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1階特別展示室で開催されていた「江戸東京博物館リニューアル記念特別展「洋館 明治の夢と挑戦」の見学を終え、無料のコインロッカーからリュックを出し、出口へと向かう。「東京都江戸東京博物館分館 江戸東京たてもの園」への案内ポスター。「四季折々の自然に恵まれた都立小金井公園内に、野外博物館「江戸東京たてもの園」があります。こでは現地保存が不可能となった、文化的価値の高い建物30棟を移築・復元しています。これらの建物によって江戸東京の歴史と生活文化の変遷をたどることができます」と。住所:東京都小金井市桜町3-7-1都立小金井公園内 「復元建造物」案内。復元建造物 リスト。「屋外展示物」リスト。「江戸東京博物館 Oh!Edo寄席」ポスター。 1階→3階へのエスカレーターを利用。「江戸東京博物館 断面図」。 3階にあった「常設展示室」への「エスカードーム」。江戸東京博物館(東京都墨田区)の象徴的な名物エスカレーターは、3階「江戸東京ひろば」から6階の常設展示室入口へと斜めに突き抜ける、通称「エスカドーム」と呼ばれています。未来的なチューブ状の外観が特徴で、乗ることでこれから江戸時代へとタイムスリップするような高揚感を味わえるスポットとして知られているのだ。 江戸東京ひろばから建物の間に姿を現した東京スカイツリー。江戸から東京へと続く歴史を紹介する博物館から、現代東京のシンボルを望む。「エスカードーム」を斜めから。江戸東京博物館の「江戸東京ひろば」から「両国国技館」の大きな緑青色の屋根を見る。 3階「江戸東京ひろば」に設置された館内案内「Information」。・7F 図書室/閲覧室/映像ライブラリー/本のひろば・6F 常設展示室[入口]・5F 企画展示室/常設展示室[出口]・3F 江戸東京ひろば・1F 特別展示室/チケットうりば/総合案内/ミュージアムショップ/レストラン・カフェ/ 大ホール・小ホール/会議室/学習室・左方向 → 都営大江戸線 両国駅・右方向 → メインエントランス(1F)・チケットうりば(1F)・JR総武線 両国駅 江戸東京ひろばから正面の両国国技館を望む。青空の下、緑青色の大屋根が堂々と広がる。広々としたひろばの白い構造物との対比も印象的な、まさに「両国」ならではの風景。白い波形の構造物は、休憩所の「膜屋根(まくやね)」。「大きさの異なるいくつものこぶが連なる形状の膜屋根」がユニーク。これは1993(平成5)年3月の江戸東京博物館開館時からある施設。設計は博物館本体と同じ菊竹清訓建築設計事務所、施工は鹿島建設。膜屋根部分は約435㎡で、使用膜材は「A種膜材」とされている と。「A種膜材」ととは、ガラス繊維の織物にフッ素樹脂(四フッ化エチレン樹脂)をコーティングした、建築用膜材の最高峰。耐用年数が30年以上と非常に長く、優れた不燃性と耐候性を持つため、東京ドームや駅舎、空港などの大規模な恒久建築物に広く使われているとのこと。休憩所の「膜屋根(まくやね)」の後ろの白い高層ビルはアパホテル&リゾート〈両国駅前タワー〉。北側の奥には「東京都慰霊堂の「三重塔(慰霊塔)」」の姿が。この三重塔は、建築家伊東忠太の設計による東京都慰霊堂(当初は「震災記念堂」)の一部で、1930(昭和5)年に完成した。外観は日本の寺院建築を思わせるが、三重塔には中国・インド風の意匠も取り入れられている。塔の最高高さは40.9m と。この塔は単なる装飾的な仏塔ではなく、納骨施設として造られた慰霊塔だと。 江戸東京博物館の巨大な高床式建築を、3階の「江戸東京ひろば」から見上げて。江戸東京ひろばから江戸東京博物館を見上げる。巨大な上部構造を太い柱で持ち上げた、まるで「空中に浮かぶ巨大建築」。青空の下、その圧倒的な大きさと独特な高床式の構造を改めて実感したのであった。赤い構造物は、2026年のリニューアルで新設された「鳥居」をモチーフとしたオブジェ(工作物)。江戸東京ひろばではなく、1階西側アプローチに設けられているのだ。西側アプローチに新設された「鳥居」をモチーフとした赤いオブジェ。24本の逆L字形の柱が連なり、その側面には現代の東京から江戸の世界へと誘う映像が投影される。2026年のリニューアルで加わった新しい空間演出である。この日は、このモチーフの下を通り、「江戸東京博物館」入口に向かったのであった。 3階「江戸東京ひろば」から1階へ続く階段を見下ろす。その先には、今回のリニューアルで設けられた赤いフレームが連なり、正面には両国国技館の大屋根。新しくなった江戸東京博物館と「両国」らしい景観が重なった瞬間。江戸東京博物館を後にして、JR両国駅に隣接する「両国江戸NOREN(江戸のれん)」へ。館内には大きな暖簾や提灯が吊るされ、寿司、そば、ちゃんこなどの店が並ぶ。江戸の町並みを思わせる空間をしばし散策。「両国江戸NOREN」の中央の館内の床には、なぜか土俵が二重に描かれていた。調べてみると、これは江戸時代から昭和初期まで使われた「二重土俵」を表したもの。内側13尺、外側15尺で、1931(昭和6)年から現在の一重土俵となった。その先には、日本相撲協会監修による原寸大の土俵が設けられているのであった。手前に「二重土俵」その先に日本相撲協会監修による原寸大の土俵が設置されていた。大正10年5月場所の仕切り風景<日本相撲協会webサイトより>。常陸山・梅ヶ谷や太刀山の時代、大相撲の本場所には、仕切りの制限時間がなく、仕切り線もありませんでした。また、土俵の内径は今より狭い十三尺(約3.9㍍)でした。※昭和3年(1928年)1月から大相撲のラジオ中継が始まったことに伴い仕切りに制限時間が定められ、同時に仕切り線が設けられた。また、昭和6年(1931年)5月場所から土俵の内径が十五尺(約4.5㍍)になった(二重土俵の内側の土俵を撤廃)と。日本相撲協会監修による原寸大の土俵に近づいて。手前には、土俵の四角い盛り土を囲む「角俵(かくだわら)」があり、その上の円形部分には勝負の境界となる「勝負俵」が埋め込まれている。さらに写真左下には、俵の一部が外側へずらされている部分も見える。これが「徳俵(とくだわら)」。「徳俵(とくだわら)」とは、大相撲の土俵にある、東西南北の4カ所で外側に1俵分だけずらして配置された俵のこと。徳俵の特徴と由来・配置:土俵の円周を作る全20個の俵のうち、東西南北の4カ所に外側へ突き出す形で 置かれている。・名前の意味:追い詰められた力士がこの位置で踏みとどまると、もう一踏ん張りできるため 「徳(得)」をするという縁起のいい名前。・作られた理由:昔、相撲を野外で行っていた頃に、土俵にたまった雨水を外へ逃すための 排水口(水抜き)として作られた名残りだといわれています。土俵の角には「土俵の解説」が。 「土俵の解説About the SUMO RING江戸時代から、ここ両国で興行が行われていた相撲。相撲は神事として、土俵は神聖な場所とされている。土俵とは土を盛って作る相撲の競技場のことで、俵に土を詰めた俵(土俵)を使って作るため土俵場(どひょうば)と呼んでいたが、縮まって「土俵」と呼ばれるようになった。Held here in Ryogoku since the Edo period, Sumo is a Shinto ritual, making the sumoringa sacred place. The base of the ring is made of pounded clay, with the ring made of clay-stuffed straw bales, known as 'Dohyo'. The sumo ring was originally named a'Dohyoba' (place made of clay bales), since abbreviated to 'Dohyo'.江戸時代の二重土俵Edo period Double Ring入口側の床に描かれた二重の円は江戸時代の土俵のひとつを再現。The double circle depicted by the entrance floor represents a style of sumo ring usedduring the Edo period.図からは、上がり段(踏み板) ― 正面の上がり段は一つ正面向正面東・西黒房・青房・赤房・白房勝負俵徳俵仕切線 ― 長さ70cm、間隔70cm、幅6cm蛇の目の砂塩土俵全体の外幅:670cm角俵の外幅:570cm勝負俵の内径:455cm」 ところで解説板をよく見ると、「円の直径 455cm」だけが後から貼り付けられたようだ。土俵全体の外幅670cm、角俵の外幅570cmは記されていたのに、肝心の勝負俵の内径455cmが抜けていたらしい(笑)。後になって気づいたのであろうか?ネットから。この図では4.55m、5.7mの寸法線が俵の中央付近に描かれているが、実際には4.55mは勝負俵の内側、5.7mは角俵の外側が基準。したがって、この図は説明用の模式図であり、寸法線の位置は厳密ではない。土俵中央には「山(盛砂)+御幣」の姿が。土俵の清めを表現し祭祀的な設えを行っているのであろう。本場所では、初日の前日に行う土俵祭があり、土俵中央に洗米・するめ・昆布・塩・榧の実・勝栗などの「鎮め物」を埋めます。そして千秋楽には「神送りの儀式」があり、土俵中央から鎮め物を掘り出す儀式が行われていると、ネットから。移動して再び「山(盛砂)+御幣」の姿を。そして「ちゃんこ霧島 両国江戸NOREN店」が最奥にあった。 霧島は、現在の陸奥親方(元大関・霧島一博)として知られた力士で、現役時代には「和製ヘラクレス」とも呼ばれた筋肉質の体で人気を集めた。「ちゃんこ霧島」は、その元大関・霧島ゆかりのちゃんこ料理店。元大関・霧島一博の優勝記念写真。上部:「優勝」左側:「大関 霧島一博関」右側:「平成三年一月場所」下部:「ちゃんこ霧島」平成3年(1991年)1月場所で、霧島は14勝1敗で幕内最高優勝を果たした。これが霧島にとって唯一の幕内最高優勝。化粧廻し中央の大きな文字は「力」。その下には「紀州商事㈱」と。近づいて。こちらは「両国ハンバーグ RIKISHI」 このロゴマークは?店のロゴは、漢字の「両」を力士の姿に見立てたユニークなデザイン?。・文字の上部(冠部分)は、力士の髪型である大銀杏(おおいちょう)を模している。・左右や中央の枠組みは、力士の逞しい肩や両腕、体躯のシルエットを見立てている と。アルファベット・RIKISHIを並べて漢字に見せていると友人から、下記のごとくに。大銀杏を結った頭とたくましい両腕が「両」の文字に溶け込み、いかにも相撲の街・両国らしいのであった。友人から、色分けされた図が送られて来ました。緑=R・K・S・H、赤=3個の Iとして読むと非常に分かりやすい と。1. R 「両」の最上部。 左の縦棒→上の横棒→右側の丸く曲がった部分→右下へ伸びる部分を一体として見ると、 大きな Rになる と。2. I その内側にある、最上段の白い横棒。 横倒しになった I と。3. K 中央上部。 左の縦棒から、右上・右下へ斜めに分かれる形で、明瞭な K と。4. I Kを挟む上下の横線のうち、Kの下側にある横棒を横倒しのI と。5. S 「両」の中央下部にある、左右へ折れ曲がりながら続く部分。 これはそのまま横長の Sに見える と。6. H その下。左右の縦棒と中央の横棒によって、かなり明瞭な H と。7. I 最下部の長い横線。 これを横倒しにした最後の I と読む と。なるほどと納得。真相はいかに!!多くの力士の写真とサインが並んでいた。「翔猿関」。「琴櫻関」「月島もんじゃ もへじ 両国」。 「「もんじゃ焼き」の名前の由来葛飾北斎が文政2年(1819年)に刊行した「北斎漫画」の中で「文字焼き屋」の挿絵があり、この時代・既に江戸にもんじゃや焼きの原型があったことが記されています。焼くときにタネで文字を書いて遊んだことから「文字焼き」と呼ばれ、その後、「もんじ焼き」から「もんじゃ焼き」となりました。」 不知火型 照ノ富士春雄とかかれた白い横綱も店頭に。「明太子もちもんじゃ」(写真はネットから)。 「相撲甚句 披露会」ポスター。 再び日本相撲協会監修による原寸大の土俵を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.28
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第62回佐倉市民花火大会(佐倉花火フェスタ2023)を楽しんだ翌朝8月6日(日)、6時前に起床し、「ウィシュトンホテルユーカリ」の我が部屋からの「ユーカリが丘」駅北口を見下ろす。正面にショッピングモール「ユーカリプラザ (YOU!PLA)」。右側には発車を待つ「山万ユーカリが丘線」の電車車輌。広場には2体の像が。佐倉市在住・久保浩 氏 作、女性像「歡び 水の燦き」(右)、男性像「歡び 森の耀き」(左)。1982年(昭和57年)11月2日 - ユーカリが丘駅 - (女子大駅) - 中学校駅間開業。1983年(昭和58年)9月22日 - 中学校駅 - (井野駅) - 公園駅間開業により全線開業。 環状運転開始。1992年(平成4年)12月3日 - 地区センター駅開業路線距離(営業キロ):4.1 km駅数:6駅(ユーカリが丘駅・地区センター駅・公園駅はそれぞれ1駅として計上)車輌:3両編成帰路は、京成本線、横須賀線を利用して新橋駅で下車し、前回訪ねることが出来なかった新橋周辺の汐留・築地・明石地区の名所、遺跡、神社等を巡ったのであった。JR新橋駅にあった壁画。「吉岡堅二作 くじゃく窓」。ズームして。JR新橋駅の地下ホームへと降りる通路に飾られたステンドグラス。烏森改札から入って右奥へ進んだところにあった。新橋駅の地下ホーム開業を記念したもので、制作のためのガラスは欧州から直接取り寄せられ、完成まで約1年の月日が費やされたという。「この作品は、日本の伝統的な美しさと気品をたたえる孔雀と明治5年汽笛一声の由緒ある新橋駅に因み鉄道の力強さを表現する機関車を題材に制作されました。左側の機関車は新橋-横浜間を運転した1号機の正面像で往時の姿をそのまま伝えています。右側の動輪はE102号機のもので、現在、青梅鉄道公園に保存されているものです。パリのノートルダム寺院のバラ窓に想を得て描かれたことから「くじゃく窓」と命名されました。」とネットから。孔雀は日本の伝統的な美しさと気品を表しているのであった。そして「ゆりかもめ 新橋駅」に向かって進む。「汐留タワー」と「日本テレビタワー」を見上げる。「汐留タワー」の上層部にザ ロイヤルパークホテル アイコニック 東京汐留、下層部に資生堂汐留オフィスが入る。高さ172m、最上階38階。「日本テレビタワー」が建物外部四隅に柱を露出させた理由は、容積率緩和措置を受けるため。その他、地上2階の受付前フロアを自由通路とすることによっても容積率緩和措置を受けているとのこと。高さ169m、最上階32階。前回訪ねた「亀の噴水」を再び。港区東新橋1丁目8。幸運を呼ぶ動物とされているアカウミガメの学名『Caretta Caretta』から名付けられた『カレッタ汐留』のシンボルとして親しまれている噴水。中国出身の世界的現代美術のアーティスト蔡國強(ツァイグォチャン)により、風水思想を元に巨大な自然石を都市に持ち込むことで自然とのつながりを体感させようとするもの。噴水は10時~22時の毎正時ごとに約20分間行われる と。「カレッタ汐留」。「カレッタ汐留」は、さまざまな種類の飲食店やショップのほか、日本初の広告ミュージアム「アドミュージアム東京」、「大同生命ミュージカルシアター 電通四季劇場[海]」といった文化施設を併設した複合商業施設。46階の展望スペースでは、無料で地上約200mからの東京湾のナイスビューを一望でき、同フロアのレストランでは昼も夜も景色を眺めながら食事を楽しめると。港区東新橋1丁目8−2。大同生命ミュージカルシアター 「電通四季劇場[海] 」の看板。首都圏における劇団四季の常設専用劇場。浜松町の四季劇場にも近く、さながら" リトル・ブロードウェイ" とも称すべき劇場文化ゾーン。劇場の客席は2階層約1200席。2階客席が、1階中央近くまでせり出し、ステージの躍動感、感動がじかに伝わってくる舞台設計となっている と。港区東新橋1丁目8−2 カレッタ汐留 1階。「朝露童子/Child of The Morning Dew [B2F]」作者:藪内佐斗司「亀の噴水」越しに「カレッタ汐留」を振り返る。右手奥に「日本テレビタワー」。港区東新橋1丁目6−1。北玄関脇の正面に「案内板」が。「江戸時代の仙台藩上屋敷跡」。港区東新橋1丁目2−5。「江戸時代の仙台藩上屋敷跡ここは、汐留遺跡の発掘調査によって、仙台藩上屋敷跡であることが確認された場所である。江戸時代、全国の大名は江戸に藩主や家臣団が住む藩邸を設けており、初代仙台藩主伊達政宗の時代には、外桜田(日比谷公園)や愛宕下(新橋五・六丁目)などに屋敷があった。この地には、寛永十八年(一六四一)、下屋敷が設けられ、延宝四年(一六七六)には上屋敷となり、以後幕末まで仙台藩の江戸における拠点となった。屋敷の東北部から汐留川(仙台川ともいう)に接するかたちで大きな舟入場が発見されている。下屋敷時代は、藩の物資の集積場・倉庫の役割を担っていたので多くの物資の出入りがあったと考えられる。 仙台市 日本テレビ」「伊達家芝上屋敷絵図亨保~天明(1716~1788)頃のもの。」仙台藩上屋敷全体が描かれた唯一のもので、発掘調査で大小2つの池や遣り水跡が見つかった。絵図の右手は汐留川、浜御殿、海へと続く。さらにズームして。再び、建物外部四隅に柱を露出させた「日本テレビタワー」を近くから見上げる。日テレタワーのゼロスタジオから、正面玄関に続く階段を見る。上方にあったのが「宮崎駿の日テレ大時計」。港区東新橋1丁目6−1。正面に見えたのが「汐留シティセンター」。2003年1月23日に竣工した、地上43階 地下4階のオフィスビル。建物中層から高層部にかけては深いエメラルドグリーンのガラスを一面に貼り、優美な曲線を描いた外観が未来的なイメージを創出し、低層部は新橋停車場跡との調和を考えて花崗岩に覆われたクラシカルなデザインとなっている。1階ロビーには、ダイナミックで斬新なデザインのレリーフ、油絵、彫刻などを視覚的に配している。そして日本テレビ本社にある「宮崎駿の日テレ大時計」の前に。宮崎駿監督が手がけた、からくり時計として、日テレ観光の目玉のひとつでもある。幅が16m、高さが12mもあり、1228枚の銅板を一枚一枚加工して作られている と。この大時計が設置されたのが2006年。企画から6年をかけて、日テレとスタジオジプリが作りあげた。デザインは、少しハウルの城に近いものがあるとのこと。これは、宮崎監督が大時計のデザインを手がけた時期と、『ハウルの動く城』の製作時期が近かったため、似たようなイメージになったのではないかと。反対側の緑地の先には「ゆりかもめ」が。「宮崎駿の日テレ大時計宮﨑駿監督(みやざきはやお)がデザインした大時計。仕掛けが溢れる美しい時計が時を刻んでいます。」「宮崎駿の日テレ大時計 演出スケジュール演出スケジュール月~金:12:00、13:00、15:00、18:00、20:00土・日:10:00、12:00、13:00、15:00、18:00、20:00※毎回、およそ3分前から演出が始まります。」。「日テレ屋日テレキャラクターショップ「日テレ屋」では、大時計をデザインした宮堝駿監督をはじめとする「スタジオジプリ」グッズを多く取り揃えて皆様をお待ちしております。大時計をご覧いただいた記念にぜひお立ち寄りください!」時計版の右に鍛冶屋一族。時計版の左に鐘一族。からくりが作動すると、彼らが動き出すのであった。左斜めから見る。この烏脚のデザインは、ほんとうにハウルの城と似ているのであった。「宮崎駿の日テレ大時計」👈の仕掛け用の歯車を見る。そして次に「汐留シティセンター」を見る。港区東新橋1丁目5−2。「汐留タワー」と「日本テレビタワー」を振り返る。次に「電通本社ビル」を訪ねた。安田侃「妙夢」。六本木の東京ミッドタウンにも、色違いの「妙夢」が展示されている と。港区東新橋1丁目8−1。広々としたエントランスを歩く。カレッタ汐留46・47階にはレストランと地上200mの展望台があり、お台場などの湾岸エリアや勝どき・晴海エリアが眺められるとのことで向かう。カレッタ汐留 46F シャトルエレベーター前にあったのが「関根伸夫 / 豊穣の海 “The Fertile Sea“」。高層階レストランフロアのエレベーター前に設置された作品。1970年代前後の日本でものに加工をせずそのまま提示することで新たな芸術表現を試みた「もの派」を代表する作家関根伸夫の作品。関根は「公共空間を活性化させるアート」として環境美術に精力的に取り組んでいる。タイトルは三島由紀夫の小説から転用したもの。枯山水をテーマに波紋や波、山、円錐を配置した石庭を表現している。台湾産の大理石、緑色蛇紋岩を使用している。カレッタ汐留 46階展望スペースの壁の装飾。近づいて。LEDの色が変化。カレッタ汐留 46階展望スペースからの展望を楽しむ。「東海道貨物線支線 東京市場駅跡」。「浜離宮恩賜庭園」の先の「豊海」方向の眺望。「浜離宮恩賜庭園」。東京湾から海水を取り入れ、潮の干満で景色の変化を楽しむ、潮入りの回遊式築山泉水庭。園内には鴨場、潮入の池、茶屋、お花畑やボタン園などがある。2000年代前半に西側の旧汐留貨物ターミナルが再開発されて汐留高層ビル群が林立し、庭園とコントラストを成している。江戸時代に甲府藩下屋敷の庭園として造成され、徳川将軍家の別邸浜御殿や、宮内省管理の離宮を経て、東京都に下賜され都立公園として開放された。近年、かつて園内にあった複数の建築物の再建が進められており、4棟のお茶屋などが復元されている。中央区築地5丁目のビル街。写真右手が浜離宮恩賜庭園を囲んでいる「築地川」。昭和時代の地図をネットから。汐留から貨物線が築地市場へと通じているのであった。国鉄東京市場駅は東京都中央卸売市場築地市場内にあり、カープした屋根の水産物卸売場に直接貨車を横付けできるようになっていました。貨物線は昭和62年(1987)に廃線となりました。そんな「築地市場」は豊洲移転のため、平成30年(2018)10月6日に最終営業日を迎えましたが、築地場外市場はこれまで通りに残されることになりました。エレベーターホール。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.09.02
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この日は4月25日(金)、高校時代の友人4人で会うことになり、小田急線、地下鉄を乗り継いで浅草駅に向かう。地下鉄を降り、地上に出て「雷門一之宮通り」を「雷門通り」そして「雷門」に向かって進む。 「雷門通り」に出て「アサヒビール㈱本社ビル」そして「墨田区役所」の間に「東京スカイツリー」を見る。そして「雷門」交差点入口より「雷門」を見る。 浅草寺 案内図。「雷門(風雷神門)」を正面から。浅草寺の伽藍守護のために、風水害または火災からの除難を目的としてこの二神(風神、雷神)がまつられたもの。現在の門は、江戸末期に炎上した門に替わり、昭和35年に95年ぶりに松下電器創始者、松下幸之助氏の寄進により、復興再建され、浅草寺の総門として威容を誇っているのだ。人、いや外国人の多さにびっくり!!時間は12:55。以前に訪ねた早朝の写真。「浅草寺」の山号「金龍山(きんりゅうざん)」そして「雷門👈️リンク」と書かれた赤い巨大な提灯。浅草のシンボル・雷門の前は、記念写真におさまる国内外の人びとでいつも賑わっている。雷門は浅草寺の総門であり、正式名称は「風雷神門」という。総門が現在地に移ったのは鎌倉時代以降のことで、移築の際に風神、雷神を安置したとも考えられている。風雷神門がなぜ「雷門」と呼ばれるようになったかは不明であるが、文化年間(1804~18)の川柳に、「風の神雷門に 居候」という句が見え、この頃には雷門という名称が一般化していたようである と。様式:本瓦葺 切妻造り八脚門 鉄筋コンクリート 合成樹脂塗装建坪:69.3m2(21坪)・間口 11.4m・高さ 11.7m炎上史:[1]寛永19年(1642)2月19日焼失、慶安2年(1649)12月落慶 [2]明和4年 (1767)4月9日焼失、寛政7年(1795)3月落慶 [3]慶応元年 (1865)12月12日、田原町大火により焼失現在: 昭和35年(1960)5月1日 95年ぶりに再建 昭和57年(1982)4月17日 塗り替え工事完成 平成25年(2013)11月18日 塗り替え工事完成「雷門(風雷神門)「天慶五年(九四二)、平公雅(たいらのきんまさ)によって創建されたのが始まり。門の正面向かって右に「風神」、左に「雷神」を祀る。このことから「雷門(風雷神門)」と呼ばれる。ともに鬼面蓬髪、風袋を担いで天空を駆ける風神と、虎の皮の褌を締め連鼓を打つ雷神は、お馴染みのものである。また、門の裏側には、向かって右に「金龍」、左に「天龍」の龍神像が祀られ、これら四神は、浅草寺の護法善神として、伽藍守護・天下泰平・五穀豊穣の守り神とされる。現在の門は、慶応元年(一八六五)の浅草田原町の大火で炎上した門に替わり、昭和三十五年に松下幸之助氏のご寄進により復興された。浅草寺参詣の入口にあたる「総門」として、また、東京・浅草の顔として全国的に有名。 金龍山 浅草寺」 提灯の底に施されている龍の彫刻。真下から。風神・雷神は、風や雷をつかさどる神さまであり、浅草寺の護法善神である。元々雷門はこの二神の名前から「風雷神門」と呼ばれていたが、いつの頃からか雷門とだけ呼ばれるようになった と。正面右:「風神像」。高さ2.18m。ネットから。斜めから。正面左:「雷神像」。高さ2.09m。ネットから。斜めから。「金龍山浅草寺」碑。 「聖観音宗総本山金龍山浅草寺(あさくさかんのん)御本尊 聖観世音菩薩(御秘仏)慈悲の仏さま 浅草寺ご本尊の観世音菩薩さま観音さまは、多くの仏さまの中でも最も慈悲深い仏さまであり、人々の苦しみを見てはその苦しみを除き、願いを聞いては楽しみを与えてくださいます。特に浅草寺ご本尊の観音さまのご利益・ご霊験は古今無双であり、ご示現より今日まで千四百年近くにわたり計り知れぬほどの人々を救われご加護なさってきました。観音さまのご信仰とは観音さまに「慈悲」のお心を頂いて生きること、すなわちすべてに「あたたかい心」で接して日々を過すことと申せましよう。※ご参拝の際には合掌して「南無観世音菩薩」とお唱えしましまう。縁起(由来)時は飛鳥時代、推古天皇三十六年(六二八)三月十八日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が江戸浦(隅田川)に漁撈(ぎょろう)中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得(かんとく)した。郷司(ごうじ)土師中知(はじのなかとも:名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依(きえ)し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝(らいはい)供養に生涯を捧げた。大化元年(六四五)、勝海上人(しょうかいしょうにん)がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法(でんぼう)の掟は厳守されている。広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は、参拝の信徒が増すにつれ発展し、平安初期には、慈覚大師円仁さま(794~864、浅草寺中興開山・比叡山天台座主3世)が来山され、お前立のご本尊を謹刻された。鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の祈願所とされてからは、堂塔の威容さらに整い、江戸文化の中心として、大きく繁栄したのである。かくして都内最古の寺院である浅草寺は、浅草観音の名称で全国的にあらゆる階層の人たちに親しまれ、年間約三千万人もの参詣者がおとずれる、民衆信仰の中心地となっている。」 「本尊感得の図(浅草寺寛文縁起絵巻より)」をネットから。 「九代目市川團十郎「暫」銅像復元記念奉納 泣き相撲日時 四月ニ十六日(土) 銅像法要 午前十時四十五分 泣き相撲 午前十一時十分 場所 浅草観音本堂裏」 雷門の背面 (本堂側) には水をつかさどる龍神さま(浅草寺の護法善神)の金龍像(女性の姿)、天龍像(男性の姿)が奉安されていた。「天龍像(男神像)」。「天龍像天龍・金龍の二像は雷門の守護神として奉納された。謹刻者は平櫛田中(ひらぐし でんちゅう 1872~1979)及び菅原安男(1905~2001)の両氏である。両像は「金龍山」という当山の寺号に因み、龍神を天龍・金龍の男女二体に擬人化したものである。この天龍像は皮の腰鎧をつけ、右手に独鈷杵(どっこしょ)、左手に金珠を持った男神像である。青色を中心に彩色を施し材は木曽檜を用いる。高さは293cm、重さは250kgである。両像は御本尊示現1350年記念の年である昭和53年(1978)3月19日に奉安され、供養法要が厳修された。 金龍山 浅草寺」 「金龍像(女神像)」。 「金龍像天龍・金龍の二像は雷門の守護神として奉納された。謹刻者は平櫛田中(ひらぐし でんちゅう 1872~1979)及び菅原安男(1905~2001)の両氏である。両像は「金龍山」という当山の寺号に因み、龍神を天龍・金龍の男女二体に擬人化したものである。この金龍像は裙(くん)をはき、胸飾りをつけ左手に銀珠を持つ女神像である。白色を中心に彩色を施し材は木曽檜を用いる。高さは274cm、重さは200kgである。両像は昭和53年(1978)3月19日に松下グループの有志の方々によって奉安され、供養法要が厳修された。 金龍山 浅草寺」「雷門(風雷神門)」を仲見世通り側から見る。巨大な提灯には「風雷神門」と。左右に、「天龍像」、「金龍像」。 巨大提灯には「松下電器産業株式会社 創業者 松下幸之助」と。 ごった返した「仲見世通り」を進む。7~8割はインバウンド・外国人!! まるでこの場所は海外旅行に行っているかの如し。 「本家 梅林堂」。人形焼の店。客寄せの関係上、左右の通行分離が出来ていないので!!和服姿の女性は全てインバウンド!!「喜久屋」。 焼き団子を楽しむ女性インバウンド。「むさし屋人形店」。福幸運を招き寄せてくれる縁起物の招き猫がずらり。「Tシャツ TOKYOU 金龍山雷門」。 様々な文字、色がデザインされたTシャツ。「新仲見世通り」の右側。 「新仲見世通り」の左側。。「浮世絵 タペストリー」。「神奈川沖浪裏」(かながわおきなみうら)は、葛飾北斎の名所浮世絵揃物『富嶽三十六景』全46図中の1図。「仲見世通り」の先にあった「宝蔵門」が見えて来た。「赤富士」がデザインされたタペストリー。「三美堂 仲見世店」 様々なお面が。伝法院通りの左側。伝法院通りの右側には東京スカイツリーの姿が。高さ634mのタワーをズームして。左側にあったのが「浅草寺幼稚園」。 「浅草寺幼稚園」は、下町浅草の仏教寺院である浅草寺が運営する私立幼稚園です。活気あふれる賑やかな仲見世の中で地域に見守られながら約九十年間の歴史を歩んでまいりました。本園の発足は、大正12年に発生した関東大震災(1923年)の直後、復興に奔走して忙しい方々の幼児を預かる施設、託児所を開いたことが発端となっています。その後、保育園を経て、昭和6年に文部省により幼稚園として認可され、今に続く浅草寺幼稚園は誕生しました。創立して14年後の昭和20年(1945年)には、戦災により園舎は全焼してしまいますが、戦後間もなく地元有志の方々のご尽力を頂いて復興し、昭和49年(1974年)には、鉄筋コンクリートの新園舎が完成し、現在に至っております。観音様の「慈悲の心」を実践の場として、長年にわたって地元有志の方々から絶えず後援して頂きながら、充実した園舎の中で理想的な仏教保育に取り組んできた幼稚園です とネットから。「浅草寺幼稚園」の園内の観音様。ズームして。 ・・・つづく・・・
2025.05.12
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この日は7月2日(火)、私の住む地域の老人会のバス旅行に補助員として参加。目的地は、河口湖周辺と富士スバルラインを利用して富士山5合目そしてその先にあった「冨士山小御嶽神社」。地元の集合場所を8時に大型バスで出発し、途中で随時参加者を拾い、東名綾瀬スマートICから東名高速道路に入り、海老名JCTから圏央道に入り厚木PAのて最初のトイレ休憩。売店には人の数は少なかった。そして八王子JCTから中央自動車道へ。前方に「笹子トンネル 上り線」の出口が見えた。そして中央自動車道・勝沼IC手前を走る。勝沼町にある徳岩院の墓地が右手に。勝沼町の街並みが右手奥に広がる。雪が残る南アルプスの山の山頂が見えた。明石山脈にある標高3190mの間ノ岳であっただろうか?生憎、甲府盆地の先のほとんどの山々が雲に隠れて。そして 一宮御坂IC で中央自動車道を降り、近くにあった「味の甲州わさび漬センター (地域物産・土産品販売店)」に立ち寄る。「歓迎」の看板もあった。最初のお土産店であったが、皆さん、既に帰りの気分で、わさび漬け等のお土産を買いまくるのであった。店内の小さな社にはタヌキ様が祀られていた。そして山梨で採掘された宝石類が並ぶ。左は「アメジストクォーツ(紫水晶)」であろう。「仏金砂 御線香立ての灰」。「仏金砂」は、ガラスの原料・硅砂(けいさ)で作られた金砂ですので、固くならず火気にも安心。水洗い可能ですので何度でもお使いになれます。風に飛ばないので、お仏壇まわりが汚れる心配もありません。仏壇のお線香立て用の灰として、墓前のお線香立て用としてにご活用ください。仏金砂とは、線香が立てやすい香炉用の砂です。再び「アメジストクォーツ(紫水晶)」。見事な花が。土産物を品定めする旅友。「笛吹川石和鵜飼」👈️リンク ポスター。7/20(土)~8/18(日)開催と。そして「御坂みち」を河口湖に向かって進む。「山梨リニア実験線」が前方に姿を現した。リニア中央新幹線の山梨県駅(甲府市)について、JR東海は4日、2024年度中に工事契約し、完成は31年となる見通しを明らかにした。 昨年12月、東京・品川―名古屋間の工事完了時期を「2027年」から「27年以降」に変更し、工事計画を見直した結果、想定よりも工期が長くかかる見通しになったという。河口湖に向かって南下する。右手に河口湖が姿を現した。御坂みちも河口湖湖畔に出る。「河口湖大橋」方向に進む。残念ながら富士山そして逆さ富士の姿は・・・。天気が良ければ・・・ネットから。そして河口湖湖畔の駐車場へ。前方には「河口湖大橋」の姿が。「河口湖大橋」は山梨県道707号富士河口湖富士線に指定されている橋梁であり、かつては河口湖大橋有料道路として利用されていた。旧有料区間の全長は1600 m、河口湖大橋自体の橋長は500 mである。富士五湖のなかで唯一の湖上に架かる橋梁で、橋上からの眺めはさえぎるものが無いことから富士山の展望もよく、1987年(昭和62年)に美観性と機動性を基準に「雄大な富士の道」として、富士スバルラインとともに旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」にも選ばれている。そして「遊覧船」の姿も。河口湖遊覧船「天晴(あっぱれ)」は、河口湖駅より徒歩10分、河口湖畔船津浜に乗り場があります。戦国時代に甲斐武田軍に属していた「水軍」の安宅船がモチーフの純和風な遊覧船で、武田軍の代名詞である「武田菱」や「赤備え」をアクセントに、華やかさと勇ましさを兼ね備えたデザインとなっております。天気の良い日は展望デッキから、遮るもののない雄大な富士山の絶景や360°のパノラマビューをご堪能ください。”和”の象徴である畳の間をイメージした広々とした船内では、50インチの大型モニターを設置し、雨の日でも四季折々の美しい富士山や周辺地域の歴史や観光情報をお伝えいたします と。ネットから。「乗船券売場」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.10
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「東海道五拾三次之内 原」 ネットから。この絵の最大の特徴――「画面からはみ出す富士」まず目を奪われるのが、富士山の大きさです。富士山頂が画面の上端を突き抜け、山頂の一部が画面の外へはみ出しています。これは偶然ではなく、広重が意図的に用いた大胆な構図です。富士を画面の枠内にきれいに収めるのではなく、あえて収めきれないほど大きく描くことで、「富士山はこの画面よりもさらに大きい」という感覚を鑑賞者に与えています。空を横切る「赤い一文字」展示解説にある「上部に摺られた赤色の一文字」とは、画面上端を左右に走る細長い赤色の帯のことです。「一文字」は文字そのものではなく、横一直線に施した色の帯という意味です。この赤いぼかしによって、朝日が昇り始め、空が赤く染まる朝焼けが表現されています。そのため題名も「原 富士」ではなく、「原 朝之富士」なのです。富士山右側の山は「愛鷹山」富士山の右側に連なる黒々とした険しい山並みが愛鷹山(あしたかやま)です。広重は、淡い色で巨大な富士を描き、その手前に濃い墨色の愛鷹山を重ねています。この濃淡によって、富士がさらに遠く、さらに巨大に感じられる構成になっています。また、富士の左側遠方にも小さな山が描かれています。巨大な富士との大小の対比も見事です。手前の旅人が富士をさらに大きく見せる画面左下には、二人連れの女性と荷物を担いだ男が描かれています。人物は非常に小さく、その背後には巨大な富士。この「人間の小ささ」と「自然の大きさ」の対比が、富士の雄大さをいっそう強調しています。さらに田畑の中には、首を曲げて餌を探しているような二羽の鶴も描かれています。巨大な富士だけではなく、旅人や鳥といった日常の小さな営みを添えるところも、この作品の魅力です。「はら あさのふじ原 朝之冨士Hara, Mt. Fuji in the Morning作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃朝焼けに照らされた富士が描かれる。上部に摺られた赤色の一文字が朝焼けを表現している。富士の右手に見える山は、愛鷹山(あしたかやま)である。画面奥に描かれた雄大な山々を背景に、手前の街道を二人組の女性と荷を担ぐ男が歩いている」 「東海道五拾三次之内 吉原」 ネットから。なぜ「左富士」なのでしょうか江戸から京都へ向かって東海道を西へ進むと、基本的に富士山は進行方向の右側に見えます。ところが吉原付近では、街道が大きく北寄りに曲がるため、一時的に富士山が左側に見える場所がありましたこれが有名な「吉原の左富士」です。画面を見ると、旅人たちは奥へ向かって進んでいます。その進行方向に対して富士山が左手奥に描かれています。三人の子供に注目ですこの絵で富士山とともに面白いのが、中央の馬に乗った三人の子供です。前方の二人は身体を左へ向け、珍しい「左富士」を眺めているように見えます。ところが右側の一人は、せっかくの名所にもかかわらず、馬上で居眠りしているような姿。「名所だから皆が感激して富士を眺める」という理想化された旅ではなく、疲れて眠ってしまう子供もいるという日常の一瞬を広重は描いています。展示解説がいう「現実感」とは、このようなところでしょう。松並木も重要です画面を大きく占めるのは富士山ではなく、街道沿いの松並木です。太い松の幹を画面のすぐ手前に大きく配置し、その間から遠方の富士をのぞかせています。近景の松 → 旅人と馬 → 遠景の富士という三段階の奥行きがつくられています。前回の「原 朝之富士」が画面からはみ出すほど巨大な富士だったのに対して、この「吉原 左富士」では富士を遠く小さく描いています。同じ富士山でも、広重が宿場ごとにまったく違った見せ方をしていることがよく分かります。「よしわら ひだりふじ吉原 左冨士Yoshiwara, Mt. Fuji on the Left作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃東海道を西に進む際には、富士山を右手に見ながら進むが、街道が北に曲がると左手に富士を見ることもあった。副題の左富士はこれを指し、吉原宿は左富士の名所として知られた。三人の子供が馬の背に乗り、富士を眺める左手の二人と対照的に右側の子供は旅の疲れからか眠っているようにも見える。名所の旅の風景に現実感を表現する広重の特徴が表れている。」 「東海道五拾三次之内 蒲原」 ネットから「実景」ではなく、広重が生み出した雪の世界展示解説で重要なのは、蒲原は温暖で、実際には雪があまり降らない土地だという点です。それにもかかわらず、広重は山も家々の屋根も道も、すべて深い雪に包まれた世界として描きました。つまり、これは単純な「蒲原の実景写生」というより、蒲原という宿場を舞台に広重が創り上げた詩情豊かな雪景色と見ると、この作品の魅力がよく分かります。「しんしんと降る雪」なのに、雪の線がないこの作品をよく見ると興味深い点があります。画面には、雪が斜めに降る線や白い雪片がほとんど描かれていません。それでも私たちは、「静かな夜、雪がしんしんと降っている」と感じます。白く覆われた屋根や山、黒く沈んだ空、そして音のないような人物の動きによって、広重は雪そのものを描かずに、雪の気配を描いているのです。三人の旅人雪道には三人の人物がいます。左の人物は傘を差し、中央の人物はやや前屈みになって歩き、右側の人物も雪の中を急ぐように進んでいます。人物を小さく描くことで、雪に覆われた自然の広がりと、冬の夜道を歩く人間の心細さが強調されています。とりわけ中央の人物の傾いた姿勢からは、寒さに耐えながら雪道を歩く様子まで伝わってくるようです。「初摺」と「後摺」の違い展示解説では、この作品には大きく、初摺り=空の上部に「一文字ぼかし」後摺り=地平線に近い部分を黒くしたものという違いがあると説明されています。今回撮影された作品は説明板によれば後摺りです。画面中央の地平線付近を黒く沈ませることで、雪をかぶった家々や山の白さが浮かび上がり、夜の深さがいっそう強調されています。この「黒」と「白」の対比こそ、この作品の美しさの大きなポイントでしょう。「かんばら よるのゆき蒲原 夜之雪Kambara, Evening Snow作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃蒲原は温暖な土地で、雪はあまり降らないという。しかし、本図では一面に雪が降り積もっている。積雪風景が少ない「東海道五拾三次之内」でも印象的な図である。この図には、天の部分を一文字ぼかし摺りにした初摺りと地平に近い部分を黒くした後摺りがある。後摺りの本図は、山や家屋の輪郭が際立ち、闇夜にしんしんと雪が降り積もっているようで見ごたえがある。」 「東海道五拾三次之内 由井」 ネットからこの作品で広重が強調しているのは、「険しい薩埵峠」と「その先に開ける雄大な眺望」の対比です。画面左側には巨大な崖が迫り、その崖の向こうに富士山が姿を現します。そして右側には駿河湾が大きく広がり、海上には白い帆を上げた船が浮かんでいます。特に面白いのが、説明板にもある崖際の旅人です。写真では暗くて分かりにくいのですが、画面左下の険しい崖のところに小さく人物が描かれています。危険な場所まで身を乗り出して、富士と海の絶景を眺めています。一方、その少し上には杣人(そまびと)、つまり山で木を伐採したり運んだりすることを仕事とする人が描かれています。旅人にとっては息をのむ絶景でも、地元で働く人にとっては日常の風景――その対照も興味深いところです。富士山と帆船画面中央左奥に見える白い山が富士山です。富士山を絵の中央に大きく置くのではなく、崖と松の向こうから覗かせるように描いているところが巧みです。さらに海上の白い帆船を点々と配置することで、広い駿河湾の奥行きが生まれています。手前の暗い崖 → 松 → 青い海 → 白い帆 → 遠くの富士山という重なりによって、非常に深い遠近感がつくられています。「ゆい さったとうげ由井 薩埵嶺Yui, The Sattatoge Pass作者:歌川広重(初代)/画年代:天保5~7(1834~36)頃薩埵峠は切り立った崖沿いに道が引かれた難所だったが、見晴らしが良いため富士山や三保の松原を眺めることができる景勝地としてよく知られた。図は薩埵峠を左に写し、奥に海と堂々たる富士山を望む。左の崖には旅人とおぼしき人が一歩進めば崩れ落ちそうなところまでにじり出て絶景を見ている。その少し上には周辺に住んでいるだろう杣人が淡々と坂道を登る。東海道の旅路のひとときを描いた図である。」「東海道五拾三次之内 興津」ネットからこの絵で何より目を引くのは、興津川を渡る二人の力士です。手前では、四人の人足が駕籠を担いで川を渡っています。中には大柄な力士が座っています。水の中を進む人足たちは、駕籠を濡らさないよう肩に力を入れ、足を踏ん張っています。その後ろには、もう一人の力士が馬に乗って渡河しています。馬の横にも人足が付き添っており、当時の東海道における川越しの様子が生き生きと描かれています。面白いのは、「力持ちの力士が、人足たちに担がれて川を渡っている」という構図です。堂々とした力士の体格と、それを懸命に運ぶ人足たちの姿との対比に、広重らしいユーモアも感じられます。また背景を見ると、川の向こうには松原、そのさらに向こうには駿河湾を行く白帆の船が描かれています。手前の人物を大きく、遠景の松や帆船を小さくすることで、広々とした空間が表現されています。「勧進相撲」とはここでいう勧進相撲は、寺社の建立・修復などの費用を集める「勧進」を目的として催された相撲を起源とします。江戸時代には次第に興行として発達し、現在の大相撲につながっていきました。この二人は、そうした相撲興行のために東海道を旅している力士の一行と考えられています。「おきつ おきつがわ興津 興津川Okitsu, Okitsugawa River作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃興津川を渡る旅人を描く。馬上と駕籠の中にいる恰幅が良い二人は力士であり、勧進相撲の一行のようである。この図は『東海道名所図会』の安倍川を描いた挿絵を参考に描かれたと考えられる。元々、橋を渡る図であったところを、川渡りの図に変えることで緊張感のある構図に仕上がり、体に力の入った本図の力士の様子に説得力が出ている。」 「東海道五拾三次之内 江尻」ネットからこの作品は、これまでの「由井 薩埵嶺」「興津 興津川」とは趣が大きく変わり、人物をほとんど描かず、広大な海景そのものを主役にした作品です。画面最下部に江尻宿の家々の屋根をわずかに置き、そこから高い場所に立って駿河湾を見下ろすような構図になっています。特に目立つのが、海上に浮かぶ多数の白い帆です。手前の船は大きく、遠くなるにつれて帆が小さくなり、水平線近くでは白い点のようになります。これによって、駿河湾の広さと奥行きが巧みに表現されています。そして画面中央を横長に伸びる黒々とした陸地が、三保の松原です。松原を横方向に長く配置することで、青い海を手前と奥に分けると同時に、視線を遠方へ導いています。「富士山がない」のも重要です三保の松原といえば、現在では「松原越しの富士山」を思い浮かべます。しかし、この作品では富士山を主役にしていません。展示解説にもあるように、広重は三保そのものよりも、江尻から眺めた広々とした海、松原、帆船、遠くの愛鷹山を組み合わせて、駿河湾の開放感を表現しています。画面左奥の赤褐色や青色で重なる山々が愛鷹山方面です。「えじり みほ えんぼう江尻 三保遠望Ejiri, Distant View of Miho作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃江尻の宿場を手前に、三保の松原と遠方の愛鷹山を高所から見た風景が描かれている。三保は富士山を眺める場所として有名だが、本図では松原を画面の中心に据え、江尻から見る海景を見渡す。帆船が点々と海に浮かび、視線を奥へと誘導する。本図も『東海道名所図会』を参考にしていると思われる。ただし、右上部から水平線が見えている点に違いがあり、開放感のある構図となっている。」 「東海道五拾三次之内 府中」ネットからこの絵の主役は、実は「安倍川をどうやって渡ったのか」という江戸時代の旅の一場面です。安倍川には東海道の橋がなく、旅人は川を歩いて渡りました。しかし、誰もが自分の足で歩いたわけではありません。画面右手では、女性を乗せた駕籠を川越人足たちが担いでいます。人足たちはほとんど裸に近い姿で、水の中を進んでいます。女性は駕籠の中に座っていますから、衣服を濡らさずに対岸へ渡ることができます。一方、画面左側では、荷物を積んだ馬も川の中を進んでいます。その周囲にも人足が付き添っています。さらに中央奥には、衣服を頭上に掲げたり、胸近くまで水につかったりしながら、自力で渡る人々が描かれています。つまり広重は一枚の中に、「駕籠で渡る人」「馬と渡る人」「自分の足で渡る人」を描き分け、当時の安倍川の川越しの様子を生き生きと見せています。そして人物たちの背後には大きな山がどっしりと描かれています。広重は雄大な山を背景に置く一方、手前では川越しに苦労する人々を細かく描き、自然の雄大さと旅人の日常を対比させています。「ふちゅう あべかわ府中 安部川Fuchu, The AbegawaRiver作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃駿河の国府があった府中は現在の静岡市にあたる。周辺には安倍川があり、江戸時代当時の旅行客は徒歩渡し(かちわたし)で川を渡っていた。本図の手前には女性3人とお供の男性の一行が描かれる。駕籠の女性は、座布団をつかみ、不安げな顔で川を見ている。奥には馬を引く3人と、服を脱ぎ川を渡る男性が見える。胸まで水に浸かっているところから、渡りにくいと思われる。」 「東海道五拾三次之内 鞠子」ネットからこの作品は、これまでの川越しや峠越えのような「旅の難所」ではなく、旅人が茶店で一休みする、東海道の穏やかな日常を描いたところが魅力です。中央の茅葺きの茶店には、「名ぶつ とろろ汁」の看板が大きく掲げられています。店先では二人の旅人が腰を下ろし、食事をしながらくつろいでいます。展示解説のとおり、『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛・喜多八を連想させる二人です。また、店の前には梅と思われる花木が咲き、背後には丸みを帯びた山。左側には街道を歩いていく旅人が小さく描かれています。「歩く旅人」と「休む旅人」を同じ画面に置くことで、東海道の旅の時間が感じられます。特に面白いのは、広重が名所旧跡ではなく、「とろろ汁を食べる」という旅の楽しみそのものを題材にしている点でしょう。「まりこ めいぶつ ちゃみせ鞠子 名物茶店Mariko, Local Specialty Teahouse作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃鞠子は丸子とも書き、昔からとろろが名物として知られていた。松尾芭蕉の句にも詠まれているが、本図が着想を得たのは『東海道中膝栗毛』ではないかと考えられる。「名ぶつとろろ汁」、「御ちゃづけ」、「酒さかな」などと書かれた茶店には二人の男性がくつろいでいる。弥次さん喜多さんを思わせる風貌の二人組である。旅の途中ののどかなひと時を切り取った図である。」 「東海道五拾三次之内 岡部」 ネットからこの絵で広重が強調しているもの第一印象は、何といっても道の狭さと山の深さです。画面の大部分を左右から迫る巨大な山肌が占め、旅人の通る道は、その谷間に細い一本の線のように描かれています。右側には青く描かれた谷川が流れ、足を踏み外せば落ちてしまいそうです。さらに右上には高い杉のような木々がそびえ、空はわずかしか見えません。広重はこの構図によって、宇津ノ谷峠が昼間でも薄暗い山道だったことを視覚的に表現しています。中央奥には茅葺きの家がわずかに見え、その近くに赤く色づいた木が一本描かれています。青緑色を主体とした暗い山間の景色の中で、この赤が鮮やかなアクセントになっています。そして小さく描かれた旅人たちと巨大な山を比べると、人間の小ささと自然の圧倒的な大きさがよく分かります。「おかべ うつのやま岡部 宇津之山作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃盛り上がった両脇の山に挟まれて、一本の細い道が通っている。手前から道を登る男女が現れ、奥から薪を担いだ杣人(そま)がやってくる。すれ違えば隣の川に落ちそうな、人ひとりがやっと通れるような狭い道である。ここは東海道の丸子宿と岡部宿の間の宇津ノ谷峠で、昼でも山に遮られて薄暗いため難所とされた。」「東海道五拾三次之内 藤枝」 ネットから「人馬継立」とは?ここがこの作品を理解するポイントです。人馬継立(じんばつぎたて)とは、宿場ごとに荷物や公用の旅人を運ぶ人足や馬を交替させ、次の宿場へ送り継ぐ制度です。江戸時代の宿場には、荷物輸送などを取り仕切る問屋場(といやば)がありました。藤枝宿もその一つです。