を鋳造することが可能な構造となっています。炉の構造はオランダ技術書とほぼ同じ構造が採られていることが確認できる一方で、下部構造に通風孔が設けられるなど、独自の工夫もみられます。現在、史跡地内には反射炉のみが残されていますが、幕末に描かれた絵図により、当時は反射炉の他、燃料を保管する施設や、砲身に穴を開ける施設、最後の仕上げを行う施設など、大砲鋳造に必要な一連の施設が存在していたことがわかっています。」 薩摩藩は南から、幕府は江戸湾から――迫り来る外国船への危機感が、日本各地で近代的な鉄製大砲の鋳造への挑戦を促したのであった。「南部藩による鉄の安定的大量生産史跡橋野高炉跡(岩手県釜石市)〔写真〕第3高炉反射炉による鉄製大砲鋳造には、原料となる大量の鉄が必要です。橋野高炉は、当初、水戸藩により建設された那珂湊反射炉(茨城県ひたちなか市)へ供給する鉄を生産するため建設された施設で、製鉄の原料となる良質な鉄鉱石を豊富に産出する場所に立地しています。釜石の大橋で高炉操業が失敗したことにより反射炉建設が停滞し、盛岡藩高炉への鉄供給へと目的が変更されたことが知られています。炉の構造はオランダ技術書を参考としつつ、日本の気候に併せて炉の形状を変更するなど試行錯誤を行い、安定的な操業に成功しました。最大の特徴は、鉄鉱石採掘から生産、搬出までの一連のシステムを設備した当時の施設があり、高炉の他、高炉に入れる鉄鉱石を砕くための水車場、御日払所、鉄山役宅事務所、山神社など、集団を構成する全ての遺構が現地に残されていることにあります。」 鉄製大砲を造るには、まず大量の鉄が必要である。そこで登場するのが南部藩の「橋野高炉」。西洋の技術書を参考にしながら、日本の気候に合わせて工夫を重ね、鉄の安定的な大量生産に挑んだのであった。「長州藩による下関と浦賀の海防史跡恵美須ヶ鼻造船所跡(山口県萩市)〔写真〕石組みの防波堤提供:萩市アヘン戦争やペリー来航を契機に、幕府は当時浦賀の警備を担っていた萩藩に対して大船の建造を要請し、萩藩はこれを受けて新たに造船所を建造しました(恵美須ヶ鼻造船所)。幕末に描かれた絵図により、造船所の敷地内には製図小屋、大工小屋、ドックなどがあったことがわかっており、現地には絵図に描かれた石組みの防波堤や関連の遺構が残されています。史料などから、造船に必要な原料鉄はたたら製鉄により得られた鉄を使用していたことがわかっており(史跡大板山たたら製鉄遺跡)、洋式船の建造には日本の在来技術も用いられていました。萩藩では、鉄製大砲鋳造に向けて反射炉の試験炉を建設するなど(史跡萩反射炉)、海防強化のために試行錯誤のもと、様々な取り組みが行われていたことがわかっています」ペリー来航を契機に、海防強化を迫られた萩藩が建設した「恵美須ヶ鼻造船所」。洋式船の建造にも、日本古来のたたら製鉄による鉄が使われていたという。写真は今も残る石組みの防波堤。「佐賀藩による長崎の海防史跡三重津海軍所跡(佐賀県佐賀市)〔写真〕ドライドック木組遺構撮影:佐賀市江戸時代、福岡藩と隔年で長崎の防衛を担っていた佐賀藩は、いち早く海外情勢を把握しており、欧米列強の脅威を直接感じていました。そのような背景から、佐賀藩主の鍋島直正は、他藩に先駆けて鉄製大砲鋳造と洋式船の建造に取り組んだことが知られています。安政5(1858)年に早津江川沿いの三重津に御船手稽古所を設置し(三重津海軍所)、翌年に幕府の長崎海軍伝習所が閉鎖されると、同所にて藩士の伝習と洋式船の運用に取り組みました。三重津海軍所跡の特徴は、幅約25mの規模を有する日本最古のドライドックの遺構です。階段状の側壁を有する西洋式ドックで、日本の在来技術である土と木を用いた土木技術が用いられています。発掘調査の成果により、在来の建物や船舶の技術とともに、洋鉄による鋲打ちなど、和洋の技術の融合により蒸気船の修理等に当たっていたことがわかっています。」 西洋の技術をそのまま移植したのではなく、日本が培ってきた木工・土木・製鉄などの技術と組み合わせながら、試行錯誤を重ねていった幕末の人々。その姿こそ、日本の産業革命へとつながる「萌芽」だったのであろう。薩摩藩――反射炉による大砲鋳造幕府――韮山反射炉による大砲鋳造南部藩――高炉による鉄の大量生産長州藩――洋式船の建造佐賀藩――洋式船の運用・修理「盾持埴輪(たてもち はにわ)」「盾持埴輪」とは、人物埴輪の一種で、文字どおり大きな盾を身体の前に持った人物を表現した埴輪。盾持埴輪は、古墳を守る「守護者」あるいは「警護する人物」を表したものと考えられている。左:盾持埴輪。頭部・顔・両腕があり、腕を前方へ伸ばしている。中央手前:盾持人埴輪。人物の身体をほとんど覆うほど巨大な盾を持っている。 盾表面には線刻による文様が見えます。中央奥:こちらも大きな盾状の部分をもつ埴輪。表面に細かな線刻文様がある。右:大刀形埴輪(たちがたはにわ)非常に細長く、上部が枝分かれしたような特殊な形の埴輪。反対側から。大刀形埴輪(たちがたはにわ)。「大刀形埴輪(たちがたはにわ)かつて「消火器形埴輪」とも呼ばれた埴輪ですが、実際は手の甲を守るための帯を柄に取り付けた飾り大刀をモデルとした埴輪です。このような大刀は伊勢神宮神宝の「玉纏大刀」の祖形と考えられています。荒蒔古墳から出土した大刀形埴輪のうち、1点は柄部分の表現がよく残っており、三輪玉の形状がよく分かります。また、1点はほぼ完全な姿に復元されたものですが、鞘の両側に張り出した板飾りに鹿狩りの場面が線刻によって描かれています。右図の部分名称は、上からおおむね、柄頭 → 柄間 → 鍔 → 鞘部 → 円筒台部となっています。」 と下記写真と共にネットから。さらに奥の展示物を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.20
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「Tゾーン・東京ゾーン」の見学を終え、再び6Fに戻り、6階特設ギャラリーで開催されていた「受け継がれた美 ―江戸東京博物館漆工芸品コレクション―」を訪ねた。前回に訪ねた時はこの場所では、「武家のプライド-江戸博甲冑コレクション-」👈️リンクが行われていてこれをカメラで追い、ブログアップしたのであった。 「黒漆五本骨の扇に月紋散金蒔絵紙台(くろうるし ごほんぼね の おうぎ に つきもんちらし きんまきえ かみだい)」。「黒漆五本骨の扇に月紋散金蒔絵紙台(くろうるし ごほんぼね の おうぎ に つきもんちらし きんまきえ かみだい)Black Lacquer Paper Stand with Five-Ribbed Fan and Moon Crestin Gold Makie (Collection of the Satake)江戸時代秋田藩佐竹家に伝来していた紙台。総黒漆塗で、五本骨の扇に月紋を金蒔絵で散らしている。印象的な家紋は、佐竹氏が源頼朝に従い奥州合戦に加わった際の旗印で使われて以後、家紋となった。」 「梨子地流水菊楓四ツ目結紋 蒔絵提重(なしじ りゅうすい きく かえで よつめゆいもん まきえ さげじゅう)」 「梨子地流水菊楓四ツ目結紋蒔絵提重(なしじ りゅうすい きく かえで よつめゆいもんまきえ さげじゅう)Sageju, Handled box for picnic set江戸時代後期提重は、花見など行楽の時に使用される携帯用飲食器のセット。重箱をはじめ、銚子、小皿、盆、杯などが一括して一箱に収められる。本資料は、石見国津和野藩亀井家に伝来した調度品。四ツ目結紋は同家の家紋にあたる。」 「橘竹四ツ目結紋蒔絵重箱(たちばな たけ よつめゆいもん まきえ じゅうばこ)」 「橘竹四ツ目結紋蒔絵重箱(たちばな たけ よつめゆいもん まきえ じゅうばこ)Tiered Food Box with Tachibana Orange, Bamboo, and Four-Eyed Crest Design in Makie江戸時代中期~後期本資料は、右隣に展示している提重と揃いで、婚礼調度の一部とみられる。梨子地に金銀・青金の平蒔絵で、橘の立木と竹を表している。橘は、竹と同様に常緑であることから、長寿の象徴として縁起の良いモチーフとして好まれた。」 「村梨子地葵紋散蒔絵広蓋(むらなしじ あおいもんちらし まきえ ひろぶた)「村梨子地葵紋散蒔絵広蓋(むらなしじ あおいもんちらし まきえ ひろぶた)Tray for toiletries江戸時代末期広蓋は乱箱(みだればこ)ともいい、手回り品や衣類などを入れる浅い方形の箱。一重の箱もあるが、本資料のように二重にして使用した箱もあった。衣服などの下賜などに際しても、この箱に載せて授けられた。本品の蓋裏には、所用者を示す団扇模様が据えられている。」 「村梨子地牡丹唐草葵紋散蒔絵見台(むらなしじ ぼたんからくさ あおいもんちらし まきえ けんだい)「村梨子地牡丹唐草葵紋散蒔絵見台(むらなしじ ぼたんからくさ あおいもんちらし まきえ けんだい)Bookrest with the Aoi crest江戸時代見台とは、書物をのせて読むための台。天板と下の台は、1本か2本の柱でつなぐのが典型で、婚礼道具の一具である。村梨子地に葵紋が据えられていることから、徳川家ゆかりの女性の所用品と推測される。「村梨子地葵紋散懸盤(むらなしじ あおいもんちらし かけばん)「村梨子地葵紋散懸盤(むらなしじ あおいもんちらし かけばん)Japanned tray with legs with the Aoi crest江戸時代中期食器をのせる膳。入角折敷形の盤に、畳ずりのある四脚置台をとりつけるのが通形。梨子地に葵紋がほどこされており、婚礼の際の道具として使用された。」 「村梨子地葵紋散提重(むらなしじ あおいもんちらし さげじゅう)「村梨子地葵紋散提重(むらなしじ あおいもんちらし さげじゅう)Sagejuu, handled box for picnic set江戸時代末期提重は花見弁当とも呼ばれ、行楽の時に使用される携帯用飲食器のセット。銚子・重箱・小皿・盆などが一括して一箱に収められる。本資料は、提重としては比較的大型で、叢梨子地に三葉葵紋が散らされている。伝来は不詳であるが、徳川家の婚礼に関連する品と思われる。」 「梨子地松竹梅蒔絵碁盤・将棋盤・双六盤(なしじ しょうちくばい まきえごばん・しょうぎばん・すごろくばん)将棋盤。「梨子地松竹梅蒔絵碁盤・将棋盤・双六盤(なしじ しょうちくばい まきえごばん・しょうぎばん・すごろくばん)Nashiji Lacquered Go, Shogi, and Sugoroku Boards with Pine,Bamboo, and Plum Makie江戸時代後期梨子地は蒔絵の技法の一種で、果物の梨の肌に似ていることからその名がつけられた。囲碁、将棋、双六は江戸時代には娯楽として武家や公家に広く親しまれており、婚礼調度の中にもみられる。」 そしてこちらは前回にはなく。展示替えが行われていた。「東海道五十三次図屏風(とうかいどう ごじゅうさんつぎ ずびょうぶ)(複製)Folding Screen with the Fifty-Three Stations of the Tokaido Road寛文期(1661~73)狩野宗信筆江戸から大津までの東海道を描いた屏風。左隻には、上段より富士山から見附までが描かれる。作者の狩野宗信は、中橋家狩野宗信に師事した絵師。」 ●右隻:「東海道五十三次図屏風(とうかいどう ごじゅうさんつぎ ずびょうぶ)(複製)」 宿場を一駅ずつ独立した絵として描くのではなく、東海道沿いの町・山・川・寺社などを、金地の大きな画面の中に連続的に配置した六曲一双の屏風。特に面白いのは、実際の地形を地図のように正確な縮尺で描くのではなく、街道を旅しながら次々と現れる名所や宿場を、鳥瞰的に一つの画面へまとめているところ。金雲によって場面を区切りながら、街道の連続性を表現している。 順 描かれている場所 絵の内容出発点 江戸 写真右上。大きな城郭が江戸城。白壁・櫓・天守を備え、 東海道の旅の出発点として大きく描かれています。第1宿 品川宿 江戸から南へ向かった最初の宿場。街道沿いに家並みが 続く様子が描かれます。第2宿 川崎宿 六郷川(多摩川)を渡った先の宿場。川と渡河の景観が 重要なポイント。第3宿 神奈川宿 現在の横浜市神奈川区付近。街道沿いに町並みが連なる 宿場として描写。第4宿 保土ヶ谷宿 現在の横浜市保土ケ谷区。家並みと街道が続き、次第に 内陸の起伏ある道へ入っていく。第5宿 戸塚宿 現在の横浜市戸塚区。江戸から約10里、旅人が江戸を 発って最初の一泊をすることも多かった宿場。「東海道五十三次図屏風(とうかいどう ごじゅうさんつぎ ずびょうぶ)(複製)Folding Screen with the Fifty-Three Stations of the Tokaido Road寛文期(1661~73)狩野宗信筆江戸から大津までの東海道を描いた屏風。右隻には、上段より江戸城から沼津までの宿場や川、山などの名所が描かれている。」 「寛永の江戸3代将軍徳川家光の時代、寛永年間までに一応の完成をみた江戸は、江戸城に五層の天守がそびえる、桃山風の絢爛たる都市であった。そのすがたは、『江戸名所図屏風』(出光美術館所蔵)や『江戸図屏風』(国立歴史民俗博物館所蔵)などによってうかがうことができる。寛永の江戸の町人地には、おもに低湿地や入江部分の埋め立て地があてられ、その町割りは、京都にならった碁盤の目状であった。京間60間(約120メートル)四方の1区画を基準とし、その四周に奥行20間(約40メートル)の町地をつくり、中央に20間四方の会所地(かいしょち)という共有の空き地が設けられていた。町割りに際しては、主要な街路から富士山、筑波山あるいは湯島台、愛宕山、上野忍岡を見通せるような景観設計がなされたといわれる。町割りとともに、物資輸送のための舟入堀が多く開削され、日本橋を基点とする道路網の整備が行われたのもこの時期であった。」 江戸~品川~川崎~程ケ谷~戸塚。1~2曲。3~4曲。小田原に近づいて。5~6曲。左隻には、上段より富士山から見附までが描かれている。 順 宿場 屏風で注目したい内容第12宿 沼津宿 右隻から左隻へ続く地点。沼津は駿河湾と富士山を望む宿場で、 ここから左隻の旅が始まる。第13宿 原宿 富士山が最大の見どころ。原からの富士は東海道屈指の眺望 として知られ、今回の左隻右上に巨大な富士山が描かれている こととよく対応。原から見る富士の雄大さは後世の絵にも盛んに 描かれた。第14宿 吉原宿 富士山麓を進む宿場。後世には街道を進むと富士が左側に見える 「左富士」でも有名。第15宿 蒲原宿 富士川を越えて西へ向かう地域。山が海側へ迫り、平坦な 富士山麓から次第に地形が変化。第16宿 由比宿 海と山に挟まれた宿場。ここから興津へ向かう途中には、 東海道を代表する難所・景勝地である薩埵峠(さったとうげ)が ある。第17宿 興津宿 清見寺などで知られる宿場。海岸沿いの東海道を西へ進み、 清水・江尻方面へ向かう。第18宿 江尻宿 現在の清水付近。三保・清水湊に近い交通上の重要地点で、 ここから駿府へ向かう。第19宿 府中宿 現在の静岡市中心部。駿府城・城下町が最大の特徴。 上段に描かれた大規模な城郭の一つとして有力。第20宿 丸子宿 駿府を出て西へ進んだ小規模な宿場。山が迫り、次の岡部へ 向かって宇津ノ谷峠を越える道となる。第21宿 岡部宿 宇津ノ谷峠を越えた先の宿場。山間を通る街道と宿場町という 景観がポイント。第22宿 藤枝宿 田園地帯を通る宿場。田中城にも近く、東海道沿いに町並みが 形成された。第23宿 島田宿 大井川東岸の宿場。大井川は東海道最大級の難所で、川越しを 控えた旅人で賑わった。第24宿 金谷宿 大井川西岸の宿場。島田から大井川を渡った旅人が到着し、 ここから牧之原台地方面へ上っていきます。第25宿 日坂宿 山間の宿場。金谷から小夜の中山を越えて到着します。街道屈指の 坂道・峠越えの区間です。第26宿 掛川宿 掛川城と城下町が大きな見どころ。屏風でも城郭を伴うまとまった 町として描かれている。第27宿 袋井宿 東海道五十三次のほぼ中央に位置する宿場。比較的小規模な 宿場町として発達。第28宿 見附宿 左隻の終点。遠江国府が置かれた古い町で、天竜川を控えた宿場 として栄えた。左隻:1~2曲。左隻:3~4曲。左隻:5~6曲。以下、前回の繰り返しのアップになるが。「江戸のすがた〈江戸〉という地名は、地形的に「入江の門戸」にあたっていたからという説が有力である。1590年(天正18)、関東に移封された徳川家康は、この地を本拠地として、かつて太田道灌が江戸に城を築いて以来の繁栄を継承しつつ、広大な後背地と水運の便とを活用して、ここに新しい城と城下町の建設を開始した。関ヶ原の戦いののち、1603年(慶長8年)に家康は征夷大将軍に就任、名実ともに天下人となると、徳川家の城下町から、幕府の所在地すなわち、政権の拠点都市として、雄大な構想から江戸の建設をすすめた。全国の大名に江戸城の建設と街作りを命じ、江戸城を中心として、周辺に大名や旗本、御家人とその家臣や家屋が居住する武家屋敷を設け、さらには町人らの居住地と寺社地を配した。将軍の居所に相応しい、いわゆる天下の〈総城下町・江戸〉はこのようにして形成されていった。」「江戸の風景徳川家康が関東に入った直後の江戸は、太田道灌による江戸城以来の景観を継承しつつも、なお、埋め立て前の日比谷入江が大きく口をあけ、隅田川河口のところどころに湿地帯が風景であった。その後、諸大名を動員した天下普請を経て、総城下町・江戸としての風景がすがたをあらわす。寛永期以前の江戸は、五層の天守を擁する江戸城、金や漆塗りで飾った門構えの豪壮な武家屋敷、三階櫓のある城郭風の大商家など、桃山時代の遺風が残る町並みであった。しかし、1657年(明暦3)の大火によって、江戸の都市景観は一変した。江戸城をはじめ多くの武家屋敷や町人地が焼け、市中の3分の2が焼土と化したあと、幕府は大規模な都市整備に乗り出す。隅田川に両国橋を架け、市街地を隅田川東岸にまで拡大して中心部の過密化を解消し、市中のところどころに広小路や火除地を設けて都市の防災化がはかられた。一方、大火以前のような豪壮な建築はすがたを消していく。焼け落ちた江戸城天守も再建されることはなかった。さらに江戸後期には、黒漆喰塗りの建家が軒を連ねるようになるなど、その景観は白から黒の町へと変容していくのである。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.19
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東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会アーカイブ資産とは、大会の準備や運営で作成・利用された資料や物品のうち、歴史的な価値を持ち、記憶と記録を後世へ伝える重要なレガシーです。原則としてIOC(国際オリンピック委員会)・IPC(国際パラリンピック委員会)に帰属し、東京都や関係機関が保存・公開しています「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会アーカイブ資産👈️リンク「東京2020アーカイブ資産」は、東京2020大会の取り組みを将来に渡って継承していくため、歴史的価値や社会的意義を有するものを長期的に保存し、及び利活用するために形成されたものである。東京2020大会は、新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、史上初めて開催が延期された大会で、オリンピックを2021年7月23日から同年8月8日、パラリンピックを同年8月24日から同年9月5日まで、それぞれ開催した。都市型スポーツとして、スケートボード、スポーツクライミング、サーフィンが新競技として採用されたほか、若い世代に人気のあるバスケットボール競技の3×3バスケットボール、自転車競技のBMXフリースタイルなどが各競技の新種目として追加された。Tokyo 2020 Olympic and Paralympic Games Archive AssetsThe "Tokyo 2020 Archives" was established to pass on the legacy of the Tokyo 2020Games to future generations by preserving over the long term and utilizing items ofhistorical value and social significance. Due to the global COVID-19 pandemic,the Tokyo 2020 Olympics became the first Olympics in history to be postponed.The Olympic Games were held from July 23 to August 8, 2021, and the ParalympicGames from August 24 to September 5, 2021.Skateboarding, sport climbing, and surfing were newly adopted as urban sports.In addition, events such as 3x3 basketball and BMX freestyle cycling that are popularamong younger generations were also added within existing sports.」 「Tokyo 2020 パラリンピック公式アートポスターパラリンピアンGOO CHOKI PAR(グーチョキパー)」 。この作品は、東京2020パラリンピックの公式アートポスターの一つで、作者はクリエイティブユニット「GOO CHOKI PAR(グーチョキパー)」。ポスター上部には大きく 「PARALYMPIC GAMES」、中央から下部に 「TOKYO 2020」 とパラリンピックのシンボルが配置されています。作品名は展示キャプションにある通り「PARALYMPIAN(パラリンピアン)」 です。さまざまな色・形・線が激しく交差し、競技中の身体の動きやスピード、躍動感を抽象的に表現した作品と見ることができます。特に「TOKYO 2020」の文字そのものも図形や色彩で構成され、多様な個性を持つアスリートが一つの大会に集まる姿を連想させるデザイン。「Tokyo 2020 パラリンピック公式アートポスターパラリンピアンGOO CHOKI PAR(グーチョキパー)Tokyo 2020, artistic poster for Paralympic GamesPARALYMPIANby GOO CHOKI PAR」 「パラリンピック史上初同一都市における二回目の開催と放送によるファン層の広がり東京2020大会は、夏季大会として史上初めて同一都市における2度目の大会開催となった。また、史上最多の約4,403人の選手が参加し、日本からも最多の254人が参加した。NHKによる590時間の放送に始まり、民間放送や専門チャンネル、インターネットサイトによるライブストリーミング等の放送により、これまで障がい者スポーツを観たことがない人もパラリンピック競技に触れ、ファンが育つきっかけとなった。」 「Tokyo 2020 パラリンピック公式アートポスターHigher than the Rainbow蜷川 実花」 「Tokyo 2020 パラリンピック公式アートポスターHigher than the Rainbow蜷川 実花Tokyo 2021, artistic poster for Paralympic GamesHigher than the Rainbowby NINAGAWA Mika」 「パラリンピックの競技東京2020パラリンピック大会では、22競技、539種目が行われ、バドミントンとテコンドーが新競技として追加された。ここでは、「ゴールボール」に実際に使用された競技用具を展示する。ゴールボールとは、1チーム3人の選手が鈴の入ったボールを、転がすように投げあい、自陣ゴールを守りながら、敵陣ゴールにボールを入れて得点を競う競技である。選手全員が視野や視力といった障害の程度の差が出ないように、目隠しを装着して行い、音や味方の声を頼りにプレーするため観客は静かにする必要があり、……」 「ゴールボール用アイシールドEye shield for Goalball」 ゴールボール用アイシールド。選手間の視力・視野の差をなくして公平な条件で競技するため、全選手が装着する。選手はボールに入った鈴の音などを頼りにプレーする。「ゴールボール日本代表女子 サイン入りGoalball Signed by the JapaneseWomen's National Team」ボール表面を見ると、左下付近に丸い穴が開いているのが確認できる。ゴールボールには内部に鈴(ベル)が入っており、転がると音が鳴る。この穴は、その鈴の音を外へ伝えやすくするための「音孔(サウンドホール)」。選手はアイシールドを装着しているため、この音を頼りにボールの方向や速度を判断する。外見はバスケットボールに少し似ていますが、ゴールボールでは「見えるボール」ではなく「音で追うボール」であることが、この穴からもよく分かるのであった。 「ゴールボール用サイクルホーンCycle horn for Goalball」 一見すると昔の自転車のラッパのような道具だが、まさにゴム球を握って「プーッ」と鳴らすタイプのホーン。ゴールボールでは、ボールの中の鈴の音や選手の足音を聞き取るため試合中会場が完全に静寂に包まれる。そのため、一般的なパジパジ鳴る自転車用サイクルホーンや観客の大きな声援・鳴り物は、競技の進行を妨げるため禁止されている。試合の開始・終了、反則の合図などは、運営が管理する公式の「大音量ホーン(サイクルホーン)」や審判のホイッスルによって行われるのだ。ゴールボールでは、選手がアイシールドを装着して視覚を遮った状態で競技するため、音による情報伝達が非常に重要。このサイクルホーンは、競技運営上、選手に音で合図を伝えるために使用される用具。「Tokyo 2020 パラリンピック公式アートポスター馬からやヲ射る山口 晃」 車椅子を思わせる車輪や機械的な構造、現代の東京の街並み、道路や建築物などが細密に重ね合わされている。特に面白いのは、背景に東京の過去・現在・未来が一つの空間に入り交じったような都市景観が広がっているところ。伝統的な騎射という題材と、現代都市・機械・パラスポーツを思わせる要素を同じ画面に融合させた、山口晃らしい作品と見ることができる。「Tokyo 2020 パラリンピック公式アートポスター馬からやヲ射る山口 晃Tokyo 2020, artistic poster for Paralympic GamesHorseback Archeryby YAMAGUCHI Akira」 「パラリンピック開会式東京2020大会は、オリンピック・パラリンピックともに「多様性と調和」をコンセプトの一つに掲げた。パラリンピックの開会式では「WE HAVE WINGS」をコンセプトに、架空の飛行場「パラ・エアポート」を舞台にした物語を、障がい者などの多様なキャストによる音楽やダンスパフォーマンスとともに展開した。」 「開会式でジェットダンサーが着用した衣装」。金色と青緑色を大胆に組み合わせた全身衣装で、特に目を引くのが、両腕から大きく伸びる翼のような金色の部分。東京2020パラリンピック開会式は、先ほどの説明板にあるように、「WE HAVE WINGS(私たちには翼がある)」をコンセプトとして、架空の飛行場「パラ・エアポート」を舞台に展開された。 「開会式でジェットダンサーが着用した衣装Costume Worn by the Jet Dancers atthe Opening Ceremony」。 「Tokyo 2020 パラリンピック公式アートポスター神奈川沖浪裏 上空」葛飾北斎の《神奈川沖浪裏》を思わせる巨大な波を、荒木飛呂彦独特の人物表現と鮮烈な色彩で再構成しています。中央奥には富士山、右上には日本の伝統建築を思わせる屋根も描かれ、東京2020パラリンピックの公式アートポスターとして制作された作品です。特に面白いのは、北斎では海上から富士山を望む構図なのに対し、この作品では題名どおり「神奈川沖浪裏」のさらに「上空」へと視点を飛躍させているところ。波と人物が空中を舞うような、強烈な躍動感があるのだ。 ネットから。荒木飛呂彦《神奈川沖浪裏 上空》。北斎の名作を想起させる巨大な波、富士山、空を舞う人物たち。東京2020パラリンピックを彩った、躍動感あふれる公式アートポスター。「Tokyo 2020 パラリンピック公式アートポスター神奈川沖浪裏 上空荒木 飛呂彦Tokyo 2020, artistic poster for Paralympic GamesThe Sky above The Great Wave off theCoast of Kanagawaby ARAKI Hirohiko」 「Tokyo 2020 パラリンピック公式アートポスターオフェンス NO.7 新木友行」障害者支援施設「アトリエインカーブ」に所属するアーティストである新木友行氏が手掛けた、独特の力強さと躍動感あふれる表現が特徴のグラフィック・アート作品。「Tokyo 2020 パラリンピック公式アートポスターオフェンス NO.7新木友行」 「都市型スポーツの採用成熟した都市東京での開催の特徴として、オリンピックでは、若者に人気の都市型スポーツ、スポーツクライミング、スケートボード、サーフィンが新競技として採用された。ここではスポーツクライミングに使用されたロープとカラビナを展示する。スポーツクライミングには、3つの種目がある。どこまで高く登れたかを競う「リード」、設定された課題をいくつ登れたかを競う「ボルダリング」、登る速さを競う「スピード」である。東京五輪ではこれらを1人で行う複合(コンバインド)でメダルを争った。」 右:スポーツクライミング用カラビナ・ロープ。左:ビクトリーブーケ入賞したアスリートには、副賞としてビクトリーブーケが授与された。ブーケには、東日本大震災で被災した地域で育てられた花が積極的に使用され、さらに選手が大会後に持ち帰ることを想定して、メダルの色と同じ色のマスコット「ミライトワ」「ソメイティ」が付属された。Winning athletes were presented with a Victory Bouquet as a supplemental prize. The bouquets featured flowers cultivated in areas affected by the Great East Japan Earthquake. Additionally, a mascot “MIRAITOWA” or “SOMEITY” matching the color ofthe athletes’ medals was included for them to take home after the competition.「ミライトワミライトワには「未来」と「永遠(とわ)」という二つの言葉を結び付け、「素晴らしい未来を永遠に」との願いが込められた。伝統的な市松模様と近未来的な世界観から生まれたキャラクター。正義感が強く運動神経も抜群で、どんな場所にも瞬間移動できる。he name “Miraitowa” combines the words “mirai” (future) and “towa” (eternity),embodying the wish for “a wonderful future that lasts forever.” This character wasborn from a fusion of the traditional Japanese checkered ichimatsu pattern and a near-future worldview. Miraitowa has a strong sense of justice, exceptionalathleticability, and the power to teleport to any location instantly.ソメイティソメイティという名前は、桜を代表する「ソメイヨシノ」と非常に力強いという意味の「so mighty」から生まれた。桜の触覚でテレパシーを受信し、市松模様のマントで空を飛ぶことができる。超人的なパワーを発揮する、パラリンピックアスリートを体現するキャラクター。凛とした内面の強さと自然を愛する優しさをあわせ持っている。The name “Someity” combines “Somei Yoshino,” a quintessential cherry blossom, and “so mighty.” Someity can receive telepathic messages through the cherry blossom’s tactile senses and fly through the sky wearing his checkered cape. This character embodies Paralympic athletes who demonstrate superhuman strength. Someity possesses both a dignified inner strength and a gentle love for nature.」 下部の展示名左:視覚障害児向けマスコット フィギュア案 ミライトワ Miraitowa: A Mascot Figure Concept for Visually Impaired Children右:視覚障害児向けマスコット フィギュア案 ソメイティ Someity: A Mascot Figure Concept forVisually Impaired Children「Tokyo 2020 パラリンピック公式アートポスターカーブの向う(五千輪)森 千裕」 鮮やかな黄色を背景に、大小の楕円や輪、曲線、さまざまな色面が複雑に重なっています。「五千輪」という題名も、オリンピックの「五輪」を思わせながら、それを無数に増殖させたようなイメージ。「Tokyo 2020 パラリンピック公式アートポスターカーブの向う(五千輪)森 千裕Tokyo 2022, artistic poster for Paralympic GamesBeyond the Curve (Five Thousand Rings)By MORI Chihiro」 「東京ゾーン」の見学を終え、続いて「ミュージアム・ラボ」へ。「ミュージアム・ラボ住宅と昔の暮らしぶりを体験ミュージアム・ラボは、展示室の最後尾に位置する「体感・体験する」コーナー。ラボ内は二つのスペースに分かれています。一つは大正初めに建てられ、1937年(昭和12)に改築された住宅(品川区東五反田)の一部を移築・復元したもので、当時の暮らしを追体験できる。もう一つは、さまざまな体験メニューやワークショップを実施するためのスペースで、むかしの生活道具に触れるプログラムや、企画展のテーマにちなんだワークショップなどを実施していた。「ミュージアム・ラボ」内にあった「和洋折衷住宅」。 太い柱や梁をあらわした山小屋風の「居間兼食堂」で、中央には大きな食卓と木製の椅子が並ぶ。右手にはストーブ、そして奥には障子のある和室が続き、「洋」と「和」が違和感なく同居する昭和初期の住空間が再現されていた。「和洋折衷住宅復元年代:昭和10年代 縮尺:1/1福本収子氏/寄贈この建物は、大正初めに建てられ、その後、1937年(昭和12)大熊喜英の設計によって改築された住宅(品川区東五反田)の一部を移築・復元したものである。「居間兼食堂」は、大正から昭和初期に流行した山小屋風で、となりの和室との仕切りには、カーテンと襖を使うことで違和感をなくしている。照明具や家具も部屋と調和するよう、大熊がデザインを担当した。」 6F~5F 展示会場案内図。6F展示会場 案内図に近づいて。5F展示会場 案内図に近づいて。江戸東京博物館・6F~5Fの常設展示全体の構成が解かる案内板を再び。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.18
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「T10 現代の東京」。東京は世界の中でも、最大規模の人口を有する巨大都市であり、さまざまな個性を持つ街が連続するバラエティーあふれる都市でもある。こうした特徴は、どのようにして形成されてきたのでしょうか。このコーナーでは、我々の記憶にも新しい時代の生活や文化についての展示を行い、1960年代から2010年代までを6つに分け、東京の変化を10年ごとに比較。それぞれの年代に生まれ、そして消えた都市風景、注目されたモノや事象などをたどることにより、現代の東京がどのように変化し形成されてきたのか、時代の移り変わりを紹介しているのであった。 「T10-1 都市問題への対応」Responses to Urban Issues高度経済成長によって東京が急速に拡大する一方、さまざまな都市問題が表面化し、それに社会や行政がどう対応していったかを扱うコーナー。写真左側には、その具体例として、・増えてくる自動車公害・ばい煙の丸の内ビル街・スモッグでかすむ街並みなど、自動車の増加や大気汚染・スモッグに関する展示が紹介されていたのであった。「都市問題への対応1964年(昭和39)10月のオリンピックの開催を目指して東京は大きく変貌を遂げた。高速道路・東海道新幹線の開通、環状線・放射線など主要道路の設置、東京湾の埋め立て、羽田空港整備、東京モノレールの開業、街路の舗装と、戦後の懸案となっていた首都圏整備の施策が次々と実施に移された。物資の輸送は鉄道から自動車へと徐々に転換し、戦前には少なかった自家用車も増え、東京はクルマ中心の社会になっていった。おのずと交通事故が激増し〈交通戦争〉が流行語にもなった。オリンピックのために首都改造を急いだ高度経済成長期の東京では、土地問題・住宅問題などの対応策がなかなかすすまなかった。下水道の整備は遅れ、団地の建設のみでは追いつかない住宅難を切り抜けるために、木造賃貸アパートがそれに取って代った。また、この時期、大気汚染・騒音などの都市公害が発生し、生活環境を守るための住民運動が起きた。東京都は1968年(昭和43)に東京都公害研究所を設置し、調査研究をすすめ、1970年(昭和45)には公害局を設け、総合的な対策に取り組んだ。その成果により、徐々に東京の都市環境は改善されていった。」 「東京都区部における大気汚染の推移」。 近づいて。「東京都区部における大気汚染の推移Air Pollution in the Tokyo Metropolitan Wards経済成長の一方で、大気汚染が深刻化したため、東京都はボイラーなどのばい煙規制を実施し、主要な工場へ硫黄分が少ない重油の使用を要請するなどして汚染防止をはかった。その後の自動車排気ガス規制をはじめとする各種の規制や、工場の移転などにより、東京の大気汚染は徐々に解消されていった。While the economy developed, air pollution became more serious, and the TokyoMetropolitan Government implemented regulations on soot from boilers and other sources and required major factories to use heavy oil with low sulfur contentin order to prevent pollution. Subsequent regulations, including automobile emissioncontrols, as well as the relocation of factories, gradually eliminated air pollution in Tokyo.おもな大気汚染物質の推移とその規制・1967年(昭和42) 「公害対策基本法」(国)・1968年(昭和43) 「東京電力と火力発電所の公害防止に関する覚書」 大井火力発電所新設において、低硫黄原油の利用を義務付ける・1969年(昭和44) 「東京都公害防止条例」 既存の条例類を整理統合し、総合的に公害対策、国の法律より厳しい基準で規制・1978年(昭和53) 自動車排気ガス規制 排出ガス中の窒素化合物濃度を、規制前の10%以下まで切り下げる。・1993年(平成5) 「環境基本法」(国)・1994年(平成6) 「東京都環境基本条例」グラフは主に、① 二酸化硫黄(SO₂)② 二酸化窒素(NO₂)③ 浮遊粒子状物質(SPM)の濃度変化を1965年頃から2020年頃まで追ったもの。特に興味深いのは、二酸化硫黄(緑色)が1970年代から急激に低下していること。一方、二酸化窒素は低下が比較的緩やかで、自動車交通に由来する大気汚染への対応が長期的な課題だったことがグラフからも読み取れるのであった。① 二酸化硫黄(SO₂) 石油、石炭等を燃焼したときに含有される硫黄が酸化されて発生する。濃度が高いと 人間の呼吸器に影響を及ぼす。酸性雨の原因物質ともいわれる。② 二酸化窒素(NO₂) 燃焼や化学反応により生じる窒素と酸素の化合物。工場・自動車・家庭など、さまざまな 場所が発生源になる。大部分が一酸化窒素として排出され、大気中で二酸化窒素になる。 濃度が高いと人間の呼吸器に影響を及ぼす。酸性雨及び光化学オキシダントの原因物質とも いわれる。③ 浮遊粒子状物質(SPM) 大気中に浮遊している0.001ミリメートル以下の微粒子。汚染が著しい場所では、 慢性呼吸器疾患を引き起こす。おもにディーゼル自動車から排出されるが、工場や事業所でも 発生する。「アサヒグラフ「公害ニッポン列島」(1970年8月21日)THE ASAHI PICTURE NEWSPollution in the Japanese Archipelago1970年(昭和45)朝日新聞社/発行1970年7月には、光化学スモッグの発生による体調不良の被害が日本で初めて東京都で報告され、新たな公害として注目されるようになった。」 「大東京名物「空気の缶詰」Souvenir of Tokyo “Tokyo Canned Unfresh Air”1968年(昭和43)マルベル堂/製作ブロマイド写真販売の老舗である商店が製作した商品。深刻な大気汚染を逆手にとり、東京の空気を名物として缶詰にしたもの。」1968年当時の東京の深刻な大気汚染を、あえて「東京名物」として商品化した風刺的な土産。英語の “Tokyo Canned Unfresh Air” もポイントで、「新鮮ではない東京の缶詰空気」とでもいう、少し皮肉を込めた表現になっているのであった。 「東京の河川における水質汚濁の推移Water Pollution in Tokyo’s Rivers高度経済成長期、工場や住宅が急速に集中した東京では、下水道の整備が間に合わず、河川に汚水が流された。悪化した水質は、工場などの排水規制や下水道の整備によって、徐々に改善された。During the period of rapid economic growth, Tokyo experienced a rapid concentration of factories and residences. The sewage system was not developed in time, and as a result, sewage was discharged into rivers. The deteriorating water quality was gradually improved through effluent regulations for factory, etc. and the development of sewage systems.」 右側の写真キャプション上段左:洗剤の泡が流れる多摩川Tamaga River where the detergent bubbles that were included in the drainage from homes have risen to the surface上段右:佃島付近River where garbage was thrown away(Tsukuda)その下:品川近辺の堀のゴミCanal where garbage was thrown away(Shinagawa)中段左:矢切の渡しFerry landing frequently used when garbage was thrown away (Yagiri)最下段1968年(昭和43)都は「東京都公害研究所」を設立 「BOD推移と下水道普及率の変化BOD(生物化学的酸素要求量)水中の有機物などを、微生物が二酸化炭素や水などに分解するために必要な酸素の量。河川の汚濁の度合いを示す代表的な指標で、数値が大きいほど水質が悪い。グラフの河川・測定地点と環境基準値は、・多摩川 大師橋 3mg/ℓ・隅田川 両国橋 5mg/ℓ・綾瀬川 内匠橋 5mg/ℓ ・神田川 河口(柳橋)5mg/ℓ・目黒川 太鼓橋 8mg/ℓ生活雑排水の環境への影響台所や風呂、洗濯など、日常生活で発生する排水には、有機物がたくさん含まれている。これが川や海に流れると、微生物が大量の酸素を消費するため、水中の酸素量が減ってしまう。魚の住める環境(BOD:5mg/ℓ)にするためには、その何倍もの水が必要となる。下の図は、生活排水を魚が住める水質にするために必要な水量を、「浴槽=300ℓ」に換算して示したもの。確認できる範囲では、・シャンプー 1回分 6mℓ → 約1.6杯分・みそ汁(具なし) お椀1杯 200mℓ → 約2.5杯分・牛乳 コップ1杯 180mℓ → 約13杯分・サラダ油(新しい油) 大さじ1杯 15mℓ → 約17杯分「大気汚染と水質汚濁高度経済成長期には工場や自動車等の利用と都市人口の増加、モータリゼーションの進展などにより、東京の都市環境の悪化が深刻な問題となりつつあった。大気中に有害物質を含むばい煙や硫黄酸化物、自動車排出ガスによる窒素酸化物、炭化水素が増加し、これにより光化学スモッグや呼吸器疾患、黒い雨などの健康被害が社会問題化した。また工場からの廃液、家庭からの排水による河川への有害物質の流出、水溶性有機物(溶け込んでいる物質の量)の低下、富栄養化による赤潮・青潮の発生など、水中の生態系に悪影響を及ぼすとともに、悪臭などの問題も引き起こした。東京都は、全国に先駆け1949年(昭和24)より「東京都工場公害防止条例」を制定し、1960年(昭和35)には「ばい煙防止条例」を整備し、独自の取り組みを行ってきた。そして、1967年(昭和42)に、国が「公害対策基本法」を制定したことを受け、1969年(昭和44)には、それまでの条例を統合した「東京都公害防止条例」を施行し、総合的な公害対策を実施した。その後も都は独自の厳しい環境基準を設定し、環境改善に努力している。」 「東京都第五建設事務所古井戸(複製)(地盤沈下で抜け上がった井戸)」。 「東京都第五建設事務所古井戸(複製)(地盤沈下で抜け上がった井戸)Well pushed up from the ground because of the landsubsidence (replica)1938年(昭和13)丸八ポンプ工作所/製造原資料 東京都第五建設事務所所蔵葛飾区新小岩に現存する井戸の複製品。1938年に掘られ、地下60メートルの固い地盤まで掘り下げられたが、1970年代まで続けられた地下水のくみ上げにより、地面から露出している。激しい地盤沈下の様子が知られる資料である。」 「昭和40年ごろの東京都第五建設事務所の古井戸The appearance where it seems that the water well wasprotruding due to land subsidence1965年頃(昭和40)写真提供:東京都土木技術支援・人材育成センター」 人物と比べると、井戸管が地面からかなり高い位置まで露出していることがよく分かる。現在展示されている複製品だけを見るよりも、「井戸が上がったのではなく、周囲の地面が沈んだ」ことを実感できる貴重な記録写真なのであった。「東京都区部におけるごみ量の推移Changes in Waste Volume in Tokyo Metropolitan Wards大量消費時代を迎え、廃棄物の処理が大きな社会問題となった。In the age of mass consumption, waste disposal became a major social issue.」右側には、ごみ問題とも関係する地盤沈下によって変形・損傷した橋などの写真が。確認できたキャプションは、・大島付近 かさ上げされた橋 Bridge raised due to subsidence・地盤沈下による階段の改修(千代田区・内幸町) Modification of building in the center of the city square due to land subsidence・水面下を走る自動車(江東区・大島) Automobiles running on the ground that has sunk below water level・嵩上げされた堤防(江東区・大島) Levee raised on the sinking ground右下の映像字幕には、・船を通すため開閉をつけて橋を高くした竪川六之橋 Rokunohashi Bridge over Tatekawa River, which was raised by adding stairs to allow boats to pass under.中央のグラフは、「ごみ量と人口の推移」を示している。青線=区部のごみ量橙線=区部の人口下部には、各年代の「1日1人当たりのごみ量」が示されていた。1967年 233g1968年 345g1969年 425g1970年 748g1971年 1,115g1975年 1,600g1980年 1,690g1985年 1,734g1990年 1,613g1995年 1,906g2000年 1,639g2005年 1,625g2010年 1,422g2015年 986g2020年 879g特に目を引くのは、1995年頃の1,906gから2020年頃の879gへ、1人当たりのごみ量が半分以下に減っていること。青線の「区部のごみ量」も、高度経済成長期から急増し、バブル期前後に大きな山をつくった後、長期的にはかなり減少している。一方、赤線の「区部の人口」は再び増加しているため、「人口が増えても、ごみの総量は減った」という東京のごみ問題の大きな変化を示す展示になっていたのであった。「昔のごみ収集に使われた「コンクリート製ゴミ箱」Concrete trash can1950年代(昭和25~35)東京都目黒区/寄贈1950年代に使われたコンクリート製のゴミ箱。各戸に面する道路上におかれたこのゴミ箱から、回収業者が収集した。ゴミの回収方式の変更に伴い、1966年までに撤去された。」 「ゼロメートル地帯の広がり東京都東部の沖積平野部分では、古くから地盤沈下が問題視されており、その観測開始は1892年(明治25)にさかのぼる。とくに江東地域での沈下が激しく、江東区南砂では、観測が開始された1918年(大正7)から、1935年(昭和10)の段階で約2メートルの沈下がみられ、1965年(昭和40)では4メートルの沈下となった。その要因として、工業用地下水の汲み上げと、地下水に含まれる水溶性ガスの採取があげられる。地下水については、法律や条例により規制を行うことで、ガスに関しては、東京都が民間採掘業者から採取権を買い取ることで停止したため、1970年代以降は地盤沈下の進行が止められている。」 「ゴミの処理と埋め立て高度経済成長期を通じて浸透した大量消費の生活様式により、東京23区のゴミの量は爆発的に増加していったが、その一方で、処理施設である清掃工場の新設は〈迷惑施設〉として、近隣住民の反対運動にさらされていた。そのため、大量のゴミが、東京湾内の埋め立て処分場に向かうこととなり、通過地域の江東区では、生活道路の汚損や交通渋滞、悪臭問題などが発生していた。そのようななか、杉並区で清掃工場の建設反対運動が起きると、江東区では杉並区からの搬入を阻止する運動が沸き起こった。1971年(昭和46)9月、危機感を強めた美濃部都知事は、ゴミの増大は生活に危機を及ぼすものとして、〈ごみ戦争〉を宣言し、清掃工場と埋立処分場の建設の推進などの対策を講じた。こうした取り組みにより、都民の意識は大きく変化し、ゴミの減量がはかられるようになるとともに、清掃工場における環境対策の取り組みなど、設備の近代化もはかられた。これにより、ゴミ処理施設は、〈迷惑施設〉の汚名を返上することに成功し、近隣住民の理解のもと、運営されるようになった。」 そして展示は、「T10-1都市問題への対応」から、「T10-2 変化を続ける東京」へ。「T10-2 変化を続ける東京Tokyo in Continuous Transition(1960–2019)下部には中国語表記もあり、持续变化的东京(1960–2019)持續變化的東京(1960–2019)」 「T10-2 変化を続ける東京」―1960年代の展示へ。「東京圏における住宅地の地価分布(1968)Distribution of Residential Land Prices in the Tokyo Area (1968)東京周辺の住宅地は、山手線内部側と、郊外に延びる鉄道の沿線に沿って開発された。住宅地の価格は周辺部から中心部にかけて高まっていく傾向がみられた。Residential areas around Tokyo were developed along the inner side of the Yamanote Line and along railroad lines extending into the suburbs. Residential land prices had the tendency of increasing from the periphery to the center of the city.凡例(1㎡単価)60,000円以上~90,000円未満40,000円以上~60,000円未満30,000円以上~40,000円未満25,000円以上~30,000円未満20,000円以上~25,000円未満15,000円以上~20,000円未満10,000円以上~15,000円未満5,000円以上~10,000円未満中心部の濃い赤色から外側へ向かって地価が低下する一方、郊外へ延びる鉄道路線に沿って、赤・橙・黄色の比較的地価の高い地域が帯状に伸びているのが確認できる。まさに展示説明の「郊外に延びる鉄道の沿線に沿って開発された」という1960年代の東京圏の拡大を、地価によって視覚化した地図。下部の出典は、「昭和45年1月現在 地価分布図 説明書」(東急不動産株式会社 1970年)中の分析に基づき1968年のデータを作成」と。 「1965年(昭和40)における東京都の地下鉄Tokyo Subway in 1965東西、南北方面に路線が整備。私鉄との相互乗り入れが開始され、近県との交通ネットワークが形成されはじめた。Subway lines were developed in the east-west, north-south, and west directions.Mutual transit service with private railways began, and a transportation network withneighboring prefectures began forming.」 凡例都営線 1号線営団線 銀座線 丸ノ内線 日比谷線 東西線地図では、1965年当時の地下鉄網が色分けされ、銀座線・丸ノ内線・日比谷線・東西線・都営1号線の路線と各駅が示されている。特に左側の赤い点線で囲まれた部分には、「荻窪線として営業(1972年〈昭和47〉3月まで)」とある。現在の丸ノ内線の新宿―荻窪方面は、当時「荻窪線」と呼ばれていたことが分かる、興味深い表示。また、1965年の時点では東西線は高田馬場―九段下間までしか描かれていない。現在の東京の地下鉄網と比べると、高度経済成長期に地下鉄網がまさに急速に拡大している途中だったことがよく分かるのであった。「1965年(昭和40)における首都高速道路Metropolitan Expressway in 19651962年(昭和37)に京橋―芝浦間、4.5キロで開通。オリンピック開催にむけて、空港と競技場方面を中心に整備された。The 4.5-km expressway between Kyobashi and Shibaura opened in 1962. It was constructed mainly in the direction of the airport and stadium in preparationfor the Olympic Games.」 地図の緑色部分が「営業中路線」。東京オリンピックを契機として、1960年代前半に地下鉄と首都高速道路という東京の交通インフラが急速に整備されていったことを示していた。これは、高度経済成長期の暮らしの変化を、家庭用品や食生活から紹介している展示。確認できる主な展示品は、左:テレビ(木製キャビネット型のブラウン管テレビ)中央:電気エアーポット「花のシリーズ」右:ジャー KSA-3型手前:学校給食の再現模型中央の説明板:「魔法瓶の花柄ブーム」特に面白いのが、中央の花柄のポットと赤い花柄のジャー。1960~70年代頃、家電製品や台所用品に鮮やかな花柄が盛んに取り入れられ、実用品にも「明るく華やかな家庭生活」を演出するデザインが求められた。この展示は、そうした時代の生活文化を示しているようだ。手前の学校給食には、揚げパン・牛乳・おでん風の煮物が見えた。左:象印エールポット(花のシリーズ)Counter top thermos flask. Flower pattern.1971年(昭和46)象印マホービン株式会社/製右:ジャー KSA-3「華」A thermos flask with a large mouth. A receptacle for storing cooked rice. Flower pattern.1967年(昭和42)象印マホービン株式会社/製開口部が大きい魔法瓶。炊いた米を保存する容器。花柄。「1960年代の学校給食School lunches in the 1960s1964年(昭和39)のモデル献立資料。戦後アメリカからのララ物資やユニセフからの援助により学校給食に登場した脱脂粉乳は、64年から導入された委託乳(粉乳と牛乳の混合乳)を経てビンやパックの牛乳へと移行した。揚げパン、ミルク(脱脂粉乳)、おでんFried dough, skim milk, and Oden (a type of Japanese stew)」「学校給食の変遷Change in school lunches学校給食は明治22年に山形県で最初に導入され、その後全国へ広まっていった。戦後の食糧難の時期を経て、1950年代までは、児童の栄養補給の意味合いが強かったが、60年代以降は、健康教育の一環としての位置づけが強化された。また、食糧事情の変化にともない、主食にパンのほか、麺類や米が用いられるようになった。」 「家具調テレビ TC-96a「嵯峨」Furniture-style television TC-96a “Saga”1965年(昭和40)松下電器産業株式会社/製1960年代中盤より盛んになった「家具調」家電の代表作。和風の名前に象徴されるように、テレビとしての機能より、伝統美をイメージしたデザインを強調する販売戦略がとられた。張り出した天板と木製のスピーカーカバー、本体と一体化した脚部は、その後しばらく日本のテレビの基本デザインとなった。本資料は初期型と同一デザインのマイナーチェンジモデル。」 「70年代 1970ー1980「■東京圏における住宅地の地価分布(1975)Distribution of Residential Land Prices in the Tokyo Area (1975)都心から東京23区の西南部方面を中心に、1㎡あたり15万円以上の地域が広がった。中央線、東海道線といった輸送能力の高い鉄道沿線では、遠隔地まで地下の高い地域が続いた。■1975年(昭和50)における東京の地下鉄Tokyo Subway in 1975国鉄(現・JR東日本)が地下鉄の相互乗り入れに加わり、路線網が充実していった。■1975年(昭和50)における首都高速道路Metropolitan Expressway in 19751967年(昭和42)に都心環状線が完成。69年に初の神奈川〇〇開通、69年に1号線、71年に7号線完成。東西南北への放射状に広がる道路の整備が進んだ。手前に「少年用自転車 ブリジストン ヤングウェイ・モンテカルロ」 「インベーダーゲーム」。 「インベーダーゲームSpace Invaders1978年頃(昭和53)株式会社タイトー/販売1978年、ゲームメーカーのタイトーが開発したコンピューターゲーム。自陣に攻め込む敵の攻撃をかわして反撃するという遊戯方法は、当時として画期的なもので、機器が設置されたゲーム場や喫茶店に若者が殺到し、遊技料金であった100円玉が不足するほどの大流行となった。インベーダーゲームばかりを集めた「インベーダーハウス」が乱立し、それらが今日の「ゲームセンター」の基本的な形となった。」 昭和40~50年代ごろの暮らしや商品を振り返る展示。主な展示品は次のとおり。・ソニー「ウォークマン」・ソニー FM/AMラジオ「ジャッカル」・カシオミニ(小型電卓)・学校給食の模型・プリントゴッコ B6・パンダ貯金箱・千葉銀行の貯金箱「パンダ君」・小型のパンダ貯金箱「竹の子族」。 「竹の子族"Takenoko-zoku" first appeared in Tokyo in the late 1970s and 1980s.1979年に原宿の歩行者天国に現れた集団。主に10代後半からなる男女は、ともに東洋的要素を持つ無国籍風デザインで、派手な原色を使った衣服を着て、縫いぐるみやバッジ、お面など、ファンシーな小物をたくさん身にまとい、路上で踊った。「ハーレムスーツ」と呼ばれる独特の衣服をつくった原宿の「ブティック竹の子」にちなんで、一団は「竹の子族」と呼ばれた。当時のディスコで流行していたアラベスクやノーランズ、ジンギスカンなどの曲に合わせて小集団ごとに輪になって踊る姿は、当時の若者風俗としてマスコミなどに取り上げられた。このためメンバーは膨れ上がり、全国から見物人を集め、芸能人になる者も出たが、数年でそのブームは下火となった。」 「80年代 1980ー1990」 ■東京圏における住宅地の地価分布(1985)Distribution of Residential Land Prices in the Tokyo Area (1985)1975年(昭和50)に1㎡あたり15万円以上であった地域のほとんどの地価が、85年には30万円以上に上昇した。その中でも、山手線の内側や、世田谷、目黒、大田区などの街並みの整った住宅街では、1㎡あたりの地価が45万円以上になる場所もみられた。■1985年(昭和60)における首都高速道路Metropolitan Expressway in 19851976年(昭和51)に4号線が中央道と接続するなど、放射線の延伸が進んだ。84年には千葉と神奈川が湾岸線で接続して、都心を迂回する路線もできた。■1985年(昭和60)における東京の地下鉄Tokyo Subway in 1985既存の路線が延伸を続け、山手線のターミナル駅から延びる主要な私鉄路線との相互乗り入れが拡充していった。■1985年(昭和60)における首都高速道路Metropolitan Expressway in 19851976年(昭和51)に4号線が中央道と接続するなど、放射線の延伸が進んだ。84年には千葉と神奈川が湾岸線で接続して、都心を迂回する路線もできた。「1980年代の学校給食School lunches in the 1980s1987年(昭和62)のモデル献立資料。この時期、主食に米が用いられることが一般化し、家庭料理と大差ない献立が組まれた。