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次に訪ねたのが「徳常院(とくじょういん)」。徳常院 龍珠山は、本町3丁目にある曹洞宗の寺院。本尊は虚空蔵菩薩。元和元年(1615)の創建で、開山は至明宗順(元和4年・1618没)ないし至明良順。開基は不詳。江戸時代には一町田町(浜町)・宝安寺の末寺だった と。「徳常院」案内図。御幸の浜まで100m程の場所に立つ曹洞宗の寺。小田原市本町3丁目13−11。この石仏の名は?右側のあった「稲荷社」。「江湖會(ごうこえ)」とあったが、他は解読不能。「江湖會」とは、禅宗で、修学参禅の僧を集めて夏安居(げあんご・僧が、夏 (げ) の期間、外出せずに一所にこもって修行をすること。夏籠もり。)を行うこと と。近づいて。内陣には多くの狐様の姿が。徳常院 本堂。宗派 :曹洞宗山号 : 龍珠山院号 : 徳常院寺号 -本尊 : 虚空蔵菩薩像扁額は山号の「龍珠山」。本堂 内陣。本尊の虚空蔵菩薩像は弘法大師空海が彫刻したと伝えられるもので、銅造、像高六寸七分、明応年間(1492~1501年)に海中から出現した事から当地の漁業関係者から信仰の対象となっています。以前は毎年旧暦7月16日の夜中に漁業関係者が船を浮かべて108本の松明を掲げ海岸で施餓鬼を修行し海で無くなった人達の供養を行っていました と。ズームして。境内にあった「三界萬霊塔」。近づいて。観音像。お顔をズームして。子育て地藏尊であろうか。子供がまとわりついていた。墓地入口からは、この後に訪ねた「妙泉寺」の本堂が見えた。北側の建屋の 階段を上がった先の火灯窓を持つお堂に「延命地蔵尊」と記された扁額が。徳常院 の「延命地蔵堂・大仏殿(2F)」に向かって進む。「徳常院(曹洞宗)の大仏江戸駒込ハ百屋お七の恋人、吉祥寺の寺小姓吉三郎(てらこしようきちさぶろう)がお七の菩提をとむらう為に作った大きな地蔵尊という伝説ガあるので、吉三地蔵なる別称を持つ銅製の地蔵尊像てある。この尊像は、もと籀根芦ノ湖畔の賽の河原に安置されていたもので、像背名によれば江戸増上寺塔頭にいた心誉常念が正徳3年(1713)神田鍋町の鋳物師太田駿河守に作らせ世の平穏を祈ったものであったが、明治2年(1869)の廃仏毀釈で箱根権現が従来の神仏混合形態から神社と寺が分かれることになり金剛王院は廃止されたので、その管理の本地蔵尊は古物商に売渡された。これを東京の業者が買い、馬車てこの海岸に運び、海路輸送をしようとした処、お賽銭を上げ、見る間に4斗樽に一杯になったと言われる。そこて、当寺の世話人や町の有志が65両て商人から尊像を買取り、当寺に安置したものである。大正12年(1923)の関東大震災の時、本尊は火災にあったが損傷なく、戦時の金属回収もまぬがれた。なお、本像が賽の河原に安置されていた当時の写真が、昭和16年(1941)、米国の古書店て発見され新聞紙面を賑わしたことがあった。」徳常院の大仏殿に安置されている大仏(地蔵菩薩像)は、像の背中の銘によると、江戸・増上寺の塔中にいた心誉常念が、正徳3年(1713)に神田鍋町の鋳物師・太田駿河守(太田正義)に作らせたもの。銅製で、高さ8尺(約2.4m)、胸幅5尺(約1.5m)。重さ約800貫(3トン)とのこと。江戸駒込の八百屋お七の恋人、吉祥寺の寺小姓・吉三郎がお七の菩提を弔うために 作ったという伝説から、吉三地蔵の別称があった。もともと、箱根・芦の湖畔の、箱根権現の別当・金剛王院境内の賽の河原に安置されていた。『風土記稿』巻29 元箱根(下)賽ノ河原○地蔵堂△銅仏の項には「正徳元年(1711)七月、 願主常念と刻す」とあり、この大仏のことと思われるが、造立年が若干食い違っている。明治2年(1869)の廃仏毀釈で金剛王院が廃止されることになり、大仏は古物商に売り 渡された。これを東京の業者が買い取って運搬する途中に、小田原の町の有志(山田又市ら) が65両で買取り、徳常院に安置された。はじめ境内南側に露座のまま安置されていたが、その後お堂に移された。 1980年当時、小田原市の文化財に指定されている。お顔をズームして。そして「徳常院」を後にし、海岸方向に向かうと「坂口丸」と書かれた案内板の民家の前には石仏が。「馬頭観音像」と。小田原市本町3丁目9−16 坂口丸。近づいて。赤子を抱いていたが。その先にあったのが「海への扉」への入口。「海への扉」の先に相模湾。引き返して、次に訪ねたのが「妙経寺(みょうきょうじ)」。妙経寺は、日蓮宗の寺院。山号は、青陽山。鏡信一刀流西原銕兵衛相久の墓がある。旧本山は京都妙満寺、什師禹師寮法縁(じしうしりょうほうえん)。什師禹師寮法縁は、日蓮宗の宗派のひとつ と。小田原市本町4丁目6−5。「妙経寺」。門前の大きな石碑。題目碑「南無妙法蓮華経」。掲示板。「日蓮宗 青陽山 妙経寺」。「日本の探検家たち郡司成忠(ぐんじしげただ・ 1860 ~ 1924 ) ~明治時代中期に北千島に赴き探検と拓殖を成し遂げた海軍大尉~晩年の住処・終焉の地:御幸の浜 妙経寺境内(小田原市本町4丁目)郡司成忠は万延元(1860)年、幕臣幸田成延(しげのぶ)の次男として江戸(上野)三枚橋で誕生。小説家の幸田露伴、音楽家の幸田延、安藤幸の実兄である。明治4 (1871)年郡司家の養子11歳)となり、翌年海軍兵学寮に入学。明治12年に海軍兵学校(本科)を卒業し海軍少尉補となり、19年に海軍大尉まで昇進した。その後、北千島の国防と拓殖の必要性を痛感し、明治26(1893)年、自ら予備役となり開拓団「報效義会」を結成。会員を率いて日本領最北端の北千島占守(シュムシュ)島に渡り、北千島の国防と探検と拓殖を行なった。当初は海難事故や越冬体制の不備もあり31名の犠牲者を出したが、明治29年より漁業、猟業、農業の事業拡大が順調に進められた。「男女合わせて217名が北千島(主に占守島)に移住し拓殖事業を行った」と記録されている。明治37 (1904)年、日露戦争勃発により会員らと共に海を隔てた露領カムチャッカ半島に進出した成忠は、現地の義勇兵と衝突し、ロシアの捕虜となる。成忠はカムチャッカ監禁中であったが、露領における漁業権の取得を力説した密書を外国船長に託すことができ、密書はポーツマスで露国代表と講和談判中の日本全権小村寿太郎に送達された。この事がポーツマス講和条約に露領漁業権設定の条項を入れる原動力になったと伝えられている。明治38 (1905 )年、日露戦争終結後解放されて帰国した成忠は、露領沿海州水産組合の組合長に推され、日本の漁業権益保護確立に尽力し、露領沿海州と千島周辺海域における我が国の漁業発展の基礎を築いた。大正10(1921)年、成忠は療養のため家族と共に小田原市御幸の浜「妙経寺」境内に借家し、晩年3ヵ年を過ごした。大正13年8月15日病没(享年65歳)。小田原で荼毘に付された後、東京池上本門寺に葬られた。没後に昇叙があり、従六位勲五等双光旭日章を授与された。尚、成忠の五男秀麿と六男清麿は小田原中学校を卒業している。[文責: 十字町ヒストリア]」。「海軍大尉 郡司成忠君」小説家 幸田露伴の実兄 と。北千島の国防と拓殖の必要性を痛感し、明治26(1893)年、自ら予備役となり開拓団「報效義会」を結成。会員を率いて日本領最北端の北千島占守(シュムシュ)島に渡り、北千島の国防と探検と拓殖を行なった。大正10(1921)年、成忠は療養のため家族と共に小田原市御幸の浜「妙経寺」境内に借家し、晩年3ヵ年を過ごした と。「豊田 穣 北洋の開拓者 郡司成忠大尉の挑戦」。「最後に一言、現代の青少年よ、夢を抱き、強烈な気概を持って、気宇雄大な生き方に挑戦してみようではないか・・・・。平成五年十ニ月 豊田穣」と。明治26年3月20日、郡司大尉率いる報効義会の隅田川出航セレモニーを描いた錦絵(画・小国政、明治26年)。無縁墓石が並ぶ。「無縁法界塚」と。「無縁法界塚」碑。無縁法界とは仏教用語で、仏の慈悲は無差別平等に与えられるということ。妙経寺の本堂。妙経寺は、日蓮宗(旧顕本法華宗)の寺院。大乗院日浄上人によって神奈川県足柄上郡大井町(金子村)に開山された。現在は、神奈川県小田原市本町4丁目にある。開山当時は、真言宗寺院であったが、永正(1504~1521)のはじめ、七里法華開教の祖、京都妙満寺十六世日泰が宗祖旧跡拝礼のため関本村に一泊したことにより、真言宗の僧が名を「日浄」〔永正16年(1519)9月8日寂〕と改め、一宇建立のため北条早雲に出願、許され「青陽山大乗院妙経寺」となった。明和8年(1771)火災で全焼、仮堂が再建されるが安永5年(1776)再び焼失した。大正12年関東大震災(1923)でまたも被災した。関東大震災当時、妙経寺で晩年を過ごしていた北洋の開拓者「郡司 成忠(小説家の幸田露伴は弟、初代南極探検隊隊長の白瀬矗は郡司の結成した開拓事業団「報效義会」の会員)墓所は池上本門寺」の手記にも被災したことが記されている。その後現在の伽藍を整備した とネットから。宗派 : 日蓮宗(旧顕本法華宗、什師門流・禹師法縁)名称 : 青陽山 大乗院 妙経寺(せいようざん だいじょういん みょうきょうじ)開山 : 文亀(1501~1504)年間正面に唐破風屋根。「日蓮宗 妙経寺」。扁額「青陽山」。立派な墓地「大慈風」と。「小澤家墓誌」。題目塔「南無妙法蓮華経」が並ぶ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.11.27
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「熊王殿」横の富士見台登口(巡礼路登口)より急な石段を上り「富士見台」を目指す。「富士見台」からの「由比ヶ浜」の先の山。山の斜面に「長谷寺」の大きな屋根が確認できた。「稲村ヶ崎」を見る。そして「富士山」も雲の隙間から。日蓮上人が富士山に向かって法華経を唱えたと言われる場所がここであると。この日の相模湾は波も静かであった。「富士見台」にあった「平和の鐘 南面窟」案内板。案内板に従い「巡礼路」を進んで行った。この日もこの場所は人の姿もなく。根っこで出来た階段を上って行く。そして前方に「平和の鐘」が姿を現した。廻り込んで。「梵鐘」。「立正安国の梵鐘」看板。「人間国宝 香取正彦先生 鋳造この鐘は立正安国と世界平和を祈念し、お題目と立正安国の文字は日蓮上人の御真筆を拝写して造りました。」そして更に「南面窟」に向かって「巡礼路」を進むが、前方はロープで塞がれていてこれ以上は進めなかった。「南面窟」の写真をネットから。安国論寺裏山の中腹にある南面窟は、1260年(文応元年)、日蓮が草庵を焼き討ちされた折、白猿に導かれて最初に避難した場所とされる(松葉ヶ谷法難)。日蓮は、ここから、お猿畠の「法性寺」(逗子市)に逃れたのだと。 【https://4travel.jp/travelogue/10817584】より正面から。 【https://ameblo.jp/oedonoharu/entry-12648999052.html】より窟内の石仏。一番奥だけ岩盤がむき出しとなっているようだ。 【https://www.goshuinbukuro.com/entry/2017/05/16/232327】より。止む無く「巡礼路」を戻り、再び富士山の姿を見る。ズームして。山頂が見えたのでしばし待つが、雲が無くなることはなかった。この寺は???遠く伊豆半島の山々も。再び稲村ヶ崎をズームで。船の姿も。「シーサイドコート逗子望洋邸」も見えた。「富士見台」前方の松も枝が伐採されて、展望への配慮が行き届いていた。この街の中を何度と無く歩いて来たのだと。そして石段を下り「安国論寺」の境内下まで戻る。句碑「亡き母の 遺徳を偲べ 朴の花」。「師嚴道尊そこに道があっても歩かなければ何もならない」と。青木雨彦(あめひこ)の歌碑とのことであったが・・・・・。枝垂れ桜の巨木。毎年、4月には。 【http://blog.livedoor.jp/nori_suke55/archives/57822826.html】より「本堂」を再び。もみじ葉も鮮やかに輝いて。「本堂」の屋根の飾り瓦は牡丹の花(右)。「本堂」の屋根の飾り瓦は牡丹の花(左)。「庫裡」。この石碑は???そして「山門」を振り返り、「安国論寺」を後にした。「鎌倉葉山線」に向かって進むと左手に石鳥居が姿を現した。ここが「大黒堂」。鎌倉市大町4丁目4−17。「庚申塔群」。中央に「北斗尊星」、向かって左に「天鈿女命」、右に「猿田彦大神」と刻みます。文化五年(1808)の銘がついていた。右の石碑には中央に青面金剛像、下に三猿がつくが、風化が激しく、年代など不明。日蓮ゆかりの安国論寺の隣に鎮座する小さな祠で、大黒様が祀られていた。奥にも「庚申塔群」が。左に上辺に日月、中央に青面金剛像、下に三猿(一匹)がかろうじて残っていた。右は中央に「青面金剛」と刻み、向かって右下に「名越講中」、左に「弘化五年」(1848)と刻まれていた。「大黒堂」を振り返る。JR東海道線の「名越踏切」を渡る。既に訪ねた「名越切通」まで1.0km、「長勝寺」まで100mと。そして前方に焼却場「名越クリーンセンター」の煙突が見えた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.02
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国道134号を葉山公園方向に向かって進み、次の目的地の「下山口 神明社」に向かってこの石段を上って行った。まずは「下山口 神明社」の西側にあった境内社?の「稲荷神社」へ。神明鳥居(しんめいとりい)の石鳥居には「令和二年七月 下山口神明社 建立」と朱字で。神明鳥居二本の円柱の上に円柱状の笠木をのせ、下に貫を入れた直線的な鳥居。覆堂 (おおいどう)?の中には朱の社殿が鎮座。その手前にお狐様。朱の社殿に近づいて。そして奥にあったのが「下山口 神明社」。三浦郡葉山町下山口1504。手水舎。右手にあった「社務所」。陶器製?の狛犬(右)。陶器製?の狛犬(左)。社殿。御祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ) 向津比売命(むかつひめのみこと)「下山口 神明社」は森戸大明神宮司様の兼務社で、毎年8月第3日曜日に例祭と神楽の奉仕が行われていると。社殿に近づいて。「社殿」の左側に2つの社が。右手は「御札預り所」。この社の扁額は「恵比寿天」と。格子の隙間から内陣を見る。こちらは神輿庫か?振り返ると、国道134号沿いに石仏の姿が。石仏の手前に案内柱が立っていた。「葉山町指定重要文化財 建造物 神明社の庚申塔」と。歴史を感じさせる4基の庚申塔が並んでいた。一番右の大きな庚申塔。駒型 日月 青面金剛立像 邪鬼 三猿 ニ鶏。この時は、逆光であったので、はっきり解かる写真をネットから。造立年号(塔に刻まれている年月日) 天明元辛丑11月吉日(1781年)碑型、石質、其の他 角柱駒型、安山岩、四基群の内向って右端。大きさ及破損度 高さ172cm(台石を含まず)。幅76cm。破損無し。刻像 一面六臂人身を吊す青面金剛と、日月、二鶏、三猿、邪鬼。青面金剛は中央右手に剣を持ち、 左手はシヨケラと称する人身の頭髪を掴んで吊す。他は法輪、槍、弓、矢を持つ。 兜に蛇を巻き邪鬼の背に乗る。猿は向って右から見ざる、聴かざる、言わざるで、 左右の猿は中央に向き合っている。銘文 正面向って右に年号、同左に「願主当村五組講中」とある。塔の特徴 この塔は葉山町で一番大きい。又蛇頭の青面金剛はこの塔だけである。 かがんだ邪鬼は肉体美の出た優しい姿になっているのは面白い。三猿の左右の猿は、 中央に向き合っているが朗かに見える とこれもネットから。笠付角柱型(笠欠) 日月 青面金剛立像 邪鬼 三猿。正面に「濱里中」、右側面 「宝暦四甲戌九月吉日」(1754)。笠付角柱型(笠欠) 日月 青面金剛立像 邪鬼 三猿右側面 「安政七庚申二月吉日」(1860)唐破風笠付角柱型 青面金剛立像 三猿(三面)。斜めから。背面 不言猿。右側面 不聞猿右側 「當村惣子中」 左側 「奉造立三王廿一社」。左側面 一猿右側 「元禄十二年」と。「氏子会館 災害避難場所 葉山町」案内板。こちらが国道134号からの「下山口 神明社」への参道への石段であった、 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.14
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次私の住む神奈川県藤沢市は、鎌倉市、横浜市戸塚区・泉区、大和市、綾瀬市、海老名市、寒川町、茅ヶ崎市の6市1町と市境を接している。我が藤沢市内の寺社旧蹟巡りはほぼ完了した後、長引くコロナ禍で国内旅行、海外旅行が制限される状況から、隣接する6市1町の寺社旧蹟巡りを決意したのであった。そしてこれまでに「横浜市泉区・戸塚区」👈リンクを制覇しその後「綾瀬市」👈リンクそして「大和市」👈リンク、「鎌倉市」👈リンク、「海老名市」👈リンク、「茅ヶ崎市」👈リンクを完了し、今回の『寒川町の寺社旧蹟を巡る』への〆の挑戦をスタートしたのであった。「寒川町の寺社旧蹟を巡る」のスタートは「海老名市の寺社旧蹟を巡る」の最終日の帰路に立ち寄ることから始まったのであった。正面に「倉見神社」の石鳥居。熊野社(くまのしゃ)と称していたが、明治2年(1869)に神明社(しんめいしゃ)と合併し、倉⾒大神となった。その後、昭和18年(1943)に倉見神社と改称された と。神奈川県高座郡寒川町倉見45−3。石鳥居の扁額「倉見神社」。「倉見神社御祭神 天照皇大神(あまてらすすめのおおかみ) 熊野加武呂伎命(くまのかむろぎのみこと) 倉見大神と称する御由緒 御創建は不詳であるが、小田原北条氏分国の頃、山中彦八郎が倉見村を知行していた折り、神明社・熊野社の両社を勧請し倉見の鎮守として奉斎したのが始りと伝えられる。以後この両社に倉見地域内の数社を合祀し、明治二年「倉見大神」と称す。同六年十二月村社に列せられ、昭和十八年「倉見神社」と改称し、同二十八年「宗教法人 倉見神社」となり現在に至る。往事に於ける社殿の規模などは詳らかではないが、神社所蔵の棟札によって安永三年(1774)六月、氏子一同の寄進を以って神明社の本殿修復並に熊野社の拝殿造営のことが知られる。現在の本殿は、明治二十七年寒川神社が本殿を造営するにあたり旧本殿を譲与され同二十八年移築したものである。尚この本殿は 寛保元年(1741)に造営されたものであり、昭和五十三年寒川町重要文化財に指定されている。拝殿は、平成四年、寒川神社「平成御造営」にあたり譲与を受けたもので、当社の「御大典奉祝記念事業」として建設委員会を組織し、 広く氏子崇敬者からの篤志を頂き、同六年九月に移築されたものである。」「夫婦欅」。「倉見神社本殿(くらみじんじゃほんでん)寒川町指定重要文化財第四号昭和五十三年十ニ月一日指定寒川神社本殿として寛保元年(一七四一)に造営されたもので、明治ニ十八年(一八九五)の寒川神社社殿造営に際し、村社倉見神社本殿として移築されました。十ニ支をはじめ花鳥及び獸等の江戸時代の彫刻が配置されています。夫婦欅(めおとけやき)寒川町指定重要文化財第五号昭和五十三年十ニ月一日指定樹齢三百年と伝えられ、根元から約ニmのところでニ股に分かれているところから夫婦欅とよばれています。幹回りは大きい方が五・ニm以上あり、高さは約ニ十m。天然記念物として寒川町内にその比を見ない巨木です。氏子が夫婦円満を願って育成したものと思われます。」正面に「拝殿」。狛犬(右)。狛犬(左)。左右両方とも歯が見えて、阿形像の如き姿であった。手水舎。社務所。拝殿。拝殿は平成4年(1992)の寒川神社の平成の御造営にあたり譲与されたもので、平成6年(1994)9月に寒川神社から移築されたもの と。扁額「倉見大神」。「拝殿」の正面。「本殿」。寛保元年(1741)に造営された寒川神社本殿(町重要文化財指定)を、明治28年に移築されたもの と。「神輿殿」。扁額「神輿殿」。茅ヶ崎西浜海岸で開催される「暁の祭典 浜降祭」に参加する神輿の姿をネットから。神輿製作年は昭和54年(1979年)と。境内社の「浅間大神(木花之佐久夜比賣命)」が。大きな石碑が正面に。浅間大神を護る大正5年生まれの「狛犬」。阿形像の下顎が欠けていた。阿形像は子狛を連れていた。吽形像は玉を持っていた。その奥に「浅間大神」碑。天正年間(1573年-1593年)、高木甚太郎が倉見村に陣屋を構えていたおり、浅間大神を勧請したと伝えられている。「浅間大神」は、明治16年(1883年)2月、社殿の損傷甚しく、石碑が建立された。昭和60年(1985年)10月には、石碑に亀裂が生じたので、修復されたのだと。「倉見神社」を後にして、次の「行安寺」に向かって進む。新幹線の架道橋・第ニ倉見BVを通過。架道橋とは道路を越える橋梁を指す。略称「BV」で、「Viaduct Bridge」が元になった。「Viaduct」とは高架橋の意。「B」が先、「V」が後として記されている。寒川町の汚水マンホール蓋。町の花「スイセン」を描いたもの。マンホールの円周を三分割したそれぞれの位置からスイセンが生え、中心に向かって伸びて花を咲かせている。円の中心で3個の蕾の先端が触れるが如くに。マンホールの下方には平仮名で「さむかわ」「おすい」と。そして次に「行安寺」の入口に到着。神奈川県高座郡寒川町倉見1873。参道の左側には無数の墓石が並んでいた。合掌する石仏。「子育地蔵尊」であろうか。寺号標石「浄土宗 寶積山 行安寺」。無数の墓石、石仏を振り返る。そして正面に山門。「木造阿弥陀三尊像寒川町指定重要文化財第16号平成3年(1991)4月1日指定中尊は、底部の銘により天正10年(1582)(*)の造立であることが明らかであり、古式の偏袒右肩(へんたんうけん)、典雅な尊顔と尊体、正統的で穏やかな彫技など、中央の桃山風の基準作として重要である。両脇侍(りょうわきじ)は江戸時代の丁寧な後補作とみられる。構造…各 寄木造・玉眼・漆箔(しっぱく)付属品…各 光背・台座」*: 後北条氏家臣の山中氏が倉見を知行していた時代。「木造阿弥陀三尊像」をネットより。像高:42.3センチメートル中尊阿弥陀如来坐像は室町時代の作。両脇侍の観音菩薩坐像、勢至菩薩坐像は江戸時代の作。 山門を潜るとさらに両脇には墓地が続き、墓石が並んでいた。そして「本堂」。寶積山了覺院と号す。「行安寺」は、天正9年(1581年)に阿弥陀堂として創建、徳川家康の旗本高木甚太郎清方(法名寶積院願譽浄林居士)が当地の領主なった際、北条家の家臣で倉見の領主だった山中三河守の子形部少輔(行安院殿宗誉浄定大禅門、天正11年1583年没)の菩提を弔うため一寺となしたという。慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領9石7斗の御朱印状を受領している。大正七年四月建 と刻まれた六角形の石塔。よく見ると6面のそれぞれに異なった地蔵菩薩像が浮彫されていた。これは地蔵様は単独で立つものばかりではないことを表したもので、これを燈篭型六地蔵と呼ばれていると。「本堂」の扁額は山号の「寶積山」。内陣。墓地を見る。境内から「山門」を振り返る。「殉國」碑。「英霊奉斎の銘支那事変及太平洋戦争に一死以て国難に殉じ給いし英霊三十七柱を謹んでこの霊地に斎き奉る。」「孝 陸軍砲兵 勲八等功七級 柳下賢治之墓」と。「昭和十三年五月八日徐州附近ニ於テ名誉ノ戦士ヲ遂グ 享年 二十三才」と。徐州会戦(じょしゅうかいせん)または徐州作戦で亡くなったのであろう。日中戦争中の1938年(昭和13年)4月7日から6月7日まで、江蘇省・山東省・安徽省・河南省の一帯で行われた日本陸軍と中国軍(国民革命軍)による戦い。 日本軍は南北から進攻し、5月19日に徐州を占領したが、国民党軍主力を包囲撃滅することはできなかったのであった。そして再び新幹線・第一倉見川Bを通過する。橋りょう Bは河川や海を渡る橋である。「梁」は常用漢字ではないため、正式文書では「りょう」とひらがなで書かれる。略称のBはBridgeの略。そして「倉見才戸遺蹟」を訪ねた。社宅の建物の敷地内に案内板があった。神奈川県高座郡寒川町倉見2014。「倉見才戸遺跡」案内板。「倉見才戸遺蹟平成3年、社宅の建替え工事にともない発掘調査がされ、平成5年に範囲確認調査、さらに平成6年、平成11年にも住宅開発にともない発掘調査がおこなわれました。調査の結果、一番古いものは今から5,000年ほど昔の縄文土器が発見されています。弥生時代はこの遺跡の中心の時代で、中期から後期( 3~4世紀ごろ)の竪穴住居址が40軒以上も発見されました。なかでも中期の3軒は普通の住居より大型な住居で、県内でもこれほど大きい住居はめずらしいものです。環濠といった村のまわりをぐるっとめぐらせた溝も発見されました。その他、有角石斧や、勾玉、管玉、鉄器といっためずらしいものも出土しました。東海地方や東京湾岸方面に影響を受けた土器も出土し、当時の交易関係が伺えます。古墳時代の竪穴住居址や平安時代の住居址や井戸址や掘建穴柱定物址、溝址なども発見されました。さらに中~近世の溝址や土坑も発見されています。このように、倉見才戸遺跡は過去から現在にいたるまで、絶え間なく生活が営まれてきた場所ということができるでしよう。なお、出土した土器等は文化財学習センター(ー之宮小学校内)で見ることができます。」「大型住居(一次調査)」の上空からの発掘状況の写真。「出土石器〈左から3点目が有角石斧〉(一次調査)」。東に進み右に曲がるとフェンスの中にあった石碑群・「陣屋跡」碑。ここは、江戸時代初期(天正19年(1591))に倉見村を治めた旗本高木清方の屋敷跡周辺と伝えられている。その後同家は江戸に移り住み、この地は畑となりました。「未開の頃、開拓者達が原(はら)と才戸(さいど)の広い地域に「陣屋敷」という御倉屋敷を建て、その立ち並ぶ倉を遠方からながめ「倉見」という地名がついたと言われている。残る石像は、右より第六天、金比羅宮、堅牢地神(けんろうじしん)、道祖神、五輪塔の五つである。」と。中に入り込んで。右から第六天、金毘羅宮、堅牢地神、道祖神、五輪塔。近づいて。「陣屋跡この周辺に、江戸時代初期に倉見村を治めた旗本高木清方の屋敷(陣屋)があったと伝えられています。その規模は「新編相模風土記」によると、東西四十ニ間(76m)、南北ニ十四間(43m)とされています。現在は石造物が寄せられ、右から第六天、金毘羅宮、堅牢地神、道祖神、五輪塔が並んでいます。」大日製罐(株) 湘南工場の前を通過し、さらに今は使われていない住居前を通過。そして次に訪ねたのが「倉見観音堂」。観音寺は昭和28年(1953)~29年(1954)まで中倉見(倉見996番地)に存在した。その後、その地に観音堂として残り、現在に至っている。観音寺と観音堂は併存したのではなく、正式には観音寺だったと。しかし、観音寺があった辺りに「観音堂」という小字や地名が残っているので、地元では寺と堂を区別せずに使っていた可能性があるとのこと。「南無大悲観世音菩薩」碑と右側は解読不能。「観音堂(行安寺末 倉見山観音寺)観音堂は、かっては観音寺と称し、八王子街道と永池川の間、現在の水神宮付近に建てられていた。江戸時代の末頃、旅人の火の不始耒から火事になったが、本尊は焼けぬよう永池川に投げ込まれた。後に本尊は、岩田伝兵衛の網に入り、長崎喜兵衛が土地を提供して、現在の地に安置したという。またこの地は、徳島藩士の長崎玉淵が寺子屋を開き、明治初年まで手習師匠をしたところで、これが明治六年徳彊(とくきょう)学舎に発展、明治九年倉見学校と改称された。明治十年旭学校(現在の北部文化福祉会館の地)ができるまで、教育の場としてここて多くの子弟が育った。」「銅造千手観音立像(本尊)寒川町指定重要文化財第十八号平成四年九月一日指定本尊は、小像(像高ニ〇・八cm)にもかかわらず丁寧で、細面の尊顔、宝髻(ほうけい)、頂上仏面等がよく表現されている。また尊体には奥行があって均整よく、動きがあり近世作には認め難い味わいが感じられる。制作は室町時代と考えられる。」そして次に訪ねたのが「日吉神社」。倉見日吉神社の創建年代等、詳細は不詳、個人所有の社とのこと。その先に小祠があった。神奈川県高座郡寒川町倉見2215−5。そして進んでいくと新幹線の高架橋がありここを潜る。JR相模線の「倉見駅」に到着。「JR倉見駅・1926年(大正15年) 4月1日:寒川駅から相模鉄道線が延伸開業し、その終着駅として開業。 7月15日:貨物取り扱いを開始。相模鉄道線が厚木駅まで延伸開業。・1944年(昭和19年)6月1日:相模鉄道が国有化され、運輸通信省(後の日本国有鉄道) 相模線の駅となる。・1961年(昭和36年)2月1日:貨物取り扱いを廃止。 相模川の砂利採取用の専用線が厚木方へ(現在途中まで遊歩道になっている)、トロリー線が 茅ケ崎方へそれぞれ続いていた。トロリー線で運搬された砂利を貨車に積み込むホッパーも 駅構内にあった。・1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、JR東日本の駅となる。・2001年(平成13年)11月18日:ICカード「Suica」供用開始。・2016年(平成28年)2月12日:出札窓口の営業を終了。・2月21日:多機能券売機設置。同時に茅ケ崎駅の遠隔管理による無人化を実施。・2021年(令和3年)3月18日:エレベーターを設置。相模線を跨ぐように走る東海道新幹線には将来、当駅付近に新駅を設置する構想がある。また、相鉄いずみ野線(二俣川駅〜湘南台駅)が湘南台から当駅周辺まで延伸される構想もある」とウィキペディアより。「倉見駅相模線は、大正10 (1921)年9月、茅ヶ崎一寒川間で開業したのを皮切りに、大正15 ( 1926 )年4月に倉見まで、同年7月に厚木まで線路を延ばし、昭和6 (1931)年4月に橋本まで全線開通しました。このなかで、倉見駅は、大正15年に開業した当時の建物を今もそのまま使っていて、現存する相模線の駅舎の中で最も古いものです。駅舎だけでなく、ホーム、倉庫などすべてが鉄筋コンクリート造りでした。関東大震災直後ということもあって、地震や火事に備えるために建てられたのですが、補蓚費の軽減もねらい、当時としては大変画期的なことだったといわれています。」昭和6 (1931)年4月に橋本まで全線開通した時の写真であろうか。当時の「倉見駅」。「倉見駅」入口。有害図書追放ポスト「てんとうむしポスト」。有害図書を回収するために町青少年環境浄化推進協議会が40年ほど前設置したもの。名前の由来は、害虫のアブラムシを食べてしまうてんとう虫。寒川駅とここ倉見駅の「てんとう虫ポスト」が、役目を終え2月中旬に撤去されたとのこと。そして次に訪ねたのが「釣って見つけるぼうけんの国 湘南釣堀」。神奈川県高座郡寒川町倉見935−1。2020年7月リニューアルオープン。釣りとトレジャーハントを一緒に楽しめる、全天候型屋内施設。海水・淡水・カニ・ヤドカニなど、色々な魚釣りが楽しめる。海水魚は近くの寿司屋で調理してもらえる(別料金)小さい子供はヤドカニやカニ釣りが楽しめるのだと。料金表。原則はキャッチ&リリースであるようだ。「寒川水族館」にも立ち寄った。神奈川県内でも規模の大きい魚を含めたペットショップ。熱帯植物等も販売していた。様々な熱帯魚をしばし楽しむ。熱帯・観葉植物。この日の最後に訪ねたのが「倉見水神宮」。正面から。右側の石碑は草競馬の「名騎手 相模五郎」碑。更に近づいて。「倉見水神宮」。「水神宮(すいじんぐう)水神宮は水禍難を除くために川、泉などの水辺に祀られます。この水神宮は、相模砂利株式会社が昭和4年4月に建立したものです。この地はかつて、観音堂(現在は中倉見)が焼失した時の灰を集めた灰塚とよばれていた地です。「相模五郎の碑」は明治の終り頃、倉見にいた本名須田亀助という名騎手を記念して建てられた碑です。娯楽の少ない時代に馬力馬(農耕馬)による草競馬は楽しみで、「競馬の五郎親分」と人気がありました。」 ・・・つづく・・・
2022.06.29
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「本堂・帝釈堂」前の日蓮の銅像は、高村光雲作。日蓮が松葉ヶ谷法難の際に帝釈天の使いである白猿に助けられたことから、帝釈天出現の霊場として知られる。長勝寺、安国論寺、妙法寺の3つの寺は、いずれも、日蓮が鎌倉に来て最初に庵を結んだところとされている。この「日蓮聖人像」は、東京都大田区の洗足池の畔に置かれていたのだと。生誕700年の1922年(大正11年)、日蓮は大正天皇より「立正大師」の号を賜り、翌年、それを記念して洗足池に建てられたのがこの像だった と。お顔にズームして。仏教における4人の守護神である「四天王」のうち「大持国天王」。東方の世界を守護する神であり、甲冑(かっちゅう)と種々の天衣(てんね)を着け、右手は腕を伸ばして刀を持ち二夜叉(鬼)の上に立つ。「大毘沙門天王」。北方の世界を守護する神であり、形像は甲冑(かっちゅう)を身に着け、憤怒(ふんぬ)の相をし、左手に宝塔を捧(ささ)げ、右手に宝棒を執(と)り、二夜叉(鬼)の上に立つ。「大増長天王」。南方の世界を守護する神であり、左手に先に3つに分かれた刃がついた三叉戟を持ち、右手に宝塔を持ち大きく振り上げている姿をして憤怒相(ふんぬそう)で表される。「大廣目天王」。西方の世界を守護する神であり、左手に先に3つに分かれた刃がついた三叉戟を持ち、右手に羂索を持ち、二夜叉(鬼)の上に立つ。「六角堂」この六角堂には日蓮の遺歯が祀られていると。扁額「久遠」。「帝釈天堂」。長勝寺は、日蓮に帰依した石井藤五郎長勝という武士が、自邸を寺にしたといわれている。その時の名は本国寺といった。のちに、本国寺は、京都の六条河原に移され、その跡地に再興されたのが長勝寺だという。扁額「帝釋尊天」。「内陣」。日蓮像。「帝釈天堂」前から日蓮像、四天王の後ろ姿を見る。十六重石塔?に見えたが・・・。鎖樋と天水桶。黄金色の「吊り灯籠」。「本師堂」入口にあった小さな御堂。台座には「三世常住」と刻まれていた。過去・現在・未来の三世にわたって永遠不変に存在すること と。石段上にある「本師堂」。本師堂(八角堂)にはタイ国からの釈迦像が安置されていた。扁額「本師堂」。「泰安 本邦最初タイ国渡来金色釋尊像縁起當八角円堂に安置する釋迦牟尼世尊(八尺御座像)は私の敬愛する早坂太吉様並に御當山住職、久村日鑒猊下を通じて佛都鎌倉の名刹長勝寺に末永く奉祀せられ、この御佛の御魂と神通力により日本中から世界各国から詣らるる人々の上に、平安と幸運がもたらされるよう入魂開眼して奉献していただいたのであります。 昭和六十年六月二十四日 訪日開眼式の砌(みぎり) タイ国立 ワサケ寺 大僧正 スリウイスメスイ」「内陣」。タイ国渡来の黄金の「釋迦牟尼世尊(八尺御座像)」。「本師堂」の八角堂と「法華堂」の間にある「鐘楼」。「梵鐘」。「本師堂」の裏にあった「赤木圭一郎の胸像」。墓の奥にあった「赤木圭一郎氏の墓」になんとか辿り着いた。名越クリーンセンター焼却場の煙突が見えたが、残念がら富士山の姿はこの日は。戻ると墓地には大きな石塔が。「永代特別大本願位 至誠院法諦剛道日真大居士之碑」と。「鐘楼」前、「法華堂」手前の石仏群。「法華堂」が前方に。「法華堂」前の聖観音菩薩像。ここにも。「法華堂」が正面に。扁額「法華堂」。「法華堂」への石段を下り振り返る。タイサンボク越しの六地蔵。。タイサンボクの花を再び。地蔵菩薩立像を再び。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.26
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「修善寺」にあった「修禅寺」を後にして、国道136→414号を南下して次に訪ねたのが「青埴神社(あおはにじんじゃ)」。「JAふじ伊豆 狩野支店」の駐車場に車を駐めさせていただき散策開始。静岡県伊豆市青羽根138石鳥居を潜り坂道を上って行った。二の鳥居。手水場。その先、三の鳥居の右側にあったのが伊豆地方で最大の「県指定天然記念物:シダレモミジ」。100年以上前、伊豆市青羽根地区の小川家(屋号は松屋)の祖先より、自宅敷地内にあったものを寄進されたと伝わっているのだ と。「静岡県指定天然記念物青埴神社の枝垂イロハカエデ(昭和五十八(一九八三)年九月二十七日 指定)青埴神社の祭神は建御名方命で、明治三十九(一九〇六)年、合祀に伴い現在の社号となりました。「青羽根」の地区名は、もともと凝灰岩などが風化し、青色の粘土が多かった「青埴」という地名から変化したものです。イロハカエデは、ムクロジ料カエデ属の落葉高木で、イロハモミジの別名です。このイロハカエデは枝が垂れる品種で、樹齢は推定一八〇年~ニニ〇年、目通り1.9m、樹高4.5m、枝垂れの高さは7. 7mもあり当地最大のものです。紅葉の時期は多種よりやや遅く、その枝葉は四季それぞれの趣があります。 令和4年(2022)年3月 静岡県・伊豆市教育委員会」下部には「御神木指定証」が。石垣の上の「青埴神社の枝垂イロハカエデ」を見上げる。近づいて。三の鳥居の正面から。石段の左側にもやや小振りの「枝垂イロハカエデ」が。狛狗(右)。狛狗(左)。「本堂」に向かって石段を上って行った。この日の「枝垂れイロハモミジ」の色合いは、既にエピローグに向かっていたが、紅葉の最盛期には下記の写真の如くに とネットから。未だ緑の残る枝も。推定樹齢140~180年、県の天然記念物に指定されている青埴(あおはに)神社の「シダレイロハカエデ(枝垂れモミジ)」👈リンク。これもネットから。石垣を覆い隠す見事な枝垂れイロハカエデの紅葉。石段を上ると正面に拝殿。拝殿の挙鼻・龍折角の彫刻が電灯で隠されているのが残念!!拝殿の木鼻・獅子と象(右)。拝殿の木鼻・獅子と象(左)。拝殿前から「狩野ドーム(旧天城ドーム)」を見る。伊豆市にあるドーム型スポーツ施設。伊豆市の中でも1番大きく、バスケ2面、バレー3面、バドミントン10面、卓球12面も確保できる大型総合体育館。トレーニングルームもあり個人の利用にも適した体育館 と。推定樹齢140~180年のシダレイロハカエデ(枝垂れモミジ)を拝殿前から見下ろす。紅葉の葉をズームして。今年の色合いはやや黒ずんで残念。拝殿の前から、北東方向の伊豆の山々を望む。ズームして。「拝殿」の後ろには、天保8年1837(1837) 建造の一間社流造こけら葺本殿の覆い屋が。そして急な石段を下る。「県指定天然記念物:シダレモミジ」も見納め。そしてニの石鳥居に向かって境内を進む。振り返って。これでもかと。ニの石鳥居の先に社務所。一の石鳥居の先に「狩野ドーム(旧天城ドーム)」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.14