つまり現在にたとえるなら、「人足と馬を交替させる中継基地+荷物の配送センター」のような役割を果たしていました。絵を見ると大変な賑わいです右上の建物が問屋場で、役人が仕事をしています。その前には仕事の順番を待つ人足たち。中央では大きな荷物を二人で担ぎ、左側では馬に荷物を積んだり降ろしたりしています。裸に近い姿の人足、馬、旅人、役人が入り交じり、広重は宿場の忙しさを人物の動きで表現しています。面白いのが、展示解説にもある「広告」です。荷物には、この浮世絵を出版した版元「保永堂」の札。さらに馬には版元主人の名である「竹内」の文字が入っています。現代風にいえば、広重の絵の中に出版社の名前をさりげなく「商品広告」として登場させたわけです。江戸時代にも、こうした遊び心のある宣伝があったことが分かります。「藤枝 人馬継立(ふじえだ じんばつぎたて)Fujieda, Station for Changing Horses and Porters作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃間屋場の前の人馬の群像を描いた一図である。右上の屋内にいる役人の前に並ぶ人々は、みな思い思いの行動をしながら順番を待つ。宿場の活気が画面から伝わる。中央付近、二人の人が担ぐ荷物には版元「保永堂」の札がさがり、馬の腹には版元の主人の名である「竹内」の文字が見える。本図にはいわゆるコマーシャルの意図があったのだと考えられる。」 「東海道五拾三次之内 嶋田」ネットからこの作品は、これまでの東海道の風景画とはかなり違います。広重は大井川を高い位置から見下ろす「俯瞰(ふかん)」の構図で描いています。画面上部を大きく横切る青い流れが大井川。その手前の広大な河原には、驚くほど多くの人や馬が描かれています。よく見ると、川の中を実際に渡っている一団も見えます。橋を架けず、舟も使わず、人足の力で旅人や荷物を渡していた当時の大井川ならではの光景です。そして興味深いのが、画面中央付近の人々です。展示解説にあるように、川越人足らはふんどし一丁になって渡河の準備をしています。広重は人物を非常に小さく描きながら、馬に餌を与える者、荷物を運ぶ者、駕籠を担ぐ者、渡河の準備をする者、川を渡る者を細かく描き分けています。そのため、遠景なのに河原のざわめきまで感じられるようです。なぜ大井川に橋がなかったのか「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と歌われたほど、大井川は東海道最大級の難所でした。江戸時代には大井川で架橋や渡船が認められず、基本的に人足による徒歩渡しが行われました。旅人は川越人足の肩や台、あるいは連台などを利用して川を渡りました。そのため増水すると「川留め」となり、何日も渡れないこともありました。「しまだ おおいがわすんがん嶋田 大井川駿岸Shimada, The Sungan Bank of the Oi River作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃大井川は急流の大河で、かつ、当時は徒歩渡ししかゆるされておらず、東海道屈指の難所だったという。駿岸とは、駿河側の岸のことである。本図は、この駿岸から川を渡って西の遠江に行こうとする大名行列を俯瞰している。馬に餌をやる者、籠を担ぐ者、ふんどし一丁になって川渡りの準備をする者など、小さい画面ながら一人ひとりの様子が緻密に描きこまれている。」 「東海道五拾三次之内 金谷」 ネットから前の「島田」は駿河側=駿岸から大井川を見る作品でしたが、こちらは川を渡った先の遠江側=遠岸を描いています。「遠岸」の「遠」は「遠江(とおとうみ)」の意味です。広重は、画面の大部分を広々とした河原と山並みに使い、その中に大名行列を非常に小さく描いています。特に左下を見ると、川越人足たちが水の中に入り、大きな連台(れんだい)を担いで川を渡る姿が描かれています。川の中央から対岸へも人馬の列が続き、大井川越えが大掛かりな仕事だったことがよく分かります。そしてこの作品で印象的なのが、「霞」です。山の麓や河原の一部をあえて描かず、白く抜くように霞を表現しています。そのため、手前の青い川、広い河原、霞、その奥の山々へと視線が自然に導かれ、画面に非常に大きな奥行きが生まれています。前作「島田」と並べて見ると「島田 大井川駿岸」では、河原に集まった大勢の人や馬を細かく描き、川越しの賑わいを見せていました。一方、この「金谷 大井川遠岸」では人物を小さくし、広大な河原と山々を大きく描くことで、大井川と自然の雄大さを強調しています。二枚を続けて見ることで、旅人が島田側から大井川を渡り、金谷側へ到着するという東海道の旅そのものを追体験できる構成になっています。「かなや おおいがわえんがん金谷 大井川遠岸Kanaya, The Engan Bank of the Oi River作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃前図に対して、こちらは遠江側の風景である。本図も同様に大名行列が大井川を渡る様子が描かれているが、遠方の山々も望む構図となっている点に違いがある。山の麓と川岸に霞を引くことで、距離感を際立たせている。」 「東海道五拾三次之内 日坂」ネットからこの作品でまず目を引くのが、画面中央下に描かれた大きな丸い石です。これが「夜泣き石」の伝説を表しています。広重は佐夜ノ中山の険しさを強調するため、道を画面右下から右上へ向かって急角度に立ち上がるように描いています。旅人たちは坂道を登り下りし、その途中で何人かが丸い石の周囲に立ち止まっています。画面左奥には山々が幾重にも重なり、遠くの山は青く淡く描かれています。一方、手前の山肌は黒々と表現され、白い幹の松が配置されています。この明暗と色彩の対比によって、深い山中を通る東海道の険しさが伝わってきます。「佐夜ノ中山」とは佐夜ノ中山(小夜の中山)は、現在の静岡県掛川市にある峠で、東海道の金谷宿と日坂宿の間に位置します。箱根峠、鈴鹿峠などとともに、東海道の難所として知られた場所です。この作品は単なる峠道の風景ではなく、「夜泣き石」という土地の伝説を東海道の風景の中に組み込んだ作品であるところが大きな特徴です。「日坂 佐夜ノ中山(にっさか さよのなかやま)Nissaka, Sayo-no-Nakayama Pass作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃急な坂の真ん中に大きな丸い石が転がっている。旅人たち数人がそれを囲む。静岡県掛川市の小夜の中山には夜泣き石という石がある。賊に殺された妊婦から生まれた赤子がこの石の下で泣いていたのを助けられた伝説からこの名で呼ばれるようになった。」 「東海道五拾三次之内 掛川」ネットからこの絵の面白いところ――「凧」に注目この作品で広重が非常に面白い表現をしているのが、画面上部の凧です。よく見ると、凧そのものは画面の外へ出てしまい、長い凧糸だけが画面上端を突き抜けています。つまり広重は、「空高く揚がっている凧」を小さく描くのではなく、あえて絵の枠外に出してしまったのです。これによって、画面に描かれている範囲よりも、さらに高く広い空が続いていることを想像させます。さらに遠方の山の上にも、小さな凧が一つ見えます。近くの凧と遠くの凧を組み合わせることで、空間の広がりも表現しています。橋の上の人物橋では旅人たちと僧がすれ違っています。中央付近の人物は、風に飛ばされた笠を押さえる、あるいは追いかけているようにも見えます。水面の葦も風になびき、空には凧が舞う――こうした細かな描写を重ねることで、広重は目には見えない「風」そのものを描いているともいえる作品です。手前に立つ黄色い灯籠は、展示説明にある秋葉権現の常夜燈。旅人にとって、秋葉山信仰の土地へ近づいたことを知らせる目印でもありました。「かけがわ あきばさんえんぼう掛川 秋葉山遠望Kakegawa River, Distant View ofAkibayama Montain作者 : 歌川広重(初代)/画年代 : 天保5~7(1834~36)頃三瀬川に架かる大池橋と秋葉山が描かれる。秋葉山は火難除けの神である秋葉権現が鎮座する山として知られる。橋の手前には、この秋葉権現の常夜燈が描かれる。橋上では旅人や僧が行き交う。彼らの頭上では、凧が画面の枠を突き破って空高く揚がっている。遠くにも、凧が飛んでいるのが見える。爽やかな風を感じさせる一図である。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.25
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「貨幣博物館」の入口近くの無料資料置き場に「現在有効な銀行券」そして「現在有効な貨幣」についてのパンフレットがあったので、ここに紹介します。まずは「現在有効な銀行券」。現在、主に流通しているのは2004年発行開始のE券(一万円券、五千円券、千円券)および2000年発行開始のD二千円券である。日本銀行や国立印刷局ではそれぞれの日本銀行券(紙幣)を「一万円券」「千円券」等と称しているが、一般的な通称として「一万円札」「千円札」等と呼ばれる。発行順を表すため、お札をABCDEの記号で区別している。現在発行されているお札は、戦後5番目の発行ということで、「E券」と呼ばれています。守礼門の二千円札には「D」という記号を頭に付けて、D二千円券と呼ばれており、一万円札、五千円札、千円札についてもE券の前のお札は「D」という記号が。ところで「二千円札」はどこに行ってしまったのだろうか?ここ10年?の記憶をさかのぼっても、「二千円札」を目にしていないのであるが私だけなのであろうか。二千円札は沖縄サミット開催を記念して、20年前の2000年7月19日に発行された紙幣。それゆえ、上記写真のごとく表の図柄は肖像画ではなく、沖縄首里城の守礼門となっている。欧米主要国では、アメリカは20ドル紙幣、イギリスは20ポンド紙幣、EUでは20ユーロ紙幣のように「2のつくお金」が発行され、よく流通しているし、現金の支払い・受け取りに要する紙幣を節約できることが、二千円札の発行理由として説明されたはずであったが。以前テレビで、沖縄では二千円札はかなり利用されている。特にタクシー料金を支払う時などに使われていると。最近、沖縄に行っていないので真実は如何に?そして2003年から新規製造はストップしているとも。すでに発行済みの紙幣も、その多くが日本銀行の金庫に保管されている状態なのだとコメンテーターが語っていたが。そして現在は発行されていないが、有効な銀行券。★一万円券:平成19(2007)年4月2日発行停止 寸法:縦76mm、横160mm 肖像:福沢諭吉 発行開始日:黒色記番号:昭和59(1984)年11月1日 褐色記番号:平成5(1993)年12月1日★一万円券:昭和61(1986)年1月4日発行停止 寸法:縦84mm、横174mm 肖像:聖徳太子 発行開始日:昭和33(1958)年12月1日★五千円券:平成19(2007)年4月2日発行停止 寸法:縦76mm、横155mm 肖像:新渡戸稲造 発行開始日:黒色記番号:昭和59(1984)年11月1日 褐色記番号:平成5(1993)年12月1日★五千円券:昭和61(1986)年1月4日発行停止 寸法:縦80mm、横169mm 肖像:聖徳太子 発行開始日:昭和32(1957)年10月1日★千円券:平成19(2007)年4月2日発行停止 寸法:縦76mm、横150mm 肖像:夏目漱石 発行開始日:黒色記番号:昭和59(1984)年11月1日 青色記番号:平成2(1990)年11月1日 褐色記番号:平成5(1993)年12月1日 暗緑色記番号:平成12(2000)年4月3日★千円券:昭和61(1986)年1月4日発行停止 寸法:縦76mm、横164mm 肖像:伊藤博文 発行開始日:黒色記番号:昭和38(1963)年11月1日 青色記番号:昭和51(1976)年7月1日★千円券:昭和40(1965)年1月4日発行停止 寸法:縦76mm、横164mm 肖像:聖徳太子 発行開始日:昭和25(1950)年1月7日★五百円券:平成6(1994)年4月1日発行停止 寸法:縦72mm、横159mm 肖像:岩倉具視 発行開始日:昭和44(1969)年11月1日★五百円券:昭和46(1971)年1月4日発行停止 寸法:縦76mm、横156mm 肖像:岩倉具視 発行開始日:昭和26(1951)年4月2日★百円券:昭和49(1974)年8月1日発行停止 寸法:縦76mm、横148mm 肖像:板垣退助 発行開始日:昭和28(1953)年12月1日これより下の銀行券については、私(1950年生まれ)は全く記憶がないのであるが。★百円券:昭和31(1956)年6月5日発行停止 寸法:縦93mm、横162mm 肖像:聖徳太子 発行開始日:昭和21(1946)年2月25日 中央「百圓」の文字の下にある赤色標識がなく、裏面模様が赤い色のものは 失効券ですからご注意ください。★五十円券:昭和33(1958)年10月1日発行停止 寸法:縦68mm、横144mm 肖像:高橋是清 発行開始日:昭和26(1951)年12月1日★十円券:昭和30(1955)年4月1日発行停止 寸法:縦76mm、横140mm 図柄:国会議事堂 発行開始日:昭和21(1946)年2月25日★五円券:昭和30(1955)年4月1日発行停止 寸法:縦68mm、横132mm 図柄:彩紋 発行開始日:昭和21(1946)年3月5日★一円券:昭和33(1958)年10月1日発行停止(二宮尊徳) 寸法:縦68mm、横124mm 肖像:二宮尊徳 発行開始日:昭和21(1946)年3月19日★一円券:昭和33(1958)年10月1日発行停止(武内宿禰:昭和発行開始分) 寸法:縦70mm、横122mm 肖像:武内宿禰 発行開始日:昭和18(1943)年12月15日★一円券:昭和33(1958)年10月1日発行停止(大黒像) 寸法:縦78mm、横135mm 肖像:大黒像 発行開始日:明治18(1885)年9月8日★一円券:昭和33(1958)年10月1日発行停止(武内宿禰:明治発行開始分) 寸法:縦85mm、横145mm 肖像:武内宿禰 発行開始日:漢字記番号:明治22(1889)年5月1日 英数字記番号:大正5(1916)年8月15日次に「現在有効な貨幣」。500円、100円、50円、10円、5円、1円貨幣の6種類(記念硬貨は除く)。そして現在は発行されていないが、有効な貨幣。★500円白銅貨幣:昭和57(1982)年発行開始 図柄:桐 素材:銅75%、ニッケル25% 直径:26.5mm 量目:7.2g 縁刻:レタリング 発行開始年:昭和57(1982)年★100円銀貨幣:昭和34(1959)年発行開始 図柄:稲穂 素材:銀60%、銅30%、亜鉛10% 直径:22.6mm 量目:4.8g 縁刻:ギザあり★100円銀貨幣:昭和32(1957)年発行開始 図柄:鳳凰 素材:銀60%、銅30%、亜鉛10% 直径:22.6mm 量目:4.8g 縁刻:ギザあり★50円ニッケル貨幣:昭和34(1959)年発行開始 図柄:菊花 素材:ニッケル100% 直径:25.0mm 量目:5.0g 縁刻:ギザなし★50円ニッケル貨幣:昭和30(1955)年発行開始 図柄:菊花 素材:ニッケル100% 直径:25.0mm 量目:5.5g 縁刻:ギザあり★10円青銅貨幣:昭和28(1953)年発行開始※ 図柄:平等院鳳凰堂 素材:銅95%、亜鉛4%~3%、錫1%~2% 直径:23.5mm 量目:4.5g 縁刻:ギザあり 本貨幣は昭和26(1951)年に制定され、製造が開始されました。 表裏の図柄は現行の十円硬貨と同じだが、周囲が溝付きであることが現行の十円硬貨と 異なる点であり、「ギザ十」の愛称で呼ばれる。★5円黄銅貨幣:昭和23(1948)年発行開始 図柄:国会議事堂 素材:銅60%~70%、亜鉛40%~30% 直径:22.0mm 量目:4.0g 縁刻:ギザあり★5円黄銅貨幣:昭和24(1949)年発行開始 図柄:稲穂、歯車、水 素材:銅60%~70%、亜鉛40%~30% 直径:22.0mm 量目:3.75g 縁刻:ギザなし表裏の文字が楷書体で、裏面が「日本國」と旧字体であることが現行の五円硬貨と異なる点。そしてこんなページがネットに。「普段何気なく使っているお金ですが、その裏にはどんな歴史や真実が隠れているのでしょうか。お金に関するトリビアをご紹介します(文中敬称略)。トリビア1 最初に発行された日本銀行券に描かれているもの日本で最初に紙幣(日本銀行券)が発行されたのは1885(明治18)年。図柄には、商売や農業の神様である大黒天が描かれていました。このため「大黒札」という通称で親しまれたそうです。紙幣には歴代様々なものが描かれていますが、日本銀行券に初めて描かれた歴史上の人物は「菅原道真(すがわらのみちざね)」です(1888年発行)。菅原道真は福岡・太宰府天満宮にまつられている学問の神様として有名ですね。トリビア2 今までお札に肖像が描かれた人のうち最多登場はこの人物現行紙幣を含めて、日本銀行券に描かれた人物は16人です。戦前の紙幣では、藤原鎌足、日本武尊(やまとたけるのみこと)、聖徳太子など。戦後は岩倉具視、板垣退助、伊藤博文新渡戸稲造などです。その中でも最も多く登場しているのは、聖徳太子で7回です。現在、日本で製造されている紙幣はすべて肖像が使用されていますが、お札に肖像が使われる理由は2つあります。1つ目は、偽造防止のため。私たちは人の顔を見分けることに慣れているため、肖像がずれていたりぼやけていたりすると違和感を持つため、偽造を見抜くことができるそうです。2つ目は、親近感を持ってもらうため。誰もが知るその国の政治家、文化人、有名人などを描いて、その人の功績を再認識してもらい、日本銀行券への認識を深めてもらいたいという意図があります。トリビア3 過去最大の紙幣、最小の紙幣はこれ現在発行されている一万円札、五千円札、千円札は、縦(短辺)の長さが同じです。横(長辺)が若干違い、一万円札が最も長いようです。過去にはどんな大きさの紙幣が発行されていたのでしょうか。日本で発行された紙幣の中で最も大きな紙幣なのは、1891(明治24)年に発行された「改造百円券」で、A4サイズの半分程度の大きさです。逆に、最も小さな紙幣は1948(昭和21)年に発行された「A5銭券」です。戦後すぐに発行され、梅の花が描かれたこの紙幣の大きさは縦48ミリメートル、横94ミリメートルでした。トリビア4 同じ千円札でも呼び名が異なる日本銀行は、紙幣に記号を付けてデザインごとに分類をしています。例えば、現在の野口英世が描かれた千円札は正式には「E千円券」、その前の夏目漱石が描かれた千円札は「D千円券」と呼ばれます。現在発行されている紙幣では、福沢諭吉の一万円札、樋口一葉の五千円札、野口英世の千円札はそれぞれE一万円券、E五千円券、E千円券です。また守礼門が絵かれた二千円札はD二千円券です。一万円札、五千円札、千円札もE券の前はそれぞれ「D」という記号がつけられていました。この記号は、明治中期~1935(昭和10)年頃までは「甲・乙・丙・丁」、1942(昭和17)年頃~1945(昭和20)年頃までは「い・ろ」、1946(昭和21)年以降は、「A・B・C・D」とアルファベットになっています。キャッシュレス化が進み、最近では紙幣や硬貨を取り出さずに決済できるようになってきました。「お金」の形は時代ごとに変わっていますが、私たちの生活においてなくてはならない存在であることは変わりません。お金については知っているようで知らないことが意外と多そうですね。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.24
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日本平の無料駐車場に車を駐め散策開始。富士山を背景に「日本平」と刻まれた石碑。静岡県静岡市清水区村松4046−1。この「日本観光地百選」1位受賞記念碑は駐車場内に設置されていた。「日本観光地百選首位当選」と刻まれたこの記念碑は、昭和25 年毎日新聞社主催の「日本観光地百選」平原の部で1位に選出されたときの記念碑。「日本平」と刻まれた石碑と並んで撮影すると富士山を背景に入れ込めるため、定番の撮影スポットとなっているようであった。富士山をズームして。「日本平デジタルタワー」方向を見る。左手には「河津桜」がピンクに染まり開花が始まっていた。ズームして。「日本平の碑」。裏面には。「日本平は、昭和26年3月6日に県立自然公園に、昭和34年6月17日に国の名勝に指定されました。すぐれた自然の風景地として、また、眺望地として保護されています。」駐車場から富士山を望む。「日本平 山頂 MAP」。「日本平」の地図部分を。「日本平 川崎家」へ休業中?右側の屋上は「パノラマ展望台」になっていたようであった。坂道を上って行った。「日本平夢テラス」に向かって進む。石仏の姿が。「享保ニ(1717年)丁酉三月廿五日 守屋源右衛門」と刻まれていた「日本平公園 案内図」。「日本平夢テラス」に向かって坂を上って行った。「日本デジタル放送所」の巨大アンテナタワーが聳える。静岡県のテレビ放送を送信する集約電波塔。静岡県のテレビ放送の親局送信所であるとのこと。2005年度グッドデザイン賞・静岡県建設業協会賞優秀賞を受賞していると。ズームして。アナログテレビ放送の送信所であった日本平テレビ・FM放送所に隣接する敷地に建設されたため、これまで日本平からの電波を受信してアナログテレビ放送を視聴していた世帯の多くでは、デジタルテレビ放送の視聴のためにアンテナを増やしたり、方向調整などをする必要がない。地上波アナログテレビ放送で、静岡瀬名、静岡麻機、静岡賤機、静岡籠上、静岡羽鳥、静岡丸子、静岡興津などの中継局の放送波を受信していた世帯も、そのほとんどが日本平デジタルタワーの受信エリアに集約された。これらの地域の世帯で新たに地上デジタル放送を受信するためには、アンテナの増設か、アンテナの向きの調整が必要になる場合がある とウィキペディアより。山頂に向かう途中に駿河湾と富士山を一望できる見晴台が整備され、2つの石碑が設置されていた。いずれもまだ新しく、平成25年の富士山世界文化遺産登録を記念して建てられたもの。この2つの石碑が設置された場所は見晴らしも良く、大人数での記念撮影の人気のスポット と。そして、日本平夢テラス庭園の手前には富士山の山頂をイメージしたイルミネーションケーブルが。日本平夢テラス庭園をズームして。向かって右側の赤茶色の石碑は平成27年2月23日(富士山の日)に寄贈された石碑で、表面には元内閣総理大臣中曽根康弘氏による題字「眺望の地 富士山」が刻まれていた。向かって左側の石碑は平成27年6月に寄贈されたもので、表面には梅原猛氏による題字「草木国土悉皆(しっかい)成仏 国土は富士なり」が刻まれていた。富士山をズームして。さらに。そして日本平夢テラス庭園を後にしてさらに坂を上っていくと左手には母子像が。見つめ合う母と娘。「赤い靴」は履いていなかったが、以前は赤く塗られていたが消えてしまったのであろうか?「赤い靴はいてた女の子 異人さんにつれられて行っちゃった」👈リンク。廻り込んで。娘の顔を。「童謡 赤い靴をはいていた女の子を尋ねて野口雨情の詩になる童謡"赤い靴"をはいていた女の子にはモデルがありました。 明治37年7月15日清水市宮加三(旧不二見村)に生まれた「岩崎きみ」がその子です。「きみ」とその母親「かよ」とは、故あって北海道にわたりますが、この地で母は、 まだ2歳になったばかりのわが子を、アメリカ人宣教師ヒエット夫妻に、その養育を託すさだめとなりました。やがて宣教師夫妻には母国への帰国が命ぜられますが、この時すでに、「きみ」は不治の病におかされており、夫妻はやむなくこの幼な子を孤児院に残して旅立ちました。「きみ」はひとり、癒えることのない病の床にあって相見ることもかなわぬ母を慕いながら、わずか9歳の短い生涯を終えたのでした。いま、この女の子は、東京六本木にある鳥居坂教会の共同墓地に眠っております。私たちは、この幸せ薄い母と子のかなしみに思いを寄せ、母と子をふるさとの地、不二見村を見おろすこの日本平山頂に、再び相いあわせようと考えました。ここに全国数万人に及ぶ人々からの浄財を得て、この像の建立ができましたことに、 人間の善意と尊厳に大きな感動と希望をおぼえるものであります。 母と子よ、永遠に安らかなれ 昭和61年3月31日 「赤い靴」の女の子母子像建設委員会 母子像制作 高橋 剛」八角形の「日本平夢テラス」を見る。そして石段を上り、「山頂 吟望台」から「日本デジタルタワー」を見る。手前に八角形の「日本平夢テラス 展望回廊」が「日本デジタルタワー」の周囲に。「山頂 吟望台」からの絶景。ズームして。さらに。「吟望䑓昭和5年、日本平観光の発展を図る道路整備に着手した清水市では、徳富蘇峰に委嘱して眺望の良い場所を4か所選び、それぞれ「望岳台」「超然台」「鐘秀台」「吟望台」と命名されました。4箇所には記念の石柱が建てられ、そのうちの一つが日本平山頂にある「吟望台」の石柱です。駿河湾、伊豆半島、富士山を一望できる絶景ポイントでもある吟望台は、近年では清水の港あかりを含めた夜景スポットとしても好評を得ています と。「吟望䑓」の後方から「日本平デジタルタワー」を見る。「日本平夢テラス 展望回廊」手前から「日本平デジタルタワー」を見る。吟望䑓の周囲のフェンスにあった展示パネル。「名勝 日本平」「日本平の価値◎自然的要素景観 :・山頂部から一望できる四周眺望・雄大な富士山 ・清水港、三保半島(三保松原)、清見潟、久能山、 伊豆半島から御前崎にかけての駿河湾一帯、南アルプス地形・地質:・北東から北西側・・・活しゅう曲をあらわす、なだらかな丘陵 ・南東から南西側・・・浸食によって形成された急峻な崖地植物 ・ソメイヨシノ・オオシマザクラ・スジダイ・タブノキ・ヤブツバキなど」◎歴史文化的要素[日本武尊伝説] ・その昔、日本武尊が賊を平定した後、この山の頂上に登り、四方を眺めたところから 日本平と呼ばれるようになった。[久能寺への参詣道] ・平安から中世にかけて久能寺への参詣道が通る[徳富蘇峰が富士山展望地点を名付ける] ・4箇所の展望地点に石碑を建立「日本平公園基本計画基本理念 「富士山に代表される四周眺望」の魅力や「富士山」を介した文化性を視座とし 視点場となる緑地環境の再生と「名勝日本平」の文化的資産としての価値を 継承・発展させる基本テーマ 「風景美術館=日本平」 日本平は国の名勝地、県立自然公園に指定され、日本観光地100選「平原の部1位」 に選ばれた標高高307メートルの丘陵地です。山頂部からは2013年6月に 世界文化遺産に登録された「富士山」を北北東に望み、銀下にはその構成資産と なった「三保松原」や日本三大美港の「清水港」の美しい景色が広がります。」「日本平の文化と周辺の史跡「日本平から描かれた富士山世界遺産「富士山」は、その崇高さから数多くの絵画作品に描かれています。その中でも伝雪舟「富士三保清見寺図」(永青文庫蔵)は、富士山絵画のひとつの手本となっており、日本平か富士山を眺めることで、絵画の風景を味わうことができます。」「清見寺蔵 富士三保清見寺図」横長の画面に富士と三保松原、清見寺を中心とする景観を描いた本図は、近年の研究により雪舟の原画ではなく、室町時代に描かれた忠実な模本と考えられているが、現存作例の極めて乏しい雪舟の真景図を考える上で非常に重要な作品と位置付けられている。また本図は、二代藩主・細川忠興に雪舟門人の祖父をもつ松田円斎が献上したものである と。「日本平周辺の史跡他」。「日本平の地形・地質日本平のある有度山には、東西約6キロメートル、南北6キロメートルの範囲に広がる。標高307メートルの独立した丘陵です。北側は緩やかな斜面となっている一方、駿河湾に面する南側は急な崖が連続する地形になっています。山の北側斜面には茶畑やみかん畑が広がる一方、南側の崖のふもとでは石垣いちごの栽培が盛んです。日本平を散策すると、所々に地層を見ることができます。地層の中の石は角が取れた丸い形をしており、安倍川の河原にある石と良く似ています。この石は円礫といい、有度山の成り立ちを示すものです。有度山は、古い方から順に、根古屋層、久能山層、草薙層、子鹿層、国吉田層の5つの地層によって造られています。根古屋層は約44万~27万年前の海底の地層で、深層の所々に円礫の層が挟まれています。この地層からは、貝やサメの歯など、海に住む生き物の化石が見つかります。久能山層は、大昔の阿部川が造った扇状地の礫層で、ナウマンゾウの歯が見つかっています。さらに、草薙層は浅い海(内湾)の泥層、その上に重なる子鹿層と国吉田層は扇状地の礫層です。これらの地層は、およそ10万年前から急速な隆起を始め、丘陵へと姿を変えてきました。隆起にともなって地層が北向きに傾くとともに、駿河湾に面した部分は波によって削られ、崖地形ができました。波で削り取られた地層の砂礫は北東方向に流され、三保半島の一部になったと考えられます。」「富士山の高さと駿河湾の深さ日本一高い富士山の標高は3776メートル、日本一深い駿河湾の水深は2400メートル以上もあります。海底から山頂までの高低差は6000メートル以上で、ヒマラヤ山脈の高さに匹敵します。日本一深い駿河湾では、陸のプレートの下に、伊豆半島を乗せた海のプレートが沈み込んでいます。日本平の降起は、プレートの沈み込みにともなう地般変動に関係していると考えられます。」「4つの石碑と徳富蘇峰日本平が富士山眺望の名所として知名度を高めた要因のひとつが、徳富蘇峰の存在です。大正15年に日本平に登り、山頂からの風景を絶賛、昭和10年に徳富蘇烽が選んだ4箇所の富士山展望地点に、顕彰碑が建てられました。」01望嶽台 日本平から下った東斜面の舌状に突き出した台地が展望台の1つに選ばれました。 登山道と接しており、遠くに富士山、眼下に清水区市街地と清水港を望むことが できます。02吟望台 日本平山頂広場にあり、蘇峰はこの情景に藤田東湖の「秀でては不ニの嶽と為り 巍々として千秋に聳ゆ」を口ずさみ、わが大和民族の国民性は、この霊山に由って 代表すると感嘆を禁じ得なかったと伝えられています。03鐘秀台 久能寄リの有度山山頂で、前面に富士と三保を、背面に久能の峡谷と駿河区市街地を 望み、さらに御前崎灯台も遠望できる場所です。 ※現在は木々に囲まれています。立入禁止範囲です)04超然台 有度山山頂( 307.2m )で、吟望台と鍾秀台の三角形の一頂点です。 「四顧さえぎるものなき雄大な眺望は、正に超然台の名にふさわしい」と当時の新聞に 掲載されました。 ※整備範囲外です」「静岡市のお茶お茶のはじまり我が国のお茶は、平安時代に最澄や空海などの僧侶が唐(中国)へ留学した際にお茶を持ち帰ったのが始まりとされています。その後、鎌倉時代には栄西禅師(1141 ~ 1215 )が「喫茶養生記」を表し、「茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり」とお茶の効能を紹介したため、お茶への関心が高まりました。静岡市のお茶は、鎌倉時代中期に栃沢(葵区)生まれの聖ー国師(1202 ~ 1280)が、仏教の修業を終え、宋(中国)から帰国した際に持ち帰ったお茶の種を、足久保(葵区)に蒔いたのがはじまりだと伝えられています。また、同じころ、栄西禅師からお茶の種を譲り受けた明恵上人(1173 ~ 1232)が全国に広め、その内のー箇所が「駿河の清見」(清水区興津付近)との記録があり、これらが清水のお茶のはじまりとされています。ブランド茶について徳川家康公も愛した歴史と本物の味わい静岡本山茶静岡本山茶は安倍川・藁科川流域で栽培され、静岡市を代表する茶産地です。静岡本山茶は豊かな自然環境に恵まれ、上品な味と香気が強いのが特徴で、高品質のお茶が生産されています。徳川家御用達のお茶として愛飲されました。針のような形状の茶葉 金色の水色清水のお茶清水のお茶は、鎌倉時代の「駿河の清見」(清水区興津付近)に始まり、明治時代には「清水港」が日本一の茶輸出港となリ発展を遂げました。「小島」「両河内」「庵原」「日本平」と4つの茶産地があり、山霧が育む繊細な茶葉に適した浅蒸し茶作りにこだわり、針のような形状の茶葉と金色透明な水色が特徴です。ここから広まった「やぶきた茶」日本各地に広がる茶園の約8割を占める優良品種「やぶきた」は1908 (明治41)年、静岡県安倍群有度村(現在の静岡市)の杉山彦三郎翁が選抜した品種です。やぶを切り開いた茶園の北側に植えた茶樹から優良品種を選抜したことで、「やぶきた」の名前が付けられたと言われています。1955 (昭和30)年、静岡県の奨励品種に指定されたことで、急速に普及しました。現在、やぶきたの原樹は静岡県立美術館の近くに移植され、大切に維持されています。」「静岡市のお茶産地」👈リンク。「日本平 夢テラス日本平夢テラスは、静岡県と静岡市が、日本平山頂において一体的に整備をしました。日本平夢テラスからは、富士山や三保松原、駿河湾、市街地を広く見渡すことができます。展望回廊は標高300.5mにあり、1周約200m、八角形の形状をしており、静岡市内で育てられたオクシズ産の木材を使用しています。デザインは新国立競技場を設計した隈研吾建築都市設計事務所が担当。」「日本平夢テラスからの眺望 三保松原」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.07
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『伊勢湾岸自動車道』高架を潜り『朝明川(あさけがわ)』に架かる『朝明橋(あさけばし)』を渡る。『朝明川』の上流側は『伊勢湾岸自動車道』が川に沿って走っていた。遠くに関西本線の鉄橋も見えた。橋を渡ると四日市であり、渡詰めの左の小さな公園には、東海道の案内図や力石などが。ここで一休みし、旅友から頂いたバナナと水分を補給。東海道四日市の街道筋案内板。「ここは四日市 東海道 北玄関 松寺」。43番めの宿場町・四日市は松寺➡蒔田➡西富田と続いているのであった。昔の『朝明橋』の写真も。『力石』。「力石この力石は、江戸末期から明治初期にかけ東海道筋のこの地で営まれていた茶店「橋南(はしみなみ)のつる」の主・大久保つるが後世に残したものである。石には 「二十七メ」 と刻まれ、その目方が二十七貫目(約100㎏)と想像される。北勢地方で見かける力石は、その多くが神社仏閣の境内にあるが、これは数少ない民家の軒先に保存されていたものである。東海道を往来した旅人や篭かき衆等が休んだおりに余力を誇示するがごとく自慢げにこの石を持ち上げたであろう往時の様子が偲ばれる。またこの辺りの地名を 「茶屋の前」 と称するのは、この茶店に由来するものと言い伝えられている。」公園での休憩を終えて坂道を下って変則十字路に出ると、右手の防火水槽金網に東海道案内が貼ってあり、四日市宿まで9kmとあった。 ここから先は、民家の塀、生垣など所どころに「東海道」 の道標が貼ってあり、IphoneのGoogle Mapを見ることなく歩くことができたのであった。変則十字路を進んで直ぐ右手に『御厨神明社』があった。御厨神明社の創建年代等は不詳であるが、祭神は豊受姫命、大山祇命である。『御厨 神明社』の社標が左手に。『一の鳥居』。『二の鳥居』を潜ると『御厨神明社拝殿』。四日市市のマンホール蓋は四日市市の花となっているサルビアをデザインしたもの。タカハシ酒造の南を通る筋を過ぎると、左手に『松寺の立場跡』があった。当時、桑名宿と四日市宿の間には、五ヶ所の立場があり、北は小向の立場、南は富田の立場があったのだと。「松寺の立場跡東海道松寺の立場跡には昔は大きな榎があり街道を往来する旅人や人足などが、籠や荷物を降ろして杖を立て一休みした所を言う。 公の休憩所のことで茶屋などがあり立場茶屋とよんでいた。 当時、桑名宿と四日市宿の間には、五ヶ所の立場があり、北は小向の立場、南は富田の立場があった。」奥にあったのが『輝子頌徳記念碑』。「輝子頌徳(てるこしょうとく)記念碑解説伊勢国三重郡大矢知村字松寺にて佐藤庄九郎の一女として生まれる。弘化3年(1846)4月4日生まれ。25歳の時に夫が他界。50年1日の如し輝子は教育・裁縫の教育をし、門者千数百人に及ぶと言う(実際には三千人ほどの子弟がいたとも)。大正6年(1917)11月13日病気にて享年72歳で世を去る。翌年3月門人によって碑を建てる。」立場跡から20m程先の右手に浄土真宗本願寺派の『松栄山蓮證寺(れんしょうじ)』があった。『鐘楼』。『本堂』「松栄山蓮證寺当山は浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺である。松寺三丁目に建立されていて、阿弥陀如来が安置されている。口伝によれば、四百年位前に、現在地にお堂があり、本堂も二百年位前に建てられたと伝えられる古い寺である。昔の太平洋戦争中に供出された凡(梵)鐘も、地元の篤志家のご尽力により立派に再建された。また、戦争中には学童疎開で寺を利用していただいた時もある。山号は松栄山といい、<松>栄山蓮證<寺>と町名の松寺とは何か関係が有るのではないかと思われる。尚、鐘楼は平成五年・山門は平成六年に再建された。桑名に続く東海道の道すじにある。」蓮證寺を過ぎて暫く旧東海道を進むと、右手に大きな『御厨神明社』社標と『龍王山 宝性寺』寺標が建っていた。様々な手作りの道標が。「龍王山 宝性寺奈良時代聖武天皇が天平12年(740)朝明行宮の際、摩伊多の里に御野立された地で勅願により建立されたのが当寺の創建とされる。創建時は樹木か鬱蒼とした敷地8450坪の中に七堂伽藍の荘厳なお堂が立並んでいたと伝えられる。御本尊としては江州石山寺を開基した良弁僧正による一刀三礼の彫刻になる十一面観世音曹薩像を安置して祀り、長く隆盛をみた。しかし永禄11年(1568)の織田信長の家臣滝川一益の長鳥一揆攻略の戦火に遭遇して焼失した。その後現在地に小堂を建立したが正徳元年(1711)再度の火災により焼失、事保4年(1719)第六代桑名藩主松平忠雅公の寄進によって再興されたのが現在の本堂であり、御本尊とともに蒔田観音と愛称され、今日まで広く信仰されている。」 奥に進むと正面に宝性寺、右に御厨神明社があった。宝性寺は天平12年(740)聖武天皇の勅願によって創建されたといわれ、もとは天台宗であったが現在は単立で地元の観音堂として信仰を集めている。御厨神明社はここ蒔田村の氏神様である。『奉建立十一面観世音菩薩専祈』と刻まれた石碑。文化11年(1814)の重層の『宝性寺本堂』。『大矢知想像絵地図』。街道に戻ると直ぐ右手に浄土真宗本願寺派の『長明殿長明寺』参道が。この地は文治年間(1185-90)に蒔田相模守宗勝が居城した蒔田城址といわれ、境内は濠と築塀に囲まれて、参道正面入口に文化3年(1806)に築造された『参詣橋』が架かっていた。そしてその先には、桑名城より移築された長明寺『山門』が。山門に掛かる『長明殿』の扁額。『本堂』。「朝明殿 長明寺当寺は浄土真宗本願寺派の寺である。創立年代・開基など不明であるが、寺誌によれば、もと真言宗潮音寺と称し、近郷の喜田村(現三重郡川越町豊田)に字長恩寺があり、この地を当寺の旧地と伝える。文明十七年(一四八五)画像本尊を下付されたというから、この頃に真宗に改宗したのであろう。下って、慶長九年(一六〇四)現在の寺号を公称し、寛永元年(一六ニ四)に木仏の許可を得て寺院化したようである。のち慶安四年(一六五)領主松平隠岐守より現在の寺地を賜わり、翌年に寺基を移し今日に至っている。境内は落と築堺がめぐり、参道正面入口に文化三年(一八〇六)に築造された参詣橋が架かり、その奥に昭和初年に建立された山門が建つ。山門をくぐると、正面中央に、昭和三一年(一九五六)再建された入母屋造の大規模な本堂がある。山門左脇に建つ桜はす誌では延宝年間(一六七三~八〇)に建立したと伝える。」「蒔田館(城)寿永年間(一一八二~一一八五)に、伊勢平氏の一族の平家資が、富田館と同時期にこの地に築城。四方を素掘りの堀で囲み、外堀は南の鏡が池まであった。平氏が壇の浦(一一八五年・山口県)で滅亡すると、源頼朝は各地の平氏掃討を行い、鎌倉幕府方の大内氏に攻められ富田館・蒔田館ともに落城する。その後、この地は後白河院の領地となり、都より守護職として、藤原宗勝が蒔田に居館し、蒔田相模守宗勝と名乗る。宗勝は深く仏教に帰依し、この地にお堂を建立し、長明寺の基となる。現在、宗勝のお墓は、西富田の三光寺本堂南側にある。戦国時代になると、蒔田城として萱生城の春日部氏の一族である春日部家春が城主となるが、永禄年間、織田信長の北勢侵攻で本家萱生城とともに降伏、帰順した。」桑名城より移築された山門脇には延宝年間(1673-80)に建立した『鐘楼』。帰路に『参詣橋』から濠と築塀を見る。『長屋門』長明寺を過ぎると蒔田信号交差点の手前左手に長屋門の大きな屋敷があった。『鏡ヶ池跡』蒔田信号交差点を渡ると左側の二軒目の民家前に鏡ヶ池跡が。聖武天皇が行幸の際に松原を通られると一陣の風が吹き、天皇の笠が池の中に落ち、 ちょうど傍で洗濯をしていた娘がその笠を拾って差し上げた。これが縁で天皇はこの田村家に宿をとられたという。『聖武天皇 御遺跡 鏡ヶ池』と刻まれていたのであろうか。「鏡ヶ池(笠取り池続日本紀』によると、聖武天皇は、奈良時代の天平十二年(七四○)に伊勢国を行幸になり十一月に一志郡河口をたち、鈴鹿郡赤坂の頓宮を経て、 二十三日に朝明郡の頓宮に着かれたとる。 その場所の所在は不明であるが、当地近辺であり、松原町のもと松原姓を名乗っていた旧家田村氏宅に伝わる話では、 聖武天皇が行幸の際に松原を通られると一陣の風が吹き、天皇の笠が池の中に落ちた。 ちょうどその時、傍に洗濯をしていた娘がその笠を拾って差し上げたため、これが縁となって天皇はこの田村家に宿をとられたという。 明くる朝、旅立ちの日は風もなし、空は真っ青に澄んで、馬上の天皇の姿と、見送る娘の姿とが、鏡のような池の上にともに映えて、一幅の絵を見るような光景になった。 以来、この池を「鏡ヶ池」とも呼ぶようになったといわれる。」鏡ヶ池跡の直ぐ先にJR関西本線の『西富田踏切』が。ここは三岐鉄道の高架の下をJR関西本線が交差し、そこを東海道が通る珍しい踏切なのであった。西富田踏切を渡ると100m程先、右手に浄土真宗本願寺派の『木下山三光寺』が。『山門』。RC製の『本堂』。三光寺は、この地を治めた蒔田相模守宗勝が没した後、子々孫々その菩提を弔い、11代正了の時、蓮如上人の教理にふれ、一宇の坊舎を建立したのが始まりと言われる。享保3年(1718)に建立された堂宇は安政大地震により崩壊し、その後再建された堂宇は昭和37年の火災で焼失し、現在の堂宇は昭和47年に建立されたものである。「木下山 三光寺当寺院は浄土真宗本願寺派の寺であり、山号を木下山と称し、平安時代末期、時の後鳥羽院守護職としてこの地を治めた蒔田相模守宗勝の墓碑のある寺として知られている。承久3年(1221)法名を祐善と号した宗勝が示寂し、時の富田郷木下にあった江戸報徳寺(真言宗)の分地に埋葬された。子々孫々その菩提を弔い、11代正了の折り、真宗八代門主蓮如上人の教理にふれ、一宇の坊舎を建立したのが、この寺院の開基と伝えれている。江戸徳川氏の御代(慶長11年)、長福寺の寺名をもって本願寺の末寺に列し現在地に寺院を建立するも、寺名が時の幕府に忌避され、享保2年(1717)三光寺と改名され、翌年に寺院御堂が建立された。130年後、安政大地震により破壊され、明治20年(1887)に再建されるも昭和37年(1962)の火災により焼失、現在の堂宇は昭和47年に建立されたものである。」『蓮如上人像』。『春日部家之墓』と刻まれた石柱。地元の名士なのであろうか。『蒔田相模守宗勝墓』。『蒔田城』は、文治年間(1185-90)に、『蒔田相模守宗勝』が築城したと伝えられているのだ。『三岐鉄道三岐線と近鉄名古屋線』街道に戻ってT字路を左折して行くと、前方に三岐鉄道三岐線と近鉄名古屋線の高架が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.15
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我が家の近くの農園の隅に立つ「ネムノキ(合歓木)」が可愛らしい、ふわふわした夢のような花をたわわにつけています。樹高は5~10mで樹皮は滑らかで灰褐色をしており、枝は上部で横に伸びている。ネムノキ(合歓の木)の名前の由来は、鳥の羽に似た葉が夜には、自然に閉じて木が眠ったように見えることから、ネムノキ(合歓の木)という名がついた。 漢字名の「合歓木」の「合歓」は、左右の葉っぱが合わさって閉じることから男女の伴寝の意味とも。中国においてネムノキが夫婦円満の象徴とされていることから付けられたものである と。英名はシルク・ツリー(Silk tree:絹の樹木)と呼ばれており、これは多数の雄しべを絹に見立てたものである。万葉集 紀女郎(きのいらつめ)の歌。「昼は咲き 夜は恋ひ寝(ぬ)る 合歓木(ねぶ)の花 君のみ見めや 戯奴(わけ)さへに見よ」 【昼は咲いて夜は恋いつつ眠る合歓木の花を、あるじだけが見てよいものだろうか。お前も見なさいな】と。奥の細道 松尾芭蕉「象潟(きさかた)や 雨に西施(せいし)が ねぶの花」(”西施”とは、中国の春秋時代の傾国の美女のこと。花をこの美女にたとえた)芭蕉が象潟を訪れたのは、1689年6月15日。その日は、雨で鳥海山の山が隠れるほどであった。翌日は雨上がりの晴れ。「松島は笑うがごとく、象潟はうらむがごとし。寂しさは悲しみにくはえて、地勢魂をなやますに似たり」と。【象潟に雨が煙っている。岸辺にひらくねぶの花が雨に濡れて、うちしおれる様は、 中国の絶世の美女・西施が憂いにまぶたを閉じてうつむいている姿のようで、象潟の風情を 象徴しているように見える】と。小林一茶「合歓咲く 七つ下りの 茶菓子売り」【ネムノキの花が咲く季節、午後四時頃、空腹を覚えるような時間に茶果子売りがやってきて、声を出す様子。夏のこの季節の、少しノスタルジーを感じるような、夕方の風景がすごく共感を持って感じられる風景を、一茶らしい感性で切り取っています。】葉は特徴的なので見分けやすい。20~30cmの2回偶数羽状複葉で、節ごとに1枚ずつ方向を異にして生えている互生である。2回羽状というのは、全体として羽状で、部分である羽片自体も羽状になっているという意味である。羽片を構成する葉を小葉と呼んでいる。羽片は7~12枚で対生。羽片には小葉が15~30枚で対生する。小葉は包丁型である。表面は光沢のある濃緑色で、裏面は粉白色である。夜には小葉が閉じて、夜明けとともに葉は開いて花は萎んでしまう。葉が似ているオジギソウの葉は、触るとシューッと閉じるが、ネムノキの葉は触っただけでは閉じない。夜になるとゆっくりと自分で閉じるのだ。2回偶数羽状複葉の偶数羽状複葉(ぐうすううじょうふくよう)とは「鳥の羽のように葉がつき、小葉(しょうよう)の数が偶数(ぐうすう)のもの」こと。2回とは羽状複葉(うじょうふくよう)の形を、2回くりかえしたタイプ(フラクタル)。すなわち、2回羽状というのは、全体として羽状で、部分である羽片自体も羽状になっているという意味である。地方によっては「七夕」の日に、「ネム流し」といって、「合歓木」の枝と大豆の葉を川の流れに流して、邪気をはらう行事があるとのこと。花をズームして。花は化粧用の刷毛(はけ)に似ているのだと。淡い紅色の花が枝先に十数個集まって咲く。 長く伸びた糸状のものは雄しべである。ネムノキの花の構造。ネムノキの花は、花序の周りに側生花があり、中央に頂生花があります。頂生花の雄蕊の花糸は、根元から上の方まで大部分が合着しています。筒状の花弁の基部が他の花より太くなっているのがわかります。この基部に甘い蜜がたまっているそうです。ネムノキはマメ科ネムノキ亜科の落葉高木。豆果は長さ10~13cmの広線形で、種子は10~15個入っている。種子は、長さ1~1.5cmの楕円形で褐色。『ねむの木の子守歌』👈リンク は1965年11月の秋篠宮文仁殿下ご誕生に合わせて作曲され献上された子守歌。歌詞は、上皇后美智子さまが高校時代にお書きになった詩が用いられた。作曲は、山本直純氏の妻・山本正美さん。♫ねんねの ねむの木 眠りの木そっとゆすった その枝に遠い昔の 夜(よ)の調べねんねの ねむの木 子守歌薄紅(うすくれない)の 花の咲くねむの木蔭(こかげ)で ふと聞いた小さなささやき ねむの声ねんね ねんねと 歌ってた故里(ふるさと)の夜(よ)の ねむの木は今日も歌って いるでしょかあの日の夜(よる)の ささやきをねむの木 ねんねの木 子守歌♫ ・・・END・・・
2023.06.19
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徳島城に到着したが駐車場探しに一苦労。無料駐車場が見つからず、やむなく有料駐車場に入り徳島城址に向かう。 JRの高架橋を渡りる。徳島駅手前の車両待機所。右側線路脇には石垣が。 前方に枡形虎口が。城に入ってきた事を実感。ここを通過し鷲の門に向かう。 徳島城 鷲の門(わしのもん)。昭和20年の米軍無差別爆撃で焼失した「鷲の門」の再建されたものが建つ。 立派な脇戸付きの薬医門で、パンフによると将軍より賜った鷲を飼うための門だったと。徳島城の大手門。門があるあたりは三木曲輪。 鷲の門 説明板。この再建された門は、1989年の徳島市政100周年記念として、市内在住の個人から復元寄贈されたと。徳島城は阿波蜂須賀氏の居城。 近世城郭だけに阿波随一の規模を誇っている。四国には日本100名城に選定された城が9つもある。うち現存天守は4つ(丸亀・松山・宇和島・高知)。全国12棟ある現存天守の実に3分の1が四国にあるのだ。 2002年10月、本丸西端にあった弓櫓を縮小し模った時計塔「櫓型時計」。 奥に見える石橋を渡って城内へ入る。 この石橋は当時は木造の太鼓橋で、この橋の手前で馬を降りないといけなかったことから「下乗橋」と呼ばれる。この下乗橋を馬に乗ったまま渡ることが出来たのは、藩主と産婆さん(一刻を争うため) のみだったと。大手門の枡形虎口とこの城最大の櫓「太鼓櫓」の石垣が出迎えてくれた。内堀の外側から徳島城の石垣を見る。青いゴツゴツした重厚な印象の石垣だ。この角には月見櫓跡。 旧徳島城表御殿庭園への入場料は50円ですが、65才以上は無料とのことで、免許証を準備しているとどうぞお入りくださいと年齢確認もなく・・・・。チョット複雑な気分であったのです。 御殿跡に「徳島城博物館」があり、徳島城の復元模型等が展示されているがここはパス。旧徳島城表御殿庭園入り口から内部へ。 枯山水の庭と池泉回遊式の庭園で、江戸時代初期に武将で茶人の上田宗箇によって造られた豪壮な石組みによる桃山様式の庭。 日本の名勝に指定されているのです。 初代阿波藩主・蜂須賀至鎮(よししげ)踏割の伝説がある長さ10.6米の「自然石橋」(緑泥片岩)。 途中(向こうから1/3ぐらいの場所)が割れているのは、初代藩主が地団駄を踏んで割ったためという伝説があるらしい。 自然石橋の中央から徳島城博物館方向。 豪華な御影石(花崗岩)の「石切橋」で、桃山時代の代表的な作品。その形から別名琴橋とも。 庭園の奥には陰陽石。手前の陰石の穴は自然に水が滴り穿って出来たと。 昭和16年に国の名勝に指定された庭園で、桃山時代に蜂須賀公の表書院の庭として造られたもの。 阿波の青石といわれる緑色片岩が多く使われ、地下水路を造り内堀の海水を通していると。更に歩を進める。 池の中には飛び石が置いてあり、そこを通ることも出来たが我慢。 この写真のマンションの住人は毎日庭園を我が庭の如く羨ましい生活。 博物館の建物の外脇には石灯籠など徳島城ゆかりのものが幾つか展示されていた。こちらは徳島城のものと思われる鯱瓦。
2015.09.07
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『港・ヨコハマ』を巡る も、折り返し点の(その9)までアップしましたが、その間に市内で行われた秋の祭りも何箇所か訪ねていますので、情報がかなり古くなっていますが更に古くならないように、『港・ヨコハマ』を巡る を中断しこちらを優先してアップします。-------------------------------------------------------------------------------------------この日は8月27日(火)、今年も妻と片瀬で行われている諏訪神社の例大祭を訪ねました。妻は子供の頃、この神社の近くに住んでいたため、この祭りは子供の頃の懐かしい祭りなのです。江ノ電で江ノ島駅に向かう。江ノ電藤沢駅のホーム入口には花時計が。時間は18:02過ぎ。ガーベラとパンジーでしょうか?そして江ノ島の夕景が。富士山の勇姿も。藤沢駅江ノ電ホームで電車を待つ。かなり旧式・1201型の電車が到着。そして約10分ほどで江ノ電・江ノ島駅に到着。江ノ島駅の壁には片瀬・諏訪神社 例大祭のポスターが。開催は2019年8月23日(金)~8月27日(火)でこの日が最終日。この日は地元片瀬の神幸祭でもあったのです。朝4時に下諏訪神社を出発し東浜海岸で浜降祭(はまうり)を行い、神社帰還後例大祭。そして一日かけて巡行祭が行われているのです。夕方18時に龍口寺前を出発して下諏訪神社まで練り出す還御祭なのです。江ノ電・江ノ島駅の前に住む妻の親戚のオバサンを訪ねて、久しぶりのしばしの談笑。既に国道467号線には既に山車が。そして既に諏訪神社に向かっていた山車を追いかける。5番目の「下之谷」の山車。「や組 若連」の提灯が。その前では既にこの祭りの名物の山車の回転が始まっていた。「西浜区」の山車。「新屋敷」の山車。「新屋敷」の山車を前から。そして漸く諏訪神社の神輿に追いつく。諏訪神社と書かれた提灯が神輿の四方に。そして先頭に。祭り姿の老若男女が掛け声をかけながら進む。片瀬地区五町揃っての山車が進む。先頭の屋台には「新屋敷」と書かれた提灯が。この五町は、現在の住居表示ではなく、昔の集落名や旧字名のようです。三つ巴模様の大太鼓。「新屋敷 あらやしき」と書かれた提灯が山車の周囲に。屋根には雨に備えてビニールシートが。2番目は「西方町」。3番目は「西浜区」。4番目は「東り町」。『東り』の町名の由来は??。5番目は「下之谷」。「や組」の文字も。更に追いかけると漸く先頭近くに。諏訪神社の提灯が5個。神主の姿が。榊?であろうか。巫女さんの姿も、しかしピンぼけ。そして先頭まで追いつく。 ・・・つづく・・・