健康に配慮したメニューも増加した。麦ごはん、牛乳、巻き蒸し、高野豆腐のあえもの、みそ汁、せんキャベツBoiled barley and rice, milk, steamed egg custard, freeze-dried tofu with dressing, miso soup, and julienned cabbage」 「ラジオカセットテープレコーダーGF-999A radio cassette tape recorder that couldoutput high-power audio in stereo1981年(昭和56)シャープ株式会社/製」 「EL-428「ソロカル」Sharp EL-428 "Solo Cal"1981年(昭和56)シャープ株式会社/製商品名「ソロカル」。電卓にソロバンという新旧技術を融合させた商品。電卓の普及以前の過渡的な存在。」 「ボディコン」。1980年代後半に流行した「ボディコン」ファッション。鮮やかな原色と体のラインを強調するデザイン、幅広のベルトや金色のアクセサリーが、バブル期の華やかな時代を思わせる。 「ボディコン"Body-con", or body-conscious, women began to make their appearance on the streets of Tokyo in the 1980s.「ボディコン」とは、1980年代後半に女性たちの中で流行したファッションの一つ。体の線を強調した露出度の高い服に、踵が高く細いハイヒールを合わせ、髪はワンレングスのロングヘアや、前髪をきつく上方にカールさせ「トサカ」状としたロングヘアが主流だった。六本木や赤坂、芝浦などのディスコに用意された「お立ち台」と呼ばれるステージで踊る彼女たちの姿は、しばしばメディアなどで取り上げられた。」 「90年代 1990ー2000」 ■東京圏における住宅地の地価分布(1995)Distribution of Residential Land Prices in the Tokyo Area (1995)1985年(昭和60)からの10年間は、バブル景気の影響で地価の上昇がはげしかった。1㎡あたりの地価が100万円以上の地域は、ピーク時の87年には東京西南部を中心に広がっていたが、95年の段階では、山手線沿線やその周辺部に縮小した。■1995年(平成7)における東京の地下鉄Tokyo Subway in 1995鉄道が整備されなかった場所での建設が進み、さらに路線の密度が高まった。■1995年(平成7)における首都高速道路Metropolitan Expressway in 19951987年(昭和62)に中央環状線の東側部分が完成。93年(平成5)にはレインボーブリッジが完成。94年には湾岸線の神奈川ルートが開通。東京南部の混雑が緩和した。「OSパッケージ「Windows95」Windows 95 operating system package1995年(平成7)マイクロソフト社/製」 左は、Microsoft Windows 95の日本語版OSパッケージ。上部には「PC-9800シリーズ対応」「Microsoft Windows 95 オペレーティングシステム」とあり、NECのPC-9800シリーズ向けであることも確認できる。Windows 95は日本では1995年11月23日に発売され、深夜販売に人が集まるなど大きな社会現象になった。「スタート」ボタンやタスクバーなど、現在にもつながる操作体系が広く普及する契機となったOS。「竣工当時の東京都庁The Tokyo Metropolitan Government Buildingright after its construction was completed1991年(平成3)写真提供 東京都」新宿副都心に完成した東京都庁舎。二つの塔を持つ第一本庁舎は丹下健三の設計で、高さ約243m。東京の新たなランドマークとなった。 「取り壊し中の丸の内都庁舎Demolition of the Metropolitan GovernmentOffice Building at Marunouchi1991年(平成3)写真提供 東京都」 新宿へ移転する以前の丸の内にあった旧東京都庁舎の取り壊し時の様子。旧都庁舎は、有楽町駅近くの丸の内三丁目にあり、やはり丹下健三の設計による建物。1957年(昭和32)に完成し、東京都政の中心として使われた。1991年(平成3)、都庁が新宿の新庁舎へ移転。旧庁舎はその役割を終え、順次取り壊された。「ポケットベル日本におけるポケットベルは、1968年7月に東京23区で始まった。当初は割り当てられた電話番号に着信すると機器が鳴動するものだったが、1987年に数字が表示できるようになると、女子高校生を中心とする若年層の中で数字の語呂合わせでメッセージをやり取りすることが流行し、これにまつわるドラマがヒットするほど社会的に認知された。94年にカタカナやアルファベットの表示が可能となると、若年層を中心に更に利用者を増やしたが、ポケットベルが介在する「ベル友」と呼ばれるコミュニティを築いた若年利用者層には、「2タッチ方式」と呼ばれる特殊な文字変換方法を高速で行うスキルが求められた。展示されているポケットベル左上ポケットベル「センティーA」Model R・ABC Centy-A pager1995年(平成7)NTTドコモ/販売右上ポケットベル「ショーティー」"Tesshin Joker" pager1996年(平成8)東京テレメッセージ/販売左下ポケットベル「Arkiss」An "Arkiss" pager1996年(平成8)東京テレメッセージ/販売右下ポケットベル「Hello Kitty」A "Hello Kitty" pager1997年(平成9)東京テレメッセージ/販売」 「コギャル」。 「コギャル"Kogyaru" is a fashion style that began to appear on the streets of Tokyo in the 1990s.1980年代の半ば、東京都内の私立学校で、イメージ刷新のため、女子の制服をブレザーとチェックのスカートに改める学校が増加した。こうした学校の生徒には、ブランドの洋服を着こなしディスコ通いをするなど早熟な者も多く、彼女たちは日常の衣服である制服を着こなす事にもこだわった。短いスカートやブランド小物の使い方は、この他の学校でも続々と制服がブレザータイプに改まる中で急速に広まり、90年代にはミニスカートに白いルーズソックス、ローファーという着こなしが全国で定番化した。高級ブランドからキャラクターグッズに至る様々なアイテムを縦横無尽に取り込む感覚に注目したマスメディアや企業は、彼女たちを流行の発信源と捉え、様々な商品開発の参考にした。」 「1990年代の学校給食School lunches in the 1990s1995年(平成7)のモデル献立資料。食育の視点も加わり、より幅の広い献立が組まれるようになった。あんかけやきそば、大学芋、シャキシャキあえもの、にらたまスープ、くだもの、牛乳Yakisoba (stir-fried noodles) in thick sauce, candied sweet potato, shredded radish saladwith dressing, chive egg soup, fruit, and milk」 「00年代 2000ー2010」 ■東京圏における住宅地の地価分布(2005)Distribution of Residential Land Prices in the Tokyo Area (2005)東京圏の地価は90年代中盤以降から10年間のあいだで下落が見られた。1㎡あたり45万円以上の地域は、1995年(平成7)には面的に広がっていたが、05年には鉄道沿線に沿うような形になり、都心からの距離も狭まった。■2005年(平成17)における東京の地下鉄Tokyo Subway in 2005東京メトロ(旧・営団地下鉄)南北線と都営大江戸線の環状部が開業し、山手線内のほとんどの地点が駅徒歩15分圏内になった。また、既存路線に新駅が設置されるなどの利便性が向上した。■2005年(平成17)における首都高速道路Metropolitan Expressway in 20051997年(平成9)に浮島ジャンクションで東京湾アクアラインと接続。98年に湾岸線が開通、2001年(平成13)に湾岸線が全通、02年に中央環状線北側部分が完成するなど、広域での高速道路網が整備されていった。」「iPod-10GB2001年(平成13)アップルコンピューター/製」 これは、初期のiPod。右側が正面、左側は鏡面仕上げになった背面を見せるように展示。中央に大きな円形の操作部を備えたデザインが特徴的。初代iPodは2001年に登場し、「大量の音楽を小さな機器に入れて持ち歩く」という、その後の携帯音楽のスタイルを大きく変えて行った製品。「都営大江戸線 全線開業記念グッズ2000年に東京都交通局が運営する地下鉄である大江戸線が全線開業したことを記念して配布されたグッズ類。Memorabilia from Toei Oedo line’s full openingThese goods were made to commemorate the completion of the Oedo subway line, operated by the Tokyo Metropolitan Bureau of Transportation, in 2000.展示品は次のとおり・都営地下鉄大江戸線 優待乗車券 Toei Oedo Line Complimentary Ticket 2000年(平成12) 東京都交通局/製作・都営地下鉄大江戸線 全線開通記念 メモ帳 Toei Oedo Line Full-Line Opening Commemorative Notepad 2000年(平成12)・駅案内パンフレット「大江戸なびのすけ」 Station guide pamphlet “Oedo nabi no suke” 2000年(平成12) 東京都交通局/製作・都営地下鉄大江戸線 全線開業記念おためし券 Memorabilia from Toei Oedo line’s full opening Free tickets 2000年(平成12) 東京都交通局/製作」 「コスプレ」。 「コスプレ"Cosplay": a phenomenon that appeared on the streets of Tokyo in 1990s through 2000s.コスプレとは、コスチューム・プレイの略。マンガやアニメーション、ゲームなど、創作上のキャラクターの衣装や髪型をまねることを意味し、広義には、特定の職業や立場を表す制服などを着用する事も含む。1980年代、同人誌即売会で、作品の登場人物に扮装する者が現われ、その様子の報道などで広まり、90年代、サブカルチャーへの関心が高まると共に、ゲームの発表会などでの露出機会が増え、コスプレした店員が接客する飲食店などが開業した。関連する商品やサービスを行う店舗が集中する秋葉原では、90年代後半から2000代にかけて、宣伝のためにコスプレ姿で街頭に立つ者が増え、その光景が新たな東京名物となった。」 「2000年代の学校給食School lunches in the 2000s2006年(平成18)のモデル献立資料。食育の幅が広がり、テーブルマナーやコミュニケーション、メニューを通じた異文化理解に配慮した献立が組まれるようになった。キムチチャーハン、チーズ春巻き、中華風ジャコサラダ、きのこスープ、やわらか杏仁豆腐、牛乳Kimchi fried rice, cheese spring roll, Chinese-style jako (dried young sardines) salad, mushroom soup, soft almond jelly, and milk」 「10年代 2010ー2020」 ■東京圏における地価分布(2015)Distribution of Land Prices in the Tokyo Area (2015)下落が続いていた東京圏の地価は2006年(平成18)に上昇し、回復の兆しが見られたが、2008年(平成20)のリーマンショックを契機に再び下落した。しかし、2013年(平成25)頃から区部を皮切りに上昇し、特に再開発の進んだ都心部で1㎡あたり100万円以上の地域が増加した。■2015年(平成27)における東京の地下鉄Tokyo Subway in 2015東京メトロ副都心線が開業し、東武東上線、西武有楽町線および池袋線と、東急東横線との相互直通運転を開始した。これにより、埼玉県西部から3つの副都心を経由し横浜方面へ通じる広域交通ネットワークが形成された。■2015年(平成27)における首都高速道路Metropolitan Expressway in 20152010年(平成22)に中央環状線が西新宿ジャンクション~大橋間開通、2015年(平成27)には大橋ジャンクション~大井間開通、全線開通となった。これにより、都心を通過する通過交通が中央環状線に転換し、都心での交通渋滞緩和に貢献した。「ニンテンドー3DSNintendo 3DS2011年(平成23)任天堂株式会社/製」 「テレビ放送の地デジ化地上波テレビの放送は、2011年7月24日をもってアナログ放送からデジタル放送へ完全に移行した。携帯電話の普及により、国内で利用できる電波が上限に近づいたため、通信データを圧縮できるデジタル放送の導入が国策として推進された。Transition to Digital Terrestrial Television BroadcastingTerrestrial television broadcasting completed its transition from analog to digitalon July 24, 2011. As the widespread adoption of mobile phones pushed the availabledomestic radio frequencies close to its limit, the government promoted the adoptionof digital broadcasting, which allows for data compression, as its national policy.地デジカ パペットCHIDEJIKA puppet2010年(平成22)頃社団法人デジタル放送推進協会/配布地上デジタルテレビチューナーDTV-S110Digital Tuner DTV-S1102010年(平成22)バッファロー/製」 「東京2020 オリンピック・パラリンピック招致2011年7月より、2020年オリンピック・パラリンピックの東京開催に向けた招致活動が開始された。招致活動では「Discover Tomorrow~未来をつかもう~」というスローガンのもと実施され、関連グッズには桜をモチーフにしたロゴが使われた。2013年9月にアルゼンチンのブエノスアイレスにおいて開催された国際オリンピック委員会総会で、2020年オリンピック・パラリンピック開催都市が東京に決定した。」東京オリンピック開催決定号外Special issue: Tokyo Selected to Host the Olympics2013年(平成25)9月7日ピンバッチPINSボールペンBallpoint pen 。「2010年代の学校給食School lunches in the 2010s2014年(平成26)の千駄谷小学校の献立。学校給食法に伝統食への理解を深めることが追加されたことや、和食がユネスコ無形文化遺産に登録されたことにより、積極的に郷土料理を献立に組み入れるようになった。深川めし、ねぎま汁、小松菜のおひたし、くだもの(みかん)、牛乳Fukagawa-meshi (rice cooked with clams),Negima-jiru (tuna and scallion soup), BoiledKomatsuna, fruit (mandarin orange), and milk」 左のご飯が深川めし、右の具だくさんの汁物がねぎま汁、中央奥が小松菜のおひたし、右奥がみかん。「スマートフォンの普及日本におけるスマートフォンは、2008年にアップル社のiPhone 3Gが発売されたことを契機として普及が進み、2014年には8割を超えるまでになった。また、スマートフォンの普及に伴いSNSの利用が拡大し、インスタ映えや自撮り棒が流行するなど、新たな文化が生まれ、さらにPayPayなどのキャッシュレス決済も普及した。スマートフォンの普及は、人々のコミュニケーションの方法や消費行動など、社会のさまざまな側面に大きな変化をもたらした。」・自撮り棒 Selfie Stick・iPhone 4S 2011年(平成23) アップル/製 「ハロウィン」。ハロウィンの定番仮装の一つ、白黒の横縞を使った囚人服。説明パネルにも『囚人服やゾンビなどのホラー系が定番』と紹介されていた。 「ハロウィンPeople dressed in Halloween costumes gathered on thestreet of Tokyo in 2000s through 2010s2010年代には、ハロウィンに仮装して渋谷や六本木といった繁華街に集まることが、若者を中心に流行した。もともとは1980年代に、繁華街で地元の商店街や企業が子どもを主役とした仮装パレードを企画したことがきっかけであった。しかし2010年代に入り、SNSによって写真や動画などの情報が急速に拡散されるようになった結果、参加者は自然発生的に増加し、警察が出動するほどの規模に発展した。仮装のテーマは、囚人服やゾンビなどのホラー系が定番である一方で、その年に話題となった人物やキャラクターを取り入れたものも多く見られ、世相が色濃く反映された。さらに、ハロウィンが近づくと多くの店舗で特設コーナーが設けられ、衣装やメイク用品や小道具が販売されるようになり、商業的にも大きなイベントとして定着していった。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.17
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「T9-3 1964年 東京オリンピック」1964 Tokyo Olympic Gamesその下には多言語で、・1964年东京奥林匹克运动会(中国語・簡体字)・1964年東京奧林匹克運動會(中国語・繁体字)・1964년 도쿄 올림픽(韓国語)・Les Jeux Olympiques de Tokyo 1964(フランス語)・Los Juegos Olímpicos de Tokio 1964(スペイン語)・Die Olympischen Spiele von Tokio 1964(ドイツ語)・Олимпиада 1964 года в Токио(ロシア語)・I Giochi Olimpici di Tokyo del 1964(イタリア語)と、「1964年東京オリンピック」が各国語で表記されていた。 「大会開催に向けて東京都は国や日本体育協会などと協力し、1960年(昭和35)の第17回大会の招致に向けて活動を開始するが果たせず、1964年(昭和39)の第18回大会を目指すことになった。1958年(昭和33)にアジアオリンピック評議会主催のアジア競技大会を東京で開催することが決まると、都は期間中にIOC総会を誘致し、東京の開催運営能力をアピールした。そして東京都は1959年(昭和34)5月25日にミュンヘンで開催されたIOC総会で、第18回大会の開催都市に立候補し、デトロイトやウィーン、ブリュッセルを破り、招致に成功した。大会の開催に向けて、競技場や関連施設の建設や整備作業が、国や東京都ほかの地方公共団体、そのほか関連団体によってすすめられた。大会の成功を目指してすすめられたこれらの事業は、東京の街を新たなすがたへと変えていった。」 「競技場の建設と交通網の整備Construction of Stadiums and Transportation Network東京オリンピックの開催にあたり各所に競技場が建設され、またそれらを結ぶ交通網も整備された。In preparation for the Tokyo Olympics, stadiums were built in various locations, and a transportation network was developed to connect them.」 左側写真・国立屋内総合競技場・国立霞ヶ丘陸上競技場・相撲道・日本武道館・駒沢運動公園右側写真・首都高速道路・東京モノレール・中央地図で確認できる主な競技会場・施設・朝霞射撃場・大宮競輪場・戸田ボートコース・国立霞ヶ丘陸上競技場・国立屋内総合競技場・日本武道館・駒沢運動公園・八王子自転車競技場・八王子自転車競技ロードレースコース・相模湖三ツ沢競技場横浜文化体育館相模湖右下には、・東京都内の交通網の整備という図があり、凡例にはオリンピック関連道路、首都高速道路、東京モノレールなど、東京五輪に合わせて整備された交通網が色分けして示されている。このパネルの要点は、1964年東京オリンピックが競技施設の建設だけでなく、首都高速道路や東京モノレールをはじめとする東京の都市交通基盤の整備を大きく促したことを示している。「1964年東京オリンピック終戦から20年にも満たない1964年(昭和39)、第18回オリンピック東京大会が開催された。アジア地域で初めて開催されたこの大会は、93の国と地域から5千人以上の選手が集まり、東京は世界都市への仲間入りを果たすこととなった。10月10日の午後2時、代々木の国立競技場で開会式が行われ、ギリシアから運ばれ日本全国をめぐった聖火が、7万5千人を超す観衆の見守る中、最終走者坂井義則によって聖火台に点火され燃え上がった。選手代表として、体操の小野喬が選手宣誓を行うと、平和の象徴として8千羽の白い鳩が大空に放たれた。会場の上空には、自衛隊のジェット戦闘機が5色の着色煙で五輪を描いた。こうして15日間にわたるスポーツの祭典が幕を開けた。オリンピック東京大会が閉幕した10月24日から15日後の11月8日、オリンピック選手の練習場であった織田フィールドなどで、パラリンピック・国際身体障害者スポーツ大会が幕を開けた。同月12日まで5日間の日程で実施されたこの大会には、21カ国378名、日本からは53名の選手が参加した。この時に生まれた「パラリンピック」という造語は、1985年(昭和60)に正式名称として認められた。世界中の障害をもつ人々がスポーツを通じて交流し、障害者福祉の重要性を訴えるものとなった。」 「Opening of the Tōkaidō Shinkansen(Bullet Train)The Tōkaidō Shinkansen was approved by the Cabinet in July 1958, when the Japan National Railway Investigating Committee, which was an advisory body of the then Minister of Transport submitted a report regarding the need for the construction of the Shinkansen (bullet train). One major reason behind this proposal was the limitation of transporting power of the local Tōkaidō Line. The construction began the year afterthe decision was made, and the Shinkansen began its operation on October 1, 1964, just before the opening of the Tokyo Olympic Games. At the time, the speed of theShinkansen was 200 km/hr. and linked Tokyo and Shin-Osaka in four hours.東海道新幹線の開通東海道新幹線は、1958年(昭和33)7月に、当時の運輸大臣の諮問機関である日本国有鉄道幹線調査会が、新幹線建設の必要性を答申して閣議で了承された。この背景には、在来線の東海道本線の輸送力の限界があった。決定の翌年から工事に着手し、東京オリンピック開催前の1964年(昭和39)10月1日に正式に運行を開始した。開業当初は時速200kmで、東京―新大阪間を4時間で結んだ。展示資料アサヒグラフ臨時増刊東海道新幹線Asahi Graph Extra Issue Tōkaidō Shinkansen1964年(昭和39)8月1日朝日新聞社/発行表紙には、開業時の東海道新幹線を象徴する0系新幹線が大きく写っている。」 「東京オリンピック開会式Tokyo Olympics Opening Ceremony航空自衛隊「ブルーインパルス」の着色煙により描かれた五輪マーク1964年(昭和39)10月10日 国立競技場朝日新聞社/提供」青空いっぱいに描かれた巨大な五輪と、満員の国立競技場。1964年東京オリンピックを象徴する非常に有名な光景。「TOKYO ● 1964その下にオリンピックの五輪マーク。水泳のバタフライ選手を正面から捉え、水面上の力強い泳ぎと、水中に映る身体の姿を一枚に収めている。このポスターは、1964年東京大会の公式ポスターとして制作されたシリーズのうち、公式Cポスター(水泳)。デザインは亀倉雄策。写真を大胆に使った東京五輪のポスター群は、日本の戦後グラフィックデザインを代表する作品としても知られていた。」「東京オリンピックポスター(公式 C ポスター)Poster for the Tokyo Olympics (Official Poster C)1963年(昭和38)亀倉雄策/デザイン早崎治/撮影村越襄/フォトディレクション競泳をイメージしたデザインのポスター。東京体育館屋内水泳場で撮影され、大会までに7万部が製作・配布された。外国人選手やメダリストなど様々な人が撮影に参加し、複数の泳ぎを試した結果、最終的に早稲田大学水泳部選手のバタフライが選ばれた。」 「東京オリンピック開会式入場券Admission Ticket to the 18th OlympicsOpening Ceremony1964年(昭和39)オリンピック東京大会組織委員会/発行第18回オリンピック競技大会の開会式・閉会式の入場券は、応募が殺到すると予想されたため、抽選方式で販売された。1964年(昭和39)1月22日、日比谷公会堂において宝くじの抽選機を用いた抽選が行われ、その模様はNHKの番組でも放送された。競争率は平均60.4倍に達した。」 「競技大会入場券Admission Tickets to the Tokyo Olympic Games1964年(昭和39)オリンピック東京大会組織委員会 / 発行展示されているのは、1964年東京オリンピックの各競技会場の入場券。券面には共通して、第18回オリンピック競技大会THE GAMES OF THE XVIII OLYMPIAD TOKYO 1964と五輪マークが印刷されている。」確認できる会場には、・駒沢屋内球技場 KOMAZAWA INDOOR STADIUM・駒沢バレーボールコート KOMAZAWA VOLLEY BALL COURT・後楽園アイスパレス KORAKUEN ICE PALACE・朝霞射撃場 ASAKA SHOOTING RANGE・国立競技場 NATIONAL STADIUM などがある。また右上の水色の券は、第18回オリンピック競技大会入場記念 陸上競技 国立競技場 と。各券には、競技を表すピクトグラム、会場、日付、時刻、座席、入口などが一目で分かるように配置されています。色分けも鮮やかで、単なる入場券というより、1964年東京大会のデザイン性の高さを感じさせる資料 。「東京オリンピック体操選手サイン色紙Shikishi (Square Calligraphy Card) withAutographs of Gymnasts in Tokyo Olympics1964年(昭和39)第18回オリンピック競技大会 体操選手/筆」 「表面は男子選手、裏面には女子選手がサインしている。男子は団体総合で金メダル、女子は団体で銅メダルを獲得した。個人では、遠藤幸雄選手が個人総合、平行棒で金、ゆかで銀メダルを獲得、また山下治広選手は跳馬で、早田卓次選手はつり輪で金メダルを獲得した。」 「第18回オリンピック競技大会表彰台(複製)」。中央の「1」を最も高くし、左側に「2」、右側に「3」を配置。その正面中央にはカラーの五輪マークが取り付けられている。移動して。 「第18回オリンピック競技大会表彰台(複製)The 18th Olympics tournament winners' platform(Replica)2013~2014年(平成25~26)道吉剛/デザイン秩父宮記念スポーツ博物館/原蔵1964年(昭和39)の東京オリンピックで使用された表彰台の複製。」 「競技への熱狂第18回オリンピック東京大会は、1964年(昭和39)10月10日に幕を開け、日本中が熱狂に包まれた。競技は開会式翌日の11日から、バレーボールと柔道を加えた20競技163種目が行われ、365のオリンピック新記録と、41の世界記録が生まれるなど、多くの輝かしい功績を残した。日本は、金メダル16個、銀メダル5個、銅メダル8個と、計29個のメダルを獲得した。なかでも、「東洋の魔女」と呼ばれた日本女子バレーボールチームは、宿敵ソビエトを破り優勝した。この時の日本国内のテレビ視聴率は、NHKで66.8パーセントを記録し、スポーツイベントとして空前の高視聴率であった。こうして15日間にわたるスポーツ最大の祭典に、世界中の人々もまた熱狂した。」 「T10 現代の東京」。下部には「現代の東京」が中国語、韓国語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、ロシア語、イタリア語、タイ語、ポルトガル語、インドネシア語など、多言語で表記されていた。 「T10-1 都市問題への対応」。ここからは「1964年東京オリンピック」の華やかな展示から一転して、高度経済成長と急速な都市化がもたらした公害・交通・ごみなどの都市問題と、それに東京都がどのように対応したのかを扱う「T10-1 都市問題への対応」へ進む構成になっていた。「ダットサントラック G222型」 「ダットサントラック G222型1960年(昭和35) 日産自動車株式会社/製中島秀男氏/寄贈日産自動車が製造した小型トラックのブランドであるダットサントラックの2代目にあたる220シリーズのひとつ。台東区三筋で梱包業を営んでいた寄贈者の父によって、2007年(平成19)まで使用されていた。購入当時に施された手書きの「NAKAJIMA SHOTEN」というレタリングが残存しているなど、昭和30年代当時の貨物輸送車の雰囲気をよく残している。」 廻り込んで。「軽自動車スバル360」 「軽自動車スバル360富士重工業株式会社/製1955年(昭和30)、通商産業省(現・経済産業省)は乗用車工業の振興に加えて、国民への自家用車の普及を意図して、小型・軽量・低価格を基準とした「国民車構想」を打ち出した。これをきっかけに、軽自動車の皮切りとして製造・販売されたのがスバル360である。日本の自動車産業史の中で、初の量産化を実現し、マイカー需要創出のトップバッターとなった。」 「団地の誕生戦後混乱期、1948年(昭和23)、港区高輪に鉄筋コンクリート造りの集合住宅「都営高輪アパート」を建設した。全9棟からなる集合住宅で都内でいち早く建てられた団地であった。その2年後には新宿区内に、全22棟建ての「都営戸山ヶ原アパート」を完成させた。 一方、国による本格的な住宅供給の体制づくりがすすめられ、1950年(昭和25)に「住宅金融公庫法」、翌年には「公営住宅法」が制定される。そして1955年(昭和30)、「日本住宅公団」が設立され、大規模な宅地開発を行い、そこに耐火式集合住宅を大量に建設する体制が整った。都内では、1957年(昭和32)に「晴海団地」を建設、翌年には、同団地内に公団初の高層団地として、十階建ての「晴海高層アパート」が誕生した。また1958年(昭和33)には、日野市に敷地面積約29.6ヘクタールを有する大規模住宅地「多摩平団地」が建設された。」 「ひばりが丘団地復元年代:1962年(昭和37)頃 縮尺:1/1独立行政法人都市再生機構 東日本賃貸本部/部材提供ひばりが丘団地は、1959年(昭和34)、北多摩郡に田無町、保谷町(両町は現・西東京市)、久留米町(現・東久留米市)の三町にまたがる場所に建設された集合住宅地である。全戸数2,714戸はすべて賃貸で、昭和34年4月より入居が始まった。間取りは、1DKから4Kまでさまざまなタイプがあったが、もっとも多かったのは2DKであった。各住戸の玄関にはシリンダー錠式のドアが取り付けられ、室内には浴室が設けられた。当時、浴室はおろかトイレや台所までをも共用しなければならない共同住宅が多かった状況下にあって、これらの設備はプライバシーを確保し、マイホームの概念を確立させるものとなった。」 ひばりが丘団地の住棟の共用階段・玄関部分を実物大(1/1)で復元した展示昭和30年代の団地らしい特徴がよく分かる。外廊下ではなく、階段を中心に各階の住戸玄関へ入る階段室型(階段室式)の構成。正面に住戸の玄関扉、右側にも別住戸の扉があり、中央上部の「3」は階を示す表示。中央のクリーム色の玄関ドア。各住戸の玄関にはシリンダー錠式のドアが取り付けられていた。さらに玄関へ近づく。扉の向こうには、木枠の型板ガラス戸や壁掛け鏡など、昭和30年代の団地生活を再現した室内が見えてきた。玄関から室内へ。当時、新しい生活様式として憧れの的となったダイニング・キッチン(DK)が広がる。流し台やガス台、食卓、家電製品など、昭和30年代の団地生活が細部まで再現されていた。左側が先ほどのダイニング・キッチン(DK)。中央には洗面台、その奥に玄関へ続く空間があり、右側には畳敷きの和室があった。そして中央右奥には、浴室も確認できた。浴室まわりを正面から見る。中央奥に見えるのが住戸専用の浴室。木製の浴槽と、床には水はけを考えたすのこが置かれていた。さらに浴槽から上へ伸びる煙突状の管が見えたが、当時の風呂釜による沸かし設備も再現されていた。自宅の中に家族専用の浴室があること自体が、団地の大きな魅力であった。昭和30年代の「団地生活」が目の前に。畳の和室の隣には、テーブルと椅子を置いたダイニングキッチン。ブラウン管テレビや炊飯器などの家電製品も並び、和の暮らしの中に新しい洋風生活が取り入れられていった時代の姿が再現されていた。「団地への招待Invitation to the Housing Complex近代的で衛生的な住宅設備の整った「団地」での生活は、当時の人々のあこがれだった。団地での暮らしを紹介したこの映像は、日本住宅公団(現・独立行政法人都市再生機構)が提供した「団地への招待」(1960年・昭和35、17分50秒)を編集した(協力:独立行政法人都市再生機構、映像提供:日経映像)。Invitation to the Housing ComplexLiving in a modern housing complex with modern and hygienic housing facilities wassomething people aspired to at the time. This video introducing life in a housingcomplex was edited from “Invitation to the Housing Complex” (1960, 17 minutes and50 seconds), a video produced under the supervision of Japan Housing Corporation(Present: Urban Renaissance Agency).Cooperation by Urban Renaissance AgencyVideo provided by Nikkei Visual Images, Inc.」 昭和30年代の団地のダイニングキッチン。冷蔵庫、ガスコンロ、流し台、食卓と椅子が並び、その奥には専用の浴室も。畳と座卓中心だった暮らしから、近代的な「団地生活」へと変化していく時代の姿が再現されているのであった。ひばりが丘団地・復元住戸のベランダ(バルコニー)。ベランダには電気洗濯機と物干し場が。限られた空間を有効に使い、洗濯から物干しまでを住戸のすぐそばで行えるよう工夫されていた。昭和30年代、団地が提案した「新しい暮らし」の一端がここにも見えるのであった。電気洗濯機に近づいて。ベランダにはローラー式絞り機を備えた電気洗濯機。洗濯した衣類を上部の2本のローラーに通して水を絞る仕組みである。電気洗濯機は、冷蔵庫・テレビとともに「三種の神器」と呼ばれ、昭和30年代の新しい家庭生活を象徴しているのであった。玄関奥から住戸内部を見る。左にはダイニングキッチン、右には専用のトイレと浴室。当時は水回りを共用する共同住宅も多いなか、各住戸に台所・トイレ・浴室を備えた団地の暮らしは、人々の憧れでもあったのである。「東京近郊における団地の展開Development of Danchi Apartment Complexes in the Suburbs of Tokyo1955年(昭和30)、日本住宅公団が誕生した。東京では、1956年に建設された牟礼団地(三鷹市)を皮切りに、全国各地では団地が建設された。In 1955, the Japan Housing Corporation was established, starting with the Mure Danchi(Mitaka City) built in 1956 in Tokyo, apartment complexes were constructed all over the country.」 下の大きな地図は、東京とその近郊に建設された団地の分布を、建設年代別に色分けして示したもの。下部には年代別の団地名が多数並んでいた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.16
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常設展示「T・東京ゾーン」の「T9 高度経済成長期の東京」へ。戦後復興を経て日本経済が急速に成長した時代の東京、つまり主として1950年代後半~1970年代初頭の都市や暮らしの大きな変化を扱うコーナー。この時代の東京では、人口の急増、住宅団地の建設、鉄道・道路網の整備、自動車の普及、家電製品の普及などが急速に進んだ。そして大きな節目となったのが、1964(昭和39)年の東京オリンピック。「街頭テレビ」。 日本テレビ(NTV)のテレビ放送を象徴する大型テレビ受像機の再現展示。「NTV」、「JOAX-TV」の文字が。「JOAX-TV」は、日本テレビ放送網に割り当てられたテレビ放送のコールサイン(呼出符号)。「NTV」は Nippon Television の略称。日本テレビは1953(昭和28)年8月28日に民間テレビ局として本放送を開始。当時、家庭用テレビはまだ非常に高価だったため、街頭などに設置された街頭テレビに人々が集まり、プロレスや野球などを見る光景が広がった と。「街頭テレビ(模型)1953年(昭和28)国内においてテレビの本放送が開始された。同年、国産第一号のテレビが発売されたが、公務員の一般的な初任給が8700円という時代に175,000円と非常に高価なものであった。そのため、一般家庭ではなく街頭や店先などで設置され、「街頭テレビ」として親しまれた。街頭テレビの存在は高嶺の花であったテレビを大衆化し、後の家庭用テレビの普及に大きく貢献した。本模型は日本テレビ放送網が1953年に日比谷公会堂前広場に設置した街頭テレビの模型である。形状は当時設置した人の話や写真などから再現した。実物は高さ3メートル、幅1.5メートル、上部には27インチの受像機が納められ、脇には4mのアンテナが立っていたが、本模型は展示に適した大きさにして製作した。」 「街頭テレビの設置状況Installation of TVs on the Streets日本テレビ放送網によって、東京をはじめ関東一円に設置された街頭テレビには、多くの人だかりができ、プロレス中継などに熱中した。The Nippon Television Network Corporation set up street televisions in Tokyo and other parts of the Kanto region,attracting crowds of people who became absorbed in the live broadcasts of professional wrestling matches andother events.」下の地図は、「日本テレビが設置した街頭テレビ」の設置場所を年代別に示したもの。凡例を見ると、●1953年(昭和28)/●1954年(昭和29)/●1955年(昭和30)/●1956年(昭和31)と、設置年によって記号・色が分けられている。 地図を見ると、新宿・渋谷・池袋・上野などの繁華街だけではなく、東京23区のかなり広い範囲に街頭テレビが設置されていたことが分かるのであった。右下の写真のキャプションは、日比谷公園に設置された街頭テレビ 毎日新聞社/提供 と。日比谷公園に設置された街頭テレビ 毎日新聞社/提供。「テレビ登場(街頭テレビ)The Emergence of Television (Street Television)テレビ放送は、1953年(昭和28)に開始した。当時、テレビ受像機は高価だったため、駅前広場や公園などに設置された街頭テレビは大評判となった。テレビの登場から普及までは、当時のニュースやCM、さまざまな番組の映像とともに紹介する。Television broadcasting began in 1953. At the time, television sets were expensive,so street televisions installed at public locations such as station squares andparks became very popular.This video introduces the history of television from its emergence to its spread, through footage of news, commercials, and various programs of the time.」 「T9-1 生活革命」 「T9-1 生活革命」 は、戦後の物不足から、人々の暮らしが急速に豊かになっていく過程を示すことが展示の主眼。江戸東京博物館もT9全体を「生活革命」「団地と電化生活」「1964年東京オリンピック」の3本柱で構成されていた。「一人あたりの繊維の消費量Per Capita Consumption of Fiber戦後、食糧や日用品のみならず、衣類の不足もまた深刻であった。一人あたりの繊維の消費量は激減し、人々は配給された中古衣料や着物などを転用して作った服を身に着けた。After the war, there was a severe shortage, not only of food and daily necessities, but also of clothing. Per capita textile consumption declined sharply, and people wore clothing made from rationed second-hand clothing or converted kimonos.」グラフの凡例天然繊維 ■綿糸 ■絹糸 ■毛糸 ■亜麻麻糸化学繊維 再生繊維:■レーヨン、■レーヨンステープ 合成繊維:■ナイロン、■ビニロン、■塩化ビニリデングラフを見ると、戦前には一人あたり年間5~7kg前後だった繊維消費量が、戦争末期に急激に減少している。特に1945(昭和20)年には0.88kgまで落ち込んでいる。その後、1950年 3.08kg → 1951年 4.11kg → 1952年 5.58kg → 1953年 6.45kg → 1954年 6.57kg→ 1955年 6.69kgと急速に回復していく様子が非常によく分かる。下部の写真キャプション左: モダンな洋服姿の女性たち 1938年(昭和13) 『散歩 数寄屋橋上』師岡宏次/撮影中央: 国民服や婦人標準服を着た人々 1945年(昭和20) ジェターノ・フェーレイス/撮影右: さまざまな色柄の洋服を着た子供たち 1951年(昭和26) ゴードン・J・デリーナ/撮影 「東京の洋裁学校Dressmaking Schools in Tokyo洋裁学校は戦前からすでにあったが、戦後、欧米文化への憧れや女性が生計を立てるための道として、入学を希望する女性たちが洋裁学校へ殺到し、学校数は増加していった。Although dressmaking schools had already existed before the war, the number increasedafter the war, as more and more women wished to enroll in these schools in admirationof Western culture and as a way to earn a living.」 写真・資料上段左: 入学願書受付の行列 1946年(昭和21)11月上段中央: デザインの授業 1951年(昭和26)下段左: ベルベットの扱いについての授業 1950年(昭和25)下段中央: 学生作品発表会 1950年(昭和25)右側には、当時の洋裁関係雑誌が展示されていた。写真下部「東京の洋裁学校数の推移」 1946年の17校から、わずか2年後の1948年には107校へ急増。 戦後、洋装への関心とともに洋裁を女性の職業技能として身につけようとする需要が一気に 高まったことを、このグラフが端的に示していた。「合成繊維の普及Widespread Use of Synthetic Fibers戦後、ナイロン・アクリル・ポリエステルなどの合成繊維が登場し、急速にその工業生産化が進んだ。安価で丈夫なため、洋服生地などに広く利用された。After the war, synthetic fibers such as nylon, acrylic, and polyester were introduced, and industrial manufacturing of these fibers was rapidly developed. Because of their low cost and durability, they were widely used for clothing.」 合成繊維と天然繊維の生産量の推移黒い折れ線が天然繊維(綿糸)、積み上げ棒グラフが合成繊維を示している。合成繊維の内訳は、ナイロン/アクリル/ポリエステル/ビニロン/ビニリデン/ポリ塩化ビニル/ポリプロピレングラフで特に興味深いのは合成繊維の急成長。1945年にはほぼゼロだった生産量が、1950年 450t → 1951年 3,184t → 1955年 15,755t → 1960年 118,274t → 1965年 379,603tと急増。一方、天然繊維(綿糸)も終戦直後の1945年23,051tから急速に回復し、1960年代にはおおむね50万t前後の規模になっている。下部の広告左:ナイロン製のストッキングの広告『ドレスメーキング』6月号 1955年(昭和30)中央: ポリエステル繊維「テトロン」の広告 右:紳士服・替ズボン『週刊公論』創刊号 1959年(昭和34) 左:肥地「婦人生活」12月号 1958年(昭和33)右: アクリル繊維「ベスロン」の広告『家庭画報』11月号 1951年(昭和36)「洋裁ブームDressmaking Boom戦後、にわかに急増した洋裁学校や洋裁店。欧米生活へのあこがれや、自立のために技術習得を目指す女性が、こうした洋裁ブームを引き起こした。洋裁学校では、入学願書を得るために女性たちが長い行列を作った。戦前から既製服は少なく、洋服は自分で作るか、オーダーメードがふつうだったが、戦後は自分で作ろうにも、そもそも生地そのものが手に入らない時代であった。そこで、洋裁学校の生徒たちは、着物をほどいたり、布の代わりに洋紙を使って教材を用意した。Dressmaking BoomDressmaking schools and shops suddenly increased in the years after the war. Women who longed for European and American lifestyles and those who aspired to attain skills for independence were the catalysts for this dressmaking boom. Long lines of women waitingto receive application materials were formed in at the dressmaking schools.Ready-made clothes were rare even in the pre-war times, and people often made their own clothes or had them tailored. Obtaining materials to make clothes was itself a hardship during postwar years. Students at dressmaking schools therefore took theirkimono apart or used paper instead of cloth to use as materials for class.」 展示資料ドレスメーカーパタンブック 第5号 夏季号Dressmaker Pattern Book, No.5, Summer Issue1948年(昭和23)長谷川愛子/編 杉野芳子/デザイン 柳原操/画ドレスメーカー女学院(現:杉野学園ドレスメーカー学院)杉野芳子学院長のデザインを中心としたスタイルブック。1940年(昭和15)に創刊されたが、戦中の用紙の配給統制のため2年で休刊した。1946年(昭和21)の秋に復刊した。開かれているページの上部には、「夏のニュールック」と。戦後の「洋裁ブーム」は、単なるおしゃれの流行ではなく、欧米文化への憧れ+衣料不足への対応+女性が自立するための職業技能という三つの側面を持っていたことが、この展示からよく分かるのであった。「生活革命戦後の庶民の暮らしは、昭和30年代を境に大きく様変わりした。男女とも洋装が日常着として定着し、食事は米飯中心からパン・肉類・乳製品などを取り入れるようになった。また、人口の激増による住宅難はなかなか解消されなかったが、団地の登場により、限られたスペースのなかで、日常生活にイスやテーブルが取り入れられるようになった。乗り物による洗い張り、タライでのもみ洗い、カマドや七輪を使用しての炊事など、それまでの家事は、家庭電化製品の普及とともに、大きく変わっていった。このような新しい生活様式は〈生活革命〉ともいわれた。民放ラジオやテレビ、新聞や雑誌によるさかんな広告・宣伝の影響もあって、人々の暮らしは、戦時下の「ぜいたくは敵だ」から「消費は美徳」へといった風潮がみられるようになった。」 最後の「ぜいたくは敵だ」→「消費は美徳」という対比が、この「生活革命」という展示の意図を非常に端的に表しているのであった。「洋裁ブーム」を具体的に示す1948(昭和23)年の洋裁学校の実習教材。左:ベルト・バックル練習布Belt Buckle Practice Fabric右:ボタン付け・ボタンホール練習布Button Sewing and Buttonhole Practice Fabric中央下:洋裁練習布Clothing Made as an Exercise by Students of a Sewing School1948年(昭和23)ドレスメーカー女学院の教材として使用された。この実物資料を見ると、戦後間もない1948年に、女性たちがこうした小さな練習布を使って洋裁技術を身につけていたことが実感できた。「生活革命」を数字や文章だけでなく、当時の女性が実際に手を動かした教材によって伝える展示になっていた。「洋装化の時代終戦直後、人々の服装は、男性は相変わらず戦闘帽に国民服、女性はモンペすがたが大半であった。度重なる空襲やヤミ食糧との交換で衣類を失ったうえ、戦後、衣料切符による配給制が復活したために新品の購入もままならず、多くの人々は着のみ着のままであった。このころ、生徒募集を再開した洋裁学校に、女学生から戦争で夫を失った女性まで、幅広い年齢層の女性たちが集まった。こうした生徒たちは和服や布団地、落下傘の布、配給の毛布などから工夫して洋服をつくる技術を身につけた。洋裁学校の生徒数は年々増加し、社会の関心も高まって〈洋裁ブーム〉が出現した。」 「和服・布団地・落下傘の布・配給の毛布」まで洋服の材料にした と。物資の乏しい終戦直後、手元にあるものを利用して洋服を仕立てる技術が求められたのであろう。「学生作品による文化祭でのコスチュームショー1952年(昭和27)Costume Show with Student Works at the School Cultural Festival文化服装学院/提供」文化服装学院の文化祭で行われた学生作品によるコスチュームショー。1952(昭和27)年。戦後の洋裁ブームのなか、洋裁は衣料不足を補う技術から、個性や美しさを表現するファッション文化へと広がっていったのであった。 「襦袢で作ったワンピース」。戦後の物資不足で洋服地が手に入りにくかった時代、着物の下着である「襦袢」をほどき、ワンピースへと仕立て直した「更生服」。限られた物資を大切に生かしながら、洋装への憧れを形にした当時の女性たちの工夫が伝わってくるのであった。 「襦袢で作ったワンピースDress made from Juban (Traditional Japanese innerwear)1948~1949年(昭和23~24)ドレスメーカー女学院の学生が在学中に製作したワンピース。和服地などを転用してつくる洋服を更生服と呼んでいた。当時は戦後の物資不足により、洋服地が入手しづらかったため、こうした更生服が多くつくられた。」 「三種の神器Three Sacred Treasures」 1950年代後半、高度経済成長期の豊かな生活を象徴する耐久消費財として、電気冷蔵庫・電気洗濯機・白黒テレビが「三種の神器」と呼ばれました。」 「電気冷蔵庫」。 「電気冷蔵庫Electric refrigerator1957年(昭和32)松下電器産業株式会社/製作荒井 アイ氏/寄贈1959年(昭和34)、麻生台団地入居時に購入したもの。荒井家ではこの冷蔵庫を1991年(平成3)まで使っていた。」 「攪拌式電気洗濯機 東芝P型」。 「攪拌式電気洗濯機 東芝P型Electric Washing Machine (Agitator Type)Toshiba P1954年(昭和29)東京芝浦電気株式会社/製作松本 勇氏/寄贈手頃な値段で販売され、好評を得たモデル。脱水機は別売りだった。」 「白黒テレビ 東芝14KD」本体の左右いっぱいに大きなスピーカー部分が配置され、中央にブラウン管がある。脚も細長い4本脚で、説明にある「和室で座卓越しに見る」という当時の生活様式をよく反映したデザイン。また本体正面には、2 SPEAKER SUPER VISIONの文字も確認できる。先ほどの1953年の「街頭テレビ」では、大勢の人々が屋外に集まって一台のテレビを見ていた。それから約10年後の1962年には、このようなテレビが各家庭の居間で楽しむ家電へと変化していたことになる。「T9-1 生活革命」という展示の流れで見ると、街頭テレビで「みんなで見る」時代 → 三種の神器としてテレビを購入 → 家庭の茶の間で「家族で見る」時代への変化を象徴する実物なのであった。「白黒テレビ 東芝14KDBlack-and-white television1962年(昭和37)東京芝浦電機株式会社/製14インチ白黒テレビ。4本の着脱可能な丸脚を付属する「コンソレット型」。和室で座卓越しに見るのに適した高さに設定されており、1957年以降急速に普及し、主流となった。このテレビは両袖にスピーカーを配し、立体的な音質を目指す。ステレオ放送の開始は1978年(昭和53)。」 「三種の神器の登場昭和30年ころ、急速に広がった家庭電化ブームを象徴する商品群として、電気洗濯機・電気冷蔵庫・白黒テレビ(電気掃除機が入ることもある)の3種の電化製品を指して「三種の神器」と呼ばれ、人々のあこがれの的となった。大卒男子の初任給が1万円前後だった時代に、テレビが20~25万、洗濯機が2~3万、冷蔵庫が5~6万円と大変高価なものであったが、経済の高度成長とメーカーの大量生産によるコストダウンにより急速に家庭に普及していった。たとえば、1955年(昭和30)には1パーセントにも達していなかったテレビの普及率は、5年後には54パーセントにもなった。このほか、メーカーは、電気炊飯器などのように家事労働の合理化を提案する製品を開発し、消費者も競ってこれらを買い求めた。」 この説明板は「生活革命」の中でも非常に重要。特に数字で見ると、当時の家電がいかに高価だったか分かるのだ。大卒男子初任給を約1万円とすると、テレビ20~25か月分、冷蔵庫5~6か月分、洗濯機2~3か月分ほどに相当します。それほど高価だったテレビが、1955年には普及率1%未満 → 1960年には54%まで急増したというのですから、わずか5年間の生活変化の大きさがよく分かるのであった。そして「三種の神器」は単に便利な家電が増えたというだけではなく、洗濯・食品保存・情報や娯楽という家庭生活そのものを変え、高度経済成長期の「豊かな暮らし」の象徴になったのであった。「電化製品の普及率と価格の変化Changes in Penetration and Prices of Electric Appliances1955年(昭和30)ころから、日本は高度経済成長期に入った。労働者の賃金は上昇し、家庭用電化製品が各家庭に急速に普及していった。中でも白黒テレビや電気洗濯機、電気冷蔵庫は「三種の神器」と呼ばれた。Around 1955, Japan entered a period of rapid economic growth. Workers' wagesincreased, and household electrical appliances spread rapidly to every home. Among them, black-and-white televisions, washing machines, and refrigerators came to be referred to as the "three sacred treasures."」 上段「電化製品の普及率」グラフには、電気洗濯機/白黒テレビ/電気冷蔵庫/電気掃除機/カラーテレビ/ルームエアコンの普及率の変化が示されている。非常に特徴的なのは、白黒テレビ。1950年代後半に猛烈な勢いで普及し、1960年代前半にはほぼ家庭に行き渡る。しかし、カラーテレビが急速に普及すると、白黒テレビの普及率は逆に低下していった。一方、冷蔵庫・洗濯機も1960年代に急速に普及して、ほぼ90~100%近くに達している。下段「製品価格と世帯収入の推移」灰色の棒グラフが平均収入額、色の折れ線が各電化製品の価格推移を示している。「主婦の生活の変化Changes in the Lives of Housewives家庭電化製品の普及により、人々の生活は著しく変化した。とくに主婦の家事労働は軽減され、教養・娯楽への時間の増加をもたらした。The diffusion of household appliances drastically changed people's lives. In particular, housewives' housework was reduced and they had more time for learning and entertainment.」 「家事労働時間と「家事以外の時間」の1915年(大正4)→1961年(昭和36)の変化。・家事 1915年 1961年・炊事 6時間25分 2時間30分・裁縫 2時間40分 1時間01分・洗たく 1時間13分 58分・掃除 18分 1時間02分・育児 4時間05分 2時間09分・買物など1時間25分 2時間22分家事労働時間1915年 16時間06分→ 1961年 10時間02分つまり、46年間で6時間04分も減少。一方、家事以外の時間1915年 7時間54分→ 1961年 13時間58分こちらはちょうど6時間04分増加。「日本映画の隆盛The Golden Age of Japanese Cinema昭和30年代は、日本映画の黄金時代であった。最盛期の入場者数は全国で11億人を超えたが、テレビの普及やレジャーの多様化とともに減少し、閉館する映画館も続出した。The 1950s was the golden age of Japanese cinema. At its peak, the number of moviegoers exceeded 1.1 billion nationwide. However, the number declined with the spread of television and the diversification of recreational activities, leading to theclosing of many movie theaters.」 下のグラフは、映画館数(青線)と映画館の入場者数(赤線)の推移を重ねたもの。昭和30年代前半には映画人気が頂点に達し、年間映画入場者数が11億人を超えるほどでした。一方、映画館数は少し遅れて増え、1960年前後に約7,500館規模でピークを迎えたことが読み取れる。しかし、その後は両方とも急速に減少していく。戦後の「トランジスタラジオ」の登場と小型化・携帯化を示す展示。「トランジスタラジオ1951年(昭和26)、ラジオ東京が開局し、東京のラジオ放送は、NHKと民放の二本立てとなった。受信機は、真空管式ラジオが多種多様生産され、中には電池を使ったポータブルタイプのものもあった。そんな中、1954年(昭和29)にアメリカで世界初のトランジスタラジオが発売された。その翌年には、東京通信工業(現在のソニー)が、日本初のトランジスタラジオを発売し、ポータブルラジオの幕開けとなった。」 「トランジスタラジオ TR-55(複製)Transistor Radio: Sony TR55 (Replica)1955年(昭和30)東京通信工業株式会社/製作トランジスタの製造から自社で作られた、日本初のトランジスタラジオ。このラジオの前に、TR-52という製品が完成していたが、装飾のプラスチックが熱で変形してしまい、出荷できなくなっていた。」「トランジスタラジオ TR-63Transistor Radio: Sony TR631957年(昭和32)東京通信工業株式会社/製作「ポケッタブル」というキャッチフレーズで売り出された製品。しかし、ワイシャツのポケットには入らず、ポケットを少し大きくした特製のワイシャツをセールスマンに着用させ、販売したという。また、この製品は本格的な輸出1号機となった。」「トランジスタラジオ TR-610Transistor Radio: Sony TR6101958年(昭和33)ソニー株式会社/製作澤邊 弘氏/寄贈TR-63よりひと回り小型・軽量のうえ、スピーカー付きでは当時世界最小であった製品。国内よりも欧米への輸出が先であった。斬新なデザインと性能の優秀さが大評判となり、発売から2年間で、日本を含む全世界で50万台を売るヒット商品となった。」「トランジスタラジオ TR-610 チラシFlyer of Transistor Radio TR-6101959年(昭和34)ソニー株式会社/製作宮沢 司氏/寄贈」 「世界中の人気もの SONY TR-610 ¥8,000」とうたった1959年(昭和34)の広告チラシ。世界的なヒット商品となった小型トランジスタラジオの人気ぶりが伝わってくるのであった。 「T9-2 団地と電化生活」へ移る。「東京の人口増加と住宅供給の推移Tokyo's Population Growth and Housing Supply高度経済成長期の日本では、地方の中学校を卒業した若者が集団就職のため上京するなど、人口が増加した。そこで東京都や日本住宅公団は、郊外に集団住宅地を建設し、住宅難の解消に努めた。During the period of rapid economic growth, Tokyo's population grew as young people graduating from junior high schools in rural areas moved in for mass employment. Consequently, the Tokyo Metropolitan Government and the Japan Housing Corporation built collective housing facilities in the suburbs to alleviate the housing shortage.」グラフから分かること赤線が東京都の人口(万人)、青棒が住宅着工件数です。人口は、1951年(昭和26)671万人→ 1960年(昭和35)968万人→ 1965年(昭和40)1,086万人→ 1971年(昭和46)1,152万人 へと、20年間で約481万人増加。一方、住宅着工件数も、1951年 31,385件→ 1956年 60,852件→ 1960年 79,124件→ 1965年 110,317件→ 1970年 195,443件→ 1971年 207,294件 と大幅に増加。下の3枚の写真は左から、・「上野駅に到着した集団就職者」・「公団住宅への入居申し込みの様子」・「建設された都営住宅」この3枚が実に分かりやすく、地方から若者が東京へ → 人口急増 → 住宅不足 → 公団・都営住宅の大量供給という高度経済成長期の東京の変化を、一連の流れとして表しているのであった。「団地と電化生活1948年(昭和23)、東京に鉄筋コンクリート造の集合住宅「都営高輪アパート」が建設された。その後、1955年(昭和30)には日本住宅公団が設立され、三鷹市の牟礼団地、葛飾区の青戸団地などが次々と造成された。間取りは2DKが多く、ダイニングキッチン、水洗便所、さらにステンレスの流し台を導入した近代的な住宅として、多くの人々のあこがれの的となった。入居者の大半は、一定水準以上の所得がある若い世代のサラリーマンで、彼ら〈団地族〉は、洗濯機・冷蔵庫・炊飯器・トースター・テレビなどの家庭電化製品や自家用車をいちはやく購入し、現在の一般家庭にみられる生活様式の基礎を築いた。「団地生活における電化製品の普及率Penetration Rates of Electrical Appliances in Apartment Life団地の入居者は、水準以上の所得がある若い世代のサラリーマン家庭が大半であった。彼らは洗濯機や冷蔵庫、テレビなどの家庭電化製品をいち早く購入し、現在の一般家庭にみられる生活様式の基礎を築いた。」 1960年(昭和35)の普及率 電化製品 団地世帯 東京都(区部)全世帯トランジスタラジオ 22.5% 22.0%電気洗濯機 76.0% 49.2%電気炊飯器 56.0% 25.1%電気冷蔵庫 20.5% 13.7%白黒テレビ 61.1% 60.6%1960年当時の「団地族」は、単にテレビなど新しい娯楽機器を早く買ったというより、洗濯・炊飯といった日々の家事を省力化する電化製品を、一般家庭よりかなり早く生活に取り入れていたことが、この数字からよく分かるのであった。「都庁型応急簡易住宅模型(縮尺 1/30)Model of an Urban-Style Temporary Housing(Scale 1:30)1948年(昭和23)建住技術研究所/模型製作東京都が建設した応急簡易住宅。建坪は7坪(約23.17㎡)で、6畳と3畳の2室に土間という間取りであった。」 先ほどの「団地と電化生活」へ続けて見ると、応急簡易住宅 → 鉄筋コンクリートの団地 → 2DKと電化生活という、戦後の東京における住生活の変化がよく見えてき来るのであった。「汽車住宅模型(縮尺:1/30)Model of a House Built by Using Scrapped Train(Scale: 1/30)1945年(昭和20)居住技術研究所/模型製作第二次大戦後、住宅難や資材不足に見舞われたため、車両を改造して住居とする試みが行われた。国鉄からは大型の木製客車が東京都に払い下げられ、これらは住宅用に改造されたうえで都民に提供された。」終戦直後の1945年、住宅そのものを新築する資材さえ不足していたため、廃車となった木造客車を「住宅」に転用したのであった。終戦直後の深刻な住宅難のなか、国鉄から払い下げられた木造客車を住宅に改造した「汽車住宅」が実際に都民へ提供された。模型では、細長い客車内部に設けられた生活空間も再現されている。 「人口増と住宅難戦後、焦土と化した東京は国外や疎開先などから戻ってくる人々が急増する一方、建築資材の不足から慢性的な住宅不足の状態であった。そして高度経済成長期を迎えると、地方の中学校を卒業した若者が職を求めて上京し、さらに人口が増加、東京は深刻な住宅難に陥った。1955年(昭和30)に設立した「日本住宅公団」や東京都によって、集合住宅による団地の建設がすすめられるが需要には追いつかず、民間の木造賃貸アパートが各所に密集する結果となった。昭和31年度の『経済白書』には「もはや戦後ではない」と記述されたが、翌年度の『経済白書』には、住環境について「いまなお戦前水準にも到達せず」と記述された。」 高度経済成長が始まっても、住宅問題の改善は経済成長に追いついていなかったことを端的に示しているのであった。「東京都における自動車保有台数の変化Changes in the Number of Automobiles Ownership in Tokyo物資の輸送が自動車へと徐々に転換するとともに、戦前には少なかった自家用車も増え、東京は車中心の社会へと変わっていった。グラフは、オート三輪・トラック・バス・乗用車の保有台数の推移を示している。特に注目したいのは「乗用車」。・1955年(昭和30): 51,292台・1957年(昭和32): 75,332台・1959年(昭和34): 96,156台・1961年(昭和36): 188,862台・1963年(昭和38): 276,382台・1965年(昭和40): 429,001台・1967年(昭和42): 651,934台・2012年(平成24):2,701,892台1955年から1967年までのわずか12年間で、東京都の乗用車は約5万1千台から約65万2千台へ、12倍以上に急増したことになる。写真のキャプションは、「昭和40年頃の車道風景 中田和昭/撮影」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.15