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク5番札所:地蔵寺大日寺から5分ほどで5番札所・地蔵寺に到着。山門は単層。青い文字で「無尽山 」書かれた扁額が。左右に色鮮やかな多聞天、持国天の二天像が見張っていた。向かって右は口を閉じた宝棒を持つ持国天・吽形像。ここの仁王様は逆に配置?されていた。向かって左に金剛杵を持ち口を開いた多聞天・阿形像。地蔵寺 境内配置案内図。境内。山門を入って行くと右に大銀杏がありその先で石畳が交差。左に進むと左手に手水鉢があり、正面奥に本堂が建つ。その右手には不動堂・恵比須堂があり、石畳を戻ると手水鉢の向かいに水琴窟のある水子地蔵尊がある。大師堂は本堂に向かい合わの位置にある。大師堂の右に淡島堂がある。納経所は山門の正面にある庫裏の右端である。庫裏の左前には八角堂が。弘仁12年(821)嵯峨天皇の勅願により弘法大師が開創された。本尊は弘法大師が自ら彫ったという1寸8分(約5.6cm)の勝軍地蔵であったが、宇多天皇の頃、浄函上人が熊野権現の神託を受け、霊木で2尺7寸(約88cm)の延命地蔵菩薩の像を造り、大師御作の勝軍地蔵を胎内に納めたと伝えられると。修行大師像。鐘楼。「淡島堂」は和歌山県にある淡島神社の分身とされ、万病封じの守護神。「たらちね大銀杏」は樹齢800年を越えるといわれる大木。太子堂。これも弘法大師像か?庫裏入口。方丈。八角堂。手水舎。先祖供養地蔵尊。本堂。嵯峨・淳和・仁明の3代の天皇の帰依が篤かった。熊野権現の導師であった函上人が、権現の霊木に2尺7寸(約80cm)の延命地蔵尊を刻み、大師が刻んだ地蔵菩薩を胎内に納めたという。本尊が勝軍地蔵というところから源義経などの武将の信仰も厚くかった。当時は伽藍の規模も壮大で26の塔頭と、阿波・讃岐・伊予の3国で300あまりの末寺を持ったという。しかし、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火によりすべて焼失。江戸時代、徳島藩主蜂須賀氏により再建された。無尽山 荘厳院 地蔵寺(むじんざん しょうごんいん じぞうじ)宗派 高野山真言宗 本尊 延命地蔵菩薩 創建 弘仁12年(821年) 開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県板野郡板野町羅漢字林東5 本尊真言 ”おん かかかびさんまえい そわか” 境内から大銀杏、山門を。本堂正面横には、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)、通称「おびんつるさん」が祀ってあった。奥の院「五百羅漢」は地蔵寺の北側、階段を登った先にあった。安永4年(1775年)に実聞・実名という兄弟の僧によって創建された。なお、五百羅漢とは、「釈迦入滅後の第1回の経典結集(けつじゅう)、および第4回結集のときに集まったという500人の聖者。また、その像。」参道の階段を登っていけば、五百羅漢入口へ。羅漢堂は、コの字型の回廊となっていた。回廊途中に五百羅漢が並んでいると。回廊の真ん中に位置する釈迦堂。釈迦堂内部。奥の院・大師堂。ここが回廊の終着点。羅漢堂入口階段から地蔵寺境内を見る。地蔵寺 納経所。納経所の壁にはお遍路のポスターが。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------6番札所:安楽寺県道13号線を進むと右手に六番札所・安楽寺の駐車場があった。駐車場の中の小高い植え込みの中には修行大師が。 安楽寺へ向かう入口左にも大師蔵「思案之大師」 。この弘法大師像の像の左には「済世利人思案之大師」と書かれ、台座には「四国六番安楽寺」と大書されていた。通常の修業大師像は、笠をかぶっているが、この像は、笠を外していることが特徴か?そしてこの像の足下には歩き遍路の思案の姿も。中国っぽい作りの山門。白壁の竜宮門形式で上層が鐘楼になっていた。門の左右の切妻造建物内に金剛力士(仁王)像が安置されていた。 金剛力士(仁王)像 阿形像。 吽形像。 安楽寺 境内配置案内図。 手水場。地蔵の後ろに「逆松・さかまつ」。なんでも、修行中の空海が弓矢で射られそうになったところ、矢が松の枝に刺さったと。空海はその折れた松の枝を逆さに植えて、無事に育ったらこの地は栄えると。もちろん松は立派に育って今に至るとのこと・・・・であったが最近何故か切断された模様。 太子堂。太子堂内部。安楽橋手前からの多宝塔。 多宝塔の周囲では、八十八ヶ所霊場のお砂踏みもできるようになっていた。紅葉に時期には多宝塔が映えるのであろう。 多宝塔内部。 本堂。本堂の前には拝殿があるのは珍しいのでは。 寺伝によれば弘仁6年(815年)に現在地よりおよそ2km離れた安楽寺谷に、空海(弘法大師)が堂宇を建立し薬師如来を刻んで本尊としたと。天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火により焼失。万治年間(1658年 - 1661年)に駅路寺であった瑞運寺を併合して現在地に再建。本尊薬師如来坐像は、昭和37年(1962年)当寺の住職にすすめられて、妻の難病平癒祈願のため四国遍路を続けていた夫婦が、遍路途中に病気平癒をした報恩のために奉納したもので、43cm程の古来の本尊を胎内仏として納められていると。 屋根の左右に金の鳳凰。 「温泉山」 と書かれた扁額。大師堂前から湧き出る宿坊の温泉とラジウム鉱泉入りの薬湯も有名であると。彫刻も見事。 本堂内部。温泉山 瑠璃光院 安楽寺(おんせんざん るりこういん あんらくじ)宗派 高野山真言宗 本尊 薬師如来 創建 弘仁6年(815年) 開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県板野郡上板町引野字寺ノ西北8 本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 願い棒修行像。この寺には願い棒修行というのがあると。年齢ごとに決まってる数の棒を持って、お経を唱えながらこの大師像の周りを回るのだと。大師駒つなぎ石。本堂横の書院風の建物の前に、堂々たる巨石が横たわっていた。石の頂部には浅い穴がくり貫かれ、そこに大きな柱状の石がはめ込まれていた。聖徳太子が馬の手綱をここに結わえたのだと。その横には「源泉井戸」。金泉と銀泉の上には童観音が。本堂の横側の建物の造りも見事で美しかった。 西国三十三観音。 慈母観音。 境内の池には大きな鯉がのんびりと。 竹林の前の宝篋印塔? 池の周囲を散策。 池からの境内、山門。 巨大な石塔。 四国八十八箇所モデルトイレ 。「オンクロダノウ ウンジャク」トイレ掃除をする時オンクロダノウ…を唱えると良いと。遍路途中のトイレでも勉強しました。いつもより一歩前に出て、業を達しました。 温泉付きの宿坊。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.10.24
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【友愛数】(ゆうあいすう、英: amicable numbers)とは、異なる 2 つの自然数の組で、自分自身を除いた約数の和が、互いに他方と等しくなるような数をいう。親和数(しんわすう)とも呼ばれる。最小の【友愛数】の組は (220, 284) である。220 の自分自身を除いた約数は、1, 2, 4, 5, 10, 11, 20, 22, 44, 55, 110 で、1+2+4+5+10+11+20+22+44+55+110=284、和は 284 となる。一方、284 の自分自身を除いた約数は、1, 2, 4, 71, 142 で、1+2+4+71+142=220、和は 220 である。それぞれ相手と一致する。【友愛数】はピタゴラス学派の時代にはすでに知られていた。現在まで知られる友愛数の組は、すべて偶数同士または奇数同士の組である。(220, 284) の次に求められた友愛数は (17296, 18416) である。この友愛数はそれ以前にも求められていたが、フェルマーにより再発見された。2番目に小さい友愛数(1184、1210)が発見されたのは、1866年にニコロ・パガニーニという16歳の少年によるものだった。その後、オイラーにより 60 余りの友愛数が求められているがこのオイラーをもってしても、2番目に小さい友愛数を発見することができなかったということになる。なお、自分自身を除いた約数の和が元の数と等しい場合には、「完全数」と呼ばれる。自分自身を除いた約数の和を次の数として同じように計算していき元の数に戻る場合には、その組を「社交数」という。【友愛数】の例友愛数の組を小さい順に列記すると(220, 284), (1184, 1210), (2620, 2924), (5020, 5564), (6232, 6368), (10744, 10856), (12285, 14595), (17296, 18416), (63020, 76084), (66928, 66992), …17世紀中ごろに、フェルマが「17296」「18416」を、デカルトが「9363584」「9437056」を見つけ、18世紀には、L=オイラーが友愛数を探し出すための法則を考え出すことによって、60組み余りを発見した。現在は、こうしたオイラーの法則やコンピューターを用いることによって、多数の友愛数の組が確認されており、2018年1月1日現在においては、12億以上の友愛数の組が発見されているようである。「1000万以下の友愛数」👈リンク。未解決問題・友愛数の組は無数に存在するか?・偶数と奇数からなる友愛数の組は存在するか?友愛数を作り出す法則 たとえば、n=2 を以上 3つの式に代入してみると、 p=5 、 q=11 、r=71となり、p,q,r すべてが素数になります。 よって友愛数(220、284)を求めることができました。 n=3 のときは r が合成数になるためダメですが、n=4 のときは p、q、rすべて素数に なるので、代入して計算すると、【友愛数】 ( 17296 , 18416 ) を求めることができます。そして、【友愛数】の概念については、さらに一般化された概念が存在している。例えば、「友愛三数(amicable triple)」というのは、「三つの数字のうちのどれかひとつの自分自身を除いた約数の和が、残り二つを足したものに等しくなるという関係にある数字の組」のことをいう。具体的には、(103340640、123228768、124015008)がその例となっている。即ち、以下の関係が成り立っている。103340640の(自分自身以外の)約数の和 247243776=123228768+124015008123228768の(自分自身以外の)約数の和 227355648=103340640+124015008124015008の(自分自身以外の)約数の和 226569408=103340640+123228768このような概念は、さらに一般的にn個の数字の組に一般化されていくことになる。数字を巡る世界は、興味・関心の幅を広げていくと尽きないものになっていく。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.31
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長男のパートナーが妊娠しましたので、先日安産祈願のお守りを戴きに鎌倉まで行ってきました。場所は鎌倉駅東口からすぐ若宮大路に面した、徒歩三分の距離にある寺・大巧寺(だいぎょうじ)。おんめさまの名で親しまれています。 本尊は産女霊神(うぶすめれいじん)といって安産にご利益があると有名寺の入口には『安産 子育 産女霊神 長慶山 大巧寺』 と刻まれた石碑が。山門。もともとは大行寺という真言宗の寺でしたが、源頼朝がこの寺で軍議を行ったところ大勝をおさめたため、その後「大巧寺」(だいぎょうじ) という名前に改名されたとのこと。 大巧寺は、古くから「おんめさま」という名前でも親しまれているが、もともと境内に祭られている「産女霊神」を指す「お産女様」(おうめさま)が訛り、「おんめさま」と呼ばれるようになったのだと。 本堂への参道の両側には、アガパンサスの青い花が。 まずは手水舎でお清め。 本堂は改修工事中。 寺務所受付で安産祈願のお願いを。 妻から、おんめさまでの安産祈願に予約は必要なしと。直接、寺に行き、本堂横の受付で氏名、年齢、住所、予定日などを説明すると台帳に記入してくれ、出産予定月末日まで住職さんが毎朝安産祈願してくださるのです。そして安産御守セットを戴きました。 そして、妻が本人の手元に送ったのです。メールでそのお守りの中身の写真が送られてきました。左から産婦の髪を結ぶ「麻紐」、腹帯に入れる「腹帯守」、予定月の1日と出産時に頂く「妙符」そしてお祀りして保管する「御札」のようです。おんめさまの「妙符」については、中の米を包んでいる紙が白い兜なら男の子、赤い金魚なら女の子、という言われがあるとのことですが、中の紙の色は?そしてお礼参り時に御供米(ごくまい)を袋に入れ、それに御灯明料(みあかしりょう)を添えて納めるようです。そして説明書も入っていたようです。帰路に参道を再び。アガパンサスの青い花と右手前には白いラッパ状の大きな花を咲かせている浜木綿(ハマユウ)が見送ってくれたのです。初産の出産予定日は年末の最終週なのですが・・・・・。赤ちゃんの健やかな成長と、これから夏本番、暑さに負けずお腹の赤ちゃんとの夏を楽しんで欲しいと願っているジジババなのです。
2016.07.14
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10年以上に渡り途切れることなく続けていた「海外旅行」が、この新型コロナ禍にて途絶えてしまったここ1年以上、更に緊急事態宣言で不要不急のが外出も自粛せざるをえない今日この頃です。よってテレビで旅行気分を味わおうとしていますが、先日のNHK・BSP放送にて「空からのクルージング特別編 ポルトガル・世界遺産を巡る旅」が再放送されていましたのでこの番組を録画しその映像を我がデジカメで撮影しました。ポルトガルは2019年2月に8日間の旅をしましたが、その旅行にて訪ねた場所、しかし建物の中まで見学できなかった場所、そして旅行コースに入っておらず訪ねなかった場所等が放映されていたのです。しかも旅行では自分で眼にすることが出来なかった景色が、小型ドローンにより上空からの映像・写真で紹介されていたのでこれを十分楽しみながら、想い出を懐かしく振り返る事が出来たので、ここに紹介します。まず最初は、もちろん「訪ねた」👈リンク ユーラシア大陸最西端の岬である「ロカ岬」。北緯38度47分、西経9度30分。西には大西洋が広がり、その遥か先にはポルトガル領のアゾレス諸島がある。ここには、ポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの叙事詩『ウズ・ルジアダス』第3詩20節の一節「ここに地終わり海始まる(Onde a terra se acaba e o mar começa)」を刻んだ石碑が立っていた。チョコンと白い十字架を乗せた記念碑が建つのは、140mもある断崖絶壁の上。周りは綺麗に整備された石畳の広場のようになっており、緑の絨毯の中を、遊歩道が巡っていた。18世紀に建てられ、今も現役の赤い屋根の灯台。こちらはカモンイスの記念碑より少し高い160mの断崖上に広がる緑の絨毯の中に建っていた。また、有料だがユーラシア大陸最西端到達証明書がある。5ユーロと10ユーロのタイプの証明書があり、どちらにしても証明書には名前・日付などが入り、裏面には主要国の言葉で書かれた上記の詩が書かれたものを入手することが出来たのであった。その時に手に入れた「ユーラシア大陸最西端到達証明書」の写真。私の名前と訪ねた日・2019.Fev.12の文字が。そして次は訪ねなかった「ギマランイス(Guimarães)」。ギマランイスは、ポルトガル北西部のブラガ県にある都市。ポルトガル王国初代国王アフォンソ1世(アフォンソ・エンリケス)が当地で誕生していることから、ポルトガル発祥の地、ポルトガル王国の発祥地と呼ばれる地。2001年、世界遺産に登録されたギマランイスの旧市街には、アフォンソ・エンリケスが誕生した「ギマランイス城」、そのいかにも堅固な石造の城の下には、洗礼を受けたサン・ミゲル教会など、ゆかりの場所が点在していると。この地を治めていた伯爵の宮殿として10世紀に建造。高さ28mの塔をはじめ、七つの塔をもつ。初代ポルトガル王アフォンソ1世(アフォンソ=エンリケス)が生まれた場所として知られる。12世紀、イベリア半島にはイスラムの小国が乱立していた。キリスト勢力アフォンソはイスラム勢に次々と勝利し、領土を回復、1143年ポルトガル王国が誕生した。王国は20世紀初頭まで続いた。城壁と中央の高い塔(写真の左)が残っていて、両者をつなぐ木造の橋が一か所架けられていると。そして大西洋に向かって南下。そして強く「印象に強く残っている街「ポルト」」👈リンク。ポルトの創設は5世紀より以前にさかのぼり、ローマ帝国時代からの港町ポルトゥス・カレ(ラテン語でPortus Cale、「カレの港」の意)に起源をもつ。だが、ローマ以前のケルト文化の名残であるシタデルも市外の中心にも残存している。ローマ時代の周辺をコンダドゥス・ポルトカレンシスといい、ここに成立した王国が、ポルトガル王国となった。ポルトガルの名はこれに由来する。「ドウロ川」に架かる、ポルトのシンボルともなっている「ドン・ルイス1世橋」。ポルトの中心部とヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区を結んでいる。 ギュスターヴ・エッフェルの弟子の一人、テオフィロ・セイリグが設計し、1881年から1886年の間に建設された。エッフェルはポルトにある別の橋、マリア・ピア橋の建設に携わっていた。1886年10月31日、ポルトガル王ルイス1世が出席して開通式を迎えた。「ドン・ルイス1世橋」は幅8mの2階建て構造になっている。上層の長さは395mで、下層の長さは174mである。現在上層は歩行者とメトロ用に、下層は自動車と歩行者用になっていた。メトロの走る長さ395mの上層の橋を徒歩で往復したのであった。そして世界遺産の「ポルト歴史地区」。国名の由来となったポルトガル第二の都市。「ドウロ川」には酒樽を積んだ舟が浮かぶ。甘く濃厚なポートワインの運搬に用いた。18世紀に盛んにイギリスに輸出された。「ドン・ルイス1世橋」の下流側には自動車専用道路橋「インファンテ橋」が。正式には、インファンテ・ドン・エンリケ橋(Ponte Infante Dom Henrique)で、エンリケ王子の名前をつけて、通称ではインファンテ橋と呼ばれている。この橋は2003年に開通したと。右の高台の鐘楼はグレゴリウス教会のもの。高さ70m、18世紀バロック様式。左の高台はポルサ宮殿。我々の観光は、「サン・フランシスコ教会」は外部からの見学だけであった。質素な外観に比べ、内装は当時植民地だったブラジルから運んできた200kgもの金で彫刻を覆い尽くしていて贅沢。これはターリャ・ドゥラーダと呼ばれる、バロック様式の金泥細工による内部装飾。長い身廊は、ゴシック建築末期の傑作といわれているのだと。一面の金泥細工は18世紀に施されたと。当時、植民地のブラジルで金が発見され、金をふんだんに使った内装が流行した。慶長元年に長崎で殉教した長崎26聖人の祭壇。豊臣秀吉によって弾圧を受け長崎で殉教した人々を刻んだ祭壇。キリストの系図 「ジェッセの樹」聖所に登場する人物たち。樹の枝、一段目右には巨人ダビデ王、左にはその息子ソロモン王、トップに立つのはヤコブの子、聖ジュゼ(ヨセフ)、その両脇には聖母マリアの父ジョアキン(ヨアキン)その左は聖母マリアの母、サンタ・アナ。頂上には聖母マリアと幼いキリストがいると。この多彩色の木工細工は、フィリペ・ダ・シルヴァとアントニオ・ゴメスの手で彫られた。ユダヤ王国の12人の王たちとイエスの家系図は、イサイ(ダビデ王の父親)の横臥像とつながる。木のてっぺんには聖ヨセフがおり、下に聖母子の彫刻がある。壁のくぼみには聖アンナと聖ジョアキン(聖母マリアの両親)、『無原罰の御宿り』について記した4人のフランチェスコ会士の像が収められている。正面は主礼拝堂バロック様式であるターリャ・ドゥラーダ(金泥細工)と呼ばれる金箔で覆われた彫刻で彩られた主礼拝堂。バロック の語源はポルトガルのBarocco (歪んだ真珠)だそうで、元々は ”グロテスクなまでの装飾過剰” に対する蔑称だったのだと。そして、ポルトを流れるドウロ川は大西洋に注ぐ。スペインのソリア県を水源とし、スペイン北部を流れポルトガルに入り、名を変え、ポルトから大西洋に注ぐ。全長は897kmであり、ポルトガルを流れている部分においては軽い船なら航行可能である。川の名前は、ケルト語で水を意味する"dwr"から来ていると考えられると。 ・・・つづく・・・
2021.01.24
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そして次に「三嶋神社」を訪ねた。右手に石造りの一の鳥居が。横浜市泉区岡津町2352。この周辺は「岡津城」が有った場所であると。一の鳥居に前、横浜市立岡津小学校への裏門前のこの盛り上がった場所が「岡津城」の土塁のようであった。城跡は、標高59m、比高(ひこう)40mであったと。岡津城は扇谷上杉氏・上杉定正の養子、上杉朝良の居城。1512(永正9年)には相模に進出した伊勢宗瑞(北条早雲)によって攻略された。早雲は岡津城を江戸衆の太田大膳亮に与えた。1590年(天正18年)に北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入封したのちは彦坂元正が当地の代官として赴任し、岡津陣屋が置かれたが、1606年(慶長11年)に改易されたため陣屋も廃さた。現在城址は本丸跡が三嶋神社の北側上方には横浜市立岡津中学校のグラウンドになっており、曲輪跡とされる三嶋神社の前には土塁を確認することができる。また陣屋が築かれたのは横浜市立岡津小学校のあたりで、ここが岡津城の最下段の曲輪で、近くにかかる鷹匠橋と呼ばれる青い橋が大手道とされていると。そして再び「三嶋神社」の一の鳥居を潜る。石造りの扁額「三嶋神社」。そして二の鳥居。この鳥居は六脚の両部鳥居であった。左右に石灯籠が。右手の手水舎。水盤には手造りの屋根が。目的は??そして正面に「社殿」。岡津全域の鎮守さまで、天文5年(1536)に創建と伝えられ、祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)。天正18年(1590)に今の岡津小学校地に陣屋を築いた代官頭の彦坂小刑部(こぎょうぶ)元正をはじめ、その後の岡津村の領主は守護神として三嶋神社を信仰した。昭和47年(1972)まで神社の参道は県道から鳥居まで真っ直ぐで、岡津小学校は神社の参道を校庭として借りていたのだと。扁額は「三島大明神」。「社殿」前から境内を見る。階段下を真っ直ぐ進むと、参道であるが横浜市立岡津小学校のグランドを横断していたのであった。「由緒御祭神 大山祇命(おおやまずみのみこと)開拓 農耕 治水 山の神社創建 創建の年代と創健者は明らかでないが和銅六年(七一四)奈良時代相模国風土記に 鎌倉郡中川村字岡津三嶋神社として文献にある。再興 天文五年(一五三六)室町時代乱世の代より多くの武人・農民が岡津の地に住み 心の拠り所として祭事を行った。天正十八年(一五九〇)安土桃山時代、時の 代官が守護神として社を造営整備信仰につとめた。 文化四年(一八〇七年)江戸時代名主四人世話人九人により社を再建昭和四十四年 (一九九九年)昭和時代旧社殿は建立後約百六十年経過し修復も難しくなり地域の 人々の浄財を仰ぎ現社殿が新築されました。御祭典 一月一日 元旦祭 九月七日 例大祭 十一月十五日 七五三祝 十一月二十三日 新穀感謝祭 三嶋神社」神楽殿。社務所。「皇紀二千六百年記念植樹之碑」。石の社があったがやや荒れ果てて。「奉納」と書かれた石碑もあった。「岡津城」に関連した石塔であろうか。そして次に小高い山上にある神社に向かった。神社への坂道から新たに出来る工事中の道路を見る。「阿久和川」に向かう直線のバイパス工事の様であった。正面に小さな神社。小さな「稲荷社」社殿。朱の鳥居の前右にあったのが「庚申供養塔」。「文字庚申供養塔」で寛政八(1796)年の文字が。双体道祖神昭和四十五(1970)年に移設と有るだけで年代は不明。そして来た道を戻り「阿久和川」を渡る。橋の名は「伊勢堰橋」。県道401号線に突き当たり左折して進むと直ぐにあったのが「岡津町」交差点。ここを右折して坂を上って行く。この道路は横浜市営地下鉄ブルーライン(1号線)の「踊場駅」方面への道で、道路の両脇には様々なファミレスが賑やかに並んでいた。南に進んで行くと道路脇の花壇の菜の花が美しく。そして次に訪ねたのが右手にあった高野山真言宗「光應山 普光寺(こうおうさん ふこうじ)」。この寺は「光應山 東光院( とうこういん) 普光寺」といい、本尊の玉眼、彩色の聖観世音菩薩像の大慈大悲の光が普く(あまねく)輝いているという意味が込められていると。本堂は平成3年の建築、本堂の内陣には弘法大師の一生を描いた欄間があり、境内には歓喜天(かんきてん)堂や四国八十八カ所の砂が敷き詰められた砂踏霊場があった。寺入口右の盛土の上に天神社が祀られ、その境内に原田由右衛門門人建立の「筆塚(ふでつか)」も。「光應山普光寺」の寺号標石。「ほほえみ観音」。お顔をズームして。参道脇には「六地蔵堂」。真っ赤な頭巾、涎掛け姿の「六地蔵」。小高い場所に「神社」が。名前は「天神社」。原田由右衛門(よし(う)えもん)門人建立の「筆塚」👈リンク。「天神社」裏の桜の大樹。春になれば見事な姿に変身するのであろう。庚申塚の「舟形光背型地蔵立像+三猿」台座には「同行四人」正面右側 「奉庚申供養成就」正面左側 「寛文十戌十一月六日」(1670)の文字が刻まれていた。右側には「駒型〇〇塔」。正面に「普光寺」の「本堂」の姿が。左手には小さな「弁天池」が。「弁天堂」。技芸上達、商売繁盛にご利益があるとされる。「子育観音像」と「〇〇地蔵」。「水屋」。「水天」と刻まれた石塔。「神奈川宗務支所」。境内の「石仏群」。絵を描いているのか?本を読む。これは?小さな琴を弾く?涅槃仏?「聖天堂」。商売繁盛、夫婦和合にご利益があるとされる「大聖歓喜天様」をお祀りしていると。双身像の聖天様は、夫婦和合・安産・子宝の神様として信仰されていると。「本堂」を正面から。室町時代中期に開山したと伝わる。開山は円威和尚、二世円成和尚であり、ご本尊様である聖観音菩薩像は、開山円威和尚の追善のために、二世円成和尚が造立されたとの記述が残っていると。それによると、聖観音菩薩像が安置されたのが長禄三年(1459年)。その二年前に円威和尚が入寂されたと記されているので、少なくとも当山は1450年代には開山していたことがわかるのだと。「弘法大師像」。周囲には「四国八十八ヶ所霊場」の寺院名と御本尊の刻まれた石柱が円形に並んでいた。別の角度から。懐かしき「四国八十八ヶ所霊場」👈リンク 碑。私は2018(平成三十年).03.30に「結願」したのであった。「四国八十八ヶ所お砂踏み霊場」案内板。四国八十八ヶ所御砂踏み霊場の第一番「霊山寺」の石仏。四国八十八ヶ所御砂踏み霊場の第八十八番「大窪寺」の石仏。参道中央に「香炉堂」と「香炉」。「横浜市名木古木指定 ヤマモミジ」。前方に石仏、左手には「賽の河原」。石仏は「水子地蔵尊」。「賽の河原」。「本堂」。「普光寺本堂」に掛かる「光應山」の扁額。「本堂」前から境内を見る。「本堂 内陣」。ズームして。「本堂」左側斜面には墓地が拡がっていた。その上に「鐘楼」が見えた。再び「本堂」を見る。屋根には「五三の桐」、「左三つ巴」の施された鬼瓦等が。「普光寺」を後にして「観音谷北側」交差点を左折して進むと左側にあったのが「防災協力農地」の案内板があった。「防災協力農地」とは、地震災害が発生した場合に、農地所有者の協力により、農地をあらかじめ登録することによって、市民の避難空間としての活用と、災害復旧用資材置場を確保することを目的とした制度とのこと。そして右手奥には朱の鳥居のある小さな「社」があったが。その隣は「なかまる動物病院」の駐車場であったが、関係があるのだろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.25
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次に訪ねたのが「曹洞宗 大貴山 普済寺(ふさいじ)」。小川町伊勢根236−1新装なった「本堂」。扁額「大貴山 普済寺」「普済寺本堂再建記念碑普済寺は、山号を大貴山と号し、永平寺を本山とする曹洞宗に属する寺院で、嵐山町遠山寺の末寺である。当寺の由緒は詳らかではないが、明治十九年武蔵国比企郡伊勢根邨寺院明細帳には、開創は天正年間(1573~92)、本尊は十一面観音、開山は笑巖祖□禅師、本堂は竪六間半、幅六間、庫裏は竪四間、幅三間、檀家は十二軒と記されている。大正十四年ニ月十六日の火災により本堂・庫裏が焼失し、火災後檀信徒の寄進により再建された。以来八十年余、檀信徒により護持されてきたが、近年老朽化が進み、平成十七年頃より檀信徒間で再建に向けての論議が起こり、同十九年度より建設資金の積み立てが開始された。平成二十三年三月十一日に発生した東日本大震災により、本堂の随所が破損したので、檀信徒から早急に再建の気運が高まった。同二十七日に檀信徒全体会が開催され、高倉住職から寺所有の山林売却による資金調達案の提案を受け、再建が決定した。同日、現在の檀信徒二十二名の中から建設委員五名が選出され、本堂建設委員会が発足した。以来、何回もの建設委員会や檀信徒全体会を開催し、本堂設計・建設業者選定、本尊十一面観音の再興、出山の釈迦修復等を決定した。その間、檀信徒の皆様から多額の寄進や本堂解体作業等の出役を頂いた。ここにようやく、建築関係の皆様方の努力により、立派な本堂の落慶を迎えることができた。あらためて、檀信徒をはじめ多くの関係者からのご支援、ご協力に深く感謝するとともに、山門興隆、檀信徒、篤信寄進者の家運隆昌を祈念し、再建を記念してこの日を建立し後世に伝える。」「六地蔵尊」。境内の石碑、石仏群。石仏群。「大乗妙典弐千部供養塔」衆生を迷いから悟りの世界に導いてくれる教えを記した仏教経典である「大乗妙典」をニ千回、独誦したときの記念に建てた石碑。「葷酒禁梵刹」と刻まれた石碑。酒の匂いをさせて寺(梵刹)に入るべからず。石仏と本堂。「普済寺」の前の広場には「ダイコンバナ」が群生。「普済寺」の前の山林の中には「鎌倉街道上道跡」らしき姿が残っていたが案内板等は見つからなかった。そして車に戻り進むと左手の案内板に気が付き慌てて車を止めたのであった。「鎌倉街道上道(かみつみち)跡大字伊勢根 普済寺東鎌倉街道という呼び名は江戸時代に付けられたものですが、古くからの道として脇道も含め各地に伝承地があります。そうした中てここ普済寺東地点の堀割状の道路遺構は、昭和57年(1982)に試掘調査が行われその構造が確認された貴重な遺跡です。調査の結果、側溝が検出され、何度かの堀さらいが行われていました。堆積状況から5回ほど改修されており、時期によって道路幅も一定ではなかったことがわかりました。最近では、近隣の寄居町や毛呂山町でも発掘調査により道路遺構が検出されており、考古学的に少しずつ実態が明らかになってきています。」「鎌倉街道上道(かみつみち)跡」を見る。左手に続く凹みが「鎌倉街道上道跡」なのであろう。土地改良整備がされていたが、前方の農道も「鎌倉街道上道(かみつみち)」だったところ。奥の林の手前に後谷津川が流れていて、橋が架かっていないのでそのまま辿ることはできなかった。左折して進む。そして次に訪ねたのが「八和田神社(やわたじんじゃ)」。二の鳥居から境内に入る。一の鳥居から二の鳥居や拝殿、社叢までに長い参道があった。ちなみに一の鳥居は二つの県道が交わる『奈良梨』交差点沿いにあったのだ。埼玉県比企郡小川町奈良梨929。「神楽殿」が左手に。正面に「拝殿」。八和田(やわた)とは、かつてのこの付近の村名だった比企郡八和田村に由来する。元々諏訪神社といい、明治23年に上横田・下横田・中爪・奈良梨・能増・高見・伊勢根・高谷の八か村が合併して八和田村を作ったので、この諏訪神社もその村社として、幾つかの神社を合祀し、村社として、現在の社名へと改称されたという。「社務所」。「八和田神社の大スギ 諏訪神社の鰐口 大字奈良梨(ならなし)大スギは、目通り五・六七メートル、樹高三〇メートルを測り、形状から「逆さスギ」とも呼ばれています。天正十八年(一五九〇)に奈良梨に人った諏訪頼水が、所領を定める際に信州諏訪(長野県)から投げたスギがこの地に刺さったという伝説があります〔昭和三十八年三月十ニ日町指定〕に奉納されたもので、弘治三年(一五五七)に鉢形錦人(寄居町西ノ人)の鰐ロは、直径三ニ・五センチメートル、厚さ一ニ・〇センチメートル。陰刻された銘文によると、延徳三年(一四九一)に高坂郷(東松山市)常安寺に奉納されたもので、弘治三年(一五五七)に鉢形錦人(寄居町西ノ入)の新井佐渡守によって諏訪神社に再寄進されました。裏面には『薬師経』を出典とする(詩句)が刻まれています。諏訪神社は明治四十年(一九〇七)に八和田神社に改称されました。〔昭和五十三年三月十七日町指定〕(表)武州入西郡高坂郷医王山常安禅寺 住持比丘大成叟永順置之 延徳三辛亥年四月初八日(裏)我此名号 一経其耳 衆病悉除 身心安楽(内圏)弘治三年丁巳七月廿六日 敬白(側面)武州男衾郡鉢形錦入新井佐上守 奉諏訪大明神寄進施主者」「大スギ」。上部が根っこの如き形なので「逆さスギ」と。「昔、天正18年(1590)に信州諏訪の大祝諏訪小太郎頼水が、東国に下る折、「神木の刺さった所を住居にせよ」との氏神(諏訪神社)の託宣によって、神木の枝をちぎって東方に投げたところ、奈良梨に飛来して逆さに突き刺さり、そのまま根を下ろして成長したという。この大杉は水を呼ぶといわれ、奈良梨の耕地は余程の日照りが続いても田植えの水に困ることがないという言い伝えがあり、氏子の人たちの信仰を集めている。当地では「蛇はお諏訪様の使いである」との言い伝えがあり、特に白蛇を見ると吉兆であるといわれている。現に神木の割れ目から白蛇が顔を出した時には氏子中が大騒ぎになったという。また、当地の境内にある弁天池と普賢寺は堀でつながり、弁天池に棲む白蛇と普賢寺の本尊である普賢菩薩が夜な夜な行き来をするという興味深い伝説も残されている。」とネットより。境内の「住吉社」。「この神社は水の災いから人びとを守る神様が祀られています。」「招魂社」。「忠魂碑」。「日露戦役紀念碑」。「戦役記念碑」。「戦没者慰霊碑」。「安らかにお眠りください」と。狛犬(阿形像)。奉納 大正15年09月 と。狛犬(吽形像)。「拝殿」。拝殿の彫り物が見事。ここにあった八和田神社の「鰐ロ」は、町指定文化財(工芸品)として小川町の指定を受けていたが現在のものは別の大きな鈴に変わっていたが。扁額「八和田神社」。「本殿」を見る。「春日社」「この神社は村全体を守る神様として奈良の舂日大社と同じ祭神が祀られています。」「合祀記念」碑。「参宮紀念碑」。「菅原社」「この神社は学業の神様で成績の向上、試験の合格に大きなカ添えをいたします。」「神楽殿」横の石碑群。こちらも「参宮記念碑」。「祈国土平康願豊穣肥鮮 希武運長久望家内安全」国土平康(へいこう)を祈(いの)り豊穣(ほうじょう)肥鮮(ひせん)を願ひ、武運(ぶうん)長久(ちょうきゅう)を希(こいねが)ひ家内(かない)安全を望む。ここにも「参宮記念碑」。「参宮記念 奉献 弊殿透障子」「風八和田句会二十周年記念句碑」様々な句が。「聖徳皇太子」碑(左)と「御大典記念聖徳碑移転」碑(右)。「奈良梨陣屋跡」案内板。「奈良梨陣屋跡(ならなしじんやあと)八和川神社東測に残る堀と上塁の一部は、戦国時代から江戸時代にかけて築かれたものと思われます。当時、鎌倉街道上道の宿駅として栄えた奈良梨において、現在の八和田神社の境内地になんらかの施設がおかれていた可能性があります。平成8年に実施した試掘調査の結果、この堀と土塁は平行してほぼ一直線に走っていることがわかりました。堀の断面形は「箱薬研」と呼ばれる中世の城や館を取り巻く溝に非常によく似ていました。土塁には、幾層にも積み上げた状況が確認されました。あいにく時代を決定する遺物は出土しませんでしたが、以上のことから、周辺文化財・史跡等の総合的な見地で、広義の陣屋跡として指定されたものです。」そして境内から二の鳥居を振り返る。そしてその先には長い参道が確認できた。「二の鳥居」の手前の左側には「厳島社」とその周りには水堀のような池があったが、農業用の溜池だろうか。「厳島社」。「巌島社に祀られている弁財天は女人を守り芸能の向上を助ける神様です。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.28
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そして旧東海道の北側にあったのが『高野山 真言宗 山王山 観音院 廣徳寺』。本山は和歌山県の高野山・金剛峯寺(こんごうぶじ)。山号の「山王山」は以前本堂裏に山王山(さんのうやま)という山があった事から、院号は御本尊の千手観音からこの名が付いたと。脇門から境内を見る。そして境内を歩き、「山門」前に出る。「高野山 真言宗 廣徳寺」と。石碑もあった。「山門」前の「掃除小僧」。反対側には「居眠り小僧」。「山王山 観音院 廣徳寺御本尊 千手千眼観世音菩薩宗派 高野山真言宗 立教開宗は大同二年(八〇七)総本山 高野山金剛峯寺 和歌山県伊都郡高野町宗祖 弘法大師 宝亀五年(七七四)六月十五日香川県善通寺市で御誕生 承和二年(八三五)三月二十一日高野山奥之院に御入定御宝号 南無大師遍照金剛教義と信仰 宇宙のすべてのものは大日如来のいのちの顕れであり、このいのちの世界をあらわして いるのが曼荼羅です。 高野山真言宗の教えは、いのちの平等と尊厳をさとり、大日如来の智慧をこの世に実現 するために、生かせ いのちを実践し、共存共生の世界をめざすことにあります。 本宗の御宝号念誦運動 は、弘法大師の 共利衆生の精神に立って、すべてがいのちを共に している社会の福祉をめざす具体的な活動です。 弘法大師は、未来永劫にわたって衆生を救済すると御誓願され、高野山奥の院に入定留身 されています。 同行二人の信仰のもと大師の御教えをこの世に生かし実現することが、私たちの努めで あり、喜びです」「六地蔵」。境内の桜は満開に。近づいて。「陸軍歩兵 新倉八五郎碑」。「本堂」はRC製。「本堂」前の石仏。御本尊は「千手千眼観世音菩薩」、一般的に「千手観音」と呼ばれる仏様。「本堂」の扁額は「山王山 観音院 廣徳寺」。「本堂」前の石仏は折れて足のみとなっていたが・・・・。この石仏は、以前訪ねた時の写真を見てみると「弘法大師修行像」であった。「四国八十八ヶ所お砂踏み弘法大師とゆかりの深い四国八十八ヶ所霊場は、その巡礼をとくに遍路と呼んでいる。八十八ヶ所の札所は四国四県をグルッと巡るように配置されていて第一番から二十三番までの徳島県(阿波)の霊場を、「発心の道場」第二十四番から三十九番の高知県(土佐)の霊場を「修行の道場」第四十番から六十五番の愛媛県(伊予)の霊場を「菩提の道場」第六十六番から八十八番の香川県(讃岐)の霊場を「涅槃の道場」といい仏道修行の段階をたどるようになっている。この札所を第一番から、八十八番まで順に巡るのを「順打ち」といい反対に八十八番から一番まで逆に巡るのを「逆打ち」という。逆打ちをするのはほとんどが深刻な人生問題抱える逆境に喘ぐ人々だといわれるが、これをなしとげた(結願)ときの御利益はひときわ大きいと信じられている。四国遍路では同行二人が強くとなえられている。弘法大師は入定したのであった普通の人間のように死んだのではない。だからいつまでも四国遍路を修行のために巡りつづけているのである。いつどこで大師に会えるかもしれない。またたとえ一人で遍路をしていてもいつも大師はその人と一緒に遍路をしている。大師と同行二人なのである。遍路は大師と同じ時空に住んでいるのである。各国の下に四国のお砂が収められています。順に巡ってお参り下さい。以前は「本堂」右側にあった石仏はこの日は左側に移されていた。境内から寺務所を見る。次の目的地の「本行寺」に向かって国道1号を横断し、更に南下する。道路からは以前訪ねた「千手院」👈リンク の「本堂」を見る。「千手院」境内の稲荷明神(左)と閻魔十王堂(右)を見る。この「千手院」も高野山真言宗の寺なのであった。そして「本行寺」の脇門前に到着したが、この門は閉まっていた。「日蓮宗 本行寺」碑。「本堂」を脇門からズームして。「本行寺」の正門に向かって進むと前方にあったのが「新田踏切」。手前を右折し。JR東海道線の線路沿いを茅ヶ崎駅方向に進む。そして「本行寺」の正門前に到着。神奈川県茅ヶ崎市代官町3−29。太い枯樹が立っており「本行寺」と。このピンクの花は?「ヒマラヤユキノシタ」に似ているが。RC製の「本堂」を見る。石段を上り「本堂」正面に。開基金子妙松法尼が日蓮聖人滝口法難の膝元、腰越の地に、昭和十三年、本行結社を創立したことに始まる。その後、法尼の教化によって信徒の数多くを数えるに至り、昭和二十七年 宗教法人法に基づき、法尼の師 日華上人を開山に仰ぎ、本行教会を設立した。昭和三十二年、法尼の後継者として 智穏上人が第二世を承継、布教の実を上げた。昭和三十八年に腰越の現本堂建設に着工、翌三十九年十一月本堂落慶とともに「本行寺」と寺号を公称するに至る。昭和四十二年 茅ヶ崎市小和田伍仁原の地に、藤原氏五武将の供養塚を再興するとともに霊園を開設、昭和四十六年に拡張、昭和五十一年には、五仁原守護神八大竜王を勧請した。昭和五十六年 日蓮聖人七百遠忌報恩事業として、霊園の再拡張と会館を設置、同六十三年十月伍仁原新本堂建築に着工、平成元年七月上棟式、同二年四月新本堂落慶を迎えるに至る。内陣。ズームして。「日蓮上人像」。「本堂」前から墓地を望む。石段を下ると、墓地の奥に大きな石碑があった。手前には「慈母観世音菩薩」像が。「八大龍王」碑。別の場所から。石碑の下には池が有り、寄進者名碑が囲んでいた。裏側には「昭和五十一年三月十三日大祭 本行寺 檀信徒一同 第三世 日光代」と。これは無縁供養塚であっただろうか。「無縁法界万霊位」碑。立派な「五輪塔」。「相模之国五仁原城主」と刻まれていた。昭和四十二年 この茅ヶ崎市小和田伍仁原の地に、藤原氏五武将の供養塚を再興したのだと。藤原氏五武将「藤原時政」、「藤原吉政」、「藤原則政」、「藤原定政」、「藤原忠政」の文字も刻まれていた。この場所に伍仁原(五仁原)城があったのだろうか。詳細を知りたいが!!この先、平塚方面の「学園通り」に「伍仁原踏切」があったのだが。「本堂」を墓地前から見て、「本行寺」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.13
