1

すばな通りを進むと、右手にあったのが江ノ島電鉄「江ノ島」駅。 江ノ島電鉄「江ノ島」駅前の小鳥オブジェ・通称『江のピコ』。小鳥のオブジェ付きの車止めの名は「ピコリーノ」。地元の女性が季節に合わせて手編みのカラフルな衣装を着せ替えていることで有名で、観光客の人気スポットになっている。もともとは、子どもがポールに飛び乗って怪我をしないようにという安全対策の工夫として小鳥のデザインが採用されたもの と。踏切を渡り、「江ノ島駅」を見る。 そして目的の「龍の口竹灯籠」の行灯(あんどん)型の照明 。和紙風のパネルに、幾何学模様(和柄・アイヌ文様にも近い図形)がプリントされていた。模様は矢羽根、山形(杉綾)、菱形などを組み合わせたデザイン。「龍口明神社(元宮)」の石鳥居が左手に。もともとは龍口(たつのくち)の龍口寺西隣に建っていたが、安政2年(1773年)に龍口が片瀬村(現藤沢市片瀬)に編入されて以降、境内地のみ津村の飛び地として扱われた。鎌倉時代には刑場として使用された時期もあり、氏子達は祟りを恐れ、長年移転を拒んでいたという。大正12年 (1923年)、関東大震災により全壊、昭和8年 (1933年)に龍口の在のままで改築したが、昭和53年(1978年)に、氏子百余名の要望により、江の島を遠望し、龍の胴にあたる現在の地へと移転した。なお移転後の現在も、旧境内は鎌倉市津1番地として飛び地のまま残っており(周りは藤沢市片瀬)、拝殿・鳥居なども、移転前の姿で残されている。扁額は「龍口明神社」。「第十五回 龍の口竹灯籠」のポスター。・開催日: 2025年11月14日(金)、15日(土)・時間: 午後5時~午後8時・場所: 龍口寺境内(神奈川県藤沢市片瀬3-13-37)・内容: 龍口寺境内に約3,000基の竹灯籠が並べられ、ろうそくの光に包まれる幻想的な秋の夜を楽しむイベント。詣者のご先祖様の供養や願いごとの祈願も行われると。龍口寺境内に並べられた約3,000基の「竹灯籠」に灯るロウソクの光に包まれながら本堂前に施餓鬼壇を整え、参詣の方々のご先祖様や、亡くなられた方のご供養や、お願いごとなどの祈願を行います。竹灯籠の灯りが描き出す幻想的な夕べを大切な人とお楽しみください と。灯籠奉納受付所のテントが前方に。「奉納者芳名板(ほうめいばん)」が右手に。 龍口寺の仁王門(山門)前の「第十五回 龍の口竹灯籠」の入口の飾り。複数の竹灯籠を組み合わせたゲートが設置されていた。● 左側の竹灯籠の刻字「龍 口 寺」1本の竹に「龍」「口」「寺」の3文字が、節と節の“間”に1文字ずつ縦に配列されていた● 右側の竹灯籠の刻字「藤 沢 市」(同じ構造)● 中央下部の竹筒「竹灯籠」と刻まれた短めの竹灯籠が金属製U字ガードレールの前に置かれている。仁王門。扁額「龍乃口」と。 仁王門の先の石段。山門前の石段を斜めから。山門は元治元年(1864)竣工で、欅造り銅板葺。大阪雲雷寺の発願で、豪商鹿島屋某が百両寄進し建立された。正面から。短い竹筒の上部を斜めに切られた竹灯籠が中央、左右に並べられ、内部に本物の蝋燭が灯されていたのであった。LED ではなく蝋燭の灯りが特徴。蝋燭の灯りの特徴。・光が 揺らいでいる(ゆらぎのある光)・光の色が 温かみの強い橙色で、中心が明るく外側が徐々に弱まる・切り口から漏れる光が不均一で自然な形状をしている・同じ灯籠でも光の強弱が微妙に違う・LED特有の白っぽさ・均一な広がりがない上部から覗くが如くに。龍の口竹灯籠会場図。山門の両側に置かれた和傘が刻々と色・模様が変化する、プロジェクションライト(模様投影ライト)が照射されて。左側。右側。「アメリカデイゴ(亜米利加梯梧)」の花もライトアップされて。バナナのように反り返った形 をしている赤い花をズームして。山門を潜ると参道の両側には、多くの竹灯籠(たけとうろう) が びっしりと並んでいた。大小さまざまな竹灯籠。斜めの切り口から炎の橙光が漏れるのであった。光がひとつひとつ微妙に揺らぎ、均一ではない自然な光のゆらめきが生じている。LED光ではなく蝋燭のため、光の揺れ方・明滅の仕方が柔らかいのであった。参道の右側に並べられた竹灯籠は、渦巻き状・曲線状の軌跡を描いて配置されていた。移動して。竹灯籠一つひとつの内部で灯る蝋燭(ろうそく)は、・揺らぎのある光・中心が明るく、周囲が自然に減衰する光・個体差のある微妙な強弱を持っているのであった。大書院への石段にも竹灯籠が並び、その上にも竹灯籠のオブジェの姿が。ズームして。裏側から見ても絵柄模様が判らなかった。周囲は暗く、灯籠だけが明るいため、コントラストが高く、光の形状が際立つのであった。竹筒は一本一本、太さ・節の位置・切り口の角度が僅かに異なる。その差が光の強弱として現れ、LED照明とは違う自然な揺らぎとなって視覚に訴えるのであった。竹灯籠の光が地面や石段に反射し、弱い二次光が全体の明るさを底上げしていると感じるのであった。手水舎手前を。大本堂とのコラボ。闇に沈んだ境内の土の上に数え切れぬほどの小さな灯りがまるで呼吸するように揺れていた。ひとつひとつは、竹の内奥で燃える小さな炎にすぎないのに、寄り添い、並び、つながるとまるで大地そのものが灯っているかのようであった。渦を描く火の道は、見えない風の手に導かれ、やがて階段の灯りへと吸い込まれていく。その先には、古い寺の影が青白い光に照らされて、息づいているのであった。炎は風に怯えながらも、一瞬のために命を燃やし、闇の中で人の心をそっと照らしていた。立ち止まったその場所だけ、時が静かに、柔らかく、滲むように流れていたのであった。左手には浄行菩薩像が。大本堂前。大本堂前から山門方向を見下ろして。参道には多くの見物客の姿が。 ・・・つづく・・・
2025.11.23
閲覧総数 253
2

太陽が再び顔を見せ、見事な光の帯が。反射光が細かく分断され、光の帯がざらついた質感で揺れて見えていた。手前側は比較的影になっているため、反射光の明るさがより強く際立つ状態で。光の帯の先端の砂浜で遊ぶ親子連れ。これは典型的な「サンロード(太陽の道)」と呼ばれる現象。「太陽の道」とは、弱い風が吹き、水面に小さな波が立つなど特定の条件が揃った時に、水面に光が反射して道の様に見える自然現象を指す。ズームして。太陽が水平に伸びる雲に一部隠されている状態を正面から。太陽の上半分は雲の上に出ており、下半分は雲の下から。海面には太陽の光がまっすぐ縦に反射していて、明るい光の帯が海の表面に伸びていた。水面は大きく荒れてはいませんが、小さなさざ波があり、光の帯が細かく揺れた模様に。空は太陽の周りが濃いオレンジ色で、上の雲は暗く、下の方へ行くほど赤みのある色に変わって。遠くの海は影になっていて、徐々に暗く見えて来たのであった。片瀬西浜から平塚方面へ向かって、長い砂浜がゆるやかに湾曲しながら続いている様子が見えた。相模湾沿いの特徴で、江の島を基点にして西方向へ大きな弧を描くように海岸線が伸びていた。伊豆半島がプレート運動で北北西へ押し込まれているため、相模湾全体が湾口が開いた弓形の地形になっているのだ。相模川・酒匂川などの河川が運んだ砂が、沿岸流によって東へ運ばれ、藤沢・茅ヶ崎方面に供給されることで砂浜が維持されているのだ。明るい光の帯(サンロード)が次第に弱くなり始めた。太陽をズームして。夕日が水平に伸びた雲の隙間から見えている場面。太陽はほぼ沈む直前で、細長い楕円形のように見えて来た。雲に隠れているため、上半分が覆われ、見えている部分が横に押しつぶされたような形なって来たのであった。海面が適度に揺れているため、光は一本の線ではなく、細かく分かれた光の筋が連なって帯状になっている状態に変化して。手前の海面では光が広がり、ゆらぎを伴った反射となり、光の帯がやや太く見えて来た。全体として、夕日が海面に強く反射してできる、典型的な日没時のサンロードが。太陽が水平線上部の黒い雲に隠れて、これがこの日の日没の如くに。空全体は夕方の光で淡い橙色から赤みへと変化し、上層の雲も同じ色調に染まって来た。水平線上部は暗く影になっており、その上に太陽の明るい部分だけが強く浮き上がって見えているのであった。この日の日没を追う。そしてこの日の太陽は完全に水平線上の雲に隠れて。江の島の姿を。江の島シーキャンドルの灯りは未だ。ゆるやかに湾曲する西浜からの砂浜の光景を見る。真っ赤に色づいた太陽が地平線近くに沈み、相模湾の海面からは光の帯が完全に消えて。海は夕方の暗さを帯び、表面にはわずかな揺れだけが残り、静かな水面が一様に赤みを含んだ淡い光を受け止めていたのであった。相模湾全体が静まり、光も影もゆっくりと均されていく、落ち着いた夕暮れの瞬間なのであった。江の島を背景にした、片瀬漁港周辺の夕方の光景。左奥には江の島シーキャンドル(展望灯台)があり、島全体が落ち着いた薄暗い色に包まれて来たのであった。西浜を後にして国道134号を江の島入口方向に向かって歩く。辻堂方面を振り返って。関東ふれあいの道「関東ふれあいの道」は、一都六県を巡る自然歩道です。沿線の豊かな自然にふれ名所や史跡を訪ねながら、古里を見直してみませんか。⑥ 湘南海岸・砂浜のみちこの道は、県内17コースのうちの6番目です。ここから江の島を背に国道134号を西へ、新江ノ島水族館、湘南海岸公園を通り、鵠沼橋の西縁には聶耳(ニェアル)記念碑が建っています。鵠沼橋を渡るとサイクリングロードに入り、右手に松林、左手に砂浜を眺めながら歩くと、茅ヶ崎柳島海岸が終点です。途中、海に浮かぶ烏帽子岩(えぼしいわ)や平島を見ることができます。終点からは、国道134号を渡って、北へ600mくらい歩くと、浜見平団地バス停(茅ヶ崎駅行)に到着します。片瀬橋から境川の河口そして江の島を見る。上流側には小田急線・片瀬江ノ島駅に続く弁天橋を見る。江の島上空も僅かに赤く染まって。江の島入口交差点の横に建つマンション群。小田急線・片瀬江ノ島駅を弁天橋越しに見る。片瀬江の島観光案内所のすぐ横、江の島へ渡る橋(弁天橋)に向かう歩道沿いに設置されている沿道アート(ストリートモニュメント) 。天に昇るモダンなイメージの龍が。折しも観光客を乗せた人力車が2台。中国人であっただろうか?国道134号「江の島入口」交差点越しに江の島を見る。 すばな通りを江ノ島電鉄・江ノ島駅方向に進む。「塩バニラ君」と。名物江の島塩バニラ・ソフトクリームの店。口に入れると塩気→甘味→塩気と風味が移り変わるのだと。「すばな通り」とは神奈川県藤沢市・片瀬江ノ島駅前から江の島弁天橋へ向かう商店街(約250m)の通り。観光客が江の島へ渡る際に必ず通る“江の島参道の入口”にあたります。江ノ電「江ノ島駅」、湘南モノレール「湘南江の島駅」から江の島に向かう道。「すばな通り(洲鼻通り)」の名前の由来は、この地域に古くからある地名 「洲鼻(すばな)」 に基づくと。● “洲鼻” の意味「洲(す)」= 川口や海辺にできる砂州(砂が堆積した細長い土地)「鼻(はな)」= 地形が突き出した部分(岬のような意味)つまり「海に向かって細長く突き出した砂州の先端部分」を意味する。江の島の付け根(片瀬側)は、昔は砂州が東西に伸びる地形で、まさに「洲鼻(すばな)」と呼ぶのにふさわしい土地であった と。「ここは すばな通り 江ノ電江ノ島駅」碑。 ハラミステーキカレー・ピザの店「Kalae Ribs kitche」。すばな通りを北へ進むと左側に「道標」と案内板。江の島弁財天道標。この道標は、平成十一年一月、ここより170メートル南の洲鼻通りの地下から、道路工事中に発見され、追加の指定を受けたもの と。「市指定重要文化財(建造物) 昭和四十一年(1966)一月十七日指定「江の島弁財天道標」この石柱は、江の島への道筋に建てられた道標の一つです。江の島弁財天道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術を、江の島で考案したという杉山検校が寄進したと伝えられ、現在市内外に十数基が確認され、そのうち市内の十二基が藤沢市の重要文化財に指定されています。すべて頂部のとがった角柱型で、その多くが、正面の弁財天を表す梵字の下に「ゑのしま道」、右側面「一切衆生」、左側面に「二世安楽」と彫られています。この文言は、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏・極楽への願いが込められています。この道標は、平成十一年(1999)一月、ここより170メートル南の洲鼻(すばな)通りの地下から、道路工事中に発見され、追加の指定を受けたものです。 平成二十六年(2014)三月 藤沢市教育委員会 」 「湘南しらす」の幟旗の店。 「湘南生しらす井 ¥1,450」と。 ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2025.11.22
閲覧総数 270
3

この日は11月15日(土)、朝から鵠沼へ「藤沢地名の会 地名探索」に参加し15時前に終了し解散する(後日ブログアップ予定)。17時から始まる片瀬・龍口寺で開かれている「第15回 龍の口 竹灯籠(たけとうろう)」を観に小田急片瀬江ノ島駅に向かう。片瀬江ノ島駅構内には大型のクラゲの水槽が設置されているのだ。半透明のミズクラゲでゆったり浮遊する様子は実に幻想的なのである。クラゲ水槽に近づいて。クラゲ水槽は改札内へのコンコースにあり乗降客は早速記念写真やスマホに撮っていた。この水槽は少し離れた場所にろ過装置が設置されていて、配水管を通し水質管理、水温調節、異常が生じれば新江ノ島水族館に即伝わる仕組みなどが備えられているのだと。同館クラゲ担当の方は毎日、餌やり、海水の状況、ミズクラゲの姿の確認など行うのだ と。ミズクラゲ(Aurelia aurita)をズームして。特徴は・体が円盤状で透明。・中央に四つ葉のクローバー状の“4つの輪”(=生殖腺)が見える。・触手は細く短い と。■ どこに生息している?・世界中の温帯〜熱帯海域に広く分布。・日本では沿岸部ならほぼどこでも見ることができる。・港湾や内湾など、やや富栄養化した場所にも多い。1. 傘の縁に細かい“フリル状のひだ”が並んでいるミズクラゲ最大の特徴は、傘の縁に多数の触手(短いタテガミ状)がずらりと並ぶこと。この縁の部分だけがくっきり写り、「レース」「羽毛」のように見えたのであった。・薄くて平たい傘 横から見ると、ミズクラゲは扇形・半月形に見えることがある。・傘表面に模様が無い タコクラゲ、サカサクラゲ、アマクサクラゲなどは模様があるが、 ミズクラゲは透明で模様がほぼ無いのだと。傘をゆっくり収縮→拡張のリズムで動いていた。主に“漂う”生き物で、潮流や水流に大きく影響されるのだと。小田急電鉄・片瀬江ノ島駅(2020年改築の新駅舎)。この駅舎は、日本でも珍しい 「竜宮城(りゅうぐうじょう)をモチーフにした駅」 として有名。■ 1. 竜宮城をイメージした外観・建物全体が「浦島太郎がたどり着いた竜宮城」をモデルに設計・朱色・金色・青緑の屋根という華やかな配色・千鳥破風・唐破風、曲線の軒先など“神社建築+竜宮城”のデザイン → 江ノ島観光の玄関口として象徴的な駅舎に仕上がっている■ 2. アーチ形の入口(白い「門」)・写真中央の白いアーチ部分は、・竜宮城の入口「門」のような造形を模しており、・曲線を強調した意匠になっています。■ 3. 金色の装飾・屋根の各所に金箔風の装飾が施され、・「竜宮城の豪華さ」を演出。そして片瀬西浜にある片瀬漁港に向かって進む。片瀬江ノ島駅前(駅前ロータリー付近)から美しい夕日の姿が現れた。時間は17:12。この場所のこの日の日没は17:37と。椰子(ヤシ)と夕日のシルエット。フェニックス(カナリーヤシ)。江ノ島周辺のランドマーク的な植栽で、リゾート感を演出しているのであった。国道134号線が前方に。江ノ島周辺ならではの植栽である フェニックス(カナリーヤシ) が逆光でくっきり浮かび上がり、晩秋の江ノ島らしいドラマチックな夕景が眼前に拡がったのであった。まっすぐ伸びた高いヤシの木は、江ノ島周辺によく植栽されているフェニックス・カナリエンシス。幹が真っすぐ、頭頂に大きな扇状の葉、シルエットが非常に美しい樹形なのであった。夕日との相性が抜群で、まさに「湘南らしい風景」を象徴しているのであった。雲の下に空隙(すきま)があり、太陽光がそこから漏れていた。晩秋・初冬特有の澄み切った空気によって、黄金色が強く出ていて、海面からの反射光が写真下部を明るく照らしているのであった。江の島漁港の整備完了を記念して、「無事故を祈願して」建てられたという「海の詩」の像。■ 作品名海の詩(うみのうた)■ 作者親松 英治(おやまつ えいじ)日本の彫刻家で、湘南地域に複数の作品を残しています。■ 所在地片瀬漁港(片瀬海岸)の広場江ノ島水族館の少し西側、片瀬漁港荷捌き場の前に設置。■ モチーフ海の生命力人と魚が一体化したような躍動的造形「海とともに生きる片瀬・江の島」の象徴的作品 と。「海の詩」のシルエットが完全に夕日と重なり、“躍動感”が強調された写真が撮れたのであった。移動して、江の島を背景に。片瀬漁港(片瀬江の島漁港)から見た相模湾の夕日 を捉えて。手前が片瀬漁港の内湾。静かな水面が夕日の光を伸びやかに反射していた。片瀬漁港の外側の防波堤には人影が見え、散歩や写真撮影をする人が立ち並んでいるのがわかるのであった。雲の下側が切れているため、雲と地平線の隙間から光がこぼれる“ドラマチックな夕焼け” の典型的パターンを捉えることが出来たのであった。非常に薄くだが、遠くに箱根・伊豆半島の山影が見えた。条件が良い日はこの位置に富士山のシルエットも現れるのだが、この日は富士山は雲に隠れて。海面の反射(グラデーション) が主役になっていたのであった。片瀬漁港の外側の防波堤をズームして。その手前には、水面の黄金の“光の道”(サンロード)が現れていたのであった。太陽から海面にまっすぐ伸びる光が美しく、静かな片瀬漁港の雰囲気を引き立てていた。片瀬漁港から江の島を望む夕景を。漁船の静かな佇まいと、江の島シーキャンドル(灯台)のシルエット、そして海面に映る柔らかな光が融合して、まさに “片瀬漁港らしい夕景”なのであった。写っているのは片瀬漁港の定置網・釣り船・遊漁船など。写真中央の船には「第十八ゆうせい丸」と読み取れる文字があり、実際に片瀬漁港に所属する船。太陽が雲に隠れて、水面の黄金の“光の道”(サンロード)が姿を消した。夕陽が沈みゆく空の中で、雲の縁だけが薄く金色をまとい、まるで空が自らの境界をそっと縁取っているように白い輝きが静かに滲んでいるのであった。雲のふちに夕陽の光が当たって、白くきらりと光っている。まるで雲が輪郭だけ輝いて浮かび上がっているようなのであった。そして沈みゆく太陽が厚い雲の下からわずかに顔をのぞかせ、その光が雲の縁を内側から焼き付けるように再び白く輝く。闇へと沈む雲の下で、陽光だけが最後の抵抗のように鋭い光の縁を刻んでいるのであった。沈む陽が雲の縁を白く照らし、港の水面まで夕光が流れ込む時間なのであった。停泊した漁船の影が静かに伸びて。いつまでも佇んで見つめていたい時間、空間なのであった。ズームして。太陽に近い部分は、黄色・白色・ややオレンジが混ざった高輝度の輝きが確認できる時間なのであった。反射の中心は太陽直下にあり、強い橙色の帯(光の道)が水面に伸びていた。水面は完全な静水ではなく、小さな揺れ(リップル)があるため、反射光が細かな線状に分解されて揺れて見える状態なのであった。太陽は水平線に向かって。円形がほぼ完全に見える状態に。厚い雲の縁は太陽が真下にあるため、逆光によって輝く「エッジライト」現象が発生しているが如くに。 ・・・つづく・・・
2025.11.21
閲覧総数 277
4

★六会地区 歴史年表-14年号 西暦 六会地区歴史年表 参考資料昭和時代昭和21年 1946 NHKのど自慢開始👈️ 極東軍事裁判👈️ 23年 1947 第一回市長公選、無投票で飛嶋繁当選 学校教育法に基づき新制六会中学校発足 旧横須賀海軍無線送信所の兵舎を仮校舎 とする 24年 1948 六会に市役所の支所(旧六会村役場)設置 一ドル三六〇円の 日本大学農林高等学校創立 為替レー ト設定 市制施行一〇周年、市歌・市章制定 ソ連からの引揚船 大船駅と小田急六会駅間にバス運転開始 舞鶴港に到着 湯川秀樹👈️ ノーベル物理学賞 25年 1950 六会中学校校舎増築完成 朝鮮戦争勃発👈️ 日本大学藤沢高等学校へ改称 藤沢市人口 土棚円行耕地整理組合結成 八四五八一名 会長に高瀬知治就任 26年 1951 市内各小学校で完全給食開始 第一回紅白歌合戦放送 日本航空発足 27年 1952 部落長を自治会長に改称 六会小学校の給食調理室完工 韓国李承晩ライン👈️ 設定宣言 28年 1953 六会中学校校歌👈️制定 テレビ放送開始 👈️ (広田俊夫作詞、市川達雄作曲) 六会小学校六〇周年記念事業の校庭 整備工事完成 六会慰霊塔除幕式挙行 29年 1954 六会地区体育振興協議会設立 第五福竜丸ビキニ環礁で 下土棚の精米所閉鎖される 被爆(水爆実験)👈️ 自衛隊発足 👈️ 青函連絡船「洞爺丸」👈️ 遭難事故発生 30年 1955 六会中学校増築工事完成 第一回水爆禁止大会(広島) 石川山田橋竣工 神武景気始まるテレビ・ 亀井野の平川秀雄、六会幼稚園を創立 電気洗濯機・電気冷蔵庫 六会駅近くの山林の一部が造成され、 普及(三種の神器) 三期にわたって分譲地として販売始まる 第一〇回国民体育大会 開催(藤沢を中心会場に) 31年 1956 亀井神社の参道が改修される 六会地区有線放送電話開通 32年 1957 六会小学校の図書館完成 南極観測隊昭和基地開設👈️ 六会中学校にプール完成 33年 1958 横浜開港一〇〇年 34年 1959 石川中の塚に市汚物処理場起工 メートル法実施 石川丸石公民館落成 伊勢湾台風上陸👈️ 石川に市農村青年研修所新設 藤沢市民交響楽団誕生 35年 1960 市制ニ〇周年記念式挙行 36年 1961 いすゞ自動車(株)藤沢工場操業開始 インスタントコーヒー 、 プレス工業(株)操業開始 即席ラーメン発表 住宅開発始まる ダッコちゃんブーム ★六会地区 歴史年表-15年号 西暦 六会地区歴史年表 参考資料昭和時代 37年 1962 堀江謙一ヨット世界一周 👈️ 国産第一号炉に原子の火 38年 1963 亀井野地区の工業用水工事中、 トンネル内で五名生き埋め、 三名死亡事故 発生 39年 1964 六会中学校増築工事落成 東海道新幹線開業 👈️ 下土棚市営住宅起工 東京オリンピック開催 東京オリンピック聖火リレー藤沢市内 「高砂丸」👈️ 通過 北部第一区画整理事業認可(一九八四年 完了) 40年 1965 六会小学校体育館落成 名神高速道路開通👈️ 猿田彦大神の石廟市の文化財に指定 藤沢市の人口 一七五一八三名 41年 1966 六会地区社会福祉協議会発足 敬老の日 六会地区青少年育成協力会発足 体育の日設定 善行小学校創立、生徒数 四一五名 (六会小学校内に仮設) 円行石川の一部に桐原町誕生 小田急線湘南台駅開設 42年 1967 六会中学校体育館落成 北部学校給食合同調理場が六会中学校の 敷地内に開設 桐原公園開設 石川の伊沢暁ガソリンスタンド設置 藤沢北郵便局、下土棚に開設 富士見台小学校創立 石川の畑信裕ハタ・オートキット開設 (洋蘭の温室経営) 43年 1968 東京府中、三億円事件 発生👈️ 全国一一〇の大学で 学園紛争起こる 44年 1969 藤沢市農業協同組合設立 (村岡・藤鵠・明治・六会・御所見・ 小出の各農協合併) 老人福祉センター「やすらぎ荘」開設 45年 1970 湘南台幼稚園設立 国産初の人工衛星 六会行政センター(市民センター)改築開館 打ち上げ成功 石川の角田ヨシ方の「梅の木」市の 「おおすみ」👈️ と命名 天然記念物に指定 大阪万国博覧会開催👈️ 六会地区自治会連合会結成 三島由紀夫ら楯の会、 六会中学校コンピューター教育の実験授業開始 自衛隊乱入、割腹事件 下土棚、善然寺本堂起工式 発生👈️ 県立ゆうかり園開園 藤沢市人口 ニニ八九七八名 46年 1971 六会小学校前歩道橋完成 大相撲、大鵬引退👈️ 俣野小学校創立 (優勝三ニ回) 六会郵便局町田線沿いから六会駅前に移転 西俣野初老(五〇才~六〇才)を対象に 常磐会結成 (会員五十名) 六会地区交通安全対策協議会発足 六会地区防犯協会発足 47年 1972 今田郵便局開設 札幌冬季オリンピック 下土棚が長後地区へ編人される 開催👈️ 石川東部土地区画整理組合結成、 沖縄日本復帰👈️ (組合員一五〇名) 連合赤軍、浅間山荘 亀井野に六会東部土地区画整理組合結成 事件発生👈️ (組合員五三〇名) 横井庄一、グアム島で発見 田中角栄通産大臣 「日本列島改造論」発表👈️ ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.11.14
閲覧総数 739
5

牛久大仏の胎内への入口。■ 牛久大仏・胎内構造(参考)階層 名称 内容地下 光の世界 阿弥陀如来の光を表す演出空間1F 知恩報徳の世界 壁いっぱいの金色の万体仏2F 蓮華蔵世界(ご慈光の世界) 絵画・展示3F 霊鷲山の間 説法の場を模した空間4F (機械室) —5F 展望室(地上85m) 窓から外の景色を眺望※「光の世界」は実際には地下フロアに位置しています。牛久大仏の内部「光の世界」(地下・胎内 1階)。阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう) の小型立像で、背後に大きく放射状に広がる 後光(ごこう) が特徴。「光の世界」は牛久大仏の胎内の入り口であり、・阿弥陀如来の十二の光・救済の光・浄土の入り口を象徴した空間。足元には賽銭箱が置かれていた。ズームして。牛久大仏の胎内 2階「蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)」 の内部通路。「光の世界」に続く通路にあたる空間。胎内 2階「蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)」 に展示されている光の書(ライトアップ書作品)「本願:阿弥陀如来の根本の誓い「四十八願」の総称。浄土真宗ではとても重要な言葉 無碍光(むげこう):阿弥陀如来の「十二光」のひとつ “さまたげられることのない光”“無限の智慧の光”」 万燈会(まんとうえ):無数の灯り(ろうそく・灯籠)を供え、仏や霊に追善供養する 法会(ほうえ) のこと。 牛久大仏でも、夏の行事として「万燈会」が開催され、 夜の大仏と灯りの幻想的な雰囲気が人気である。 そのため胎内展示にも「万燈会」という書作品が並べられていた。大仏胎内1階の香りは蓮花(はす)の香りです。知恩報徳の世界(2階)阿弥陀如来への報恩感謝の気持ちで、祖師の御化導としての写経をさせていただきましよう と。「東本願寺 浄土真宗東本願寺派 本山」。ここは牛久大仏の内部、展望階(地上85m)へ向かう導線付近の壁面装飾。『空と佛 SORA × HOTOKE地上120m 世界一の大仏様と天空の眺め』“地上120m” は牛久大仏の総高を指し、“天空の眺め” は 大仏胸部(地上約85m)に設けられた展望室からの景観を表していた。さらに進む。額の下の札に書かれている文字:浄土の阿弥陀如来(切り絵)額の右下の小さなラベル:阿弥陀如来立像この作品は、阿弥陀如来(阿弥陀仏)を切り絵で表現したもの。・背後の放射状の光(光背)は「十二光仏」としての阿弥陀如来を象徴・足元の蓮華は「極楽浄土」の象徴・右手を上げ左手を下げた姿は「来迎印(らいごういん)」で、 亡くなった者を浄土へ迎えるときの姿素材が金色で描かれており、切り絵としては非常に豪華な表現。世界最大青銅製の大仏様ギネス世界記録:1995年に登録されました各部寸法・全長 120m・展望台 85m・総重量 4000t・左手の平 18.0m・顔の長さ 20.0m・目の長さ 2.5m・口の長さ 4.0m・鼻の高さ 1.2m・耳の長さ 10.0m・人差指 7.0m(比較図)自由の女神(40m)奈良の大仏(14.9m)階層表示4・5F 蓮華山の間3F 知恩報徳の世界(20m)2F 知恩報徳の世界1F 光の世界牛久大仏 ギネス証「WORLD RECORDGUINNESS BOOK OF RECORDSTHE TALLEST STATUEIS A BRONZE STATUE OF BUDDHA120 METRES HIGHIN USHIKU CITY, JAPANSTRUCTURALLY DESIGNED AND BUILTBY KAWADA INDUSTRIES, INC.AND COMPLETED IN 1993PETER MATTHEWS NORRIS McWHIRTER(Peter Matthews の署名) (Norris McWhirter の署名)」【世界記録ギネスブック(ギネス世界記録)世界で最も高い像は、日本・牛久市にある高さ120メートルの青銅製の大仏像です。この像は 川田工業株式会社 によって構造設計および建設され、1993年に完成しました。(ピーター・マシューズ、ノリス・マクウォーター署名)】 「光雲無碍(こううんむげ)浄土真宗でよく用いられる言葉で、・阿弥陀如来の光明(智慧の光)は、雲に遮られることなく、すべてを照らす・どんな迷いや煩悩があっても妨げられず、平等に救いが及ぶという教義を表す語」 と。右足親指先端の実物大模型牛久大仏の右足親指は、長さ:約1.7m人がすっぽり入るほど巨大で、展示されている模型はその 先端部分 をそっくりそのまま再現したもの と。世界一背が高い大仏浄土真宗東本願寺派・本山東本願寺の開祖・親鸞聖人ゆかりの地である、常陸の国。その地に仏都の中心的なものとして建立されたのが、台座をふくめると120mもの高さになる青銅製立像「牛久阿弥陀大仏」です。この茨城県牛久市にある世界一背が高い大仏は、胎内に入ることができ、地上85mまでエレベーターで上がることができます。総重量は4000t。目の長さ2.5m、耳の長さ10m、人差し指7mという大きさです。浄土庭園本願荘厳の庭(図中の各名称)・正覚の滝(しょうがく)・四十八願の石(しじゅうはちがん)・大心海(だいしんかい)・願船亭(がんせんてい)・因位の流れ(いんい)・悲願の湧泉(ひがんのゆうせん)・願力廻向の流れ(がんりきえこう)・横超の橋(おうちょう)浄土庭園・牛久阿弥陀大仏・本願荘厳の庭・群生海(ぐんじょうかい)・發遣門(はっけんもん)・定聚苑(じょうじゅのその)・正門御本尊(東本願寺御本尊阿弥陀如来立像)四天王寺の宝塔心柱をもって制作された鎌倉時代前期の名作。東京都の有形文化財に指定されている。親鸞聖人御旧跡(~関東における親鸞聖人の足跡~)建保二年(一二一四年)四十ニ歳の春、親鸞聖人は妻子をともなって常陸の国へと移り住まわれ以降、約二十年間にわたってこの地で布教の日々を送られました。稲田を中心に教化を進められ、以降、筑波山、鹿島など各地をまわり布教された親鸞聖人の足跡は、数多くの寺院や旧跡、伝説などによって、今もしのぶことができます。浄土真宗の根本聖典となる「顕浄土真実教行証文類」(教行信証)」は、この間に著されたものであり、その完成年をもって浄土真宗立教改宗の年(一ニニ四年)としています。「親鸞聖人略年譜親鸞聖人は承安三年(一一七三)京都日野の里にてお生まれになりました。養和元年(一一八一)九才のとき、青蓮院において慈円僧正のもとで出家され仏教を学ぶため比叡山に登られ、横川の常行三昧堂で修行された聖人は、どうしても自らの問題を解決できませんでした。建仁元年(一二〇一)二十九才のとき山をは下りられ六角堂に百日間こもられてのち、吉水の法然上人のもとへ行かれました。法然上人のもとで阿弥陀如来の本願による完全な他力念仏(浄土門)を学ばれました。聖人は、阿弥陀如来の本願による念仏の教えは、すべての人々に平等であり、釈尊がお生まれになったのは、この教えを説くためであったと確信し、布教活動をされました。しかし、承元元年(一ニ〇七)三十五歳のとき、念仏禁止の法難にあい越後(新潟県)に流罪になりました。(法然上人は土佐へ流罪)五年後赦免になりましたが、しばらく越後にとどまりました。聖人は、 四十二歳の頃、越後から常陸の国(茨城県)笠間の郡、稲田郷に移られました。稲田を中心に精力的に布教活動を行い、念仏の普及につとめられました。その間、『教行信証』の執筆に力を注ぎ、浄土真宗の教えを文章で著しました。それは阿弥陀如来の本願を信じ、念仏申せば、仏となるという教えであります。六十歳を過ぎてから聖人は、京都に帰ることになりました。京都での聖人は、著述に精進されました。今日残る浄土和讃など親鸞聖人の著作の多くは、晩年に書かれました。幾多の出会いを順縁とし、多くの苦悩を逆縁とし、ますます信仰を深めていった親鸞聖人は、弘長ニ年(一ニ六ニ年)十一月二十八日京都の僧坊にて逝去されました。」 2021年(令和3年)1月12日(火曜日)読売新聞にて掲載された記事です。「渦巻く思い、受け止めて」 牛久大仏胎内の2階には大仏建造に関する資料が展示されていた。頭部の鉄骨模型。牛久大仏(全高120m)内部の骨組み(鉄骨フレーム)を、縮尺模型として表現したもの。実物の牛久大仏は、外側が青銅パネル、内部が鉄骨構造(ビルのような構造)で作られていた。写真の模型は、その内部構造がどのように組まれているかを分かりやすく示した、「立体トラス構造モデル」であった。実際の牛久大仏の内部構造(豆知識)・鉄骨総重量:約6,000トン・鋼板(ブロンズパネル)枚数:約3,000枚・内部は「展望台」「写経の間」などがある複層構造・建築方式は「スチールフレーム構造(鉄骨造)」で、巨大建築物そのもの。牛久大仏の顔と手の骨組みの模型。「高さ100メートルの大掃除」と御本尊。高さ100メートルの大掃除日本一大きい牛久大仏で、秋のお彼岸に年に一度の大掃除が行われた。清掃員は大仏の眼からロープにぶら下がり、高さ約1 0 0メートルにある大きな顔の汚れをプラシなどで手際よく流して行く と。牛久大仏の外部メンテナンスでは:・外壁の清掃(高圧洗浄)・銅板継ぎ目の点検・腐食・亀裂の有無チェック・塗装補修・避雷針の点検・受雷による金属疲労の検査などが行われていると。牛久大仏は落雷を頻繁に受けるため、避雷設備は特に重要である と。作業員がロープアクセス(高所作業技術)で清掃のため大仏の「まぶた部分」から外部へ出る場面の写真をネットから。写真位置は大仏の目の高さ(約80m前後)にあたるのだと。螺髪の清掃に向かう清掃作業員。これもネットから.春には桜の花が。エレベーターで牛久大仏の高さ85mの展示室・展望台まで上がる。(写真はネットから)牛久大仏の展望窓。牛久大仏の展望窓(胸部の高さ約85m地点)から見下ろした景色 。窓の隙間から見えているのは、大仏の足元に広がる 牛久浄苑(うしくじょうえん) という大規模な霊園。「お胸の部分の三本の窓この窓は、右端から見ても左端から見ても、同じ景色が見えます。三つの窓は、私達が迷わす信心を深める為心を一つにさせて頂けることを表現しております。」 参道と發遣門。こちらも参道と發遣門。白い建物の屋上一面に並ぶ太陽光パネル。「大仏比較図」左から順に🗿 牛久大仏(120m)・台座まで含めた総高 120m・地上85mに展望台(胸の位置)・立像として世界最大級・奈良の大仏(約18m)の約6〜7倍の高さ🏛️ 国会議事堂(高さ 約65m)・牛久大仏の半分強ほどの高さ・比べると大仏がいかに巨大かよくわかる🗽 自由の女神(台座込み 40m前後)・ニューヨークの自由の女神・牛久大仏の3分の1ほどしかない🗿 奈良の大仏(14.9m)・こちらは有名な東大寺の大仏・牛久大仏は奈良の大仏の「約8体分」の高さに相当■ 牛久大仏の圧倒的なスケールがわかる図この図からわかるポイント:牛久大仏(120m)は、→ 国会議事堂(65m)の 約2倍→ 自由の女神(40m)の 約3倍→ 奈良の大仏(15m)の 約8倍と、世界最大級の圧倒的な高さを誇ることが一目でわかるのであった。「仏教四大聖地」 を紹介している展示。① 成道の地(悟りの地)ブッダガヤ(右上)お釈迦さまが菩提樹の下で悟りを開いた地大塔(マハーボディ寺院)が有名仏教徒なら一度は訪れたい最重要聖地② 初転法輪の地 サールナート(左上)最初に説法をした場所(初めて“法”が転じた=初転法輪)ダメークストゥーパ(円筒形の大塔)が象徴仏教布教の始点③ 涅槃の地 クシナガラ(右下)お釈迦さまが入滅(亡くなった)された地横たわる涅槃像が安置されている未だ静かな雰囲気が残る聖地④ 誕生の地 ルンビニー(左下)お釈迦さまが生まれた地(現在のネパール)アショーカ王の石柱や池などが残る四聖地の中で最も穏やかな場所① 初転法輪の地 サールナート(左上)お釈迦さまが悟りを開いた後、初めて説法した場所写っている巨大な建造物は ダメーク・ストゥーパ(Dhamek Stupa“初めて法を転じた(初転法輪)” 聖地として世界中の仏教徒が巡礼に訪れる② 成道の地 ブッダガヤ(右上)菩提樹の下でお釈迦さまが “悟りを開いた” 場所写真は マハーボディ寺院(大菩提寺)仏教世界で最も重要な聖地の一つ③ 誕生の地 ルンビニー(左下)ネパールにあるお釈迦さまの生誕地アショーカ王の石柱 や、生誕の池がある世界遺産にも登録されている④ 涅槃の地 クシナガラ(右下)お釈迦さまが入滅(亡くなった)した場所長い涅槃像が安置される静寂の地パネルには「釈尊入滅の地」と説明があるはず牛久大仏内部では、ただ仏像を見るだけでなく、仏教の歴史・釈迦の歩みを学ぶためのミニ資料館 となっていた。この四枚の写真パネルは、釈尊の人生の重要な四か所(四聖地)をまとめて紹介している展示である。牛久大仏の胎内 4・5階「霊鷲山(りょうじゅせん)の間」 にあった金色の御仏(みほとけ)を安置した納骨堂(霊位奉安室)●霊鷲山の間(れいじゅせんのま)・牛久大仏の胎内で最上階付近(エレベーターで上がれる最上部)・三日月状の黄金の空間・数千体の金色の阿弥陀仏が並び、納骨ができる部屋として機能●金色の仏像一体ずつが「御霊(みたま)」を供養する際の御仏・各一つの棚が「一霊位」・中には遺骨または遺品が納められている場合がある・「永代供養」のための区画として申し込めるつまり、これは一般的にいう「納骨堂」「霊座」「永代供養墓」にあたるもの。ここが胎内の最上部で、静寂と光に包まれた空間であった。牛久大仏・胎内「霊鷲山の間」 にある永代供養の奉安者名(霊位)を記す名簿塔(霊位掲示柱)「南無阿彌仏」 「万燈会」。 これも 牛久大仏の胎内(4〜5階・霊鷲山の間)にある「胎内仏(小仏像)を安置した納骨壇(納骨棚)」牛久大仏の内部・納骨堂(霊堂)の中央祭壇(ご本尊前)。・阿弥陀如来の名号「南無阿弥陀仏」の掛け軸・周囲に多数の小金仏(観音像)が並ぶ・金色の荘厳された空間■ 左右にある仏像阿弥陀如来立像(胎内仏) の見本牛久大仏の胎内に奉安される小仏像(約20~30cm)極楽浄土へ導く阿弥陀如来を現したものその後ろの光背は「放射光」と呼ばれ、阿弥陀の無量の光明を表します■ 胎内仏奉安(永代経)主な内容(案内板から読み取れる部分)・胎内仏に亡き人(先祖・家族など)の法名を記す・牛久大仏胎内の「霊鷲山の間」に半永久的に安置される・毎朝・毎夕、さらに年忌にあわせて永代経(供養)が営まれる・供養料(永代経志納金)が一口 20万円(案内板に明記)・希望により複数口の申し込みも可能・法名(戒名)、俗名、没年月日などを記録し管理仏教で最も重要な象徴のひとつ「蓮華(れんげ)」蓮は泥の中から清らかな花を咲かせるため、「迷いの世界(煩悩)から悟りへと開く清浄さ」 を象徴。牛久大仏の胎内にある「写経(写仏)・休憩スペース」。壁に掛けられているのは、写仏(しゃぶつ)作品・仏さまの線画に、花や季節のモチーフを加えた彩色写仏・背景に筆文字(願い・法語)・作者による手書きの書と絵が組み合わされた奉納作品牛久大仏では参拝者が写仏をして奉納することもでき、その代表的作品が展示されていることがあるとのこと。座布団の並んだ段状の座席は 写経や写仏、または法話・瞑想などを行うための座席 と。ズームして。写経・写仏体験コーナー」で、写真の二人は 写経(または写仏)をしているところ。「宗教の共通点(しゅうきょうのきょうつうてん)信じること感謝すること奉仕すること(ほうしすること)」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.11.19
閲覧総数 274
6