2019.09.18
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「◆身分を超えた信任---小田原城下の時代」文化8年(1811) 25歳頼りにされた金次郎金次郎は向学心やまず、小田原城下での武家奉公に出ると、ほどなく小田原藩家老服部家に、最上位の奉公人「若党」として仕えた。そこでは若殿につき添い、藩の儒者の私塾に通って講義を陪聴(ばいちょう)しながら、子息の教導にもあたっていた。その内、服部家の使用人たちが借金生活で苦境にあることを知り、互助的金融による「五常講」を組織して救済指導を始めたが、さらに破綻に瀕していた服部家の財政再建まで依頼されるという、思いがけない展開となる。その頃の小田原藩は、度重なる災難もあって財政難に陥り、家臣の俸禄米は三分の一に減少、藩士の生活は厳しさを増していた。金次郎の救済策は服部家にとどまらず、日常生活に困窮する下級藩士にも及んだ。その一方で、藩主の改革への良策の求めに応じて升の統一を提言し、それが実現した。その理財の才能と計画性のある実行力が認められ、金次郎は藩主から荒廃した領地・農村の復興という大役を任(まか)された。」「五常講」「五常講金次郎は小田原藩家老・服部家の使用人らへの融通や、藩士への無利息貸付の制度を「五常講」と称した。こに展示した母の実家・曽我別所村(小田原市)川久保太兵衛家の家政再建指導書(上・金次郎自筆)、栢山村の人々への田畑貸出・用水普請の指導書(下・写本)の表紙にも「五常講」と記されている。金次郎は「五常」すなわち、人として守るべき「仁義礼智信」を重んじたのである。」「◆服部家の財政再建と藩士の救済文政元年(1818)」32歳服部家の財政再建調べると、本来1300俵ほどの給米(きゅうまい)が、藩財政悪化のため実際は400俵近くにまで減給されていた。ほかにに収入はない。否応なくその範囲での生計が必要であった。そこで屋敷内の)竹、野菜、果実などの産物のほか、余剰品は売り払い、生活を徹底的に切り詰めて借財を返却し、3年程度で立て直す計画を立てた。一介の農民が、家老の生活にここまで立ち入ることは異例だったが、幕末の武士社会の生活はそこまで逼迫(ひつばく)していた。五常講で困窮藩士を救済服部家はその後、諸事情から借財を増やす事態となったため、金次郎は改めて、藩に低利貸付救済資金の融資を求める大胆な提案をした。その一部を服部家の借財返済に充てると共に、一方では内職資金にも困る下級藩士への救済無利息金融資にまわし、五常講方式で運用した。五常講とは、儒教の説く倫理的な五つの徳目、「仁義礼智信」による貸借の保証行為を義務付けた組織で、それは後に、日本型信用組合の原型とも評されている。」「酒匂河原表彰の図 文久元年(1861)」「酒匂河原表彰の図文久元年(1861)小田原藩主大久保忠真は、文政元年(1818)に老中となり、江戸にむかう際、酒匂川右岸の河原に関係者を集め、領内に6カ条の告諭を発するとともに、出精奇特人ら13人を表彰した。この絵はその状況を描いたもので、かごの中にいるのが忠真である。忠真にむかって右側(川側)の前の方に土下座している者が13人おりこの中の一人が「栢山村金次郎」のはずである。また、付近の農村の様子もよく描かれている。この場所に今は国道1号線より北側にあたる。 観雲筆」「大久保忠真表彰状 文政元年(1818) 11月」「大久保忠真表彰状文政元年(1818) 11月金次郎32歳のとき、藩主大久保忠真からもらった表彰状。彼は農業に精を出し、心掛けもよく、村の為にもなり奇特であるとして褒められた。殿様から直々に表彰されるだけでも大感激だが、特に「村為にもなり」という1句は彼の心をとらえて、人生観を深めるきっかけとなった。また、後々の彼の仕事のなかで表彰制度を大いに取り入れ、村興しに活用したことも見のがしてはなるまい。」「◆小田原の斗升(とます)の改正文政元年(1818) 32歳金次郎宿願の斗升の改正表彰から2年後、藩主忠真から「末永く御領内百姓どものためになるような事」の提案を求める仰せがあった。これは金次郎にとって斗升の改正・統一を果たすためのまたとない機会となった。その頃藩内では年貢納入に18類ほどの枡が使用され、米一俵の基準が定まらず、不利益となる農民たちには憤適(ふんまん)やるかたない間題であった。改正案は家老服部氏のロ添えもあって取りげられ、早速新たな枡の創作に臨んだ。「米」の字にちなんで深さ8寸8分( 26センチ余)、3杯で米4斗1升入り、1俵となる独創的な枡を設計し、城下で腕利きの建具職人に作らせた。これが藩主の英断で採用された。その結果農民たちは、藩にお礼として冥加(みようが)米を納めたいと喜んだという。」冥加米は「領主が支配する山野河海から何らかの利益を得た者からも冥加を徴収する」に類する冥加米とのこと。「服部十郎兵衛書状 文政3年(1820) 10月23日付」「服部十郎兵衛書状 天保7年(1836) 1月28日付」「服部十郎兵衛書状 文政3年( 1820 ) 10月23日付金次郎は3杯で米4斗1升入り1俵となるような年貢納入枅を自ら職人に指図して作らせた。この書状は、江戸の小田原藩邸にいた家老・服部十郎兵衛が、その枡の供用開始が正式に決定したことを金次郎に急報したものである。領内の農民を苦しめてきた年貢納入枅の不統一が改正されたのであった.」「服部十郎兵衛書状 天保7年(1836) 1月28日付金次郎が服部家を去った後も、同家は借金を重ね、金次郎に救済を求めていた。この書状は、十郎兵衛の不心得を叱責し、貸付金100両の返還を迫った金次郎に対し、十郎兵衛がその猶予を懇願したものである。」「◆藩主の期待、覚悟の旅立ち文政6年(1823) 37歳藩主の期待幕府老中になった藩主忠真にとって、藩財政の立て直しは最大の課題であった。加えて分家の旗本宇津家の荒廃著しい下野国(栃木県)桜町領の救済は急を要した。長年、小田原藩役人を派遣し多額の助成金を投入してきたが状況は悪化の一途。忠真はこの問題に対処可能な人材として、金次郎に期待した。金次郎は驚き固辞したが、重ねての依頼に抗しきれず、現地に度々足を運び数理に基づく詳細な調査を行った。公称4千石の桜町領の現実は、その四分の一にまで低落していた。」覚悟の旅立ち、「一家を廃して万家を興す」金次郎は、桜町領のこれまでの生産高や財政収支を統計的に分析、10年で生産高を倍増させるという綿密な仕法計画を立て、小田原藩に提出した。それは領主宇津家の年貢高を一定におさえ、年々の増収分を村の復興と生産高向上の資金に充てるという、当時の封建社会では考えられない画期的な内容であった。金次郎はさらに身をもって覚悟を示す。苦労して再興した自身の田畑家屋全てを売却し、復興資金に拠出した。「一家を廃して万家を興す(尊徳語録)」という志(こころざし)の旅立ちであった。」34歳「入作反別控 文政4年(1821)」「寺送状」「入作反別控 文政4年(1821)Oからスタートした金次郎は体得した「小を積んで大となす」という理にもとづき、徐々に、自分の土地をふやしていった。この資料は、文正4年(1821) 35歳のときに、所持反別を調べて一応書き上げた草稿で、総反別は2町6反8畝歩、うち、自分で耕作する土地が8反1畝2 0歩、残る、1町8反6畝1 0歩が小作地になっている。小作地が多いのは、前年の末までは服部家の仕法など、この年には桜町領の調査などで忙しかったためであろう。」「寺送状金次郎の桜町(栃木県真岡市)赴任に当たり栢山村の菩提寺・善栄寺が作成した送籍証文。桜町へ引き移る金次郎一家を「貴寺」の仮檀那にしてほしいと記されている。ただし、具体的なあて名がなく、この証文は執行されかった」ものと考えられる。」「ニ宮尊徳先生回村の像」「ニ宮尊徳先生回村の像(等身大、五十六才前後)立像制作にあたって日府展彫塑部理事・旺玄会委員 横山七郎絵画や彫刻は説明しないで、見て感していただくのが本来だと思うが、今回の像は普通の作品と少し違うので、二三お話ししたい。ます二宮先生は身長一八二センチ、体重九四キロの、偉大な体格の持ち主であったから、同大の一八二センチで芯(しん)づくりをしてみると、あまりにも大きく、し」れに九四キロの肉づけをしたらどうなるかと、心配になった。そこで一たんは一七〇センチの芯に替えたが、また眺めているうち、やはり等身大の一八二センチ・九四キロでやるべきだ、それが相撲取りのようになったら私の至らぬところだ、と覚悟して芯を一八二センチにした。次にモデルだが、まず同じ身長・体重の高校生を探し出し、二十枚の立体写真を撮った。次に三十代の、柔道をやっている人と、五十代の、農業で鍛えた人を探して、それぞれ同じ枚数の写真を撮り、肉づきをはじめ、いかに肉体が変化をきたすかを調べた。それから裸像をつくったが、まず両手の位置に引っかかったいろいろやってみたが満足できず、最後に、右手を帯にあて、左手を下げてしっかりと握った形に落ちついた。次に脚の開き方は、自由に動かせるような装置をして、いろいろ動かしてみて決めた。握った左手は意志・実行力を、帯の右手は静かに考る態度を表わしたつもりである。顔は、岡本秋暉のスケッチと画像を基にして、眼は先を見とおす眼光を、額は英知と洞察を口は意志の強固を表現しようとした。それから着衣にかかった。記念館にある「回村の画像」の複写を持って、川越市在住の時代考証家稲垣史生氏のところに出向き、自信をつけた。それからはスピードが出て、着物や羽織を着せ、脚絆をつけた。わらじのはきかたが分からぬので、湯本の大名行列の関係者に教わり、モデルにも穿(は)かせてみて、確かなものにした。こうして半年、年内に粘土像ができあがり、石膏どり、ブロンズと進んで、二月一杯に像が完成、三月一日に据えつけた。一五センチの台石は、銅像としては最も低い部類と思う。大地に根をはった尊徳先生の強さ、執念を表す・・・・・・・:」「尊徳坐像 作者 岡本秋暉」「この肖像は、小原藩士で花烏画家として知られている岡本秋暉(祐之丞)が小田原市曽比村の有力者であった釼持広吉の依頼を受け、天保十三年(1842)江戸の小田原藩邸内で藩士・矢野筈右衛門と対談中の尊徳をひそかに写生して、仕上げたものである。当時、尊徳は五十六歳。着衣の裃(かみしも)には家紋「石(こく)持ち地抜き木爪(もっこう)」がつき、拝領品の小袖には藩主・大久保家の紋「上り藤に大の字」がついている。」「尊徳肖像画 下絵」「尊徳肖像画 下絵岡本秋暉が尊徳の肖像を完成させる過程で描いた下絵。花烏画家として著名な秋暉であるが、その作画姿勢は粉本(手本の模写)主義ではなく、写生を基本とするものであった (小田原市尊徳記念館蔵)」<顔かたち>尊徳は色が「赤く黒き方」であったという。仕事がら村々を回ることが多く、赤黒くなっていたのは日焼けのためもあったかと考えられる。目は小さい方であったと記されており、優しい目をしていたと思われる。とくに困窮した農民を見る目は優しかったであろう。だが、その目をとおして見る現実や人の心、将来への展望はじつに大なるものであった。耳および耳たぶは大きく、多くの人々の話を聞くにはふさわしい耳ではなかったろうか。怒った時の尊徳は大声で怒鳴ったといわれており、そのロは「大なる」ロであった。鼻は丸形で高い方であったとされている。<身長・体重>尊徳最晩年の弟子岡田良一郎は「先生(尊徳)、身の丈6尺有余(約182cm)、体重24 ~ 5貫(約94kg)を下らざるべし」と記している。晩年に使用した衣類の丈が鯨尺で3尺7寸=約140cmと記録されていることからも、これがうなずける。当時としては大男であるが、背が高いというより、横幅の広い、がっちりした体格だったようである。遺品の足袋は26 . 6cm (約11文半)で、これも大男だった証拠である。「足袋(たび)」「足袋金次郎が使用したと伝えられる足袋で、十一文半(約26. 6cm )と大きい。明治27年(1894)創建の小田原の報徳ニ宮神社にニ宮家から奉納された遺品のひとつである。」「二宮家略系図」。ズームして。「尊徳木像尊徳の門人で、小田原領曽比村(小田原市)の釼持広吉が、常州青木村(茨城県桜川市)の領主・川副勝三郎の用人・荒川泰輔(寛斎)に依頼して作った尊徳木像は、尊徳の死後2年目の安政5年(1858)に子息・弥太郎(尊行)に贈られた。弥太郎は「父に再会した心地がする」と像の出来ばえに感嘆した。木像は3体作られ、ニ宮家ほか、相馬中村藩主の相馬家(後に今市の報徳ニ宮神社へ奉納)・剱持家がそれぞれ所有したが、釼持家の像は後に紛失している。こに展示した像は荒川作の像を昭和14年(1939)に斎藤誠一が模刻し、その翌年、露木清司が小田原の報徳ニ宮神社へ奉納したものである。露木は元神奈川県農業技師だが、酒田村(開成町)の生まれで、釼持広吉の「血族」であったという。おそらく、露木は当時釼持家にあった像を斎藤に見せ、模刻させたのであろう。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.11.05
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「国会図書館」後にして国会議事堂の裏の「国道246号」を歩く。右側には「参議院議員会館」があった。「参議院議員会館」は、国会議員(参議院議員)が執務を行うための東京の事務所であり、政策立案や国民との対話の拠点。国会会期中以外でも、地元からの陳情・要望を受け付けたり、官僚からの説明を聞いたり、議員同士が打ち合わせをしたりする場所で、国会議事堂の裏手に位置し、議員の仕事場と市民が接点を持つ重要な施設。 そして左側に「衆議院参観受付・入口」があった。 「衆議院参観受付入口」はここ。見学の際に配布された公式小冊子(広報誌)の表紙。「国会 衆議院へようこそ」 衆議院見学用小冊子の「目次・ごあいさつ」ページ。目次国会議事堂について …… 2国会―憲法に見るしくみ― …… 10 三権分立 …… 10 国会の地位 …… 10 議院内閣制 …… 10 国会の構成 …… 11 国会の権限 …… 12 国会議員の地位 …… 12 国会の召集と会期 …… 13 開会式 …… 13本会議 本会議の基本原則 …… 14 本会議の主な議事 …… 14委員会 委員会の構成 …… 17 議案の審査 …… 20 国政調査 …… 20 閉会中審査 …… 20法律案審議の流れ …… 21衆議院議長・副議長一覧 …… 22内閣総理大臣一覧 …… 24国会周辺図 …… 26お知らせ …… 28ごあいさつ(本文)衆議院へようこそお越しくださいました。国会は、国民の皆さまから選ばれた国会議員により組織されており、日本国憲法は、国会を「国権の最高機関」であって、国の唯一の立法機関である」と定めています。衆議院は、参議院とともに国会を構成し、法律の制定、内閣総理大臣の指名、政府(内閣)提出の予算の議決など大切な役割を担っています。また、国政全般に対する調査や国民生活に密接に関係する身近な課題まで幅広く議論するとともに、国政調査権に基づき、行政が適切に執行されているかどうか調査したり、国民からの請願や陳情の審査を行うなど、常に国民の代表機関としての役割を担っています。こうした活動の行われる場所が国会議事堂です。現在の建物は、昭和11年(1936年)に竣工しました。長い歳月を経た現在も大変貴重な建築物であり、そこで行われてきた様々な活動は、我が国の議会政治の歴史そのものでもあります。私たち国会議員は、こうした伝統と様式を大切にしながら、社会経済情勢の激しい変化を受け止め、内外の諸課題解決に向け迅速かつ柔軟に対応し、日々に課せられた責務を果たしています。このパンフレットを通じて、国会の役割や活動に対する国民の皆さまのご理解を深めていただき、国会をより一層親しみやすく感じていただければ幸いです。議長額賀福志郎副議長玄葉光一郎国会議事堂の全体構成が一目で分かる俯瞰図(模型写真)+基礎データをまとめた、非常に重要な解説ページ。① 俯瞰図中央塔を軸に向かって左:衆議院向かって右:参議院完全な左右対称構成中央正面が 中央玄関前庭は半円形の車寄せ構成→ 皇居・官庁建築と共通する「儀礼空間」下段:国会議事堂について敷地面積:103,007㎡建築面積:13,356㎡(延べ53,464㎡)長さ:正面 206.36m/奥行 88.63m高さ:20.91m(中央塔:65.45m)議場面積:衆議院 743.81㎡/参議院 743.81㎡構造:鉄骨鉄筋コンクリート造、地上3階地下1階建(一部4階、塔屋付)建築費:2,570万円(当時の金額)建期期間:17年間{大正9年(1920年) 1月~昭和11年(1936年) 11月)使用開始議会:第70回帝国議会(昭和11年12月)工事延人数:254万人衆議院:正面から見て左倒参議院:正面から見て右側「中央玄関・中央広間」紹介ページ。中央玄関中央玄関は、普段、開放されていません。国会の開会式に天皇陛下をお迎えするとき、衆議院議長や参議院議長、常任委員長の国会登院時に、議員が参院へ登院するとき、外国の元首などがご訪問の際に開かれます。中央広間中央玄関に入ると、中央塔の真下に当たる所に中央広間があります。4階吹抜きで、上から光が差し込んでおり、豪壮大なホールです。天井はステンドグラスがはめこまれており、高さは約32.62メートルあります。この広間には、憲政の功労者であった伊藤博文、板垣退助、大隈重信の銅像が三方に立っています御休所中央広間から中央階段を上がると、天皇陛下の御休所があります。陛下は、開会式の当日、この御休所にお入りになり、両院の議長と副議長がここで陛下にお目にかかります。この部屋の造作は、総檜造の本漆塗りになっているなど、当時の建築や工芸の粹を集めたものといわれています。衆議院玄関衆議院議員は、通常この玄関から登院・退庁します。玄関を上がったホール正面には、衆議院議長として50年以上在職し、かつ、憲政の功労者として衆議院名誉議員の称号を贈られた尾崎行雄と三木武夫の胸像が設置されています。登院表示盤衆議院の玄関を入ると左側に登院表示盤が備え付けてあり、議員が登院したときは、各自、氏名の下に表示されているボタンに触れて登院を表示します。赤じゅうたん議事堂内の廊下には、階段などを含めて約4キロメートルにわたって、赤いじゅうたんが敷かれています。化石国会の柱などには化石が多く含まれていることから「化石の宝庫」とも呼ばれています。衆議院議場本会議が聞かれるところで、正面中央の局い子のある席が議長席、その左隣が議長の職務を補佐する事務総長の席となっています。議長席を中心として左右にそれぞれ2列の席がありますが、前列は国務大臣席で、内閣総理大巨は左側の議長席に近いところにあります。議席は、議長席に向かって左から右へ、所属議員数の多い会派から順に並び、各会派別に座るのが慣例となっています。各議席には、氏名が書いてある黒い四角柱に議員の氏名を置いたものが備え付けられています。国会 ― 憲法に見るしくみ ―日本国憲法は、昭和21年(1946年)11月3日に公布、翌22年5月3日に施行され、5月20日に第1回国会が召集されました。ここに、大日本帝国憲法下で明治23年(1890年)に開設され、56年余続いた帝国議会に代わって新しい国会が誕生しました。三権分立日本国憲法は、国会、内閣、裁判所の三つの独立した機関が相互に抑制し合い、バランスを保つことにより、権力の濫用を防ぎ、国民の権利と自由を保障する「三権分立」の原則を定めています。国会の地位国会は、憲法第41条によって、「国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。」 と定められています。議院内閣制内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で指名されます。また、内閣は、行政の行使について、国会に対し連帯して責任を負うものとされており、衆議院で不信任が決議されたときは、衆議院を解散するか、あるいは総辞職をしなければなりません。このように、内閣の組織と存続の基礎を国会に置く制度を議院内閣制といいます。国会の構成国会は、衆議院及び参議院の両議院で構成され、両議院とも全国民を代表する選挙された議員で組織されています。各議院には、本会議と委員会があります。衆議院と参議院の議員定数等の比較衆議院定数:465名任期:4年 解散すれば地位を失う選挙権:18歳以上被選挙権:25歳以上選挙制度: 小選挙区 289名 比例代表 176名解散:有参議院定数:248名任期:6年 3年ごとに半数改選選挙権:18歳以上被選挙権:30歳以上選挙制度: 選挙区 148名 比例代表 100名解散:無国会 ― 憲法に見るしくみ ―国会の権限国会の機能 ●衆議院及び参議院は、両議院一致の議決により共同して国会の権限を行使する。 ① 法律の制定 ② 予算その他の財政に関する議決 ③ 条約の締結について国会の承認 ④ 内閣総理大臣の指名 ⑤ 憲法改正の発議 ●法律案などについて両議院の議決が一致しない場合には、憲法に一定の要件のもとに 衆議院の優越が認められている。議院の機能 ●各議院が独立して行使する権能 ① 議院の自律権 議長、副議長、常任委員長などを選挙する。 会期ごとに議事の付託先委員会を設置する。 会議手続や内部の規律に関する規則を制定する。 ② 国政調査権 ③ 議員の懲罰権 ●衆議院または参議院のみが行使する権能 ① 衆議院の内閣不信任決議権 ② 参議院の緊急集会国会議員の地位 国会議員は、主権者である国民の信託を受け、全国民を代表して国政の審議に当たる重要な 職賈を担っています。この職責を果たすため、国会議員の地位には、一定の身分保障が 与えられており、法律の定める場合を除いては、国会の会期中は逮捕されず、また 議院で行った演説、討または表決について、院外で責任を問われません。国会の召集と会期国会の招集は、内閣が決定し、招集詔書の公布により行われます。開会式開会式は、会期のはじめに両議院の議員が参議院の議場に集まり、天皇陛下をお迎えして行われ、その際、衆議院議長が両議院を代表して式辞を述べ、天皇陛下からおことばを賜ります。本会議本会議の基本原則本会議は、その議院の議員全員の会議であり、議院の最終的な意思はここで決定されます。本会議は、公開が原則であり、本会議を開くには議員の3分の1以上の出席が必要です。議事は特別の場合を除き、出席議員の過半数の賛成で決められます。また、本会議は、通常、衆議院では火曜日・木曜日、参議院では月曜日・水曜日・金曜日の午前10時から開かれます。本会議の主な議事本会議の議事は、開会の日毎、その日の本会議に付する案件と順序を記載した議事日程に従って進められます。1 議院の構成・議長、副議長の選挙 議長、副議長の選挙は無記名投票で行われ、議員は投票用紙に選ぼうとする人の氏名を 記載し、各議院に備え付けの木製の名刺箱に入れて投票します。・議席の指定・会期の件、会期延長の件・常任委員の選任、常任委員長の選挙・懲罰委員会委員、情報監視審査会委員、政治倫理審査会委員の選任・特別委員会の設置2 内閭総理大臣の指名 内閣総理大臣はそれぞれので記名投票により指名されます。 記名投票では議員は、投票用紙に選ぼうとする人の氏名と投票者の氏名を言して投票します。3 国務大巨の演説及び質疑 国会が召集されると、まず本会議を開き、議院の構成を行い、次いて開会式が行われます。 続いて衆参両院の本会議において国務大臣の演説が行われます。 常会では、内閭総理大臣が施政方計演説をするほか、外務大臣、財務大巨、経済財政政策 担当大臣が演説します。特別会と臨時会では、通常、内閣総理大臣が所信表明演説を行い 場合によっては他の大臣が演説することもあります。これらの演説に対し、各会派を 代表する議員が質疑し、内閣総理大臣をはじめ各大臣の答弁があります。本会議4 議案の趣旨の及び質疑要な議案について、議員運営委員会が特に必要があると認めた場合には、議員提出の議案にあってはその議員から、内関提出の議案にあってはその担当大臣から、越旨の説明を聴き、これに対して質疑をします。5 議案の審議委員会の審査を終了した議案(法律案、予算及び条約など)は、本会議に上程されます。本会議においては、議題宣告の後、その議案を審査した委員会の委員長が委員会審査の経過及び結果を報告し、場合によっては質疑や討論を行った後、採決を行って可否を決します。採決には、異議なし採決(異議の有無を諮る方法)、起立採決(賛成者の起立を求める方法)及び記名採決(記名投票による方法)があります。参議院では、通常、押しボタン式投票による採決が行われています。総予算や重要議案などでは、記名投票が行われ、議員は各議席に備え付けの木扎の名刺をもって投票します。木札は白票が賛成、青票が反対を表します。委員会委員会の構成委員会は、常設機関である常任委員会と、会期ごとに各議院が必要なとき、議決で設けられる特別委員会とがあります。議員は任期中、少なくとも一つの常任委員になることになっています。常任委員会衆参ともに17種類の常任委員会が設けられています。特別委員会委員数や所管は、設置のときの議院の議決で決められます。 令和7年1月24日(第217回国会(常会)招集日) 現在委員会議院議院運営委員会本会議の開会の日取り、その議事の順序、発言者と発言時間その他議院の運営に関する事項、国会法及び議院の諸規則に関する事頂、議長の諮問に関する事項などについて協議が行われます。国家基本政策委員会国の基本政策及び時々の重要なテーマについて内閣総理大臣と野党党首との1対1の討議が行われます。衆議院と参議院との合同審査会として開かれます。衆議院予算委員会国の歳入歳出の予算を審査しますが、国民の関心事など国政全般についても広く質疑が行われます。予算委員会における総予算の審査は、趣旨の説明を聴取後、基本的質疑、一般的質疑、公聴会、分科会(参議院は委嘱審査)、締めくくり質疑などを経て、探決されます。憲法審査会日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制について広範かつ総合的に調査を行い、かつ、憲法改正原案や憲法改正手続に関する法律案などを審査するため、各議院に設けられました。衆議院は委員数50人、参議院は委員数45人です。情報監視審査会行政における特定秘密保護制度及び重要経済安保情報保護活用制度の運用を常時監視するため、特定秘密及び重要経済安保情報の指定・解除、適性評価の実施状況等について調査を行うとともに、委員会等か行った特定秘密又は重要経済安保情報の提出要求に行政機関の長が応じなかった場合に、その判断の適否等について審査を行うため、各議院に設けられました。衆議院、参議院それそれ委員数8人です。政治倫理審査会政治倫理の確立のため、各議院に設けられ、衆議院は委員数25人、参議院は委員数15人です。委員会 法律案審議の流れ(衆議院先議の場合)議案の審査委員会を開くには、委具の半数以上の出席が必要で、その議事は出席委員の起半数の成で決められます。なお、委員会は、報道関係者その他の者で委員長の許可を得た者は傍聴できます。法律案は、議員からも内閣からも提出されますが、予算や条約は内閣から提出されます。各議院において、議員が法律案を提出するには、衆議院では20人以上(参院では10人以上)の賛成者がなければなりませんが、予算を伴う法律案については、衆議院では50人以上(参議院では2O人以上)の賛成者が必要です。議案が提出されると、議長はその議案を所轄する委員会に付託します。委員会では、議案提出者や担当大臣から趣旨の説明を聴取した後、委員が、提出者、国務大臣その他の政府関係者などに一問一答の形式で質疑をします質疑終了後、討論による会派の賛否表明に続き採決が行われます。委員会における議案の採決は、贊成者の起立を求める方法で行われます。国勢調査各議院は、法律を作るためや行政を監督するために、それぞれ国政についての調査を行うことができます。この国勢調査は、各議院の委員会によって行われており、常任委員会は、会期ごとにその所管の範囲内で調査する事項を決めて議長の承認を得て行い、特別委員会は、付託された調査案件について行います。閉会中審査国会は、会期が終了すると閉会になりますが、各議院の常任委員会と特別委員会は、その議院の議決があれば閉会中でも審査を行うことができます。この議決によって、各議院の委員会は閉会中も会議を開いたり、委員を各地に派遣したりして、審査または調査を行っています。「衆議員議長・副議長一覧」。 「内閣総理大臣一覧」。「国会周辺図」。 「お知らせ」。 「◯主な国会施設の案内~これから参観する場所を詳しく知ろう~・中央玄関 中央玄関は、普段、閉められていますが、国会の開会式に天皇陛下をお迎えするとき、 衆議院議員総選挙または参議院議員通常選挙後の国会召集日に議員が登院するとき、 外国の元首などがご訪問の際に開かれます。・中央広間 中央玄関を入ると、中央塔の真下に当たる所に中央広間があります。4階吹抜まで、 上方から光線を入れており、壁と天井にはステンドグラスがはめこまれています。 その広さは267.65平方メートル、天井までの高さは32.62メートルもあります。 この広間には、議会政治に功労のあった伊藤博文、板垣退助、大隈重信の銅像が三方に 立っています。・御休所 中央広間から中央階段を上がると、天皇陛下の御休所があります。 陛下は、開会式の当日、この御休所にお入りになり、両院の議長と副議長がここで 陛下にお目にかかります。この部屋の造作は、総檜造の本漆塗りになっているなど、 当時の建築や工芸の粋を集めたものといわれています。・衆議院本会議場 本会議が開かれるところで、正面中央の高い椅子のある席が議長席、その左隣が事務総長席 となっています。議長席を中心として左右にそれぞれ2列の席があり、前列は国務大臣席で、 内閣総理大臣席は左側の議長席に近いところにあります。 議席は、議長席に向かって左から右へ、所属議員数の多い会派から順次、各会派別に 座るのが慣例となっています。 各議席には、氏名標といわれる黒い四角柱に議員の氏名を書いたものが備え付けられています。」 案内に従い見学し、写真撮影可の場所を撮す。国会議事堂参観ロビー中央広間。中央玄関を入った先の中央塔真下にある広間は、「中央広間」と呼ばれていると。2階から6階まで吹き抜けで、天井にはステンドグラスがはめ込まれていた。天井までの高さは32m。中央広間天井 ステンドグラス。中央広間内を移動して。中央広間に立つ伊藤博文の銅像。見上げて。大隈重信像。板垣退助像。中央広間から正面階上のご休所入口を見る。中央広間のステンドグラス。御休所。玉座のテーブルがL字型なのは、軍服着用時に帽子を置く場所の名残である と。御休所内を移動して。衆議院本会議場。案内者の説明を聴く。衆議院本会議場の天井ステンドグラス。ステンドグラスの裏側には 556本の蛍光灯が設置されていると。ちなみに、ステンドグラスに使われる色ガラスはイギリス製。中央広間や御休所前広間などでも使われているのだ と。国会議事堂・衆議院本会議場を、議場中央から議長席正面方向を見る。中庭。「国会議事堂・衆議院」の見学を終え、外に出る。右手に「衆議院第一議員会館」。 振り返って。そして東京メトロ丸の内線で「国会議事堂前」駅から東京駅へ。そして山手線で品川駅へ。ここで現役時代にお世話になった協力会社の社長と久しぶりに再会して呑んだのであった。港南口の品川セントラルガーデンのイルミネーション。ズームして。2025年11月10日(月)午後 6 時、品川国際映画祭のオープニングイベントにて、品川セントラルガーデンのイルミネーション点灯式が行われた と。移動して、品川インターシティー方向へ。2025年度の品川セントラルガーデンのイルミネーションは品川駅側の「ウェルカム感」にこだわり、2階のペデストリアンデッキからも目をひく エントランスゲートを設置 した。今年のイルミネーションは、品川駅側出入口から北品川側出入口まで約400メートルにわたりつながっていた。夜間にロマンチックな光の中を散策されてみてはいかがでしょうか と。この後の飲み会の会場である寿司屋の方向を振り返る。約16万球のLEDが、品川駅からセントラルガーデンの道のりを華やかに彩っていた。ズームして。午後6時から午後8時まで、セントラルガーデンの中央部のイルミネーションが、このゴールドから白色へカラーチェンジし、1時間に8回、雪が降りだす「White Time」(30秒/回)を体験できるとのことであった。そして帰宅の途へ。我が小田急線の駅の西口リータリーのイルミネーション。桜の花が美しく輝いていた。日本大学藤沢高等学校の生徒会の皆さんが設置。そして東口のイルミネーション。こちらは、藤沢工科高等学校の学生の作品・ハンドベルロボット。様々な色に変化しながら音楽を奏でるのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2026.01.23
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我が家の横の畑の境に『マサキ』が生け垣代わりに植えてありますが、この生け垣が丸坊主になりつつあります。よくよく観るとマサキの葉や細い枝に長さ2~3センチ、黒地に黄色の斑点のあるシャクトリムシが葉を食べているのです。半月ほど前に発見し、一度消毒をしたのですが、死ななかったようです。隣の畑にはタマネギやイチゴを栽培していますのであまり強力な殺虫剤は控えているので、効き目が薄かったようです。インターネットで調べてみると、このシャクトリムシの名は『ユウマダラエダシャク』とのようだ。長いそして聞き覚えのあまりない名前の毛虫である。見つけると手でつかんで捕っていたのですが、捕りきれなかったようです。この虫は成虫になると、一見モンシロチョウのような羽をもった、白地に黒と茶の入り交じった斑点のある蛾となるのです。フワフワと情けなさそうな飛翔力、短時間しか飛べず、すぐにどこかへ止まってしまう点、飛んでいるときの視覚的な印象がモンシロチョウによく似ています。よく交尾したまま2匹で葉に止まっいるので捕らえやすいのですがあまり気持ちの良いものではありません。下の写真は昨年撮った写真です。秋にもこの蛾を見かけますので年2回孵化しているのではないでしょうか。一方、バラのつぼみには『アブラムシ』がつき出しました。蕾の下の黄緑の小さな物体がアブラムシなのです。アブラムシはなんと胎生なのです。生まれたばかりの子虫1周間ほどで成虫になり、交尾もせず、子虫を産み始める。1匹が1日で10匹の子虫を産むため、一匹のアブラムシが3週間で4万匹を増えると。成虫になっても羽のないアブラムシは移動ができず、寄生された植物はあっという間に過密状態になる。過密になると植物は枯れてしまい食糧不足となり、共倒れの危機が迫ってくるとアブラムシの子虫はその姿を変えるのだそうです。密度増加によりストレスがかかり、ホルモンの分泌に影響して、羽のない親虫から羽のある子虫が産まれてくる。羽のあるアブラムシは群れから離れて飛び去っていくのだと言います。たかが『アブラムシ』されど『アブラムシ』です。自然の摂理は奥が深いのですね。毛虫にとっても待ちに待った春の到来なのです。短い命を懸命に生きていることは解っているのですが・・・・・・・・。今日アクセス頂いた方の中には、朝からあまり気持ちの良くない写真を見てしまった???ごめんなさい!!!
2009.04.17
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大内宿の大型バス有料駐車場には多くの観光バスが列をなし満車状態。バスを降り観光開始。大内宿周辺散策路案内と駐車場の乗務員休憩所。 大内宿を守る住民憲章2.保存優先の原則 保存をすべてに優先させるために、大内宿と旧街道沿いの観光資源 (建物・屋敷・農耕地・山林等)について、「売らない」「貸さない」「壊さない」の 三原則を貫く と。建物の現状変更はすべて申し出ること と。大内宿MAP。人気観光スポットのこの「大内宿」は、福島県南部の人里離れた山間部に30軒以上の茅葺き屋根の民家が立ち並ぶ江戸時代から残り続ける宿場町。約400年以上前、江戸時代には運搬路として重要な道であった会津西街道(日光~会津)沿いの宿場町として参勤交代で江戸へ向かう大名や旅人の宿場町として栄えた。中には、あの伊達政宗が小田原参陣、豊臣秀吉が奥羽仕置きで、この大内宿を通行した記録があるのだと。2時間の自由行動と言うことで、時間に十分余裕があるため、のんびりと宿場町の散策開始。正面の山も紅葉の真っ最中。大内宿は重要伝統的建築物群保存地区。保存地区は旧街道に沿った宿場を中心とする南北約500m、東西約200mの範囲。大内宿は、会津城下と下野の国(しもつけのくに)(栃木県日光市今市)を結ぶ全長130キロメートル(32里の区間)の中で会津城下から3番目の宿駅として1640年ごろに整備された宿場町。会津西街道は関東側からの呼称で、会津側からは下野街道(しもつけかいどう)あるいは南山通り(みなみやまどおり)とも称されていた。会津藩主の18回に及ぶ江戸参勤と江戸廻米の輸送と、当時会津藩と友好関係にあった米沢藩・新発田藩なども頻繁に利用した重要路線であったと。 この日も昼前であったが多くの観光客が。 旧街道の両側には約50cm幅の小川があり清流が勢いよく流れていた。そして真っ赤に紅葉したモミジが迎えてくれた。清流で売り物の飲料を冷やす姿も。 大内宿「本家扇屋」 。大内宿で唯一「蔵」に泊まれる民宿。囲炉裏でおしゃべりしながら美味しい地元の料理をたっぷり楽しめると。黄色のモミジも赤に負けじと。 どの家屋も土産物屋や食堂を営んでいた。多くの本格的手打ち十割蕎麦屋が散在。高倉神社入口の鳥居。木を切り出し皮を剥いただけのような鳥居がそびえ立っていた。この鳥居は、後白河天皇の第2皇子(高倉以仁王)の霊を祀ったとされる高倉神社へと続く鳥居で、一の鳥居から三の鳥居まで続いていた。この大内宿に立っているのは一の鳥居。そして旧街道の反対側には鉄骨製の火の見櫓そしてその上には放送用のスピーカーが。 標高650mの山間の街道の両側に整然と建ち並ぶ宿場情緒を色濃く残す家並みは、タイムスリップの世界であり、思わず溜息がでるほどの景色。 布で作った野菜や果実を土産物として売る店。 大内宿の最奥に向かう。 浅沼食堂。一番見晴らしが良い店。大内宿の最奥の高台に位置し、唯一集落全体を見渡せる食事処。手前に湯殿山と刻まれた石碑が。この高台が湯殿山と呼ばれているのだと。良阿養仙居士?の墓か?。 赤の衣装を纏った地蔵様。 モミジの色のアンジュレーションが見事。 階段を上り大内宿の北端に位置する浄土宗の寺院・正法寺を訪ねる。周囲は黄色く紅葉した銀杏の木々が。大名家などの庇護がなく村内で管理運営し、寺の周囲には子安観音を始め、湯殿山碑などの石碑や石仏が参道附近に安置されていたのであった。大内宿周辺は戊辰戦争(1868年(慶応4)~)の激戦地(大内峠では40名が戦死)となり正法寺は官軍の詰め所になったと。本堂。会津藩の砲兵隊頭取、笹沼金吾は大内峠の戦いで敗退した後も1人で官軍に切り込んだと伝わる人物で壮絶な戦死の後、この大内宿の住民が密かに正法寺境内に埋葬したと伝えられていると。 寄棟茅葺きの子安観音堂。子安観音は、女性や子供の守り神で、子宝や安産、子供たちの健やかな成長を祈る観音様。 林の中にある大内宿見晴場所に向かう。 今もなお当時の状態で30軒以上の茅葺き屋根の民家が立ち並んでおり、江戸時代にタイムスリップしたような光景を楽しむ。林の中も陽光が差し込み空気も赤く染まった感じ。 道のない林の法面を苦労して上り、BEST SPOTを発見。更に進むと小さな社・弁天堂も。弁天堂の手前の急な石段を下りきったところで振り返ると、斜面には庚申塚石塔群が立てられ、その先には三仏堂が建っているのが見えた。六臂青面金剛刻像。紅葉の下に吉村善七之墓と刻まれた墓石。文字庚申塔と阿弥陀仏と刻まれた石碑。大内宿上の山裾にある三仏堂。修験信仰の本尊仏である不動明王、役小角、孔雀明王の三仏が祀られていると。そして道を戻り「桜木姫の墓」を探したが見つからず再び宿場町に引き返したのであった。
2016.11.11
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【海外旅行 ブログリスト】👈リンク5/22(火)からウズベキスタンへ6泊8日の旅行に、いつもの旅友Sさんと行って来ました。事前にウズベキスタンガイドをBOOKOFFで購入、地球の歩き方は図書館で借り予習。事前にツアー会社のクラブツーリズムから旅のしおりそしてウズベキスタンガイドも送られてきました。『神秘のカラカルパキスタン共和国へ はじめてのウズベキスタン 8日間』カラカルパキスタン共和国はウズベキスタン内にある民族、言語、文化、そして国旗までもが異なる自治共和国。この共和国で最も知られるのは「縮小する湖」アラル海。かつては世界で四番目に大きな湖が、今やなくなりかけていて、 あと数年で姿を消すとまで言われているのです。今回のツアーは総勢18名、後で解ったのですが男性7名、女性11名、そしてその中にご夫婦が2組。平均年齢は65~70歳前後?。ウズベキスタンの最大の魅力は、何と言っても壮大なイスラム建築群。空に高くそびえるミナレット、美しい装飾タイルで飾られた壁や印象的な青いドーム。そして砂色した町並み。シルクロードに最も近いイメージの国ではないだろうか。砂漠のオアシスのほとり、月あかりの下でラクダと商隊がまどろんでいる…そんなイメージの国。シルクロードとは、中央アジアを横断する古代の東西交易路。今年の3月に訪ねた中国・西安(長安)を起点として、中央アジアのオアシス都市国家群を通り、パミール高原を経て西アジアから地中海に至る。絹は古代地中海では産出されず、中国特産の絹がこのルートによって運ばれたことから“絹の道(Silk Road)”と、19世紀末、ドイツの地理学者リヒトフォーフェンによって命名された。 ウズベキタンの人々は、敬意を表し「The Great Silk Road」と呼んでいるとのこと。ウズベキスタン共和国(ウズベク語: OʻzbekistonRespublikasi)、通称ウズベキスタンは、中央アジアに位置する旧ソビエト連邦の共和国。首都はタシュケント(タシケント)。北と西にカザフスタン、南にトルクメニスタンとアフガニスタン、東でタジキスタン、キルギスと接する。国土の西部はカラカルパクスタン共和国として自治を行っており、東部のフェルガナ盆地はタジキスタン、キルギスと国境が入り組んでいる。国境を最低2回越えないと海に達することができない、いわゆる「二重内陸国」の1つ。「二重内陸国」は世界に2国しかなく、もう一つはリヒテンシュタイン公国。更に国境を越えて海に流れ込む河川はウズベキスタン国内には皆無。北部のカラカル・パクスタン共和国内にあるアラル海は1960年代までは日本の東北地方とほぼ同じ大きさの湖沼面積を誇る世界第4位の湖(約66000〜68000km2)だったが、半世紀で約5分の1に縮小したのだと。アラル海には北東部にシルダリヤ川、南部にアムダリヤ川という二つの河川が注ぐのみでアラル海から流出する河川はない。アラル海の水位低下の直接的な原因は、アラル海への流入水量をアラル海からの蒸発水量が大幅に上回ったこと。そして綿花栽培用の潅漑施策の失敗とのこと。〇がこの旅で訪ねた場所。ウズベキスタンの通過は「スム(UZS)」 現在、流通している紙幣は、5万、1万、5000、1000、500、200、100スム。以下の紙幣と硬貨の流通はまれであると。紙幣50、25、10、5、3、1スム。硬貨500、100、50、25、10、5、1スム。この日の為替レートは1 UZS=0.01368 JPYよって1,000スム(UZS)=13.7円。1,000円≒73,000スム(UZS)。円換算の桁が違う通貨で、金額表示の桁数の多さにかなり苦労したのであった。そして送付されたガイドブックの通貨資料は下記の如くチョット古かったのであった。パスポートも忘れずにパスポート入れに、そして首からぶら下げ上着の下に。今回も年季の入ったトランクと30Lのリュックで。6:20に旅友Sさんが我が自宅に愛車で迎えに来てくれました。そして成田空港へと東海道1号線を走り、横浜新道へ。首都高速神奈川2号三ツ沢線から神奈川1号横羽線へと進む。昭和島JCTから首都高速湾岸線を利用して東関東自動車道方面へ。首都高速湾岸線東行大井本線料金所を通貨。フジテレビ前を通過。酒々井PAでトイレ休憩した後は成田JCTから新空港自動車道へ。第1ターミナルへ向かう。成田空港管理ビルが前方に。奥がランプコントロールタワー、手前が管制塔。第1ターミナル南ウイングに到着。我が家を出発して2時間弱で到着。時間は8:20。酒々井PAでTELしてあったため、今回の予約駐車場の係員が数分で到着し車を預け荷物を持ち、集合場所へ向かう。この日のフライトは11:05発タシケント行き。南ウイング4F出発ロビーのツアー旅行受付カウンターへ。k-10、11番カウンターで今回の添乗員のM氏からeチケット、ガイドレシーバーをもらうが名前が自分のものでないことに気がつく。同姓のお客様がおり間違えて渡してしまった模様。しかし同姓の方も間違っている事にすぐ気がつかれ、戻って来てくれたのであった。10数年来の毎年の海外旅行であるが同姓の方が参加されたのは今回が初めて?なのであった。そしてウズベキスタン航空カウンターでチェックイン。日本円を米ドルに両替した後は、出国審査場へ。そして免税店をしばし散策し、洋酒を2本購入し搭乗ゲートへ。この日のFLIGHTはウズベキスタン航空 HY528便 11:05発タシケント(TASHKENT)行き。2レターコードの「HY」はウズベク語の「航空路(havo yo‘llari)」からとられたものと。国名や会社名ではなく「航空路」という語をIATAやICAOのコードとして使用する事は非常に珍しいケースであるとのこと。現在ではタシケントから国内外50都市を結ぶサービスを提供しており、国際空港5カ所を含む11カ所の空港を所有。日本発着路線は、週2便でタシケント〜成田~関西、及びタシケント〜関西〜成田を運航していたが、2011年4月よりタシケントから成田への直行便となった。しかし2013年10月25日をもって運休となった。なお、他の航空会社との提携、連携やアライアンスへの加盟は行っていない。2014年4月4日からタシケント〜成田線が、週2便(火・金)運航再開されたのだ。この日の機種はB767-300ER。そして11:45に成田空港を離陸。機窓から九十九里漁港が。埼玉県上空を通過し日本海に進路を向ける。成田(東京) - タシケント間の距離は約3,750マイル、約6,040Km。飛行時間は9時間30分。ウズベキスタンとの時差は-4時間。暫く飛行後に残雪の東北の山々が。福井県越前市上空から日本海へ出る。この頃には飛行機は雲の上に。最初のドリンクにはアサヒビールを。この旅の最初の機内食を楽しむ。韓国上空を横断。黄海上空を飛び中国大陸へ。中国大陸に入ると眼下に飛行機の姿が見えた。中国国内便か?内モンゴル自治区の山々。ゴルフ場。烏梁素海(ウランスハイ)が眼下に。内モンゴル自治区バヤンノール市ウラド前旗にある淡水湖。 面積280km2、南北35~40km、東西5~10km。黄河の旧河道が切り離された三日月湖。内蒙古自治区鄂尔多斯市杭锦旗618县道近くの砂漠には多くの円形が。潅漑農地であろうか?包蘭線(ほうらんせん)が見えた。中華人民共和国の国鉄鉄道路線。内モンゴル自治区包頭市と甘粛省蘭州市を連絡する。全長は990km。蘇泊淖爾(スーポオノール)。青き湖。白い乱れた曲線のカオスの世界が眼下に。ウルムチ(烏魯木齊)手前の白き山。ウルムチは、天山山脈北麓のジュンガル盆地東南縁に位置する街。言語・文化・経済の面などにおいて、中国の東部よりもタシケントのようなはるか西方の各地とより強く結びついていると。田園の中に飛行場が。ウズベキスタン航空の2回目の機内食の軽食を楽しむ。天山山脈の白き山々の姿。タシケントの街並みを機窓から。主要道路はかなり広く感じた。そしてバイクの数の少なさも。タシケント国際空港に無事着陸。正式にはイスラム・カリモフ・タシケント国際空港。4000mクラスの滑走路を2本持つウズベキスタン航空のハブ空港。後部タラップから飛行機を降り、バスにて空港ロビーへ。バスにて空港ロビーに移動。税関申告もなく入国手続きを無事終える。これまでウズベキスタンの入国にはビザが必要であったが、2018年2月からは30日以内の滞在に限りビザが免除されたと添乗員から。加えて出入国カードも無し。驚くことに、所持金がUSD2,000以下の場合は税関申告書も不要とのことでつまり、提出書類が一切なかったのであった。トランクを受け取り再びバスにて南側にある国内線用飛行場ロビーに向かう。タシケント空港からウルゲンチ空港まで国内便にて移動。HY057便 18:40発。国内便もバスにて移動し、後部タラップから飛行機に乗り込む。1時間40分でウルゲンチ空港に到着。時間は予定より早い20:00前の日没直前。空港ターミナルビル・ロビーからの夕焼け。こちらはウルゲンチ国際空港ターミナル。美人女性の現地添乗員に迎えられバスにてこの日のホテルのあるヒヴァに向かう。車窓からの夕焼けも美しかった。シャヴァト運河を渡る。そしてヒヴァ城イチャン・カラのオタ・ダルヴァア門(西門)前に到着し、バスを降りる。時間は21:18。イチャン・カラとは「カラ」=都城の「イチャン」=中の意味とのことで城壁の外側はディチャン・カラと呼ばれていると。かつては11の門が街を守っていたと言われるイチャン・カラ。この日の宿はイチャン・カラにあるホテル。トランクを転がしながら西門を潜り城内をホテルに向かって歩く。目の前にカルタ・ミナルが現れた。基部の直径は約14m、高さ26m。鮮やかな青の色釉タイルで装飾され、ライトアップされていた。右に曲がると城内で一番高いミナレットを持つイスラム・ホジャ・メドレセが前方に。そしてこの日の宿・ホテル マリカ キーバック(HOTEL MALIKA KHEIVAK)に到着。イチャン カラ中心部に位置するこのホテルは、イスラーム ホジャ ミナレットとモスクおよび金曜モスクから歩いて直ぐ。パフラヴァン マフムド廟およびアラ クキ クハーン マドラッサホも5分圏内。フロント前にてパスポートを添乗員に預け、明朝のスケジュール時間を確認し部屋に。小綺麗なツインの部屋。時間は21:40。今回も自宅を出てから15時間20分の大移動(GREAT JOURNEY)!!。そしてバスタブ付きのシャワー室とトイレ、洗面所。汗を流し、成田空港で買ってきたウイスキーでこの日の反省会を二人で。そして23時過ぎには長い移動の疲れも有り爆睡したのであった。 ・・・つづく・・・
2018.06.01