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八十八ヶ所結願(けちがん)の霊場「大窪寺」をこの旅行の最後に訪れた。徳島県の県境に近い矢筈山(標高782m)の東側中腹に位置。縁起によると、養老元年に行基菩薩がこの地を訪れた際に、霊夢を感得し草庵を建て修行をした。弘仁7年に、唐から帰国した弘法大師が、現在の奥の院近くの胎蔵ヶ峰という岩窟で、虚空蔵求聞持法を修法し堂宇を建立。等身大の薬師如来坐像を彫造し本尊とされたと。正式名は医王山 遍照光院 大窪寺(いおうざん へんじょうこういん おおくぼじ)巨大な仁王門。高さ13.5mで、四国八十八ヶ所でもとくに大きな部類に入る、荘厳な門。2体の金剛力士を安置する楼門、左右に置かれ門の向かって右を密迹(みっしゃく)金剛、左を那羅延(ならえん)金剛と呼ぶと。那羅延(ならえん)金剛 阿形像。 密迹(みっしゃく)金剛 吽形像。 境内側の仁王門の両側には巨大な草鞋が。大窪寺 境内配置図。手水舎。小高い場所には鐘楼が。弘法大師像。大師堂。大師が奉納した錫杖は、唐の恵果阿闍梨から授かったものといわれると。 心経塔。本堂。本堂に掲げられた扁額。瑠璃光殿と書かれていた。本堂のすぐ前に。『あなうれし ゆくもかえるもとどまるも われは大師と二人づれなり』と刻まれた石碑が。「同行二人」の喜びの思いを詠った句であろう。その横の不動明王。仁王様に負けず劣らず怖い顔。納経所入り口には比較的新しい水掛地蔵が。四国八十八箇所 88番札所結願所の大窪寺の御朱印を頂きましたが、まだ私にとっては9番目の寺。宝杖堂(ほうじょうどう)と原爆の火(手前)。宝杖堂には、結願した遍路の金剛杖が奉納されていた。原爆の火は被爆直後の広島から採集した火を持ち帰り、絶やすことなく灯し続けていると。風雪に耐えて歴史を感じる石像群。石像の下には何か、納めてあるのでしょうか?本堂の後ろには多宝塔そして横には阿弥陀堂。四国八十八番札所大窪寺の本堂の北に位置する“女体山”標高774m。名前に似合わず、険しそうな山そして岩肌。ょ山門の両側にも巨大な草鞋が。結願寺なので草鞋を納めている方も多いとのこと。山門(二天門)を振り返る。山門(二天門)から入り口方面。遍路さんの手にする鈴の音と、大窪寺の鐘の音が、環境省選定の残したい日本の音風景100選に。こちらが参拝の正式な参道。「八十八番結願所」と書かれた石碑が。四国霊場88番札所大窪寺の門前で巡拝用品やおみやげ販売をしている店・野田屋。寺の門前で、くず湯や甘納豆お接待をしている地元では話題の店とのことであるがこの日は閉店の準備の真っ最中で残念ながら・・・・。そして徳島空港に向かう。レンタカーを返却し空港へ。今回に旅行の走行距離は四国一周1214km。空港の入り口では、阿波踊りの銅像が7体ほどで再び出迎えてくれた。今にも動き出しそうなくらいリアリティのある銅像。この銅像と同じポーズをして写真を撮る人の姿も。私たちはじっと堪えて・・・・。絵画も。20:10発のANA便で帰路へ。そして羽田空港からは待っていてくれた旅友の愛車で自宅に送って頂いたのであった。 今回の四国旅行で日本百名城スタンプラリーを完遂。帰宅して翌日に日本城郭協会にスタンプ帳を送付すると、数日で返却される。スタンプ帳には『祝登城完了! 登録第793番目』と押印された登録証明が送られてきた。そしてこの旅行で四国88箇所霊場遍路の旅もスタートさせたのであった。今回の旅行で9霊場を訪ね御朱印を頂いたのであった。さて次回の四国88箇所霊場遍路の旅は何時になるのであろうか?-------------完 四国一周、日本百名城&四国88箇所霊場遍路の旅------------
2015.10.05
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9日(土曜日)の夜に日本テレビで放送された『世界一受けたい授業2HSP』を楽しみました。その中で武田鉄矢先生の『あの漢字・あの言葉には驚きの意味が!?本当は怖い!?日本語の由来』が非常に勉強になったので紹介します。まずは漢字の文字の由来について。この日は「怖い漢字、言葉」がテーマ。下記のイラストや写真はネットから転載させて頂きました。★『久』 この漢字『久』の由来はあるものを棒で支えている様子からと。 あるものとは何か? 正解は『横たわる死体』であると。 死んだ人を木で支えていることから『久』。 死んで『永久の人』になることから『久』の字の由来になったと。★『柩』 死んだ人(永久の人)を表す『久』を木箱に納めた形から『柩』★『棺』 中身が入っていないものを棺、遺体が収められたものを「柩」とする説があるのだと。 そして「官」、昔は腰を落ち着けて休むところの意味。すなわち途中この中で休んで あの世に行くのであると。★『道』 この『道』という漢字というのは恐ろしい漢字だというのがいろいろな本に書かれていると。 古代において、道には怨念が宿っていたとされ、その怨念をふり払うために、異民族の首を 切って歩き、それでもって悪霊を追い払うことができると信じられていたのだと。★『東』 日本では東という字は「木」に太陽が掛って日の出を表しているように見えることから、方位の東 を言うといわれている。 しかし甲骨文字と金文の東は本来古代人が常用していた袋を指している。 上古の時代は人は物を運ぶ時、まず地上に一枚の獣の皮を広げ、中に一本の木の棒を置き、 獣の皮の上に物を置き、獣の皮を木の棒に巻きつけるように括るり両端は皮の紐か藤のつるで 結える適当な大きさの袋になる。肩の上に担ぐのに都合がいい。外で野営する時、獣の皮は 床に敷くのに実用的である。甲骨文字の「東」はこの種の袋の描写である。 古代人は太陽が昇った時に起床し、すぐに体の下に敷いてあった皮をまいて、肩にかけ、 木の実を集めたり狩りに出かけたりした。この為「東」は太陽の昇ってくる方向を示す。 これは即ち東が一つの象形造字であるということである。★『赤』 「赤」の漢字は、中国で「大」とその下の「火」の漢字を組み合わせて作られ、 「大きく燃え上がる火の色」を表している。★『取』 右の「又」は、手を表す。 古代中国では、討ち取った敵の左耳を切りその戦功を数えたことから、取の字ができたと。★『最』 戦場で切り取った耳を袋に入れて集め持つ形。 上の『日』はもともとは『月(ぼう)』で頭巾のことであると。 切り取った耳の数が一番の物を『最』と行ったのだと。 最は『とる、あつめる』の意味と『第一、もっとも』の意味になったのだと。★『教』 教育」の「教」の漢字についてはむちを持って打つ「攵」と、ならう意味の「孝」から なっていると。 古代中国の学び舎では、言うことをきかない生徒には、先生から容赦なくむちが飛んだと。 スパルタ教育が行われていたことが、「教」の漢字からわかるのだと。 そして言葉の由来も。★『土壇場』 「土壇」は斬首の刑を行うための、土で築いた台のこと。つまり「土壇場」とは 死刑場そのものみたいなもので、そこに上がればもう死ぬしかないことから、 最終的に追い詰められた状態のたとえに使用するようになったと。 ★『濡れ衣』 奈良時代にあった博多の話。 夫と妻と娘の三人家族、妻を亡くした夫が後妻を迎えた。後妻は元妻との娘(春姫)の美しさと、 それを可愛がる夫の姿に、嫉妬した。継母は元妻との娘を「浅ましい娘」dらると父親に思わせるため、 漁師の濡れた衣を春姫の寝入ったところに被せ、 漁師がこれをを盗まれたという噂を流した。 継母からこれを聞いた父親が、 娘の寝床でこの濡れた釣り布を見て、春姫が盗んだものと 思わせられて、春姫は 「無実の罪」で父親にその場で斬って殺されたという説があるのだと。 博多にはこの説に基づき、 「濡衣塚(ぬれぎぬづか)」という石碑があるとのこと。 春姫を殺めた父親の夢の中に、この春姫が現れ、 無実の歌を詠んだ言葉より、無実の罪と知り、 供養の堂を七つ建て、 罪を償うために出家したとされていると。あっと!!、私が大好きな文字を忘れていましたので最後に。★『仁』 形声文字です(人+二)。「横から見た人」の象形と「2本の横線」から。「2本の横線」の「二」は人と人との間に通う「親しみ」、「いつくしみ」、「おもいやり」を意味するのです。文字通り「人(ひと)」と「二(ふたり)」で、二人が対等に相親しむことを表しているのです。私たち日本人の生活になくてはならない漢字。毎日使っていながら、どうしてその形・意味になったのかは、なかなか理解していない。複雑で難しそうに見える世界には、一体何が隠されているか益々興味が増すのであった。
2016.01.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道(上矢山中黒打線・県道253号線)の大池(鳥居町)の家並み。『芭蕉天神』の石碑。細い山道の奥にある社殿をズームで。天竜浜名湖線のガードが前方に。静岡県掛川市の掛川駅から浜松市天竜区の天竜二俣駅を経て、湖西市の新所原駅に至る天竜浜名湖鉄道が運営する鉄道路線。東海道本線から分岐して内陸部に入り、浜名湖の北岸を巡って再び東海道本線に合流しており、掛川 - 豊橋間の北回りバイパス線ともなっている路線。ガードの左にあった西掛川駅を見上げる。単式ホーム1面に待合所を設けるだけの無人駅であるようだ。『白山神社』入口。右に曲がり進むと道路の先に大池(橘町)に鎮座する『白山神社』が。境内参道とその先に『社殿』が。掛川市大池850にある白山神社。大池(橘町)にある宗心寺。こちらが宗心寺『山門』。『本堂』。「五十九代宇多天皇寛平六年(894年)頃の創建と云われている。元は法多山尊永寺の末と伝えられ、現在は日蓮宗だが昔は真言宗であった。創建以後三百八十年経ち、文永年間鎌倉の大光山本圀寺の好堅院日教聖人が当地に布教し、当時宗心寺住職中道院阿闍梨法師と法輪の末阿闍梨法師は日教聖人に折伏され当寺を日蓮宗に改宗した。聖人より大光山の山号を頂き大光山宗心寺と山寺号を改めた。中道院阿闍梨法師は日教聖人の弟子となり中道院日法と改め、日教聖人を当寺の開山とし日法聖人が二世となる。掛川では最も古いお寺のひとつと云われる。」『南無妙法蓮華経』と刻まれていた。『目標を持とう よき未来のために努めよう 現在できることを』と。現在できる日本橋から京都三条大橋まで『旧東海道を歩く』を目標としながら歩く自分がいたのであった。境内にあった神社。この建物は?昔の本堂を移設したものであろうか?蓮祐寺の門前にある『大池一里塚跡』の道標を何とか発見。北塚は大池村内、南塚が長谷村地内に存在した一里塚だが両塚とも現存せず。江戸日本橋から59里目(約232km)、京三条大橋からは59番目で実測約285km地点。(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)。掛川市長谷の旧東海道沿いにある『蓮祐寺』。日蓮宗、釈迦牟尼如来を本尊とする蓮祐寺の『本堂』慶長二十年(1615年)大阪夏の陣落城のおり、服部又一郎が供をつれ京より下り当地に移り住む事と成った。時代は変わり明治の世となり、服部一族は貫名山妙日寺に帰依し、蓮成院日淨上人にお願いをして、当地へ法華経を広める為に布教所を創立したのが当寺の始まりであると伝えられる。『一条山』と書かれた扁額。『南無妙法蓮華経』と刻まれた石碑。更に旧東海道を進むと『大池の名残松』が姿を現す。『逆川』が近づく。旧東海道(県道253号線)を進む。ここは掛川市細田地区。正面に現国道1号線・掛川バイパスの高架橋を望む。右手公園の奥には『高松神社』が」あった。現国道1号線・掛川バイパスを潜り、バイパスを左に見ながら進む。旧東海道沿い左手にあったのが『掛川聖書バプテスト教会』。東名高速道路の下を潜り、前方にに見えて来たのが垂木川(たるきがわ)に架かる『善光寺橋』が見えて来た。善光寺橋西詰、垂木川に沿って旧東海道が延びる。垂木川に架かる『善光寺橋』。善光寺橋歩道橋を進む。『垂木川』。延長6.4kmの川で太田川水系の宮川と逆川を繋ぐ川。掛川市岡津地区の民家の庭には早くも鯉のぼりが泳いでいた。旧東海道。右手にあったのが『善光寺』・『仲道寺前』を行く。こちらは『善光寺』の『如来堂(阿弥陀堂)』。信州の名刹善光寺と同名の寺が何故ここにあるのか沿革がはっきりしないが、阿弥陀堂に祀る阿弥陀仏は平安時代の武官、坂上田村麻呂の守り本尊と伝わると。『岡津善光寺由来記』が旧東海道沿いに置かれていた。文章が消えかかっていたのでネットで調べてみると「この地は、佐野郡小松郷岡津村と記され(現在掛川市岡津)松茸が多く取れたといわれている。往古延暦七辰の年(平安時代初期)に伝教大師が叡山建立の願をかけて、自からが阿弥陀仏を三体彫刻してその一体をさずけ、奥州に延暦九年賊徒討伐のため、勅使として坂上田村麻呂と百済王とが東に下った途中、この村に来た頃、兵が難病にかかり徒行することができなくなり、この地にとまり病養せしめ、その一体の阿弥陀仏に願いをかけ、そのため兵の悪病の難を逃れたといわれ、ここに善光寺堂を建立された。この頃、諸国に難病が流行してその話を聞いて大勢の人たちがこの善光寺にお参りに来たといわれている。右側にあるお寺は曹洞宗仲道寺寺名であり、その昔江戸から京都まで測量したところ、この寺がちょうど東海道の真中で仲道寺と寺名がついたと云われている。」そしてその隣には『仲道寺山門』。『仲道寺本堂』現地解説板によれば享保18年(1733年)善光寺境内に堂を建て、正法寺(掛川市高御所)の和尚を招き開かれたのが仲道寺とのこと、つまり先に善光寺がここにあったらしい。見事な屋根そして彫刻。仲道寺本堂の内部。『曹洞宗管長 江川辰三氏の告諭』。善光寺の横を流れる小川は何故か灰色に濁っていた。 その2 にもどる。 ・・・つづく・・・
2019.05.23
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長春市の市内観光に出発。長春の現地ガイドは金?さん。長春市(ちょうしゅんし、チャンチュンし、中国語:长春市)は、中華人民共和国吉林省に位置する副省級市で同省の省都。市区人口約438万人・総戸籍人口約749万人(2017年)。吉林省政府が所在し、省内の政治、経済、文化の中心地となっている。1932年から1945年までは満洲国の首都とされ、新京と呼ばれた。 市内には長春第一自動車製造工場と長春映画製作所が所在し、中国における自動車工業と映画製作の拠点となっていると。長春駅前の『苏宁易购(Suning.com)』のユニークなデザインのビルか?巨大な中国のEC市場においてNo.4のシェアを誇るのが家電量販店を前身とする企業、蘇寧電器が運営する『苏宁易购 蘇寧易購(Suning.com)』。長春駅北口前の高層ビル群。2017年に開通した地下鉄1号線。『胜利公园(勝利公園 )』人民街の北部の西側に位置し、南は团结路(Tuanjie Road)、北は嫩江路(Nenjiang Road)、西は白菊路(Baiju Road)に隣接し、 長春駅 、吉林省党委員会、 省政府に近接している。正門には毛沢東の像が立てられていた。『中国共産党吉林省委員会』。日本の城を思わせる建物は『旧関東軍司令部』。もともと、関東軍司令部は旅順に設置された。1919年のこと。満州事変が起こり、旧満州国が設立した後、旧満州国の首都だったここ長春(当時の新京)に移設されたと。1934年のことであると。設計は関東軍経理部、施工は大林組であったと。そして超日本的デザインの建築物を吉林省の最高権力機関として使用しているのだ。右手にも天守の如き姿が。侵略の事実を伝える負の遺産として残していることは間違いないのではと思いますが、中国の方々、吉林省の方々は寛容というか何というか、頭が下がる想いも感じたのであった。当時の『関東軍司令部』の写真。 【https://www.gakushuin.ac.jp/univ/geore/research/2015a/sinkyo-headquatersofkantoarmy.html】より坂道を上り『吉林省松苑賓館』を訪ねた。『関東軍司令官邸』として使われていた建物であるとのこと。1931(昭和6年)8.1満蒙の緊迫した情勢の中で、菱刈隆大将の後を受けて関東軍司令官に就任した『本庄 繁』が住んでいたと。そしてその一ヶ月後に柳条湖事件が起こり、関東軍参謀たちによる謀略で満州事変が起こったのだ。緑に囲まれた環境抜群の場所で、たんなる宿泊施設ではなく、結婚式などにも利用されているようであった。1955年2月16日-20日 人大代表ダライラマが宿泊したとのこと。邸の横に回る。裏側。そしてこちらが現在の『吉林 松原 ホテル (吉林省松苑賓館) 』。レンガ積みに壁は蔦がからまり。『吉林省松苑賓館』入口。内部をドアのガラス越しに。『関東軍司令部附属用房旧阯』『吉林省国家安全庁』『財金中心』ビル。『人民広場』に向かってバスは進む。地下鉄1号線『人民広場駅』入口。人民広場ロータリーから『中国人民銀行』ビルを見る。『吉林省賓館(吉林省宾馆)』ドライバーが『人民広場』のロータリーを観光用に1周してくれたのであった。『人民大街』の長春駅方面を望む。そして『長春市公安局(旧満州国首都警察庁旧址)』そして『人民大街』沿いにある『長春市体育館』前を通過。『文化広場』とその奥に『吉林大学地质宫博物馆』。この博物館の建物の基礎部分は、過去に日本が作ったものであると。『文化広場』の中央には三角錐のモニュメントが。三角錐のモニュメントの上には鳥の形のモニュメントが。文化広場ではみんな凧を挙げていたのであった。『文化広場』には女性像も。『伪满洲国国务院旧址』偽満州国国務院旧址は新民大街2号にある、1936年に完成した満州国の最高行政機関。かつてはここに総務庁と参議院の建物があったと。 『偽満州国八大部』(満州国の国家機関のうちで、現存する8つの建築物)の要であった。現在は吉林医科大学教養課程キャンパスとなっていると。概観は、『川』の字に見える建物と、塔のような形で、灰色のガラス瓦を葺いた屋根でできている。西洋風の趣きを兼ね備えているので、これを『興亜式』と呼ぶと。また、設計は日本の国会議事堂を参考にしたのだと。『偽満洲国軍事部旧址』旧満州国軍事部は、長春・文化広場の南側に位置していた。旧満州国国務院の向かい側。1935年に竣工された旧満州国の軍務を掌った機関。もとの名前は「軍政部」であり、偽満州軍隊を指揮する重要な機関である。1937年に「治安部」を改名した。この建物は1970年に全体的に一層建て増やした。屋根部の形も建て直し、琉璃瓦を緑色に直し、巨大な装飾浮き彫り図案を添えた。現在は吉林大学白求恩医学部付属第一医院として利用されていると。『吉林电视台(吉林電視台)』はテレビ・ラジオ局。『満州国交通部跡』この建物は今新民大街7号に位置し、1937年から建て始めた。鉄筋コンクリート構造である。主体ビルは四層、両翼は三層、地下は一層である。今は吉林大学医学部の公衆衛生系教学ビルである。『吉林省電子技術研究所』?『偽満洲国司法部旧址』長春市新民大街6号に位置している司法部は1935に建った。この部は司法、裁判所、民事、刑事、戸籍及び他の司法などの事項を司っていた。全体には十字形をし、正門が西向けで、主体は三階、地下が一階である。真中には三階のタワービルが建てられている。タワービルの低層にアーチ型の窓があり、二、三階は長方形である。鉄筋コンクリート構造であり、総面積は16328平方メートルである。満州国法務省にあたる。現在は吉林大学医学院本館。 『偽満州国国務院』。日本の国会議事堂に似ていた。現在は、吉林大学白求恩基礎医学部となっている。竣工1936年。手前には銅像が。日中戦争中戦死したカナダ人軍医ベチューンの銅像、正面の松は溥儀が植えた松であると。何代目か?『偽満州国国務院旧址』。巨大な柱が4本。『原偽満州国国務院大楼简介』。現在の『吉林大学白求恩医学院简介』。エントランスの車寄せスロープ。『長春テレビ搭』は218m。バスに戻り『偽満州国国務院』を『解放大路』から。『解放大路』に面したホテル。こちらも『盛荣大厦』ホテル。『21世紀国際商務总部』『吉林大橋』を渡る。流れる川は『伊通河(いつうが)』。『伊通河』は伊通満族自治県の青頂嶺に源を発して、北へ長春市内、徳恵市内へと流れ、飲馬河に合流して間もなく松花江にそそぐ。全長342km。南北朝時代に夫余がこの川岸に王城を築いていると。吉林大路を東に進む。吉林大路沿いにあった『圣都大酒店』。东盛大街沿いの本場の中華街『坊盛吉』入口。东盛大街を南に進む。そしてこの日の夕食会場は『屯?阳向』長春名物 豆腐料理を楽しんだのであった。そしてこの日の宿の『中日友好会館』に到着。自由大街沿い、伊通河に近いホテル。ロビー内。フロント。「中日友好会館」という名前にかかわらず、日本語のできる従業員は見当たりませんでした。日本のODAで建設したという経緯があるホテルらしいが、裏話がいろいろあったようだが現場添乗員に聞き損なってしまったのであった。511号室の我々の部屋。この日も、部屋でビールとウィスキーで暫しの反省会後にベッドに転がり込んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.08
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【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク「子育て観音」前の比留川沿いの道を北上し次の「報恩寺」へ。曹洞宗寺院である「陽廣山 報恩寺(ようこうさん ほうおんじ)」。綾瀬市寺尾南2-10-1。見事に手入れされた生け垣のある「宝恩寺」の参道を進む。入口の2本の銀杏の大樹も完全に葉を落として。正面に「本堂」、左に「鐘楼」。生け垣の間にはいくつもの石柱が。その中の削り込んだ空間に石仏が安置されていた。これも「おたすけ観音」なのであろう。ズームして。反対側にも。ズームして。「山門」前。左手の門柱には「おたすけ観音」の文字が。山門横の掲示板。「前後際断人は過去、現在、未来という時間の中で生きています。それらは連なっているように見えますが、じつはそうではありません。それぞれ断たれているのです。現在という瞬間は過去の「後」ではないし、未来の「前」でもないのです。できることはその現在を精いっぱい生きることしかありません。過去を悔やんだり、未来を憂いたりしていたら、肝心の「今」がおろそかになります。」「山門」前左側の石碑群。解読不能。「南無阿弥陀仏」碑。右側にも石仏と六地蔵碑が。「六地蔵」角柱の三面に二体ずつ肉彫りされており、ひとつの蓮華座に乗った地蔵は持ち物以外は同じ衣の模様ですっきりして印象的。文化九壬申四月吉祥日。「石仏」。「本堂」前には手入れされた松が。「手水場」はこじんまりと。「おたすけ観音」。日中戦争・大東亜戦争の開戦とともに「おたすけ観音」「弾除け観音」として信仰を集めた。これも「回向柱」と言うのであろうか。「本堂」報恩寺は、慶長7年(1602)8月28日曹洞宗の寺院として開山されました。御開山は朝岩存夙大和尚(ちょうがんそんしゅく)(1618卒)、開基は後藤右近(ごとううこん) 心宗永伝居士(しんしゅうようでんこじ)です。御開山の朝岩存夙大和尚は、本寺 藤沢市遠藤の宝泉寺の六世であり、当山二世悦堂存怡大和尚(えつどうそんい)(1648卒)は宝泉寺七世になります。報恩寺の開山は小田原北条氏の家臣であったとも伝えられ、当山の末寺 大和の宗昌寺、寺尾の常久院の開山である、当山三世林室宗茂大和尚(りんしつしゅうも)(1648卒)は、師匠とその師匠を勧請開山とし三世になられたと思われる鎌倉時代の領主渋谷氏の法音寺を継承した寺と考えられている。慶安2年(1649)には江戸幕府から寺領8石の朱印地を寄進されている。境内にある蓼川観音堂は、もとは蓼川にあったが、昭和14年(1939)厚木基地の新設に伴い当寺に移築された。ここには五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の位牌がまつられている。さらに石造観音像も多く現存しているが、第二次世界大戦中には「弾除け観音」として参詣する人も多かったと伝えられている。扁額「金毘羅」?。境内には数えきれないほどの「おたすけ観音」が集められ、その多くは神奈川県内の様々な場所から集められたと。寺の27世となる太嶽洞源(たいがくとうげん)和尚は幼少の頃から非常に観音信仰が篤かった方だと。しかし多くの国民の例に漏れず軍隊へ徴兵されて台湾へ出征された。その際、多くの戦友が敵の銃弾に斃れていく中で、観音様のご加護を受けて無事に帰還出来た事に感激され、「おたすけ観音」を建立されたのだと。「平和観音」。「寺務所」。「弾除け観音」。台座には「報恩」と。「鐘楼」。「梵鐘」。「歌碑」。「みめくにの ふかきおたすけ かんせおん 大悲の恩に 報いまつらん」。右手に六角形の「観音堂」。2009年12月24日(木) 午前1時50分ごろ、観音堂から出火、木造平屋約30平方メートルを全焼し建て直されたのだと。ここにも大きな「観音像」が。お顔をズームで。尋常高等綾瀬小学校初代校長「笠間友作先生頌徳碑」。「喜色動乾坤(きしょくけんこんをうごかす)」。「喜びに満ちあふれた天地を動かすほどの力があるという意味です。誰でも腹の虫の居所が悪いときがある。そんな人と関わるときこそ、この「力」を活用してください。喜びがにじみ出てくるような穏やかで明るい態度と接したら、その雰囲気が相手を包み込んで不機嫌さの源になっている心のしこりを溶かしてしまします。素直な心の交流がそこに生まれるのです。」境内から「本堂」を振り返る。墓地への坂道の左側にあった石仏群。「地蔵菩薩」。反対側にも。「永代供養墓」であろう。永代供養墓正面の梵字は(サ)聖観音さまの梵字。「釈迦如来像」。「鐘楼」越しに銀杏の大木を見上げる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.09
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次「中瀬大神」を後にしてさらに西に進むと右手にあったのが「一之宮八幡大神」の石鳥居。扁額には「八幡大神」と。「一之宮八幡大神」碑。石鳥居の下にあった「いちのみや 大山道」碑。石鳥居の前の県道44号線は、江戸時代の大山参拝の「田村通り大山道」なのである。神奈川県、丹沢山地東部にある大山は阿夫利山、雨降山(いずれも、あふりやま)とも呼ばれ、阿夫利神社が祀られている。古くから山岳信仰の山で、江戸時代には大山講が盛んになり、大山への参詣者が急増した。大山道とは大山への参詣者が通った、関東、甲州などから大山へつながる複数の街道の総称である。主要なものは8道あるとされる。ここ「田村通り大山道」は大山道の中で最も主要とされ、最もにぎわいをみせた経路とされている。東海道藤沢宿の西方、旧辻堂村四ツ谷から分岐して西へ進み、相模川を田村の渡しで越え、伊勢原を通って大山へ通じる。この街道がにぎわった理由は、大山への参詣を終えた後、江ノ島の弁財天に詣で、鎌倉、金沢八景などの景勝地を巡る経路が当時一般的になった事による。大山からの田村通大山道は、藤沢宿をはさんで江の島に続く江の島道に通じるためなのだ と。石鳥居を潜り「一之宮八幡大神」の参道を進む。正面に「二の鳥居」と「拝殿」。左手に「神輿殿」。「手水舎」。「八幡大神」案内板。「宗教法人 八幡大神 一、鎮座地 高座郡寒川町一之宮一丁目二十一番地十号 一、御祭神 誉田別尊(ほむだわけのみこと) 大日貴神(おおひるめむちのかみ) 倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 大山咋命(おおやまくいのみこと) 奥津比古命(おきつひこのみこと) 奥津比女命(おきつひめのみこと) 大雀命(おおささぎのみこと) 菅原天神(すがわらてんじん) 一、由緒 元禄十(一六九七)年八月の創立と伝えるが、平安時代の和名抄に「佐牟河波伊知乃 三夜牟良(さむかわいちのみやむら)」と記されていることから、古くより奉祀されて いたと推定される。爾来武門・上下の尊崇をうけ、明治元年の神仏分離令により妙光寺 持より村持となり、社格制度制定により同六年、村社に列せられ、更に村内の数社を 合せ祀り、一之宮の氏神様として姿を整える。 大正十二年、関東大震災により建物一切倒壊するが、同十五年、本殿他を再建す。 昭和二十年の終戦により宗教法人となる。 同五十九年、境内整備事業により社殿の改修、神楽殿、社務所の新築を奉行する。 平成二十一年一月二十一日、明治の御代に合祀されてより正に百年目に当たる吉き日に 八幡大神に縁深き氏子等参列のもと、合祀百周年記念奉告祭が斎行された。 八月一日例祭、宵宮に氏子三町より奉納される屋台巡行は明治より連綿と受け継がれ 殷賑を極める。 一、祭事 歳旦祭 一月一日、 節分祭 二月節分、虫送祭 六月夏至に近い日曜日、 浜降祭 七月第三月曜日海の日 例祭 八月一日、七五三祝祭 十一月上旬、 煤払祭 十二月二十八日 月次祭 毎月一日」「記念 社務所神楽殿新築落成及社殿屋根葺替竣工竝神輿殿奉製」碑。「二の鳥居」前から「拝殿」を見る。狛犬(右・阿形像)。狛犬(左・吽形像)。「拝殿」。唐破風屋根の下の彫刻。「拝殿」の内陣。扁額「八幡大神」。「大震災紀念碑」(右)と大正4年の「玉垣建造碑」(左)。「大正十二年九月一日午前十一時五十八分 大震災紀念碑」と。背面の碑文には、寒川村一之宮総戸数百七十六戸内全壊百六十四半壊十二 此損害高約二十四萬六千圓以下に殃死者18名の氏名と年齢、発起人22名などの氏名、などが記されていた。「玉垣建造碑」「御大典奉祝記念」碑。「大鳥居並玉垣建造の碑」。「故陸軍歩兵一等卆鈴木庄蔵君之碑」。境内社の「稲荷大明神」。「社殿」。石碑群。「常夜燈」と刻まれた石燈籠。「堅牢地神塔」「二十三夜供羪塔」この石碑は?「双体道祖神」。「拝殿」の右手の広場と建物。次に訪ねたのが近くにあった「南泉寺」。神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目23−1。「大師霊跡 南泉寺」碑。「南無阿弥陀佛」碑。「山門」。「南泉寺 高野山真言宗 山王山・明王院・南泉寺天正元年(一五七三)、贈善清による開山、「村民五右衛門の先祖」による開基(『新編相模国風土記稿』、「社寺明細帳」より)。本尊は不動明王。堂字に薬師堂(現寒川町薬師会館)、天神社があった。江戸初期より、十三仏信仰を奉持する檀家寺として、各檀徒の回忌法要を執行して来た。本堂に十三体の十三仏像を祀置する。境内には宝永六年(一七〇九)の六地蔵像、明和五年(一七六八)の宝篋塔、相模国八三番札所を示す弘法大師石坐像、三界万霊墳、守護本尊八体仏、徳本行者足跡碑等の他、無宗派合祀供養塔がある。」「高野山 真言宗」。「山王山 明王院 南泉寺」。境内右手に様々な仏像が名前入りで並ぶ。手前から「千手観世音菩薩」。「虚空蔵菩薩」。「文殊菩薩」。「普賢菩薩」。「勢至菩薩」。「大日如来」。「不動明王」。「阿弥陀如来」。「本堂」側から。「本堂」前は敷石の工事中であった。「不動明王像」。「聖観世音菩薩」。「六地蔵尊」。「本堂」。本堂の扁額「南泉寺」。「本堂」前の「遍照金剛像」。宝永六年 (一七〇九) の六地蔵像。これも「聖観音菩薩像」あっただろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.14
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【ソフィー・ジェルマン素数】(ソフィー・ジェルマンそすう、Sophie Germain prime)はフランスの数学者ソフィー・ジェルマンにちなんで名付けられた素数で、2p + 1 もまた素数であるような素数 p のことである。それに対し、2p + 1 のほうを【安全素数 (safe prime) 】👈リンク と呼ぶ。例えば 11 と 2 × 11 + 1 = 23 はともに素数であるので11 はソフィー・ジェルマン素数】、23 は【安全素数 】である。【ソフィー・ジェルマン素数】が無数に存在するかどうかは分かっていない。最も小さいものは 2 である。ソフィー・ジェルマン素数を 2 から小さい順に列記すると2, 3, 5, 11, 23, 29, 41, 53, 83, 89, 113, 131, 173, 179, 191, 233, 239, 251, 281, 293, 359, 419, 431, 443, 491, 509, …「ソフィー・ジェルマン伝説」👈リンク。【ソフィー・ジェルマン素数】かつ【安全素数 】である素数は5, 11, 23, 83, 179, 359, 719, 1019, 1439, 2039, 2063, 2459, 2819, 2903, 2963,…2016年現在知られているものの中で最大のソフィー・ジェルマン素数は 2618163402417 × 2^1290000 − 1 であり、388342 桁の数である。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.02
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さらに「衣笠城址」👈️リンク に向かって傾斜の急な坂道を上っていった。周囲には、歴史を感じさせる、瓦葺きの大きな旧家の家の姿が。横須賀市衣笠町28付近。上って来た坂道を振り返る。息が上がるくらいの傾斜。路面には、自動車や歩行者、自転車などが坂の上で滑らないようにするための滑り止めが施工されていた。鎌倉時代の武将たちになったつもりで進んだのであった。左手前方に黄色い看板が。「ローゼンベッカー 榧(かや)の木邸」衣笠城に続く坂道の先にある古民家カフェ。>ケーキやパンを販売していると。古民家を改造してオープンしたと。テラスの先の建物は蔵であったのだろうか?その先、民家の裏の巨岩が顕になった頂上には石の祠が。少し下にある窪地にも2基の石塔が鎮座。現地案内板に「旗立岩」という表記があったので、これであろうか。衣笠合戦の際、三浦義明は、旗立岩等、城内に沢山の旗を立て、また篝火が消えないよう、最後の力を振り絞り、城内を切り盛りして、一族が無事脱出する時間稼ぎをしたのだ と。ズームして。扉には南京錠が。三浦氏の家紋「丸に三つ引」と。「大善寺」の手前の参道の左側には大きな井戸が。金網・ネットで養生された「不動井戸」。ネットの隙間から井戸の中を覗くと水面が見えた。水に困った大善寺を創建した行基が杖で岩を穿ったときに湧き出てきたという井戸。衣笠城が築城されてからは、重要な生活用水として使用されていた と。内部には「不動明王」像が祀られていた。「大善寺と不動井戸この寺は、曹洞宗に属し「金峯山不動院大善寺」と称します。天平元年(728)、諸国行脚中の僧行基が、この山に金峯蔵王権現と、自ら彫刻した不動明王を祭り、その別当として建てられたのが大善寺であると言われています。そのときおはらいをする水に困った行基が、杖で岩を打つと清水が湧きだしました。その場所が、このコンクリートで囲まれた井戸のあたりであると伝えられています。康平6年(1063)、前9年の役の戦功により、三浦の地を与えられた平大夫為通は、三浦の姓を名のり、この山のほぼ全域を城としました。それが衣笠城です。衣笠城は第7代泰村が、北条時頼との争いに破れ、一族500余人と鎌倉の法華堂で宝冶元年(1247)に討ち死にするまで184年間、三浦一族の本城でした。大善寺は、蔵王権現、不動堂は、衣笠城のなかにあって、三浦一族の学問や仏教信仰の中心的な役割を果たしました。とくに不動尊は、第2代為継が後3年の役に出陣したとき、戦場に現れ敵から射かける矢を打ち払って、為継を守ったと伝えられています。「矢取不動」の名称は、その伝説によります。また、行基によって開かれた泉は、衣笠城の重要な生活用水でした。いつのころからか、「不動尊御手洗池」通称「不動池」と呼ばれるようになりました。現在、蔵王権現社も不動尊も残っていませんが、不動明王像は大善寺に本尊として祭られています。今ある大善寺は、明治29年に全焼した本字を昭和10年に再建したものです。」石段の途中左側にあった「大善寺門前の庚申塔群」を見上げて。神奈川県は庚申塔の密集地で、我が藤沢市内にも多数分布している。三浦半島でもそのことは同じだが、三浦半島の特徴は一ヶ所にたくさんの庚申塔があることと。しかし古くからそうであったのか、あるとき集められてそうなったのかは分からない。大善寺へ登る石段の脇に、きちんと立つものだけでも10基あった。足場が悪く近づくことが出来なかったが、向かって右のものから3基は順に嘉永元年(1848)、文化・・(1804-18)、宝暦八年(1758)と年号銘を読むことができた。向かって右側5基は六臂青面金剛(ろっぴしょうめんこんごう)塔、左側5基は文字塔と区分けされているので、立てられた順に並んでいるのではないことが分かる。あるとき集められたものかも知れないと感じたのであった。石段下左には「箭執(やとり)不動尊」と刻まれた石碑が。御本尊の不動明王像は、衣笠城を築城した三浦為通が城内に安置したもので、敵が放つ矢を受け止めたことから「箭執(やとり)不動」と呼ばれているのだ と。「大善寺」の境内に向かって、急な石段を上る。途中、石段右側にあった、苔生した石碑類。ズームして。中段の境内に建つブロック製の祠の内部にも地蔵尊石仏が並ぶ。中央に蓮華座に鎮座する前掛けをした地蔵坐像/右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵尊坐。地蔵石仏が鎮座する中段の境内から眺めた本堂....石垣の雛壇に石仏や石燈籠などがあった。下の雛壇に立つ2基の石燈籠....宝暦七年(1757)の造立で、笠の上に異形の請花と宝珠が乗っていた。石燈籠(右)。石燈籠(左)。さらに頑張って石段を上る。切妻造板葺の手水舎....手水鉢に漱盤と彫られ、柱に「嗽盤堂」と書かれた木板が掲げられていた。これは井戸?入母屋造本瓦葺風銅板葺の本堂。本堂は昭和10年(1935)の再建。【山号寺号】金峯山不動院大善寺【宗派】曹洞宗【創建】天平元年(729)【開山】行基言薩【本尊】不動明王(不動)天平元年(729)諸国行脚中の行基がこの地を訪れ、後に衣笠城となる山に、自ら彫刻した不動明王を祀った不動堂と、金峯蔵王権現を祀った社を建てた。この不動堂と金峯蔵王権現社を管理する別当寺として建されたのが、大善寺のはじまりとされる。奈良時代の古刹であり、三浦氏の学問、仏教信仰の中心的な存在であったと言われる。三浦氏のニ代為継は、後三年の合戦に出陣し、戦いの最中この不動明王が敵の矢を払し、落とし、為継を守ったという言い伝えがあり、この不動尊は別名「箭執(やとり)不動」という。また、大善寺で発見された毘沙門天立像は、奥州・平泉の中尊寺金色堂・増長天像との類似性が認められ、鎌倉文化圏における平泉仏教文化の影響を受けた唯一の仏像でもある。」と「資料」から。「横須賀市指定重要文化財 木造阿弥陀三尊像 昭和60年(1985年)4月25日指定大善寺の阿弥陀三尊像は、檜材の一木割矧造〔一木の材で彫るが、途中で縦半分に割り、中空としてつなぎ合わせる〕彫眼で、その制作時期は12世紀後半=平安時代末期と推定される。中尊の阿弥陀如来像は像高89.2 cm、裙〔くん・下半身に巻く一枚の布〕を着け、袈裟を偏袒右肩〔へんだんうけん・左肩を覆い右肩に僅かにかける〕にまとい、来迎院を結び、右足を外にして結跏趺坐〔両足の甲を反対の足のももに乗せる座り方〕する。脇侍の観音菩薩像は像高89.5 cm、死者の魂を乗せて運ぶといわれる蓮台を両手で捧げ持っ姿で、右足の膝を軽く屈折させて前に出す来迎の動きをみせている。勢至菩薩像は像高91.1 cm、胸前で合掌する。本阿弥陀三尊像は江戸時代の後補や破損部分が多いものの、阿弥陀如来像の胸部の造形や背面の翻波式衣文[ほんばしきえもん・衣の皺を丸波・角波あるいは大波・小波で交互に彫る〕など平安時代末期の特色を良く表現している。三浦氏歴代の本拠であった衣笠城跡に建つ大善寺は行基の開創を伝える古刹で、明治以降は不動三尊像を本尊とするが、それ以前は本阿弥陀二尊像が本尊であった。極楽浄上への往生を願う阿弥陀信仰は12世紀頃から一般的になるが、本像は三浦半島でも最占の遺存例である。」横須賀市指定重要文化財 木造伝毘沙門天立像 平成25年(2013年)3月11日指定大善寺の伝毘沙門天立像は、檜材の寄木造で玉眼を嵌める。その制作時期は平安時代末から鎌倉時代初頭と推定される。像高92.0 cmで、髪を垂髻〔すいけい・頭頂部で束ね、根本とその上部の2カ所で結い、その上を垂らす〕に結い、右手を高く振り上げ、腰をひねり、眉をひそめて左斜め下方を向く。このような姿形は、岩手県の中尊寺金色堂正面壇に安置される増長天立像と様式的に著しく一致しており、本像最大の特徴となっている。『吾妻鏡」によれば、源頼朝は文治5年(1189年)の奥州合戦の折に、中尊寺諸院の壮大な伽藍に感嘆したといわれ、鎌倉に戻り源義経や藤原泰衡らの怨霊鎮魂のため、中尊寺ニ階大堂大長寿院を模倣して永福寺を建立した。この合戦には三浦一族も参陣したが、永福寺奉行人の筆頭となる三浦義澄を初めとして、頼朝同様に平泉の仏教文化に多大な影響を受けたことが、本像制作のきっかけになったのであろう。中尊寺金色堂様式の仏像は平安時代末期に平泉を中心として、東北・北関東に分布したが、本像はその南限であり、鎌倉文化圏における平泉仏教文化の影響を受けた唯ーの仏像でもある。 平成27年3月31日 横須賀市教育委員会」「木造阿弥陀三尊像」。「木造伝毘沙門天立像」。本尊矢取不動明王。地蔵尊は衣笠町にあった福壽院という寺が、明治期に廃寺された折り、本尊福壽地蔵菩薩を当寺に合祀したと伝わるが、詳しい記録が無く、縁起等は不明。『吾妻鏡」によれば、源頼朝は文治5年(1189年)の奥州合戦の折に、中尊寺諸院の壮大な伽藍に感嘆したといわれ、鎌倉に戻り源義経や藤原泰衡らの怨霊鎮魂のため、中尊寺ニ階大堂大長寿院を模倣して永福寺を建立した。鎌倉にある永福寺のイメージをネットから。移動して再び本堂を見る。本堂の正面。扁額「大善寺」。昭和10年(1935)に再建した堂宇の前に一対の江戸期の狛犬がいた。天明8年12月の奉納で、石工源ェ門とある。顔の彫りもよいが、前脚の形と首まわりの巻き毛、尻尾の渦毛が盛り上がり重厚な逸品である。神仏習合の名残を残す一対であろう。本堂正面右側の狛犬。後ろ姿。本堂正面右側の狛犬。後ろ姿。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.17