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「T8-よみがえる東京」。 「T8-1 占領下のTOKYO」。 「占領下のTOKYO1945年(昭和20)8月15日正午、都民の多くは焼け跡で雑音交じりの玉音放送をかろうじて聴き取り、日本の敗戦を知った。9月に入ると占領軍は東京への進駐を開始した。人々は敗戦と占領という事態に一時は虚脱状態に陥ったが、極度の食糧難と生活物資の不足を切り抜けるため、近郊への買い出しやヤミ市へ行かざるを得なかった。ヤミ市は、8月後半に新宿に登場したのをはじめとして、都内各所の駅前に相次いで生まれた。生活必需物資を入手できる数少ないルートとして、人々は非合法手段のヤミ市に頼らざるを得なかった。ヤミ市は一時期活況を呈したが、1946年(昭和21)、新円切り替えや物価統制令により経営困難に陥り、人々の生活が安定するにつれて、やがてすがたを消していった。」 「都内のおもな接収施設Major Requisitioned Facilities in Tokyo連合国軍の進駐により、都内のさまざまな施設が、連合国軍の専用施設として転用された。これらの施設へは、日本人は立ち入ることができなかった。Under the occupation of the Allied Forces, various facilities in Tokyo were convertedinto exclusive facilities for the Allied Forces. Japanese were not allowed to enter these facilities.」右側の写真は、⑰ アーニー・パイル劇場(東京宝塚劇場)ゴダート・J・デリ―ナ/撮影⑱ GHQ本部(第一生命館)ゴダート・J・デリ―ナ/撮影⑲ TOKYO PX(松屋銀座)ゴダート・J・デリ―ナ/撮影㉓ エクスチェンジ・ホテル(東京証券取引所)ゴダート・J・デリ―ナ/撮影No. 所在地(接収時) 接収時の名称(用途) 現状 接収年月日 解除年月日 ① 千代田区 一ツ橋1丁目 GHQ EM Club(兵員クラブ) 如水会館 昭和21年5月 昭和27年7月② 千代田区 永田町2丁目 Jefferson Heights(占領軍家族住宅) 衆議院・参議院議長公邸 昭和20年12月 昭和34年3月31日③ 千代田区 霞ヶ関1丁目 Lincoln Center(占領軍家族住宅) 合同庁舎 昭和21年5月 昭和37年11月26日④ 千代田区 霞ヶ関2丁目 Finance Bldg(GHQ施設) 財務省庁舎 昭和20年9月21日 昭和30年1月/同年12月⑤ 千代田区 丸の内1丁目 Marunouchi Hotel(英連邦軍宿舎) 丸の内オアゾ 昭和20年12月10日/昭和21年10月 昭和24年7月⑥ 千代田区 丸の内2丁目 Meiji Bldg(極東空軍司令部) 明治生命館 昭和21年4月 昭和31年7月18日⑦ 千代田区 丸の内2丁目 Mitsubishi Main Bldg(占領軍婦人宿舎) 三菱ビル 昭和21年1月 昭和31年1月27日⑧ 千代田区 丸の内3丁目 Tokyo Kaikan Bldg(宿舎・クラブ) 東京會舘 昭和22年2月 昭和27年7月⑨ 千代田区 九段1丁目 Army Hall(極東空軍宿舎) 九段会館テラス 昭和20年9月 昭和32年1月7日⑩ 千代田区 九段1丁目 Nonomiya Apts(占領軍家族住宅) 北の丸スクエア 昭和21年8月 昭和25年12月⑪ 千代田区 隼町 Palace Heights(パレスハイツ・占領軍家族住宅 最高裁判所・国立劇場 昭和20年12月 昭和33年11月25日⑫ 千代田区 永田町2丁目/港区 赤坂溜池町 Sanno Apts(土官宿舎)山王パークタワー 昭和21年9月 昭和58年10月15日⑬ 千代田区 内幸町1丁目 Imperial Hotel(占領軍宿舎) 帝国ホテル 昭和20年9月 昭和27年5月⑭ 千代田区 内幸町2丁目 Radio Tokyo Bldg(GHQ民間情報教育局) 日比谷シティ 昭和20年9月 昭和28年8月⑮ 千代田区 日比谷公園 Hibiya Park/Moonlight Garden(公園・酒場など) 日比谷公園 昭和20年12月 昭和26年9月⑯ 千代田区 日比谷公園 Tokyo Bowl(野外ホール) 日比谷野外音楽堂 昭和20年12月 昭和26年9月⑰ 千代田区 有楽町1丁目 Ernie Pyle Theater(アーニー・パイル劇場) 東京宝塚劇場 昭和20年12月 昭和30年1月27日⑱ 千代田区 有楽町1丁目 Dai ichi Building(GHQ本部) 第一生命日比谷ファースト 昭和20年9月 昭和27年7月⑲ 中央区 銀座3丁目、2丁目 Tokyo Main PX(占領軍売店) 松屋銀座 昭和20年9月 昭和27年9月10日⑳ 中央区 銀座4丁目 PX(占領軍売店) 銀座和光 昭和20年10月10日 昭和27年4月㉑ 中央区 築地5丁目 GHQ Laundry(洗濯工場) 中央卸売市場(現存せず) 昭和20年12月 昭和30年3月31日㉒ 中央区 日本橋1丁目 Riverview Hotel(極東空軍宿舎) 日本橋野村ビルディング 昭和20年10月 昭和27年10月20日㉓ 中央区 日本橋兜町1丁目 Exchange Hotel(占領軍宿舎) 東京証券取引所 昭和21年6月 昭和27年1月/同年12月23日㉔ 中央区 明石町 49th General Hospital(陸軍病院 ) 聖路加国際病院 昭和20年9月 昭和31年5月25日㉕ 新宿区 霞ヶ丘町 Stateside Park(ステートサイドパーク・球場) 神宮球場 昭和20年9月18日 昭和27年3月31日㉖ 新宿区 霞ヶ丘町 Nile Kinnick Stadium(ナイル・キニック・スタジアム)国立競技場 昭和20年9月18日 昭和27年3月31日 GHQ本部(第一生命館)(ネットから)。「降伏文書(複製)」。 「降伏文書(複製)Capitulation1945年(昭和20)9月2日原資料 外務省外交史料館所蔵1945年7月26日、米国・英国・中華民国首脳により、全日本軍の無条件降伏等を求めた「ポツダム宣言」が日本政府宛に発せられた。その後、米軍による広島・長崎への原子爆弾による攻撃、ソ連軍の満州国侵攻(日ソ中立条約破棄)に衝撃を受けた日本政府は8月14日、御前会議を経てポツダム宣言の受諾を決定し、終戦の詔勅が発せられた。同月16日には陸海軍停戦命令が下り、9月2日、米軍戦艦ミズーリ上で日本と連合国の間で休戦協定の調印が行われた。」 「INSTRUMENT OF SURRENDERWe, acting by command of and in behalf of the Emperor of Japan, the JapaneseGovernment and the Japanese Imperial General Headquarters, hereby acceptthe provisions set forth in the declaration issued by the heads of the Governments ofthe United States, China and Great Britain on 26 July 1945, at Potsdam, andsubsequently adhered to by the Union of Soviet Socialist Republics, which fourpowers are hereafter referred to as the Allied Powers.We hereby proclaim the unconditional surrender to the Allied Powers of the JapaneseImperial General Headquarters and of all Japanese armed forces and all armed forcesunder Japanese control wherever situated.We hereby command all Japanese forces wherever situated and the Japanese people to cease hostilities forthwith, to preserve and save from damage all ships, aircraft, andmilitary and civil property and to comply with all requirements which may be imposedby the Supreme Commander for the Allied Powers or by agencies of the Japanese Government at his direction.We hereby command the Japanese Imperial General Headquarters to issue at onceorders to the Commanders of all Japanese forces and all forces under Japanese control wherever situated to surrender unconditionally themselves and all forces undertheir control.We hereby command all civil, military and naval officials to obey and enforce allproclamations, orders and directives deemed by the Supreme Commander for the Allied Powers to be proper to effectuate this surrender and issued by him or under his authority and we direct all such officials to remain at their posts and to continueto perform their non-combatant duties unless specifically relieved by him or under his authority.We hereby undertake for the Emperor, the Japanese Government and their successorsto carry out the provisions of the Potsdam Declaration in good faith, and to issuewhatever orders and take whatever action may be required by the Supreme Commander for the Allied Powers or by any other designated representative of the Allied Powersfor the purpose of giving effect to that Declaration.We hereby command the Japanese Imperial Government and the Japanese ImperialGeneral Headquarters at once to liberate all allied prisoners of war and civilian interneesnow under Japanese control and to provide for their protection, care, maintenance and immediate transportation to places as directed.The authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall besubject to the Supreme Commander for the Allied Powers who will take such steps ashe deems proper to effectuate these terms of surrender.Signed at TOKYO BAY, JAPAN at 0904 I on the SECOND day of SEPTEMBER 1945.[Shigemitsu Mamoru]By Command and in behalf of the Emperor of Japan and the Japanese Government.[Umezu Yoshijiro]By Command and in behalf of the Japanese Imperial General Headquarters.Accepted at TOKYO BAY, JAPAN at 0908 I on the SECOND day of SEPTEMBER, 1945,for the United States, Republic of China, United Kingdom and the Union of Soviet Socialist Republics, and in the interests of the other United Nations at war with Japan.DOUGLAS MACARTHURSupreme Commander for the Allied Powers.C. W. NIMITZUnited States Representative[Hsu Yung-Chang]Republic of China RepresentativeBRUCE FRASERUnited Kingdom Representative[Lieutenant-General K. Derevoyanko]Union of Soviet Socialist Republics RepresentativeT. A. BLAMEYCommonwealth of Australia RepresentativeL. MOORE COSGRAVEDominion of Canada RepresentativeLE CLERCProvisional Government of the French Republic RepresentativeC. E. L. HELFRICHKingdom of the Netherlands RepresentativeL. M. ISITTDominion of New Zealand Represetative」 『下名ハ茲ニ合衆國、中華民國及「グレート、ブリテン」國ノ政府ノ首班ガ千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ發シ後ニ「ソヴィエト」社会主義共和國聯邦ガ參加シタル宣言ノ條項ヲ日本國天皇、日本國政府及日本帝國大本營ノ命ニ依リ且之ニ代リ受諾ス右四國ハ以下之ヲ聯合國ト稱ス下名ハ茲ニ日本帝國大本營竝ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本國軍隊及日本國ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ聯合國ニ對スル無條件降伏ヲ布告ス下名ハ茲ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本國軍隊及日本國臣民ニ對シ敵對行爲ヲ直ニ終止スルコト、一切ノ船舶、航空機竝ニ軍用及非軍用財產ヲ保存シ之ガ毀損ヲ防止スルコト及聯合國最高司令官又ハ其ノ指示ニ基キ日本國政府ノ諸機關ノ課スベキ一切ノ要求ニ應ズルコトヲ命ズ下名ハ茲ニ日本帝國大本營ガ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本國軍隊及日本國ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ指揮官ニ對シ自身及其ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ガ無條件ニ降伏スベキ旨ノ命令ヲ直ニ發スルコトヲ命ズ下名ハ茲ニ一切ノ官廳、陸軍及海軍ノ職員ニ對シ聯合國最高司令官ガ本降伏實施ノ爲適當ナリト認メテ自ラ發シ又ハ其ノ委任ニ基キ發セシムル一切ノ布告、命令及指示ヲ遵守シ且之ヲ施行スルコトヲ命ジ竝ニ右職員ガ聯合國最高司令官ニ依リ又ハ其ノ委任ニ基キ特ニ任務ヲ解カレザル限リ各自ノ地位ニ留リ且引続キ各自ノ非戦闘的任務ヲ行フコトヲ命下名ハ茲ニ「ポツダム」宣言ノ條項ヲ誠實ニ履行スルコト竝ニ右宣言ヲ實施スル爲聯合國最高司令官又ハ其ノ他特定ノ聯合國代表者ガ要求スルコトアルベキ一切ノ命令ヲ發シ且斯ル一切ノ措置ヲ執ルコトヲ天皇、日本國政府及其ノ後繼者ノ爲ニ約ス下名ハ茲ニ日本帝國政府及日本帝國大本營ニ對シ現ニ日本國ノ支配下ニ在ル一切ノ聯合國浮虜及被抑留者ヲ直ニ解放スルコト竝ニ其ノ保護、手當、給養及指示セラレタル場所ヘノ卽時輸送ノ爲ノ措置ヲ執ルコトヲ命ズ天皇及日本國政府ノ國家統治ノ權限ハ本降伏條項ヲ實施スル爲適當ト認ムル措置ヲ執ル聯合國最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス千九百四十五年九月二日午前九時四分日本國東京灣上ニ於テ署名ス大日本帝國天皇陛下及日本國政府ノ命ニ依リ且其ノ名ニ於テ 重 光 葵日本帝國大本営ノ命ニ依リ且其ノ名ニ於テ 梅 津 美 治 郎千九百四十五年九月二日午前九時八分日本國東京灣上ニ於テ合衆國、中華民國、聯合王國及「ソヴィエト」社會主義共和國聯邦ノ爲ニ竝ニ日本國ト戦争状態ニ在ル他ノ聯合諸國家ノ利益ノ爲ニ受諾ス聯 合 國 最 高 司 令 官 ダグラス、マックアーサー合 衆 國 代 表 者 シー、ダブリュー、ニミッツ中 華 民 國 代 表 者 徐 永 昌聯 合 王 國 代 表 者 ブルース、フレーザー「ソヴィエト」社會主義共和國聯邦代表者 クズマ、エヌ、チェレヴィヤンコ「オーストラリア」聯邦代表者 ティー、ユー、ブレーミー「カ ナ ダ」 代 表 者 エル、コスグレーブ「フ ラ ン ス」 國 代 表 者 ジャック、ルクレルク「オ ラ ン ダ」 國 代 表 者 シェルフ、ヘルフリッヒ「ニュー、ジーランド」代表者 エス、エム、イシット』【日本の降伏文書われわれは 天皇陛下のご命令のもと、また陛下と、日本政府と、大本営の代理人として、ここにおいて、米国、中国、イギリスのそれぞれの政府の代表たちがポツダムにおいて1945年7月26日に発した規定と、その後にソビエトが付け加えた条項を受諾し、今後は、この4強を、連合国軍とみなす。われわれはここに、日本帝国大本営と、すべての日本の武装勢力と、日本の支配下にあるすべての場所における武装勢力について、改めて、連合国軍への無条件降伏を行う。われわれはここに、あらゆる場所におけるすべての日本の武装勢力と日本国民に対し、すべての船や、飛行機や、軍と市民の財産が被害を免れて保存されるために、さらに連合国最高司令官や司令部から日本政府へ下される、すべての要求に従うために、直ちに敵対行為をやめるように命ずる。われわれはここに、大本営に対し、すべての日本の武装勢力と、日本の支配下にあるすべての場所における武装勢力に対して、直ちに自らと自らが指揮する武装勢力に無条件降伏をさせるよう、命令を下すように発布する。われわれはここに、すべての市民(ここでは非武装の国民を指す)、陸軍と海軍の将校に対し、この降伏を有効なものとするために連合国軍最高司令官や、彼や彼の当局者から発されたと思われるあらゆる命令に従い、これを進めるように命ずる;さらにわれわれは、彼(連合国軍最高司令官)や彼の当局者から特別な指示がない限りは、すべての将校が持ち場に残って非武装義務を果たすことを指導する。われわれはここに、天皇陛下と、日本政府と、(以降の文言は「後継政府」にかかっている)ポツダム宣言の規定を忠実に実行することとなる予定であり、連合国軍最高司令官や、連合国軍から任命されたほかの代表者からこの宣言を有効なものとするために出されるいかなる指示にも従い、どんな行動を要求されても引き受けることとなる後継政府の代理となって請け負う。われわれはここに、日本帝国政府と、大本営に対し、日本の支配下におけるすべての連合国軍の捕虜と監禁されている非武装市民を解放し、彼らに保護を与え、面倒を見て、世話をし、指示された場所にすみやかに送り届けるように命ずる。天皇陛下と日本政府が日本を統治する権限は、この降伏の条件を達成するための適切な手段を彼の判断によって実行することとなる、連合国軍最高司令官に従属するべきものとする。1945年9月2日 9時4分、日本の東京湾にて署名された。大日本帝国天皇陛下と日本国政府の命によりかつその名において重光 葵日本帝国大本営の命によりかつその名において梅津 美治郎1945年9月2日 9時8分、日本の東京湾にて、アメリカ、中国、イギリス、ソビエト、そして日本と交戦中であったほかの連合国の権限において、受理された。連合国最高司令官 ダグラスマックアーサー合衆国代表者 シー、ダブリュー、ニミッツ中華民国代表者 徐永昌連合王国代表者 ブルース、フレーザー「ソヴィエト」社会主義共和国連邦代表者 クズマ、エヌ、ヂェレヴィヤンコ「オーストラリア」連邦代表者 ティー、ユー、ブレーミー「カナダ」代表者 エル、コスグレーブ「フランス」国代表者 ジャック、ルクレルク「オランダ」国代表者 シェルフ、ヘルフリッヒ「ニュー、ジーランド」代表者 エス、エム、イシット】Signed at TOKYO BAY, JAPAN at 0904on the SECOND day of SEPTEMBER, 1945.日本側:Mamoru Shigemitsu(重光 葵)By Command and in behalf of the Emperor of Japan and the Japanese Government.Yoshijiro Umezu(梅津 美治郎)By Command占領期の道路標識とコンクリート製の支柱。「ROUTE2 TOKYO」と。「占領期(GHQ統治下)に指定された「Route 2」は、「千葉県銚子市」から「東京都(都心部)」を経由して「神奈川県(横浜・横須賀方面)」へ至る幹線道路です。当時の米軍(連合国軍)は、日本国内の主要な移動・輸送用道路に英数字のルート番号を独自に割り振っていました。この米軍ルート体系における「Route 2」は、現在の国道14号(千葉街道・京葉道路)および国道15号(第一京浜)に相当する区間を中心に構成されていました。 なお、江戸東京博物館に展示されている標識(ROUTE 2 TOKYO)は、かつて東京都江戸川区の江戸川交差点(国道14号と蔵前橋通りの交差部)付近に設置されていた実物」とネットから。 「占領下の道路標識昭和20年代前半(1945~49年)占領軍が設置した英語の道路標識である。占領軍は皇居を中心に放射状にAからE、環状に1から順に記号や番号を付していたが、軍事上重要な国道には、別にルート番号を付していた。ルート2は現在の国道14号線、20号線にあたる。この標識は江戸川区北小岩に残っていたものである。」 「GHQと戦後改革1945年(昭和20)9月2日、東京湾内のアメリカ軍艦ミズーリ号上において降伏文書が調印され、日本は連合国の占領下に置かれた。9月8日、占領軍は東京に進駐し、10月には、マッカーサー元帥を最高司令官とする連合国(軍)最高司令官総司令部(GHQ)が、日比谷の第一生命館(現在の第一生命日比谷ファースト)に設置された。GHQは直接軍政をしかず、日本政府に指令・勧告する間接統治の方法をとり、東京都の行政も軍政府による厳しい監視下に置かれた。GHQは当初、日本の非軍事化と民主化を目標に、女性の解放、労働組合の育成、教育の民主化、自由を制限する諸制度の廃止、財閥解体・経済の民主化を日本政府に指示した。一方、プレスコード(新聞編集綱領)が発せられ、占領政策の批判を禁止するなど、さまざまな統制も行われた。人々は空襲の恐怖がなくなってホッとすると同時に、敗戦の惨めさを味わった。そして、占領軍による民主化政策の意義を実感するには、なおしばらくの時間を必要とした。」 「生活物資の支援Assistance in the Form of Daily Commodities1946年(昭和21)から1952年にかけて、アメリカの宗教団体や労働団体などによって結成された「アジア救済公認団体」は、日本に対して食料や衣料などの生活物資の支援を行った。この物資は「ララ物資」と呼ばれ、多くの人々の暮らしを支えた。※ Licensed Agencies for Relief in Asia 通称LARAFrom 1946 to 1952, the “Licensed Agencies for Relief in Asia” (LARA), formed by American religious and labor organizations, provided Japan with food, clothing, and other daily commodities. These supplies, known as “LARA supplies,” supported the lives ofmany people.」写真キャプション・医薬品、文房具、石鹸などの日用品も送られた。・在留邦人も物資の発送準備などに協力した。・届いた物資の缶詰を手にする子供たちララ救援物資受け入れ状況救援物資のうち圧倒的に多かったのはミルク・缶詰などの食料で、衣料がそれについだ。・1946年(昭和21) 412.09t・1947年(昭和22) 2,667.22t・1948年(昭和23) 3,631.98t・1949年(昭和24) 2,942.54t・1950年(昭和25) 2,557.16t・1951年(昭和26) 2,112.79t・1952年(昭和27) 805.16t物資の分類は、食料/衣料/医薬品/靴/石鹸/原反(加工していない布地)/綿/その他「ララ救援物資LARA relief supplies戦後、空襲による被災、物資不足等で疲弊する日本に向けて、1946年(昭和21)11月、アメリカの民間団体、アジア救援公認団体(LARA)から、食糧、衣料品、日用品、医薬品などの救援物資が大量に届けられた。LARAの設立にはサンフランシスコ在住の浅野七之助を中心とする在米日系人の献身的な努力があった。その活動に、滞日経験のある牧師らが協同して公認団体の認可をとった。衣料品は洗濯、つくろい後、靴も修繕してから荷積みされた。援助は52年まで続いた。この他、ユニセフ等も救援活動を行った。」 「幼児服 つなぎとキャップ(ララ物資)」 「幼児服 つなぎとキャップ(ララ物資)Infant's wear : overall and a cap(LARA relief supplies)[1950年(昭和25)]水野 悠子氏寄贈水野家には、当時2~3歳の男児にぴったりの衣料が支給された。写真も残っている。鮮やかなブルーの衣料は、カーキ色やくすんだ色の衣服が多い街中で、ひときわ目立った。」LARA は、Licensed Agencies for Relief in Asiaの略称。日本語では、展示パネルにあるように 「アジア救援公認団体」 と訳されています。単語ごとに見ると、Licensed = 公認されたAgencies = 団体・機関for Relief = 救援のためのin Asia = アジアにおける という意味であると。 「ヤミ市の成立と変遷1945年(昭和20)9月のはじめ、新聞に「光は新宿より」をキャッチフレーズにした新宿マーケットの広告が載った。敗戦直後、空襲で焼け野原となっていた駅前に誕生したヤミ市は、最初は露天の上にゴザや新聞紙を敷いたり、戸板の上に鍋・包丁・衣類などの生活用品を並べたりしていた。10月ころまでに、新橋、上野、銀座、新宿、渋谷など都内各所の駅前に、大きなヤミ市ができた。これらの多くは、戦時中の建物疎開の跡地を不法占拠したものであった。10月16日には東京都露天商同業者組合が設立され、露天商の統制、違反者の取り締まりを行い、自治までも取り仕切った。このころのヤミ市は戦後の市政の混乱のなかで、ただ一つ秩序を呈していた場所であり、食料の市売としては、生活必需物資を入手するための数少ないルートの一つであった。1950年(昭和25)には、占領軍の指令を受け東京都に露店整理委員会が設置され、都内のおもな駅前のヤミ市は、昭和20年代後半にはすがたを消すこととなった。」 「ヤミ市の分布Distribution of the Black Markets新宿や上野、渋谷など主要な駅の焼け跡に、生鮮食料品や生活物資などを販売するヤミ市が誕生した。とりあつかわれた品々は、公定価格を上回っていたが、人々の暮らしの支えとなった。Black markets selling fresh food and daily commodities sprang up in the burnt ruins of major train stations such as Shinjuku, Ueno, and Shibuya. Although the prices of the goods were higher than the official prices, they supported people's daily lives.地図1949年~50年(昭和24~25年)ころのヤミ市のおもな範囲凡例● ヤミ市― 国鉄― 私鉄ヤミ市には、道路上に出ている「露店」と建物に店舗をもつ「マーケット」があった。写真キャプション・右上 大きなものの上野のヤミ市 1946年(昭和21) 毎日新聞社 提供・右中央 新宿のマーケット 1945年(昭和20) 毎日新聞社 提供・右下 新橋のヤミ市 1946年(昭和21) 毎日新聞社 提供・中央下のカラー写真 露天のアメリカ兵 1945年(昭和20) ジュネーブ・フェーレイス撮影」ヤミ市が新宿・渋谷・上野・池袋などの大きな駅だけではなく、鉄道路線に沿って郊外の駅前にまで広く分布していたことがよく分かるのであった。 「銀座 ある露店商の一日Ginza: A Day in the Life of a Street Vendor銀座三丁目から八丁目にかけて、銀座通り(中央通り)には古くから多くの露店が出ていた。しかし1949年(昭和24)、総司令部は公道上にある露店を整理するよう指示し、1951年の大みそかに銀座の露店は姿を消した。Between Ginza 3-chōme to 8-chōme, Ginza-dōri (Chūō-dōri) had long been home tomany street vendors. However, in 1949, the General Headquarters (GHQ) ordered to shut down the stalls on public streets, and the street vendors in Ginza disappeared on New Year's Eve in 1951.」 写真キャプション一日の流れを「朝・昼・夕・夜」で追った構成に。中央には 朝 昼 夕 夜・一切を台車にのせて・組合に集まり開店の準備・店を張るのはなれたもの・隣同士むつまじく・お客様には愛想よく・一家そろって食後のひととき・わが子が店へ・銀座のメインストリートも夜9時ともなれば閑散となった最下部の出典は、牧田仁/撮影 東京都臨時露店対策部『露店』(東京都 1952年)戦後の銀座に立ち並んだ露店を再現した模型。大きな建物の足元や通り沿いには小さな店が軒を連ね、現在の銀座からは想像しにくい終戦直後の街の姿が再現されているのであった。「占領期東京の工業生産Industrial Production in Occupied Tokyo1947年(昭和22)から1952年の間、日本からの輸出品には「MADE IN OCCUPIED JAPAN(占領下日本製)」という刻印を入れることが義務づけられた。これらの製品は、外貨を獲得するのに貢献し、日本経済の発展の足掛かりとなった。Between 1947 and 1952, exports from Japan were required to bear the stamp “MADE IN OCCUPIED JAPAN”. These products contributed to the acquisition of foreigncurrency andserved as a stepping stone to the development of the Japanese economy.」おもな製造業の出荷総額の推移MADE IN OCCUPIED JAPAN(占領下日本製)1947-19521949年(昭和24) 0.6億円1950年(昭和25) 0.9億円1951年(昭和26) 2.7億円1952年(昭和27) 3.1億円1953年(昭和28) 4.1億円1954年(昭和29) 4.4億円1955年(昭和30) 4.7億円1956年(昭和31) 6.3億円1957年(昭和32) 7.6億円1958年(昭和33) 7.4億円1959年(昭和34) 9.4億円1960年(昭和35) 12.0億円【業種】繊維工業化学工業窯業、土石製品製造業鉄鋼業金属製品製造業電気機械製造業精密機械器具製造業その他の製造業 おもな製造業の工場数の推移MADE IN OCCUPIED JAPAN(占領下日本製)1947-19521949年(昭和24)~1960年(昭和35)の各製造業の工場数の推移を示したグラフ。右側の展示品・コニカⅠ 刻印:MADE IN OCCUPIED JAPAN・丸皿 裏面:Made in Occupied Japan・磁器製の人形「焼夷弾の尾翼を加工した電熱器」戦争のためにつくられた焼夷弾の部品が、終戦後の物資不足のなか、日々の暮らしを支える生活用品へと姿を変えた。「焼夷弾の尾翼を加工した電熱器Electric Heater Made Using the Tail Unit ofan Incendiary Bomb1945年(昭和20)佐藤正明氏/寄贈現在の北区王子にあった陸軍造兵廠に勤めていた人物が、1945年4月13日の空襲で投下されたM17収束焼夷弾の尾翼を拾い、電熱器に加工したもの。」 「鋳物鍋A pan made of duralumin1945~46年(昭和20~21)長谷部数子氏/寄贈戦後まもなく、新橋のヤミ市で10円で購入したもの。煮物をはじめ、さまざまな調理に用いられた。昭和20年代後半からは、ほかに良い鍋が出回ったので、多摩川でひろった小石を入れ、ヤキイモ作りに使用された。」 「復興への道のり戦後、米などの食料の配給制度は維持されたが、米の凶作により、遅れて配られたり、配られなかったりしたために、人々は食糧難に苦しんだ。また、紙幣の発行が急激に増えたためにインフレーションが起き、物価が上昇した。さらに工業製品の生産も規制されるなかで、司令部より許可された製品を製造し、輸出することで外貨を獲得した。その後、工業製品の生産に関する規制は徐々に解除され、輸出できる品目も増加し、しだいに国内の産業が活性化した。不況に苦しんでいた日本の経済は好転し、1955年(昭和30)から高度経済成長期に入り、翌年の「経済白書」には「もはや戦後ではない」と記述された。戦後焼け野原と化してしまった東京は驚異的な速さで復興を遂げ、巨大都市へと大きく成長した。」 「米つき棒A tool to polish rice昭和20年代高岡 清氏/寄贈ビンに入れた米をついて精米するのに用いた道具で、戦後ヤミ市で購入したもの。いろいろな大きさのビンでも米がつけるように、調節用のストッパーがついている。」 「陶器皿 草花文A ceramics saucer長谷部数子氏/寄贈資料は1946年(昭和21)に、大井町駅前のマーケットで購入したもので、コーヒーカップの受け皿として使用していた。」 「メイド・イン・オキュパイド・ジャパンの製品Products of made in occupied Japan連合国は日本を占領すると、国内のあらゆる活動に統制を加えた。工業製品の生産も例外ではなく、軍事や先端科学技術に関する製品の生産は厳しく規制された。そのなかで、許可を受けた品目から生産を再開。輸出による外貨の獲得も部分的に解禁された。その際の生産国表示には、“Made in occupied Japan”(占領された日本の製品)という表示が義務づけられた。この表示での輸出は、1946年(昭和21)から51年(昭和26)までの5年間にわたった。」 「占領下日本製 柱時計」。・木製の縦長ケースをもつ振り子式の柱時計・文字盤にはアラビア数字・文字盤中央下には 「EIKEISHA」 と読める商標・下部のガラス越しに振り子が見える・説明板によれば昭和20年代、栄計舎製・輸出用に製造・販売された製品・文字盤下部に 「Made in Occupied Japan」 の記載がある と。「占領下日本製 柱時計(Made in Occupied Japan)Grandfather Clock Manufactured in Japanduring the Occupation昭和20年代栄計舎/製造山岡芳江氏/寄贈輸出用に製造・販売された柱時計。文字盤下部に「Made in Occupied Japan」の記載がある。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.14
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「T7-2 東京大空襲」。 「B29による焼夷弾攻撃👈️リンクIncendiary Bomb Attack by B29B29はアメリカのボーイング社が開発した大型の爆撃機で、大量の爆弾を搭載することが可能であった。当初は通常爆弾を用いた軍事施設などを目標とした通常爆撃による攻撃であったが、のちに戦略爆撃へと転換され、市街地への無差別爆撃に切り替えられた。そのために開発されたものが、M69焼夷弾である。」 M69集東焼夷弾を分解すると。全長約50cm、重さ約2.7kg。一見すると小さな筒のような形をしていますが、その内部には「ナパーム」と呼ばれるゼリー状に加工されたガソリン(燃焼剤)が充填されていた「M69焼夷弾の簡単解説」をネットから。① B29から投下される主に500ポンド爆弾と同じぐらいの大きさに沢山のM69焼夷弾が梱包されているこの沢山纏めた爆弾を資料を見ると作戦によって搭載量が違ったりしているけど大体30発近く積んでいる(中に48発も搭載したものも)② 空中で分離広範囲に被害を与えるために空中で割れてばら撒く。そして中には約40本のM69焼夷弾が入っているのでこれが広範囲に落ちてくる(E46という爆弾だとM69焼夷弾が48本搭載)補足 リボン(ストリーマー)が展開日本の屋根を貫通し家屋内で発火するように速度を程よく落す為に後ろにリボン(ストリーマー)が付いている。これに火が付くとまるで火の雨が降ってるように見える。【補足】構造爆弾の先にTNT爆薬と信管真ん中に袋に入ったナパーム後ろはストリーマーが付いてる〔図中〕・ストリーマー・ナパーム・TNT爆薬・信管④ 炸裂地面に到達すると信管が作動して爆弾内のTNT爆薬が爆発して中のナパームを撒き散らす。〔図中の注記〕地面などに刺さらない場合は本体が飛んでくるのでとても危ないちなみに信管は約5秒で作動。※画像では**「③」表記が見当たらず、「②」の次が「④ 炸裂」**になっている。「東京大空襲1944年(昭和19)サイパン島が崩落すると、アメリカ軍による日本本土への本格的な空襲が開始され、東京をはじめとする都市が戦場になった。米軍が新たに開発した戦略爆撃機B29による〈東京空襲〉は、1945年(昭和20)を迎えると昼夜休みなく熾烈をきわめ、東京を焼土と変えていった。市街地の5割強が焼失し、罹災者はおよそ300万人、空襲・戦災による死者は11万人を越えた。そして、太平洋戦争開戦時に約700万人だった東京区部の人口は、終戦時には約240万人に激減した。関東大震災から20年余り、その打撃から復興して世界有数の大都市となっていた〈帝都〉東京は、戦争によって壊滅状態となり、都民に深刻な惨禍をもたらした。」 「空襲で折れ曲がった鉄骨」。 「空襲で折れ曲がった鉄骨」に近づいて。 「空襲で折れ曲がった鉄骨1945年(昭和20)3月10日再び許すな東京大空襲 下町反戦の集い実行委員会/寄贈1983年(昭和58)に解体された浅草国際劇場の天井裏で見つかり、多聞寺(墨田区)に保管されていた鉄骨である。国際劇場は1945年3月10日未明の空襲の際、直撃弾を受け天井の大部分が焼け落ちたが、壁に近い部分の鉄骨は残った。戦後国際劇場は復旧されたが、物資不足のため、この折れ曲がった鉄骨をそのまま利用して、その上に屋根を組み上げていた。」 「黒焦げの電柱(複製)」。 「黒焦げの電柱(複製)1945年(昭和20)3月10日宮田栄次郎氏/寄贈(原資料)台東区三筋1-13の交差点角に立っていた電柱で、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲で被災したものである。高さは本来7mほどあったが、焼けて半分ほどになってしまった上に、黒く炭化してしまった。戦後は街路灯として使用されていたが、付近の交通が頻繁になり撤去することになった。しかし、空襲の記憶を語り継ぐ資料として現地保存されていた。1995年(平成7)、当館に収蔵された。」 「爆弾の破片東京都 所蔵」 「爆弾の破片東京都 所蔵空襲で投下されたM64 500ポンド(約250kg)爆弾の破片。市街地での空襲に焼夷弾とともに投下されていた。この爆弾は東郷神社(渋谷区)近くの工事で出土したものとされる。」「無差別爆撃1944年(昭和19)6月、中国大陸の基地から発進したB29爆撃機による最初の本土空襲が、北九州八幡の製鉄所を目標に行われた。やがて太平洋のサイパン島、グアム島などが陥落し、そこに前線基地が建設されると、東京もB29の空襲圏内に入った。1944年(昭和19)11月、B29の編隊による東京空襲がはじまった。はじめは軍事工場を目標とする昼間の爆弾攻撃が主であったが、1945年3月に入ると、町工場の点在する市街地を目標とした夜間の焼夷弾無差別攻撃に変わった。投下される焼夷弾は、防空訓練で想定したものよりはるかに強力で、かつ膨大な量であった。」 「「東京空襲・戦争の記憶を語る」の端末にて東京大空襲をはじめ戦時生活を体験された方々の証言映像をご覧いただけます。7F 図書室/映像ライブラリー」 集束焼夷弾(しゅうそくしょういだん)に関する実物資料展示。「集束焼夷弾のベルトBand of an E46 incendiary cluster大野校雄氏/寄贈」下部の半球状の資料:「集束焼夷弾の弾頭Cap of an E46 incendiary cluster松岡 明氏/寄贈この弾頭は、1945年(昭和20)5月の山の手地域を襲った空襲の際に、寄贈者宅を直撃したものである。」 「焼夷弾の弾筒Pipe of an incendiary cluster」「弾筒(だんとう)」とは、焼夷弾を構成する筒状の金属部分を指す。写真中央と右側にある太い円筒状の資料がそれに当たる。右側の焼夷弾の弾筒には赤い紙が巻かれ、墨書が残されている。空襲後、この焼夷弾の由来や被災の状況などを記録するために書き加えられたものと思われる。 左「機銃弾が貫通した鉄橋の一部」 A bullet hole from machine-gun fire found on an iron bridge1945年(昭和20)八木橋淑夫氏/寄贈鶴見線の鉄橋に残っていた機銃掃射の弾痕。旧国鉄の職員だった寄贈者が見つけて保管していた。米軍の艦載機やB29の護衛機による機銃掃射は鉄板を容易に貫く威力があり、その犠牲になった方も少なくない。写真の鉄板に開いている穴が、まさに機銃弾が貫通した痕跡。赤い塗装が残った鉄板に複数の弾痕があり、戦争の生々しさを伝える資料。」右「M50 テルミット・マグネシウム焼夷弾M50 incendiary cluster奥住喜重氏/寄贈」 「空襲の惨禍木造家屋が密集する東京の下町地域は、焼夷弾攻撃により、さながら煉獄のように燃え、またたく間に大火災に包まれた。B29の搭乗員は、燃えさかる炎の明るさで、2万フィート(約6千メートル)の高度にいても腕時計の文字盤が読めたと報告している。空襲後の焼け跡には、いたるところに焼死体が折り重なっていた。炎による焼死だけではなく、煙による窒息死、川や掘割に飛び込んで溺死・凍死した例も多くみられた。また、飛来する戦闘機の機銃掃射による被害も少なくなかった。1945年(昭和20)3月10日未明の東京下町の大空襲では、一夜にしておよそ10万人が犠牲となった。 とくに被害を大きくした理由として、米軍の圧倒的な焼夷弾攻撃と、木造家屋の密集、折からの強風という悪条件に加え、当時は防空法によって戦時下で避難する行為が禁じられていたことなどがあげられる。」 「東京大空襲をはじめ戦時生活を体験された方々の証言映像」の一場面。東京大空襲の惨状を伝える記録映像。画面には、空襲によって命を奪われた多くの人々の姿が映し出され、戦争が一般市民にもたらした被害の大きさを物語っていた。「東京空襲焼失区域地図」。Map of areas destroyed by fires of the Tokyo air raids(東京空襲による焼失区域地図)スタートボタンを押して下さい。Please press the button.右側には、模型上で焼失区域を確認できる空襲の日付が並んでいます。・昭和20年2月25日 February 25, 1945・昭和20年3月 4日 March 4, 1945・昭和20年3月10日 March 10, 1945・昭和20年4月14日 April 14, 1945・昭和20年4月15日 April 15, 1945・昭和20年5月24日 May 24, 1945・昭和20年5月25日 May 25, 1945「東京空襲焼失区域地図」の操作盤。スタートボタンを押すと、これら7回の主要な東京空襲について、日付を追いながら焼失区域が模型上に表示される仕組みになっていた。アメリカ軍の東京空襲による区部の焼失地域を日別に表示したもの」という「日別」が、この操作盤を見ると非常によく理解できるのであった。「東京空襲焼失区域地図縮尺:1/15,0001945年(昭和20)2月から5月まで、東京の市街地は、B29による無差別爆撃をうけ、焦土と化した。なかでも3月10日未明の大空襲は、一夜にして10万人の命を奪った。5月までに、空襲の目標は、東京北部、山の手地区、南部地区に移り、5月25〜26日の空襲以降は、多摩地域が爆撃目標とされた。この模型は、「防衛用白地図 4万分の1帝都近傍図」をもとに、アメリカ軍の東京空襲による区部の焼失地域を日別に表示したものである。焼失区域は、1945年10月に第一復員省が作成した「全国主要都市戦災概況図」によった。」 ネットから。昭和20年3月10日 March 10, 1945👈️リンク・昭和20年4月15日 April 15, 1945赤が焼失地域。・昭和20年5月25日 May 25, 1945ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.13