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道は横田川を渡り真直ぐ対岸に行くルートであったが、現在この付近に橋がないため、川の右遠くに見える国道1号線の横田橋を迂回するしかなかったのであった。川に沿った道を行くと1号線に合流するので、ここで大きな橋を渡り、旧甲西(こうせい)町に入って行くのであった。前方に国道1号線と合流する「泉西」交差点が。『水口宿』と書かれた塔。ここが『水口宿』の出入り口。野洲川(旧横田川)を渡る前、この『泉西』交差点の先で『湖南市』に入ったのであった。平成16年(2004)10月に甲西(こうせい)町と石部町が合併して出来た『湖南市』。右手に行くと国道1号線の『水口道路』、旧東海道に合流するために左側の「三雲」案内板の道路を進む。これから渡る『横田橋』には上り方面にのみ並行する歩道があるので歩道橋を渡り上り車線側に向かう。この歩道橋は『朝国横断歩道橋(あさくにおうだんほどうきょう)』。『横田橋』を望む。その先に湖南市三雲の町並みと栗東市との境界の山の姿が見えた。『横田橋』の右側に並行する「人・自転車専用道」を進む。野洲川(やすがわ)は、滋賀県を流れる淀川水系の一級河川。琵琶湖への流入河川では最長である。近江太郎の通称がある川。この橋より上流の甲賀市水口町酒人で杣川と合流しているが、この合流地点より琵琶湖への下流は『横田川』と呼ばれていたのだと。「琵琶湖に流入する川」の数をネットで調べてみるとは大小合わせておよそ119本を数えるが、最長は栗歌詞になるがこの「野洲川」であると。その一方で、出ていく川はたったひとつ、「瀬田川」。近代に入って、「琵琶湖疎水」という、京都市内に人工的に水を引くことも始まったが、それでも2つしか「出口」がないのだと。明治時代までは先程の泉~三雲間に板橋を架けていたようだが、昭和初期に橋は下流へと移され、さらに1951(昭和27年)には現在の位置へと橋を架け替えているのだと。橋の上から右手の下流方面を見ると、先代の橋脚の一部が今もなお残っていたのであった。橋の中央付近に日本橋より『457km』の表示版。残すところ35kmの場所まで来たのであった。表記されている所在地は、合併して現在の湖南市になる前、甲西町時代の「甲西町 三雲」が更新されることなく残っていたのであった。敢えて残しているのであろうか?『横田橋』を渡り終え、脇にある階段を降りて左折し歩いて来た県道13号線(彦根八日市甲西線)の下を潜り旧東海道に合流しここを左折して旧東海道を戻って行った。草津線の踏切の真ん前にあったのが『東海道 横田の渡し 常夜燈』。角度を変えて。「東海道五十三次 石部宿 横田常夜燈東海道十三の渡しの難所の一つに数えられる横田の渡し場、湖南市側に建立されている。安永八年(一七七四)に東講中によって建てられた火袋付の常夜灯である。高さ四・八五メートル、五段の石積みの上に建っている。水口側の常夜灯より五十年以上前に建てられていた。建立された当時は現在地よりも二百メートルばかり上流に建っていたが、いつの時代か現在地に移転された。」『広重二代 東海道五十三駅』左に石部「春の景」と右に水口「名物干瓢 」。「東海道五十三次 石部宿 園養寺(おんようじ)天台宗のお寺で平安時代の初期、伝軟大師が延暦寺の用材を杣庄から牛車で運搬されたため、牛馬の労をいたわるために、大日如来の尊像を刻み、牛馬の安全を祈られたことから「牛の寺」と呼んでいる。また江戸時代に境内から野洲川を渡ろ人か手に取るように見えたことから、東海道を行き来きする人々を監視していたともいわれている。」『横田常夜燈』の前には小さな地蔵堂が。『横田常夜燈』の先に現代の天保義民碑の道標があり、この向かいの筋のJR草津線を越えた左手の丘上に『天保義民之碑』が建っていた。「東海道五十三次 石部宿 天保義民碑天保十三年(一八四ニ年)十月、現在の野洲市の三上地区で近江天保一揆(天保十三年近江国三上藩一揆・水口藩一揆)が発生しました。野洲・栗田・甲賀三郡の農民約四万人が幕府による検地(見分)の中止を要求して決起し、三上村に集まり、幕府が派遣した役人から十万日の日延べを勝ち取りましたが、多くの犠牲者を伴い、義民として永久に伝える為、碑が建立されました。」『草津線』の踏切を渡って進む。「ビジネス旅館 天保閣」への坂道を上って行く。左手に『新海道』と刻まれた石碑が。「新海道」は、「東海道」の旧街道と考えられていた別街道で、別名「杣街道(そまかいどう)」ともいわれてきたもの。「東海道」の鈴鹿峠がかなりの難所だったため、旧道として三雲から杣川を上って、柘植で「大和街道」と合流し、加太越を経て関宿に至る別街道。古くから利用され、「壬申の乱」後に一時廃れ、平安期仁和2年(886)に鈴鹿峠越えで関に降りる「阿須波越」に変更されるまで「東海道」として利用されたと。少し行程は長くなったが、鈴鹿越をしなくて良いという価値があったのだがが、余り利用されなくなったのは、山賊や忍者が沿道に出没したことが影響していたのではないか、との説があるのだと。経路は、三雲~三本柳~深川市場~寺庄~大原市場~上野(甲賀町)~柘植(伊賀市)<大和街道に合流> ~加太市場(亀山市)~関(亀山市) だったと。『県民花の森 天保義民の丘』「モニュメントの造形について天保13年(1842年)10月に旧甲賀郡、旧野洲郡、旧栗太郡の1万数千人の農民が結集し検地十万日日延の承認をさせるという「農民一揆」を起こした。その時農民が手に取った鍬、鎌を形どり、背の矢印は竹槍、中央の溝は農民の血と汗と流れを表わしている。全体としては、基礎石を農民に見たて農民の努力の賜で虹の石(希望のかけ橋)が架ったものである。」『天保義民の丘』案内図。『天保義民の丘』を更に上がって200mほど進むと、広場に高さ10m余もある『天保義民の碑』が立てられており、その義民=犠牲者を讃えて、後世の明治の人々が、天保時代(1830~44年)に過酷な検地に対する一揆(近江天保一揆)を起こして処刑されたことを偲んで立てられたもので、両脇には石燈籠が設置されていた。近寄って。「天保13年(1842)10月14日、幕府の命によって検地を始めた勘定役市野茂三郎以下40余名の苛酷な測量に対して農民の怒りは大きかった。三上村の庄屋土川平兵衛や甲賀郡内の各村の庄屋たちも相談し合って農民らと力をあわせその検地を停止させた。「十万日の延べ」の証言を得た一揆の農民は大聲をあげて喜んだ。その後、事件の中心人物として80余名の取り調べはきびしかった。ことに土川、田島、黄瀬らの庄屋に加えられた拷問は惨酷そのものであった。しかし、調べられた者たちは一人として白状しなかった。獄舎中で次々と死んだ者もあったが首謀者として11名が江戸送りとなった。針の文三郎、油日の惣太郎、上野の九兵衛、氏川原の庄五郎、深川の安右衛門、岩根の弥八、松尾の喜兵衛、杣中の平治、宇田の宗兵衛、市原の治兵衛、三上の平兵衛らの11人は檻に入れられて江戸へ送られた。街道には農民の多くが涙を流しながら見送り、別れを惜しんだ。うち江戸へ着いたのは8名であった。遺体はもちろん満足な場所へ埋めなかった。死ぬまで市野不法を訴え、庶民の正しさを申し立てたという。その後、明治となり罪人の名を大赦し、相続をみとめた。明治31年5月20日に「天保義民」の碑を現在の地に建立した。その文字は厳谷修氏の書である。高さ10mの人造石でその費用は2900円であった。毎年10月15日にはこの碑前で郡町村が主として義民の追悼慰霊の例祭が催され、関係の遺族の多くが参列される。奉納すもうも催される。」遊歩道脇の法面に咲くこの花の名は「ショウジョウバカマ」。名前の由来は、紅紫色の花を空想上の生き物ショウジョウ(猩々)の顔に、地面を放射状に這うように広がる葉っぱをそのハカマ(袴)に見立てたという説や、花の色が猩々の赤い髪や緋色の袴の色にいているところから名付けられたなどの諸説があるのだと。そして旧東海道に戻り進むと、左手にあったのが『草津線 三雲駅』。三雲駅前の右手に『微妙大師萬里小路藤房郷墓所』碑。臨済宗妙心寺派、湖南市三雲町にある『妙感寺』👈リンク は、開山:微妙大師 開基:微妙大師(藤原藤房)によるもの。微妙大師は建武中興の元勲萬里小路(までのこうじ)中納言藤原藤房卿その人であり、後世、新田義貞、楠木正成とともに建武の三忠臣と讃えられた人である。また、後醍醐天皇の側近で、元弘の乱の謀議が露見したため、天皇ともに笠置山に脱出し、その後、出家して京都妙心寺の第二世となり、晩年は当寺に隠棲したといわれている。その先には『明治天皇聖跡』。明治天皇は大政奉還以後各地に行幸されたがそのときの行幸記念碑。湖南三山の国宝二寺や遷都の折、明治天皇が訪れたとのこと。石仏が納められた祠。湖南市三雲の旧東海道にも旧家が。『東海道歴史探訪・史跡めぐりマップ』旧東海道に沿って草津線が走っているのであった。民家の玄関の上に藁でできた箒のような形のものが飾られていた。それも一つではなく数え切れないほどの数が。ネットで調べてみると『厄除け粽(ちまき)』と呼ぶようだ。祇園祭で販売される粽は食べ物でなく、藁を笹の葉で束ねこれをイグサで縛り、更に束にして作られた疫病・災難除けのお守りで祇園祭のときだけ各山鉾や八坂神社で販売されるものと。なるほど『長刀鉾(なぎなたほこ)』の文字のある『粽(ちまき)』が何個も。民家の前の小さな社。野洲川に流れ込む『荒川』に架かる『荒川橋』を渡る。JR草津線もすぐ横を渡っていた。『荒川橋』の先左手に3つの石碑・道標が。手前から明治廿四年(1891)の銘のある『田川ふどう道』碑。この辺りは、横田の渡しを控えた「田川立場」で賑わった所であると。「田川ふどう道」の上には指のマークのようなものが彫られていた。指で「あっち」という感じで現代風。寛政9年(1797)の『万里小路藤房郷古跡』碑。「万里小路藤房」は、後醍醐天皇に諫奏して容れられず、出家して妙感寺に入寺した人物。横には道標『霊照山妙感寺 従是十四丁』と刻まれていた。大正11年(1922)の『立志神社』碑。立志神社(国常立命を祭る氏神)は近く、約500mの所にあるようだ。 『JR草津線三雲踏切』を渡る。湖南市吉永の街並みに入る。先に進んでJR草津線を三雲踏切で渡ると、右手に『旧東海道標識』が。⬅石部宿場水口宿場➡⬅妙感寺・信楽『東海道歴史探訪・史跡めぐりマップ』は日光にやられ更新の時期。カーブのところに常夜燈が見えた。水路や水辺が整備され『湖南市吉永 三吉景観水路』が作られていた。この施設は地域の憩いの場として利用して貰えるように石積護岸や、階段工、遊歩道を整備した景観水路です。また河川水(農業用水)を利用して耐震性貯水槽40m3を設置しています。農業用水は、いろいろな役割を果たしています。みんなで大切に利活用し、いつもきれいにしましょう。その先に比較的新しいモニュメント的な『常夜燈』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.30
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この日は11月4日(水)、NHKのニュース放送で「軽井沢の雲場池の紅葉が見頃になっている」との映像放送があり「行って見たい」といつもの旅友に連絡し、前日の夜から軽井沢に向かって茅ヶ崎を20:20に出発。国道468号で相模原までひたすら北上し、国道16号で埼玉県入間市河原町交差点を左折し、東松山市を経由して国道254号を八高線に沿って進む。そして富岡市を経由して安中市から国道18号(中山道)で信越本線の横川駅前を通り、碓氷峠を経由して軽井沢に到着したのであった。到着時間は11月4日午前2時前。途中、朝までの仮眠用の睡眠薬のアルコール販売のコンビニを探して、走り回ったが、コロナ禍の影響で全て閉店していたのであった。私は自宅から持ち込んだワンカップを1本飲み干して車の助手席で朝の5時半頃まで仮眠が取れたのであった。そして車を駐め仮眠をとった「雲場池」近くの駐車場。駐車していたのは我々の車1台のみ。そして「雲場池」に向かって徒歩で進む。別荘の入口門であろうか。駐車場から数分で「雲場池(くもばいけ)」に到着すると、既に数人のカメラマンが。ここは長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢、番地はないのであろうか?「雲場池四季折々の自然が美しい雲場池、特に、湖面に映る春の新緑、春の新緑、秋のもみじの紅葉は素晴らしく、軽井沢の必見の名所なっています。」かって白鳥が飛来したことから、「スワンレイク」という愛称で親しまれており、地元では「お水場」と呼ばれています。池の源は、上流にある、ホテルの敷地内から湧き出ています。この湧き水は、江戸代よリ水質が良く、量が豊富なため、本陣等に宿する武家諸大名・官公家門跡の御膳に使用されたことから、「御膳水」と呼ばれています。」こちらにも「雲場池」案内板が。「雲場池スワンレイクの愛称を持つ池で、初夏の緑と空の青さは何ともいえず美しく、秋の紅葉は色鮮やかに雲場池に映し出されます。せり出すように茂る木々が水面に影を落とし四季を通じて軽井沢ならではの風景を描いてくれます。」「雲場池」から流れ出る2本の白き帯が。ズームして。細長い形状からデーランボーという巨人の足跡という伝説が残るが、大正時代、この周囲一帯を別荘地として開発した貿易商野澤組の野澤源次郎がホテル鹿島ノ森の敷地内の湧水「御膳水」を源とする小川(雲場川)をせき止めて造った人造湖である とウィキペディアより。紅葉は今が盛りであったが、陽光が差し込むには、時間が早く。水面には、枯れ葉が浮いて。無風を期待したが、微風により水面も揺れて。そして野鳥も泳ぎ更に水面を揺らし。湖畔の遊歩道を左回りに進む。水面に映る紅葉を追う。きらぼし銀行 軽井沢保養所であろうか。紅葉をズームで。折返しの橋を渡る。橋の下の湧水量はこの日は多く。「雲場池」の下流側を望む。木橋を振り返る。この真紅の葉もエピローグを迎え。「雲場池」の入口方面に向かって遊歩道を進む。真っ赤な紅葉を追う。そして「雲場池」をほぼ1周してスタート地点に戻る。「カルガモさん 動かずに静かに波をたてないで」と我儘にも!!こちらは「マガモ」の雄であろうか。水面に映る紅葉を期待していたが・・・・。「池見橋(いけみばし)」から。下流側の水は「精進場川」に流れ出ていた。別荘であろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.24
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク鎌倉市大町の住宅街を東に向かって進む。「花咲橋」を渡る。下を流れる川は「逆川(さかさがわ」。更に進むと左手にあったのが「花ヶ谷花咲地蔵尊」。石の祠の中に安置され、さらに屋根が懸っていた。鎌倉市大町4丁目14−8。扁額「花咲地蔵尊」。「花咲地蔵尊縁起」碑が建っていた。「嘉禄元年(1225年)足利直冬ガ祖先ノ菩提ヲ弔フタメニ此ノ谷ニ慈恩寺ヲ建立シ境内ニ四季花ノ絶エナイヨウニ植エタノデ花谷ト呼ブ此ノ地蔵尊ハソノ境内ニ祀ラレタモノト伝エラル昔ヨリ多クノ里人ガ親シク信仰セラレマシタ」。大町花ヶ谷にあった慈恩寺は、足利尊氏の子直冬の菩提寺だったといわれている。「足利直冬」👈リンク の生年はわかっておらず、没年は1387年とされている。幼名は新熊野(いまくまの)。足利尊氏の次男として生まれ、兄に竹若、弟に義詮、基氏らがいる。尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻した時、鎌倉にいた竹若、直冬は命の危険にさらされる。1332年、竹若は北条の手にかかり殺害されてしまうが、東勝寺の喝食をしていたとされる直冬は生きながらえた。そのため、実質的な長子と考えられる。境内には、数百種の草花が植えられ、四季を通じて絶えることなく花が咲いていたため、慈恩寺のあった谷を「花ヶ谷」と呼ぶようになった。慈恩寺は、1323年(元亨3年)にはその存在が確認されていることから、鎌倉時代後期には創建されていたものと考えられている。開山は桂堂士聞という説もあるが定かではない。花ヶ谷の花咲地蔵尊は、慈恩寺の境内に祀られていたと伝えられている。ズームして。祠の左後方には五輪塔が並んでいた。更に進むと大町4丁目にあった橋の袂にあった案内板。真っ直ぐ進むと「釈迦堂口切通」👈リンクであったがここも以前に訪ねており、現在でも通行禁止になっているようであった。そして右に行くと「黄金やぐら」。200m先の「黄金やぐら」に向かって進む。「逆川」に沿って進んで行った。前方左に青のフエンスが現れた。事前チェックでこの場所が「黄金やぐら」のある場所と確認済み。「黄金やぐら「やぐら」とは、13 ~ 15世紀に鎌倉地方で流行した墓の一様式です。やぐらの内部の水中に光ごけが発生し、のぞくと黄金色に輝いたことから黄金やぐらと名づけられたといわれています。」鎌倉市大町7丁目。「凹地」の隅に「やぐら」らしきものが確認できた。入口には雑草が生え、「やぐら」の中は確認できなかった。そして来た道をひたすら戻ったのであった。そして正面に「山門」らしきものが見えて来た。「ここは妙法寺」と。そしてここが「妙法寺」の「山門」入口。鎌倉市大町4丁目7−4。「妙法寺(みょうほうじ)ここは、布教のため安房(千葉県南部)から鎌倉に入った日蓮聖人が、最初に草庵、いわゆる松葉ヶ谷御小庵を結んだと伝えられている地です。辻説法などで他宗を批難したため草庵が焼き打ちされた「松葉ヶ谷の法難」の場所もこのあたりであるとの伝承があります。のちに護良親王の皇子である楞厳丸(りょうごんまる)(日叡)が、悲壮な最期を遂げた父母の供養と日蓮聖人の遺跡を守るためにこの寺を建て、山号を楞厳山としました。本堂は、細川家の寄進による見事な欅造りです。護良親王の墓がある山頂からは、市街地と海を見渡せます。● 宗 派 日蓮宗● 山号寺号 楞厳山妙法寺(りょうごんざん みょうほうじ)● 建 立 延文2年 (1357)● 開 山 日蓮聖人(中興開山 日叡上人)」「妙」の漢字が入る鎌倉市内の日蓮宗関連の寺は妙法寺、妙長寺、妙典寺、妙隆寺、妙本寺、妙法寺(大町)、妙法寺(山崎)、妙伝寺、妙信教会、妙法教会の十寺。臨済宗建長寺派の寺として、妙高院、浄妙寺のニ寺 があるのだ。「境内案内図」。 【https://omairi.info/2018/08/29/myouhou-tpl-keidaisanpo/】より「文学案内板 妙法寺境内〇 汾陽(カワミナミ)昌子句碑 鵯されば笹子しづかに来てをりし 晶子 昭和63年8月 妙法寺四十四世日新建立 晶子(1922年生まれ、虚子門下。青苔句会主宰)〇 星野立子句碑 美しき苔石段に春惜しむ 立子 昭和58年6月 妙法寺四十四世日新建立 立子(1903-84、『玉藻』主宰)〇 桃林坊・日慈・牛長句碑 当山参詣の折柄御宝前の鏡に、富士山のありありとうつりまししを拝して 露しぐれはれて鏡にむかふ富士 桃林坊 小春となりの海のおだやか 当山三十三世 日慈 松か枝のさか行月にかり寝して 二世 牛長 嘉永元年8月 東都駒込高崎屋本店建立」「松葉谷御小庵霊跡 妙法寺」碑。前方右手に拝観受付。コロナ禍の影響で閉まっていた。臨時休業のお知らせ本日はご参拝いただきまして誠にありがとうございます。この度当山は、新型コロナウイルス感染拡大の防止の為、当分の間、奥の院(苔の石段等)への観光をお休みいたします。朱印・首題もお休みします。参拝の皆様 檀信徒 従業員 寺族の安全を確保するための処置です。ご理解のほど、よろしくお願い申し上げます。 当山山主その先の寺務所にも同様な掲示が。汾陽(かわみなみ)昌子句碑「鵯(ひよどり)されば笹子(ささこ)しづかに来てをりし 晶子」昭和63年8月 妙法寺四十四世日新建立晶子(1922年生まれ、虚子門下。青苔句会主宰)「本堂」。鎌倉に入った日蓮が結んだ庵は「法華堂」と称され、その後、本国寺として創建された。その本国寺は、鎌倉幕府滅亡後、第四祖日静の代に足利尊氏のすすめによって京都に移され、その跡地に日叡が妙法寺を建てたのだという。現在の「本堂」は、肥後細川家が江戸時代に建立したもの。格天井や板戸の画は当時のままだといわれる。鎌倉妙法寺とは、日蓮「松葉ヶ谷草庵」跡を自称している日蓮宗寺院。楞厳山妙法寺という。日蓮の「松葉ヶ谷草庵跡地」としては、鎌倉・「安国論寺」以外にも、いくつかの説があり、そのうちのひとつがここ鎌倉・「妙法寺」である。見事な「本堂」の向拝の彫刻。「本堂」の扁額「楞厳山」。寺務所。そして「惣門」。この日は閉まっていた。隙間から「仁王門」への参道、石段を見る。そしてこの日は新型コロナウイルス感染拡大の防止の為、当分の間、奥の院(苔の石段等)への観光をお休みとのこと。よって、数年前の同じ時期?に訪ねた時の写真を掲載します。「大覚殿」「大覚殿」の内陣には、中央に釈迦如来立像、向かって左に妙法稲荷福禄大明神、向かって右に木造加藤清正公坐像が安置されている と。加藤清正公坐像は、もともと熊本城天守閣に安置されていたが、加藤家の後に熊本藩主となった細川家より寄贈された と。「仁王門」。「仁王像」(右)。「仁王像」(左)。「扇塚」。仁王門の傍らに建てられた塚。「扇塚」の字は、作家里見弴の筆によるもの。4月には、使い古された舞扇を持ち寄って供養し、歌舞の上達を祈念する扇供養が行われているのであるが今年も・・・・?。「苔の石段」の斜面には、鎌倉で過ごした俳人・星野立子の句碑があった。「美しき 苔石段に 春惜しむ 立子」。そして「苔の石段」仁王門から釈迦堂跡に続く石段で、苔に覆われており、このため妙法寺は別名「苔寺」、「苔の寺」とも呼ばれる。苔の保護のため通行止めとなっており、脇に新しい階段が作られているのであった。「化粧窟」。左に「苔の石段」、右手の「法華堂」への石段を上って行った。「仁王門」を裏側の石段の上から見る。「法華堂」。「法華堂」を横から。「日叡上人御手植えのソテツ」。法華堂の隣、苔石段の上部正面には、釈迦堂跡があり、釈迦堂跡前を真っ直ぐ進むと鐘楼があった。「奥の院御小庵趾」。釈迦堂跡左手、鐘楼脇の階段上にあり、日蓮が20数年に渡って住んだ松葉ヶ谷草庵跡とされる。「南の方御墓」。 南の方は日叡上人の母。「楞厳山親王日叡上人御墓」。「日蓮聖人塔」が手前に。「護良親王(大塔宮)御墓」後醍醐天皇第三王子であり中興開山・日叡の父である護良親王の墓。小庵趾より右手に登った山頂にある。なお、護良親王の墓とされるものは鎌倉市二階堂の「理智光寺跡」👈リンク にもあり、そちらが正式な墓として宮内庁管理下にある。護良親王御墓は、後醍天皇第三皇子の御墓。御年二十八と若くして亡くなってしまった。護良親王御墓から先は行き止まりなので、階段を下り御小庵趾まで戻り更に石段を下ったのであった。そして「妙本寺」を後にして、「安国論寺」へと向かう。「妙法寺道」の四辻の両脇には石碑が。右に「高祖御小庵之本土」碑。題目碑「南無妙法蓮華経」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.31
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小出川の彼岸花の散策を続ける。二本の曲線の帯が。朝の陽光に輝く「曼殊沙華」。ヒガンバナ(彼岸花)の花言葉の一つに「情熱」が。三角形のコラボ。「小出川」沿いの田んぼの一部だけ既に稲が刈り取られた場所も。溢流で倒れ、水に浸かってしまった為急遽の対応か?この場所は例年と変わらぬ光景が。「ヒガンバナ(彼岸花)は、ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草である。別名は曼珠沙華(マンジュシャゲ)、学名からリコリス・ラジアータとも呼ばれる。中国原産で、日本全国の道端や田んぼのあぜなどに群生し、秋の彼岸のころに、花茎の先に強く反り返った鮮やかな赤い花だけが咲き、夏の終わりに葉が伸びて秋に枯れるという、多年草としては珍しい性質を持っている。地下の鱗茎(球根)に強い毒性がある有毒植物であるが、かつて救荒作物として鱗茎のデンプンを毒抜きして食べられていた。」とウィキペディアより。「有毒植物として知られており、特に鱗茎に作用の激しいアルカロイドを約0.1%含んでいる。アルカロイドは、リコリン50%、ガランタミン、セキサニン、ホモリコリンなどを多く含む。リコリンの語源はヒガンバナ属の学名「リコリス」に由来するもので、経口摂取すると流涎(よだれ)や吐き気、腹痛を伴う下痢を起こし、ひどい場合には中枢神経の麻痺を起こして苦しみ、最悪の場合は死に至ることもある。日本では水田の畦や墓地に多く見られ、人為的に植えられたものと考えられている。その目的は、畦の場合はネズミ、モグラ、虫など田を荒らす動物がその鱗茎の毒を嫌って避ける(忌避)ように、墓地の場合は虫除け及び土葬後、死体が動物によって荒されるのを防ぐためとされる。モグラは肉食のためヒガンバナとは無縁という見解もあるが、エサのミミズがヒガンバナを嫌って土中に住まないために、この草の近くにはモグラが来ないともいう。」とこれもウィキペディアより。川沿いの彼岸花の数には濃淡があるが、これぞ「栽培」ではなく「自然の姿」なのであった。この水田の稲も収穫間近に。今年の出来栄えは如何に?「実るほど頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな」!!いつまでもこうありたいが。いや既に「実る」ことには縁が薄くなったが・・・・。小出川には酸素も溶け込んで。2日前の濁水が嘘のように清き流れに。再び富士山の勇姿と彼岸花の咲く田園風景とのコラボ。富士山にズームして。この場所は溢流が激しかったのであろう。箱根・二子山の姿であろうか?秋の実り・稲穂と秋の花・彼岸花のコラボ。それぞれ6個の花それぞれに雄蕊と雌蕊がヒゲの如くに。雄蕊と雌蕊の間を赤い糸、いや蜘蛛の糸が。オシロイバナも負けじと。この場所には幾筋もの赤き帯が。風雨で倒れた稲も。小出川沿いの場所であり。溢流の勢いが激しかったのであろうか。小出川の堤防の外の畦道にも一筋の赤い帯が。再び赤のカーブを追う。畦道に咲くミニひまわり(向日葵)も満開。富士山と。彼岸花と。ミニ向日葵をズームで。富士山を再びズームして。長閑な風景をカメラで追う。これぞ日本の原風景なのであった。カメラの向きを変えて。大山の姿も。そして帰路に。この橋は「追出橋」。横の下流側の巨大な管は神奈川県企業庁寒川浄水場からの水道用管。相模川の寒川取水堰でとられた上水道用の水が横浜市の小雀浄水場へ流れている。水管橋の銘板横浜市水道局「小出川水管橋」昭和44年11月竣工三菱重工業株式会社横浜造船所小出川の上流側を見る。幟が立っているが花の数は少ない場所なのであった。そして帰宅しこの日の朝の我が家の花を。白の彼岸花。コルチカム(イヌサフラン)。植えっぱなしの球根であるが毎年この時期に。朝の酔芙蓉は純白で。コムラサキの実。花期が終わり、この時期になると、紫色の美しい実をつけるのです。 実は最初は緑色の実をしている。 しかし、時間の経過とともに、実の色は変化し、綺麗な紫色に変身。そして紫のサルビアも頑張っています。そしてこの日・9月21日(火)の翌日は「中秋の名月」👈リンク なのであった。 【https://www.pinterest.jp/chiisan1204/9%E6%9C%88/】より『富士山に繋がる帯は曼珠沙華』・・・・詠み人知らず ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2021.09.24
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次に訪ねたのが「田原坂公園」、 駐車場に車を駐め散策開始。駐車場横にあった「田原坂」案内板。熊本県熊本市北区植木町豊岡 字舟底858-1。「壮絶!日本最大・最後の内乱の地征韓論に破れ下野した西郷隆盛は、明治十年ニ月一四日私学校党と共に挙兵。これに対し大久保利通ら明治政府はニ月一九日征討令を受けて出兵。ここに約八ヶ月に及ぶ西南戦争が始まった。薩軍は熊本城を総攻撃したが熊本鎮台は落ちず、第一四連隊を敗って北上。しかしニ月ニ五日以降、征討軍が南下し反撃。田原坂で両軍は死闘をくり返した。その後、田原坂が敗れ、熊本城の包囲も背面軍により突破されるに及んで四月一五日薩軍は城北、熊本城より撤退。以後御船、矢部、人吉と敗退を続け、八月一五日宮崎県長井村にて降伏。西郷らは可愛嶽を突破し、鹿児島に戻り城山に籠ったが九月ニ十四日城山にて全滅。ここに日本最大、最後の内乱は終わった。熊本県下で官軍を例にとれば、西南戦争の約七〇%が戦死、県北では五〇%に達するという。県下各地に当時の激戦を偲ばせる戦跡が数多く残っている。」「西南の役年表」同様な内容をネットから。【https://blog.goo.ne.jp/yokkun1949/e/de79ffe026e3b083bde8657dbf0a51ba】より西南の役激戦の軌跡(大略) その1西南の役激戦の軌跡(大略)、その2「田原坂の大戦争」の錦絵。明治十年五月十七日御届右図の山冠に清の版元印より山崎屋清七が版元 と。右図 : 三浦少将・三好少将中図:野津少将左図:桐野利秋「頃日木溜吉次等の戦争に賊兵種々の計策をかまへて戦ひけるが中にもわら人形の計策にハ官兵是を真の賊兵と思ひ我先に乗入打取んとどつとおめいて胸壁に近く進みし折から左右の樹木のかげより不意に撃出す砲声ハ山岳に轟きわたりておそろしけり」「田原坂公園」への石段を上って行った。一対の巨大な石燈籠。「田原坂公園周辺案内図田原坂明治10年の西南の役は、日本史上最大にして最後の内乱であり官薩両軍が国を想う真情と信念により戦われた一大血戦でした。西南の役で最大の激戦となったのが、明治10年3月4日から20日までの17昼夜にわたる壮絶なる田原坂の戦いです。西南の役では、参戦者約10万人・死傷者3万6千人を数え、ここ田原坂の戦いでは死傷者6千5百人にものぼる壮烈な戦いがくりひろげられました。この田原坂公園は、昭和32年に作られ、植木町では、西南の役の意義を後生に残すため田原坂資料館・弾痕の家建設・資料・遺品の保存展示、及び、付帯施設の充実など、田原坂の公園整備に努めています。また、毎年有志により植木町西南の役田原坂慰霊祭などが実施されています。」「田原坂公園周辺案内」用の地図。田原坂公園には、熊本市田原坂西南戦争資料館や激戦の跡が生々しい弾痕の残る家(復元)や慰霊塔も建っており、現在はツツジや桜の名所としても知られている と。「西南戦争戦災の土蔵」(復元)。「西南戦争戦災の土蔵西南戦争当時、田原坂の頂止(植木町大字豊岡字休居二二四四番地)にあった松下彦次郎家の土蔵は、両軍の銃弾で無数の疵を受けました。田原坂の戦い直後に長崎の写真師上野彦馬氏撮影の写真と、明治十三年頃に、熊本の写真師富重利平氏撮影の写真が残されています。(明治二十四年に松下家は、他県へ転出されていますので、その頃土蔵は、取り壊されたかもしれません。)植木町では昭和六十三年に、富重氏の写真を参考にして、土蔵を復元しました。」。激戦の跡が生々しい弾痕の残る土蔵(復元)。平成元年に落成した「弾痕の家」。土蔵の正面入口。「田原坂の激戦と博愛社「日赤」の創立我が国最大最後の内戦、西南戦争(1877年・明治10年)。その中で最も激しかった田原坂の戦い。それは悲慘な日本人同士の戦いであった。この痛ましさを知り、欧州での赤十字社活動を見聞した佐野常民、岩倉具視らは、「敵味方の区別のない救護を」と願った。そして、博愛社の設立を直訴し、設立うかがい書を提出した。設立は直ちに裁可されなかったが、この間、陸軍の西郷従道は「すでに、捕虜の傷者も病院(官軍)にて治療している」旨、岩倉に答えた。田原坂、植木木留の戦いにおいて両軍負傷者が治療されたという伝承も残っている。4月8日、皇太后、皇后より傷病者へ、リント布20巻、白木綿500巻が贈られるなど、天皇、皇族も当初より、心を寄せられた。こうして5月1日、征討総督有栖川宮より、佐野常民に博愛社設立が許可された。当初、博愛社救護所は、木葉(玉東町)に置かれ、田原坂 植木町木留の負傷者等も治療したという。今日も、日赤と皇族方の関わりは深く、その原点である田原坂を度々訪れられている。」土蔵の反対側の壁にも多くの弾痕が。「西南役田原坂 百周年記念碑」。「境米蔵翁之像」。植木町の初代町長(3期)・名誉町民であると。「翁は明治三十年十月二十日桜井村(現植木町)大字平野四ニ一番地境源太郎氏の二男として生を受け山本高等小学校卒業後農業を営み齢四十にして村会議員に選ばれその間村消防団長の職に在ること十年昭和二十二年四月地方自治法施行とともに桜井村長に当選昭和二十六年四月県議会議員に当選昭和三十年一月町村合併促進法に基き現植木町が発足するや同年二月初代町長に就任連続三期在職その間町財政窮乏の中に小中学校々舎新築保育所の整備公民館および病院の建設を行ない産業の振興に工場誘致等の繁栄と住民福祉の増進に貢献し、西南役田原坂史跡顕彰には当時荒廃に帰しつつあったこの地域を整備し官薩両軍戦没者慰霊塔の建立記念館の建設周辺の公園化には一般有志の浄財の外多額の私財を投じその功績は世人の斉しく称賛するところである。翁は町長在職中県町村会副会長郡町村会長郡社会福祉協議会長等の要職にあり自治功労者として全国町村会長熊本県知事から表彰を受け昭和四十二年秋の叙勲に勲五等双光旭日章を四十九年日赤功労者として日本赤十字より金色有功章を受章同年秋の宮中園遊会には翁は千代夫人とともに無上の光栄に浴された。翁はまた熊本県相撲連盟会長司家相撲会長要職を兼ね特に社会体育振興に意を用いられその功績により全国社会体育功労者として文部大臣の表彰を受けられた。昭和四十六年二月再び植木町長に就任昭和五十年二月任期満了勇退後名誉町民の称号を受け晩年は悠々自適の日を送られたが突然病を得て昭和五十三年一月二日八十年の生涯を終られた。同日勲四等に叙せられ瑞宝章が贈られた。ここにわれら一同相図り翁の功績をたたえこれを永く後世に伝えんと町内の有志の賛同を得て浄財を募り銅像を建立したものである。」西郷隆盛と谷干城の顔出しパネル。「熊本市田原坂西南戦争資料館」。平成27年(2015)11月、「近代日本の夜明けを学び伝える歴史学習施設」を基本コンセプトに新装オープンした。映像・音・振動・ジオラマで戦いの様子をリアルに再現した体感展示や、実際に使われた銃や弾、古文書等の貴重な資料の展示など、西南戦争に至る時代背景や意義について分かりやすく展示してある。また、西南戦争が日本赤十字社発祥のきっかけとなったことも受け、平和の大切さについても伝えている。「熊本市田原坂西南戦争資料館」。館内の様子。館内の様子。周囲の山々。公園内案内表示に従い進む。右手に石碑が。「薩摩塚」碑。「薩摩塚(古塚)この塚はかって旧植木町役場入口と国道三号線との交差点付近(植木町大字一木字西屋敷三番地)に建てられていた。戦国頃の島津との戦いにおける戦死者を葬ったと伝えられる塚がかってここにあったという。明治十年の西南の役における薩軍戦死者約二十名が戦後地元住民の手でここに合葬された記録が残っている。その後遺骨の一部は遺族の手に引き取られたとの説もある。のち土地所有者松永勇氏によりこの石碑が建てられた。昭和四十三年三月バイパス道新設のため撤去されることとなりここに移され現在に至っている。」「戦没者慰霊碑」。「西南役戦没者慰霊之碑」と。「西南の役戦没者慰霊之碑この慰霊碑は、明治十年(一八七七)の西南の役で戦死された官軍六九ニ三名、薩軍七一ハ六名、殉難者ニ九名の御霊の安らかならんことを願って建立したものです。西南の役は、明治維新における新政府の施策をめぐる相反した意見の対立が膨らみ、ついに国内史上最大最後の内乱、西南戦争勃発に至ったのであります。国の安寧と民族の発展を希求して止まなかった前途有為な青年たちが、立場こそ官薩両軍に別かれて熾烈な戦いを行いましたが、国を憂う志士たちの熱膓は異なるところはなく、骨肉相喰む悲劇という外はありません。植木町では、ここ激戦の地、田原坂に全戦没者の御霊を慰霊し崇高な精神文化の遺産を継承し町づくりの象徴とするため、碑の建立を行い、先人と共に顕彰に努めております。戦没者名簿の編さんに当たっては資料収集に東奔西走、懸命の努力をもって掘りおこしに臨んだものの、必ずしも完全なものとはいえません。戦没から百ニ十年の歳月は多くのことを遠くにし、資料の不鮮明さや氏名不詳で判明できず、同音異語なども含めご理解をいただきたいと存じます。この名薄編さんには、後記の資料と、ご協力いただいた関係各位、とりわけ地元歴史家「中村稲男」氏の献身的なご努力に基するところが大きく、感謝するところであります。今後とも不明者への慰霊の念を絶やさず継続して調査を行い完了をめざす所存であります。お気づきの点がこざいましたらご遠慮なくお申し出ください。」薩軍の戦没者。官軍の戦没者。正面に馬上の少年像が。「美少年像」。「雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂 右手に血刀 左手に手綱 馬上ゆたかな美少年」。平成2年(1990年)10月、植木町建立。正面?から西南戦争では、若者、それも失われゆく"侍"という生き方への熱病にかかった純粋な若者が多くの命を散らしたのだと。顔をズームして。「馬上ゆたかな美少年」。「この美少年像は西南の役田原坂の戦いで散った若者たちすべての象徴である」。楠木の巨木の周囲にも石碑が。「金峰山県立公園 田原坂」案内板も。「田原坂古戦場田原坂わが国最後の内乱、西南戦争の古戦場です。熊本城篭城軍を救援しようと南下する政府軍とこれを阻止しようとする薩軍が死闘を演じたところで、当時の田原坂は熊本市へ通する雎ーの拠点であり、そのため明治10年( 1877年)3月4日なら17昼夜にわたり、白兵戦が繰り広げられたのであります。死傷者4000余を出したこの丘も、現在は公園化され、記念碑等が建てられています。」「九州自然歩道(田原坂・二の岳コース)田原坂の戦跡西南の役最大の古戦場であるこの附近は、明治10年3月4日から17昼夜に及ぶ激戦地で、当時は昼尚倉木森林の中の主要道路で、大砲や弾薬を運ぶには外に道はなく、麓から頂上に達する落差60mの切通した田原坂(一の坂、二の坂、三の坂)には、官軍、薩軍双方が砦を築き一進一退の大攻防戦が展開された。結果は薩軍が敗退したが、この間7日間はみぞれ混じりの雨又は雨の連続であったと伝えられる。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.13
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【ベル数】(英: Bell number)は、『n個のものを分割(もしくはグループ化)する方法の総数にあたる数である。』n番目のベル数を Bn とし、B0 = B1 = 1 と定義する。Eric Temple Bell にちなんで名付けられた。例えば 3個のものをグループ化する方法の総数は5通り(後述)であるので 3番目のベル数 B3は5である。ベル数を1から小さい順に列記すると1, 1, 2, 5, 15, 52, 203, 877, 4140, 21147, 115975, 678570, 4213597, 27644437, 190899322, 1382958545, 10480142147, 82864869804, 682076806159, 5832742205057, 51724158235372, 474869816156751, 4506715738447323, 44152005855084346,・・・・・。★計算例と性質a, bの2つの要素を各要素の順番を問わずグループ化する方法は{a}, {b}{a, b}の2通りであり、よってB2 = 2。a, b, c の3つの要素を各要素の順番を問わずグループ化する方法は{a}, {b}, {c}{a}, {b, c}{b}, {a, c}{c}, {a, b}{a ,b, c}の5通りである。よって B3 = 5 となる。同様に B1 = 1 であり、B0 は空集合(0個の要素)をグループ化すると考えて B0 = 1 とする。a, b, c ,d 4つの要素を各要素の順番を問わずグループ化する方法は{a}, {b}, {c}, {d}{a}, {b, c, d}{b}, {a, c, d}{c}, {a, b, d}{d}, {a, b, c}{a,b},{c,d}{a,c},{b,d}{a,d},{b,c}{a},{b},{c,d}{a},{c},{b,d}{a},{d},{b,c}{b},{c},{a,d}{b},{d},{a,c}{c},{d},{a,b}{a ,b, c, d}の15通りである。よって B4 = 15 となる。したがって、ベル数B(n)も順次求められる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.08
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この日は7月25日(火)、「藤沢市教育文化センター」で開催された「令和5年度 藤沢市文書館歴史講座」「大庭御厨(おおばみくりや)の歴史的意義」に事前申込をし、参加しました。「大庭御厨」は、相模国高座郡の南部(現在の茅ヶ崎市、藤沢市)にあった、寄進型荘園の一つ。鎌倉時代末期には13の郷が存在した相模国最大の御厨(伊勢神宮領)である。私の住む場所も、「大庭御厨」に含まれる場所であることを知ったのは、高校時代であった。大庭御厨は長治元年(1104年)頃、鎌倉景正が大庭郷を中心に山野未開地を開発したものである。伊勢恒吉の斡旋で永久5年(1117年)伊勢神宮に寄進した。鎌倉景正は後三年の役(1083年 - 1087年)の勇者として有名である。大庭御厨の境界は、東は俣野川(藤沢市の境川)、西は神郷(寒川)、南は海、北は大牧崎だった。大牧崎はこれまでの研究で亀井神社南側一帯を指すと考えられているとのこと。田地の面積は、久安元年(1145年)で95町、鎌倉時代末期には150町に達した。(1町≒3,000坪≒10,000m2)大庭郷の成立は、9世紀以前と思われる。「大庭」「庭」も祭司の場を意味すると言う。現在も藤沢市に大庭の地名が残る。御厨は天皇家や伊勢神宮、下鴨神社の領地を意味する と。自宅から神奈中バスを利用して、「白旗神社前」で下車。藤沢市民病院方向に進む。右手に「ショッピングモール トレアージュ白旗」。神奈川県藤沢市藤沢2丁目3−15。こちらは、「ハックドラッグ藤沢白旗店」。途中、左折し、境川につながる「白旗川」に架かる「人道橋」を渡り、「御殿辺公園」方向へ。御殿辺公園(ごてんべこうえん)【通称:白旗公園】。名前の由来は、この近くに徳川家康が建てた「藤沢御殿」があったことによる。1984年(昭和59年)3月に、約1.1ヘクタールの面積の公園として整備された。西に白旗神社、東に藤沢市民病院と隣接している。秋になると黄葉が美しいイチョウ並木の道路を進む。右側奥には「藤沢市民病院」が見えた。御殿辺公園内には、はちの巣をモチーフにしたカラフル遊具が。そして、正面に「国道1号・藤沢バイパス」下を潜るカルバートが姿を現す。この道は「藤沢404号線」とのこと。歩行者専用道路・自転車は降りて通行して下さい と。カルバートの壁には様々な絵画が描かれていた。制作は、この日の目的地の「藤沢市教育文化会館」の隣にある神奈川県立藤沢清流高等学校の美術部の生徒達によるものと。様々な花が描かれていた。その先には自然の長閑な風景が。蝶やパンダが。ふたこぶラクダ。フラミンゴ。フラミンゴが紅色なのは、餌であるエビやカニ由来のβ-カロテンやカンタキサンチンによるものであるらしい。キリン。魚の絵も。熱帯魚。オヤビッチャに似ていたが。クラゲやタコ。クジラ。制作者のサインもイニシャルで。そしてその先にあった遊水池にはスイレンの赤い花が。ズームして。蓮の花も開花中。蓮の群生場所。そして右手には「藤沢市民病院」が見えた。「藤沢市立白旗廻り第三公園」。そして「境川」に架かる橋が見えて来た。「鷹匠橋」。境川左岸の藤沢市大鋸と右岸の藤沢市白旗1丁目・2丁目とを結び、市道藤沢409号線が通る。橋の手前に海から6.5km標識、左岸下流に下水用の大清水吐口ゲートが接続されていた。下流の御殿橋付近に徳川将軍家の御殿(別荘)や陣屋が在り、江戸時代に鷹狩りの場でもあったそうで、橋名・「鷹匠橋」はそこからと。「境川」。「鷹匠橋」を渡る。名称:鷹匠橋構造種別:1径間PC桁河口からの距離:6.5km橋の長さ:33.5m有効幅員:11m完成:1990年(H2)。下流方向を見る。国道1号・藤沢バイパスに架かる「境川大橋」を見る。歴史を感じさせる橋名ですが、欄干には半透明ガラスにスミレとチョウを描いた洒落たステンドグラス風な絵が飾られていた。橋の欄干にも同テーマの作品が。上流側を見る。こちらにも。「藤沢市民病院」を再び。「境川」沿いの道を北に進むと、左手高台にも学校の校舎が見えた。「聖園(みその)女学院高等・中学校」と。右手道路沿いには「藤沢市立大清水中学校」。1984年(昭和59年)4月2日 - 開校大清水小学校と俣野小学校、藤沢小学校と本町小学校の卒業生の一部が入学する とのこと。さらに「境川」に沿って進む。この場所は「大清水境川アジサイロード」👈リンク と呼ばれ、6月には美しいアジサイの花が楽しめるのだ。そしてこの日の受講会場・「藤沢市教育文化センター」に到着。 神奈川県藤沢市大鋸1407−1。「掲示板」。「藤沢市教育文化センター」👈リンク 案内と講演会「学校はなにをするところ?」案内書。「藤沢市教育文化センター」。 ・・・つづく・・・
2023.08.16
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首都高速5号池袋線下の神田川から流れ込む「日本橋川」沿いの桜並木を歩く。「日本橋川」は、小石川橋下流で神田川から分流し、日本橋を経て隅田川に注いでいる河川。右手に案内板があった。「讃岐高松藩上屋敷の土蔵跡」案内板。千代田区飯田橋3丁目10。「讃岐高松藩上屋敷の土蔵跡飯田橋二丁目から三丁目に広がる飯田町遺跡からは、讃岐高松藩(現在の香川県)の上屋敷跡が発掘されました。上屋敷は1706年(宝永3年)に幕府から与えられたもので、藩主が住み、政務を執り行った屋敷です。12万石の領地を支配した高松藩松平家は、初代藩主松平頼重(まつだいらよりしげ)が水戸藩2代藩主徳川光圀の兄にあたり、徳川御三家である水戸藩ゆかりの大名でした。発掘調査では御殿をはじめ庭園跡、上下水道跡、土蔵跡などが見つかっています。土蔵跡の基礎には、大きな礎石の下に木の土台が用いられていました。その礎石は、現在川沿いの遊歩道のベンチに再利用しています。」「遺跡北半(I区)の出土状況と土蔵基礎の蝋燭地業(ろうそくじぎょう)」。表面の地盤が悪い場合で、しかも良質な地盤までが浅いときは、蝋燭状の石材をたてて基礎を支持させることがある。この時の石を蝋燭石とよび、こうした地盤改良を蝋燭地業という。「日本橋川」の上部には首都高速5号池袋線が走る。その先に中央線の車輌が見えた。潮位の影響でゆっくりした流れは逆の神田川方向に。ズームして。手前が「日本橋川」に架かる「新三崎橋」その先にJR中央線そしてその先に「神田川」。「日本橋川」と「神田川」の流れ。「ガーデンタワー」と「トミンタワー飯田橋三丁目」の間の中庭・公開空地を歩く。大きな石には文字が刻まれていた。「平川の径かって、この付近には「平川」という川が流れていました。平川は江戸時代初期の大工事により、現在の神田川に流れを変え、当時の古地図にのみ名残りを留めていました。この「平川の径」は、讃岐高松藩上屋敷 の遺構 の下より発見された平川の護岸石 を用い、往時を偲ぶ小径としました。」千代田区飯田橋3丁目10。さらに広場を南方向に進む。右手にも文字の刻まれた石が。「讃岐高松藩上屋敷庭園跡かって、ここには讃岐高松藩上屋敷がありました。その庭園には景石と中島をもつ泉水があり、釣り遊びの浮きも出土しています。ここに遺跡調査により発掘された泉水の護岸石や景石をほぼ当時の位置に配し、往時の名残といたします。」千代田区飯田橋3丁目10。「平川の径」現在の日本橋川と平行するあたりに江戸初期には平川という川が流れ、その下流の江戸城正面あたりは水害に悩まされていた。そのために、平川は埋め立てられて神田川へ流されるように流路変更されたと。現在神田川は小石川橋のところで日本橋川へつながっているが、これは明治になって再び掘られたもの。屋敷の遺構の下から川の護岸石が多く発掘されたと。アイガーデンエアに平川の流れを再現した小路が作られていた。石垣から江戸前期の地形、平川の流れを感じることが出来たのであった。反対側から「平川の径」を振り返って。「東京しごとセンター(旧シニアワーク東京)」下の広場にあったパブリックアート。千代田区飯田橋3丁目10。「ひかり・空中に」伊藤隆道。流麗な螺旋形が特徴的な作品。近づいて。球体から反射した光が上空に舞い上がるが如くに。再び「目白通り」に戻る。角にあったのが「飯田橋散歩路 歴史のプロムナード」。千代田区飯田橋2丁目8。「歴史のプロムナード(プロローグ)昔々、縄文時代の頃、このあたりは波の打ち寄せる入江でした。その後、海は後退して、葦の生い茂る広い湿地となりました。徳川家康が江戸に来て大規模な築城工事が行われ、このあたりは湿地から旗本屋敷にかわりました。九段坂、中坂を中心とした元飯田町は、町人の町として 賑わいましたが、明治になって旗本屋敷の後は住む人もなくなり、一時は大変さびれました。しかし、次第に賑わいを取り戻し、現在のようなビル街に変わりました。この飯田橋散歩路に標柱を建て、この町の移りかわりを示します。」飯田橋からに九段下通じる目白通り沿いには多くの歴史の標柱や地図版が並んでいたのであった。そして「目白通り」の反対側にあったのが「徽章業(きしょうぎょう)発祥の地」石碑。徽章(きしょう)とは、主にバッジ(Badge)、メダル(medal)のこと。千代田区飯田橋1丁目7。「徽章業発祥の地この奥、大神宮通り向って左側に明治18年(1885)、鈴木梅吉により日本帝国徽章商会が創られました。これは民間の徽章業(きしょうぎょう)のはじめて、特に明治末期、大正の初期においては日本で唯一の徽章(きしょう)の製作工場として大変栄えました。現在の徽章業(きしょうぎょう)の方々の大多数は、この商会の流れを汲み、徽章業(きしょうぎょう)は飯田町の日本帝国徽章商会から生まれたといわれています。そして現在もこのあたりは徽章業(きしょうぎょう)に従事する人が沢山います。」「飯田橋むかしむかし 明治のはじめ 1872年(明治5年)」。千代田区飯田橋1丁目5−8。まだ飯田橋は掛かっていませんが、神田川の南側には屋敷が立ち並んでいる。「目白通り」を九段下に向かって進む。そしてここには「北辰社牧場跡」石碑。千代田区飯田橋1丁目5。「北辰社牧場跡榎本武揚は明治の始め、北辰社牧場をここに開きました。幕臣榎本は文久2年(1862)オランダに留学を命じられ、当時のヨーロッパ事情や法律、化学などを広く習得しました。幕府が瓦解すると榎本は指揮下の海軍をひきいて函館までも転戦しますが、黒田清隆や山田顕義らの率いる官軍の軍門に下り、捕われの身となります。しかし、彼の新知識を惜しまれて許され、新政府では幾多の要職を歴任しました。一方、旧幕臣子弟のための育英黌農業科や北辰社牧場などを作りました。最盛期には乳牛が四、五十頭もいて新しい飲物、牛乳を提供していました。」再び「目白通り」を渡り反対側に。「台所町跡」石碑。「台所町跡江戸のはじめから元禄の頃まで、飯田町紙流通センターの所に江戸城の台所衆の組屋敷がありました。そして台所頭をはじめとして、台所衆、台所者と呼ばれる役人が住んでいました。武鑑にお台所頭、四百石、たい所町、鈴木喜左衛門と記されています。その後大名や、旗本の屋敷に移り変わりましたが、なお付近は台所町の名が残りました。」その横にあったのが「千代田区 総合防災案内板」。「千代田区 総合防災案内板」現在地はここ。ここにも「飯田町」案内板が。再び、現在地はここ。「飯田町かつてこのあたりは千代田村と呼ばれるのどかな農村でした。ここに飯田(いいだ)という地名が生まれたのは、徳川家康が江戸にやってきてからのことです。天正十八年(1590年)、江戸に入府した家康は、千代田村とその周辺を視察します。このとき案内役を買って出たのが、村の住人飯田喜兵衛でした。「所(ところ)の巨細(こさい)とも申上(もうしあげ)(土地のことについて、細かく詳しく申し上げた」(『新撰東京名所図会』より)という喜兵衛の案内に感心した家康は、彼を名主に任命し、さらに地名まで「飯田町」とするように命じたのです。以来、江戸の町の開発が進み、この界隈に武家屋敷がひしめくようになっても、飯田町という名前は残りました。ただし江戸時代の武家地は町名をもたなかったため、飯田町は通称として使われていました。飯田町が正式な町名となったのは、元飯田町や周辺の武家屋敷などが、飯田町一丁目~六丁目に再編された明治五年(1872年)のことです。ここには飯田町三丁目と同四丁目などが誕生しました。昭和八年(1933年)になると、区画整理によって飯田町三丁目の東側と同四丁目の南側、同五丁目の一部などが、新たに飯田町一丁目となります。さらに、昭和四十一年(1966年)住居表示の実施により、飯田町一丁目は、飯田橋一丁目、同二丁目などに再編されました。ちなみに、目白通りに対して西側は飯田橋一丁目に、東側は飯田橋二丁目として区分けされ、現在に至っています。」現在地は「酒井備中守忠讜(ただなお)の屋敷」であったようだ。「飯田橋一丁目」交差点。この辺りに「東京女子医大 発祥の地」石碑があるはずであったが。右手は工事地中であったので、一時避難中なのか?千代田区飯田橋1丁目1。これであったが・・ネットから。「東京女子医大 発祥の地吉岡彌生は 明治33年(1900)12月5日、この地にあった 至誠医院のなかに 東京女医学校を創立しました。翌34年4月、同校は牛込区市ケ谷仲之町に移転。 のちに 市ケ谷河田町へ移転して現在の東京女子医科大学に続きます。 吉岡彌生の至誠医院は明治41年(1908)に 旧飯田町四丁目31番地に移り,、関東大震災までありました。」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・iPhone 15 香港版 A3092 海外SIMフリースマホ【アルミボディでカラーも豊富・Type-Cケーブルへ変更・4.8MPメイン2眼カメラ搭載】
2023.10.08