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参道から大殿前に至る階段...18段。阿弥陀仏の本願、第18願。 大殿に登る階段...25菩薩をあらわし、25の階段となっています。 増上寺・大殿と東京タワーのコラボレーション。「増上寺」と書かれた扁額。 正面では無く右側の入口から本堂へ。大殿の内部。ご本尊の阿弥陀如来。 高祖善導大師。 僧侶が舞楽を奉納する際に使う太鼓等の道具か? 大殿回廊から境内、三門を見る。 増上寺境内の西側を大殿回廊から見る。 正面左側は増上寺会館。蘇鉄と三波石(さんばせき)。三波石は、群馬県藤岡市などで産出される岩石。青緑色で白い縞模様があるものが、よく庭石などに利用されているのだと。 安国殿と東京タワー。戦災で焼失した大殿の代わりに仮本堂としていた建物を、昭和49(1974)年、新大殿完成の折りに境内北側に移転し、御堂「安国殿」とした。老朽化のため、平成23(2011)年法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として徳川家康公が成し遂げた"天下泰平の世(安らかな国づくり)"を願い、新しい安国殿が建立したと。 安国殿には、徳川家康が深く崇拝した念持仏の秘仏、黒本尊阿弥陀如来が祀られている。安国殿内部。本堂中央に本尊である、恵心僧都の作と伝えられる秘仏「黒本尊」。そして右側には阿弥陀如来立像。左には皇女和宮の等身大の御像および徳川家御歴代並びに一門の尊霊の位牌等が祀られていた。安国殿前から大殿を見る。西向聖観世音菩薩方面を見る。 西向聖観世音菩薩(にしむきせいかんぜおんぼさつ)。鎌倉時代、執権・北条時頼公が観音山(現:東京タワー)に辻堂を建て、鎌倉街道(現:六本木方面)に向けて安置した石像の観音様。子育て・安産に霊験あらたかと。昭和50(1975)年浄土宗開宗八百年記念の境内整備事業として、現在の安国殿前に尊像を遷座、昭和55(1980)年1月に観音堂落成。江戸三十三観音札所で聖観音像は子育て開運の利益大と言われていると。「西向観音」と書かれた扁額。西向聖観世音菩薩の前には、おびただしい数のお地蔵さんが。子どもの無事成長や健康を願って、順次奉安されていると。風車が圧巻。「千躰子育て地蔵尊」。安産、子供の無事成長、健康を願っていると。 ズームで。 石仏も。 増上寺境内の西側には、可愛い地蔵がずらりと並んでいた。4月2日~7日に開催される「御忌」のポスター。「一筆写経」 の案内。安国殿の片隅に筆ペンと用紙が用意されていて、書写した写経と納経料の500円を納めると南無阿弥陀仏の御朱印がいただけると。「黒本尊」の御朱印を頂きました。こちらにも「千躰子育地蔵尊」。千躰子育地蔵尊は子育てや安産にご利益あり、子供の無事成長や健康を願って、子育て地蔵が順次奉安され続けていて、赤い頭巾をして風車を持っている服を着た可愛い地蔵さんが並んでいた。熊野(ゆや)神社。元和10(1624)年、当寺第十三世正誉廓山上人が熊野権現を増上寺鎮守として東北の鬼門に勧請したもの。『熊野』は「クマノ」・「ユヤ」と二通りの呼称がありますが、ここでは「ユヤ」権現として親しまれているのだと。手水舎。「熊野みこし講 創立40周年記念碑」。記念碑正面には、創始者である綿貫次郎氏の名前と熊野みこし講の発足について、石碑に彫刻されていた。「め組」殉難碑。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたが、火事を消し止める火消しは、その「粋」のさいたる職業であったかもしれない。芝で火消しというと、「め組」である。実際、増上寺の境内には、増上寺門前を守った町火消し「め組」の碑がこれ。享保元年(1716)建立というから290年前に建てられたものである。これは、「め組」の殉難者・物故者の供養碑であるが、増上寺自体は寺社奉行、大名火消しの管轄であったと。弔魂之碑(ちょうこんひ)。西南の役(せいなんのえき)で戦死した看護卒(かんごそつ:看護師)の供養碑で、明治11年(1878)に建てられた。題額は山岡鉄太郎(鉄舟)。筆塚。比較的新しい石碑のようで「心と創造」と刻まれていた。筆塚は古くなった筆を供養し、筆への感謝と勉学の向上を願うもので、こちらの筆塚は平成16年に建てられたもので子どもたちへ 学べよ 努めよ 今がその時ですと彫られていた。。阿波丸事件殉難者之碑。第二次世界大戦も終りに近い、昭和20年(1945)4月1日夜半、台湾海峡で米国潜水艦クイン・フィッシュ号に不法撃沈され、2000人以上の乗船者のほとんどが死亡した事件。この不法撃沈され世界最大の海難事故となった犠牲者の御霊を慰める慰霊碑。南無阿弥陀仏平等・・・と刻まれた石碑。再び安国殿と東京タワー。
2017.03.30
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そして次はこれも訪ねた「バターリャ(ポルトガル語でBatalha)」👈リンク。バターリャは、レイリア県にある地方自治体。中心市街地には、7,500人ほど、そのほかの行政区を含めて、15,000人が居住している。北と西をレイリア県の県都であるレイリアと接し、南東部では、サンタレン県のアルカネナ、南西部は、南西部は、ポルト・ド・モスと接する。バターリャの歴史は、ジョアン1世が1385年8月14日にアルジュバロータの戦いでカスティーリャ王国軍を破ったことを祝して建設したバターリャ修道院とともに始まった。バターリャとは、ポルトガル語で「戦い」を意味する。このバターリャ修道院は、ユネスコの世界遺産に登録されている。聖母マリアに感謝を捧げるため、修道院が建設された。このバターリャ修道院は、ユネスコの世界遺産に登録されている。歴代指揮をとった建築家は15名、100年以上の歳月をかけて築いた。その中でも、6人の建築家の名前(アフォンソ・ドミンゲス、フュゲット、フエルニヤーオ・ド・エヴォラ、マテウス・フェルナンデス、ディエゴ・ボイタック、ジョアン・ド・カスティーリョ)が知られている。また、膨大な人的、物的資源が投入されると同時に、バターリャ修道院の建設を通して、ポルトガルは国内では未知であった建築技術、芸術様式が導入され、独自の発展を遂げた。外観はゴシック様式。バターリャ修道院外壁の石灰岩が時の経過と共に黄土色に変色し、更に雨風に晒される事で黒ずみ、外観からだけでも歴史の重みが感じられ、威容な雰囲気のあるこの修道院。正面の上部窓は幾何学模様のゴシックウィンドウ。西側の広場に面している修道院の入口は、アーチ・ヴォールトの形をとっている。そのヴォールトの中には、78の聖像が飾られている。78体の聖像は6列に分けて並んでおり、それぞれに旧約聖書に登場してくる王、天使、預言者、聖者が天蓋の下に並んでいる。また、ヴォールトから地面へとつながる部分の両脇には、使徒と鎖で縛られた悪魔の彫像がある。加えて、修道院の入口のアーチ・ヴォールトの上部の三角形のような形をしたスペースには、キリストの戴冠の様子が彫刻で施されている。中央扉口左側。使徒と鎖で縛られた悪魔の彫像。中央扉口右側の使徒。ゴシック様式の尖塔。外壁の石灰岩が時の経過と共に黄土色に変色し、更に雨風に晒される事で黒ずみ、外観からだけでも歴史の重みが感じられ、威容な雰囲気のあるこの修道院。2世紀にかけて、15人の建築家が携わり、国内では未知であった様々な建築技術、芸術様式が導入さた事が理解できたのであった。「未完の礼拝堂」は、ジョアン1世の息子のドゥアルテ1世の命でドミンゲスの後を継ぐダヴィ・ウゲットにより着工された。100年ほど工事が続けられたが、1521年に即位したジョアン3世がジェロニモス修道院の建築に集中し、バターリャ礼拝堂の建設を中止したため、未完に終わっている。王の回廊。回廊の装飾はマヌエル様式と呼ばれるポルトガル独自のもの。レースのようにきめこまかに図柄が刻まれている。中庭の緑も美しく。植栽は幾何学的に。回廊の狭間飾り。中央には天球儀、左右にはエンリケ航海王子の十字の紋章が刻まれていた。食堂の入り口の手洗い場を。教会は奥行き80m、高さ32m。ポルトガルで最も古いステンドグラス。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.26
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【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンクそしてこの日の最後に訪れたのが「蓮光寺」。綾瀬市上土棚中2丁目15-43。「宗歌「月かげ」月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ 法然上人御作」以下 ネットから。ある時、子どもさんが「月かげというのは、お月さまにより出来る影ですか」と聞いてこられました。「月かげは、月の光という意味で影ではありませんよ」というお返しをすると、「いたらぬさとはなけれども、はどういう意味ですか」と。「届かないところはないという意味だよ。山も丘も私達の村も、みんな月に照らされているのだよ」と答えました。すると「影になるところは光は照らしていないのではありませんか」と。良い質問だなあと思いました。「その通り。この光というものは必ず影を作りますね。ところが、このお歌の月かげは遮ることができない光で、影のできない光です。だから私達のいのち・こころの一番奥にある、日ごろ気づかない世界まで、この月の光は照らしてくださっているのですよ」と。道路脇の「お掃除小僧」。この「お掃除小僧」は左利きなのであろうか?「浄土宗開宗八百年記念 浄土宗 蓮光寺」碑。「六地蔵」。六地蔵縁起仏祖釈迦如来が入滅されてから弥勒菩薩があらわれるまで、多くの苦しむ者を救ってくれた仏として地蔵菩薩は信柳されている。六体の菩薩を六地蔵と言い、六道のそれぞれのところで苦しんでいる者をお助けくださり、また子育て延命地蔵として人々をお守りくださる仏とされ、お地藏さまは多くの人に信仰されている。 六地蔵菩薩(持ち物) 六道 一、大定智悲地截(錫状) 地獄道 ニ、大誌清浄地截(加意) 餓鬼道 三、大光明地截(数珠) 畜生道 四、清浄無垢地截(合掌) 修羅道 五、大清浄地截(春炉) 人道 六、大堅固地截(衣服) 天道 掲示板には「小さな継続 大きな実り」と。コッコッど日々努力を続けること。その先にはきっよい結果が待っています と。「清水山といい浄土宗芝増上寺の末寺で、本尊は阿弥陀如来てす。文禄三年(一五九四)地頭遠山佐左衛門安則により開基され、僧念誉上人を迎え開山されました。境内の地蔵堂には子育て延命地蔵(回り地蔵)が安置されてあり、市指定文化財の旧本堂の内陣欄間彫刻もこの堂内に保存されています。また、地蔵堂の上にある遠山氏累代の墓碑群も市指定文化財になっています。」「唯物是真」と刻まれた石碑。世間(せけん)虚仮(こけ)唯仏是真(ゆいぶつぜしん)の一部。この世にある物事はすべて仮の物であり、仏の教えのみが真実であるということ。天寿国曼荼羅 (てんじゅこくまんだら) に記されており、聖徳太子の言葉という。 「弁財天堂」。案内板。内陣には弁天様が。左手に石仏群。一番左の「徳本六字名号塔」文化十四(1817)年七月徳本の石塔を境内に建立。徳本上人(1758~1818)は文化十二年・十四年相模国を巡回。中央は「地神塔」であろうか。「五穀護神」等の文字が。右は「清水山蓮光寺 南無阿弥陀仏」の文字が確認出来た石碑。そして「山門」。扁額「清水山」。「仁王像 阿形像」。お顔をズームで。「仁王像 吽形像」。お顔をズームで。「金剛力士(仁王)は、いつもお釈迦様の身近にあって釈迦の身辺を護る単身の守護神でした。後に、中国で寺門の左右に安置されて一対(ニ王=仁王)のものとなり寺院の守護神となりました。金剛力士は門前にあることから私たちの目に触れることが多く「仁王さま」と呼ばれて親しまれています。健康の象徴として病を治すために、紙つぶてを自分の患部と同じ箇所に投げて当たれば願いが叶うとか、健脚の神とし崇められ、大きな草履を奉納するなどの庶民の信仰を集めている。口を開いた像が「阿形」、口を閉じた像が「吽形」で「阿」はすべてのものごとの始まりを「吽」はものごとの終わりを意味し、「阿吽」で宇宙全体を表しています。ちなみに、息がぴったり合うことを「阿吽の呼吸」という言い方は仁王さまの「阿形」、「吽形」からきたものです。仁王さまは「素直な心をもって、仏の教えに帰依するように」と門前から私たちに説かれているのです。」「蓮光寺」の大きな「本堂」。中央に「ただ一向に念佛すべし」と刻まれた石碑。合掌している手の姿であろうか。この灯籠は・・・。「南無阿弥陀佛 佛子源空」の文字が。「源空」は「法然」の諱(いみな)・実名。「この灯籠は浄土宗開祖法然上人八百年遠忌を迎えるに当り、法然上人のご遺徳を偲び「念仏のみを教え、報恩のともしび」を檀信徒の皆様にお伝えいたしたく、建立したものです。制作は造形美術家・日展参与三橋國民先生の創作によるもので、神奈川県内三十カ寺の浄土宗寺院に建立された貴重な灯籠です。法然上人のご命日に当る二十五日夜には、ろうそくに明かりを灯し、私たちの心に明るさと暖かさを灯し続けていきたいものです。」「摩尼車」。「摩尼車摩尼とは摩尼宝珠とも如意宝珠とも言い宝珠(摩尼)には不幸災難を除き、濁水を清澄にするなどの徳があると言われています。そこから、宝珠は仏さまの徳やお経の徳にたとえられるようになりました。摩尼車を一回転させるとお経を一巻読んだのと同じ功徳が得られるといわれています。この摩尼車には『般若心経』が刻字さされています。摩尼車に軽く手を当てて、手前に回して下さい。その時、次の経文を唱えて下さい。『羯諦 羯諦 波羅羯諦(ぎゃーていぎゃーてい はーらーぎゃーてい) 波羅僧羯諦(はーらーそうぎゃーてい) 諦菩提薩婆訶 般若心経(ぼーじーそーわーかー はんにゃしんぎょう)』「旅立ちの法然さま」像。「法然上人像」。お顔をズームで。蓮華弁から流れ落ちるニ条の清水の「手水場」が「本堂」前にも。湧き水を循環していると下記の如くに。反対側には石碑も。「当寺は清水山徳泉院蓮光寺と称し、文禄3年(1594)徳川家康公の家臣で旗本遠山佐左衛門安則によって創建された浄土宗の寺です。依頼、法然上人の専修念仏の法灯を受け継ぎ今日まで約410年の歴史を刻んでいます。「清水さん」の山号の由来は、400年来枯れることなく湧き出している清水に依るものと思われます。平成17年初夏、渾渾と湧き出る清水を循環、濾過させる全国の寺院でも例を見ない天水桶・手水鉢の寄進の縁を得、ここに竣工の慶事を見る事ができました。御参拝の皆様、蓮華弁から流れ落ちるニ条の清水で心身共に清々しい気持ちになられてご本尊阿弥陀様、ご先祖様にお参りをなされますように。」「本堂」にお参り。扁額「南無阿弥陀佛」。「本堂」の内陣。中央にご本尊の「阿弥陀如来」。本尊の脇侍は聖観世音菩薩像と勢至菩薩像。彫刻も見事。木鼻(右)。木鼻(左)。禅宗寺院の花頭窓(花灯窓)、鐘、風鈴も。本堂前から境内、山門を見る。それにしても境内に、仏像、石碑が溢れている「蓮光寺」。まだまだ続くのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.16
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次そして漸く「藤沢市」と「大和市」の市境・「大和市」側に建つ曹洞宗の寺「雲栄山 宗昌寺」に到着。ここから漸く「大和市」に入ったのであった。大和市福田1544。寺号標「曹洞宗 宗昌寺」。「本堂」。本尊は元禄14年( 1701年)銘の釈辺如来座像。慶安元年(1648年)に北条氏直の家臣・鈴木宗昌によって建立された寺。扁額「宗昌寺」。「本堂 内陣」。「萬霊殿」、永代供養塔であろうか。「地蔵堂」。大小の地蔵尊が。そして「宗昌寺」を後にすると「大和市」の「汚水マンホール蓋」に気がつく。大和市の市の花「のぎく」をデザイン。「やまとし」「おすい」の文字。「宗昌寺」の裏手を北に向かって進んで行くと「飯都社奮趾(飯戸明神跡)」👈リンク と刻まれた石碑(左)があった。明治四十二年(1909)、正面:飯都社奮趾 明治四十二年 一月建立「飯都社」とは廃寺となった「飯戸明神」のことであるとのこと。そして庚申塔(右)天明三年(1783)正面:庚申塔 右面:維時天明三癸卯□ 左面:[ ]久保邑講中更に北上し左折して西に進み「引地川」に架かる「福田橋」を渡る。途中、農道横にあった産直野菜販売所。現在はイチゴを販売しているようであったが、店頭には日向ぼっこのオバチャン達の姿が。民家の庭の桜も咲きだして。そして前方に見えて来たのが「福田山 蓮慶寺(れんけいじ)」。大和市福田1279。「山門」。寺号標石「福田山 蓮慶寺」。「本堂」。真言宗大覚寺派の寺。「福田開拓九人衆の一人で、修験者とも医者ともいわれる小林大玄は、諸国を出歩き、やがて帰宅しなくなった。大玄の妻・イトはこれを悲しみ、山に籠って村人に危害を加えるようになる。困った村人は花見の宴を催してイトに毒酒を飲ませ、亡き者としたが、やがてイトの怨霊に悩まされるようになる。そこでイトの霊を慰めるため村人は鎌倉の建長寺から姥像を勧請し、一堂を建立してこれを安置したと伝えられる。その後この像は子供の百日咳などに霊験あらたかであるとして崇敬されるようになった。」とウィキペディアより。「寺務所」。境内の隅には石仏が。二体の石仏が仲良く並んでいた。左側に「唐破風笠付角柱 庚申塔」寛文9年(1669)9月地蔵菩薩(合掌)・一猿?(痕跡)右側面「爲庚申供養之也 寛文九己酉天 九月吉日」左側面「請願成就皆領満足 願主 廿[五人]」そして右側には「文字庚申塔」。裏側から見る。「市指定重要文化財(有第十号 木造優婆尊尼(うばそんに)坐像 案内板指定年月日 昭和五十六年八月一日形状 像高四〇・八cm構造は寄木造で、玉眼嵌入(ぎょくがんかんにゅう)、肉身部は漆箔(しつぱく)、衣部は彩色となっています。髪を中央で左右に分けて長くたらし、ロ・両眼とも大きく開く一種の憤怒相(ふんどそう)であり、歯や舌も克明に刻んでいます。露出した胸部には肋骨と、しなびて垂れさがった乳房が写実的に表現され、面部とともに妖しげな老婆の雰囲気を巧みに表しています。右手は膝上で握り第二指のみ伸ばし、左手はスカーフのような布を持っています。造像時期を示す銘文などは残されていませんが、作風から室町時代後期に造像されたものと考えられます。また、福田地区にはこの像にまつわる「姥山」(うばやま)伝説が残されています。平成九年三月 大和市教育委員会」「木造優婆尊尼坐像」をネットより。 【http://www.city.yamato.lg.jp/bunnka/hyakka/art_archives_bunkazai_18.html】より「慰霊五輪塔」👈リンク正面から右塔より「海軍二相空特幹普通科練習生殉職者諸霊」「海軍六期飛整予備学生戦死者二十七名之霊」「昭和十八年二月八日遭難龍田丸一四八一名之霊」裏面:「施主 名誉住職 渡辺全龍 平成十二年三月吉日」「篤志者 高橋和殿(檀家) 金拾万円也 六期追浜会有志殿」「施主 渡辺全龍(龍田丸船長 木村庄平 次男)」大東亜戦争で戦没、殉職された方々の慰霊のための五輪塔であり、平成12年3月に建立された。・右手の五輪塔は、第二相模野海軍航空隊における普通科練習生殉職者の慰霊塔である。 この航空隊は昭和18年に開隊した航空整備員の教育訓練部隊である。なお、刻字中、特幹と あるがこれは陸軍の特別幹部候補生のことと思われる。なぜここに書かれているか不明である。 蓮慶寺の住職によって建立された。・中央は、飛行機整備予備学生の戦没者の方々の慰霊塔である。第六期は、追浜海軍航空隊 に昭和18年頃に入隊されたものと思われる。・左手は、昭和18年2月8日に沈没した龍田丸の乗員の慰霊塔である。龍田丸は昭和5年に就役した 日本郵船の遠洋客船で、太平洋戦争中は海軍に徴用され、トラック島への兵員輸送中、米潜水艦 ターポンの魚雷攻撃により撃沈され、乗組員198名、乗船員1283名の計1481名全員が死亡した。 碑文から判断すると、住職は龍田丸船長の次男であると ネットより。塔高175cm、台石10cm。「本堂」を斜めから。そして「蓮慶寺」の横にあったのが「山王社」。ここも「蓮慶寺」の境内なのであろう。大和市福田1279.小さな「社殿」。「内陣」。「石祠」。「山王社」の社殿前から「蓮慶寺」の屋根、墓地を見る。更に北に向かって進むと、民家の屋敷の中にも神社が。子供の頃は、我が実家の屋敷内にも神社があったことを想い出したのであった。そして東海道新幹線のガード下を通過。「第2引地Bv 42K718M」の表示プレート。 Bvとは「架道橋」のこと。BはBridgeの略。鉄道が道路を渡る橋である。高架式の鉄道でよく見られるほか、地平を走る鉄道でも道路が線路の下を通っている場合は、架道橋と呼ばれるのだと。逆に道路が鉄道を渡る橋は跨線橋(Bo)であるが、これは道路橋の範疇である。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.11
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「建長寺」の境内の散策を続ける。正面に「仏殿」。桁行三間、梁間三間、一重もこし付、寄棟造、瓦棒銅板葺、もこし正面軒唐破風付 。ここ建長寺は総門・山門・仏殿・法堂がほぼ一直線上に並び、唐門・方丈はその左後方に建っているのだ。正面の火灯窓は末広がり、側面の火灯窓は縦に真っ直ぐの円覚寺舎利殿に見られるような初期の様式になっているのだと。「仏殿」の手前中央に「建長興國禪寺」と刻まれた「常香炉」。「常香炉」の脚には・・・。裳階には三門と同様に軒唐破風が付けられていた。「常香炉」の屋根には龍の像が。「仏殿」の扁額は「祈祷」。「仏殿(国重要文化財)建長寺の本尊・地蔵菩薩を安置。北条時頼公と開山大覚禅師(蘭渓道隆(らんけいどうりゅう))の衆生済度の願いが込められています。毎月一日・十五日の祝聖、ニ十三・ニ十四日の開山例月忌、開山忌などの法要がここで行われます。現在の建物は、創建当初より四代目のものといわれ、東京・芝・増上寺にあった徳川ニ代将軍秀忠公夫人(お江の方、家光の母)の霊屋を建長寺が譲り受けました。仏殿前の庭園の柏槇は開山禅師のお手植え、古木は樹齢七百六十年です。」この日は「おびんずるさま」が「仏殿」内部に。前回は「三門」の下に?「おびんずるさま」に触れると、触れた身体の悪い箇所が治ると言われる仏像。頭を一生懸命に撫ぜさせていただきました。建長寺の本尊・「地蔵菩薩像」。建長寺仏殿本尊「地蔵菩薩像」は、室町時代に作られた仏像。鎌倉地方特有のスタイルである法衣(ほうえ)を台座より下に垂らす法衣垂下(ほういすいか)が確認できます。このスタイルは、鎌倉円覚寺の薬師三尊坐像、円覚寺の宝冠釈迦如来、浄智寺の阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来でも見ることができます。天井を入れて。座高239.5cm、蓮華座を入れると479.5cmもある巨大な「地蔵菩薩像」。本尊の上部は二重天井になっており、そこだけは折上格天井(四辺を曲線で持ち上げた格天井)となっていた。手には宝珠と錫杖を持つ姿が確認できます。以前、地蔵菖薩の胎内には、齋田左衙門の身代わりになったとされる齋田地蔵が収められていましたが、現在は取り出され別の場所に保管されています。お顔をズームで。地蔵菩薩は、地獄に堕ちた人々を救う菩薩で、大「地」の「蔵」する力を使って苦しむ人々を救済すると。臨済宗なら釈迦牟尼(しゃかむに)が一般的であり、地蔵菩薩があるのは珍しいと。瑞鳥(ずいちょう)を描いた格天井。仏殿の本尊・「地蔵菩薩像」の上の天井に描かれた絵画は、中国文化が色濃く出ているのではと。天女(飛天)の姿が描かれていいたのであろうか?本尊の右後方の欄間にも迦陵頻迦(かりょうびんが=天女)が彫られていた。「鳳凰」の姿も。仏殿内部に祀られている「伽藍神」。寺院の土地や建物を守るための神で、大覚禅師来日の縁を作ったとされています。本尊の左後方の脇檀には、十六羅漢像が7幅。仏殿のご本尊に向かって右側の壁にある仏像。「伝心平寺地蔵」昔、建長寺のある谷には地獄谷と呼ばれる刑場と心平寺というお寺があり、廃寺となりお堂だけが残った。 御堂は建長寺を建てるときに巨福呂坂上に移されたが、明治の道路整備の折に横浜にある三渓園へと移築され、原家の持仏堂「天授院」として使われていた(重要文化財)。現在も三渓園を訪れると御堂を見ることができるのだ。心平寺地蔵は、建長寺の仏殿のご本尊に向かって右側の壁に千体地蔵に囲まれて祀られていた。 堂内は暗く、斜めからの拝観になるので御本体を見ることかなわなかったが、かろうじて足元を拝見することができたのであった。以前戴いた鎌倉二十四地蔵尊第九番 「心平地蔵尊」の御朱印。「済田地蔵尊」をネットから。鎌倉二十四地蔵霊場第十番「済田地蔵尊」。像高5.3cmと小さな地蔵尊。一木造、彫眼、金泥塗。厨子入。無実の罪に問われた斉田左衛門が斬首の刑になるところ、髻(もとどり)の中に納めていたこの小さなお地蔵様に刃があたり、左衛門は傷一つ受けることなく赦されたと伝わると。 【https://tuesgenial.exblog.jp/22929321/】より以前戴いた鎌倉二十四地蔵霊場第十番「済田地蔵尊」の御朱印。黄金の位牌。天皇家や源氏三代、北条氏、歴代住職の位牌が安置。「仏殿」の「地蔵菩薩像」を振り返る。そして再び「柏槇(びゃくしん)」を。左手には民家の如き建物が。「大本山 建長寺 調査研究所」と。仏殿」、「法殿」、「宗務本院」を見る。そして左側にあった「曙観音」。真っ白な美しい観音様。お顔をズームで。「曙観音由来記この像は曙物産株式会社創設者関松由氏の悲願により寄進されたものである。関氏は西伊豆の人、少年時代志をたてて郷関を出て辛苦精励し横浜中区曙町に曙物産株式会社を創立。幾多の積極果敢な怒濤激浪を突破する試練を経て社運の隆盛をこらした。氏は父母に対する孝養の念やみがたく生前本山に観音像の事を発願す。特に親子のきづなとも言うべき臍の緒を祀りて長く人の世の幸を請い願う。用材を台湾花連の大理石に求め原型を伊豆の彫刻家堤達男氏に依頼し花連の彫刻家林聰恵氏之を刻んで漸く成り像引取りの為台北に渡り完成目前にして突然過労にて8月2日彼の地に客死し不帰の人となる。氏の精霊は化して純白の石像となり永遠の時の中にあってこの地に止る。」石段の上に「震災追憶供養塔」。ズームして。「震災追憶供養塔碑」。👈リンク題額は当時の山階宮武彦殿下の筆。(昭和5年(1930年)銘)。石碑の表には『 嗚呼大正十二年九月一日人誰カ此日ヲ想起シテ戰慄セザルモノアランヤ …』で始まる長文が刻まれていた。後ほど歩いた「勝上嶽(しょうじょうがたけ)半僧坊道」碑。寄棟造りの「仏殿」を横から。桁行三間、梁間三間、一重もこし付、寄棟造で、建長寺の本尊・地蔵菩薩が安置されているのであった。柳下湖麿歌碑「雪の色 風の響きも 其儘か 釈迦の姿と 御声なり」「比田井天来(ひだいてんらい)先生碑」縦4m 横1・5m 上田桑鳩先生の揮毫された石碑。「現代書道の父」と呼ばれた比田井天来の碑。天来は1872(明治5)年、長野県北佐久郡協和村(現佐久市)に生まれた。上京して書を学び、1916(大正5)年から約2年間、建長寺の境内(正統庵)で古典の書法研究に没頭した。このとき筆を斜めに構える「俯仰(ふぎょう)法」を発見したことが、その後の書道界に大きな影響を与えた。そして再び「仏殿」を見る。そして次に「法殿(はっとう)」へと向かう。法堂(はっとう)は、法を説くための堂。現在の法堂は,文化5年(1808)に再建着手,文政8年(1825)に竣工した。棟梁は建長寺大工として知られる河内久右衛門が務めた。方三間もこし付の仏堂で,禅宗様を基調としている。身舎は二手先組物の詰組とし,屋根は入母屋造,銅板葺である。建長寺法堂は,大規模な方三間もこし付形式で,組物や軒廻りも大建築に応じた量感をもたせており,大型禅宗様仏堂として高い価値がある。要所に江戸時代後期らしい装飾性も認められ,建長寺大工の高い技量が発揮されており,近世の伽藍再興事業の完成と位置づけるに相応しい建築といえる。正面から。桁行三間、梁間三間、一重もこし付、入母屋造、銅板葺。法堂に掲げられている「海東法窟」の額は、かつては東外門に掲げてあったもの。「中国・宋から海を渡って仏法が伝えられた寺」という意味がある。西外門に掲げられている「天下禅林」の額と同じく竹西によって書かれたものと。「法堂【国重要文化財)昔は、建長寺全体が修行道場であり、山内にいる僧侶全員がこの法堂に集まって、住持の説法を開き、修行の眼目としました。三八八人の僧侶がいた記録があります。修行道場は、西来庵に移り雲水は、そこで修行しています。現在は法要・講演・展覧会などに使われています。この建物は江戸時代・文化十一年(一八一四)に建長寺派の寺院により再建されたものです。関東最大の法堂で、現在は千手観音を本尊としています。天井の雲龍図は建長寺の創建七百五十年を記念して、小泉淳作画伯によって描かれました。」「法堂」の内陣。中央に「千手観音像」と手前に「釈迦苦行像」。「千手観音像」。鎌倉三十三観音霊場第二十八番 建長寺 「千手観音 」。以前に戴いた鎌倉三十三観音霊場第二十八番 建長寺 「千手観音 」の御朱印。「釈迦苦行像」。極限の苦行・禁欲(断食)をしている姿を表現していると。「龍」。「華厳小宝塔」2009年(平成21年)4月、堂内に華厳小宝塔が安置された。吉田管長の願いにより諏訪の宮大工が製作したもの。建長寺には創建当初より華厳塔が建立されていたが、度重なる火災によって焼失し、以後再建されていないのだと。この塔の製作には、大華厳塔復興の願いが込められているのだと。「華厳小宝塔」華第とは宇宙全体を包括するという毘廬那仏(びるしゃなぶつ)のもと、自然界に大小さまざまな花が咲くように私たち一人ひとりが互いに輝く華となって一瞬一瞬を生き生きと、この世を美しく飾っていこうとする世界です。建長寺には創建当初より大華厳塔がありました。この度、この華厳小宝塔が完成しました。この様式は日本で他に例を見ない唐組三手先詰組仕様の物でこの塔が世界恒久の平和の礎となり、皆様を照らす大宝塔となることを念じます。」斜めから「法堂」内陣を。天井には、日本画家、小泉淳作による「雲龍図」が描かれていた。迫力の水墨画「雲龍図」。「釈迦苦行像」と「雲龍図」の案内書。「釈迦苦行像釈迦苦行像は、お釈迦様が極限の苦行・禁欲(物)を、行っているお姿を現したもので、顔に鬚を生やした姿は、極めて稀であるとともに、徹底的に肉体をも痛のつけよまな荒行をしていたことを表しています。この釈迦苦行像は、パキスタン北西部のガンダーラ文明の遺産で、ラホール中央博物館に、安置れているお像をもとに製作され、2005年愛知万博に陳列された後パキスタン国より建長寺に寄贈されました。※本仏像は、唯一バキスタン政府から公式承認され、国外への持ら出しが許可されたものです。」建長寺法堂天井画雲龍図2000年水墨画小泉淳作 1924ー2012建長寺創建750年を記念し奉納された、蹤l10mx横12m (畳約80畳分)の巨大な雲龍図。約5分の1の「小下図」と呼ばれる習作を描いたのち、実際の天外画を制作。画面は48分割された麻紙で構成されています。完成後に組子と呼ばれる支持体をもって天井に組み上げられ、2002年10月30日に点眼法要が執り行われました。建長寺「雲龍図」の龍は5本の爪を持っています。もともと日本の龍の爪は3本で、朝鮮半島では4本、そして古代中国王朝皇帝のみが、5本の爪を持つ「五爪(ごそう)の龍」とされていました。建長寺では、この最も位の高い「五爪の龍」が描かれてます。また同時期に小泉画伯により制作された京都建仁寺法堂「双龍図」にも、同じく「五爪の龍」が描かれています。法堂天井に雲龍図が上げられるのは理由があります。もともと法堂とは住職が壇上に上がり仏教の教えである「法」を説く場所でした。そして、龍は大自然の力を秘め、雲を呼び雨を降らすと言われておりました。「法堂で住職の説法を聞く人々に"法"の雨が降りそそぎ、染み渡るように」との願いが込められて、雲龍図が掲げられているのです。」「法堂」内陣を反対側から。法堂天井画「雲龍図」も別の角度から。どの向きが「雲龍図」の正規の姿なのであろうか?上記の写真の如き向きか?ズームして。外に出て「法堂」を横から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.04
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【海老名市歴史散歩】 目次そして「龍峰寺」の「仁王門」前に到着。「龍峰寺」は臨済宗建長寺派の禅寺として、1340(興国元)年開山円光大照禅師によって創建された。かつては少し南の台地、現在の市立海老名中学校敷地の一部にあり、北から南へゆったり流れる相模川の向うに秀峰大山を望む。鉄牛和尚(小田原、黄檗宗紹大寺)はこの絶景をたたえ、龍峰寺八景詩を残している。1928(昭和3)年現在の地に移築した。境内には旧清水寺の本堂であった観音堂があり、国の重要文化財である千手観音立像が安置されている。清水寺はいまからおよそ1300年の昔、国分尼寺境内にあった湧河寺がその前身である。鎌倉時代になって、1186(文治2)年、源頼朝公によって、千手観音立像と共に復興された。その後、1341(興国2)年に龍峰寺開山円光大照禅師によって再建され、さらに、1699(元禄12)年には現在の地に移築された。1989(平成元)年に解体修理が施されている。「龍峰寺」には清水寺の他に、真福寺(天文・南原)、林光庵(慶長・打出)、東福寺(長禄・望地)の末寺があったが、明治維新の廃仏毀釈に遭い、他の末寺は自ら廃絶に帰したが、清水寺だけは寺名や寺格を外されたのみで、境外の仏殿(観音堂)として残る法幸を得、古来より「水堂」の名で親しまれている。今日では、毎年正月元旦と大祭の3月17日の二回、一般公開されている。他に、観音堂、仁王門、仁王像、絵馬などが海老名市の文化財に指定されている と。海老名市国分北2丁目13−40。左手前の小高い場所には多くの大きな石碑が並んでいた。右から「田野口照蔵之碑西南役明治十年四月十一日◯肥後国山本郡萩迫村戦死」と。「芳名碑」日露戦争における戦没者28柱の慰霊顕彰碑文 戦没者の御芳名刻印 大正15年4月15日 建立 海老名村「忠魂碑」。戦没者24柱の慰霊顕彰碑文 本村出身殉国諸士の遺烈を仰ぎ 明治39年忠魂碑を建つ 大二は陸軍大将乃木希典閣下の 揮毫に係る 偶大正12年9月1日 関東大震災は之を倒壊粉砕せり 依て茲に再建の議成るや 幸に の将軍の原書を存せるあり 以て本碑に刻す 山田 嘉毅 謹書 明治39年 建立 大正15年4月15日 再建 海老名村 建立「義勇奉公」碑。碑文 昭和9年5月 海老名村 建立戦没者の芳名 刻印陸軍大将 林 銑十郎 書「英魂不朽」碑。戦没者 181柱の慰霊顕彰碑文 日華事変並びに太平洋戦争殉国諸士の遺烈を仰ぎ 広く町民の浄財に依り慰霊の碑を建立 英名を刻み後世に伝え 永く祭祀の誠を致さんとす。 昭和29年4月 海老名町 建立「従軍者氏名」。明治以来大東亜戦争終結までの従軍者の顕彰碑文 明治6年徴兵令が施行され国民皆兵となり 我等が先輩は各戦役に参加 大正15年4月15日 建立大いに国威を宣揚した。 昭和20年大東亜戦争の終結により70年の 歴史をとじたが、その遺勲を顕彰するため、有志相諮り明治百年記念事業として茲に従軍者の 名を刻し永く後世に伝える。 昭和44年7月 海老名町郷友会 建立参道の反対側には郷土かるた「き」「郷土史の 道をひらいた 中山翁」清水寺公園に、故中山毎吉先生の頌徳碑が建っています。先生は明治二十二年から大正十三年まで海老名の小学校訓導、校長をされ、また、青年の育成に努められました。そのかたわら郷土史の研究調査に尽力され「相模国分寺志」などを著し相模国分寺を中心とする郷土の史跡や文化財を顕彰され、わたしたちに郷土を大切にすべきことを示されました。「中山毎吉頌徳碑」。「中山毎吉先生ハ・・・・」と。「中山毎吉は、明治元年(1868)に高座郡国分村に生まれ、尋常高等海老名小学校長のかたわら、文化財や植物の研究を進め、相模国分寺跡などの保存に尽力した人物です。矢後駒吉とともに著した「相模國分寺志」は、国分寺研究の先駆的な研究・報告書として今日でも評価が高い学術書となっています。大正13年(1924)、56歳で小学校長職を退いた後、大正15年(1926)に海老名村が頌徳碑を建てました。撰文は大島正徳、書は鳥海幸助です。中山毎吉は、昭和17年(1942)に享年75歳で永眠されました。」とネットから。そして「仁王門」に向かって進む。寺号標石「臨済宗 建長寺派 龍峰寺」。「龍峰寺境内伽藍配置図」。「掲示板」「船頭が一人しっかりしていれば嵐が来ても船はしずまない」と。嵐=コロナ 船=日本 と読み替えたい!!船頭=新総理 に期待したい!!「気づかい気くばり思いやりそしてほどほどの距離」「子どもには親が望むような才能はなくても 親がわからないような才能があるものです」と。この寺にも「不許葷酒入山門」碑が。ここも禅宗の寺。そして朱の「仁王門」。「仁王門」とこの先にあった「観音堂」は一直線に並んでいた。「観音堂」と「仁王門」は元禄12年(1699年)にこの地に移ってきたときに建立され、現在の「観音堂」は元文2年(1737年)に再建されたものである。また、「仁王門」も寛延4年(1751年)に再建されたもので、かつての清水寺の「仁王門」だったと。「海老名市指定重要文化財 仁王門・仁王像」。「この仁王門は元禄十二年(一六九九)この地に観音堂と共に建立され、寛延四年(一七五一)に再建、昭和五十一年に解体修理されたもので、木造平屋建切妻造りの四脚門です。中の仁王像は密迹金剛力士(みっしゃくこんごうりきし)で共に魔を払い山内の鎮静を守護する像で像高約ニ一〇センチメートルです。寛延四年(一七五一)大仏師薩磨によって作られた忿怒形でよく整った容姿です。」藤の木が邪魔していて・・・なんとか解読できました。阿形像。下から見上げて。吽形像。下から見上げて。「鐘楼」。「梵鐘」。そして正面に「観音堂」が見えて来た。右手には「手水舎(水屋)」。水盤には「笹竜胆」の寺紋が。水口の龍。宝篋印塔の基部であろうか。こちらにも似たような「宝篋印塔」が。「句碑大山の 大きく坐る 刈田かな 九十五齡 竹ニ」。高台にあり眺めがよく、晴れていれば大山を望むことができるのであった。「十三重石塔」。「寶掌地蔵尊」。合掌した手の中に、宝があるのかもしれません。「寶掌地蔵尊」碑。お顔をズームで。「観音堂」がはっきり見えて来た。そして正面から「観音堂」を。扁額は「興徳山」。旧清水寺の山号であろうか。「海老名市指定重要文化財 観音堂(水堂) 江戸時代中期この建物は、相模国分尼寺に縁のある古刹で、旧清水寺の本堂で現在は龍峰寺の仏殿として使われています。元禄12(1699)年に清水寺が現在地に移転してきた際に建立され,元文2(1737)年に再建されたものです.総欅材で、身舎は単層、桁行・梁行ともに8.25mあり、屋根は向拝付入母屋造、内部天井は格式高い格天井となっています。昭和50(1975)年に市の重要文化財に指定され、昭和63(1988)年に解体修理が実施され現在に至ります。」「観音堂」の「海老虹梁」廻りの見事な彫刻。「観音堂」を横から見る。観音堂(旧清水寺本堂)裏。そしてこちらが「本堂」。石段を上がって。外の扁額は「瑞雲山」。内陣にも「龍峰寺」と書かれた扁額が。「本堂 内陣」本尊は釈迦如来坐像と迦葉・阿難像とのこと。手前の読経座。「内陣」の左側。「本堂」を斜めから。大きな花頭窓が確認できた。そして見事な木組みの下に「殿鐘」が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.01