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「風船爆弾用 機械漉き生紙ロール」。風船爆弾(ふうせんばくだん)を製造するための材料となった機械漉き(きかいすき)の生紙ロール。「風船爆弾用 機械漉き生紙ロールManufacturing paper for balloon bombs1944~45年(昭和19~20)平塚悦子氏/寄贈」 「風船爆弾(復元模型)」👈️リンク。この模型は、第二次世界大戦末期に日本軍が開発した風船爆弾(ふうせんばくだん)を復元したもの。・気球部 ・直径約10メートルの巨大な気球。 ・楮(こうぞ)を原料とした和紙を、こんにゃく糊で何層にも貼り合わせて作られた。 ・水素ガスを充填し、高度約1万メートルを流れる偏西風を利用してアメリカ本土を目指した。 ・吊り索(つりさく)・気球から多数のロープが伸び、重量を均等に支えている。 ・実物では約30本前後の吊り索でゴンドラを支えていた。・ゴンドラ(中央下) ・円形の装置には爆弾や焼夷弾、砂袋などが取り付けられていた。 ・砂袋は高度を一定に保つための「重り」で、夜間に高度が下がると自動装置が砂袋を 一つずつ切り離し、再び上昇する仕組みであった。・自動装置 ・昼夜の気温変化による高度の変化を利用し、 ・高度が下がれば砂袋を投下、・砂袋がなくなると爆弾を投下し、 ・最後は気球を自爆させるよう設計されていた。展示説明にもあるように、この模型は・気球部分:約1/5・ゴンドラ部分:約1/2縮尺で復元されたもの。イラストをネットから。・紙製本体:直径約10メートルの巨大な気球。・麻縄19本:気球本体とゴンドラをつなぐ吊り索。実物も19本で支えられていた。・高度維持装置:気圧計を利用した自動装置で高度を維持。・バラスト(砂袋):高度が下がると一袋ずつ自動で切り離し、浮力とのバランスを保って 再上昇した。・爆弾:砂袋を使い切ると爆弾を順次投下する仕組みであった。・最後:任務終了後は時限装置によって導火線に点火され、装置を焼却・自爆させるよう 設計されていた。「風船爆弾(復元模型)縮尺/気球部:約1/5 ゴンドラ部:約1/2風船爆弾は、日本軍がアメリカ本土の攻撃のために開発したもので、和紙をこんにゃく糊で貼り合わせて作った直径約10mの気球に、爆弾や焼夷弾を吊り下げて飛ばした兵器である。陸軍によって秘密裏に開発されたこの兵器は、軍の施設のほかに、日本劇場や東京宝塚劇場、国技館といった大きな空間を持つ施設で製造された。製造にあたっては、学徒勤労動員によって集められた女学校の生徒たちが多数従事した。完成した風船爆弾は、太平洋沿岸の千葉県一宮町や茨城県大津、福島県勿来にあった各打ち上げ基地より、1944年(昭和19)11月から翌年4月にかけて約9,000個あまりが打ち上げられた。そのうち約300個がアメリカ大陸に到達し、オレゴン州では6人が犠牲になったという。この模型は、実物を保管しているアメリカ・ワシントンの国立航空宇宙博物館が作成した報告書などをもとに、気球部を約1/5、ゴンドラ部を約1/2に縮小して製作した。」 左:「103号紙球仕様書Balloon bomb balloon part production specification1944~45年(昭和19~20)【陸軍登戸研究所/作成】平塚悦子氏/寄贈機械漉き生紙(機械貼り原紙)を用いる風船爆弾気球部の製造仕様書。気球の重さや強度の不均一の原因となる紙重さ・糊付けの厚みムラを解消するため、陸軍登戸研究所がこれらの工程の機械化を研究していた。同研究所が和紙の機械漉き、機械塗糊等の応用による糊付けの機械化に成功したのは製造末期だった。そのため、高品質の気球の大量生産は実現しなかったが、中外火工品株式会社の京都第一工場(現在の京都市京セラ美術館)では、この仕様書をもとに気球の試作が行われていた。」 右:「京都第一工場作業実績表Kyoto factory balloon bomb balloon production work results list1945年(昭和20)中外火工品株式会社(京都)/作成平塚悦子氏/寄贈中外火工品株式会社京都第一工場での1945年(昭和20)1月~3月における風船爆弾気球部仕上げ部数の実績グラフ。1月 249個2月 372個3月は9日で製造打ち切りとなり、91個だった。裏面には作業工程ごとに分けられたグループと、それぞれにたずさわる人数が一覧となって記されている。この工場には京都高等手芸女学校(現在の京都橘高等学校)の一年生 154名二年生 137名合計291名が動員され、製造にあたっていた。」 上側「機械貼原紙、機械貼軟化原紙仮規格Stencil standard made of machine for the balloon bomb1944~45年(昭和19~20)平塚悦子氏/寄贈機械漉き紙を含む生紙をクロス(布・紙コーティング加工)で貼り合わせて作る原紙の規格と、その原紙の軟化処理後の原紙の規格。紙重さ、糊塗布、軟化処理とも機械化が進み、生産性が飛躍的に向上したが、直後に作戦終了となり大量生産はできなかった。」 左「風船爆弾関係文書が入っていた封筒Envelope made with Japanese paper for balloon bomb1944~45年(昭和19~20)平塚悦子氏/寄贈風船爆弾に用いる和紙(生紙)で作られた封筒。中には風船爆弾の仕様書や図面、必要な資料や業務分担などの資料が封入されていた。表紙には風船爆弾をあらわす「◯ふ」という文字が記されている。」 右「風船爆弾関係資料Document related to balloon bomb戦時中、中外火工品株式会社は、陸軍兵器行政本部からの注文を受け、風船爆弾の気球部分の製造・発送業務をおこなった。展示資料は、同社社員で製造工場の指揮・監督をつとめた寄贈者の父が保管していたものの一部。当時、風船爆弾は極秘作戦で、機密保持の理由から、終戦直後、関係資料は廃棄処分を命じられ、現存しないとされていた。風船爆弾の各種仕様書をはじめ、東京と京都の動員学生による風船爆弾製造の実態を今に伝える貴重な資料である。」 「金町国民学校集団疎開学童宿舎看板「やすね寮」 「疎開先で使用した物入れ」。 「金町国民学校集団疎開学童宿舎看板金町国民学校は、新潟県上越市にある割烹料理店「やすね」に集団疎開した。その時の主人が、店の看板の裏に学寮名を書いたもの。」 「疎開先で使用した物入れThe container which used in evacuation1944年(昭和19 )青木吉實氏寄贈青木氏は神応国民学校(現在の港区立神応小学校) 6年生の時に、栃木県の川治温泉にある旅館へ集団疎開した。その際に、父の吉太郎氏が、近所の指物師に作らせた物入れ。」 「東京の学童集団疎開Mass Evacuation of School Children in Tokyo1944年(昭和19)3~4月より、東京都は集団疎開の独自案を策定のうえ準備を進め、同年9月末には三多摩および13県へ23万人の学童を疎開させた。しかし翌年2月に硫黄島が陥落すると、太平洋沿いの静岡県や千葉県、茨城県に疎開した学童は、4月には青森県や岩手県、秋田県などへ再疎開させられることになった。Mass Evacuation of School Children in TokyoFrom March to April 1944, the Tokyo Metropolitan Government devised its own planfor mass evacuation, and by the end of September of the same year, 230,000 school children had been evacuated to the three Tama regions and thirteen other prefectures.However, when Iwo Jima fell in February of the following year, school children who hadbeen evacuated to Shizuoka, Chiba, and Ibaraki prefectures along the Pacific Ocean had to be re-evacuated to Aomori, Iwate, and Akita prefecturesin April.」 このパネルには、・学童集団疎開成立までの経過(年表)・東京の学童集団疎開の状況・都区ごとの疎開先・各県への疎開人数がまとめられている。地図から読み取れる主な人数は、・福島県 28,958人・長野県 36,975人・群馬県 28,068人・静岡県 27,095人・栃木県 19,647人・宮城県 18,781人・山形県 14,605人・新潟県 14,147人・埼玉県 8,408人・千葉県 8,782人・東京(三多摩)7,347人・茨城県 6,544人・山梨県 9,191人・神奈川県 200人「疎開先での生活疎開児童は、寺院や旅館などを学寮とし、学年別または縦割りに班編成され、班のリーダーを軍隊になぞらえて〈小隊長〉などと称した例もあった。疎開先では、地元の学校に編入される場合もあったが、教室を借りたり学寮を使って、引率教員による授業が行われることが多かった。地元の人々は、風呂場や便所など施設設備の準備や食料調達に協力したが、疎開児童と直接言葉を交わすことはあまりなく、他校の疎開学童や地元の子供と接触した例も少なかった。長期にわたる集団生活を初めて経験した疎開学童は、自立心を身につけた反面、不安や寂しさのあまり帰京を願うものも多かった。だが、それを口に出すことは許されなかった。また疎開学童のなかには、栄養失調からくる下痢や湿疹に悩まされる者もあらわれ、引率教員や寮母はその対応に追われた。慣れない土地で悪条件のなか、疎開学童の暮らしと心を支える引率教員らの労苦は並大抵ではなかった。」 「疎開地での生活Life in Evacuation上段・ラジオ体操(中央合同/所蔵)・傷の手当てをする寮母(千代田区立お茶の水小学校/所蔵)・綴方(中村行三/撮影)中段・相撲観戦(半澤光教/所蔵)・地元婦人会による散髪奉仕(中村立行/撮影)・面会(半澤光教/所蔵)・炊事をする地元の主婦たち(千代田区立お茶の水小学校/所蔵)・魚とり下段・宿舎での授業(半澤光教/所蔵)・勤労奉仕 炭運び(中村立三/撮影)・再疎開地への移動の車中(静岡から青森へ)(中村立行/撮影)」 「疎開日記The evacuation diary1944~45年(昭和19~20)神谷義浩/作成神谷義浩氏寄贈神谷氏は1944年(昭和19)、新堀国民学校5年生の時に、宮城県刈田郡小原村の小原温泉桂屋旅館へと疎開した。この日記は、その疎開先での出来事をつづったもの。皇后陛下から下賜されたビスケットについても記されている。」 「皇后陛下御下賜ビスケット袋Bag of cookies granted by Her Majesty the Empress1945年(昭和20)2月11日1944年(昭和19)12月23日、当時の皇太子は疎開地で誕生日を迎えた。そのため、皇后は全国の疎開児童に対して「つぎの世を 背負うべき身ぞ たくましく 正しく伸びよ 里に移りて」という歌と、1袋20枚のビスケットを下賜した。各学寮では、紀元節にあたる翌年2月11日、伝達式に行われ、ビスケットが配られた。」 「祖父へのハガキLetter from the evacuation to a grandfather1945年(昭和20)10月9日神谷義浩/作成神谷義浩氏寄贈神谷氏が祖父へ疎開先から送ったハガキ。神谷氏と異なる筆跡のペン書きがあることから、終戦後も担任が検閲を続けていたことがうかがえる。」 「神谷義浩くんの学童集団疎開生活School child group evacuation life of Mr. Kamiya義浩くんは、1944年(昭和19)9月当時、東京都浅草区新堀国民学校(台東区立新堀小学校、1947年開校)の5年生で、宮城県小原村の「桂家旅館」へ集団疎開した。最寄りの白石駅から約8kmの無医村で、冬は雪に閉ざされ、1月は氷点下、朝はマイナス5度から9度の生活を耐えた。義浩くんの日記から、当時の生活の様子がうかがえる。2月には皇后陛下から下賜されたビスケットのことも、くわしく記されている。」 「父からのハガキA postcard from father to the evacuation place1945年(昭和20)4月10日神谷寛一/作成神谷義浩氏寄贈1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲で、神谷氏の家族は家を焼失。世田谷に滞在したのち、埼玉県浦和市常盤町に移ったことを伝えている。」 「父からのハガキA postcard from father to the evacuation place1945年(昭和20)2月3日神谷寛一/作成神谷義浩氏寄贈」「父からのハガキA postcard from father to the evacuation place1944年(昭和19)12月3日神谷寛一/作成神谷義浩氏寄贈疎開先に届いた父親からの手紙。1944年(昭和19)12月3日の午後2時ごろに東京で空襲があったが、特に大きな被害はなかったと伝えている。」 「東京近郊の農業と土地利用の変化」。 「近郊の農業と土地利用の変化Changes in Suburban Agriculture and Land Use近郊の農村では、消費地である都市部へ供給される野菜の栽培が主に行われ、特産品も多くあった。一方で宅地化が進むなかで耕地自体は減少し、生産の中心は多摩地域や近県へと移っていった。」 土地利用の変化左側のグラフでは、東京市周辺各郡について1916年(大正5)1931年(昭和6) を比較しています。比較しているのは・水田の面積・畑の面積・宅地の面積全体として読み取れる傾向は、・水田は減少・畑も減少(地域によっては微増もある)・宅地は大幅に増加という都市化の進行。特に・荏原郡・豊多摩郡・南葛飾郡では宅地化が急速に進んでいることが分かる。近郊農村の特産品地図(1929年・昭和4)東京市(15区)の周囲で生産されていた農産物が、イラスト付きで示されている。現在でも東京近郊の名産として知られる野菜が数多く見られます。「近郊の農業大正期以降も近郊東部では耕地の60パーセント以上が水田、西部の過半が畑という地域差がみられたが、農業生産の主流は東京市内に供給する野菜類であった。野菜などに生産が集中するなかで、杉並の丸大や藍葉のような名産品は減りはじめ、玉川(温室村)の花卉・果実に代表される促成栽培作物やキャベツ・トマトといった新しい農産物が増産されるようになった。震災後の郊外開発の進展によって、生産地は市内に隣接する中野、渋谷一帯から外周の板橋、世田谷などへ、さらに多摩地域、埼玉県内にまで広がった。このような都市と供給地との距離の拡大は、農民が野菜を荷車で都市に搬入し、汲み取った糞尿を肥料として積んで帰るというシステムを崩していった。さらに荷車から自動車・電車などへの輸送手段の発達は、多摩地域と近県でつくられる野菜の供給量を増加させていった。」 「杉並の農家で使用された農具」。 「東京の近郊で生産された野菜(複製)」。東京近郊の農業は、都市へ新鮮な野菜を供給することを目的に発展した。震災後の市街地拡大で生産地は多摩や埼玉へ移り、荷車に代わる鉄道・自動車の普及によって流通が大きく変化し、近郊農業の姿も新しい時代へと移り変わっていった。 「都市を支える水源Water Sources that Support the City人口が増え続ける東京の生活を支えるためには、水道の整備が欠かせなかった。上段:「昭和初期の水道と水源地」中央のイラスト地図には、昭和初期の東京の水道網が描かれている。主な表示は、・玉川上水・村山貯水池・山口貯水池・多摩川・羽村取水堰・淀橋浄水場・神田上水・千川上水・東京市(15区)・東京湾 など。この図から、多摩川上流から取水し、玉川上水を経て淀橋浄水場へ送り、東京市内へ配水する仕組みが一目で分かるようになっている。左下:「ダム施工前の小河内村」3枚の写真が展示されている。・「奥多摩館旅館」(1936年撮影)・「郵便局」(1935年撮影)・「秋の小河内」(1935年撮影)いずれもダム建設前、水没する前の小河内村の貴重な記録写真。右下:「東京市郊外の公営・私営水道組合」地図では、赤色=公営水道青色=私営水道で色分けされています。当時は東京市水道だけでなく、市域外にも町村ごとの水道組合が数多く設けられていたことが分かります。これは人口増加に対応するため、自治体ごとに独自の水道整備が進められていたことを示している。」 「都市を支える水源明治中期から近代化がすすめられてきた東京の水道にとって、増加する水需要に対応する水源の確保は、重大な課題であった。昭和初期までに村山・山口貯水池などが建造されたほか、東京市近郊の開発にともなう水需要の増加に対応するため、町営・私営の水道組合も結成された。しかし、大東京への市域拡張によってさらなる水源が必要となり、1932年(昭和7)、多摩川上流の小河内にダムの建設計画がたてられた。小河内村の住民は、急傾斜地を利用した畑で麦・そば・芋類をつくり、養蚕や木炭・木材・ワサビなどをおもな収入源として米などを購入する生活を送っていた。ダムの底に沈むことになる村では、当初反対が強かったが、やがて合意に達した。しかし、多摩川下流域の用水組合と市の間の水利権問題のために村との調整が遅れ、1938年(昭和13)にダム工事はようやく着工された。その間、石川達三の小説『日蔭の村』に描かれたように、村と市の間に長い緊張関係が続いた。ダム建設は村民の離散を招いたが、一方で建築資材の運搬にともなう道路や鉄道の伸展などがもたらされた。」 「近郊と村や島東京都は、市街地化のすすんだ都市部と、その周辺の近郊部、さらに外縁の村部・島しょ部で構成されていたが、都市人口の増加と都市化の広がりなどにより、そのあり方や暮らしは変化していった。都市にもっとも近い近郊農村は、それまでの麦畑が需要の急増した都市向けの野菜畑に変わっただけでなく、新たな住宅供給地として宅地化され、農業人口も減少した。田園都市や学園都市のように計画的な例もあるが、中央線や私鉄沿線の宅地開発は急激で、乱開発が多かった。これにくらべ、多摩地域の農村は、開発のすすむ鉄道沿線を除き、麦・陸稲などの畑作や養蚕を主とする昔ながらの農村や、林業を生業とする山村のままであった。しかし、電気やバスの普及を契機として、徐々にこうした地域にまで都市化の波は押し寄せていった。伊豆諸島をはじめとする島しょ部では、航路の充実と同時に水道・電気や港湾施設が整備されつつあった。おもな産業も本州の大型漁船の進出で衰退した沿岸漁業から、木炭・ツゲ・椿油生産などの林業や畜産業・観光産業へと変わっていった。しかし、こうした暮らしの様相とその変化も、伊豆大島から小笠原諸島南鳥島、沖ノ鳥島まで、各島さまざまであった。」 「島しょ部の定期航路と電力供給の開始年Year of Commencement of Regular Shipping Routes and Electricity Supply in the Islands定期航路の整備や電力供給の開始により、島の生活も変化を迎えた。このパネルは、昭和初期から戦後にかけて、東京都の伊豆諸島・小笠原諸島で定期航路と電気が普及し、島の暮らしが大きく変わっていった過程を示している。右図:定期航路東京・横浜から・大島・利島・新島・式根・御蔵島・八丈島・青ヶ島・父島・母島(小笠原)へ向かう航路が描かれている。航路の本数は・毎日運航・月5~6航海・月3~4航海・月1~2航海など島によって異なっていた。さらに、左図では父島 1931年(昭和6)母島 1938~39年(昭和13~14頃)など、小笠原航路の開始時期も示されていまる。」 伊東深水/画 「大島十二景之内 夏の三原山」。 「大島十二景之内 夏の三原山Twelve sights of Oshima island : Summer Mt. Mihara1937~1938年(昭和12~13)伊東深水/画 渡邊庄三郎/版鋳木清方に師事し、1916年(大正5)より渡邊庄三郎のもとでの版画制作を始めた伊東深水による風景画シリーズ作品「大島十二景」のひとつ。青色が印象的な三原山を前に、中央左では荷物を載せた牛を引き連れて島民が歩いている。」「島の生活と観光開発伊豆諸島への航路は、明治時代以降、徐々に定期航路が開かれて、増便がはかられてきたが、1928年(昭和3)にレコード化された「波浮の港」の大ヒットは、伊豆大島への観光熱を高め、島しょ観光開発のきっかけをつくった。同年、東京湾汽船株式会社により東京~大島間の航路で毎日の運航がはじめられた。翌年には同社の京橋案内所が開設されて航路の宣伝が行われるなど、しだいに観光路線化していった。とくに大島航路の乗客数は、1931年(昭和6)の8万3千人から翌32年には12万8千人、1934年には21万2千人と激増し、観光の全盛期を迎えた。ホテルや港湾施設が整備され、大島自然動物園なども建設された。この機運は、しだいに新島、式根島、三宅島、八丈島などにも波及していった。」 上段「「東京案内パンフレット『遊覧案内』」A guide pamphlet of Oshima island昭和前期 東京湾汽船/発行中央のパンフレット表紙には、遊覧案内東京湾汽船 とあります。開いた部分には、伊豆大島の島内案内図と、伊豆諸島を描いた観光地図が掲載されている。」 下段「大島三原山御神火」Postcards"Impression Of Mt.Mihara, Izu Oshima"昭和前期大島への観光客の土産品として販売された写真絵葉書セット。すべり台やラクダでの名所めぐりなど、当時の大島観光の様子がわかる。」 円タクを再現した自動車・「フォードA型・4ドアセダン」👈️リンク ・「円タク」とは1回1円の均一料金で利用できるタクシーのこと。・昭和初期、それまで比較的裕福な人しか利用できなかったタクシーが、一般市民にも身近な 交通機関となった。・「1円でどこまででも」という分かりやすい料金制度が人気を集め、東京市内を数多く走る ようになった。ネットから。現在では日本車が世界を代表しているが、昭和初期の東京では、街を走るタクシーの主役はアメリカ車であった。この展示は、自動車の歴史だけでなく、昭和初期の都市交通や市民生活の変化を伝える貴重な資料となっていた。「ガソリン給油機」。 「ガソリン給油機Gasoline pump1940~48年(昭和15~23)増井重康氏 / 寄贈昭和初期に使用されたもので、右手にあるレバーでポンプを作動させて、地下に設けられたタンクからガソリンを吸い上げ、ノズルより給油する。この給油機は戦後灯油用として使用されたため、給油ホースが取り去られている。」 こちらは「同潤会代官山アパートメント」の復元模型。同潤会アパートとは、関東大震災の復興のため、財団法人同潤会が各地に建設した鉄筋コンクリート造りの集合住宅のこと。電気・都市ガス・水道・水洗式便所など、当時最先端の設備を完備していた。移動して。入口に近づいて。「■同潤会代官山アパートメント復元年代:昭和10年代 縮尺:1/1 部材提供:UR都市機構同潤会代官山アパートメントは、関東大震災後の復興集合住宅として1925年(大正14)に着工、1927~28年(昭和2~3)にかけて建設された。震災の教訓から燃えにくく、壊れにくい鉄筋コンクリート造で建造されたアパートメントは、当時の最先端を行く「モダン」な住戸として、サラリーマンら都市中間層に支持された。代官山は16か所建設された同潤会アパートメントの中で最大の敷地面積を誇り、敷地内には通りごとに異なる樹木を植えた街路が配され、商業施設もあるなど、小さな都市のような作りとなっていた。また立体四戸と呼ばれる二階建の低層アパートは代官山のみに建設された。本模型もそのタイプの一室を復元したものである。室内については、1941~43年(昭和16~18)にかけ実際に同形式の住戸に居住し、詳細なスケッチ等を残した建築学者・西山夘三(1911–1994)の記録をもとに再現を行った。」 模型には実際の同潤会アパートメントの取り壊し時に出た部材を使用している。ズームして。住戸の外側から。手前にある緑色の金属製手すりで囲まれた部分が、住戸前の共用廊下(外廊下)にあたる。その奥に引き戸があり、開いた部分から先ほどの玄関土間 → 4.5畳間・6畳間へと続く様子が見通せる。特に面白いのは、外観は鉄筋コンクリート造の集合住宅らしい近代的な姿でありながら、入口を開けると、その内部には畳、襖、障子などを使った日本的な住空間が広がっていること。「西山夘三の記録にみる同潤会代官山アパートメントの暮らしLife at the Dōjunkai Daikanyama Apartments as Seen Through Uzo Nishiyama's Records〔写真〕室内で食事をする西山と妻〔中央・間取り図〕・台所・玄関・南寝室・便所・4.5畳間・6畳間室内のスケッチは『住み方の記』(1965年)より引用NPO法人 西山夘三記念すまい・まちづくり文庫/資料提供」 「同潤会代官山アパートメントの復元住戸の平面図建物復元範囲・台所・玄関・便所・4.5畳間・6畳間」 復元された住戸の間取り。6畳間と4.5畳間の二間に、玄関・台所・便所を備えていた。同潤会代官山アパートメントの玄関から室内を見る。左に4.5畳間、右に6畳間が続き、玄関・台所・便所を住戸内に備えた、当時としては近代的な間取りであった。そしてこちらは「中央区月島の4軒長屋(大正末期建造)」「庶民住宅の生活明治期以降の東京の庶民住宅は、おもに江戸時代の町人や中・下級武士の住宅から発展した形式である。武士の住宅をモデルとする庭に囲まれた一戸建ては、おもにサラリーマン層に受け入れられ、山の手や郊外の住宅に広がった。通りや路地に面して建つ町人の住居である町家や裏長屋は下町地域に多く、商人や職人の住居として発展した。明治後期以降、町家や長屋では、客座敷など武士の住宅の要素が取り入れられる一方、表土間の出入り口の形式を整えて、独立した台所や玄関を設けたり、廊下を作って各部屋の独立性を高めるなど、家族の生活を重視した間取りがしだいにみられるようになった。大正期から昭和初期にかけて庶民の生活様式を大きく変えたものとして、ガスや専用水道、板ガラスなどの普及がある。路地での水汲みや火おこしは不要となり、路地に面していた台所は裏側に移された。また、板ガラスの普及によって、戸を閉めたままでも室内の十分な明るさが確保できるようになった。大正期に入って、新中間層むきの郊外住宅の分譲も行なわれたが、下町などに住む中流以下の家族は90パーセント以上が借家住まいであった。」 「下町の庶民住宅復元年代:昭和初期 縮尺:1/1この模型では、工場労働者が多く住んでいた中央区月島の4軒長屋(大正末期建造)の一部をモデルに、昭和初期の庶民の暮らしぶりを再現した。当時は、便所や台所に電灯のない家が多く、台所へは、必要なときに二畳間から引き入れて使った。ガスや水道が普及する以前は、外で水汲みや火おこしをしたため、台所は路地に面して造られるのが一般的であった。この長屋にガスが引かれたのは、昭和10年代、水道が個々の家庭に引かれたのは、戦後のことである。」 昭和初期の『下町の庶民住宅』を入口から見る。格子戸を開けると土間の玄関があり、一段上がって畳敷きの居室へ。右手には板敷きの台所が設けられ、当時の庶民の暮らしが再現されていた。昭和10年代ごろの都市生活の台所が、実物大で再現されている。特に目を引くのは、右奥の大きな薪・石炭などを燃料とする炊事用の竈(かまど)・ストーブ状の設備。上部から煙突が伸び、正面には燃料を入れる焚口や灰を処理する部分が見える。その手前には薪も置かれている。周囲には、鉄瓶(または琺瑯引きのやかん)、陶製の甕(かめ)、ガラス瓶、木箱、竹製の道具などが並びぶ。冷蔵庫や電気炊飯器が一般家庭に普及する以前ですから、味噌・漬物・乾物などの保存には甕や容器が重要であった。また、床が一段高い板張りになっているところも興味深い点。現在のシステムキッチンとはまったく異なり、限られた空間の中で「火を焚く・湯を沸かす・調理する・食品を保存する」という生活が営まれていたことがよく分かるのであった。昭和初期、月島の長屋の食卓を再現。ちゃぶ台を囲む暮らしの中には、お櫃や団扇、柱時計など、今では懐かしい生活道具が並んでいた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.12
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「T6-3 戦争への道」。 「パーマネントウェーブ器」 江戸東京博物館の「T6-3 戦争への道」では、戦時色が強まる昭和初期であっても、都市では美容や流行への関心が高まり、新しい技術を取り入れた生活文化が発展していたことを示す展示となっていた。・円形の本体から数十本のコードが垂れ下がっている。・コードの先端には電熱器(ヒーター)と髪を巻き付けるロッドが付いている。・椅子に座った客の頭全体にこれらを取り付け、一度に多数の毛束へ熱を加えてウェーブを 作っていた。・「Silver Star Machine(シルバー・スター・マシン)」の銘が本体に見られる。「パーマネントウェーブ器A Permanent machine1934年(昭和9)村橋巳之市/製作メーター部分は複製電熱パーマは1923年(大正12)、日本に上陸し1930年代に国産機が生産されて普及した。当時のパーマネントは作業が複雑だったため、かけるのに6時間から8時間かかり、費用も当時の月給にあたる20円と高額だった。仕上がりは髪全体に細かくきついウェーブがかかり、「ちりちりパーマ」、「すずめの巣」などと揶揄された。」 「戦争への道昭和の幕開けは、カフェー・ダンスホールの盛況やさまざまな流行歌の誕生など、都市風俗の隆盛をみる一方、金融恐慌と、続く世界恐慌のあおりを受けて、失業者が続出した。不安な世相のなかで、一時的な享楽にふける人々も少なくなかった。対外的には、1931年(昭和6)に勃発した満州事変と、翌年の満州国の建国は、日中関係のみならず、当時の国際秩序に波紋を投げかけ、日本の立場を微妙なものにした。そして、1937年7月北京郊外で発生した盧溝橋事件を発端に日中戦争へ突入する。報道機関の多くは戦争関連のニュースで軍国熱をあおり、戦地での軍人の活躍を宣伝した。いわゆる「銃後」の人々は、戦場の兵士たちに慰問袋を送り、戦争遂行のために献金し、物資を供出した。しかし戦争が長びくにつれて、人々は不自由な戦時生活を強いられてゆく。切符・通帳などによる生活必需品の配給制がはじまり、また、出征兵士の歓送や留守家族の慰問にも、人員が割り当てられるようになった。そして、1941年(昭和16)12月には太平洋戦争が勃発した。」 これは、左翼劇場による舞台『太陽のない街』の公演ポスター。展示札によると、1930年(昭和5年)2月のもの。横書きで右から左へ読む部分は、通常の読み順に直して。第14回 左翼劇場公演築地小劇場ニテ2月3・4・5・6・7・8・9・10・11日 午后6時~ 8.9.11はマチネ・昼の公演と。(フランス語で「朝」「午前中」を意味する「matinée(マチネ)」に由来)太陽のない街原作 徳永 直脚色 小野宮吉・藤田満雄演出装置 村山知義・金須孝150・99セン 労働者 30セン『太陽のない街』は、1926年(大正15年)の共同印刷争議を題材にした日本を代表するプロレタリア文学で、労働者の生活や労働運動を描いた作品です1930年(昭和5年)は、世界恐慌の影響で失業や貧困が深刻化した時代でした。そのため、労働者や社会問題を扱う演劇や文学が盛んになる一方で、1931年の満州事変以降は軍国主義が強まり、このような社会派・左翼的な文化活動は次第に弾圧されていきます。下部には、書籍などの広告も掲載されていた。発行所版 雑誌 世界の動き社・戯曲集 最初のヨーロッパの旗 第二次出版 村山知義著・本社懸賞海外派遣賞小説 新しいプロ文学初版発禁 ミス・ニッポン 処女出版 群司次郎正著左翼劇場の舞台『太陽のない街』の公演ポスター。1930年(昭和5年)2月、築地小劇場での公演を告知したもの。煉瓦の壁を突き破るように拳を突き出す男性の姿が、労働者の怒りと抵抗の意志を感じさせる。「労働者30セン」の料金表示にも、当時の演劇と労働者との結びつきがうかがえるのであった。全国労働組合同盟が、メーデーへの参加と労働者の団結を呼びかけたポスター。全国労働組合同盟の旗の下にメーデーに参加しろ!★ 首切り賃下げ絶対反対!★ メーデーに全国的休業!★ 職場から街頭示威運動へ!★ 全産業の労働者は 全労協に加入せよ!★ 万国の労働者団結せよ!全国労働組合同盟全国労働組合同盟がメーデーへの参加を呼びかけるポスター。「首切り賃下げ絶対反対!」「万国の労働者団結せよ!」などの標語が並ぶ。赤と黒を基調とした大胆な文字の配置から、生活を守ろうとする労働者の切実な要求と、団結を求める強い呼びかけが伝わってくるのであった。昭和初期の多彩な出版文化を紹介する展示「さまざまな雑誌」。 展示位置 雑誌名・上段左 『ナップ』創刊号・上段中央 『エロ』創刊号・上段右 『丸ノ内』創刊号・下段左 『婦人戦線』創刊号・下段中央 『グロテスク』創刊号・下段右寄 『新宿街』創刊号・下段右端 『モダン浅草』創刊号「さまざまな雑誌」と題した展示。1920年代後半から1930年代中頃に発刊された雑誌の創刊号が並ぶ。街の魅力や娯楽、猟奇趣味、労働問題まで、その題材は幅広い。大胆な文字や色彩で目を引く表紙から、昭和初期の都市文化の多様さと、当時の人々の関心がうかがえるのであった。「さまざまな雑誌1920年代後半から30年代中頃にかけて発刊された雑誌の創刊号。町の魅力を紹介するものや猟奇趣味にかたよったものなどが出版された。また、労働問題に関する雑誌も数多く発刊された。」 「享楽と不安モダン都市・東京は、新しい風俗を生み、社会運動を活性化した。〈断髪〉と呼ばれる髪型が、モダンガールのシンボルとなり、また、パーマネント・ウェーブは1930年(昭和5)ころから一般にも普及した。一方、多くの労働争議が起き、徳永直の『太陽のない街』などの作品も生み出された。こうしたなかで、東京は〈昭和恐慌〉の直撃を受ける。「エロ・グロ・ナンセンス」といった流行語や「酒は涙か溜息か」などの流行歌がはやり、享楽と不安の綾なす時代であった。1933年(昭和8)の夏、「ハアー踊り踊るならチョイト東京音頭ヨイヨイ…」と歌い出す「東京音頭」が大流行した。市内のあちこちにやぐらが組まれ、高田保「東京音頭の氾濫」に書かれたように「老若男女が、いずれも日の暮れるのを待ちかねて」踊り続けた。同じ年の1月に伊豆大島の三原山で女子学生が投身自殺し、それ以後自殺者が続く。また、二・二六事件などの重苦しい社会風潮のなかで、1936年(昭和11)5月には、愛人を殺害した阿部定の猟奇的事件が話題を呼んだ。」 戦時下の配給制度と、物資を大切に使う暮らしの工夫を伝える展示。左に配給のお知らせ、中央に靴下を作り直すための型紙が並んでいた。①左上の説明札配給に関する隣組回報1942年(昭和17)10月15日京橋区町会連合会/発行1942年(昭和17)10月の隣組回報。10月分の家庭用ビールの配給、米の代替品として小麦粉の臨時配給、妊婦用の衣料切符に関するお知らせが書かれている。ビールは一世帯当たり2本、小麦粉の割当は一人あたり375グラムとされている。配給方法、期間などが詳細に書かれている。②左下の説明札配給に関する隣組回報1942年(昭和17)11月29日京橋区町会連合会/発行野菜の配給において東京市外より転入した場合や東京市内間を移動した場合の手続き方法ついて詳細に書かれている。また、10月に引き続き妊婦用の衣料切符についての記載があり証明書を提出しないと衣料の配給が受けられないと記載されている。③中央の型紙の説明札国策靴下替底型紙Socks bottom exchange paper pattern昭和前期桜井豊子氏/寄贈破れた靴下を2足分用意し、型紙に沿って裁断。底と甲にして縫い合わせると新品1足分ができる。」 この「国策靴下替底型紙」は、戦時中の物資不足を背景に考案された靴下の補修用型紙です。靴下は歩くたびに足裏(底)が最も傷みやすく、底だけ穴が開くことがよくありました。しかし、戦時中は新品の靴下を簡単に入手できませんでした。そこで、・穴の開いた靴下を2足用意し、・傷んでいない部分をこの型紙に合わせて切り抜き、・足裏部分(替底)と甲の部分を組み合わせて縫い直すことで、傷んだ2足から、新しい靴下1足を作るという工夫が行われました。これは、戦時下の「もったいない」「最後まで使い切る」という生活の知恵を象徴する資料。衣料品が配給制となり、靴下一足も大切に使わなければならなかった当時の暮らしぶりがよく伝わって来るのであった。靴下や足袋の修理器、衣料切符など、戦時下の衣生活を伝える展示。・靴下・足袋修理器 昭和前期 〔寄贈者名は判読不明〕・『週報』382号 1944年(昭和19)2月16日 情報局/発行・衣料切符制度 〔説明本文は、ピンボケのため正確な判読が困難〕・第一種衣料切符 1944年(昭和19)4月 農商務省/発行・第二種衣料切符 1944年(昭和19)4月 農商務省/発行「切符制・配給制のはじまりBeginning of Ticket and Rationing Systems戦局の悪化により、日用品の入手は切符や通帳による切符制・配給制へと変わっていった。・・・年・・・・・・・・開始月日・・・・・・品目・・・・配給量など1940年(昭和15)/////// 6月〔日不明〕//////マッチ //////〔不明〕同年///////////////////////同上/////////////////砂糖////////〔数量不明〕同年///////////////////////11月1日/////////育児用乳製品////1乳児2月毎に購入券12枚分同年///////////////////////同上/////////////////牛乳/////////1人1日3~5合1941年(昭和16)/////// 3月15日 ///////////衛生綿////////1人1月50g同年///////////////////////同上////////////////脱脂綿////////1人1月50g同年///////////////////////4月1日//////////////米穀///////// 1人1日330g同年///////////////////////同上///////////////米穀外食////// 1人1日330g同年///////////////////////同上////////////////小麦粉/////// 1人1日50匁(187.5g)同年/////////////////////// 4月/////////////////酒類/////////1世帯1月毎に酒4合、ビール2~4合同年///////////////////////6月7日/////////////食用油////////1人〔期間不明〕に2合同年////////////////////////7月////////////////ガーゼ////////1人脱脂綿500g、ガーゼ3m同年///////////////////////11月/////////////////魚類/////////1人1日丸30匁(112.5g)、 //////////////////////////////////////////////////////////////切身20匁(75g)同年/////////////////////12月18日//////////////菓子/////////1人1月30~60銭1942年(昭和17)////////1月1日////////////////塩 /////////1人1月200g同年 //////////////////////1月10日//////////// 味噌/////////1人1月〔数量不明〕同年 ////////////////////////同上////////////////醤油/////////1人1月3合7勺同年///////////////////////2月1日//////////////衣料品////////1人1年100点分同年//////////////////////5月15日///////////////パン/////////1人1日菓子パン2個1食同年/////////////////////11月16日/////////////青果物/////////60~75匁(225~281g)」 「戦時体制への移行新聞やラジオの報道が戦争の機運を盛り上げてゆくと同時に「銃後の護り」が唱えられた。戦地には慰問袋が送られ、千人針を縫う街頭風景も多くみられるようになった。また、戦局が拡大するなかで、政府は国家総動員法によって人的・物的資源の統制を推しすすめ、日常の生活物資は軍事優先のあおりを受けた。輸入品は店頭から消え、生活必需品も次々と配給制・切符制の対象となっていった。また、資金・出版などの統制、労働力不足による軍需産業への〈徴用〉などで生活は圧迫されていった。一方、戦時体制の末端を担って組織・整備された町内会・隣組は、戦争遂行のための連帯責任・相互監視の役割を果たしていった。」 「戦時体制への移行」と題した説明板。「銃後の護り」が唱えられるなか、生活必需品は配給制・切符制となり、軍需産業への徴用も進んだ。町内会や隣組も戦争遂行を支える役割を担い、日々の暮らしから地域社会まで、戦時体制に組み込まれていったのであった。当時の演説やニュース、歌などを聴く音声展示「音に聴く 戦争への道」。木製のラジオが置かれ、ボタンで9種類の番組を選べるようになっていた。上段・非常時の覚悟 1932年(昭和7) 内閣総理大臣 斎藤実・日本精神に目覚めよ👈️リンク 1935年(昭和10) 松岡洋右・兵ニ告グ(二・二六事件)👈️リンク 1936年(昭和11) 中村茂アナウンサー・時局に対する国民の覚悟👈️リンク 1937年(昭和12) 内閣総理大臣 近衛文麿下段・時局に対する国民の覚悟👈️リンク 1939年(昭和14) 相田毅 作詞 明本京静 作曲・紀元二千六百年👈️リンク 1940年(昭和15) 増田宗太 作詞 飯田信夫 作曲・太平洋戦争開戦の大本営発表👈️リンク 1941年(昭和16)・スパイを防げ👈️リンク 1942年(昭和17)ごろ 東京市情報課 編纂・戦線慰問について👈️リンク 1942年(昭和17)ごろ 東京市情報課 編纂 資料提供/日本放送協会」 江戸東京博物館で紹介されていた音声資料について、公開されているものはできる限り探してリンクを付けてみた。しかし、「非常時の覚悟」(1932年・斎藤実首相)は公開音源を見つけることができなかった。現在は一般公開されていない資料なのかもしれない。左:男性用の「国民服(甲号)右:女性用の「婦人標準服」。戦時下で衣服の簡素化や動きやすさが求められるようになったことを伝える展示。「国民服(甲号)」を近くから撮影。1941年(昭和16)頃の「国民服(甲号)」。黄褐色の上下に、5個の前ボタンと胸・腰のふた付きポケットを備える。衣生活の簡素化・合理化を目的として制定された服装で、その実用的な姿から、衣服にも及んだ戦時体制の影響がうかがえるのであった。「国民服(甲号)National Uniform, “kō”(A)1941年(昭和16)頃梶原利夫氏/寄贈国民服は、戦時下における国民の衣生活の簡素化・合理化を目的として、1940年(昭和15)11月1日の勅令「国民服令」で制定された、男性用の衣服である。「国民精神総動員」の一環として制定され、軍服としても着られることを想定していた。当初は4種類の国民服があったが、のちに甲乙の2種類となった。」 青い縞柄の「婦人標準服」を近くから。着物の面影を残す上衣に、ゆったりしたもんぺを合わせ、腰を共布で結んでいる。戦時下で女性の労働力が求められるなか、手持ちの和服を仕立て直し、活動しやすい服装へと変えていった暮らしの一端を伝えているのであった。「婦人標準服Women’s Standard Work Pants(monpe)昭和前期中村〔名は判読不明〕氏/寄贈戦争が本格化すると、女性の服装は華美で機動性に欠けるものが忌避されるようになった。1942年(昭和17)、厚生省は戦地に向けられた男性に代わり、労働力の主体となった女性のため、活動しやすい衣服として「婦人標準服」を開発した。各家庭では、手持ちの和服を仕立て直し、標準服を着用するようになった。」 1944年(昭和19)の東京下町の暮らしを、実物大で再現した「戦時下のすまい」。空襲が本格化する直前の都民の生活を再現した家屋。空襲の爆風でガラスが飛び散らないように窓には紙が貼られ、電球には明かりがもれないようにカバーがかけられている。室内にはあたりまえのように鉄兜や防空頭巾が常備されていて、戦争の悲惨さを物語っているのであった。「戦時下のすまい復元年代:1944年(昭和19) 縮尺:1/1この住宅は、東京下町地区によく見られた木造家屋の一室を復元し、空襲が本格化する直前の都民の生活ぶりを再現したものである。窓には、爆風によるガラスの散乱を防ぐための紙が貼られ、電灯には、明かりが外にもれないよう、灯火管制用のカバーがかけられていた。室内には防空頭巾や鉄カブトが置かれ、空襲の情報を知るために、ラジオは必需品であった。食糧不足が深刻化し、配給の米は玄米に近く、瓶に入れて、棒でついて精白した。」 「同潤会代官山アパートメント」の復元模型。同潤会アパートとは、関東大震災の復興のため、財団法人同潤会が各地に建設した鉄筋コンクリート造りの集合住宅のこと。電気・都市ガス・水道・水洗式便所など、当時最先端の設備を完備していた と。模型には実際の同潤会アパートメントの取り壊し時に出た部材を使用している と。「同潤会代官山アパートメント復元年代:昭和10年代 縮尺:1/1 部材提供:UR都市機構同潤会代官山アパートメントは、関東大震災後の復興集合住宅として1925年(大正14)に着工、1927~28年(昭和2~3)にかけて建設された。震災の教訓から燃えにくく、壊れにくい鉄筋コンクリート造で建造されたアパートメントは、当時の最先端を行く「モダン」な住戸として、サラリーマンら都市中間層に支持された。代官山は16か所建設された同潤会アパートメントの中で最大の敷地面積を誇り、敷地内には通りごとに異なる樹木を植えた街路が配され、商業施設もあるなど、小さな都市のような作りとなっていた。また立体四戸と呼ばれる二階建の低層アパートメントは代官山のみに建設された。本模型もそのタイプの一室を復元したものである。室内については、1941~43年(昭和16~18)にかけ実際に同形式の住戸に居住し、詳細なスケッチ等を残した建築学者・西山夘三(1911–1994)の記録をもとに再現を行った。」 同潤会代官山アパートメントの復元室内。白い襖と濃い色の柱・枠が室内を区切り、開いた襖の向こうには、丸いちゃぶ台と座布団を置いた部屋が続いている。手前の右側には木製の肘掛け椅子と小卓があり、窓辺にはカーテンも見える。畳に座る暮らしと椅子に腰掛ける暮らしが、一つの住まいのなかに取り入れられていた様子を伝えていた。手前のパネルには、間取り図と室内のスケッチ、写真が掲示されていた。「西山夘三の記録にみる同潤会代官山アパートメントの暮らしLife at the Dojunkai Daikanyama Apartments as Seen Through Uzo Nishiyama’s Records」 建築学者・西山夘三の記録からたどる、同潤会代官山アパートメントの暮らし。4畳半と6畳の和室を中心とした間取りに、家具や生活道具を描いたスケッチが添えられている。夫妻が食事をする写真とともに、当時の住まいの日常を身近に伝えるのであった。同潤会代官山アパートメントの、隣り合う二つの和室を見渡して。左の部屋には丸いちゃぶ台と柄入りの座布団、引き出しの多い木製の箪笥が置かれている。右の部屋には窓辺の肘掛け椅子と小卓、壁際の棚が見えます。仕切りを開けることで二部屋がつながり、奥行きのある空間になっていた。畳に座る生活と椅子を使う生活が共存し、和室を基調に洋風の家具を取り入れた暮らしぶりが伝わるのであった。建物の角に移動して。灰色の外壁に水平な庇が張り出し、大きなガラス戸の前には手すり付きの小さなバルコニーが設けられていた。直線を生かした簡素な外観に、昭和初期の集合住宅らしいモダンな趣が感じられるのであった。「フォードA型・4ドアセダン」👈️リンクの展示。「フォードA型・4ドアセダン(円タクを再現した自動車)1931年(昭和6)フォード自動車株式会社/製造東京のタクシーは1912年(大正1)に営業を始めた。昭和初期には市内を均一1円の料金で走る“円タク”が登場し、庶民も利用するようになった。この資料は、昭和初期の街でよく見かけたタクシーと同形式の右ハンドル車である。1935年(昭和10)の統計では、タクシーの車種の約44パーセントはフォード、約27パーセントはゼネラルモーターズ社のシボレーであった。両社は大正末期以降に日本工場を設置し、日本向けの右ハンドル車を生産した。当時、フォード社日本工場では、年間約1万台の車を日本市場に送り出していた。」円タクに利用されたフォードA型・4ドアセダンを斜め前から。艶のある黒い車体に、丸いヘッドライトと大きく張り出したフェンダーが映える。側面には乗降用のステップが延び、窓の「壱円」の札とともに、当時のタクシーの姿を伝えている。市内一円の広告・一人増す毎に20銭・郡部時間制=山手線の外は時間制の意・深夜料金五割増し。移動して。「T7-空襲と都民」。1941年(昭和16)12月、日本はアメリカやイギリスなどとの間で戦争状態に突入した。しかし、戦争が長引くにつれ、日本は劣勢となり、やがて空襲の危機が迫ってきた。そのため、多くの学童が地方へと疎開した。その後、東京の大部分が空襲を受け、焼け野原となった。このコーナーでは、戦時中の人々の暮らしの様子を伝える資料のほか、東京大空襲の凄惨(せいさん)さを物語る被災した品々などを展示。「T7-1 戦時下の生活」。「戦時下の生活空襲などの被害を避けるために、都市の住民や建物を分散させる〈疎開〉の計画は、1943年(昭和18)12月、「都市疎開実施要綱」によって決定された。これによって老人や幼児・学童を地方の親類などにあずける〈縁故疎開〉が強くすすめられたが、まだ実害がなかった時期には、なかなかはかどらなかった。しかし、学童を学校単位で疎開させる準備に入っていた東京都の〈集団疎開〉は、1944年(昭和19)6月30日の閣議決定後、9月末までのわずか2カ月間に、募集から人員・荷物の輸送まで完了するほど急速にすすんだ。約23万人の学童が親元を離れ、三多摩をはじめ、関東、中部、東北地方のうち13県へ集団で疎開した。翌年3月から5月にかけては、地方の空襲を避けるための再疎開、低学年を対象に加えた二次疎開も行われた。一方、病弱であったり、経済的な事情から疎開できなかった東京の残留学童は、相次ぐ空襲警報のなか、授業もそこそこに下校する毎日が続いた。」この展示は、戦争末期の「学童疎開」について説明していた。・縁故疎開 まず行われたのは、子どもを親戚や知人宅へ預ける縁故疎開でした。しかし、戦況がまだ 深刻でない頃は、「本当に東京を離れる必要があるのか」という考えも多く、思うようには 進まなかった。・集団疎開 1944年(昭和19)になると空襲が激化し、政府は学校単位で地方へ移る集団疎開を決定します。 東京都だけでも約23万人の児童が親元を離れ、関東・中部・東北など13県へ送り出された。・再疎開・二次疎開 地方都市にも空襲が及ぶようになると、さらに安全な地域へ移す再疎開や、低学年児童も 対象とした二次疎開が実施された。・残留学童 一方で、病気や家庭の事情などから疎開できない子どもたちも少なくなかった。 東京では空襲警報が頻繁に発令され、授業を途中で切り上げて帰宅する日々が続いたことが 紹介されていた。 「防空・空襲年表1937年(昭和12)、防空法が制定され、空襲に備えての防空訓練が本格化した。軍の想定した空襲の規模は、隣組ごとに焼夷弾ひとつ程度のもので、消火用具もバケツに火叩き、砂袋といったものであった。こうした訓練も大空襲の中では無力で、多くの人々が犠牲となった。The Air Defense Law was enacted in 1937, and air-raid drills began in earnest inpreparation for the bombings. The scale of the air raids envisioned by the military wasabout one incendiary bomb per neighborhood, and fire extinguishing equipmentconsisted of buckets, fire drums, and sandbags. These drills were totally ineffectivein the face of a major air raid, resulting in a large number of casualties.」 ・年・・・・・・・・・・月日・・・・・・・・・・・出来事1931年(昭和6年) 9月18日 日本軍、中国東北部の柳条湖で南満州鉄道を爆破(満州事変)1933年(昭和8年)・・・3月・・ 日本、国際連盟を脱退同年・・・・・・・・・8月9日・・東京など関東1府4県で初の防空演習1934年(昭和9年)・・9月1日・・東京・横浜・川崎3市で防空演習1937年(昭和12年)・4月5日・・ 防空法公布(10月1日施行)同年・・・・・・・・・7月7日・・中国北京郊外の盧溝橋で日中両軍衝突、戦争状態へ1938年(昭和13年)・・4月・・・国家総動員法公布1939年(昭和14年)・1月25日・・警防団令公布(4月1日施行)1940年(昭和15年)・・9月・・・ドイツ空軍、ロンドンを爆撃する同年・・・・・・・・・・11月・・隣組防空群誕生同年・・・・・・・・・・12月・・「防空壕構築指導要領」出される1941年(昭和16年)・・9月6日 内務省に防空局が新設される同年・・・・・・・・・11月25日・防空法改正同年・・・・・・・・・12月5日・・東京市が家庭防空の手引き「時局防空必携」を各戸に配布同年・・・・・・・・・12月8日・・日本、米・英・オランダに宣戦布告、日中戦争から・・・・・・・・・・・・・・・・・太平洋戦争に拡大1942年(昭和17年)・4月18日・・米軍B25型爆撃機13機、東京初空襲同年・・・・・・・・・6月・・・・ミッドウェー海戦同年・・・・・・・・・6月18日・・東京で爆風で粉々に飛び散らないよう、窓ガラスを紙や・・・・・・・・・・・・・・・・・布などで補強する点検運動を実施同年・・・・・・・・・8月・・・・1戸に1カ所の床下式の簡易待避所を作るよう奨励される同年・・・・・・・・・9月・・・・米軍、B29型爆撃機の試験飛行に成功1943年(昭和18年) ・6月・・・・都市の歩道に素掘りの壕を製造同年・・・・・・・・・7月24日・・米英軍、ドイツに爆撃を開始同年・・・・・・・・・8月・・・・上野動物園の猛獣類を毒殺などで処分同年・・・・・・・・・10月15日・京浜地区などの重要工場、家屋の疎開決まる同年・・・・・・・・・10月31日・防空法改正、「分散疎開」の事項挿入同年・・・・・・・・・11月1日・ 内閣に防空総本部、東京に帝都防空本部設置同年・・・・・・・・・12月21日・「都市疎開実施要綱」決定 人員疎開決まる1944年(昭和19年)・3月3日 ・・ 閣議で「一般疎開促進要綱」が決定される同年・・・・・・・・・6月16日・・中国基地発の米B29型爆撃機、北九州八幡を空襲同年・・・・・・・・・6月30日・・閣議で「学童疎開促進要綱」を決定同年・・・・・・・・・7月7日・・ サイパン島の日本軍玉砕、米軍B29基地建設同年・・・・・・・・・8月4日・・ 学童集団疎開第一陣出発同年・・・・・・・・・8月・・・・小笠原諸島島民、本土引き揚げ同年・・・・・・・・・11月24日・米軍B29型爆撃機94機、東京初空襲、工場爆撃始まる1945年(昭和20年)・1月19日・・閣議で「空襲対策緊急強化要綱」が決定される同年・・・・・・・・・2月16日・・太平洋上の米機動部隊空母から発進の艦載機来襲、・・・・・・・・・・・・・・・・・大森区や渋谷区などで機銃掃射同年・・・・・・・・・3月9日・・ 閣議で「学童疎開強化要綱」が決定される同年・・・・・・・・・3月10日・ 未明、B29型爆撃機325機、東京(下町)を空襲、/////////////////////////////////////都市無差別爆撃始まる同年////////////////////3月26日////米軍が沖縄本島に上陸する同年/////////////////////4月7日////硫黄島基地発進の米陸軍戦闘機来襲同年/////////////////////4月////////東京の北部が空襲を受ける同年/////////////////////5月////////東京区部の中西部が空襲を受ける同年/////////////////////6月10日///立川が空襲を受ける同年/////////////////////8月2日////未明、八王子が空襲を受ける同年/////////////////////8月6日////広島に原子爆弾が投下される同年/////////////////////8月9日////長崎に原子爆弾が投下される同年/////////////////////8月15日///日本、連合国に無条件降伏 青梅が空襲を受ける「防空・空襲年表」から防空訓練や疎開が進む一方、空襲は大規模となり、東京各地へ被害が広がっていったことが解かるのであった。バケツや火叩きによる消火を想定した備えでは、大空襲に対応できなかったことを伝える。並ぶ年月日から、戦争が日常をのみ込んでいく過程が浮かび上がるのであった。貝殻や竹を使った、食器の「代用品」の展示。左には貝殻に柄を付けた杓子、中央には竹製のスプーン3本、右には竹製のナイフ3本が並んでいた。金属製品に代わる道具として、身近な素材を加工して作られたもの。貝のくぼみや竹の形を生かした素朴な品々から、物資の乏しい時代を暮らす人々の工夫がうかがえるのであった。これも木・ガラス・陶器・布などで作られた「代用品」の展示。木製・ガラス製の戸車、陶製の煙管と分銅、布製のバケツ。物資が軍需へ優先的に回されるなか、さまざまな素材で生活用品を補った「代用品」が並ぶ。小さな部品にまで及ぶ材料の置き換えから、戦時下の物資不足と暮らしの工夫が伝わってくるのであった。「生活物資の欠乏1938年(昭和13)の国家総動員法公布により、あらゆる物資が軍需に向けられることとなった。政府は貴金属や繊維・皮製品・ゴム・石炭・石油などの民間での消費を規制し、家庭内の鉄類や貴金属の回収を推しすすめた。このため、日常生活品は金属に代わって陶磁器や木・紙といった素材が用いられ、伝統的な工芸技術によってさまざまな代用品が生産された。このうち陶製のものは、愛知県瀬戸地方などの窯業がさかんな地域で開発・製造された。これらの地域では、欧米への輸出向けの洋食器の販路〔写真外〕途絶え停滞していたため、代用品の開発・製造には積極的で、〔写真外〕まざまな製品を生み出した。また衣料品などでは、ステープル・〔写真外〕ァイバー(スフ)という人造繊維を用いたものが登場した。また1940年(昭和15)5月ころから節米運動が本格化し、主食の米の代わりに、うどんやそば・パン・ジャガイモ・サツマイモなどを〈代用食〉として食べることが奨励された。さらに、ガソリンの代わりに木炭を燃料とした〈代用燃料車〉などが登場するなど、代用品は広範囲にわたった。」国家総動員法のもと、金属や石油などの物資は軍需へ優先的に回され、暮らしには陶器・木・紙などを使った代用品があふれた。食料は代用食、衣料はスフ、交通は木炭自動車へと移り、戦時下の生活はあらゆる面で「代用」に支えられていたのである。 空襲への警戒と防空活動への参加を呼びかけるポスター「空襲は必至 防空へ邁進」。防空監視塔を背に空を見上げる防護隊員の姿は、本土空襲への危機感と、国民総動員体制のもとで防空が日常生活の一部となっていた時代を物語っているのであった。「ポスター「空襲は必至 防空へ邁進」Poster: Air Raid Unavoidable, Go for Air Defense昭和前期内務省・財団法人大日本防空協会/発行」 「オヤコ電球」の広告ポスター。大小の電球と、家族を思わせる三つの顔を組み合わせ、商品名を印象づけているのであった。照明 解決(中央に「トウ」のマーク)「是れだ!萬國特許オヤコ電球東京電燈株式会社東電電球株式会社」 昭和前期の広告ポスター「万国特許オヤコ電球」。東京電灯株式会社と東電電球株式会社が発行したもの。大きな電球の中に予備の小さな電球を収め、球切れでもすぐ交換できる便利さを売りにした商品である。幾何学的な構図と驚いた表情の顔を組み合わせた斬新なデザインは、商品の名を印象づける、遊び心のあるデザインが目を引くのであった。「ポスター「万国特許オヤコ電球」Poster: Nationally licensed Oyako light bulb昭和前期(1926~1945)東京電灯株式会社・東電電球株式会社/発行」 「灯火管制(とうかかんせい)👈️リンクBlackout夜間時、攻撃目標となった工場や都市の住宅を空襲から守るため、電灯など明かりが規制された。1937年(昭和12)防空法が制定され、灯火管制実施時に限り、国民に室内の明かりを制限する義務を負わせた。これを受けて、灯火管制用の電球や電灯笠、遮光用のカーテンなど、明かりを抑えるための生活用品が考案された。1941年(昭和16)12月14日、太平洋戦争が始まると灯火管制は本格的に実施され、市民は終戦までの間、うす暗い室内で空襲におびえながら暮らした。一方、米軍の爆撃機B29にはレーダーが搭載されており、攻撃も夜間爆撃下等に行われていたため、東京大空襲における灯火管制の効果はほとんどなかった。」 左「灯火管制用電灯笠Paper Lamp Shade Used during Emergency Blackouts昭和前期坂田宗時氏寄贈灯火管制用の電灯笠。明かりが外にもれないよう、家庭では電灯傘に黒い布を被せるなどの工夫がされ、専用の電灯笠も売り出された。物資不足のため紙製であるが模様が描かれたもの。標語が記載されているもの、装飾がされた電灯傘も販売された。」中央「灯火管制用の電球Light Bulbs Used for Emergency Blackouts昭和前期敵機襲来に備え、窓から明かりを漏らさないよう、周囲に暗い色を塗り、底の部分だけに光があたるように工夫された電球。灯火管制法によって照明器具の取り扱いに規制が加わったため、室内の明かるさをおさえる電球が普及した。」 ネットから。「燈火管制は何うすれば良いかWhat should the blackout do?1937年(昭和12)警視庁、東京市、東京府東京市・東京連合防護団/発行1937年(昭和12)11月、防空法施行後初めての防空演習実施に先立ち、東京市各戸に配布された通知。この通知によると、灯火管制は警戒管制と非常管制の二つに分かれていた。警戒管制は、屋内の光をある程度遮光すれば十分としている。一方で、非常管制は光が一切漏れないよう遮断・消灯する必要があるなど、実施すべき遮光の程度が異なっていた。この他にも、新聞紙3枚を張り合わせて電灯の覆いが作れるなど、各家庭で行える遮光の方法が紹介されている。」「防空体制太平洋戦争が勃発してから半年もたたない1942年(昭和17 )4月18日、東京は米軍機による初めての空襲を受けた。太平洋上の航空母艦から飛ったB25爆撃機13機による奇襲攻撃で、死者39人、家屋焼失61戸の被害を出した。こうした空襲に備えるため、1937年(昭和12) 4月に防空法が施行され、防空訓練が本格化した。1939年(昭和14 )には、防空その他の野戒防護に従事することを目的とした警防団が組織され、防空訓練が日常化されていった。さらに初空襲を受けた年の秋からは、モンペすがたの女性も消火訓練に動員された。内務省から「時局防空必携」が各家庭に配布され、家のなかに防空待避所をつくるか、庭に防空壕を掘るなどして空襲に備えることも要請された。その時点で想定された空襲は、一つの隣組に焼夷弾ーつの規模で、バケツの水で消化できるという非現実的なものであった。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.11