ここ5ヶ月ほど、アイルランド・ロンドン旅行記を長々とアップしてきましたが、今日からは、その後の旅行についてアップさせていただきます。この日は6月13日(金)、成田山新勝寺に自治会役員仲間と向かいました。成田山新勝寺の総門に向かって進む。右手奥に見える大きな屋根の建物が総門で、その先に仁王門や大本堂へと続きく。道の両側には土産屋さんや飲食店が並び、参拝客でにぎわう場所。このあたりは「成田山表参道」と呼ばれ、うなぎ料理や和菓子のお店が多いことで知られているのだ。成田山新勝寺の総門(そうもん)が前方に現れた。総門は新勝寺の表玄関にあたる荘厳な門で、平成19年(2007年)に建立された比較的新しい建築物。門の前には「成田山金剛力院新勝寺」と刻まれた大きな石柱があり、参拝者が記念撮影をしている様子が見えるのであった。この総門をくぐると、次に「仁王門」、そして「大本堂」へと続いていた。ちなみに、総門の屋根は銅板葺きで、木組みの細工や装飾も非常に見事で、伝統的な寺院建築の美しさが感じられたのであった。成田山新勝寺案内図。地図の下の方(南側)から参道を通って入ると、次のような順に主要な伽藍が並んでいた。1.総門(そうもん) — 表玄関2.仁王門(におうもん) — 金剛力士像が守る門3.大本堂(だいほんどう) — 成田山の中心、本尊・不動明王が祀られている4.三重塔(さんじゅうのとう) — 色鮮やかな重要文化財5.釈迦堂(しゃかどう) — 旧本堂6.光明堂(こうみょうどう) — 江戸時代初期の建築7.平和の大塔 — 新しい時代のシンボル塔(仏舎利奉安)また、右上の方には広い池と庭園が描かれており、ここは成田山公園。春は梅や桜、秋は紅葉が美しい散策スポットになっているのだ。ネットから。名称:総門(そうもん)所在地:千葉県成田市 成田山新勝寺建立:平成19年(2007年)再建形式:入母屋造(いりもやづくり)、重層門特徴:伝統的な木造建築で、組物(斗きょう)や彫刻が極めて精巧。屋根の反りや飾金具などに荘厳な意匠が施されています。🔹中央の扁額(へんがく)中央に掲げられている額には成田山(なりたさん)」と。これは成田山新勝寺の山号(さんごう)であり、正式名称:成田山金剛王院新勝寺(なりたさん こんごうおういん しんしょうじ)宗派:真言宗智山派本尊:不動明王(ふどうみょうおう)所在地:千葉県成田市成田1番地創建:天慶3年(940年)開山:寛朝大僧正(かんちょうだいそうじょう) その起源は、平将門(たいらのまさかど)の乱を鎮めるため、朱雀天皇の勅命によって、 寛朝僧正が京都・東寺から不動明王を奉じて成田に来たことに始まります。 戦乱が収まった後も、不動明王は「ここにとどまりたい」と示したため、寛朝が堂宇を建立し、 これが成田山新勝寺の始まりとされています。通称:「成田不動」「成田のお不動さま」・成田山(なりたさん) 「成田」は地名ですが、「成(なる)」=成就・成功、「田」=豊穣を意味することから、 「すべての願いが成就し、豊かに実る地」という吉祥的な意味もあります。・新勝寺(しんしょうじ) 「新たに勝つ寺」すなわち「平和と安寧の勝利を祈願する寺」という意味。 開山の際、平将門の乱を鎮めるために護摩修法を行い、「戦乱を鎮める=勝利する」という 願いから名付けられたのだと。総門を振り返る観光客そして我が旅友。その先に仁王門。仁王門。新勝寺の境内入口正面石段を登ると阿形、吽形の二力士像を安置した仁王門がある。その正面向かって右側に口を開いた阿形の那羅延金剛(ならえんこんごう)、左側に口を閉じた吽形の蜜迹金剛(みしゃくこんごう)、裏仏には右側に広目天、左側に多聞天が安置されており、境内の入口にあって伽藍守護の役目を担う。この仁王門は、3間1戸の八脚門であり、屋根正面は千鳥破風及び軒唐破風、背面は軒唐破風付きの入母屋造の銅板葺である。組み物は三手先で、軒は二軒の扇垂木である。両側面の壁には、ケヤキの一枚板を用いるなど、堅牢で宏壮に建造され、材料、工法とも優れており江戸時代末期の特色が見られる。また、頭貫上の各柱の間には、後藤亀之介、天保2年(1831)の竹林の七賢人、司馬温公瓶割りなどの彫刻が施される。建立は、棟札の記述から文政13年(1830)である。名称:仁王門(におうもん)建立:文久元年(1861年)構造:入母屋造(いりもやづくり)・銅板葺(どうばんぶき)・二重門(にじゅうもん)重要文化財指定:1958年(昭和33年)場所:成田山表参道の終点、大本堂へと続く石段の手前に位置仁王門は、成田山新勝寺の表玄関にあたる壮麗な山門で、参拝者が俗世から聖域へと入る「結界の門」としての役割を持ちます。門の中央には、ひと際目をひく大きな赤い提灯が掲げられていた。「魚がし」と書かれた大提灯は、東京・築地の魚河岸の旦那衆が、1968年に奉納したもの。紙張りのように見えるが骨部分は砲金(青銅の一種)製で、重量が800キログラムにもなる と。正面向かって右側に口を開いた阿形の那羅延金剛(ならえんこんごう)。左手に堂庭御護摩受付所横の「光輪閣」入口門。「光輪閣」脇門へと進む。「光輪閣」。1975年(昭和50年)建立本坊(寺務所)及び客殿を備える地上4階・地下2階の建物四階「光輪の間」は千数百人が、一度に入れる480畳の大広間がある。一階が受け付け・二階から四階は坊入りなどの接待をする客殿。明治天皇成田行在所碑。明治14年と明治15年に明治天皇が宮内庁下総御料牧場へ行幸(ぎょうこう)する時に成田山を行在所(あんざいしょ)と定めた。御座所として御駐泊になられたのが明治天皇行在所です。光輪閣後方にある行在所は2014年に修復した と。三重塔。日光東照宮の五重塔と成田山の三重塔が日本で一番絢爛豪華であろう。二軒の板垂木で有名。他の社寺では見ることが出来ない見事な造りである。厚さ20cm以上ある板に雲水紋が彫られていた。三重塔心柱の墨書きには、下記の様に書かれています。棟梁は「櫻井瀬左衛門」の宮大工としての、素晴らしい技術棟 梁 常州那珂郡羽黒村 桜井瀬左衛門次棟梁 同国同郡 中野左五兵衛 同国茨城郡笠間 藤田孫平次 竜の尾垂木彫刻 下総国武射郡堺村 伊藤金右衛門彫物師 江戸○○住 無関圓鉄 羽目板「十六羅漢図」彫刻 法起寺(ほっきじ)の三重塔(国宝)が現存最古の三重塔である。創建は慶雲3年(708年)近づいて。三重塔は、宝永6年(1709)に起工され、正徳2年(1712)に完成した中規模な塔です。心柱の墨書から、宝暦7年(1757)、享和元年(1801)、安政5年(1858)に修理されたことがわかります。高さ約25メートルのこの塔は、初重(第一層)の柱や長押に地紋彫を施し、各重の尾棰を竜の彫刻とし、二間の板軒に雲文が浮き彫りされており、極彩色を施すなど華麗な塔です。この塔は、近世の塔としては、全体の均衡もよく、良質であり、江戸時代中期以後にみられる過飾な建物の、早い時期の遺例として貴重なものです。周囲の十六羅漢の彫刻は、島村円鐡の作です。塔内には五智如来が安置されています。なお建立の際には、佐倉城主から成田の並木及び三之宮神社の松17本と将門山(佐倉市)松5本が寄進されています。板垂木。ズームして。常香炉。聖徳太子堂。移動して。1992年建立の聖徳太子堂。成田山新勝寺の聖徳太子堂は、1992(平成4)年に建立され、2007(平成19)年に修復された。日本の仏教興隆の祖である聖徳太子の理念にもとづき、世界平和を願って建てられました。堂内には、大山忠作画伯の壁画が6面に渡り描かれており、聖徳太子像が奉安されています。聖徳太子像。大山忠作画伯の壁画が堂内六面にあります。写真では牡丹・白鷺・菊が見えた。常香炉を振り返って。左から、三重塔、一切経堂、鐘楼。一切経堂、鐘楼をズームして。巨大灯籠。移動して。石段上から仁王門を見る。常香炉と本堂。仁王門前から総門を見る。参道の両側には石灯籠が並ぶ。
2025.11.16
閲覧総数 351
7

私は後期高齢者の75歳、生まれも育ちもそして現在もこの町に75年間継続して住み続けているのである。そして今後も??年かはこの町に。しかし、この町の歴史については、ほとんど知識を有していないのである。今更ながらであるが、この町の歴史について知りたいと思い、ここにこの町に住む先輩の皆さまが、過去に纏めていただいた資料、そして私がこの町を過去に散策した時にあっぷしたブログを元に復習を兼ねて纏めて見ましたので、ここにアップさせていただきます。この町・六会に居住される皆様の参考になればとの想いもあるのです。六会(むつあい)のあゆみ。住所:神奈川県藤沢市・・・・・であり、住所地名として「六会」の名はないのである。 私の住む「六会地区」は相模台地のほぼ南端に立地している。旧石器時代から奈良、平安時代の集落は発見れた遺跡・遺物の所在から、境川と引地川の周辺に散在していたと。その後この地域のことが古い書物にみられるのは、平安時代末の伊勢神宮所蔵の古文集「天養記」にでてくる大庭御厨の東の境である俣野川(境川)の名前と、鎌倉時代の武家日記「吾妻鏡」にでてくる俣野という地名であると。六会駅(現六会日大前)南西側上空からの写真。(ネットから)まずは我が町「六会」の近代の歴史概要を。 ・明治11年(1878)、大小区制の廃止と郡区町村編成法の制定によって亀井野、西俣野、石川、 円行、今田、下土棚の6ヶ村組合が設立され、・明治22年(1889)、村町制の施行により六会村が誕生しました。・昭和4年(1929)年2月には小田急江の島線が開通し六会駅が設置され、交通の便が飛躍的に よくなりました。・六会村は昭和17年(1942)年3月、藤沢市と合併するまで約55年間村政を維持、運営して きました。・翌年の昭和18年(1943)には、日本大学の農学部が開設されました。・藤沢市に合併した当時は人口4,996人の農業中心の地域でしたが、昭和30年(1955~)代の 工場誘致などを契機に北部開発、六会・石川東部上地区画整理事業の進捗と・昭和41年(1966年)11月7日に小田急線湘南台駅の開設に伴い急激に都市化が 進んできました。 これらの発展の結果、・昭和47年(1972)に下土棚が長後地区へ、平成元年(1989)には今田、円行の大部分が 湘南台地区へそれぞれ移行されました。・その結果、石川、亀井野、西俣野と今田、円行の一部が藤沢市の六会地区となり、その後も 発展を続け、現在人口は約34500人の自然に恵まれた宅地と農地が共存する地域となりました。六会市民センター👈️・昭和45年(1970)現六会市民センター開館。・住所:〒252-0813 神奈川県藤沢市亀井野4丁目8−1・緯度:北緯35.38526119度・経度:東経139.47476885度・標高:36m・海岸からの距離:約8km(直線距離・~片瀬西浜海岸)・過去の六会村役場: 明治22年(1889年)に誕生した六会村の村役場 現六会小学校の隣・「藤沢市 六会子供の家・どんぐりころりん」の場所にあった。 ★我が住む藤沢市の現在の人口と世帯数。★藤沢市における六会地区(2025年3月1日現在)。★六会地区 自治会・町内会名★六会地区の学校環境(上図参照ください)1、小学校◯ ・六会小学校 ・亀井野小学校 ・俣野小学校 ・天神小学校 ・石川小学校 ・日本大学藤沢小学校2.中学校◯ ・六会中学校 ・日本大学藤沢中学校3.高等学校◯ ・日本大学藤沢高等学校4.大学◯ ・日本大学生物資源科学部5.特別支援学校◯ ・神奈川県立藤沢支援学校★六会地区(日大周辺)👈️リンク 電車環境小田急江ノ島線、藤沢から新宿方面に3つ目の駅「六会日大前」駅。1日平均乗降人員: 27,821人(小田急電鉄 2024年度データ)藤沢市内の鉄道駅一覧(合計22駅)因みに平塚市:1駅(JR平塚駅)、茅ヶ崎市:2駅(JR茅ヶ崎駅、JR北茅ヶ崎駅)藤沢市と同等な人口規模の国内の都市としは、駅数が極めて多いと感じているのである。 ★現存する歴史上の文献に初めて出て来る六会地域以下3枚の写真はネットから。平安時代末の伊勢神宮所蔵の古文集「天養記」にでてくる大庭御厨(おおばみくりや)👈️大庭御厨は、相模国高座郡の南部(現在の茅ヶ崎市、藤沢市)にあった、寄進型荘園の一つ。鎌倉時代末期には13の郷が存在した相模国最大の御厨(伊勢神宮領)である。寄進型荘園とは、『地元の有力者(開発領主)が、自分の開発した土地を、税金(租税)や徴収権を持つ有力な貴族や寺社に「寄付」することで、税金から逃れつつ、その土地の管理を続ける「荘園」』のこと。中央の有力者は保護を与え、地元領主は税負担が減るという「お互いに得をする関係」から生まれた。御厨として寄進すると税金がかからなくなります.次に土地をうばったり、むりやりタダ働きをしろという国府の役人の命令を聞く必要もなくなります.また、領地争いもぐっと減ります。ですから、この時代の豪族(ごうぞく=広い土地を支配する大農民=武士)はこぞって、自分の土地を力のある貴族や寺や神社に寄進しました.厨(くりや)とは調理場のことです。御厨は神様の食べるものを作る場所という意味が込められています。ですから収穫されたお米の何パーセントかは,特産品とともに名目上の持ち主に届けられました。大庭の御厨の場合は伊勢神宮(いせじんぐう=三重県)に送っていました。つまり大庭氏は伊勢神宮に収穫されたものを送るみかえりに、領地をまもってもらっていたというわけです。「(推定)大庭御厨範囲」図。大庭御厨は長治元年(1104年)頃、鎌倉景正が大庭郷を中心に山野未開地を開発したものである。伊勢恒吉の斡旋で永久5年(1117年)伊勢神宮に寄進した。鎌倉景正は後三年の役(1083年 - 1087年)の勇者として有名である。大庭御厨の境界は、東は俣野川(藤沢市の境川)、西は神郷(寒川)、南は海、北は大牧崎だった。伊勢神宮の記録「天養記」によると、大庭御厨の範囲は、東は俣野川(境川)・西は神郷(寒川神社の社領)・南は海・北は大牧崎とあります。大牧崎はこれまでの研究で亀井神社南側一帯を指すと考えられています。大庭御厨は中世の藤沢の重要な土地の一つであった と。すなわち、藤沢市南半部から茅ヶ崎市全域に及んでいた。小糸👈️・台谷などの神明社は伊勢神宮の所領経営の拠点だったと考えられているとのこと。田地の面積は、久安元年(1145年)で95町、鎌倉時代末期には150町に達した。1町≒3,000坪≒10,000m2。よって100町≒1000m四方。大庭郷の成立は、9世紀以前と思われる。「大庭」「庭」も祭司の場を意味すると言う。現在も藤沢市に大庭の地名が残る。御厨は天皇家や伊勢神宮、下鴨神社の領地を意味する。鎌倉景政像の写真をネットから。鎌倉 景政(かまくら かげまさ/平 景政(たいら の かげまさ))は、平安時代後期の武将。名は景正とも書く。通称は権五郎。略歴父は桓武平氏の流れをくむ平景成とするが、平景通の子とする説もある。父の代から相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも、鎌倉市由比ガ浜ともいわれる。16歳の頃、後三年の役に従軍した景政が、右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている。戦後、右目の療養をした土地には「目吹」の地名が残されている(現在の千葉県野田市)。長治年間(1104年 - 1106年)、相模国高座郡に大庭御厨(現在の神奈川県藤沢市周辺)を開発した。永久4年(1116年)頃伊勢神宮に寄進している。子の景継は、長承4年(1134年)当時の大庭御厨下司として記録に見えている。また『吾妻鏡』養和2年(1182年)2月8日条には、その孫として長江義景の名が記されている。江戸時代になると、天領地(幕府直轄地)または大名、旗本の知行地となり各村ごとに領主が置かれました。一村は必ずしも一人の領主とは限らず、数人の領主によって分割支配されていたこともありました。「相模国風上記稿」によると、村は村高に応じて助郷役が課され、亀井野村、円行村、石川村、西俣野村は藤沢宿の助郷役を務め、下土棚村は長後村とともに戸塚宿の助郷役を務めていました。明治時代になり明治11年(1878年)に大小区制が廃止され郡区町村編成法により下土棚村、円行村、石川村、今田村、亀井野村、西俣野村が新しい行政区画となり六ヶ村組合が設立されました。明治22年(1889年)市制、町村制施行により1.下土棚村、2.円行村、3.石川村、4.今田村、5.亀井野村、6.西俣野村が合併して「高座郡六会村」が誕生しました。高座郡の位置図。かつて高座郡に属していた地域は現在以下の市となっている。・綾瀬市・海老名市・相模原市(中央区・南区の全域、緑区他)・座間市・茅ヶ崎市・藤沢市(西富一・二丁目、大鋸一 - 三丁目、藤が岡一 - 三丁目、弥勒寺一 - 四丁目、 渡内一 - 四丁目、村岡東一 - 四丁目、川名一・二丁目、片瀬一 - 五丁目、 片瀬山一 - 五丁目、片瀬目白山、片瀬海岸一 - 三丁目、江の島一・二丁目および 大字西富、大鋸、弥勒寺、小塚、宮前、高谷、渡内、柄沢、川名、片瀬を除く全域)・大和市★6つの村が合併して誕生したので「六会」。「六会(むつあい)」という地名そのものに、「むつみ合う(睦み合う)」という美しい響きが重なっているのである。地域連携・地域親交の観点から見ると、『睦み合い』はまさに六会地区の理想を象徴する言葉と言えるのです。「睦」 の意味や由来は?「睦」「睦」は「目」と「坴」を組み合わせた漢字。「目」は人の目を表す象形であり、「坴」は、土が盛り上がる、寄せ集まるという意味を持つ。そのため、人々が目を寄せ集めるという意味から、たくさんの人が寄り集まること、転じて「人々が仲良くする、親しくする」という意味になるのです。🏡『睦み合い』の語義・「睦み合い」とは、互いに親しみ、仲よく助け合うこと・人と人との間に温かい心のつながりがある状態を意味します。語源の「睦(むつ)」は「親しみ」「和らぎ」「調和」を表し、「睦月(むつき)」=人々が年始に親しみ合う月、という言葉にも通じます。🤝 地域連携の観点から「睦み合い」は、地域連携の根幹となる “相互理解と協働の姿勢” を示します。六会地区には33の自治会があり、それぞれが地域課題に取り組みながらも、連合会として一つの「むつあいの心」でつながることが大切なのです。具体的には:・災害時の助け合いの仕組みづくり・高齢者や子どもを地域で見守る体制・祭り、生活環境、社会福祉、防災、交通安全、防犯活動、地域学校連携などを通した 顔の見える関係これらはすべて「睦み合い」の実践であり、『共に支え合う地域力』の象徴です。🌸 地域親交の観点から「睦み合い」は、単なる行政的な連携ではなく、心の通う親しさを育てることを意味します。六会ふるさと祭りや年末のイルミネーション、コンサート発表など、地域行事で人々が語り合い、笑い合うことそのものが「睦み合い」の形です。そこには、世代を超えたつながり新旧住民の融合、「お互い様」という温かい文化が息づいているのです。🌈 総括:六会の名にこめられた理念「六会(むつあい)」という地名に、「睦み合い」の精神を重ねるとき、それは単なる偶然の語感ではなく、地域の未来像そのものを表します。“人がむつみ合い、まちが調和し、心が通い合う六会”この理念こそが、地域連携と親交の両輪を支える「むつあいの心」と言えるでしょう。そして『六会』の『六(ロク・リク)』は、覆(おお)いをした穴や高い土盛りをした場所を表す象形文字。神様を呼ぶための幕舎を表すともいわれています。やがて『高い』に関係なく数字の六を示すようになりました。このような漢字の用法を仮借(カシャ)といいます。六~九の漢字はもともと意味の違う漢字を借りて、数字を表すようになったものです。漢字の部首は『八』、意味は『六(ロク)』、『高い』です。『高い』の意味は『陸(リク)』に引き継がれているといわれています。繰り返しになりますが『坴(ロク)』は、高い土盛りをした場所を表す漢字。漢字の足し算では土+八(広がる)+土=坴(高い土盛りをした場所)です。漢字の部首は『土』、意味は『高い場所』、『丘』です。我が国では『坴』の漢字が単独で用いられることはありませんが、陸、睦の旁(つくり)として活躍しているのです。つまり、「六会」の「六」は数字の六と共に高い場所、丘の意味もあるのです。 その後、55年間、村政を維持・運営して来ましたが昭和17年(1942年)に六会村が藤沢市に合併され、六会地区の下上棚、円行、石川、今田、亀井野、西俣野となりました。昭和47年(1972年)に下土棚が長後地区に編入されました。昭和59年(1984年)には、石川東部区画整理事業が完了して天神町が誕生しました。そして平成元年(1989年)に今田、円行の大部分が湘南台に編入され、六会地区は、石川、天神町、亀井野、西俣野と今田、円行の一部となり現在に至っています。六会地区郷土ずくり推進会議が2023年に作った『六会のおはなし(六会のあゆみ・伝説・昔ばなし・文化)』その中で、『亀井野・西俣野・石川・円行・今田・下土棚のあゆみ』について『六会のおはなし(六会のあゆみ・伝説・昔ばなし・文化)』から転記いたします。下記の写真は、私の写真に変更させていただいたものもあります。①亀井野亀井野という地名は、この地に住んでいた源義経の四天王の1人、亀井六郎重清が不動王を祀って崇拝していたことから名付けられたという説と、地形が亀の甲形をしている丘と湿地帯の野原からなっているからという説と東側境界線が亀の甲形をしているからという説が言い伝えられています。江戸時代には深い井戸を掘る技術が確立し、亀井野の集落が発展し、その中心は雲昌寺前の八王子街道(滝山街道)沿いでした。横浜の金沢や六浦から運ばれてくる塩を売る「塩の市」が開かれ、継立場もおかれ、八王子街道の要地となりました。亀井野の南西に位置する地域は入会地の秣場(まぐさば・牛馬のエサとなる草刈場)として利用されていましたが、明治になって開拓が進み広大な農地ができ、通称亀井野新田と呼ばれています。明治以降、亀井野は六会の中心的な地域となり、六会小学校、六会中学校、六会郵便局、市役所の支所等が開設されました。特に昭和4年( 1929年)に小田急江ノ島線が開通した後は、多くの商店が六会駅(現六会日大前駅)の周りに集まってきました。昭和47年( 1972年)に始まった六会東部土地区画整理事業で、駅前広場の新設と住宅環境が整い住み良い地域となりました。雲昌寺曹洞宗光輝山雲昌寺建保年間(1213年~1219年)に鎌倉幕府二代執権 北条義時が唐より帰朝後、藤沢今田村の地に建立した瑞龍寺を起源とします。慶長元年(1596年)7月水害で罹災した後、鎌倉市植木の龍宝寺四世玖山宗順和尚を開山に迎え、現在地亀井野に移り寺号を曹洞宗光輝山雲昌寺と改めました。関東大震災で倒壊した後に、再建した本堂を昭和61年に増改築し、現在に至っています。藤沢市亀井野1457。②西俣野俣野は大庭御厨俣野郷と呼ばれ、俣野五郎景久の領地でした。大庭御厨というのは俣野五郎景久の曾祖父の鎌倉権五郎景政が伊勢神宮に土地を泰納して「御厨」の名を受けて、他の豪族の侵入を防いだと言われています。その後、現在藤沢市の西俣野と境川を挟んで現在横浜市の東俣野、上俣野にわかれました。俣野の名称は、川を挟んで両方に分かれた野原、股になった野原という地形から名付けられたという説と領主であった俣野五郎景久の名前から引用されたという説があります。西俣野には史跡が多く、小栗判官と照手姫の伝説が伝わっています。毎年1月16日と8月16日に花應院の住職による「小栗伝説・地獄変相十王図絵解き」が開催されています。昔の境川は曲がりくねっており、たびたび堤防が決壊して水田が水浸しとなり、深い淵ができました。そういう中で、1人の瞽女が淵に落ちて死んだり、1人の浪人が堤防を守るために人柱となりました。このような歴史を背景に、明治42年( 1909年)に「藤沢町・六会村・俣野村連合耕地整理事業」が始まりました。「蛇行河川改修工事」や「暗渠によるニ毛作可能な乾田工事」等が行われ、その活動は第ニ次世界大戦まで続きました。その結果、川と森に挟まれた肥沃な田園地帯となり、ハウス栽培が盛んとなりました。花應院。曹洞宗西嶺山 花應院。慶長9年(1604年)に開山は国境と開基は祖桂として創建された。 近くにあった閻魔堂(法王院 十王堂、浄土宗、常光寺末寺、武蔵国六浦金沢からの金沢道沿い。小栗判官の墓がある。天保11年間(1840年)に火災にあい閻魔大王像が運び込まれた。藤沢市西俣野866番地。③石川石川とは小石が多い底の浅い川という意味があり、この辺は古相模川が作った相模野礫(小石を多く含んだ土壌)の砂利が露出しています。昔は「伊志加波牟良」(いしかわむら)と名付けられていました。寛政10年(1798年)に「石河村」となり、安政6年(1851年)に現在の「石川」となりました。江戸時代は、旗本中根氏が明治になるまで約300年間支配していたと言われ、自性院がその菩提寺で、境内には墓所があります。自性院は、石川自性院龍見寺という浄土宗の寺です。浄土宗を開いた法然上人に帰依した石川禅門(ぜんもん)・渋谷七郎入道同遍がこの地に住んでいたことから「石川」と呼ばれるようになったという説もあります。小田原北条氏の時代に石川の半分を領した武士団が帰農して農地を開墾して収穫高を大幅に増加させました。その武士団はその後「石川六人衆」と呼ばれていました。「石川六人衆」とは、主に神奈川県藤沢市にかつて存在した戦国末期の有力な一族の集団を指します。この六人衆は、源義朝を祭神とする佐波神社を勧請したと伝えられており、入内嶋、西山、田代、伊沢、佐川、市川氏の名前が挙げられています。昭和35年(1960年)に策定された藤沢市北部工業開発計画に基づき、石川を中心に土地区画整理事業が進められました。桐原工業団地の開発、道路網の整備や宅地整備等が進められました。更に、石川東部土地区画整理事業では、日本大学のキャンパスと引地川の間の宅地化造成工事が施工され、天神町が誕生しました。区画整理事業に先立ち、遺跡の発掘が行われ「下の根遺跡」や「南鍛冶山遺跡」が発掘されました。「下の根遺跡」では、約1万年以上前の先土器時代の足跡が発見され、「南鍛冶山遺跡」では奈良時代~平安時代の「ムラ」が見つかり、竪穴式住居跡や鉄製品がたくさん出土しました。奈良・平安時代の十師器・須恵器「南鍛治山遺跡」④円行円行という地名は、南北朝時代(1336 ~ 1392年)に引地川沿いの平坦地で梅田と呼ばれる所に円行寺という寺があり、村民の信仰を集めていたことから寺の名前をとって「円行」と呼ばれるようになったと伝えられています。引地川の円行堰あたりは、しばしば決壊したため道が悪く「座頭転」という地名がありました。川沿いには各所に個人所有の水車を設置して、水田用の水を汲み上げていました。また、六会小学校前を流れる不動川は、昔は水量が多く、洗濯をしたり、野菜を洗ったりして、村人の生活と大きな係わりをもっていました。円行は農業を主に営む純農村地帯で、引地川を挟んで田畑が広がる緑の多い地域でした。しかし、水田は湿田が多くて泥沼のようでした。昭和30年(1955年)頃、余分な山からの湧き水を田の中に埋められた配水管を通して川流す暗渠排水工事が行われたことで、水はけの良い田に変りました。その後の土地区画整理事業により、急速に市街化が進み、平成元年(1989年)に大部分が湘南台に編入されました。円行公園。湘南台駅から引地川に向かって坂道を下りていくと、緑豊かな円行公園がみえてきます。遊び場としての要素だけでなく、斜面地形を利用した竹林、梅を楽しめる庭園的要素を取り入れたこの公園は、引地川沿いの桜並木と共に、季節に彩りを添えています。藤沢市湘南台3丁目6番。⑤今田豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めた時に出した味方の軍勢の乱暴を禁止した制札があります。その中に「今田、亀井野」と書かれていたことから、この頃には今田村が存在していたようです。天保13年(1842年)に発刊された「新編相模国風土記稿」には、元々今田と亀井野は一村であった。分村して今田村になったと書かれていますが、その時期は不明です。現在、亀井野にある雲昌寺は建保年間( 1213年~ 1218年)に今田に創建され「瑞龍寺」と言われていました。慶長元年( 1596年)の水害でお堂が流されたために亀井野に移され「雲昌寺」と言われるようになりました。今田に創建されていた「瑞龍寺」は、現在の県立藤沢工科高等学校のテニスコートの裏の北側の境川沿いにあったとのことです。今田を流れる境川は河川改修が行われるまでしばしば決壊して人々を悩ませていましたが肥沃な土砂も運ばれて来ていたので、おいしい米が収穫できたという利点もあり、農業の盛んな地域でした。昭和35年( 1960年)に策定された藤沢市北部工業開発計画に基づき行われた土地区画整理により、水田は梨、ぶどう、栗の観光果樹園に変わる一方、急速に市街化が進み、平成元年(1189)に大部分が湘南台に編入されました。果樹園。県立境川遊水池公園近くの今飯橋から自転車道路に沿った場所にあります。藤沢市北部には昔から多くの梨園がありますが、最近ではブドウも特産。梨は幸水と豊水。ぶどうは地元で作出されたブドウ品種の藤稔を中心に栽培。⑥下土棚鎌倉時代、現在の下土棚、長後、高倉、上土棚、円行地域は渋谷庄司重国の支配下にありました。天正19年(1591年)、三河の国より徳川家康に従って来た竹尾伝九郎元成が地頭を命ぜられ、下土棚を支配するようになり、7代目の竹尾喜左衛門元貞まで続きました。善然寺にあるその墓碑の中に「相模国土棚郷」と書かれており、「土棚」という地名の最古のものです。下上棚の「土棚」という地名は、引地川の長年にわたる浸食作用で関東ローム層の赤土の断崖が数メートルになり、土の棚になったとする説と源氏と平氏の合戦の時、大庭景親と渋谷庄司重国が戦って、引地川の水を堰き止めたため、一帯が湖のようになり、水が引いた後、土砂が棚状に残った史実からとする説が伝えられています。善然寺では歴代の住職が子弟の学問の指導にあたっていました。文化5年(1808年)に善然寺31世弁誉上人の教えを受けた18人の筆子により「筆小塚」が建てられました。昭和19年( 1944年)に下土棚の西部に海軍横須賀通信学校藤沢分校が建てられ、多くの海軍兵士が駐留していました。戦後、跡地は旧地主に返還され、昭和36年( 1961年)には、その跡地に「いすゞ自動車(株)の藤沢工場」が建設されました。その後、昭和47年(1972年)に下土棚すべてが長後地区に編入されました。善然寺(ぜんねんじ)浄土宗。龍玉山西光院善然寺創建:寛元4年(1246年)と伝承されています。龍玉山西光院。開山は西光上人といわれています。本尊は阿弥陀如来。境内にある筆子塚5基は寛延4年(1751)から元治2年(1865)までの5代に渡る住職のための塚です。善然寺にできた寺子屋の生徒が、先生である住職に報いるために墓碑を建て供養したものです。(市指定重要史跡)このほかに下土棚を治めていた旗本竹尾氏の墓などがあります。藤沢市下土棚999そして、先輩の方々の大作「六会地区歴史年表」を転記して紹介いたします。今後も、六会に関する大切な歴史資料として、横書きでのデジタル化も必要と考え横書きにて転記させていただきました。この歴史年表は平成20年代~令和初期の・『六会地区郷土づくり推進会議 人・自然あふれるまちづくり部会』・『六会市民センター地域担当』の方々のご努力により作成されたものです。先輩の方々のご努力に深い敬意を表します。以下の参考資料・現地調査等によって作成されたとのことです。・境川の歴史探訪Ⅸ「ごぜ淵の碑文から」は我が高校時代の歴史の先生であった恩師。 以下、この六会地区歴史年表を転記させていただきました。そして、その歴史を解りやすく理解するために、参考資料部に👈️(リンク) を貼り付けさせていただきました。👈️の青字の部分をクリックすると、リンクのURLが開くようになっています。(本来表形式にすべきですが、スペース調整が上手く出来ません。後日修正したします)★六会地区 歴史年表-1 年号 西暦 六会地区歴史年表 参考資料平安時代寛治 元年 1087 鎌倉権五郎景政は源義家に従い奥州の 後三年の役で活躍する 永久 5年 1117 鎌倉権五郎景政、高座郡の私領を 「御厨」👈️とは、供祭の 開発し 伊勢神宮へ寄進(大庭御厨の成立) 魚介類、果物等を調達 その後、俣野郷大日堂建立(現在の御嶽神社) するところ 平治 元年 1159 平治の乱に敗れた源義朝の従者、渋谷金王丸 は東国に逃れ渋谷の荘(下土棚)に入ると 伝わる(平治物語) 治承 4年 1180 俣野五郎景久(鎌倉権五郎景政の曾孫) 「石橋山」👈️とは 大庭景親(俣野五郎景久の兄)石橋山で 小田原市の南部にある 源頼朝と戦う 養和 2年 1182 俣野五郎景久、木曽義仲と越中砥並山で 戦い敗走、続く篠原合戦で闘死(平家物語)★六会地区 歴史年表-2年号 西暦 六会地区歴史年表 参考資料鎌倉時代建久 3年 1192 源頼朝、鎌倉幕府👈️ を開く 1185年説 あり 6年 1195 大庭御厨、俣野郷大日堂に田畑寄進、 仏聖燈油に充てられる 俣野五郎景久、後尼の彼岸を聞かれ 三浦義澄興隆興行の儀執行 (御嶽山神札社) 承元 3年 1205 源実朝、俣野郷大日堂の修復を 北条義時に命ず建保 元年 1213 和田氏の乱が起こり、渋谷金王丸(下土棚)、 北条義時の軍に打たれる 6年 1218 光輝山(こうたくさん)瑞龍寺(雲昌寺の前進) 今田に創建される、開基は北条義時という 弘安 5年 1282 北条時宗「円覚寺」創建 👈️ 正中 2年 1325 遊行寺建立、開基は俣野郷地頭、 「開基」:寺を建立するため 俣野五郎影平( 鎌倉の征夷大将軍 に資金や土地を提供した人 守邦親王の執事) 「開山」:寺で最初に住職と 開山は呑海上人(遊行四世) なり、宗教的指導を行った人 嘉暦 2年 1327 呑海上人没す(63歳) 元弘 3年 1333 西光法師、下土棚の夏苅に善然寺を 創建する建武 3年 1336 湊川の戦い、楠木正成戦死 👈️ ・・・つづく・・・
2025.11.10
閲覧総数 593
8