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「源範頼の墓」を後にして、「桂川」の南側の商店街の道まで戻る。これから訪ねる場所を確認。商店街を「桂川」の下流方面に戻って行った。左手にあったのが懐かしき射的場「初音遊技場」。右手奥にあったのが「宙 SORA 渡月荘金龍」。鉄塔の下には源泉があるのだろうか。「竹そば 八百考」の店頭には、蕎麦を打つ姿の「ひょっとこ」の如きオジサンの姿。左手にあったのが「桂川 花小道」。伊豆修善寺温泉に佇む旅館、湯の宿 花小道は江戸川乱歩など文人・画人に愛された名旅館。大正時代に建築された創業当時の木の温もりを大切にレトロな雰囲気漂う新しい宿として生まれ変わったと。大正・昭和の香り漂うノスタルジックな館内では、日本建築の美しさも味わえる。全13室ある客室は、床の間があり和の雰囲気も味わえるツインルームの洋室。館内にある2つの内湯と2つの貸切露天風呂を利用できる。食事処は桂川を望める和食レストラン。ドライヤー、バスアメニティ完備。女性客は色浴衣と浴衣等を入れて浴場へ持ち運べる籠を無料で利用できる と。この宿にも「内裏雛」が。店頭脇にあった木造彫刻はなんとなく異国風。「指月殿」へはここを曲がれと。そして坂の上にあったのが「指月殿」。桂川を挟んで相対する鹿山の麓にあった。修善寺で暗殺された頼家の冥福を祈って母政子が修禅寺に寄進した経堂で、伊豆最古の木造建築物といわれている。この時宋版大蔵経、釈迦三尊繍仏なども合わせて寄進し、門前の虎渓橋も架け替えたといわれている。堂内中央に禅宋式という珍しい様式の丈六釈迦如来座像が安置されているが、持ち物はないはずの釈迦像が右手にハスの花を持っているのが特徴と。堂に向かって左手に頼家の墓があった。静岡県伊豆市修善寺934。扁額「指月殿」。扁額の実物は、宋の名僧一寧一山(いちねいいっさん)の書といわれ、修禅寺本堂に保存されている と。右手に蓮の花を持つ「釈迦如来坐像」。「釈迦如来坐像」の体内には経典が納められており「為征夷大将軍左金吾督源頼家菩提、尼置之」と書かれた北条政子の直筆の墨書があったと。(修禅寺宝物館蔵)お顔をズームして。「北条政子」のデジタルスタンプラリーのパネル。源頼朝の妻。北条時政の長女で北条義時の姉。「指月殿この地で非業の死を遂げた鎌倉幕府二代将軍頼家(よりいえ)の冥福を祈り、母北条政子(ほうじょうまさこ)が建立したもので、伊豆最古の木造建築と言われている。指月とは経典を意味し、禅家が愛用している不立(ふりゅう)文字を解く言葉である。建立の際、政子が寄進した宗版大蔵経(そうはんだいぞうきょう)は大半が散失し僅か8巻しか残っていない。そのうち「放光般若波羅蜜多経(ほうこうはんにゃはらみたきょう)」の第23巻が静岡県指定文化財となっている。本尊の釈迦如来座像(しゃかにょらいざぞう)は、寄木(よせぎ)造りで高さは203センチ、持ち物のないはずの釈迦像が右手に蓮の花を持っているのが特徴である。「指月殿」の扁額(へんがく)の実物は、宋の名僧一寧一山(いちねいいっさん)の書といわれ、修禅寺本堂に保存されている。」「手水舎」。旧本堂の「宝珠」であっただろうか?「指月殿」の左側の高台には「源頼家の墓」があった。「源頼家」のパネル。源頼朝・政子の長男。鎌倉幕府第ニ代将軍。「お伺い石」。「お伺い石「あたたかき湯の湧くところ、温かき人の情けも湧く」人もお湯も温かい修善寺・・・実は恋愛成就の聖地とも云われています。ある時、釈迦は弟子たちの前で一輪の花を拈(ひね)って示しましたが、摩訶迦葉(まかかしょう)だけがその意味を悟り笑み、釈迦から以心伝心の法脈を伝授されました。この「拈華微笑(ねんげびしよう)」の故事に基づき、指月殿の釈迦像は蓮のつぼみをかざす大変珍しいお姿て鎮座しておられます。ここにある蓮花の形をした石は以心伝心を占う「お伺い石」。想いを込めて持ち上げましよう。軽く感じたら思いが伝わると言われています。もし重く感じてしまったら指月殿に祈願しましょう。あなたの願いをかなえてくれるでしよう。「言葉にしなくても伝わるこの想いを君と一緒に一生繋いでいこう。ふたりで」 (縁をつなぐ恋の橋より)石段の上に「源頼家の墓」があった。静岡県伊豆市修善寺935。正面に「源頼家の墓石」。源頼家は、鎌倉に武家の都を築いた源頼朝の嫡男。母は北条政子。1199年(正治元年)、父頼朝の死をうけて18歳で家督を継ぎ、1202年(建仁2年)には征夷大将軍に任ぜられた。『吾妻鏡』によれば・・・1203年(建仁3年)8月27日、病の床に臥していた頼家の病状が悪化する中、日本全体の惣守護職と関東二十八ヶ国の地頭職を頼家の長子一幡に、関西三十八ヶ国の地頭職を弟の千幡(のちの源実朝)に譲ることが発表された。この決定に頼家の乳母夫比企能員が反発。9月2日、側室若狭局(比企能員の娘)を通じて「北条時政を追討すべきだ」と伝えられた頼家は比企能員を呼んで、北条氏追討の許可を与えたのだという。しかし、その密議は、障子を隔てて聞いていた北条政子に知れてしまった。同日、比企能員は北条時政邸で天野遠景と仁田忠常に暗殺され、比企邸も北条義時らに襲撃されて比企一族は滅亡させられた(比企能員の変)。頼家の嫡子一幡も焼死している(参考:一幡の袖塚)。この時、危篤状態だったという頼家は、9月5日、奇跡的に快復して事件を知ると、和田義盛と仁田忠常に時政討伐を命じるが失敗に終わり、病気と政治不安を理由に出家させられた。9月29日には、ここ伊豆国の修禅寺に幽閉され、翌1204年(元久元年)7月19日には、その死が鎌倉にもたらされている。※7月18日、入浴中を襲われ最期を遂げたと伝えられている。「源頼家の墓正治元年(1199年)に父頼朝の後を継いで18歳で鎌倉幕府の二代将軍となった頼家は、父の没後に専横になった北条氏を押さえて幕府の基礎作りに懸命であったが、大きく揺れ動く時流と、醜い駆け引きに終始する政争に破れ、在位わずか6年でこの修善寺に流され元久元年(1204年)祖父北条時政の手で入浴中に暗殺された(享年23歳)。「修禅寺物語」ではこうした政治的背景の上に配所の若き将軍頼家と、面作り師夜叉王を中心に、それにまつわるロマンスを綴ったものである。この碑は、元禄16年(1704年)頼家の500回忌にあたって、時の修禅寺住職伐山智船和尚が建てた供養塔であり、墓はその裏側にある2基の小さな五輪石塔である。」手前は供養塔であり、源頼家の墓積はその裏側にある2基の小さな五輪石塔であると。「仮名垣魯文の句碑」。「谷川や 月のはこびも 九折(つづらおり)」と刻まれている と。「江戸期最後の戯作者仮名垣魯文の句碑桂谷眺望谷川や 月のはこびも 九折この俳句は仮名垣魯文(1829 ~ 1894 )によっ書かれた。彼は江戸時代に文学界で活躍した最後の戯作者である。彼は幕未から明治にかけて当時の世相を巧に描いた。彼は津国屋藤ニ郎(芥川龍之介の母方の大叔父)に俳諧を学び、多くの文学者・俳諧師と親交を深めた。彼の出世作は『滑稽富士詣』(1860年発行)であった。明治になると、彼は『西洋道中膝栗毛』、「安愚楽鍋』、「葫瓜遣い』など次々に発表し、彼は人気作家となった。この句睥は1891年に仮名垣魯文本人と三州園の主である三須圭山によって建てられた。圭山は仕事の傍ら、俳句や絵画を嗜んだのでこの地に滞在した魯文と親交を深めた。」最奥には神社もあった。この石碑は??「南想塔之記」碑「昭和十六年秋名古屋にて編成された独立自動車四十五大隊は、大東亜戦争緒戦にジヤワ・スマトラ作戦に参加。後に主力はビルマ方面に転戦、戦運我になく戦友相ついで南雲の下に散る。昭和廿一年復員の後有志集い修禅寺に於て法要を重ね今日に至る。激戦の年より茲に廿三年英霊追善のため仏縁深き修禅寺に塔一基を寄す。」横に立つ南想塔・十三重石塔。「桂谷(八十八ヶ所)第四十四番 十一面観音」碑。「桂谷八十八ヶ所第四十四番本尊 十一面観世音菩薩笹の葉に、おく白雲も、輝きぬ、さやけき月の、影をやどして」と。「桂谷第四十四番 十一面観音」と刻まれた石碑。十一面観音の線刻が描かれていた。「修禅寺温泉観光ガイド」。「十三士の墓」。頼家が暗殺された後に、家臣13人が謀反を企てたが発覚し、殺害されたとも、殉死したとも言われている と。「源頼家 家臣 十三士の墓」案内板。「源頼家 家臣 十三士の墓北条氏との確執で、病気を理由に修善寺に配流された頼家は、元久元年(1204年) 7月18日、入浴中に暗殺された。吾妻鏡(鎌倉時代史書)によると、この6日後、頼家の家臣らは謨反を企てたが、挙兵以前に発覚して、相州金窪太郎行親らに殺されたことが記されている。この基はその頼家の家臣13名の墓と伝えられている。頼家と運命を共にしたこれら家臣の名前は判っていないが、全国的にある十三塚の一例との説もある。この墓は元々ここより東へ200m程の麓にあったが、台風被害により平成17年(2005年) 7月17日にこの地に移築された。」右の石碑には「澄宮崇仁親王雨下行啓記念碑」ではないかと学友から。左の石碑も同じく以下、学友から。『御庵洞畔起天承細耶 閑兒魂七百余年浮世興 亡眞實之事山僧渺涙 候碑 〇聴 昭和戊辰卯秋第(?)房祭山〇 瑞雲庵 原田力松 建石』 本文読み下し文 御庵洞の畔[ほとり]を起こして(天)細[こま]や(耶)か(閑)に(兒)魂七百余年を承る 浮世の興亡真實の(之)事山僧渺[はるか]に涙しそうろう(候)碑 と(?)聴く この石碑は原田父子の徳行を記したのではなく、御庵洞の山中に散在していた墓石を一か所に集めて合祀した土地所有者(碑文中の山僧の事か?)に思いを致して初代原田力松氏が建てた碑ということではないでしょうか。 語句解説 ※ 御庵洞 [ごあんぼら]北条時政の隠棲の庵室跡や、頼家の庵室跡などといわ れてる。もともと「十三士の墓」は御庵洞の山中に散在していた。 ※ 畔 ある場所の周辺。ほとり。「河畔・湖畔・江畔・池畔」 ※ こまやかに すみずみまで行き届いているさま ※ 承る 引き受ける くらいの意味か ※ 山僧 さん‐そう《[さんぞう]とも》 1 山寺に住む僧。 2 山門の僧。普通比叡山延暦寺の僧をいう。 3 僧が自分をへりくだっていう語。愚僧。 ここは1の 「山寺に住む僧」 か ※ 渺(はるか)に 水面などが限りなく広がっているさま。はるかにかすんでい る さま。 ※ 昭和戊辰 昭和3年(1928) ※ 卯秋 秋の卯の日か? 卯の日は陰陽五行思想に従うと再生・更新を意味する日 (wiki新嘗祭参照)だそうで、新嘗祭を「卯」の日に行うという慣例が、 律令以前にすでに出来上がっていた。他にも酒造りは「卯の日」にはじめ、 「酉の 日」に完了する慣わしがある。など、卯の日には意味がありそう。 ※ 第 やしき。邸宅の意か。「源頼家 家臣 十三士の墓」に近づいて。この先、山の上には下記の観光スポットがあった。急な山道を上って行った。窟(いわや)の如き場所に石仏が。そして手前にあったのが「おしゃぶり婆さんの像」。「岩屋観音とおしゃべり婆さんこの鹿山のことを正式には「塔の峰」と呼び、昔は「塔の峰の観音さん」または岩を削って石仏を安置してあることから「岩谷観音」とも呼んでいました。この下の谷のことを「観音洞」と呼び、谷から直接登山するのが本来の参道だったようです。正面は桂谷八十八ゲ所、四十番の石碑。右の祠には「おしゃぶり婆さん」と呼ばれる子宝子育ての神様も祀られて犯られいます。赤子がロにすらオシャブリが語源といわれ、左の石仏は母乳に恵まれるよう豊かな胸をしています昭和初期までは、この山中にも老舗旅館の茶屋があって鹿を飼ったり、湯治客の自然散策に訪れる私設公園でした。中腹には大弓と呼ばれる矢場の広場があり、土地の子供が逗留中の幼い宮様と相撲に興じたり、まだ珍しかった自転車の競争をしたりしました。」「源義経像」。「源義経像義経は、源氏初代将軍頼朝や、修禅寺で自害した源範頼の弟に当り、この鹿山の麓に墓のある二代将軍源頼家の叔父にあたります。幼名が牛若丸であり、京都の鞍馬山で育ち、五条大橋での弁慶との出会いなどは有名な話ですが、後の蒙古へ渡ってチンギスハンになったという説もあります。この獅子にまたがった像の胞には源氏の紋所笹リンドウが刻まれており、義経像ともチンギスハン像ともいわれています。大正末期、芸術を愛好した修善寺温泉菊屋旅館の先々代野田修治の依頼で、修善寺温泉に滞在していた彫刻家によって、天城山中から運ばれた軽石へ彫られました。これが「吉田絃二郎 明枝の墓」だったのだろうか。「指月殿」の境内まで下ると「絵馬」の自動販売機があった。「絵馬掛け処」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.26
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「ズグロモリモズの展示」「伝説の毒鳥「鴆(ちん)」!?ズグロモリモズ1992年、パプアニューギニア産の鳥ズグロモリモズが、羽や皮膚にバトラコトキシン類の毒をもっことが見い出されました。この毒は、餌とするジョウカイモドキ科の昆虫に由来する神経毒です。ところで、中国の歴史書には「鴆」という羽に毒をもった鳥が記載されており、長く空想上の生物と考えられてきました。この鳥が鴆なのか、興味がもたれます。」「ズグロモリモズ」。「ズグロモリモズ頭部と胸部の羽毛や皮膚に特に高濃度で毒素が含まれます。」「ジョウカイモドキ本標本は実際にズグロモリモズが生息地で捕食している種とは異なリますが、ポルネオ島産の近縁種です。」大きな虫眼鏡が手前に。虫眼鏡越しに・・・・??。これであっただろうか?ネットより。「実は珍しい」!毒をもつ哺乳類有毒な哺乳類は数種しか知られていませんが、カモノハシ(単孔類)、スローロリス(霊長類)、ソレノドン(トガリネズミの仲間)など系統的には多岐にわたります。スローロリスは肘にある腺からの分泌液を舐め、唾液と混ぜて毒液を作り、体に塗ったり天敵に咬み付いたりして使います。ソレノドンは毒を含んだ唾液を分泌し、咬み付くことで相手に注入します。」「ベンガルスローロリス」。「カモノハシ」。「カモノハシオスの後肢には発達した蹴爪があり、脚基腺(毒腺)につながっています。」「海洋の有毒植物海洋には少なくとも3万種前後の有毒動物がいます。クラゲやイソギンチャクなとの刺胞動物は、全ての種が喇胞と呼ばれる毒の注入装置をもっています。毒銛を使って狩りを行うイモガイ類(軟体動物)や全身に毒の棘をもつオニヒトデ(棘皮動物)、魚類で最強の刺毒をもっオニダルマオコゼなと、実に多様な有毒種がいます。」「イモガイ類の毒銛(どくもり)イモガイ類は肉食性であり、歯舌歯を変化させた毒銛を使って狩りをします。イモガイ類の毒銛の形状や毒の成分は、餌の種類(魚や貝、ゴカイ類、ウミケムシ類)に合わせて実に多様化しています。」左に「アンボイナ」「アンボイナ魚食性。歯舌歯のカエシが非常に小さい。強毒。」右に「ニシキミナシ、ミカドミナシ、タガヤサンミナシ」「アカエイ尾棘が有毒。」近づいて。「アカエイ尾棘全長60cmの個体の尾棘」「ゴンズイ背鰭棘の拡大模型(約20倍)CTスキャンデータによる精密拡大模型」「ゴンズイ背鰭と胸鰭の棘および粘液が有毒」。ズームして。「ゴンズイ背鰭棘全長20cmの個体の背鰭棘」「ゴンズイ有毒部位背鰭棘、胸鰭棘、体の粘液が出る場所」「ゴンズイ背鰭棘(せびれきょく)全長20cmの個体の背鰭棘」「オニダルマオコゼ」「オニダルマオコゼ背鰭と腹鰭、臀鰭の棘が有毒。魚類で最強の刺毒をもつ種」「オニダルマオコゼ背鰭棘全長25cmの個体の背鰭棘。」「オニダルマオコゼ背鰭棘の拡大模型(約10倍)CTスキャンデータによる精密拡大模型。溝には毒腺があります。」「オニダルマオコゼ有毒部位背鰭棘、腹鰭棘、臀鰭棘」。「ミノカサゴ」。「ミノカサゴ背鰭と腹鰭、臀鰭の棘が有毒」「ミノカサゴ背鰭棘全長26cmの個体の背鰭棘」ズームして。「ミノカサゴ背鰭棘の拡大模型(約10倍)CTスキャンデータによる精密拡大模型。溝には毒腺があります。」「ミノカサゴ有毒部位背鰭棘、腹鰭棘、臀鰭棘」「ハコフグ体表粘液には魚に効く神経毒があります。」「オニヒトデ棘に毒腺があり猛毒をもちます。」「海岸で見られる有毒動物」の展示。「海岸で見られる有毒動物ガンガゼ 毒をもつ棘は長くて鋭く刺さリやすい。トックリガンガゼモドキ 短い方の棘は抜けにくく有毒スベスベマンジュウガニ 体内にフグ毒などをもちます。ウモレオウギガニ 体内にフグ毒などをもちます。クサフグ 体内にフグ毒などをもちます。ハオコゼ 背鰭と腹鰭、臀鰭が有毒。ヒョウモンダコ 唾液腺にフグ毒を含みます。ゴンズイ 背鰭と胸鰭の棘および粘液が有毒。」「ガンガゼ」。「カツオノエボシ」と「ハブクラゲ」。「カツオノエボシ」刺されると強烈に痛むことから、電気クラゲの別名が生まれるほどの猛毒をもつ。なお、その針は魚を刺し、毒で麻痺させて食べるために使われるものだが、誤って接触し、刺されたヒトの死亡例もある。「ハブクラゲ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.03.11
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さらに「水郷佐原山車会館」の山車の見学を続ける。「下川岸区の山車」を後側から見上げて。全長7mの巨大な鯉も後ろから。「下川岸区の山車」の後面を見る。「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」を見上げて。神輿もあった。佐原のハ坂神社の祇園祭(7月)と諏訪神社の秋祭り(10月)に行われる祭礼を華麗に彩る山車の一覧であったがピンボケ。「佐原市市制50周年記念 24台の山車勢揃い」の写真。「佐原市市制 50周年記念24台の山車勢揃い平成12年10月8日(日)於:佐原コミュニテイセンター駐車場」「写真の解説佐原市市制 50周年祝賀行事に際して、全24台の山車が勢ぞろいした。夏祭り:本宿10台秋祭り:新宿14台平成12年10月8日(日)秋祭り3日目に夏祭り10台が特別参加佐原駅北ロ 文化会館前(お祭り広場)」。「旧佐原市市制施行50周年記念 24台山車整列 山車詳細」。「建速素盞嗚尊の山車佐原の祭は亨保年間よりの永い伝統を受け継がれている江戸時代からあったと伝えられた当下川岸区の山車は明治二十九年の大洪水に惜しくも流出し現在の山車は明治三十一年に制作されたもので八方にらみといわれる形で四方どこから見ても同じに見えるのが特徴とされている。山車の飾り物の人形は建速素盞嗚尊(たけはやすさのおのみこと)で出雲国肥の川にて櫛名田比賣を呑まんとして来た八岐大蛇を退治して姫の危難を救ったその勇壮な姿を現したものである。山車は総欅造りで周囲には豪華な彫刻がはめ込まれ人形と共に往時の名工の作である又正面の額は市内二十五台の山車の中でも最も豪壮なものといわれ宏遠の文字は正二位伯爵東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)の書である。 下川岸区」「下川岸区の山車」案内。正面から近づいて。額「宏遠(こうえん)」。時間的、空間的に広大なこと。「下川岸区の山車」(右側面)案内板に近づいて。「方立左面」の見事な彫刻。左面後:国常立尊 猪を殺す左面前:素盞嗚尊 八岐大蛇退治下高欄 左面後:新田義貞 稲村ヶ崎に太刀を投じる下高欄 左面右:名和長重 神器を背負って走る「国常立尊 猪を殺す」。「素盞嗚尊 八岐大蛇退治」。「下川岸区の山車」(左側面)案内。「下川岸区の山車」(後面)案内。「方立後面」の彫刻。「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」「経津主命(ふつぬしのみこと)」「菊池武光 筑後川の戦い」「菊池武光 筑後川の戦い」「建速素盞嗚尊」を見上げて。「佐原の街並み」ポスター。「水郷佐原山車会館」の「売店」。「佐原の大祭」の「夏祭り」&「秋祭り」のポスター。「水郷佐原山車会館」を後にして外に出ると八坂神社境内に揖取魚彦(かとりなひこ)の歌碑があった。「入日さす 豊旗雲は わがこふる よしのの山や 越て来つらむ」碑の歌は江戸中期の明和6年( 1769 )、47歳の時、夫人雅木と大和へ旅した折のものである。天性豊かな語感をもち、壮麗な自然を生き生きと詠んでいて、清純な古代への愛情を汲むことができる。雲を詠じた「天の原吹きすさみたる秋風に走る雲あればたゆたふ雲あり」も写生の秀作で忘れ難い歌であろう。「火伏之神」と刻まれた碑。境内の一画には「悠仁親王殿下」御誕生記念植樹の高野槙が健やかに育っていた。「悠仁親王殿下」御誕生記念植樹の「高野槇」。「八坂神社由緒祭神 素戔嗚尊街神徳 厄除け家内安全・商売繁盛・子孫繁栄創建 寛永十四年に奥宮より勧請される。奥宮 諏訪上字天王宮に鎮座する。末社 水天宮 舟運安全・子育守護の神 琴平神社 海上安全の神 三峯神社 盗難除けの神祭典 大祭式 祗園祭 七月十日 神輿神幸・山車巡行は 七月十日以降の金・土・日に行う 建国・春祭 二月十一日 日本国の栄えと豊饒を祈る 秋祭 十一月ニ十三日 収穫感謝祭 中祭式 元旦祭 一月一日 節分祭 二月三日 福寿祭 九月敬老の日 境内末社の水天宮を遥拝する祭。(交通安全と敬老子孫 繁栄を祈る) 小祭式 奥宮祭 七月一日 祇園祭斎行に先立ち奥宮に安全祈願を行う。 新入学児童安全祈願祭 三月最終日曜日旧神輿(市指定文化財) 江戸時代中期の成作により、市内に現存する神輿の中でも古いものと言える 代表的美術品である。 現在山車会館に展示されている。祗園祭山車巡行 当社氏子中を本宿惣町と言う。本盾惣十一面内の内、十町内に十台の山車が有り。 その山車まつりは、国の「重要無形民俗文化財」に指定されており、山車を飾る彫刻の 見事さと、大天井に鎮座する大人形の勇壮な様は見る者の心を奪い、山車ともう一方の 主役お囃子(下座連)は、日本の祭りばやしの中でひときは秀出たものである。 山車の夜間巡行は山車の灯かりが川面に揺れて雅で美しい。 当社の山車行事は、平成ニ十八年十ニ月一日にユネスコ無形文化遺産に登録される。」「百年祭記念の碑八坂神社の現御社殿は明治二十年に御造営されここに満百年という記念すべき秋を迎える事となった。我々はこの期の到来に合せ実行委員会を組織し氏子崇敬者各位の篤きご奉賛を得て茲に御屋根銅板総葺替えという奉祝事業を成し遂げたものである。」この石碑は?「大燈籠建立記念」碑。石鳥居。「水郷佐原 山車会館」案内塔。「ユネスコ無形文化遺産登録国指定重要無形民族文化財江戸優り 佐原の大祭水郷佐原山車会館」と書かれた幟も。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.14
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「日帰り温泉 こごめの湯」の前にあったのが「月夜広場」。公共トイレの先に「御堂」があった。「万葉公園」マップ。「イチョウの大木」。再び「月夜広場」に戻る。廻り込むとあった三方がガラス戸の「神輿蔵」。内陣の神輿類。湯河原の祭り「湯かけ祭り」に担がれるのでしょうか、横の社殿(神輿蔵)には小さな神輿、温泉街らしく墫神輿も安置されていた。「神輿蔵」前に立っていた「養生園」碑。「養生園の碑明治38年、日本海海戦でロシアのバルティック艦隊に完勝しその名を世界に知られた東郷平八郎は、帰国後、湯河原の大倉孫兵衛の別荘に滞在し、温泉療養をしながら別莊の庭園「養生園」で英気を養いました。東郷は、養生園について漢文で次のような感謝の意を表し、孫兵衛に残しました。 大倉翁孫兵衛自ら資を投じて、此の仙境を開き、衆と之を楽しむ。 余既に園の風勝を愛し、今又翁之人となりの淡雅なるを喜び、 遂に筆を抽きて之の為に記す。石碑上部の横書きの「養生園」の文字は東郷の真筆を刻し、本文は高千穂学園教官・丹所啓行の書による楷書体を刻しています。」そして「太子堂」。日本文化興隆の祖・聖徳太子の遺蹟を敬慕して昭和35年(1960)建立された六角形の「太子堂」。「太子堂建造の由来聖徳太子は用明天皇の第二皇子として五七四年にご誕生になりました。以下解読不可」理想郷に居住していた作家・山本有三氏撰文の「太子堂建造の由来」碑。「太子堂」。「公園寄附」碑。その左の祠には常夜燈、延宝8年(1680)造立、一面4臂・邪鬼・三猿が陽刻された庚申供養塔が祀られていた。一面4臂・邪鬼・三猿が陽刻された庚申供養塔。「万葉公園」の「千歳川」の清き流れ。「狸福神社(りふくじんじゃ)」には5つ連なった赤い朱の鳥居が並ぶ。「狸福神社の由来山間の地、この湯河原に一匹の雄狸が居りました。ある日の事、土地の人が狩猟の弓で狸を傷つけてしまいました。雄狸は山間を流れる河原に湯の湧き出る所を見つけ、傷を癒していると、同じように足に火傷を負った雌狸が浸かりにやって来ました。ニ匹の狸は来る日も来る日も傷を癒しに通ううちに、恋仲になり、やがて傷も治り、晴れて夫婦となりました。ニ匹はこの湯のご恩を忘れる事なく、人に化けては湯河原の温泉のすばらしさを説き、旅人の願を叶え、福をもたらす神の使いとなり、今でも湯を守り続けて居ます。」社殿前には多くのお賽銭が。狸の石仏が迎えてくれた。社殿の右側。右手前にも。左にも。「千歳川」の清き流れを再び追う。「文学の小径」碑。「声かけて ほしい椿の 蒼蕾 梅門」作者・金尾梅門は湯河原温泉をこよなく愛し、湯河原温泉の椿まつりには毎年来ていたといわれ、この句もその時に作ったものとのこと。「散歩随意」碑。碑の上部に ゆび指しの姿と、下に「散歩随意」(ご自由に散歩してください)と。「散歩随意の碑明治時代、このあたりは実業家大倉孫兵衛・和親親子が別荘を構え、その庭園がありました。日清・日露戦争のとき、陸軍省が湯河原温泉を負傷軍人の温泉療養地に指定、当時の温泉旅館が分担して将兵を引き受けました。孫兵衛は別荘の庭園を散歩用に開放し、養生園と呼ばれました。このとき和親が案内用に藤木川沿いにこの石碑を建立したとされています。以川登天毛(いつとても) 春可勢た江ぬ(はるかぜたえぬ) こ能さと耳(このさとに)遊飛転(あそびて) 幾ミ可(きみが) 与波比(よはひ) 延ふへ之(のふへし) 当時は、現在の万葉橋より川上に大倉別荘用の橋があり、その橋を渡る手前の道路側に石碑が建立されましたが、昭和30年に町立万葉公園となるとき現在の地に移設されました。」【寒い季節でも、春のような暖かいこの湯河原に、静養に来ているあなたは きっと長生きするでしょう】と。そして最奥にあった「独歩の湯」に向かって進む。「独歩の碑」。万葉公園の奥に進むと、国木田独歩の著書「湯河原ゆき」の最末尾の一節「湯河原の渓谷に向かった時は、 さながら雲深く分け入る思があった 独歩 」の碑。「独歩の碑この碑は、明治の詩人・小説家の国木田独歩の著書『湯ケ原ゆき』の最末尾の一節です。 湯ケ原の渓谷に向かった時は、 さながら霧深く分け入る思があった 独歩独歩は薄幸な人と言われますが、その人生に一点の光明を点じるのが 3回に及ぶ湯河原温泉保養の旅(明治後期)です。ここでの体験に基づく短編小説には、「湯河原より」、「恋を恋する人」、「湯河原ゆき」、「都の友へ、B生より」などがあり、共に明るく温かいロマンがあります。理由として、自然愛の深い独歩が敬愛した英国の詩人ワーズワースの詩の世界に湯河原渓谷が酷似していたこと、独歩の定宿の女性たちの情をこめた応対などが考えられます」更に進む。「独歩の湯」案内。「独歩の湯」の園内は(ちょっと写真ではわかりにくいですが)日本列島をイメージしてつくられているとのこと。「独歩の湯」案内図。「独歩の湯」は足湯を楽しむことができる施設で、様々な効能がある9個の足湯を楽しむことができるのであった。「現実の門」。「皮口(ひこう)の泉」は、肌の若返り、口に関する事に効果がある と。「平静の泉」は、心穏やかになる泉 と。「風呂桶の滝」敷地にある大きな樽からお湯がこんこんと。そして来た道を引き返す。左手奥にあったのが「熊野神社(くまのじんじゃ)」紀伊からの勧請といわれているが、時代は不明である。 湯の守護神、健康の守護神として別称「湯権現」と呼ばれている。5月の第4土・日曜日には「熊野神社例大祭」が「湯かけまつり」とあわせて開催される to。御祭神 天照皇大神 ( あまてらすすめおおみかみ )、 伊弉諾神 ( いざなぎのかみ )、 伊弉冊神 ( いざなみのかみ )扁額「熊野神社」。清き流れと紅葉を楽しみながら「万葉公園」の遊歩道を進む。前方左手に休憩小屋が見えた。ライトアップされた美しい壺が置かれていた。そして前方・美しい紅葉の下に滝が見えた。「玄関テラス」下を滝に向かって進む。案内板。「惣湯テラス」。正面に2段の滝が現れた。滝を様々な方向からカメラに。観光会館脇の階段が万葉公園・独歩の湯の正式な?入口なのであった。そして観光会館脇の入口の近くに、もう一つ入口があり、こちらからも万葉公園に入れるのであった。「歌碑」。「万葉歌碑この歌は、万葉集4500首の中でただ一首、温泉が湧き出る様が詠われたもので、湯河原温泉を詠った歌と言われています(詠み人知らず)。足柄(あしがり)の 土肥(とひ)の河内(かふち)に 出(い)づる湯の 世にもたよらに 児ろが言はなくに足柄の土肥(湯河原の古称)の川辺に噴出する温泉の湯けむりが中高に漂い揺らぐように、あの娘は私との関係を不安げには言わななかったのに心配で……と、揺れる男の恋心を深い消えゆく湯けむりに托して詠んだ景情一体の見事な恋歌です。 (注釈: 「足柄(あしがり)」はアシガラの訛り。「土肥(とひ)」は、今の真鶴・湯河原の辺り。 「湯」は、湯河原温泉。「河内(かふち)」は河淵。「世にも」は、断ジテ。 「たよら」は、タユラと同じで、ユラユラと定まらない意。「児ろ」の「ろ」は親愛の 情を表す接尾語。「言はなくに」は、言フの未然+打消しのヌの未然+体言化する 接尾語+接続助詞のニで、言ワナイノダガ。) ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.20
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そして都道312号線沿いにある「等々力不動尊」の山門前に到着。 掲示板には「慌てず騒がず一歩ずつ」と。山門には「七五三」参りの案内が。「運鈍根 うんどんこん」運を大事にし 情報過多の今は 見すぎず気にせず根気強く「弘法大師 空海 ご誕生 1250年」と。空海は774年(宝亀5年)生まれであるので西暦2023年が1250年になるのだ。「東京都指定名勝等々力渓谷(とどろきけいこく)所在地 世田谷区等々力一丁目外指定 平成十一年三月三日等々力渓谷は国分寺崖線(ハケ)の最南端に位置する開析谷で、都区内唯一の渓谷である。台地と谷との標高差は一〇メートルあって、騒音も渓谷の中までは届かず、都区内とは思えないほどの鬱蒼(うっそう)とした樹木と渓谷美は、幽邃(ゆうすい)な景観を呈し、武蔵野の面影をよくしている。玉川全円耕地整理組合が、昭和五年から一三年にかけて谷沢川(やさわがわ)の流路を整備し、小径を設けるまでは、不動の滝からゴルフ橋にいたる渓谷内は殆ど人の立ち入ることもなく、雉(きじ)などの鳥類や、イタチ、キツネなどの小獣類、各種昆虫類の宝庫であった。等々力不動尊左手の石段下には、国分寺崖線の湧水(ゆうすい)である不動の滝があり、かつてはこの滝に打たれて行をする修行僧が各地から訪れたと言われており、役(えん)の行者(ぎょうじゃ)ゆかりの霊場と伝えられている。等々力渓谷保存会によって行われている蛍(ほたる)祭りは、清掃活動とともに地域に根ざした保存活動として成果をあげており、清流復活運動の先駆けとなった地域である。等々力渓谷は、東京都指定名勝「真姿(ますがた)の池湧水群(いけゆうすいぐん)」(国分寺市西元町)とともに国分寺崖線名勝群を形成する一つであり、東京を代表する自然地理的名勝として、植生学、地質学及び地形学上重要である。 平成十一年九月 東京都教育委員会」「等々力渓谷等々力渓谷は矢沢川によってできた谷で、今でも多くの動植物がみられ、四季折々には咲き乱れる桜、常緑の木立、秋の紅葉も不動滝(ふどうのたき)(竜頭滝 りゅうずのたき)に映え、深山の趣きがある。谷間は粘土、砂礫(されき)、赤土(関東ローム層)の層が重なって地層の移りかわりをものがたっている。不動滝は古くより知られ、清浄な渓谷にしぶきをたてて、とどろいていたことから、等々力の地名が起こったともいわれている。不動尊本尊は、新義真言宗の宗祖興教(こうぎょう)大師が山城国(京都府)よりこの地に移したとつたえられる。 昭和五十四年三月 世田谷区教育委員会」現在の山門は、昔の満願寺山門を昭和43年8月に移築したものと。山門下から「等々力不動尊」の境内を見る。見事なイチョウの黄葉の下に紅白の吹き流しが。「草木供養碑」が左手に。小さな木祠の中には石仏が。そして一対の生花が供えられていた。庚申塔。六手青面金剛・邪鬼・三猿・二鶏。 塔の外周は欠けており、像も風化し細部がはっきりしない。 邪鬼と三猿。二鶏は台座に大きく浮き彫りされていた。雌雄に加え右下にはヒヨコもいるようだ。右手にあったのは神楽殿か?イチョウの黄葉が青空に映えて。境内の左側の紅葉。喜寿白雲 句碑『恋ほたる 風のふし目に 光りけり 喜寿 白雲』と。喜寿を迎えての奉納品か。手水場にはイチョウの落葉が。近づいて。境内の小さな祠・「厄除大師堂(明王院大師堂)」。近づいて。「常香炉」越しに本堂を見る。近づいて。中央にあるのが寺紋なのであろうか。本堂・等々力不動明王院 が正面に。真言宗智山派寺院の等々力不動尊明王院は、滝轟山と号し、等々力満願寺の別院。等々力不動尊明王院は、根来寺の興教大師が当地に不動堂を建立したと伝えられます。玉川八十八ヶ所霊場33番、関東三十六不動霊場17番。本尊は不動明王像。本堂の横には休憩用売店があった。菊の懸崖作りが両脇に。懸崖造りは、1本の小菊を大きな株に仕立て、野菊が断崖の岩間から垂れ下がっている姿を表現する技法。ピンクの花はピークを過ぎて。左は黄色の懸崖菊。氏子の奉納品であろうか。手間暇をかけ、作りあげたものであろう。「瀧轟山」と書かれた扁額。満願寺の山号は「致航山」、院号は「感應院」、寺号は「満願寺」。本尊は金剛界大日如来、宗派は真言宗智山派で、開創は平安時代末です。中興は室町時代で、吉良氏の居城であった兎々呂(ととろ)城の一角(現在地)に祈願寺として移築されました。常法談林三衣(じょほうだんりんさんね)の格式の寺で、学問所・教育機関・本山としての機能を有していました。山門方向の境内を見る。紅白の吹き流しが。寺伝によれば、平安時代後期、真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖である覚鑁(かくばん=興教大師)が本尊の不動明王像を安置して創建したとのこと。本堂は江戸時代末期の建築で、拝殿は昭和27年、山門は昭和43年に満願寺から移築。不動の滝への途中には修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ=役の行者)が祀られ、古くからの修験の地である と。「不動尊」と書かれた巨大な真っ赤な提灯。「社務所」。「本堂」前から木製の「舞台(展望台)」をズームして。見事な紅葉が拡がっていた。手水舎の龍。再び木製燈籠越しに紅葉を楽しむ。見上げて。境内の紅葉は今が盛りか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.26
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク7番札所:十楽寺 6番札所の安楽寺からは1km強の所にあるのが7番札所の十楽寺。寺は現在地から北3キロほど奥の十楽寺谷の堂ヶ原にあったと推定されると。大同年間に弘法大師がこの地を巡教して逗留されたときに阿弥陀如来を感得し、如来像を刻んだのが本尊として祀られたと伝えられている。その際に、大師は生・老・病・死など人間として避けることのできない苦難に、10の光明と、輝く楽しみが得られるようにと「光明山十楽寺」の寺名を授けたと。美しい中国風の鐘楼門。龍宮城を連想させてくれる朱塗りの門を潜り境内へ。十楽寺 境内配置案内図。竜宮門形式の山門を入ると前に水子地蔵が並んでいた。左側の石段を数段上ると遍照殿の額がかけられた中門がありその上層は愛染堂となっていた。中門の向かいに手水鉢があり左に奥へ入ると本堂が、さらに左へ行くと治眼疾目救歳地蔵の小堂があって、その先の石段を上ると大師堂が。本堂の向かいのあたりに十三不動明王像がある。納経所は中門を背にして右に。山門を入るとすぐ正面に約70体以上?の水子地蔵。産声をあげることなく、この世を去った多くの水子達。中門遍照殿・愛染堂を境内から。十楽寺の宿坊 光明会館。岩が削り取られたのか芸術作品の如き手水場。光明講 追悼之碑。光明講とは朝に「般若心経」読経、真言念誦の時間を持ち、お勤め終了後は堂で朝粥(あさがゆ)等をいただき、月に一度「食」の原点に立ち返る集まりのようだ。本堂。阿波北部でも有数の広大な七堂伽藍を有していたが、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火によりすべてが焼失、しかし、本尊・脇仏・舎利仏など大切なものは住職真然と弟子が運び出し大門ケ原に安置したが、弟子は矢に射られ死んでしまった。その後、寛永12年(1635年)に現在地で再建された。平成6年本堂の新築。平成26年本尊と脇仏が開帳されたと。 光明山 蓮華院 十楽寺(こうみょうざん れんげいん じゅうらくじ)宗派 真言宗単立本尊 阿弥陀如来創建 大同年間(806年 - 810年)開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県阿波市高尾字法教田58 本尊真言 ”おん あみりた ていぜい からうん” 扁額には「光明山」の金色の文字が。地蔵堂。 地蔵尊。背から眼病・盲目に霊験があるとのこと。 修行大師像。十三不動明王。太平洋戦争時の第13期海軍飛行予備学生の慰霊のために建立された。子育地蔵尊。太子堂。太子堂内。この十楽寺は、眼病にご利益のある「治眼疾目救歳地蔵」でも有名だとか。太子堂より中門遍照殿・愛染堂を。波切不動明王。 納経所。納経を頂く旅友Sさん。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 中門の二階は愛染堂。中門に祀られた愛染明王。今回、大活躍の旅友Sさんの愛車DUKE。 ------------------------------------------------------------------------------------------------8番札所:熊谷寺7番札所:十楽寺から徳島自動車道に沿って139号線を走り、7分ほどで8番札所:熊谷寺に到着。山門(仁王門) は 現在の境内地からは100mほど南にあった。寺伝によれば、815年(弘仁6年)空海(弘法大師)がこの付近で修行をしていた際、熊野権現が現れて1寸8分 (約5.5cm) の金の観音像を授けた。そこで堂宇を建立し、一刀三礼して霊木に等身大の千手観世音菩薩を刻んでその胎内に授けられた観音像を収めて本尊としたという。1927年(昭和2年)火災により本堂とともに空海作と伝えられていた本尊も焼失した。本堂は1940年(昭和15年)に再建が開始されたが戦争により中断、1971年(昭和46年)に全容が完成し、新造された本尊が開眼したと。 駐車場から南へ200mほどの所にある仁王門は江戸初期(1687)建立。高さ12.3m、間口9mと四国霊場最大級の威風堂々とした四国霊場最大級の姿。和洋と唐様の折衷による重厚な趣を示していた。県指定有形文化財。阿形像。吽形像。2層目の天井や柱には極彩色の天女の姿などが描かれていると。残念ながら非公開。納教所の横にレプリカが展示されていた。また天女絵は散華(寺院で法要を巌修する時に、諸仏を供養するために撒かれる、蓮の花の形をした紙片)に描かれて、肌守りとして納教所で販売されていた。駐車場に戻る右手にある池の太鼓橋のかかった弁天島に鎮座する弁財天。安産の祈願所。駐車場手前の手水舎。熊谷寺駐車場に車を駐め本堂を目指す。熊谷寺 境内配置案内図。山門(仁王門)をくぐって50mほど進み公道を横断すると右手に弁天池が左手には寺務所。駐車場の先から左手に上がっていくと参道の左側に多宝塔が。参道を進むと中門に至る。さらに三十三段の女厄除け石段を上ると右側に手水場があり、正面に本堂が建つ。本堂手前の左手に鐘楼があり、本堂左の四十二段の男厄除け石段を上っていくと大師堂がある。納経所は駐車場の南側である。参道入口近くの歌碑。『防波堤を 激しく叩く波頭 しぶきとなりて 風に飛ぶ見ゆ』多宝塔。内部は胎蔵界大日如来像を中心に、東に阿閦如来、南に宝生如来、西に無量寿如来、北に不空成就如来を祀っていると。江戸時代中期 安永三年(1774年)建立。本瓦葺・高さ 20.7m。多宝塔は四国で最大最古の規模を誇る。中門(二天門)に向かって進む。中門前で左に分かれている坂道の左右に 四天王 石像2体。多聞天(北の守神)。持國天(東の守神) 邪鬼を踏みつけ仏法を守る勇ましい姿。中門(二天門)にも持国天と多聞天が両脇に立つ。この中門は、現在の山門が出来る以前の山門であったと推測されると。持国天(東)、多聞天(西)は、貞享4年(1687)の作。色鮮やかな持国天。足下に邪鬼を踏みつけ、刀を持つ右手を振り上げて仏敵を威嚇。多聞天。右手に三叉戟、左手に宝塔を持つ。手水場。鐘楼堂。寛文2年(1662)長意和尚32歳の時の建立。当時の鐘楼堂は、四本柱に一般的な屋根といった形だったが、文化6年(1809)快塹和尚(かいざんおしょう)が、長意和尚百回忌の記念事業として改築を行い、現在の立派な二層の鐘楼堂が完成したと。当初の梵鐘は太平洋戦争末期に、武器弾薬等の材料として供出させられた。現在の梵鐘は、昭和24年に新たに鋳造されたものであると。本堂。本尊は千手観世音菩薩。昭和2年(1927)に火災に遭い、本尊と本堂を全焼。 昭和15年に本尊を安置する宮殿と拝殿が完成。昭和45年に入って、やっと供養殿と本尊が完成し開眼供養が行われた。この遅れは、戦争時代を挟んで工事が中断され、その後再開の糸口が掴めなかったためと。普明山 真光院 熊谷寺(ふみょうざん しんこういん くまだにじ)宗派 高野山真言宗本尊 千手観音菩薩創建 弘仁6年(815年)開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県阿波市土成町土成字前田185 本尊真言 ”おん ばさら たらま きりく” 毎年正月三が日と、毎月18日本尊千手観音が開帳されると。 太子堂。内部は胎蔵界大日如来像を中心に、東に阿閦如来、南に宝生如来、西に無量寿如来、北に不空成就如来を祀っていると。建立年代は、屋根に据え付けられた露盤に「露盤宝形一具 本願熊谷寺龍意宝永4年 丁亥天八月吉日 冶工 長谷川久左ェ門」の銘があることから龍意和尚(りゅういおしょう)の代の宝永4年(1707)の建立とわかったと。安置されている弘法大師像(徳島県指定有形文化財)は、寄木造りの坐像で、永享3年(1431)の作であると。平成19年に行われた解体修理の際、弘法大師十大弟子の墨絵が見つかり、全国的に貴重な作品であることが判明したと。 太子堂からの境内、手水舎そして手前に鐘楼。紅葉も始まっていた。鐘楼前の修行大師像。「長意和尚行録碑」寛文年間に地元の土成の新水氏より出て熊谷寺の住職となった長意和尚(ちょういおしょう)が、元禄年間の頃に、現在の境内の主な部分を手がけたとのこと。これについては、長意和尚の業績を記した石碑「長意阿遮黎行録」に残っているのだと。延命龍頭観音像。帰路の参道横の地蔵尊。「鎮守神縁起」。稲荷大明神。最後に、納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.10.25