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「T6-2 生活の変化」。昭和初期の都市化や生活様式の近代化、関東大震災後の復興と人々の暮らしの変容を扱うテーマ。 「生活の変化大正中期から、民間企業に勤める給料生活者、とくに事務労働に従事する会社員は、〈サラリーマン〉と呼ばれた。彼らは、いわゆる.資本家と工場労働者にはさまれた新たな階層として〈新中間層〉とも称され、勤務時間のさだめられた生活を毎日繰り返す一方で、勤務時間外や体日を活用した余暇を楽しむことが増えた。やがれ第一次世界大戦による好景気をうけて、サラリーマンや工場労働者の貿金が上昇すると、生活費に占める交際費・娯楽教養費の割合も大きくなった。また、それらサラリーマンや工場労働者など給料生活者の増加は、職場と住居の分離を促した。それは、住宅の間取りや暮らし方にも変化を与え、交通の発達とともに東京近郊の住宅地では、新しい生活様式が形成されていった。その機運は、生活の合理化や洋風化をすすめる〈生活改善運動〉によって推進された。それが目指したような急激な生活改革は難しかったが、たとえば家族全員で食卓を囲む卓袱台(ちゃぶだい)や茶の間の普及など、家族中心の暮らしから徐々に生活の合理化が浸透していった。「住生活の諸相近代化によって登場したガスと電気は、まず光源として普及し、照明から家事を含む生活全般に広く用いられるようになった。これらによって、住生活のあり方は徐々に変化した。ガス灯は石油ランプと並行して、明治期のあかりの主役であったが、大正以降はその機能を電灯に譲り、むしろガスコンロ(ガス七輪)が調理用の燃焼器として一般化し、台所の配置などにも影響を与えた。そのほか、ガスストーブは洋間の暖房具として文化住宅などで用いられた。一方、電気は従来の火力に加え、水力発電の開発がすすんで供給量が飛躍的に増大した。さらに東京市電気局、東京電灯、日本電灯の3者による値下げ合戦で電力料金が低下したため、電灯が急速に普及した。当時の電球は20ワット程度のものが一般的だったが、従来のあかりよりも明るく、器具の手入れも簡単になった。また、扇風機やアイロンなどの電化製品は、山の手の家庭を中心に早くから取り入れられ、欧米型の生活に用いられるトースター、ストーブ、洗濯機、冷蔵庫なども、昭和初期に国産化されて珍しがられた。」 「サラリーマンの服装」。 「サラリーマンの服装Clothing Used by White-Collar Workersパナマ帽Panama hat昭和前期上着・ズボンJacket・Trousers1935年(昭和10)革鞄(かわかばん)Leather Bag昭和前期」 ・革鞄(仕事で使う書類鞄)・『モダン日本』第4巻第7号(昭和8年〈1933〉)・サラリーマンとビール・ビヤホールで使うグラス各種・栓抜き・ビール瓶・ピッチャー・トレー■「モダン日本 第4巻第7号MODAN NIPPON (MODERN NIPPON)1933年(昭和8)モダン日本社/発行モダンなサラリーマンたちが愛読した雑誌。内容は芸能・スポーツのほか国産から舶来地の紹介、漫画、グラビアと多岐にわたり、当時のサラリーマンの多様な趣味を感じさせる。第4巻第7号は水着特集のグラビアが掲載されている。」 ■「サラリーマンとビールWhite collar workers and beerビールは幕末に欧米から日本にもたらされ、1899年(明治32)には、銀座に日本初のビヤホールが開店した。東京では、大正期に「新中間層」と呼ばれるサラリーマンが登場すると、急激にビールの消費量が増えた。彼らは、当時流行したカフェーやビヤホールに立ち寄って、ビールや洋風のおつまみを前に、会話を楽しんだ。」 ■「ビヤホールで使われた品々Articles used in a beer hall昭和一~昭和前期キリンビールビール瓶キリンビールピッチャーキリンビールグラス(大・小)キリンビールつり銭皿キリンビールの栓が入った包装袋」 「サラリーマンの登場Emergence of the "Salarymen"サラリーマンの登場が、都市の文化とライフスタイルを大きく変えた。The emergence of salaried workers, known as "salary men," drastically changed theculture and lifestyle of the city.上段写真・丸ビル東側入口の一部 (三菱経済研究所蔵) サラリーマンに親しまれて、丸ビルの姿も親しまれる。・丸ビルエレベーター前のサラリーマン (三菱経済研究所蔵)下段の漫画左側・サラリーマンの天国右側・サラリーマンの地獄 (出典) 北沢楽天『楽天全集』より(1930年頃)昭和初期を代表するキリンビールの大型広告ポスター① モダンガールを思わせる女性赤と白のスカーフを頭に巻いた若い女性は、昭和初期の流行を取り入れた姿。当時は洋装や洋風の生活様式が急速に普及し、広告にも「都会的で洗練された女性」が数多く登場した。② 麒麟が描かれた扇女性が持つ扇には、キリンビールの象徴である麒麟が大きく描かれている。麒麟は中国の伝説上の霊獣で、吉祥繁栄平和を象徴するとされ、創業以来キリンビールの商標として使われている。③ 洋風広告デザイン文字には英語KIRIN BEER COMPANY, LIMITEDが入り、日本語と英語を組み合わせたデザインは、当時の国際都市・東京らしいモダンな雰囲気を感じさせる。「キリンビール・キリンレモンPoster: "Kirin Beer, Kirin Lemon"昭和初期精版印刷株式会社/印刷麒麟麦酒株式会社/発行水着姿の女性が広げている日傘に描かれているのは、1889年(明治22)の発売以来用いられているビールのラベルデザイン。麒麟麦酒株式会社は震災復興を機に炭酸飲料製造にも取り組み、1928年(昭和3)にはキリンレモンが発売された。」 「都市の新しい職業1890年(明治23)、荒涼とした丸の内の官有地の払い下げを受けた三菱は、そこへ最新のオフィス街の建設を企てた。赤煉瓦のビルが次々に建てられ、その一角は、ロンドンの金融街・シティのロンバート・ストリートにならって「一丁ロンドン」と呼ばれた。そして、1914年(大正3)に東京駅ができると丸の内一帯はさらなる活況を呈した。丸ビルが関東大震災でさしたる被害を受けなかったこともあり、一帯はやがて鉄筋コンクリート造のビルが立ち並ぶ一大ビジネスセンターへと成長した。当時、「新中間層」と呼ばれたサラリーマンや、職場に進出した「職業婦人」たちは、東京郊外から私鉄や省線電車(国有の鉄道)で通勤し、ビジネスセンターには新しい風俗を生み出した。こうした現象はサラリーマンや働く女性たちの職住分離の進展を示すもので、労働の形の変化は、新しい家族関係や生活様式を生み出すことになった。また、サラリーマン家庭を中心に、女性は家庭内で家事をするという性別による役割分担が確立され、〈女中〉〈子守〉の役割を妻が一人でこなす専業主婦というあり方も生まれた。こうした主婦像の成立に『主婦之友』などの家庭・女性雑誌が果たした役割は大きい。女性たちは家計簿をつけ、栄養を考えて食事をつくるなど、合理的な家事・育児についての考えや知識を雑誌の記事から学びとり、模範的な主婦イメージをつくりあげていった。」・パラソル Parasol 大正期・パナマ帽子(婦人用) Panama Hat (for Ladies) 昭和初期 松屋/製 パナマ草で編まれた夏用の帽子・『婦人と職業』創刊号 1924年(大正13) 関東大震災後に創刊された職業婦人を目指す女性を対象とした雑誌。女性が憧れる職業の紹介や 職業に就く事で女性の人生に起こる変化などについて、各界の専門家が文章を寄せている。 各記事には、「震災の影響」という言葉が散見し、震災経験によって社會や人生観が変わった 人々の存在がうかがえる。・女性タイピストの活躍 Activity of the women typist 大正から昭和初期、官庁・会社等でビジネス文書や書簡の作成は英文・英文タイプによって 作成していた。プロのなり手となったタイピストは「職業婦人の花」ともいわれる存在だった。 昭和初期にはタイピスト養成専門の女学校が東京、大阪に設立されるほどの人気職業だったが、 その習得は容易ではなかった。また、語学力も要求された。・タイプライター・タイピスト学校「働く女性の進出明治時代には教員・女医・看護婦・薬剤師や〈産婆〉〈女工〉などに限られていた女性の職業は、第一次世界大戦(1914~1918年)当時の好況を反映して職種が増え、その社会的進出が目立って〈職業婦人〉という言葉が生まれた。それまでの職種に加えて、官庁・銀行・会社などの事務員をはじめ、電話交換手・バスガール・タイピスト・デパートガールなどが女性の新しい職業として脚光を浴びた。大正期に働く女性の進出が目立ったのは、「青鞜社」の運動以後の古い家族制度からの解放を促す機運に負うところが大きかった。その半面で、1920年(大正9)以後の不況期にも、働く女性が徐々に増大したのは、男性より低賃金で雇用できたからである。大正後期から東京都市は労働問題として職業婦人に関する実態調査を行ったが、それによると、就職の理由に「家計補助」をあげた人が圧倒的に多く、また「経済的独立のため」とこたえた人も1割前後いた。」 「「職業婦人」の実像 1931年(昭和6)The True Image of "Professional Women" (1931)「職業婦人」たちは、家計の補助や自活のための生活費、結婚資金など、さまざまな目的を持って社会へ進出していた。」① 就職の目的円グラフを見ると、・家計補助 76.57%・自活 9.83%・その他 9.81%・結婚資金 3.22%・貯蓄 0.57%約4人に3人が「家計を助けるため」に働いていたことが分かる。② 配偶者の有無・未婚者 83.43%・有夫者 11.61%・死別者 3.68%・生別者 1.28%当時の職業婦人の多くは結婚前の若い女性だったことが分かる。③ 職種別の比較展示では、・事務員・店員・タイピスト・電話交換手・エレベーターガール・バスの車掌・女工(工場労働者)について、・年齢・勤続年数・平均給与と支出・学歴が比較されている。分かること・タイピストは比較的学歴が高く、平均月収も高め。・電話交換手は若い女性が中心。・エレベーターガールは勤続年数が短く、若年層が多い。・女工は学歴が比較的低く、工場勤務が中心。など、職業ごとの違いが一目で分かる構成になっている。「職業婦人」の実像(1931年)の展示では、働く女性の就職理由や年齢、収入、学歴などがグラフで紹介されていた。就職理由の約76%が「家計補助」で、未婚者は83%を占めるなど、当時の職業婦人の多くが家族を支えながら働く若い女性であったことが分かる。タイピストや電話交換手、店員など職種ごとの特徴も興味深い展示であった。 左側説明板タイプスト学校修了証書Diploma for Regular Typing School1920年(大正9)6月30日正則タイプスト学校/発行タイプライターを打つことを仕事とするタイピストは、専門的な技術を必要とし、給与も高かったことから職業婦人の憧れの職業であった。そのため、タイピング技術を教える職業学校が各地で設立された。中央タイプライター(明治後期)右側説明板実用タイプライティング摘要A Manual of Practical Typewriting1931年(昭和6)1月18日黒沢太郎/著泰文堂/発行タイピスト学校で用いられていた英文タイプライター用の教科書。「修了証書 正則タイプスト学校 修了證書修了證書新潟県 河端マツ 明治三十五年二月十五日生一、タイプライタ科右者本校ニ於テ前記ノ學科ヲ修了セルコトヲ證ス大正九年六月丗日正則タイピスト学校長秋元正四第三二五號(赤印)正則タイプスト学校印正則タイプスト学校長秋元正四之印」 「女性解放の運動女性解放運動の芽は、すでに明治時代に啓蒙思想家たちの婦人論、自由民権運動、日本基督教婦人矯風会の廃娼運動にみられる。また、明治中期には、初のストライキが製糸工場の〈女工〉によって行われた。明治末期、女性のみの手による雑誌『青鞜』は、進歩的な若い女性の旧家族制度などへの反発を促し、のちに活躍する多くの女性活動者がこれを愛読し、誌面にも参加した。女性による団体は友愛婦人部、新婦人協会、赤瀾会、婦人参政権獲得期成同盟会など、労働運動・社会主義運動・政治運動のそれぞれの分野で活躍したが、戦争が近づくにつれ、解散を余儀なくされるか、政府の統制下におかれた。女性の参政権獲得は、第二次世界大戦後の1945年(昭和20)12月まで待たなければならなかった。」女性解放運動の歩みを紹介する展示。『青鞜』の創刊や新婦人協会、赤瀾会などの活動を経て、女性たちは教育・労働・参政権の実現を目指して歩み続けた。しかし戦時下では活動が制限され、女性参政権が実現したのは終戦後の1945年であった。「職種別にみる職業婦人の姿Professional Women by Occupation掲載されている写真は次のとおりです。・女工(ライオン歯磨歯磨チューブ詰め) 1930年(昭和5)頃 『日本地理大系 第3巻』より・エレベーターガール 1934年(昭和9)頃 『婦女界』昭和9年3月号より・バスの車掌(東京乗合自動車) 1934年(昭和9)頃 『婦女界』昭和9年3月号より・電話交換手 1930年(昭和5)頃 『日本地理大系 第3巻』より・店員(松屋) 1932年(昭和7)頃 『婦女界』昭和7年2月号より・事務員(東京都役所) 1935年(昭和10)頃・タイピスト学校で学ぶ生徒 1935年(昭和10)頃 『婦女界』昭和10年2月号より」昭和初期に活躍した「職業婦人」の姿を紹介する展示。女工、電話交換手、エレベーターガール、デパート店員、バスの車掌、事務員、タイピストなど、都市の発展とともに生まれた多彩な職業が写真で紹介され、女性の社会進出の広がりを実感できる展示であった。 「サンラッス海水着売出しチラシSale Announcement for Sun Bathing Suits昭和初期銀座松坂屋/発行松坂屋は、1925年(大正14)、社内に「流行研究会」という開発部門を創設し、ネクタイ、洋傘など12品目の旅行商品を開発した。「サンランス(太陽の恋人)」はここから生まれた海水着のブランドで、たちまち評判となりロングセラー商品となった。」「モダンガールの水着左のイラストは雑誌『令女界』の附録として配布されたもの。右は新舞子(愛知県知多市)の海水浴場に現れたモダンガールの姿が描かれている。」 「東横百貨店包装紙(東横・目蒲線沿線図付)Toyoko Department Store Wrapping Paper(with a Guide Along Toyoko and Mekama Lines)昭和初期 東横百貨店/発行東横百貨店渋谷店(後の東急百貨店)は、渋谷に乗り入れる東京横浜電鉄の運営する百貨店として、1934年(昭和9)に開業した。資料は開業当時の包装紙で、路線図と沿線の名所が紹介されている。」「新時代婦人心得知らねば恥大画帖New Era Ladies' Manners,Ignorance is Embarrassing: Picture Book1932年(昭和7)1月新井兵吾/編 講談社/発行訪問接客の作法や食事のマナーに加え、美しい化粧や髪型の整え方を漫画やイラスト、写真などで紹介している。新妻としてのふさわしい振る舞いや親としての務めなど、この当時賞美された女性像を垣間見ることもできる。『婦人倶楽部』第13巻第1号の付録であり、全体が蛇腹折りで、誌内では女性向け広告も掲載されている。」昭和7年(1932)の『婦人倶楽部』付録『新時代婦人心得 知らねば恥大画帖』。訪問作法や食事のマナー、化粧・髪型、新妻や母親としての心得を漫画や写真で紹介している。モダンな生活文化の広がりと、当時理想とされた女性像を知ることができる興味深い資料である。 「伊勢丹新宿店起工記念大廉売チラシCorner-Stone Laying Sale1932年(昭和7)6月伊勢丹新宿店/発行伊勢丹新宿店は関東大震災後、都心と郊外とを結ぶターミナルとして発展著しい新宿に開店した。新宿にはすでに百貨店「ターミナル型」があったが、後に伊勢丹も新宿へ進出し、その建物は新宿店の店舗に一体化された。チラシには、着物、浴衣、コート、夏蒲団、傘などが6月1日から7日まで廉価で販売されることがうたわれている。」 昭和7年(1932)の「伊勢丹新宿店起工記念 大廉売チラシ」。関東大震災後、急速に発展する新宿への進出を記念して発行された。着物や浴衣、コート、夏蒲団などを6月1日から7日まで特価販売すると宣伝しており、当時の百貨店の勢いと新宿発展の歩みを伝える貴重な資料である。「昭和モダン関東大震災後の復興は東京の姿を大きく変え、昭和に入ると新たな都市の景観と文化が生み出された。欧米文化の受容はこの時期さらにすすみ、欧米の流行は日本においても同時代的に取り入れられていくようになった。また、日本の生活様式のなかに欧米の様式を取り入れた和洋折衷の文化も一般的になった。大正末期から昭和初期にかけてのこの時期、昭和恐慌による不況の影がありながらも、都市文化は大いに花開いた。そして、それらを象徴する言葉として流行し、さかんに用いられたのが「モダン」である。建築や文学、美術などを含むさまざまな分野でモダンな作品・様式が生まれたほか、最新流行の服装をし、自由で行動的なライフスタイルを求めるモボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)と呼ばれる若者たちも登場した。彼らは震災復興後、より近代的な街並みに生まれ変わった銀座などを闊歩し、モダンのイメージを形づくっていった。また、休日に百貨店などへ買い物に行くという消費文化の端緒も、この時期より多くみられるようになった。銀座や新宿、渋谷などに新たに展開された百貨店は、延伸される私鉄各線とも結びつき、多くの人々を集める流行の発信地となっていった。」関東大震災からの復興により東京は近代都市へと生まれ変わり、昭和初期には欧米文化を取り入れた「昭和モダン」が花開いた。モボ・モガに代表される自由で活動的な若者文化が誕生し、銀座をはじめとする街並みは時代の象徴となった。また、百貨店と私鉄沿線の発展によって買い物を楽しむ消費文化も広がり、現代都市生活の礎が築かれていった。「昭和モダンの風景Scenes of Shōwa Modern「銀座交叉点」1939年(昭和14) 師岡宏次 撮影1932年(昭和7)に竣工し服部時計店(現・和光)は、モダンの街銀座の象徴となった。」 「散歩」1935年(昭和10)師岡宏次 撮影銀座には多くのモダンな服装の若者たちがつどった。」 「繁華なる新宿通り」1933年(昭和8)頃画面右手には百貨店ほてい屋と、開店間もない伊勢丹が写る。「置時計Clock1938年(昭和13)模様の異なる石を組み合わせたデザイン。」 「置時計Clock昭和初期 精工舎製直線的なデザイン、はっきりした色の対比といったアール・デコの特徴がみられる。」「東京の子供たちChildren of Tokyo・シーソーで遊ぶ子供たち(日比谷公園) 1931~1933年(昭和6~8) 加藤五百蔵 撮影 台東区立したまちミュージアム 所蔵・絵本売りの少女(浅草仲見世) 1932年(昭和7)・写生を指導する山本鼎(自由学園) 1921年(大正10) 自由学園資料室 所蔵」 ・活動写真街を歩く丁稚奉公の少年たち (浅草六区) 大正~昭和初期「東京の子供たち子供のおもちゃは、明治から大正にかけて転換期を迎えた。それまでの手づくりのものに加えて、ブリキ製の汽車、セルロイド製の人形などが登場し、キャラクター商品も生み出された。一方、ベーゴマ、メンコ、人形遊び・ままごと遊びなどは相変わらずさかんで、路地裏や駄菓子屋は子供たちの社交の場としてにぎわった。また、組み立て模型や双六など、少年少女雑誌の付録も人気を集めた。さらに大正期には、子供の趣味や自発性を尊重する自由教育運動が起こり、成城小学校、成蹊学園、池袋児童の村小学校、自由学園などの私立学校が誕生した。『赤い鳥』『コドモノクニ』といった児童雑誌に、子供の自由詩・綴り方・自由画などの投稿作品が掲載されたのもこのころである。しかしその一方で、義務教育を終えるとすぐ、商家に奉公するか、工場に勤める働き手となる子供たちも多かった。」「手回し式映写機Hand-operated Cinema Projector昭和初期大正~昭和に入ると、家庭で映画を上映できる手回し式の映写機が登場し、やがて量産もされた。専用のごく短いフィルムも販売され、時代劇やアニメなど様々な作品が楽しまれた。こうした販売品には、映画館で使用されなくなったフィルムを切り売りしたものも多くあった。」 「漫画常設館The Comic Work of Shūichi Tagawa1933年(昭和8)田河水泡/画『のらくろ』シリーズなどで知られる漫画家、田河水泡の初期作品集。大ブームを巻き起こした『のらくろ』シリーズの第一話「のらくろ二等兵」のほか、ロボットを主人公にした最初期のSF漫画などが収録されている。」 「漫画『ベティの日記』A Comic book of "Betty Boop" published in Japan1935年(昭和10)湯浅栄次/画作」 「漫画『ベティお嬢さん』A Comic book of "Betty Boop" published in Japan1934年(昭和9)湯浅修一/画春江堂/発行」 「まんが合せDiploma for Regular Typing School昭和前期当時人気のあった「ノンキナトウサン」をはじめ、ミッキーマウスやベティ・ブープ、キューピーなど、様々なキャラクターを用いた絵合わせかるた。海外で生まれたキャラクターが輸入され、子供たちの間でも一般的になっていたことがわかる。」 「東京府内の私営鉄道路線の開業年Year of Opening of Private Railways in Tokyo Prefecture大正から昭和の初めにかけて、都心から郊外へと延びる鉄道が次々と開業した。From the Taisho era (1912–1926) to the beginning of the Showa era (1926–1989), railroads extending from the city center to the suburbs were opened one after another.」 国営鉄道国営鉄道市営電車私営鉄道(開業年)・東武鉄道 1899年・京浜電気鉄道 1899年・玉川電気鉄道 1907年・王子電気軌道 1911年・京成電気軌道 1912年・京王電気軌道 1913年・東上鉄道 1914年・武蔵野鉄道 1915年・城東電気軌道 1917年・西武軌道線 1921年・池上電気鉄道 1922年・目黒蒲田電鉄 1923年・東京横浜電鉄 1926年・小田原急行鉄道 1927年・東京地下鉄道 1927年・西武鉄道村山線 1927年・帝都電鉄 1933年・東京高速鉄道 1938年「交通の移り変わり1903年(明治36)にはじまる東京市の路面電車は、1911年から東京市電車(市電)となり、市民の足として欠かせない存在となっていた。その一方で、関東大震災を契機とした市街地の復興によって、震災後から車の機動性も活用したバスの利用者が増加した。車体の前部が箱形の東京市電のバスとともに、車体が平箱の民営バスは「青バス」と呼ばれて市民に親しまれた。タクシーは、外国自動車会社の国内生産開始による自動車台数の増加と、市内1円の均一料金制によって「円タク」の名で人気を博し、それまでの馬車・人力車に代わって関東大震災後から急激に普及した。明治末期に電化された山手線は、1925年(大正14)、環状運転が開始して完全な環状運転となり、市内交通の動脈となった。震災前後に次々と開業した郊外電車は、山手線の池袋、新宿、渋谷、目黒、五反田などから放射状に路線を延ばしていった。しかし都心部に直接乗り入れる郊外電車はなく、山手線内の交通は市電や自動車に限られていた。こうしたなかで、大量輸送を実現する新しい交通手段として期待された地下鉄は、1927年(昭和2)に初めて上野・浅草間で開業した。」 「東京市内の交通網 1935年(昭和10)ごろTransportation Network in Tokyo City (ca. 1935)東京市内には市電やバスなどさまざまな交通機関が網の目のように張り巡らされていた。A network of various transportation systems, including streetcars and buses, ran throughout the city of Tokyo.東京市営バス電車連絡路線図」 「東京市バス青バス運転系統図Route Maps for Tokyo City Public Buses and Private Buses1937年(昭和12)12月10日鉄道省監督局/発行」東京市内のバスの運転系統をまとめた図面。「青バス」は東京乗合自動車の運営する私営バスのことで、系統色の塗装した車体を使用していたことからその愛称がある。東京乗合自動車は市バスに先駆け1919年(大正8)より営業を開始していた。 「東京市営バス運転系統Map of Tokyo City Bus Routes昭和初期東京市電気局/発行三越百貨店の広告入りバス冊子で、銀座・新宿・浅草の名所があることから1930年(昭和5)以降の発行と思われる。市バスの利用者は昭和期に入ると大幅に増加し、1935年(昭和10)には1日約22万人の利用者があった。」「市営バス乗車の栞Guidebook to Riding Municipal Buses1931年(昭和6)東京市電気局/発行関東大震災により被害を受けた東京市電の代替として運行が始まった東京市営バスは、市電復旧後も需要増から営業が継続し、正式な事業として拡大が図られていった。資料は当時の運転系統と所要時間を同心円状の図で示したもの。」 手前には、余暇に使用する数々の道具が。「工場労働者の家計支出構造の動向Trends in Household Expenditure Structure of Factory Workers余暇活動への支出割合は年々増え、さまざまなレジャー・スポーツが楽しまれていた。The percentage of spending on recreational activities increased over the years,and people enjoyed a variety of leisure and sports.凡例・修養・娯楽費(緑)・飲食物費(黄)・住居費(赤)・被服費(青)・その他(灰)家計支出の推移1916年(大正5)実支出 26.43円修養・娯楽費 1.4%1919年(大正8)実支出 69.76円修養・娯楽費 2.5%1922年(大正11)実支出 106.15円修養・娯楽費 2.8%1926・1927年(大正15・昭和2)実支出 111.76円修養・娯楽費 4.6%」下段写真の説明・明治神宮外苑野球場(大正~昭和初期)・八ヶ岳への登山道 1937年(昭和12)6月12日 宮本馨 撮影・大磯海水浴場 1925年(大正14)・浜町公園水泳場 昭和初期・テレマークを決めるスキーヤー 大正期・蒲田ベビーゴルフ場 1928年(昭和3)このパネルは、大正から昭和初期にかけて、日本人の暮らしが「生活を維持するだけ」から「余暇を楽しむ生活」へ変化していったことを示すためのもの。特に注目すべき点は、修養・娯楽費が1916年の1.4%から1926・27年には4.6%へと約3倍に増えていること。食費は依然として家計の大きな割合を占めるものの、その比率は徐々に低下し、娯楽に回せるお金が増えていること。その結果、野球・登山・海水浴・水泳・スキー・ゴルフなどのスポーツやレジャーが一般の人々にも広まり始めたこと。つまり、この展示は、昭和モダンの時代には経済成長や都市化を背景として、人々の生活に「余暇」や「趣味」を楽しむ文化が根付き始めたことを、家計調査のデータと当時の写真を組み合わせて分かりやすく紹介しているのであった。「余暇とスポーツ工場労働者とサラリーマンの台頭は、労働時間の短縮とともに余暇時間を成立させた。マス・メディアの発達によって生まれた時間や、雑誌、映画、レコード、ラジオといった媒体による娯楽の提供も、さかんに行われるようになった。一方、西欧で発達したスポーツやレクリエーションは、まず明治期の学校制度に組み込まれて活用された。それらはやがて一般に普及するようになり、野球・水泳・登山などが、大正期から昭和初期にかけて、生活の近代化とともに浸透していった。また、テニス、スキー、ゴルフといったスポーツも富裕な層を中心に愛好された。都市公園を中心に愛好された。そして1926年(大正15年)、明治神宮外苑に野球場が完成し、以後神宮外苑での六大学野球が熱狂する観衆でぎわった。また、郊外電車の発達につれて、近郊へのハイキングがさかんになり私鉄各線の案内所には、釣りや遊園地へのガイド記事も掲載されるようになった。」 ① 東京市鑑札付自転車② 釣道具箱③ 釣道具類一式④ 麦茶ひやし① 東京市鑑札付自転車 Tokyo City model with marked bicycle ② 釣道具箱 Fishing gear box 昭和前期 淡路宗一氏 寄贈③ 釣道具類一式 One set of fishing gear 瀧本喜代氏 寄贈④ 麦茶ひやし Barley tea cold water tool 大野欣雄氏 寄贈① 2号共電式卓上電話機No.2 Common Battery Desk-type Telephone川北電気製作所/製造戸塚佳雄氏/寄贈共電式は、受話器を上げると交換手につながる。それまでの磁石式と違って発電機や電池を内蔵する必要がなくなったため、本体が小型化され、故障も少なくなった。② 2号自動式卓上電話機No.2 Automatic Desk-type Telephone1927年(昭和2)赤木コレクション自動式は、相手の番号をダイヤルすることで、交換手を通さずに通話できる画期的なものだった。電話機の使い方がそれまでと大きく変わったため、「送話口の下の回転盤を指示まで廻して放す」と使い方が書かれている。③3号自動式卓上電話機No.3 Automatic Desk-type Telephone1953年(昭和28)戸塚佳雄氏 寄贈送話部分と受話部分をつないで一本化させ、素材に人口樹脂・ベークライトを用いた初めての電話器。戦後に普及した、いわゆる「黒電話」の原型として、長い間活躍した。④ 23号自動式壁掛電話機No.23 Automatic Desk-type Telephone1954年(昭和29)東京電話機器工業会 寄贈戸塚佳雄氏 寄贈1953年(昭和28)、2号自動式壁掛電話機の伝達構造(音の伝わり方)と品質を3号自動電話機と同一のものに改良し、23号自動式壁掛機として使われた⑤電気スタンド型真空管ラジオA desk lamp type radio1950年(昭和25)全日本真空管友の会 寄贈昭和に入り、ラジオの普及が進むと、こうした一風変わった製品も作られるようになった。ラジオが日常のものとなり、同様に普及が進む洋風のインテリアに合うような形に求められるようになったことがうかがえる。「自働式電話交換の良し悪しは使ひ方一つポスター本文(右側・縦書き)一、先づ相手の番号をよく調べてから一、受話器を静かに外して耳にあてかすかな連続音を聞えてから一、送話口の下の廻轉盤を指止まで廻して放す一、ジー ジーの音は「お話中」 一、ツー ツーの音は「呼出中」 逓信省」 「ガス・電気の普及とその利用Diffusion and Use of Gas and Electricity灯火用の利用がもともとだったガスは、電気の普及とともに熱源への利用に機能を変えていった。The use of gas, which had been mainly for lighting, shifted to that as a heat source withthe spread of electricity.」 ガスの灯火用と燃料用の利用割合ガスはおもに燃料用として使用されるようになった。(棒グラフ)灯火用(灰色)燃料用(青色)推移の概要 ■ ■ 1918年(大正7) 43%・57%1919年(大正8) 44%・56%1920年(大正9) 46%・54%1921年(大正10) 46%・54%1922年(大正11) 49%・51%1923年(大正12) 74%・26%1924年(大正13) 80%・20%1925年(大正14) 83%・17%1926年(大正15) 85%・15%1927年(昭和2) 88%・12%1928年(昭和3) 92%・ 8%1929年(昭和4) 94%・ 6%1930年(昭和5) 95%・ 5%1931年(昭和6) 95%・ 5%1932年(昭和7) 96%・ 4%東京府におけるガス灯・電灯数ガス灯は開始当初のあかりの主役であったが、大正以降は電灯がそれに取って代わった。(折れ線グラフ)赤線:電灯数青線:ガス灯数グラフ中央には関東大震災が示され、震災後も電灯数は急速に増加。電灯数は約227万灯から最終的には約692万灯まで増加。一方、ガス灯数は75万灯前後から9万灯前後へと減少。1.照明の主役がガス灯から電灯へ移ったこと ・電気の普及によって、街路や家庭の照明はガス灯から電灯へ急速に切り替わった。2.ガスの役割が変化したこと ・照明用だったガスは、電灯の普及後は炊事・給湯などの熱源として利用されるようになった。 ・棒グラフは、その用途の変化を割合で示している。3.近代都市・東京の生活インフラが完成していったこと ・電気・ガス・電話・交通網などの都市インフラが整備され、人々の生活はより便利で 快適になった。つまり、このパネルは「昭和モダン」の背景となった都市生活の近代化を、エネルギー利用の変化という視点から分かりやすく示す展示になっていた。左:電気スタンド型真空管ラジオ電気スタンド型真空管ラジオ1935年(昭和10)頃日本ラジオ博物館 寄贈昭和に入り、ラジオの音をみながら楽しむこと、こうした一種のインテリア性をもつ製品も現れるようになった。電気スタンドが日常のものとなり、照明と音を兼ね備えた実用的なインテリアにもつながる例がみられるようになったことがわかる。右:電気蓄音機Electric Gramophone昭和初期日本ラジオ博物館 寄贈電気蓄音機は、レコードの再生だけでなく電気増幅器(アンプ)を備え、電気的に音を大きくして再生することができる。初期の電気録音・電気再生技術の普及により、より高音質で音楽を楽しめるようになった。振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.10
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「T5-2 水害都市東京」。「明治43年東京洪水の被害Damages from the Flooding of Tokyo in 19101910年(明治43)8月の台風と大雨により、東日本の各所で洪水が起きた。東京では市街化が進んでいた東部の低地部分を中心に大きな被害が発生した。In August 1910, a typhoon and heavy rain caused flooding in various parts of eastern Japan. In Tokyo, heavy damage occurred mainly in low-lying areas in the eastern part of the city, where urbanization had been progressing.地図明治43年東京洪水の被災地域(東京市部分)主な河川・江戸川(神田川)・隅田川・中川・東京湾■緑色部分が浸水地域を示している。明治43年洪水の被災状況(東京府分)展示には、市内15区と郡部ごとの・床上浸水・床下浸水・浸水家屋合計・死亡・負傷・行方不明が一覧表として掲載されている。東京市内 合計・床上浸水:88,494戸・床下浸水:33,871戸・浸水家屋計:122,365戸・死亡:18人・負傷:9人・行方不明:3人・人的被害計:30人東京府郡部 合計・床上浸水:44,814戸・床下浸水:10,879戸・浸水家屋計:55,693戸・死亡:27人・負傷:108人・行方不明:4人・人的被害計:139人」 「洪水と高潮明治初期からほぼ毎年、市内各所で洪水による被害が発生したが、明治20年代以降では市域全体に被害をもたらす大水害も頻発するようになった。とくに全国25府県に被害を及ぼした1896年(明治29)9月の明治29年洪水、隅田川沿岸を襲った1902年(明治35)8月の明治35年洪水、1907年の8月・9月と連続した明治40年洪水、そして東日本全域を襲った1910年の明治43年洪水、翌1911年の6月から8月に連発した明治44年洪水などの被害が顕著だった。一方、従来から高潮の被害が続いていた東京湾岸地域でも、洲崎遊郭など沿岸に歓楽街が発達し、築地や月島などの新たな埋め立て地が造成されると、顕著な被害が報告されるようになった。とくに1911年(明治44)7月26日の暴風雨により発生した高潮や、1917年(大正6)の東京湾大高潮による被害は甚大であった。」 「長火鉢」。この長火鉢は1916(大正5)年頃に製作され、翌年の台風洪水でついた傷を今も残している。その後も関東大震災や東京大空襲をくぐり抜けてきた、東京の災害の歴史と人々の暮らしを静かに語り継ぐ貴重な生活資料である。 「長火鉢A brazier placed in a house which was flooded by the flood caused by the typhoon in 1917.1916年(大正5)頃墨田区在住者からの寄贈資料。同区亀沢町の指物師に注文製作したもので、1917年(大正6)の台風による洪水や、関東大震災、東京大空襲などをくぐり抜けてきた。正面右上などに1917年の洪水でついた傷が残っている。」 「大正6年東京湾海嘯(かいしょう)の被害Damages from the Tokyo Bay Tidal Wave of 19171917年(大正6)10月に関東地方を襲った台風によって、東京湾では海面が上昇し陸上に侵入する海嘯(高潮)が発生した。湾岸部にあたる京橋区、深川区(今の中央区・江東区の沿岸部)や、隅田川沿岸部での被害が甚大だった。In October 1917, a typhoon hit the Kanto region, causing a "tidal wave" in Tokyo Bay, as the sea level rose and water intruded into land. Kyōbashi and Fukagawa wards(coastal areas of today's Chūō and Kōtō wards) along the bay and the SumidagawaRiver were severely damaged.」大正6年東京湾海嘯における被災状況(東京市分)被害総計浸水被害床上浸水 43,901棟床下浸水 27,251棟合計 71,152棟人的被害死亡 113人負傷 575人行方不明 11人合計 699人建物被害全壊 574棟半壊 488棟破損 16,848棟流出 138棟合計 18,048棟特に被害が大きかった地域深川区(現在の江東区)浸水 11,303棟死者 79人負傷 210人行方不明 11人人的被害計 300人京橋区(現在の中央区)浸水 12,293棟死者 24人負傷 283人人的被害計 307人人的被害では深川区と並ぶ大きな被害。本所区(現在の墨田区)浸水 16,881棟死者 3人負傷 67人浸水棟数は東京市内でも特に多く記録されている。大正6(1917)年10月の台風では、東京湾で海嘯(高潮)が発生し、湾岸部や隅田川沿岸は甚大な被害を受けた。東京市内では浸水家屋約7万1千棟、人的被害699人、建物被害約1万8千棟に達し、この災害は後の防潮堤や水門整備など東京の高潮対策の原点となった。「東京災害年表Tokyo Disaster Chronology明治以降、東京東部を中心に風水害が数多く発生した。Since the Meiji era (1868–1912), numerous wind and flood disasters occurred mainly in the eastern part of Tokyo.」東京のおもな自然災害(明治初年~大正12年) 年 月日 東京のおもな自然災害(明治初期~大正12)1871年(明治4) 7月19日 暴風雨・高潮1884年(明治17) 10月14日 地震1885年(明治18) 7月1日 暴風雨・洪水1894年(明治27) 6月19日 東京地震1896年(明治29) 9月7日~16日 暴風雨・洪水1899年(明治32) 10月7日 暴風雨1900年(明治33) 9月27日 暴風雨1902年(明治35) 8月7日 大雨1903年(明治36) 9月23日 暴風雨1907年(明治40) 8月23日~26日 大雨1910年(明治43) 8月6日~11日 暴風雨・洪水1911年(明治44) 7月25日~26日 暴風雨・高潮1917年(大正6) 9月30日~10月2日 暴風雨・高潮1923年(大正12) 9月1日 関東大震災 戦後のおもな自然災台風・暴風雨・カスリーン台風(1947年)・キティ台風(1949年)・狩野川台風(1958年)・伊勢湾台風(1959年)・第2室戸台風(1961年)・平成5年台風11号(1993年)地震・火山活動・伊豆大島近海地震(1978年)・三宅島噴火(1983年)・伊豆大島噴火(1986年)・三宅島噴火(2000年)・東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)(2011年)「東京災害年表」を見ると、明治から大正にかけての東京は地震だけでなく、洪水や高潮、暴風雨など風水害が繰り返し発生していたことが分かる。こうした災害の教訓が、治水事業や防潮施設、そして関東大震災後の復興都市計画へと受け継がれていったのである。「水害から東京を守る~荒川放水路の開削~Protecting Tokyo from Flooding - Opening of the Arakawa River Drainage Canalあいつぐ洪水から沿岸を守るため、荒川河口から22キロメートル上流まで、人工の河川である「荒川放水路」が作られた。In order to protect the coast from flooding, the "Arakawa Drainage Canal," a man-made river, was constructed from the mouth of the Arakawa River to 22 kilometers upstream.」 ▼ルートの選定(1910年〈明治43〉)1910年(明治43)にルートが決定した。4つの案から、都市化が進んでいない地域を通る案が選ばれた。候補ルート① 国三村-寺島村-吾嬬町-中川② 赤塚村-志村-蓮根-大塚-吾嬬-中川③ 千住荒地外地-千住耕地-中川④ 川口付近-荒川堤外地-西新井本木-千住町西北-中川(採用)▼用地取得と立退き(1911年〈明治44〉)1911年(明治44)から用地買収が始まった。代替地がなかなか見つからず、工事中も残された区域もあった。取り残された浄光寺849年創建と伝わる浄光寺(足立区千住東)は、約6,000平方メートルの広大な旧境内を有し、代替地がなかなか見つからなかったため、1919年(大正8)に荒川放水路開削で不要となった旧河川敷(葛飾区堀切)へ移転した。(写真)工事で家を動かす曳家(ひきや)の様子▼人力と機械による工事(1913年〈大正2〉~)1913年(大正2)から掘削工事が始まった。水路の全長に水が通ったのは1924年(大正13)であった。写真説明掘った土をトロッコに入れて運ぶ。堤防と川岸となる部分は人力で作業した。同時に整備された荒川運河は水路も全て人力で作られた。エキスカベータ(掘削機)水路部分の掘削。線路に機械を設置し、移動しながら作業した。しゅんせつ船川底の掘削。放水路の河口部にあたる中川河口から上流に向かい作業した。水路に水を通してから更に掘り進めていった。施設の整備(1924年〈大正13〉~)水流を調節する水門や、航路を確保するための閘門(こうもん)などの施設が次々に整備された。(写真)完成直後の岩淵水門荒川工事の貢献者 青山 士(あおやま あきら)1930年(昭和5)に、残りの放水路を含んだ工事の全体が竣工した。大正7年から工事主任であった青山士は、日本人で唯一パナマ運河建設に参画した技術者で、岩淵水門の建設などで優れた成果を出した。明治43年の大洪水を契機に計画された荒川放水路は、1913年から掘削工事が始まり、1924年には全長に通水、1930年に全工事が完成した。人力と最新機械を併用した壮大な国家事業であり、岩淵水門などの施設とともに、今日まで首都東京を洪水から守り続ける治水事業の礎となっている。「東京水害画報グラヒック 第2巻 第18号The Graphic - The Tokyo Flood Number1910年(明治43)9月1日有楽社/発行」 グラフィック雑誌の水害特集号。表紙・裏表紙掲載の地図のうち、水色の部分が1910年の水害被災地域。「大正六年東京湾大海嘯の状況を伝える絵葉書Postcard of the Great Bore of the Tokyo Bay in 19171917年(大正6)台風により発生した高潮や暴風雨によって被害を受けた東京の風景を記録した絵葉書。」 「荒川放水路の整備明治以降、荒川下流部にあたる隅田川では、沿岸の開発とともに洪水の被害が大きくなっていた。1907年(明治40)、1910年の洪水をきっかけに、新たに放水路を設けて河道を分ける必要性が問われ、内務省主導で放水路建設事業が開始された。数種類のルートが検討された結果、北豊島郡岩淵町を起点に、旧荒川沿いの堤防を利用し、千住を経由して綾瀬川、中川を横切って東京湾口を終点とする経路が計画された。全長24キロメートル、上流の12キロメートルは川幅250間(約455メートル)、河口部では320間(約582メートル)という広大な計画地には数多くの人々が暮らしていたが、なかば強制的に用地買収が行われた。工事はおよそ96パーセントの買収を済ませた。1913年(大正2)から行われた。通水式は1923年(大正12)・・・1930年(昭和5)であった。」 「最新大東京地圖」。「最新大東京地圖」(1925年)は、関東大震災復興期の東京と近郊を描いた貴重な地図である。展示の目的は、通水したばかりの荒川放水路の位置や規模を示し、洪水対策と都市復興が一体となって進められた「大東京」の姿を伝えることにある。 「最新大東京地図 其二 東城東京日日新聞附録A map/The Tokyo Metropolitan area (east side)1925年(大正14)11月10日東京日日新聞/編・発行東京市と近隣5郡82町村は大正時代から都市圏「大東京」と呼ばれ、インフラ整備等の対象とされた。地図の中央に、通水式直後の荒川放水路が見られる。」 「荒川放水路閘門(こうもん)Arakawa flood control channel lock gate昭和前期(1932年~1945年)」閘門とは、水位の異なる河川や運河を安全に行き来させるための施設で、洪水時には水の流れを制御する役割も果たす。荒川放水路が完成した後も、隅田川や中川、水運との関係を保つ必要があったため、各所に閘門が設けられたのだ。「T6 モダン東京」。 「T6-1 大東京の成立」 「大東京の成立人口集中のすすむ東京では、1920年(大正9)ごろから市内の人口が減少しはじめたのに対し、隣接する町村部では増加し、しだいに住宅圏が郊外へと拡大していった。この傾向に拍車をかけたのが関東大震災である。1925年の郊外人口は1920年の1.5倍と急速に膨張し、これに呼応するように都市と近郊を結ぶ郊外電車などの交通機関も発達した。山手線と郊外電車が接続する新宿、渋谷などのターミナル駅周辺に新しい盛り場が誕生する一方、郊外から都心へ通うサラリーマンや学生の増加は「ラッシュアワー」を生んだ。急速に開発された郊外では、上・下水道、屎尿(しにょう)処理といった問題が深刻化したが、都市整備は大幅に遅れた。各町村ではこのような変化に対処しきれず、抜本的な都市政策が必要とされた。人々の生活圏は、都心やターミナル駅でのデパートなどでの買物、郊外遊園地への行楽などによってすでに行政区域を越えて形成されていた。そうした大都市化を追認するような形で1932年(昭和7)、隣接5郡82町村を合併した、35区の「大東京」が成立した。」 「区名の変遷と人口の変化Changes in Ward Names and Population1932年(昭和7)、東京市周辺の5郡82町村が新20区として編入され、大東京35区となった。In 1932, 82 towns and villages in 5 counties around Tokyo were incorporated as the new 20 wards, forming the 35 wards of Greater Tokyo.」 ■「15区時代~35区時代~23区時代」の変遷。・1932年(昭和7年)に東京市へ周辺5郡82町村が編入され、15区から35区へ拡大した。・1947年(昭和22年)には行政改革により35区が23区へ再編され、現在の東京23区の姿と なった。・特に、 ・麹町区+神田区 → 千代田区 ・日本橋区+京橋区 → 中央区 ・芝区+麻布区+赤坂区 → 港区 ・本所区+向島区 → 墨田区 ・深川区+城東区 → 江東区 ・板橋区から 練馬区 が分離(1947年) という変遷は、現在の区名を理解するうえで重要なポイント。 ■「1932年(昭和7)から1947年(昭和22)まで存在した東京市35区」と、その人口の推移。■ 灰色部分旧市域(15区)1878年(明治11)から存在していた東京の中心市街地。・麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区■ 黄色部分新市域(20区)1932年(昭和7)に東京市へ編入された地域です。例えば・品川区・大田区・世田谷区・渋谷区・中野区・杉並区・豊島区・北区・荒川区・板橋区・足立区・葛飾区・江戸川区など、現在の23区外縁部の多くがこの時に東京市となった。なぜ35区になったのか関東大震災後、・市街地が郊外へ急速に広がる・郊外鉄道が発達する・住宅地が郊外に造成されるようになり、行政区域だけが昔のままでは実情に合わなくなった。そのため東京市+周辺5郡82町村を合併して、35区の「大東京」が誕生した。■ 人口グラフ■灰色=旧15区■黄色=新20区旧15区の人口はそれほど増えていない。1912年:約200万人1940年:約223万人 と、わずかな増加。新20区は約67万人→約454万人へと爆発的に増加。1932年(昭和7)、東京市は周辺5郡82町村を編入して35区となり、「大東京」が誕生した。人口は1912年の約268万人から1940年には約678万人へ増加。特に新たに編入された20区で人口が急増し、東京が郊外へ大きく発展していった様子が読み取れるのであった。「多摩川台住宅地(田園調布)平面図現在の大田区田園調布が造成された頃の販売・区画図。地図をよく見ると、・東急東横線(当時・目黒蒲田電鉄)・田園調布駅・放射状道路・同心円状の街路・宅地一筆ごとの区画が細かく描かれている。最も特徴的なのは、駅前から扇を広げたように道路が放射状に伸びていること。これはイギリスの都市計画家エベネザー・ハワードが提唱した「田園都市(Garden City)」の思想を取り入れた日本を代表する住宅地計画であった。昭和初期に目黒蒲田電鉄が造成した田園調布(多摩川台住宅地)の区画図。駅を中心に放射状の道路を配置した街並みは田園都市構想を代表する設計であり、関東大震災後に進んだ郊外住宅地の発展と「大東京」形成の歩みを今に伝えている。「多摩川台住宅地(田園調布)平面図Floor Plan for Housing Land, Tamagawadai (Den'en Chōfu)昭和前期目黒蒲田電鉄株式会社 田園都市部/発行田園都市の理想を最も反映して整備されたのが多摩川台地区(田園調布)だった。駅から延びる放射状の道路などは、その典型といえるだろう。」 この展示は、田園調布を代表とする「田園都市構想」と郊外住宅地開発を紹介するコーナー。「田園都市と郊外開発Garden city plan and suburban development田園都市とは、自然と共生し自立性を持つ都市の形態を指す。イギリスで提唱された。日本においては渋沢栄一がその思想を参考に「田園都市株式会社」を設立し、田園都市を始めとした郊外の開発を行っている。同社はまた、建設した田園都市と都心部を結ぶ鉄道路線の開発にも着手した。それらの事業によって現在の東急沿線が形成された。」 「理想的住宅地案内1921年(昭和10)前後田園都市株式会社/発行田園都市計画の初期に制作されたリーフレット。田園都市の理念や、当初の計画などが示されている。表紙には「緑煙たなびく塵埃揚らず」とのうたい文句があり、当時この地域が保健地として考えられていたことが分かる。」 「田園都市絵葉書Postcard Introducing a Garden City昭和前期目黒蒲田電鉄株式会社田園都市部/発行モダンな田園調布の住宅や、マンサードルーフと呼ばれる特徴的な屋根を持つ田園調布駅などが紹介されている。」 「大東京35区・鉄道路線と人口の変遷地図A map showing the railways and the change in population in the 35 wards in the Greater Tokyo area」 「鉄道が東京をどのように郊外へ拡大させ、『大東京』を形成していったのか」を視覚的に示すための展示① 東京35区の範囲赤い線が1932年(昭和7)の東京市35区の境界。現在の23区のほぼ全域に相当。② 鉄道路線地図には・山手線・中央線・京浜東北線・東横線・目蒲線・小田急線・京王線・西武線・東武線・京成線 など昭和初期の鉄道路線が描かれている。③ 人口増加人口増加は鉄道路線に沿って郊外へ広がっていった。例えば・渋谷・中野・杉並・世田谷・豊島・板橋・大田・足立・葛飾・江戸川 などで急激に住宅地が形成されます。つまり鉄道が住宅地をつくり、その住宅地が人口を増やした。④ 緑色・黄色の部分色付きの部分は・公園・緑地・学校・大規模施設・市街地の変化などを重ね合わせて示し、都市化の様子が一目で分かるよう工夫されている。「東京都における社会事業施設Social Service Facilities in Tokyo Prefecture多様化する都市問題を解消すべく、公営の社会事業施設が新たに性にされた。東京市を含む都市部を中心に、労働者の社会的問題に対応する施設が配置された。・・・・・」 「市域の拡大東京府は1878年(明治11)、郡区町村編制法に基づき、人口の集中する中心地域に麹町区、神田区など15の区を設置した。そして、1889年には市制町村制の施行によって、15区の範囲に新たに東京市が設置され、区はその下部組織として存続した。東京市内の人口は年々増加し、1916年(大正5)にはおよそ228万人にまで膨れ上がるが、その後減少へと転じた。代わって郊外の人口が、鉄道路線の延伸や沿線住宅地の整備、さらに関東大震災による市域からの人口移動などにより、急激な増加をみせるようになった。郊外人口の増加と都市化がすすむなかで1932年(昭和7)には東京市の周辺5郡82町村が新たに20の区に分けられて市に編入され、大東京35区が成立した。さらに1936年には北多摩郡千歳村と砧村が世田谷区に編入され、現在の23区に相当する範囲が市域となった。」 「都市問題と社会事業1918年(大正7)の米騒動は、東京府・市当局に社会事業政策の必要性を認識させる契機となった。府に社会課が、続いて市に社会局が設置され、住宅・公設市場・公益質屋などの社会事業施設の建設が積極的にすすめられた。関東大震災以降では、職業訓練のための授産場、生活指導や学習・娯楽活動を行う市民館(方面館)、託児所などの施設の充実がはかられた。また、民生委員の先駆けとなる方面委員制度が設けられた。これは、各地区(方面)ごとに任命された委員が貧窮者の生活を世帯別に調べ、相談や指導にあたるというもので、多分に治安政策の要素もあった。一方、明治時代にあらわれたスラムやばい煙などの問題に加え、工場による水質汚染や職業病、ゴミ・屎尿処理の問題、交通事故の激増といった新たな都市問題も発生した。さらに、水質汚染をもたらす工場の設置反対やゴミ処理によるばい煙問題、ガス料金値下げをはじめとする住民運動が行われるようになった。」米騒動や関東大震災を契機に、東京では社会福祉行政が大きく前進した。公営住宅や公設市場、授産場、方面館、託児所などが整備される一方、工場公害やごみ処理、交通事故など新たな都市問題も顕在化し、住民運動が広がっていったことが紹介されている。 「荒玉水道誌Commemorative publication of Aratama publicly owned water system1931年(昭和6)7月 荒玉水道町村組合/発行荒玉水道町村組合は、東京都郊外の人口増加に対応するため、北豊島郡、豊多摩郡の13の町にとって、1925年(大正14)に結成された公営水道。多摩川から取水した水を砧ポンプ場、大谷口の配水塔を経て、これら各地へ給水した。この時造られた野方の配水塔は現在も残存する。」 現在の「野方の配水塔」をネットから。 「玉川上水株式会社 給水路線図」。 「玉川上水株式会社給水路線図Map of Water-supply Channels1923年(大正12)玉川上水株式会社/発行玉川上水株式会社は、1918年(大正7)に創立された当時日本最大の私営水道会社で、現在の大田区を中心に給水を行っていた。東京市郊外の開発が進む一方で、東京市水道の給水範囲は15区内に限られたため、それぞれの町村や株式会社による水道が建設・給水されていた。これらの私営・公営水道は、1932年(昭和7)の大東京成立後、市の水道に合併・買収され統合された。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.09
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「T5 関東大震災」👈️リンク(2020年時のもの)。「T5-1 大震火災1923年(大正12)9月1日11時58分、関東地方に大地震が起こった。マグニチュード7.9の関東地震は、小田原から横浜にかけてもっとも大きな被害をもたらした。東京や横浜などの都市部においては、地震のあとに発生した火災の被害が激しかった。木造家屋の密集する下町地域を中心に延焼し、東京都内で約6万6千人もの人々が焼死した。「大震火災」とも呼ばれたのはそのためである。また、引き続いて起きた余震は、避難生活を送る人々に大きな不安を与え、戒厳令下、軍隊が出動した。内務省、東京市役所、大学、宗教団体などによって救助活動が続けられたものの、正確な情報が不足したため、流言蜚語(りゅうげんひご)が発生し、混乱のなかで多くの朝鮮人などが殺害されるという、不幸な事件が起きた。関東大震災はまた、江戸から東京へと続いてきた首都にとって、大きな転換点となった。市民の移住などで近郊農村は急激に都市化し、1932年(昭和7)の「大東京」成立へと向かうこととなった。」 「被災地東京Disaster-Stricken Tokyo1923年(大正12)に発生した大地震とその後の火災の影響で、東京は焦土と化した。火災が鎮火したのは、9月3日の午前10時ごろであった。Tokyo was reduced to ashes by a major earthquake and subsequent fires thatoccurred in 1923. The fires were extinguished around 10:00 a.m. on September 3.」 写真キャプション・上段左 倒壊した日本橋丸善・上段中央 国技館周辺・上段右 万世橋駅周辺・中段左 ニコライ堂周辺・中段右 京橋より銀座方面を見た様子・下段左 焼け落ちた吾妻橋・下段中央 頭部が落下した上野の大仏・下段右 赤坂付近の倒壊した家屋の様子倒壊した日本橋丸善。国技館周辺。万世橋駅周辺。ニコライ堂周辺。京橋より銀座方面を見た様子。焼け落ちた吾妻橋。頭部が落下した上野の大仏。赤坂付近の倒壊した家屋の様子。「凌雲閣の倒壊Collapse of Ryōunkaku地震により8階部分から上が倒壊した凌雲閣は、陸軍によって爆破、解体された。Ryōunkaku, which collapsed from the eighth floor up due to the earthquake,was blasted and dismantled by the Army.」凌雲閣の倒壊。東京大学本郷キャンパスから発掘された煉瓦建築の基礎部分。・煉瓦積みの基礎・基礎を貫く鉄製のタイバー(引張材)・曲がってしまった鉄材 が確認できる。これは関東大震災の激しい揺れによって、・煉瓦は割れ、・基礎全体が大きくずれ、・鉄材まで大きく変形した ことを示している。「煉瓦建築の基礎Foundation for brick buildings1902年(明治35)以降東京大学本郷キャンパス構内で発掘されたもの。関東大震災で倒壊した医学部校舎の基礎の一部と推定される。」 「被害の状況地震により東京の各地で発生した火災は、折からの強風にあおられ、下町を中心に広い地域を焼き尽くした。東京府の被害は、死者・行方不明者約7万人で、そのうち焼死者は約6万6千人の多数にのぼった。とくに両国の陸軍被服廠跡地の3万8千人を最高として、校庭・河川・公園・駅などでの集団焼死者が多かった。当時の市内には、煉瓦と石造の建築がかなり多かったが、そのほとんどが壊滅的な被害を受けた。これに対して、耐震性を考慮した鉄筋コンクリート造の建物は被害が軽微で、以後の大型建造物の主流となった。橋は、約360橋が使用不能となり、これが多数の溺死・焼死者を生む原因の一つとなった。」 関東大震災で被災した建築資材や日用品を集めた貴重な実物資料。・上段右 被災した煉瓦 Brick that was destroyed in the Great Kanto Earthquake・中段左 ニコライ堂の煉瓦 Brick of Nicholas Cathedral that was destroyed in the Great Kanto Earthquake 東京復興の象徴ともいえる聖堂から回収されたもの。・中央 ジェラール瓦 Gerard roof tile that was destroyed in the Great Kanto Earthquake ジェラール瓦は 明治時代に普及した洋風建築用の瓦で、震災で破損した。・中段右 ガラス・磁器等溶着塊 Glass, porcelain, etc. welding mass that was destroyed in the Great Kanto Earthquake ガラスや陶磁器が高熱で溶け合い、一塊になったもの・下段左 ガラス溶解物 Glass melt that was destroyed in the Great Kanto Earthquake ガラスや陶磁器が高熱で 溶け合い、一塊になったもの・下段中央 被災した懐中時計 Pocket watches that was destroyed in the Great Kanto Earthquake ケースが焼け、 変形しており、持ち主が被災した当時の状況を静かに伝えている。・下段右 鋸他金属溶解物 Saws and other metal melts that was destroyed in the Great Kanto Earthquake関東大震災では、地震そのものだけでなく、その後に発生した大火災が東京を襲った。展示されている煉瓦や瓦、溶けて一塊となったガラスや金属、焼けた懐中時計は、当時の火災の凄まじい熱と被害の大きさを、約100年以上を経た今も生々しく物語っていたのであった。「関東大震災東京都内における火災の状況The Great Kanto EarthquakeConditions of fire within the city of Tokyo」 関東大震災の延焼状況を時間経過で示すアニメーションの一場面・赤色:この時点(9月2日午前0時)でも燃え続けている火災区域・黒色:すでに焼失した地域・白色:まだ延焼していない地域・緑色:皇居や大きな公園などの空地・水色:河川・運河・海1923年9月1日 11:58相模湾沖で地震発生1923/9/1 11:58 amEarthquake occurs off the coast of Sagami Bay.関東大震災の延焼シミュレーション映像の出発点。この時刻、1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾沖を震源とするマグニチュード7.9の関東地震が発生。画面の地図には、まだ火災は表示されておらず、地震発生直後の東京市内の様子が示されている。この後、時間の経過とともに各地で火災が発生し、赤色の火災区域が急速に広がっていく様子が映し出されたのであった。当時は昼食の準備時間帯で、多くの家庭や飲食店で火を使っていたことに加え、折からの強風によって火災は急速に延焼した。その結果、東京市街地の広い範囲が焼失し、約7万人もの死者・行方不明者を出す未曾有の災害となったのであった。各所を火元とする火災が発生市内各地に燃え広がるFires break out in various locations.Fire spreads throughout the city.紫色の点は、東京市内の各地で発生した出火地点を示している。関東大震災は1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生。当時はちょうど昼食の準備時間帯で、多くの家庭や飲食店、工場でかまどや七輪、ガスなどの火が使われていた。さらに、この日は台風の影響による強い南風が吹いていたため、小さな火災は瞬く間に延焼し、市内各地で大火災へと発展した。9月1日 13:001:00 pm, September 1地震発生(午前11時58分)から約1時間後には、市内各地で発生した火災が急速に拡大し始めた。赤色:燃え広がっている火災区域灰色(黒色):まだ焼失していない市街地緑色:皇居や公園などの広い空地水色:河川・運河・海特に本所・深川・神田・日本橋・京橋・浅草方面など、木造家屋が密集していた下町では火災が急速に拡大していることが分かる。9月1日 18:006:00 pm, September 1地震発生から約6時間が経過し、火災は東京市内の広い範囲へと拡大。午後6時になると、昼間に各地で発生した火災は強風にあおられて一つ一つが大火災へと成長し、日本橋・京橋・神田・浅草・本所・深川などの市街地では焼失区域(黒色)が急速に広がっている様子が分かるのであった。日没を迎え、避難する人々は炎に包まれた街を目の当たりにしながら、安全な場所を求めて公園や河川敷、橋の周辺へ避難して行った。しかし、その後も火勢は衰えることなく、一夜を通して燃え広がることになる。9月2日 0:0012:00 am, September 2この時刻には、日本橋・京橋・神田・浅草・本所・深川など東京東部の広い範囲がすでに焼失。一方で、皇居周辺や山の手方面にはまだ焼け残った地域も見られるが、各地で新たな火災が燃え続けており、夜間も火勢は衰えていなかった。本アニメーションは、「東京市火災動態地図 大正十二年九月」(文部省震災予防調査会 1924年)を底本に、・「大正十二年九月東京火災動態略図」 (中村清二『一九二三年九月東京に於ける大地震による大火災』 東京帝国大学理学部会 1925年)・井上一之『帝都大火災誌』 (『震災予防調査会報告 第百号 戊』震災予防調査会 1925年)・『帝都大正震火災記録』 (警視庁消防部 1924年) などを参照し作成した。江戸東京博物館の火災シミュレーションは、文部省震災予防調査会の『東京市火災動態地図』をはじめ、東京帝国大学や警視庁消防部などが震災直後にまとめた一次資料をもとに制作されている。映像は単なる演出ではなく、史実に基づき関東大震災の火災拡大を再現した貴重な記録であり、その迫真性を一層深く感じさせる展示であった。「不明者の捜索Search for Missing Persons混乱が続くなか、被災した人々は、人目に触れるところに貼り紙などをして、懸命に家族や知人の消息を知ろうとした。また日比谷公園内では、財団法人東京市政調査会が「尋ね人係」の提灯を掲げ、安否情報の一元化を行った。In the midst of the ongoing confusion, the victims of the disaster tried their bestto obtain information on the whereabouts of family members and acquaintances by putting up flyers and other signs in public places. In Hibiya Park, the Tokyo Institutefor Municipal Research (Tokyo Shisei Chōsakai) set up booths under the"Inquiry Office"lanterns in an effort to centralize information on missing persons.」 写真説明・増上寺の大柱の貼り紙・上野公園内、西郷隆盛像の貼り紙・財団法人東京市政調査会が設営したテント・「尋ね人係」と書かれた提灯関東大震災では電話や郵便などの通信網が途絶え、多くの家族や知人と連絡が取れなくなった。そのため、人々は寺院や公園、駅前など多くの人が集まる場所に「○○を探しています」「無事です」などの貼り紙を掲示し、互いの安否を確認しようとした。特に日比谷公園では、東京市政調査会が「尋ね人係」を設置し、安否情報を集約して問い合わせに応じる活動を行った。写真にある大きな提灯は、その受付の目印として掲げられたものである。「尋ね人係ちょうちん(複製)A lantern with "Missing people" (Replica)1923年(大正12)9月財団法人 東京市政調査会 使用復興記念館 原資料所蔵」 「尋ね人係ちょうちん(複製)A lantern with "Missing people" (Replica)1923年(大正12)9月財団法人東京市政調査会/使用復興記念館/原資料所蔵関東大震災発生後、離ればなれとなった家族や知人を探すために、市内各所に「尋ね人」の貼り紙がされた。また東京市や各種団体でも「尋ね人係」が設けられ、行方不明の人びとの調査を行った。このちょうちんは、日比谷公園内に設置された東京市政調査会の仮事務所に掲げられていた。」 「避難と救済生き残った人々は、上野公園や日比谷公園など市内各所に避難した。政府が設けた臨時震災救護事務局は、テントを各公園に設置し、けが人への救護活動や炊き出しを行った。被災者はテント・掘っ立て小屋などで不安な夜を過ごした。東京の惨状に対して、大阪をはじめとする全国各地、また当時日本の植民地であった朝鮮や台湾、さらに外国からも多くの援助物資や義援金が送られてきた。当時、対日感情が急速に悪化していたアメリカからも、国をあげての支援活動が展開された。」 左側説明板「関東大地震画Illustrations of the Great Kanto Earthquake1923年(大正12)頃関東大震災のさまざまな光景を描いた、丸山晩霞、小川千甕、中沢弘光、中村不折、渡部審也、岡本一平、長野草風、服部亮英、井澤榮水など12名の画家による100枚の水彩画集。震災直後の市民の生活ぶりがいきいきと描かれている。」 「関東大震画「施米配給団」Illustrations of the Great Kanto Earthquake: Rice Rationing Corps1923年(大正12)頃近藤浩一路 画」題名の「施米配給団(せまい はいきゅうだん)」とは、震災で食料を失った被災者へ米や炊き出しを配給する救援隊のこと。絵には、・左側に、米や食料を受け取るために静かに列をつくる被災者たち・中央に、バケツを持って配給を受ける男性・右側には、大釜の前で炊き出しの準備をする女性たちが、水墨と淡彩を用いて簡潔に描かれている。近藤浩一路(1877~1963)は、余計な線を省いた軽妙な筆致で知られる画家。この作品でも、被災直後の混乱を誇張するのではなく、秩序を保ちながら助け合う人々の姿を温かい視点で表現している。左下帝国授産組合創設記念絵葉書東京本郷座Picture Postcards Commemorating the Foundation of the Imperial Vocational Aid Association: Tokyo Hongoza Theater1923年(大正12)頃右上関東大震災写真本郷 本郷座Photograph of the Great Kanto Earthquake: Hongo Theater1923年(大正12)右下関東大震災写真本郷座付近 本郷区Photograph of the Great Kanto Earthquake: Around Hongoza, Hongoku1923年(大正12)頃「各国からの支援Aid from Various Countries関東大震災に対する義援金品は、国内だけでなく海外からも寄せられ膨大な額に達した。