牛久大仏(牛久阿弥陀大仏)をデザインした絵馬。大仏型の絵馬も、外国人の方が書かれたものがチラホラと。木製の絵馬に青色で牛久大仏の全身シルエットが印刷されていた・右手は「施無畏印(せむいいん)=恐れを取り除く印」・左手は「与願印(よがんいん)=願いを叶える印」・蓮の台座に立つ姿も忠実に描かれていた・紐(赤色)を通して奉納できるようになっていた發遣門(ほっけんもん)牛久大仏の参道に設置された門で、参拝者を阿弥陀如来の世界へ“送り出す”という意味を持つ門。二階建てのガラス張り建築。上階に額(扁額)があり「發遣門」と書かれていた。門の向こうに大仏が一直線に見える参道の構図。左側に石仏が配置されていた。「發遣門(ほっけんもん)」の内部にあった親鸞聖人像と梵鐘(ぼんしょう)。① 親鸞聖人(しんらんしょうにん)像浄土真宗の宗祖牛久大仏は「阿弥陀如来」+「親鸞聖人の教え」を基盤として建立された発遣門の内側に祀られている理由は参拝者が“阿弥陀の教えへ送り出される”象徴 のため像が手に持つのは「念珠(ねんじゅ)」と「杖」 ② 梵鐘(ぼんしょう)寺院で鳴らす伝統的な大きな釣り鐘発遣門内に置かれているのは珍しい配置彫刻には八葉蓮華(はちようれんげ)や唐草模様が確認できるチェーンにつながっている木の撞木(しゅもく)で打てるようになっていた 親鸞聖人像を正面から。参道と牛久大仏。ズームして。牛久大仏が「發遣門(ほっけんもん)」の2階のガラス窓に映り込んでいた。手前には黄金の釋迦三尊像のお姿が。ネットから。釋迦三尊像 釋迦牟尼佛 弥勒菩薩 阿難尊者参道の左手には池が。「群生海「群生」とは、すべての生きとし生けるもののこと。この池は現世そのものをあらわし、水辺を埋め尽くす四季折々の花々はうつろいゆくこの世の無常をあらわしています。」 再びズームして。「お花畑のご案内」。 参道前方に大きな香炉の姿が。牛久大仏の「桜&芝桜エリア」への案内看板。春になると、・ソメイヨシノ・八重桜・芝桜(ピンク色の絨毯)が同時に満開になるため、牛久大仏の春の名物になっている のだと。八重桜と芝桜(ピンク色の絨毯)のコラボ。参道右手にあったのが牛久大仏の「鐘つき堂(自由に撞ける梵鐘)」日本一の大香炉と牛久大仏。近づいて。日本一の大香炉を振り返って。「あじさい 六月中旬~七月中旬」案内板。 「花菖蒲(ハナショウブ)」。そして「紫陽花(アジサイ)」。 牛久大仏を見上げて。ズームして。■高さ120mの巨大な阿弥陀如来立像 世界最大級(青銅製立像としては世界最大)■高さ120mの巨大な阿弥陀如来立像 世界最大級(青銅製立像としては世界最大)■手の印 ・右手:施無畏印(せむいいん) 「恐れを取り除く・安心を与える」 ・左手:与願印(よがんいん) 「願いを叶える・救いを与える」 牛久大仏の最も象徴的な姿勢。 ■蓮台の上に立つ姿 写真の下部に巨大な蓮弁(れんべん)が見える → 阿弥陀如来が極楽浄土に立つことを象徴 ■外側の造形 ・青銅の板を貼り合わせた外殻 ・なめらかな衣紋のライン ・胎内に入れる構造(右胸あたりに展望窓)背中側から見上げて。背中側にも深い衣紋(えもん:布のしわの造形)が刻まれており、下から見ると立体的に浮き出て見えたのであった。牛久大仏の台座の周囲にはサツキの刈り込み生け垣が波のごとくに。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.11.18
閲覧総数 334
9

牛久大仏の内部見学を終えて、地上へ。「本願荘厳の庭(ほんがんしょうごんのにわ)」・本願(ほんがん) 阿弥陀仏の「本願」(衆生を救う誓願)を意味します。・荘厳(しょうごん) 仏教語で「飾り整えること」「厳かに美しく整えること」。 仏や浄土を荘厳=美しく表現する、という意味があります。・庭(にわ) そのまま「庭園」。つまり 「本願に基づいて荘厳(美しく整え)られた庭園」 という意味で、牛久大仏周辺にある浄土庭園の一部(日本庭園)を指す案内板牛久大仏の敷地内にある 「本願荘厳の庭」 の一部、つまり日本庭園の中心となる 池泉回遊式庭園 の景観。① 池泉(ちせん)庭の中心に広がる大きな池で、水面に周囲の木々が映っていた。池泉回遊式庭園は、日本庭園の中でも歩きながら景観を楽しむタイプで、牛久大仏の庭園でも代表的な構成。② 配石(石組)右側に大きな岩が配置されていた。これは山や島を象徴し、庭園の構図に重心と静けさを与える伝統的な手法。③ 滝口と流れ左奥には小さな滝(流れ)が見えた。水が動くことで庭に生命感を与え、「浄土」の象徴としても用いられていた。④ 植栽(松・低木・刈込)池の周囲には松やサツキ、日本庭園らしい丸く刈り込まれた低木を配置。これらの植栽は四季を感じるために計算されて配置され、春の花・夏の緑・秋の紅葉・冬の雪景色を楽しめるのであった。■ この場所の意味牛久大仏の庭園は「浄土の世界」をイメージして造られており、・水面の静寂・石の安定感・緑の優しさなどが調和した、非常に落ち着いた雰囲気の庭となっていた。滝口と流れ。「大心海(だいしんかい)阿弥陀如来(あみだにょらい)は大海のように広く深い慈悲と智慧のお心ゆえに「大心海」とも言われます。この池は阿弥陀如来そのものを顕わしています。」 ● 「大心海(だいしんかい)」とは?仏教で阿弥陀如来の心を形容する言葉で、「大海のように広く、深く、限りない慈悲と智慧を持つ」という意味がある。「心」が海のように無限に広がり、すべての存在を受け入れ救うという阿弥陀如来の性質を表した表現。● この庭園の池=阿弥陀如来を象徴看板にあるとおり、この池は単なる景観要素ではなく、阿弥陀如来の大いなる心を象徴するために造られた池 です。浄土庭園では、水面に「浄土」を表す意味があり、牛久大仏の庭園でもその伝統が受け継がれている。アジサイの花が開花中。近づいて。牛久大仏の胸部にある三つの長方形のスリット窓(展望窓)を下から見上げて。・大仏の胸(胸部外壁) を下からアップで撮影。・中央に 縦長の窓が3つ・下には袈裟(けさ)のひだを表した曲線の外装パネルが見えた■ この三つのスリット窓の役割① 展望窓(胸部展望室)牛久大仏の内部にはエレベーターで上がれる展望フロアがあり、高さ約85m付近(胸の位置)に展望室があった。そこから外を見るために設けられているのが、この3つの窓。② 外から見るとスリット状に見える理由・仏像の外観デザインを損なわないように細い形になっていた・内部の明かりが外に漏れさせない工夫でもある と。構造上、強風の影響を受けにくい窓形状■ この位置から見える景色胸の展望室からは牛久市一帯、天気がよければ筑波山遠方にはスカイツリー、反対側は霞ヶ浦方向まで見渡せる非常に見事な眺望とのことだが、この日は曇天で視界はあまり良くなかった。再び牛久大仏を正面から。ズームして。戻りながら、牛久大仏の境内にある「売店エリア(仲見世通りのような商店街)」 の様子を。青唐辛子 ちびっこみそ、れんこん関係の商品、にんにく味噌漬けごぼう、野沢菜、きゅうりなどの漬物などが並んでいた。牛久大仏の入口付近に並ぶ土産店のひとつ・「時代屋」。特に 漬物・佃煮・味噌・干し芋・れんこん加工品 など、茨城らしい特産品を多く扱っている店。牛久大仏の「阿弥陀如来像(立像)」を描いた絵馬。牛久大仏のスタンプ(御朱印ならぬ“記念スタンプ”)。丸い頭、柔らかい表情、赤ちゃん風の体型で描かれているのは阿弥陀如来をデフォルメした「子ども阿弥陀さま」 です。・頭の粒々 → 螺髪(らほつ)のデフォルメ・手を合わせている → 合掌(礼拝)・衣は阿弥陀如来の定型の袈裟(衣紋)・足は結跏趺坐ではなく、キャラ風に簡略化牛久大仏の巨大さとは対照的に、親しみを持ってもらうための“癒やしキャラ” に仕上げられていた。御朱印を頂きました。光雲無礙(こううんむげ)意味:阿弥陀如来の光明(慈悲の光)は、雲のようにすべてを覆い、何ものにも遮られることなく(無礙)、すべての衆生に届く。浄土三部経(特に『無量寿経』)に基づく思想で、“阿弥陀仏の光はあらゆる人を隔てなく照らす”という浄土真宗の中心思想。中央の角印は「東本願寺印」(ひがしほんがんじ)を 篆書体(てんしょたい)で分割して図案化したものであろうか。そして帰路へ。大黒PAにてトイレ休憩後、横浜ベイブリッジを渡る。海運業・T.S. Linesの大型トラック。横浜ランドマークタワーがある「横浜みなとみらい21」地区を望む。日本船籍の大型クルーズ客船「飛鳥Ⅲ(Asuka Ⅲ)」。船籍港 日本/横浜全長・全幅 230m×29.8m総トン数 52,265GT喫水 6.7m航海速力 最高20ノット横揺れ減揺装置 フィン・スタビライザー乗客数 740名乗組員数 約470名客室数 381室 (全室海側バルコニー付き)そして、定刻に無事到着し、この日の日帰り旅行を終えたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.11.20
閲覧総数 249
10

この日は8時過ぎに起床。Hilton London Heathrow Airport Terminal 5(ヒルトン ロンドン ヒースロー エアポート ターミナル 5)の我が部屋の洗面所。・鏡の背面にLEDイルミネーションが組み込まれており、ピンク〜紫のグラデーション光が空間を 幻想的に演出。・照明はおそらく調光式(色温度変更可能タイプ)で、ムードや時間帯に応じて変更できる仕様。・ミラー右側に円形の拡大ミラー(メイク用ライト付き)も設置されており、海外高級ホテルでは 定番の設備壁掛け式トイレ(Floating Toilet)・床から浮かせた「ウォールハンギングタイプ」で、ヨーロッパの高級ホテルによく見られる形式。・床掃除がしやすく、見た目にも軽やかで空間を広く見せる効果があります。・背後の壁に埋め込み型の水洗ボタン(フラッシュプレート)が設置され、機能的でミニマルな デザイン。・洗面カウンター背面にも、同じくピンク色のイルミネーションパネルが走っていた。浴槽(バスタブ)兼シャワーブース。・長方形の洋式バスタブで、シャワー兼用タイプ。・浴槽縁の高さが低めで、入りやすい設計です。・英国のホテルではシャワーブースのみの場合も多い中、ヒルトンT5は全室バスタブ付き (上級仕様)なのが特徴。Hilton London Heathrow Airport Terminal 5 の客室に備え付けられた 多国対応電源パネル(ユニバーサル・アウトレットボード)。① イギリス式コンセント(Type G) ・差込口が「三角形配置(3ピン)」のUK規格。 ・電圧は AC 220〜240V / 50Hz。 ・上部にある2つのスイッチは、それぞれの差込口の電源ON/OFFを独立して制御する安全設計。 (イギリスでは「差しっぱなし防止」や「感電防止」のため、スイッチ付きが一般的)② ユニバーサルタイプ(中央) ・上部の小さな穴が「安全シャッター解除用」で、ほとんどのプラグ形状(A・C・Iなど)を 差し込めます。 ・ただし、変圧機能はありません。日本(100V)対応機器を使う場合は、電圧対応を確認する 必要があります。③ アメリカ式コンセント(Type A/B) ・平行2ピン+アース穴付きタイプ。 ・北米・日本のプラグをそのまま差し込めますが、電圧は240Vなので注意が必要。 → スマートフォン充電器・ノートPCのACアダプタのように「100–240V対応」なら問題なく 使用可能。④ LANポート(右端) ・有線インターネット接続用RJ45ポート。 ・Wi-Fiが利用できない場合や高速通信を求めるビジネス客向けに設置。 ・現在は多くの宿泊者がWi-Fiを利用するため、ややサブ的存在になっている。Hilton Honors(ヒルトン・オナーズ)会員プログラムの案内カード。ルームキー・ホルダー(カードケース)。「JOIN TODAY AND GET MORE BENEFITS THAN EVER BEFORE.Hilton Honors benefits include:・Best Price・Free Wi-Fi・Choose Your Room・Digital Check-InDownload the award-winning Hilton Honors app to access even more benefits.」 【今すぐ入会して、これまで以上の特典を。Hilton Honors会員になると、以下の特典が受けられます:・ベストプライス保証・無料Wi-Fi(スタンダード)・部屋を事前に選択可能・デジタルチェックイン対応さらにHilton Honorsアプリを使えば、より多くの特典を利用できます。】・Room Number: 266・Check-Out Date: 10/06/25(2025年6月10日)「The Gallery」レストランで朝食を。ロビーエリア(Reception / Lobby Lounge)。1. 中央の円形レセプションカウンター ・写真中央に見える白い円形のカウンターが、メイン・レセプション(チェックインデスク)。 ・柔らかなカーブを描く造形で、ヒルトンT5のインテリアテーマである 「流線と光の調和(flow & light)」 を象徴。 ・台座部分は黒い大理石調で、上面はマットな白。 滑らかな質感が落ち着いた高級感を演出。2. ロビー空間のレイアウト ・写真右手前には階段があり、上階のレストランやバーラウンジへつながっていた。 上階には照明が吊るされた回廊(メザニンフロア)が。 ・左奥にはラウンジスペースが広がり、ソファ席と電子掲示板(フライト情報表示モニター)も 設置。 空港ホテルらしく、出発情報をリアルタイムで確認できる仕様。 ・天井は吹き抜け構造で、自然光と照明のバランスが美しい開放的な空間。ホテルの外へ。銘板「Hilton London Heathrow Airport Terminal 5 」。建物の中央を見上げて。1.建物の様式 ・外壁は赤褐色のレンガ造り(Brickwork)で、英国建築の伝統的意匠を反映。 ・白い帯状のストライプ(水平装飾モールディング)が階層を区切っており、 全体に整った安定感。 ・上階の三角形屋根部には「Hilton」の青いロゴサインが掲げられ、シンボル的存在。2.エントランス・キャノピー(車寄せ屋根) ・玄関前には大きなキャノピー(雨避けの庇)が張り出し、車での送迎時に雨風を防ぐ構造。 ・天井には小型の埋め込み照明が多数配置され、夜間には柔らかく光る設計。 ・支柱は黒いスチール製で細身、モダンな印象に仕上げられていた。3.窓の配置 ・窓は上下で規則正しく配置され、外観にリズムを生み出していた。 ・1階部分(地上階)はガラス面積が広く、内部ロビーの自然光を取り込む設計。 ・上層階の客室窓は二重ガラスで防音・断熱性を確保。空港近接ホテルならではの構造 と。Hilton London Heathrow Airport Terminal 5 の建物を、正面玄関側からやや斜めに見上げて。1.窓の構成 ・1階部分(地上階)は大きなガラスウィンドウで、ロビー・レストラン・会議室エリア。 ・2階以上は宿泊客室フロアで、均等配置の矩形窓が整然と並ぶ。 ・ガラスは反射率の高いティント加工(淡いグリーン色)で、外光を取り込みつつ プライバシーを守る設計。2.アーケード(庇下の回廊) ・地上階の柱列に沿ってアーケード(屋根付き通路)が設けられていた。 ・雨天でも玄関から車寄せ・エントランスへスムーズに移動できるように設計。 ・柱と梁の白色ストーンが、レンガ壁と美しいコントラストを。上空には、ヒースロー空港(Heathrow Airport)上空を飛行する旅客機の姿が。 ・ヒースロー空港は南北2本の滑走路(09L/27R、09R/27L)を持ち、 西風時には東から西へ着陸する運用(27方向運用)が一般的 と。 ・空港への最終進入(Final Approach)前、もしくは離陸直後(Climb-out)のいずれか。 ・エアバスA320シリーズまたはボーイング737シリーズクラスの中型機か?空港送迎用の車寄せ(ポートコシェール)と、赤レンガの建物ファサードを。・外壁は赤褐色レンガと白いストーン帯で構成されたブリティッシュ・モダン様式 (British Contemporary Brick Style)。そして、12:00過ぎに空港への送迎バスが到着。Bath」Rdを進み、M25を渡る。M25 モーターウェイ (M25 motorway) またはロンドン・オービタル (London Orbital) は、イギリスおよびイングランドの首都ロンドン(グレーター・ロンドン)の周囲を繋ぐ総延長117-マイル (188 km)の環状高速道路。Northern Perimeter Road West(ノーザン・ペリメータ・ロード・ウェスト)を進む。Northern Perimeter Rd W沿いの巨大な駐車場。Heathrow Fire Station(ヒースロー空港消防署) の入口付近。中央奥に見える赤レンガの高い塔は、ヒースロー消防署(Heathrow Fire Station)の訓練塔(drill tower)。左手下に見えたのが、ヒースロー空港(London Heathrow Airport)近くの道路沿いに設置されているエミレーツ航空(Emirates)A380模型ディスプレイ。空港アクセス道路(Bath Road, A4)沿いにあり、ヒースローを代表するランドマーク広告オブジェクトのひとつ。Emirates Airbus A380。このモニュメントは、ヒースロー空港ターミナル5へのアクセス道路(A4 Bath Road)沿いにあり、Hatton Cross(ハットン・クロス)交差点付近。エミレーツ航空が支援する「United for Wildlife」キャンペーンの一環で、絶滅危惧種の密猟・密輸防止を訴える国際的プロジェクト。機体に描かれている動物たち(ゾウ、ライオン、ゴリラ、サイ、ヒョウなど)は、“空の旅を通じて地球の野生を守る”というメッセージを象徴しているのだ と。旧ヒースロー空港管制塔(Old Heathrow Control Tower)か?・駐車場エリア(Terminal 2 & 3 Short Stay Car Park)のそばに位置。・建設時期:1950年代後半・使用期間:1950年代後半〜2007年ごろまで、約半世紀にわたり空港の主要管制塔として機能。・かつては滑走路04/22(現在は閉鎖)や北滑走路を監視する位置にあり、 ヒースローの空港運用を統括していた。「ターミナル前車寄せエリア(Terminal Drop-Off Zone)」の有料化案内標識。£6 Terminal Drop-Off Charge(ターミナル前車寄せ料金:1回あたり6ポンド)と。「第2ターミナル」方面へ。The Queen’s Terminal として知られる、2014年に全面改築された新ターミナル。この建物は、ロンドン・ヒースロー空港(London Heathrow Airport)第2ターミナル(Terminal 2 – The Queen’s Terminal)のすぐそばに建つHilton Garden Inn London Heathrow Terminal 2 and 3(ヒルトン・ガーデン・イン・ロンドン・ヒースロー・ターミナル2&3)。ボイラーハウス(boiler house)/プラント施設(utility plant)の一部を見上げて。上部に2本の太い円筒形煙突(chimneys / exhaust stacks)が。第5ターミナル(Terminal 5) 前の車寄せ(Departures Forecourt / Drop-Off Area)を。・背景に見える建物の屋根は、ヒースロー第5ターミナル(Terminal 5 Main Building)の 特徴的な「ゆるやかな曲線屋根(wave-form roof)」です。・これは建築家リチャード・ロジャース(Richard Rogers)による設計。Terminal 5 Arrivals Forecourt(ヒースロー第5ターミナル 到着階車寄せエリア)に到着。そしてAIR CHINAカウンターでチェックイン。しかし、我が荷物は依然として行方不明との返事。日本に帰国したら、羽田空港で「荷物紛失証明書:PIR」を書いて提出しろ!!と責任転嫁、逃げの 返事ばかり!!私の英会話力では、これ以上の交渉は難しいと判断し、羽田空港で日本語でしっかりと!!を決断したのであった。そして、この日のCA(中国国際航空)の代替便は予定時刻の16:00に離陸し、北京空港へと向かう。飛行機の座席モニターに表示されたフライトマップ(機内航路画面)を追う。大きく旋回。北海に向かって。大雅茅斯(Great Yarmouth)上空から北海へ。グレート・ヤーマスはイギリスのノーフォーク州にある海岸沿いの町で、ノリッジの東20マイル(30km)に位置。 グレート・ヤーマスは1760年から海辺のリゾート地として栄えて来た と。オランダ北部(Netherlands, northern region)の地図で、機体は「デン・ヘルダー(Den Helder)」の北東方向から「リーワルデン(Leeuwarden)」方向に向けて飛行中。見えた浅瀬と島々は、ワッデン海(Wadden Sea)と西フリースラント諸島(West Frisian Islands)。飛行機の進行方向右側(南側)には:・IJsselmeer(アイセル湖):オランダ最大の淡水湖。 堤防「アフスライトダイク(Afsluitdijk)」でワッデン海と分離。・Afsluitdijk(アフスライトダイク):全長約32kmの堤防。左上のDen Helder付近から東に 細長く伸びる線として見えることも。これらは人工干拓によって生まれたオランダの象徴的な景観なのであった。全長約32kmの堤防のAfsluitdijk(アフスライトダイク)をネットから。ドイツ・Flensburg(フレンスブルク)上空。離陸後1時間15分。デンマーク・Roskilde(ロスキレ)上空。そして最初の機内食。スウェーデン・Malmo(マルメー)上空。エストニア・ESTONIA上空。フィンランド・FINLAND上空へ。2回目の食事。そして爆睡。離陸後9時間、北京首都国際空港(BCIA)に向けて。モンゴル・Ulaanbaatar(ウランバートル)上空。この日の飛行ルートをネットから。北京首都国際空港(BCIA)に向けて降下開始。この日の機体はB777-300ER。飛行時間・約9時間50分で北京首都国際空港(BCIA)に到着したのであった。機窓から北京首都国際空港(Beijing Capital International Airport / 北京首都国际机场)の第3ターミナル(Terminal 3)を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.11.08
閲覧総数 380
11

★六会地区 歴史年表-16年号 西暦 六会地区歴史年表 参考資料昭和時代 49年 1974 今田地区に県立藤沢工業高等学校創立 小野田寛郎、フィリピン・ (現藤沢工科高等学校) ルバング島より帰国👈️ 50年 1975 スエズ運河開通👈️ 藤沢市人口 ニ六五九七五名 52年 1977 亀井野小学校創立 藤沢市あづま保育園石川に開園 県立藤沢北高等学校石川山田に創立 県立藤沢養護学校開校 53年 1978 亀井野保育園開園 鶴山洋子、円行につくし乳児園開園 今田、鯖神社境内に太平洋戦争 戦死者の「忠魂碑」建立 第一回公民館ふるさとまつり開催 六会地区生活環境協議会発足 石川市民の家開所 54年 1979 太平洋戦争戦死者七四名の慰霊碑を 東名高速道路、 雲昌寺境内に建立 日本坂トンネル👈️ 内自動車火災事故発生 55年 1980 石川、伊沢良一「イザワ テニスガーデン」開設 藤沢市立またの保育園開園 六会市民の家開所 56年 1981 天神小学校創立 湘南台中学校創立 西俣野の曹洞宗花應院本堂庫裡の 改築工事落成 57年 1982 西俣野御嶽神社梵鐘成る 58年 1983 開業医、三木洋「相模国四国八十八箇所 (弘法大師像をめぐりて)発行 59年 1984 石川東部区画整理事業完了に伴い 天神町誕生 60年 1985 西俣野史跡保存会会長、渋谷彦三 「小栗判官一代記」を発行 小栗塚市民の家開所 61年 1986 藤沢市民総合図書館完成 六会地区民生委員・児童委員協力者 会議発足 ★六会地区 歴史年表-17年号 西暦 六会地区歴史年表 参考資料平成時代 平成元年 1989 今田、円行の大部分が湘南台地区へ 移行される 六会地区は石川・亀井野・西俣野・ 天神町と今田・円行の一部となる 六会地域子供の家「どんぐりころりん」 開所 2年 1990 六会市民センター・公民館、 地下体育室完成 6年 1994 石川小学校創立 六会市民センターに地区福祉 窓口開設 7年 1995 六会駅橋上駅舎と東西を結ぶ オウム真理教による 自由通路完成 地下鉄サリン事件👈️発生 8年 1996 日本大学「バラ園」開設 9年 1997 六会ふるさと音頭完成 六会地区くらし・まちづくり会議発足 第一回湘南ねぶたまつり開催 10年 1998 六会駅から六会日大前駅に改名 12年 2000 六会地区防災リーダー連絡会発足 15年 2003 天神ミニバス開通 (六会日大前駅西口天神町循環バス) 16年 2004 六会市民センター石川分館設置 新潟県中越地震👈️発生 県立藤沢北高等学校が県立長後 高等学校へ統合 19年 2007 新潟県中越沖地震👈️発生 22年 2010 六会地区地域経営会議発足 23年 2011 宮城県亘理郡山元町に自転車・ 東日本大震災👈️発生 ヘルメット等寄贈 (六会地区震災支援金) 24年 2012 新潟県柏崎市北条(きたじょう)地区と 六会地区との地域間交流の覚書を 取り交わす 25年 2013 六会地区郷土づくり推進会議発足 六会日大前駅周辺バリアフリー化 工事始まる 小田急線六会一号踏切取り付道路 安全対策実施 26年 2014 六会市民センター・公民館建替えに 熊本大地震👈️発生 伴い仮庁舎に移転 28年 2016 新六会市民センター・公民館完成 29年 2017 天皇退位、2019年4月末に 衆院選で自民大勝、民進 が分裂 森友・加計政権揺るがす 「ものづくり」信頼揺らぐ 30年 2018 平昌五輪で日本は冬季最多 13メダル。フィギュア・ 羽生結弦は連覇 西日本豪雨、死者220人超 日大アメフト部選手が 危険タックル。スポーツ界 で不祥事相次ぐ 日産・ゴーン会長を逮捕 テニス・大坂なおみが 全米オープン優勝 31年 2019 はやぶさ2、小惑星 「リュウグウ」への着地 に成功 大リーグ イチロー引退 ★六会地区 歴史年表-18年号 西暦 六会地区歴史年表 参考資料令和時代令和元年 2019 【以下 後日記入】 天皇陛下が即位。「令和」 に改元 ラグビーW杯日本大会開幕、 日本8強 京都アニメーション放火、 36人死亡 消費税率10%スタート 東日本で台風大雨被害、 死者相次ぐ 2年 202 コロナ感染拡大 緊急事態宣言 志村けんさんら死去 東京五輪・パラ 1年延期 安倍首相 辞任表明 菅首相誕生 新内閣発足 3年 2021 コロナワクチン接種 熱海で土石流・27人死亡 眞子さま 小室圭さん 結婚 大谷メジャーMVP 4年 2022 知床観光船 沈没事故 安倍元首相撃たれ死亡 大谷2桁勝利2桁本塁打 村上 56本塁打・三冠王 W杯日本代表16強 5年 2023 WBC14年ぶり優勝 最強侍 列島沸く ジャニーズ性加害問題 大谷メジャー本塁打王 藤井竜王史上初八冠 阪神38年ぶり日本一 6年 2024 石川・能登で震度7 新紙幣 20年ぶり パリ五輪メダル 日本45個 大谷 初の「50―50」 闇バイト強盗 続発 7年 2025 善行長後線開通 ・・・つづく・・・ ・・・完・・・
2025.11.15
閲覧総数 327
12