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昨年末の事になりますが、合同展「神の手●ニッポン展3」がホテル雅叙園東京にて開催されている事を知り訪ねてみました。「神の手●ニッポン展3」は、日本人ならではの感性と手先の器用さを活かした、まさに“神の手”のような技巧を持つアーティストたちの作品が集合する合同巡回展とのこと。第3弾となる今回の展示では、海外でも高い評価を受ける「シャドーボックス」をはじめ「立体切り文字」「現代切絵アート」などの紙のスペシャリストや、「組み木絵」、「ペットボトルアート」など素材に新たな命を吹き込む新たなアーティストを中心に、過去2回の参加アーティストの人気作品も見ることができたのです。日本人の感性や手先の器用さを堪能できる作品約80点が集結していました。 湘南新宿ラインで大崎で乗り換えJR目黒駅から徒歩で坂を下り目黒雅叙園へ。ここを訪ねるのは久しぶり。年末であったが目黒雅叙園入口の紅葉は今がピーク。 様々な催しが行われている模様。玄関前ロータリーの「お七の井戸」。八百屋の娘お七は、恋こがれた寺小姓・吉三逢いたさに自宅に放火し、鈴ケ森で火刑にされた。 吉三はお七の火刑後僧侶となり名を西運と改め明王院に入り、目黒不動と浅草観音の間、 往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行をなし遂げたのだと。 明王院という寺院は、現在の目黒雅叙園エントランス付近から庭園にかけ、明治13年頃まであったと。この明王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前に お七の菩提を念じながら、心身を浄めたことから「お七の井戸」と言い伝えられているとのこと。目黒雅叙園 エントランス・ロータリー。入口ロビーのクリスマスツリー。この日は12月22日(金)。前庭の休憩所には赤い野点傘(のだてがさ)が。エントランスから施設の中に入ると広々とした豪華な回廊を通ってメインのホールまで向かうことになるのですが、この回廊からホテル雅叙園東京(目黒雅叙園)の魅力を感じさせてくれます。ここの広々とした回廊の横壁には、日本の伝統を感じさせる江戸の女性を思わせる大きな壁画や彫刻が飾られています。江戸の風俗を表した色鮮やかな彩色木彫版がずらりと並ぶ回廊が現れました。これらは一見すると絵画のようですが、よく見ると一枚の木に彫刻し彩色したもので立体になっていました。正面玄関を入って左手にある、きらびやかに輝くエレベーター。エレベーターには、外のドアも内部も全面に螺鈿(らでん)細工が施されていました。ドアを外側から。 螺鈿細工とは貝殻の内側の光沢のある部分を切り出しはめ込む工芸技法。ドアを内側から。 「神の手・ニッポン展3」のポスター。会期は2017年12月1日(金)から12月24日(日)まで。 豪華な螺鈿細工で飾られたエレベーターで上がった先には、谷川俊太郎の詩「もし神に」が展示されていた。『もし神に手があるのだとしたら その手は青空を包みこむほどにおおらかで 蜘蛛の糸を結ぶほどにこまやかだろう 神は独りではない 私たちのふるさとの朝夕には 昔から八百万もの神々がたむろしている そしてその幻の手を 夢見る指を 選ばれた人々に貸し与えるのだ まるで隠された運命のようにひそかに もし神がこの世を創造したのだとしたら 私たちは神の手の繊細さを 路傍の雑草のうちにも見るだろう その巧みに及ぶことはないと知りながら 辛抱強くその手を真似て ささやかな世界の似姿を作る喜び!』 最初に現れたのが総ビーズの着物。次の和衣裳のデザインを考えている時に、祖母の墓参で出掛けた霊園で、大きな藤棚の藤の花の満開に出会いこのデザインを決断したと。総ビーズ織り和衣裳「春曙」(しゅんしょ)大きさ:180cm x 120cm重さ:13kg弱総ビーズ数:約165万2000粒制作期間:延べ3年 とのこと。藤の花は私の住む市花なのである。 ビーズの織姫 金谷美帆氏。 神奈川県立湘南高校、学習院大学経済学部卒。在学中、ミス鎌倉、ミス熱海梅の女王に。IKC(伊豆急ケーブルネットワーク)アナウンサーを経て、1998年よりビーズ創作活動を始めたと。 ・・・つづく・・・
2018.01.13
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「白神岬展望広場」を後にし、更に国道228号を海沿いに進む。洋上に見えるのは「渡島小島(おしまこじま)」であろうか?北海道松前郡松前町に属する無人島。松前小島(まつまえこじま)とも呼ばれていると。「櫃(ひつ)の下橋」手前から松前線の櫃ノ下川橋梁の橋脚を右手に見る。松前線は木古内駅 - 松前駅間 50.8 kmが国道228号線に沿って結んでいたが1988年(昭和63年)2月1日に全線廃止となったのだ。「渡島小島」を再び。そして松前町に着き、最初に「郷土資料館」を訪ねた。「松前町町民憲章」碑。私たちは、天守閣のそびえる北海道の古都、松前町の町民です。新生松前町発足20周年にあたり、先人の業績をたたえるとともに、町永遠の発展と町民のしあわせをねがい、みんなが力を合わせてその実現をはかるため、私たちの生活のめあてとしてこの憲章を定めます。一、 力を合わせて産業をおこし、豊かな町にしましよう。一、 自然を愛し、美しい町にしましよう。一、 若い力を育て、明るい町にしましよう。一、 先人の遺産をだいじにし、文化のかおり高い町にしましよう。一、 互いに仲よく助け合い、平和な町にしましよう。1F入口にはアルコール消毒薬とマスクポストが置かれていた。2Fロビーの壁には「北前船渡航図」。北前船とは、江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船(かいせん)の名称。 買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。「松前屏風(まつまえびょうぶ)」は北海道指定有形文化財であるが、これは複製と。「松前屏風」は、高さ1.57メートル、横3.648メートルの6曲半双屏風で、松前に生まれた画家龍園斎小玉貞良によって描かれました。宝暦年間(1754~1764)の松前城下の秋を、福山を中心に白神岬から根部田(現在の字館浜)に至る城下町の全景が描かれ、福山館、寺院、商家、港湾、船舶と交易の状況や往時の風俗にいたるまで克明に表現されています。この屏風は、小樽内の場所請負人であった近江八幡の恵比寿屋岡田弥三右衛門が松前での出店の繁盛状況を後世に伝えるため描かせたものと考えられます。滋賀県近江八幡市の同家から、明治39年(1906)に同市在住者に譲渡されていたものを、昭和51年(1976)に松前町が購入しました。」とネット情報。2Fに「郷土資料館」の入場口があった。入場料は無料。先史時代からの松前の歴史、暮らしに関する資料を展示。町内各地で発掘された縄文土器等も紹介していたのであった。まずは名前を記帳して。松前町内の遺跡から出土した土器や、町内に伝わる民俗資料、箱館戦争に関する資料などが展示されていた。まずは「北海道の成立約50億年におよぶ地球の歴史のなかで日本列島はしだいに骨格ができあがってきました。何度かの氷河期を経て、日本列島は大陸から分かれて、津軽海峡・宗谷海峡などができ、北海道は島になりました。」日本列島の変遷が絵図で。下にはそれぞれの年代の化石が展示されていた。①津軽海峡、松前が大陸と陸続きだったころ(3600~2500万年前)②海峡の一部が形成されたころ(600~300万年前)③津軽海峡が形成されたころ(15~1万年前)熊の親子の姿が。近づいて。2.大むかしの松前松前地方に人々が住みはじめたのは、今から約7000年位前と考えられています。このころは、海や川で漁をし、山や野で狩をする生活でした。こうした生活は、本州文化の影響をしだいに強く受けなガら、鎌倉時代ころまでつづきました。「大津のむら(想像図)」大津遺跡(松前町・江良)は、縄文時代後期(約4000年前)の遺跡です。豊かな海と山の幸に恵まれた自然の中で数軒がまとまって村をつくり、人々は、共同で生活していました。発見された土器などなら、青森県や秋田県と深いつながりのあったことガわなります。「大津のむら(想像図)」子を抱く母親の姿も。「縄文から続縄文へ数千年間つづいた縄文時代は、さらにいくつかの時期に分けられ、地域によって、多様な文化を生み出していきました。やがて本州では、米作を土台にした弥生文化へとうつっていきましたが、北海道では、米がつくれなかったため、依然として、狩猟生活をつづけていました。このころの文化を続縄文文化と呼びます。」「縄文土器」。「竪穴住居」。「竪穴住居(想像図)縄文時代の人々は竪穴住居と呼ばれる家に住んでいました。地面を50 ~ 60cm堀り床をたいらにし、木で柱を立て簡単な屋根をかけたものです。想像によれば、夏は涼しく、冬は暖かいのが長所で、湿気の多いのが欠点ではなかったかと思われます。「縄文をつくろう」縄文式土器の名前は、土器の表面に刻まれた縄目の文様から付けられています。文様の種類によって、時代や地域を解く手がかりになります。細いひもをより合わせて、押し付けたりころがしたりして・・・・・。さあ君も、文様をつくってみよう。様々な文様作りのTRYコーナー。「擦文文化とアイヌ民族続縄文文化のあと北海道の文化は、擦文文化へと移っていきました。この文化は、鉄器を用いるなど本州の新しい文化の影を強く受けた文化です。この人々は、アイヌ民族の祖先とも考えられていますが、まだ明確な答はでていません。」「擦文土器」「沖口役所」絵図。松前藩は松前・江差・函館に沖口役所を置き、出入りを取り締まったのだ。上陸したばかりの人たちがきびしい取調べを受けているところであると。「沖の口役所松前藩は、松前・江差・箱館の3港に沖の口役所を置いて、出入りの商品や船・人馬をきびしくとりしまりました。この絵は、松前沖の口役所で、上陸したばかりの人たちがきびしい取調べを受けているところです。」「沖口役所の標柱 沖口役所とは、現在の税関のような機能を備えた役所であり、松前、江差、箱館の三港におかれた。この標柱は松前藩の復領後建てられ、地下から偶然発見されたものである。銘 文政癸未歳次建立(文政六年(1823)建立」「金山の開発と鷹商品の少なかった江戸時代の初期には、砂金と鷹が藩の有力な財源となり、藩は金山と鷹場の開発に多くの力を注ぎました。千軒岳には、今もなお砂金掘りの跡が残っています。」砂金の採れる川と道具の紹介。大、小粒の砂金。「藩制を支えた近江商人米のとれない松前藩にとって、交易が藩を支える重要な柱になりました、江戸初期、本州との交易で大きな役割を果たしたのが近江商人たちでした。そのため、藩では藩主への謁見を許し、また関税を安くするなどの特権を与えました。」「近江商人の出身地江戸時代に活躍した近江商人は、全国的には八幡・五個荘・日野の出身者が非常に多かったのですが、松前で活躍した近江商人の大部分は、近江八幡及び薩摩と柳川の出身者でした。」「近江商人の交易ルート松前交易で活躍した近江商人は、主に福井県敦賀・小浜の海産問屋と取引をしていたため、松前産物の多くは、両地へ集められ、琵琶湖経由で京都・大坂などの市場へ送られました。」「駕籠この駕籠は華遊山龍雲院から寄贈を受けたもので、僧侶が身分の高い侍の使用したもので4人で担ぎました。」「甲冑・二枚胴具足」。「江戸時代 初期 甲冑 折紙」。「鬼瓦」。町奉行所で使用されたもの。4「松前氏の独立日本最北の豪族蠣崎氏は、第5世慶広の時秀吉の天下統一事業が進むにつれ、にわかに中央接近策をとり、朝鮮戦争さなかの文禄2(1592 )年、秀吉より蝦夷地交易の独占権を認められました。ついで、慶長9(1604 )年、家康より同趣旨の制書をもらい、ここに松前氏が誕生しました。(慶長4年、氏を前と改める)」。「無名の大名松前氏は、領内で米がとれなかったため、石高のない"無高の大名。として存在し、当初は幕府より"蝦夷島主”というあつかいをうけ、江戸時代中期以降は、1万石格になりました。」「微塵塗大小拵え」「体制に組みこまれたアイヌ」「体制に組みこまれたアイヌ(藩主謁見の図)原本・市立函館図書館所蔵松前藩の誕生は、アイヌ民族への新しい差別と収奪のはじまりを意味し、アイヌの酋長は着主へ貢物を差し出し、謁見を強要されました。」「五世 慶広侯 木像 (松前家初代藩主) 阿吽寺所蔵」.「定」。慶長9(1604)年に松前(蠣崎)慶広が徳川家康から発給された制書。「制書のよみ方 定一、諸国より松前へ出入りの者ども、志摩守へ相断ずして 直に商買つかまつり候儀、曲事たるべきこと一、志摩守に断なくして渡海させ、売買つかまつり候は、きっと 言上いたすべきこと 附、夷の儀は、何方へ住行候とも、夷次第いたすべきこと一、夷仁に対し、非分申しかけは、かたく停止のこと右条々、もし違背の輩に於ては、厳科に処すべき者也よってくだんのごとし慶長九年正月ニ十七日 黒印 松前志摩守どのヘこの制書によって、松前氏は名実ともに蝦夷島の支配者になりました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.25
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3.「和人地の成立道南地方と本州の交流はしだいに強くなり、鎌倉時代には、道南地方に定住する和人がでてきました。室町時代には、館主と呼ばれる小さな豪族が成長し、百年にわたる民族戦争のすえ、戦国の動乱期に、蠣崎氏を中心とする和人の統一政権が誕生しました。」「アイヌ民族の社会アイヌ民族は、依然として狩猟、漁撈による生活を続けていましたが、もう土器は使わず生産用具も本州から手に入れたものを、多く用いるようになっていました。しかし和人の勢力はまだ及ばす、民族独自の世界をつくっていました。」「仕掛弓(アマックウ)」「仕掛弓(アマックウ)熊や鹿の通路を横切って細くて目につかない丈夫な細ひもを、動物の高さに張り、その一端を仕掛弓に装置させて.ひもに触れると.自動的に毒矢がとび出す仕組になっています。」「らっこ漁の図 雪好筆」。「鹿狩の図 雪好筆」。「求福山山車 胴幕」。近づいて。孔雀の雄をデザインした幕。刺繍作品なのであろうか。牡丹の花。「「北海道指定有形民俗文化財 求福山山車の人形その他付属品」求福山山車 胴幕松前城下を代表する山車の一つが求福山高砂山であった。城下の七社祭礼には、このような豪華な山車が各町内から引き出されたいへんなにぎわいであったという。側面に張られた幕が胴幕で、孔雀の雌雄をデザインした幕である。オランダ製の赤の羅紗地に金糸・銀糸をふんだんに用いた刺しゅうで、往時の松前の繁栄を象徴するものであり、製作は京都と考えられている。近年、傷みが激しいため、昭和63年度には道費の補助を得て修復をしている。」「求福山山車の人形その他付属品」向かって左に尉、右に老の正装人形。この衣裳は祭礼の時に藩主、奥方から下げわたしされたもの。左に「尉(じょう)」。右に「姥(うば)」。「求福山」。「北前船とは北前船とは通称”弁財船”と呼ばれ、おもに、日本海を舞台に大坂から下関を経由して、松前交易にたすさわった一枚帆の和船のことです。また経営のしかたが、荷主などに依頼されて商品を運ぶ賃積船とちがい、船頭が即商人である船頭の意志で、各寄港地で商売をする買積船であったところに大きな特徴がありました。」「北前船正月船・沖口役所標柱」「北前船」1600年頃、近江(滋賀県)商人がたくさん松前に来て、出店を開き繁盛した。松前の産物(にしん・こんぶ・干しあわび)を京都や大坂などの市場で売りさばき、帰りには呉服物・米・味噌・醤油・漁具など百貨を松前に運んだ。松前藩は米がとれず特殊な経済制度であるため、商人との直接的な取引をしなければ、藩の財政も家臣の生活も成り立たなかった。また、文化面でも京都の文化が近江商人によってもたらされ、寺院の庭園樹や桜、椿など名木の多くはこの頃松前に運ばれたと。「奉納船」。「北前船の航路北前船主には、加賀の大乗寺、橋立、越前の河野、敦賀など、富山、石川、福井、沿洋諸港の人たちが多く、彼等は、日本海を舞台に、活躍しました。」「絵馬」。近づいて。「絵馬北前船主や船頭たちは、航海の、安全を願って、各地の神社に絵馬を奉納しました.この絵馬もそのひとつです。」「船だんす」。船だんす(懸硯)「船だんす北前船などの船が航海上必要書類や貴重品などを入れて使用し船が難波してもこわれずまた他の人に盗まれないように仕掛けをしたりして作られています。たんすには.懸硯(かけすずり)、半櫃(はんがい).帳箱(ちょうばこ)の3種類があリます。」「国指定 重要無形民族文化財 松前神楽」と「郷土芸能」の写真展示。「手杵(てきね)江良ハ幡神社杵振舞保存会所蔵江良杵振舞(えらきねふりまい)は、松前神楽の四箇散米舞(しかさごまい)の楽曲にあわせて、「ヤレヤレ ソラヤレ」の掛け声とともに、手杵を回します。手杵は白木木目の磨出しの杵で、両端に房を付けます。」6「しいたげられたアイヌ民族ひらけゆ<蝦夷地、にぎわう松前城下、その裏には、アイヌ民族の怒りと悲しみがありました。おしよせる圧迫の中でも彼らは、いのちをかけて民族的誇りを守りつづけていきました。」「体制に組みこまれたアイヌ(藩主謁見の図)原本・市立函館図書館蔵松前藩の誕生は、アイヌ民族への新しい差別と収奪のはじまりを意味し、アイヌの酋長は藩主へ貢物を差し出し、謁見を強要されました。」アイヌ民族の歴史の紹介。「アイヌ人口の減少蝦夷地の開発がすすむにつれ、アイヌの人口は著しく減少してゆきました。中でも、道南地方をはじめ鯡(にしん)や鮭漁が発達した西海岸及び根室、国後地方が最もはなはだしく、鮭漁場で有名な小樽、歌棄、磯谷、寿都などは、明治初年頃には、全滅ないしはわずか数人という状態になっていました。「アイヌ人の人口推移(北海道、千島、樺太)文政5(1822)年 24,339人安政元(1854)年 18,805人明治6(1873)年 18,644人」「高利をもたらしたアイヌ交易」。「アイヌ民族のたたかい封建制社会のなかにおかれたアイヌ民族はたえきれない抑圧に、いのちをかけてたたかいました。そのうち最も大きなたたかいは、康正2(1456)年~長禄元(1457)年の道南地方を舞台にしたコシャマインのたたかい、寛文9(1669)年日高から石狩までの広い範囲のアイヌ民族がたちあがったシヤクシヤインのたたかい、さらに寛政元(1789)年、クナシリ、根室地方を舞台にした、たたかいです。」「アイヌ民族の宝物」「耳だらい」と「脚付行器」「つのだらい」「大だらい」「アイヌ民族の宝物鎌倉時代以降和人との交易が盛んになるにつれて、本州からは漆器をはじめとする物品が流入しました。なかでも漆器はアイヌ民族のカムイノミといわれる重要な飲酒儀礼には欠かせずこれがなくては成立させることができないといわれています。」「私の大事な恋人がどこか遠いところにやられたあなたは今どこにいるのか風よ 憎い風よお前は自由な風だからお前だけは私の恋人のまわりをまわりさわっても歩けるだろうが私は人間だから行くことができないのだヤイサマネナ仕方ない風にでも鳥にでもなって とんで行ったら恋人にさわれるだろうかちょっとでも姿を見れないだろうかヤイサマネナ」7.「北方に目をむける幕府江戸時代の終わりころになると、幕府は、産物の豊かな蝦夷地に、特別な関心をよせました。ロシアが、蝦夷地周辺に南下したのを機会に、松前氏から領地をとりあげ、蝦夷地を直轄してしまいました。」「正確になった北海道の地図松前藩は、現在の北海道、千島及び樺太南部の広大な土地を領地とし、面積では日本最大の藩でしたが、その大部分がアイヌ民族の居住地であったために、藩領の地図も江戸中期頃までは、不正確なものでした。ところが、18世紀末に入って、幕府が北方への関心を示し、蝦夷地の調査を行なうようになってから、次第に正確な地図がつくられるようになりました。」左:元禄御国絵図(写) 元禄13年松前藩が幕府に提出した地図。中:蝦夷興地全図(写) 天明5年山口鉄五郎 外幕府の調査隊が作成したもの。右:蝦夷国測量図(写) 寛政―文化年間、伊能忠敬・間宮林蔵の調査隊にもとずいて作成したもの「元禄御国絵図(写)元禄13年松前藩が幕府に提出した地図」「蝦夷興地全図(写) 天明5年山口鉄五郎 外幕府の調査隊が作成したもの。」「蝦夷国測量図(写) 寛政―文化年間、伊能忠敬・間宮林蔵の調査隊にもとずいて作成したもの」「本州に移封された松前氏寛政11 (1799)年、幕府は松前から東鰕夷地をとりあげて、仮直轄し、さらに享和3(1803 )年には、永久直轄しました。その後、文化4 ( 1807 )年には松前氏を福島県の梁川に移封し、全蝦夷地を直轄してしまいました。これより、以後14年間、松前氏は、梁川藩9,000石の領主になり"松前藩"は消えてしまいます。」「蝦夷輿地全図(写)天明5年山口鉄五郎外幕府の調査隊が作成したもの。」「蝦夷国測量図(写)寛政~文化年間、伊能忠敬・間宮林蔵の調査隊にもとずいて作成したもの。」8 「おしよせる時代の波長い間、鎖国を続けてきた日本の社会は、黒船の来航をきっかけに大きくれ動き北辺の松前荿もこの、激動のうずの中に巻き込まれていきました。」「福山館と福山城安政元(1854)年の新城完成までの福山城は、正式には館または陣屋と称されました。嘉永2(1849)年、松前氏は城主となったためこの時から正式に福山城となりました。」「福山城の築城幕末になって諸外国船の津軽海峡往来がはげしくなると、幕府は、北方警備のため嘉永2(1849)年、松前崇広に築城を命じました。安政元(1854)年に落成したこの城は、日本最後の旧式の城です。」「松前城下眺望の図」。「3万石の大名安政2(1855)年、箱館を含む大部分の領地が、幕府の直轄となり、代わって、東北地方に、領地をもらったため、この時から松前氏は、3万石の大名になりました。」左の領地:文政5(1822)年 ~ 安政元(1854)年右の領地:安政2(1855)年 ~ 明治4(1871)年「薙刀 銘 堀井正次」「北海道指定 有形文化財薙刀 銘 堀井正次」。「箱館戦争松前は、明治元年11月、榎本武揚の率いる旧幕府軍の攻撃受け、館城も落城し、藩主以下津軽へのがれました。翌年、官軍によって松前は、奪還されましたが2度にわたる兵火のために城下の大半が焼失してしまいました。城下の人々lことって、戦争は物心両面こ大きな傷あとを残しました。」箱館戦争時の松前藩家臣が着用したもの。「町内出土の砲弾・弾丸」「町内出土の砲弾・弾丸明治元年及ぴ2年の箱館戦争は松前でも激戦が繰り広げられ、城下に大きな被害をもたらした。現在でも町内の各所から、当時の砲弾や弾丸が発見されることは珍しくない。旧式の火縄銃の弾丸や最新式のスペンサー騎銃の弾丸、和式の大筒の砲弾や洋式の爆裂弾など種類も豊富である。当時、世界的に武器の進歩は著しく、アメリカの南北戦争が終結した後でもあって、ヨーロッパの武器商人たちは競って日本へ武器の売り込みを図ったのである。各種の弾丸・砲弾が見られるのは、こうした背景があることを示している。」「箱館戦争口書戦闘の様子を松前藩士松崎多門が記したもの。」「錦切(きんぎれ)官軍側の兵士が目印のため肩につけたもの」江戸時代に京都から輿入れした人の化粧道具とのこと。「福山城下町遺跡 出土 近世陶磁器」近づいて。「福山城下町は、海岸段丘に築かれた福山城(松前城)を中心に展開しています。船舶の接岸に便利な海岸沿いには商人の店舗や土産が立ち並び、城の東西にある段丘上には武家屋敷が作られました。そして、火災や水害のたびに盛り土を行い、その上に新たな建物が建設され、今に至っています。近年では、道路拡幅工事や建築工事に伴い、「福山城下町遺跡」の発握調査か行われるようになりました。ここに展示した陶磁器は、福山城下町が持つ豊かな経済力の一端を示すものです。」「現在の松前国道が敷設され、護岸工事が行われたことで、往時の海岸線をしのばせるのは、松前川河口付近のみとなりました。」「平成29年 認定 日本遺産荒波を超えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.26
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1月5日の夜、NHK総合において、世界の考古学者を驚かせた「最古のパピルス」を手掛かりに、ピラミッドの謎に迫る「完全解剖!大ピラミッド七つの謎」を再放送していたので、これを録画し楽しんだので、全てテレビ映像からの写真を引用・掲載させて頂きその内容を紹介いたします。圧倒的な存在感を誇るクフ王のピラミッド誕生の秘密、巨石を積み上げる驚異のテクノロジーなどを考古学者・河江肖剰氏を案内人に登場させて紹介。さらに、幻の古代都市ピラミッドタウンの発掘最前線、ピラミッドがカギを握る社会の大激動、権力者の野望と愛憎が渦巻く下剋上ドラマなど、世界遺産ピラミッドに秘められた謎と歴史ロマンに迫る番組だったのです。世界遺産「三大ピラミッド」は、エジプト、ギザの砂漠にある、3基のピラミッドの総称。英語ではGiza pyramid complex(ギザのピラミッド群)と呼ばれる。隣接するスフィンクスとともに、エジプトを象徴するイメージとなっている。造営時期は現在より約4500年前の、紀元前2500年頃とされ、いずれもエジプト第4王朝に建設されている。古代エジプト王国のファラオの墓陵であり、被葬者の名をとって写真手前からクフ王のピラミッド、カフラー王のピラミッド、メンカウラー王のピラミッドと呼ばれているのである。私がこの地を訪ねたのは、40年以上前であっただろうか。クフ王のピラミッドの頂上に上っている人の姿が。後ろにカフラ王のピラミッドが見える。1864(元治元)年にピラミッドを見物し、スフィンクス前で写真に納まった遣欧使節団の武士たちの姿。随行員の手記に「三角山に登山、入窟の者もあり。この山何の故に作りしやと問うに、仏の為という。山後に又二山あり。その下に石首あり。石首の下に本朝人列立して写真をとる」とあるのだと。今、最新の発掘調査で大ピラミッドの全貌を解き明かす新発見が相次いでいると。再び三大ピラミッドを反対方向から。写真手前からメンカウラー王のピラミッド、カフラー王のピラミッド、クフ王のピラミッド。クフ王のピラミッドを上空から。そして番組タイトル「完全解剖! 大ピラミッド 七つの謎」。およそ4500年前に築かれた巨石建造物・三大ピラミッド。クフ王のピラミッドは三大ピラミッドの中で最大で、高さ146.6m(現在の高さ138.8m)である。クフのピラミッドの底辺の長さは約230m。カフラー王のピラミッド。三大ピラミッドのうち中央に位置する。高さはおよそ136メートル(頂上部分が一部崩れているため、創建当時より低くなっている)。頂上付近に創建当時の化粧石が一部残っている。見かけ上、三大ピラミッドの中でもっとも高いように見えるが、それはカフラー王のピラミッドが立っている岩盤が、クフ王のそれに比べてやや高くなっているためで、実際はクフ王のピラミッドの方が高い。メンカウラー王のピラミッド。三大ピラミッドの中ではもっとも小さい。高さおよそ65メートル。ただしピラミッド複合体の規模としては、ほかの2つのピラミッドに劣らない規模を備えている。ピラミッドの南側には、3基の王妃たちの小さなピラミッドが東西に並んでいる。参道も存在し、東へと延びている。北面には大きな傷跡が残るが、これはピラミッドを破壊しようとしたものが破壊できずに終わったものの名残であるという。クフ王のピラミッドの内部紹介。奥へと巨大な空間が延びている。高さ8m、全長47m、これは大回廊と呼ばれている通路。壁面が7cmずつ内側にせり出すことで重力を分散している。大回廊を登り切ると、その奥に現れるのは地上50mに位置する「王の間」。棺の様なものが置かれているが、中身はカラッポ。クフ王のミイラは未だ見つかっていないのだ。現代の土木技術から考えても驚異的な精度で築かれた大ピラミッド。設計図などの記録は今尚発見されておらず多くの謎で満ちているのだ。そして7つの謎のスタート。①どのようにして巨石を積み上げたか?数々の巨石建造物を残した古代エジプト文明。ピラミッドに使われている石の重さは平均2.5トン。最大のものはおよそ60トン、アフリカ像7頭の重さに匹敵する。建造当時は車もクレーンもない時代、いったいどのようにして巨石を積み上げたのであろうか。その方法を巡って今まで様々な説がとなえられて来たと。1.滑車引き上げ説、しかしこの時代滑車はまだ発明されていなかった。2.担ぎ上げ説、木材の上に石を載せてお神輿のように担ぎ上げる方法。しかし持ち上げに失敗すると、石材が下に落ちて来て非常に危険。それでは実際に行われた積み上げの方法とはどの様なものであったのだろうか。その謎を解く手掛かりは以外なところにあると、それが未完成のピラミッド。クフ王と同時代に建てられた墓には、傾斜路が残っているのだと。墓から延びていたのは傾斜路という坂道。この傾斜路こそがピラミッド構築に欠かせないものであったと。しかし大ピラミッド建造に使われた傾斜路がどの様な形をしていたのか今尚様々な議論が続いているのだと。これまで考えられて来たのは大きく3種類。1.らせん型傾斜路2.ジグザグ型傾斜路3.直線型傾斜路その中で最有力なのが3.直線型傾斜路であると。しかし一つ問題なのが、直線型傾斜路であるレベルまで行った事は解るがそれ以上延ばしていくと角度の問題が発生することが避けられない。よってその後にどのような方法が用いられたかが大きな議論になっていると。傾斜路が延びて行くと、ピラミッドを作る以外にも傾斜路を作る為の大量の土砂と膨大な時間が必要となって来る。傾斜路の角度を急にしても、今度は巨石を引き上げる途方も無い力が必要となるのだ。2018年、その手掛かりとなる大きな発見があったと。エジプト中部の砂漠で進む採石場の発掘調査で、急勾配の傾斜路で路面にいくつもの同じ穴が見つかったのだ。この人が入り込める程の大きな穴。穴に柱が立っていて、この柱にロープをかけて様々な場所から引っ張ったのだと。複数のチームが入れ替わりながら巨石を上へ上へと引き上げて行ったと。この柱の利用により傾斜角12度を超えても引き上げが可能となったのだと。巨石の後ろにいても引き上げが可能な土木システムなのであったと。古代エジプト人は傾斜路利用の「マスター」であり、傾斜路と柱を様々な形で工夫しながら大ピラミッドを建設して行ったことが解りつつあるのだと。②どのくらい時間がかかったのか?大ピラミッドの建造は王の即位とともに始まったことは解っていたと。では完成までにどのくらいの時間がかかったのか。最も有名なのは紀元前5世紀、古代ギリシャの歴史家ヘロドトスが唱えた説。「10万人の人間を使い、20年の歳月を要した」と。20世紀にはエドガー・ケイシーによる「建造期間 100年」説も。この謎に迫る資料が遠く離れた場所で見つかったのだと。大ピラミッドから南東に約200km、紅海沿岸の遺跡・ワディエル=ジャラフ。ここはピラミッドが造られた時代の港であったと。今周辺で遺跡が続々と発見されて注目されている場所である。2013年、この2つの岩の間でとんでもない発見が。見つけたものは1000にも及ぶ細かい紙の破片。エジプト最古の「パピルス」であったと。21世紀最大の発見と称されたほどの、エジプト文明の謎に迫る極めて重要な発掘。書かれていたのはクフ王のピラミッドを表す古代の言葉「アケト・クフ」。そいて大量の細かい紙の破片「パピルス」のジグソーパズルが今も行われていると。この最古のパピルスにはクフ王のピラミッドを建造したチームの記録があると解ったと。「メレル」という人物の存在も。最古のパピルスにはメレルが書き残した日々の作業記録、いわばメレルの日誌があったのだと。メレルは中級の役人で、40名のチームを束ね王に関わる物資の運搬を担当、よって大ピラミッド建造に携わっていた監督で重要な役割を担っていたと。そしてメレルの日誌の中に、大ピラミッドの建造日数を解明するヒントが残されていたと。メレルの日誌にはトゥーラという採石場の記録も。メレルはピラミッドの建造現場と採石場や港など各地を日々移動していたのだと。メレルの自筆に因る生々しい記録。そしてメレルの記録には大ピラミッドの建造期間に迫る2つの重要な手がかりとなる記載も残されていたと。メレルが訪ねた採石場トゥーラは、白くて良質な石灰岩の産地であったのだ。これがピラミッドを覆う化粧板に使われたのだと。もともとピラミッドは滑らかな化粧板で表面全体が覆われ、太陽の下で白く輝く存在であった。化粧板はピラミット建造の最後の仕上げとして使われたのだ。その産地であるトゥーラをメレルが訪ねていたことは、大ピラミッド建設が最後の工程に入ったことを示唆していると。ピラミッドの建造は通常、王の即位とともに始まる。それから何年後に仕上げに入ったかが判れば、大凡の建造期間が判明するのではと。そこで重要になるのが2つ目の手掛かり。クフ王の下で13回目の家畜調査が行われたとパピルスに記述があったと。当時エジプトでは、税金を決めるため家畜の頭数を数える調査が2年に一度行われていたのだと。よってクフ王が即位して26年目かその翌年に大ピラミッドは化粧板で表面を多い完成を迎えたと推測できるのだと。これまでベールに包まれて来た大ピラミッドの建造期間が、監督メレルの残したパピルスによって遂にその謎が明らかになったのだと。 ・・・つづく・・・
2021.01.10
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次そして「善徳寺」に到着。大和市上草柳3-10-5寺号標石「真言東本願寺 休息霊場 草柳山善徳寺」。真宗大谷派の寺院なのであった。「市指定重要有形文化財(有第十ニ号)銅造誕生釈迦仏立像指定年月日 昭和五十六年八月一日形状 像高 10cm生まれるとすぐ七歩歩み、「天上天下、唯我独尊」(この世界の中で、自分より尊い者はない)と言ったと伝えられる釈迦の像です。左手の肘から先と、両足の膝から下あたりが欠失し、肌も荒いですが、量感たくましく、きわめて力強い仏像です室町時代(十五世紀)の鋳造と考えられます。言い伝えによれば、善徳寺本堂を建立するために村人総出で山をくずし、地ならししていると土の中からこの仏像が堀り出されたと伝えられています。平成九年三月 大和市教育委員会」広い境内の奥に「善徳寺六道殿」と見事に手入れされた「カイヅカイブキ(貝塚伊吹)」の生垣。ズームして。誰かのお腹の如し。「善徳寺六道殿」を正面から。蟇股の後ろに扁額。蟇股とは横木(梁・桁)に設置し、荷重を分散して支えるために、下側が広くなっている部材。そのシルエットが蛙の股の様に見えることから「蟇股」と呼ばれるようになったと。念の為扁額「善徳寺六道殿」を斜めから。「内陣」を見る。見事な精細な「欄間彫刻」。見事な精細な「欄間彫刻」。そして見事な組造りの詰組(つめぐみ)構造の「鐘楼」。そして寛政8年(1796年)作の「梵鐘」。太平洋戦争当時、多くの寺は金属不足の為に梵鐘を国に供出した。その殆どは帰って来なかったが、善徳寺の梵鐘は潰されずに無事に帰って来たのだと。中央には「南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい)」の文字が。「人知を越えた智慧の光明をそなえた阿弥陀如来に帰命し奉る」の意。阿弥陀仏の特に光明のすぐれていることを表す名号で、九字名号と言われると。こちらには「南无阿弥陀佛」「手水舎」。「鐘楼」の見事な詰組(つめぐみ)。「水盤」には「浄水」と。「手水舎」の先に広い「墓地」が広がっていた。「戦没台湾少年之慰霊碑」「太平洋戦争 戦没台湾少年の慰霊碑」。「戦没台湾少年之慰霊碑太平洋戦争の末期この地に「高座海軍工廠」👈リンク 在り十三才より二十才までの台湾本島少年八千余名海軍工員として故郷を遠く離れ気候風土その他の悪環境を克服し困苦缺乏に耐え連日の空襲に悩みつつも良くその責務を完うせりされど病床に斃れ或いは爆撃により最期を遂げたる者数多し 遺骨は故郷に還れと夢に描きし故郷の土を踏み懐かしの肉親との再会をも叶わず異郷に散華せる少年を想ふ時十八年後の今日涙また新なり。これ等の霊魂に対し安らかなるご冥福とかかる悲惨事の再び起らぬ永遠の平和を祈り之を建つ 昭和三十八年十一月 神奈川県平塚市富士見町十番十八号 元 高座海軍工廠 海軍技手 早川金次 坂本光吉 謹書」「本堂」を背景に石仏を。台座には「戦没者 檀信徒 慰霊位」と。「本堂」。本尊は阿弥陀如来像。慶長18年( 1613 )正慶坊善徳により開山されたという浄土真宗の寺。「本堂」正面の見事な龍の欄間彫刻。木鼻(右)。 「木鼻」の出現は、「平重衡の南都焼打ち」にあって荒廃した「東大寺」を見事に再建した高僧「俊乗坊重源」が、中国から持ち帰った建築技法の「貫」が採用された鎌倉時代から。貫という技法は建築を格段強固にし構造そのものが大きく変革を遂げた。木鼻とは「木の先端」という意味の「木端(きばな)」が転じて「木鼻」に書き換えられたもの。頭貫などの水平材(横木)が柱から突き出した部分に施された彫刻などの装飾をいうとネットから。木鼻(左)。「本堂」の見事な詰組(つめぐみ)。斜めから。「本堂 内陣」。本尊の阿弥陀如来像であろうか。本堂の外柱の下にも見事な金属彫刻が。「本堂」前から「善徳寺六道殿」を見る。横壁には花頭窓が並んでいた。「本堂」と墓地を仕切る壁には「沢柳山善徳寺之由来沿革史」石版が。ひたすら漢字のみの長文で。こちらは「善徳寺本堂沿革歴」。ひたすら漢字のみの長文で。丸に横向きの三本線をあしらった「横三引両」紋が寺紋なのであろうか。墓地の珍しい赤い墓石。赤色御影石であろうか?巨大な「本堂の屋根」。そして巨大な「善徳寺六道殿の屋根」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.09