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バスは更にカスバ街道を通り、砂漠のオアシス、エルフードに向かう。再びR703を戻り、オアシスの村ティネリールに戻る。カスバの生活は、現在では全く不便なつくりで、最近ではそのまま廃墟になっているのを止めることが出来ない状況であると現地添乗員から。ティンジル・ Ait ijjou村を通過。家畜の飼料を積むトラック。モロッコではこれでも過積載ではないのであろうか?いやモロッコでは日常茶飯事なのであります!!川では女性たちが洗濯。大量の洗濯を終え、ロバの背中に乗せ自宅?まで運ぶ家族。この光景はいつまで見られることでしょうか?こちらの河原でも、土地の母子が川の水で洗濯中。アジアと同じように、モロッコでも川は人々の暮らしの拠り所になっているのがよく分かる風景。日本の昔話「・・・・おばあさんは川へ洗濯に行きました。・・・」のくだりを思い出す光景。 バスが渋滞に嵌る。モロッコでの初めての体験。 前方の橋を白い巨大な荷物を載せたトレーラーが先導車の後からゆっくりゆっくり進む。 荷物の白いカバーには「SIEMENS」 の文字が。シーメンス (Siemens) は、ドイツのバイエルン州ミュンヘンに本社を置く多国籍巨大企業。添乗員の話だとメガソーラー設備をシーメンス社がモロッコ政府から受注し、そのプラント機器を現場に移送中。しかしメガソーラー? 大きさからして風力発電の機器ではなかったのか!?再びカスバ街道を進む。この門にも落書きが。 カスバ街道に有った道路標識。上は「ラクダ注意」そして下は手作りに近い「シートベルト締めろ」。この標識に出ているラクダは、コブが一つのヒトコブラクダ。ヒトコブラクダとフタコブラクダには見かけの違いだけではなく相違点がいくつかあって、西アジアからこの北アフリカに分布しているのはヒトコブラクダ。フタコブラクダは中央アジアに分布していると添乗員が別の場所で説明あり。再びアラビア語の文字が山肌に。ここは赤に★のモロッコ国旗は下側に。 またまた小さな富士山が。 ここカスバ街道の両脇は岩砂漠に一面の草が。ひたすら真っ直ぐなカスバ街道。 砂漠の中に、土盛りが点々とバスから見えた。 カナートと呼ばれる地下用水路の見学に立ち寄る。カナートは地下水を汲み上げる複数の井戸を意味し、それは最終的に農地の灌漑に活用されている。カナートは山麓の扇状地などにおける地下水を水源とし、蒸発を防ぐために地下に水路を設けたもの。山麓に掘られた最初の井戸で水を掘り当ててその地点から横穴を伸ばし、長いものは数10kmに達すると。 素堀の竪井戸を覗く。階段を下りて、地下にある有料の観光用のカナートを見学。 地下水路は、20km先まで 続いているのだと。今は使われいなので、水は流れは全くなし。下流側の竪穴から光が差し込んでいた。観光案内用の赤いラクダのオブジェがかわいい。お腹にはモロッコの国旗が描かれていた。 ベルベル人のお兄さん二人がサービスに手製の楽器で音楽を演奏してくれた。 エルフードの街に入ると道路脇に再びモロッコの国旗が翻っていた。海外に旅行に行くたびに、日本ほど自国の国旗を掲げない国はないのではと感じるのは私だけ?モロッコの国旗の地色の赤は預言者モハメッドを表わし、中央の緑色の五芒星は≪スレイマンの印章≫と言って、国家の安泰や国民への加護を願う印なのだと。乾いた風景の中、黒い装束の女性達が語り合いながら歩いて行くシュールな?風景。 そしてバスから砂漠縦断の為に4WDに乗り換える場所のエルフードのホテル前に到着。 サハラ砂漠への入口の街であるエルフードは、1917年にフランス軍の駐屯地として造られた街のため、モロッコの他の街と違って、道路は広く、碁盤の目のようにまっすぐに通っていた。
2015.05.06
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今年も1年の終わりが近づいてきました。そして一昨日は二十四節気の『冬至(とうじ)』冬至は「日短きこと至る(きわまる)」という意味。その言葉通り、一年のうちで最も日照時間が短い日(だいたい12月21~22日頃)を『冬至』と言うのです。一年のうちで最も日照時間が長い日「夏至(げし)」と比べると、関東あたりでは昼間の時間差がなんと5時間近くも違うのです。半年かけて徐々に日照時間が変化していくとあまり感じませんが、下記の如く数字として比べてみると驚きなのです。繰り返しますが、冬至は一年で一番日(昼)の短い日、そして太陽の通り道が一番低いところなのが、冬至。 (画像引用:うしちこ母のイラスト素材)冬至について、改めてネットで復習しましたので紹介します。以下の写真はネットから転載させて頂きました。 季節が変化するのは、地球が自転軸を約23.4°傾けたまま公転することが原因。逆に言えば、地球が公転軌道上のどの位置にいるかによって、季節がわかることに。冬至の日は、太陽に対して地軸がふんぞり返っている?感じの角度。北へ行くほど昼(黄色)が短く、南に行くほど昼が長くなる。北極付近は極夜、すなわち日中でも薄明か、太陽が沈んだ状態が続く現象のこと。そして南極付近は白夜、すなわち真夜中になっても薄明になっているか、または太陽が沈まない現象のこと。毎日の日の出入り時刻をグラフにすると以下のようになります。(2014年のグラフですが)赤が日の出の時間、青が日の入りの時間の変化です。日の出・日の入りの時刻の変化のグラフは左右対称ではなく歪んでおり、最大・最小を取る日は冒頭に挙げたように夏至・冬至の日から1~2週間ずれている・日の出が一番早い日は、夏至より1週間ぐらい前になる。・日の出が一番遅い日は、冬至より2週間ぐらい後になる。・日の入りが一番早い日は、冬至より2週間ぐらい前になる。・日の入りが一番遅い日は、夏至より1週間ぐらい後になる。・秋の陽はつるべ落とし:秋の日の入りの時刻は急速に変化する。・12月下旬から1月上旬には、日の出時刻が長期にわたってほとんど変わらない時期が続く。因みに、国立天文台 情報によると、我が家の近くの『横浜』で日の出が一番遅くなったのは今年・平成28年の1月8日の6:49:44、そして日の入りが一番早くなったのは12月5日の16:29:43だったのです。そして昨日の冬至の日の横浜の日の出は6:45:14、日の入りは16:33:43昼間の時間:9時間48分19秒、夜の時間:14時間11分41秒。日の出の時刻が一番遅い日、日の入の時刻が一番早い日とは、ズレているのです。これ(ズレの発生)は均時差(きんじさ、equation of time)のためなのだと。均時差とは、天球上を一定な速さで動くと考えた平均太陽と、視太陽(真太陽)との移動の差。地球の公転軌道は楕円であるので、ケプラーの法則(面積速度一定則)により、地球の公転速度は一定(一様)ではなく、夏至近辺で遅く、冬至近辺で速くなると。公転速度が違うと1日の長さ(太陽日)にも長短が出て来るのだと。・・・・どんどん奥に嵌っていきますが、私の理解もこの辺までが限界なのです。『冬至』も二十四節気の一つ。二十四節気は、太陰暦を使用していた時代に、季節を現すための工夫として考え出されたもの。一年を二十四に等分し、その区切りと区切られた期間とにつけられた名前なのです。現在でも季節の節目を示す言葉として使われているのです。また、二十四節気の月日は年毎に微妙に変化するのです。つまり、地球の軸(地軸)が斜めに傾いている状態で自転しながら、太陽の周囲を1年かけて回っている(公転)から四季があるのです。 この冬至には「ん」のつくものを食べると「運」が呼びこめると言われおり、「運盛り」と言って縁起をかつぐのだと。かぼちゃは漢字で『南瓜』で「なんきん」とも読めるのです。 他にも、れんこん、にんじん、だいこん、ぎんなん、きんかん、うどん…とかが、冬至に食べると運を呼び込むのだと。 そして菜園の友から本柚子(ほんゆず)をいただきました。我が家の菜園の花柚子に比べると実が大きく、香りも強いのです。本柚子を実生で育てた場合、「桃栗三年、柿八年、柚子の大バカ十八年(もっとかかると言う人もいるが)」などと言われるように、非常に長い期間が必要なのです。そして我が家も香りの強い柚子をまるごと浮かべ、今年も柚子湯に浸かったのです。冬至といえば柚子湯。この日に柚子湯に入ると風邪を引かないと言われています。「融通がきくように」との説があるようですが、単なる語呂合わせ? 柚子には体を温める効果があるのです。柑橘系の香りでゆったり、リラックス出来たのです。たくさん頂いた本柚子は、無農薬ですので、安心してユズを丸ごと利用出来るのです。皮も有効活用。薄く削いだり細かく切り刻んで、漬け物に載せたり、汁や鍋にいれると非常によい香りが漂い味と香りを楽しめるのです。そして我が家の花柚子は蜂蜜漬けにし、ホット柚子ジュースで楽しんでいるのです。
2016.12.23
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8月26日(土)は旅友のSさんと奥多摩にある武蔵御岳山へレンゲショウマ(蓮華升麻)の花を見に行って来ました。早朝6時にSさん宅を出発し、寒川南ICから圏央道へ。 途中八王子JCT手前で事故渋滞に遭う。特に中央道方面は大渋滞。 渋滞を抜け予定より30分以上遅く圏央道・日の出ICから一般道へ。 国道411号線、45号線( 奥多摩青梅線)を利用して奥多摩方面に向かう。青梅マラソンはこの45号線を利用して行われる。正面に武蔵御岳山、そして頂上付近にケーブルカー駅の姿が見えてきた。「みたけ山 ケーブルカー あと1.5km」の案内板。そして武蔵御嶽神社の大きな朱の鳥居を潜る。 御嶽の「嶽」は御嶽神社で使うようで、御岳山、御岳登山鉄道は「岳」のようです。但しJRの駅名は御嶽駅とややこしい。更に2014年に噴火した長野県と岐阜県の県境に位置する御嶽山(おんたけさん、標高3,067m)と区別できるように御岳山?御岳山ケーブルカーの高架橋の下を潜り駐車場に。 滝本駅(たきもとえき)は、御岳登山鉄道が運営しているケーブルカーの駅。標高407.4m。 オジサンが土産用の生わさびの仕込みを。 乗車券販売機が2台。 「聖なる森のレンゲショウマ写真展」のポスター。この写真展はレンゲショウマ写真の第一人者である、写真家まえのかつみさんの写真展。御岳山 観光案内図。御岳山は、東京都青梅市にある標高929mの山。武蔵御岳山とも呼ばれる。秩父多摩甲斐国立公園の玄関でもある御岳山。古くから山岳信仰の対象となっており、山上には武蔵御嶽神社が建立されている。往復券を1110円で購入。この日の往復券での38人目の乗車?この日の4番目の8:15発のケーブルカーに乗車。この日8月26日(土)、8月27日(日)の2日間は7:15発臨時ケーブルカーの運行を行っていると。京王グループに属する御岳登山鉄道株式会社が運営。こちらは緑の御岳登山鉄道「武蔵」号。路線距離 :1,107 m 最大高低差 :423m最大勾配 :25度 平均勾配 :22度定刻に出発し赤が眩しい高架橋を進む。先頭窓際の特等席に立って風景を楽しむ。 そして前方に最大勾配:25度の線路が。 最大勾配:25度の線路を上る。 最大勾配斜度25度の急勾配を上ると中間地点へ。上からは赤い御岳登山鉄道「御嶽」号が下りて来てすれ違い。こちらには未だ乗客は乗っていなかった。 急勾配を6分弱程度で標高831mの御岳山駅が前方に。 大きな「レンゲショウマまつり」 の看板が正面に。御岳山駅前広場には記念撮影用の顔出しパネルが2種。 御岳山駅広場からは奥多摩の山々や多摩川沿いの街並みが見えた。 そしてこの日の第一目的の「レンゲショウマ」の花を愛でにレンゲショウマの群生地に向かい更に山道を上る。
2017.08.31
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次大井川を渡り、『水神公園』を訪ねた後は、新金谷駅(しんかなやえき)に向かう。新金谷駅は、静岡県島田市金谷東2丁目にある大井川鐵道大井川本線の駅。トーマス号やSL(蒸気機関車)の発着駅となる大井川鐵道・新金谷駅へは、新東名高速道路「島田金谷」I.Cから約8分。JR東海道線を利用した場合、「金谷駅」下車後、改札を出て大井川鐵道本線に乗換え約4分で到着すると。ここ新金谷駅は大正15年(1926年)に建てられたレトロな木造2階建て。1階部分には駅の改札口やカフェ、売店、コインロッカーなどがあり、2階が大井川鐵道の本社事務所になっていると。駐車場に車を駐め、駅舎に向かって歩いていると、係の男性が来られてこの場所は無料駐車場ではなく有料駐車場であると。写真撮影のみであるから直ぐに出ると話し、了解をもらう。入口の案内板を見ると、なるほど有料表示が、ただし入庫後20分まで無料と。本日のSL座席状況。蒸気機関車はこの日(5月22日)には11:52発、14:53発の1日2本であるがこの日は水曜日でもあり空席があるようであった。時間は13:36。正面には記念撮影ができるボードとSL色に塗られたポスト。ボードには機関車THOMASU(トーマス)の姿が。きかんしゃジェームス号が運転されると。学校の夏休み期間中はきかんしゃトーマス号ときかんしゃジェームス号が2台がほぼ毎日運転されるとのこと。 【http://oigawa-railway.co.jp/2019thomas_james】より運転カレンダー、運転時刻や乗車料金は「大井川鉄道のHP👈リンク」にアクセスして下さい。大人片道3000円、子供片道1500円(乗車記念グッズ付き)、予約が必要のようだ。 【http://oigawa-railway.co.jp/2019thomas_james】より改札口への扉付近には、黒いSLポストが。大井川鐵道で黒いと言えば…、そう、このポストはSLの車両塗装と同じ塗料で塗られたもの。このポストから投函した郵便物にはSLと富士山、茶娘がデザインされた風景印が押されると。ポストカードと切手は売店やプラザロコで販売中。トーマス号に乗る前後にしたためて、自分あてに投函する人が多いと。駅舎内はこの日は人の数は少なかった。売店には、観光客の姿が、そしてSLに関連した様々なお土産が。駅構内には、大井川本線を走る蒸気機関車 (SL) の勇姿や車窓からの風景を写した写真が展示されていたがピンボケ。駅舎を出て駐車場方面に戻る。「トーマス」といえば青や赤や緑といったカラフルな蒸気機関車たちがたくさん登場するが、「ヒロ」は真っ黒なボディがクールな印象。駅構内には蒸気機関車を含む大井川本線の車両の整備を行っている新金谷車両区が併設されている。ここがSLの実質的な発着場所であり、運用を終えたSLはここへ戻ってくる。過去に存在した転車台は1970年(昭和45年)9月28日に撤去されたため、SLの方向転換ができない状態となり、長い間上り千頭発金谷方面行きのSLは原則的にバック運転(逆機)で客車を牽引していた。しかし、転車台を再度設置することが2010年(平成22年)ごろに決定され、2011年(平成23年)6月ごろに工事を開始、同年10月7日に使用を開始した。島田市の観光政策の一環でもあった。車両区西側・SLの留置場北側に設置され、通常は電動だが手押しで動かすことも可能であると。左手には花の終わった藤棚が。開花時の見事な姿の写真をネットから。今年の4月29日の姿のようだ。 【https://www.train-watch.com/2019/04/29/1996113】より蒸気機関車『C11227』が新金谷車両区内に停車していた。「1942(昭和17)年9月に製造された、戦前仕様の程度良い機関車といえます。(翌年製造分からSLの設計は戦時設計に変更されました。)C10形の改良型として生まれたタンク式機関車です。大変すぐれた性能で、時速85キロでの高速で走行ができます。227号機は北海道標津線から大井川鉄道へ、1975(昭和50)年11月22日に入線しました。1976(昭和51)年7月9日に大井川鉄道でSLの復活運転を開始して以来、今もなお活躍し続ける大井川鐵道を代表する機関車です。」車歴:1942-09-18製造→納入;国鉄;C11227→1942-09-18竣工→1945-09-30現在;苗穂→1949-03-01現在;苗穂→1953-11-03現在;苗穂→1964-04-01現在;苗穂→苫小牧→1974-03-11釧路→1975-06-25廃車;釧路→譲渡;大井川鉄道(静岡県);C11227→1976-07-09営業運転開始新金谷駅改札から駅構内を東南へ約250メートル進むと、そこには平成23年(2011年)に設置された転車台が。新金谷駅から出発したトーマス号やSLは、終点の千頭駅で方向転換をし、こちらに戻ります。そして往復の運行を終えると次の出発に向け、ここでもくるっと方向転換。動画👈リンクでその様子が見ることが出来ます。この日は、『C12164』が転車台に。『C12164』は「1937(昭和12)年に日本車両で製造されました。C12形は昭和初期の不況時に簡易線用として経済性を求めて製造されたSLです。大変便利に使えたSLで、15年間で293両が製造されました。中央本線 木曽福島機関区で現役を退いた後、千頭駅での静態保存展示を経て、1987(昭和62)年2月に日本ナショナルトラストの保有となり、同年7月25日に営業運転を開始しました。車両の管理は大井川鐵道が行っています。2018(平成30)年現在、運休中です。」転車台に乗った『C12164』を横から。『SL転車台完成記念』の碑。平成23年10月7日の文字が。大井川鉄道の蒸気機関車関連の説明ボード。蒸気機関車は『C11190』、『C11227』、『C108』、『C56 44』の4種類の蒸気機関車(SL)が新金谷駅~千頭駅間・路線距離は39.5kmを約80分で運行中のようであった。蒸気機関車用の石炭ヤード。『C12164』を後ろから。そして急いで車に戻ったのであった。
2019.06.06
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次近鉄四日市駅から近鉄名古屋線を利用して桑名駅に向かって戻る。桑名駅前のホテルの駐車場に戻り車に乗り込み東岡崎の向かって進む。国道23号線を利用して、木曽川大橋、揖斐川大橋を渡る。ひたすら国道23号線・名古屋港近くの高架を走る。西の空には夕焼けが。助手席から夕焼けの刻々の変化をカメラで追う。そして旅友Sさんの巧みな運転で東岡崎駅近くまで戻る。乙川に架かる名代橋から岡崎城のライトアップを車窓から。乙川沿いのオトリバーサイドテラスを車窓から。そして再びライトアップされた岡崎城天守を。乙川の川面も灯りに映えて。そしてこの日のホテルに1日ぶりに戻ったのであった。そしてこの夜は「ルーマニア・ブルガリアの旅」に同行されお世話になったここ岡崎に在住の旅友K.さんと久しぶりに合流し反省会。いつもは「世界の山ちゃん」だがこの夜は「メリケン 東岡崎」にて暫し旅行の想い出話を。そして翌日も、早朝起床して『小原の四季咲き桜』👈リンク、『香嵐渓の紅葉』👈リンク を楽しみその後帰宅の途についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2020.02.19
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2日目の朝は6時前に起床し、出発の準備をする。部屋から夜明けの光景を。時間は6:25過ぎ。6:30からの無料の朝食を楽しむ。この日の最初の目的地は、八代市泉町葉木にある「梅の木轟公園吊橋」。国道266号・浜線バイパスをひたすら南下して行き「加勢川」に架かる「中の瀬橋」を渡る。緑川に沿って県道106号線・嘉島甲佐線を南東に進む。県道38号線を進むと、前方にマミコゥ道路の甲佐大橋が見えて来た。「日本一の石段 3333段」と書かれた石碑が前方に。美里町の「日本一の石段」👈リンク は3333段あり、西の高野山とも呼ばれる釈迦院(八代市泉町)が頂上にある釈迦院御坂遊歩道でると。毎年11月に「アタック・ザ・日本一」というイベントも開催されるとのこと。国道218号を進む。三和交差点を右折して国道445号へ暫くすると狭いクネクネとした本格的な山道が始まった。するとカーブの右手にあったのが「七郎次水源」という湧水。手作り感あふれる水源の水汲み場。ここは熊本県下益城郡美里町 国道445号線の最高部にある二本松峠の手前の路肩脇にある湧水。「この水場はひとときのやすらぎを汲む場所です。一人一人の小さな努力がなければ守ることができません。後で来られる方が気持ち良く組んでいただく様、心掛けましょう。」と書かれていた。この水源は、昭和60年8月1日、くまもと名水百選の一つとして認定を受けた。美里町早楠字七郎次地内にあり、日量約3,000トンの清水を湧出していると。一見谷川の水に見えますが、立派な湧水であり、生まれたての水が次々と産声を上げていると。かつては五家荘から買い物に来た人がこの清流に出会いのどを潤し一息ついたのだと。春夏の若葉・青葉、秋の紅葉、冬の霧氷等四季折々の自然美が楽しめる場所 と。「二本杉展望所」まで500Mとの表示。そして「二本杉展望所」に到着し車を止めた。「二本杉展望所」からの眺望案内図。この日の朝の「二本杉展望所」からの眺望は芳しくなかったが。ネットには「季節ごとに表情を変える山々は一年中楽しむことができ、地元でも愛されています。熊本ならではの透き通った海や島々の緑の美しさはまさに圧巻です。特に当展望台から一望できる熊本市街地は評判です。夜には空いっぱいに輝く星や街のイルミネーションが広がり、その神秘的な魅力に圧倒されます。」と。シダの葉は枯れていたが、幾何学的な模様が美しかった。そして坂を上り終えると平坦な道となる。右手にあった「九州中央山地国定公園 公衆トイレ」に立ち寄る。駐車場廻りの木々は紅葉が始まっていた。そして駐車場横にあったのが定食屋「東山本店」。 熊本県八代市泉町仁田尾6−3。様々な手作りの土産品が並んでいた。駐車場前にあった案内板。「ようこそ!五家荘へ!!」。「五家荘五家荘とは、久連子(くれこ)、椎原(しいばる)、樅木(もみぎ)、仁田尾(にたお)、葉木(はざ)の五つの集落の総称です。ここには、平家の落人や管第道真の子孫が住み着いていたという伝説があり、古くから秘境として知られています。県内最高峰の国見岳(1739m)を中心として、広大な原生林が残り、動植物の宝庫としても知られています。昭和57年5月15日、この一帯は森林レクレーションの適地として九州中央山地国定公園号の指定を受けました。」更に国道445号線・樅木河合場線を谷内川に沿って紅葉を楽しみながら進む。道の下方の谷内川沿いの建物。分校であろうか?杉の森が広がる。山の上の紅葉は既に終わっていた。通行量は少ない。そして「梅の木轟公園吊橋( うめのきとどろこうえんつりばし ) 」に到着し、車を降りる。五家荘最長である長さ116メートルの吊橋。補助ロープや支柱を使用しないPC吊床版の橋としては、日本有数の長さを誇り、55メートルの高さがあるため、まるで空中に浮かんでいるが如き光景。渡ろうと思ったが、道路の掲示板があり、あと5分で工事用に1時間の通行止めになることに気が付き慌てて車に戻り、出発したのであった。吊り橋を渡った先に、かつて幻の滝と言われていた「梅の木轟」を見ることができるのであったが。「梅の木轟」をネットから。 【https://www.homemate-research-tour.com/dtl/00000000000000528588/】より更に狭い道を、旅友の巧みな運転で進む。落石防止用の隧道を通過。そして次の目的地の「九州中央山地国定公園 樅木園地」に到着し散策開始。「樅木吊橋」。「樅木吊橋樅木吊橋は、以前はかずら橋で樅木川を渡る生活道として利用されてきました。現在は、地元の杉や栗の木を使った橋に架け替えられ、親子橋として上段の大きい方が「あやとり橋」で橋長72m、高さ35m。下段の小さい方が「しやくなげ橋」で橋長59m、高さ17mあります。このニつの橋は、2本の主ケープルの上に丸太の床板(歩行部)を直接のせてあり、橋の安定は下部にトラス状に張った耐風索及び引索によって保たれています。」「あやとり橋」を渡る。橋長72m、高さ35mの「あやとり橋」から下方にある「しゃくなげ橋」を見る。橋長59m、高さ17mの「しゃくなげ橋」をズームして。「あやとり橋」を渡りながら黄葉を楽しむ。「あやとりばし土木学会田中賞受章 1988年10月竣工」と。高所恐怖症の旅友であったが、頑張って渡り切る。渡っていくカップルの姿が。そして帰路は「しゃくなげばし」を渡る。1989年5月竣工 と。「しゃくなげばし」を渡りながら川辺川を見る。先程渡った「あやとりばし」を見る。「あやとりばし」をズームして。川辺川を見る。「しゃくなげばし」を渡り終わり、駐車場に向かって進む。途中、紅葉を楽しみながら。そしてここが休憩用の東屋・「樅木園地休憩所」。ピンクの可憐なツツジ?の花。そして駐車場脇の紅葉をカメラで追う。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.17
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次この日は5月6日(金)、「茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る」の5回目・そして最終回を企図して自宅を早朝に出発する。この日はJR茅ヶ崎駅北口からスタートした。北口のペデストリアンデッキ👈リンクには、茅ヶ崎市ゆかりの方々の手形モニュメントが設置されていた。ペデストリアンデッキを下りて、一里塚通りを国道1号に向かって進むと、右手に、以前訪ねた「茅ヶ崎一里塚」があった。神奈川県茅ヶ崎市6。「茅ヶ崎一里塚」👈リンク昭和三十六年八月十五日 茅ヶ崎市史跡指定徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)、東海道に伝馬の制を制定し、以後江戸を中心とした交通網の整備にとりかかりました。慶長9年(1604)、徳川幕府は東海道などの一里(約4キロ)ごとに塚を築き、旅人の目安にしました。東海道は江戸の日本橋を起点にしています。茅ヶ崎の塚は日本橋から14番目にあたります。かつては道の両側にありました。」「一里塚」交差点から国道1号の「茅ヶ崎駅前」交差点方向を見る。「一里塚」交差点を渡った先が、反対側の「茅ヶ崎一里塚」があった場所。その場所にあったのが「案内板」。「『平成の一里塚』一里塚は、慶長9年(1604年)、徳川家康が息子の秀忠に命じ、旅人たちの目安となるよう東海道や東山道、北陸道の沿道に一里(約4km)ごとに設けられました。塚は、沿道の両脇に築き、大きさは5間(約9m)四方と決められていました。市指定重要文化財である一里塚は、起点である江戸の日本橋から14番目のものです。現存する一里塚の向い側にあたるこの近辺に、塚があったといわれています。しかし、昭和に入って、道路の拡張に伴い取り除かれてしまいました。参勤交代の大名行列もとおり、多くの旅人たちが行きかった東海道。記録によると、塚の右側からは姥島(烏帽子岩)が見えたと伝えられています。また、エノキが植栽されていたことが、延享2年(1745年)の『東海道巡覧記』や幕府の道中奉行が江戸後期に作成した『東海道宿村大概帳』などに記されています。この場所は、歩道整備工事の一環として平成22年、ポケットパークとして整備され、江戸時代の一里塚と同様にエノキが植栽されています。一里塚は、市内でも数少なくなってしまった近世茅ヶ崎の東海道の面影と、当時の素朴なぬくもりを伝えてくれる貴重な文化財です。南側の史跡「一里塚」とともに「平成の一里塚」として、末永く市民に愛される場となることを願っています。」ところで、木の数種はいくつかあるのですが、中でも「一里塚」には【榎(えのき)】が多い。その理由は次の様な逸話があるのだと。『東海道が整備された時、一里塚の上に何か木を植えることになりました。東海道整備は徳川家康の肝いりの政策だったので、家臣が何の木を塚の上に植えたら良いか家康に聞きました。家康はそんなことまでいちいち聞くなよ!という思いで、『ええ木にせい(良い木にしておけ)』と答えたとか。すると家臣は、『榎にせい』と聞こえたらしく、このために一里塚には榎が多く植えられることになりました と。まあ、どこまでホントの話か??円形ベンチの中心には江戸時代の一里塚と同様にエノキが植栽されていた。「茅ヶ崎一里塚」の右側からは姥島(烏帽子岩)が見えたと伝えられているのだと。「一里塚北通り」を北東方向に進みJR相模線の踏切を渡る。「小出(こいで)踏切」。茅ヶ崎駅から0K952mと。その先T字路の左側には「地蔵尊」が。神奈川県茅ヶ崎市本村4丁目5−25近く。多くの造花が手向けられていた。その先の緑地帯の右側を斜めに進んで行った。緑地帯の一角には薄いピンクの花が一面に。「ヒルガオ」の花であろう。その先の「本村四丁目」交差点手前に案内板があった。ここ「本村居村遺跡」は茅ヶ崎市の本村に所在しており、国道1号と県道404号遠藤・茅ヶ崎線の交差点から一つ北の交差点「本村4丁目」付近に位置していた。「本村居村(ほんそんいむら)遺跡出土木簡」解説碑と「本村居村遺跡」解説板。令和2年3月に、実際に木簡が出土した地点の近くである「本村4丁目」の南西約30m地点に設置された、遺跡内容がわかる解説板。「本村居村遺跡出土木簡」解説碑。「茅ヶ崎市指定重要文化財 本村居村遺跡出土木簡 平成27(2015)年6月1日指定出土した木簡は6点で、短冊形のほか桶底や折敷をニ次利用したものもあります。仏教行事に関連する「放生」が記されている文書木簡や、行事に伴い作成された帳簿木簡、文字の練習に使用された習書木簡などがみられ、古代の地域における実態を知ることができ、茅ヶ崎市の歴史を語る上で欠くことのできない資料として市の重要文化財に指定されています。なお、表示は実物大の赤外線写真です。」「本村居村遺跡と古代の木簡」解説板。「皆さんが立っているこの場所は、本村居村遺跡の一部にあたります。遺跡は、東西方向に形成された砂丘とその南側の低湿地に立地しており、奈良・平安時代を中心に縄文時代晩期や中近世など複数の時代に亘っています。道路建設や下水道工事に伴う発掘調査で、砂丘部分(居村A遺跡)からは古代の竪穴建物や井戸、土坑などが発見されました。とくに井戸は木枠を有する立派なもので、多数の土器が出土しています。また低湿地部分(居村B遺跡)からは、古代の水田が発見されたほか、文字が書かれた土器や木製品などが出土しました。木製品は、通常土の中ではなかなか残らない遺物ですが、水気の多い低湿地であったことから、良好な状態で発見されました。その中の一つが木簡です。木簡は、木札などに文字などが書かれている資料のことで、本村居村遺跡ではこれまで神奈川県内で最も多い6点が出土しています。このことは遺跡の性格を示す重要な手掛かりになります。出土した木簡のうち、第2号木簡は公文書が記されていますが、注目されるのは「放生」という文字です。「放生」とは捕らえた生物を放ち逃がすことで、仏教の不殺生の思想に基づく「放生会」という行事が、ここで行われていた可能性を示しています。また第3号木簡は、曲げ物容器の底板に「茜槽」などと記されていました。「茜」は染色に使用される植物であり、当地域における古代の産業を知る手掛かりとなります。さらに第4号木簡は、県下最大の大きさで最多の文字が記されている資料です。その内容から、何らかの行事の際に配給された酒などの物品名を記載した帳簿木簡であることが明らかになりました。こうした木簡が出土する本村居村遺跡は、公的な性格を有する遺跡であった可能性が高く、茅ヶ崎市地域における古代の歴史を知る上で欠かせない遺跡です。」発掘調査時の上空からの写真。出土状況、出土品の解説。第4号木簡は、県下最大の大きさで最多の文字が記されている資料です。その内容から、何らかの行事の際に配給された酒などの物品名を記載した帳簿木簡であることが明らかになりました。発掘調査後は埋め戻しがされていた。解説板前から県道404号線・遠藤茅ヶ崎線方向を見る。舗装されている場所も発掘調査場所。近くにあったのが「本村観音堂」。朱色の屋根の上に宝珠が。「本村観音堂」の前には小さな社があった。神奈川県茅ヶ崎市本村5丁目6-53。内陣には石仏が鎮座。石仏に近づいて。弘法大師像であろう。「相模国準四国八十八ヶ所 第七十番 茅ヶ崎観音堂御詠歌よびあいて結ぶみのりやふだらくのきしさし渡す舟のちがさき」。民家のような前庭であったが。そして茅ヶ崎市本村5丁目の住宅街をスマホの案内に従い進むと路地の角の空き地にあったのが「うしのごぜん」碑。神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎503−4。「うしのごぜん」碑。以下ネットより「茅ヶ崎の「うしのごぜん」は塚になっていたという記述がある。「うしのごぜん」と呼ばれる人のお墓もしくは供養塚だったのか、はたまた「神様」を祀ったものなのか、明らかにする手掛かりがまったくない。近年この塚の辺りが住宅地になり、いっしか塚も姿を変えていくのだがその頃から居住者の間に不幸な出来事が続いた。もしや、と思案した自治会や有志の方々によって「うしのごぜん」と刻んだ石塔を建て供養したという。言伝えによると、塚の辺りには狐が棲んでいて、南湖の魚売りが魚を置かないで通ると化かされるといわれていた。南湖から千ノ川沿いに来て、梅田から高田に抜ける唯一の生活道であるので、魚行商もこの道を行き来していた。道は高田と円蔵の村境を通り赤羽根との接する所で大山道を横切る。千ノ川をどのように渡ったのか。『新編相模国風土起稿』や『皇国地誌』などによると、幅2間( 3.6m )、深さ1尺5寸(45cm)という。川を渡る側に塚が築かれていたのは、川を渡る安全を願ってのことに由来するのかもしれない」また、茅ヶ崎に「うしのごぜん」があるのは、江戸本所「牛御前」の効験が大山に詣でる信徒や旅人達によって伝えられ、祀られる様になったのではないかとも。石碑の裏側。「昭和六十一年十月吉日 本村地元有志」と。そして「茅ヶ崎グリーンハイツ」手前の三叉路を左に進む。「茅ヶ崎グリーンハイツ案内図」。正面に見えたのが「東邦チタニウム(株)茅ヶ崎工場」。正面に「JR相模線」の「北茅ヶ崎駅」。折しも茅ヶ崎駅行きの電車がホームへ。以前も通過した「北茅ヶ崎踏切 1k233m」を再び渡る。右手に「JR相模線」の「北茅ケ崎駅」。JR茅ヶ崎駅方面を見る。そして線路沿いを今回も歩き、途中右折して「茅ヶ崎中央公園」に向かって進む。緑溢れる「茅ヶ崎 中央公園」の園内の遊歩道を歩く。「茅ヶ崎 中央公園」の桜の若木の横にあった案内板。「人と人との繋がりと復興を願い、この桜と同じ桜を南三陸町歌津中学校に植えました。」と。左に「茅ケ崎中央病院」と工事中の現場が見えた。茅ヶ崎中央通りに出て右折すると、右手に「避難所・避難場所案内」があった。右手にあった「茅ヶ崎中央公園」案内板。ズームして。「「茅ヶ崎中央公園(第一カッターきいろ公園)」正面の県道沿いには、フラワーロードの草花が、公園の中央には、芝・草地広場がひろがっています。早春には、北側園路沿いにクロッカス、スイセン・ヒヤシンスなどが咲き春の訪れを感じます。引き続き桜の時期にはソメイヨシノ・ヤマザクラが咲きます。初夏には、中央南側の花壇に香り豊かなテッポウユリ・白ユリやアジサイなど咲き競います。夏には、けやきの木陰で一休みできます。晩秋には、もみじ・けやきが色づき、また、東側広場には、県内相模線沿線の市町の木が植えられています。」とネットから。そして左手奥には「市民文化会館」が見えた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.11
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次今日はいよいよ「茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る」の「その82」です。「輪光寺」の次に訪ねたのが「山王社(日枝神社)」。〒253-0084 神奈川県茅ヶ崎市円蔵2228。「山王社(日枝神社(ひえじんじゃ))御祭神 大山昨命(おおやまくいのみこと)(山末之大主神)全国の日吉神社、日枝神社、松尾神社の主祭神で、古来日吉山王権現、江戸山王権現、山王権現、山王社などと称したものを明治元年(1868)に日枝神社と改められた。しかし今でも山王さんと親しまれている。圓蔵神明大神宮奥宮にある古器物に、紀元弐千五百三十二年(明治五壬申年秋九月) 天照皇大神 日枝大神 合社記されており、当地より神明大神宮に遷され祀られていたが町内守護神として昭和十九年七月鐘楼堂の建物と共にこの地に遷宮された。昭和四十七年二月竜巻により鐘楼堂は全壊し立替られ現在に至る。御祭神山王権現は安産子育縁結び等に霊験が深く、又酒を造ることが上手な神であった為、酒造業、酒店、酒飲業者から酒の神と敬われている。特に土木の知識にもすぐれているので、土木建築業者からも厚い信仰を受けている神です。尚、申(猿)を神使とすることで知られている。 元旦祭 一月一日 町内祭礼 三月三日 浜降祭 七月十五日 大 祭 九月十七日」「社殿新造、境内整備事業実行委員会」碑。「道祖神」碑。句碑。「春や春 岐路に立てども 和合神」「摂社 山王社」碑。手水場は使用禁止。「山王鳥居」とその先に「神猿像」そして「社殿」。「山王鳥居」は笠木(かさぎ)の中央に棟柱を建てて合掌形の破風を架したもの。日吉(ひえ)山王権現の鳥居から始まったという。「九重石塔」。「摂社 山王社誌 鎮座地 茅ヶ崎市圓蔵字御屋敷2228番地 御祭神 大山昨命(山末之大主神) 境内地 二十三.五坪(神明大神宮飛地境内) 元旦祭 一月一日 例 祭 三月第一日曜日 神幸祭 九月第三日曜日山王さまの祭神大山昨命は、農業生産に欠かすことのできない山の自然と山につきものの水流とを司り給う神、ひいては万物を化育するムスビの霊徳を有せられる神である。山王社の神の使いは猿と云われ夫婦円満、殖産繁栄のご利益がある。特に女猿は安産、子育てに霊験があらたかだといわれている。当社の神猿像は東京都千代田区永田町田官弊大社日枝神社の許可を得て模造する。当社の創建は江戸時代で、本宮は旧官幣大社日吉大社東本宮懐島の御屋敷の辰巳(東南)に鎮座と安政六年(一八五九)の圓蔵村絵図に記されている。明治五年九月政府の一村一社令により圓蔵鎮守神明大神宮に合祀。昭和十九年七月神明大神宮の鐘楼堂を移設、社殿として再鎮座。昭和四十七年二月竜巻により倒壊、同年辻町氏子により再建。平成十八年十一月神明大神宮総氏子により、社殿新造、境内整備事業竣工。奉納 土垣・社号碑・神明燈籠・山王鳥居・神猿像・賽銭箱・手洗い水鉢・ 日吉大社遥拝所碑」山王社(日枝神社)の社殿には、ほかの神社と大きく違う特徴があった。それは、境内に狛犬ではなく「猿」が置かれているところ。 猿は御祭神の大山咋神の使いとされており、神様の使いの猿「神猿(まさる)」と言われ、敬われている。その「まさる」という音から「勝る(まさる)」「魔が去る(まがさる)」とも考えられ、勝運の神や魔除けの神として置かれている。音読みの「えん」という音から、猿が「縁(えん)」を運んできてくれると考え、商売繁盛や縁結びの祈願を受けに来る方も多くいる。右には父親の神猿像。左には子供を抱いた母親の神猿像(まさるぞう)。猿は群れを大切にし、子宝に恵まれ安産であることから、「家内安全」や「子授け」「安産」を願い母猿を、そして「マサル」の語呂から「商売繁昌」「社運隆昌」「厄難消除」を願って父猿を撫でていく方が後を絶たないのだと。私も、「神猿(まさる)」の両方の頭を撫でさせて頂いたのであった。鳥居の先に「石碑」があった。その両脇に「道祖神」(左)と「子育石」(右)。「総本宮 日吉大社」。そして「社殿」。「山王社(日枝神社)」の前の路地の先に、「石祠」があった。歴史を感じさせる石祠が鎮座。「懐嶋郷本圓蔵辨財天」碑。「江戸時代の圓蔵村高札場跡 神幸祭御旅所」と。次に訪ねたのが某精機工場の裏手にある「オチョバンバ」。「現在この土地を所有する工場は土地を購入する際に敷地内に建てられていた「お千代」と言う名の老婆の慰霊碑について聞くと、疫病で亡くなったお千代さんを供養するための慰霊碑であり、遺体などは埋まってないことで土地を購入することにしたのだと。民話資料によると了覚寺の敷地にあったお堂に住み堂守りをしていたお千代さんは周りから「オチヨばんば」と呼ばれていた。お堂を守り続け年齢は100歳になり、この地に葬ってほしいと遺言を残し、亡くなった後に高橋文右エ門が代表者となり供養塔を建てたという。昔、子供がこの慰霊碑に触れマラリア系の病気に感染し亡くなったことで「祟りの慰霊碑」として言い伝えられ、心霊スポットに指定されているとのこと」であったがその姿は無かったのであった。何処に行ってしまったのであろうか。これを探したのであったが・・・、ネットより。 【https://anpanmann.amebaownd.com/posts/3580744/#&gid=1&pid=1】より諦めて帰路に。JR相模線沿いを歩く。右手には「鶴田第一踏切 1K960M」があった。「鶴田第二踏切」まで歩き、踏切を渡る。左手の社の中にあったのが2基の「石仏」。神奈川県茅ヶ崎市円蔵2丁目15。庚申塔(左・1686年)と観音菩薩(右・1755年)。さらに進むと、左手にあったのが「大山灯籠」と「道祖神」碑。神奈川県茅ヶ崎市円蔵2丁目11。「大山灯籠」の中には双体道祖神が。「茅ヶ崎中央通り」方向に向かってひたすら戻る。。右手奥にお伽の国の如き建物が現れた。「湘南やまゆり第二幼稚園」。「湘南やまゆり学園湘南やまゆり第ニ幼稚園横浜こども教育センター湘南やまゆり学園本部」と。ズームするとこの塔が幼稚園の入口門であるようだ。さらに歩きその先左手に折れた場所にあったのが「円蔵稲荷神社」。もっと大きな神社をイメージしていたが・・・。神奈川県茅ヶ崎市円蔵。「円蔵稲荷神社」の「社殿」。内陣を格子の隙間から。そして「茅ヶ崎中央通り」に出て左折し「円蔵」交差点のカーブに沿って左に進む。JR茅ヶ崎駅行きのバス停を探したが現れないのでGoogle Mapで確認するとに「茅ヶ崎中央通り」はバス通りになっておらず、先程の「円蔵」交差点を直進する「梅田通り」がバス通りになっていることに気がついたのであった。やむなくJR茅ヶ崎駅まで歩くことにする。「千ノ川」に架かる「新千ノ川橋」を渡り上流を見る。下流側には「イオン」の駐車場へのルートが見えた。右側に「神奈川県 茅ヶ崎警察署」。そして左側には「茅ヶ崎 中央公園(第一カッターきいろ公園)」。その先で道路を渡り「茅ヶ崎市役所前広場」へ。「茅ヶ崎市役所」。「茅ヶ崎市役所」を訪ねた。右手に「分庁舎」、正面に「本庁舎」。本庁舎入口へのコミュニケーションウォールには「茅ヶ崎市民栄誉賞を受賞された皆様」👈リンクの紹介パネルがあった。野口聡一氏。「日本人5人目の宇宙飛行士として、スペースシャトル「ディスカバリー号」に搭乗し、史上初めてとなる宇宙での機体補修をサポートしたほか、計3回におよぶ宇宙での船外活動を成功させました。茅ヶ崎とのゆかり 浜須賀小学校、浜須賀中学校、茅ヶ崎北陵高等学校を卒業されました。」原寸大人形の姿も。宇宙姿の野口聡一氏の写真がサイン入りで。「開高健」コーナー。「開高健 小説家1930年、大阪府天王寺区東平野町生まれる。1954年、壽屋(現・サントリーHD )に入社。宣伝部でコピーライターとして活躍。1974年、茅ヶ崎市東海岸南に仕事場が完成。それ以降、芥川賞選考委員を務め、『夏の闇』で「フィンランド文部大臣翻訳賞」、他作品で「川端康成文学賞」「菊池寛賞」を受賞。病床で書きつづった「珠玉」が最後の作品となり、1989年12月に死去翌年「開高健賞」が創設される。」1957年、ネズミの大繁殖とい-う巨大工ネルギーの奔出を描いた小説『パニック』を新日本文学に発表。一躍新人作家として注目され、翌年には大人社会と対峙する絵画教師を描いた『裸の王様』で「第38回芥川賞」を受賞。サントリー退職後、1964年、朝日新聞社臨時海外特派員として、ベトナム戦争の取材のため南ベトナムへ出発。この体験をもとにした「輝ける闇」で1968年、「毎日出版文化賞」を受賞」と。そして「本庁舎」館内へ。手前は「ビッグ アロハシャツ サイズは驚きの20XL!」と。「「茅ヶ崎アロバビズ」期間中にアロハシャツを着ることて工アコンの利用を控え、環境にやさしいまちを目指す取り組み。環境省が推進してきた「クールビズ」に先駆け、茅ヶ崎アロハ実行委員会が2003年から実施。茅ヶ崎ならではの過ごし方でまちに彩りと活気を。コロナ禍のなか、笑顔てがんばっている人がたくさんいます。茅ヶ崎に住んている人、働いている人、みんなが様々な色合いのアロハシャツを着ることで、まちの彩リと活気に繋がるきっかけになればと思います。」「鎌倉殿の13人」ポスター。「源頼朝と茅ヶ崎ゆかりの地2 0 2 2年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」放送をきっかけに、鎌倉幕府初代将軍源頼朝などに関連する茅ヶ崎ゆかりの地を紹介します頼朝の生きた時代に思いを馳せてみませんか頼朝と茅ヶ崎鎌倉幕府は1192年※、源頼朝が創設した武家政権。1180年、伊豆に流されていた頼朝は、反平家の旗をあげた。懐嶋(現茅ヶ崎市の円蔵、浜之郷、矢畑付近)の在地の武上・大庭景能は頼朝に味方した。一方、弟・大庭景親は相模(現神奈川県)の武士を率いて、頼朝と戦い、頼朝は石橋山で敗北した。頼朝が安房・武蔵を経て鎌倉に入ると、景能は頼朝の新邸や鶴岡八幅宮の造営など鎌倉幕府の基盤作りに奔走した。景能の懐嶋の館は1190年、頼朝が京に上るときには、宿となった。頼朝の寵愛を受けた丹後局の兄・比企能員は、「鎌倉殿の13人」の一人として活躍した。稲毛重成が相模川に架けた橋の落成供養に参列した頼朝は、帰途で弟・義経らの亡霊に会い、落馬した。それが原因か定かではないが、その後、頼朝は亡くなった。※諸説あり」「ゆかりの人物相関図」。「市役所本庁舎」のロビーで順番を待つ人々。「茅ヶ崎市役所 本庁舎。分庁舎」ガイダンスボード。「茅ヶ崎市市民憲章」と各種の「都市宣言書」。「茅ヶ崎市章は1957(昭和32)年10月1日、市制施行10周年を記念として制定されました。これは「チガサキ」の「チ」を図案化したもので、円形であるのは市の融和と団結をあらわし、また翼状平行線は市勢の飛躍と発展を象徴しています。市章は公募によって500余点のなかから佐賀県の方のデザインが採用されました。」と。「茅ヶ崎市役所本庁舎」を後にして「茅ヶ崎市役所前広場」を歩きJR茅ヶ崎駅に向かう。広場にあった像。裸婦像。平和の象徴の鳩が乗った茅ヶ崎市の市章を掲げ持つ。「茅ヶ崎市庁舎の落成にあたり白砂青松の地に人類の平和と市の発展を記念しこの像を建立する。 昭和四十八年六月」製作 日展審査員 中村青田 と。茅ヶ崎市役所庁舎を振り返る。そして左側には巨大な石灯籠が四基。四基の石燈籠は高さが2m以上はある大きな石灯籠。「旧寛永寺石灯籠 四基 昭和四十九年一月二十三日 茅ヶ崎市指定重要文化財 (大八木信昭・信義氏寄贈)東京都台東区上野公園内にある寛永寺に納められていた燈籠の一部が本市にもたらされたものです。寛永寺は徳川将軍家の菩提所で、各地の大名たちは、代々の将軍の供養のために、競ってこのような大きな石燈籠を寄進しました。本市では、この歴史的な建造物を重要文化財に指定し、保護しています。並んだ四基の燈籠の竿には、向かって右から、後に記した文字が刻まれています。これらの銘文から、二番目の燈籠は「嚴有院」というおくりなを付された四代将軍徳川家綱の供養のために、西暦1681年に寄進されたもので、一番目と三及び四番目の燈籠は「浚明院」のおくりなを付された十代将軍徳川家治の供養のために、西暦1786年に寄進されたものであることがわかります。」徳川家の菩提寺として栄えた上野の寛永寺には、全国の大名から歴代将軍への供養としてたくさんの石燈籠が献上されていた。それが茅ヶ崎市内に6基移されている。戌辰(ぼしん)の役や関東大震災や戦災などで被害を受けた寛永寺への再建寄付の返礼として贈られたものである と。右から「奉獻武州 石燈籠 兩基東叡山 尊前天明六丙午年九月八日從五位下甲斐守大江朝臣毛利氏匡芳」奉獻上 石燈籠 一基東叡山嚴有院殿 尊前延寳九年五月八日從五位下信濃守丹治姓大関氏増榮」「奉獻 石燈籠 兩基東叡山浚明院殿 尊前天明六牛丙年九月八日稲葉能登守越智弘通」「奉獻石燈籠兩基武州東叡山浚明院殿 尊前天明六年丙午 九月八日松平伊賀守源忠済」「茅ヶ崎駅前」交差点の地下道を利用する。そしてJR茅ヶ崎駅北口ペデストリアンデッキを歩きJR茅ヶ崎駅に到着。そして2022年3月6日(日)から5回に渡る「茅ヶ崎市の寺社旧跡を巡る」を、この日5月6日(金)に完了したのであった。そして私の『復習の場』として、ブログを82回に分けてアップして来たのであった。【追記】その後、茅ヶ崎市汐見台地区の漏れていた場所を3回に渡ってアップしたのであった。茅ヶ崎市の主要寺院・神社をリストアップ(順不同)して見ました。🔔神奈川県茅ヶ崎市の寺院一覧真言宗了覚院👈リンク 神奈川県茅ヶ崎市円蔵2170長福寺 神奈川県茅ヶ崎市松林3-11-52廣徳寺 神奈川県茅ヶ崎市小和田1-17-5千手院 神奈川県茅ヶ崎市代官町1-4成就院 神奈川県茅ヶ崎市甘沼473善福寺 神奈川県茅ヶ崎市柳島1-3-28満福寺 神奈川県茅ヶ崎市萩園1632圓蔵寺 神奈川県茅ヶ崎市十間坂1-3-39金剛院 神奈川県茅ヶ崎市南湖1-2-11輪光寺 神奈川県茅ヶ崎市円蔵2238寶生寺 神奈川県茅ヶ崎市西久保546長善寺 神奈川県茅ヶ崎市矢畑150宗泉寺 神奈川県茅ヶ崎市下寺尾2085善性寺 神奈川県茅ヶ崎市松尾3-22浄土宗 / 浄土系宗派浄見寺 神奈川県茅ヶ崎市堤4317来迎寺 神奈川県茅ヶ崎市芹沢3291西光寺 浄土宗神奈川県茅ヶ崎市赤羽根3222梅雲寺 神奈川県茅ヶ崎市下町屋2-14-15浄林寺 神奈川県茅ヶ崎市中島1052西運寺 神奈川県茅ヶ崎市南湖2-9-34浄土真宗来恩寺 神奈川県茅ヶ崎市今宿1-1曹洞宗正覚院 神奈川県茅ヶ崎市堤3681善谷寺 神奈川県茅ヶ崎市芹沢1137宝積寺 神奈川県茅ヶ崎市赤羽根3042永昌寺 神奈川県茅ヶ崎市室田1丁目15-44海前寺 神奈川県茅ヶ崎市本村4-21-34玉林寺 神奈川県茅ヶ崎市甘沼214白峰寺 神奈川県茅ヶ崎市下寺尾1551玄珊寺 神奈川県茅ヶ崎市香川1565龍前院 神奈川県茅ヶ崎市浜ノ郷356宝蔵寺 神奈川県茅ヶ崎市行谷318日蓮宗 / 法華系宗派唱導寺 神奈川県茅ヶ崎市浜ノ郷401蓮妙寺 神奈川県茅ヶ崎市芹沢2472妙伝寺 神奈川県茅ヶ崎市堤1032本在寺 神奈川県茅ヶ崎市高田1-7-38妙行寺 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2022.06.28