★六会地区 歴史年表-12年号 西暦 六会地区歴史年表 参考資料大正時代大正元年 1912 六会村人口 三九四九名 東京市よりワシントン 戸数 五九五戸 ポトマック湖畔に桜三〇〇〇本 六会村西俣野に瞽女淵記念碑建立 寄贈👈️ 2年 1913 横須賀海軍水道完成(水源は中津川) 藤沢警察署亀井野駐在所設置 (旧道亀井野下 下山酒店先下屋敷側) 3年 1914 厚木県道改修工事完了 桜島大噴火👈️ 六会村人口 四四七七名 戸数 六一〇戸 第一次世界大戦始まる👈️ 4年 1915 第九代六会村村長に加藤九右衛門 第一回全国中学校野球👈️ (亀井野)再選 大会大阪で開催 六会村下土棚、長谷川巳之助、 厚木県道沿いで酒屋を開業 5年 1916 長後・戸塚間ツルヤ自動車バス運行 開始 広田清治、尋常高等六会小学校校長に 任命 6年 1917 六会村 人口 四五八四名 戸数 六三一戸 (亀井野 一六一戸 今田 三七戸 下土棚 九六戸 西俣野 八七戸) 六会村吏員給料 村長一二〇円 助役 一〇〇円 収入役 一〇五円 書記 九八円 7年 1918 第一〇代六会村村長に杉山松五郎 第一次世界大戦終結👈️ (今田)就任 藤沢に初めて電話架設 米価高騰により各地で暴動発生 六会村下土棚東側に電灯点る (六会村で最初) 8年 1919 藤沢町田線(藤沢町5町田町)が県道に 認定された 9年 1920 第一回国勢調査実施 11年 1922 六会村青年団結成、団長に尋常高等 六会小学校長の広瀬正治就任 六会村下上棚、金子春吉自転車業を開始 12年 1923 六会村に自転車が見られるようになる 関東大震災発生 六会村の被害死者一五名 負傷者一四名 行方不明一名 家屋全壊七五七棟 半壊五九六練 13年 1924 第一一代六会村村長に広田兵蔵(土棚)就任 尋常高等六会小学校訓導塚越喜一、高一 児童約四〇を引率し大山登山実施 大山登山の歌(広田俊夫作詞)成る 14年 1925 尋常高等六会小学校同窓会設立、 ラジオ放送開始👈️ 初代会長小倉喜一 東京六大学野球リーグ戦 六会村処女会結成、初代会長小泉セイ 始まる👈️ 東京~上野間に地下鉄開通★六会地区 歴史年表-13年号 西暦 六会地区歴史年表 参考資料昭和時代昭和元年 1926 六会村、晩霜のため桑・茶の被害甚大、 桑相場高騰 六会村青年・処女会・同窓会の機関誌 「六会の叫び」第二号発行 2年 1927 六会村下土棚消防組結成、初代組頭に 第一回都市対抗野球大会 金子友治就任 始る(最初の野球実況放送) 大正天皇御崩御 3年 1928 六会村亀井野駐在所改築移転 第九回オリンピック、アム 六会村亀井野下より西俣野上を経て ステルダム大会、初めて 大船に通ずる道路(大船用田線)開通 日章旗上がる(織田幹雄、 鶴田義行)👈️ 4年 1929 第一二代六会村村長に飯田伝之輔 世界一周ドイツ飛行船 (俣野) 就任 ツェッペリン伯号霞ヶ浦に 小田原急行鉄道、江の島線開通 着陸👈️ 六会駅開設 片瀬江の島~新宿間の運賃 九五銭 初の国産ウィスキー・ 六会村役場新築落成、二階家となる サントリー発売 6年 1931 六会農民組合結成、組合員五四名 小作料の引下げを目指す 7年 1932 一三代六会村村長に長谷川周作 チャップリン来日👈️ (亀井野)就任 五・一五事件勃発👈️ 8年 1933 六会村下土棚、模範耕地整理組合結成、 国際連盟を脱退👈️ 組合長矢地要吉 六会村石川の秋本信善、秋本漬物工場 発足 六会村産業組合創立、組合長渡辺時蔵 横須賀海軍通信隊六会分遣隊、六会村 亀井野に駐屯 六会村 人口 四九三〇名 戸数 七二一戸 9年 1934 尋常高等六会小学校教員広田俊夫、 渋谷駅前に忠犬ハチ公の 郷土史「六会読本」を編纂刊行 碑が立つ👈️ 11年 1936 第一四代六会村村長に小菅一鉱 二・二六事件勃発👈️ (土棚)就任 尋常高等六会小学校校庭に二宮金次郎 銅像建立 六会村電井野の長谷川敏夫、町田線沿に 六会郵便局を開設 12年 1937 御所見・六会両村境に県立診療所設立 日中戦争始まる👈️ (盧溝橋事件) 14年 1939 第一五代六会村村長に小倉久武(亀井野) 就任 15年 1940 藤沢市制施行 国民服令公布👈️ 16年 1941 初代市長に大野守衛就任 米穀配給通帳制実施👈️ 太平洋戦勃発 (真珠湾攻撃)👈️ 17年 1942 六会村藤沢市へ合併 金属回収令👈️ 六会村人口 四九九六名 (神社・寺院の仏具・梵鐘等 職業内訳 農業五七〇戸 工業二 戸 強制供出) 商業 一四〇戸 公務・自由業 二四戸 爆撃機本土初空襲 その他 六石 六会消防団は藤沢市警防団となる 18年 1943 下土棚の白山神社の梵鐘供出 日本大学農獣医学部創立 19年 1944 下土棚に海軍横須賀通信学校 藤沢分校開校、その後横須賀海軍電測 学童集団疎開実施👈️ 学校と改称 20年 1945 広島・長崎に原爆投下👈️ 農地調整法改正公布 第一回国民体育大会開催👈️ ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.11.13
閲覧総数 394
13

利根川の排水機場。道の駅 発酵の里こうざきに立ち寄る。千葉県香取郡神崎町にある、発酵食品をテーマにしたユニークな道の駅「発酵の里こうざき」、住所:千葉県香取郡神崎町松崎 855。「発酵」をテーマにした全国でも数少ない道の駅。味噌、醤油、酒といった発酵食品が盛んな地域で、発酵文化を「食」と「体験」で発信していた。建物は「新鮮市場」「発酵市場」「レストラン」「カフェ(はっこう茶房)」など複数のゾーンで構成。観光案内板「発酵の里 こうざき」。左側のマスコットキャラ:「なんじゃもん」(神崎町のシンボルキャラクター、巨大な樹の精霊)発酵の魅力が詰まった「発酵市場」。全国から集めた発酵食品をとりそろえた、土産ショップ。店に入ると、みそやしょうゆ、甘酒、チーズ、漬けもの、日本酒など約500種類の商品がずらり。店内で土産物を買う旅友。親しい「仁」の文字がある日本酒。 仁勇(じんゆう)ラベルに大きく「仁勇」と書かれている緑色の瓶。蔵元:鍋店(なべだな)株式会社所在地:千葉県香取市(佐原)利根川流域の代表的な酒蔵のひとつ青ラベル(本醸造)赤ラベル(辛口)緑ラベル(純米)など複数の種類が並んでいた。仁勇は利根川流域(“水郷地域”)でもっともよく見かける地酒の一つであると。「鍋店 神崎酒造蔵」や「寺田本家」など、地元酒蔵の甘酒や酒かすを使った商品も豊富。新利根川大橋。利根川を渡る。すぎのや本陣 阿見店で昼食。稲敷郡阿見町、国道125号線バイパス沿いの店舗。蕎麦、うどんと各種セットが充実している和食レストラン。そば定食を楽しむ。そして目的地の牛久大仏が姿を表した。牛久大仏👈️リンク を訪ねるのは2021年以来、4年ぶり。・全高120m(台座含む) → 自立型の青銅仏として世界最大級・建設:1993年・参拝者は内部に入ることができ、 ・地下1階:蓮華蔵世界 ・1階:知恩報徳の世界 ・2階:御慈光の世界 ・3〜5階:展望室(地上85m) までエレベーターで上がれた。・周囲には広い庭園と小動物公園もあり、家族連れにも人気 と。牛久大仏の入口案内板。近づいて。正式名称:牛久大仏(正式には「牛久阿弥陀大佛」)所在地:茨城県牛久市久野町2083右側に大仏の全身写真下部に ギネス世界記録 認定 のロゴ → 「世界最大の青銅製仏像」として登録された記念牛久阿弥陀大仏(内部フロア説明)案内板には、大仏内部の各階の施設が紹介されていた。1F:光の世界・青い光に満たされた幻想的な空間・参拝前の「心を整える場所」という意味合い2F:知恩報徳の世界・阿弥陀如来への信仰や感謝をテーマにした展示・仏教美術や資料が並ぶ3F:御慈光の世界(銅板写経の間)・約3万枚の金色の小さな仏像が並ぶ荘厳な空間・「写経」を奉納する場所として知られる4F(外周部):展望室(地上85m)・牛久市や関東平野を一望できる大パノラマ・晴れていれば筑波山がよく見える5F:御膳台・大仏内部の最上部・一部は構造上のスペース(一般公開はフロアによって制限あり)牛久大仏の大きさ(案内板の比較表)大仏の高さ(本体):100m蓮台(台座):10m総高さ:120m→ 自由の女神(約93m)より高いその他、奈良の大仏や鎌倉大仏との高さ比較も描かれていた。牛久大仏(牛久阿弥陀大仏)エリア全体の案内図。■ 1. 牛久阿弥陀大仏(中央) 敷地の中心にそびえる高さ120mの大仏。 内部に入れる日本でも珍しい巨大仏です。🌼 周辺の庭園・スポット■ 2. 牛久浄苑(うしくじょうえん) 大仏の背後に広がる広大な霊園エリア。春は桜、初夏は新緑が美しい場所。■ 3. ふれあいガーデンテラス 大仏横にある花壇と散策路。 季節ごとの花が楽しめるスポットです。■ 4. 大香炉(だいこうろ) 大仏前にある大きな香炉。 参拝前にお線香を供える場所です。🌷 花エリア 写真の左側に広がるカラフルな場所。■ 5. 群生海(ぐんせいかい) 季節の花々(ネモフィラ、コスモス、ポピーなど)が一面に咲き誇る広場。■ 6. 釈迦三尊像 三体の仏像が並ぶ厳かなエリア。写真にも小さく写っていた。🌳 その他の見どころ■ 7. 定業苑(じょうごうえん) 休憩所やお土産コーナーのある施設付近。車椅子対応のトイレもある。■ 8. 本願荘厳の庭 滝や池がある和の庭園。涼しげな雰囲気で、写真によく合うスポット と。■ 9. 本願荘厳の滝(右下) 庭園内にある滝。流れ落ちる水が美しい場所。■ 10. 想い出処「浄蓮門」(入り口付近) 入場ゲート近くのお土産・記念写真スポット。牛久大仏(牛久阿弥陀大仏)内部へ入るための「大仏入口」案内板。「東本願寺 牛久阿弥陀大仏」→ 牛久大仏の正式名称で、宗派は浄土真宗東本願寺派。牛久大仏の「入場受付・料金案内」付近。■ 1. 営業時間(上部の紫の帯) 季節によって営業時間が変わる。 3〜9月(平日) 9:30〜17:00 3〜9月(土日祝)9:30〜17:30 10〜2月(平日・土日祝)9:30〜16:30 ※最終入場は閉園30分前まで■ 2. 料金案内(中央の大きな表) 大仏胎内or園内散策の料金が。● セット券(庭園+大仏胎内) 大人:800円 子ども:400円● 入園券(庭園のみ) 大人:500円 子ども:300円入場チケット。移動しながら牛久大仏を。これは 牛久大仏の「顔の模型」 。「大仏様のお顔は、この模型1000個分のボリュームに相当します。」と。「大仏入口(順路)」案内板。 通路のマンホールは牡丹(ぼたん)文様のモチーフ・中央に大きな花弁・両側に蕾(つぼみ)・周囲に茂る葉という構成で描かれており、典型的な牡丹唐草や牡丹文様の構成。牡丹は、仏教美術でも寺院装飾でもしばしば用いられる吉祥文様(めでたい文様)で富貴、高貴、美、吉祥を象徴すると。牛久大仏世界最大 120M 青銅製仏像鎌倉時代、御開山親鸞聖人は、常陸国(茨城県)で、他力念仏の教文を人々に伝えられるとともに、浄土真宗の根本聖典となる「教行信証」のご執筆にかかられました。 このご著書の成立年をもって、浄土真宗立教開宗の年(1224年)とされております。そして、立教開宗からおよそ800年の時代を超えてそのゆかりの地に、東本願寺第25世興如上人のご発願により、人類救済、世界平和の願いを込めて西方極楽浄土の主である阿弥陀如来(牛久大仏)が建立されました。牛久大仏の一部を実物大で再現した展示物のひとつでこれは大仏の頭頂部「螺髪(らほつ、大仏さまの髪の毛)」=頭の盛り上がり部分の実物大模型「この螺髪は阿弥陀大仏の頭部螺髪と同じものです。概 要 直径 1m 重さ 200kg 総数 480ケ」 牛久大仏の総重量は4,000t、顔の長さ20m、左手の平18.0m、目の長さ2.5m、鼻の長さ1.2m、とすべてが規格外の大きさ。牛久阿弥陀大仏阿弥陀如来は方便法身の大尊形として顕現されたもので、高さは阿弥陀如来の十二の光明にちなみ120m。その尊形を外から仰ぎみるだけでなく、胎内で阿弥陀如来の広大無辺なる本願の世界を体感することができます。四季の移り変わりや朝夕の光により、また見るものの心により、さまざまな表現を見せてくれる阿弥陀大仏、その御慈悲とは常に智慧と慈悲に満ち、すべてのものをやさしく包み込みます。地上高 高さ 120m重 量 本体主鉄骨 3,000トン 外殻鋼板重量 1,000トン左 手 挙手 18.0m親 指 直径 1.7m足の爪 長さ 1.0m人差指 長さ 7.0m 目 長さ 2.5m 鼻 高さ 1.2m 口 長さ 4.0m 耳 長さ 10.0m顔の大きさ 20.0mラホツ(頭部) 直径 1個1m 重さ 200kg 全体 480ケ基壇部 高さ 10m蓮台部 直径 30m 高さ 10m製造期間 10年再び牛久大仏(牛久阿弥陀大仏) 園内マップ「SORA × HOTOKE(そら × ほとけ)」の案内板。■ 左上:園内写真と名称● 大香炉(だいこうろ) 大仏の正面にある巨大な香炉● 群生海(ぐんせいかい) 季節ごとの花が広がる花畑エリア● 釈迦三尊像 ミニ仏像が三体並んだエリア● 浄蓮門(じょうれんもん) 入口付近の門と休憩場所■ 中央地図(園内図) 観光スポットがイラストで示されており、色分けされているのが特徴● 牛久阿弥陀大仏(メイン) 園内中央に大きく描かれた大仏像 胎内(内部)に入るルートもここから● ふれあいガーデンテラス 花畑・フォトスポットがある休憩エリア● 本願荘厳の庭 滝や池、水のある庭園● 仲見世 お土産・軽食・物販が集まるエリア● 足湯苑 無料または低料金で利用できる足湯施設● 駐車場(P) 園全体にアクセスしやすい大きな駐車場● 現在位置(YOU ARE HERE) 赤色の表示で、案内板のある場所が指示されています。牛久阿弥陀大仏を正面から。青空であれば(ネットから)。 ・・・つづく・・・
2025.11.17
閲覧総数 443
14

以下 表にすべき内容ですが、スペースで文字配置を調整していますが、上手くいきません。ご容赦願います。旧六会駅の写真(1984頃)をネットから。★六会地区 歴史年表-3年号 西暦 六会地区歴史年表 参考資料室町時代応永30年 1423 小栗判官満重、鎌倉への謀反により 常陸の小栗城落城後行方不明となる その後の巷の噂を基に小栗判官と 照手姫の伝説が生まれる 33年 1426 遊行寺焼失 小栗判官満重没すと伝わる永享 5年 1433 関東に大震災発生(九月一六日) 12年 1440 照手姫没すと伝わる長禄 元年 1457 北条早雲、小田原城に入る 👈️明応 4年 1485 北条早雲、小田原城に入る天文 5年 1536 下上棚、白山神社創建し村中安穏を 祈願して鎮守とする元亀 2年 1571 武田信玄、遊行寺に藤沢二〇〇貫、 「貫」とは田地の収橋高を 俣野のうち一〇〇貫の土地を寄進する旨 銭に換算して表したもの 書状を渡す 面積は一定しない 天正 3年 1575 長篠の戦👈️天正10年 1582 武田勝真、識田信長・徳川家康らに 本能寺の変👈️ 天目山で滅ぼされる、その残党多数、 相模国に逃亡★六会地区 歴史年表-4年号 西暦 六会地区歴史年表 参考資料室町時代天正13年 1585 大阪城築城👈️天正18年 1590 徳川家康、江戸城に入る 「禁制」とは、 禁示事項 今田村・西俣野村・円行村は徳川の 領地となる 亀井野村に不動堂建立される 豊臣秀吉、亀井野村雲昌寺に禁制を 揚げる 19年 1591 石川村、旗本中根権六郎貞重の 「知行地」とは 知行地となる 将軍、大名が家臣に俸給 下土棚村、旗本竹尾伝九郎元成の として支配権を与えた土地 知行地となる 「検地」とは土地の測量、 亀井野村、幕府代官彦坂小刑部元正 調査 により検地が施行される 20年 1592 朱印船貿易始まる👈️ 22年 1594 太閤検地施行一反を 300歩とする👈️慶長元年 1596 亀井野村雲昌寺、水害を被り今田村より 現在の藤沢工科高校の 亀井野村に移建されこの時より寺号 グランド裏と境川の間に 雲昌寺と改む👈️ あった。(現在住宅地)慶長 3年 1598 豊臣秀吉没す(六十三才)慶長 5年 1600 西俣野村に浄土宗法王院十王堂 関ヶ原の戦👈️ (通称閻魔堂)建立と伝わる。 8年 1603 徳川家康、江戸幕府を開く 👈️ ★六会地区 歴史年表-5年号 西暦 六会地区歴史年表 参考資料江戸時代慶長 9年 1604 俣野村に曹洞宗花應院建立と伝わる👈️ 石川村、自性院建立、開基は領主旗本 中根臨太郎、開山は龍見とされる👈️ 19年 1614 大阪冬の陣 👈️ 20年 1615 大阪夏の陣 👈️元和 9年 1623 亀井野村、領主旗本青山氏の減転封 により幕領支配地となる寛永 3年 1626 石川村、領主旗本中根権六郎貞重 により検地施行寛永 4年 1627 亀井野村、松平伊豆守信綱(川越藩)の 領地となる寛永12年 1635 外様大名参勤交代始まる👈️ 寛永14年 1637 島原の乱 👈️寛永16年 1639 亀井野村 、領主松平伊豆守信綱 松平氏の加増転封により亀井野村は 「幕領支配」とは 幕領支配となる 徳川幕府の領地正保元年 1644 円行清雲寺(現存せず)👈️ 雲昌寺住僧の退穏所として同僧により 開山(相模風土記稿) 正保 3年 1647 代官成瀬五左衛門、代官坪井次右衛門に よって俣野村の検地が進められ幕領と なる慶安 4年 1648 亀井野村の雲昌寺、幕府より寺領九石の 朱印状を与えられる万治元年 1658 亀井野村、町野壱岐守幸長の知行地となる 「朱印状」とは徳川幕府の 公認の文書👈️寛文 4年 1664 下土棚村の白山神社、広田主水ほか氏子に より再建される 4年 1665 亀井野村、町野壱岐守幸長により検地施行宝永11年 1671 円行村、代官成瀬五左衛門により検地施行 今田村の一部(幕領)が旗本細井左次衛門勝茂の 知行地との二給支配となる延宝元年 1673 西俣野村 戸数 66戸 人口404名★六会地区 歴史年表-6年号 西暦 六会地区歴史年表 参考資料江戸時代延宝 2 年 1674 西俣野村、新田検地施行 5年 1677 亀井野村、不動堂に経塚奉納碑が 建立される 8年 1680 猿田彦大神の石廟が御所ヶ谷に 建立される元禄 7年 1694 西俣野村、松波重純(重隆流)の知行地 となる 下土棚村、善然寺炎上元禄10年 1697 西俣野村、旗本長谷川玄通道可の知行地 となる 14年 1701 下土棚村、旗本竹尾氏と遠山久四朗安算の 両氏の知行地 亀井野村、旗本町野氏知行地、上地とされ 上地とは、幕府に理行地 幕領となる を没収されること元禄16年 1703 関東に大地震、津波来襲 (元禄地震)👈️ 浅間山噴火宝永 3年 1706 円行村、畑方名寄帳作成される 名寄帳(なよせちょう)」 円行村、一部が旗本石川織部の知行地となり とは年貢負担ごとにその 二給支配となる 土地の種類、面積、年貫 の額などを書いた帳簿 4年 1707 富士山の噴火により宝永山出現 20cm~30cm の降灰で被害甚大(宝永大噴火)👈️ 亀井野村の幕領の一部が旗本岡部石見守長倶の 知行地となり二給支配となる 岡部石見守長倶により亀井神社の社殿改築 7年 1710 円行村、幕領の一部が旗本石川織部盛行の 知行地となり二給支配となる 自家用酒製造許可 享保元年 1716 徳川吉宗将軍に就任 👈️ 10年 1725 円行村、神明社建立(棟札あり) 16年 1731 境川の洪水により堤防2000間の 所々決壊する ★六会地区 歴史年表-7年号 西暦 六会地区歴史年表 参考資料江戸時代享保17年 1732 水車設置の許可 境川の淵に横土手(御公儀様御役場通り) 構築される元文 5年 1740 石川村、御林帳が作成される延享 2年 1745 石川村、神尾若狭守春英による 新田検地施行 3年 1746 円行村、八幡社に梵鐘が作ら寛延 元年 1748 一人の瞽女が境川に落ちて溺死する 「瞽女(ごぜ)」とは 盲目の女旅芸人宝暦13年 1763 下土棚村、善然寺炎上安永 4年 1775 引地川に船を出す事について大庭 ・ 稲荷・石川・円行・羽鳥・辻堂の 各村より差し支えない旨、幕府に書状を 提出する 下土棚村、白山神社改築天明 2年 1782 石川村、自性院の梵鐘鋳造される 6年 1786 猿田彦大神の石廟、御嶽神社内に移築 7年 1787 円行村、村負担による水田開発を実施 8年 1788 下土棚村の夏刈に四臂(よんび)金剛像供養塔 「四臂金剛像」とは 造立される 四本の腕を持つ金剛像 下土棚村、善然寺火災により本堂・ 寺宝・過去帳焼失する寛政 元年 1789 西俣野村、旗本柳生久通の知行地となる 8年 1796 西俣野村、御嶽神社の梵鐘が鋳造される 文化 3年 1806 石川村、鯖明神社の梵鐘が鋳造される 下土棚村、地頭旗本竹尾氏の知行分幕領となり 代わって松平筑前守地頭となる 「地頭」とは土地の領主 下土棚村の夏刈、柳生五兵衛ほか四名が 八臂青面金剛像庚申供養塔を建立する ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.11.11
閲覧総数 559
15

六会日大前駅(旧六会駅)東口 <1983年頃>東口ロータリーは駐輪場となっていた。左の写真からズームして。ロータリー中央は駐輪場に。自転車が所狭しと駐まっていた。★六会地区 歴史年表-8年号 西暦 六会地区歴史年表 参考資料江戸時代文化 4年 1807 亀井野村、雲昌寺の梵鐘鋳造される この頃、間宮林蔵 樺太を探検 👈️ 5年 1808 下土棚村、善然寺三一世弁誉上人の 教えを受けた一八人の筆子により 筆子塚が建立される 7年 1810 下土棚村、渋谷ヶ原に庚申塔建立される 8年 1811 西俣野村、旗本柳生氏の知行地が旗本 金田欽之助・小笠原若狭守信義両氏の 知行地となる文政 5年 1822 伊能忠敬 「第日本沿海実測地図」完成👈️ 6年 1823 ドイツ人医師シーボルト 長崎出島に着任👈️ 7年 1824 西俣野村、地誌調査が行われ 「地誌御調改書上帳」が作成される 「御調改書上帳 (相模風土記の元となる) (おしらべあらためかき 西俣野村 戸数 六〇戸 人口 三九〇名 あげちょう)」 8年 1825 下土棚村、氏子七一名が白山神社に 梵鐘を奉納する 10年 1827 下土棚村、小菅新兵衛ほか六名により 青面金剛像庚申塔を建立される 11年 1828 下土棚村、渋谷根講中白山神社に石灯篭 一対を寄進する 13年 1830 西俣野村、御嶽神社の鳥居を建立する 天保 3年 1832 下土棚村、渋谷ヶ原に広田仁右衛門ほか 安藤広重 三名により庚申塔建立される。 「東海道五十三次」完成👈️ 円行村、収穫高の調査が行われる 天保の大飢饉起こる👈️ 境川の川浚・堰・水車等の件につき争論発生 「藤沢の堰をつくったことにより西村(西富) と西俣野村が苦情」 7年 1836 下土棚村、法然上人六五〇回忌の記念事業 として善然寺の山門完成、山門の扁額の 文字は大本山増上寺冠挙大僧正の筆★六会地区 歴史年表-9年号 西暦 六会地区歴史年表 参考資料江戸時代天保 11年 1840 浄土宗法王院十王堂(閻魔堂)の火災発生 アヘン戦争(1839~1842)👈️ 12年 1841 天保の改革始まる👈️ 13年 1842 「新編相模国風土記稿」 全巻完成👈️ 14年 1843 亀井野・石川・大庭の各村が酒、売めし、 駄菓子商の許可を関東取締役へ願い出る弘化 4年 1847 石川村天満宮の梵鐘が鋳造される 「助郷村」とは 亀井野村質地争論発生 江戸時代、宿場常備の人馬 境川堤防を守るため一人の浪士が人柱 が不足する場合、幕府・ として投身自殺 諸藩によって人馬の供を命じ 金沢橋の袂に地蔵菩薩石像が建立され られた郷村 その後、御所谷に移築される(土堤番様) 嘉永 3年 1850 亀井野村・石川村等二七ケ村が代助郷村 「石(こく)」とは、米の量 に定められる に用いる 一石は約180リットル。 亀井神社の経塚一字一石の碑文建立 6年 1853 西俣野村、神礼寺(小御嶽神社)の梵鐘 ペリー浦賀に来航👈️ 鋳造される安政 元年 1854 日米和親条約締結調印 👈️ 2年 1855 安政の大地震発生、円行村被害甚大の ため年貢金高一〇〇石につき三両割と なる 3年 1856 二宮尊徳没す(70才) 6年 1859 安政の大獄👈️万延 元年 1860 桜田門外の変👈️慶応 3年 1867 明治天皇即位、 王政復古の宣言👈️★六会地区 歴史年表-10年号 西暦 六会地区歴史年表 参考資料明治時代明治 元年 1868 神仏分離の礼、廃仏毀釈が起こった 江戸城無血開城👈️ 3年 1870 平民に苗字を許可 4年 1871 藤沢宿に郵便取扱所が開設 5年 1872 下土棚村、渋谷ヶ原に渋谷講中一同 横浜~品川鉄道開通 👈️ により道祖神が造立される 新戸籍法の施行、学制の公布、電報の 取扱開始、戸長制施行(名主制の廃止) 富岡製糸場開場👈️ 6年 1873 管内区画改正により石川村・亀井野村・ 西俣野村を第一八区一〇番組に 今田村・円行村・下土棚村・長後村・ 七ッ木村が第一九区一番組となる 地租の改正、徴兵令公布 石川村、石川学校設置 下土棚村、白山神社社殿改築 7年 1874 佐賀の乱👈️ 東京銀座に初めてガス灯 がつく👈️ 8年 1875 西俣野村、西俣野学校設置 亀井野村、亀井野学校設置 9年 1876 下土棚村、下土棚学校設置 10年 1877 西南戦争発生 出征一名 モース、大森貝塚発見 江の島に臨海実験所設営 👈️ 11年 1878 郡区町村編成法により、亀井野村・ 日本で初めて電灯がついた 石川村・西俣野村・今田村・円行村・ パリ万国博覧会開催👈️ 下土棚村は六ヶ村組合設立 13年 1880 藤沢の日常品の相場 米一石 八円一銭二分 乾鰮一〇シメ 二円三銭一分 農具の値段 鍬一丁 二円 鎌一丁 二〇銭 碓一個 一円 箕一個 一〇銭 銅簸一個 三円五〇銭 肥桶一荷 一円 稲マキ一丁 一円七〇銭 万能鍬一丁 五〇銭 15年 1882 下土棚村、田中典惣右衛門、日本酒の醸造 開始(造り酒屋) 17年 1884 下土棚村、長田万吉傘製造開始、多数の 徒弟を養成 藤沢地区、職人の賃銭日当 大工左官 三六銭 石屋 三二銭 瓦屋根職 三五銭 畳刺 二五銭 板屋根職 三〇銭 経師 五三銭 19年 1886 下土棚村、小菅常次郎自転車を購入して乗り 始める(当地区最初) 円行出身小菅丹治、伊勢丹呉服店創業 20年 1887 御嶽神社の本殿再建 下土棚・円行・石川・今田・亀井野・西俣野 ・長後・高倉地区養蚕が盛んになる 21年 1888 石川村、入内嶋製糸場設立 22年 1889 市制町村制開始 下土棚村・円行村・石川村・今田村・ 亀井野村・西俣野の六ヶ村は合併して 六会村となる 初代六会村村長に亀井野村の杉山信尹就任 23年 1890 石川学校・亀井野学校・西俣野学校・ 第1回帝国議会開会👈️ 下土棚学校・亀井野学校円行分校を 廃止し高等六会小学校創立 高座郡警察署、石川駐在所が六会村石川に 設置される 24年 1891 高等六会小学校初代校長に、 江の島桟橋完成👈️ 清水熊太郎就任 25年 1892 高等六会小学校を尋常高等六会小学校と改称 高座郡警察署、六会亀井野に仮屯所設置 尋常高等六会小学校、亀井野不動上に校舎を 新築し移転 下土棚、長田豊次郎染物業開始 滝山街道(現在の旧藤沢・町田線)県道に 指定される 26年 1893 高座郡警察署を藤沢警察署と改称 第二代六会村村長に杉山信尹(亀井野)留任 27年 1894 日清戦争開戦👈️ 北里柴三郎ペスト菌発見👈️ 28年 1895 久間製糸場が六会村亀井野に、 中田製糸場が六会村石川に設立される 29年 1896 第三代六会村村長に伊沢弥助(石川)就任 第四代六会村村長に斉藤太兵衛(亀井野)就任 下土棚、渡辺七五郎こんにやく製造開始 30年 1897 五代六会村村長に杉山信尹(亀井野)就任 下土棚の広田太吉、県下で最初に 稚蚕共同飼育組合を設け収繭高めた 六会人口 三八九八名★六会地区 歴史年表-11年号 西暦 六会地区歴史年表 参考資料明治時代 31年 1898 六会村石川に西山製糸場設立 葉タバコ専売実施👈️ 32年 1900 六会村農会設立、会長に広田兵蔵就任 六会村下土棚、川井嘉七が豆腐製造 販売開始 35年 1902 第六代六会村村長に伊沢安良(石川) 八甲田山遭難事故発生👈️ 就任 日英同盟調印 👈️ 36年 1903 藤沢税務署開設 国定教科書制確立 👈️ 37年 1904 六会村地先境川治水工事の実地調査 日露戦争始まる👈️ 六会村今田郵便箱設置了承 六会村人口調査結果 出生 三〇名 死亡 二〇名 婚姻 一〇名 離婚 七名 死産 七名 日露戦争 五人出征(内三名戦死) 38年 1905 六会村の徴兵適齢者調査の結果 三五名 六会村役場、大字亀井野字不動上 六会小学校内へ変更の件村会で決定 39年 1906 七代六会村村長に加藤九右衛門(亀井野)就任 日米海底電信開始👈️ 六会村下土棚に六会村立実業補習学校の 分教場設置 41年 1908 六会村龜井野に六会村立実業補習学校の 分教場設置 42年 1909 藤沢町、六会村・俣野村・耕地整理組合結成 境川の流域の地整理事業に着手 (大正二年竣工) 43年 1910 第八代六会村村長に加藤九右衛門(亀井野) 逗子開成中学生 再選 七里ヶ浜沖で遭難👈️ 六会村下土棚、青年同志会創立 六会村西俣野、青年団創立 六会村西俣野に六会村立実業補習学校の 分教場設置 45年 1911 明治天皇御大葬👈️ 乃木大将夫妻殉死👈️ ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.11.12
閲覧総数 464
16