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【海老名市歴史散歩】 目次「三島社」を後にして「宇治山」交差点を左折して北東に進む。150m近く進むと右手にあったのが「常在寺」の「山門」。「本興山 常在寺正和年間(西暦一三一ニ年頃)鎌倉小町に日蓮大聖人の法孫了性房日乗上人が開創しました。本尊 十界曼荼羅佛寶 久遠之釈迦牟尼佛法寶 妙法蓮華経僧寶 日蓮大聖人」「アツバキミガヨラン(厚葉君が代蘭)」であろうか。釣鐘状の花は 大きいもので10㎝くらいに。境内の「宗祖 日蓮大聖人」像。近づいて。お顔をズームで。右手に「鐘楼」と「堂宇」。樟・楠(クスノキ)の大木。「海老名市自然緑地保存樹木第205号 平成20年2月13日指定樹木名 クスノキ幹の周囲 2.80メートル所有者又は管理者住所 海老名市社家3746氏名 常在寺」「妙音院誌 南無妙法蓮華経」碑。「鐘楼」に近づいて。「梵鐘」。「手水舎(ちょうずや・ちょうずしゃ・てみずや・てみずしゃ)」。参拝者が身を浄めるために手水を使う施設のこと。水盤舎(すいばんしゃ)、御水屋(おみずや)とも呼ばれる。作法は一般的には次の通り。右手で柄杓(ひしゃく)を取り、手水を掬(すく)う。その手水で最初に左手を清める。次に柄杓を左手に持ち替え、同様の動作で右手を清める。次に口をゆすぐためもう一度右手に柄杓を持ち替え、左の手のひらに手水を溜めて口に含む(柄杓の椀に直接口をつけない)。音を立てずに口をゆすいで清め、そっと吐き出す。先の動作で左手をもう一度清める。最後に柄杓の柄を片手で持ち、椀部が上になるよう傾け、柄に手水をしたたらせて洗い流す。柄杓を元の位置に静かに戻す。「寺務所」。「本堂」。日蓮宗駿州富士郡北山本門寺末。「風土記稿」によれば、創建は文保年間(1317~18)とされています。江戸時代には慶安2(1649)年に、土地9石1斗について朱印地(将軍名の「朱印状」発給による寺社領地で、年貢や課役の免除が保証される)とされていました。海老名市社家3746。扁額「常在寺」。「内陣」。本尊は十界勧請大曼荼羅。また延宝7(1679)年に奉納されたと思われる木造子安鬼子母神立像(像高49センチメートル)、日蓮宗大荒行堂にて感得された木造大黒尊天神(像高36センチメートル)等が祀られていると。木造日蓮聖人坐像(像高35.7センチメートル)が最奥に。内陣にも「立正安国」の扁額が。本堂内の「日蓮聖人一代記」の欄間彫刻。富士市本市場住の彫師「板倉聖峯」師の作品であると。立教開宗・・・建長5年(1253)初めて清澄山頂にてお題目を唱える。伊豆流罪・・・弘長元年(1261)法華経の辻説法で鎌倉幕府により流罪となる。伊豆法難・・・弘長元年(1261)前年の松葉ヶ谷法難に続く四大法難の2番目。星降之梅・・・文永8年(1271)佐渡流罪の前に厚木で星が降ってきて梅の木に架かったと いう逸話。御入滅・・・弘安5年(1282)10月お題目を唱えながら61才の生涯を閉じる。こちらも見事な龍の彫刻。伝左甚五郎作の龍の彫刻であると。この龍が池の弁天様と遊んで参詣人を驚かせたため目に釘を打たれて釘付けとなり、後改心して、お寺や客人を守ってきたとの言い伝えが残っているのだと。「天水桶」。鶴をあしらった紋・鶴丸紋が。日蓮宗といえば「井桁に橘」だが、宗派や寺によっては鶴丸紋を使用しているようであった。「本堂」前の老木。「柏の樹この柏の樹は、常在寺が今よりおよそ四八〇年前、大永三年(西暦一五ニ三)に開創地である鎌倉小町より、当海老名社家に復興移転したおり、時の住職日在上人が法華題目の流布記念としてお手植えされた樹と伝えられているものです。」日蓮聖人が富士宮黒田存の本光寺に来て説教されたとき、村人が柏餅をこしらえて供したところ、聖人が大層喜んで食したという故事に因んで植えられたともいわれています。「海老名市自然緑地保樹木第58号 昭和62年8月1日指定樹下名 カシワ幹の周囲 2.80メートル所有者文は管理者住所 海老名市社3746氏名 常在寺」「鐘楼」を正面から。白のシュウメイギク。狸像も。樹木葬墓地とのこと。道路沿いにあった「永代供養墓」。そして次の目的地の「浄光寺」に向かって進む。産業道路の「宜山南(むべやまみなみ)」交差点を右折する。次の目的地の「浄光寺」にIphonesのGoogleマップをセットし進むが、「浄光寺」の東の道で「目的地に到着しました」とのメッセージが流れたが入口はなし。ストリートビューで確認すると、入口は反対側の道路であることが判明。案内に従って進むと右手にあったのが「十王堂」。海老名市社家1198。「十王堂」の祠。中には、頭に“王”と記された冠(?)をかぶり、厳めしい顔つきの石仏が鎮座。「閻魔大王」であろう。両側には石碑が。そして南西に向かって進むと左手にあったのが「浄光寺」。「浄土真宗 本願寺派」。「浄光寺」。正面に「本堂」。浄光寺は、歸命山遍照院と号す。浄光寺は、足利義晴に仕えていた日野三郎信忠が義晴没後仏門に入り浄觀と改め、天文元年(1532)鎌倉扇谷に創建、その後寛永年間(1624-1645)に今里村へ移転、さらに万治年間(1658-1661)ここ海老名の当地へ移転したと。海老名市社家3873。扁額「浄光寺」。内陣。本尊は阿弥陀如来像。境内の太い欅の木。親鸞聖人像。境内墓地。多くの墓碑が並ぶ。無縁仏塚。境内のピンクのシュウメイギクシュウメイギクは漢字で書くと「秋明菊」となり、菊に似た白やピンクの花を咲かせる宿根草。キンポウゲ科の植物で、花の形はアネモネに似ているのだ。こちらは白。名前にキクが付くが、キクの仲間ではなくアネモネの仲間であると。「アネモネなどと同様、プロトアネモニンを含み有毒。乳液に触れるとかぶれを引き起こす」とネットから。民家の庭に余り咲いていないのはこれが理由なのであろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.23
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ここが南洲神社の一の鳥居。急な階段を登り切って鳥居の奥に西郷さんの墓石が見えたのであった。そしてこの先を右に曲がると「南洲神社」の境内への道もあった。巨大な「常夜燈」。「常夜燈この常夜燈は、西郷隆盛と勝海舟との会談により、江戸城が無血開城され、江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のため、昭和14年5月当時の東京市によって寄贈建立されたもので、花棚石(けだないし)でできています。江戸城の無血開城には、薩摩藩から第13代将軍徳川家定の御台所となった天璋院(篤姫)も西郷降盛に徳川家存続の嘆願書を送るなど、大きな役割を果たしたとされています。」花棚石(けだないし)とは鹿児島県鹿児島市で産出される凝灰岩とのこと。こちらは「勝海舟歌碑」。『ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな』。旧鹿児島城下が60年ぶりの大雪に見舞われた1877(明治10)年2月15日、薩軍の一番大隊が鹿児島私学校横の練兵場を出発し、西南の役が始まった。勝は、結果として私学校生徒らに身を委ねる形で同年9月24日に城山の露と消えた西郷の心境を、この31文字に凝縮させたのだと。「勝海舟歌碑明治6年(1873)、朝鮮への使節派遣の問題で新政府を去った西郷隆盛は、鹿児島にもどり、青年の教育のため私学校を設立しました。ところが明治10年この私学校の生徒が、西郷の意思に反して暴走。ついには西南戦争を引き起こしたのです。この歌は、幕末以来西郷と親交の深かった勝海舟が、愛する私学校生徒に身を委ね生涯を閉じた亡友のために詠んだものです隣に立つ常夜燈は、西郷と勝海舟との会談により江戸城が無血開城され、江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のた昭和14年5月当時の東京市によって建立されたものです。歌碑はこの常夜燈と同じ花棚石でできてます。」黄葉の始まった銀杏の木の手前にも石碑が。「黄興記念碑」。正面から。「黄興先生略歴孫文と共に中国辛亥革命の代表的志士であった黄興先生は、一八七四年、湖南省長沙市の学者の家に生まれた。性格は寡黙で沈着豪胆、体格も偉大で英雄の風格があり、名文家、能筆家としても有名であった。一九〇ニ年、選ばれて日本に留学し、東京の弘文学院に入学したが、早くから民族主義に目ざめ「華興会」の会長に推挙されるや、孫文の「興中会」と日本で統合を図り、一九〇五年「中国同盟会」を結成して、清朝を打倒し、中国の民主化を目ざす革命運動の推進力となった。一九〇九年(明治四十ニ年)、友人の宮崎滔天の案内で、鹿児島を訪れ、ここ南洲墓地を参詣した際、次の詩を賦した。八千子弟甘同塚世事維爭一局棋悔鑄当年九州錯勤王師不撲王師黄興先生は一九一六年、志半ばにして上海でその波乱に満らた生涯を閉じ、後に故山の長沙市岳麓山に国葬を以って埋葬されたが、終生、中国の西郷南洲を自認し、南洲翁の人格と思想に傾倒した。黄興先生の憂国の至情を追慕すると共に、その出身地、長沙市と鹿児島市との友好都市盟締結ニ十五周年に当り、両市の交流が更に深まることを切望して已まない次第である。」中国語でも。そして正面に「献木」。「ニ十周年記念行事として左記のとおり献木いたします。一、オガタマノキ ニ本一、紅梅 ニ本一、サッキ 三本昭和五十六年十ニ月ニ日鹿児島南洲ライオンズクラブ」。「俳句短歌」投函ポスト。「黄興記念碑」の先には桜島の山頂が見えた。左手に「南洲神社」碑。柿の木には多くの実が。「庄内柿この庄内柿は、庄内の偉人菅臥牛翁(すげがぎゅうおう)と西郷南洲翁との徳の交わりを機縁として、山形県鶴岡市と鹿児島市が兄弟都市盟約を締結した、昭和四十四年十一月七日に、鶴岡市から寄贈されました。庄内柿は庄内地方の特産品で、糖度が高くてみずみずしく、庄内の秋を代表する果物の一つとして知られています。」そして「南洲神社」の境内へ。「南洲神社電燈」。境内の銀杏の木を背景に。南洲神社拝殿の参道、石段を登った両脇に一対立つ。高さ4.4mの鋳鉄製。ズームして。柱脚は六角形の断面、柱頭は六方に開いた花弁状で飾られていた。「登録有形文化財」のプレート。「南洲神社電燈大正2年に建設されたこの電燈は、高さ4.4メートル、鋳鉄製で、六角形の柱脚や六方に開いた柱頭飾り、各接合部の繰形などの装飾をもつ。近代日本の礎となった旧集成館が製造した数少ない遺構である。文化保護法、第57条第1項の規定により、平成18年10月18日付けをもって文化財登録原簿に登録された。」そして「南洲神社」の拝殿。明治13(1880)年に「南洲墓地」の隣接地に建立された。鹿児島県鹿児島市上竜尾町2−1「拝殿」前の石灯籠。「拝殿」に近づいて。神紋:菊の葉三葉(西郷家の家紋)。「南洲神社御祭神 西郷隆盛命配祀 桐野利秋命以下薩軍戦死者六千八百柱沿革 明治十三年一月一日 (1880年) 参拝所建立大正二年十月二十四日 (1913年) 南洲祠堂建立大正十一年六月二十八日 (1922年) 南洲神社創建昭和二年九月二十四日 (1927年) 桐野利秋命以下諸将士を祀る攝社建立昭和二年十月二十四日 (1927年) 五十年祭盛大に行わる昭和二十年7月三十一日 (1945年) 本社攝社とも戦災により炎上昭和二十五年九月二十四日 (1950年) 仮殿建立昭和三十二年九月二十四日 (1957年) 本殿再建昭和四十五年十二月三十一日(1970年) 拝殿再建昭和五十二年九月二十四日 (1977年) 百年祭・玉垣完工 例祭 九月二十四日 祈年祭 二月二十二日 夏 祭 七月十七日・十八日」「拝殿」の「西郷隆盛像」。近づいて。こちらも「西郷隆盛像」。そして「本殿」を見る。「拝殿」前から「南洲神社」境内を振り返る。境内に砲弾が二個置かれていた。「招魂 西南之役戦歿者慰霊塔」。近づいて。「趣意明治十年(一八七七)九月の西南之役終熄より百二十余年、平成十一年度遺族会総会は慰霊塔建立を決議。戦域より遺砂を格納し、就中無名の戦士に光を当て顕彰の誠を捧げるべく企画、同時に南州翁や戦跡より「縁の石」を集め、翁の足跡や苦難の跡を偲ぶよすがとした。今般建立に当り賛同、募金に協力された有志諸賢に深く感謝の念を捧げるものである。 平成十三年九月十六日 西南之役戦歿者慰霊塔建立期成会」。「薩軍戦没者名簿配列表」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.29
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30分食べ放題の「さくらんぼ狩り」を楽しんだ後は、この日最後の目的地の大月市にある日本酒醸造所「笹一酒造」に向かって進む。山梨県甲州市塩山下萩原404付近。静岡県道218号線・大菩薩初鹿野線の左手前方にJR中央本線が見えた。「景徳院」交差点から国道20号・甲州街道に入る。「日川渓谷竜門峡 湯の沢峠 大菩薩峠 方面」案内板があった。「日川(ひかわ/ にっかわ)」に架かる「丸林橋」を渡る。「日川」は、山梨県の甲州市などを流れる一級河川。笛吹川の支流。大菩薩嶺(だいぼさつれい)付近に源流をもち、断層線に沿って花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)地帯を南に流れ、JR中央本線甲斐大和(かいやまと)付近に達し、西に流れを転じ、日川扇状地を形成、笛吹市一宮(いちのみや)町田中付近で笛吹川に合流する。流域は甲州(こうしゅう)市勝沼(かつぬま)町地区をはじめとするブドウの産地である。中流の田野(たの)から天目(てんもく)山にかけては武田勝頼(かつより)終焉(しゅうえん)の地として知られる。また嵯峨塩(さがしお)温泉、田野温泉などもあり、ハイキングコースとしても知られている。流路延長27.0km、流域面積108.3km2。「道の駅 甲斐大和」前を通過。山梨県甲州市大和町初鹿野2248。「ふれあい広場」周辺。そして国道20号・甲州街道の「新笹子トンネル」を通過。笹子峠を通る道路トンネルは、1938年に開通した山梨県道の笹子トンネル(笹子隧道、延長239m)、1958年に開通した国道20号の新笹子トンネル(2953m)、1977年に開通した中央道の笹子トンネル(下り4717m・上り4784m)がある。このうち国道の新笹子トンネルは、中央道とともに、クルマで笹子峠を通過する場合のルートとして機能している。中央自動車道・笹子トンネル事故2012年12月2日午前8時3分、山梨県大月市の中央自動車道・笹子トンネル上り線でつり下げられた天井板が長さ約140メートルにわたって崩落。走行中の車4台が巻き込まれ、うち3台が下敷きになり、9人が死亡、3人がけがをしたのであった。そして国道20号・甲州街道沿いにあった日本酒醸造所「笹一酒造」に到着。山梨県大月市笹子町吉久保26番地。日本酒醸造所「笹一酒造」の係員の方がバスに乗り込み「笹一酒造」の説明を。笹一の笹は酒を意味し、一は酒の日本一を目指すという思いを込めて命名された。大正八年(一九一九年)から現在まで、笹一酒造の顔として使われ続けているマークは、『八咫の鏡(三種の神器の一つ)』に縁取られた中央に筆太のヒゲ文字で笹一を表している。古来より神聖なものとされている八咫の鏡と酒を掛け合わせ、そして 大正八年の縁起の良い末広がりの〝八〟に因み、八咫の鏡をモチーフとして使用したとのこと。それは、草創期における酒の日本一たる笹一のこころを、八咫を後世に伝えたいという願いでもあるのだと。そして店内に。『八咫の鏡(三種の神器の一つ)』に縁取られた中央に筆太のヒゲ文字で笹一を表している。「笹一」。「樽酒 笹一」。「笹一の祝酒」の「樽酒価格表」。「特選純米大吟醸 笹一」。純米大吟醸酒は、精米歩合50%以下の米を使用。「笹一 山廃純米大吟醸 甲州山田錦35山梨県産の特上認定された「純米の王様」山田錦を100%使用し、精米歩合35%まで磨き上げた、最上級の日本酒です。山梨県産山田錦を35%まで精米した米は、極上の透明感と、米の旨味、コクと酸味の絶妙なバランスをもたらします。「山梨の豊かな自然を日本酒として残したい」そんな想いが繋がって生まれた特別な日本酒です。山梨の雄大な自然から生み出される最高級の味わいをぜひ、体感してみてください。▶テイスティングコメント特上の山田錦で造った純米大吟醸酒は、繊細でありながらスッキリとした上品な味わいに仕上がっております。そして、上品な果実のような吟醸香も存分に楽しむことができます。山廃仕込みでじっくりと低温発酵で醸しておりますので、香りだけでなく、ふくらみある米の旨味長い余韻をバランスよく味わえます」。「にごりわいん笹一酒造が、1982年に販売スタートした“元祖”果実酒シリーズで、ブドウの果汁を発酵させる酵母をワインの中に残した“にごり”を愉しむワインです。アルコール度数も6%以下ながら濃厚な味わいで果実そのものを食べているかのような飲み口を味わえます。フルーティーで爽やかな甘味とフレッシュな酸味を感じられ、そのままはもちろん、氷を入れたり炭酸で割っても美味しくお召し上がりいただけます。」。2001年(平成13)、ギネスに認定される直径4.8mの世界最大の太鼓が置かれている建物のようであったがこの日は世界最大の太鼓の姿は無く・・。ネットから。ギネスに認定された直径4.8mの世界最大の太鼓。「笹一酒造」の店頭を振り返る。横の建物の脇にも歴史を感じさせる品々が展示されていた。「御前水」。「御前水ここにあふれ出ている水は昔から笹子峠に湧き出ているそのままの水です。江戸時代には多くの茶人たちが茶会のためにわざわざここまで水飛脚を立ててとり寄せたといわれる名水です。明治天皇が東京から京都へ行幸された際に道中で召しあがる「御前水」の水質調査が為され山梨県内の一つに選ばれた選ばれたことに由来して笹一酒造ではこの水を「御前水」と名付けました。現在でもこの天然水のミネラル成分を豊富に含んだおいしい水をお酒の仕込水として使用しています。どうぞ皆様方もこの昔ながらの笹子峠のおいしい湧き水をご賞味下さい。」巨大な釜と杉玉。「酒林(さかばやし)(杉玉)の由来元来は酒造りの神として知られる奈良の三輪神社の御神木である杉に由来したもので単に杉の葉を束ねた丈のものでした。後に球状にしつらえた杉玉となり造り酒屋の軒下に掲げられる様になりました。軒下の酒林が真新しい緑色のものに替る時が新酒が出来上がった証しです。良質の酒造りと神の御加護への祈りが込められた造り酒屋のお護りでもある神聖なものです。」「菰樽酒 笹一」。破損を防ぐ目的で、酒樽に菰(こも)を巻き付けたのが、菰樽(菰冠樽:こもかぶりたる)の始まりといわれています。店の前を走るのが甲州街道・国道20号。そして店内での試飲も楽しみ、バスに戻り帰路へ。下を流れる「笹子川」を見ながら「甲州街道」を西に進む。若い頃、排水からの超純水製造プラントの納入でお世話になった現・「NECプラットフォームズ 大月事業所」を懐かしく見る。ズームして。NECは、昭和61年(1986)に光通信システム用デバイス専用工場であるNEC大月工場の操業を開始したのであった。私が現年齢の半分の歳であったのだ。「大月IC」から「中央自動車道」へ。「八王子JCT」に向けて進む。「上野原」を通過。「八王子JCT」で「圏央道」へ。「相模川」に架かる「新相模大橋」と「海老名」の街並みを見る。「圏央相模川橋」を渡る。車窓から「海老名運動公園」。そして東名高速道路に入り「海老名SA」でトイレ休憩。雨も止んで。SA内を散策。駐車場も満車に近く。多くの観光バスも並ぶ。そして予定時間より30分ほど早く到着できたののであった。今回も、富士山周辺にあった「東口本宮富士浅間神社」を訪ねたが、その他の富士山周辺の浅間神社を訪ねたいと思っているのである。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.07.11
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そして「中坂」を「目白通り」方向に下っていくと、右手にあったのが「築土神社(つくどじんじゃ)」。千代田区九段北1丁目14−21。社号標石「築土神社」狛犬(右・阿形)。平成6年新社殿起工に伴い、前田建設工業(株)と(株)室橋組より奉納されたものである(彫刻家・籠瀬満夫作)。狛犬(左・吽形)。掲示板。「夏の日に 咲き広ごれる 稲の花 実りの秋へと 明るみてくる皇嗣殿下 ー宮内庁 令和三年歌会始 お題「実」」秋篠宮さまのお歌。「千代田区 都市景観賞」。築土神社の鳥居は「明神鳥居(みょうじんとりい)」という型の鉄製で、その上空には、「武道の神様」である平将門公の御威光にあやかった長さ5メートル程の巨大な剣が掲げられているとのことであったが、その姿は確認できなかった。。また、鳥居の両脇には籠瀬満夫氏作の狛犬が置かれ,左脇には当社の神木として「モチの木」を植栽。「モチの木」は常葉樹で、一年を通して緑色に輝き、葉が落ちないことから、縁起が良いとされ、商売繁盛や身心健康を願う人々に親しまれている。参道左側には毎年正月と九月の年二回、氏子各町の住人や企業等の協賛により堤燈が掲げられ、ライトアップされる(一燈6000円。毎年8月上旬に募集)。社務所を含むビル全体の外観は壮麗で、平成7年(1995年)に千代田区の都市景観賞を受賞している。築土神社境内案内図。ビルの柱の下の参道を進む。「安永九年銘の狛犬(右・阿形)」。「安永九年銘の狛犬(左・吽形)」。横から。台座には「安永九年(1780年)庚子十一月」の文字が刻まれていた。「狛犬」案内板。「狛犬千代田区指定文化財1996年(平成8年) 4月1日指定1780年(安永9年)元飯田町の人たらによって奉納された狛犬て、年代が明らかなものとしては千代田区内て最古となります。元飯田町とは1697年(元禄10年)の火災後の町地整備ののちにできた町名で、現在の富士見一丁目及び九段北一丁目付近にあたります。社伝によれば築土神社は、940年(天慶3年)に武蔵国豊島郡上平川に祀られたのち、田安、牛込門内、牛込門外の筑土山と所在地を変えて、1954年(昭和29年)に現在の場所へ戻ってきました。狛犬が奉納された1780年(安永9年)当時は、牛込門外の筑土山(現在の新宿区筑土八幡町2番地)に神社が所在していた時期ですが、離れた場所にあってもなお、旧所在地の元飯田町の人々が篤く信仰していた様子がうかがえます。」手水舎。龍の吐水口(とすいこう)。龍は水の守り神であるとの説があり、そのため龍をあしらった吐水口が数多く見られるのだ。龍ノ口、龍蛇口、吐水龍、龍神様などとも呼ばれているとのこと。右手に「築土神社社務所」。「拝殿」。現在の築土神社の社殿は、一見、住吉造であるが、一部に神明造風の構造を取り入れた独特の様相を呈している(いわば、住吉造と神明造の融合型である)。特に高さと奥行があり、円形の宮柱とむき出しのコンクリートが、社殿の荘厳さに一層の磨きをかける。社殿手前左側には おみくじ自動販売機を設置。屋根にそりがない。千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)をのせる。正面から。社号:築土神社(つくどじんじゃ)旧称:津久戸大明神 江戸明神 田安明神御由緒:御創建 940年(天慶3年)御祭神:<主神>天津彦火邇々杵尊 <相殿>平将門公 菅原道真公屋根の中央には鳳凰が。扁額は「筑土神社」。築土神社は940年(天慶3年)6月、関東平定後、藤原秀郷らの手で討たれ京都にさらされた平将門公の首を首桶に納め密かに持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現・千代田区大手町周辺)の観音堂に祀って津久戸明神と称したのが始まりで、江戸城築城後の1478年(文明10年)6月には、太田道灌が江戸城の乾(北西)に当社社殿を造営。太田家の守護神、そして江戸城の鎮守神として厚く崇敬された。1552年(天文21年)11月には、上平河村内の田安郷(現在の九段坂上からモチノキ坂付近)に移転。当時の境内地は極めて広大でその地名を冠して田安明神とも称し、山王(日枝神社)、神田(神田明神)とともに江戸三社の一つに数えられ、江戸庶民の崇敬の的となった。然るに1589年(天正17年)徳川家康江戸入城の際、江戸城拡張(二の丸等築造)のため下田安牛込見附米倉屋敷跡(現在のJR飯田橋駅付近)へ、さらに1616年(元和2年)には江戸城外堀拡張のため新宿区筑土八幡町へと移転し、築土明神と改称した。天保年間「江戸名所図会」の「築土神社境内」(左側)。以後、徳川幕府との関係は親密となり、1654年(承応3年)2月、江戸城二の丸にあった東照宮(徳川家康之霊)の社殿を築土明神境内へ移築。1657年(明暦3年)明暦の大火の際には、幕府より唐金水桶 ・金燈籠 ・銅瓦等の奉納援助金を受けた。1634年(寛永11年)4月に記された『要用雑記』にも、「津久戸は御城内氏神につき、春日殿御取次ぎを以って御上様へ御札御守、差上げ候」「正、五、九月、津久戸明神神前に於いて御上様御祈祷仕る」と記されている(「春日殿」とは三代将軍家光の乳母で当時の大奥を取り仕切り、築土神社氏子内の江戸城北の丸に屋敷を構えていた)。徳川幕府終焉後の1874年(明治7年)、氏子の請願により天孫降臨の神 ・天津彦火邇々杵尊を歓請し築土神社と改称。1907年(明治40年)9月には幣帛供進社(村社)に指定された。同地に鎮座すること実に328年の長きに及ぶも、1945年(昭和20年)4月、戦災により社殿 ・社宝その他悉く全焼し、翌1946年(昭和21年)9月、千代田区富士見へ移転。さらに1954年(昭和29年)9月、九段中学校(現・九段中等教育学校)建設のため再び立ち退き余儀なくされ、現在地(九段中坂)にあった世継稲荷神社の敷地内へ移転し新社殿竣工。1990年(平成2年)9月には鎮座1050年記念大祭を斎行した。1994年(平成6年)5月、社殿老朽化に伴い社殿・社務所の大改築を実行し地上8階(地下1階)建てのビルが完成(千代田区都市景観賞受賞)。社殿もコンクリート壁の現代的な神社となった(この時、境内にあった末社の木津川天満宮より築土神社の「相殿(あいどの)」に菅原道真公を配祀)。ビル名は「アイレックスビル」と名付けられたが、「アイレックス」とはモチの木を意味し、かつて築土神社が九段坂からモチの木坂に至る田安の地に鎮座していたことにちなんでこの名が付けられた。参道入口にはビルのシンボルとしてモチの木が植えられている。明治38年 『明治東京名所図会』の築土神社鳥居(左側)右手にあったのが「世継稲荷神社」。朱の鳥居が並ぶ。朱の幟も。拝殿。扁額「世継稲荷」。斜めから「世継神社」を見る。手前に天水桶。天水桶は1818年(文政元年)、元飯田町(現・九段北一丁目及び富士見一丁目周辺)の氏子により奉納された。「文政元年戊寅十一月吉日 奉納元飯田町」の銘がある。天水桶には将門公の「繋馬(つなぎうま)」が彫刻されているが、伝説では、将門が挙兵した時、突然空に一筋の稲妻が走り落下して黒馬に変わると、将門はこれに乗り戦場を縦横無尽に駆け巡ったとされる。「繋馬」は家紋や社紋として使用されることも多く、当社でも拝殿の門帳には「繋馬」を神紋として用いている。「山本社司之碑昭和20年(1945)3月10日 戦災に 御神体を抱持も此の地に歿す十年祭に建立 世継稲荷講総理大臣 鳩山一郎書」昭和20年(1945年)3月10日は東京大空襲があった日です。従って、碑文中の戦災とは東京大空襲を指します。お守り、御札案内。拝殿を再び。拝殿を見上げて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・iPhone 15 香港版 A3092 海外SIMフリースマホ【アルミボディでカラーも豊富・Type-Cケーブルへ変更・4.8MPメイン2眼カメラ搭載】
2023.10.10
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パタンは別名サンスクリット語の『ラリトプル』とも呼ばれ『美の都』という意味。カトマンズに隣接した南の街で、かってのマツラ三王国の都として栄えたため、旧王宮をはじめ17世紀に建立されたヒンズー教の寺院や仏教寺院など見事な建築物が多いのである。中世建築の極地とも言われる王宮や、傑作に挙げられる寺院や彫刻など、貴重な工芸文化遺産が多いが、長い仏教の歴史があるため、街中が美術品で仏教工芸の街として仏具の工房も多いとのこと。パタンもカトマンズバレイとして、世界文化遺産にいち早く登録された街。★ダルバール広場パタン・ダルバール広場はパタン市の中心に位置し、ここはかつてパタン王の宮殿があった土地。宮殿には3つの中庭があり、中心の最も古いものがムルチョウク。複合建築群の西方には、様々な大きさの種々異なるスタイルを持つ寺院が多数。石造寺院の傑作、クリシュナ寺院、ビムセン寺院、ゴールデンテンプル(正式名はハラニャヴァルママハヴィラ)とスンダリチョウクは、この時代に燦然と輝くネワール族名工の建築物。旧王宮の北側には、マンガ・ヒティと呼ばれる水汲み場があり、今も町の人々が沐浴や水汲みに利用していた。★クリシュナ寺院17世紀のシディナラシン王の時代に建てられたと言われ、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神の化身であるクリシュナが祀られている。クリシュナとは、マハーバーラタ戦争の際に正義のために戦ったとして、ヒンドゥー教徒に広く人気のある神様。クリシュナ寺院は、ネパールでは珍しい石造りで、他の追随を許さぬ石造建築の傑作であるといわれているのだ。寺院の前には、ヴィシュヌ神の乗り物であるガルーダの像があり、壁と2階には「マハーバーラタ」の物語が、3階には、「ラーマーヤナ」の物語が刻まれていると。ネパールを代表するシカラ建築の建物で、21の祠を持っており、ブッダも祀られているのだ。ヒンドゥー教徒にとっては非常に重要な寺院で、クリシュナの誕生日にはインドからも多くの巡礼者が訪れ、寺院が人々に埋め尽くされると。★ゴールデン寺院(ヒラニャ・ヴァルナ・マハー・ヴィハール)寺院が金色に輝いていることからゴールデン寺院と愛称されているのだ。★パタン博物館入口上部に掲げられている金色の半月盤はトラナと呼ばれ謂わば寺院の表札に相当すると。ネワール文化によって彩られた、ヒンズー教と仏教の装飾品が飾られ見事な木彫装飾を施された壁が見事であった。★クンベシュワル寺院14世紀末の建造でパタンで最も古く、またネパールでは珍しい五層の屋根を持つヒンズーー寺院。シヴァ神を祀っているのだ。クンベは水瓶、イシュワルは神の意味で、境内の井戸の水はヒマラヤ地方のゴサインクンド(ヒンドゥーの聖地)からの湧水と信じられていると。★ヴィシュワナート寺院格子模様の連窓、男女神の方丈などで飾られていた。★マハボーダ寺院インド・シカラ様式の塔に無数の仏像が彫られた高さ30mの寺院~そして遅い昼食を取った後、最後の観光地となるカトマンズのダルバール広場に車で向かったのであった。 その途中、ガイドのブッダ氏に、この旅行で常に気になっていたネパールの『時差』について話をした。日本との時差3時間15分と細かく15分を敢えて入れてある理由は何故かと。インドの3時間30分、バングラデッシュの3時間は理解できるが。インドを意識して敢えてインドと15分異なる時間にしたかとの問いには『それもあるかも』との回答。そして、日本との時差3時間15分は昔は?非常に日本人には解りやすかったと。例えば日本が6時の時にはネパ-ルは時差3時間15分であるので2時45分となると。その時には『アナログ』時計を右に90度回転させるて『3』の位置を上に持ってきて、この時間を読むと2時45分となり非常に解りやすいと。その場では『なんとなく』理解したが、自宅に戻りこの話を思い出し、自宅のアナログ時計で試してみると『なるほど』と理解したのであった。ネパール時間 6時そしてこの時の日本時間は、時差が3時間15分なので2時45分!!短針の位置は多少異なるのであるが・・・・・・・・・・・。6時に限らず、いつでも四六時中、右に90度回転させれば日本の時間となるのである。もちろん『たまたま』の事であろうが、非常に面白い、私にはヤケに!!好きな話であったのだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.23
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク下土棚にある白山神社に向かう途中、善然寺の墓地裏にあった小さな稲荷神社。 そして22号線を横断し白山神社に。 石の鳥居の手前左にあった狛犬 阿像。 参道を進み境内へ。善然寺の解説碑にあるように白山権現は下土棚の氏神。社殿左前に寛永四年(1664)の再建の記念として植樹されたという樹齢三百五十年の大銀杏が。社殿。天正十八年(1590)、徳川家康に従って三河国より東上した竹尾三九郎は下土棚の地頭を命じられ、下土棚の支配は七代目・竹尾善左衛門元貞まで続いたとのこと。善然寺には「相模国土棚郷」と刻まれた善左衛門元貞の墓碑が今に残る。此の墓碑は「土棚」という地名が残されている最古のものと。 文化六年(1809)頃には松平築前守及び遠山清右衛門の支配下にあり、幕末には江川太郎左衛門の支配下に属し、明治維新を迎えたのだと。奧の本殿を斜めから。御祭神は伊邪那岐命、須佐之男命。庚申供養塔群。一番右の庚申供養塔には寛政?年の文字が。その他の庚申塔の年代は確認できなかった。境内社。 右手に「堅牢地神塔」 嘉永六年癸丑二月(1853)。 春分、秋分に最も近い「戌(いぬ)の日」を社日(しゃにち)といい、我が地域付近の各地では、前夜に講の人々が当番の家に集まり、神禮寺(藤沢市酉俣野町)の「堅牢地神(けんろうじじん)の掛軸をかけて、地神(じじん)の日待(ひまち)を行い、翌日の社日は農耕作業を休んだと。社日は、田の神と山の神が交代する日と考えられたため、その年の稲の豊作を願い、農業に関係の深い土地神様(とちかみさま)を祀るこのような行事が行われるようになったのだと。よって堅牢地神塔は地神(じじん)信仰の石塔。私が子供の頃、我が生家でも近所の人が当番の家に集まり『おひまち(御日待)』と呼ぶ今で言う食事会を行っていたことを想い出したのであった。その食事会用に、米を一合ずつ集めるために私が近所の参加者の家を訪ねた事も懐かし想い出。境内西側には招魂塔が2塔。左の招魂碑には『日中戦争から太平洋戦争終結迄に、当地の白山神社、社殿にて祖国の為にと念じ出征して大陸、孤島洋上に於いて、参戦し戦死をされた勇士の御霊を祭るもので有ります。犠牲となられた尊い御霊の安らかなる眠りと併せて世界平和を祈念し遺族有志、並びに賛助者によって建立されたものです。』 と。この白山神社社殿から出征していった大東亜戦争の戦没者28柱の名前、没地、没年月日、年齢が詳しく刻まれていた。平成11年9月建立。 碑高198cm、幅190cm、厚さ35cm、台石60cm、基壇65cmの石碑に合掌。境内社(右)と神輿舎?。 石碑が2塔。右手は石祠、年不詳。 自然石板碑。「水神宮」と刻まれていた。明治十九年十二月吉日。
2016.11.09
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク63番札所:吉祥寺(きちじょうじ)62番札所:宝寿寺から国道11号線(讃岐街道)を東に向けて1.4km強を走ると63番札所:吉祥寺に到着。正面に吉祥寺の山門。インドの四天王の一人毘沙門天を本尊とするためか山門の前には一対の「象」の像が向き合っていた。山門の扁額には「密教山」と。宝寿寺から吉祥寺までの走行ルート。吉祥寺 境内配置案内図。「山門を入って左側に鐘楼、手水場があり、少し進んで右に庫裏と納経所、左に本堂、その左に大師堂である。」境内の「巡りゆく思い」と題された作品。伊予之二名島(いよの・ふたなのしま)、胴体が一つで、顔が四つの島、四国、その骨格たる石鎚山、見事な造形であると。福聚閣(ふくじゅかく)。庫裏前のお堀に浮かぶ極彩色の八角堂の福聚閣には本尊の毘沙門天を除いた六福神が祀られており、本尊の毘沙門天を合わせて七福神となる四国七福神は吉祥寺と近辺の横峰寺・宝寿寺・前神寺・西山興隆寺・極楽寺・安楽寺の6ヶ寺を巡るのだと。手水舎。水子地蔵尊。お迎え大師(左)と くぐり吉祥天女(右)くぐり吉祥天女は貧苦を取り除き、富貴財宝を授かるという。お迎え大師。くぐり吉祥天女成就石。本堂付近から目を閉じて金剛杖を持って石が置いてある場所まで歩いて行き、石に開いてある穴(直径約30cm)に金剛杖を突き通すと願いが叶うと伝わると。鐘楼。吉田真照の句碑。「有難や美阿登慕うて二十五歳」弐千回、参千回、八十八ヶ所 百回の文字が刻まれており参拝回数の記念碑か。本堂。寺伝によれば弘仁年間(810年-823年)に空海(弘法大師)が光を放つ檜から毘沙門天・吉祥天・善賦師童子を刻み、安置したのが起源といわれる。当初は坂元山(現在地より南へ約2kmほど登った標高368m地点 )にあったが、豊臣秀吉の四国征伐の際に焼失。詳しくは1585年(天正13年)に小早川隆景が高尾城を攻めたとき、その山中にあった当寺も兵に放火された。万治2年(1659年)に大師堂があった現在地に、坂元山にあった本尊毘沙門天坐像が移され、再建された。四国八十八ヶ所で「毘沙聞天」が本尊なのは、ここ吉祥寺だけと。持国天・増長天・広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神であり、四天王では多聞天として表わされます。吉祥寺では「毘沙聞天」と表記する際に多聞天の「聞」の字を使っていますが、通常は「毘沙門天」と「門」の字で書くのだと。本尊・毘沙聞天像は秘仏で60年に一度だけ開帳され次回は西暦2038年とのこと。密教山 胎蔵院 吉祥寺(みっきょうざん たいぞういん きちじょうじ)宗派 真言宗東寺派本尊 毘沙門天(毘沙聞天)(秘仏)創建 (伝)弘仁年間(810年 - 823年)開祖 (伝)空海(弘法大師)所在 愛媛県西条市氷見乙1048本尊真言 ”おん べいしら まんだや そわか”大師堂。大師堂 内部。本堂前からの境内。「念ずれば 花ひらく」、この石碑は別の寺でも見かけた。熱心な信者の奉納か?左から弘法大師千五十回、一千一百回、千百五十回遠忌報恩謝徳也。境内の桜も満開。納経所へ。お遍路の可愛らしい人形が。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。「二百回 結願の碑 大本徳森翁」の石碑。ただただ脱帽。松山真講会 40周年記念碑。-----------------------------------------------------------------------------------------------------60番札所:横峰寺(よこみねじ)吉祥寺を後にし直ぐに県道142号線の狭い山道を登っていくと左手に黒瀬湖が姿を見せた。1973年(昭和48年)完成、県下でも有数の水量豊富なダムであり、西条市の産業発展の礎となっていると。鏡のような水面には、時はに「逆さ石鎚」が映り込むと。更に上って行くと、平野林道の料金所が。石鎚森林組合が管理している有料道路(約6km)であり、往復通行料金は普通車1,850円(駐車場代含む)。12月29日より2月末日までは冬季通行止(冬季通行止期間中でもゲートは開いており自己責任で通行は可能であるが、道路修復工事の為途中までで止まることがあり要注意)と。狭い林道を更に上って行く。そして頂上駐車場に到着。吉祥寺から横峰寺までの走行ルート。山の中でWIFI信号が弱いため、往復のルートがズレていますが同じ山道なのです。眼下には瀬戸内海・西条市の臨海工業地帯が望めた。今治造船・西条工場をズームで。現役の頃、この近くにあるアサヒビール四国工場に何度か通ったことを想いだしたのであった。駐車場に車を駐め、更に横峰寺に向かって山道を上っていく。横峰寺への案内表示板。横峰寺 境内配置案内図。「山門を入り参道を進むと右に手水場があり、左に行くと庫裏・客殿・納経所が、右の石段を上がると正面に鐘楼・星供大師があって、その右に本堂が建つ。本堂の向かいの参道を進むと正面に大師堂が、その右に聖天堂がある。 シャクナゲが境内一面に咲きほこる5月上旬はそれ目当ての観光客も来て、ゴールデンウイーク期間は自動車が渋滞するほどである。」境内に入ると星月堂(納骨堂)が左手に。境内への山の斜面には シャクナゲが一面に。5月中旬には写真の如く開花し、平野林道が渋滞するほどに花見客が訪れると。客殿。境内の正面に本堂が。歓喜天堂(聖天堂)。大師堂。参道左手には多くの石仏が並んでいた。弘法大師を近くから。歴史を感じさせる多くの石仏・地蔵尊が並ぶ。鐘楼。正面に大師堂、左手に歓喜天堂(聖天堂)。本堂。「寺伝によれば役行者(役小角)が石鎚山頂で修行をしていたところ、蔵王権現が現れたのでその姿を石楠花の木に刻んで堂に安置したという。その後行基が天平年間(729年 - 748年)に、空海(弘法大師)が大同年間(806年 - 810年)に入山したと伝え、空海が入山した際に大日如来を刻み、これを本尊としたという。前神寺とともに石鈇権現の別当寺であったが、明治4年に廃仏毀釈によって廃寺となり、明治13年に大峰寺の名前で復興、その後、明治42年(1909年)に元の横峰寺の名に戻される。」神社を彷彿とさせる権現造りの本堂に、神仏習合の面影が残っているのだと。大師堂とは参道を挟んで正面から向き合っていた。石鈇山 福智院 横峰寺 (いしづちざん ふくちいん よこみねじ)宗派 真言宗御室派本尊 大日如来創建 (伝)白雉2年(651年)開祖 (伝)役小角所在 愛媛県西条市小松町石鎚甲2253本尊真言 ”おん あびらうんけん ばざらだどばん”星供大師像が正面に。「星供」とは仏教系統の星祭で、『宿曜経』などの説により、北斗七星・九曜・十二宮・二十八宿を供養し、除災・延命・増福を祈る法会。冬至・正月・節分などに行う行事。西日本最高峰・石鎚山系中腹にある札所は古くから遍路泣かせの難所と言われています。開祖は修験僧の開祖・役行者小角(えんぎょうじゃおづぬ)。白雉2年(651)、星ガ森(石鎚山遥拝所)で修行中の役行者小角は、石鎚山頂で蔵王権現のお姿を見て、そのままの姿を石楠花(しゃくなげ)の木に刻んで小堂に安置しました。弘法大師が42歳の厄除け開運祈願の修行の為、この山へ登り星祭りの修行を行い、その結願の日に役行者と同じ権現様の姿を見せました。そこで大師はこの山を霊山と定め大日如来を刻み本尊として安置し第六十番札所に定められたと。星供大師像。標高750mの地でシャクナゲを背に右手に剣、左手に星供に巻物を持って立っていた。鐘楼堂。鐘楼堂を別角度から。納経所への階段を下る。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。仁王門からの参道にある手水舎。山門を見つめる旅友。手水舎前から山門をズームで。車によるお遍路の場合、山門・仁王門を潜らないケースが時々発生するのであった。納経所前から階段上の大師堂方面。大師堂を再び訪ねる。大師堂内部。「聖地巡礼 四国遍路」のポスター。「弘法大師空海ゆかりの札所を巡る四国遍路は、阿波・土佐・伊予・讃岐の四国を全周する全長1400kmにも及ぶ我が国を代表する壮大な回遊型巡礼路であり、札所への巡礼が1200年を超えて継承され、今なお人々により継続的に行われている。四国の険しい山道や長い石段、のどかな田園地帯、波静かな海辺や最果ての岬を「お遍路さん」が行き交う風景は、四国路の風物詩となっている。キリスト教やイスラム教などに見られる「往復型」の聖地巡礼とは異なり、国籍や宗教・宗派を超えて誰もがお遍路さんとなり、地域住民の温かい「お接待」を受けながら、供養や修行のため、救いや癒しなどを求めて弘法大師の足跡を辿る四国遍路は、自分と向き合う「心の旅」であり、世界でも類を見ない巡礼文化である。2015年4月に日本遺産に認定された」と。再び本堂方面の境内を見る。客殿廻りの庭園を見下ろす。そして駐車場にある休憩所・売店へ。アイスクリームを楽しむ。売店の前には多くのアルミ缶製の風車がぶら下がっていた。売店の女性が一つをプレゼントしてくれました。人になれた野鳥・ヤマガラが、餌のヒマワリの種を食べに旅友Sさんの掌に。心温まる瞬間なのであった。 ・・・つづく・・・