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次に住職による「地獄変相十王絵図」の説明が始まる。江戸時代、西俣野村に浄土宗、旧藤沢宿にある「常光寺」👈リンクの末寺「閻魔堂」(法王院十王堂とも称す)がありました。毎年(陰暦)正月16日(初閻魔)と7月16日(大賽日)は閻魔大王の賽日で人々は「十王詣」といって閻魔堂に行って十王図や地獄変相図を拝んでいました。この日は、閻魔堂には縁日が立ち商家で働く奉公人たちの年2回の休日で実家に帰っていましたので大盛況であった。しかし、天保11年(1840)焔魔堂の火事で「閻魔祭り」もしばらく見ることは出来なくなりました。幸い火事の際、村の若い衆が閻魔堂から近くの花應院へ木造彩色の閻魔大王像をはじめ、小栗判官縁起絵図、地獄変相十王図、閻魔宝印の原版などが運び込まれた。その後、大正13年まで西俣野村の青年が新暦正月と8月の16日には農作業を休んで「閻魔祭り」を行い、小栗判宮縁起絵図や地獄変相十王図の絵解きをしていたが、途絶え、2つの絵図は昭和50年まで旧名主の飯田五右衛門氏の土蔵で眠っていた。土蔵から出された時は見る影もなく痛み、虫が食い、軸棒も落ちていたと。その姿に耐えきれず住民が西俣野史跡保存会を設立、70万円の寄付金で修復された。後、昭和60年から毎年1月15日(本来は16日)と8月16日に「闇魔祭り」として西俣野史跡保存会の飯田氏よって小栗判官縁起絵図絵解きと、花應院ご住職による地獄変相十王図の説明が復活したが、最近になって小栗判官縁起絵図の演者・飯田氏が亡くなり、現在は12世山本雅彦住職による小栗判官縁起絵図と地獄変相十王図の説明が1月16日と8月16日に行われているのである。一般の方も檀家の方々と一緒に聞くことができるのであった。そして「本堂」入口の壁に沿って上部に「地獄変相十王絵図」が並んでいた。右から【畜生報復地獄の図】これは娑婆で動物たちをいじめたり、殺したりしていた人達がこの地獄に落とされ娑婆で自分達が犯したのと全く同じような報復を受けます。不殺生戎(ふせっしょうかい)を破る報いです。虎獅子犬蜂まで巨大な体を持つ動物昆虫等が居て襲いかかります。手足胴までばらばらに食いちぎり、蜂は火をふいて襲い、逃げられないように周囲は火炎地獄が取り巻いています。無理をして逃げ火炎地獄で苦しんでいる亡者も見られます。巨大な虎、獅子、犬、蜂達が亡者を襲いに追いかけられる、そして手、足、腰まで、ばらばらに。【地獄の釜ゆでの図】大釜と臼があり、ご存知の地獄の釜ゆでの場面。大釜の中に亡者をどんどん投げ込んで上手に煮るために鬼がお化けの様なホークでかき廻している。程よく煮られた亡者は臼に移されて鉄棒で打たれて人間の擂身(すりみ)となる。能率を上げるたために地獄の鳥が亡者を空中輸送をしています。何のために大釜があるか?家庭で菜葉やごぼうを湯でると何が出ますか?出るのは「あく」。人間を茹でて「あく」を出す、悪(あく)を出して善だけ残し、悪を為さしめないようにする閻魔大王の大慈悲心がせめ道具の上にもあらわれている様に考えられます。勿論全く悪が抜け、善だけになった亡者は釜の中より極楽浄土に転生します。お化けの様なホークでかき廻しながら大釜で亡者を煮る鬼。臼のなかで、亡者を鉄棒で打ち叩く鬼。【火の車の図】地獄の使者、獄卒の牛頭(ごず)、馬頭(めず)が火の車を引き、死者の霊を迎えに来て待ち構えて居る。足ることを知らず、欲の心がうず巻くとき、おのずから、焦熱地獄に落ちる。地獄の使者、牛頭(ごず)、馬頭(めず)が火の車を引く。牛頭馬頭(ごずめず)とは、仏教において地獄にいるとされる亡者達を責め苛む獄卒で、牛の頭に体は人身の姿をした牛頭と、馬の頭に体は人身の姿をした馬頭をいう。足ることを知らず、欲の心がうず巻くとき、おのずから、焦熱地獄に落ちる。【剣の山と餓鬼地獄の図】剣がいっぱい生えている山で登るまいとすれば獄卒が槍や鉄棒で打ち、登れば剣が手足身体を切りさく。餓鬼道に落ちる者はこの世で食べ物を粗末にしたり、自分だけ美食をして、他の人に食を与えなかったりした人が落ちる地獄。子どもを食べようとする女餓鬼。椀にもった飯は火となり燃えあがる。地面から剣の刃がいたるところから飛び出して。【賽の河原と奪衣婆の図】賽の河原とは幼い子供たちが行く処で子供たちは河原の石で塔を積みますがもう少しで積み上がろうとすると鬼達が来て、きちんと積んでいないので見苦しいと崩してしまう。積んでも積んでも崩されて何時出来上がるかわからない。そこに地蔵菩薩が救いにおいでになっています。三途の川の岸にはいあがった亡者は、奪衣婆(だつえば)に着物を剥ぎとられて・・・。奪衣婆とは、三途川(葬頭河(そうずか))で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。日本の仏教では、人が死んだ後に最初に出会う冥界の官吏が奪衣婆とされている。奪衣婆は盗業を戒めるために盗人の両手の指を折り、亡者の衣服を剥ぎ取る。剥ぎ取った衣類はこの絵にはないが、懸衣翁という老爺の鬼によって川の畔に立つ衣領樹という大樹にかけられる。この木の葉は鋭利な刃物の様で手を触れることが出来ません。此所では生前の罪の度合いによって、衣を懸けた枝の垂れ下がり具合が異なって来ます。これより先は生まれた時の姿となり娑婆における権力も富も役に立たず平等に地獄の苦を受ける事となるのです。河原の石で、塔を積み上げる子。積んでも積んでも、鬼たちに崩される。そこに地蔵菩薩が救いにおいでになっています。その先にも「地獄変相十王絵図」が並んでいた。【閻魔大王裁きの場の図】この拾壱幅の絵の中心をなす形で描かれて居ます。其の日は、五、七、三十五日の日で、裁くのは閻魔大王で前には司命、司録が立っている。左に罪をはかる秤(はかり)。右に生前の罪をうつす浄瑠璃の鏡。閻魔大王のまえには司命。司録がいて、人命を司り、一切の記録を。亡者は首枷(くびかせ)をはめられ、しばられて鏡のまえに。ズームして。閻魔大王はどのような審判を行っていると言われているでしょうか?答えは【死者の転生先(生まれ変わり先)を決める】です。人は天国への旅路で計7回(7日ごと)の裁きを受けます。7日ごとの7回目の裁き=49日をもって仏様となります。5回目(死後35日目)の裁きに登場するのが閻魔大王です。閻魔様はここで天国への切符か地獄への切符かを裁いて死者に渡すことになります。行先は地獄道(その名の通り地獄の世界)餓鬼道(飢えにもがき苦しむ世界)畜生道(人間以下の動物に生まれ変わる世界)修羅道(終始、争いの世界)人間道(楽しいことばかりではなく煩悩に悩む世界)天上道(苦しみもなく優れた世界。しかし、煩悩がないわけではない。衰退もある)の六道のいずれかになります。閻魔大王は極楽浄土、少しでも苦しみのない世界へ向かうに相応しい死者かどうかを裁きます。そこで、ご家族は「どうか極楽浄土へ導いてください」と追善供養(法要)を行うのです。そして無事に49日を迎え、浄土の世界へ旅立ち仏様になる。このように言い伝えられています。閻魔大王は怖い顔で裁きも厳しそうですが、実は地蔵菩薩と呼ばれ私たちを見守ってくれているそうです。中央に人頭の杖が立てられ、頭に首が二つついていて(悪人と善人)大王の象徴とされています。罪をはかる秤(はかり)。さすがに大きな石の分銅も亡者の罪の重さに上がっているのであった。亡者は首枷(くびかせ)をはめられ、縛られて鏡のまえに引き出されて。生前の罪を映す浄玻璃(じょうはり)の鏡。生前に悪事をはたらいた者は、その姿が高性能な防犯カメラの映像のようにくっきりと映し出されるということです。更には心の中の悪い考えまで映し出されるそうです。この亡者は生前娑婆にて火付け(放火)を犯したことがありありと映っているのであった。さらに左側にも「地獄変相十王絵図」が続く。【極寒地獄 氷の池の図】亡者達は氷の池に入れられ、冷たさにもがき苦しむ。岸に上がろうとすると、鎌槍、鉄棒をもった獄卒に突き落とされる。意識を失えば、活、活、と唱え、生き返らせ、苦しめる。ここまでで左より中向の大王が終わり、ここから右より中向の大王五人に移るのであった。氷の池に入れられ、冷たさにもがき苦しむ亡者の姿。【修羅地獄の図】闘争心が強く、人を殺し、殺そうとする者の落ちる地獄。空中に短剣が舞う。斬りあい首を落とす者。下には氷の川。氷が割れて、極寒の底に沈みゆく亡者・・・。空中に短剣が舞う。斬りあい首を落とす者。【針の山地獄の図】三途の川の渡し場は三つあるのだ。上流にある渡し場を「浅水瀬」といい、ここは水底が浅く、膝までしかなく罪の浅いものが渡る渡し場、中程に有るのが「橋渡し」といい、この美しい橋は善人だけが渡れるのだと。下流に有る渡し場を「強深瀬」といい、水底の深さが無量で、悪人が渡る場所。この絵は悪人がこの「強深瀬」を渡り、流される悪人を襲う竜。からだ中に針が刺さっても、亡者たちは、獄卒に槍や鉄棒で突っつかれて・・・。深瀬を渡り、流される悪人を襲う竜。【畜生再生の図】人間ではありながら、心は畜生にも劣る心を持ち畜生なような生活行動をすると、畜生に生まれ変わって其の苦しみを受けるのだと。元は人間だった証拠に頭だけが人間の男女になっている。人から再生した馬を、地獄の獄卒、馬頭が追う。亡者の頭に錐(きり)を刺し、善行を命ずる脳に入れかえる白鬼。鉄の杭にしばり、大きな釘抜で、舌を引き抜こうとする鬼。人から再生した馬を、地獄の獄卒、馬頭が追う。執念に取り憑かれた男女が大蛇に体が変身して、未だ業が果てることなく亡者の一人をぐるぐる巻にして絞め殺そうとしている。 舌を抜く地獄の鬼 。子供の頃祖母から「嘘をつくと閻魔様に舌をぬかれちゃうぞ!!」と何度も言われた私。亡者の頭に錐(きり)を刺し、善行を命ずる脳に入れかえる白鬼。【血の池地獄の図】この絵では亡者が腹に釘を打たれている。釘の長さ一尺、人間が悪いと言う場合腹が悪いと言う。其の悪い腹を善くするために釘を打っているのです。其の下には恐しくて逃げている亡者、とうとうつかまって縄でしばられている亡者、下にすでに縄にしばられた亡者が二人転がっている。腹に釘を打たれている亡者の上に餅にささった釘が有ますが、これは四十九の餅の供養の功徳によって釘を打たるるとも餅にささりて苦なしと言う経文中の功徳を現わしているのだと。亡者の悪い腹に釘を打ち、善に変えようとする鬼。下部の図は血の池地獄で、この地獄はお産で死んだ女の人だけが落ちる地獄。この地獄は往生要素には書いてないが誰でも知っている地獄。これは鎌倉時代頃より読まれ始めた「血盆経(けつぼんきょう)」と言うお経に書かれている地獄で男には関係の無い地獄 と。川の辺に四本の竹を立て、これに般若心経を墨書した晒を渡して傍らに柄杓を置き、通りがかりの人が柄杓で川の水を汲んで晒にかけてやると、文字がたんだん薄くなって完全に消滅すると救われるという「流れ灌頂(ながれかんじょう)」。これに救われたか血の池より一人女がはい上がり山の下で一心に合掌し祈りをささげている。それを地蔵菩薩様がお救にお出でになっている のだと。この十王図には一枚につき一人の王が描かれていたが、どれがどの王かは、はっきりした事は解かっていないと住職から。この「十王」👈リンク とは冥土で亡者の罪を裁断する十人の王の事。人間が亡くなると、極善と極悪の者は直ぐに裁判を受けずに極楽浄土に転生し、片方は地獄に落ちます。中の者は裁判を必要とするので初七日より順次七日ごとに審判を受けて決った者は罪に相当する処に送られる事となります。未定の者は次の裁判へと送られ「十王」👈リンクに裁断されるのだと。亡くなった日を1日目として、49日目までの7日ごとに秦広大王 (しんこうだいおう)、初江大王(しょこうだいおう)、宋帝大王(そうていだいおう)、五官大王(ごかんだいおう)、閻魔大王(えんまだいおう)、変成大王(へんじょうだいおう)、泰山大王(たいざんだいおう)が裁きを行い、それでも結論が出ない場合は、100日目に平等大王(びょうどうだいおう)、1周忌に都市大王(としだいおう)、3回忌に五道転輪大王(ごどうてんりんだいおう)が裁判を行います。このような過程を経て、亡くなった人が極楽浄土に行くのか、それとも地獄に行くのかが決まるのだと。さらに詳しく。地獄の裁判官、十王。地獄に落ちるか落ちないか、というのは現世の裁判のように審査されるのです。審査をされてから正式に地獄行きが通達されるまでかなりの時間を有します。それもなんと49日間!実はこの間に、書類審査から現世の善行診断、軽い実刑まで行われるのです。そしてその裁判を行うのが十王と呼ばれる10人の裁判官たち。その中にかの有名な閻魔大王がいるのです。秦広王:死後から初めの7日目、まず最初に裁判を行うのは秦広王(しんこうおう)。 獄録というものによって書類審査が行われます。ここでは生前に行ったことを全て 見られてしまうため、嘘も通じません。初江王:死後14日目、次は初江王(しょこうおう)により罪の重さを測られます。 ここの裁判所には死者が必ず通ると言われる「三途の川」が実は地獄にあるのです。 三途の川を渡れば天界かと思いきや、そうではありません。 ここには奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)という鬼がおり、通る際に亡者の 服を剥ぎ取ります。その服を衣領樹(えりょうじゅ)という木の枝にかけ、初江王の 裁きの前に罪の重さを測るのです。罪が軽いものは枝が曲がらず、罪が重い者ほど枝が しなると言われています。宋帝王:死後21日目、宋帝王(そうていおう)が現世で犯した邪淫(じゃいん)を審査します。五官王:死後28日目には五官王(ごかんおう)が妄語を審査します。五官王は精巧な天秤を 持っており片側に亡者をのせることで、その傾きにより罪の重さは決まり、行く道が 決まるのです。いわゆるここが地獄行きを決定する、最初に判決を出す場所になります。閻魔王:地獄行きが決定しても、一度で全てが決まるわけではありません。地獄も現世の裁判制度 と似ており、その真偽を確かめます。 死後35日目、閻魔大王によって亡者は裁かれます。閻魔大王が持っている鏡は、亡者を 立たせると、亡者の生前の悪行を映し出すことができる特別なものです。 閻魔大王はこの悪行を見て、どこの地獄に行くか判決を下します。ちなみにここで嘘を つけば、閻魔大王に舌を抜かれる事に。また、この裁判日に縁者や親族が追善供養を 行っていると、その徳を認められ人間界や天界に送られることも。変成王:死後42日目、変成王(へんじょうおう)の元に行くために、大岩の流れる川を 渡らされます。ここでは、大岩に身体を砕かれては蘇りまた砕かれと繰り返す事により、 やっとの思いで岸に上がることができます。 そして変成王はここにきて初めて、亡者の言い分を聞いてくれる慈悲深い王になります。 そんな王の前で、亡者はここまで与えられた罰で十分償えたのではないかと 訴えるのです。すると変成王は三つの道を示し、自分が正しいと思うのなら、正しいと 思う道を選んで進め、そうすれば正しい道へ行けると助言します。 これを進んでしまうと罠にハマることに。進めば更なる罰が与えられるのです。お前が 本当に正しい人間なら自分を正しいと思うはずがない!と言うのが変成王の言い分。 上げて落とされた亡者にはなかなかキツい仕打ちです。 この時に、黙って己の行為を恥じ、恐れ入り、罰を受け入れる人間だけが光が差し 救われると言われています。そして、ここで亡者の生まれ変わりの場所の条件が 決定されるのです。泰山王:死後49日目、最後に亡者は泰山王(たいざんおう)の元へ。ここでは最終判決がついに 下されます。六つの道が示されており、それぞれ六道に繋がっています。ここで来世の 生まれ変わる世界が決定する事に。 他にも平等王(びょうどうおう)・100日目、都市王(としおう)・1年目、 五道転輪王(ごどうてんりんおう)・2年目がいますが、彼らは最終的に判決が 決まらなかった際、つまり再審の際に登場するのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.20
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鵠沼海岸7丁目の住宅地の路地を最初の目的地に向かって進む。この先が最初の目的地であった。藤沢市鵠沼海岸7丁目21−8。右手に大きな石碑があった。松岡静雄先生之庵趾碑。[この場所は、かつて海軍大佐であり言語学者・民族学者の松岡静雄が退役後に居を構えた場所です。明治十一年(1878)生まれ、松岡家の7男。民俗学の大家 柳田国男を兄に持ちます。海軍きっての吉語学者であり、病により退官した後、精力的に言語学・民族学を研究し、「日本古語大辞典「太平洋民族誌」 「ミクロネシア民族誌」等の多数の著書を残しています。関東大震災後の大正十ニ年末、鵠沼・堀川集落の南に隣接する納屋(ないや)地区に移り住みました。この庵を《神楽舎(ささらのや)》と名付け、在野の言語学者として日々研究を重ねていました。次第に、教えを乞う人々が集まり“神楽舎講堂”と呼ばれるようになり、湘南国語研究会というものをつくって、この舎から「国語と民族思想」というものを発刊していました。昭和11年(1937) 5月23日松岡静雄が逝去した翌年、先生を基う弟子たちにより石碑「松岡静雄先生之庵趾」が建立されました。くくコラム> >民俗学の大家柳田國男線の人々:松岡静雄と丸山久子と鵠沼民俗学者丸山久子は、20歳のころよリ父が鵠沼海岸に家を建て、この近くにあった神楽舎の講義にも参加していました。静雄の長女と丸山久子は、高等学校時代の同級生だったという縁もあり、静椎の没後も松岡家の人々との交流は生涯にわたります。静雄の妻の誘いを切っ掛けに、久子は柳田国男の講演「国語の将来」を受講します。これを機に本格的に民俗学を学ぶようになり、世田谷にある柳田の自宅て行われた研究会にも熱心に通っていました。昭和十七年頃からは、柳田の助手を務めるようになりました。 参考資料:『地名の会会報 117号』遠藤の民俗ー丸山久子の足跡と仕事ー粂智子著]海軍退役後、神奈川県藤沢市(当時は藤沢町)鵠沼に居を移すが、直後に起こった関東地震では、遭難死した東久邇宮師正王の遺骸を運ぶために軍艦を相模湾に回航させたり、遭難死した住民26体の遺骸を地元青年団が荼毘に付す際の指揮を執ったりしたという逸話が残っている。震災後は鵠沼西海岸に居を構え、神楽舎(ささらのや)と名付けて言語学、民俗学を研究し、同じ軍人出身の「岡書院」店主岡茂雄の勧めもあり、十数年で多くの著作を残した。また、扇谷正造をはじめ多くの青年たちが訪れて学んだ とウィキペディアより。海軍時代の松岡静雄(ウィキペディアより)。家族・親族実父:松岡操 - 儒者、医者実母:たけ兄姉 松岡鼎 - 医師 松岡俊次(早世) 井上通泰(松岡泰蔵) - 国文学者、歌人、医師 松岡芳江(早世) 松岡友治(早世) 柳田國男 - 民俗学者弟 松岡輝夫(松岡映丘) - 日本画家柳田 國男は、日本の官僚、民俗学者。 東京帝国大学法科大学を卒業して農商務省官僚となり、貴族院書記官長まで昇り詰めた。退官して約20年を経た1946年に枢密顧問官に補され、枢密院が廃止されるまで在任した。 日本学士院会員、日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は正三位・勲一等。松岡家兄弟らの写真(前列右より、松岡鼎、松岡冬樹〔鼎の長男〕、鈴木博、後列右より、柳田國男、松岡輝夫〔映丘〕)没後1938年(昭和13年)、弟子たちによって建てられた「松岡静雄先生之庵趾」碑。裏面には何か書かれていたのでろうか?おそらく建立年月・建立者名などが刻まれている??「松岡静雄先生之庵趾」碑を後にして、次の目的地に向かって鵠沼海岸7丁目の住宅地内を進む。左手に石鳥居が現れた。ここが「高根地蔵尊」。藤沢市鵠沼海岸7丁目19−11。石鳥居前での説明を聴く。石鳥居の奥に小さな御堂が建っていた。石鳥居を潜って進むと目の前には木製の「地蔵堂」が。 近づいて。「高根地蔵尊」。 地蔵堂の内部に安置されていた「高根地蔵尊」。今でもお地蔵さまの足元には、子供の病が治ったお礼として奉納された小石が山のように積み上げられているのであった。 [高根地蔵神楽舎に近く堀川部落の南側に、高根地蔵はあります。“高根”はこの辺りの小字名て、昔は田の畦道の中に小さな祠がありました。天保十四年(1843)ニ月、堀川部落の開祖山上新右衛門建立したものです。鎌倉時代のある合戦で、とあるやんごとなき若者を負い郎党四人を伴った武者が最後をとげたのを村人が弔ったという伝承があります。明治初年には、祠堂改築のため盛土を崩したところ、刀身ニロ、断碑片若千、土器十ニ枚が発見されたと云われます。その後、松岡静雄の発起て祠堂が建立されました。『現在の藤沢』加藤徳右衛門著(昭和8年刊行)には、次のように記されています。「部民はこの地蔵に触れると必ず生命に関する程の祟ありと恐れ、安政五年頃より毎年九月四日追善供養をおこなって今日に及び、以来恐ろしき祟りも絶え、小児の疾病本復を祈れば殊に霊験あらたかでえあると云われ四時香華の絶えぬものたり」 ]以下もネットから 『藤沢の民話』第一集の山口紋蔵氏からの聞き書きには、鎌倉時代との説もあるので引用しよう。藤沢の高根地蔵藤沢町鵠沼堀川海岸にある高根地蔵と云う伝説の霊験あらたかの地蔵がある。この地蔵は天保十四年二月四日鵠沼堀川部落の開祖山上新右衛門が建立したもので鎌倉時代の合戦に或るやんごとなき若君を負い郎党四人を引具した武者がこの地まで落ちのびたが武運拙なく遂に敢なき最後を遂げたるを村人等が之を悼み茲に葬むりしものと伝う。明治初年両堂改築の為め盛土を取崩した処刀身二口、断碑片若干、土器十二枚を発見したと当時鑑識の明なく徒に散逸したものたりと。部民はこの地蔵に触れると必ず生命に関する程の崇ありと恐れ、安政五年頃より毎年九月四日追善供養をおこなって今日に及び以来恐ろしき崇りも絶え、小児の疾病本復を祈れば殊に霊験あらたかであると云われ四時香華の絶えぬものたり。この逸名の小公子と忠臣の冥福を祈り一面郷土史跡記念物として保存の為の同所の海軍予備大佐松岡静雄氏等の発起で出来た小さな祠堂が建てられている と。決して歴史の教科書には載らないような名もなき武将であろうが、確かにここに存在した歴史の秘話に触れることができるのも、このような「小さな地域史」探訪の醍醐味なのであった。「高根地蔵尊」をズームして。その先を右折して、鵠沼新道線を進む。コモダ歯科医院手前の路地を左折。藤沢市鵠沼海岸3丁目3−1。「しらす直売所 田むら丸」前には列が。藤沢市鵠沼海岸7丁目15−15。毎朝しらす漁をして釜揚げしらすを作っているオジサンと製造販売しているオバサンが二人でゆるりと営んでいる湘南しらすの直売所である と。美味そう!!小田急線に沿って北に歩く。そして次に訪ねたのが「浜道堀川大師(地載)堂:準四25番霊場」。藤沢市鵠沼海岸7丁目4−16。この日、最初の相模準四国八十八箇所霊場。「第二十五番 南無大師偏照」まで読み取れる石柱が建っていた。「南無大師偏照」の下に「金剛」と続くのですがありませんでした。[浜道堀川大師(地蔵)堂:準四25番霊場お堂の中には、安永九年(1780)の銘がある地蔵菩薩立像(向かって右)と、その隣に弘法大師像(向かって左)が納められています。江戸期の新四国へ十へ箇所案内にも、”浜道地蔵堂"と書かれていることから、この地蔵菩薩のお堂がある所を巡礼地としたものと見られます。弘法大師像には、文政三年(1820)の年銘と、台座には堀川溝中と刻字されています。御詠歌:のりの舟出る津寺といろくすも うの浜道につとひよるらんお堂隣にある、2基の庚申塔は、いずれも青面金剛像浮彫で、右側が宝暦十ニ年(1762)、左側が宝永六年(1709)の作。お堂前の標柱も、天保ニ年(1831)堀川講中により建てられたものです。]「浜道 弘法大師堂」。 本家四国八十八ヵ所津照寺の御詠歌の木札が掲げられていた。「準四国八十八ヶ所法の舟 入るか出るか この津寺 迷ふ吾身を もせたまへや第二十五番 宝珠山津照寺」 【仏の教えという救いの舟に、私は今、乗るべきか乗らざるべきか迷っている。 この寺に立ち止まる私の迷いを、どうか仏さま、正しい道へお導きください。】と。堂の中には、安永九年(1780)の銘がある地蔵菩薩立像(向かって右)と、その隣に弘法大師像(向かって左)が納められていた。地蔵菩薩立像をズームして。弘法大師像をズームして。隣の2基の庚申塔は、いずれも青面金剛像浮彫。右側が宝暦十ニ年(1762)、左側が宝永六年(1709)の作 と。いずれも「青面金剛」や「三猿」が彫られていたが、彫られた石の素材や像の姿かたち、さらに剥離摩耗などの違いが見てとれます。左側が宝永6(1709)年、右側が宝暦12(1762)年と、50年以上差がありますが、左の方が形態をよりとどめていた。こうした歴史を積み重ねてきた石塔・石仏などは、区画整理や道路拡張などによって一か所にまとめられることが多いとのこと。しかし、この堂の前の通りは古い地図を見ると昔から続いている道。庚申塔は、おそらく別の場所から移動されてきたのだと思うのだが、こうしたものが残っていることは、歴史を大切にされてきた証だと思うのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・
2025.11.26
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク1番札所霊山寺から2番札所極楽寺まで1キロ余り、あっという間に第2番札所極楽寺に到着。ここ、2番札所極楽寺は、安産祈願子授祈願にご利益のあるお寺。日照山(にっしょうざん)無量寿院(むりょうじゅいん)と号する。寺伝によれば、奈良時代(710年 - 784年)、行基の開基という。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がこの地での三七日(21日間)の修法で阿弥陀経を読誦したところ満願日に阿弥陀如来の姿を感得したため、その姿を刻んで本尊としたといい、この阿弥陀如来の後光は遠く鳴門まで達し、魚が採れなくなったため、困った漁民たちが本堂の前に小山を築いて光をさえぎったということから「日照山」と号するとされる。 三方を山に囲まれた閑静な境内で、朱塗りの仁王門が迎えてくれた。入母屋造楼門、金剛力士(仁王)像を安置 金剛力士像。 朱塗りの仁王門を入って先方には赤い旗で囲んだ願掛け地蔵堂が。お地蔵さんの真言を唱え、自分も精進努力すれば不思議なご利益があると。 早速納経所にて御朱印を戴く。 仁王門を境内から。朱塗りと白壁のBESTMIX。 日照山極楽寺 案内図。 境内には「雲海の浄土」と呼ばれる庭園が広がっていた。 平和観音像。 極楽寺の手水場は、激しく彫刻された石が。見上げると、極楽浄土のような絵が彫られていた。 柱にも龍の見事な彫刻が施されていた。子授招福大師。極楽寺は子授け祈願ができるお寺として四国の中でも有名。境内に祀られた子授招福大師は、子供を抱いている数少ないお大師様で、子授けの強いご利益があると。 阿弥陀如来像石仏。 鐘楼堂と観音堂観音堂には千手観音が祀られていると。 仏足石。釈迦が石の上で説法をすると、石に足形が残ったといわれるもので、本堂階段の上り口に。 本堂。44段ほどの石段をのぼった正面に本堂が。その右手奥が大師堂で、この大師像は「安産大師」とも呼ばれている。大師が流産ばかりする夫人に加持祈祷したところ、即座に子宝に恵まれたという由縁によるもの 本尊・阿弥陀如来像 は国重要文化財。「両界曼荼羅図」(二幅)と「地獄極楽図」はともに県指定文化財。 弘法大師像と聖観自在菩薩。弘法大師像。 聖観自在菩薩。 本堂から右奥の大師堂の途中に 抱き地蔵の「重かるさん、軽かるさん」が。 地蔵さんを抱いて 軽いと感じたら 願い事が叶い、重いと感じたら悩みが長引くと。 本堂下の階段を下りる。薬師堂。江戸時代末期建立。 四国霊場会 特認大先達 田渕義雄さんの像。四国八十八ヶ所霊場巡拝百回成満記念に建てられたと。100回も納札に巡るのは、大変な時間と努力と労力が。 長命杉。弘法大師お手植えとされる「長命杉」は、樹齢1200年あまり、高さが約31メートル周囲約6メートルもある霊木。触れれば家内安全ばかりか、病気平癒、長寿も授かるといわれる。鳴門市の天然記念物に指定 一願水掛不動尊水を掛けてお願いすると願いがかなうという不動尊。 ただし一回だけ。欲張ってはいけません。 供養観音。 そして極楽寺で戴いた御朱印。
2015.09.06
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この日も早朝5時過ぎに起床し、シャワーを浴びる。そして旅友と2人でイチャン・カラの城壁巡りの早朝散策に出かける。時間は6:30過ぎ、ホテルの入口。イチャン・カラ配置案内図。'ホラズムの中心都市の一つ、オアシスの古都ヒヴァ。アラル海に注ぐアムダリア下流に位置するこの街は二重の城壁に囲まれており、外城壁をディシャン・カラ、内城壁をイチャン・カラという。17世紀前半ヒヴァ汗国の都であり、高さ約10m、周囲2.2kmの内城壁が築かれていた。歴代の宮殿やモスク、マドラサなどの美しいイスラム建造物が数多く建築されていた。これらは修復保存されて、ほぼ完全な形で今に伝えられているのであった。イスラム・ホジャ・メドレセのミナレットが早朝の青空を背景に。メドレセとはイスラムの神学校、ミナレットは信者に礼拝を呼びかける尖塔。パフラヴァン・マフムド廟。1664年に建立された「ヒヴァの守護聖人であるパフラヴァン・マフムードの墓」と「ヒヴァ・ハン国の君主の墓」が置かれている霊廟。ヒヴァでも一際美しく輝いている、大きなターコイズブルー(緑がかった青)の玉ねぎドーム屋根が目立つ建物。再びイスラム・ホジャ・メドレセとミナレット。町のシンボルとなっている、ここヒヴァで最も高い建物(高さ約45m)。118段の階段を登ると塔上からはヒヴァ全景を見渡せる絶景が待っていると。登ろうとTRYしたが屋外の階段の先のミナレット入口には木の扉が有り南京錠で鍵がかかっていた。登るのは有料と後に添乗員から、よってさもありなんと納得。イスラム・ホジャ・メドレセ。1910年にヒヴァの最後のハーン、イスフェンディヤル・ハーンの大臣イスラム・ホジャによって建てられた、まだ100年足らずの新しいもの。イスラム・ホジャは、ヨーロッパ式の学校、病院、郵便局などを作り、ヒヴァで初めてロシア語の学校を開くなど、とても革新的な人だったのだと。しかし、人気があったために保守派の嫉妬と反発を買い、生き埋めにされて殺されてしまったのだと。正面から。ファサードには焼成レンガの帯が2本入る以外は青のタイルで覆われていた。空の青、タイルの青との共演。半ドームは三面の大きなムカルナスで構成されている。それぞれに描かれている花瓶のような形。これもモスクか?ブルータイルのないモスクも。カール・マルクス通り。西門から東門まで約400mのメインストリート。人の姿は殆ど無し。こちらのファサードにはブルータイルが施されていなかった。ムハンマド・アミン・ハーン・メドレセ。最盛期には99人の学生が学んでいたと。今はホテルとして使われており宿泊可能と。ムハンマド・アミン・ハーンが建設を命じ、1852年に完成。ヒヴァで最も大きな規模の神学校で、260名もの学生がここで学べる大きさだと。広さは71.7 m ×60m、中庭の広さは38 m × 38 m。正面人口や建物の前面はタイルで装飾され、美しい輝きを放っていた。タイルには4色が使われていたが、黒は力、白は純粋さ、青は空、緑は自然をそれぞれ表しているのだと。更に早朝の散策を進める。この扉の中は、土産物屋の屋台と商品の倉庫となっていることが後に解ったのだ。東門へ向かう回廊。東門(パルヴァン・ダルバサ)から城外に出たが、この門は別名奴隷の門と呼ばれていたと。東門周辺では、かつて奴隷が売買されていたとこのこと。奴隷となった人は近隣の住人や南下してきたロシア人で、奴隷を買っていたのはトルコ部族や草原のカザフ族らしい。多柱式の建物。見事なイチャンカラの城壁。この城壁、半円形の出っ張りがいくつも繰り返す形で造られていた。警備の物見台とのこと。基部の厚さは6m、高さは8m、城壁の長さは2.1kmとのこと。城壁は煉瓦で出来ていたが、なんと、この中には戦死者の骨も埋められているのだと。死しても城を守る・・という当時の風習だったのだとか。城壁の外を走るトロリーバス。北門。北門辺りにはウルゲンチ行きのトロリーバスやマルシュルートカ(小型のミニバス)、乗り合いタクシー乗り場があったが早朝の為、客の姿は殆ど無かった。今回の旅行でウズベキスタンの至る場所で姿を見た野鳥。名前は??カササギであろうか?イチャンカラの城壁上の見張り台。前夜にホテルに向かうときに潜った西門(オタ・ダルヴァザ門)。1920年に革命後の混乱で壊されて、その後修復されたと。早朝の為に人の姿はなかったのであった。西門の外からのカルタ・ミナル。西門の近くでは親子で井戸から水汲みを。南門に向かって散策を続ける。城壁に朝日が。南門(タシュ・ダルヴァサ門)もかなり立派な門。カラクム砂漠へ行く人はこの門から出て行き、砂漠から来る人はこの門を目指したと。門の両側には見張り用の立派な塔が鎮座。1873YIL(年)の文字が。ヒヴァのイチャン・カラは、かつては2重の城壁で囲まれていたのだ。現在では外側の城壁はほとんどなくなっているが、ここ南門のさらに南側に少しだけ残っていた。そんな外側の城壁付近に南門とそっくりな門があった。おそらくここが外側の門だと思われる。イチャン・カラの城壁をほぼ1周して南門から城内へ。南門の天井部。南門の扉は頑丈そうで見事な彫刻芸術品。再び天井を別の角度から。モスクを支える柱の彫刻をするオジサンの姿を暫し見学させてもらった。見事な彫刻。この柱の材質は?完成するのにどのくらいの時間がかかるか?を拙い英語で尋ねたが、オジサンは質問内容は理解してくれたようで、ウズベキスタン語で一生懸命に説明してくれたが旅友も私も全く理解出来なかったのであった。しかしこれも「一期一会」。イスラム・ホジャ・メドレセのミナレットを別角度から。再びイスラム・ホジャ・メドレセ。7:50過ぎにホテルに戻り朝食のレストランへ。よって約1時間20分の早朝散歩なのであった。ホテル出発は9時とのことで、ゆっくりとバイキング形式の朝食を。 ・・・つづく・・・
2018.06.02
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更にこの日の最終目的地である三枚橋に向かって歩く。旧東海道の右手に『寶泉寺』の山門が現われた。「永禄山宝泉寺は、永禄元年(1558)北条時長(宝泉寺大年用公)によって創建された臨済宗大徳寺派の古刹である。寺は創建間もない、天正八年(1590)豊臣秀吉による小田原合戦の兵火に罹って堂宇は焼失し、その際数多くの寺宝が焼失してしまった。その後三世の僧菊経によって再建されたが、のちに衰微し、十二世僧仁渓によって、安政元年(1854)再建された。兵火の難を逃れて現在寺に残されている文書が二点ある。一つは、小田原北条氏が宝泉寺に与えた禁制状で、寺の取締りについて保証したもの。他は宝泉寺の寺領の範囲を示したもので、元亀3年(1572)卯(4)月12日に北条幻庵が裏書をしたもので、いずれも小田原市の重要文化財に指定されている。また本堂屋根瓦の三つ鱗紋や、寺の文書に見られるようにこの寺は北条氏との深いつながりをもつものと思われる。従来から開基北条時長については出生不明とされ、小田原北条氏の系譜にも見ることは出来ないが、おそらく小田原北条氏の一門と考えられている。」寶泉寺『本堂』。寳泉寺の永代供養墓『風里廟』。次に訪れたのは『長興山 紹太寺』参道。右手にあったのが『長興山紹太寺総門(大門)跡』。「紹太寺の総門は、東海道に面したこの場所にありました。元禄四年(1691)ドイツ人博物学者ケンペルは、江戸に向う途中、この総門をみて彼の著書「江戸参府紀行」に次のように記しています。「入生田村は、小さな村で、その左手の四角の石を敷き詰めた所に紹太寺という立派な寺がある。この寺の一方側には、見事な噴水があり、もう一方の側には、金の文字で書かれた額があり、しかも前方には、金張りの文字のついた石造りの門が立っている。」この長興山の扁額は、黄檗宗の開祖隠元禅師の書き下ろしたもので現在子院清雲院(現・長興山紹太寺)の本堂正面に掲げられています。なお、現在道路の左側に積み上げてある加工された石は、この総門に使われていたと考えられます。」『黄檗宗 長興山 紹太寺』案内図。長興山 紹太寺『山門』が前方に。『子院・清雲院(現・長興山紹太寺)』「清雲院は、長興山紹太寺の参道沿いにある子院の一つです。紹太寺の七堂伽藍は、弘化四年(一八四七)安政年間(一八五四〜五九)、さらに明治の火災で焼失しましたが、この清雲院は難を逃れ、本寺である紹太寺の法灯を守り現在に至っています。山門前にある「松樹王」の刻銘石は、東海道の風祭と入生田の境にあった境界石です。この刻銘石の左側面を見ると「長興山境」と刻まれていることからも分かります。紹太寺の広大な寺領には、7箇所あったと伝えられ「長興山の七つ石」(五基確認)といわれています。山門を入って本堂正面に掲げられている「長興山」の扁額は、黄檗宗の開祖隠元禅師が書き下ろしたもので、紹太寺の総門(大門)にあったものです。」『長興山「母の里石段公苑」』「三代将軍徳川家光の母春日局と小田原藩主(城主)稲葉一族が眠る幽邃の地、母の里石段公苑。三百六十段の石段を登るとそこには奥津城が静かに佇み遥か相模灘を望み古の歴史が彷彿として蘇ってまいります。<神奈川県名木百選、小田原市指定天然記念物「しだれ桜」そして県下でも数少ない樹叢の中に黄檗宗の高僧「鉄牛禅師」の寿塔があります。この由緒ある石段公園にご先祖さまの化身として、釈迦如来・観音菩薩・地蔵菩薩・七福神等の石仏を石段左右に建立し崇拝する人、知人友人の霊を追善供養、商売繁盛祈願、家内安全祈願等を念じれば心の安らぎが得られるものと存じます。」『山門』。『本堂』。『長奥山』と書かれた扁額。黄檗宗の開祖・隠元法師の書き下ろしであると。紹太寺は、江戸時代の初期(寛永9年1632〜貞享2年1585)小田原藩主であった稲葉氏一族の菩提寺で黄檗宗大本山萬福寺の末寺である。はじめ小田原城下山角町(現・南町)に建立された臨済宗の寺院であったが、寛文9年(1669年)稲葉正則は寺を入生田牛臥山のこの地に移し、黄檗宗長興山紹太寺と号して、父母及び祖母春日局(徳川三代将軍家光の乳母)の霊を弔った。往時は寺域方10町(1092m四方)に及ぶ広大な地に七堂伽藍の整った大寺院であった。元禄4年(1691年)この地を通過したオランダ商館医師ドイツ人ケンベルの紀行文にも、その壮麗な姿が描かれている。しかし幕末と明治初年の火災で焼失してしまった。現在の紹太寺は、その折、難を逃れた子院の清雲院がその法灯を継いでいる。境内には開花した桜の花が。『長興山の枝垂桜』「シダレザクラは、本州中部以西に生えるエドヒガン(ウバヒガン、アズマヒガン)の変種で、枝が垂れ下がる点が特徴です。また、サクラの種類のうちでも寿命が長く、大木になり、特異な樹形となることから、神社や寺院の境内によく植えられ、市内でも早川の真福寺、下大井の保安寺、城内の二宮神社などに見られます。この木は、枝を八方へ平均に広げ、シダレザクラの基本的な形を整えています。3月下旬から4月上旬にかけて濃い緑の樹叢を背景に開花する姿はまことに美しく、県下にも比類のない名木です。このサクラは、稲葉氏が紹太寺を建立した頃、その境内に植えられたもので樹齢三三〇年以上と推察されます。」4月になるとこの様にと。 【https://blogs.yahoo.co.jp/ryoma_with_t/32294990.html】 長興山紹太寺の外壁も美しく。そして再び旧東海道に戻る。沢水の流れも激しく。民家の壁も美しく。『山神神社』への階段が右手に。民家の庭先の『しだれもみじ』も美しく紅葉。そして再び箱根登山鉄道の入生田駅の先の踏切を渡る。『日本初の有料道路』碑。小田原の外れから、箱根湯本までの4.1キロの東海道を、幅員5メートルに広げ、勾配を緩くして、人力車が通れるようにし、人力車1銭 大八車7厘 小車3厘の通行料(道銭)を、5年間徴収した。明治8年(1875年)9月のことだと。『駒ノ爪橋跡』「天保年間に書かれた『新編相模国風土記稿』の、入生田村(小田原市)の項には、「駒留橋 東海道中湯本村界の清水に架す。石橋なり。長3尺(90センチ)幅2間(3.6m)、両村の持。橋上に頼朝郷馬蹄の跡と云あり。旅人此橋に足痛の立願す。」と載っています。これには、往時源頼朝が富士の巻き狩りから帰る際、この橋まで来ると馬が暴れてしまい、その際に橋の上に馬のひずめの跡が残ってしまったという逸話が残っています。そこで、旅人は「石に足跡をつけた頼朝の馬の頑強な脚にあやかりたい」と道中足が痛まないよう祈願したということです。後に小田原市板橋の山県有朋公の別荘古希庵の庭園に使われていたようです」現国道1号線と合流し振り返る。国道1号線の法面には達磨大師像の『交通安全の碑』が。日本橋から88.5km。箱根町の『交通安全』モニュメント。小田原市と箱根町の境界のようで交通安全箱根町の三日月型のモニュメントがあった。右側に箱根登山鉄道の下をくぐる道が現れてきます。そこをくぐり、山を登るとそこが『牛頭天王神社(ごずてんのうじんじゃ)』。「古来部落の境には天王神社が祀られる事が多い。祭神は午頭天皇(スサノオ)を祭神とする祇園信仰の神社であり、京都八坂神社の祭礼が全国に広まった一ツである。牛頭天王はインドでは武塔大師と呼ばれ、祇園精舎の守護神とされている。名前の由来は諸説あり古くはヘブライ語の「ゴゼー」がなまって「牛頭」になったという説もあるようだ。典型的な神仏合祀の一例である。スサノウノミコトは大変、力の強い暴れん坊の神様だったので、霊力が強く、これを祀れば疫病神を除いてくれる、という信仰から多くの村境に祀られたと思われる。山崎も入生田(小田原市)と、湯本村(箱根町)との村境にあり、湯本村の人達が村に疫病神が入ってこないようにと祀ったものである。旧湯本村の氏神だった頃、明治二十六年に神社の石段を作った時の記録によると世話人は湯本の湯場・神明町・仲宿・三枚橋・山崎の代表が名を連ね、全村七十五人が工事費を寄付している。石段の数は百十八段あり、神社境内にある碑には世話人、発起人の名前が刻まれている。天王社の紋章は五ッ木瓜(イツツモツコウ)で、キュウリを輪切りにすると、同じような紋様になる為は、祭礼には必ずキュウリを上げる。山崎では、昔は初物のキュウリを天王さんに上げてからでなければ、食べなかった。また、キュウリを切る時は輪切りにしないで、必ず斜めに切る、という風習があったようだ。」『山崎の古戦場』江戸時代末期、勤皇派と佐幕派が戦った場所。小田原藩の度重なる寝がえりの末、最終的にここが激戦地になりました。結局、小田原藩と官軍が勝って、遊撃隊は敗走しています。小雨が降りだしていたが、目的地もだんだんと近づいて来た。小田原箱根道路との合流点。『山崎ノ古戦場』碑。山崎は、箱根戊辰の役の戦場だった場所。「山崎ノ古戦場 明治維新ノ際官軍東上ノ途此地ニ於テ伊庭八郎等ノ殉幕浪士ト遭遇激戦ノ後是ヲ撃破セリ」佐幕派から勤皇派に立場を変えた小田原藩軍と、旧幕府遊撃隊とが、湯本の山崎に於いて激しい戦いを行った。伊庭八郎は重傷を負い、数で圧倒する小田原藩と新政府軍とが勝ち、遊撃軍は敗走したのだと。国道1号線と西湘バイパス・小田原厚木道路の分岐場所を振り返る。『湯本歩道橋』下を通過。そして左側に見えて来たのがこの日の最終目的地『三枚橋』。『三枚橋』木橋の頃より両岸の幅が狭まり、橋はやや湯本寄りに架かっている。早川に架かる三枚橋は江戸時代の東海道と湯本路との分岐点にあたり、橋を渡らず温泉場へ向かう道は「湯場道(ゆばみち)」と呼ばれた。小田原北条氏時代は川幅が広く、中州が2つあり地獄橋・極楽橋・三昧(さんまい)橋の3枚の橋が架かっていて、橋を渡り切ると北条氏の菩提寺・早雲寺の総門だった。早雲寺に駆けこめば犯罪人も罪を免れて極楽橋まで逃げると助かったので、次の橋を「これからは仏三昧に生きよ」という意味で「三昧橋」と名付け、その名が今は「三枚橋」として残ったという。早川の流れ。そしてこの日の旧東海道歩きは完了し、箱根湯本駅に向かいながら三枚橋を振り返る。早川の向こう側にが『湯本富士屋ホテル』と赤い欄干の橋・『あじさい橋』。この後の『天下の難所 箱根八里 箱根旧街道 石畳』(☚リンク)は既に以前に完歩済みであるので、次回は箱根関所からの山下りなのであった。よって次回の箱根関所方面へのバスの時刻表を念のためカメラに収める。小田急線『箱根湯本駅』。駅構内。クリスマスツリーが。そして小田原駅でJRに乗り換え。駅構内にあった巨大な『小田原ちょうちん』。小田原駅のJR東日本改札口の上には、直径2.5m、全長5mにも及ぶ巨大な小田原ちょうちんが旅人を出迎えていた。そして駅構内の壁には『東海道五拾三次 小田原』が。酒匂川は、富士山の東側から小田原を経て相模湾に注ぎます。春から夏にかけて増水する酒匂川には、客や荷物を担いで渡る人足(にんそく)がいました。対岸には北条氏の居城であった三層四階の小田原城が見え、遠くには箱根連山が描かれています。川を渡る旅人の苦労も大自然のなかに埋没してしまうほど雄大な風景が広がっています。『東海道五拾三次 小田原』の絵のそれぞれの部分の説明。そしてJR東海道線にてこの日は反省会なしで帰宅したのであった。 ・・・その8・・・に戻る ・・・旧東海道を歩く(国府津~小田原) 完・・・
2019.02.16
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「亀戸浅間神社」を後にし、「亀戸浅間通り」と「番所橋通り」の交差点を渡る。そしてここを左折し「番所橋通り」を南に進み直ぐに右折する。首都高速7号小松川線の高架に沿った「旧千葉街道」を西に進む。途中から高架下の「竪川河川敷公園」内を歩くと吊り橋を渡る遊具が。竪川河川敷公園カヌー・カヤック場に隣接して設置している水上アスレチック場。「竪川河川敷公園」全体マップ。延長2.4km、面積7.48ha、首都高速道路7号線の高架下にある公園。立地条件を活かし、雨をしのげることから有料施設のカヌー・カヤック場・フットサル場をはじめ、無料で利用できる水上アスレチック・親子でキャッチボール広場・パターゴルフ場・グランドゴルフ場・健康遊具広場・噴水流れ(じゃぶじゃぶ池)など多彩なスポーツ施設を整備しているのであった。水場。そして「旧千葉街道」を右に折れて「亀戸平岩公園」に立ち寄る。亀戸6丁目47番12号にある区立公園。「 この地は、隣地平岩公園同様、代々、平岩家所有地であり、この度動物学者・動物文学者故平岩米吉氏より、「江東区民の皆様へ」と遺贈されたものである。氏のご好意に感謝し、ここにこの碑を建立する。平岩米吉氏の歌狼の頭かいなでていつくしむ われを奇人と世の常は言ふ」「亀戸平岩公園」に立ち寄る。「亀戸平岩公園」の隅に神社があった。「平岩稲荷神社」。小さな「社殿」。「稲荷神社この地は徳川家康の家臣であった平岩家の先祖が、三河より徳川幕府に従って江戸の居を定めてから、大正の中頃まで、約300年にわたって平岩家代々の居所であった。幕末より明治にっけて竹問屋として名を成した、6代目平岩甚助の死後、昭和16年(1941)に、楠にかこまれた広大な敷地内にあった1000坪の池が埋めたてられ、その一部約340坪が公園として東京市に寄付された。その後昭和25年(1950)に東京都より江東区に移管され現在に至る。現存する稲荷神社は古くから祀られていたものを元の築山の上に移したものである。」「亀戸平岩公園」内の「稲荷神社」を振り返る。時間は14:30。そして次に立ち寄ったのが「旧千葉街道」沿いにあった「天台宗自性院 (じしょういん)」。「天台宗 自性院」。江東区亀戸6-35-23。自性院「稲荷社」。「南無阿彌陀佛」碑。「本堂」。自性院は、江東区亀戸6丁目に所在するが開創当時は本所の中之郷成就寺内にあった。寛文2年(1662)横川堀敷として、現在地に替地を賜わり寺院ならびに稲荷社を移した。元禄5年(1692)に寺を再建し、正徳3年(1730)日光御門主大明院宮公弁法親王の命書により成就寺の末寺と定められた。「墓地」そして右折して再び「亀戸緑道公園」を歩く。繰り返しになるが、昭和の時代に都電が走っていた跡地に造った「亀戸緑道公園」。そして「亀戸緑道公園」を左に入った「亀戸南公園」に立ち寄る。「占風園跡(せんぷうえんあと)」案内板。「占風園とは、近江国(滋賀県)仁正寺藩市橋氏の下屋敷の雅名です。昔、この近辺は「本所五ツ目」と呼ばれましたが、市橋氏は、この地に下屋敷5千6百坪を拝領していました。『葛西志』によると、占風園は寛文期(1661~1673)に造営され、元禄期(1688~1704)の修築で景勝が整えられたといいます。広大な「釣月池」を中心に、周囲に築山、橋、茶屋をめぐらした回遊式の庭園で、その景色を題材にして元禄7年(1694)に「占風園十勝詩」が詠まれ、他にも「占風園十七詠」などの和歌が残されています。享保5年(1720)7月29日には、将軍吉宗が鷹狩りの際、雨宿りに立ち寄っています。また、『東京市史稿』遊園篇第二には、文化9年(1812)に藤原祐壽が描いた占風園の四季の図があり、その美しい風景の様子をよく伝えています。」市橋下総守(仁正寺藩)下屋敷「本所猿江亀戸村辺絵図」嘉永4年( 1851 )近江屋板]○市橋下総守下屋敷 ○自性院「亀戸緑道公園」の幼児像。プラウドタワー亀戸は現在工事中。「貧乏神稲荷社」がこの中にあるはずであったが・・・。「亀戸駅通り」バス停前のビルの1Fに展示されていた役者絵。右から「白波五人男と市村羽左衛門」と「腕の㐂三郎 嵐吉三郎」右から「幡寿意蝶兵衛 市川海老蔵」と「夢乃市郎兵衛 中村歌右衛門」。「梅堀由兵衛 澤村納升」。そして江東区亀戸1丁目12にある江東区立第三亀戸中学校の正門前に到着。その横にあったのが「おいてけ堀跡」碑。「おいてけ堀跡 亀戸1-12「おいてけ堀」は、墨田区両国付近から江東区亀戸あたりにかけて残る伝説で、本所七不思議のひとつです。釣人が帰る途中、堀から「おいてけ、おいてけ」という声が聞こえ、獲物を置いて帰らないと、いつのまにかその獲物がなくなってしまうというものです。天明七年刊の黄表紙『亀山人家妖(いえのばけもの)』(朋誠堂喜三二作・北尾重政画)に取り上げられていることから、18世紀には伝承として成立していたようです。おいてけ堀の場所には諸説あります。本所や亀戸あたりでは、屋敷地を少し離れると田畑も多く、池や堀の周りには、夜になると人気のない寂しい場所があちらこちらにあり、こうした伝承が生まれたと考えられます。明治42年作成の一万分の一の地形図「深川」には、亀戸町字横川と清水の間(現在の第三亀戸中学付近)に堀「オイテケ堀」と記されています。同43年刊の「東京近郊名所図会」其六では、この「オイテケ堀」を実地調査し、四方に樹木はなく釣堀のようになっていること、地元でおいてけ堀と呼ばれている場所が一か所だけではないことなどを記載しています。「おいてけ堀」は農村から町場へと変わっていく亀戸の面影を知る説話として伝えられ、近代以降も、錦絵・講談・落語・映画・小説などの題材とされています。」明治42年 1万分の1地形図 「深川」部分。「錦糸町プライムタワー」ビルの前にあったのが「ドラム缶発祥の地」案内板。「ドラム缶発祥の地わが国におけるドラム缶の製造は、昭和4年日本石油(株)下松精油所で自家用として生産したことに始まるといわれているが, その後昭和7年3月、先進的な事業家本野吉彦が合資会社日本ドラム罐製作所を設立、この地にわが国初めてのドラム缶製造専門工場を建設し、商業生産を開始した。スチール製ドラム缶がアメリカで発明されてから僅かに30年後のことである。以後長い間この工場はわが国ドラム缶製造の中心として活躍したが、日本経済の高度成長に伴う需要量の増大と技術の進歩に対応するためには新立地による新鋭工場の建設が不可欠となり、当地のわが国最初のドラム缶工場はその使命を終えて昭和49年10月製鐵ドラム株式会社を合併し日鐵ドラム株式會社として新たな出発をしたが、平成6年その発足20周年を迎えるにあたり、ドラム缶製造工場発祥の場であるこの地に、日鐵NDタワーを含む〝NDプラザ〟をその記念として建設した。」そしてこの日のゴール地点の「JR亀戸駅」前に到着。駅前広場の「国旗を愛しましょう」書かれた国旗掲揚塔。ボーイスカウト東京江東第一団発団30周年記念に、1979年(昭和54年)11月に設置されたと。そしてこの日はここまでとし、次回はここ亀戸駅北側を出発点とし、東京スカイツリーまで歩くとを決めたのであった。JR亀戸駅から総武線で新宿駅へ、そして小田急線で帰宅したのであった。この日の歩数は34,090歩なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.08.25