「鐘楼」の横から「麒麟門」を見上げる。そして「社殿」を見る。「社殿」の前にあったのが「厄除かわらけ御納処」。「厄除かわらけ御納処「厄除のかわらけ」をこちらでお割りになるか、自宅で割られた土器(かわらけ)の破片をこちらにお納め下さい。”桃の石にはくれぐれもぶつけないでください”」「社殿」の前の一対の「青銅製燈籠」江戸時代、4代将軍徳川家綱公の奉納と。「社殿」を正面から。「社殿」は本殿、幣殿、拝殿を繋げた複合社殿。県内最大の木造社殿で文化13年(1816)に完成。随所に彩色された彫刻が施された豪奢な「社殿」で、「あんば日光」の異名を持つ と。江戸享保期に火災で焼失する以前の社殿群は、いまのそれを凌駕する豪華絢爛なものであったと。「あんば参れば、日光見るに及ばず」と言われたほど と。反対側からズームで。神額・扁額「大杉殿」。木鼻(右)。木鼻(左)。見上げて。この社殿(拝殿)向拝虹梁の丸彫りの龍をはじめとする社殿各部の彫刻は名工磯辺儀左衛門の作と伝えられている と。内部の天狗。「社殿本殿、幣殿、拝殿を繋ぐ複合社殿。規模は県内最大規模で本殿は奥行二間、梁間三間。幣殿は奥行三間、梁間三間。拝殿は奥行三間、梁間五間。本殿は三手先組の折衷様。側面および背面に浜縁を巡らす。妻部は二重虹梁で中備を四霊(龍、鳳凰、麒麟、亀)彫刻が飾る他、多様多種な彫刻が施されている。幣殿は鳴き龍の鏡天井にとなっている。拝殿向拝部の繋ぎ虹梁は龍の丸彫り彫刻となっている。西側の龍尾に(「信秀」磯部儀左衛門信秀)の銘が確認される。現在の社殿は寛政十年(一七九八)享和二年(一八〇ニ)の相次ぐ火災による消失後に再建がなされたもので、文化十三年(一八一六)に遷座が行われた。棟梁は栃木県大平町下皆川の多兵衛。彫刻師は栃木県栃木市常田の磯部儀左門信秀一門。天井画および障壁画は磯部一門の五楽院法橋等随の手になる。本殿、幣殿に廻る瑞垣欄間彫刻は二十四考題材のうち剡子、紅革、仲由を除くニ十三話ニ十三面および本殿腰組中備彫刻七面の彫刻は嶋村遠鉄(円哲)作になる正徳社殿からの転用材。平成十八年(ニ〇〇六)完成当初の姿に復元。ただし本殿腰組中備の復元彩色は宝暦時のそれに従った。また屋根は建立当初杉皮葺きであったが文政五年(一八〇八)銅瓦棒葺きに改められた。昭和五十八年これらに従い復元修復が完成。」「社殿」正面のガラス引き戸の下部の牡丹の花の装飾。「撫桃」。「撫桃(なでもも)挑には悪疫を退散させる効果があるとされていたため、厄除・八方除・星除などに御利益あるとされた大杉神社では、厄難を退散せしめるための儀式の多くに桃が使われます。この桃の形をした石を撫でると厄難が解消されるといわれています。」「社殿」を横から見る。「麒麟門」と同様に瑞垣には欄間彫刻が嵌め込まれていた。瑞垣の二十四孝欄間彫刻群は名匠島村圓鉄の作品 と。「仲由(ちゅうゆう)負米供甘旨(こめをおうてかんしをきょうす) 寧辞百里遙(むしろじしてはるかひゃくり)身栄親已没(みさかえどもおやすでにぼっす) 猶念旧劬勞(なおもとのくろうをおもう)」昔のごとくに貧しい食事をする仲由の姿。「仲由は泗水の生まれのとても勇敢な人でした。家は貧しく粗末な食事をしておりました。人に雇われて百里もの道のりを米を担いで、たいへん苦労をしながら父母を養っておりました。父母が亡くなってから楚の国に仕えておおいなる功績をあげたためたいそう裕福な人となりました。常に贅沢な食器においしいご馳走をたくさん食べることができ、財産を蓄え、外出するのに百輌もの車を従え、家にいるときは錦の立派な座布団に座り、何不自由なく思うに任せぬことのないほど恵まれた生活が送れる立昜の人となりました。しかし仲由はなお昔のごとくに貧しい食事をし、わすかな賃金の仕事にも一生懸命に勤しんでおりました。大いなる出世をした仲由ではありましたがすでに孝行をしようにも父母はなく、このことだけはどうにも叶うことはありませんでしたので、いつも涙をして嘆いておりました。やがて生きている親に十分な孝行を尽くし、死してもなお孝行の気持らを持ちつづける孝徳の噂が孔子の耳に届き、のちに孔鬥十哲の一人とされるにいたりました。」王裒(おうほう)慈母怕聞雷(じぼ らいきをきくをおそれる)永魂宿夜臺(ひょうこん やだいにしゅくす)阿香時一震(あいきょう ときにいっしん) 到墓巡千廻(はかにいたって めぐることせんかい)王裒の父は王義と言いました。あるとき王義は皇帝の怒りを買って無実のうちに亡くなってしまいました。王裒はこのことを恨み、決して皇帝のいる方角には向かって座ることはありませんでした。また王裒が父の墓前に拝礼すると、王裒の目から溢れ出る涙で傍らの柏の木が枯れてしまうほどであったそうです。また母はとても雷を怖がる人でありましたので、母の死後も雷がなると、母の墓に急いで駆けつけ母を慰めたということです。「董永(とうえい)葬父貸方兄(ちちをそうするに ほうひんをかる) 天姫陌上迎(てんき はくしゅうにむかう)織絹償債主(きぬをおって さいしゅにつぐなう) 孝感盡知名(こうかん ことごとくなをしる)董永は幼いときに母と別れてしまいました。董永の家は貧しく、幼いころから人に雇われて厳しい日を送っておりました。董永の父は足を悪くしており、小さな車に父を乗せては田の付近まで連れて行き農作業に勤しんでおりました。やがてその父も亡くなってしまいましたが、父の葬儀を営むお金に恵まれない董永は、自分の身を売って葬儀を済ませることとなりました。葬儀を無事に済ませた董永が身請け人の所へ行こうとする途上に一人の美女が現れました。「私は董永さまの妻となるために、絹を織って身請け人に届けました。ですからあなたは自由の身です。」と言い、やがて美女は董永の妻となりました。時が流れたある日、「私は天の織姫ですが、あなたの孝行な心に感心した天が、私にお命じになりここにやってきた。」と美女は告げ天に帰っていったということです。「丁蘭(ていらん)刻木為父母(きをきざんで ぶもとす) 形容在日新(けいよう ざいちにあらたなり)寄言諸子姪(ことばをよす しょしてつ) 聞早孝其親(はやくきいて そのおやにこうす)丁蘭というひ深く悲しみ母の木像を作って、生きているときと同様に孝行をつくしておりました。ある夜に丁蘭の妻がこの母の木像の顔を火で焦がしてしまうと、木像の顔は腫れ上がり血が流れ落ちる事態に陥りました。さらにニ日すると妻の髪の毛がすべて抜け落ちてしまったため、妻は何度もお詫びしましたが、症状は一向に改善しませんでした。そこで丁蘭が木像を大通りに移して妻に三年間詫びをさせると、一夜のうちに木造が元の場所に戻ったということです。」「田眞(でんしん)、田廣(でんこう)、田慶(でんけい)海底紫珊瑚(かいていの しさんご) 群芳總不如(ぐんほう すべてしかず)春風花満樹(しゅんぷう かまんじゅ) 兄弟複同居(きょうてい またどうきょ)田眞、田廣、田慶という三人の兄弟がいました。親が亡くなり兄弟は財産を三等分することとしました。家の庭には葉が繁り、花の咲き乱れる見事な紫荊樹という樹が一本ありました。三人はこの木も三等分しようと徹夜で話し合いました。やがて夜が明けたので、木を切ろうと庭にでてみると、昨日まで勢いよく繁っていた紫荊樹はすっかり元気をなくして枯れはじめていました。「草木にも心があり、切られようとする自らの運命を悟って枯れたのではないだろうか。人間であれば尚更のことではないか。なんといたらないことを考えたものだ」といい、木を切ることをやめると紫荊樹はもとのように勢いよく繁りました。」「楊香(ようきょう)深山逢白額(しんざん はくがくにあう) 努力摶腥風(つとめて せいふうをてうちにす)父子倶無恙(ふしともに つつがなからん) 脱身飩ロ中(みをまぬかるる ざんこうのうち)あるとき楊香が父と山に出かけると虎が襲いかかってきました。このとき楊香は天の神に「どうか私だけを食べて、父を助けて下さい」と懸命に祈ったところ、それまでニ人を飲み込もうと怒り猛っていた虎が静かに父子の前から立ち去ったということです。」「案内板」。「黄香(こうきょう)冬月温衾煖(とうげつには ふすまをあたためあたたかにす) 夏天扇枕涼(かんてんには まくらをあおいでふす)児童知子職(じどう ししよくをしり) 千古一黄香(せんこ いちおうきょう)」。黄香は母を早くに亡くしてしまい、父とニ人で暮らしていました。黄香は父にできる限りの孝行をつくし、夏の暑いときには枕や椅子を団扇で扇いで冷やし、冬の寒いときには布団を自分の身体で暖めました。これを知った、安陵という所の劉讙という太守(長官)は、高札を立てて黄香の孝行を褒め称えたということです。」「朱壽昌(しゅじゅしょう)七歳生離母(しちさいにして りぼしようず) 参商五十年(さんしょう ごじゅうねん)一朝相見面(いっちょう おもてをあいみる) 喜気動皇天(きけ こうてんをうごかす)朱壽昌が七歳になったときにお母さんと離れ離れになってしまいました。お母さんにひと目だけでも会いたいという思いは五十年たっても変わりませんでした。やがて役人となった朱壽昌朱はある日、安定した役人の仕事を辞めて自分の血でお経を書き、お母さんに会えることを天に祈りました。すると秦という場所にお母さんの居ることがわかり、ついにお母さんに再会することが叶ったということです。これは朱壽昌の志が真っ直ぐで、揺らぐことがなく、母への想いが深かったことによります。」「案内板」。「呉猛(ごもう)夏夜無帷帳(かやにい ちょうなし) 蚊多不敢揮(かおおくして あへてふるわず)恣渠膏血飽(かれがこうけつのあくを ほしいままにし) 免使入親闈(しんいにいれしむことを まぬかる)呉猛の家はたいへん貧しく蚊帳を買う金さえありません。そこで八歳になった呉猛は親が蚊に刺されることなく安眠できることを望み、自分の着物を親に着せ、自らは踝になって蚊の餌食となりました。やがて蚊も孝行な呉猛の心に感心し、呉猛だけを刺すようになりました。」「姜詩(きょうし)舎側甘泉出(そくしゃに かんせんいず) 一朝双鯉魚(いっちょう そうりぎょ)子能知事母(こよく ははにつかうることをしる) 婦吏孝於姑(ふさらに こにこうあり)美詩はとても母に孝行な人でした。母はいつでもきれいな川の水を飲み、鮮度のいい魚で作った膾が食べたいと思っておりました。姜詩と妻は長い道のりを毎日のように通って水を汲み、魚を求めてきておりました。ある日のこと、姜詩の家のすぐ傍に綺麗な川の水が流れ出て、毎日その中から鯉をを得ることができました。」「案内板」。「石棊局(石製碁盤) 」。石棊局(石製碁盤) (健脚・健康)一、授与所で氣御守(男性は紺石、女性は紅石)を受けます。ニ、碁盤の目の上に氣御守(碁石)を起きます。ス、氣御守(碁石)を左足で踏みます。四、碁盤から飛び降ります。五、(紺・紅)石を氣御守袋に入れて持ち帰ります。六、御守は一年間大切に身近に持ち歩きます。「禹歩斎場」は社殿(拝殿)の正面にあり、社殿に向かって歩むようになっていた。禹歩とは古代中国が起源の特殊な歩行法で、日本では「悪魔から姿を見えなくする」と伝えられており、この歩き方をするとあらゆる障害から守られるとされているとただし、禹歩御守りを右手に握りしめて歩くか、右ポケットに入れて歩くそうだ。(1,000円)「禹歩斉場(開運・心身健全)一、授与所で禹歩御守を受けます。ニ、右手(右の腰にさげる・右のポケットに入れる)に禹歩御守を持ちます。三、「初」と彫られた足形の上に両足を静かに置きます。四、正面中央の大杉神社神さまに参拝(ニ礼・ニ拍手・一拝)をします。五、少し腰を落として壹・貳・参・肆・伍・陸・漆・捌・玖の順に足を進めます。六、御守は一年間大切にに身近に持ち歩きます。」私も順番に足形に足をあわせ進みましたが、禹歩御守w購入していないのでご利益は???。「神楽殿」。「神楽殿」前、右側には「あんば七福神」の「布袋様」が。「神楽殿」に近づいて。「神楽殿毎年節分当夜に十二座神楽が行われる。本来庭上に四神幡を立て注連縄を張り巡らせて神楽場とした名残の四神台石が境内に据えられている。神楽殿は正徳社殿群以降幾多の火災に遭い消失。再建された神楽殿も老朽化に伴い傾斜が箸しかったため平成十年(一九九八)に再建。元和元年(一六一五)創業成功祈祷に訪れたヒゲタ醤油の創業者であった田中玄蕃がのちにこの十ニ座神楽を東総地域に拡めた。演目は猿田彦命、素戔鳴命、住古明神、八幡大神、手カ男命、天鈿女命、三宝荒神、恵比須、鈿女、榊葉、田の神、稲荷大神の十二座。これに扇舞、鈴舞の巫女舞が付属する。」「永代太々講」碑。「太々講」とは、伊勢参宮のために結成した信仰集団。旅費を積み立てておいて、籤(くじ)に当たった者が代参する。伊勢講とも呼ばれていた と。「あんば囃子これまで元和三年(一六一七)にヒゲタ醤油の創業者田中玄蕃によって上方からもたされたとされて言われていたあんば囃子は、すでに天正年間(一五七三~一五九ニ)に境内で踊られており、初源は天文年間(一五三ニ~一五五五)に遡る。その後下火となったものの亨保十年(一七ニ五)隣村須賀津の若衆が大杉神社内の幣束を持ち出し、悪魔払え囃子を奏し踊ったことに端を発し、翌享保十一年(一七ニ六)には水戸市および千葉県市原市に及ぶ広域に流布。さらに享保十ニ年(一七ニ七)永代寺(現江東区富岡禎座の富岡八幡宮境内にあった寺院)境内で出開帳が行われた。この際悪魔払え囃子と称していたあんば囃子が大流行となった。江戸市中を席巻した囃子は、市中混乱を招くとするほどに盛況であったため江戸町奉行大岡越前守忠助により禁令を受けるほどであった。その後も各地に伝播、佐原囃子・潮来囃子・成田祇園囃子など関東近郊の多くの囃子の源流となった。」境内を振り返る。左に「社殿」、右に「麒麟門」。「醤油醸造と大杉神社一般に関東での醤油醸造は元和二年(一六一六)の千葉県銚子市での田中玄蕃による醸造が早いとされる。玄蕃は後のヒゲタ醤油の創業者であるが、千葉県野田市で天文年間に飯田市郎兵衛によってすでに醸造が手掛けられていたという。しかし飯田市郎兵衛は茨城県稲敷市上君山出身で野田に移住したとされている。市郎兵衛の出身は上君山の飯田藤右衛門家ですでに天文年間(一五三二~一五五五)に土岐原氏に納める醤油を醸造しており、天正二年(一五七四)に家業としたといわれている。関東醤油醸造の初期の創業者は藤右衛門家に創業の折には挨拶に赴くのを慣例としていたとみられ、その折に藤右衛門家が信仰していた大杉神社での祈祷を受けることも恒例化していたとされる。田中玄蕃もそうした中の一人であり、高梨兵左衛門(キッコウマン)、国分勘兵衛(大国屋、のちの国分)などか代表例である。醸造家とともに廻船問屋や諸々の商いをする商人たちが多く大杉神社を参詣するようになった。盛時には神社周囲に二十軒ほどの参詣宿が軒を連ね、参詣人の多さは「※蟻のあんば詣で」と称された。また参詣人の増大と信仰の隆盛は豪奢な社殿群の建設を可能にし「あんば日光」の異名を持って称されるほか「あんぼ参れば日光みることなし」と称されるほどであった。※大杉神社座地の地名「阿波」は「あんば」と称されてきた。旧村合併の際「阿波村」となり村名は「あば」大字名は「あんば」であったが後にの混同されることが多くなり。現在は「あば」と発音されている。大杉大神さまの鎮座地が「あんば」であったことから、大杉大神さまを「あんばさま」「あんば」と一般には称していた。」「大黒神社」。正面に黄金の鳥居が。「大国神社」の「社殿」。内陣には大黒天 と 恵比寿 が祀られているのであった。「大国神社(おおくにじんじゃ)御祭神 大国主命 大国さま 事代主命 恵比寿さま金運・事業安泰・商売繁昌など別名にっこり大国と言われる。多くの人々に巨万の富を与えられた神社。代表的な人物として国分勘兵衛や太田竹次郎がある。」「あんば七福神 大黒天・恵比寿大国神社の祭神てある大国主命・事代主命は別名大黒天・恵比寿とされております。恵比寿は海の彼方から来訪し漁業、商業、また大黒天は農業守護神とされております。また当大黒天は「にっこり大黒」と称され、その尊顔が崩れるほど笑っているように見えた人には莫大な富がもたらされると伝えられております。」「五十瀬神社」。「五十瀬神社御祭神 天照大御神国家安泰・五穀豊穣など中世には大杉神社の鎮座地付近は伊勢神宮の莊園地(伊勢神明領)であったと考えられている。荘園地内に伊勢神宮の分社が置かれたものが五十瀬神社であると考えられる。」「日吉山王宮(ひえさんのうぐう) 御祭神 大己貴神・大山咋神 白山神社(はくさんじんじゃ) 御祭神 白山比咩大神 妙見宮(みようけんぐう) 御祭神 天御中主大神」。「日吉山王宮(ひえさんのうぐう) 御祭神 大己貴神・大山咋神 白山神社(はくさんじんじゃ) 御祭神 白山比咩大神 妙見宮(みようけんぐう) 御祭神 天御中主大神天海大僧正に依って江戸の鬼門守護社と定められた大杉神社には、江戸市中を守護する山王社(日枝神社・日吉神社)の分社が祀られることとなった江戸時代には当地で白山信仰が盛んであった。このため分社が祀られた。日の神を祀るウナカミ王(後の海上国造)の末裔を名乗る十葉県北部域の豪族たちは、中世以降北極星を祀る妙見信仰へと移行。ウナカミ王の祀るあんば神(大杉神社)境内にも妙見宮が祀られた。生活万般の守護・妙見宮は導きと発想の神様として信仰されている。」「四柱神社(よはしらじんじゃ)」。「四柱神社御祭神 天御中主神 高皇産霊神 神皇産霊神 天照大御神 神直日神 大直日神国家安穏・平安無事新治県中教院(明治初期茨城県南部及び千葉県北部域に設置された新治県に設置された神祇行政所)神殿に祀られた四柱の神様に神直日神、大直日神のニ柱の神様を合わせ祀った神社」「天満宮」。「天満宮御祭神 菅原道真公合格祈願・学業成就・芸道発展天神様の愛称で知られた神社。道真公が優れた学者であったことから「学問の神様」とされ、多くの受験生が合格祈願に詣でます。「東風吹かば 匂びをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」との和歌が遺されています。」「境内社」を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.02
閲覧総数 625
17

伊万里での仕事の後は帰路へ。遠く造船所の巨大クレーンが見えて来た。 「NAMURA」 の文字が。佐世保重工業を完全子会社化した名村造船(株)伊万里工場。伊万里湾が再び。 そして名護屋城(なごやじょう)跡に到着。駐車場に車を停め散策開始。入り口で100円を寄付して入場。 名護屋城・城下町の様子を説明するボード。名護屋城は 豊臣秀吉の文禄・慶長の役に際し築かれた陣城。陣城にも関わらず五重天守や御殿が建てられたり 城の周囲に城下町が築かれたり最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄したと。 肥前名護屋城図屏風の説明ボード。狩野派の絵師狩野光信の作で、下絵あるいは写しといわれている。六曲一隻の屏風で、第三・第四扇上部にある名護屋城には、五層の天守閣を中心に多くの御殿・数奇屋・櫓・門などが描かれ、当時では大坂城に次ぐ巨大な規模を持っていた名護屋城の様子を詳細に描いている。その周囲の丘陵には各大名の陣屋がひしめき合い、城下町では全国から集まった物資や人々で大変な賑わいを見せている。 山里丸の草庵茶屋跡の説明ボード。名護屋城は豊臣秀吉公が朝鮮出兵のために作られた城で、朝鮮出兵の際には城の周りに日本全国から集めれれた大名たちが陣を構えていた。その数100以上、兵は20万人以上。名護屋城並びに陣跡を説明する陶器板。 名護屋城・大手門跡。 本丸に向かって坂を登る。 三ノ丸。奥に見える石垣は本丸石垣。本丸大手付近を守る2層櫓が建っていた櫓台跡。隅部が完全に破壊されていた。本丸大手虎口。S字に曲がるよう構成されていた。三の丸跡を示す石碑。 正面は、本丸へ続く大手虎口と、虎口を守る櫓台跡。名護屋城本丸跡の中央にそびえ建つこの石碑は、巨大な「名護屋城址」碑。なんと東郷平八郎元帥 書。天守台へ向かう途中、本丸の端に海に面して建っていた歌碑。「太閤が 睨みし海の 霞かな」 呼子大橋が眼下に。 天守台跡。屏風絵には地上6階地下1階の七層大天守が描かれており、想定では石垣から約30mほどの高さがあったとか。天守の礎石、穴蔵(天守地階部分)の石垣、穴蔵への出入口が出土。江戸時代にはここに古城を管理する「古城番」の番所が置かれたらしく、その石列なども見つかっている。 南西隅櫓上から、本丸下を見下ろす。細い帯郭的な場所は「伝馬場」。櫓台跡、そして其の奥には「弾正丸」が見えた。 南側にも本丸拡張部の櫓台跡が見つかっている。例によって玉砂利と礎石位置表示がされていた。見学を終え、大手門に向かって坂を下る。東出丸からみた大手道。まっすぐに延びる大手道は安土城を思わせる堂々さ。直線の大手道ながら右手の三の丸や東出丸から攻撃が可能。大手口東南部の櫓台。大手門を守る単独の櫓があったと。櫓門の裾石垣として復元。 大手門近くの石垣。 歴史探訪の道案内板。名護屋城跡並びに陣跡の散策コースを紹介。金助・吾助の墓・説明ボード。 「江戸時代の中ごろ、唐津領は天候不順による凶作が続きました。名護屋村でも田畑の作物が枯れ果て、村人は木の実や葛の根、海藻などを食べて飢えをしのいでいました。しかし、このような不作の年にも藩は容赦なく年貢の取り立てを通告してきました。村では庄屋を中心に毎晩のように寄り合いを開き、「このままでは飢え死にするばかりだ。村の窮状を藩主に訴えて年貢を減らしてもらおう」ということになりましたが、後の咎めを恐れて誰ひとりこれを引き受けるものがいません。そのような時、金助・吾助の2人の若者が、「自分たちには、身寄りの者もなく後の心配もないので、この役目は私たちに任せてください」と申し出てきました。金助と吾助は、藩主が領内の巡視で佐志村に赴く事を知り直訴を決行しました。幸い原書は藩主の目にとまり、年貢米100石が減免されました。しかし、当時直訴は天下の御法度でした。これを破った2人は捕えられ西の浜で処刑されました。」と。弾正丸方面へ連なる石垣も見事。
2015.12.18
閲覧総数 142
18

『旧東海道を歩く』ブログ 目次愛知県道496号白鳥豊橋線の豊川に架かる『豊橋』を渡る。もともと東海道は現在と違うところで豊川を渡っていたが、江戸時代に東海道が豊橋(吉田大橋)を渡るルートに定められ、江戸幕府がこの大橋を管理下に置いて天下橋となった。これが船町(下流)側のこの大橋・『豊橋』のルーツである。これが昭和時代になり、国道1号の整備と共にこの大橋・『豊橋』の東の酒井忠次が架けたとされる辺りにもう1つの大橋(吉田大橋)を架けた。これが八町(上流)側の大橋・『豊橋』である。この時点で正式に、この東の八町の橋が吉田大橋(国道1号)、西の下流側の船町の橋が『豊橋』(愛知県道496号白鳥豊橋線)という名になった。『豊橋』から『吉田城』の『鉄櫓』が見えた。手前に見える橋が『吉田大橋』。『豊橋』を渡り終えて、直ぐに左折し豊川に沿って進む。右手にあったのが『豊川稲荷遥拝所碑』。『維持安政二龍次乙卯正月』と刻まれた石灯籠。その後ろに、『豊川稲荷遥拝所』碑。『豊川稲荷遥拝所と大鳥居について』豊川稲荷はここから北方へ直線で5.5km程の所にある。豊川稲荷遥拝所から100mほど先・右手に『真宗 高田派 朝晃山 真光寺』があった。真光寺の創建年代等は不詳であるが、山門脇に豊橋市指定有形文化財の『木造阿弥陀如来立像』の解説があった。『本堂』。『真光寺の皆様へ』、と高田本山へのバス旅行の案内。そして次に訪ねたのが『聖眼寺しょうげんじ』。真光寺の一区画隣にあったのが真宗高田派の『聖霊山聖眼寺』聖眼寺は鎌倉時代に下地に移転したと言われ、永禄7年(1564)徳川家康が、今川勢が支配する対岸の吉田城を攻撃した際、ここに本陣を構えたという。家康は境内にある太子堂で必勝を祈願し、ここで金扇をもらい、それを用いて采配を振るったと伝えられている。山門前には『芭蕉句碑標石』が。この標石には「寺内に芭蕉塚有、宝暦四甲戌年二月十二日東都花傘宜来」と。そしてその後ろには『松葉塚』の解説板が。『松葉塚』聖眼寺境内の松葉塚には、古碑松葉塚、明和6年(1769)の再建松葉塚、および古碑松葉塚の所在を示す宝暦4年(1754)建立の標石があり、当地方の文学史研究上資料的価値の高いものです。「松葉(ご)を焚いて手拭あふる寒さ哉」 古碑松葉塚に刻まれたこの句は貞享4年(1687)冬、松尾芭蕉が愛弟子杜国の身を案じて渥美郡保美の里(現渥美町)を訪れる途中当寺に立ち寄り、一句を詠んだものです。 尖塔型自然石の古碑松葉塚は、芭蕉没後50年忌を記念して建てられたといわれ、句が刻まれて「松葉塚」名称の由来となっています。再建松葉塚は、明和6年に植田古帆、大木巴牛が発起人となり、吉田連衆の協力を得て近江の義仲寺に埋葬された芭蕉の墓の墳土を譲り受けて再建したもので、句は「ごを焼て手拭あふる寒さ哉」とあります。「芭蕉翁」の3字は白隠禅師、句は尾張の横井也有の筆になるものです。この再建を契機に、各地の俳諧師が競って句碑を建立するようになり、東三河の俳壇に黎明期を迎えました。『芭蕉句碑』。古碑松葉塚には松尾芭蕉が愛弟子社国に詠んだ「ごを焼て 手拭あぶる 寒さ哉」という句が刻まれていて、「松葉塚」名称の由来を示している。「ご」は三河方言で、枯れた松葉のこと。焚き付けとして最良の燃料であったと。この境内の松葉塚には、新旧二つの芭蕉の句碑が立っていたのであった。古い句碑には「松葉を焚て手ぬぐひあふる寒さ哉」、新しい句碑には「ごを焼て手拭あぶる寒さ哉」と刻まれていたのであった。一見したとき、なぜ「手」をあぶらずに「手拭」なのかと?。調べたところ、この手拭は湿ったものが道中の寒さで凍ったものだという。それをあぶることで手をあぶるより寒さを余計に表現できるのだろうと。この記念碑は?『本堂』。近くの幼稚園では幼児たちが楽しく遊んでいた。蚊取り装置『モスキートマグネット』。ネットで調べて見ると蚊を磁石のように引き寄せて吸い取る装置であると。どんな仕組みで蚊を駆除するかというと、プロパンガスの燃焼によって発生した二酸化炭素を、特殊スクリーンを通し蚊の嫌う成分を取り除き、地表に向けて放出します。空気より重い二酸化炭素は広範囲に拡散して、蚊をおびき寄せます。そして、バイオ技術で生成した動物のエキス:誘引剤(オクテノール)によって、装置を動物と錯覚させて吸引口へ引き寄せ、内蔵しているファンのバキュームにより本体内部の捕獲ネットに閉じ込め、乾燥させてしまいます。殺虫剤を使用しないため、他の益虫や昆虫にはまったく影響がなく、環境に優しい製品であると。園児が蚊に刺されないように設置されているのであろう。街道の左側は豊川の土手が続く。土手の内側には石垣が数段、積まれている。いつ時代のものであろうか。『下地堤防改修記念碑』が左手に。5分ほど歩いた歩道の街路樹の元に、『下地一里塚跡』の石標を見つけた。『江戸日本橋より七四里』とあった。『下地一里塚跡』の石標を振り返る。(株)ヤマサンは大豆 食用油 米穀 豆腐関連資材 和・洋・中華食材 冷凍食品などを製造。県道387号線・清須下地線を更に進む。『マンデビラ ピンクパフェ』であろうか?県道496号線の右に小さく、『爪郷遺跡(うりごういせき)』の案内板が。ここを右折して進む。『史跡 瓜郷遺跡』石柱。『瓜郷遺跡』「この遺跡は低湿地に囲まれた自然堤防の上に立地する、弥生時代中期から古墳時代前期(2000年前~1700年前)にかけての集落>の跡です。昭和22年11月から昭和27年10月までの間、5回にわたり発掘調査が実施され、土器・石器・骨角器・木製の農具などが出土しました。これらの出土品は東三河地方の弥生文化を知るうえで重要な手がかりとなっています。ここでは農耕(主に稲作)のほかに、漁撈や狩猟などが行われていたことがわかりました。瓜郷遺跡は唐古遺跡(奈良県)・登呂遺跡(静岡県)などとともに弥生時代の低地にある遺跡の一つとして貴重なものです。なお出土品は、豊橋市美術博物館に収蔵されています。」『瓜郷遺跡』正面。「弥生時代の竪穴住居(復元)この復元家屋は。昭和22年~27年の発掘調査で見つかった竪穴住居の遺構をもとに、故明治大学教授後藤守一博士の手により設計がなされたものです。時代はおよそ1,800年前の弥生時代中期のもので、大きさは東西5.8m、南北3.5mの楕円形をしており、中には二本の主柱と炉があります。」竪穴住居の内部。中には二本の主柱と真ん中に炉が。見事な藁葺き屋根、大きさは東西5.8m、南北3.5m。『鹿菅橋』。下は豊川放水路の分岐水路。更に県道496号線の田園地帯を飯田線・小坂井駅方面意向って進む。『豊川放水路』を渡る。橋の名は『高橋』。左手に名鉄名古屋本線と東海道本線。『豊川放水路』。東三河の清流、豊川は、かつてたびたび洪水をおこし、水害で流域に住む人々を苦しめてきた。 その理由としては、川の長さが約77㎞と短いうえに2/3は山地で降水量が多く、上流の降水が3~4時間で平地に達してしまうこと、下流域で川が蛇行し、U型部分が狭く最大流量の半分も疎水力がないことが考えられる。 洪水対策として江戸時代には霞堤(鎧堤)がつくられたが,昭和になってからも10年、12年、19年と大洪水を記録しており、放水路建設が急務となった。工事は、昭和18年度に本格的に着手されたが戦争の拡大によってほとんど進展せず、戦後28年度以降ようやく軌道にのった。そして1965年(昭和40)豊川の下流低地に住む人々の悲願であった放水路(豊川市行明町・柑子町から 豊橋市前芝町へ通じる全長6.6㎞)が完成した。洪水時,遊水池として水害の常習地帯となっていた当古・下条・大村地区などの人々は、永年の水害の苦しみから解放されることとなった。ここを渡った先で豊橋市から豊川市へ入る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.29
閲覧総数 495
19

「三柱神社」を後にし、「境川」に沿った東の道を南下する。横浜市泉区上飯田町190付近の旧家・宮崎家長屋門の前を通過。道路向かいに、日産自動車の配送センターがあったが、以前にはここが「宮崎製糸場」👈リンクがあったところであると。「宮崎製糸場」は、大正時代には女工330名を擁する大製糸場であったのだと。そして「美濃口春鴻(みのぐちしゅんこう)の地」👈リンク に到着。「美濃口春鴻」は享保十八年(一七三三)に、下飯田村の美濃口源左衛門の子として生まれた。幼時は虎松、のち源吾次(げんごじ)と称した。美濃口家は代々名主を勤め、また村制が布かれてからは村長も勤めた家柄であったから、人の出入りも多く、また公私を問わず外出することもたびたびで、世間の文人との交流も多かったのだったと。横浜市泉区下飯田町1744。立派な長屋門に圧倒されたのであった。飯田の鎌倉道は「上(西)之道」と呼ばれ、新田・足利ゆかりの地や信濃方面と鎌倉を結ぶ重要な道でした。美濃口家は代々名主や村長を勤め、当家出身の春鴻しゅんこうは芭蕉の流れを汲む蕉門の俳人で、関係資料は横浜市地域有形文化財(歴史資料)になっています。(一般の家屋のため、門の中の見学はできなかった。)また、近くに持田・美濃口両家の氏神と伝えられる日枝神社があった。玄関の南側を見る。玄関の北側を見る。「横浜市地域有形文化財(歴史資料)美濃口春鴻関係資料一括 二十三件美濃ロ春鴻は、亨保一八年(一七三三)相模国鎌倉郡(現泉区)下飯田村の美濃ロ源左衛門の子として生まれ、幼名は虎松、のち源吾次と称しました。下飯田村は、旗本筧(かけい)家領にあり、美濃ロ家は、代々名主を勤め、また村制がしかれてからは村長も勤めた家柄です春鴻は、江戸時代中期の相模を代まする俳人で、はじめは舂江と号し、明和ニ年(一七六五)松露庵鳥酔に人門、戸塚宿のニ之日庵鶏父の連に属していました。後に、関東の蕪村と称された舂秋庵白雄の門人となり、白雄の八大第子の一人に数えられました。寛政五年(一七九三)には、白雄追善集「冬瓜汁」を出版しています。また、相模俳諧の長老として鴫立庵(現大機町立鴫立庵)を後見しました。(鴫立庵は、江戸時代中期に大淀三千風が中興した俳諧道場で、明和四年(一七六七)鳥酔が入庵し再興しました。京都の落柿舎、滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つと言われています。)春鴻は、享和三年(一八〇三)六月七日、七一歳で没し、追悼集に門人雉啄(ちたく)編の「鴫の井」があります。美濃ロ家には、「芭蕉翁百年忌追棹の巻」(写)をはじめ句会での記録が数多く遺されています。これらは、江戸時中期の相摸の俳諧の様子を知る上で貴重な資料です。」そして近くにある「日枝社」の入口を探したが漸くここであることに気がつく。案内等は全く無く。丘の上に向かって参道を進んでいく。正面に「社殿」が現れた。横浜市泉区下飯田町1750。「馬頭観世音菩薩碑」。新しい鳥居、社殿も。「美濃口」と書かれた表札の家が交通量の多い道路側に。こちらが現在のお住まいなのであろうか。美濃口春鴻の墓は下飯田の生家の東方、道路沿いの美濃口家一門のこの墓地にあるようだ。そして境川に架かる木製の「渡戸橋」を渡って帰路に。下飯田町と藤沢市高倉を結ぶ「渡戸橋」。当初は自動車・歩行者兼用であったが、その後、隣に新しい橋が架けられ、写真の橋は歩行者専用になっていた。そして我が市内に入り進んでいくと、左手に「子育地蔵」が。「子育地蔵南北朝時代の一三〇〇年代に創建されたという臨済宗円覚寺派寺院・点燈山東勝禅寺、その古刹の境内北西角に建っ立派な御堂、この御堂に祀られているお地蔵様が下高倉の「子育地蔵」です。堂内は色鮮やかな千羽鶴や飾り玉で所狭しと飾られ、御堂の前には「奉納・子育地蔵菩薩」と書かれた数本の真っ赤な幟が風にはためいています。この御堂が面している四ッ角(現・三叉路)は、地元では「坂上十字路」と呼ばれる交差点で、付近は今でも昔懐かしい農村の風景を残すところです。このお地蔵さまは、江戸時代中期の延享三年(一七四六年)に七ッ木村の観音講の人々により造立されたと銘文に記されています。お地蔵様のまわりにはたくさんの白い小さな石が置かれていて、この石で子供の切り傷や、おでき、やけど等を撫でさすると早く治り、また赤ちゃんの歯固めに用いると丈夫な歯が生え、誕生餅とともに背負わせると強い足腰を育むと言われています。なお、借りた小石はお礼の気持ちを込め、倍にしてお返しすることになっているとのことです。この「子育地蔵」にはそんな我が子を思う親たちの感謝の気持ちが込められ、今でも地域の人々の信仰を集めています。(中島淳一氏著『湘南のお地蔵さま』より文章の一部を引用させていただきました。)」。祠に入った子育地蔵尊。延享3年(1746)の銘がある地蔵尊で、地域で大事にされているのだと。毎月24日が地蔵様の日になっていると。地蔵尊の左右には色鮮やかな千羽鶴が何本も奉納されていた。そして地蔵尊は黄色いTシャツを着ていた。数多くの絵馬札には願い事が。この日の散策はここまでとし、長後街道より北にある上飯田町等の散策は次回としたのであったそして、この後国道467号・町田街道を進み、帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.05
閲覧総数 1937
20