2018.05.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道の左手奥にある『日蓮宗 龍守山 昌原寺(りゅうしゅざん しょうげんじ)』を訪ねる。昌原寺『本堂』徳川家康公の側室養珠院お万の方(紀伊黄門頼宣(よりのぶ)、水戸相公頼房(そうこうよりふさ両郷の母堂)の開基であり、宗祖日蓮大聖人の第1の弟子日昭上人(本山、三島玉沢妙法華寺開山)の法孫である日達上人のお弟子となった大仙院日燿上人の開山。元和元年(1615)春、東海道原宿の渡辺本陣にお万の方が宿泊されたとき、南無妙法蓮華経のお題目が、聞こえてきた。ただちに本陣渡辺八郎左衛門ともない庵に入り、読経を聴聞されたのち、庵主、地主庄司七左衛門を呼び、この地に一山を構えるように要請した。そして元和8年(1623)に念願が成就し、寺院を建立して現在に至っていると。『永代供養塔』。七面大明神を祀る『七面堂』。扁額『七面山』。『七面大明神の由来』。七面大明神は七面天女ともいい、法華経の護法神、法華経を信仰する人々の守護神として全国各地で信仰されていると。その姿は、右に施無畏の鍵を、左には如意珠の玉を持ち、日蓮宗総本山、身延山久遠寺の裏鬼門にあたる七面山山頂に祀られているのだと。『歴代上人墓所』。旧東海道に戻り『東海道原宿 問屋場跡』。「各宿場には問屋があり、宿役人がいて宿駅の業務を行った。宿役人には問屋、年寄、問屋代、帳付、馬指などの役人がいた。そして、道中奉行の監督の下で人馬輸送の業務に携った。原宿には問屋のあった場所が西町東町に各一箇所づつあって、交代で勤めたと思われる」東海道原宿 案内板。この日の最終目的地のJR原駅まで0.6kmと。JR原駅に向かってラストスパート。渡辺本陣跡を探すがわからず、iPhoneではこの正面の場所に石碑があるのだが・・・。ネットの写真からは、渡辺本陣跡の碑がここにあったようだが、何故かないのであった。地面はなんとなく撤去した跡の如くに。何故撤去したのであろうか?何かが打つかって破損?それともこの場所ではなく新たな場所が見つかった?しかしこの場所の近辺には渡辺本陣跡を示す石碑はなかったのであった。『臨済宗 妙心寺派 安泰山 徳源禅寺』。『山門』。枯山水の庭。境内と後ろ右手に『地蔵堂』。『子安地蔵尊』。地蔵堂の前には摩尼車が。「一転一誦」の文字が。一回まわすと般若心経を一回読んだのと同じ功徳が頂けますと。『本堂』。「建久4年(1193)源頼朝公が行った富士の巻狩りの際、陣屋が置かれたことから始まりました。境内地は、現在「御殿場」という地名として残っております。その後「今津寺」という律宗の寺院を経て、鎌倉円覚寺開祖仏光国師(無学祖元禅師)の弟子帰化僧賢宗が、北条時宗の帰依を受けて弘安元年(1278)に徳源寺として創建しました。賢宗は、円覚寺建立に尽くされ、その功績により後光厳天皇から圓満護国禅師の諡号(しごう)と紫衣(しえ)を賜っております。」本尊は釈迦牟尼如来像。『交通殉難者諸慰霊 救苦観世音菩薩』と刻まれた石碑。釈迦牟尼如来像であろうか。無縁塚?『酬恩殿』。摩尼車を回す旅友。何を祈ったのであろうか?16時を回り『明徳稲荷』に。「時は戦国時代の安土桃山時代、本能寺の変の翌年天正11年(1583)この地に柳池神の社(稲荷大明神)を建立する。その後1798年に京都伏見稲荷より、明徳の名を授かり原宿の鎮守・明徳稲荷となったと。」拝殿の向こうには富士山を見ることができるとのことであったが・・・・。駅前公園。『原尋常高等小学校跡 碑』が建っていた。そして前方にJ『JR原駅』が姿を現す。駅前には人はほとんどいなく。JR原駅入口。都合よく16:12の熱海行きに乗れたのであった。藤沢駅まで1,490円。駅構内のステンドドグラス。夏の富士山の姿であろうか?そして熱海行きの各駅停車に乗る。そして熱海駅でJR上野東京ラインに乗り換え18時過ぎには帰宅したのであった。 ・・・完・・・
2019.04.18
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次先に進むと左手の民家前に『大津算盤の始路・片岡庄兵衛解説碑』が。江戸時代、東海道筋のこの付近で売られていた大津算盤は、慶長十七年(一六一二)、片岡庄兵衛が、明国から長崎に渡来した算盤を参考に、製造を始めたものと伝える。 同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったという。 なお昭和初期まで、この碑の場所にも同家のご子孫が住まわれていた。」この石碑は、見落としていたが、旅友Sさんに教えていただき50m程引き返して撮影。左手に『月心寺』。「東海道五十三次 大津宿 保永堂版」に描かれている井戸「走井」が残る寺。「走井餅」が名物として親しまれた「走井茶屋」。名前の由来となった清水の湧き出る井戸「走井」。。この辺りは京への輸送路であったため、荷車が通りやすいよう石・「車石」を敷き、轍の幅で溝が作られていた。今も残る、走井の月心寺。内部の走井庭園の特別公開は2019年度まで週末行っていたようだが、2020年は実施しない事になったようだ。『道標』。『道標 「右一里丁 左大谷町」』。この付近に江戸日本橋から数えて123里目の一里塚があったと。ここは滋賀県大津市大谷町。石垣に沿って先に進むと左手の階段の上にあったのが『瑞米山(ずいべいさん) 月心寺(走井居)』の『山門』。寺号は日本画家・橋本関雪の戒名月心院から、山号は夫人ヨネの戒名瑞米大姉からとったものであると。山門の扁額には「往来」の文字が。逆光の『月心寺 境内』👈リンク。月心寺はかつては走井の茶屋として繁盛していたが、大正時代の初めに日本画家の橋本関雪が朽ちるのを惜しんで自分の別邸にし、その後月心寺となったという。月心寺の庭園に有る井戸は、歌川広重が描いた東海道五十三次大津宿走井茶屋に描かれた走井の水であると言われている。境内の『五輪の塔』は橋本関雪夫妻の墓所or供養塔であろう。『月心寺 本堂』。境内の石垣は膳所城の石垣を移築したという。十三重塔と石仏の姿も。『月心寺 本堂』を横から。走井居は国道1号線に面して建っていた。日本橋から487.5km。この場所・『月心寺』の外れに立っていた電柱には『元一里塚町』、現『大谷町』と。街道はしばらく山間の道を進むが、隣には車の往来の激しい国道1号線が走り、その隣に京阪電鉄京津線と名神高速道路の高架が並行していた。そして前方の高架下を進む。名神高速道路の高架をくぐると旧東海道は左の旧道に入るが、右手の国道1号線と京阪電鉄京津線を渡った段上に浄土宗の『光明山 摂取院』。『大津市追分町』歩道橋手前を左に折れる。この先を暫く進むと、道筋の北側が滋賀県大津市追分町、南側が京都市山科区髭茶屋屋敷町となり、我々は滋賀県と京都府の県境を歩いて行ったのであった。『摂取院』は天正2年(1574)道春による開基であり、境内には大小5つの地蔵堂があると。また東海道と京街道の分岐点である追分町髭茶屋にあった道標が、中程で繋ぎ補修された状態で保存されているとのこと。再び山門と本堂の巨大な屋根を見るが訪ねなかった。左に折れると右手にあったのが『大津警察署 藤尾交番』。交番の先左手に『地蔵堂』があり、正面の香炉には大日如来と刻まれていた。御堂内を覗き込むと、いくつかの地蔵尊や石仏があり、中央に大日如来?と思われる石仏が。『地蔵堂』の直ぐ先右手に本門佛立宗の『長松山 佛立寺』が。『山門』。道路から『佛立寺 本堂』。佛立寺は、安政6年(1859年)に開創された本門佛立宗最初の寺院で、初転法輪道場と呼ばれ、また、慶応4年(1868)開導聖人初の法難にちなみ法難地道場とも称される。本堂に掛かる『長松山』の扁額。慶應2年(1866)の『常夜燈』。『開導日扇上人像』。「開導日扇上人像禁門の変(元治元年)の後、当地に御住居当寺(聖寿四十八才頃)を偲ぶお姿なり。仁和寺の宮家の御内人となり今大路法橋清風延斎と名のると共に菊華金紋の使用と帯刀を許される居宅を今大路屋敷と称されしなり。」『佛立開導 日扇上人御法難之地碑』。『佛立開祖 日扇霊碑』。「追分にほど近く酒造業を営む小野山勘兵衛は、永年胃病に苦しみ、思い余って自殺を図るが、信者の高橋儀三郎の命がけの勧めにより入信。熱烈な夜通しのお助行の甲斐あって翌朝、見事平癒。余りの有難さに自宅での御講を乞われ、安政6年8月、目出度く「大津佛立講」がご開講された。更には2年後、勘兵衛の親戚に当たる信者御牧卯兵衛と妻イホ女は、茶畑(現佛立寺の土地)をご有志され、翌年文久2年、立教開宗記念日に当たる4月28日に、法華堂の棟が上がり、ここに「本門佛立講」最初道場が建立されたのである。」とウィキペディアより。『南無妙法蓮華経題目碑』。『今大路御旧邸』慶應元年(1865)2月、法華堂の西隣に三牧卯兵衛の発願で、開導日扇上人の住居として建立したと。旧東海道から『佛立寺』を振り返る。左手に複雑な『表示板』。この先、道路の左手が京都市、この先右手と、手前の歩いて来た両側は大津市であると。ーが府県境で旧東海道の道路左側に、そしてその手前で大きく左に。よって、この先の道路はしばらくは大津市であると。道路の中央ではなく左側が府県境界線であるのだ。左側の京都市の旧家の前に昔の『糸より機(撚糸機)』か。『糸より機』を見ていると、この家にお住まいのお母さんが出て来てくれ、暫しの歓談。これぞ一期一会。玄関の前にある縁石は『車石』であると。お土産にと手作りの『お香入り福鈴』を頂きました。早速お守りにとリュックに取り付けました。「お香入り福鈴紐結びは人とのご縁を結び鈴の音はよく鳴る(成る)と云われ何事も良い方向に進み大変演技がよいといわれています。」部屋の奥からお宝の『木の化石』も見せてくださいました。「珪化木」と言い岩石になった木の幹。もう1個には、時計が嵌め込まれていた。二畳紀(2億9000万年~2億5000万年前)アリゾナ州USAと書かれたTAGが付いていたが本物であろうか?振り返ると道路の左側には『滋賀県大津市』と。右・大津市、左・京都市の旧東海道を更に進む。すると三叉路の正面の分岐場所に石碑と案内板が。ここが「伏見道(髭茶屋)」の追分。『道標』正 面:みきハ京みち右側面:柳緑花紅東海道と京街道の追分でがここ。東海道57次と言う場合はここ髭茶屋追分から伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿を経て大阪高麗橋へ至る街道が東海道となるのだ。大津宿から伏見宿までは伏見街道(大津街道)、伏見宿から大阪までを大阪街道(京街道)とも呼ぶ。大名が京都に入るのを幕府が好まなかったので、参勤交代の時、大名は京都を避け伏見道を使ったのだと。この道標は昭和29年3月再建とあり、摂取院にあった道標のレプリカ。そして『蓮如上人御塚』碑。石碑には「明和三丙」と刻まれていると。いずれの道標も下部は鉄板で包まれて保護されていたのであった。こちら赤い線が『東海道57次』・『京街道』のルート図。京街道とは、大坂から京都へ向かう街道の総称であるが、大津宿の先、ここ髭茶屋から伏見、枚方などを経て大阪市内、高麗橋までの道をいう。徳川家康は大名が京都で公家と接触するのを禁止したため、大名行列は髭茶屋で京へ向う東海道と分れ、京を通らずに大坂へ向うことになった。この間は東海道の延長として道中奉行の管轄下に置かれ、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿場が設けられた。このため4宿を足して『東海道57次』・『京街道』と呼ばれる。元々文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が淀川左岸に築いた「文禄堤」が起源である。全長約56kmであると。ここから『東海道57次』・『京街道』にも挑戦するか? 【http://kurokamikousaku.blog.fc2.com/blog-entry-3818.html】よりここは『髭茶屋町』・現追分町。「歴史に刻まれた街道(追分)分岐点にあたり、馬子が馬を追い分けることからその名前の由来となっています。「大津絵の 筆のはじめは 何仏」と芭蕉も詠んでいる大津絵は追分で生まれ大津算盤も当地で日本人向けに改良され全国に広がりました。」『大津 追分 絵図』ここ髭茶屋追分は東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点となっており、江戸時代から交通の要所として栄えていた。京都と江戸を結ぶ東海道の宿場町として多くの旅人が往来し、土産品として大津絵が定着していったと。更にズームで。大津絵は江戸時代初期に近江国追分(おいわけ)の髭茶屋追分で発祥したとされていると。京街道(東海道57次)に入った直ぐ左にあった社と頌徳碑(しょうとくひ)。そして、右の旧東海道を山科方面に進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.05
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朱の太鼓橋の先に「来宮弁財天」。手前の巨石は「弁天岩」、古来神様が宿っていたと伝えられる磐座(いわくら)と紹介されていた。「弁天岩」の上には、蛇の彫像があった。カメラでズームしてみると歯が妙にリアルで、何か口にくわえていた。どうやらコレ扇子らしいのであったが、辨財天は芸能の神でもあり、熱海の芸姑さん達にあやかっているらしい。「来宮弁財天」の朱の鳥居、そしてその先に太鼓橋。熱海芸妓(げいぎ)が芸能の神様とあがめる「来宮弁財天」であると。本殿の隣に鎮座するこの弁財天は、もともとは金華山(宮城県)に祀られていたが、のちに秩父霊場(現秩父神社)を経て、卜占により 来宮神社に安置されたという。「七福神」の一員で財宝神としての性格を持つが、来宮神社では大正時代から芸妓衆が芸能の神として崇拝。現在でも熱海芸妓衆が連日、芸事の上達を願い参拝しているのだと。そしてパワースポットとされる御神木の「大楠」。樹齢2000年以上、周囲23.9m、樹高約25m、本州一位(全国二位)の巨樹、昭和8年2月28日文部省指定天然記念物になった「阿豆佐和気神社の大クス」日本第1位の鹿児島県蒲生町の「蒲生の大クス」に次ぐもの。此の大楠は来ノ宮大神の寄代とされた御神木で之を一周すると1つ願い事が叶う、そして一年寿命が延びると伝えられているのだと。「大樟(大楠)天然記念物文部大臣指定 昭和八年二月二十八日 樹令 二千年 周囲 二〇米 高さ 二〇米由緒(いわれ)大古には我国では現代の様な家屋はなく文字もなく言葉ばかりの時代が長く続いていました。其頃此の社の森には七本の楠や椎の木、細葉の大木、羊朶(しだ)類等が自生していて昼なを暗く大地を覆っていました。ところが今から約百二十余年前の嘉永年間と云ふ年に熱海村に大網(おおあみ)事件と云ふ(流刑者(しまながし)迄出した)全村挙げての大事件が勃発し其の訴訟費など捻(ねん)出するため、五本の大楠は伐(き)られてしまったのです。現在残されている其の中の一本の此の大楠をも伐ろうとして樵夫(きこり)が大鋸(のこぎり)を幹に当てようとしたところ忽然として白髪の老人が現れ両手を拡げて此れを遮(さえ)ぎる様な姿になると忽(たちまち)大鋸は手元から音をたてて二つに折れ同時に白髪の老人の姿は消へてしまつたのです。此れは神のお諭(さとし)であるとして村人等は大楠を伐る事を中止してしまいました。此の木が即ち現在ある御神木であります。此の大楠へ古代には「神の魂(みたま)にお降(さがり)を願ひ」いわゆる神の依代(よりしろ)として此の御神木の中に宿る神の魂(みたま)と人々は対面していたのであります。斯(か)くて二千年の長い間世の天変地異を経て現代に至りました。 此の大楠を人に例へれば世の中の有らゆるものを知り盡くしてござる大古老(だいころう)とでも申しましようか、然るに二千年を経ても尚樹勢は少しも衰へず、根は深く大地に食い込み巨岩を抱きかかへ、幹は巌石の様相を呈し内に溢るる生気はますます、旺(さかん)にして枝葉は毎日西に東に伸(の)びゆき未来永劫生き拔こうとする生命力の強靱さには恐ろしきものさへ感じとれます。 右の様な次第でありますので大楠は「不老長生」「無病息災」の象徴とされているのです。それ故に二千年の大楠の長寿に肖(あやか)ろうとする願ひからか、此れを一廻りすると「一年寿命が延びる」、又「願ひ事」のある人はそれが必ず叶うと云い伝えられて来ました。今の世に大楠の様に長命で然も厳然として物に動ぜず、ひたすら正しく生きる道に徹する事が出来たならば何と幸せなことでありましょう。 世の貴顕紳士(きけんしんし)を始め国の内外から訪ねて来られる方々は毎日後を絶ちません。」「樹齢二千年超 御神木の根を守る「大楠」保護工事」案内板。令和2年6月(今月)末 完成予定とのこと。「御神木」の手前に参拝用の濡れ縁の如き構造物を設け、直接地面を踏みしめてしまうことをなくし「御神木」の根を守る大楠のだと。工事前の写真をネットで見ると、「大楠」の手前の一部は舗装されており、根に優しくなかった事が理解できたのであった。「日本最樹齢の碑 国指定天然記念物 大樟 文部大臣指定 昭和八年ニ月二十八日樹齢 ニ千年以上周囲 ニ十三.九米高さ ニ十六米以上御由緒 古代においては此の樟へ神の御霊をお招きしてお祀りしております。現在は当社の御神木となっております。此の大楠はニ千年の間、世の天変地異を経て今の世に至りましてもその樹勢は衰えずいよいよ旺にして根は深く大地をふまえ巌石の如き様相を呈し『延命長寿』の象徴とされています。世の貴顕紳士をはじめあらゆる方々が訪ねて来られ、此の大楠の前たたずみ何物かを感得されて帰られます。」本州一位(全国二位)の巨樹。此の大楠は来ノ宮大神の寄代とされた御神木で之を一周すると一年寿命が延びると伝えられています。「大楠」も幹の内部が空洞の部分も。御朱印と共に頂いた絵葉書。夜間はライトアップされたとパンフレットより。現在は??「徳富蘇峰顕彰碑」・「餘香碑(よこうひ)」。昭和32年(1957)、熱海で95歳の天寿をまっとうした『徳富蘇峰(とくとみそほう)』の業績を顕彰して立てられた碑。この碑は、元内閣総理大臣中曽根康弘氏の書によるもので、昭和60年に建立されています。徳富蘇峰氏「国民之友」、「国民新聞」を創刊したほか、著書には「近世日本国民史」などがあり、明治・大正・昭和にかけて活躍したジャーナリスト、思想家、評論家などとして有名。「御神木」の裏の滝。雨天後でもあり白き流れが激しかった。滝の後の川の流れを上部から。この川は「あたみ桜 糸川桜まつり会場」の糸川に続く流れ。白のカオス。再び「大楠」を振り返る。拝殿前から「参集殿」を見る。「来宮神社」拝殿を別の高い場所・参集殿の2階「杜の屋上」から振り返る。階段を降り、「参集殿」の中に入った。「参集殿」の中の「来宮神社 宮神輿」。札所。御守りが並ぶ。様々な種類の御札も。「来宮神社」紹介のビデオコーナーも。「新日本風土記 熱海」のポスターか?「日本三代巨樹」。今回で、制覇していないのは鹿児島県にある1位のみになったが・・・。3位の佐賀県武雄市のものも「大楠」よって3位までは皆、楠なのである。御朱印を頂きました。帰路は濃霧の中、静岡県道20号熱海箱根峠線を利用し小田原に戻る。小田原漁港内にある「ひもの屋 半兵衛」に立ち寄る。店舗内部。鯵、えぼ鯛、サンマの干物を買って再び帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2020.06.20
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続いて「藤沢北部2」を訪ねた。谷戸川の延長線にある「渋谷の里公園」。藤沢市下土棚字渋谷の里1109。50.「子どもとウサギ」。「ウサギ」を見つめる裸の少年の姿。何を語りかけているのであろうか。「渋谷の里 完成記念碑」。六会公民館石川分館藤沢市石川1丁目1番地の225月25日の緊急事態宣言の解除に伴い、第6回藤沢市新型コロナウイルス感染症対策本部においての決定に基づき、6月1日(月曜日)から石川分館の業務を再開。51.「くつろぎ」。立膝で座り込み空を見上げる少女。場所を変えて。髪を後ろで束ねて。丸石公園藤沢市石川5-13。52.「花のかんむり」。お姉ちゃんが弟に「花のかんむり」をかけようとする姿。反対側から。桐ヶ谷公園藤沢市湘南台3丁目5-15。53.「昼さがり」。本を読む少女の姿。その脇で何かを見つめる弟?の姿。一色公園藤沢市 石川6-12。54.「姉弟」。両手を繋ぎ、楽しそうに戯れる姉弟。姉も笑顔で。弟も。円行下原公園藤沢市円行2-15。55.「ささぶね」。仲の良い姉弟の姿であろうか。山田公園藤沢市石川2-23-45。1991年 開園。56.「水あそび」。水辺を走る兄妹。妹はバケツを持って。兄。妹。北原公園藤沢市遠藤字北原2006番15。57.「しゃぼん玉」。猫がしゃぼん玉を追って。しゃぼん玉を作る少女。横から。しゃぼん玉を追う猫の姿が生き生きと。長後市民センター藤沢市長後513番地。時計は15:05。藤沢市長後市民センター エントランスホールの陶板レリーフ58.「にっぽんの詩」 1995年3月完成原画・監修:田澤茂氏縦3.0m × 横 6mの陶板レリーフ。中央には、富士山と富士山の山頂に夕日が沈む瞬間、太陽の光がダイヤモンドの様に美しく輝きだす神秘的な現象・「ダイヤモンド富士」の姿か。そしてその麓の祭りの情景が。「ダイヤモンド富士」。祭りの山車では太鼓を打つ姿が。そして右手には「風神」の姿が。その下には民家の生活の姿が。左手には「雷神」。その下では「どんと焼き(団子焼き)」の姿も。「市民センターの桜」が建物の前に。「市民センターの桜この桜の種類は、ソメイヨシノで、昭和三十一年に殖産学校を改造して、長後支所が完成したことを記念して、植樹されたものであります。樹勢が旺盛で技ぶりも良く、満開時には、ひときわ美しく見事で、長後のシンポルとして地域の々に親しまれております。樹高 10m幹回り 2m50cm樹齢 約40年」湘南台公園大きな地球儀と宇宙儀がシンボルの湘南台文化センターと国道467号線を挟んで向かい合う緑の塊が、この湘南台公園。区画整理にあわせ昭和51年に開設したが、地下鉄工事の完成に伴い、中央部分が大芝生広場としてリニューアルされている。藤沢市湘南台7丁目16番。「湘南台公園」碑。「湘南台公園」案内碑。「レインボータウン わくわくMAP」小田急線湘南台駅周辺の案内図。「愛されるふるさと湘南台」案内板。公園の一角に、59.「湘南台公園のハニワたち」家型埴輪・船型埴輪・馬型埴輪・人物埴が並んでいた。 「武人」。「巫女」。「船」。「馬型」。「男子」。「動物」。「動物」。「家」。埴輪群を振り返る。公園には「金木犀」の花、そして香りが。束の間の陽光に、黄金色の花を咲かせて。公園内の石庭?「湘南台公園」。「絆」碑と公園内花壇。湘南台駅東口前通りを見る。公園入口から公園内を見る。この下には地下鉄の線路が。「湘南台文化センター」独特のデザインの建物。いくつかの球体によって構成されている。そのうちのひとつは公的には「地球儀」を模しているといわれ、一番大きいものは「プラネタリウム」ということになっているが、実はこれらは「パチンコの街・湘南台」を象徴する、パチンコ玉の形状を模しているとの噂も昔はあったが・・・・。公園内の遊具広場。今田公園J.「ハーメルンの笛吹」グリム童話からの作品か?「ねずみの大発生で困っている街に、1人の男が現れます。男は笛の音でねずみを退治しましたが、町長たちは約束の報酬を支払おうとしません。すると男は別の笛を吹き、街中の子どもを岩山へ連れ去ってしまいました。」と。横から。足下には巨大なねずみが4匹。「アベリア」。淡いピンク色の花を夏から秋にかけて咲かせる街路樹が公園の周囲に。中丸公園ここにも今田公園と同じK.「ハーメルンの笛吹」が。ズームで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.08
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「称名寺」を後にして、「魚見坂」に出て交差点を左折して船見町を進む。お寺が多いので花屋がところどころに。左手に堂々たる山門が姿を現した。「曹洞宗・国華山高龍寺」の山門。「高龍寺高龍寺は、寛永10年(1633年)松前の曹洞宗法源寺の末寺として亀田村(現在の市内万代町辺り)に建てられたことに始まる、市内で最も古い寺院である。その後、洪水による被害などで亀田村が衰退したため、宝永3年(1706年)に箱館の弁天町(現在の入舟町)に移転した。箱館開港当初には実行寺とともにロシア領事館一行の止宿所となり、明治2年(1869年)の箱館戦争時には箱館病院の分院として負傷者を受け入れた。幾度か大火で建物を焼失したが、明治12年( 1879年)にこの地に移転し、明治33年( 1900年)には現在の本堂が完成、同43年(1910年)に完成した山門は彫刻が見事である。いずれも越後出身の名工たちの作で、明治時代末期の貴重な木造寺院であり、平成23年(2011年)には国の有形文化財に登録された。函館山を借景とした日本庭園には、芭蕉の句碑(鼠塚)もあり、墓地には勝海舟と親交があった渋田利右衛門や、日本最初に種痘を行った中川五郎治など著名な人の墓がある。また、松前藩家老で、人物花鳥にすぐれた画家であった蠣崎波響(かきざきはきょう)の最高傑作「釈迦涅槃図」(北海道指定有形文化財)を所蔵している。」ヒバ材を用い、前後に4本ずつの柱を立てる八脚門。東北以北で最大の山門で、獅子(左)、龍(中)、鳳凰(右)などの彫刻が豊かに配された外観が特徴です。この山門だけで、なんと207個の彫刻があるそう。これらは越後で製作され、帆船で運ばれてきました。「 建築は、江戸時代の最高の技術集団・柏崎グループによるもの。5代目篠田宗吉を中心とした大工や彫師による彫刻は、高龍寺最大の見どころ」であると。「曹洞宗 國華山 高龍寺」寺号標とその奥に「山門」。「山門」の見事な彫刻を角度を変えながら追う。ズームで。横梁の間はすべて彫刻が嵌め込まれて。そして横梁にも彫刻が。見事な龍の彫刻が施された「扁額 国華山」。2012年、高龍寺の建造物10件が、国の「登録有形文化財」に登録された。歴史的な価値とともに、伝統的な木造建築の技術を結集した芸術性が評価されたもの。「山門」前にあった「写真術の先覚者『横山松三郎の墓』案内板。1838 ~1884年幕末、明治初期の日本の写真術創成期に東京で活躍した写真師。ステレオ写真装置を創作 明治3年( 1870 )に日光東照宮などを同機で撮影、同9年に陸軍士官学校教官となり写真術を教えた。同10年気球から日本初の”航空撮影”をしたり、永久不変色、写真油絵、写真石版など技術開発に業績を残した。工トロフで生まれ、函館に移り住む、来港したロシア軍艦の絵師に洋画法を学び、その先覚者としても有名。東京泉岳寺の山門脇に墓碣銘があり当寺に墓がある。北洋漁場を開いた高田屋とは親類。」「境内案内図」。境内とその先に「本堂」。「本堂」。向拝の虹梁木鼻や虹梁上の見事な彫刻をカメラで追う。中央の見事な彫刻。扁額は「高龍寺」。本堂右前には青銅製の大きな「聖観音像」が。この像、実はもともと松前にあったものだと。松前には明治45年(1912年)まで寿養寺という曹洞宗の寺院があったが、この寺は開拓集落の拠点となるべく、天塩町に移転した。その際に松前の旧寺内にあった聖観音像が高龍寺に移転されたのだということである。台座の銘を調べてみると、この像は嘉永2年(1849年)に、松前藩家老の松前内蔵が大坂の鋳物師に作らせ、それを寿養寺に寄進したのだという事が判ったのだと。「高松凌雲」の「供養塔」が奥にも。「献樹一、樹種 ベニサラサドウダンベニサラサドウダンは、福島県会津地方の山地にひろく自生している樹木である。遠くこの地にねむる会津藩士のためこれを献樹し、つつしんでその霊を慰めるものである。」「傷心惨目の碑」。「撰宋岳飛真蹟李華古戦場文学勒石以弔焉 会津残同抱共建 明治十三年」と刻まれているとネットから。src="https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/0f6ca18befcaac810a28d21529e0d5aa60482c3e.15.9.9.3.jpeg" border="0" name="insertImg" />「傷心惨目の碑明治2年(1869年)5月11日、箱館戦争最大の激戦が箱館の市街地で行われた。当時の高龍寺は、もっと坂の下にあり旧幕府脱走軍の箱館病院分院にあてられたが、同日、新政府軍の先鋒隊が乱入し、傷病兵らを殺傷して寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲となったという。明治12年(1879年)高龍寺は移転、翌13年に旧会津藩有志がこの碑を建て、斬殺された藩士を供養した。碑面「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華の作「古戦場を弔う文」からとったもので、文字は中国南宋の忠臣岳飛の真跡を写したものである。」「みなみ北海道最後の武士達の物語」掲示塔。「箱根病院 頭取(院長) 高松凌雲 1836~1916」「敵味方なく冶療の箱館病院、降伏勧告を仲介し戦争終喆へ1868 (明治元)年10月(旧暦)、高松凌雲は、旧幕府軍が制圧した箱館へ入り、箱館病院で治療を開始した。病院長高松凌雲、事務長小野権之丞ほか4名の病院係の体制で開始されたが、箱館病院が狭隘で多くの負傷兵受け人れが難しいため、高龍寺を分院とした。しかしながら、傷病兵が日増しに増加したため、新病院建築を決意し、11月22日に工事着工、翌年2月23日に二階建ての病院2棟が落成し、病人には敵味方の区別なく平等に治療にあたるという赤十字精神に基づく対応で治療に臨んだ。1869 (明治2 )年5月11日(旧暦)、新政府軍箱館総攻撃の際、箱館病院も新政府軍の襲撃を受けたが、高松凌雲が身をもって保護し、薩摩藩兵の取りなしもあって事なきを得た。この翌日の12日、箱館病院へ新政府軍軍監村橋直衛と薩摩藩隊長池田次郎兵衛らが人院中の会津藩遊撃隊長諏訪常吉の見舞いとして来院した。新政府軍の降伏勧告の仲介依頼のためであったが、諏訪は瀕死の状態であったため、その役割は高松凌雲と小野権之丞へ託された。高松と小野の連名の書状は、五稜郭と弁天台場へ伝達され、5日後の5月17日に旧幕府軍が降伏を申し出て、戦争は終結となった。」「小野 権之丞1818 (文政元)年、会津藩士小野家に生まれる。1862 (文久2 )年、会津藩主松平容保が京都守護職就任の時、公用人として公武間の折衝にあたり公武合体に尽力したが、戊辰戦争では、会津藩の次席家老として新政府軍との戦闘に臨んだ。この後旧幕府軍に合流して蝦夷地へ渡った。箱館では、箱館病院の事務長として病院運営を行った。明治2年5月11日の新政府軍箱館総攻撃時に、新政府軍に捕えられたがアイヌ人の働きにより無事タ方までに病院へ帰還し、翌12日の夕方、新政府軍軍監村橋直衛らから降伏勧告の仲介を髙松凌雲とともに託された。小野が旧幕府軍側への書状を草案し、弁天台場、五稜郭へ伝達され、5月15日には弁天台場が降伏し、18日には五稜郭も降伏して戦争は終結した。箱館戦争の早期終結に向けて、小野権之丞は大きな役割を果し、依頼側の村橋を通じて新政府軍の多大な支援のもとで傷病兵受入れ・治療等の任務の遂行にあたった。同年6月に古河藩の預かり(禁固)となり、謹慎中に「小野権之丞日記」を著した。1889 (明治22 )年4月2日に死去した。享年72歳。」「高松凌雲 1836~19161836 (天保7 )年、筑後国(現・福岡県)生まれ。20歳の時に久留米藩川原家の養子となった。22歳の時、兄の古屋佐久左衛門を頼り江戸へ出て医師を志し、蘭方医石川桜所の門下生となり、後に大坂の適塾で緒方洪庵の指導を受けた。1865 (慶応元)年、一橋家の専属医師に抜擢され、徳川慶喜の第15代将軍就任により幕府奥詰医師に登用された。1867 (慶応3 )年のパリ万国博覧会の日本代表団の随行医となり、パリの医学学校で1年半学んだ後、1868 (慶応4 )年1月に幕府崩壊の報せにより同年5月に帰国した。幕府艦隊の品川沖脱出に同行して蝦夷地へ渡り、箱館では、榎本武揚の依頼により箱館病院の頭取(院長)に就任し、傷病兵の治療に当たっては、パリ留学時代に学んだ赤十字精神に基づき、敵味方を問わずに受け人れる対応を貫いた。1869 (明治2 )年5月11日(旧暦)の新政府軍箱館総攻撃時に箱館病院が襲撃された時には、凌雲自らが新政府軍兵士と対峙して、その場を収めている。また、降伏勧告の仲介を小野権之丞とともに受諾して、館戦争の早期終結に貢献した。館戦争の終結後も、凌雲は箱館に残り病院長として患者の治療にあたった。同年10月下旬に阿州藩お預け(謹慎)となり、翌年には東京へ帰還した。凌雲は東京で個人病院を開院し、町医者として赤十字精神に基づいた道を進ことを決意した。1878 (明治11 )年に、貧民を無料で診察する組織「同愛会」の設立を提案した。」「金毘羅堂」~航海安全・漁業の神を祀る(1915年建立)金毘羅堂は魚神を奉るもので、地元に密着した神仏習合の象徴。北洋漁業が盛んな時期に作られたとのこと。「鐘楼」~朝夕、鐘の音が響く(1922年建立) 。戦争で供出された鐘は、1951年(昭和29年)に再鋳されました。その奥に宝蔵~寺宝を収蔵(1916年建立)宝蔵は、レンガ造りの入り口、白い漆喰壁、腰周りにはめ込み下見板をまわした蔵造りという外観がユニーク。「位牌堂」と黄色く色づいた銀杏。先祖の位牌を永代に祀る(1933年建立)御堂。開山堂と金毘羅堂の間に西面して建ち、南北面に開山堂と金毘羅堂へ至る廊下を附属する桁行5間梁間4間、入母屋造、向拝一間付、桟瓦葺で、鉄筋コンクリート造の地階を持ち、上下階とも内部は位牌を安置する。位牌堂の入母屋瓦葺は本堂の小型版で、全体的に雰囲気もよく似ています。銀杏越しに。近づいて。「向拝虹梁」の上の見事な彫刻(右)。「向拝虹梁」の上の見事な彫刻(左)。開山堂(臥龍廟)堂内には、歴代の住職をはじめ、33観音、500羅漢、16羅漢、釈迦十大弟子などが祀られ、荘厳な雰囲気に満ちている。改修時に漆貼りされた天井絵も見事であると。扁額は「臥龍廟」。「高龍寺五百羅漢 永代祠堂供養のお勧め」。「水盤舎」。1917年建立。金毘羅堂と位牌堂間の前面に南北棟で建つ。方1間入母屋造銅板葺で、東西面に軒唐破風を付す。柱間を吹放ちとし、三斗上に小組格天井を張る。蟇股などの立体的で充実した彫刻は山門や金毘羅堂と類似し、澤田吉平ら越後大工による普請と考えられる。「山門」を入って右側の奥には墓地が。そして右手には寺を囲む趣のある土塀・防火塀が。特に重厚なレンガ塀は大火の歴史の象徴(1910年建立、一部はそれ以前のものも)手前には「蟹工船 第二萬盛丸 遭難者之墓」と刻まれた墓石が。「六地蔵尊」であろうか?脇門から境内を出て「山門」方向を振り返る。「山門」、「鐘楼」、「宝蔵」の屋根が見えた。「馬車止」碑。馬車の停車場だったのであろう。山門脇の袖塀に続いて、土塀、レンガ塀が寺の周囲に巡らされています。特に見どころは、坂の下方(東面)と上方(北面奥)に設けられたレンガ造りの防火塀。度重なる大火の歴史から、厚さ60センチにもなる重厚なレンガ塀で延焼を防止しました。1910年(明治43年)の建築とされていますが、上方の塀には明治40年の大火の跡らしい焼け焦げがあり(下左)、それ以前(明治10年代?)に造られたものと思われます。レンガの積み方の違いにも注目で、写真のものはフランス積み(横一列に小口と長手が交互に並んで見える)。もうひとつはこの先の「函館中華山荘」の塀のイギリス積み。「旧町名 だいまち」碑。ちなにみ今の町名は「船見町」。「台町は、明治五年(一八七ニ)に設けられた町です。山背泊町の町はずれの高台の地に弁天台場が築造され函館の港口を見下ろすことができたことから名付けられた町名といわれています。」更に進みY字路を右手に進むと、赤レンガの長い塀が右手に見えて来た。「函館中華山荘」・「中国人墓地」と刻まれた門が。函館には、幕末から中国人が住み始めており、大半は海産物の貿易に携わっていた。この墓地は、明治9(1876)年に、青森県下に漂着した中国人の遺体を埋葬するために、開拓使から土地を借りたことに始まる。当初の面積は、184坪(607㎡)しかなかったが、大正8(1919)年に隣接の土地を買収し、466坪(1,538㎡)となった。この時に、周りをレンガ塀で囲み、現在のような体裁となった。墓地内には、総檜造り瓦屋根の祠堂や「中華義塚」と彫られた石碑、炉跡のほかに、知られているだけでも9基の石碑と4基の木碑がある。この墓地は代々の華僑団体が管理を行っており、毎年、清明節(春分後15日日)と中元節(旧盆)には、祭祀が営まれ、紙銭を焚いて墓祭を行い、先人の冥福が祈られている。こちらの塀がイギリス積み(一列ごとに小口のみ、長手のみ......と交互に積んである)。一般に、フランス積みのほうが時代が古いと言われていると。階段を下りた先には裏門もあり、その先に函館の海、北斗市が見えた。左手には墓地が。墓地内には、総檜造り瓦屋根の祠堂や「中華義塚」と彫られた石碑、炉跡のほかに、知られているだけでも9基の石碑と4基の木碑がある。この墓地は代々の華僑団体が管理を行っており、毎年、清明節(春分後15日日)と中元節(旧盆)には、祭祀が営まれ、紙銭を焚いて墓祭を行い、先人の冥福が祈られている。立派な墓石が並んでいた。裏門からの美しい光景。道路を隔てたあ反対側にあったのが「在日ロシア人墓地」・「函館ハリストス正教会」の入口。外国人墓地ゆえ、宗教が違うので、それぞれ分かれているのであった。「ロシア人墓地」。「外国人墓地(ロシア人墓地)ここが、ロシア人望地として公式に認められたのは、明治3年( 1870年)のことで、当時の開拓使函館支庁と在函5ヶ国領事との間で外国人墓地に関する協定が締結されました。最も古い墓は、1859年6月29日(露歴)のアスコリド号の航海士ゲオルギィ・ホウリケヴィチのものです。現在この墓地には、ロシア軍艦の乗組員25名や白系ロシア人7名など全部で43基の墓があります。その中には、初代領事ゴシケーヴィチ夫人や領事館付属聖堂の説教者で、のちに魯学校の教師として活躍したヴィサリオン・サルトフも葬られています。故国はるかなる異郷に倒れたロシア人も、この墓地で安らかに眠り続けるでしょう。」ロシア十字架(八端十字架、東方十字)ロシア正教会て用いられる十字架。八端十字架」の名称は8箇所の先端部分が存在することに由来するのだと。その先の道路脇には六地蔵が、一体はどこかに?「高清水金太夫墓」が手前に。山ノ上町遊廓の名妓だった高清水近大夫の墓(万延元年(1860年)であると。函館市船見町23-2の地蔵寺門前に。萬延元庚申年 ( 1860 ) 五月十五日の文字が刻まれていた。昔は、この道路の部分も「地蔵寺」の境内であったのだろうか。その先には「外国人墓地(プロテスタント墓地)」が。「外国人墓地(プロテスタント墓地)誰いうことなくこの墓地を外人墓地と呼んでますが、必ずしも外国人ばかりでなくキリスト教徒である日本人の墓も混じっている。しかし、当時函館で他界した外国人は、ほとんどこの墓地に埋葬されていることから、外人墓地の名ができたのであろう。古くは、安政元年(1854)4月ペリーが艦隊を率いて来航したとき死亡した水兵ウォルフ(50才)、レミック(19才)の墓をはじめ、ドイツ代理領事ハーバー、デンマーク領事デュース、函館で倉庫業を営んでいたイギリス人スコットの墓など40基ある。」同じく海を望める場所に。一番奥にあったのが「函館キリスト教会 共同墓地ここは函館キリスト教4教会(下記)の共同墓地です。ご用の方は、管理している日本キリスト教団函館教会にお尋ねください。 日本キリスト教団函館教会 日本キリスト教団函館千歳教会 日本基督教会函館相生教会 日本聖公会函館聖ヨハネ教会」様々な形の墓石が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.26
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