とくに多かったのはアメリカで、イギリスや中国などからも支援を受けた。Relief money and other donations for the Great Kanto Earthquake, which were receivednot only from within Japan but also from overseas, reached a huge amount.The U.S. in particular raised a large sum, while England, China, and other countries alsosent support.」 世界各国からの義援金(円グラフ)アメリカ 3,093万円イギリス 579万円中国 260万円 在留邦人 5,294,393円本国人および在留外国人 36,276,660円合計 4,158万円その他フランスオランダベルギースイススウェーデンイタリアタイブラジルペルーメキシコアルゼンチン などからも支援が寄せられた。写真キャプション・アメリカ合衆国救済団・中国紅十字救済団・荷揚げされた救援物資義援金・義援品一覧(主要国)省略総計・義援金総計 22,829,893円 在留邦人 4,283,285円 本国人および在留外国人 18,546,608円・義援品換算 総計 18,741,160円 在留邦人 1,011,108円 本国人および在留外国人 17,730,052円・合計 41,571,053円左上説明板「大正震火災木版画集Xylograph collection of pictures of the Taisho earthquake disaster関東大震災の被害状況やその後の救護活動、人びとの生活の様子を描いた画集。西澤笛畝、川崎小虎、磯田長秋、穂田義親、田村彩雲、桐谷洗鱗の6人の画家がそれぞれ6図を制作し、全36図で一揃いとなっている。このうち東京を描いたものは27図ある。」「大正震火災木版画集深川所見he people who evacuate in the neighborhood of lumberyard of Fukagawa1923年(大正12)頃磯田長秋 画画報社/発行」 「大正震火災木版画集本郷座の焼跡The Burnt Remains of Hongoza Theater1923年(大正12)頃田村彩天 画画報社/発行」 「流言蜚語(りゅうげんひご)と社会混乱関東大震災で東京の新聞社は、ほとんど壊滅状態となった。当時はまだラジオはなく、情報の欠如は今とはくらべものにならなかった。9月2日には戒厳令がしかれて軍隊が出動したが、混乱した状況のなかで、流言蜚語が発生した。「また地震が起こる」「伊豆大島が沈んだ」といった災害に関する流言が最初に広まり、次には「社会主義者が暴動を起こした」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などの事実無根の流言が広まった。そのため一般市民によって自警団が組織され、市内の辻々に見張りが立った。こうしたなかで、朝鮮人、中国人、朝鮮人と間違われた地方出身者など多くの人々が、軍隊・警察、さらに自警団などによって殺害されるという、いたましい事件が起こった。朝鮮人は、1910年(明治43)の韓国併合以来、日本の植民地として辛苦の生活を送っていた。農民のなかには、安価な労働力の提供者として日本本土に渡る者もあり、多くは土木・炭鉱労働などに従事した。地震後の混乱のなかでは、労働運動の主導者らが憲兵隊によって殺害された亀戸事件、無政府主義者の大杉栄らが憲兵隊に殺害された甘粕事件なども起きた。しかし、9月7日には「流言浮説取締令」が公布され、混乱はしだいにおさまっていった。こうした事態を受けて、国は災害に強い情報メディアであるラジオの導入を急ぎ、震災から2年後の1925年(大正14)に、東京放送局によるラジオ放送が開始された。」 昭和初期の据置型ラジオ。上部の大きなラッパ状の部分はホーンスピーカーで、電気信号を音に変えて放送を聞くための装置。木製の箱の中には真空管などの受信回路が収められている。前面の大きなダイヤルは選局、小さなつまみは音量や同調調整などに使われた。当時のラジオは非常に高価で、一家に一台あるだけでも裕福な家庭といわれる時代であった。「初期のラジオ放送復元年代:昭和初期(1925~1930年) 縮尺:1/1ラジオ放送は電波による新しいメディアとして、1925年(大正14)3月、東京放送局によって芝浦の仮放送所からスタートし、7月に愛宕山の新局舎から本放送が開始された。アメリカに遅れることわずか5年で公共放送として開始されたのは、関東大震災のような、災害時の誤った情報による混乱を避けることもその目的のひとつとされたためである。初期の放送は、壊れた蓄音器で「キズだらけのレコードをかけている時にそっくり」(長岡半太郎『ラジオ漫談』)といわれたが、情報伝達の速度は新聞・雑誌よりはるかにすぐれていたため、多くの人々に同じ情報を一斉に、しかも瞬時に提供するものとして急速に普及していった。ニュース報道をはじめ、娯楽番組や子供向け番組が人気を集め、六大学野球や中等学校(現・高校)野球、大相撲などのスポーツの実況中継も好んで聴かれたが、なによりも標準語を全国に浸透させる役割をラジオ放送は果たした。一方、各新聞のラジオ欄には放送番組の紹介が掲載され、ラジオと新聞によるメディア同士のタイアップが、放送をますます発展させた。」 展示の横にある体験用タッチパネル。この体験コーナーでは、昭和初期のラジオ番組を実際に再現した音声を聴くことができた。時報…ラジオ放送開始当時の時報基礎英語講座…日本初期のラジオ英語教育早慶戦実況…大学野球の熱気あふれる実況放送ラジオ体操…現在まで続く国民的番組子供の時間…童謡や物語など子ども向け番組料理献立…家庭向け生活情報番組ベルリンオリンピック実況…1936年大会の水泳中継天気予報…全国へ届けられた気象情報ニュースだけではなく、教育・スポーツ・健康・家庭生活・子ども向け番組など、現代の放送の原点ともいえる内容がすでに昭和初期には揃っていたことが分かる、大変興味深い展示であった。東京の地盤立体模型。この模型は、東京西部の武蔵野台地から、東京低地、隅田川、さらに東京湾へ至る地形と地下構造を立体的に表現していた。確認できる主な地形は、武蔵野台地(茶色の高まり)隅田川荒川江戸川東京湾羽田上野台地本郷台地愛宕山赤坂渋谷目黒品川新宿池袋 など。茶色の部分は洪積台地(武蔵野台地など)、青色・緑色の部分は沖積低地を表しており、色の違いによって標高や地盤の違いが一目で分かるようになっていた。「東京地盤模型Model of the ground below Tokyoボタンを押してください。模型の断面が上下します。Please press the button. A cross-section of the model will go up and down.断面選択A-A' 断面B-B' 断面C-C' 断面D-D' 断面E-E' 断面右下縮尺:1/25,000(水平方向) 1/40(垂直方向)」 「関東大震災時の被災情報Information on the Damages Caused by the Great Kanto Earthquake東京に数多くあった新聞社は、社屋が地震の被害にあったため、新聞を発行できなくなった。被害の情報は当初、号外によって伝えられたが、事実と異なる情報も多かった。Numerous newspaper companies in Tokyo were unable to publish newspapers becausetheir buildings were damaged by the earthquake. Information about the damage wasinitially reported in extra editions, but many of the reports differed from the actual facts.」 社名 所在地 被災状況 通常版復刊日① 報知新聞 麹町区有楽町2-1 ― 9月5日(夕刊)② 東京日日新聞 麹町区有楽町1-2 ― 9月6日(2頁)③ 都新聞 麹町区内幸町1-5 ― 9月8日(8頁)④ 中央新聞 京橋区山城町10 社屋焼失 9月9日(4頁)⑤ 万朝報 京橋区弓町21 社屋焼失 9月9日(グラフ型8頁)⑥ 時事新報 京橋区南鍋町2-12 社屋焼失 9月12日(4頁)⑦ 東京朝日新聞 京橋区滝山町4 社屋焼失 9月12日(4頁)⑧ 国民新聞 京橋区日吉町3・4 社屋焼失 9月13日(2頁)⑨ 読売新聞 京橋区銀座町10~12 社屋焼失 9月15日(4頁)⑩ 中外商業新報 日本橋区北島町1-36 社屋焼失 9月15日(4頁)⑪ やまと新聞 京橋区三十間堀1-1 社屋焼失 9月16日(2頁)⑫ 東京毎夕新聞 日本橋区蠣殻町1-3 社屋焼失 9月18日(4頁)⑬ 二六新報 神田区通新町16 社屋焼失 9月19日(4頁)⑭ 東京毎日新聞 麹町区内幸町1-3 社屋焼失 不詳(9月末)左側説明板「警視庁掲示物(複製)The police warning (Replica)1923年(大正12)9月警視庁/作成東京都北部公園緑地事務所/原蔵警視庁が発行した印刷物。不確かな情報をもっともらしく伝えると処罰することを通達している。右側掲示文「注意!!!有りもせぬ事を言觸らすと、処罰されます。」朝鮮人の狂暴や、大地震が再来する、囚人が脱監したなぞと言傳へて處罰されたものは多数あります。時節柄皆様注意して下さい。警視廳」 左側説明板「宮内省掲示物(複製)A notice to the citizens from the Ministry of Imperial Household (Replica)1923年(大正12)9月宮内省/作成東京都北部公園緑地事務所/原蔵宮内省が発行した印刷物。被災地に無料の巡回診療を行なうことを伝える。小児科、産科、婦人科を中心に治療と施療を行い、病院の紹介も行なったことがわかる。」 右側掲示文 今回の災害に付いて、皇居陛下には・・・御心を勞せられお産の前後や小兒の疾患・・・此の騒で手當の行届かぬやうなことが・・・しないかとの御心から宮内省巡回救・・・で充分な設備は出來ませぬが成るたけ親切・・・世話したいと思ひます。一、巡回救護班は朝から晩まで自動車で市内を巡回して、一切無料で診察もしお藥もあげ 又簡單な手術もします。二、小兒科と産科婦人科とを主とし内科や外科の患者も取扱ひます。三、入院を要するものは最寄りの病院に入院も出來るやうに連絡を着けます。 宮内省」 左側説明板「関東戒厳司令部掲示物「爆音ニ関スル注意」(複製)A notice to the citizens from the Kanto martial headquarters (Replica)1923年(大正12)9月8日関東戒厳司令部/作成東京都北部公園緑地事務所/原蔵陸軍の発行した印刷物。9月9日朝(掲示の翌朝)、被災した業平橋の一部を工兵隊が爆破するが、残骸処理のためなので、混乱しないよう通達している。右側掲示文九月八日関東戒厳司令部◎ 爆音ニ関スル注意本所業平橋ハ修理ノ為残骸ヲ破壊爆破スルノ必要カアルノテ九日午前二時乃至四時→朝 ノ間ニ工兵隊ニ於テ爆破ヲ行ヒマス、大音響ヲ発スルモ驚カナイ様之レカラモ同様ノ爆破ヲ度々行フコトガアリマス」 左側説明板「関東戒厳司令部掲示物「自動車の仕事を邪魔しない様に」(複製)A notice to the citizens from the Kanto martial headquarters (Replica)1923年(大正12)9月関東戒厳司令部/作成東京都北部公園緑地事務所/原蔵陸軍の発行した印刷物。救護活動の妨害をしないよう通達している。」「自動車の仕事を邪魔しない様に!!!自動車は全力を挙げて罹災民の救護食糧、飲用水等の運搬の為に働いてゐるのだから其仕事を邪魔しないやうに 関東戒厳司令部」 「復興計画と都市改造震災以前から壮大な東京改造計画を持っていた内務大臣・帝都復興院総裁の後藤新平は、アメリカの都市学者ビアード博士の提言を受けて、東京を欧米と肩を並べる都市とすべく、内務官僚傣池田宏らと帝都の大改造に着手した。当時の国家予算の3倍ないし4倍もかける彼の復興計画は、帝都復興審議会の強硬な反対にあい大幅に縮小されるが、大規模な土地区画整理により実現した幹線道路や公園、橋梁は現在の東京へとつながる機能と景観を生んだ。なお東京市内15区の人口は、**1928年(昭和3)**には、ほぼ震災前に復した。これに対して、15区の外側に広がる山手線沿線をはじめとする近郊地帯は、1920年(大正9)から1928年(昭和3)のわずか8年間に147万余の人口の急増をみた。」 関東大震災後、後藤新平が進めた帝都復興計画は、道路や橋、公園、土地区画整理など現在の東京の基盤を築いた。計画は縮小されたものの、震災復興を機に東京は近代都市へと大きく生まれ変わり、郊外への人口拡大も進んだのであった。「復興事業で整備された都市インフラUrban Infrastructure Developed through Reconstruction Projects震災からの復興は、地震発生前の姿に戻す方針をとらず、抜本的な都市改造を目指すものであった。予算は当初の計画から大幅に削減されたが、幹線道路や橋梁、公園が整備され、また鉄筋コンクリート造の小学校とそれに隣接して小公園が建設された。Upon recovery from the earthquake, the government chose to aim for a drastic remodeling of the city instead of restoring the city to its pre-earthquake state. Although the budget was significantly reduced from the original plan, arterial roads, bridges, and parks were constructed, elementary schools were built of reinforced concrete, and small parks were built adjacent to them.」 地図の凡例・焼失地域・既存の街路・新設した幹線街路・新設した補助幹線街路・既存の河川と運河・新設および改修した運河・埋めたてられた運河・既存の公園・新設した公園・新設した中央卸売市場(本場および分場)復興事業の概要国による復興事業・土地区画整理:15地区 約590ha・街路工事:幅員22m以上の幹線街路52路線(約119km)同舗装工事・橋梁工事:112橋(隅田川6橋を含む)・河川運河工事:13線(新削1、改修11、埋立1)・公園整備:3か所(隅田公園13ha、浜町公園3.6ha、錦糸公園5.6ha)東京府による復興事業・街路工事 国道改修4路線(16km)、環状線7路線(9km)、放射線2路線(2.9km)・橋梁工事 3橋(六郷橋 ※神奈川県と共同、千住大橋、千住新橋)・学校建設 5校(中学校など)東京市による復興事業・土地区画整理 50地区 2,400ha、町名地番の整理・街路工事 幅員11~22mの補助幹線街路122路線(139km)、幅員3~7mの区画整理街路 (492km)、舗装主要街路95km、既設道路の復旧改築・橋梁工事 464橋(補助幹線街路134橋、区画整理関連52橋、改築84橋、補修仮橋194橋)・学校建設 117校(震災前より継続の5校を含む)・公園整備 52か所(合計15.5ha、学校に隣接する小公園)・上水道整備 和田堀浄水池・山口貯水池の新設・増設ほか、復旧および拡張・下水道整備 復旧および焼失地全域への敷設・屎芥処分施設建設 塵芥取扱所27か所、処理工場2か所(4工場)・病院建設 市立病院復旧1か所、新設5か所・社会事業施設建設 職業紹介所18か所、婦人授産場5か所、託児・児童相談所10か所、 公衆食堂10か所、簡易宿泊所10か所、浴場10か所、市営質屋7か所・中央卸売市場建設 中央卸売市場築地本場、神田分場、江東分場・電気事業施設 市電軌道新設および復旧93か所、電線路1,303か所、発電所1か所、 変電所・開閉所復旧22か所、車両復旧および新造770台、関係建物97か所「土地区画整理事業の概要Outline of Land Reallocation Project被災した東京都内を65地区に分け、区画整理事業が進められた。現在の台東区台東一丁目から四丁目、上野五丁目と秋葉原の一部にあたる第31地区では、昭和通りと蔵前橋通りが新たに設けられた。The damaged city of Tokyo was divided into 65 districts, and a land reallocation projectwas undertaken. In District 31, which is currently Taitō 1–4 chōme, Ueno 5-chōme, and part of Akihabara in Taitō Ward, Shōwa Dōri and Kuramaebashi Dōri Streets werenewly constructed.」 関東大震災後、東京は65地区に分けて土地区画整理が進められた。第31地区では現在の昭和通りや蔵前橋通りが新設され、入り組んだ街並みは防災性と利便性を備えた都市へと生まれ変わった。現在の東京の道路網は、この復興事業によって築かれたのである。「同潤会アパートメントハウスDojunkai Apartment Houses1924年(大正13)、震災後の住宅供給などを目的に設立された財団法人同潤会は、地震や火災に強い、鉄筋コンクリート造の集合住宅を数多く建設した。Established in 1924 for the purpose of providing housing after the earthquake, the Dojunkai Foundation built a number of reinforced concrete housing complexes that were resistant to earthquakes and fires.」 関東大震災後の住宅不足を解消するため、1924(大正13)年に同潤会が設立され、耐震・耐火性に優れた鉄筋コンクリート造のアパートメントハウスが各地に建設された。近代的な設備を備えたこれらの住宅は、その後の公営住宅や団地建設の先駆けとなり、日本の都市住宅史に大きな足跡を残したのであった。「同潤猿江裏町不良住宅地区模型(改良前・後)Improvement of the house environment by Dojunkai (models)日本聾唖技芸会/製作同潤会の不良住宅改良事業における住宅改良モデルを表したもの。改良前の衛生状態が悪く、火事も起こりやすい住宅地と、改良後の同潤会による不燃住宅の建設、および環境の向上が対比的に示されている。」 改良前。現在の江東区猿江町付近にあったといわれるスラム化地域。改良後。同地区を同潤会アパート建築により住宅改善。・左側説明板同潤会住利(猿江裏町)共同住宅の部材Building Component, Dōjunkai Sarue-Uramachi Apartments 1927年(昭和2)竣工 1927年(昭和2)に江東区に建てられた同潤会共同住宅の部材。住利共同住宅は、当初猿江裏町共同住宅といった。・上部中央同潤会住利(猿江裏町)共同住宅部材水道蛇口Faucet, Dōjunkai Sumitoshi Apartments 1927年(昭和2)竣工・第1期 1930年(昭和5)竣工・第2期・中央下同潤会住利(猿江裏町)共同住宅部材玄関ドアノブFront Door Knob, Dōjunkai Sumitoshi Apartments 1927年(昭和2)竣工・第1期 1930年(昭和5)竣工・第2期・右下同潤会住利(猿江裏町)共同住宅部材郵便受け口Mail Slot, Dōjunkai Sumitoshi Apartments1927年(昭和2)竣工・第1期1930年(昭和5)竣工・第2期・右側説明板同潤会江戸川アパートメント部材表札Nameplate, Dōjunkai Edogawa Apartments1934年(昭和9)竣工この展示には、同潤会住宅で実際に使われていた建築部材が展示されていた。水道蛇口 当時としては珍しかった各戸への給水設備を支えた蛇口です。震災以前は共同井戸を 利用する住宅も多くありましたが、同潤会住宅では近代的な水道設備が整えられ、 衛生環境の向上に大きく貢献しました。玄関ドアノブ 木製の丸い握り玉と堅牢な錠前を備えたドアノブで、昭和初期の集合住宅の雰囲気を今に 伝えています。耐久性を重視した造りが特徴。郵便受け口 鋳鉄製と思われる郵便受け口には、英語で 「LETTERS」 の文字が鋳出されている。 洋風デザインを取り入れた当時のモダンな住まいを象徴する部材の一つ。表札 江戸川アパートメントで使われていた表札。住戸の識別に用いられ、実際の集合住宅で 暮らしていた人々の生活を感じさせる貴重な資料。・左同潤会江戸川アパートメント部材表札Nameplate, Döjunkai Edogawa1934年(昭和9 )竣工右上「社交室」プレートSignboard for the "Social Lounge", Dōjunkai Edogawa Apartments1934年(昭和9)竣工・右中央メニュー立て同潤会江戸川アパートメント部材Menu Stand, Dōjunkai Edogawa Apartments1934年(昭和9)竣工・右下江戸川アパートメント概要Edogawa apartment summary1934年(昭和9)財団法人同潤会/発行同潤会アパートメント事業の最後、1934年(昭和9)に竣工した江戸川アパートメントは「東洋の盟主たる日本の中流階級者の住居として、指導的なるアパートメント」(『同潤会十八年史』)として建設された。世帯向き3室、独身向き和洋室などの間取りで、全館蒸気暖房、ラジオ・水道・ガス・電気・浄化槽完備、共同浴場・理髪店・社交室など付帯施設も充実し、「東洋一」といわれた。・右下横パンフレット表紙には昭和九年七月 江戸川アパートメント概要 付属法人 同潤会 と。同潤会最後のアパートメントとなった江戸川アパートメントは、1934(昭和9)年に完成した。当時としては珍しい蒸気暖房やラジオ、水道・ガス・電気を備え、共同浴場や理髪店、社交室まで併設された近代住宅で、「東洋一」と称された。同潤会住宅の到達点を示す貴重な展示であった。「円太郎バス(フォードTT型)」。この「円太郎バス(フォードTT型)」は、関東大震災後の東京復興に大きく貢献した交通機関。1923年9月1日の関東大震災では、東京市電の多くが被災・不通となり、市民の移動手段が失われました。そこで東京市は、フォードTT型シャシーを利用した乗合バスを大量に導入した。これが「円太郎バス」と呼ばれるバスです。円太郎バスは、・復興期の市民の足となり、・市電を補完し、・東京の公共交通の発展のきっかけ となった。その歴史的価値から、日本機械学会により機械遺産第28号に認定されている。加えて2020年には自動車としては初めて重要文化財に指定されている と。 「機械遺産認定証CERTIFICATE OF MECHANICAL ENGINEERING HERITAGE機械遺産第28号名称 円太郎バス(フォードTT型) An Omnibus "Entaro" (Ford TT type)遺産の分類 Collection(保存・収集された機械)製造年 1923年(大正12年)頃推定数量 1台 2005年8月7日 一般社団法人 日本機械学会 The Japan Society of Mechanical Engineers」 トラックシャーシを流用したバスは腰高であり、シルエットが明治時代の乗合馬車に似通っていた。乗り心地も困ったことに馬車並みに酷かった。明治時代の乗合馬車は通称、円太郎馬車と呼ばれていた。円太郎とは落語家4代目橘家圓太郎(1845―1898)から来ている。それをもじって関東大震災後の間に合わせの東京市営バスも次第に円太郎バスと呼ばれるようになった と。関東大震災後の東京では、道路の拡幅や市電の復旧、自動車交通の発達など都市基盤の整備が進んだ。この写真は、路面電車の軌道や自動車、整然とした街並みを通して、復興を遂げつつあった近代都市・東京の姿を今に伝えているのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.08
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「T4-2 東京文化展望」 「電気館(正面部分)」👈️リンク 近づいて。正面から。「模型解説 / Explanations of the models電気館(正面部分)復元年代:1914年(大正3) 縮尺:1/10活動写真は日本に入ってきた当初、劇場や地方を巡回するテントで上映されていたが、1903年(明治36)に浅草六区の電気館が、日本で初めての常設の活動写真館になった。電気館は、それまでX線などの電気仕掛けの器具を動かして見世物をしており、見世物の延長線上として、フィルムの上映をはじめたのである。当時、活動写真には音声がついていなかったので、弁士(解説者)が必要であった。電気館では、それまで見世物の口上を言っていた染井三郎が、そのまま弁士となって人気を支えた。イタリアの史劇『アントニーとクレオパトラ』や、チャールズ・チャップリンの喜劇のフィルムなど、数々の名作に人々は胸をおどらせた。電気館の成功に続き、浅草六区の見世物小屋は、次々に活動写真館になっていった。そして、全国各地に「電気館」の名を冠した活動写真館ができた。浅草の電気館は1976年(昭和51)に閉館した。」 『浅草』社会地図(稿図)(大正十年六月三十日確定) 花屋敷地区~観音堂系地区。江戸以来の盛り場である浅草は多くの人々でにぎわった。浅草寺周辺には参詣者のための飲食店やみやげもの屋が、六区周辺には興行場で遊ぶ人のための手軽な飲食店が集まるなど地区ごとに特色が見られた。ビデオにても「浅草六区」を紹介。凌雲閣(十二階)の精巧な復元模型が正面に。① 赤レンガ造りの堂々たる外観明治23年(1890)に完成した日本初の本格的な高層建築で、高さ220尺(約66.7m)・12階建であった。この模型では、・赤レンガの壁・白い石造風の窓枠・アーチ形の窓が忠実に再現されていた。② 最上階の展望台頂部には・白い欄干・八角形の展望室・銅板葺きの屋根・風見(避雷針)まで細かく作られていた。ここから当時の東京を一望でき、多くの人々が訪れた。③ エレベーター設備展望室の外側には、既に展示されていた銅版画にも描かれていた日本初の電動エレベーターの設備を表す部分も再現されていた。しかし実際には故障が多く、開業から約半年で運転停止となった。その後は階段で展望台へ上がることになったとのこと。④ 窓の多さ各階に多数設けられた窓は・採光・換気・展望を兼ねていた。内部は展示室や売店なども設けられ、多くの見物客で賑わった。⑤正面入口入口に「凌雲閣」の扁額がある。この入口部分は洋風建築らしく、コリント式風の柱、アーチ入口、石造風の装飾など、西洋建築の意匠が取り入れられている。「凌雲閣(浅草十二階)復元年代:1890年(明治23) 縮尺:1/10〈浅草十二階〉の名で親しまれた凌雲閣は、英国人の技師ウィリアム・K・バルトンの設計によるもので、1890年(明治23)に落成した。浅草のシンボルとして土産絵にも登場し、関東大震災で倒壊するまで多くの人でにぎわった。高さは220尺(約67メートル)とも197尺(約60メートル)ともいわれ、10階までは八角形の総煉瓦造、その上は木造だった。内部には世界各国の品物を売る店や休憩所があり、11・12階には眺望のための望遠鏡が備えられていた。また、8階までは日本で初となるエレベーターが設置されたが、のちに危険性が高いとして運転が中止された。開業時の縦覧料は、大人8銭、軍人・子どもは半額であった復元にあたっては、当時の写真や錦絵をもとにした。」 廻り込んで。「凌雲閣(十二階)1890年(明治23) 浅草に建てられた展望施設。10階までは総煉瓦造りで、その上は木造で展望台もあった。1923年(大正12)関東大震災で倒壊した。」 「凌雲閣(浅草十二階)Ryōunkaku (Twelve-Story Tower)1890年(明治23)、煉瓦造の高層展望塔「凌雲閣」が開業した。日本初のエレベーターを備えた十二階建ての塔は「浅草十二階」の名でも親しまれ、浅草の新たなランドマークとなった。In 1890, the brick high-rise observation tower "Ryōunkaku" equipped with Japan's firstelevator, was opened. The twelve-story tower, also known as the "Asakusa Twelve-Story," became a new landmark of Asakusa.■左図凌雲閣が建っていた場所中央の航空写真には1921年(大正10)ごろの浅草園の俯瞰写真とあり、黄色い吹き出しで凌雲閣の位置が示されています。下には当時の六区周辺地図が描かれ、凌雲閣の位置が分かるようになっています。」 ■右図凌雲閣の構造図構造は・10階まで レンガ造・11・12階 木造・最上部 避雷針・12階 螺旋階段 10階から12階まではさらに螺旋階段を上った。11・12階は展望室になっていた。 『大日本東京圖繪之圖 十二階直立二百二十尺』・8~10階 階段 8階から10階までは階段を上った。10階には休みをするための休憩所があった。・1階~8階 エレベーター 開業当初、1階から8階まで日本初となるエレベーターが運転していた。※開業当初、凌雲閣の高さは220尺(約67メートル)と伝えられた。しかし、のちの記録では異なる数値が示されている。建設時の設計図は火事で焼失して詳細は不明のため、残された資料を検証して数値を出した。参考文献『構造物振動実験調査報告 第3号 東京大震災被害検測』(震災予防調査会報告 第97号/1921年)堀口甚吉『浅草十二階凌雲閣の建築について』(『日本建築学会大会学術講演梗概集』1968年)より作成凌雲閣の「断面図」。 凌雲閣の「構造図」。「凌雲閣機絵双六(りょううんかく からくりえ すごろく)」 「体験展示/Experience exhibition凌雲閣機絵双六(りょううんかく からくりえ すごろく)歌川国貞(三代)/画1890年(明治23)これは絵双六で、切符売場を「ふり出し」に、最上階の十二階まで登ることができれば「上り(あがり)」となります。「からくり」という名前のとおり、さまざまな仕掛けがあり、塔にあけられた窓を開くと、凌雲閣の中の様子を知ることができます。Ryōunkaku karakuri Picture SugorokuUtagawa Kunisada III, 1890This is a picture sugoroku boardgame. The game starts at the ticket office, and the goalis to climb to the top twelfth floor. As the name "karakuri" (gimmicks, tricks) suggests, there are various gimmicks found in this picture; by opening the windows on the tower,the players can get an inside view of Ryōunkaku.」 凌雲閣(十二階)の精巧な復元模型の横の壁でも案内動画が。「T4-2 東京文化展望」。 「東京文化展望文明開化以来、東京は絶えず海外の新しい文化や風俗を受け入れる舞台となった。明治20年代には、西南戦争後の空前の文明化に対する反動や反省の声が上がり、江戸文化を再評価する機運が高まった。江戸とつながりながらも変化を続ける東京の様子は、尾崎紅葉『金色夜叉』、古川緑波『東京の三十坪』など多くの小説・随筆を舞台に描かれている。また、明治から昭和初期の版画には、かつての水の都・江戸をしのばせる作品が少なくない。小林清親は、写真の構図を参考にした〈光線画〉と呼ばれる独自の版画で、水辺や夜の東京を描いた。第一次世界大戦以降、産業の高度化がすすむと、労働者が都市人口の多数を占めるようになり、工場で大量に生産された消費物資が出回った。欧米の事件やできごとが時間を置かずに伝えられ、洋風の生活スタイルも取り入れられはじめた。大正デモクラシーがもたらした普通選挙法の成立は、男女不平等ながらも、民衆の政治的・社会的関心を高める第一歩となった。関東大震災により街々に残っていた江戸のたたずまいが一掃されると、新たな都市文化が生まれた。その背景には、新聞や雑誌、ラジオなどの発達があり、大衆文化の成立・展開があった。」 「東京の文化サロンと文士村Tokyo's Cultural Salons and Writers' Villages東京には同じ目的やこころざしをもった文学者や芸術家がつどい、交流の輪を広げていった。Literary scholars and artists who shared the same goals and aspirations gathered in Tokyo and expanded their circle of exchange.」 ① 向島文士村 明治初年~1910年(明治43)桜の名所・隅田堤に近いことから、江戸開府以来、多くの文人・学者が住んだ。しかし、しばしば川が氾濫したため去る人が増え、1910年(明治43)の水害以降はさびれた。● 伊藤左千夫(歌学者・国語学者・小説家・創作者)● 成島柳北(漢詩人・随筆家・新聞記者)● 幸田露伴(小説家・随筆家)など② 根岸党と根岸短歌会根岸党 明治20年代根岸短歌会 1899年(明治31)~1901年蛍と竹の名所で知られた柳岸には、明治以降も文士・画家・学者が多く居住し、しばしば風流な会合を開いた。1899年(明治31)からは、正岡子規が自邸「子規庵」で「柳岸短歌会」を催した。● 饗庭篁村(小説家・劇評家)● 岡倉天心(評論家・美術学者・随筆家)● 正岡子規(歌人・俳人)など③ 紅葉館(こうようかん)明治期1861年(明治14)に芝公園に開業した会員制の日本料亭。尾崎紅葉ら(硯友社)の文士をはじめ、芸術家、政治家らの集まりに利用された。● 尾崎紅葉(小説家)● 森鷗外(児童文学者・小説家・詩人)● 坪内逍遙(小説家・劇作家・評論家)など写真説明紅葉館(『東京名所写真帖』)④ 龍圡会(りゅうどかい)1904年(明治37)頃~1913年(大正2)頃自然主義作家らによる親睦会。1904年(明治37)ころから、麻布の仏料理店「龍土軒」を定例の会場とし、作品の朗読や批評をし合った。● 国木田独歩(小説家・詩人)● 柳田国男(詩人、民俗学者)● 田山花袋(小説家)● 蒲原有明(詩人)など図版説明龍土会寄書(岡野利夫氏/所蔵)⑤ 木曜会(もくようかい)1906年(明治39)~1916年(大正5)牛込区早稲田鶴町の漱石山房で行われた夏目漱石とその門下生とのつどい。会の名は、漱石が毎週木曜日と定めたことに由来する。参加者● 夏目漱石(小説家)● 鈴木三重吉(小説家・童話作家)● 小宮豊隆(独文学者・評論家)など● 森田草平(小説家)図版津田青楓「漱石山房と其弟子達」日本近代文学館/所蔵© Rioko Takahashi 2026/JAA2600032⑥ 観潮楼歌会(かんちょうろううたかい)1907年(明治40)~1910年本郷駒込千駄木本町の森鷗外邸(観潮楼)で催された月例の歌会。参加者● 森鷗外(小説家・戯曲家・陸軍軍医)● 与謝野鉄幹(歌人・詩人)● 伊藤左千夫(歌人・小説家)● 佐佐木信綱(歌人・歌学者)など図版観潮楼歌会の光景(『スバル』第3号)⑦ 南声会(なんせいかい)1907年(明治40)~1916年(大正5)詩の雑誌『スバル』・『国民文学』による文士を招いた集会。当初は神田駿河台の西園寺邸で開かれたが、その後、芝の紅葉館、湯河原の皆楽園などの料亭で開かれた。参加者● 巌谷小波(児童文学者・小説家・詩人)● 広津柳浪(小説家)● 大町桂月(歌人・随筆家・評論家)● 島崎藤村(小説家)など写真南声会 1911年(明治44)日本近代文学館 所蔵以下 略「『武蔵野』Musashino国木田独歩/著 民友社/発行「武蔵野」は、それまで日本人の美意識にのぼらなかった落葉林の美しさを、洗練された交互文体であらわした作品。国木田独歩(1871~1908年丿は186年の秋から翌年の春にかけて、東京市外の渋谷村に暮らした。「武載野」は、かつて妻と遊んだ小金井の思い出も盛リ込まれるが、当時は渋谷も小金井も、ともに都市郊外・武蔵野であった。」 「国木田独歩所用の品々(印章・硯・水滴・水適脇付飾)明治期(1868~ 1912年)国木田独歩は、記者、編集者、出版社経営者としても手腕を発揮した。「国民新聞」の記者として日清戦争にも従軍し、弟に宛てた文体のルポルタージュが人気となった。」 「国木田独歩所用の釣り竿明治期(1868~1912年)国木田独歩は釣り好きで、暇を見つけては釣りをしに郊外に出かけていた。常々、釣りの趣味を理解しない者は、自然の懐に入ることができない、と言っていたという。」 「国木田独歩所用の竹行李(たけごうり)明治期(1868~1912年)」 「東京文化の形成東京文化は都市に集まる多彩な人々の交流によって発展していった。江戸の場合と同様に、東京にも各種の文化サロンが形成された。東京の文化サロンは、雑誌を持つ結社や大学のグループとのかかわりが深い。尾崎紅葉ら硯友社の文士たち、坪内逍遥ら早稲田派の文学者・演劇人は、芝の紅葉館や神楽坂の料亭に集まった。明治末期には、自然主義作家が山の手の西洋料理店で龍土会を開き、耽美派の詩人や画家が、パリのセーヌ川に見立てて隅田川近くの料理屋で「パンの会」を催した。森鴎外は団子坂上の自邸で観潮桜歌会を開き、夏目漱石は面会日の木曜会で多くの門下生を育てた。また、東京の文士村は江戸文人ゆかりの向島と根岸にはじまる。向島には、成島柳北や幸田露伴らの学者・作家が居を構え、根岸には、饗庭篁村、岡倉天心岡朝天心らの「根岸党」と、正岡子規、中村不折らの文学者・画家たちが住んで親しく交わった。大正期には、小杉未醒(放庵)、板谷波山らの画家・工芸家に、芥川龍之介、室生犀星らの作家が加わった田端文士村が形成された。関東大震災後には、文化人が近郊の住宅地に移住するケースが増え、馬込文士村が誕生した。その後も、昭和初期までに目白文化村、成城学園村、玉川学園村、落合文土村などが次々に生まれた。」 「龍圡軒(りゅうどけん)使用大皿」。 「龍圡軒(りゅうどけん)使用大皿The pllatter whichi was used at Ryuudo ken1906年(明治39 )頃~麻布のフランス料理店「龍土軒」で使用されていたイギリス製の大皿。創業者の岡野菊松が1906年頃購入し、その後、長い間店で使用されていた。龍土軒は、自然主義作家らによる集会「龍土会」の会場となった店として知られる。参加者には、国木田独歩、田山花袋、柳田国男、蒲原有明らがいた。」 「東京十二題 大根がし」 ・河岸に建つ黒い海鼠壁(なまこかべ)の土蔵造りの建物 ・河川に面した石積み護岸の上に、土蔵造りの商家や倉庫が並んでいます。 ・大根をはじめとする青物を保管するため、耐火性に優れた蔵造りとなっています。・荷を積んだ小舟 ・舟には大根と思われる青物が積まれています。 ・このような荷舟が隅田川や日本橋川を利用して河岸へ野菜を運び込みました。・荷揚げを待つ人々 ・舟の上の人物と岸に腰掛けた人物が荷揚げの合図を交わしているようにも見えます。 ・水運が東京の物流を支えていたことが伝わります。・岸辺の樽や籠 ・建物の前には樽や竹籠が積まれています。 ・野菜や青果の保管・運搬に使われた道具でしょう。・物干しに掛けられた衣類 青い着物や桃色の子供服らしき衣類が干され、商いの場であると同時に、人々の日常生活の 場でもあったことを感じさせます。・柳の大木 ・手前には大きな柳が描かれています。 ・川風に揺れる柳は、江戸・東京の河岸風景を象徴する樹木であり、画面に涼感と奥行きを 与えています。「東京十二題 大根がしTwelve subjects of Tokyo : Daikon Shore1920年(大正9)川瀬巴水/画大根を船で運んだり肩に乗せて運んだりする様子が描かれている。現在の京橋付近にあったこの河岸は、主に大根が多く集まったことから大根河岸と呼ばれ、江戸時代から関東大震災まで賑わった。その後の区画整理や都市再編成を経て、1935年(昭和10)には築地の中央卸売市場に移転した。」 「髪梳ける女」 まず目を引くのは、画面いっぱいに広がる艶やかな黒髪。女性は左手で長い髪を持ち上げ、右手に持った柘植(つげ)の櫛で静かに梳かしている。一見すると何気ない朝の身支度であるが、その自然な仕草が女性らしい美しさを際立たせている。橋口五葉は一本一本の髪を極めて細密な線で摺り重ね、髪の光沢や柔らかさ、重みまでも感じられるように表現した。新版画ならではの高度な木版技術が存分に発揮されている。また、女性の視線は櫛へと静かに向けられ、穏やかな表情には落ち着きと気品が漂う。派手な装飾や劇的な演出はなく、日常の一瞬を美へと昇華した作品。「髪梳ける女Woman Combing Her Hair1920年(昭和9)橋口五葉/版着物を着た若い女が、左手で持ち上げた髪を柘植(つげ)の櫛で梳いている。女の穏やかな表情や、一本一本丁寧に描かれた髪の毛により柔らかい印象の作品である。川瀬巴水、吉田博らと同じく新版画を志した作者による美人画の代表作として知られる。」 「夜の浅草」 夜の瓢箪池に映画館「東京館」の灯りが美しく映り込み、上映を待つ人々の賑わいが昭和モダンの浅草を彩る。柳の黒い影と色鮮やかなネオンの対比が印象的で、復興後に最も活気に満ちた浅草六区の夜景を今に伝える貴重な新版画である。「夜の浅草Asakusa at Night1932年(昭和7)石渡江逸/画 渡邊庄三郎/版浅草六区の洋画上映の映画館、東京館とそのきらびやかな光が瓢箪池(ひょうたんいけ)にうつる姿を描く。上演を楽しみに行列する人々が描かれており、華やいだ雰囲気が伝わってくる。光と影の表現を摺りによって際立たせ、昭和のモダンな浅草を如実に記録した作品と言える。」「東京拾二題 不忍池」 不忍池に静かに映る弁天堂と、和傘を差した二人の女性が春の情緒を漂わせる。垂れ柳や淡い桜、水面に映る堂宇の姿まで繊細に描かれ、吉田博は新版画ならではの美しい色彩と光の表現で、昭和初期の上野・不忍池の穏やかな風景を見事に描き出している。「東京拾二題 不忍池Twelve subjects of Tokyo / Shinobazu Pond1928年(昭和3)吉田 博/画弁天堂が映る不忍池の前を、傘をさす女性たちが歩いている。不忍池は、交通の要所であり盛り場として栄えた上野山下の西側に位置していた。木版多色刷りによる本作は、池の揺れる水面が細かく表現されている。」「イメージの中の都市東京へ来た地方の人々は、江戸と変わらない名所を残しながら、つねに新しい印象を与える近代化された街並みに驚き、それらの景観などを題材にした版画・写真帖・絵葉書を東京みやげとして持ち帰った。そして多くの人々は、商品化された画像から、それぞれ東京のイメージをふくらませた。版画は大正期に、大衆向けの東京みやげから、芸術性を意識した制作へと高められていく。版元の渡邊庄三郎は川瀬巴水、伊東深水らに東京の名所絵を描かせ、百貨店などで頒布会を催した。また、同じ時期に〈創作版画〉の運動が起こり、それまでの絵師・彫師・摺師の分業制度とは違って、一人ですべての工程を…」 「最新東京名所写真帖Newest Photo Collection of Famous Spot in Tokyo各所の写真を集めた「名所写真帖」は、明治後期から昭和初期に中流以上の層に親しまれた。江戸時代以来の名所と、近代日本の首都としての新名所が集められている。多くはみやげ物として買い求められた。」 「絵葉書 ハリー彗星A post card sold to celebrate the Comet Halley's approach明治四十三年五月二十九日見取図1910年(明治43)頃」「日本橋開通記念絵葉書Post Card Commemorating the Opening Ceremony of the New Nihonbashi Bridge1911年(明治44)通常サイズの絵葉書3枚分の大判絵葉書。現在の石造アーチの日本橋は、1911年(明治44)に完成した。橋の向こうにまだ仮設橋があり、架橋直前の頃の写真と考えられる。」 「最新東京名所写真帖」ネットから。 「絵葉書 ハリー彗星」をネットから。 「日本橋開通記念絵葉書」をネットから。 「『キング』創刊号(複製)The first issue of "King" (reproduction)1925年(大正14)大日本雄辯會講談社/発行講談社の初代社長、野間清治によって創刊された月刊誌。「日本一おもしろい、日本一為になる、日本一安い雑誌」をモットーとした大衆娯楽雑誌で、成功美談や人物評伝などのほか、多彩な作家による大衆小説が掲載された。創刊号は74万部を記録。その後順調に部数を伸ばし、多くの読者を獲得した。」「円本『現代日本文学全集』"The works of modern Japanese literature"1927年(昭和2)改造社/発行 杉浦非水/装幀円本とは、大正末期から昭和初期にかけて販売された予約制の廉価全集類。1冊1円だったことから、「円本」と呼ばれた。『現代日本文学全集』は、23万部の予約をとりつけ、その後に続く円本ブームのきっかけとなった。」 『キング』創刊号(複製)。円本『現代日本文学全集』。「昭和大東京百図絵版画完制判 第二十七景 戸越銀座駅(荏原区)」。関東大震災からの復興を遂げた昭和東京。その象徴として戸越銀座駅へ進入する目黒蒲田電鉄を中心に、送電鉄塔や架線、工場の煙突までを美しい都市風景として描いた一枚である。左奥には富士山も望まれ、近代都市と日本の原風景が見事に調和している。 「昭和大東京百図絵版画完制判第二十七景 戸越銀座駅(荏原区)One Hundred Scenes from Great Tokyo Metropolis in the Showa Era: Final Print No.27,Togoshi Ginza Station (Ebaraku)1940年(昭和15)小泉癸巳男/画関東大震災後の東京を「昭和の広重を気取って」描いた、百景からなるシリーズのひとつ。戸越銀座は、関東大震災で被災した銀座レンガ街のレンガを敷き詰めて整備された。その後、戸越銀座駅(目黒蒲田電鉄)が1927年(昭和2)に開業した。」 「鉱石ラジオ」と「東京放送局記念写真帖」。 「鉱石ラジオCrystal radio set1926年(大正15)1925年(大正14)のラジオ放送開始からまだ間もないころのラジオ。レシーバーを耳にあてて聴いた。簡単なしくみで廉価なことから、当時、多くの人々がこのようなラジオで放送を聴いた。部品を購入して、自分で組み立てることもできた。」 「東京放送局記念写真帖Commemorative album : Tokyo broadcasting1925年(大正14)東京放送局/編ラジオ放送は1925年(大正14)にはじまった。まず3月に東京放送局(JOAK)の仮放送が始まり、続いて大阪、名古屋でも放送が始まった。開局当時は36万人だったラジオの契約者は、1929年(昭和4)には、65万人まで増加した。放送内容は、はじめは学芸的色彩が強かったが、やがて大衆芸能や趣味を題材にした番組もつくられるようになり、人気となった。」 「おもな雑誌の創刊年と種類数の変化Years of Publication of the First Issue of Major Magazines and Changes in the Number of Genres大正期には大部数の雑誌が発刊され、読者ターゲットを絞ったものも各種創刊された。During the Taisho period (1912–1926), magazines were published in large numbers,and various genres targeting specific readers were launched.雑誌種類数の推移 1885年(明治18) 321種類 ↓ 1937年(昭和12) 13,268種類戦時体制による変化 戦時体制の強化と用紙不足によって新聞雑誌の整理統合が進む分類一般向け雑誌 国民之友 風俗画報 太陽 中央公論 改造 現代 サンデー毎日 週刊朝日 アサヒグラフ キング 女性向け雑誌 女学雑誌 婦人世界 婦人之友 青鞜 婦人公論 主婦之友 婦人倶楽部児童向け雑誌 小国民 少年世界 少女之友 少年倶楽部 コドモノクニ 小学五年生・小学六年生 少女倶楽部」「大衆文化の隆盛大正期になると大衆娯楽の雑誌がさかんに発刊され、月刊誌のほかに週刊誌やグラフ雑誌なども登場した。「中央公論」「改造」など論壇中心の雑誌のほかに、「キング」に代表される大衆娯楽雑誌が人気を集めた。また、「婦人倶楽部」「コドモノクニ」など婦人や児童を対象にした雑誌も多数刊行された。単行本の発行もさかんになり、1926年(大正15)、改造社が1冊1円の廉価版全集『現代日本文学全集』の予約募集を行って驚異的な部数を販売した。翌年には新潮社、春陽堂などもこれに続き、円本ブームが起きた。さらに、岩波文庫をはじめとする小型の文庫本も発売された。円本・文庫本の登場は、読書人口を拡大し、読書の大衆化を推しすすめた。また、新聞小説も人気を呼び、その挿絵の持つ魅力も多くの読者を獲得する要因となった。大正から昭和初期にかけて、商品が大量に出回り、企業間の競争が激しくなると、新聞や雑誌に広告が多く掲載されるようになった。新聞広告に登場する商品の内訳でも、化粧品・薬品・出版物が上位を占めたが、生活の洋風化・合理化にともない、調味料・ビール・清涼飲料などの広告も増加した。印刷技術の発達や広告デザインの発展は、商品広告を一層華やかなものにし、アール・デコ調など、当時ヨーロッパやアメリカで流行したデザインも積極的に取り入れられた。また、野外広告にはネオンサインやアドバルーンが登場し、東京の街をにぎわせた。」 「森永ミルクキャラメル箱The Case of Morinaga Caramels大正後期~昭和初期(1917~1945年頃)森永製菓株式会社小売店などに菓子を納めるための化粧箱。今もなじみのポケット用紙箱が60箱入った。「ミルクキャラメル」は、1913年(大正2)より乳製品の栄養価値への注目を受け発売された。」 「赤玉ポートワイン火鉢The advertisement of Akadama Port Wine1927年(昭和2)頃赤玉ポートワインにつけられた特製印の景品。赤玉ポートワインは、1907年(明治40)に発売され斬新な広告で人々の目を引きつけた。」 「『子だから』A record of growth of child1909年(明治42)巌谷小波/著 杉浦非水/画三越呉服店/発行1909年(明治42)4月に三越が開催した第1回児童博覧会を記念して発表された子供の成長記録のための画帳。お祝いの品として人気だった。巌谷小波は、当時三越小児部の顧問だった。」 「新案家庭衣装あはせCard Game: Combination of Casual wear,Advertisement for Mitsukoshi Department Store1910年(明治43)杉浦非水 /画 三越タイムス/考案家庭の中でそれぞれの家族が身に着ける衣装や持ち物を集めるカードゲーム。商品の宣伝広告も兼ねており、「坊ちゃん」の持ち物には「子だから」もある。」近づいて。「『みつこしタイムス』第8巻第12号Advertisement magazines for Mitsukoshi department store1910年(明治43)杉浦非水/表紙デザイン 三越呉服店/発行百貨店「三越」の通販カタログ兼PR誌。新商品や売り出し情報などを紹介した。表紙に描かれているのは、1909年(明治42)に宣伝広告の一環として結成された三越少年音楽隊である。」 これらの展示からは、大正から昭和初期にかけて、商品そのものだけでなく、雑誌や遊び、景品などを通して人々の暮らしの中へ自然に入り込んでいった企業の広告戦略の巧みさを知ることができるのであった。「円本合戦Battle of One-Yen Books1926年(大正15)、1冊1円の予約廉価版全集『現代日本文学全集』(改造社)が23万部の予約を取り付けたのを受け、各出版社から各種の「円本」が刊行された。「円本」は読者人口を拡大し、教養の大衆化を進めた。※当時、単行本の価格は2~3円で、挿絵作品も少なかった。In 1926, the publisher of the "Complete Series of Modern Japanese Literature" (Gendai Nihon Bungaku Zenshū, Kaizōsha), priced at one yen per volume, received 230,000 pre-orders of the collection. With this, a variety of "one-yen books" were published by various publishers. These "one-yen books" expanded the readership and promoted the popularization of refined culture.おもな円本 全集名(出版社) 刊行年月 巻数 価格現代日本文学全集(改造社) 1926年(大正15)12月 全63巻(別巻含)並製1円・特製1円40銭世界文学全集(新潮社) 1927年(昭和2)3月 全56巻(第2期含) 1円現代大衆文学全集(平凡社) 1927年(昭和2)5月 全60巻(総巻含) 定価記載なし(1円)日本児童文庫(アルス) 1927年(昭和2)5月 全76巻 2冊1円小学生全集(興文社) 1927年(昭和2)5月 全88巻 35銭明治大正文学全集(春陽堂) 1927年(昭和2)6月 全60巻 並製1円・特製1円50銭濫発される「円本」は企画の重複を招き、出版社間で激しい広告合戦が繰り広げられた。『日本児童文庫』(アルス) VS 『小学生全集』(興文社)以下 省略」 「宣伝広告の変化Changes in Advertisement大正から昭和初期にかけて、大量生産・大量消費による新しい生活スタイルのもと、人々の目をひく商業広告が増えていった。From the Taisho era (1912–1926) to the early Showa era (1926–1989), attractive advertisements for products increased under the new lifestyle based on mass production and mass consumption.■三越のメッセンジャーボーイ 1909年(明治42)頃 株式会社三越伊勢丹ホールディングス/提供 ©2025 Isetan Mitsukoshi Holdings Ltd. 英国風の制服を身に着けた少年が白い自転車に乗り、購入した商品を客の家へと届ける サービスが話題になった。■三越少年音楽隊 1909年(明治42)頃 株式会社三越伊勢丹ホールディングス/提供 ©2025 Isetan Mitsukoshi Holdings Ltd. スコットランド風の衣装を着た11歳から15歳までの少年による音楽隊。店内行事だけでなく、 外部イベントでも演奏して人気を集めた。■森永の自動車を使った宣伝 1909年(明治42) 森永製菓株式会社/提供 当時まだ珍しい存在であった自動車の車体に商品名を大書きし、宣伝目的で町を走らせた。■銀座四丁目のネオン 昭和初期大正末期にネオン管が国産化されたことから、昭和初期になるとネオン広告が本格化した。夜の東京が一気に華やぎを増した■(左)森永ベルトラインデーのアドバルーン 1931年(昭和6) 森永製菓株式会社/提供■右)森永ベルトラインストアーの店頭大売出し 1935年(昭和10) 森永製菓株式会社/提供全国の応募店から選ばれた4000店余を会員ストアーとし、商品の供給に加え、販売・宣伝の方法を指導した。」 「東京文化展望地図Tokyo Culture Observation Map文明開化以来、東京は絶えず海外の新しい文化や風俗を受け入れる舞台となり、教育機関や新聞・雑誌などの発行所、娯楽施設などが次々に設置・整備された。With the age of "civilization and enlightenment" (bunmei kaika), Tokyo became a stage for adopting new cultures and customs from abroad. Consequently, educationalinstitutions, newspaper and magazine publishing houses, and entertainment facilities were established and developed.」 「東京方眼図明治四十ニ年六月森林太郎立案東京日本橋通壱丁目春陽堂発行」 凡例● 教育上の設備学校(官立・府立・私立専門)図書館博物館◆ 文芸上の設備新聞社雑誌発行所(文学・法律・経済雑誌、趣味娯楽雑誌・専門雑誌等)■ 娯楽上の設備公園劇場寄席この展示は、明治42年(1909)の東京における文化施設・教育施設・娯楽施設を、森鷗外(森林太郎)が考案した「東京方眼図」の上に重ねて表示したもの。見どころは次の点。・銀座には新聞社や劇場が集中しており、近代文化・情報発信の中心地だったこと。・日本橋・京橋には雑誌出版社が多く、出版文化の中心だったこと。・神田・本郷・牛込には大学や専門学校が集まり、出版文化も山の手へ広がっていったこと。・上野公園は、美術学校・音楽学校・博物館・図書館が集まる、日本有数の文化拠点だったこと。・寄席は都内各地に点在し、庶民の日常の娯楽として親しまれていたこと。つまり、この地図は「明治末の東京がどこで学び、どこで本を作り、どこで遊び、どこで文化を育てていたか」を一枚で示した文化地図と言えよう。「教育上の設備」、「娯楽上の設備」、「文芸上の設備」、「雑誌発行所」 一覧表。 「教育上の設備」、「娯楽上の設備」、「文芸上の設備」、「雑誌発行所」の各写真。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.07