『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク境内の左手には、寺内を見守るように立つ大きな「日蓮大聖人像(永縁廟)」。「比企谷 妙本寺 永縁廟」碑。しずかな佇まいの妙本寺祖師堂前にある永代供養墓。お顔をズームして。数々の法難に遭う以前の、若さ溢れる表情なのであろう。更に。台座には「ながくふかい縁にみちびかれてこのお寺で日蓮聖人に出会い法華経を信じお題目を唱えて今生を力いっぱい生きた人達ここにやすらぐ」と。「日蓮聖人鎌倉開教聖地」碑。鎌倉の地たる洵に聖地なるかな宗祖この山に憩ひこの町に叫びこの海より流さる潮音耳を打てば今猶此経難事の聲あり街衢塵を揚ぐれば杖木瓦石の響きあり嗚呼この地を過ぎこの地に住む者其れ宗祖當年の忍苦を偲び粛然奮然信仰を増進せよや 塚本柳齋」八重の花の咲くドクダミの群生地であったが、この日は既に花は終わっていた。以前に訪ねた時の写真。そして「祖師堂」に向かって右の山裾にあったのが「比企能員一族の墓」。 『吾妻鏡』によれば、源頼朝の乳母を務めた比企禅尼は、1159年(平治元年)の「平治の乱」に敗れ、翌年伊豆国に流された頼朝を支え続け、1180年(治承4年)に源氏再興の挙兵を果たすまでの約20年の間、仕送りを続けていたという。そのため、比企禅尼の養子比企能員(ひきよしかず)は、頼朝の信任が厚く、二代将軍頼家の乳母夫となり、さらに娘の若狭局が頼家の側室となって一幡を出産するなど権力をつけ、北条氏と並ぶ存在となった。しかし、1203年(建仁3年)、比企能員は、北条時政によって暗殺され、比企一族も北条義時らによって攻められ滅亡した。「比企能員公一族之墓」碑。石垣で一段高くなった所に五輪塔が4基並んでいた。その、右側のものは妙本寺開基の日学夫妻(大学三郎能本夫妻)の供養塔、左側のものは比企能員夫妻の供養塔。日学は比企能員の末子能本の法名であると。「寿福院(じゅふくいん)の逆修塔」。比企氏一族の墓の並び右手に立派な大五輪塔があった。これは寿福院(じゅふくいん)の逆修塔(ぎゃくしゅとう:生前に死後の冥福を祈って建立した供養塔)。塔の各部に「妙・法・蓮・華・教」の五文字が刻まれ、側面に「加賀太守宰相卿之御母公 寿福院殿日栄逆修」とある。(1624建立)寿福院は千代といい、加賀前田家藩祖の前田利家の側室で利常を産んた。利常が藩主(三代藩主)になると、慶長19年(1614)藩主の生母として、芳春院(利家の正室「まつ」)と入れかわりに人質としてに江戸へ下った。その後、寛永8年(1631)江戸藩邸にて没した と。。「比企能員一族の墓」の横の石段を上る。「若狭局の墓」。大五輪塔(寿福院の逆修塔)の背後の一段高い所、一幡の袖塚を見下ろす所、市の天然記念物に指定されているイチョウの古木の下にあったのが若狭局(わかさのつぼね)の墓といわれている供養塔があった。墓標には「讃岐局蛇苦止霊之墓」と。讃岐局(さぬきのつぼね)と若狭局は同一人物と考えられていると。若狭局は比企能員の娘で頼家の側室となり一幡を産みました。比企氏の乱(建仁3年(1203))のおり、我が子一幡と運命をともにした。「讃岐局蛇苦止霊之墓」と刻まれた石碑。小さな石碑が二基。立入禁止の苔生した石段の上にも石碑が。「高祖四百五十年忌妙題十萬・・・」と刻まれた石碑。「手水舎」の後ろにあった「一幡(いちまん)の袖塚」。鎌倉幕府二代将軍の源頼家の嫡男一幡の廟所。祖師堂の右側手前、二天門寄りの竹垣に囲まれた所。比企氏の乱(建仁3年(1203))のあと、小御所(比企邸内にあった一幡の住居)の焼け跡からみつかった6歳の亡骸に一幡の小袖の模様がわずかに焦げ残っていて、その遺骨を拾い供養したと。そして「祖師堂」に向かって左側にあった城の形の墓石。その近くの石段の横にあったのが「万葉集研究遺蹟の碑」「萬葉集研究遺蹟:篆書で書かれた文字。此地ハ比企谷(ひきがやつ)新釈迦堂 即將軍賴家ノ女(むすめ)ニテ將軍頼經ノ室ナル竹御所(たけのごしょ)夫人ノ廟(びょう)ノアリシ處ニテ 當堂ノ供僧ナル權律師(ごんのりっし)仙覺ガ萬葉集研究ノ偉業ヲ遂ゲシハ實ニ其僧坊ナリ 今夫人ノ墓標トシテ大石ヲ置ケルハ 適(まさ)ニ堂ノ須彌檀(しゅみだん)ノ直下ニ當レリ 堂ハ恐ラクハ南面シ 僧坊ハ疑ハクハ西面シタリケム 西方崖下ノ窟(いわや)ハ仙覺等代々ノ供僧ノ埋骨處ナラザルカ 悉(詳し)クハ 萬葉集新考 附録 萬葉集雑攷(考)ニ言ヘリ昭和五年二月 宮中顧問官井上通泰撰菅 虎雄書鎌倉町青年團建碑」【この場所は、比企谷(ひきがやつ)の新釈迦堂(しんしゃかどう)があった所で、将軍頼家(よりいえ)の娘であり、また将軍頼経(よりつね)の妻でもあった竹御所(たけのごしょ)夫人の墓のあった場所であります。 この堂の僧である仙覚(せんかく)が万葉集について立派な研究を行ったのは、この堂においてでありました。現在の夫人の墓として、大石が置いてあるところは、ちょうど堂の仏壇の直下に当ります。 堂は多分南に面し、僧侶の住む建物は、西に面していたと思われます。西の方の崖下の岩屋は、仙覚など代々の僧侶の骨を埋めた所と推定されます。詳しいことは、「万葉集新考 附録 万葉集雑考」に書かれています。】石段から入り、途中、右に行くと、祇園山ハイキングコースとなっているようだが、左方向に更に石段を上って行った。石段を上り切ると妙本寺境内の背後には墓地が拡がっていた。真っ直ぐに進む。墓地内の木々に消毒が行われていた。この墓地がある場所が、竹御所跡と考えられるが墓地の奥の正面には石垣が組まれ、一段高くなった墓所が「竹御所の墓」。「竹御所」は鎌倉幕府二代将軍源頼家の娘で、母は源義仲(みなもとのよしなか:木曾義仲)の娘ともいわれていますが不詳です。比企氏の乱のおり難を逃れ、その後も比企ヶ谷に住んでいたと思われます。その後、邸内に竹が生い茂り、ゆえ「竹御所」と呼ばれるようになったと。健保4年(1216)、14歳になったとき3代将軍実朝の養女になった。実朝が公暁(くぎょう)に暗殺されると、京の九条家から九条(藤原)頼経(よりつね)が迎えられ4代の将軍になった。頼経はそのとき9歳であった。将軍頼経が13歳になった時、竹御所は28歳、2人は結婚させられた(寛喜2年(1230))。その4年後男子を死産し、自身も没した(文暦元年(1234))と。妙本寺の寺伝に従うと、「源媄子(みなもとのよしこ)墓」と言う事になる。「鎌倉幕府二代将軍源頼家公の息女で四代将軍源頼経公の夫人である。文歴元年(一ニ三四」九月二十七日 三十ニ才で逝去 尚當地は新釈迦堂の地である。」「源媄子墓」を後にして石段を下り、「祖師堂」を見る。「手水舎」、「二天門」を見る。「擬宝珠」。台座には笹竜胆の寺紋・源氏紋が。「日蓮大聖人像(永縁廟)」の横を奥に行き再び別の石段を上る。こちらも広い墓地が拡がっていた。様々な形の墓石が。正面の石垣の上中央に五輪塔が。「上村海軍大将之墓」。明治時代の軍人上村彦之丞(かみむら ひこのじょう)[1849~1916]。明治12年海軍少尉に任官。日清戦争には秋津洲(あきつしま)艦長として出征。海軍教育本部長をへて第二艦隊司令長官となり、日露戦争では蔚山(ウルサン)沖でウラジオストク艦隊を撃破。43年大将。「妙法蓮華経」の文字が。大きな貝殻が。二枚貝の中で最も大型となるシャコガイであろうか。脇にあった石碑。「芳光院善◯日秀童子」と刻まれていたが。様々な形の墓石が。和型三段墓の上に立派な屋根を載せたいわゆる「大名墓」。宝篋印塔(ほうきょういんとう)。宝篋印塔は、もともとは宝篋印心咒経(ほうきょういんしんじゅきょう)という尊いお経を収めるための宝塔。五輪塔が仏舎利を守るのに対して、宝篋印塔はお経をお守りするための塔。今から千年ほど昔の中国の王様が長寿を祈願したのが始まりで、その後日本にも伝来した。基部・塔身・笠・相輪で構成され、笠の四隅には隅飾りの突起がある。五輪塔と同じようにお墓としても建てられているが、庶民から貴族まであらゆる階層の人々に用いられていた五輪塔に比べ、宝篋印塔はより身分の高い人々が建立していたと。そして「二天門」前から参道の石段を見る。モミジの緑葉が輝く。「二天門」、「祖師堂」を振り返る。ズームして。秋になると(ネットから)。 【https://twitter.com/hashtag/%E7%A5%96%E5%B8%AB%E5%A0%82】より承久の乱(じょうきゅうのらん)から約800年、鎌倉幕府滅亡から約700年、鎌倉武士たちの悲喜こもごもの歴史が詰まった「比企谷(ひきがやつ)」を後にし「妙本寺」の「総門」に向かって進み「妙本寺」を後にしたのであった。以前頂いた「比企谷 妙本寺」の御朱印です。以前頂いた「比企谷 妙本寺」の御朱印です。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.28
閲覧総数 328
21

秩父市野坂にある札所12番の仏道山(ぶつどうざん)・野坂寺(のさかじ)を訪ねる。寺の入口には、大きな石標があり「臨済禅宗 南禅寺派 佛道山野坂寺」と。 参道の入り口で赤い帽子、涎掛けの地蔵様が迎えてくれた。 昔、甲斐の国の絹商人がここを通りかかったとき、山賊に襲われもはや叶わぬ命と一心に南無観世音を唱え続けた。すると肌のお守りが光明雷のごとく輝き、賊どもは眼を射られて逃げ去った。観音の功徳に感泣、後にこの地に堂宇を建て、観世音を勧請してまつったのが秩父札所12番寺の草創だと。 ご本尊は聖観世音菩薩立像で杉の一木造り、像高156糎の等身大で藤原時代の造りと。 階段の先に重厚感のある楼門が見えて来た。千社札に囲まれた「野坂禅寺」という扁額が掲げられていた。野坂寺のこの山門は、享保年間(1716~36)に建築した二層入母屋造り。明治末期の火災で寺は焼失してしまったが、幸いに山門だけは残ったと。入母屋二重垂木の八脚門で、左右に火灯窓(花頭窓)を配し、自然木の丸太を柱として上層・橡・勾欄をまわした簡潔で重厚なところは禅寺に似つかわしい風格。 桜門の花頭窓の中には閻魔大王や五官王、宋帝王、太山王、五道天輪王、変成王などの十王像が左右に安置されていた。中央に閻魔大王。中央に五動天輪王。楼門下の真正面の三面観音像・「あずかり観音」が迎えてくれた。普通であれば本堂の中や手水場の先に設置されているものだが、境内に入る前にまずは心を落ち着かせて欲しいという住職の意向で入口に安置したのだと。三面観音像のお顔を横から。 右側は怒り、中央は病気、左側は煩いを預かってくれると。 大きな牛がこちらを睨んでいたのです。「十牛観音」と言い、大きな牛の上に観音様が乗っているという不思議な構図の像。 「十牛観音」の祈る姿。 桜門1階の左側には、やはり木彫りの風神や雷神像などがガラスの奥に並んでいた。 風神、雷神、中央に山の神。 あずかり観音の裏側にも観音様が。 手水舎。観音様の右手からきれいな清水が垂れていた。これは、心身を浄める観音様の水。この裏山に湧く水をひいたものとのこと、年間涸れることがないと。野坂寺・本堂桜門を入ると、正面に昭和48年(1973)に再建された本堂が堂々たる姿を見せてくれた。毎年8月16日の夜に行われる盆送りは、境内に灯篭供養塔が組み立てられ、1200個の灯篭が高さ16mに積み上げられると。これに灯りがともり精霊送りが夜半まで続けられ、夏の夜の風物詩となっているのだと。内陣にまつられている御本尊は、藤原時代の作と伝わる高さ156cm、一木造りの聖観世音菩薩立像。 正面唐破風の下にある、精巧で大きな一木彫りの3頭の巻き龍の彫刻に目を奪われたのであった。 野坂寺の本堂の縁起図。「仏道山野坂寺 此の地にて甲斐の商人山賊に襲れた。守袋の観音像から光が 出て山賊の目を射た。以来山賊たちは仏道に精進する様になったと云ふ。」 と書かれていた。社務所で御朱印を頂きました。『仏道山 (梵字サ)白華殿 野坂寺』 と書かれていた。(梵字サ)は観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)そして「白華」も観世音菩薩の別名とのこと。寺に「蓮」は似合うのであった。白ではなく、クリーム色。約130個の鉢に50種類ほどの色とりどりの花蓮が植えられており、この時期は札所巡礼者の目を楽しませてくれるのだと。 今年は何度蓮の花を楽しんだのであろうか。 本堂前の参道の両側に赤い帽子、涎掛けの童顔の六地蔵が。この日は境内の植栽の手入れが行われていた。そしてお地蔵様の礎石には刻み文字が動ー直心 人の為に動く無畏の心友ー思心 思いやりの心、人と共に生きる心優ー温心 穏やかな心、灯のある心憨ー無心 無策の心子供のいたずら心の如し願ー祈心 喜んで人の為に祈る心空ー佛心 虚空の如く広く深く明るい心 こちらのお地蔵様には奥から「空」「憨」「友」と書かれていた。お地蔵様と蓮の花はよく似合うのであった。この像の下部には「願」 と刻まれていた。そして「睡蓮」の花も本堂脇に。 これぞ純白。 弁財天を祀るお堂(右)、五重の石塔(左)もあった。本堂横の山の斜面には大きな墓地が。そして南無不動明王 のぼり旗も。かわいい「おそうじ小僧」が箒を持っていた。 おそうじ小僧 歌碑。 そして 私は「ハーイサッサ ハイサッサ ハーイサッサ ハイサッサ ぼくは ぼくは 爺守(じじもり) 爺(じじい) 春 夏 秋 冬 朝晩 お寺の 御朱印 頂きに」
2017.08.12
閲覧総数 329
22

先週の金曜日(9/14)に卒業した会社の業務応援の為の打ち合わせに、五反田に向かいました。1時間ほど早く自宅を出発し、小田急線、田園都市線、東急大井町線を乗り継ぎ九品仏駅で途中下車し、以前から気になっていた『浄真寺(じょうしんじ)』を訪ねたのです。九品仏駅の踏切を渡ると、直ぐに正面に浄真寺への参道入口が現れた。浄真寺参道と刻まれた大きな石碑。浄真寺は東京都世田谷区奥沢七丁目にある、浄土宗の寺。山号は「九品山」。「九品仏」(くほんぶつ)とは、一義的には、同寺に安置されている9体の阿弥陀如来像のことであるが、一般には同寺の通称となっている。転じて、同寺の周辺の地区を指す場合にも用いられているのであった。「禁銃猟 警視庁」の石碑「この辺りでは銃を使っての猟は禁ずる」という警視庁が出した明治時代の告知。『九品仏参道界隈』と書かれた案内図。ズームで。石畳を松の林が両側を覆っている趣ある参道を進む。入り口の参道は「二河白道(にがびゃくどう)」を表しているのだと。火の河と荒れ狂う河に挟まれた白い細い道、白道は浄土往生を願う信心の道で一心不乱に念仏を唱えて極楽浄土へ渡ろうということを意味していると。樹齢30年近い?黒松の間に次世代を担う黒松の苗木も植樹されていた。200m近く歩くと正面に見えてきたのが総門。参道左手に庚申塔が集合して安置されていた。地域信仰の厚い地域なのであろう。中央に「寄進庚申供養」の文字が刻まれた石碑が。総門。九品山唯在念佛院浄真寺(くほんさんゆいざいねんぶついんじょうしんじ)は浄土宗寺院。越後国村上泰叟寺の珂碩(かせき)上人を請うて延宝6年(1678)に創建されたもの。扁額には「般船場(はんじゅじょう)」と書かれていた。常に行道念仏して現前に諸仏を見奉る般舟三昧する道場であり参拝者に願往生の心を自然に発さんが為に書かれたものであると。当山二世珂憶上人の高弟珂慶上人の筆とのこと。総門柱の厚い板に書かれている「九品佛浄真寺總門」。書体は新篆書体か?総門を潜ると右手に多くの地蔵が。そして奥には六地蔵が並んでいた。六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天)の入口に立ち、衆生の苦を救うと言う有り難い地蔵様たち。左手には新たな建物?が建設中。その先右手に閻魔堂が。「閻魔堂」と書かれた扁額。閻魔堂の中央には閻魔様が。厳しいお顔の閻魔様。今からでも真面目に改心すれば、認めてくれるのだろうか?葬頭河婆(そうづかば)三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の姿。奪衣婆(だつえば)、脱衣婆(だつえば)、正塚婆(しょうづかのばば)、姥神(うばがみ)優婆尊(うばそん)とも言うのだと。葬頭河婆が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁(けんえおう)という老爺によって衣領樹(えりようじゆ)にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって枝の垂れ方が異なるので、亡者の生前の罪の重さを計る事により死後の処遇を決めるのだと。罪の重い亡者は三途の川を渡る際、川の流れが速くて波が高く、深瀬になった場所を渡るよう定められているため、衣はずぶ濡れになって重くなり、衣をかけた枝が大きく垂れることで罪の深さが示されるのであると。また亡者が服を着ていない際は、懸衣翁は衣の代わりに亡者の生皮を剥ぎ取るという恐ろしい話。奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もあるのだと。私の衣類は枝が大きく撓るのであろうか?「愛心講講元 鳥海はま先生 頌徳碑(しょうとくひ)」延命地蔵が乗っている江戸十夜講の三界万霊塔。そして突き当たりを右に折れると東門が。東門の外に出て入口側から。東門の扁額。何と書かれているのであろうか?『釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心』??以前訪ねた大阪・四天王寺の鳥居の扁額にも同じような文字が。その時の写真です。当時、調べてみると「釈迦如来が説法する所で、極楽の東門である」という意味なのだとか。「九品佛浄真寺東門」。東横線・自由が丘駅から来るとこちらの門に辿り着くようだ。東門を再び潜り仁王門への参道を進む。右手に開山堂への中門が。浄真寺山門脇には土塁とともに「奥沢城跡」と刻まれた石碑が。浄真寺の地は、もともとは世田谷吉良氏系の奥沢城であったのだと。小田原征伐後同城は廃城となったが、寛文5年(1675年)に当地の名主七左衛門が寺地として貰い受け、延宝6年(1678年)、珂碩(かせき)が同地に浄真寺を開山したと。「紫雲楼」と呼ばれている仁王門(楼門)。建立は1793(寛政5)年で屋根以外は大掛かりな修理の痕跡がないということから、当時そのままの構えのようだ。楼門ということで、二層に分かれ、下層は通路の両側に金剛力士像を据えている。上層は中央に須弥壇が設けられていて、お面かぶりで有名な阿弥陀如来像および二十五菩薩像が参拝者を迎えるように安置されているそうだ。当山の伝統相続行事である「二十五菩薩来迎会(らいごうえ)」(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、この楼上の二十五菩薩は、来迎の真髄を示現していることになると。「紫雲楼」と書かれた扁額。仁王像(阿形)。ズームで。更にズームで顔を。仁王像(吽形)。ズームで。更にズームで顔を。桁行3間(8.1m) 梁間2間(4.2m)、入母屋造、銅板葺。見事な仁王門正面の竜虎の彫り物は金網に守られて。仁王門の裏側のガラス戸の中には風神が。雷神。仁王門を潜ると左手にあるのが鐘楼。鐘は、宝永5年(1793)世田谷領の深沢、谷岡又左衛門の寄進で、作は、神田鍛冶町の河合兵部郷藤原周徳である。堂屋は欅造りで欄間には十二支がはられ、北に子、南に午が彫られている。 ・・・つづく・・・
2018.09.17
閲覧総数 523
23

「田原坂公園」の散策を続ける。「崇烈碑」の案内板。「崇烈碑」。碑文の文字は全て漢字のみで。「田原坂崇烈碑碑文には当時の社会情勢や戦いの推移、田原坂の激戦の様子などがまとめられています。とくに、西南の役の激戦のなかで、死傷者が四千余人にものぼった田原坂の戦いの様な激しい戦いは他にはなかったこと。またもし薩軍が南関を破り北上したなら、各地の政府に不満の者が隙を見て立ち上がり、禍いは測り知れぬものになっただろう。そうならなかったのは田原坂の戦いに勝ったからであること。以上、田原坂激戦と勝利の意義が官軍の立場から述べられています。○碑文鹿児島県は西海に於いて地最も広く、人最も勇なり。而して西郷隆盛名望世を蓋(おお)ふ。海内(かいだい)の人士(じんし)其の進退を候し、以て安危と為すに至る。明治十年二月隆盛反し熊本城を囲む。天皇震怒(しんど)、兵を発して之れを討つ。熾仁(たるひと)総督の責に任ず。陸軍中将山県有朋、海軍中将川村純義参軍たり。賊は兵を分ち、植木山鹿の両道を扼(やく)し、進んで高瀬に入る。二十七日我軍高瀬を撃ちて取る。越えて四日木葉を抜く。賊退いて田原坂の険に拠る。而して熊本の囲み益々密にして援路皆断つ。夫れ田原の地たる両崖壁立(りょうがいへきりつ)経路崎嶇(けいろきく)たり。賊悉(ことごと)く精鋭にして堅塁を築き、咆哮出没(ほうこうしゅつぼつ)虎狼(ころう)の如く有り。要害形を異にし、攻守勢を殊(こと)にす。而して我が軍殊に死戦昼夜をすてず十有七日遂に之れを抜く。死傷四千余人、この役たるや鏖戦(おうせん)前後数百、而して未だ田原坂の如き劇あらざるなり。苟(いやしく)もこの坂にして抜けず、賊をして南関を破り北せしめば、四方不逞(ふてい)の徒必ず隙に乗じて起ち、禍ひ測るべからず。而して其れを此に至ら使めず、遂に速やかに討滅に致らしむるものは実に此の一捷(いっしょう)に由る。嗚呼(ああ)死者の功大なり。而して焉(いずくんぞ)見るに及ばず、痛ましい哉。因って碑を阪上(ばんじょう)に建て、似って之れを記す。蓋(けだ)し忠烈を勧奨(かんしょう)する所以なり。 明治十三年十月 陸軍大将二品大勲位 熾仁親王撰文竝篆額陸軍省六等出仕従六位勲五等秋月新太郎書○訳文鹿児島県は西日本の中でも土地が広く、人々は勇敢でした。そして、西郷隆盛の名声は世間に知られていました。国内の士族には西郷の進退をうかがい、西郷に影響を及ぼす者もいました。明治十年ニ月、西郷隆盛は反乱をおこし、熊本城を囲みました。天皇は大変に怒りになられ、軍隊にこれを討たせられました。熾仁親王が征討総督で、陸軍中将山県有朋、海軍中将川村純義が参軍となりました。薩軍は兵を分け植木、山鹿の両道を抑え、進軍し高瀬に入りました。ニ十七日、官軍は、鬲瀬を占領。三月四日には木葉も占領しました。薩軍は退却し、田原坂の要地に陣を築きました。その上、熊本城の囲みも固く、援軍の路も絶たれました。この田原坂の地は両側が壁のように立ち、小さな路がけわしいところです。薩軍は皆精鋭の兵で、しかも堅固な陣地を築き、そこから狼や虎が吠えて襲う様に出撃しました。攻めるのに難しく守るのに易しい地形の要地に官軍も苦戦を強いられました。こうして激戦昼夜を問わず十七日に及び、ついに薩軍を撃退されました。死傷四千余人、西南の役中に数百の激戦がありましたが、しかしいまだに田原坂のような激戦は他にありませんでした。もしもこの坂を抜くことが出来ないで、薩摩が南東を破り北方に進出したならば、直ちに政府に不満を持った者たちが必ず隙をみて立ち上がり、禍は測り知れなかったでしよう。しかしそんな状態に至らず、すみやかに撃破することが出来たのは、実に田原坂戦の勝利によります。ああ、誠に死者の功績は大きく、そのままにしておけない痛ましいことである。そこで碑を田原坂の坂上に建て、このことを記し、忠烈な戦いを顕彰するものである。明治十三年十月 陸軍大将二品大勲位 熾仁親王撰文竝篆額陸軍省六等出仕従六位勲五等秋月新太郎書なお、この崇烈碑建立の経過について明治十三年九月十三日五野保萬日記によると鹿本郡植木町大字豊岡(田原坂)の山中において、過る十年に、鹿児島の西郷隆盛が事変を起こしたことや、その経過等について大石記すこととなった。ところでこの石は、~略~八代港に着船した。この石は白く、石幅は約一.二〇m、長さ約四.五〇m。重量約三、六〇〇kg、これを運搬することは大変な作業であった。車に乗せ牛十五頭、作業人員三十名(石工、大工、人夫)が各々作業をして六十日を要し、斬く田原坂上に到着した。来年の三月に建立完成の子定である。碑には当時の戦闘の様子を詳細に記載し、将来になってもその当時の状況が判るよう、政府から建立されるものである。国もそうであるように、自分も又碑石建立の経路を、後世の為に書き遺しておく。とある。平成五年三月 植木町教育委員会」「田原坂 一の坂・二の坂・三の坂麓の豊岡眼鏡橋からの標高差は僅か80mの田原坂。一の坂、二の坂、参の坂と頂まで1.5kmの曲がりくねった道が続く。この道だけが唯一大砲を曳いて通れる道路幅(3m~4m)があり、この坂を越えなければ官軍の砲兵隊は熊本へは進めなかった。また、薩軍にとっては生死を制する道である。ともに戦略上の重要地であり、この平凡な坂道が激戦の舞台となった。熊本城からこの田原坂までくり抜いた凹道となっていた。故に、前方の藪や左右の高所より銃撃を受けやすく攻め難い要地であった。」「正面に見えるのが田原坂です。」「民謡 田原坂一、雨は降る降る 陣羽(じんば)は濡れる 越すに越されぬ 田原坂ニ、右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱(たづな) 馬上ゆたかな 美少年三、山に屍(しかばね) 川に血流る 肥薩(ひさつ)の天地 秋にさびし四、草を褥(しとね)に 夢やいずこ 明けのみ空に 日の御旗(みはた)五、泣くな我が妻 勇めよ男子ら 戦地に立つのは 今なるぞ」元歌は一番とニ番だけだと。その他にも色々な歌詞も多いようだが、それらは後になって創作されたものと。特に日露戦争の後に、西南戦争とダブルイメージされて、お座敷遊びの歌として、様々な歌詞が、次々とうまれのだと。歌詞は数えきれない程あるのだと。「玉名市玉名 西南戦争の本営跡1877年(明治10)の西南戦争の時、高瀬に進出した官軍(政府軍)が薩摩軍を追って、さらに田原坂方面に進撃するまで、官軍野津鎮雄(少将)司令長官ら、首脳が作戦会議など開いた場所。熊本城は薩摩軍の大軍に囲まれ、一刻も早く応援軍を待つより方法はありませんでした。熊本軍団の伍長・谷村計介は、農夫に変装し城を脱出しました。再三、捕えられますが、運よく、脱出に成功します。辛い苦労を重ねて高瀬の本営付近に達することができましたが、心身ともにやつれた谷村の容姿は、忍びの者として官軍に捕えられます。野津司令長官の前で、熊本軍団の谷司令長官の言葉と暗号で熊本城中の悲惨な状況を伝えました。野津司令長官はその働きを誉め讃えたそうです。この谷村伍長の話は、戦前の修身(道徳)の教材となっていました。」この案内板がなぜここに? 史実からいろいろな経緯が感じられる案内板なのであった。「田原坂附近之戦略図」。「田原坂の攻防戦詳報明治維新は明治十年西南役(日本史最終最大の骨肉相喰む内乱)の終結によって確立いたしました。その西南の役の勝敗を決定づけたのが明治10年3月4日に始まり3月20日まで17昼夜にわたる、その戦役中、最も惨憺激烈を極めた田原坂の戦闘であります。「官薩両軍共に精鋭をここに傾倒して、一攻一守、一与一奪、彼必死、突撃すれば我死守し、彼死守すれば、我れ必死突撃する。或日には暗雲空を覆って大雨盆をくつがえす如く、或朝は深霧漠漠として陽光ためにもうもう、或夕べには 天色惨憺として、細雨霏霏、嗚呼銃砲は連発畳射して、硝煙の間に剣光ひらめき、人叫び 馬いな鳴き、田原全山の草木ことごとく射断されて、血河の中に屍累累」と当時の状況を表現してあります。官軍から発射された弾丸は1日平均32万発と云われております。かりに明治37、8年日露戦争旅順攻撃当時の1日平均発射弾数30万発でありますが、これに加えこれに負けじと打ちまくった薩軍の弾数を入れますと如何に激烈を極めたか、窺うに足ると思います。民謡にあります「雨は降る降る人馬は濡れる越すに越されぬ田原坂」うまい表現で当時を描写されております。(中略)19日は曇後雨、夜半から薩軍にとって運命の大豪雨となる。20日夜来の豪雨止まず、先ず七本の柿木台場奪取されて17昼夜間の官薩相ゆづらぬ攻防戦、田原坂遂に陥落」志賀青研の句碑があった。平成8年(1996年)6月、建立。【たゝかひの あとゝし 花のちるばかり】裏面には「平成八年六月 建立熊本市 花鳥句会志賀青研 大正ニ年生俳句を高浜虚子門として花鳥諷詠の道を精励す俳誌ホトトギス同人 日本伝統俳句協会参与 俳誌阿蘇当季雑詠選者」この碑は裏面か?「勇知之(いさみともゆき)文学碑」。『そこには いつも 故郷の山々が あった』。裏面には、勇知之の人となりが紹介されていた。勇知之氏は、昭和二十一年一月植木町に生れる。昭和四十六年から長きにわたり、主に熊本の歴史を研究し、作品を通して普及活動を続けている郷土史家・小説家です昭和四十六年に荒木精之氏主催の「日本談義」の同人となり、これまてに「西南の役」関連等、史実に基づいた郷土史や小説をニ十冊出版されています。また、県内各地の公民館等で「郷土史講座」を開催するほか、全国各地からの招へいに応し講演活動を行うなど、熊本の歴史・文化の普及活動や、後進の指導にも努めておられますさらに、故郷の植木町(現在は熊本市植木町)にあっては、町史編篳委員として町史発刊に携わり、町の文化財保護委員や文化振興アドハイザーを歴任するなど指導力を発揮し、地域の文化振興に貢献されています。このように、氏は、本県の史実を深く研究し、その普及啓発活動を通して、本県の文化振興に大きく貢献されています。「蓮田善明先生文学碑」。『ふるさとの 驛におりたち 眺めたる かの薄紅葉 忘らえなくに』「蓮田善明君は明治丗七年七月廿八日父慈善母ふじの三男として植木町に生れ〇〇広島高師広島文理大に学んで國文学を専攻職を岐阜二中諏訪中台中商業成城高校に奉じまた同志と計って雑誌文芸文化を公刊した雨来君は民族詩心の恢弘に努め鴎外の方法その他多くの述作を遺しその清新卓抜の論は江湖に普く宣伝されたが昭和十三年秋召集将校として中國に渡り更に十八年秋には南溟の戦に参加し廿年八月十九日マレー半島ジョホールバールにおいて壮烈な最期を遂げた君は性来篤実にして真摯特に近親知知に対する愛情濃かで寸刻を惜しんで学究に精励したその性の清潔と学風の高邁さはまさに秀達の一語に盡きよう今はその短命を惜しむと共に永く祖国の上に君の冥護あらんことを祈り旧友相はかってこの碑を建てる昭和三十五年八月」「水原秋桜子句碑」。昭和40年(1965年)11月16日、水原秋桜子は九州の旅に出た と。・「大綿や 古道いまも 越えがたき」・「辺見隊 守りし嶮ぞ 烏瓜」・「吉次越 狐の径と なりて絶ゆ」 と三つの句が刻まれていた。大綿は季語で冬虫のこと、辺見とは薩摩軍の隊長・辺見十郎太、吉次とは田原坂の近くのもう一つの激戦地、吉次峠のこと と。句碑「遠山ハ?かすみ 田原坂 古戦場 真済」。そして「田原坂パノラマガーデン激戦地、田原坂の当時の布陣と地形を再現したもの」。「田原坂パノラマガーデン」。ズームして。「田原坂の戦い2月28日以降、政府軍が後続部隊の到着を待つ間に薩軍は田原坂から東側の台地に無数の壕を掘り、強力な陣地を築いていた。激戦は3月4日午前6時雨をついての政府軍第1次総攻撃に始まったその後3月20日第6次総攻撃で突破するまで、押しつ押されつの激戦が、1 7日間続けられた。政府軍の1日平消費弾丸は32万発、旧式銃で雨のため発射能力の落ちた薩軍は抜刀して対抗した。田原坂の戦いで、戦死したり負傷したりした人は両軍あわせて約5,000人にもなる。」当時の地形および両軍の戦闘布陣を再現したジオラマ。更に進んで別の角度から。「3月20日 田原坂突破時の両軍」。「田原坂17日間の戦い3月4日雨 政府軍、本軍は田原坂を攻撃しようとしたが失敗。右翼隊ニ俣に進出占領。 5日雨 局部的に薩軍の攻撃。政府軍、木葉の本営で6日よりの攻撃部署について協議。 6日時 政府軍、攻撃目標を田原坂に限定し、三方面、、左(豊岡ロ) 正面(境木ロ) 左(ニ俣ロ)より攻撃したが不成功。 7日曇 政府軍は主功方向をニ俣正面に変更。砲隊の支援を受け、ニ俣の谷を越え、東側台上の 薩軍陣地の数火点を占領したが、反撃により台の下に後退する。 8日晴 政府軍は昨日の部署で攻撃したが進展せす。 9日晴 政府軍は従前の部署で攻撃。この日横平山の重要性が判り、火点3コを奪取したが、 この後横平山の争奪戦が連日行われる。 10日雨 休戦。 11日雨 政府軍は横平山、ニ俣、田原の三正面で攻撃。ニ俣正面は砲ハ門で攻撃したが、 十分な効果はなかった。 12日晴 政府軍、ニ俣地区では陸地数箇所を薩軍に奪われる。 13日雨 大きな戦闘はなかった。南関の警視隊から百名を選び抜刀隊を編成する。 14日晴 政府軍は砲隊の支援射撃を受け、抜カ隊を加えて田原坂の薩軍陣地を攻撃し、 3火点を奪取したが後続部隊がなく撤退する。 15日晴 早朝薩軍は横平山の政府軍陣地を攻撃し、政府軍敗退する。警視隊を加え反撃し 午後4時奪回する。 16日晴 田原、ニ俣方面で砲戦を交わす。 17日晴 政府軍、ニ俣より船底を攻撃。砲隊の支援を受け田原本道を攻撃し、3火点を 奪取する。 18日晴 政府軍、田原正面の攻撃をしたが戦況は進展せす。薩軍も熊本隊の救援を受ける。 19日晴 休戦。政府軍は木葉で軍議を開き20日からの攻撃部置を決定する。 20日雨 ニ俣の政府軍は午前5時守戦を出発し、午前6時諸隊一斉に攻撃を開始する。 右翼隊は薩軍(守備高鍋隊)の火点を占領。一部で田原坂を背面攻撃し、 午前10時頃占領。 先峰の隊は午前11時頃植木に進出する。」「田原坂(一の坂・二の坂・三坂)丘の麓の境木部落と田原坂上まで標高差80m、距離にして1,500mで、当時としては道幅も広く鈍角に屈曲した切り通しの坂道である。この切り通しの凹道(堀切道)と、起伏とは、加藤清正の熊本城築城当時、戦術上の意図でわざと作ったものであるという。高瀬(玉名)から熊本へ行くにはいくつかの道があったが田原坂だけが砲隊を進めることのできるただ一つの道で、他の山道は道幅、地形等からして砲隊の前進を拒絶していた。このため薩軍はこの田原坂に防御力を集結した。官軍もこの坂が堅固な要塞と化していることを知りながら他の道を迂回しようとせず正面から堅陣への激突を繰り返した。」「西南戦争当時の田原坂」と「現在の田原坂」。「田原坂公園」はツツジの名所でもある。春になれば。 【https://kumamoto.guide/seasons/azalea/】より「木葉山」を見る。「玉東町」にも多くの遺跡があると。わずかに「雲仙岳」の姿が確認できた。更に「雲仙岳」をズームして。「雲仙岳」。「三ノ岳」。「三ノ岳」下の遺跡案内。そして最後に「田原坂公園展望所」前から「熊本市田原坂西南戦争資料館」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.14
閲覧総数 578
24