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「荏柄天神社」を後にして「お宮通り」を進むと正面に「鎌倉宮」の鳥居が見えて来た。「鎌倉宮」へは「覚園寺(かくおんじ)」からの帰りに立ち寄ることとしここを左折した。「覚園寺」まで700mと。「現在位置」。「大塔宮」バス停の先にあったのが「弘法大師八十八箇所道」と刻まれた石碑が立っていた。江戸から明治にかけて、覚園寺には四国八十八箇所を模した霊場があって、百八やぐら群には、八十八体の弘法大師像が置かれた。百八やぐら群には首のない石仏を見ることができるが、廃仏毀釈の運動で破壊された弘法大師像なのだという。次の目的地「蒲原有明旧居跡 (川端康成仮寓跡)」を探すが・・・・。左側には「この先行き止まり」の標識を利用して「に覚円寺(KAKUONJI ⬆ 400m先」を追加。このアイデアに感心したのであった。諦めかけ振り返ると、生垣の裏に立つ案内板を発見。ここが「蒲原有明旧居跡 (川端康成仮寓跡)」なのであった。蒲原有明(かんばらありあけ)という詩人は全く知らないのであったが・・・。「庭木のうちでは槙(まき)がいちばん大木てあリ、丈も高い。朝日が今その梢を照し出している。楓(かえで)はうっとうしいくらい緊って来たが、それてもけさは青葉の色が滴る(したたる)ように見える。縁先の左横手に寄って柘榴(ざくろ)が臥ている。この柘榴は槙にも劣らぬ老木てある。駱駝の背の瘤のような枝葉の集団が幾つかもくもくと盛リあかっている。そして太い幹か地を這って遠呂智(おろち)のうねりを思わせるが、一間ばかリ這って、急に頭を斜に上の方へと起ちあがらせている。 蒲原 有明 (著) の「夢は呼び交す」より(岩波文庫)蒲原有明は、明治九(一八七六)年三月十五日、東京麹町に生まれた。本名は隼雄。ペンネームの有明は、父忠載の出身地佐賀県に因んだものである。明治ニ十七年、国民英学会を卒業する頃には詩作を始めている。初め小説に手を染めたが、島崎藤村を識り詩作に専念、明治三十五年一月、初期新体詩風の第一詩集「草わかば」を発表する。次いで翌年、第ニ詩集「独絃哀歌」で象徴詩への独自な展開をみせ、明治三十ハ年、象徴詩として成熟度の高い「春鳥集」を出版した。明治四十一年、第四詩集「有明集」で詩風の完成を示し、わが国近代象徴詩の第一人者と呼ばれるに至った。ここは、大正八年五月に東京中野から鎌倉雪ノ下に移住した有明が、翌年三月に新居を構えた所である。大正十ニ年九月一日の関東大震災で被災し、大破した家屋の修理はしたが、十ニ月に静岡市鷹匠町に移住する。昭和ニ十年六月には戦災に遭い、九月に再びこの地に戻った。この家には、昭和十ニ年から川端康成が有明の持ち家と知らすに住んでいたが、快く迎え入れ、翌年十月に長谷に転居した。昭和ニ十三年七月、日本芸術院会員となる。昭和ニ十七(一九五ニ)年ニ月三日死去。七十七歳であった。この碑は、昭和五十七年、有明没後三十年を記念し、野田字太郎(詩人、明治四十一年~昭和五十九年)を中心に「文学碑」建碑の計画がなされたが実現されず、この度、孫である蒲原一正より建立された。 平成二十二年二月三日」明治時代の詩人蒲原有明の作品の「あまりりすおほどかに ひとりほほゑめるわが戀の 花や、あまりりす。あやしうも貴に、すゐれんの 照りいづる娟にも以もやらず、おもひ屈し、すこしたゆげにも うつむける、あはれ、あまりりす。」様々な「作品」👈リンク を残しているようであるが、私には難解過ぎる詩なのであった。薬師堂ヶ谷の小路を「覚園寺」に向かって更に坂を上って行く。民家の庭にはオオデマリの花が。ズームして。淡いピンクになっている花も。道路幅が微妙に変わる場所に突起物が。「浄心橋」の文字が。ここまでは右側に水路があったが、この先で水路は見えなくなり、暫くすると左側に姿を現したので、道路下を斜めに横断している様であった。「天園ハイキングコース」沿いにあった庚申塔群。ここが「天園ハイキングコース」の「覚園寺口」なのであった。薬師堂ヶ谷の小路を覚園寺へと向かう途中にある庚申塔。かつてこの場所には覚園寺の総門があったのだと。ここから、山道の入ると「百八やぐら」を見ながら天園ハイキングコースに合流することができる。小路を挟んで庚申塔の左側は、廃寺となった大楽寺があった所。そして正面に「覚園寺」の山門が見えて来た。「覚園寺定保六年(一ニ一八)二代将軍・北条義時が、戌神将のお告げにより建てた薬師堂が前身です。その後九代執権・北条貞時が、元寇が再び起こらぬことを願い、戒律を中心とした四宗(真言・天台・禪・浄土)兼学道場に改めました。本堂の薬師三尊坐像と十ニ神将像は屈指の尊像です。奥深い境内は静寂としていて、古都鎌倉の面影をよく残しています。地蔵堂の黒地蔵尊の縁日(八月十日)には、多くの参拝者が訪れます。・宗派 真言宗泉涌寺派(しんごんしゅうせんにゅうじは)・山号寺号 鷲峰山覚園寺(じゅぶせんかくおんじ)・建立 永仁4年( 1296 )・開山 智海心慧律師 (ちかいしんえりっし)・開基 北条貞時」「山門」への石段を上る。境内の参道には蓮の花の鉢が並ぶ。両脇には現代風の灯籠が。紅葉時期には鎌倉市の紅葉の名所となるのだと。 【https://kamakurawakamiya.jp/news/details.php?id=297】より境内には巨大な九重石塔も。紫式部ゆかりの京都・清凉寺の九重石塔のレプリカだと。下部には仏像の彫刻が。十重石塔もあるようだが、その区別は?「寺務所」。「鐘堂」。正面に「愛染堂」。「拝観受付のとなりにあります。元は大楽寺(だいらくじ)のお堂です。廃仏毀釈て、覚園寺に移築されました。中央赤い仏様が、愛染明王てす。仏教ではギリシャ神話と同様にいろんな利益や役割をもった仏が存在します。愛染明王は、「幸せになるためにおそれや不安を打ち消し、ひたすら前にすすむ力」「情熱」をつかさどり、人の「縁(えにし)」をとりもつ仏様です。」「文保元年(1317年)二階堂行朝開基の寺院、明治初年に廃寺となった大楽寺に所属していた仏堂。本尊の木造愛染明王坐像のほか、鉄造不動明王坐像、木造阿閦如来(あしゅくにょらい)坐像(各鎌倉時代、いずれも大楽寺の旧仏)などを安置する」とウィキペディアより。赤い仏様・「愛染明王」像。「2022年NHK大河ドラマ 制作決定」「覚円寺所縁 鎌倉殿の13人 北条義時公の物語」と。番組のタイトルは「鎌倉殿の13人」👈リンク と。「平安末から鎌倉前期を舞台に、源平合戦と鎌倉幕府が誕生する過程で繰り広げられる権力の座を巡る駆け引きと、その勝利者で北条得宗家の祖となった北条義時を主人公に描く。タイトルの「13人」とは、源頼朝の死後に発足した集団指導体制である「十三人の合議制」を構成した御家人たちを指している。NHK大河ドラマにおいて、タイトルにアラビア数字(算用数字)を使うのはこの作品が初めて」とこれもウィキペディアより。作・脚本は三谷幸喜、北条義時を演じるのは小栗旬であると。「三谷幸喜の会見動画」👈リンク もネットから。以前は参拝者は奥の本堂(薬師堂)境内には自由に立ち入ることはできず、定められた時間に、寺側の案内者の先導で、順路にしたがって拝観することが求められていた。しかし、この日は、コロナ禍の下で「有料自由拝観」となっているとのことで500円を支払い内部に入ったのであった。しかし、拝観時の写真撮影は外も含めて拝観ゲートから先は一切禁止されていたのであった。そして拝観ゲートから内部に入る。戴いた案内を見ながらの拝観。以下の写真は全てパンフレットからの転載です。「境内配置図」当日戴いた「パンフレット」の「配置案内図」。「地蔵堂」と「六地蔵」を見上げる。 【https://keiryusai.com/archives/18606】より「地蔵堂」「地蔵堂(じぞうどう)と千体堂(せんたいどう)大地のちからを宿す仏さまが地蔵菩薩てす。田畑に恵みを与えると信仰され愛されている仏様です。大地の力は、「いのち」をはぐくむ力とも解釈され、子どもを育て護る仏様として信仰され、幼子を護るための魔よけ(神社の鳥居や昔の橋が朱色なのと同じ理由て)の朱色の帽子と前掛けをつけていることがあります。黒地蔵尊をまつる地蔵堂となりには、お地蔵様の分身を千体近くまつる千体堂あります。」 【https://www.engakuji.or.jp/blog/29227/】より「内陣」をパンフレットより。「仏様のなかで大地のちからを宿す仏さまが地蔵菩薩です。田畑に恵みを与えると信仰され愛された仏様です。 大地の力は、「いのち」をはぐくむ力とも解釈され、子どもを育て護る仏様とも信仰され、幼子を護るための魔よけ(神社の鳥居や昔の橋が朱色なのと同じ理由で)の朱色の帽子と前掛けをつけるようになりました」以前に戴いた「鎌倉二十四地蔵尊第三番 覚園寺 黒地蔵尊」の「御朱印」です。「やぐら」をパンフレットより。「鎌倉は山が多く平地が少ないことから、鎌倉の武士や有力者のお墓は、人を雇い山の斜面に 穴を掘らせそこに埋葬されるようになります。山の中には、177穴が確認されています。お堂の脇のやぐらは、儀式や修業のためのものと推測されています。」「内海家」をパンフレットより。「 1706年に鎌倉でつくられた裕福な農家です(当時畳が使われた農家は少なかったようです。)1981年に一度 解体され覚園寺境内に移築されました。毎日この明るさのなかでよく暮らしていたなと感心するぐらい家のなかは暗いです。その分屋外の景色はより明るく感じられ、日本人はお日様のありがたさや自然の景色のすばらしさを毎日感じていたと思います。」「薬師堂」「 覚園寺の中心となるお堂です。覚園寺は1218年に開かれましたが当時のお堂は焼失し、現在のお堂は、1354年に再建された建物が元になり、以来なんども修繕が重ねられてきています。中央にまつられている仏様が、本尊 薬師如来、心身ともに元気でありつづける、もし怪我や病気になったらそれとともに前にすすむ力をあたえる仏様です。 元気であり続ける力は、昼夜を問わず一日中必要であることから薬師如来の両側、右に日光菩薩(日の光)、左に月光菩薩(月の光)がまつられています。さらにその外には、中央の薬師 三尊を守護し、参拝者を勇気づける十二神将像がまつられています。十二神将は私たちの干支の象徴でもあります。神将の頭頂部に干支の動物がつけられています。」 【https://keiryusai.com/archives/18606】より「薬師三尊」=木造薬師如来+日光・月光菩薩坐像(国重文)、「木造十二神将立像」(国重文)が安置されていた。像高:薬師如来181.3cm 日光菩薩149.4cm 月光菩薩150.0cm。薬師如来像は鎌倉期の作。日光・月光菩薩像は室町期の作であると。【https://www.onmarkproductions.com/assets/images/choyu-nikko-gakko-kakuonji-kamakura-nihon-no-butsuzo-no-19.jpg】「木造十二神将立像」。吾妻鏡によると、北条義時の夢に戌神将が現れ、そのお告げにより義時は、のちの実朝右大臣拝賀式の折、命拾いをしたと伝わると。「十二神将」👈リンク の中の迷企羅大将(めきらだいしょう、酉(とり)神将)「左)と「伐折羅大将(ばさらだいしょう、戌(いぬ)神将)」(右) 【https://www.ktv.jp/kenbutsu_app/20150905_5/】より「伐折羅大将(ばさらだいしょう)」をパンフレットより。「薬師堂」内の木造仏の配置図。 【https://omairi.info/2019/03/11/kakuonji-tpl-keidaisanpo/】よりそして内部に拝観を終え再び「山門」と巨大な「九重石塔」を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.19
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【ピタゴラス数】は、『 a^2 + b^2 = c^2を成り立たせる3つの自然数a 、 b 、cの組』である。この数の組は一般的に(a, b, c)と書かれ、その一例は(3, 4, 5)である。 (a, b, c)がピタゴラス数の場合、任意の正の整数kに対して(ka, kb, kc)も同様である。原始ピタゴラス数は、 a 、 b 、 cが互いに素である三つの数の組である。 (3, 4, 5)は原始ピタゴラス数であるが、 (6, 8, 10)はそうではない。例(3、4、5)(5、12、13)(8、15、17)(7、24、25)(20、21、29)(12、35、37)(9、40、41)(28、45、53)(11、60、61)(16、63、65)(33、56、65)(48、55、73)(13、84、85)(36、77、85)(39、80、89)(65、72、97)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おぼえておきたいピタゴラス数【ピタゴラス数をすべて求めることができる公式】例えばm=2,n=1を代入するとa=4-1=3b=4c=4+1=5 となり (3,4,5)となる。m=3,n=2を代入するとa=9-4=5b=12c=9+4=13となり (5,12,13)となる。m と nに様々な値を代入するだけで、無限にピタゴラス数を作り出せるのです。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.06
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DUBLIN市内の観光は、このアイルランド旅行の初日、旅友Yさんと訪ねた👈️リンクが、残りの旅友・SさんとHさんは、初日のホテル到着が深夜であったため、二人は、この日が初めてのDublin市内観光なのであった。左手には、初日に訪ねたトリニティ・カレッジ(Trinity College Dublin)の正面玄関(Front Squareに面した建物)が現れた。トリニティ・カレッジ(Trinity College Dublin)👈️リンクは・創設:1592年、イングランド女王エリザベス1世により設立。・アイルランド最古かつ最も有名な大学であり、現在も国際的な研究拠点。・校舎や広場は17世紀〜19世紀の建築を中心に構成され、学問都市ダブリンの中心地に位置。正面に廻り込んで。Trinity College Front Arch(フロント・アーチ)。ジョージ王朝時代の新古典主義建築(ネオクラシカル)。正面には4本のドーリア式円柱が並び、三角破風(ペディメント)には時計が取り付けられていた。中央には大きな木製アーチ扉(訪問者の出入り口)。この扉の奥には、石畳の中庭「Front Square」が広がっており、キャンベル鐘楼(Campanile)、図書館(Old Library)、そしてケルズの書(Book of Kells)展示室があった。観光客はこの正門から入り、チケット売り場と展示エリアへ向かうのであった。トリニティ・カレッジは1592年創立、アイルランド最古の大学。卒業生には、ジョナサン・スウィフト、オスカー・ワイルド、サミュエル・ベケットそして我が友O氏など著名な人物がいるのであった。トリニティ・カレッジの学内構造案内図(地図の数字とは一致しない)。1.正門・フロントゲート(Front Gate / Regent House Entrance) 位置:カレッジ・グリーン(College Green)に面した南側、キャンパスの主入口 内容・特徴: ・トリニティ・カレッジの象徴的な正面玄関。重厚な石造ファサードに時計塔がある ・上階の「リージェント・ハウス(Regent House)」は、かつて学長の執務室だった ・鉄柵前には、エドマンド・バーク像とオリヴァー・ゴールドスミス像が左右対称に立つ ・観光客の多くがここから入場。書の間(Book of Kells)への入口もこの先にある2.フロント・スクエア(Front Square) 位置:正門をくぐった中心広場 内容・特徴: ・カレッジ内の中核となる石畳の広場。多くの歴史的建築が四方に並ぶ ・学生・観光客が集まる開放的な空間で、芝生と整った動線が特徴 ・中央キャンパナイル(鐘楼)が立つ ・学生の間では「試験前にキャンパナイルの下をくぐると落第する」という迷信がある3.キャンパナイル(Campanile) 位置:Front Squareの中央 内容・特徴: ・高さ約30mの石造鐘楼。1853年にチャールズ・ラニヨン卿の設計で建設 ・建築様式はネオクラシカル。下部はアーチ状で通り抜け可能 ・学内のランドマークであり、写真撮影スポット ・象徴的建築として、時間・伝統・静寂を表す存在4.旧図書館・ロングルーム(Old Library / The Long Room) 位置:Front Squareの南側(正門と向かい合う位置) 内容・特徴: ・ケルズの書(Book of Kells)を展示する最も有名な建物 ・ロングルームは、幅約12m・長さ65m・高さ約15mの2階建てバレルヴォールト空間で、 蔵書20万冊以上 ・アイルランドの文化的至宝として世界的に知られる ・学術・観光両面でトリニティ最大の見どころ5.ニュー・スクエア(New Square) 位置:Old Libraryの北東側(フロントスクエアの東隣) 内容・特徴: ・18世紀後半に整備された第2の中庭(広場) ・四辺を囲むように、学術系建物(特に理系学部やオフィス棟)が並ぶ ・広々とした芝生が広がり、静かな雰囲気 ・キャンパス南東部と理学系施設をつなぐ学術ゾーンの玄関口6.ルブリックス(Rubrics) 位置:Front Square 北側、チャペルの背後(北東側) 内容・特徴: ・トリニティ・カレッジで最も古い現存建築(1710年代) ・赤レンガ造りの長屋風建物で、均整のとれたファサードが特徴 ・かつては学生と教員の住居、現在は研究室・管理部門として使用 ・フロントスクエアにおける「古きトリニティ」の象徴 7.卒業生記念館(Graduates Memorial Building, GMB) 位置:Rubricsの西隣、図書館広場の北端に面する位置 内容・特徴: ・建築:1899年完成、ヴィクトリアン・ゴシック様式 ・学生ディベート協会の本拠: - 「The Phil」(Philosophical Society/哲学協会) - 「The Hist」(Historical Society/歴史協会) ・トリニティの弁論・議論文化の中心 ・彫像や塔屋がある荘厳な外観が特徴8.講堂・ダイニングホール(Public Theatre / Dining Hall) 位置:チャペルの東側(Front Square北東部) 内容・特徴: ・式典・表彰式・招待講演などの公式行事に使用 ・食堂部分はスタッフや公式ゲスト用。天井は高く、歴代学長の肖像画などが並ぶ ・木造梁と歴史的調度品に囲まれた荘厳な雰囲気 ・フロントスクエアの儀礼ともてなしの空間9.ミュージアム・ビルディング(Museum Building) 位置:New Square の南西隅(Library Squareの東隣) 内容・特徴: ・建築:1857年完成、ロマネスク・リヴァイヴァル様式 ・使用学部:建築学、工学、地質学などの拠点 ・外壁:アイルランド産の石灰岩とポルトガル産大理石の装飾 ・内部には見事な柱頭彫刻やタイルモザイクがあり、アイルランドで最も美しい大学建築の 一つとされる10.ダグラス・ハイド・ギャラリー(Douglas Hyde Gallery) 位置:Front Gate(正門)を入って右手すぐ、アートスクール近接 内容・特徴: ・1978年開設の現代美術ギャラリー ・アイルランド内外の現代アーティストによる展示を開催 ・無料公開され、学生・市民・観光客に開かれた芸術空間 ・現代文化と大学の知性の交差点を象徴トリニティ・カレッジ(Trinity College Dublin)の全景の航空写真をネットから。特徴と主要建物・広さ 約47エーカー(約19ヘクタール、190,000㎡)、東京ドーム(約4.7万㎡)のおよそ 4個分。・中央広場(Front Square) 真ん中に「キャンパナイル(Campanile, 鐘楼)」がそびえています。トリニティ・カレッジの シンボルです。・右手奥の大きなクラシック建築群 ・図書館広場(Library Square)に面した建物群。 ・オールド・ライブラリー(Old Library) には有名な「ロング・ルーム」や 「ケルズの書(Book of Kells)」が収められています。・緑の芝生の広場 校舎に囲まれて複数の芝生広場があり、学生たちが集う憩いの場です。・南西部のモダン建築 白い屋根の現代的な建物群は、学術施設や管理棟です。・南側(写真下側)に沿って走る通り ダブリン市内を走る路面電車「ルアス(Luas)」のグリーンラインが見え、黄色いトラムが 通過している。詳細案内。ここからは、既にブログにアップ済み👈️リンク ですが、より詳しく説明したいと思います。トリニティ・カレッジ(Trinity College Dublin)正門の手前左側にあったのが、エドマンド・バーク(Edmund Burke, 1729–1797)の像。エドマンド・バークとは:・出身:アイルランド・ダブリン・学歴:トリニティ・カレッジ卒業(1744年入学)・職業:政治家・哲学者・演説家・作家・主な活動: ・イギリス議会で活躍(ホイッグ党) ・アメリカ独立戦争ではアメリカ側に理解を示す ・フランス革命には強く反対し、保守思想の先駆とされる・代表作: ・『フランス革命の省察(Reflections on the Revolution in France)』(1790年) ・近代保守主義の父とされ、後世の政治思想に大きな影響を与えました正面から。左手に書類(もしくは書物)を持ち、理性的知性を象徴。右側の像はオリヴァー・ゴールドスミス(Oliver Goldsmith, 1728?–1774)の銅像。ズームして。・生没年: 約1728年 – 1774年・出身: アイルランド、ロングフォード県(またはウェストミーズ県)・職業: 作家、詩人、劇作家・トリニティとの関係: トリニティ・カレッジの卒業生(1744年入学)・主な作品: 小説『ウェイクフィールドの牧師(The Vicar of Wakefield)』、 詩『田園の僧侶(The Deserted Village)』、戯曲『気まぐれ女房(She Stoops to Conquer)』などゴールドスミス像は本を手に持つ姿勢で、思索的に視線を落としている。これは学識と創造性の象徴であり、詩人・作家としての彼の業績を表現している。一方、エドマンド・バーク像は演説的で前方を指すポーズで、政治・哲学的影響を象徴する と。トリニティ・カレッジ・ダブリン(Trinity College Dublin)の構内「フロント・スクエア(Front Square)」から、キャンパスの象徴的建造物であるキャンパナイル(Campanile)を正面に見る。中央の塔:キャンパナイル(Campanile)・名称:Campanile of Trinity College・建立年:1853年・設計者:Sir Charles Lanyon・建築様式:ヴィクトリアン・ネオクラシカル様式・高さ:約30メートル・構造:石造、アーチ型基礎部の上に塔状構造・用途:実際の鐘楼というよりは象徴的な建造物(鐘はあるが時報としては使用されていない)学生の間では、「試験に落ちる」という迷信があり、「試験前にキャンパナイルの下を通ると不合格になる」とされている と。そのため、期末試験前になると、多くの学生がこの塔の下を避けて通る姿が見られるのだ と。 構内「フロント・スクエア(Front Square)」の左・北側に位置する建物。左手前の堂々たる円柱建築は、Exam Hall(試験ホール)、その奥に連なる建物群はChapel(礼拝堂)やDining Hall(食堂)。卒業生記念館・Graduates Memorial Building(GMB)トリニティ・カレッジ・ダブリン(Trinity College Dublin)構内のFront Square(フロント・スクエア)北側に位置する壮麗な建物。 内容・特徴: ・建築様式:ヴィクトリア朝ゴシック・リヴァイヴァル様式 ※尖塔状の屋根、石造の装飾、ファサードのリズム感が特徴 ・建築年:1899年完成 ・設計者:Thomas Drew(トマス・ドリュー)Old Library(オールド・ライブラリー、旧図書館)トリニティ・カレッジ・ダブリン(Trinity College Dublin)の構内にある、世界的にも有名な図書館建築であり、観光のハイライト。内容・特徴: ・建築年:1712年着工、1732年完成 ・設計者:Thomas Burgh(同時代の著名建築家) ・建築様式:ジョージ王朝様式(Georgian) ・構造:3階建ての石造建築で、1階はアーケード状主な内部構成: ◾ Book of Kells(ケルズの書)展示室 ・世界的に有名な9世紀の装飾写本 ・アイルランドの文化・宗教・芸術を象徴 ・観光客の最大の目的地のひとつ ◾ The Long Room(ロングルーム) ・2階にある巨大な閲覧室:全長65m、バレル・ヴォールト天井 ・蔵書20万冊以上(主に17〜19世紀の貴重本) ・両側の書架と歴代学者の胸像が並ぶ荘厳な空間象徴性と重要性: ・アイルランド最大の学術図書館の一部 ・「デポジット・ライブラリー」として、アイルランド・英国の全出版物を収蔵 ・映画やゲームでもモデルにされる幻想的な空間(例:『スター・ウォーズ』風の内観に 影響を与えたとされる)講堂・ダイニングホールのうち、試験ホール(Public Theatre / Examination Hall)内容・特徴: ・建築年:1784年竣工 ・建築様式:ネオクラシカル様式(古代ローマ神殿風) ・設計者:サー・ウィリアム・チェンバーズ(Sir William Chambers)建築的特徴: ・ファサード中央には4本のコリント式円柱と三角破風(ペディメント) ・アーチ型の玄関3つ(左右対称) ・上部には大きな窓とバルコニー手すり(balustrade)用途と意義: ・かつての大学公開講義(Public Theatre)の場 ・現在も使用されている主要な試験会場 ・入学式・表彰式など儀礼的な公式行事も行われる ・トリニティの学問と格式の中心的象徴中心に立つ象徴的な建物、キャンパナイル(Campanile)をクローズアップ。建築的要素: ・下層部はアーチ型通路で、通り抜け可能 ・上層部は八角形の鐘楼(オクタゴン)、繊細な石の格子窓 ・ドーム型屋根の上に風向計が載る ・四隅に座す彫像(寓意像)は学問や精神を象徴しているとされる象徴と伝説: ・トリニティ・カレッジの精神的中心・象徴的ランドマーク ・「試験前にキャンパナイルの下を通ると落第する」という学生間の有名なジンクスがある ・入学式、卒業式などで学生や家族が記念撮影を行う定番スポットトリニティ・カレッジ・ダブリンのキャンパナイル(Campanile)上層に置かれた4体の彫像は、建物の象徴性を高めるために配置された寓意像(allegorical figures)です。それぞれはアカデミア(学術)に関係する抽象概念を表しており、以下のように分類されます。 ◾北東角 象徴する概念:Science(科学) ・書物や巻物、望遠鏡などを持って表現されることが多く、「観察と法則性の探求」を象徴。 ◾北西角 象徴する概念:Literature(文学) ・ペンや本を持つ女性像が一般的で、「表現と言語の力」を象徴。詩や演劇、哲学への 敬意を示す。 ◾南東角 象徴する概念:Divinity(神学) ・聖書や十字架を持ち、霊的・倫理的知の追求を表す。大学の歴史的ルーツである 神学部を象徴。 ◾南西角 象徴する概念:Law(法学) ・天秤や律法の書を持ち、「正義と秩序」の原理を象徴。学問における論理とルールの 基盤を表す。この像が象徴する概念はScience(科学) または Medicine(医学) ・杖に巻きつく一匹の蛇は、しばしば治癒・医学・生命の探求を象徴します。 ・医学に限らず、自然科学(biology / physiology)全般を象徴する場合もあります。 ・トリニティ・カレッジでは、この像は伝統的に"Science"(科学)を代表する像と されています。これが、「Literature(文学)」を象徴していると考えられる像。(前回の写真)特徴的な持ち物:・像の右手には、巻物または装飾的な書物を模した細長い物体が握られています。・この形状は古代の書板(タブレット)や詩篇集を表現している可能性があり、書くこと・読む ことの象徴。・衣装はギリシャ風のドレーパリー(長衣)で、静かな威厳を備えた座像です。これが「Law(法学)」を象徴する像特徴的な持ち物・姿勢:・像は左手に、束ねた棒状のもの(ファスケス)のようなものを持っています。・ファスケス(fasces)は、古代ローマにおいて執政官の権威を象徴した「権威と統治」の 道具であり、今日でも法・統治・正義の象徴として多用されます。・右手は膝に置かれ、冷静で威厳ある姿勢。・衣装は重厚なドレーパリーで、厳格な印象を与える構図です。「Divinity(神学)」を象徴する像。特徴的な持ち物:・像は右手を高く掲げて十字架を持っています。・左手には書物(聖書)と思われる物を抱えています。・視線は斜め上、天を仰ぐような姿勢です。旧図書館(Old Library)付近の芝生エリア(Library Square)にあったのがウィリアム・エドワード・ハートポール・レッキー(William Edward Hartpole Lecky, 1838–1903)の像。像の台座には「LECKY」という刻印。レッキーは椅子に座りながら、手には開いた書物を持ち、思索的な姿勢。肩からアカデミックガウンを羽織っており、知識人としての威厳を表現。像の様式は19世紀末〜20世紀初頭の伝統的記念彫刻スタイルで、写実的で穏やかな造形。W. E. H. Lecky・生没年:1838–1903・出身:アイルランド、ダブリン出身・職業:歴史家・哲学者・政治評論家・教育:トリニティ・カレッジ・ダブリン卒業・主な業績: ・『ヨーロッパの道徳の歴史(History of European Morals)』 ・『イングランドにおける合理主義の歴史』 ・宗教、倫理、自由主義政治に関する批評を多く著した・政治活動: ・晩年はイギリス自由党に所属し、1902年には貴族に列せられた。「The Examination Hall(試験ホール)」。・建設年代:18世紀(1780年代)・正面は対称的なファサード(正面構造)を持ち、三角破風(ペディメント)と古典的な オーダーの柱が特徴。・上階の窓下には小さなバルコニー風の装飾(バラスター)があり、格式を感じさせます。・屋根上の小さな塔は換気口(ヴェンティレーター)です。通常は学生の試験会場として使われており、年間を通して重要な大学行事にも利用されていると。ジョージ・サーモン(George Salmon)像。生没年:1819年9月25日 – 1904年1月22日職業・業績:・アイルランドの数学者・神学者。・若いころは純粋数学の研究で知られ、とくに代数学や射影幾何学で名声を得ました。・後年は宗教的関心を深め、アイルランド国教会の聖職者としても活躍。・1888年から1904年までトリニティ・カレッジの学長(Provost)を務めました。 女性入学への反対 ・サーモン学長は、女性のトリニティ・カレッジ入学に強く反対したことで知られています。 ・彼の反対にもかかわらず、彼の死後すぐの1904年に女性の入学が許可されました。 ・皮肉を込めて、「彼が女性の入学を阻止できたのは彼の死までだった」と語られる こともあります と。「Public Theatre(パブリック・シアター)」 ・名称:Public Theatre(別名:The Examination Theatre / College Chapelの向かい) ・所在地:Front Square の東側、Examination Hallのすぐ隣 ・建築様式:ジョージアン様式(Georgian architecture) ・設計者:Sir William Chambers ・完成:18世紀後半(主に1780年代)この建物は、・卒業式や大学の重要式典(トリニティ・カレッジでは「Commencements」)・公的講義(Public Lectures)や演奏会・一部の大学行事での集会所 で使われて来た と。構内にあった案内標識の一つ。英語とアイルランド語(アイルランド・ゲール語)の併記形式で、構内施設の方向を示していた。上から、正門(フロントゲート)宿泊事務所(学生寮オフィス)礼拝堂(チャペル)寮(建物)6〜10号棟学生会館(学生組合) の方向を示していた。Trinity College Dublin(トリニティ・カレッジ・ダブリン)構内で提供されている見学ツアーや展示のチケット料金案内。とくに有名な「ケルズの書(Book of Kells)」関連展示のチケットも示されていた。「ケルズの書(Book of Kells)」とは?■ 概要制作年代:おおよそ 800年頃(8〜9世紀)言語:ラテン語内容:新約聖書の4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)制作地: スコットランドのアイオナ修道院で着手され、 アイルランドの**ケルズ修道院(County Meath)**で完成したと考えられています。所蔵場所:現在はトリニティ・カレッジ・ダブリンの旧図書館(Old Library)内で、 特設の「Book of Kells Exhibition」として常設展示。 ケルズの書・The Book of Kells👈️リンク写真はネットから。写真をネットから。「ケルズの書」は、紀元800年・8世紀頃に修道士が作成した4つの福音書。その本にはケルトの渦巻き模様や、人、動物などが描かれ、ケルト美術の最高峰と言われ、アイルランドの国宝である装飾写本。聖書、特に福音書をラテン語で記したもので、その装飾の美しさから「世界一美しい本」とも称される。ダブリン大学トリニティ・カレッジ図書館に所蔵されているのだ。「Book of Kells Exhibition」👈️リンク。学内をガイド付きで巡るツアーや「ケルズの書」鑑賞を組み合わせたプランも用意されており、参加すればより深くトリニティ・カレッジの魅力に触れられるのであったが・・・。ダブリン市内中心部のトリニティ・カレッジ正門(Front Gate)前の風景。ダブリンの路面電車「Luas(ルアス)」。紫がかった銀色 → Luas Green Line(緑線)。写真左手の建物には「TOURISM OFFICE(観光案内所)」の表示が見えた。ここはダブリンの「Visit Dublin」オフィスがあるエリアで、観光パンフレットや地図をもらえるのであった。アイルランドの作曲家として知られる「トマス・ムーア(Thomas Moore, 1779–1852)」の像。アイルランドの民族的アイデンティティを詩と歌で表現したことで、国民的詩人とも称されている作曲家 と。1795年にダブリン大学トリニティ・カレッジに入学し、母親の意向に従って法学を学んだ と。ムーアは片手を高く掲げ、もう一方の手は胸にあてるポーズを取っており、詩人または演説者としての姿を象徴的に表現していた。銅像のスタイルは19世紀風の衣装(フロックコート、タイツ)を再現。そして右側にあったのが「旧アイルランド銀行本店(Bank of Ireland, College Green)」。建設年 1729年(18世紀前半)建築様式 新古典主義建築(Neoclassical)設計者 Edward Lovett Pearce ほか用途 現在は一部が銀行として使用されているが、歴史的建築物として公開部分もある と。アイルランド議会議事堂(旧用途)この建物はもともと、アイルランド王国の議会(Parliament of Ireland)の議事堂として使用されていた と。世界初の特別に設計された議会用建築物(Purpose-built Parliament House)として知られる。1801年、イギリスとの合同法(Act of Union)によってアイルランド議会が解散されると、建物はアイルランド銀行に売却されたのだ と。Trinity College Dublin(トリニティ・カレッジ・ダブリン)正門(Front Gate) の正面を振り返って。今回参加できなかった学友Oさんからの依頼が、『1年間留学していたこのTrinity College Dublin(トリニティ・カレッジ・ダブリン)正門(Front Gate)を背景に路面電車Luas(ルアス)の写真を土産に欲しい』とのことで撮影したのであった。移動して。ダブリン市内の装飾的街灯柱(ヴィクトリア朝様式のガス灯柱)。イルカ型の彫刻装飾(実際は神話的海獣)が特徴的なもの。背後にはトマス・ムーア像の台座の一部が。そしてここにもトマス・ムーア(Thomas Moore, 1779–1852)像が。この像はトリニティ・カレッジの卒業生像ではなくアイルランドの詩人としての市民的顕彰像なのであろう。台座には「Moore」とのみ刻まれていた。ダブリン中心部のO'Connell Street(オコンネル・ストリート)南端から北方向を見る。手前は歩道とLuas(ルアス)・グリーンラインの軌道が並走しており、ダブリン市内でも最も賑やかな大通りの一つ。ダブリンのO'Connell Street(オコンネル・ストリート)を南方向(川方面)から北方向(市街中心)に向かって見た光景。ここはダブリンの目抜き通りであり、観光・交通の中心地。121m高さのThe Spire(スパイア)とオコンネル像(Daniel O’Connell Statue)が見えた。左の緑の旗は「Ireland Green Flag」。アイルランド海軍のジャック。ジャックとは船の舳先につける船首旗の事であり、正しくはユニオン・フラッグ(Union Flag)と言うと。ダブリン中心部のオコンネル橋(O'Connell Bridge)南側から北方向を見る。オコンネル橋はダブリンを南北に分けるリフィー川に架かる橋。特徴的なのは、「幅より長さが短い橋」としても知られている と(幅約50m、長さ45mほど)。ズームして。ダブリンの象徴的なオコンネル通り(O'Connell Street)とそこに建つダニエル・オコンネル像、スパイア(The Spire)がほぼ一直線に並んで見える場所なのであった。ダブリン市街を東西に貫流し、ダブリン湾へ流れ込む主要河川・リフィー川(River Liffey)とその下流に架かるButt Bridge(バット・ブリッジ)を見る。Butt Bridge は鉄道の Loopline Bridge のすぐ隣に位置します。ループライン橋はダブリン郊外からの通勤電車(DARTやIntercity)が通るアーチ型の鉄道橋です。Butt Bridge はもともと1880年に開通し、1932年に再建されました。橋の名は、アイルランドの政治家 Isaac Butt(アイザック・バット) に由来しています。アイルランドの政治家・弁護士・オラトリスト(雄弁家)である ダニエル・オコンネル(Daniel O'Connell, 1775–1847)像を再びズームして。写真のように、しばしば頭上にカモメが留まっているのも「ダブリンらしい」光景なのであった。リフィー川(River Liffey)に架かるButt Bridge(バット橋)とその先にLoopline Bridge(ループライン鉄道橋)を見る。Butt Bridge(バット橋)・開通:1879年(現行の橋は1932年再建)・名前の由来:第3代アルタモント侯爵(William Butt)・通る道路:R802・自動車・歩行者・Luasトラム(東側トラック)も利用Loopline Bridge(ループライン鉄道橋)・建設:1891年・設計:ジョージ・ウィルキンソン(鉄道建築家)・役割:ダブリンのコンノリー駅(Connolly Station)とパールマウント駅を結ぶ鉄道路線の一部・特徴:鋼鉄の格子梁構造で、川をまたぐ低めの橋・旅客列車が頻繁に通過しますオコンネル橋を渡り直ぐに右折してリフイー川に沿ってR105を下流方向に進む。オコンネル橋を振り返って。三連のアーチ構造で石造の親柱には装飾の彫刻があった。左手に見える高い建物は「O'Connell Bridge House(オコンネル・ブリッジ・ハウス)」。現在の橋は 1880年に再建(旧称は Carlisle Bridge)。名の由来はダニエル・オコンネル(Daniel O'Connell)に由来し、橋の南端には彼の大きな像があるのであった。Rosie Hackett Bridge(ロージー・ハケット橋)を見る。ダブリン中心部、リフィー川を横断、アビー通り下(Abbey St Lower)とバーチャー通り(Bachelors Walk)を結ぶ。2014年5月20日開通の比較的新しい橋。労働運動家・1916年蜂起にも参加した女性 Rosie Hackett(ロージー・ハケット) にちなんで命名。Rosie Hackett Bridge(ロージー・ハケット橋)を正面から。中央に見えるのは Luas(ルアス)グリーンラインの路面電車(Green Line)。この橋は、自動車の通行は限定的(バスとトラム中心)で、主にLuas Green Lineのトラム軌道と歩道から構成されており、2014年に開通した比較的新しいインフラ。Loopline Bridge(ループライン橋)。・アイルランド語名:Droichead na Loice・建設:1891年完成・用途:鉄道専用橋(Irish Rail / Iarnród Éireann のダブリン通過路線)・構造:鉄製のトラス橋(格子状の梁が特徴的)・所在地:リフィー川上、カスタムハウスとタラ・ストリート駅の間左奥に見えたのが「The Custom House(カスタム・ハウス)」の緑のドームLoopline Bridge(ループライン橋)を斜めから。橋の側面が「X」形状の鉄骨構造で覆われており、Loopline Bridgeの特徴そのもの。写真中央部に見える丸い装飾柱は、Loopline Bridge特有の意匠で、かつてのDublin & Drogheda Railway Companyの「D」のエンブレムがデザインされている と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.08.31
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この日も早朝起床後、ホテルで日の出を見るために6時前にホテル屋上へ。未だ暗く、澄み切った空気が。空を近く感じるほど、夜空には満天の星たちがきらめいていた。"ほんとに来たんだ"と、ヒマラヤにいる自分に感動。ようやく空が明るくなり、目の前に巨大な白き山が見えてきたのだ。山の名はマチャプチャレ。マチャプチャレ(Machhapuchhre) 6993mはネパール語で『Fish tail:魚の尻尾』という意味。南西方面から見ると双耳峰が魚の尻尾を逆さにした形をしていることから名づけられたのだ。ポカラからは魚の尻尾の形には見えないが、頂上付近が雪形から虎の横顔に見えるため、タイガー・マウンテンとも呼ばれているのであるとのこと。ポカラから見ると、アンナプルナ連山の中央に位置し、距離が他の高い山よりポカラに近いため、大きく優美な姿は見事であった。朝日を浴び光り出したマチャプチャレの山頂。刻々と変わる山頂の色合い。これを見にこの地を遙々訪れたのだとつぶやく自分がいたのである。そして暫くすると美しい日の出の光景が。朝食後、8時前にポカラのホテルを出発。ヒマラヤの連峰を望むためにチャンドラコットをめざしたのだ。途中、セティ・ガンダキ(白い川)に添って車は走っていった。氷河から溶け出した白い水の川である。おなじように「黒い川」もネパールにはあるのだそうだが。山間部に入るにつれ、また一面に段畑がひろがっていった。わたしたちを驚かせたナガルコットの棚田が見劣りするほど広大な棚田であった。その山間部でいちど途中下車した。そのポイントからもヒマラヤがみえた。ヒマラヤとはネパール語で「雪の家 him-alaya」を意味し、常時雪を抱いている標高6000m以上の山をさす。ここポカラではアンナプルナ連峰がよくみえる。途中下車したビューポイントからは、アンナプルナ南峰、ユンツリ、マチャプチュレ、アンナプルナ4などが視野におさまった。この地では3000m以下のものは『山』と呼ばずに『丘』と呼ぶのだそうだ。よって我々の今回のトレッキングは謂わばハイキングなのである。 そこからまたしばらく車は山を上がっていき、ルムレという村に到着。ここがトレッキングのスタート地点である。車を降りて、頂上まで続く石畳を登っていく。めざすチャンドラコットまで約1時間のトレッキングいやハイキングだが、その急峻な崖の向こうにも広大な棚田と原生林がひろがっていた。集落の中を細い石畳の道が走り、家々はその両側にへばりつくように建てられている。そして民家の屋根も壁も石畳と同じ種類の岩でできていた。途中、山のわき水を利用した村の共用洗い場で洗濯をする主婦の姿が。トレッキング中にすれ違った村の少女。そして約1時間でチャンドラコットに到着。チャンドラコットの集落にたどり着いて、さらに道を右まわりに旋回すると、いきなりヒマラヤが姿をあらわした。このヒマラヤの『山』を見るために、ここまでのトッレキングを計画したのだ。しかしながら白き山、アンナプルナ南峰は雲がかかり白きヒマラヤの姿は、山頂の所々しか垣間見ることが出来なかった。この地のトレッキングで常に白きヒマラヤの山を見ながらのトレッキングを楽しむためには、3~5000mの尾根を歩かなければならないのである。我々のコースでは尾根の高度が低く、ヒマラヤの前には『丘』や低き『山』が立ちはだかり、白き山を隠してしまうのである。道路では学校が休みの子供達がコインを小さな穴に入れる賭博ゲームを楽しんでいた。帰りは往路とは異なる道を再びルムレまで戻り、この日のトレッキングを終了し、この日の宿であるサランコットの丘の上にあるロッジを目指し車は走ったのであったが再び・・・・・・・・・・・・・・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.20
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この日は5時過ぎに起床し、仕事への出発の準備を完了し、6時前に彦根城への早朝散歩に出発。ホテル2Fの展望デッキからの彦根城。 天守閣の姿も。 天守は3階3重。 ホテルを出発。 ホテルの隣にある、妻に頼まれた「酒々まんじゅう」販売の和菓子処 さわ泉(わがしどころ さわせん)はもちろん閉まっていた。 中濠沿いの松並木を歩く。この場所は藩主の参勤、着城で必ず通る場所で、当時47本植えられていたことからいろは47文字にちなみ「いろは松」と呼ばれるようになったのだと。当初、人馬や車などの通行の邪魔にならないよう、根が地上に張り出さない土佐松が植えられたとのこと。 徳川四天王の一人・井伊直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始。幕末における幕府の大老を務めた井伊直弼は、藩主となるまでをこの城下で過ごしている。井伊大老の歌碑。この歌碑は直弼の死から100年後にあたる1960年(昭和35年)に行われた「大老開国100年祭」に先がけて市内の有志29人によって建立されたのだと。 「あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな」「琵琶湖の磯うつ波が、打ちくだけてはひき、また打ちくだけてはひくことを何回も繰り返しているように、大老就任以来難問が何回となく押し寄せてくる。しかし、わたしは国の平和と安心を願って、全身全霊を尽くして心を砕いてきたので悔いは残らない」というような意味と。 佐和口多聞櫓。佐和口は南の京橋口、西の船町口、北の長橋口とともに彦根城の4つの門のひとつ。表門に通じる入口として、大手門がある京橋口とともに彦根城の重要な城門のひとつ。現在の彦根城のメインの入口。朝日を浴びる佐和口桝形。左側の多聞櫓は明治六~八年に再建されたもの。佐和口を入ってすぐの場所にある家老 木俣屋敷跡。 彦根城 案内図。 国指定重要文化財 彦根城 馬屋は工事中。内堀に架かる表門橋。この橋を渡ると復元の御殿があり、本丸へと続いていく。 しかし橋の手前には午前8:30開門の文字が。 諦めて内堀沿いを歩こうと思っていた時に、早足で歩く早朝散歩のおじさんがこの表門橋を渡って行くのを発見。慌てて私もその後を追う。 城内への入り口。 復元された表御殿。ここは彦根城博物館になっている。 彦根城管理事務所ももちろん閉鎖中。 彦根城管理事務所の横のゲートが1ヶ所開いており、オジサンの後を追う。階段道を登り天守閣を目指す。1段1段の幅が広く、また登るに連れて傾斜が急になってきて実に登りにくかった。これは意図的に造られたものであること間違いなし。天秤櫓・廊下橋(表門側)。 空濠(通路)を跨ぐようにして鐘の丸から天秤櫓の門へ架けられている木製の橋で、もともとは橋に覆い屋根と壁がつけられていた事から、廊下橋の名で呼ばれていると。この橋にかつて屋根や壁が設けられていたのは、城の防備のために城兵の移動を敵方に知られないようにするためだったと。また、この橋には「落とし橋」としての機能もあり、非常時にはこの橋を落下させ、敵の侵入を防ぐ事ができたのだと。廊下橋を渡る直前に、鐘の丸側から廊下橋と、その先にある「天秤櫓」という櫓を。天秤櫓は、上から見ると「コ」の字形をしていて、両端に2階建ての櫓を設けて中央に門が開く構造があたかも両端に荷物を下げた天秤のように見えるため、天秤櫓と。詳細に見ると両隅の2階櫓は棟の方向が異なっており、格子窓の数も左右で違うなど決して左右対称ではないのであった。この鐘楼は、かつて鐘の丸にあったが、井伊直滋の時代にここ、本丸南腰曲輪「お鐘の台」に移設されたと。今でも1日5回 鐘を鳴らしているとのこと。鐘楼の隣にあるのは聴鐘庵と言う茶屋。有料でお抹茶がいただけるようだ。本丸にそびえる天守を目の前にした最後の門が重要文化財の太鼓門櫓。 太鼓門櫓を城内側から。この門櫓は、建物の背面の東壁面が開放され、柱間に高欄(手すり)を設置して1間通りを廊下にしている。櫓にはたいへん稀な例で、一説には名称となっている「太鼓」が櫓の中に置かれ、その太鼓の音が広く響くための工夫とも。そして天守閣に到着。こじんまりした彦根城天守がお目見え。 天守は3階3重、つまり3階建て3重の屋根で構成。規模は比較的小ぶりですが、屋根は「切妻破風(きりづまはふ)」「入母屋破風(いりおもやはふ)」「唐破風(からはふ)」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓(かとうまど) 」、3階には高こう欄らん付きの「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せていた。 本丸からの眺め。琵琶湖が見えた。中央の白の建物は彦根ビューホテル(旧彦根プリンスホテル)。彦根から6km、琵琶湖の真ん中に浮かぶ多景島が見えた。元は島内に竹が多く自生していることから「竹島」といっていたが江戸時代に荒神山から土を運び植林。木が成育すると島を眺める方向によって多様な景色に見えることから多景島と呼ばれるとのこと。1655年(明暦元年)に長浜・妙法寺僧慈雲院 日請上人が島内に日蓮宗見塔寺を開寺。島内全域が見塔寺の敷地になっているとのこと。
2015.05.30
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次次に訪ねたのが『五社神社・諏訪神社』。隣接して鎮座していた五社神社と諏訪神社とが、昭和35年(1960年)に法人格を一つとして五社神社・諏訪神社と称したものである。合併の後に神社本庁の別表神社に加列された。現社殿は昭和57年(1982年)の再建である。両社ともに徳川秀忠の産土神とされたことから、子守り、子育ての神として人々の崇敬を集めていると。朱の大鳥居の扁額『五社神社 諏訪神社』。『五社神社 諏訪神社 由緒』「五社神社曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建した事に始まると伝えられる。後、徳川家康公、浜松城主となり天正7年(西暦1579年)4月7日、秀忠公誕生に当り産土神として崇敬し、現在地に社殿を造営し天正8年(西暦1580年)遷座す。寛永11年(西暦1634年)家光公上洛の砌、社参し朱印300石を奉る。その節改めて社殿の造営がなされ、寛永18年(西暦1641年)竣工す。「お江戸見たくば五社諏訪ごろじ お江戸まさりの五社や諏訪」と謡われ戦前まで国宝建造物に指定されていた社殿がこれである。諏訪神社延暦10年(西暦791年)、坂上田村麻呂が東征の砌、敷智郡上中島村に奉斎と伝えられる。弘治2年(西暦1556年)に曳馬城下、大手前に遷座される。秀忠公誕生に当り、五社神社と同じく産土神として崇敬され、天正7年(西暦1579年)徳川家康公、社殿を造営す。元和元年(西暦1615年)、秀忠公、社地を杉山に改め、更に寛永11年(西暦1634年)、家光公、社参し朱印300石を奉ると共に現在地に社地を遷し、寛永18年(西暦1641年)竣工す。国宝建造物に指定されるも、昭和20年(西暦1945年)戦災により五社神社と共に消失す。五社神社 諏訪神社昭和37年(西暦1962年)、両社が合祀され、新たに五社神社諏訪神社として発足する。 【五社神社諏訪神社HPより】」『光海霊神(うなでりのみたま)の碑』。賀茂真淵が、師の森暉昌(もり てるまさ 荷田春満の弟子、五社神社神職)を顕彰して明和四年(1747年)に建立に建立した碑。この碑は現在、ここ五社神社・諏訪神社にあるが、第二次世界大戦中1945年6月18日の空襲により碑の上部が破損している。「賀茂真淵大人がその師、五社神社神主森暉昌大人の功業を記したる漢文体の誌銘なり。真淵大人の心情を遺憾なく吐露せしものなり。森暉昌大人は諡号を「光海霊神」と称す。近世国学の創始者荷田春満大人の門流にして賀茂真淵大人若年の学父とも尊親したる碩学なり。この碑は明和4年5月建立せらる。惜しむらくは昭和20年6月18日戦火により上部損壊せしも真淵大人の本意はここに歴然として存す。」『拝殿』へ向かって進む。『手水舎』。「徳川3代将軍家光公 寛永11年7月当社に参詣あり。時の浜松城主高力忠房を普請奉行として、社殿を修造せしむ。完成の後、本手水鉢寄進す。この手水鉢は花崗岩を素材とす。四方に枠取りなく素朴なる形式と水穴深く角を正確に掘たるは、古式に属し、貴重な文化財なり。正面に次の如く刻す 奉寄進 五社大明神 寛永十五年戊寅年五月吉日 高力攝津守従五位下 平忠房高力忠房は2代将軍秀忠の寵を得、元服の際 「忠」の一字を賜り 忠房となのる。温厚篤実なる人格は、領民に敬慕されたり。」『拝殿』。五社神社は、太玉命、武雷命、斎主命、天児屋根命、姫大神の五柱の神を主祭神とし、ここから「五社神社」という社名になっている。元々は太玉命を祀る神社であったものに、春日大社の祭神四柱を勧請して現在の五柱となったものと見られている。戦国時代初期の曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建したのに始まるといわれる。後に徳川家康が浜松城主になり、天正7年(1579年)に三男長松(後の徳川秀忠)が誕生すると当社を産土神とし、現在地に社殿を建立して天正8年(1580年)7月に遷座、社領15石を寄進した。慶長15年(1610年)に秀忠から100石が寄進された。寛永11年(1634年)の家光上洛の際、東照宮(徳川家康)を勧請し、200石が加えられ、以降、300石の朱印地を領することとなった。明治6年(1873年)に県社に列格した。かつての社殿は寛永18年(1641年)に家光の命で再建されたもので、大正3年(1914年)に特別保護建造物(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されたが、昭和20年(1945年)6月18日に第二次世界大戦の戦災(浜松空襲)により全焼した。焼失した社殿は、拝殿・石の間・本殿が一体となった権現造であった。-御祭神-[五社神社] 太玉命 武雷命 斎主命 天児屋根命 姫大神 (相殿) 応神天皇 舎人親王 菅原道真公 徳川家康公『狛犬』(右)。『狛犬』(左)。拝殿の『扁額』。諏訪神社は、延暦10年(791年)に坂上田村麻呂が東征の折に敷智郡上中島村(現在の浜松市天神町)に奉斎したのに始まるとされる。幾度かの変遷を経て、弘治2年(1556年)に神託により浜松に遷され、五社神社と同じく徳川家の崇敬を受けた。寛永11年(1634年)の家光上洛の際に、五社神社と同じく東照宮を勧請し、社領の加増を受け、以降300石の朱印地を領することとなった。寛永18年、家光の命により現在地の五社神社社殿の隣に社殿が造営され、遷座した。旧社殿には元和元年(1615年)と寛永18年(1641年)の棟札があった。この社殿は様式的にみて、元和年間建立のものを寛永年間に移転改築したものとみられる。この旧社殿は昭和13年(1938年)に当時の国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されたが、昭和20年6月18日に戦災により全焼した。権現造の社殿のほか、透塀、唐門、楼門を含む4棟が旧国宝に指定されていた。-御祭神-[諏訪神社] 建御名方命 八坂刀売命 事代主命 (相殿) 徳川家康公拝殿の内部。同行の旅友は昭和二十二年生まれ。『五宝稲荷社』。拝殿前から鳥居方向を見る。『社務所』。御朱印を頂きました。『浜松復興紀念館』の裏手を通る。浜松市は太平洋戦争において艦砲射撃を含め、実に27回に及ぶはげしい空襲を受け、市街地の大部分が焦土と化しました。戦後いち早く着手した復興土地区画整理事業も、昭和58年3月中央工区の換地処分を最後に長期間にわたる事業が終了いたしました。浜松復興記念館は、この事業の完成を記念して昭和63年に開館しました。ザサシティー浜松のトルコサンドウィッチ「ケバブ」の専門店『Mega Kebab』で一休み。伸び~~る伸び~~るトルコアイスクリームを楽しむ。光の芸術。浜松駅前モール街店を散策。「カルミア」か?遠鉄電車(赤電)新浜松駅前。新浜松駅前カリヨン『友愛の鐘👈リンク』。1日6回、定時に曲が鳴るのですが、四季によって奏でる曲が変わるというのが特徴的。『浜松アクトタワー』浜松駅北口前をエスカレーターで地下に降りると、階段の左:西側は滝と噴水のあるサンクンガーデンになっていた。蓮田修吾郎(金沢/1915-2010)作の巨大なモニュメント『伸びゆく浜松』。滝が涼しげに。地上を見上げる。浜松駅前地下広場と周辺施設を結ぶ接点で、空の見える解放された半地下空間。半地下から上部へかけて立体的に都市景観をとらえるダイナミックな空間構成がすばらしく、全国的にみてもユニークな施設であると。浜松市のゆるキャラ・出世大名「家康くん」の「モザイカルチャー」のある噴水前。「モザイカルチャー」とは花や緑を組み合わせて、色や特徴を生かしながら形にする作品。骨格に土を詰め込み、表面に植物や花を植えてこしらえる。00年のモントリオール大会から使われ始めた新しい言葉で、「モザイク」(寄せ集めの模様)と「カルチャー」(文化)を組み合わせた造語であると。再び『浜松アクトタワー』を。時間はまだ14:47。駅の中央通路には、『リニア中央新幹線の開業に向けて』のパネル展示が。品川から名古屋まで最速40分と。しかし、未だ名古屋以降のルートは未決定?山梨リニア実験線を走行するL0(エル・ゼロ)系。浜松市のゆるキャラ・出世大名「家康くん」人形もお土産に販売中。『浜松駅南口のカリヨン👈リンク』の下の大きな大理石の球。噴水の水圧で浮き上がりゆっくりと自由に回転していました。『元祖 日本で二番目に大きいたい焼き』。『二番目商法』?ちなみに、日本で一番大きいたい焼きは、60cm、3.5kgらしい。 その12 に戻る。 ・・・旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松) 完・・・