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T4 市民文化と娯楽。通路には「地玉 三ツ 十銭」と。 地元産の卵(地玉)3個で10銭と。明治30年代の「浅草花屋敷」の門。近づいて。「浅草花屋敷の門復元年代:明治30年代後半 縮尺1/1浅草花屋敷は、1852年(嘉永5)に浅草寺奥山で四季の草木を見せる庭園として開園した。時代が明治に移ると、浅草寺の寺領は東京都の所管となって、一帯は公園地に指定され、整備を経て1885年(明治18)に浅草公園として竣工した。花屋敷もそれに合わせて新装し、植物のほかに珍しい動物や見世物なども展示する、より娯楽色の強い興行場へ移行した。以後、東京随一の盛り場となった浅草公園の中心的な施設の一つとして、多くの来園者を集めた。本模型は浅草花屋敷が虎や象などの動物や、活動写真、蓄音器などの最新技術を展観して人気を集めていた当時の門を、残されている写真や図面をもとに再現したものである。」「浅草花屋敷」の門から内部へ。明治から大正初期頃の花屋敷、「奥山閣」の様子。凌雲閣(浅草十二階)の前にあった池の名前は、瓢箪池(ひょうたんいけ)(正式名は「大池」)。「円筒式蓄音機Gramophone with Cylinder1901年(明治34)頃レコードの登場以前、録音再生には蝋管(ろうかん)と呼ばれる筒が用いられていた。資料も蝋管を使用する蓄音機の一つ。浅草花屋敷は東京でもいち早く蓄音機を興行に取り入れ、背面の写真に写る「奥山閣」内に設置し観客を楽しませていた。」 花屋敷で飼育されていた虎。「浅草花屋敷の動物たちThe Animals of Asakusa Hanayashiki明治〜昭和初期までの浅草花屋敷は東京有数の私立動物園でもあり、虎やライオンといった猛獣、象やエミューなどの大型動物のほか、ペンギンの飼育などもいち早く行った施設の一つだった。」 左写真花屋敷で飼育されていた虎 『少年世界 第8巻第1号』より転載右写真ちらし「南極珍客ペンギン鳥」「T4ー盛り場浅草」展示。 「盛り場浅草の変遷Transition of Asakusa, the Entertainment District江戸時代からの盛り場であった〈奥山〉の見世物小屋は、公園第六区に移転を命ぜられた。西洋の技術や芸をとり入れた興行も行われ、〈六区〉は日本有数の興行街へと発展した。The misemono show huts in Okuyama, which had been the center of entertainment since the Edo period, were ordered to move to the Park's sixth ward. The Rokku (lit. sixth-ward) developed into one of the most famous entertainment districts in Japan, as Western techniques and arts were introduced to the entertainment scene.」 年(元号)/出来事1873年(明治6) ● 東京府、浅草寺境内一帯を公園地に指定する。 他に寛永寺、増上寺、飛鳥山、高尾八幡。1882年(明治15) ● 浅草田圃(浅草寺西側に広がっていた湿地帯)の埋立工事着工、大池を開削。1884年(明治17) ● 1月、浅草公園内が6区画に分けられる。 ● 9月、さらに浅草馬道一丁目~三丁目および五丁目の一部を併合して7区としたが、 7区はのちに除外された。 ● 浅草観音堂裏(奥山)の見世物小屋や露店は第6区に移転を命ぜられる。 しかし、花屋敷は遊園地となって同じ場所にとどまった。1886年(明治19) ● 浅草公園開園。 ● 六区では、奥山から移った生き人形などの見世物に加え、玉乗り・軽業・剣舞などが人気に。 ● 六区最初の劇場(常盤座)開場、歌舞伎興行。1887年(明治20) ● 富士山縦覧場開業。1890年(明治23) ● 富士山縦覧場をとり壊し、日本パノラマ館開業。 ● 凌雲閣(浅草十二階)開業。1897年(明治30) ● シネマトグラフ館(仮設)が活動写真を上映。1903年(明治36) ● 日本初の活動写真常設館となる電気館開業。1907年(明治40) ● このころ、六区の見世物小屋が次々に活動写真館に転業。 ● 六区の娯楽の中心は活動写真となる。 ● このころ、常盤座横に観覧車が設置される。1917年(大正6) ● 常盤座でオペラ女優・松井須磨子が出演しヒット。 浅草オペラ全盛を迎える。1922年(大正11) ● 安来節が流行する。1923年(大正12) ● 関東大震災により、六区全焼。 凌雲閣は半壊し、二次被害を防ぐため、工兵隊により爆破のうえ解体される。1925年(大正14) ● 映画、剣劇、安来節がさかんとなり、浅草オペラは衰退の一途をたどる。1929年(昭和4) ● レビュー団「カジノ・フォーリー」が浅草水族館で旗揚げ。 不入りのため解散するが、すぐに第二次カジノ・フォーリー発足。エノケンが座長格に。1930年(昭和5) ● 東京松竹楽劇部の「東京踊り」が浅草松竹座でヒット。右側の分類■見世物・雑芸(Miscellaneous shows and entertainments)■高塔遊覧系施設(Observation tower attractions)■活動写真・映画(Motion pictures / Cinema)■オペラ・レビュー(Opera / Revue)「盛り場浅草江戸時代から両国と並ぶ盛り場として栄えた浅草は、明治の世となってからも引き続き、浅草寺境内裏の〈奥山〉を中心に、見世物小屋や大道芸でにぎわった。1873年(明治6)、浅草寺境内一帯が公園地に指定されると、1884年、奥山の見世物小屋は新たに区画された第六区に移転を命ぜられた。〈六区〉では従来の見世物や大道芸に加えてサーカスや曲芸が興行され、日本パノラマ館や凌雲閣(浅草十二階)などの遊覧施設が多くの人を集めた。しかし、浅草六区の特色は、1903年(明治36)に日本初の活動写真の常設館「電気館」が開場し、やがて活動写真館を並べる民衆娯楽の本場となったことである。大正中期ともなると、休日には人の波が六区を埋め尽くし、身動きもままならないほどの活況を呈した。その後、浅草オペラや安来節が人気を呼び、さらに昭和時代に入ると「カジノ・フォーリー」「笑いの王国」といった軽演劇や松竹少女歌劇も加わって、東京のみならず、日本を代表する盛り場となった。」 「東京淺草観音山内寫眞圖繪(とうきょう あさくさ かんのん さんない しゃしん ずえ)」。明治初期の浅草寺境内を鳥瞰した錦絵。発行所(文書は宛先) 上村清左工門年代 明治前期明治14年 1881 19世紀・浅草寺本堂が中央に大きく描かれている。・本堂右側に五重塔が見える。・本堂前から南へ延びる仲見世が一直線に描かれている。・左手には広い庭園をもつ花屋敷が描かれている。・境内西側には奥山(見世物小屋が集まっていた場所)が描かれている。・周囲にはまだ緑地が多く、明治初期の浅草公園周辺の様子がよく分かる。「東京浅草観音山内写真図絵Photographs and Illustrations of the Interior of Asakusa Kannon, Tokyo1881年(明治14)4月13日上村清左エ門/発行浅草寺境内は1873年(明治6)に公園に制定された。1884年に公園は7区に分けられ、境内奥山で展開していた様々な見世物は新たに作られた「六区」に移転することとなった。資料は区割り以前の浅草寺周辺の様子が分かる絵で、境内には幟を立てた見世物小屋が多数存在していることが分かる。」 「浅草六区の誕生Birth of the Asakusa Rokku Theater District1873年(明治6)、東京府は浅草、上野、芝、飛鳥山、深川の5カ所を公園とした。その多くは旧幕府保護下の社寺境地であった。浅草寺境内一帯は浅草公園となり、6区画に整備された。Birth of the Asakusa Rokku Theater DistrictIn 1873, the Tokyo Prefecture designated five areas as public parks: Asakusa, Ueno, Shiba, Asukayama, and Fukagawa. Most of the parks were located within the precincts of shrines and temples under the protection of the former shogunate. The area within the precincts of Sensōji Temple became Asakusa Park, which was divided into six sections.」 年表1873年(明治6)浅草寺境内一帯が公園地に指定される。1884年(明治17)1月、公園内が一区〜六区に分けられた。9月、さらに浅草馬道一丁目〜三丁目および五丁目の一部を併合して七区としたが、七区はのちに除外された。地図中の主な表示・一区 浅草観音堂・二区 仲見世・三区 伝法院・四区 大池・五区 花屋敷・六区 近代の興行街(六区)そのほか・江戸時代からの盛り場(奥山)・浅草神社・仁王門・二天門・五重塔周辺町名・千束町二丁目・芝崎町・田島町・新畑町・北仲町・馬道一丁目・馬道二丁目・馬道三丁目・馬道五丁目・花川戸町「六区誕生1882年(明治15)からはじまった浅草公園の造営工事で、浅草寺の南西に広がっていた低湿地が埋め立てられ、新たに街区が造成された。その場所が興行地の公園第六区(通称「六区」)となり、1884年、浅草寺奥山の見世物小屋が移転を命ぜられた。六区では、玉乗りの江川一座やサーカスなど西洋の技を取り入れた芸がもてはやされる一方、常盤座を中心に芝居や撃剣といった旧来からの興行も人気を集めた。六区へ移転しなかった花やしきも、珍しい動植物の展覧に加え、生人形(いきにんぎょう)、やまがら曲芸、操り人形などの興行を行う遊園地となった。明治20年代になると、高所から周囲を見渡す富士山縦覧場(じゅうらんじょう)や日本パノラマ館が登場し、1890年(明治23)、六区の北側に高層展望・・・・・」 「銅版画大日本凌雲閣之図拾貳階直立貳百貳拾尺(=高さ220尺・十二階建)下部彫刻技師 島田瑞山画中の説明右側には3つの小図が描かれている。上段 展望台から東京市街を眺める様子中段 螺旋階段下段 電氣エレベートル機械及ビ客室昇降模ノ圖(電気エレベータ機械の仕組みと乗客昇降の様子)」 「大日本凌雲閣之図十二階直立二百二十尺Ryounkaku Tower in Great Japan, Twelve-Story Tower Upright Building of 220 Shaku About 66.7 Meters1890(明治23)島田瑞山/彫村山直吉/発行開業当時、凌雲閣の最大の呼び物は日本で初めて設置された電動式のエレベーターであった。この時のエレベーターは不明な点も多いが、この銅版画に描かれているように、2台のエレベーターが釣り天秤のように上下することで人を運んでいたと考えられる。開業後より故障が続いたことで、半年後には撤去を命じられた。設計を担当した東京帝国大学教師、ウィリアム・K・バルトンは、当初からこの設置に反対していた。」 電氣エレベートル機械及ビ客室昇降ノ圖ズームして。この図は、当時としては最新技術だった日本初の電動式エレベーターの構造を紹介するために描かれたもので、2台の客室が釣り合い(カウンターウエイトのような関係)を利用して上下する仕組みが表現されている。・左側:2台のエレベーターかご(客室)が描かれている。・中央:昇降路(シャフト)と滑車・歯車などの伝動機構。・右側:電気配線、制御器、計器などの電気設備。「浅草公園の新たな興行施設New Entertainment Facilities at Asakusa Park① 富士山縦覧場富士山縦覧場 1887年(明治20)~1890年Mt. Fuji Observatory (Fujisan jūranjō)富士山を模した展望施設。高さ約32m、木骨モルタル造で、人々は螺旋状の登山路を上って高所からの景色を楽しんだ。A viewing facility modeled after Mt. Fuji. About 32 meters high and built with a timber-frame mortar structure. Visitors climbed a spiral pathway to enjoy panoramic views from the top.② 浅草花屋敷浅草花屋敷 1853年(嘉永6)Hanayashiki Amusement Park六区への移転をせず、奥山の伝統を引き継いで、江戸時代からの見世物興行を行いながら、やがて回転木馬、動物園などをそろえた近代型遊園地となった。Instead of relocating to the Rokku district, Hanayashiki continued the Okuyama traditionof Edo-period sideshows. It later developed into a modern amusement park featuringattractions such as a merry-go-round and a zoo.③ 日本パノラマ館日本パノラマ館 1890年(明治23)~1909年Nihon Panorama-kan (Japan Panorama Theater)パノラマとは、戦場などの風景を円形の場内の壁一面に映し、その前に模型などを配して視覚的な臨場感を楽しませる施設。富士山縦覧場の跡地に建設された。A panorama theater displayed large circular paintings of battlefields and other scenes around the interior wall, with models placed in front to create a realistic visual experience. It was built on the former site of the Mt. Fuji Observatory.④ 観覧車観覧車 1907年(明治40)頃~1911年頃Ferris Wheel1907年(明治40)に上野公園で開催した東京勧業博覧会に設置された観覧車を移築したものとされる。This Ferris wheel is believed to have been relocated from the one installed at the TokyoIndustrial Exposition held in Ueno Park in 1907.」 ① 富士山縦覧場をズームして。② 浅草花屋敷をズームして。こちらは凌雲閣(りょううんかく・十二階)の見える浅草六区(公園第六区)のにぎわい。③ 日本パノラマ館をネットから。④ 観覧車をネットから。「新板 浅草奥山芸人尽」 この錦絵は、浅草奥山・六区で人気を集めていた芸人や見世物芸を一枚にまとめた「興行案内図」のような作品・左上:馬上の人物・上中央:龍・虎などを伴う見世物的な構成・上中左:剣術または武芸・上中央:弓を構える人物・左中央:大きな輪状の道具を扱う芸・左下寄り:台の上で逆立ちする軽業・中央右:赤い衣装の踊り・音曲芸人・下中央:傘や道具を使う曲芸・奇術・右下:扇・盃・三味線などを用いる芸「新板 浅草奥山芸人尽Performers at Asakusa Okuyama, New Edition1881(明治14)歌川真景/画浅草公園第六区に集められた寄席や見世物小屋では、軽業や曲独楽、かっぽれなど、江戸時代から続く見世物芸が依然として行われた。その一方で、芸人の東西交流が進み、玉乗りや西洋あやつりなど、諸外国から学んだ新しい芸も取り入れられた。」 「浅草公園花屋敷興業チラシAsakusa Park Hanayashiki Event Flyer1915年(大正4)浅草公園花屋敷/発行ペンギンが展示されていたころの花屋敷のチラシ。こちらでは南米の珍客と記載されている。その他にも様々な動物や活人形の展示、奇術や芝居などの演目が並び、当時の花屋敷が一大興行場であったことが伝わる。」 「南極珍客ペンギン鳥Flyer: "Antarctic Curiosity, Penguin Birds"1915年(大正4)浅草公園花屋敷/発行1915年6月、南米チリから持ち帰られたフンボルトペンギンが花屋敷に買い取られ、展示に加わった。当時は南極探検の映画が各地で公開された時期で、ペンギンも劇中に登場しており、人々の関心も高かった。そのためチラシにも南米産なのに「南極」とうたわれている。」「南極珍客 ペンギン鳥此鳥は今回(六月十日)東洋滊船の紀洋丸に南米よりニ羽到着しました。一羽は上野動物園へ献納になりましたそうですが、悲しい事には斃死しました。残る一羽が本園にあります。暑さをきらい外から舛から毎日氷を二十貫位つつそばにおいてやります。餌は小あじを食します。生存してきましたのは今回が初めてです。淺草公園 花屋敷」 「各種興行場における入場人員数の変化Changes in the Number of Visitors at Various Entertainment Venue安価で楽しめる活動写真の人気は東京市外にも広がっていった。明治40年代には活動写真館(映画館)の入場者数は、寄席や劇場を抜き、娯楽施設のトップとなった。Moving pictures spread outside of Tokyo as a popular, inexpensive entertainment. By the 1910s, the number of visitors to moving picture theaters (movie theaters) surpassed those to yose and theaters to become the top entertainment facility.」 円グラフ東京市及び隣接郡部における興行場数の変化凡例■観物場(活動写真館・映画館)(橙)■劇場(青)■寄席(緑)1905年(明治38) 観物場 24 劇場 19 寄席 1541916年(大正5) 観物場 78 劇場 21 寄席 1361929年(昭和4) 観物場 207 劇場 30 寄席 181・1905年には寄席が154か所と圧倒的多数で、映画館は24か所しかなかった。・1916年には映画館が78か所まで急増。・1929年には映画館が207か所となり、寄席181か所を初めて上回った。棒グラフ中の注記・日露戦争後の経済好況により娯楽興行に資本が投下される。・第一次世界大戦による好況で娯楽産業が躍進・関東大震災によりデータ不詳■観物場(映画館)(橙)■劇場(青)■寄席(緑)映画館(橙)の年間入場者数が1910年代から急激に増加し、昭和初期には3,000万人を超える規模に達した一方、劇場や寄席は比較的緩やかな伸びに留まっている。「民衆と娯楽日本で初めて公開された活動写真(映画)は、1896年(明治29)、神戸でのキネトスコープであったが、最初の常設館は浅草六区の電気館である。その後、三友館、大勝館、世界館、帝国館、富士館などが次々と六区に軒を連ね、活動写真の人気はうなぎのぼりとなっていった。活動写真館は市外にも広がり、明治40年代には寄席や劇場の入場者数を抜いて、娯楽施設のトップに立った。安価で楽しめる活動写真は、近代都市生活者の娯楽として欠かせないものとなったが、しだいに年少観覧者への影響などが問題にされはじめた。まず、1917年(大正6)には活動写真興行取締規則ができ、1925年には活動写真の内容にまでかかわった検閲規則ができたが、浅草六区をはじめ新宿などの盛り場には映画を見に来る人の波が絶えなかった。また、大正中期の六区では、大衆化された歌劇の浅草オペラが安来節とともに話題を呼んだ。とくに浅草オペラは「ペラゴロ」と呼ばれた熱狂的ファンを生み、「ボッカチオ」や「カフェーの夜」などの歌が大流行した。こうして六区は、庶民の娯楽街としてさらなるにぎわいをみせた。」 上電気館チラシ「アントニーとクレオパトラ」An advertisement of the Denkikan movie theater"Anthony and Cleopatra"1914年(大正3)浅草公園電気館/発行左電気館改築記念絵葉書Reconstruction memory picture postcard of the Denkikan1915年(大正4)電気館/発行活動写真館は、流行意識に、当時の取り締まり法規の変化の激しさも手伝い、修築や改築が頻繁に行われた。電気館もおよそ10年間に3度の増改築を行っており、1915年(大正4)の改築で三階建の洋風建築となった。右浅草公園電気館パンフレット御意のまま 新しきプログラムA pamphlet of the Denkikan movie theater when it opened. It is the first movie theaterin Japan.明治後期~大正期(1898~1926年)浅草公園電気館/発行上映スケジュールや作品の概要を紹介したパンフレット。電気館はチャップリンやロイド、キートンといった早くから人気俳優を上映したプログラムを組むなど、六区映画街の中心的存在として街を盛り上げた。「「アントニーとクレオパトラ」写真帖1914年(大正3)1914年3月11日から電気館で封切られたイタリア映画「アントニーとクレオパトラ」は、弁士・染井三郎の名調子で大ヒットし、連日満員の盛況ぶりをみせた。音声のない活動写真では、弁士の人気が作品の人気を左右した」 「デンキカンニュース第55号Leaflets of the Denkikan movie theater Vol.551919年(大正8)」 「六区興行街の変遷活動写真は当初、見世物の一種として興行されたが、明治初期から常設の施設が増えた。大正時代には奇抜な外観の活動写真館が軒を連ね、六区は映画の街へと変わっていった。At first, motion pictures were run as a kind of misemono show, but from the early Meiji era, permanent theaters increased. By the Taisho era (1912–1926), the Rokku district was transformed into a movie town, with its rows of eccentric-lookingmoving picture theaters.」 「1908年(明治41年)■活動写真館・大勝館・三友館・富士館・第二電気館・電気館明治期の六区低層の見世物小屋や演芸場が立ち並ぶ。六区では玉乗りや剣舞が人気であった。1903年(明治36)、日本初の活動写真常設館として「電気館」*が開業。明治40年以降、六区の興行場は次々と活動写真館に転業した。」ネットから。1921年 大正10年浅草六区(活動写真館・劇場)・キネマ倶楽部・遊楽館・浪花大座・大盛館・江戸館・万世館・観音劇場・三友館・富士館・松竹キネマ帝国館・初音館・バテー館・日本館・世界館・大勝館・オペラ館・千代田館・電気館・金車亭・東京倶楽部・常盤座・公園劇場・金竜館大正期の六区目抜き通りに奇抜な外観の活動写真館が軒を連ねる。1907年(明治40)に上野公園で開催された「東京勧業博覧会」の影響により、パビリオンを思わせる擬洋風建築の活動写真館が建てられた。六区の娯楽の中心は活動写真となり、一層のにぎわいを見せた。ネットからカラー版を。1931年 昭和6年(凡例)昭和元年~6年にたてられた建築物・江川劇場・大都劇場・遊楽館・三友館・富士館・帝国館・帝京座・松竹館・大東京・日本館・大勝館・オペラ館・千代田館・電気館・東京倶楽部・常盤座・公園劇場・金竜館昭和初期の六区1923年(大正12)の関東大震災で六区は全焼。しかし復興は早く、バラック造から、やがてコンクリート造の強固な建物へと建て替えられた。娯楽の中心は依然として映画であり、六区=映画街のイメージは昭和期を通して続いた。ズームして。『台東区文化財調査報告書 第5集』(台東区教育委員会 1987年)より作成。「六区活動写真館の開業年The Opening Year of the Rokku Moving Picture Theater活動写真の人気の高まりを受け、明治40年代を境に、六区の見世物小屋は次々に活動写真館に転業した。With the growing popularity of motion pictures, the misemono show huts in Rokku began to convert to moving picture theaters one after another in the 1910s.」 ・電気館 1903 開業 1903年(明治36)開業。電気器具を使った見世物の興行場を改装し、日本最初の活動写真 常設館となった。六区映画街の中心的存在として街を盛り上げ、1976年(昭和51)に閉館した。・三友館 1907 開業 1907年(明治40)開業。「開進館」という勧工場を改築した。開業当初は、パノラマに 色光線を当てた「キネオラマ」を売りにしたが、大正期に日活直営となり、尾上松之助映画を 上映した。・大勝館 1908 開業 1908年(明治41)開業。青木の玉乗り一座が興行していた「第一大盛館」を改称した。 大正期に沢村四郎五郎らの忍術映画を多数上映し、大変な人気を得た。・富士館 1908 開業 1908年(明治41)開業。「珍世界」という見世物小屋を改築した。尾上松之助映画を上映し、 1926年(大正15)の松之助の死後も時代劇映画の人気を保った。戦後は「浅草日活劇場」 として活動映画を上映した。・オペラ館 1909 開業 1909年(明治42)開業。都踊りの興行をしていた「日本館」を改築した。 大正元年から当時創立間もない日活の直営となり、日活映画の封切館となった。・帝国館 1910 開業 1910年(明治43)開業。「日本パノラマ館」を改築した。1921年(大正10)から 活動写真館の直営となり、洋画を上映した。戦後も松竹系の封切館として営業し、 1983年(昭和58)に閉館した。・世界館 1910 開業 1910年(明治43)開業。寄席の一つとして活動写真を見せていた興行場「万世館」を改称した。 1930年(昭和5)、隣接の大勝館との交流興行で閉館し、大勝館に併合された。・千代田館 1911 開業 1911年(明治44)、上田写真館跡地に開業。1920年(大正9)から活動写真館「日活」の 封切館となり、1925年頃にトップクラスの収益を挙げるに至った。1926年頃からは 日本映画とマキノ映画を上映した。 左側説明板「浅草オペラ絵葉書Postcard Featuring Sheet Music from a Song in the Asakusa Opera大正期大正時代の中頃、六区では活動写真とともに浅草オペラが流行した。各劇場から人気スターが輩出され、「ペラゴロ」とよばれる熱狂的なオペラファンが生まれた。資料は劇中歌の楽譜が入った浅草オペラ演目の絵葉書。」 右側説明板「東京歌劇座第1回上演番組Flyer: "Tokyo Opera Company, First Performance Program"1917年(大正6)6月旭興行部(日本館)発行浅草オペラの常設館の一つ、日本館で「カフェーの夜」が上演された時のチラシ。同演目で劇中歌として歌われた「コロッケの唄」は大ヒットして流行歌となり、高級料理だったコロッケが庶民へ普及するきっかけになったとされる。」 「大合同根岸歌劇団第3回 特別大興行プログラム1920年(大正9)根岸歌劇団は、浅草オペラの人気を支えた歌劇団の一つ。1920年(大正9)から1924年まで六区の金龍館を根城に活動した。田谷力三、清水金太郎、静子夫妻をはじめ実力者が参加し、グランドオペラ中心のプログラムを組んだ。」 「浅草六区の様々な興行Various Performances at Asakusa Rokku① 浅草の寄席浅草の寄席明治後期~大正期落語、講談、浪花節・音曲・奇術・演芸などが行われた。② 浅草オペラ浅草オペラ 歌劇女優 松山浪子大正期浅草オペラは大正時代の中ごろ、活動写真とともに六区で大流行した。松山浪子は、浅草オペラの人気を支えた根岸歌劇団の所属女優。浅草オペラは震災後衰退した。③ 安来節安来節大正中期安来節は1922年(大正11)、出雲地方の「大和家三姉妹一座」が常盤座で公演したところ大人気となり、その後浅草でさかんに興行された。帝国座や十二階劇場、日本館などでも上演された。④ 「カジノ・フォーリー」「カジノ・フォーリー」昭和初期浅草松竹座の演芸場で1929年(昭和4)に旗揚げしたレビュー団。わずか2か月での解散後、本拠を一座長に据えた「カジノ・フォーリー」として六区の観客の人気を呼んだ。1930年には「新カジノ・フォーリー」として六区の観客動員に進出した。(写真キャプション)「カジノ・フォーリー脚本集(内外社 1931年)」より」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.06
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「T2 開化の背景」。「T2-1 庶民の日常文明開化期の東京における、人々の暮らしや社会の変化に焦点を当てています。西洋化が進む中で、一般の庶民がどのような生活を送り、新しい文化や道具を取り入れていったのかを資料や模型で紹介していた。」 正面に「人力車」。 「庶民の日常文明開化の華やかさの一方で、下町の路地裏には、江戸時代とさほど変わらない生活を営む庶民の暮らしがあった。明治維新を経て、時代は大きく変革していたにもかかわらず、人々の暮らしぶりはつつましく、互いに助け合いながら生計を立てていた。しかし、1892年(明治25)に松原岩五郎が著した『最暗黒の東京』にみられるように、過密で貧困、そして不衛生な環境のなかで生活する人々と地域が形成されていた。こうしたスラムでは貧困が深刻な問題となり、東京に資本や人口が集中するにつれ、より重大な都市問題となっていった。明治から大正にかけて、日本人の平均寿命は男女ともに42歳から44歳程度であった。東京でも幕末開港以来のコレラが猛威をふるい、痘瘡(天然痘)とともに大流行を繰り返し、多数の患者や死亡者を出した。それらは「貧民病」とも呼ばれ、とりわけ不衛生なスラムに住む下層民ほど感染の度合いが高かった。」 「人力車The pulled rickshaw was invented in Tokyo in the early Meiji era, and it was exported and spread to the Asian countries and the Middle East.明治後期(1898~1912)人力車は、1870年(明治3)、和泉要助(いずみ ようすけ)ら3名が東京府の許可を得て製造・営業を始めたのが始まりと言われる。翌年末には東京府内の人力車総数が1万を超えるなど、驚くべき急速な広まりを見せた。さらに東京で製造された人力車は、近隣各国やインド、中東まで輸出されるようになった。」 「明治の子供たち(Children of Meiji)明治時代の子どもたちの素顔をよく伝える、とても貴重な歴史写真。明治の町に響く子どもたちの笑い声。文明開化の華やかな時代の陰で、着物姿の子どもたちは今日と変わらぬ無邪気な笑顔を見せていた。手彩色が添えられた一枚の写真は、時代を超えて庶民の温かな暮らしを今に伝えている。自然な笑顔・前列右側の男の子たちは満面の笑みを浮かべ、笑い声が聞こえてきそう。・当時の写真は長時間露光のため真面目な表情が多いのですが、この写真は自然な瞬間を 捉えた珍しい一枚。さまざまな年齢の子どもたち・よちよち歩きの幼児から10歳前後の子どもまで集まっている。・兄弟姉妹や近所の子どもたちが一緒に遊んでいた様子がうかがえる。普段着の着物・男の子は縞模様や絣(かすり)の着物。・女の子は小花模様などの着物を着ている。・晴れ着ではなく日常着であり、庶民の暮らしをそのまま写した写真。手彩色写真・着物の青や赤などに淡い色が付けられている。・当時は白黒写真に職人が一枚ずつ彩色を施す「手彩色」が盛んであった。後方の様子左奥には小さな屋台があり、駄菓子屋や物売りの店のように見える。その前にいる女性が子どもたちを優しく見守り、町の穏やかな日常風景を演出している。「裂見本帖 呉服御通(きれみほんちょう ごふく おかよい)Fabric Sample Book, Gofuku Okayoi明治時代(1868~1912)明治時代に入り洋装化が広まりつつある中でも、庶民の日常着は和装が主流であった。なかでも江戸時代から庶民の間にも広まった「縞織」は、この時代に技術の全盛期を迎えた。本資料は「縞織」を中心とした布地のスクラップ帳である。」 「往来子供尽(おうらい こどもづくし)Collection of Children Socializing1870年(明治3)4月歌川芳藤/画 文正堂/発行喜多川周之コレクション明治初頭の東京の通りで見られた子供たちの姿が描かれている。からくり見世物、おでん屋、風車売りといった商いに加え、馬車や人力車など新たに登場した乗り物と子供の関わりもうかがえます。」「往来子供尽」は、明治3年(1870)に浮世絵師 歌川芳藤(うたがわ よしふじ) が描いた錦絵。画面は四段に分かれ、明治初期の東京の町を行き交う子どもたちが生き生きと描かれています。・からくり見世物に夢中になる子どもたち・馬車に乗る人々を見送る子どもたち・新しく登場した人力車に興味津々な様子・おでん屋や風車売りなど、町の商人とのふれあいなど、文明開化が始まったばかりの東京の町の活気が伝わって来る。江戸時代から続く暮らしと、馬車・人力車など西洋文明を取り入れた新しい文化が同時に描かれており、「江戸から明治への移り変わり」を子どもたちの視点から伝える貴重な風俗資料となっているのだ。「職業にみる幕末から明治初期の庶民の暮らしThe Lives of the Common People from the End of the Edo Period to the Beginning of the Meiji Era as Seen in Occupations幕末から明治初期、政治や社会は大きく変動していき、庶民のなりわい(職業)にも変化があった。商人や職人系世帯の緩やかな変化の一方で、それ以外の世帯が町内より半減したことがうかがえる。From the end of the Edo period to the beginning of Meiji, politics and society underwenta major transition, and the nature of occupations of the common people also changed.While the number of merchant and artisan households showed gradual changes, the number of households related to other types of jobs decreased by half within the townships.」 四谷塩町一丁目の場合(緑色の表示)グラフの分類・商人系世帯数・職人系世帯数・その他の世帯数各グラフは・1861年(文久元)・1871年(明治4)を比較している。合計世帯数・商人系 54世帯 → 51世帯・職人系 52世帯 → 55世帯・その他 92世帯 → 42世帯「公立・私立小学校の成立と展開Formation and Development of Public and Private Elementary Schools1872年(明治5)の国民皆学を目指す「学制」頒布にともない、東京府は、江戸時代以来の寺子屋(家塾)を市立小学校として活用し、初等教育を整備した。With the promulgation of the "Educational Order" in 1872, which aimed for universaleducation, the Tokyo Prefectural Government established primary education by utilizing terakoya (private home schools) that had existed since the Edo period as municipal elementary schools.」 左図学制頒布直前の公立小学校と家塾(凡例)公立小学校(東京府仮小学・1870年(明治3))①第一大区②第二大区③第三大区④第四大区⑤第五大区⑥第六大区●家塾寺子屋塾主の内訳(東京15区)士族 132人平民 138人神官・僧侶 15人その他 4人(1883年〈明治16〉調査)右図公立・私立小学校数と生徒数の変遷公立小学校学校数の推移・1880年(明治13) 71校・1888年頃 73校・1900年(明治33) 79校・1905年(明治38) 129校(棒グラフ)赤:女子生徒数青:男子生徒数折れ線:学校数公立小学校では、学校数・生徒数ともに増加。私立小学校学校数の推移1880年(明治13) 445校1888年頃 356校1900年(明治33) 230校1905年(明治38) 143校私立小学校は、学制施行当初は寺子屋を母体として数が非常に多かったものの、公立小学校の整備が進むにつれて減少していったことが分かる。「明治の教育〈殖産興業〉と〈富国強兵〉の目標を達成するため、明治政府は教育の改革と普及を急ぐ必要があった。文部省は、藩校や寺子屋など、旧来の教育機関や維新時に創設された郷学校などを統合し、国の管理のもとで全国民に教育を授けることを目指すべく近代教育制度の確立に努めた。1872年(明治5)、欧米の教育制度を規範にしてつくられた「学制」が府県に頒布され、日本の近代教育の基礎が固められた。内容も国学・儒学の影響を排し、西洋の近代科学にもとづく実証的なものに変えられ、産業の近代化を推進するために、工業・農水産業・商業などの実業教育にも力が入れられた。」この展示は、明治政府が近代国家を築くために教育制度を大きく改革したことを説明している。1872年(明治5)の「学制」によって、日本で初めて全国民を対象とした近代的な学校制度が整えられた。江戸時代の寺子屋や藩校に代わり、国が教育を管理する仕組みがつくられた。教育内容も、漢学や儒学中心から、西洋の科学や実学を重視するものへと転換。また、近代産業を支える人材を育成するため、工業・農業・水産業・商業などの実業教育にも力が注がれた。このような教育改革は、「殖産興業(産業を発展させること)」と「富国強兵(国を豊かにし軍事力を強くすること)」という明治政府の国家目標を実現するための重要な政策であった。新しい学校制度の確立は、日本が近代国家へ歩み始める大きな転換点となった と。「『横文字早学問(全、二編)』English language books1872年(明治5)吉田/著一般向けに出版された英語の「いろは」を解説した入門書。明治5年前後は同様の英語書が氾濫し、英語流行の到来を感じさせる。外国語は、一部の特権階級が学ぶものから、立身出世を目指す庶民の手段として学ばれるようになる。」明治初期の英語ブームを象徴する資料。1872年(明治5)は「学制」が公布された年で、西洋文化や外国語への関心が急速に高まった。『横文字早学問』は、現代で言えば「はじめての英会話」「英語入門」のような一般向けの教本。展示されているページには、・Good day.・Good night.・Good morning.・Good evening.・Tall man.・Big dog.・Sweet apple.・Ripe grape.といった、日常的な英単語・英会話が日本語訳とともに掲載されている。当時、英語は外交官や通訳だけの学問ではなく、商売・就職・昇進・海外との取引に役立つ知識として、庶民にも広く学ばれるようになった。「憲法発布大典寿語録Constitution Promulgation Ceremony Sugoroku1889年(明治22)佐々木豊吉/版1889年(明治22)2月11日、明治天皇により「大日本帝国憲法」が公布され、翌年11月29日に施行された。本作はその公布を記念して発行されたすごろく。各マスには、各地で執り行われた祝祭行事の様子が描かれている。なお、「憲法は第ニ次世界大戦後の1947年(昭和22)に廃止し、その後現在の『日本国憲法』へと引き継がれた。」大日本帝国憲法の公布(1889年2月11日)を祝って制作された「すごろく」。当時は憲法公布が国家的な慶事であり、日本各地で提灯行列、祝賀式典、旗行列などが盛大に催された。すごろくの各マスには、そのような祝賀の様子や、明治国家の近代化を象徴する出来事が色鮮やかな錦絵風に描かれている。娯楽として遊びながら、新しい憲法や国家制度を庶民へ広める役割も果たした と。「木製亜鈴(もくせい あれい)A wooden dumbbell used for the physical education in the Meiji era明治時代(1867–1912)1872年(明治5)に頒布された「学制」により、初めて体育(「体術」)が教科に位置づけられた。体育の指導者を育成する体操伝習所ではアメリカ・アマースト大学で学んだ医学博士ジョージ・アダムス・リーランドを教授として招き、彼の指導により「軽体操」が授業に取り入れられた。木製亜鈴は軽体操で用いる器具のひとつで、明治時代に学校用具として普及した。」この木製亜鈴(あれい)は、現在のダンベルの祖先ともいえる体育器具。1872年(明治5)の「学制」によって、日本で初めて学校教育に体育が正式に取り入れられました。政府は近代的な体育教育を導入するため、アメリカの教育者・医学博士 ジョージ・アダムス・リーランド(George Adams Leland) を招聘し、体操伝習所で教員養成を行った。その際に普及したのが「軽体操」で、木製亜鈴はその代表的な運動器具。木製なので鉄製ダンベルより軽く、安全性が高いため、小学校などでも広く使用された。今日の学校体育やラジオ体操につながる日本の近代体育は、このような木製亜鈴を用いた「軽体操」から始まったといえる と。 「学制と公立・私立小学校身分や性別にかかわらず国民すべてに教育の機会を与える「学制」は、近代国家の出発にふさわしい画期的な教育制度であった。東京都府は当初、1,260校の公立小学校の設置を決定したが、1873年(明治6)ころにまだ60校足らずにすぎなかった。その不足を補ったのが、寺子屋・集塾の系譜に連なる私立小学校である。東京の塾は旧朱引内に多く設置され、府は塾の師匠を「小学教則」に沿って再教育することで急場をしのいだ。また近郊の農村部には、村民が設立資金を出し合う郷学校などもあった。児童の就学率は日清戦争(1894~1895年)以後、急激に上昇し、公立小学校は規模を拡大していった。一方、私立小学校は、初等教育における役割を公立小学校に譲ることとなった。」 「中・高等教育機関の分布Distribution of Secondary and Tertiary Educational Institutions明治の東京には、官・公立学校、私立学校、女学校などさまざまな学校が設けられ、神田や本郷などには学生の街も生まれた。Various schools were established in Tokyo during the Meiji era, including government and public schools, private schools, and girls' schools, and student towns emerged in Kanda, Hongo, and other areas.」官立学校・第一高等学校・東京美術学校・高等師範学校・陸軍戸山学校・陸軍工学校・陸軍士官学校・陸軍中央幼年学校・陸軍軍医学校・陸軍経理学校・陸軍砲工科学校・帝国大学・高等商業学校・女子高等師範学校附属高等女学校・高等師範学校附属尋常中学校・女子高等師範学校・高等師範学校・東京工業学校・学習院・逓信大学校・慈恵女学校・東京商船学校・海軍大学校・東京郵便電信学校 公立(府立)学校・東京府城北尋常中学校・東京府高等女学校・東京府開成尋常中学校・東京府尋常中学校私立学校・東京農学校・哲学館・練女館・明治女学校・東京専門学校・早稲田尋常中学校・成城学校・明治女学校・明治義塾尋常中学校・和仏法律学校・錦華学校・国学院・日本法律学校・獨逸学協会学校・専修学校・共立女子職業学校・錦城学校尋常中学・東京商業学校・鉄道学校・正則英語学校・東京法学院・明治法律学校・日本中学校・商工中学校・東京女学館・工手学校・立教学校・青山学院・正則尋常中学校・普連土女学校・慶応義塾・慶応義塾附属商業学校・錦華学校・明治学院写真キャプション・第一高等学校・東京高等師範学校・慶応義塾(写真はすべて『風俗画報』東京写真帖 1907年)このパネルは、明治時代の東京が日本最大の「学都」へ発展していく様子を示している。本郷には帝国大学(現在の東京大学)を中心に官立学校が集まった。神田には法律学校や専門学校が数多く設立され、学生街として発展した。早稲田には東京専門学校(現在の早稲田大学)、三田には慶応義塾、駿河台には明治法律学校(現在の明治大学)など、現在も続く名門校の多くがこの時代に誕生。女子教育も進み、女子高等師範学校や東京女学館、共立女子職業学校など、女性のための教育機関も増加した。この地図を見ると、現在も大学が集中する本郷・神田・早稲田・三田・お茶の水一帯の教育都市としての姿が、すでに明治時代に形成されていたことがよく分かるのであった。「五日市憲法草案(複製)Draft of a constitution by the people of Itsukaichi (replica)1881年(明治14)千葉卓三郎/起草あきる野市中央図書館 原資料保管 深沢家文書憲法論議が全国で高まる中、1880年(明治13)11月、国会期成同盟は翌年の大会に憲法草案を持ち寄って研究することを決議した。五日市の民権家たちと活動を共にしていた千葉卓三郎が、学習運動の成果を憲法草案という形にまとめ上げた。全文204か条のうち、特に国民の権利には36か条を費やしており、きめ細かい人権保障に特徴がある。」この「五日市憲法草案」は、日本国憲法でも大日本帝国憲法でもない、民間の人々が自ら考えて作成した憲法案。1881年(明治14)、自由民権運動が盛んになる中で、東京都西部の五日市(現在のあきる野市)で活動していた千葉卓三郎が起草した。当時は「どのような憲法が日本にふさわしいか」を全国各地で議論しており、その成果として数多くの私擬憲法(しぎけんぽう)が作られた。五日市憲法草案は全204条から成り、そのうち36条を国民の権利の保障に充てていることが大きな特徴。言論・信教・財産など、人権を手厚く守ろうとする考え方が盛り込まれており、当時としては非常に先進的な内容であった。この草案は採用されることはなかったが、自由民権運動が日本の立憲政治や憲法思想の形成に大きな影響を与えたことを示す代表的な史料として高く評価されているのだ。「学生の街1887年(明治20)の「文官試験試補及見習規則」公布以後、試験による官吏の任用制度が整い、家柄などによらず実力で立身出世する道が開かれた。地方の青年たちは、故郷を離れて学問する「遊学」を立身出世の道と考え、学校が集中していた東京をその目的地に選んだ。東京には帝国大学をはじめとする官・公立学校、独自の教育理念を持つ私立専門学校、女子のための教育機関である女学校など、さまざまな学校があり、青雲の志を抱き上京する青年を受け入れていた。明治30年代になると、高等教育機関への入学資格を持つ中学校卒業者が急増した。また、神田、本郷、早稲田、三田などに学生の街が出現し、一種独特な学生風俗が生み出された。」 「多摩と自由民権運動Tama and the Freedom and People's Rights Movement1893年(明治26)まで神奈川県に属していた三多摩(北・南・西多摩の3郡)では、明治10年代、豪農を中心に自由民権運動がさかんとなった。In the three Tama counties (North, South, and West), which belonged toKanagawa Prefecture until 1893, the Freedom and People's Rights Movement was popular in the 1870s and 80s, especially among wealthy farmers.」 「五日市憲法草案」の起草西多摩郡の五日市(現・あきる野市)は自由民権運動が活発であった地域で、その展開の中で1881年(明治14)、「五日市憲法草案」が作成された。1880年(明治13) 五日市で自由民権運動が活発となる。 (4月)五日市学芸講談会が発足し、憲法や法律に関する学習会・討論会が開かれる。 (11月)第2回国会期成同盟大会で憲法の起草が議論され、翌年に各結社が草案を 持ち寄ることが決議される。1881年(明治14) 五日市で千葉卓三郎によって『日本帝国憲法』(五日市憲法草案)が作成される。 (10月)国会開設の勅諭が出され、各結社の憲法草案は意義を失ったため終わる。1968年(昭和43) (8月)深沢家屋敷跡土蔵(現・あきる野市深沢)より、「五日市憲法草案」が発見される。写真説明深沢家屋敷跡土蔵1968年(昭和43)、「五日市憲法草案」とともに、200冊を超える明治時代の書籍が発見された。政治や法律関係の本が3割を超え、憲法草案の起草にあたり参考にされたと考えられている。このパネルは、自由民権運動の中心地の一つが現在の東京都西部(旧・神奈川県三多摩)であったことを紹介している。特に五日市では、民権家千葉卓三郎が1881年に「五日市憲法草案」を起草した。この草案は204条からなる詳細な憲法案で、国民の権利を厚く保障していることが特徴。後に実際の大日本帝国憲法(1889年公布)とは異なる内容となったが、日本における民間の憲法構想として極めて貴重な歴史資料と評価されている。1968年に深沢家の土蔵から発見されたことで、その存在が広く知られるようになった。「National Industrial ExhibitionThe first National Industrial Exhibition was held at the Ueno Park in 1877 for the purpose of encouragement of new industry. 84,000 objects were on display, and approximately 450,000 people visited the exhibition. The second National Industrial Exhibition was held four years later, also at the Ueno Park. These exhibitions were modeled after the World Exposition of Paris in 1876. At the third National Industrial Exhibition held in 1890, a Panorama Hall, which had become popular in cities ofEurope and the U.S. at the time, was built for the first time in the corner of the Ueno Park. The fourth and the fifth National Industrial Exhibitions were heldin Kyoto (1895) and Osaka (1903), respectively.内国勧業博覧会1877年(明治10)、国内の殖産興業推進を目的とし、上野公園において第1回内国勧業博覧会が開催された。出品点数は8万4千点、観覧者数は45万人にも上った。その4年後、同じく上野公園で、第2回内国勧業博覧会が開催された。博覧会では、1876年(明治9)のパリ万国博覧会と同様の展示構成が用いられた。1890年(明治23)の第3回内国勧業博覧会では、当時、欧米の都市で隆盛を見せていたパノラマ館が初めて、上野公園の一角に設置された。内国勧業博覧会はその後、第4回が京都(1895年)で、そして第5回が大阪(1903年)で開かれた。」内国勧業博覧会は、明治政府が「殖産興業(産業を育成し国力を高める政策)」を推進するために開催した、日本最大級の産業博覧会であった。・第1回(1877年):東京・上野公園・第2回(1881年):東京・上野公園・第3回(1890年):東京・上野公園・第4回(1895年):京都・第5回(1903年):大阪 「T3-1 商工業の都市」 「商工業の都市東京の産業発展は、政府の政策である〈富国強兵〉や〈殖産興業〉と連動して実現した。新産業や軍事部門を担う巨大な官営工場が設立され、「上からの近代化」が行われた。しかし、明治初期の民間産業は、職人層の手仕事による日常品や洋服・帽子など新たな雑貨品生産が主軸であった。一方、東京では催し物を通じた産業振興も行われ、1877年(明治10)以降、3回にわたる〈内国勧業博覧会〉が上野で開かれた。銀座などの繁華街には、常設の商品陳列所の〈勧工場〉も設けられた。産業発展の様相は、戦争をきっかけに一変する。日清・日露戦争の二つの戦争を境に、東京の産業も飛躍的に成長した。しかし同時に、工場の騒音や排煙など、さまざまな都市問題を引き起こすことにもなった。」 「明治10年代の東京〈殖産興業〉〈富国強兵〉の様相Tokyo in the 1870s and 80s: Aspects of <Encouragement of New Industry> and <Rich Nation, Strong Army>東京には官庁や軍事施設が集中し、その整備のため官営工場がつくられ、工業化が進展した。一方、輸出向けの綿紡績や製糸などの在来産業の振興や奨励も行われた。Tokyo had a high concentration of government offices and military facilities, andgovernment-owned factories were built to maintain them, leading to further industrialization. Meanwhile, traditional industries such as cotton spinning andsilk reeling for export were also promoted and encouraged.」地図中の主な施設・千住製絨所(ラシャ工場)・第一回・第二回・第三回 内国勧業博覧会・東京砲兵工廠(兵器・艦船用品)・陸軍砲兵司令部・皇居・銀座・浅草文庫・深川工作分局(セメント・煉瓦)・石川島造船所・築地海軍兵器工場・品川工作分局(ガラス)・三田火薬製造所左側の図版① 千住ラシャ製絨所(千住ラシャ製絨所)② 上野駅(上野ステーション)③ 浅草文庫(浅草書籍館)④ 開拓使仮学校(開拓使)⑤ 榛名山から(陸軍参謀本部「写真帖」)右側の図版① 京都勧工場(『絵画東京名所』)② 浅野セメント工場(右)(『深川沿革誌』)③ 海軍港(右)と川崎造船(左)(『東京海岸』)④ 工部省製鉄所(『市街鉄道線』)⑤ 鉄道(『高輪築堤』) 『日本製品図説』1~3。『日本製品図説』は、日本の産物や工芸品を海外へ紹介するために内務省が編集した製品図録。1873年のウィーン万国博覧会を契機に、日本は積極的に万国博覧会へ参加するようなったが、展示品だけでは外国人に内容が伝わりにくいという課題があった。そこで、この図説が製品カタログ兼解説書として制作された。展示されている3冊は、・浅草海苔・雑種海草・食塩を扱っており、日本の特産品を図と文章で詳しく紹介している。明治初期、日本が海外へ自国の産業や文化を発信しようとした様子を伝える貴重な資料。「『日本製品図説』1~3Illustration of Japanese Products1877年(明治10)6月内務省/企画高鋭一/編狩野雅信/絵写1877年(明治10)、内務省が日本全国から集めた製品カタログ。明治政府は、1873年(明治6)のウィーン万国博覧会参加を手始めに、海外の博覧会に物産品を出品してきた。しかし、出品物を説明するものがなかったため、解説書として本資料を作成した。右から「一、浅草海苔」「二、雑種海草」「三、食塩」。編者の高鋭一は洋学者で内務省勧商局官吏の高雲外の通称名。」 「上野公園地 第二内国勧業博覧会一覧図」 この「上野公園地 第二内国勧業博覧会一覧図」は、1881年(明治14)に開催された第2回内国勧業博覧会の会場全景を描いた錦絵。第1回(1877年)が大成功を収めたことを受け、第2回はさらに規模を拡大して開催され、来場者は第1回の約45万人を大きく上回り、約82万人に達した。博覧会は日本の近代産業や工芸品を全国に紹介するとともに、海外の万国博覧会に匹敵する国家的イベントとして位置付けられていた。また、会場中央奥に描かれたレンガ造りの美術館は、「日本近代建築の父」とも呼ばれるイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計による建物で、関東大震災で被災する1923年まで上野公園の代表的な建築物として利用された。「上野公園地 第二内国勧業博覧会一覧図Ueno Park: 2nd National Industrial Exhibition1881年(明治14)歌川周重/画 堤吉兵工/版第二回内国勧業博覧会は1881年(明治14)、内務省・大蔵省の共催により3月1日から6月30日まで上野公園で開催された。入場者数は第一回の倍近くに達し、明治天皇の行幸も行われている。中央奥に描かれた2階建てレンガ造りの美術館は、イギリス人建築家ジョサイア・コンドル(Conder, Josiah 1852–1920)の設計。この建物は1923年(大正12)の関東大震災まで利用された。」 「諸工職業競(しょこうしょくぎょうくらべ) テエフル椅子製造」 「諸工職業競(しょこうしょくぎょうくらべ) テエフル椅子製造Competition of Various Professions: Table and Chair Manufacturing1879年(明治12)静斎年一/画 木曽直次良/版「諸工職業競」は、明治以降の新しい職業を紹介したシリーズ絵。作者の静斎年一は月岡芳年の門下で、歌川派の絵師。本作は、机と椅子などの西洋家具の製造風景を描くが、職人は皆、手斧(ちょうな)や鋸(のこぎり)、鉋(かんな)などの在来の道具を使う。服装は和装のようだが、職人の中には散切り頭の者も混在し、新旧の風俗が入り混じる。」 「殖産興業と官営事業首都東京は、政府の〈殖産興業〉政策の重要拠点であった。欧米から生産技術を導入し、資本主義の発展をはかることが政策として展開し、東京には巨大な官営工場がつくられた。工部省による工作分局が赤羽、品川、深川に設けられ、機械・セメント・煉瓦・ガラスなどを製造した。これに加えて小銃やりょう莢などの軍需製品をつくるために、陸軍省所管の関口製作所(のちの東京砲兵工廠)が小石川に設けられた。また、海軍省所管の石川島造船所では軍艦を建造した。これとは対照に、内務省の勧農政策の展開のもとで駒場農学校、内藤新宿試験場、三田育種場が開設された。そこでは欧米の農業技術を日本の農業へ移植し、農業・養蚕・牧畜の発展と輸出を増大するねらいがあった。」 「ガワーベル電話機」 。展示品の向きが反対では?ネットから。「ガワーベル電話機Gower-Bell telephone明治中~後期グラハム・ベルによる電話の発明から14年後の明治23年(1890)、日本初の電話サービスが東京―横浜間で開始した。ガワーベル電話機は開始当初に使用されたもので、送話機を開発したイギリス人のガワーと、ベルの名から名付けられた。中央のボタンで電話局を呼び出して通話を行う仕組みだった。」 「東京の民間工場にみる産業構造の変化Changes in Industrial Structure in Tokyo's Private Factories東京の産業は明治半ばから後期に重化学工業を中心に発展した。工場が飛躍的に増え、就業者数も増加した。Tokyo's industry developed from the mid- to late-Meiji period, centering on the heavy and chemical industries. The number of factories increased dramatically and the number of workers also increased.凡例(業種)・金属・機械・器具工業・化学工業・窯業・印刷・出版業・繊維業・皮革・製靴業・食料品製造業・製紙業・電気・ガス・その他工場数と業種別比率・1889年(明治22) 工場総数:139・1899年(明治32) 工場総数:371・1909年(明治42) 工場総数:3,321・1919年(大正8) 工場総数:7,233就業者数と就業者の業種別比率・1889年(明治22) 就業者総数:11,409人 ・男性:6,740人 ・女性:4,669人・1899年(明治32) 就業者総数:30,318人 ・男性:17,081人 ・女性:13,237人・1909年(明治42) 就業者総数:85,219人 ・男性:49,986人 ・女性:35,233人1919年(大正8) 就業者総数:188,786人 ・男性:125,163人 ・女性:63,623人年表(中央)・1889年(明治22)・1894~95年(明治27~28) 日清戦争・1899年(明治32)・1904~05年(明治37~38) 日露戦争・1909年(明治42)・1914~18年(大正3~7) 第一次世界大戦・1919年(大正8)」 「産業の発展と労働者の生活東京の産業は日清・日露戦争の二つの戦争を契機に発展した。いわゆる「産業革命」である。1894~1895年(明治27~28)の日清戦争後には、綿紡績や織布生産などの繊維業をが伸びをみせ中心とした軽工業が伸びをみせ、東京・・・・の主要な位置を占めるようになった。1889年(明治22)の東京における民間産業の労働者数は・・を中心に約1万人であったが、20年後の1909年には繊維業・金属業を中心に約8万5千人を超え、さらに急増していた。男性の労働者数は〈職工〉、女性の労働者数は〈女工〉と呼ばれ、・・は金属業や陸・海軍の工廠などの重工業に、女工は繊維業などに多く雇用されていた。当時の労働者の生活調査では、長時間労働や低賃金などの問題が取り上げられている。さらに女工の場合は、寄宿舎で生活することが多かった。工場での衛生問題や待遇の改善、賃金の値上げを要求する声のもとで、1897年(明治30)に労働組合期成会がつくられた。」 「交通・通信の発達Development of Transportation and Communication明治後期には鉄道などの交通、電話などの通信手段が急速に発達し、人や物資の移動、情報の伝達が速くなり、その量も急増していった。In the late Meiji period, railroads and other forms of transportation and telephones andother means of communication developed rapidly. The movement of people and goods, as well as the transmission of information, became faster, and their volume increased as well.」 写真・図版の説明① 新橋停車場構内(『風俗画報』241号 1901年)② 両国橋と隅田川(東京風景 1911年)③ 八重洲川電話交換局(東京百景 1902年)④ 新橋停車場(しんばしていしゃじょう)⑤ 銀座通りの市電(東京風景 1911年)⑥ 東京中央郵便局(東京風景 1911年)⑦ 日本橋(東京風景 1911年)「石版印刷機」。この展示は、石版印刷(リトグラフ)👈️リンクの印刷機について説明しています。石版印刷は、水と油が混ざらない性質を利用した印刷技術。従来の木版や銅版のように版へ深く彫刻する必要がなく、平らな版面に描いた絵や文字を印刷できます。日本には幕末に欧米から導入され、明治前期には国産の印刷機も製造されるようになりました。この技術により、教科書・地図・ポスター・錦絵・雑誌などが大量に印刷され、明治時代の情報伝達や出版文化の発展に大きく貢献しました。現在広く使われているオフセット印刷は、この石版印刷の原理を発展させたもので、現代印刷技術の礎となっています。 「石版印刷機Lithographic Printing Press昭和初期東京小西六本店/製造石版印刷とは、水と油が反発する性質を応用した印刷方法で、日本には幕末に機器類が輸入され、明治前期には国産化が始まるなど普及が進んだ。版に凹凸を刻むことなく印刷できるこの技術は、現在のオフセット印刷などの基礎となった。」 「明治時代の東京の工場Various Factories in Tokyo during the Meiji Era東京の産業は、明治時代後期に飛躍的に発展した。隅田川沿いなどに大きな工場が建てられ、人々の暮らしとともに景観も大きく変化した。Tokyo's industry developed dramatically in the late Meiji era. Large factories were built along the Sumidagawa River and other areas, and the landscape changed drasticallyalong with people's lives.工場の所在地・札幌麦酒・浅野セメント・鐘淵紡績・東京電燈 浅草発電所・芝浦製作所・石川島造船所」 「『風俗画報 第116号』より芝浦製作所の図Illustration of Shibaura Works from Fūzoku gahō, No.1161896年(明治29)6月10日東陽堂/発行芝浦製作所は田中久重が創業した田中製造所を源流とする企業で、合併などを経て後に東芝となった。描かれているのは金属加工・機械製造を行っていた同社の工場群である。」 この展示は、明治29年(1896)の雑誌『風俗画報』に掲載された芝浦製作所の挿絵。田中久重(1799~1881)は「東洋のエジソン」とも呼ばれる発明家で、からくり人形や万年時計などを製作した。1875年に創業した田中製造所が芝浦製作所の起源となり、その後、東京電気との合併を経て東京芝浦電気(東芝)となります。挿絵には、高い煙突から煙を上げる工場群や機械を組み立てる工場内部が描かれており、当時の日本の機械工業が急速に近代化していた様子が伝わる。工場の正門付近には人力車や荷車、人々が行き交う様子も描かれ、芝浦製作所が当時の東京を代表する近代工場であったことがうかがえる。この一枚は、明治日本が手工業から機械工業へと発展していく時代の息吹を、工場の全景と作業風景の両方から伝える貴重な資料である。上段資料「全国水平社 創立大会則・決議(複製)Regulations and resolution of the society (replica)1922年(大正11)3月京都市立崇仁小学校原資料所蔵」下段資料「全国水平社 創立大会綱領・宣言(複製)Manifesto and statement of principles promulgated at the inaugural meeting ofthe Suiheisha, the organization dedicated to the liberation of outcastes (replica)1922年(大正11)3月京都市立崇仁小学校原資料所蔵1922年3月3日、京都の岡崎公会堂で全国水平社創立大会が開かれ、「綱領・宣言」とともに採択された。宣言は主として西光万吉が起草した。水平運動の姿勢と目標を明らかにするとともに、部落民が自らに誇りをもち、部落解放運動に立ち上がることをうたった。日本の人権史上、高く評価されている。その裏面に「則」と「決議」がある。」この展示は、日本の人権運動史における重要な資料。全国水平社は1922年(大正11)3月3日に京都で結成された、日本初の全国的な被差別部落解放運動の団体。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で知られる水平社宣言は、日本の人権宣言の先駆けとも評価されている。起草の中心となった西光万吉は、自らの力で差別をなくし、人間の尊厳を回復しようと呼びかけた。展示されている資料は、創立大会で採択された綱領・宣言と、その裏面に記された規則・決議の複製である。近代産業や都市化を紹介する展示の中で、この資料は、経済発展の一方で残されていた差別の問題に立ち向かった人々の歩みを伝える、非常に重要な展示となっている。「全国水平社十四囬大会全国の被圧迫部落大衆団結せよ!改善費年額一千万円獲得!ファッショ反対!大衆課税反対!封建的身分制度廃止!時 ・一九三七年 三月三日所 ・東京芝協調会館」 1937年(昭和12年)に開催された全国水平社第14回大会の宣伝ポスター。内容から読み取れる当時の主張は、・部落差別・暴力・圧迫に反対すること・「改善費一千万円」の獲得要求・封建的身分制度の廃止・差別行政に対する抗議などで、中央の人物が大きな梁(あるいは障害物)を頭上に掲げる力強い姿は、差別や圧迫を打ち破ろうとする決意を象徴的に表現している。「部落解放運動のあゆみ部落解放運動とは、被差別部落の住民に対する差別をなくし、基本的人権の確立を通して、人間としての解放を求める運動である。差別のない社会を実現するためには、部落民自らが立ち上がらなければならないとして、1922年(大正11)、京都の岡崎公会堂で全国水平社の創立大会が開催された。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」という熱烈な呼びかけによる創立宣言は、日本国で最初の人権宣言というべきものであった。以後、全国に広がった運動は、東京でも活発に繰り広げられ、東京水平社が結成された。部落解放を求める人々の熱い思いは、戦後、部落解放委員会、さらに部落解放同盟へと受け継がれていった。1965年(昭和40)、内閣総理大臣の諮問機関である「同和対策審議会」の答申は、同和問題の解決を国の責務であるとともに国民的課題として位置づけ、その基本方針を示した。政府、自治体、部落解放同盟をはじめ全国部落解放運動連合会、全日本同和会などの運動団体により、差別解消への努力は現在もなお続けられている。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.05