Royal Albert Hall・ロイヤル・アルバート・ホールの西側を歩き北側へ。西側入口(West Porch) を斜め正面に見る。・中央左のアーチ → 「ROYAL ALBERT HALL」と金文字が掲げられた西玄関。 現在、一般来館者が最も多く利用する主要出入口。・バナー旗(Welcome) → 「Welcome」の文字と共に、イベント案内や来館者向けのカラフルなバナーが並んでいた。 青、赤、紫など色分けされており、施設案内や各種プログラムの告知を兼ねていた。・背景のフリーズ(装飾帯) → 建物上部を一周するテラコッタ製の装飾帯には、「芸術と科学の勝利(The Triumph of Arts and Sciences)」と題された連続レリーフが見えた。 人類の活動(音楽・学問・産業・農業など)を寓意的に表したもの。この西側ポーチは、 南の「ダイヤモンド・ジュビリー・ステップス」、 北の「アルバート記念碑と対面する正面ポーチ」と並ぶ、ホールの三大出入口のひとつ。ロイヤル・アルバート・ホール(Royal Albert Hall)の入口「DOOR 6」に近づいて。・上部: 「ROYAL ALBERT HALL」の金文字サイン。・中央: 「DOOR 6」と大きく表示。観客の入退場に使われる個別ゲートのひとつ。・下部の案内表示: ・「Go to Door 12 for:」とあり、以下の施設がDOOR 12に集約されていると説明。 ・Box Office(チケット売り場) ・Gift Shop(ギフトショップ) ・Tours Meeting Point(館内ツアー集合場所) ・Food and Drink(飲食施設)さらに中央にはホールを円形に見立てた図(扇形の配置図)があり、入口番号が時計のように配置されていることがわかったのであった。そして正面に見えたのがアルバート記念碑(Albert Memorial)。・建立:1872年完成・建立者:ヴィクトリア女王(1819–1901)が、1861年に逝去した夫 アルバート公 (Prince Albert, 1819–1861) を偲んで建てさせた記念碑。・建築様式:ゴシック・リヴァイヴァル様式(ジョージ・ギルバート・スコット設計)。 高さ約54m。・中心像:金色に輝くアルバート公の坐像。 手には「1851年ロンドン万国博覧会」の目録を持ち、 彼の文化・科学振興の功績を示しているのだ と。アルバート記念碑(Albert Memorial)をズームして。場所は ケンジントン・ガーデンズ(Kensington Gardens) の南側、ロイヤル・アルバート・ホールの真正面に位置。・中央下部(金色の像) ヴィクトリア女王の夫であった アルバート公(Prince Albert) の座像。 右手には 「大博覧会カタログ」 を持ち、これは1851年の「ロンドン万国博覧会」に 深く関わったアルバート公の業績を象徴。・中央上部(屋根の三角破風部分) 三角破風内にはモザイク画(Mosaic)があり、寓意的人物像(Arts, Sciences, Learning など 文化的主題)を描いていた。・尖塔・彫刻装飾 ゴシック様式の華麗な尖塔群と、黄金で装飾された聖人像や寓意像が立ち並び、アルバートの 栄誉を永遠に記念する構造になっていた。・全体構造 白大理石の基壇 → 金のアルバート像 → ゴシック様式キャノピー(天蓋) → 上方に高く 伸びる尖塔、とピラミッド状に積み上げられていた。ロイヤル・アルバート・ホール(Royal Albert Hall) の北口正面入口。ロイヤル・アルバート・ホールは 1867–1871年 に建設され、当初から アルバート記念碑(Albert Memorial) と真正面に向かい合う配置で設計された。したがって、ここ北側(ケンジントン・ゴア側、Albert Memorial を望む側) が建築的に「正面 façade」とされているのだ と。よって、こちらがロイヤル・アルバート・ホールの“顔”ともいえる正面入口。掲げられていた旗は「Progress Pride Flag(プログレス・プライド・フラッグ)」(ネットから)。・1978年にギルバート・ベイカーがデザインした「レインボーフラッグ」は、性的少数者 (LGBT)の誇りと多様性を象徴しました。・しかし時代が進むにつれ、特に有色人種コミュニティやトランスジェンダーの人々の経験 が十分に反映されていない、という声が高まりました。・そこで2018年、ダニエル・クアサー(Daniel Quasar) が新しいデザインとして 「プログレス・プライド・フラッグ」を提案しました。・虹色の6色:従来のレインボーフラッグ(多様性の象徴)。 赤:生命 橙:癒し 黄:太陽・光 緑:自然 青:平和・調和 紫:精神・三角形の追加部分:左側に黒・茶・白・水色・ピンクが加わっています。 ・黒と茶:人種的多様性(有色人種コミュニティ)への包摂。 ・水色・ピンク・白:トランスジェンダーの旗を組み込み。 ・黄色地に紫の円:最近のバージョンでは「インターセックス(Intersex)」を象徴する 要素が加えられています。この白い大理石像は、プリンス・アルバート公(Prince Albert of Saxe-Coburg and Gotha, 1819–1861)― ヴィクトリア女王の夫 ― 。ロイヤル・アルバート・ホールは彼の名を冠して建設され、彼の文化・教育振興の理念を記念するために数々の像や装飾が配置されているのだ と。・衣装:軍装風の制服にマントを羽織り、威厳ある立ち姿。・勲章のチェーン:胸にはガーター勲章(Order of the Garter)などの首飾りが掛けられていた。・ポーズ:左手は腰に置き、右手は少し握りかけて下げる ― 思索的で品位ある姿勢。・様式:ネオクラシカルな大理石彫刻で、ホールのファサード(外壁)に設置されている ニッチ(壁龕)の中に収められていた。ヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819–1901)像。ロイヤル・アルバート・ホールは、彼女の夫 アルバート公 を記念して建てられましたので、正面に並んでヴィクトリア女王とアルバート(夫)とが配置されていた。・王冠:イギリス女王としての権威を示す王冠を戴いていた。・装束:重厚なローブ(マント)と長衣をまとい、威厳ある姿。・持ち物:右手には笏(sceptre、王笏)を持ち、君主としての権力を象徴。・表情と姿勢:荘厳かつ厳格な立ち姿で、アルバート像と対を成していた。ロイヤル・アルバート・ホール(Royal Albert Hall)北正面(メイン・エントランス) の中央アーチ部分を振り返って。・上部に「ROYAL ALBERT HALL」と金色で刻まれたサインが。・扉の両脇には、現在のコンサートやイベント(この日は Holly Johnson)のポスターが 貼られていた。・黒地に「RAH」のモノグラム(王冠付き)が中央にあり、ホールの公式ロゴデザインである。・ガラス越しに、正面向かいにある アルバート記念碑(Albert Memorial) の黄金像が反射で 見えていた。ロイヤル・アルバート・ホール東側(Kensington Gore沿い)に建つ赤レンガの壮麗な建物群。これは Albert Hall Mansions(アルバート・ホール・マンションズ)と呼ばれる高級アパートメント群であったようだ。・1870年代に建設されたビクトリア様式の集合住宅。・赤レンガと石材の装飾を組み合わせた外観で、ロイヤル・アルバート・ホールと景観的に 調和するよう設計されたのであろう。ケンジントン・ガーデンズ(Kensington Gardens)とハイド・パーク(Hyde Park)一帯の案内地図。ケンジントン・ガーデンズ(Kensington Gardens)南部をフォーカスして。下中央右に「YOU ARE HERE」と。この後に訪ねたKensington Gardens 内の主要施設。・Round Pond(ラウンド・ポンド)(左上):ケンジントン宮殿の前に広がる池。・The Long Water(ロング・ウォーター)(右上):ハイド・パークへ続く湖。・Physical Energy Statue(フィジカル・エナジー像)(上部中央):ジョージ・ワッツ作の 大きな騎馬像。 ・Queen Caroline’s Temple(カロライン王妃の神殿)(右中):18世紀の小さな庭園建築。アルバート記念碑(Albert Memorial) を南側(ロイヤル・アルバート・ホール方向)から。・中央の金色の像 アルバート公(Prince Albert, ヴィクトリア女王の夫)を表す座像で、1876年に完成。 彼は「グレート・エキシビション(1851年万国博覧会)」の主催者としても有名。・ゴシック・リバイバル様式の天蓋(カノピー) 金箔で装飾された高さ約54mの塔が、公の像を覆っていた。 建築家ジョージ・ギルバート・スコット卿(Sir George Gilbert Scott)の設計によるもの。・基壇の白い大理石彫刻群 4隅に配置された群像は「四大陸」を寓意していると。・さらに基壇の周囲 彫刻家たちによる「芸術・科学・産業・農業」を象徴する彫刻群が飾られており、 19世紀英国の進歩と繁栄を象徴 と。アルバート記念碑(Albert Memorial)前に設置されている解説板 。全体を「Take a closer look…」と題して、モニュメントの構成要素を分かりやすく説明。アルバート記念碑(Albert Memorial)の解説板の中央部分に近づいて。1.CROSS(十字架) 塔の最上部のクロス。2.ANGELS(天使像) 塔の上部に配置された黄金の天使像群。3.THE FOUR ARTS(四芸術) 装飾モザイク(絵画・彫刻・建築・音楽)。4.CELEBRATION(祝典モザイク) 尖塔破風に描かれた寓意モザイク。5.PRINCE ALBERT(金色の座像) 中央に座るアルバート公。6.CANOPY(天蓋の装飾) 四方を覆う天蓋と彫刻装飾。7.INDUSTRIAL ARTS(産業芸術の彫刻群) 基壇部分に表現されている産業革命の象徴。8.THE CONTINENTS(四大陸群像) 台座四隅の巨大な白い大理石群像(Africa/Asia/Europe/America)。左側の1~5の案内。「1.CROSSThis cross, influenced by those flourish of medieval architecture, reflects the Christianinspiration that lay behind Albert’s principles. Sitting abovethe apex of a spire,it symbolises hope.」 【1. 十字架(CROSS)この十字架は、中世建築の装飾的な様式の影響を受けており、アルバート公の理念の背後にあったキリスト教的霊感を反映している。尖塔の頂点に掲げられ、希望を象徴する。】十字架(CROSS)の下の2段の黄金の天使像。Sculpted by John Birnie Philip(ジョン・バーニー・フィリップ作)上部・4体の黄金の天使像(Angels) ・記念碑の尖塔(spire)の最上段に位置し、四方を向く形で配置。 ・各天使は両腕を大きく広げ、上方や外側を指し示す姿勢。 ・これは 「神への祈り」や「霊的な守護」 を象徴し、アルバート記念碑全体を天上界へと 結びつける役割を持ちます。 ・ゴシック様式の塔尖部をさらに荘厳にするために、まばゆい金箔仕上げが施されている。下部・4体の黄金の立像(Virtues, or Angels with Instruments) ・4体の立像が四方に配置され、それぞれが外側に向けて腕を広げています。 これは「迎え入れる」「祝福を広げる」ようなジェスチャーで、象徴的には 慈愛・受容・調和 を示すものと考えられます。 ・中央には翼を大きく広げた 黄金の大天使像(背後に配置)がおり、天上界への導きと 記念碑の精神的守護を表しています。「2. VIRTUESThe four figures on the corners represent the moral virtues of prudence, temperance, fortitude and justice. They also embody the Christian virtues of faith,hope, charity and humility.」 【2. 美徳(VIRTUES)四隅に立つ4体の像は、「分別・節制・剛毅・正義」という道徳的美徳を表す。また、キリスト教的美徳である「信仰・希望・慈愛・謙遜」をも体現している。】「不屈の精神、慈愛、そして慎重さ」像をズームして。 「3. THE FOUR ARTSThese triangular mosaics represent the arts of poetry, painting,architecture and sculpture. Each is supported by two smaller mosaics underneath, huggingthepointed arch.」【3. 四芸術(THE FOUR ARTS)三角形のモザイクは、「詩・絵画・建築・彫刻」という芸術を表現している。各モザイクの下には、さらに2枚の小さなモザイクがあり、尖塔アーチを抱き込むように配置されている。】「ポエシス」をズームして。 ネットから。「4. DEDICATIONAbove each pointed arch is a dedicatory message that underlines the memorial:“To the memory of Albert, Prince Consort. As a tribute of their gratitude.For a life devoted to the public good. Queen Victoria and her people.”」 【4. 献辞(DEDICATION)各尖塔アーチの上には、記念碑を裏付ける献辞が刻まれている:「アルバート公コンソートの記憶に。感謝のしるしとして。公共善に尽くした生涯に。ヴィクトリア女王とその国民より。」】下の写真には「QUEEN VICTRIA AND HER PEOPLE(ヴィクトリア女王とその国民より)」。 「5. SCIENCESThese eight sculptures, in two tiers, represent the sciences.Four at the bottom symbolise chemistry, astronomy and geology. The top four represent rhetoric, medicine,philosophy and physiology.」 【5. 科学(SCIENCES)8体の彫像が2層に配置され、科学を表している。上段の4体は「幾何学・天文学・化学・地質学」を象徴し、下段の4体は「生理学・レトリック(修辞学)・医療・哲学」を象徴している。】ネットから、「2.天文学」 を。右側の6~10の案内。「6. CANOPYThe ornate underside of this canopy features the coats of arms belonging to both Queen Victoria and Prince Albert. The Latin motto, ‘Prince Albert - of Faithful andTrue’ They sit amongst a sea of golden stars.」 【6. 天蓋(Canopy)この天蓋の豪華な内側には、ヴィクトリア女王とアルバート公の紋章が描かれています。ラテン語のモットー「忠実かつ誠実なるアルバート公」が記され、黄金の星々に囲まれています。】ネットから。「7. PRINCE ALBERTAlbert is shown in an informal rather than regal pose. In his hand he holds a copy of the catalogue of the Great Exhibition of 1851, which he helped to organise.」【7. アルバート公(Prince Albert)アルバート公は威厳ある王侯の姿ではなく、親しみやすい姿で表されています。手には彼が組織に尽力した「1851年大博覧会のカタログ」を持っています。】ネットから。 「8.INDUSTRIAL ARTSThis series of four sculptures represents agriculture, manufacture, commerce andengineering. They link Prince Albert to industrialised Britain.」 【8. 産業芸術(Industrial Arts)4体の彫刻群は農業・製造業・商業・工学を表しています。これらはアルバート公と産業化された英国とを結び付けています。】アルバート記念碑(Albert Memorial) の四隅にある「産業芸術(Industrial Arts)」群像のひとつ、「Agriculture(農業)」を表す彫刻。1.中央の女性像(擬人化された農業の女神) ・優雅な立ち姿で、前にいる男性へと手を差し伸べています。 ・その姿は、農業が人々に「恵み」を授ける様子を象徴しています。2.左の男性像(農夫・技術者) ・膝をつき、手には「鎌」や「測定器具」のようなものを持っています。 ・背後に農耕用の道具(犂や車輪)が配置され、労働や農業技術を象徴しています。3.右下の女性像(豊穣の象徴) ・座った姿で、膝には「収穫した麦の束」を抱えています。 ・これは「豊穣」「収穫の恵み」を示し、農業の成果を表現しています。4.象徴物 ・麦の束(豊穣) ・農具(生産) ・計測器(科学的農法の導入)「産業芸術(Industrial Arts)」群像のひとつ、「Manufactures(製造業)」を表す彫刻。1.中央の女性像(擬人化された製造業の女神) ・威厳ある立ち姿で、片手には「織機の杼(シャトル)」を持っている。 ・彼女は「製造・生産」の知恵を与える存在。2.右の男性像(力強い労働者) ・半裸の筋肉質な姿で立ち、大きな槌や金属加工の道具を持っている。 ・これは「工人・鍛冶職人」を象徴し、製造業に不可欠な肉体労働を表現。3.左の人物(作業に従事する女性) ・下を向き、織物あるいは道具を扱っている姿。 ・繊維産業や衣類生産を象徴。4.下部の人物(若い男性) ・車輪や歯車に触れている姿。 ・これは産業革命を象徴する「機械化」「工業生産」の意味を持つ。Industrial Arts(産業芸術) 群像のひとつ、「Commerce(商業)」を表す彫刻。1.中央の女性像(商業の女神) ・威厳ある立ち姿で群像を統括。 ・彼女は「商業そのものの擬人化」であり、交易を監督する立場を示しています。2.左の若者(ヨーロッパ風の商人) ・手に巻物(契約書や商業文書)を持ち、知識と取引を象徴。 ・若さは「未来の発展」を表します。3.右の人物(東洋風の商人、ターバン姿) ・国際交易・海外貿易を示す異国風の姿。 ・19世紀の大英帝国のグローバル貿易を象徴しています。4.前景の人物(地図や商品を広げる姿) ・足元に帳簿や商品を並べ、実際の交易を支える役割。 ・実務的な商業活動を表現しています。Industrial Arts(産業芸術) 群像のひとつ、「Engineering(工学)」を表す彫刻。1.中央の女性像(工学の女神) ・群像全体を統括する中心的存在。 ・片腕を差し伸べる姿で「導き」と「指導」を象徴しており、科学知識と技術革新を人々に 授ける役割を担う。 ・工学そのものの擬人化であり、産業革命期の技術進歩を象徴。2.左手前の男性(工兵/建設労働者) ・座った姿で作業具(石材や測量器具)を扱っている。 ・土木や建築技術を担う存在として、工学の基盤を象徴。3.中央手前の青年(技術者) ・前傾姿勢で器具を操作するように描かれている。 ・実際に機械や道具を扱う「現場の技師」を表現。 ・新しい技術の創造的応用を象徴している。4.右手前の若者(発明家/工学徒) ・両手に機械部品(歯車や道具)を持ち、工学の進歩に直接関わる姿。 ・若さは「未来の技術発展」「新世代の革新」を示す。「9. FRIEZEThe ‘Parnassus frieze’ depicts 169 figures of greats like Shakespeare and Beethoven. The sculpture is based on Raphael’s fresco, designed by artists Henry Hugh andVenetian company.」 【9. フリーズ(Frieze)「パルナッソスのフリーズ」にはシェイクスピアやベートーヴェンといった169人の偉人たちが描かれています。これはラファエロのフレスコ画に基づき、芸術家ヘンリー・ヒューズやヴェネツィアの工房が手掛けました。】ネットから。フリーズ(Frieze・水平の帯状の部分)をズームして。アルバート記念碑(Albert Memorial, ケンジントン・ガーデンズ)にある彫刻装飾の一部「フリーズ・オブ・フェイマス・メン(Frieze of Parnassus)」 。このレリーフは、芸術や学問の偉人たちを浮彫で表したもので、記念碑の基壇部をぐるりと取り囲むように配置されていた。全部で 169人の文化人・芸術家・科学者など が登場する と。アップロードされた部分には、以下のような著名な人物が含まれていると(彫刻下部の銘文から判読可能)Leonardo da Vinci(レオナルド・ダ・ヴィンチ)Raphael(ラファエロ)Michelangelo(ミケランジェロ)Donatello(ドナテッロ)Titian(ティツィアーノ)これらはルネサンス期の巨匠たちで、特に中央に座っている人物は Homer(ホメロス) が象徴的に置かれ、彼を囲むように芸術家・思想家たちが並んでいる と。アルバート記念碑の全体案内。写真中央に描かれている人物は、アルバート公(Prince Albert, 1819–1861)。「THE ALBERT MEMORIALThe premature death of Prince Albert (1819–1861) was a shock that sparked a nation’s grief. Queen Victoria (1819–1901), consumed with sadness, commissioned this magnificent memorial to her beloved husband.」 【アルバート記念碑(The Albert Memorial)アルバート公(1819–1861)の早すぎる死は国中に衝撃を与え、人々を深い悲しみに包みました。ヴィクトリア女王(1819–1901)は悲嘆に暮れる中、最愛の夫のためにこの壮大な記念碑を建てることを命じました。】「WHO WAS PRINCE ALBERT?Albert of Saxe-Coburg and Gotha married his cousin Queen Victoria in 1840.A talented and cultured man, he supported the arts, science, trade and industry.He was instrumental in organising the Great Exhibition of 1851, and promoted socialissues such as housing and education.」【アルバート公とは誰か?ザクセン=コーブルク=ゴータ家出身のアルバート公は、1840年に従姉のヴィクトリア女王と結婚しました。教養豊かで有能な人物であり、芸術・科学・貿易・産業を支援しました。彼は1851年の「ロンドン万国博覧会(大博覧会)」の開催に尽力し、住宅や教育などの社会問題の推進にも関与しました。】「WHY HERE?The memorial was designed by George Gilbert Scott and unveiled in 1872. The location was chosen for its line of sight across to the Royal Albert Hall, creating anenduring visual connection between the two monuments.」【なぜここに?記念碑はジョージ・ギルバート・スコットによって設計され、1872年に公開されました。この場所は、向かいに建てられたロイヤル・アルバート・ホールと視覚的なつながりを持たせるために選ばれました。】「RAISING THE MEMORIALThe memorial cost £120,000, paid for by public subscription. Hundreds of leadingsculptors and craftsmen of the day were involved. The statue of Albert, designed byJohn Henry Foley, was gilded in 1875.」【記念碑建立建設費用は12万ポンド、すべて国民からの寄付によって賄われました。当時の多数の著名な彫刻家や職人が制作に携わりました。アルバート像はジョン・ヘンリー・フォーリーによってデザインされ、1875年に金箔が施されました。】 A LATE ARRIVALThe statue of Albert was not ready in time for the unveiling of the memorial in 1872. It was finally installed three years later, in 1875.「Quotation (bottom right, attributed to Queen Victoria):“His life is a work, a vast, and earnest, and end as a work. More than his great intellect, his affection is difficult to describe. His perfection, perception in every way — in beauty,in everything.”」 【引用(ヴィクトリア女王)「彼の人生は一つの作品そのものでした。壮大で真剣で、そして完成された作品でした。偉大な知性以上に、彼の愛情を言葉で表すことは難しいのです。彼はあらゆる意味で完璧で、審美眼を備え、美しさにおいてもすべてにおいても。】再びアルバート記念碑(Albert Memorial)をズームして。アルバート公(Prince Albert)。移動して横から。後方から。アルバート記念碑の四隅の大陸群像(The Continents) のひとつで、モチーフから判断すると南東・「Asia(アジア)」像。・象(Elephant):アジアを象徴する動物として必ず登場。・人物群: ・玉座に座る女性像 → アジア大陸の擬人化(女神像のような表現)。 ・周囲に東洋風の衣装や頭飾りをまとった男性像(ターバン姿、東アジア風、ペルシャ風など)。・象の装飾:頭部の布飾りが「異国・東洋」を象徴。移動して南東・「Asia(アジア)」像を。四隅の大陸群像(The Continents) のひとつで、こちらは南西・「Europe(ヨーロッパ)」像を表す。・牛(Bull):ギリシア神話の「エウロペとゼウス(牡牛に変身したゼウス)」に由来し、 ヨーロッパの象徴。・中央の女性像(冠と笏を持つ女王風):ヨーロッパの擬人化(権威と統治の象徴)。・周囲の女性像たち:文化・学問・芸術を象徴する従者的存在。移動して南西・「Europe(ヨーロッパ)」像を。四隅の大陸群像(The Continents) のひとつで、こちらは北西・「AMERICA(アメリカ)」像を表す。・主な動物:バイソン(アメリカバイソン) アメリカ合衆国の国獣に指定されており、合衆国では毎年11月の第一土曜日は バイソンの日に制定されている。・人物特徴:羽根飾りを持つ人物、開拓民・先住民を想起させる像・象徴するもの:新世界アメリカ、自然とフロンティア精神・識別ポイント:バイソンの大きな頭部、アメリカ先住民的衣装の人物像。移動して北西・「AMERICA(アメリカ)」像を。四隅の大陸群像(The Continents) のひとつで、こちらは北東・「AFRICA(アフリカ)」像を表す。・主な動物:スフィンクスやラクダ・人物特徴:アフリカ的要素(頭飾りや裸身)、 ナイルを象徴するモチーフも見られる・象徴するもの:アフリカ大陸、特にエジプト文明・識別ポイント:ラクダまたはスフィンクス像が必ず含まれる。移動して北東・「AFRICA(アフリカ)」像を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.11.05
閲覧総数 383
25