2019.06.20
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今日は2020年の大晦日、今年1年を振り帰ってみたいと。キャプション・写真等の一部はネットから転載させていただきました。読売新聞の2020年十大ニュースは下記のごとし。【1位】感染拡大 緊急事態宣言新型コロナウイルスの感染拡大を受け、政府は4月7日、緊急事態宣言を発令した。当初は東京都など7都府県が対象だったが、16日に全国に拡大した。都道府県は市民に外出自粛を呼びかけ、遊興施設や商業施設など幅広い業種に休業を要請。繁華街や駅から人の姿がめっきり減った。街ではマスクやアルコール消毒液などの品薄が続き、買い占めや高額転売が相次いだ。病院では、入院病床や医療物資の不足が問題となった。緊急事態宣言は5月下旬に全面解除されたがその後も混乱は続いた。社会的距離の確保やマスク着用などの「新しい生活様式」が浸透し、自宅などで勤務するテレワークをはじめ、感染リスクが高まるとされる「3密」を回避する動きが広まった。その一方で、外出する人や営業を続ける店を厳しく非難する「自粛警察」と呼ばれる現象も起きた。政府は、一律10万円の給付や、企業に支給する「雇用調整助成金」の拡充などを盛り込んだ緊急経済対策を実施。7月には、苦境に陥った観光業界を支援する「Go To トラベル」事業も始まった。だが、8月と11月には感染が再拡大。12月には1日の新規感染者数が過去最多の水準となり、「Go To トラベル」事業も年末年始の全国一斉停止に追い込まれた。国内の感染者は12月30日午前0時現在で、累計22万7385人、死者は国内で感染した人が3384人、クルーズ船の乗船者が13人の合わせて3397人を超えた。そして大晦日の31日午後9時現在、全国で4519人の新型コロナウイルス感染、49人の死亡を確認。都内に於いても初めて1千人を上回り、1337人確認したと発表した。1日あたりの感染者数として、都内では26日の949人を上回り過去最多となった。【2位】東京五輪・パラ 1年延期新型コロナの猛威は今夏に行われるはずだった東京五輪・パラリンピックを直撃し、1年の延期が決まった。五輪の開会式は来年7月23日となった。閉幕は8月8日。パラリンピックは8月24日から9月5日まで行われる予定であるが・・??。【3位】菅首相誕生 新内閣発足自民党の菅義偉総裁が9月16日、第99代の首相に就任した。連続在職が7年8か月余と歴代最長に及んだ安倍首相の後を引き継いだ。菅氏は2012年12月の第2次安倍内閣発足以降、一貫して官房長官として政権を支えた。安倍氏の辞任表明を受けた自民党総裁選で岸田文雄、石破茂両氏を破って総裁の座に就いた。秋田の農村出身の「たたき上げ」や「令和おじさん」などのイメージから、発足直後の内閣支持率は読売新聞社の全国世論調査で歴代3位の74%を記録した。菅氏はデジタル庁創設や不妊治療の保険適用などを目玉政策に掲げ、就任直後から矢継ぎ早に実現を指示した。肝いりの携帯電話料金引き下げは業界側に呼応する動きが広がる。一方で、日本学術会議の新会員任命拒否には疑問の声が上がった。新型コロナの感染者が急増した12月には、観光支援策「Go To トラベル」事業の年末年始の全国一斉停止に踏み込んだが、対応が後手だとの批判も出た。衆院議員任期満了は来年10月で、衆院解散・総選挙の時期が今後の焦点となる。【4位】安倍首相 辞任表明安倍首相が8月28日、持病の潰瘍性大腸炎の悪化を理由に辞任する意向を表明した。第1次内閣の2007年9月に退陣した際も同じ持病の悪化が原因だった。在職日数は、2012年12月の第2次内閣発足から連続で7年8か月余(2822日)、第1次内閣を含めた通算では3188日で、いずれも歴代1位を記録。歴史的な長期政権を築いた。安倍氏は、12年9月の自民党総裁選で総裁に返り咲き、同12月の衆院選で大勝して政権を奪還し、第2次内閣が発足した。経済政策「アベノミクス」を推進し、消費税率を8%、10%と2度にわたって引き上げた。外交・安全保障では、集団的自衛権の限定行使を認める安全保障法制を整備。トランプ米大統領と親密な関係を築くなど、国際社会で日本の存在感を高めた。一方で、新型コロナ対応のまずさが批判されたほか、森友・加計学園を巡る問題など長期政権のほころびも目立った。辞任後の今年11月には、首相在任中の桜を見る会の前夜祭を巡り、政治資金規正法違反の疑いが浮上した。結局、、東京地検特捜部は12月24日、政治資金規正法違反(不記載)容疑などで告発された安倍氏を嫌疑不十分で不起訴処分とした。一方、政治資金収支報告書に計約3022万円を記載しなかったとして、同法違反罪で後援会代表の配川博之公設第1秘書(61)を略式起訴とし、一連の捜査を終結した。【5位】志村けんさんら死去お茶の間に笑いを届け、「コント王」として幅広く愛されたコメディアンの志村けんさんが3月29日、70歳で死去した。新型コロナ感染が判明してからわずか6日後の悲報で、社会に大きな衝撃が走った。ザ・ドリフターズのメンバーとして、「8時だョ!全員集合」や「志村けんのだいじょうぶだぁ」などのバラエティー番組で活躍。「変なおじさん」や「バカ殿」など多くの名物キャラクターを生み出した。志村さんの死を惜しんで、テレビ各局が追悼番組を相次いで放映した。コロナ禍では、4月23日に朝の情報番組の司会などで親しまれた女優の岡江久美子さんも63歳で死去。高校の先輩・外交評論家の岡本行夫さんやファッションデザイナーの高田賢三さんらも犠牲になった。そして、立憲民主党の羽田雄一郎参院議員が12月27日に、新型コロナウイルス感染により53歳の若さで急死した。当初は軽症であったため、コロナ第3波襲来で多忙な保健所や医療機関に負担をかけまいとPCR検査を即座に受けなかった。それが容体の急変という手遅れの事態を招いたと。【6位】「鬼滅」最速100億円10月16日に公開されたアニメ映画「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」の累計興行収入が、日本で上映された映画としては歴代最速の10日間で100億円を突破した。興行収入は12月13日までに300億円を突破。国内興行収入ランキングで歴代1位の「千と千尋の神隠し」(2001年公開、約316億8000万円)を抜くのは確実とみられる。吾峠呼世晴(ごとうげこよはる)さんの原作漫画は12月4日に最終巻が発売され、初版部数395万部の大ヒットとなった。【7位】全小中高 休校要請新型コロナの感染拡大防止のため、政府は2月28日、全国の小中学校や高校などを3月2日から春休みまで一斉休校とするよう要請した。その後の緊急事態宣言の発令もあって、休校は長いところで3か月に及んだ。各学校は再開後、分散登校など手探りで感染対策を進め、修学旅行や運動会も相次いで中止になった。多くの大学では4月の授業開始を5月以降に延期。オンラインで授業が行われた。【8位】甲子園 春夏中止新型コロナ感染拡大の影響で、春の選抜高校野球大会と夏の全国高校野球選手権大会が中止となった。同一年の両大会中止は史上初。8月には、選抜出場予定だった各校1試合ずつの交流試合が行われた。夏の全国高校総体も中止された。プロスポーツ界でも中止や延期が相次いだ。プロ野球は3か月遅れの6月に開幕したが、当初は無観客で行われた。サッカー・Jリーグも一時中断した。【9位】藤井聡太七段 最年少タイトル棋聖戦五番勝負で7月16日、藤井聡太七段が、渡辺明三冠に勝利し、タイトルを奪取した。17歳11か月での戴冠(たいかん)は最年少記録となる。18歳1か月となった8月に王位も獲得し、史上初の「10代二冠」を達成。羽生善治九段のもつ最年少二冠の記録(21歳11か月)を大幅に塗り替え、同時に八段昇段の最年少記録も樹立した。【10位】九州豪雨 死者77人梅雨前線が停滞した影響で7月4日、九州を中心に記録的な豪雨が発生した。河川の氾濫や土砂災害が相次ぎ、九州5県で77人が死亡し、2人が行方不明となった。4日午前10時までの24時間雨量は熊本県球磨村で455.5ミリに上った。【番外】はやぶさ2 カプセル帰還日本の小惑星探査機「はやぶさ2」から分離されたカプセルが12月6日、豪州の砂漠に着地した。地球と小惑星リュウグウの間を6年で約52億キロ・メートル飛行する探査ミッションをほとんどノーミスで達成。日本の宇宙探査の技術力を世界に知らしめた。カプセル内には小惑星から採取された石や砂が確認された。【その他】2020年「今年の漢字」は「密」因みに2位「禍」、3位「病」、4位「新」、5位「変」、6位「家」、7位「滅」、8位「菌」、9位「鬼」、10位「疫」という結果であったと。2020年の新語・流行語大賞の「年間大賞」は「3密」そして個人的には順不同であるが★古希を迎えた。 私は今年で70歳になり古希を迎えました。 年月の経つ速さに驚かされる一方で時代の激流の中で揉まれ、育てられ、生かされて 貴重な知識や経験を多く積んで来た、そして今でも新たな知識や経験を日々学べることに 感謝し、感慨深く思う1年でもあった。★2020年3月23日、12:58:34 『東海道53次 旧東海道を歩く』 完歩。2018.02.15に日本橋を出発し、品川宿まで歩いたが、その後半年以上のブランクがあったが、2018.10.26に品川宿からの『歩き』を再スタート、そして2019.01.04に箱根を下り三島宿まで辿り着き、その後は、夏場の6月~9月中までは、熱中症の危険もあり休みとしてその後9月中から本格的に再スタートし、この日のゴールに至ったのであった。京都三条大橋に到着し一緒に歩いた旅友Sさんと記念撮影。「四国八十八箇所霊場巡り」の「結願証」と共に。自分で造りました。★コロナ始まりコロナで終わった1年★仕事の支援で苦労した1年★1万世帯以上の自治会連合会の役員として、参加したが 行事はほぼ全て中止になり、「習うより慣れろ」の実現はほど遠い1年であった。★免許証の更新高齢者講習の後に免許証の更新を行ったが、数年前の一時停止違反で、長年の「GOLD免許」から「青免許」に初めて・・・・。★軽自動車の新車購入歩行者検知式自動ブレーキや踏み間違い衝突防止アシスト、車線逸脱警報、車線逸脱防止支援、オートマチックハイビームを標準装備。高齢者マーク(もみじマーク・四つ葉マーク)も頂きました。軽自動車の黄色ナンバーを白色の放射状模様の東京五輪記念ナンバープレートに。★海外旅行に全く行けない状況下で、旅友Sさんと日帰りでのドライブ観光に。 河津桜、ジャカランタの花巡り、続日本百名城巡りに等々、毎回忙しく移動して。 そして10月中には「Go To トラベル」で函館に3泊4日の旅に。「函館の夜景」。江差の「開陽丸」。「北海道駒ケ岳と大沼」。「函館 自由市場店」にて。★我がブログも今年も皆勤にて400万回アクセスを通過。 去る12月17日(木)夕方に、我がブログアクセス数も400万回を超えました。 皆様の日々のアクセスに感謝申し上げます。 300万回通過時から延べ430日になります。 そして今日・大晦日2020.12.31の12:00のカウンターは『4041435』を示していました。 これからも毎日の出来事を 『つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、 そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』 の精神で、あくまでも「備忘録」を主眼として、「継続は力なり」の精神でこのブログを 「毎日」書き続けて行きたいと思っています。 文章の表現力も乏しく、誤変換や、内容を理解しにくい表現箇所も多々あると思いますが、 我が儘にもあまり「読んで頂く」事を意識せず、あくまでも『自分を表現するツール』 そして「備忘録」として日々のブログを書き続けて行きたいと思っているのです。そして二人暮らしの我が家の重大ニュースは唯一つ①今年の私達夫婦は自宅で風邪や発熱で寝込むこともなく1年365日健康で今日の日を 迎えられた事に感謝。 そして私は今年は『古希』を迎えたのであった。 妻は今年もパートの仕事を皆勤、週末の趣味も、横浜に張り切って行く日々であった。 独立している子供たち家族も元気に越年、来年も明日1月1日に長男家族が我が家に来ると。我が家の正月飾りの準備も昨日に完了しました。門松は12月28日までに飾るか、12月30日に飾るのが良いとされています。その理由は、 29日に飾るのは語呂合わせで「29(二重苦)」に通じ縁起があまりよくないとされているからです。また、12月31日に飾るのは「一日飾り」といい、一日前にぎりぎりで飾ると、神聖な気持ちでゆっくりとお正月を迎えられないので、その日には飾らないことにするのだと半世紀以上前に亡き父より。我が家の門の松飾り・輪飾り。特に松を使うのは、神を“待つ”と“松”の語呂合わせによるもの。小さなリース状のわっかに、藁の足がついているような簡易的なしめ縄飾り。ウラジロとユズリハ、紙垂(しで)が付いて。玄関のしめ飾り。立体的な大きめの水引の鶴に扇、松、鶴、南天、紅白の繭玉等の飾りもついて。「縁起物のいわれ」をネットから。1年の最終日も「学びの日」です。鏡餅は今年も2個購入。組み立てました。『ダイダイ(橙)』のセットを床の間に。飾りには、『ウラジロ(シダ)』、『ユズリハ』を。「代々」栄えるという意味がこめられていると。更に実ったダイダイの果実は冬を越しても落ちることなく、場合によっては2から3年にわたって枝についたままの状態となることがあるのだと。春になるとダイダイ色に熟したように見えた果実が再び緑色になり、若返るようにみえることからこれもまた縁起の良いことと。『ウラジロ(シダ)』はその名のとおり葉の裏が白く「後ろ暗いことがないように」ということや白から「長寿」を連想させることなどから縁起がよいと『ユズリハ』は、ユズリハ科に属する雌雄異株(しゆういかぶ)の常緑高木(じょうりょくこうぼく)です。春になり枝先に若葉が伸びてくると、前年の葉が若葉に後を譲るように落葉し、落ちた葉が肥料になります。このことが親が子を育て、家が代々続いていくことを連想させるため、縁起の良いものと。神棚。牛蒡注連も新たに購入しました。撮影の後に、再び『年末ジャンボ宝くじ』を神棚にソッと戻しました。昨年正月に、一番年上の孫から神社にお賽銭入れがないのはおかしいと。早速妻が手作りしました。長かった?2020年、大晦日の「年越しそば」と「除夜の鐘」に、コロナに打ち勝つ新年2021年への願いを込めて。「今年の年末年始は命を優先してほしい。外出はぜひとも自粛して、家族で『ステイホーム』をお願いしたい」と。東京都の小池百合子知事は30日午後に臨時記者会見を開き、都内の新型コロナウイルスの感染状況に「大変厳しく、重要な局面。かつてない大きさの第3波が襲ってきている。いつ感染爆発が起きてもおかしくない」と危機感を強調。年末年始は会食や帰省などを自粛して自宅で静かに過ごすよう重ねて呼び掛けた。【https://jp.freepik.com/premium-photo/happy-new-year-2021-end-of-2020-coronavirus-concept-3d-rendering-3d-illustration_11705294.htm】より本日も我がブログへのアクセスありがとうございます。アクセスいただいた皆様も元気に良き新年をお迎えください。そして来年も我がブログをご笑覧いただきたくよろしくお願い申し上げます。
2020.12.31
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「和泉川」に沿って下流・南方面に進み「上分橋」で左折し「和泉川」を渡る。「上分橋」の名の由来は???「上分橋」を渡った右側は和泉川の「和泉遊水地」。「和泉遊水地案内図」。第1池~第4池に分かれていた。「和泉遊水地」を見る。この先に、テニスコート、サッカー場、野球場等があるようであった。そして次に訪ねたのが「正法寺」。道路からもひときはこんもりした林が見え、その中にあった寺。寺号標石「浄土宗 正法寺」。境内の「六地蔵」。多くの墓石が並んでいた。石祠も。新装なった「本堂」。浄土宗・宝心寺(和泉町)の住職が兼務しているというから無住なのであろう。鎌倉郡三十三箇所観音霊場の第25番札所になっているようであったが。扁額「正法寺」。多くの無縫塔は「歴代上人之墓所」。御神木は「タブノキ」であろうか。「正法寺」を後にし、再び「和泉川」に戻り進む。道路の右側からは養鶏場からの鶏、「和泉川」からは雀の鳴き声が賑やかに。「和泉川」には巨大な鯉が。足の疲れを癒やしてくれたのであった。「相鉄いずみの線」を潜り「上飯田交番前」交差点まで歩く。交差点の角にあったのが「金剛塔+三猿」。「笠付光背型形角柱青面金剛塔+三猿・・1729(享保14)年」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.17
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『鎌倉散策 目次』👈リンク私の住む藤沢市は、海岸から反時計回りに鎌倉市、横浜市戸塚区・泉区、大和市、綾瀬市、海老名市、寒川町、茅ヶ崎市の6市1町と市境を接している。コロナ禍で不要不急の外出の自粛要請の中で、自分の体力維持も同時に重要であるため3密(密集、密接、密閉)の可能性の少ない、そして飛沫感染によるリスクの小さい、「屋外の散歩」としてマスクの完全着用の下での隣接市の神社仏閣を訪ねることを始めているのである。これまでに、横浜市戸塚区、泉区にまたがる「鎌倉古道」そして綾瀬市の神社仏閣、「大和市」の神社仏閣を歩き、現在「大和市」のブログアップの途中ではあるが、同時併行でこの日は、南部で隣接する「鎌倉市」の神社仏閣を訪ねる目的で散策に向かったのであった。鎌倉市の主要な古刹や神社は過去に既に訪ね、「鎌倉五山」、「鎌倉三十三観音」、「鎌倉十三仏」、「鎌倉二十四地蔵尊」、「鎌倉七福神」のそれぞれの寺、神社の「御朱印」を全て戴いているが、未だ訪ねたことのない古刹や神社がまだまだ多数あるので、今回の散策になったのであった。この日は4月6日(火)、まずは何回か訪ねている藤沢市片瀬にある「龍口寺」からスタートして、その後直ぐに鎌倉市に入り湘南海岸に沿って稲村ヶ崎方面へと歩を進めたのであった。小田急線を利用して藤沢駅に向かう。「善行駅」手前からトンネルを見る。小田急線「藤沢駅」に到着し江ノ電「藤沢駅」へ。鎌倉駅行きの江ノ電に乗り「鵠沼駅」で「藤沢駅」への上り線との『行き違い』。鉄道用語では『行き違い』を「上下の列車がすれ違う」意として定義されているのだ。「鵠沼駅」を出て「境川」を渡る。そして江ノ電「江ノ島駅」に到着。「国道467号」に出る。「龍口寺」前の交差点には、乗って来た「江ノ電」が「鎌倉駅」に向かって進んで行ったのであった。左側に「龍口明神社(元宮)」その先に「龍口寺」の「仁王門」が。「龍口明神社(元宮)」の石鳥居が左手に。もともとは龍口(たつのくち)の龍口寺西隣に建っていたが、安政2年(1773年)に龍口が片瀬村(現藤沢市片瀬)に編入されて以降、境内地のみ津村の飛び地として扱われた。鎌倉時代には刑場として使用された時期もあり、氏子達は祟りを恐れ、長年移転を拒んでいたという。大正12年 (1923年)、関東大震災により全壊、昭和8年 (1933年)に龍口の在のままで改築したが、 昭和53年(1978年)に、氏子百余名の要望により、江の島を遠望し、龍の胴にあたる現在の地へと移転した。なお移転後の現在も、旧境内は鎌倉市津1番地として飛び地のまま残っており(周りは藤沢市片瀬)、拝殿・鳥居なども、移転前の姿で残されている。扁額は「龍口明神社」。右手にあったのは「庚申塔」であろうか?「至誠通神」👈リンク 碑。関東大震災に関する石碑のようだ。そして階段を上ると朽ち果てた入口木戸が。しかし南京錠がかけられていて立入禁止になっていた。「社殿」。龍口明神社は、552年(欽明天皇13年)、江島弁財天の霊感に降伏した五頭龍を祀ったのが始まりという。もともと、ここ龍口(たつのくち)の龍口寺の横にあって、1773年(安政2年)に龍口が片瀬村に編入されると、津村の飛び地として扱われてきた。1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊したが同地に再建されている。しかし、1978年(昭和53年)、氏子の要望で鎌倉市腰越1548−4に移されたと。鎌倉市津1。「龍ロ明神社御祭神・・・玉依姫命 五頭龍大神御例祭・・・十月第一 土・日曜日御創建・・・欽明天皇十三年(西暦五五ニ年)昭和五十三年に瀧のロにあたるこの地より龍の胴にあたる津の新鎌倉山に御遷座され日本三大弁財天として名高い江島神社ど夫婦神社として人々に崇敬されています。」地図にある遷座地の西鎌倉にある「瀧口明神社」も既に訪ねて、御朱印を戴いているのである。仁王門の左側にあったのが「龍口刑場跡」。そしてここは藤沢市。ここ龍口寺は日蓮の四大法難の一つ、龍ノ口法難の霊跡である。正しい信仰のあり方を主張する『立正安国論』を幕府に提出して、他宗との対立を深めていた日蓮は、文永8年(1271)9月12日、訴えにより捕らえられる。続きは龍口寺のパンフレットに。「翌十三日子丑の刻(午前一時前後)に至り、日蓮聖人を土牢から引き出し、敷皮石(座布団状の石の上に皮を敷く)の上に座らせ、斬首の準備を整えた。このとき、日蓮聖人は、法華経の行者として、法華経に命を捧げることは、むしろ喜びであると、泰然自若として、題目を大音声で唱え、首の座についたという。日蓮聖人の手紙には、このとき江の島の方から満月のような光りものが飛び来って、斬首役人は目が眩み、おののき、たおれたと記されている。伝説によると、このとき処刑に使われた蛇胴丸という名刀に、この光りものがかかり、三つに折れたともいう。いずれにせよ、幕府の使者が到着して、斬首の刑は中止されたのである。龍の口刑場へ連行されて、処刑中止となった人物は、歴史上日蓮聖人以外、誰も知られていない。誠に尊いことである。」と。「無妙法蓮華経」碑。「由来塚此の題目は伊豆玉沢妙法華寺に現存する六老僧日昭阿闍梨に授与したまえる日蓮大聖人眞筆の大曼陀羅より虔しんで抜写せるものなり」「當地は鎌倉幕府時代の刑場跡である。幕府の公式記録である『吾妻鏡』には腰越、龍の口に於いて斬首との記載が多く見られる。奈良時代の僧・泰澄、一説には鎌倉時代の僧・文覚が龍口明神に法味を供養したところ、国に背く悪人が出来した時は首を斬り社頭に掛けよ、との神託を受けた。これによって龍の口が処刑場になったと旧記にある。文永8年(1271)9月13日子丑の刻(午前2時)、日蓮大聖人は『立正安国論』の諌言により、幕府に捕えられ、この刑場・敷皮石(首の座)にすえられた。しかし処刑の瞬間、時あたかも江の島の方より満月の如き光りものが飛び来りて、執行人共は眼がくらみ、この奇端の為、ついに大聖人の首を斬ることが出来なかった。かくして此処は日蓮大聖人龍口法難の霊場であり、世の安寧の為に身命を賭けられた寂光土と称される所以である。 霊跡本山 寂光山 龍口寺」「龍口刑場跡」碑。石碑には何やら文字が刻んである。日蓮という署名が判別できた。これは「四条金吾殿御消息」という日蓮の手紙の一節であるとのこと。「裟婆世界の中には日本国、日本国の中には相模の国、相模の国の中には片瀬、 片瀬の中には龍口に、日蓮が命をとゞめをく事は、法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか。 文永八年九月廿一日 日蓮(花押)」龍ノ口刑場は、鎌倉時代から室町時代の刑場で、龍口寺内に石碑が建てられている。1271年(文永8年)9月12日、松葉ヶ谷で捕らえられた日蓮の伝説が残されている場所として知られている(龍ノ口法難)。しかし、実際に、この刑場がどこにあったのかは不明であると。以前は下記の如き木製の案内板があったが「当地は鎌倉幕府時代の刑場跡で、文永八年(1271)九月十三日子丑の刻(午前二時)日蓮聖人は立正安国論の諌言により、この刑場敷皮石(首・座)にすえられ時あたかも江の島の方より満月の如き光りものが飛び来りて、役人共は眼がくらみ、この奇瑞の為ついに聖人の首を斬ることが出来なかった即ち日蓮聖人龍の口法難の霊場であります寂光山 龍口寺」藤沢市片瀬3丁目13。「日蓮聖人龍口法難六百五十年記念碑」。1921年(大正10年)に建設されたものであろう。「日蓮宗霊跡本山龍口寺」木製看板。「寂光山 龍口寺 境内図」 【https://blog.goo.ne.jp/sgh44103-anyt/e/7a19bfa8aad6d01634b73f0a6627b030】より「龍口寺 仁王門」扁額は「瀧乃口」「仁王像(阿形像)」。仁王尊像作者は浅草寺の仁王門の彫刻家、村岡久作氏。「仁王像(吽形像)」。天上の龍の絵。手前の龍。後方の龍。その両脇に、日蓮宗の寺紋である「井桁橘」と、その横に丸に「立ち沢瀉(おもだか)」紋、そして龍の絵が。「立ち沢瀉」紋と龍口寺の関係は?寄付者の家紋なのか?その先、階段の上に「山門」。山門は元治元年(1864)竣工で、欅造り銅板葺。大阪雲雷寺の発願で、豪商鹿島屋某が百両寄進し建立された。階段下にあった「龍口法難七百年記念報恩塔」。横面には「天下泰平国土安穏」と刻まれていた。「常夜灯」の五重石塔。山門の中国の故事などの見事な彫刻。扁額「龍口寺」。裏面に「寂光山」の扁額が掛かる。扁額に下に「2匹の龍の彫刻」。山門の彫刻。仙人であろうか。この山門の彫刻は中国の故事を著しているのだとか。それぞれズームして。この彫刻は「覆水盆に返らず」の故事を著していると。「木鼻(右)」。「木鼻(左)」。「山門」を境内側から見る。以前は「山門」の正面中央に「龍口寺」、裏面に「寂光山」の扁額が掛っていたが、この日は裏面の「寂光山」の扁額はなかった。右手にお題目碑。「山門」を潜ると正面に「本堂」が。「手水舎」「寂光殿」。堂内に各々位牌を設置する。お骨は50年間骨壺に安置し、後に合葬する。年1~2回法要を行い供養する。地下納骨室および一階位牌堂で構成されており、正面御宝前に釈迦牟尼如来御尊像を奉安し、法要を営むことができる と。「妙見堂」。「北辰妙見菩薩」を祀る堂。妙見菩薩は北極星を祀ったもので、日蓮も崇拝したことから、日蓮宗の寺院には多く見られる と。扁額「妙見大菩薩」。正面の奥には「法難六百五十年報恩塔」その手前の2本の石柱には「最初牡丹餅(ぼたもち)結社」と刻まれていた。「霊跡本山 寂光山 龍ロ寺 縁起鎌倉時代、日本は内乱や大震災・飢饉疫病の蔓延など、まさに地獄の様な悲惨な状況にあり、それらを憂えた日蓮大聖人は『立正安国論』を著し幕府に奏上し、法華経の思想に基づく国家の安寧と民衆の救済を提起した。しかし、幕府は政策への中傷と受け止め『貞永式目』の「悪口の咎」に当たると解釈し、文永八年(一ニ七一)九月十ニ日、鎌倉松葉ヶ谷の草庵で説法中の日蓮大聖人を捕らえ、市中引回しの上、この龍ノロの刑場に連行した。日蓮大聖人の場合、幕閣による評定(裁判)を経ず刑場に連行した為、幕閣からも異議が出され処刑中止を求める意見が多く、幕府は夜半に至り龍ノロの刑場へ処刑中止の使者を送った。その問にも刑場では評定の決定を待ちかねて、十三日の子丑の刻(午前ニ時頃)、日蓮大聖人を上牢から引き出し、敷皮石に座らせ、斬首の準備を整えた。その瞬間、江ノ島の方より満月のような光りものが飛び来たり、執行人は眼がくらみ、畏れおののき混乱の中、使者が到着し斬首の刑は中止になった。その後、幕府の面目もあり、佐渡島へ三年間流罪となったが、この大法難によって日蓮大聖人は「上行菩薩の再誕・法華経の行者」としての信念を一層深められ、その後、数々の重要な法門を著述された。この震場は、延元ニ年(一三三七)、直弟子の日法聖人が刑場跡に「敷皮堂」を建て、自作の祖師像を安置したのが始まりであり、大聖人自ら『滝ノ口に日蓮が命をとどめておくことは法華経の御故なれば、寂光土ともいうべきか』と獅子吼された随一の霊場である。」「御霊窟」前。石柱は「南無妙法蓮華経 一萬部成就塔」。「御霊窟」「龍口法難の際、幕府に捕らえられた日蓮大聖人様が一晩幽閉されたと伝えられる洞窟【宝暦六年(一七五六)の祖師像を奉安】」中には「祖師像(日蓮像)」が安置されていた。左の墓碑には「南無妙法蓮華経 身軽法重(しんきょうほうじゅう) 死身弘法(ししんぐほう)」👈リンクと刻まれていた。横には「法善房 日行法師」や「日蓮上人」らの名が刻まれていたが、それ以上のことは分からなかった。「五輪塔」。その奥の「やぐら」のごとき洞にも観音像が。「南無妙法蓮華経」、「高祖賛」とそれぞれ刻まれた碑。「仏舎利塔」、「七面堂」案内板。白い建物は「納骨堂」。 ・・・つづく・・・
2021.04.24
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『鎌倉散策 目次』👈リンクそして更に進むと左手のコンクリート擁壁には大きな案内板が。「明鏡山円満院星の井寺」と「舟守地蔵」の案内板。その上には白地に墨で「南無虚空蔵菩薩」と書かれた多数の幟が。まずは「虚空蔵菩薩」を祀る「明鏡山 円満院 星井寺」への石段を上る。幟には、「日本三虚空蔵、丑・寅年生の守本尊」とも。鎌倉市坂ノ下18-28。石段下には「本尊虚空蔵菩薩」と刻まれた石碑があった。石段の上に「明鏡山 円満院 星井寺」の本殿。この石碑には「南無遍照金剛」?。「本堂」前に狛犬。「星の井水神」。「星井寺」の境内には小さな「舟守地蔵堂」があった。小さなお堂の中に船の台座に乗った石製のお地蔵様・「舟守地蔵」が立っていた。昔から海上安全、大漁祈願など、船や水に関係のある人々から厚い信仰を集めていると。「明鏡山 円満院 星井寺」高僧行基と縁あると伝えられ歴史ある寺。成就院の境外仏堂となっている。ご本尊<虚空蔵菩薩> 虚空とは無限の知恵を表し、御真言<のうぼうあきゃしゃきゃらばやおんありきゃまりぼりそあか>を唱えることで、頭脳明晰になるといわれる。*丑・虎年生まれの方の守り本尊*鎌倉13仏霊場13番札所(朱印は成就院で承ります)と。扁額は「明鏡山」。「内陣」には御本尊の「虚空蔵菩薩」が。「明鏡山円満院星の井寺(御本尊虚空蔵菩薩安置)天平年間、聖武天皇の御代に諸国行脚中の行基僧正が当地の古井戸「星月の井」に明るく輝く明星の光りが移るとのうわさを地元民から聴き、井戸をのぞくと中に虚空蔵菩薩のお姿が写し現われていた行基はそのお姿を仏像に彫り当地にお堂を建立し安置した。かの像は明星の照曜の如き光を放ち、鏡に影の移る如くでありました。以後数百年経って幕下の征夷大将軍源頼朝公はこの菩薩を崇敬し、この菩薩像を内陣仏の秘仏とし、仏師運慶に外陣仏を作らせた、これが前立尊であるという。秘仏虚空蔵菩薩はわが国では唯三体の木彫の仏像で大変貴重な仏像であります。これに加えてこの御仏は明星と一体で、その分身であり限りない知恵をそなえた御仏で、経典では虚空蔵菩薩は、西方香集世界の教主で娑婆世界の苦難する人々の利益のために無不畏陀羅尼を説くことを、釈迦・敷蔵の二仏に許された御仏であります。即ちその本尊に礼するものは三世十方一切の諸仏を礼することと同じであるといわれます。又、虚空蔵菩薩を本尊として修業する虚空蔵求聞持法では心を静かにしこの真言を唱えれば天より明星が口に入り、菩薩の威はあらわれて頭脳は明晰となり記憶力は増進するといわれております。秘仏であるが衆生に縁を結ばせるべきでるとして三十五年一度に開帳し衆生にそのお姿を拝する事が許されました。近代に至り熱心な信仰者の意に添うようにと毎年正月十三日に開帳し善男善女もそのお姿を毎年拝することが出来るようになりました。正月十三日の初護摩供養には、丑年寅年の人々の守本尊として、また、知恵、記憶力をお授け下さる虚空蔵様として地元民をはじめ各地より善男善女が参詣にまいります。」以前に戴いた「鎌倉十三佛第十三番」の「星井寺」の「虚空蔵菩薩」の御朱印です。そして「星井寺」の隣りにあったのが「星の井」。「舟守地蔵(虚空蔵堂境内安置)いつの時代に開眼されたお地蔵であるか不明であるが、往年より海上安全、大漁満足、身宮安泰、海難、水難除け、その他船舶水に関係した一切の事業に従事しておられる人々に大きな功徳をお授け下さるお地蔵として近郷、近在の人々に深く崇敬されております。また、その昔より願主の心清く精進すれば願い事を数日で成就させていだける有難いお地蔵様であるとも言い伝えられております。 昭和59年7月 虚空蔵堂護持会」「星月井」碑。碑文には「星月夜ノ井ハ一ニ星ノ井トモ云ウ鎌倉十井ノ一ナリ坂ノ下ニ属ス往時此附近ノ地老樹蓊鬱トシテ昼尚暗シ故ニ称シテ星月谷ト曰フ後転ジテ星月夜トナル井名蓋シ此ニ基ク里老言ウ古昔此井中昼モ星ノ影見ユ故ニ此名アリ近傍ノ婢女誤ツテ菜刀ヲ落セシヨリ以来星影復タ見エザルニ至ルト此説最モ里人ノ為メニ信ゼラルルガ如シ慶長五年六月徳川家康京師ヨリノ帰途鎌倉ニ過リ特ニ此井ヲ見タルコトアリ以テ其名世ニ著ハルルヲ知ルベシ水質清冽最モ口ニ可ナリ 昭和二年三月建 鎌倉町青年団」【この井戸は鎌倉十井(じゅっせん)のひとつです。星月夜(ほしづきよ)の井とか、星の井とも言います。この地域の名前は坂の下です。昔この付近は、木が多く昼でも暗いほどだったので、星月谷(ほしづくがやつ)と言いましが、その後、星月夜に変化しました。 井戸の名前は、多分ここからきたのものです。またここの土地の多くの老人は、次のような話を信じています。昔はこの井戸の中に、昼間でも星の影が見えたので、この名前が付いていたが、近所の者が誤って包丁を落してからは、星影がみえなくなったという話です。 1600年6月に、徳川家康(とくがわいえやす)が京都より帰る途中、鎌倉を通り、この井戸を見たことがありました。その時以来世によく知られるようになったのです。水質は清く冷やかで飲むのに最適です。】と。「星月井」、「星の井」、「星月の井」、「十井之一 星の井」と様々な表現が。「星の井(ほしのい)この井戸は、鎌倉十井の一つで、星月夜の井、星月の井とも呼ばれています。昔、(この辺りは山深く、うっそうと木々が繁り、昼でも暗かったため、)この井戸の中に昼間も星の影が見えたことから、この名がついたといわれています。奈良時代の名僧・行基は、井戸から出てきた光り輝く石を虚空蔵菩薩の化身と思い、お堂を建てて虚空蔵菩薩をまつったという伝説もあります。井戸の水は清らかで美味だったので、昭和初期まで旅人の飲料水として売られていたそうです。 平成11年12月 社団法人鎌倉青年会議所」「星の井」には立派な屋根が取り付けられていた。そして「成就院」の東参道から境内に向かう。前方に寺号標石と東側山門が見えた。鎌倉のアジサイ三大名所として知られる有名な階段を上って行った。寺号標石「普明山 法立寺 成就院」。「相刕廿一ヶ所 第十三番 弘法大師」と刻まれた石碑。「弘法大師相模二十一ヶ所霊場」の石碑であるようだ。新たに出来た東側(長谷側)「山門」。扁額には「東結界」。「山門」を潜り更に石段を上って行った。振り返ると「由比ヶ浜」、「材木座海岸」の姿が。海岸への人出は少なく。鎌倉市大町5丁目にある焼却場「名越クリーンセンター」の煙突も見えた。そして成就院の「山門」が正面に。扁額は「普明山」。「宝篋印塔」。「御朱印」、「護摩祈祷」案内。「弘法大師像」。成就院(真言宗大覚寺派)のある地は、弘法大師が100日間にわたって虚空蔵菩薩をまつる修行を行なった場所といわれ、1219年(承久元年)、三代執権北条泰時がこの寺を創建し、北条一族の繁栄を祈願したと伝えられている(創建は1221年(承久3年)という説もある。「本堂」。成就院は、1219年に鎌倉幕府三代執権、北条泰時(ほうじょうやすとき)によって建立された寺院。この地は弘法大師が修行をした場所で、一族の繁栄を願って建立されたと。1333年、新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻めにあい、戦火により伽藍は焼失した。その後、西ケ谷という場所に移されたが、勢いはすっかり衰えてしまった。1700年頃、成就院は祐尊(ゆうそん)という僧により再建された。現在は、アジサイの名所として、鎌倉だけでなく全国的にも有名な寺院となっているのだ。開山:弘法大師開基:北条泰時(伝)本尊:不動明王(縁結び不動明王)扁額は「成就院」。以前戴いた鎌倉三十三観音霊場・第二十一番札所「成就院」の「聖観世音菩薩」の御朱印です。境内には様々な石碑が。「成就院建立時の五輪塔の一部」。「伝文覚(もんがく)上人像萩原守衛(碌山)が文覚像制作に影響を与えた像」。「八角堂聖徳太子千三百年御忌記念に建立」扁額は「和貴」。「子安地蔵菩薩 子生石安産・子育・子授に功徳あり」。「縁結び不動明王像」近づいて。「本尊御分身 縁結び不動明王像ご縁日 二十八日」。「本尊 不動明王御分身 護摩祈祷」案内。「なで蛙善心廻幸は「善き心幸せを招きかえる」という意味であると。「十三重塔」。手水場。龍の手水は鎌倉一美しいといわれると。コロナ対策で休止中。そして「成就院」を後にして西側の参道を下っていくと、極楽寺坂の反対側に新しい阿弥陀如来像と五輪塔の姿が確認できた。ズームして。五輪塔には梵語が刻まれていた。五輪塔に刻まれている文字 ・梵字(種字、サンスクリット)は上から「キャ・空」、「カ・風」、「ラ・火」、「バ・水」、「ア・地」であると。 【http://www7b.biglobe.ne.jp/~boso/kiisobo/kiiso_04.html】よりこちらも新たに出来た「西山門」が前方に。潜り西側の「山門」を振り返る。扁額は「西結界」。「成就院境内」案内。「成就院」を後にし、次の「極楽寺」へと歩を進めたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.08
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『鎌倉散策 目次』👈リンク『光明寺』を後にして、「逗子マリーナ」方向に進む。道路脇に咲いていた花は「ハブランサス」であろうか?「内藤家墓地」が左手に広がる。光明寺の内藤家の墓所には、高さ3メートルを超す宝篋印塔や五輪塔が整然と並んでいる。磐城平藩主・日向延岡藩主の内藤家歴代の墓。内藤家の墓所は、深川の霊厳寺にあったが、内藤義概のときに寺領150石が寄進され、光明寺に移ってきたと考えられている。内藤忠興寄進状にも「50石」を加えて200石を寄進するとある(実際に移ってきた時期は不明)。光明寺の国宝「当麻曼荼羅縁起絵巻」は、内藤家から寄進されたもの。「鎌倉市指定史跡昭和三十七年九月七日指定内藤家墓地日向延岡の城主内藤家の歴代墓地で、江戸時代初期以来、代々のものが一墓地に建立されている。高さ三メートルに及ぶ大宝篋印塔などが多く、他に笠塔姿、仏像形、五輪塔形姿形がある。これに加えて灯籠、手水鉢があり宝篋印塔と共に大名墓地の時間的変化を知ることのできる好資料である。江戸時代初期以降代々にわたる墓碑をよく保存する大名の墓地として貴重である。墓碑五八基(宝篋印塔四〇基、笠塔姿一ニ基、仏像形四基、五輪塔形一基、角塔姿形一基)灯籠一一八基、手水鉢一七基、地蔵尊等九基」宝篋印塔、灯籠が並ぶ。今でも毎年6月下旬には「いわき」、「延岡」両市の内藤家ゆかりの人たちが集い、墓地の除草、清掃を行った後、盛大な供養会を催し、伝統の盆踊りが揃いの浴衣で仏前に奉納されるのだと。今年は、このコロナ禍で中止になったのであろうか、雑草が生い茂っていたが・・・。光明寺は、浄土宗を信仰した内藤家の菩提寺。江戸初期、内藤家磐城平藩の初代は政長、後1747年、6代政樹のとき日向・延岡藩に転封となった。この墓地には磐城平藩初代から日向・延岡藩の末代までの墓所が一同に祀られているとされる。このように整然と一カ所に揃っているのは大変めずらしい。大型の宝篋印塔が立ち並ぶ姿は壮観。道路沿いの大宝篋印塔。地蔵尊。そして更に進むと前方に「(仮称) 材木座(ざいもくざ)隧道」が現れた。延長 39.8m 道路幅 5.0m (スペックは鎌倉市社会基盤施設白書より)「鎌倉市立第一中学校」の手前にある隧道。重厚なシェッド(shed)に前後がガードされていた。「(仮称) 材木座(ざいもくざ)隧道」を進む。そして右手に「鎌倉市立第一中学校」の正門が現れた。その先左側にあったのが「かながわの景勝50選 光明寺裏山の展望」碑。しかしこの場所からは、前方の木々が邪魔をして展望は殆ど見えなかった。更に進むと展望デッキが2箇所あった。この場所からは辛うじて。しかしこの日は梅雨の合間の曇天で霞が架かって視界不良。材木座海岸から由比ヶ浜が見えはしたが。そして更に進み「秋葉山大権現社」を目指す。道の行き止まりにあった石鳥居は「秋葉山大権現社」の一の鳥居。ここは「光明寺」の裏山への上口なのであった。一の鳥居を潜ると、獣道の如き参道が前方に。参道の坂道沿いにあった数々の石仏像。途中から石段も。参道の石仏は18体あり、いずれも江戸期の物であるらしい。そして上り詰めた場所には二の鳥居があった。枯れた手水舎。「秋葉山大権現社」の境内。そして想像していたものよりは小さい「秋葉山大権現社」。祭神は「火之迦具土之大神(ひのかぐつちのおおかみ)」秋葉権現は火災盗難を防ぐ権現で光明寺域内鎮護の社であると。伝えによれば、当山三十三世深譽伝察上人が身を天狗に現じて当山を守護したと伝えられていると。「浄土宗大本山光明寺の火伏せの守護神であり、材木座や小坪の漁民にとっては水上交通安全の神。『光明寺代々年代略記』によると正徳4年(1714)秋葉山本宮より勧請したのが始まりとされる。秋葉山本宮は遠州の秋葉神社(静岡県周智郡春野町)。この社は火除け・水除けの神として知られる。名物行事であった祭礼前夜のおかがり焚きは、遠くからは山全体が燃えている様に見えたというが、明治30年(1897)にとりやめになった。かつては光明寺境内に芝居小屋が立つほどににぎわったという祭礼も、現在では稚児行列と山上での読経だけが行なわれている。」とのネット情報も。そして歩いて来た坂をひたすら戻り、次の目的地の「北条経時公・良忠上人墓所」に到着した。「御廟所➡」と書かれた案内板が。「浄土宗三祖 光明寺開山 良忠上人御廟参道」と刻まれた石碑。側面には「善導大師千三百年遠忌記念建之」と。善導大師は、中国浄土教の僧侶で「称名念仏(しょうみょうねんぶつ)」といわれる仏さまの名号、特に浄土教においては「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える念仏を中心とした浄土思想を確立した人物であると。善導大師の教えは、後の中世日本の法然上人や親鸞聖人に多大な影響を与え、浄土宗では「浄土五祖」の第三祖、浄土真宗では「七高僧」の第五祖とされている。浄土宗の仏壇ではご本尊の脇侍として善導大師を祀りますが、善導大師の絵像には口から雲にのった阿弥陀仏を吐き出しているようなお姿で描かれているものがあると。「鎌倉市立第一中学校」のグランドの裏の石畳の道を進む。御廟参道左側の崖には横穴が。天井が丸く、やぐらではなく、防空壕か横穴古墳(甌穴墓)であろうか。途中から左手に墓石が並ぶ。入口左に建つ石碑には「南無阿弥陀仏」と。そして奥の左手の石段を上ると大きな塔身が卵形の無縫塔(むほうとう)が並んでいた。ここ光明寺裏山(天照山)の中腹にあったのは、開山然阿良忠をはじめとする歴代住職の廟所なのであった。右側之墓石群。左側の墓石群。中央の墓石群を再び。こちらが「浄土宗三祖 光明寺開山 良忠上人御廟」。近づいて。良忠上人は石見国(島根県)に生まれ、深く学問を学ばれた後、38歳で聖光上人の弟子となり、法然上人の教えを受け継ぎ、浄土宗の三祖に呼ばれる。また良忠上人は、浄土宗に関する多くの書物を残し、弘安10年(1287年)に、89歳の高齢で入寂した。その後、生前の功績が認められ伏見天皇より「記主禅師」の謚号を賜った。本堂横の池のある庭園が記主庭園と名付けられているのはこのことに由来する。御廟は余りにも立派なので驚いたのあった。そして左手奥、写真中央にあったのが「北条経時の墓」。北条 経時は、鎌倉時代前期の北条氏得宗家の一門。鎌倉幕府の4代執権。 第3代執権の北条泰時の嫡男であった北条時氏の長男。母は賢母で名高い松下禅尼で、第5代執権となる北条時頼や北条時定の同母兄にあたる。「北条氏の系図」をネットから。 【https://manareki.com/hojo_tunetoki】より「北条経時の墓」に近づいて。「蓮華寺殿 當山願主 安楽大居士」の文字が刻まれていた。法名は「蓮華寺殿安楽大禅定門」であると。立派な御廟の白塀の外側には比較的小さな石廟と墓石も。「浄土宗三祖 光明寺開山 良忠上人御廟」を振り返る。そして「北条経時公・良忠上人墓所」を後にして坂道を下る。こちらが「(仮称) 材木座(ざいもくざ)隧道」の「鎌倉市立第一中学校」側の入口。そして坂の途中から「由比ヶ浜」を見る。右手に「光明寺」の巨大「山門」の屋根が見えた。晴天の冬の日には・・・。 【http://kama-kenbun1.seesaa.net/article/202001kama0110.html】より ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.30
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【海老名市歴史散歩】 目次「椿地蔵」を後にして、直ぐ北側にあった「杉久保第一児童公園」に立ち寄った。ここにあったのが「有馬水道記念碑海老名町旧有馬地区は往時から良質な地下水が存在し、井戸水が滾滾と湧く自然水の恵みに浴してゐたのであるが社会開発の進むにつれ急速に枯渇しはじめ日常飲料水にもこと欠く事態となり。生活上由々しき問題となった。昭和三十四年の夏当時の部落区長及び町議会議員の職にある者相寄り相謀りこれが対策のため日夜談合を重ね種々方策を講究した結果地区内に浄水場を有する横須賀市水道からの分水による簡易水道布設が最も適切な処置であるとし関係当局に実情を訴え地域住民を啓発しこれが促進を期するため今年十一月有馬水道期成同盟会を結成し実行委員会挙げ計画の策定既設地区度の視察地域内の実地踏査を行い数度に亘り町県当局及び厚生省に接渉した◯にして横須賀当局のご理解もあり漸く昭和三十五年からニヶ年継続事業として給水人口五〇〇〇人を見込み総事業費三七四ニニ千円を以って町営実施の運びに至らしめた。これと同時に期成同盟会を切替えることとし加入者を会員する有馬水道組合を組織組合長に期成を推進して貰った役員の中から金指喜代治氏を推し◯組合長以下の役員を選出自主的に事業に協力することになり爾来住民福祉の向上と事業の円滑な運営に努力を傾けて来た結果当初加入約八〇〇戸から一五〇〇戸を超える規模ににまで生々発展し水道事業とする域にまで成長した。ここに於いてこの事業が〇〇と確固たる基盤を有するに至った事を認め当初有志の目的を充分達しものとして昭和四十二年十ニ月発展解消することにした。茲に組合」解消に当たり発◯起当初数々の御苦労と輝やかしい功績を積まれた実行委員各位の名をささやかな碑に託し後世に残さんとするものである。」海老名市杉久保南2丁目4。公園内には小さな社が。稲荷社であろうか。大山の勇姿がはっきりと。そして県道43号線の「杉久保南四丁目」交差点を渡り、次の目的地の「定国寺」に向かって進む。そして「定國寺(じょうこくじ)」山門に到着。「臨済宗建長寺派」。「明寶山 定國寺」。正面に立派な本堂が。「水子地蔵尊」。ズームして。更に。「六地蔵尊」。「庚申塔」が並ぶ。「本堂」「定國寺」は、圓模(永享3年1431年卒)が開山したと。本尊は釈迦如来像。「本堂」は六間四方で、三面がガラス張り。海老名市上河内1086 扁額「定國禪寺」内陣。内陣の扁額は「明寶山」。墓地。「畜霊の塔」。「馬頭観世音」碑。こちらも「馬頭観世音」碑。石祠。「聖観音菩薩像」か。お顔をズームで。寺務所。巨大な屋根には「卍」紋と 北条家の家紋「三つ鱗」が。そして次に訪ねたのが「有馬浄水場」。「横須賀市水道局有馬浄水場」。有馬浄水場は、海老名市中河内にある横須賀市の浄水場。旧海軍の浄水場として創設されたが、第2次大戦後、旧軍港転換法により横須賀市に無償譲渡され、数次の拡張事業などを経て、現在は、日量73,900m3の水道水を造り出すことができる浄水場。有馬浄水場は、相模川の表流水を水源として、約2km離れた社家の相模大堰から取水し、浄水した水を約29km離れた横須賀市内まで送水している。有馬浄水場では、粒状活性炭を用いた高度浄水処理を採用し、急速ろ過方式により浄水処理を行っている。有馬浄水場の敷地面積は46,500平方メートルで、沈でん池、活性炭吸着池、ろ過池、調整池、天日乾燥床などの施設を配し、これらの施設の運転について管理本館内の中央管理室で24時間常に集中管理するとともに、浄水工程や水源の水質検査なども有馬浄水場で行われている。また、有馬浄水場では、神奈川県内広域水道企業団が持つ浄水場のうち、酒匂川を水源とする伊勢原浄水場で浄水された水を受水し、有馬浄水場で浄水した水とあわせて横須賀市内まで送水しているのだと。門は閉まっていた。門の脇には横型ポンプが展示されていた。「管理棟」。上空から見た「有馬浄水場」。そして「有馬浄水場」の脇の道を西に進む。左手に「海老名市立有馬中学校」海老名市本郷4601。その隣に「海老名市立有馬小学校」海老名市中河内1784。突き当りを左折して進むと左手に「吾妻坂」案内柱があった。むかし、この坂修復工事の際、仏像が掘り出され今も近くの本覚寺に安置されています。この寺の山号を吾妻山ということから、この名がつけられたようです。また別名「泣き別れ坂」ともいわれ、悲しい歴史を持つ坂でもあります。その手前にあった石碑群。「泣き別れ坂」にあった石仏には言い伝えがあるとのことだが・・・。石碑には「・・・神位」とあるが解読不能。供養塔のようであるが。そして「吾妻坂」を下って行くと右手奥にあったのが「貴日土(きびと)神社」。「貴日土神社」の参道を進む。「鳥居移築」碑。「大東亜戦争陣地構築の廃土 基礎埋没につき移築改修」と。狛犬(阿形像(右))。狛犬(吽形像(左))。石鳥居を潜る。右手奥にあったのが「御獄大神」。小さな「社殿」。境内の左手に「中河内自治会館」が。「拝殿」。明治8(1875)年10月に、中河内村内の弁財天・稲荷・金比羅の3社を合祀して創建されました。神体は丸石です。社殿は、金比羅社(旧河内村の鎮守)の本殿を充当したものといわれています。境内に文久2(1862)年8月に、佐藤八左衛門が寄進した手水鉢がありますが、これは合祀以前の3社のいずれかのものと思われます。トタン屋根の社殿であった。「貴日土(きびつ)」の社名は、中河内村の寺子屋の師匠植田佐兵衛が、農業にとって大切な「日を貴び、土を貴ぶ」という意味で名づけたといわれています。明治24年に改築されています。また、境内には武州御嶽大神を祀った社があります。「 貴日土神社 所在地 海老名市中河内一七四三番地 祭神 稲荷社(宇気母知命・倉稲魂命) 享保六年辛丑十一月、勧請。 厳島大神(市岐島姫命) 宝暦六年丙子九月、相殿。 琴平宮(大物主命) 秋葉大神(火之迦具土神) 東照宮(徳川家康) 文化十三年三月。 山王宮(日枝大神・大山咋命) 文化十三年丙子相殿。 明治八年十月合併、貴日土神社と改称。明治二十四年九月、改築。 明治二十七年八月、台風により倒壊・復元。 昭和五年四月、改築現在に至る。 境内神社 御嶽大神(日本武命) 武州御獄山を勧請」境内の石碑群。境内から大山を見る。富士山の姿も。丹沢山塊の東端、宮ヶ瀬ダムの東側に聳える山々であろうか?「馬頭観世音」碑。「自然と歴史のさんぽみち」ここは「貴日土(きびと)神社」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.26
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