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「和洋折衷の風俗」 「和洋折衷の風俗欧米の最先端の文化を直接導入し、全面的に享受したのは、ごく限られた上流階級の人々だったが、東京の庶民も開化の文物を見聞し、しだいに生活のなかに採り入れていくこととなった。文明開化の風俗でもっとも早く庶民に浸透したのは、「ザンギリ」と呼ばれた男子の断髪である。1871年(明治4)の断髪令で政府が髷(まげ)を切ることを奨励して以来、ザンギリ頭は文明開化のシンボルとなった。また、洋傘などの比較的安価な輸入品を扱う雑貨店が各所にでき、西洋好きの人々でにぎわった。一方、「牛鍋食わねば開化けぬ奴」(仮名垣魯文『安愚楽鍋』)といわれた牛鍋をはじめとして、あんパン、あるいは女性の髪型の束髪(そくはつ)など外来文化の和風化もすすんだ。新しがり屋の東京人の庶民意識も手伝って、生活に溶け込んでいったものも少なくない。」 「ねじり棒(理髪店看板)」。 「ねじり棒(理髪店看板)A sign of a barber shop1882年(明治15)頃理髪店(床屋)の看板で、木製で宝珠(ほうじゅ)の頭が付き、赤と白の捩(ねじ)り模様に、青の横縞が入る。この配色とねじり模様は、現代の理髪店の看板にも通じる。1871年(明治4)に「断髪令」が出て以降、手入れのわずらわしさがない「ザンギリ頭」は、文明開化で導入されたものの中でもいち早く庶民の間に普及した。」 正面に「座敷ランプ」と2基の「卓上ランプ」。 「座敷ランプA lamp used on the floor (Tatami)1882–1892年(明治15~25)頃輸入されたテーブルに置く卓上の石油ランプを改良したもの。わが国の暮らしに合わせ、畳の上で使用できるようにした。高さは約80cm。」 ズームして。「卓上ランプTable lamp1897年(明治30)石油は江戸以前から日本でもわずかに使われていたが、本格的な採掘・利用が始まるのは明治以降だった。石油を使うランプも明治に入り輸入されるようになり、従来のろうそくや菜種油の灯りよりはるかに明るいその光は、日本人の夜の暮らしを大きく変えていった。」ズームして。この背景の絵は、文明開化のさまざまな風俗を一枚一枚に描いた錦絵を、掛軸風に並べて展示したもの左側:洋楽を奏でる婦人たち・ドレス姿の二人の女性がバイオリンを演奏。・フリルの付いた洋装や西洋の椅子から、上流階級の家庭や鹿鳴館のような社交界の雰囲気 が感じらる。・音楽も文明開化とともに急速に普及し、西洋音楽の教育が始まったことを象徴。中央:洋装の婦人と学生・帽子をかぶり、洋装をまとった女性が立ち、その前には学生服姿の少年が描かれていた。・明治になると、女性の洋装や学生服も徐々に広まり、新しい時代の象徴となった。・背景には洋風建築や大きな花瓶が描かれ、近代都市・東京の雰囲気を演出。右側:海軍少年と模型船・セーラー服姿の少年たちが帆船の模型を手にしていた。・明治政府が海軍の近代化を進めた時代を反映し、西洋式の海軍教育や科学技術への憧れを 表している。右上:洋風庭園・桜や松、提灯のある庭園を洋装の人物が散策。・日本の庭園文化と西洋風の服装が共存する様子が描かれ、まさに「和洋折衷」の 時代を象徴。「開化好男子(かいかこうだんし)」。この作品は、明治23年(1890)頃の「文明開化を象徴する男性たち」を描いた錦絵。描かれている人物は、それぞれ当時の最先端の洋装を身に着けている。・大礼服の文官 明治政府の高級官僚。宮中儀式などで着用した最も格式の高い礼服です。・外套姿の法学博士 西洋式のオーバーコートをまとった知識人。当時の大学教授や法律家を象徴しています。・フロックコートの代議士 帝国議会議員が着用した正式な洋装で、政治家の代表的な服装でした。・詰め襟の学校生徒 現在の学生服(学ラン)の原型となる制服で、文明開化とともに普及しました。 説明板にもあるように、1890年頃はまだ洋服を着る人は少数派であった。 洋装は官僚・政治家・知識人・学生など、新しい時代を担う人々の象徴であり、一般庶民の 多くはまだ和服を着て生活していた。「開化好男子(かいかこうだんし)Handsome Men of the Age of Enlightenment1890年(明治23)水野年方/画 大倉孫兵衛/版明治中期の男性の代表的服装が描かれている。大礼服の文官、外套姿の法学博士、フロックコートの代議士、詰め襟の学校生徒は、当時は少ない洋装である。」 『東京百事流行案内 完』okyo Hyakuji Ryūkō Annai (Complete Guide to All Trends in Tokyo)1894年(明治27)5月大川新吉/編詳細な図を用いて、欧米文化の影響を受けながら変化をしていった服装・日用品・髪型の流行が紹介されている。展示されているページには、・貴人用(きじんよう)・婦人用(ふじんよう)・女人用(じょにんよう)などの洋傘が図入りで紹介され、さらに折りたたみ傘や洋傘の各種形状も描かれている。「パラソルParasol明治後期19 ~ 20世紀赤木清士コレクション」明治の文明開化をテーマにした錦絵を並べた展示。左から順に見ていくと、文明開化によって人々の暮らしがどのように変わったかを表現していた。1.ミシンを使う女性・洋服を縫うための足踏みミシンを使っている。・椅子に座って作業する様子も、従来の和式生活との違いを表している。・洋裁・洋装の普及を象徴する場面。2.街を走る馬車・人力車と並んで馬車が行き交い、洋館が立ち並ぶ街並みが描かれている。・文明開化による都市交通の発達を表現。3.ガス灯(または洋式街灯)のある街・洋装の人々と和装の人々が混在している。・明治初期特有の「和洋折衷」の風景。・夜にはガス灯が街を照らし、近代都市の象徴となった。「ダルマ自転車」と「黒ポスト(複製)」。 「ダルマ自転車」をズームして。 「ダルマ自転車This bicycle was created imitating the Western Ordinary bicycle (penny-farthing) and made by swordsmiths1891年(明治24)国友/製造1877年(明治5)頃に日本に伝わったオーディナリー型自転車を模写して作られた日本製自転車。銘から、鉄砲鍛冶職人により製造されたと判明している。オーディナリー型は、車輪の1回転で進む距離が長く、スピードが出たが、操縦に高度な技術を必要とした。日本では、その形から「ダルマ自転車」と呼ばれた。」「黒ポスト(複製)」をズームして。「黒ポスト(複製)Mailbox, or Postbox, from 1872 to 1904 (replica)1872年(明治5)1871年(明治4)、日本で郵便制度がはじまった。最初に使用されたポストの書状集箱に替わって登場したのが角柱型の郵便ポストであった。正面に書かれる「郵便箱」を「たれべんばこ」と誤読し、公衆便所と勘違いした人の話が、当時の新聞に掲載された。」 「ドレス(複製)」。明治時代の上流階級の女性が舞踏会などで着用した「バッスルドレス」の復製。このようなドレスは、鹿鳴館で開かれた舞踏会など、明治政府が欧米諸国との外交を進めるための社交の場で着用された。文明開化の象徴ともいえる洋装であり、日本の上流階級の女性たちは、このような西洋式の礼装を身にまとって外国の賓客を迎えた と。 「ドレス(複製)A bustle dress worn for dance parties and other occasions (replica)明治時代(1867~1912)資料は、1866年(慶応2)多摩地域の裕福な家に生まれた女性が、早稲田に住んでいた頃手に入れたもの。内側には鯨の骨がコルセットのように縫い付けてあり、スカートの腰の後部にはボリュームを出すための詰め物が入っている。このようなドレスをバッスルドレスと呼び、上流階級の女性が舞踏会などで着用する衣裳として普及した。」 「アイスクリームグラスGlass for Ice Cream1907年(明治40)1869年(明治2)、横浜で日本最初のアイスクリーム店が開業した。同時期に北海道の函館で氷の生産および流通がはじまったのも追い風となり、各地の洋食店などでもデザートとして供されるなど普及が進んでいった。」 「あんパン(複製)Anpan: bread with bean paste in the center (replica)明治時代(1867~1912)明治時代に入り、パンも文明開化の象徴として知られるようになった。あんパンは、洋食文化のパンに日本的な要素を工夫して取り入れたもので、人々にも広く親しまれ、今日にいたっている。」 ズームして。「金魚鉢Goldfish Bowl1877年(明治10)頃日本製 赤木清士コレクション江戸時代の庶民は、金魚を金魚玉(きんぎょだま)というガラス製の器に入れて軒先に吊るし、目で涼を楽しんでいた。やがて、庶民の間にも金魚鉢が浸透していくが、金魚とガラス製の器という涼しげな組み合わせは、明治期においても庶民の夏の風物詩として好まれた。」 「紙調琴(しちょうきん)」 紙調琴(しちょうきん)は、明治時代に西洋の自動演奏オルガンを手本として日本で考案された、自動演奏楽器。正面のハンドルを手で回すと、左右の大きな巻き取り軸の間を穴の開いた紙の楽譜(紙曲譜)が送られる。穴の位置に合わせて空気が流れ込み、内部のリード(簧)が振動して音を出す。仕組みは現在のオルガンや手回しオルガンにも似ているが、音色は説明板にもあるようにアコーディオンに近い柔らかな音。展示品は黒漆塗りに金蒔絵が施された美しい外観で、前面には孔雀、天板や側面には松や草花の蒔絵が描かれており、実用品であると同時に工芸品としても高い価値を感じさせる。「紙調琴(しちょうきん)Shichô-kin (Japanese old musical box)1884年(明治17)以降琴声館/製西洋の自動演奏装置を真似てつくられた楽器。ハンドルを回すと紙製の曲譜が進み、孔のあいた部分に空気が通って演奏されるしくみで、音色はアコーディオンに近い。戸田欽堂が考案し、1884年(明治17)に銀座の十字屋が販売して大人気となった「紙腔琴」の類品である。」 「掛け時計」。 「掛け時計Wall clock1870年(明治3)政府は明治のはじまりとともに江戸以来の様々な制度を改廃した。その一つに、時・分・秒で時間を刻む定時法の採用があった。定時法の浸透により時計は各地に普及し、駅や郵便局などの公的機関には掛け時計が設置された。」 「時計の街、東京Tokyo : The City of Clocks1872年(明治5)11月、明治政府はこれまで採用していた太陰太陽暦から太陽暦への改暦を公布、翌年から太陽暦へと移行した。この時、時刻制度も季節によって時の長さが変わる不定時法から現行の定時法へと変更された。それにともない、海外から機械式の掛け時計や懐中時計が輸入されるようになった。まだ高価だった時計はおもに官公庁や駅などに設置されたが、のちに商店建築にも取り入れられた。東京には時計塔を備えた建物が多数建てられるようになった。」 「鹿鳴館(ろくめいかん)」の模型。 「鹿鳴館(ろくめいかん)」の写真をネットから。建設: 1883年(明治16年)に東京・内幸町に完成。目的: 不平等条約の改正を目指し、外国の要人を接待するための国家的社交場。特徴: 華やかな舞踏会が開かれ、文明開化・欧化政策の象徴とされたが、1940年に解体。明治期の銀座煉瓦街(ぎんざれんががい)の街並み復元模型。昼景と夜景を照明で切り替えて展示しており、文明開化の銀座がどのような姿だったかを体感できる人気の展示で。・中央には路面電車(東京市電)が走っています。・道路の両側には、二階建ての煉瓦造り洋風建築が整然と並んでいます。・通りには人力車、馬車、自転車、歩行者が行き交い、明治の活気ある街の様子が 再現されています。・街路樹やガス灯も整備され、近代都市へ生まれ変わった銀座の姿が表現されています。昼景。昼間の銀座は人通りが多く、買い物客や紳士・淑女、人力車夫などで賑わっています。煉瓦造りの商店が軒を連ね、文明開化の象徴ともいえる洋風都市の景観が広がります。夜景。照明が青みを帯びた夜景に切り替わると、ガス灯が街を照らし、昼とは異なる幻想的な雰囲気になります。当時はガス灯そのものが文明開化の象徴であり、人々は夜でも安心して街を歩き、買い物や社交を楽しめるようになりました。「ニコライ堂」の模型。 「ニコライ堂(重要文化財・明治29年〈1896〉)神田駿河台の丘の上に建つニコライ堂では、今はビルの谷間に建っているが、かつては広範囲の町並みを見渡すことができた。「東京ハリストス復活大聖堂」という正式な名称があるが、東京の人々には、明治初期の日本・ロシアの交流に尽くした宣教師ニコライにちなむ「ニコライ堂」という名で親しまれている。ミハイル=シチュールポフが原案を担当し、ジョサイア・コンドルが設計、長郷泰輔が施工、1891年(明治24)に竣工した。建物はビザンチン様式のなごりをとどめ、異国情緒あふれる偉容は、独特な鐘の音とともに、よく文学や絵画の題材となった。関東大震災によってドームと鐘楼が崩れたが、ドームなどは岡田信一郎の設計によって再興され、現在にいたる。ニコライ堂から撮影したパノラマ写真写真中の主な施設・懲兵工営・通信省用地・女子高等師範学校(のちのお茶の水女子大学)・理科大学(のちの東京大学)・医科大学時計台(のちの東京大学)・霊雲寺・湯島小学校・湯島天神・湯島聖堂・不忍池・神田神社・富士山写真下部・東京高等師範学校(のちの東京教育大学)・太田姫神社」 ロシア正教会の神学校(神学教育施設)や教会関係者の施設を再現したもの。この付属建物は現存していない と。映像で紹介。ニコライ堂の大型模型に、時間の経過を映像で重ねて見せる演出の場面。背景スクリーンには「三崎町練兵場」と表示され、ニコライ堂から見えた当時の東京の景観を解説していた。「三崎町練兵場」とは三崎町練兵場(みさきちょうれんぺいじょう)は、現在の東京都千代田区神田三崎町(水道橋駅周辺)にあった陸軍の練兵場(兵士の訓練場)。明治初期、この一帯はまだ市街地ではなく広大な空き地で、・歩兵の訓練・観兵式・軍事演習などが行われていた。背景は、ニコライ堂の鐘楼から眺めた明治東京の実際のパノラマ風景が。ニコライ堂は駿河台の高台に建てられていたため、・神田・皇居方面・丸の内・三崎町方面まで見渡すことができ、東京有数の展望地点でもあった。ニコライ堂内部を見せるために、正面入口側の外壁部分が自動的に下降する仕掛けになっていた。写真では、入口部分が下がったことで、通常は見ることのできない礼拝堂(聖堂)内部が一望できるのであった。下降した外壁越しに見たニコライ堂内部の精密模型を拡大したもの。細部まで非常によく作り込まれているのであった。写真左側の壮麗な金色の壁は、イコノスタシス(Iconostasis・聖障)。イコノスタシスは正教会を象徴する設備で、・キリスト・聖母マリア・聖ニコライ・使徒や諸聖人などのイコン(聖画像)が何段にも並んでいるのが確認できた。この奥が至聖所(祭壇)であり、通常は司祭だけが立ち入ることのできる神聖な場所。「銀座煉瓦街復元年代:明治10年代後半(1882~86) 縮尺:1/25銀座煉瓦街は、1872年(明治5)2月の銀座から築地一帯を焼き尽くす大火の後、近代国家にふさわしい街づくりとして、明治新政府によって計画、建設されたものである。計画の中心は、新橋ステーションから築地居留地や諸官庁を結ぶ銀座地域に、不燃家屋(煉瓦造り)を建設し、道路を拡張・改良しようとするものであった。大火の後、英国人トーマス=J=ウォートルスが設計を担当、建設には大蔵省建築局があたり、翌年には、西洋を模した街区が姿をあらわした。煉瓦街の各家屋は、はじめ買い取りであったが、その後、賃貸契約になった後も、高額な家賃のために空き家が目立った。やがてウィンドウディスプレイなどの近代商法が根づいたり、思潮をリードする新聞社・雑誌社が次々に集まったことも手伝って、文明開化を象徴する街としてにぎわった。」 「銀座煉瓦街」大型模型(縮尺1/25)を少し高い位置から撮影。左側の大きな洋風建築写真左手前の二階建ての堂々とした建物は、銀行や商社、新聞社などの大型店舗をイメージした建物。・列柱(コロネード)・バルコニー・西洋風の切妻破風・左右対称の外観など、英国風建築の特徴が表れていた。右側の建物をズームして。・2階建て煉瓦造商店の列柱(アーケード)・店舗の暖簾や看板・店先の商品や荷物・路面電車の軌道・人力車・馬車・行き交う人々の様子 を。一番右側の建物をズームして。・白い漆喰風の外壁・2階のベランダ・緑色の鎧戸(よろいど)・1階のアーケード(列柱)・入口脇の丸い時計のような看板 などが確認できた。銀座煉瓦街模型に登場する建物や、人々・乗り物・商店を解説した鳥瞰イラスト。こちらも。江戸東京博物館の銀座煉瓦街模型を鑑賞するための索引図で、「この建物は何か」「この人は何をしているのか」が一目で分かるように作られていた。移動して。「銀座煉瓦街ガス灯 明治期(1874~1912)」明治7年(1874)12月、銀座の大通りに85基のガス灯が登場。夕暮れになると「点灯夫」が一基ずつ火を入れて歩き、その姿も銀座の名物になったという。「銀座煉瓦街ガス灯明治期(1874~1912)1874年(明治7)12月、銀座の大通りにガス灯85基が設置され、夜の煉瓦街を照らしはじめた。夕暮れになると火を入れて歩く点灯夫(てんとうふ)の姿は、当時、銀座の名物になった。」 明治20年代から電気が普及するにつれ、ガス灯から電灯へ移り変わっていき、大正半ばにはガス灯はほとんど見られなくなった。「煉瓦壁 銀座煉瓦街遺構 明治初期(1872~77)」 「煉瓦壁 銀座煉瓦街遺構明治初期(1872~77)明治新政府は開化政策の一つとしてロンドン、パリにならう「不燃都市」を企図し、1872年(明治5)2月、銀座から築地一帯を焼き払った大火を契機に、煉瓦造家屋の建設に着手した。イギリス人建築家ウォートルスの設計によるもので、日本の近代都市計画の先駆をつけたといわれる。この煉瓦壁はその遺構で、1988年(昭和63)、中央区銀座8丁目のビル工事現場から偶然に発見された。」 銀座煉瓦街遺構」が1988年(昭和63)に発見された際の記録写真「ビル工事中に発見された煉瓦壁。Brick Walls Discovered during Building Construction写真は2枚あり、左:上方から見た発掘・工事現場。地中から現れた煉瓦壁が細長く残っている。右:煉瓦壁を正面から見た状態。かなり大きな面積で壁体が残存していたことが分かる。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.04
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この日は7月10日(金)、神田での仕事の帰りに再び、「江戸東京博物館」を訪ねた。 前回は4月21日(火)に訪ねブログアップしたが、見学できたのは「E・江戸ゾーン」のみで「T・東京ゾーン」まで廻れなかったので、この日に「T・東京ゾーン」の見学に訪ねたのであった。併せて、前回に訪ね逃した「E・江戸ゾーン」とこの日の特別展「洋館 明治の夢と挑戦」、「特集展示 歌川広重 東海道五拾三次之内 日本橋~掛川」も訪ねたのであった。まずは「T-1 文明開化東京」👈️リンク へ江戸東京博物館の東京ゾーン(Tゾーン)は明治時代から現代までの東京の歴史や暮らしを紹介する展示エリア。服部時計店の模型や、近代の街並み、生活の移り変わりを学ぶことができるのであった。 まずは「服部時計店1881年(明治14)に服部金太郎(1860-1934)が創業した服部時計店(服部商店)は、輸入時計の卸売・販売によって発展を遂げ、1894年(明治27)には、銀座四丁目の角地にあった旧朝野新聞社社屋を購入しました。二階建ての煉瓦造りの建物に、巨大な時計塔を重ねる増改築を行い、翌年に同地での営業を開始しました。時計塔は、スイスから輸入された時計を東西南北4面に備え、毎時と30分ごとに鐘の音が鳴る仕組みでした。銀座に集う人々に時を伝えた時計塔は、「服部の時計塔」と呼ばれ、ランドマークとして人々に親しまれました。」 正面から。正面上部の文字は。「K. HATTORI」「服部商店」さらに1階正面には、右から左へ読む当時の表記で、「時計眼鏡寶石品類」と掲げられている。文字を語として区切って読むと、「時計・眼鏡・宝石品類」という意味。見上げて。高さ約26メートルの時計塔は、現在の2代目時計塔SEIKO HOUSEと同様に、東京の「時」をつなぐ象徴であった。現存する資料が少ない中、セイコータイムクリエーションが長年培ってきた経験と技術力で4面の時計塔を再現。約100年の時を超えて現代によみがえったのだと。正面部分のK. HATTORI服部商店も鮮明。「K」はもちろん、創業者服部金太郎(Kintaro Hattori)の頭文字。「東京ゾーン」展示案内。「T1 文明開化東京明治時代に入った東京では、新政府の主導で近代国家にふさわしい首都の建設が進められました。1872年(明治5)の大火の後には、火災に強い洋風都市を目指した「銀座煉瓦街」が建設されました。また、1883年(明治16)には、欧化政策のシンボルとして鹿鳴館が落成し、在留の外国人を招いた舞踏会が盛んに開催されました。人々の暮らしにも「ザンギリ頭」や洋食文化などが、徐々に浸透しました。このコーナーでは、江戸をもとにして東京がどのように変化していったのか、現代へと連なる首都東京の誕生と経過について展示していた。」 「T1-1武都から首都へ」 「武都から首都へ天下の総城下町・江戸は、百数十万の人口を抱える大都市として栄えてきたが、徳川政権の崩壊とともに、その繁栄も失われた。とくに都市の約70パーセントを占めた旧武家地の荒廃が甚だしく、1868年(慶応4・明治元)の東京は、雑草が生い茂り、「夜中は別けて往来少し。また強盗多し」といわれたほどの寂れようであった。一方、都市開発とは逆行するように桑・茶畑の奨励が行われたが、そうした政府の試行錯誤も一時期で終わった。江戸城改め皇城に連なる官庁街が整備され、日本橋を中心とする市街地に再び活況が戻るのには、明治維新よりさらに10年以上の歳月を要した。その後、首都東京が急速に発展したのは、西洋技術の速やかな導入や、大貿易港横浜と海陸で結ばれたこと、旧武家地を利用した都市整備が広まったことなどによるものであった。」 特に印象的なのは、・江戸は明治維新と同時にすぐ東京として発展したわけではない。・むしろ維新直後は、旧武家地が広大な空き地となり、荒廃した都市になっていた。・「夜中は別けて往来少し。また強盗多し」という当時の記録が、その状況を物語っている。・その後、官庁街の整備や横浜港との連携、西洋技術の導入によって、現在の首都東京へと 成長していった。という点。「東京府の誕生Birth of the Tokyo Prefecture1868年(慶応4)7月17日、江戸が東京へと改称された。9月2日には現在の千代田区内幸町にあった旧郡山藩邸を東京府庁舎とし、正式に「東京府」が誕生。同年9月8日、「明治」に改元された。Edo was renamed Tokyo on the 17th day of the seventh month of 1868 (Keiō 4), and on the second day of the ninth month, the former Kōriyama domain residence inpresent-day Uchisaiwaichō, Chiyoda ward, was designated as the Tokyo Prefectural Office building. This marked the official birth of the "Tokyo Prefecture." On the eighth day of the ninth month of the same year, the era name was changed to "Meiji."」 東京府の行政区画と人口統計 1871年(明治4)の廃藩置県から1893年(明治26)まで・1871年(明治4)11月 大区小区制 総人口 882,222人(1872年〈明治5〉)・1878年(明治11)7月 15区6郡制(郡区町村編制法の制定) 総人口 957,121人(1880年〈明治13〉)・1889年(明治22)5月 15区に「東京市」の誕生(市制・町村制) 総人口 1,719,508人・1893年(明治26) 三多摩地区の移管 総人口 1,884,885人この展示で興味深いのは、「東京」と「東京市」は異なるという点です。・1868年 江戸が「東京」と改称され、東京府が誕生。・1889年 15区をもって東京市が誕生。・1893年 神奈川県から三多摩地域(現在の八王子市・立川市・青梅市・町田市などを含む地域) が東京府へ編入され、現在の東京都の骨格がほぼ整いました。この流れを見ると、「東京」という都市は一度に完成したのではなく、行政制度の整備や区域の拡大を経て、現在の姿へと発展していったことがよく分かるのであった。東京府庁舎(旧郡山藩上屋敷)をネットから。1894年(明治27)に麹町通りの新庁舎が現在の千代田区丸の内に建てられるまで使用された。「官庁の建設Construction of Government Offices明治政府の方針により、各官庁が皇居周辺に建設され、丸の内には官庁や陸軍の練兵場などが配置された。In accordance with the policy of the Meiji government, various government offices werebuilt around the Imperial Palace, and government offices and army training camps wereplaced in Marunouchi.」 丸の内における各施設の所在場所(1876年〈明治9〉の官庁・軍事施設)地図中には、次のような施設が示されている。地図上から・大蔵省・紙幣寮・文部省・教部省・内務省・製作寮出張所・文庫司添局・工兵営・紙幣寮活版局・陸軍武庫司・鎮台兵営・第十三大隊営・内務省(勧業土木省・警保局・衛生局・勧商局)・大審院・上等裁判所・輜重兵営・司法省・警視庁・東京鎮台騎兵隊・東京裁判所・陸軍裁判所・陸軍省・練兵場・教導団工兵第一大隊・中山忠能邸・神宮教院・松平忠和明治後期の丸の内・明治後期の丸の内 三菱一号館、三号館(左)1890年(明治23)に払い下げを受けた三菱がオフィスビル(三菱一号館など)を建設し、一帯は丸の内のオフィス街へと変貌していった。「「書役徳兵衛日記」より天盃頂戴の記事Diary with an Entry on the Occasion where the Emperor Distributed Sake to the Townspeople of Tokyo1868年(慶応4~明治1)四谷塩町一丁目 書役 徳兵衛/作成四谷塩町一丁目の書役(町名主などを補助し文書作成などを行う町役人)、原徳兵衛が書き残した日記には天盃頂戴の記述がある。同町は11月4日に東京府から酒36樽を拝領し、翌日派手に御神酒開きを行った。6日には将棋駒型の山車3基を製作し、内藤新宿辺りまで曳き回した。」この展示は、明治維新という「国家の大きな出来事」を、一人の町役人の日記を通して紹介している点が興味深い。ここでいう「天盃頂戴(てんぱいいただき)」とは、天皇から下賜された酒をいただくことで、明治政府の誕生を町人たちが祝ったことを意味。展示によれば、・11月4日 東京府から酒36樽を拝領・11月5日 町を挙げて御神酒開き・11月6日 将棋の駒の形をした山車を3基作り、内藤新宿方面まで曳いて祝賀。 「東京府中橋通街之図」。 「東京府中橋通街之図Illustrations of Nakabashi-dori Street in Tokyo1868年(明治1)[月岡]芳年/筆[金木]年景/画明治天皇が品川を出発し、江戸城(現皇居)へと向かった1868年(明治1)10月13日の様子を描いた錦絵。行列の先頭を長州藩の兵士たちが進み、沿道には新たな時代の幕開けを一目見ようと、大勢の民衆があふれている。天皇が京都から東京へと移動する「東幸(とうこう)」の様子は当時多くの錦絵に描かれ流布した。視覚メディアを通じた発信は、身近でなかった天皇の存在を広くアピールする契機となった。」 「横浜枡屋茶箱紙 駿河美保之松原」 「横浜枡屋茶箱紙駿河美保之松原Tea Box Wrapping Paper of Masuya Store in Yokohama: Pine Grove in Miho, Suruga明治時代前期明治時代、「絹糸」と同様に日本の重要な輸出品目であった「お茶」の木箱に貼られた、色鮮やかなデザインが特徴的な「茶箱絵(ちゃばこえ)。絵は木版多色刷りの技術を持つ浮世絵師が手掛けていた。本資料の左下には、横浜の業者名とともに、「BOX」を「ROX」と誤記されている。」 「桑茶政策The Mulberry and Tea Policy明治維新直後の東京では、旧武家地の荒廃が進んだ。これを活用するため、東京府知事大木喬任(おおき たかとう)は桑畑・茶畑への転用を奨励した。当時の主要輸出品目の生糸と茶の増産を目指したが、わずか2年後の1871年(明治4)にこの政策は廃止となった。In Tokyo immediately after the Meiji Restoration, former samurai lands continued to deteriorate.To utilize such lands, the Tokyo Governor Ōki Takatō encouraged the conversion of theselands into mulberry and tea fields.The aim of this policy was to increase the production of raw silk and tea, the main export commodities at the time; however, it was abolished only two years later in 1871 (Meiji 4).」 写真・図版の説明・市ヶ谷園辺の桑茶畑(緑色の部分) 『永福東京総絵図』1871年(明治4)・旧大名屋敷(長岡藩牧野家中屋敷)の耕地化 屋敷が撤去され、耕地が整備された様子がわかる。・愛宕山からみた幕末の江戸 1865(慶応元)~1868頃(東京都写真美術館/所蔵)・愛宕山からみた明治初年の東京・明治10年代の青山周辺の桑畑・茶畑 (緑=茶畑 橙=桑畑) ※主要な現代の施設や場所を重ねて表示している。地図中には、JR信濃町駅国立競技場神宮外苑秩父宮ラグビー場地下鉄外苑前駅地下鉄青山一丁目駅青山霊園国立新美術館 などが示されている。「旧武家地と桑茶政策旧武家地を返上させたものの、その処理に困った新政府は、1869年(明治2)、殖産興業と窮民授産の見地から旧武家地での桑と茶の植え付けを奨励した。当時の輸出の主要品目が生糸と緑茶だったことによる政策である。青山の15万9千余坪を筆頭に、小石川、千駄ヶ谷、麻布、市ヶ谷、下谷、浅草などの約100万坪が、たちまち桑畑や茶園に変わっていった。しかし、東京の首都機能の整備とは逆行する対策であったことと、払い下げ条項や税制上の優遇措置が悪用されて混乱を招いたことなどから、この桑茶政策は失敗に終わり、1871年(明治4)に廃止となった。」 特に重要なのは次の3点か。1.政策の目的・旧武家地の有効利用・殖産興業(産業振興)・窮民授産(仕事を失った人々への就業対策)2.規模・青山だけで約15万9千坪・東京全体では約100万坪もの土地が桑畑・茶園へ転換された3.失敗した理由・首都建設の方向性と矛盾していたこと・土地の払い下げ制度や税制優遇が悪用され、混乱を招いたことこの展示を読むと、「桑茶政策」が単なる農業政策ではなく、維新直後の東京再建を模索した試行錯誤の一つであったことがよく分かるのであった。「東京新橋蒸気車往復図 1872年に開業した初代新橋駅は、1914年に東京駅が開業するまで首都・東京の玄関口として活躍した。西洋風の駅舎とイギリス製蒸気機関車は、人々に文明開化の到来を強く印象づけ、日本の近代化を象徴する風景として錦絵にも数多く描かれた。」 「東京新橋蒸気車往復図Illustration of the Steam Locomotive Making a Round Trip Between Tokyo and Shimbashi1873年(明治6)歌川国貞(3代)/画ゑびや林之助/版1872年、築地居留地近くの汐留に新橋駅が建設された。新橋駅は1914年(大正3)に東京駅が開業するまで、首都の玄関口として機能した。当時は珍しいモダンな西洋建築の駅舎は、アメリカ人建築家ブリジェンス(Bridgens, Richard P. 1819–1891)の設計により建設された。イギリスから輸入された蒸気機関車が、煙を上げて滑り込む様子は、日本の近代化と文明開化を象徴する光景だった。」 「双頭レール(汐留遺跡出土)」 「双頭レール(汐留遺跡出土)A rail used at the Shimbashi station, an excavated article明治時代前期(1868~1888)新橋ステーションがあった汐留遺跡より出土した双頭レール。双頭レールとは、底部に平らな部分がなく、上下とも走行用に使用可能なI字形の形状をしていたレール。摩耗した場合は、上下逆さまに敷設し直し、使用していた。新橋・横浜間の開業当時は、国産はまだなく、イギリスの双頭レールを輸入していた。」 「双頭レール」をネットから。 「四民平等と「解放令」1869年(明治2)6月の版籍奉還に際して、公卿・諸侯(旧藩主)を華族、旧幕臣・藩士などを士族とし、封建的な主従関係が廃止された。また、農工商は平民となり、さらに、1871年には、いわゆる「解放令」が布告され、旧来の穢多・非人などの称を廃して、身分・職業とも平民と同じとした。平民も名字を許され、華族・士族との通婚ができるようになり、職業の選択、居住地の移動などの自由も認められた。いわゆる〈四民平等〉の世である。しかし、〈基本的人権〉など市民としての諸権利がすべて確立されたわけではない。そのためには、その後の自由民権運動をはじめとする、民衆の長く粘り強い運動の展開が必要であった。とりわけ、被差別部落の住民への差別を生み出す社会的・経済的土壌は容易には無くならず、結婚や就職などへの差別は根強く残った。そのため真の自由と平等を求めて、部落解放を目指した運動が本格的に展開することになった。」 この展示は、明治政府が進めた身分制度の廃止と、その後の社会の現実を、バランスよく説明していた。ポイントは二つ。1.法制度上の平等・華族・士族・平民という新しい身分制度へ移行し、封建的な主従関係は廃止された。・「解放令」により、穢多・非人という身分呼称も廃止された。・名字を名乗ることや、職業・居住地の自由なども認められた。2.現実の差別は残った 法律で身分制度は廃止されても、社会の差別意識はすぐにはなくならなかった。 特に被差別部落の人々への差別は、結婚や就職などに長く残り、その解消にはその後の長い 社会運動が必要であった。この展示は、「制度は変わっても、社会の意識が変わるには時間がかかる」という明治維新の一面を伝える内容に。「T1-2 欧米文化の受容」。 「欧米文化の受容1871年(明治4)11月より岩倉使節団は米欧各国へ出発し、アメリカとヨーロッパの各都市を歴訪して文物や制度を視察した。帰国後、大久保利通らを中心とする開明派政府首脳は、欧米先進国と同等の国力を持つ近代国家建設を旗印に、西洋の制度や技術の輸入に努めた。西洋の知識や技術はすでに幕末の開港期から入っていたが、明治期には政府主導で積極的に摂取された。鉄道・郵便・電信・電話など西洋の交通・通信手段が新たに移植され、人や物資・情報の流れは格段に速くなり、その量も増加した。諸制度や科学技術にとどまらず、衣服や住宅、文学や演劇など生活や文化の面にも欧米文化の導入が推しすすめられた。同時に、〈文明開化〉という言葉が、「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という文句もあったように、さかんに人々の口にのぼっていた。」 この展示は、明治政府が単に西洋の「物」を取り入れたのではなく、国家そのものの仕組みや生活文化まで広く導入したことを説明していた。特に岩倉使節団(1871~1873)は、日本の近代化を考える上で極めて重要な出来事。彼らは欧米で・政治制度・教育制度・産業・軍事・都市計画・文化などを視察し、その成果が帰国後の政策に大きく反映された。展示にもあるように、・鉄道・郵便・電信・電話は人や情報の流れを劇的に変えたのだ。さらに、・洋服・洋館・文学・演劇など生活文化にも西洋化が広がり、「文明開化」という言葉が時代を象徴する流行語となったのだ。「第一国立銀行」を再現した模型。第一国立銀行は、1873年(明治6)に創設された日本最初の国立銀行。渋沢栄一が設立の中心人物となり、日本の近代金融制度の礎を築いた。建物は和風の瓦屋根を取り入れながら洋風建築の要素を融合した擬洋風建築で、文明開化を象徴する建築物。この銀行は後に第一銀行 → 第一勧業銀行 → みずほ銀行へとつながる、日本近代銀行史の原点でもあるのだ。「模型解説 / Explanations of the models第一国立銀行(部分)復元年代:明治初期(1872~77)縮尺(部分):1/25第一国立銀行は、近代銀行制度の導入に伴い、殖産興業への資金調達を主な目的として、兜町に設立された。日本橋界隈の、地の利が良い兜町には、株式取引所・保険会社などが集まり、やがて日本を代表する金融街を形成するにいたった。この建物は、もともと三井組の本拠地として1872年(明治5)に建てられたが、翌年、渋沢栄一らが出資して設立した第一国立銀行の社屋となった。建物の構造は江戸時代からの伝統技法によっているが、外観は西洋建築の意匠を取り入れた〈擬洋風建築〉である。設計・施工を担当した清水喜助(二代)は、横浜居留地で洋館の建造に従事して西洋建築を学び、日本人として築地ホテル館や駿河町の三井ハウスなどの洋風建築を手がける先駆者となった。」 「開花新名所New Famous Places in the Era of Enlightenment写真・名称・鹿鳴館 Rokumeikan 1893年(明治26)撮影・為換バンク三井組 Mitsui Bank 1874年(明治7)頃 撮影・第一国立銀行 First National Bank 1873年(明治6)頃 撮影・ニコライ堂 Holy Resurrection Cathedral in Tokyo (Nicholai-dō) 1893年(明治26)撮影・新富座 Shintomi-za Theater 1875年(明治8)頃 撮影・銀座煉瓦街 Ginza "Bricktown" 1873年(明治6)頃 撮影」 「開化新名所官庁や官営工場・軍用施設を擁する首都東京では、明治政府による開化政策が積極的に推しすすめられた。そのシンボルの一つが鹿鳴館で、国際親善と外国の賓客に日本をアピールする場として建設された。第一国立銀行のような〈擬洋風建築〉をはじめ、西洋風の街並みが出現した銀座煉瓦街、開港場横浜との間を結ぶ汽車が発着する新橋ステーションなどは、東京の新名所として脚光を浴びた。加えて石造二連アーチ橋の万世橋(のちの万世橋)、近代的設備を備えた新劇場の新富座なども、錦絵の格好の画題となり、〈東京みやげ〉として人気となった。なかには、駿河台にそびえるニコライ堂のように、東京のランドマークとして今日もなお親しまれているものもある。」 「東京名所之内 銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図」。この錦絵の題名にある「鉄道馬車」は、蒸気機関車ではなく馬が客車を引く軌道馬車。明治15年頃の銀座では、煉瓦街の大通りを鉄道馬車が行き交い、文明開化を象徴する風景として多くの人々の注目を集めたのだ と。 「東京名所之内 銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図The view of brick construction of Ginza Street1882年(明治15)7月歌川広重(3代)/画安藤徳兵衛/画工大倉孫兵衛/版1872年(明治5)2月、銀座や築地一帯が大火の被害を受けた。鉄道の起点であることから、政府は火災に強い都市の建設を目指し、同年3月にレンガでの一帯の再建を決定した。設計はお雇い外国人のイギリス人建築家ウォートルス(Walters, Thomas James 1842–1898)が担当した。翌年には拡張された銀座大通り沿いに洋風2階建の街並みが完成し、この新風景を伝える錦絵も売り出された。」 「東京で刊行された主な新聞Major Newspapers Published in Tokyo竣工したばかりの銀座煉瓦街には数多くの新聞社が集まり、銀座はジャーナリズムの中心地となった。The newly completed Ginza Bricktown attracted numerous newspaper companies, and Ginza became the center of journalism.地図当時の銀座煉瓦街(銀座煉瓦街に所在した新聞社の位置を示した地図)中央には東京銀座街日報社 1876年(明治9)頃 小林清親 画 が掲載されている。銀座で活躍したジャーナリスト成島 柳北(1837–1884)『朝野新聞』社長・主筆末広 鉄腸(1849–1896)『東京曙新聞』編集長・『絵新聞』編集長岸田 吟香(1833–1905)『東京日日新聞』記者福地 桜痴(1841–1906)『東京日日新聞』主筆沼間 守一(1844–1890)『東京横浜毎日新聞』社長黒岩 涙香(1862–1920)『絵入自由新聞』主筆下部の一覧表銀座煉瓦街に所在した主な新聞社(明治10年代)No.・新聞名・・・・・・社名・・・・・・・創刊年月・・・・・・・廃刊年月(継続紙)1・・東京日日新聞・・・日報社・・・・1872年(明治5)2月・・・・現・毎日新聞2・・朝野新聞・・・・・朝野新聞社・・1874年9月(公文通誌)・・・1894年12月3・・読売新聞・・・・・日就社・・・・1874年11月・・・・・・・・現・読売新聞4・・東京曙新聞・・曙新聞社→朝陽社・1875年6月(あけぼの新聞)・1882年3月(東洋新報)5・・仮名読新聞・・・仮名読新聞社・・1875年11月・・・・・・・1877年3月(かなよみ新聞)6・・東京絵入新聞・・絵入新聞社・・・1876年3月(平仮名絵入新聞)・1889年2月(東京新報)7・・問答新聞・・・・・四通社・・・・1876年6月・・・・・・・・・1882年11月8・・絵入日曜新聞・・絵入日曜新聞社・1877年6月・・・・・・・・・1877年10月9・・新聞集誌・・・新聞集誌社→皐莢社1877年10月・・・・・ ・・・1878年12月10・ 東京毎夕新聞・・・日昌社・・・・ 1877年11月・・・・・・・・ 1878年11月(真砂新聞)11///憂国護憲新聞///////真権社/////////1878年4月////////////////////1878年10月以降12///真砂新聞/////////東京真砂新聞/////1878年7月(東京毎夕新聞)/1878年9月(東京真砂新聞)13///東京新聞//////////東京新聞社//////1878年11月(東京さがけ)////1880年5月14///東京横浜毎日新聞/毎日新聞社//////1879年11月(横浜毎日新聞)//1886年5月(毎日新聞)15///いろは新聞/////////京文社//////////1879年12月(あづま新聞)////1884年11月(勉強新聞)16///鈴木田新聞/////////美喜屋//////////1880年12月///////////////////1881年12月17///東洋自由新聞/////東洋自由新聞社///1881年3月 ////////////////////1881年4月18///明治日報///////////忠愛社//////////1881年4月////////////////////1885年11月19//東京ふりがな新聞///明新社//////////1881年11月///////////////////1882年2月20//東洋新報//////////東洋新報社////////1882年3月////////////////////1882年12月21//時事新報///慶応義塾出版社→時事新報社1882年3月/////////////1936年12月(東京日日新聞)22//日の出新聞//////////旭光社//////////1882年4月////////////////////1883年2月23//自由新聞////////////自由社//////////1882年6月/////////////////////1885年3月24//絵入自由新聞/////絵入自由新聞社////1882年9月////////////////////1890年11月(富新聞)25//内外政党事情//////四通社→政党事情社/1882年10月//////////////////1883年2月26//官令日報///////////官令日報社////////1882年10月////////////////////不明27//同盟改進新聞/////同盟改進新聞社/////1882年11月//////////////////1882年12月以降28//絵入朝野新聞/////絵入朝野新聞社/////1882年11月//////////////////1889年5月(江戸新聞)29//自由燈////////////見光新聞社/////////1884年5月////////////////////1886年1月(絵新聞)30//今日新聞////////////毎夕社////////////1884年9月////////////////1888年11月(みやこ新聞)31//日本たいむす//日本たいむす本局 京文社/1885年9月/////////////////1885年12月以降32//毎日新聞//////////毎日新聞社//////////1886年5月///////////////1906年7月(東京毎日新聞)33//やまと新聞///////やまと新聞社/////////1886年10月////////////////1900年10月(日出新聞) 「郵便報知新聞 第576号」。錦絵新聞は単なるニュースではなく、実際の新聞記事を読みやすく、絵入りで一般庶民に伝えるための「ビジュアル・ニュース」として人気を集めていた。 「郵便報知新聞 第576号1875年(明治8)月岡芳年/画 朝野新聞社/発行「郵便報知新聞」への掲載記事をもとに、新たな文章を記した錦絵新聞。同じ錦絵新聞である「東京日日新聞」が赤枠であるのに対して、紫色の枠を採用しているのが特徴となっている。本図は、往来で馬に乗った二人の芸妓が、老人と出会い頭にぶつかって転倒させてしまった事件を描く。芸妓たちは、居合わせた巡査に見とがめられ、駐在所へ連行された。」 「旧第一国立銀行所在地」と「海運橋為換坐之図 絵図」。 「旧第一国立銀行所在地この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図(国土基本情報)電子国土基本図(地図情報)及び数値地図(国土基本情報)電子国土基本図(地名情報)を使用した。(承認番号 平27情使、第23号)」 「海運橋為換坐之図 絵図」。「海運橋為換坐之図」=「海運橋にある為替会社(第一国立銀行)を描いた図」描かれている建物は、第一国立銀行(旧第一国立銀行)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.03
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「常立寺」を後にして、「江ノ電 江ノ島駅」方向に引き返す。「湘南モノレール」の「湘南江の島駅」手前のY字路にあったのが「江の島弁財天道標」。 近づいて。正面:「従是右江嶋道」左 :「左龍口道」 右 :「願主 江戸糀町」 と。この願主名から、当時の江戸の講中によって建立されたものであることがうかがえる と。「江の島弁財天道標この道標は、三面に「従是右江嶋道」「左龍口道」「願主 江戸糀町」と彫られていて、江の島道から龍口寺方面へ分かれる道の入口に建てられた道標です。願主名から、江戸の講中によって建てられたものであることがわかります。江の島道沿いに建てられている他の道標は、三面に「ゑのしま道」「一切衆生」「二世安楽」と彫られており、江の島弁財天への道をたどるすべての人が現世・来世での安穏・極楽を得られるようにとの願いが込められています。道標の形態は、管鍼術を江の島で考案した杉山検校が寄進したと伝える道標と同じですので、市指定文化財(建造物)「江の島弁財天道標」(昭和四十一年一月十七日指定)のひとつに数えられています。 片瀬・江の島まちづくり協議会 藤沢市教育委員会」 「江の島道」ルート図。 そして13:30を過ぎ、江ノ電・江ノ島駅手前で待機していた「八坂神社」の神輿集団が踏切を渡り、龍口寺へと向かう。 江島神社八坂神社の神輿を迎える小動神社側・腰越五ヶ町・「神戸町(ごうどまち)」の山車。小動神社天王祭の「腰越五ヶ町」は、・中原町(なかはらまち):須佐男命 ・土橋町(どばしまち) :源頼朝と御所五郎丸・濱上町(はまがみまち):源義経と辨慶・神戸町(ごうどまち) :八幡太郎義家と鎌倉権五郎影政・下町(しもちょう) :神功皇后と武内宿禰、応神天皇 と。それぞれの町ごとに上記の人形を戴いた山車で祭りを盛り上げてくれるのだと。古くは、人形を載せた万灯山車や2段の高欄を持つ山車が上記の如く5台あったが、その後焼失したり、江ノ電の架線を避けるために低くしたりなどし、当時の山車は姿を消し、現在は、3ヵ町が持つのみとなっていると。人形は、明治期に作られたものもあるとする説もあると。「神戸町(ごうどまち)」の太鼓連。小動神社・天王祭の氏子「土橋町(どばしまち)」の一行。大提灯には町名をひらがなで「どばし」と記している。「土橋町(どばしまち)」のお囃子の一行が続く。「八坂神社」の囃子連。ズームして。「新通り囃子」。江の島(江島神社の末社・八坂神社)の天王祭では、古くから伝わる「江の島囃子」の7つのグループが参加。その7つとは、通り囃子、新通り囃子、松囃子、能神囃子、神囃子、龍神囃子、唐人囃子。「新通り囃子」は、念仏が変化したものといわれる「通り囃子」に関連するお囃子の組として、祭礼の道中や奉納行事で演奏されるのだ と。 神輿や行列を先導する白装束の多くは、神職や「白丁(はくちょう)」と呼ばれるお祭り用の伝統的な奉仕衣装。赤い顔・長い鼻の人物は、姿から見て 猿田彦(猿田彦大神)。祭列を先導する猿田彦。赤い顔に長い鼻、華麗な金襴の装束という異彩を放つ姿。そして足元を見ると、なんと履いているのは「一本歯下駄」! 天狗を思わせる姿で、絶妙にバランスを取りながら祭列を導いていくのであった。猿田彦に続いて進む、神事を担当する一団。手前の二人は、黒い烏帽子をかぶり、淡い青緑色の装束を着ている。これは神職の装束で、手前の方が持っている枝は榊(さかき)。白い紙垂(しで)も付けられていた。榊の後ろに立てられた紫・白・赤・黄・緑の五色の幡(はた)が続く。それぞれの幡には同じ紋が白または赤で染め抜かれていた。中央を見ると三角形を三つ組み合わせたような意匠があり、その周囲を植物状の文様が囲んでいた。江島神社の神紋「向い波三つ鱗」。中央の三つ鱗は北条氏の三つ鱗にまつわる江の島の伝説に由来し、それを取り囲む波が海の神・江島大神にふさわしい意匠となっているのだ。ちなみに中央の「三つ鱗」には、北条時政が江の島の岩屋に参籠した際、弁財天が大蛇となって海へ消え、そのあとに三枚の鱗を残したという『太平記』の伝説が関係していると。江島神社の神幸祭の行列はさらに続く。白衣に緋袴姿の巫女たちは、榊などを載せた折敷を胸の高さに捧げ持ち、白装束の供奉員とともに厳かに進んでいく。華やかな祭りの中にも、神事としての凛とした雰囲気が漂っていた。中央の男性は、黒い烏帽子(えぼし)をかぶり、緑色の狩衣(かりぎぬ)系の装束をまとった神職。手にしている細長い木製のものは、神職が神事の際に持つ笏(しゃく)。金色の紙垂を付けた祓具を手に、静かに進む巫女。その後には、立烏帽子に緑の狩衣をまとい、笏を手にした神職が続く。祭列はいよいよ神事らしい厳かな雰囲気を増していく。そして踏切の手前に「神輿」の姿が。「江ノ電」が通過すると、神輿の姿がハッキリと。 そして、いよいよ江島神社・八坂神社の宮神輿が姿を現した。金色の鳳凰を頂き、朱色の飾り綱に彩られた豪華な神輿。「八坂神社」と記された提灯を掲げ、大勢の担ぎ手とともに江ノ島駅前を通過し踏切を進んでいく。祭りはいよいよ佳境へ――。 踏切を通過。ズームして。そして、八坂神社の神輿が目の前へ。金色に輝く豪華な神輿を、太く鮮やかな朱橙色の飾り綱が包み、「八坂神社」の提灯が揺れる。担ぎ手たちの肩に支えられ、熱気とともに江ノ島駅前をゆっくりと進んでいった。そして神輿は「江ノ島駅入口」交差点を右折し、国道467号に入り龍口寺に向かって進む。 神輿の担ぎ手とその一行の安全確保に懸命な女性の姿も。私も反対側の歩道を進み、神輿を追いかける。インバウンドの旅行客もスマホを構えて神輿の撮影を。車線側にはロープを張り安全確保。住まいの2階のベランダから覗き込むオバチャンの姿も。これぞ「高みの見物」!! そして、八坂神社の神輿は大勢の供奉者と担ぎ手に囲まれながら、無事に「龍口寺」前へ到着!!沿道には神輿をひと目見ようと多くの人々が集まり、警察官も交通整理に大忙し。金色の鳳凰を輝かせた神輿を中心に、龍口寺前は祭りの熱気に包まれていた。そして神輿は、江ノ電ファンにも人気の「龍口寺前交差点」へ。道路上を大きくカーブする江ノ電の線路を横切り、腰越方面へと進んでいく。いつもなら江ノ電の電車にカメラが向けられるこの場所も、この日ばかりは八坂神社の神輿が主役なのであった。神輿の渡御を安全に進めるため、パトカーも出動。警察官による交通整理のもと、一行はいよいよ小動神社へと向かう。この時に、江ノ電が来ればと我儘な後期高齢者がいたのであった。その先でも、八坂神社の神輿と江ノ電のコラボをカメラで追う。その先でもカメラを構え、八坂神社の神輿と江ノ電が間近ですれ違う、祭りの日ならではの一瞬を追う。「令和八年小動神社 天王祭執行のお知らせ小動神社 天王祭皆様の応援ご協力を頂き、賑々しく執行出来ますことを、深く感謝申しあげます。◆ 出御祭=7月5日(日)午後4時半 拝殿前式典後 町内巡幸→午後8時 御仮屋へ還幸◆ 宵宮祭=7月11日(土)午後6時 五ヶ町文化部連合による流し踊り下町→浜上午後8時半頃散開◆ 神幸祭=7月12日(日)午前9時半 御仮屋前式典後 町内巡幸→午後7時半頃神社へ還幸腰越 各町内会 御一同様令和八年六月吉日 宗教法人 小動神社」 中央、上に小動神社の社紋「丸に隅立て四つ目結」創建者と伝わる近江源氏・佐々木盛綱の佐々木氏の「四つ目結」に由来する紋。江ノ電500形(501編成)を挟むように、左右に二基の神輿が左右に。右側の紫色の太い飾り綱を掛けた神輿が待っていた小動神社側の神輿。ここから2つの神輿による合同渡御になるのであった。祭りの熱気に包まれた腰越の街中を、神輿のすぐ脇をすり抜けるように江ノ電がゆっくりと進んでいく。まさに腰越ならではの光景であった。この日の天王祭・神幸祭の追っかけはここまでとし、江ノ電・江ノ島駅まで引き返したのであった。江島神社を出発した八坂神社の神輿は、多くの人々に見守られながら龍口寺前を経て腰越へ。白装束の神職や巫女、腰越五ヶ町の人々が連なる行列、そして狭い道路を神輿のすぐ傍らで行き交う江ノ電――。そこには、長い歴史の中で受け継がれてきた祭りと、日々の暮らしを支える江ノ電とが自然に溶け合う、この土地ならではの風景があった。とりわけ、八坂神社と小動神社、二つの神社の神輿が行き交い、そのすぐ横を江ノ電が走る光景は実に圧巻であった。祭りを守り伝える人々の熱気、沿道を埋める見物客の笑顔、そしてその間を縫うように走る江ノ電――。神と人、そして街が一つになる一日。久しぶりに追いかけた天王祭・神幸祭は、湘南・江の島、腰越の歴史と文化を再び肌で感じる、忘れ難い一日となったのであった。これより以降の祭りの様子は、以前のブログ👈️リンク を参照願います。江ノ電・江ノ島駅。藤沢駅に向かって境川を渡る。上流側の片瀬山方向を見る。さらにシャッターを押す。そして藤沢駅から小田急線に乗り帰途についたのであった ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2026.09.02
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「本堂」の北側にあった「鎌倉市政之礎」碑。 「故鎌倉市議会 議長 榎本義信君鎌倉市政之礎歴代議長会鎌倉市長 正木千冬書」と。 「榎本家之墓」。 「墓誌元祖~九代にわたる榎本家家長夫妻の戒名が刻まれていた」。「常立寺」の歴代住職の墓地。 「南無妙法蓮華経 歴代上人」。側面には「南無多寶如来」と。南無多寶如来は、「法華経の真実を証明された多宝如来を、心から敬い帰依いたします」という意味。 「當山廿ニ世◯本◯院日進上人」と。 歴代当主の墓石が並ぶ。枝垂れ梅の近くにあった「五重塔」。春になれば(ネットから)。境内に鎮座する地蔵菩薩坐像。右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、大きな円光を背にして蓮華座に坐す。「寺務所」前の鉢植えの「蓮」の花を追う。 「蓮」の花が「今や盛り」と開花中。建物の落ち着いた佇まいと、強い夏の日差しを受けた蓮の淡い桃色がよく調和していた。 静かな常立寺の境内で、夏の日差しを受けて白く輝く蓮の花。その頭上には淡紅色の蕾がすっと伸び、次に咲く時を静かに待っている。古刹の落ち着いた佇まいの中、今咲く花と明日咲く花が美しく寄り添っていた。白い花弁の縁を淡紅色に染め、夏の日差しをいっぱいに受けて咲く一輪の蓮。中央の若草色の花托を包み込むように花弁を広げる姿は、清らかでありながら華やか。ここ常立寺の静かな境内に、凛とした美しさを添えていた。まだ開かぬ花弁を大切に抱きしめるように、静かにその時を待つ蓮の花。白から淡紅色へと移ろう繊細な色合いが美しく、やがて大輪の花を咲かせる力を内に秘めたその姿には、開花前だけに見せる清らかな美しさがあった。そして「寺務所」。 「寺務所」入口。 寺務所の入口から内部を眺めて。境内の蓮を楽しんだ後、常立寺の寺務所内を覗いてみる。木の温もりを感じる落ち着いた造りで、正面には奥へと続く畳敷きの廊下。入口には「合掌で光を」「あなたを拝みます」と書かれた二つの言葉が掲げられ、寺院らしい穏やかな空気に包まれていた。寺務所入口の右側に置かれていた行灯(あんどん)型の寺名表示。木製の細い桟で組まれた行灯型の造りで、周囲の古い木の壁ともよく調和。内部に灯りを入れる構造で、夜には「日蓮宗 龍口山 常立寺」の文字と絵が柔らかく浮かび上がるのであろう。「日蓮宗 龍口山 常立寺」と記された木製の行灯。こちらの面には、長い杖を手にした人物が切り絵風に描かれ、舞い散る葉とともに印象的な図柄となっていた。「寺務所」の奥にあった「庫裡」。 「寺務所」を振り返って。 そして「鐘楼」。 「梵鐘」。「龍口山 常立寺」。現在の梵鐘は、檀信徒・縁者600有余名の浄財寄進により、平成5年(1993)12月に京都の高橋鋳工場で鋳造されたもの と。移動して。 「天下泰平 国土安穏」と。 別の場所をズームして。寄進者・奉納者の芳名が刻まれていた。 そして「山門」方向に引き返す。両脚を組んで蓮華座に坐る「地蔵菩薩坐像」。 「地蔵菩薩坐像」を振り返って。周囲には休憩用のベンチが置かれていた。ズームして。「常立寺」境内から懸垂式の「湘南モノレール」が見えた。 「常立寺」についてのInsatagram案内👈️リンク。その先にも、木製ベンチ、石製の椅子、テーブルも。「元使塚」を振り返って。 「本堂」を振り返って。 境内のイチョウの巨木。「六地蔵」を振り返って。 前方に「山門」。 「六地蔵」に見送られながら「山門」に近づいて。 「山門」の扉や柱には鉄製金具が取り付けられていた。これらは・扉の補強・開閉時の耐久性向上・建築意匠を兼ねていた。鉄金具は年月を経ることで独特の風合いを生み、山門の歴史を感じさせるのであった。 柱の飾り金具に近づいて。そして最後に「常立寺」参道入口前にあった「石碑」を訪ねた。 「寛文庚申供養塔」。「市指定有形民俗文化財 昭和五十二年(一九七七)四月十三日指定寛文庚申供養塔 火成岩製 総高一六五センチメートル庚申とは、十干・十二支を組み合わせた暦法で六十日ごとに巡ってくる日のことです。この庚申の夜に眠ると三尸(さんし)という虫が身体から抜け出して天帝にその人の罪を告げるので寿命が縮む、という道教の説があります。かつてこの信仰に基づいて信者が講というグループをつくり、その夜は眠らずに過ごして無病息災を願う風習がありました。この石塔はその時の記念に建てられたものです。塔の全面中央に「南無妙法蓮華経 帝釈天王」と標示されているのは、日蓮宗で帝釈天を庚申信仰の主尊としていることによります。片瀬や隣接する鎌倉市腰越・津村には日蓮宗寺院が多く、日蓮宗系の庚申講だったようです。塔身に見ザル・聞かザル・言わザルの三匹が両手で目・耳・口をおおっています。三猿像が彫られているのは、三尸に告げられないように、あるいは庚申の申(さる)と通じるからなどの説があります。この三猿像の下に銘文があります。「寛文願主鈴木伊左衛門ら四名」と「天保十三(寅)歳六月造立として飯森七左衛門ら九名」、さらに基壇にも飯森権十郎ら五名の連名が刻まれています。各々世代が違いますが、この塔の造立・維持に関わった片瀬の人たちで、庚申講のメンバーとして考えられます。年記のある部分は塔身と同じ石からつくられているので、天保十三年(一八四二)に造立されたように思われますが、この塔のように、頭部が三角形で、塔身の表面が凹状に区画され、背面が荒彫りで船底形をした形状の庚申塔は十七世紀に多いタイプです。この塔は、天保十三年に修理されたものと考えられています。世代を超えた信仰の篤さが感じられます。 平成二十一年(二〇〇九)九月 藤沢市教育委員会」 そして道路から「常立寺」の壁越しに「鐘楼」を見る。 そして「常立寺」を後にして、龍口寺に向かい、「神幸祭」の場に戻ったのであった。常立寺には元の国使五人を供養する五基の五輪塔が並ぶ。しかし、現在のところ、それぞれの五輪塔が杜世忠・何文著・徐賛ら個々の使者の誰に対応するのかは明らかになっていない。中央の五輪塔に青いハダクが掛けられているが、これも特定の人物を示すものではなく、モンゴル出身力士らによる追悼の象徴として受け継がれているものと考えられているのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.01
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