【海外旅行 ブログリスト】👈️リンクAlbert Memorial・アルバート記念碑を後にして、Kensington Gardens(ケンジントン・ガーデンズ)を歩き、Kensington Palace(ケンジントン宮殿)方向に進む。写真の並木は、ハート形の鋸歯のある葉・こんもりした樹形から見てリンデン(ボダイジュ/lime tree)、とくに セイヨウボダイジュ(Tilia × europaea, common lime)の並木であっただろう。ケンジントン宮殿(Kensington Palace)が右手斜め前方に現れた。ケンジントン・ガーデンズの中にある赤レンガの宮殿で、17〜18世紀にかけてクリストファー・レンらが増改築しました。かつてウィリアム3世&メアリー2世、ジョージ1世・2世、そしてヴィクトリア女王が幼少期を過ごした王宮として知られ、現在は公開エリア(ステート・アパートメントや企画展)と王室関係者の居住・事務スペースが同居しています。宮殿の外壁の一部が保守工事用の足場とシートで覆われ、手前にはケンジントン・ガーデンズの草地(ワイルドフラワー・メドウ)が広がっていた。見えている翼は宮殿本体の外観の一部で、見学者が入る公開エリアはこの建物群の反対側の入口側から入場するのだと。この案内板は ケンジントン宮殿(Kensington Palace) のウェルカムボード。「WELCOME TOKENSINGTON PALACEPublic palace Family homeWelcome to Kensington Palace, hometo Britain's young royals for 300 yearsDISCOVER300 years of Royal HistoryTake a glimpse into the private lives of the Stuartmonarchs, the glittering court of the Georgiansand Queen Victoria's extraordinary childhood.EXPLOREThe palace is open all yearTravel back in time and walk in the footsteps ofkings, queens and courtiers discovering historywhere it happened.ENJOYThe taste of luxuryRelax with coffee in our café or afternoon teain beautiful surroundings and treat yourselfto an exclusive souvenir from our gift shop.Entry ticket not requiredSummer: 10:00 to 18:00Winter: 10:00 to 16:00(last admission 1 hour before closing)Please check website for detailsHISTORIC ROYAL PALACESWe are a team of people who love and look after six of themost wonderful palacesin the world. We create space for spirits to stir and be stirred. We want everyone tofeel welcome and accepted. We tell stories about the monarchs you know, and thelives you don’t. We let people explore and we set minds racing.We are a charity, andyour support gives the palaces a future, for everyone.To find outmore visithrp.org.ukSPACE TO STIR AND BE STIRREDTOWER OF LONDON . HAMPTON COURT PALACE . BANQUETING HOUSEKENSINGTON PALACE . KEW PALACE . HILLSBOROUGH CASTLE AND GARDENS」【ケンジントン宮殿へようこそ公共の宮殿、家族の住まいケンジントン宮殿へようこそ。ここは、イギリスの若い王族たちが300年間暮らしてきた住まいです。DISCOVER(発見)300年の王室の歴史スチュアート王朝の私生活、ジョージ王朝のきらびやかな宮廷、そしてヴィクトリア女王の特別な幼少期を垣間見ることができます。EXPLORE(探検)宮殿は一年中公開されています時をさかのぼり、王や女王、廷臣たちが歩んだ足跡をたどりながら、歴史が実際に起こった場所を探索できます。ENJOY(楽しむ)贅沢なひとときをカフェでコーヒーやアフタヌーンティーを楽しみ、美しい環境の中でくつろぎながら、ギフトショップで限定のお土産をどうぞ。※入場券は不要です。開館時間夏季:10:00~18:00冬季:10:00~16:00(最終入場は閉館の1時間前まで)詳細は公式サイトをご確認ください。HISTORIC ROYAL PALACESヒストリック・ロイヤル・パレス私たちは、世界で最も素晴らしい宮殿のうち六つを愛し、守り、世話をしているチームです。心が動き、また心を揺り動かされる場をつくります。誰もが歓迎され、受け入れられていると感じられることを願っています。皆さんが知っている君主たちの物語も、あまり知られていない人生の物語も語ります。人々が自由に探検できるようにし、想像力をかき立てます。私たちは慈善団体であり、皆さまのご支援が、すべての人のために宮殿の未来を支えます。詳しくは hrp.org.uk へ。心を揺さぶり、また揺さぶられる場所ロンドン塔 ・ ハンプトン・コート宮殿 ・ バンケット・ハウケンジントン宮殿 ・ キュー宮殿 ・ ヒルズボロー城と庭園・ロンドン塔】 ケンジントン宮殿(Kensington Palace) の正面中央に見えるのは ウィリアム3世(William III, 1650–1702) の銅像。・ウィリアム3世とその妃メアリー2世が、もともと「ノッティンガム伯の邸宅」であったこの建物を購入し、1690年代に「ケンジントン宮殿」として拡張しました。・彼らの時代以降、ケンジントン宮殿はイギリス王室の重要な居所となり、ヴィクトリア女王もここで生まれ育ちました。背景の赤レンガ造の建物は、クリストファー・レン卿の設計による増築部分で、シンプルながら王室の威厳を感じさせる「オランダ風クラシック様式」の外観。ウィリアム3世(William III, 1650–1702)・オレンジ公としても知られる。・1689年にイングランド王位に即位し、妻メアリー2世(Mary II)と共同統治。・いわゆる「名誉革命(Glorious Revolution, 1688)」を経て王位につき、立憲君主制の 基盤を築いた。・彼の治世は、イングランド銀行の設立や議会政治の強化など、近代的国家体制の形成に 大きな影響を与えた。」 台座の銘文(碑文)「WILLIAM IIIOF ORANGEKING OF GREAT BRITAINAND IRELAND 1689–1702PRESENTED BY WILLIAM IIGERMAN EMPEROR ANDKING OF PRUSSIA TOKING EDWARD VII FORTHE BRITISH NATION1907」【ウィリアム3世オレンジ公グレートブリテンおよびアイルランド王(1689–1702)この像は、ドイツ皇帝・プロイセン王ウィルヘルム2世より、英国王エドワード7世と英国民へ贈られたもの1907年】 ウィリアム3世(William III, 1650–1702) の像にズームして。🔹 特徴からの識別ポイント・17世紀後半のオランダ風の服装(膝丈の上衣・マント・大きな帽子)。・威厳のある立ち姿で、片手は腰に当て、もう片手には杖(司令杖のようなもの)を 持っています。・像は1713年に彫刻家 ジョン・マイケル・リスブラック(John Michael Rysbrack) に よって制作されました。🔹 歴史的背景・ウィリアム3世とメアリー2世が、ロンドン郊外の館を購入・拡張して現在の ケンジントン宮殿 としました。・宮殿を王室の居所にした功績から、彼を称えるためにこの像が設置されています。・像は1713年に鋳造され、オランダから輸入された青銅を用いています。1.衣装 ・17世紀末の軍装・王侯風の衣装をまとっています。 ・肩章・胸の飾り帯・長い外套は王としての威厳を示しています。2.帽子 ・羽飾り付きの広つば帽を被っています。 ・これはオランダ出身の彼の個性を強調するとともに、当時の騎士的・軍人的イメージを象徴。3.姿勢 ・堂々とした直立姿勢で、片手を腰に置き、もう片手に杖(司令杖=権威の象徴)を 持っています。 ・これは彼の軍事的指導力と王権の象徴です。ケンジントン宮殿(Kensington Palace)正面の金飾りの鉄製ゲート(ゴールド・ゲート)越しに宮殿を望む景観。🔹ゲートについて・名称:一般的に「Kensington Palace Gates」または「Golden Gates (ゴールデン・ゲート)」と呼ばれる装飾門。・特徴: ・黒い鉄製の門に、金箔で飾られたスクロール文様や王冠、植物装飾が施されている。 ・バロック様式のきらびやかな意匠は、17世紀末から18世紀にかけての王宮装飾の典型。 ・特に中央の門には王室紋章や百合・蔦をモチーフとした金装飾が集中しています。🔹背後の建物 ・奥に見えるのはケンジントン宮殿の南面(South Front)。 ・赤レンガ造りのシンプルなファサードは、ウィリアム3世とメアリー2世の時代に 建てられたオランダ風クラシック様式。 ・宮殿の正面中央には、先ほどご覧いただいたウィリアム3世像が配置されており、 このゲート越しに真正面に見えるよう設計されています。ケンジントン宮殿(Kensington Palace)正面玄関(西正面 / West Front)。1.中央の玄関ポーチ ・半円形の車寄せ(ポルチコ)付き玄関があり、ここが公式な来客用の出入口。 ・現在も王族の住居として使われるため、儀式や特別な訪問の際に利用されます。2.建物の構造 ・赤レンガ造りのジョージアン様式。 ・中央に三角破風のペディメントがあり、そこに大きな窓と装飾が配置。 ・左手は工事用の足場で覆われています(改修中)。3.前庭(Forecourt Garden) ・整然と刈り込まれた円錐形の植木が並び、バロック的なシンメトリーを形成。 ・正面の芝生広場は「到着の場(Arrival Court)」としての性格を持ちます。ヴィクトリア女王像(Statue of Queen Victoria)。近づいて。1.即位時の若きヴィクトリア女王 ・ケンジントン宮殿で生まれ、1837年に女王となったことを記念して制作。 ・若く清楚な姿で描かれており、他の「晩年の厳格なヴィクトリア像」とは対照的。2.服装と装飾 ・王冠を戴き、左手に宝珠(sovereign’s orb)、右手に笏(sceptre)を持ち、 戴冠式の姿を表現。 ・儀礼的な荘厳さの中にも、娘であるルイーズによる柔和で親しみやすい造形が感じられます。3.設置の意義 ・ヴィクトリア女王が生まれ育ったケンジントン宮殿と、その治世を記念するために設置。 ・宮殿を訪れる人々に「ここがヴィクトリア女王の生誕地である」という象徴を示しています。横から。ケンジントン宮殿(Kensington Palace)の西正面入口を見る。 ・中央部分:大きな三角破風(ペディメント)を持つ正面玄関。 ・玄関上部:大きなアーチ窓があり、その下に3つの長窓が並んでいます。 ・玄関入口:緑色のガラス製キャノピー(庇)が取り付けられ、来訪者を迎える入口と なっています。 ・両翼部分:赤レンガ造りで、長い窓列が左右に伸びています。ケンジントン宮殿(Kensington Palace)のメインエントランス正面(西側正門から入った中央玄関部) をクローズアップ。1.ペディメント(三角破風) ・典型的なジョージアン建築の要素。 ・宮殿の正面性を強調し、格式を示しています。2.大窓(中央のアーチ窓) ・上部に半円形のアーチを持つ大窓が設けられています。 ・小さなコラム(柱)で装飾され、威厳を持たせています。3.赤レンガと白い石の組み合わせ ・イギリス王宮建築の伝統的手法で、ジョージアン様式らしい端正さを見せます。 ・窓枠の上には白い石の「キーストーン」風装飾が施されています。4.玄関のキャノピー(庇) ・緑色の鉄とガラス製の大きな庇が設置され、訪問者を迎える構造になっています。 ・19世紀ヴィクトリア時代に加えられたもので、機能性と優雅さを兼ね備えています。「WELCOME TO KENSINGTON PALACEPublic palace Family homeWelcome to Kensington Palace, home to Britain’s youngroyals for 300 yearsDISCOVER300 years of Royal HistoryTake a glimpse into theprivate lives of the Stuart monarchs, the glinting court of theGeorgians and QueenVictoria’s extraordinary childhood.EXPLOREThe palace is open all yearTravel backin time, and walk in the footsteps of kings, queens and courtiers discovering history where it happened.ENJOYThe taste of luxuryRelax with coffee in our café or afternoontea in beautiful surroundings and treatyourself to an exclusive souvenir from our giftshop. Entry ticket not required.Summer:10.00 to 18.00 (last entry 17.00)Winter:10.00 to 16.00 (last entry 15.00)」 HISTORIC ROYAL PALACESWe are a team of people who love and look after six of the most wonderful palaces in the world. We create space for spirits to stir and be stirred. We want everyone tofeel welcome and accepted. We tell stories about the monarchs you know, and thelives you don’t. We let people explore and we set minds racing.We are a charity, and your support gives the palaces a future, for everyone.To find out more visit hrp.org.ukSPACE TO STIR AND BE STIRREDTOWER OF LONDON · HAMPTON COURT PALACE · BANQUETING HOUSEKENSINGTON PALACE · KEW PALACE · HILLSBOROUGH CASTLE AND GARDENS」 【ケンジントン宮殿へようこそ公共の宮殿、そして王族の家ケンジントン宮殿へようこそ。ここは300年間、英国の若い王族たちの住まいでした。発見する(DISCOVER)王室の歴史300年ステュアート朝の君主たちの私生活、ジョージアン時代の華やかな宮廷、そしてヴィクトリア女王の特別な子供時代を垣間見ることができます。探検する(EXPLORE)宮殿は一年中公開されています時をさかのぼり、王や女王、廷臣たちの足跡をたどりながら、歴史が実際に起こった場所を歩きましょう。楽しむ(ENJOY)贅沢なひとときをカフェでコーヒーやアフタヌーンティーを楽しみ、美しい環境の中でくつろぎませんか。ギフトショップで特別なお土産を探すのもおすすめです。入場券は不要です。開館時間 ・夏期:10時~18時(最終入場17時) ・冬期:10時~16時(最終入場15時)】ヒストリック・ロイヤル・パレス私たちは、世界で最も素晴らしい宮殿のうち六つを愛し、守り、世話をしているチームです。心が動き、また心を揺り動かされる場をつくります。誰もが歓迎され、受け入れられていると感じられることを願っています。皆さんが知っている君主たちの物語も、あまり知られていない人生の物語も語ります。人々が自由に探検できるようにし、想像力をかき立てます。私たちは慈善団体であり、皆さまのご支援が、すべての人のために宮殿の未来を支えます。詳しくは へ。心を揺さぶり、また揺さぶられる場所ロンドン塔 ・ ハンプトン・コート宮殿 ・ バンケット・ハウスケンジントン宮殿 ・キュー宮殿 ・ ヒルズボロー城と庭園ロンドンのハイド・パーク内にある「サーペンタイン(The Serpentine)」湖。場所:ハイド・パークとケンジントン・ガーデンズの間に位置し、18世紀に造られた人工湖。由来:「サーペンタイン」という名は、湖が蛇のように曲がりくねった形をしていることに 由来します特徴: ・湖の一部は「ザ・ロング・ウォーター」と呼ばれ、ケンジントン宮殿の近くまで 続いています。 ・夏には湖でスイミングやボート遊びができ、白鳥やカモなどの水鳥も多く生息。 ・湖畔にはカフェやギャラリー(Serpentine Gallery)があり、散歩や休憩の名所と なっています。サーペンタイン湖について ・場所:ハイド・パークとケンジントン・ガーデンズの間に位置し、18世紀に造られた人工湖。 ・由来:「サーペンタイン」という名は、湖が蛇のように曲がりくねった形をしていることに 由来します。・特徴: ・湖の一部は「ザ・ロング・ウォーター」と呼ばれ、ケンジントン宮殿の近くまで 続いています。 ・夏には湖でスイミングやボート遊びができ、白鳥やカモなどの水鳥も多く生息。 ・湖畔にはカフェやギャラリー(Serpentine Gallery)があり、散歩や休憩の名所と なっています。・前景:湖畔の遊歩道が写り、すぐ近くの水面にカモ類(水鳥)が泳いでいます。・湖面:赤いブイが浮かんでおり、湖の区切りやボート利用エリアの目印になっています。・背景:木々が生い茂る緑豊かな湖畔。都会の中心とは思えない自然環境です。・遠景:木々の間から高層ビルが見え、ハイドパークが大都会ロンドンの真ん中にあることを 実感させます。サーペンタイン湖の特徴・人工湖:1730年にジョージ2世の妃・キャロライン王妃の命で造成。・形状:蛇(サーペント)のように曲がりくねっているため「サーペンタイン」と命名。・利用: ・夏はボート遊びや水泳(指定区域のみ)。 ・水鳥(白鳥、カモ、カナダグースなど)の観察も人気。・周辺施設: ・湖の東側には「サーペンタイン・ギャラリー」や「サーペンタイン・ブリッジ」があり、 文化と自然が融合。湖面に大きな白鳥(Mute Swan:コブハクチョウ)が悠々と泳いでいる姿が。1. 白い大きな鳥(2羽)・コブハクチョウ(Mute Swan) ・白く大きな体、オレンジ色のくちばし、黒いコブ(基部)が特徴。 ・イギリスを代表する水鳥で、ハイドパークやケンジントン・ガーデンズでは特に多く 見られます。2. 灰褐色のガチョウ(3羽)・マガンに似たカリガネではなく、グレイラググース(Greylag Goose:ハイイロガン) ・体は灰褐色で、白い尾羽。 ・くちばしがオレンジ色で太めケンジントン・ガーデンズ(Kensington Gardens) 内から、視線の正面奥に見えるのはヴィクトリア女王の白い大理石像(Queen Victoria Statue)。引き返すと、リスの姿が。イギリスの都市公園でよく見られるハイイロリス(Grey Squirrel, Sciurus carolinensis)??逃げない!!ハイイロリスは北アメリカ原産で、19世紀にイギリスへ持ち込まれた外来種 と。Alan Rickman Memorial Bench(アラン・リックマン記念ベンチ)。・Alan Rickman (1946–2016) 英国の俳優で、『ハリー・ポッター』シリーズのセブルス・スネイプ役や、 『ダイ・ハード』のハンス・ グルーバー役などで世界的に有名です。 舞台俳優としても長いキャリアを持ち、英国演劇界に多大な貢献をしました。・記念ベンチの設置 ロンドンの ケンジントン・ガーデンズ 内に設置されたベンチは、リックマンを偲ぶファンや 友人、関係者による寄贈の一つです。 多くのロンドン公園のベンチと同様に、故人を記念して献辞(dedication plaque)が 取り付けられており、訪れる人が座って彼の思い出に浸ることができます。 このベンチに付けられている献辞プレートの文言は、次のようなものと報じられています。 「“It would be wonderful to think that the futureis unknown and sort of surprising” ~ Alan Rickman」 【「未来が未知で、ちょっと驚きに満ちていると考えられたら素敵だろう」 ~ アラン・リックマン】と。・場所の意味 ケンジントン・ガーデンズはロンドン中心部の美しい庭園で、アラン・リックマンが生前に 好んで訪れたとされる場所のひとつ。 静かな環境と緑の中で、彼の温かい人柄や芸術的な遺産を思い起こす場所になっています。再び、ロンドンのケンジントン・ガーデンズにある「アルバート記念碑(Albert Memorial)」、そして奥に見える円形の大きな建物は「ロイヤル・アルバート・ホール(Royal Albert Hall)」 。「THE MAGIC OF KENSINGTON GARDENSThis area dates back to the 1700s, when nearby Kensington Palace was occupied byKing George II (1683–1760) and his wife Queen Caroline (1683–1737).The Queen’s role transformed a rural countryside landscape into a formal pleasure garden. Under the influence of Queen Caroline, Kensington Gardens were separated from Hyde Park and developed into the royal gardens you see today. They became afashionable place for Londoners to stroll, take the air, and display the latest fashions.KENSINGTON GARDENS IN LITERATUREThe beauty of Kensington Gardens has inspired generations of authors and poets.J. M. BarrieBarrie’s famous play Peter Pan (1904) and novel Peter Pan in Kensington Gardens(1906) were both inspired by Kensington Gardens. He often walked here and notedthe sense of magic in the air.Thomas TickellPoet and satirist Tickell (1685–1740) wrote Kensington Gardens (1722), a long poem describing the gardens as a place of mythology and imagination.Matthew ArnoldPoet and cultural critic Arnold (1822–1888) used Kensington Gardens as a backdropfor his reflective poetry, connecting nature and human experience.Virginia WoolfWoolf (1882–1941), one of the foremost modernist writers, drew inspiration from the atmosphere of Kensington Gardens, which features in her essays and novels.She observed how the gardens represented both the continuity of tradition andthe fleeting moments of modern life.DELVE A LITTLE DEEPERScan the QR code for audio trails and more information on the history of Kensington Gardens.A REVOLVING SUMMERHOUSEA man-made hill known as The Mount once stood close to here. On top of this hill stood a revolving summerhouse.」 【ケンジントン・ガーデンズの魔法この地域の歴史は1700年代にさかのぼります。当時、近くのケンジントン宮殿には、国王ジョージ2世(1683〜1760)とその妃キャロライン王妃(1683〜1737)が住んでいました。女王の影響:新しい風景の創造キャロライン王妃は園芸に造詣が深く、彼女の依頼で造園家チャールズ・ブリッジマンがケンジントン・ガーデンズを新しい形式の公園に作り替えました。整然とした並木道や広大な芝生を、自然な植栽と組み合わせたこの設計は、のちに「ケイパビリティ・ブラウン」として知られる造園家に影響を与えました。文学に描かれたケンジントン・ガーデンズケンジントン・ガーデンズの美しさは、数多くの作家や詩人たちに創作のインスピレーションを与えてきました。J.M. バリー『ピーター・パン』の生みの親であるJ.M.バリーは、1902年の小説『小さな白い鳥』の中で初めてピーター・パンというキャラクターを登場させました。この作品ではケンジントン・ガーデンズが生き生きと描かれており、現在ロング・ウォーターのほとりにはピーター・パン像が立っています。トマス・ティッケルティッケルの詩『ケンジントン・ガーデンズ』(1722)は、公園に住む妖精や精霊たちの物語を語っています。この詩は、18世紀初頭の人々が神話と風景を融合させることに魅了されていた様子を反映しています。マシュー・アーノルド詩人であり評論家のマシュー・アーノルド(1822〜1888)は、瞑想的な詩『ケンジントン・ガーデンズにて』(1852)で、この庭園を歩く自身の心情を描きました。ヴァージニア・ウルフ小説家ヴァージニア・ウルフ(1882〜1941)はこの近くに住み、しばしば庭園を散歩しました。代表作『ダロウェイ夫人』(1925)では、登場人物たちがロンドンの生活を描く一場面としてケンジントン・ガーデンズを通ります。さらに深く知るQRコードをスキャンすると、ケンジントン・ガーデンズの歴史についてさらに詳しく知ることができます。回転するサマーハウスこの近くにはかつて「ザ・マウント」と呼ばれる人工の丘があり、その頂上には回転式のサマーハウス(夏の休憩小屋)が建っていました。】Kenjinton Roadからロイヤル・アルバート・ホール(Royal Albert Hall)を再び見る。ロンドンを代表するコンサートホールで、1871年に開館し、クラシック音楽からロックコンサート、プロムス(BBC Proms)など多彩な公演が行われる会場です。上部にはギリシャ風の装飾帯(フリーズ)がぐるりと巡り、人類の芸術と科学の偉業を描いていた。左手に見える赤レンガの建物群は、アルバートホール周辺にある19世紀の住宅や施設で、ロンドン特有の赤レンガ建築が並んでいます。このエリアは サウス・ケンジントン(South Kensington) に属し、周囲にはロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックや、アルバート・メモリアル、さらに少し歩けばヴィクトリア&アルバート博物館や自然史博物館もあるのであった。こちらは、エキシビジョン ロード沿いにあった末日聖徒イエス・キリスト教会(The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints, 通称モルモン教会) の礼拝堂、」塔の上に伸びる金色の尖塔(スパイア)が特徴的で、モダニズム建築の要素を持つデザインとなっています。正面入口上部には英語で"THE CHURCH OF JESUS CHRIST OF LATTER-DAY SAINTS"と表記されています。この建物は ロンドン・ハイドパーク支部(London Hyde Park Chapel) として知られ、住所は 64-68 Exhibition Road, South Kensington にあります。ヴィクトリア&アルバート博物館や自然史博物館の近くであった。・両腕を広げて人々を迎え入れる姿のキリスト像。・胸には磔刑の傷跡が刻まれており、復活した救い主としての姿を示しています。・世界中の末日聖徒イエス・キリスト教会の礼拝堂や来客センターに複製像が設置されており、 このロンドンのハイドパーク礼拝堂のガラスケース内の像もその一つです。サイエンス・ミュージアム(Science Museum)。サイエンス・ミュージアム概要・設立:1857年・場所:Exhibition Road, South Kensington・展示内容:科学技術の歴史と発展をテーマに、産業革命の蒸気機関から宇宙探査、医療、通信、 エネルギー、コンピュータ技術など幅広い分野を網羅。・特徴: ・ワットの蒸気機関(18世紀) ・初期の飛行機や自動車 ・アポロ月着陸に関連する宇宙探査展示 ・子ども向けのインタラクティブ展示や体験型展示が多い・付属施設:IMAXシアター(大画面で科学映画を上映)自然史博物館(Natural History Museum, South Kensington)内部展示。・地球ホール(Earth Hall / Earth Galleries) の入口付近。・写真奥に見える大きな球体(地球をイメージしたモニュメント)は、このホールのシンボル。 エスカレーターでその内部を通って上階に上がる仕組みになっていた。・手前に見えるのは ステゴサウルス(Stegosaurus) の化石骨格。・自然史博物館が所蔵するステゴサウルスの標本は、世界でも保存状態が非常に良いとされ、 2014年に公開が始まったもの。・背中の大きな骨板や尾のスパイク(「サグマイザー」と呼ばれる)が特徴的。ステゴサウルス(Stegosaurus stenops) の化石標本に近づいて。・種:Stegosaurus stenops・時代:ジュラ紀後期(約 1億5,500万年前)・産地:アメリカ・コロラド州モリソン層・全長:約5.6メートル・保存状態: ・世界で最も保存状態が良いステゴサウルス標本の一つ。 ・約90%がオリジナルの骨で構成されており、背中の板や尾のスパイク (通称「サグマイザー」)もほぼ完全。 ・2014年に博物館に導入されて以来、人気の展示物となっている。「touch a piece of the moon todaySPACECould Life Exist Beyond Earth?Members and patrons go freeVisit today in the Green Zone」 【今日は月のかけらに触れてみよう宇宙地球以外に生命は存在するのか?メンバーと後援者は無料本日、グリーンゾーンで見学できます】自然史博物館(Natural History Museum, South Kensington) 内部、「地球ホール(Earth Hall / Earth Galleries)」にある象徴的なエスカレーター・奥に見える巨大な球体は「地球」をモチーフにしたモニュメントで、割れた岩盤のような デザインになっていた。・訪問者は、地球の内部(マントルや核)に突入していくような感覚で、このエスカレーターを 使って上階に移動する。・壁面には星座の図や天体のイラストが描かれており、宇宙と地球科学をつなぐ演出が されていた。・赤い照明が加わることで「地球内部のマグマ」や「宇宙的スケールの迫力」を体感できる 空間デザインに。「VOLCANOES AND EARTHQUAKES(火山と地震)」ギャラリー の入口サイン。ギャラリー概要・テーマ:地球のダイナミックな活動 ― 火山噴火と地震展示内容:・世界各地の火山噴火の映像や火山岩・火山灰の標本・地震を引き起こすプレートテクトニクスの仕組み・日本の地震多発地域に関する解説・有名な地震災害(例:1995年阪神・淡路大震災、2011年東日本大震災など)を紹介する資料「Volcanoes and Earthquakes(火山と地震)」ギャラリーに展示されている 世界地図パネル。展示の内容・世界地図上に赤い点が示されており、これは 火山活動や地震の多発地域 を表しています。・特に以下の地域が強調されています: ・環太平洋火山帯(Ring of Fire) ・日本、フィリピン、インドネシア、ニュージーランド、太平洋沿岸のアメリカ大陸 (アラスカ~南米アンデス山脈まで) ・大西洋中央海嶺 アイスランドを含む大西洋の中央を縦断する海底山脈帯 ・地中海地域 イタリア(エトナ山、ベスビオ山)、ギリシャなど ・ヒマラヤ山脈周辺 インドとユーラシア大陸のプレート衝突帯「VOLCANOESWhen a volcano erupts things change. For many, an eruption brings fear, death and destruction, altering the course of lives and civilisations. For others it can inspire art, religion and science. In some parts of the world eruptions are a constant threat, but here in Britain we haven’t had one for 55 million years.Not all volcanoes are the same. By studying them around the world scientists know that some have violent and explosive eruptions, while others have gently flowing ones.Both offer a glimpse of the dramatic forces deep beneath our feet and both shape thechanging face of our planet.」【火山火山が噴火すると、あらゆるものが変わります。多くの場合、噴火は恐怖・死・破壊をもたらし、人々や文明の運命を変えてきました。一方で、それは芸術・宗教・科学をも刺激することもあります。世界のいくつかの地域では噴火が常に脅威であり続けていますが、ここイギリスでは5,500万年間噴火は起きていません。すべての火山が同じというわけではありません。世界中の火山を研究することで、科学者たちは、あるものは激しく爆発的に噴火する一方、別のものは穏やかに溶岩を流すことを知っています。どちらも私たちの足下深くにある劇的な力を垣間見せ、そして地球の姿を変化させ続けています。】 「Volcanoes and Earthquakes(火山と地震)」ギャラリー内の展示の一部写真中央にある縦長のパネルは、火山噴火の映像インスタレーション を再現したもの。炎や火山弾、マグマの赤い輝きがスクリーンに投影され、火口から吹き上がるマグマや火山灰の迫力を体感できる仕掛けになっていた。訪問者はこの映像を通じて、火山噴火の「爆発的なエネルギー」と「視覚的なインパクト」を直感的に感じられるようになっていたのであった。「Volcanoes and Earthquakes(火山と地震)」ギャラリーの解説パネルで、ハワイ火山に由来する溶岩と噴火産物 を紹介「Pāhoehoe lavaPāhoehoe lava (pronounced pa-hoy-hoy) flows down the volcano in shiny sheetscalled toes.As the surface begins to cool and dry the lava underneath continuesto flow,causing thefolded appearance.Pele’s hairThis beautiful material is called Pele’s hair, after the Hawaiian goddess of volcanoes.The golden strands form when tiny pieces of lava are thrown in the air and spun by the wind into volcanic glass.‘A‘ā lava‘A‘ā (pronounced ah-ah) is a Hawaiian word that volcanologists use to describe thiskind of lava flow.‘A‘ā forms as the surface of a lava flow cools and hardens while the inner partcontinues to flow, breaking it into sharp and jagged clinkers.」【パホイホイ溶岩(Pāhoehoe lava)「パホイホイ溶岩」(発音:パホイホイ)は、光沢のあるシート状の流れとして火山を下ります。表面が冷えて乾くと、内部の溶岩が流れ続けるため、波打ったような折り重なった模様が生じます。ペレの髪(Pele’s hair)「ペレの髪」と呼ばれる美しい物質で、ハワイの火山の女神ペレにちなんで名付けられています。黄金色の繊維は、微小な溶岩片が空中に投げ出され、風に吹かれて引き延ばされ、火山ガラスとして形成されたものです。アア溶岩(‘A‘ā lava)「アア溶岩」(発音:アア)は、火山学者が特定の溶岩流を表すのに使うハワイ語です。流れの表面が冷えて固まり始める一方、内部はまだ流れ続けるため、表面が割れて鋭くゴツゴツした岩塊(クリンカー)になります。】 「Volcanoes and Earthquakes(火山と地震)」ギャラリーにある、マグマチャンバーと火山噴火の仕組み を解説する展示(上部パネル)How and when a volcano will erupt depends on if there is any rising magma, what type of magma it is and the amount of gas it contains.The pressure and temperature in a magma chamber are immense. Magma can reach more than 1,000°C.(下部パネル)Geologists propose the magma chamber beneath a volcano could look like this.More magma chambers are deeper beneath the volcano, but they don’t connect up.Eruptions may happen nearer the surface and magma must have a route through tothe volcano’s opening to escape.【(上部パネル)火山がどのように、いつ噴火するかは、上昇するマグマがあるかどうか、その種類、そして含まれるガスの量に左右されます。マグマ溜まり(マグマチャンバー)の圧力と温度は非常に高く、マグマは1,000℃以上に達することがあります。(下部パネル)地質学者たちは、火山の下のマグマチャンバーはこのような構造をしていると考えています。多くのマグマチャンバーは火山の下のより深い場所にあり、互いに必ずしもつながっているわけではありません。噴火は地表近くで起こることもあり、マグマが火口へと到達するための通路が必要です。】「Volcanoes and Earthquakes(火山と地震)」ギャラリーの展示の一部で、プレートテクトニクスと地球のダイナミズム を説明するコーナー。「Dynamic EarthThe world’s continents and ocean floors are covered with features marking where tectonic processes have shaped the surface.On the sea floor, underwater vents pass 50 times more magma into closerto thesurface. Mid-ocean ridges are plate boundaries where ocean crust is being made and deep-sea trenches mark where plates are destroyed as they are forced backdown into the mantle.On land, huge rifts scar the landscapes where continents are splitting while mountainsrise up where plates collide.Volcanic eruptions and earthquakes occur around the world as the planet reshapes itself.」 【ダイナミック・アース(動き続ける地球)世界の大陸や海底には、プレート運動が地表を形作ってきた痕跡が刻まれています。海底では、海底火山の噴出口から地表近くへ50倍ものマグマが送り込まれます。中央海嶺は海洋地殻が生み出されるプレート境界であり、深海の海溝はプレートがマントルへ沈み込み、破壊される場所を示しています。陸上では、大地溝帯のように大陸が裂ける場所に巨大な裂け目が走り、プレートが衝突するところでは山脈が隆起します。火山噴火や地震は、地球が自らの姿を作り変える過程で世界中に起こるのです。】「EARTHQUAKESEarthquakes can happen without warning, causing death and destruction ona massive scale. When they strike we feel a sudden, violent shaking of the ground; but they are caused by slowly moving plates on Earth’s surface. As these plates move,pressure builds up until it finally gives way.Throughout history, earthquakes have shattered communities across the world. But we’re slowly learning how to cope with them. By understanding how and wherethey happen, science can help us prepare for future earthquakes, and limit the damage they cause.」 【地震地震は予告なしに発生し、大規模な死と破壊をもたらすことがあります。発生時には地面が突然激しく揺れるのを感じますが、これは地球表面でゆっくりと動くプレートによって引き起こされます。プレートが動くにつれて圧力が蓄積し、最終的に限界を超えた時に放出されるのです。歴史を通じて、地震は世界中の共同体を破壊してきました。しかし私たちは少しずつ、その影響に対処する方法を学んできています。地震がどのように、そしてどこで起こるのかを理解することで、科学は将来の地震に備え、その被害を軽減する助けとなるのです。】自然史博物館(Natural History Museum) の「Volcanoes and Earthquakes(火山と地震)」ギャラリーにある 地震シミュレーター展示(日本のスーパーを再現したコーナー)天井から吊られている赤いバナーには、1995年1月17日の 阪神・淡路大震災 に関する新聞風の見出しが書かれていた。・左のバナー:"Quake delivers devastating wake-up call January 17 1995"(地震が壊滅的な目覚めの警鐘を鳴らす 1995年1月17日)右のバナー:"'Safe' area of Japan ill-prepared January 17 1995"(「安全」と思われていた日本の地域、備え不十分1995年1月17日)下には日本のスーパーを模した陳列棚(食品や生活用品のパッケージ)が並んでおり、中央には「BIG QUAKE PHASE ONE」と書かれたモニターが設置されていた。地震シミュレーター展示の入口。「KOBE SUPERMARKET神戸スーパーマーケット」 地震シミュレーター「Kobe Supermarket(神戸スーパーマーケット)」 の内部。・日本のスーパーマーケットの店内 を忠実に再現。・棚にはインスタントラーメン、醤油、調味料、乾物、缶詰など、日本の商品パッケージが 並んでいます。・壁には昭和〜平成初期を思わせる広告ポスター(焼酎や日用品の宣伝)が貼られ、 リアルな生活空間を演出。・壁の一部が「ひび割れた」状態で再現され、地震の被害を視覚的に示しています。・買い物カートが複数置かれ、来館者は実際にその場に立って体験します。・阪神・淡路大震災(1995年1月17日, M7.3) をモデルにした地震体験。・シミュレーション中、部屋全体が大きく揺れ、棚の商品が落ちそうになるような臨場感を演出。・音響(地鳴りや崩れる音)、照明効果も加わり、来館者は実際に被災したかのような体感を。・壁の右側は「ひび割れ」風に造形されており、地震の被害を演出しています。・天井からは、赤いパネルに「震災に関する新聞見出し」が掲げられています (例:「Quake delivers devastating wake-up call」など)。「Volcanoes and Earthquakes(火山と地震)」ギャラリー の展示の一部で、テーマは 「地震後の二次的な危険(Dangers After the Quake)」。・大見出し「DANGERS AFTER THE QUAKE(地震後の危険)」「THERE MIGHT BE WORSE TO COME(さらに悪いことが起きるかもしれない)」・映像スクリーン 5つの映像が映し出されており、地震やその後の被害の実例を紹介。 ・津波の映像 ・地すべりや土砂崩れ ・液状化の様子 ・都市の瓦礫と破壊された街並み・解説パネル 左側には立体的な地形模型図があり、地震後の地盤変化や地形のリスクについて説明。「Volcanoes and Earthquakes(火山と地震)」ギャラリー にある展示の一部で、東日本大震災(2011年3月11日)の記録映像を紹介。5つの映像1.Initial earthquake 14:46(最初の地震発生 14:46)・店舗内(衣料品売り場)で揺れが始まる映像。・買い物中の人々が混乱する様子を示している。2.Tsunami approach 14:46–15:00(津波接近 14:46~15:00)・沿岸部のカメラが捉えた津波の接近。・海面が盛り上がり、黒い波が内陸に迫る様子が見える。3.Tsunami impact 14:46–15:30(津波襲来 14:46~15:30)・自動車や建物が飲み込まれていく映像。・港湾や道路が津波に覆われる瞬間を記録。4.Destruction of Minamisanriku 15:20(南三陸町の破壊 15:20)・宮城県南三陸町の全景。・津波により住宅や公共施設が壊滅的な被害を受けている。5.Aftermath and recovery(被害と復興)・津波後の街並み。・瓦礫に覆われた町と、復興への長い道のりを示唆。2011年 東日本大震災(東北地方太平洋沖地震) を取り上げたマルチスクリーン映像の別バージョン。5つの場面1.Initial earthquake 14:46(最初の地震発生 14:46)・シャンデリアが激しく揺れている映像。・建物内での地震の恐怖を表現。2.Tsunami approach 14:46–15:00(津波接近 14:46~15:00)・船のデッキから海を捉えた映像。・海面が不自然に盛り上がり、津波が迫る様子を示している。3.Tsunami impact 14:46–15:30(津波襲来 14:46~15:30)・人々が津波から必死に逃れる映像。・水流と共に濁流に巻き込まれる恐怖を伝えるシーン。4.Destruction of Minamisanriku 15:20(南三陸町の破壊 15:20)・津波により壊滅した宮城県南三陸町の様子。・町全体が瓦礫と化し、建物が消え去っている。5.Aftermath and recovery(被害と復興)・泥にまみれたアナログ時計が写されている。「Volcanoes and Earthquakes(火山と地震)」ギャラリー 内の展示の一部。テーマは 「地震の仕組みと体験」。1.大見出し・「MAKE YOUR OWN EARTHQUAKE(自分で地震をつくろう)」・「HOW DO EARTHQUAKES HAPPEN?(地震はどのように起こるのか?)」・サブタイトル:「LIKE CLICKING YOUR FINGERS(指を鳴らすように)」 → 地震の発生を「パチンと指を鳴らすような瞬間的な力の解放」として説明。2.展示写真・イラスト・倒壊した建物の写真 → 地震の破壊力を強調。・地図や地層断面のイラスト → プレート境界の動きを示す解説資料。3.体験型展示・「MAKE YOUR OWN EARTHQUAKE」とあることから、来館者が自分でスイッチを押したり 装置を操作して、小さな「人工地震」を起こし、その波形や揺れの影響を学ぶインタラクティブ 展示になっていた。自然史博物館(Natural History Museum, South Kensington) にある「地球のホール(Earth Hall)」の象徴的な展示空間を再び。・中央に巨大な 「地球の球体」 が配置されている。 → 鉱石や岩石のような断片で覆われており、地球の外殻(地殻プレートや大地の象徴)を表現。・赤い光で照らされた エスカレーター が球体の中へと突き抜けている。 → 来館者は「地球の内部に入っていく」ような体験を味わえる。・両側の壁には 星座図や惑星名(Neptuneなど) が描かれており、地球科学と宇宙のつながりを 示唆している。地球科学ゾーン(Earth Hall / Volcanoes and Earthquakes gallery) にある導入部の壁面パネル。「The Earth is a restless planet.Powerful forces shape and reshape its surface in continuous cycles of change.This exhibition explores the processes of surface change, and investigates howwe detect these actions in the rocks.」 【地球は落ち着くことのない惑星です。強大な力がその表面を形作り、そして絶え間ない変化のサイクルの中で再び作り変えていきます。この展示では、地表が変化するプロセスを探り、その痕跡を岩石の中からどのように見出すのかを解き明かします。】鳥類展示(Bird Gallery) の一角。・中央に非常に大きな ダチョウ(Ostrich, Struthio camelus)の剥製標本。 → 世界最大の鳥であり、飛べない鳥(Ratite, 平胸類)の代表。・周囲の壁面には、小型から中型の鳥類の剥製が数多く展示されており、分類・生態に応じて 並べられている。・右下にはシラサギ(Heron/Egret)と思われる水鳥。・中央部の壁には、鳥を描いた肖像画が額縁に収められて展示されており、 「鳥の文化史的な位置づけ」も補足している。・それぞれの標本には小さなラベルが付いており、種名や学名が示されている。ロンドン自然史博物館(Natural History Museum, London) の正面ホール、通称 Hintze Hall(ヒントツェ・ホール) を。・天井から吊るされている巨大な骨格標本 → これは シロナガスクジラ(Blue Whale, Balaenoptera musculus)の骨格 で、 愛称は 「Hope(ホープ)」。 2017年にホール中央に展示され、博物館の新しい象徴的存在となっています。 以前はここに恐竜の「ディプロドクス(Dippy)」のレプリカ骨格がありましたが、 現在はHopeに置き換えられました。・建築様式 → 赤レンガとテラコッタによる壮大なロマネスク様式の建物。 → 建築家アルフレッド・ウォーターハウス設計、1881年開館。 → 内装には動植物や地質をモチーフとした装飾が随所に施されています。・中央の大階段 → 2階へと続き、かつてはダーウィン像が中央に置かれていました (現在は上階のバルコニー部分に移設)。マンモスの骨格標本。・長い湾曲した牙(tusks) → この大きく前方へ湾曲する牙が、マンモス類やマストドン類の最大の特徴です。・頭骨の大きな空洞 → 象に近い仲間で、鼻(長い鼻=象鼻)の付け根部分の空洞が目立ちます。・体格 → 現代のアジアゾウやアフリカゾウよりも骨格がややがっしりしています。・マンモス(Mammuthus primigenius)は氷河時代(更新世)に生きていた象の仲間で、 ヨーロッパ、アジア、北アメリカなど広い範囲に分布しました。・厳しい寒冷地に適応しており、長い毛に覆われ、脂肪層を持っていました。・氷河時代の終わり(約1万年前)に大部分が絶滅しましたが、一部はシベリアの孤島で 約4000年前まで生き残っていたことが分かっています。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.11.06
閲覧総数 461
26

昨年10月初めに種蒔きし、ビニールトンネル内で育てたビオラが漸く開花を始めて来たのでプランターに移植しました。冬から春の花壇に欠かせない小輪系のパンジーです。ポットから抜き出すと、土の外側には真っ白な根が蜘蛛の糸のように一面に拡がっていました。イチゴの畝の両側にプランターを仮置きしました。ビオラは品種が豊富で、花色は紫、青、白、黄、橙、赤、黒、・・・・・と非常に多彩です。パンジー以上に丈夫で、病気にも強く作りやすいのです。それぞれ違う表情、雰囲気を色々に楽しませてくれ、その可愛らしさ、花びらの美しさが妙に気に入っています。あんなに小さな種一粒から、いったいいくつの花を咲かせてくれるのでしょうか。その生命力のすごさには感心するばかりなのです。楽器の『ビオラ』はバイオリンより一回り大型ですが、花のビオラはパンジーより小型なのが妙に面白いのです。寒い冬にも負けず越冬し春を迎え、これからしばらくの間次々と咲いてくれ、ビオラの花言葉『誠実』な愛を感じさせ、『私のことを思って』次々に花を見せてくれるのです。そして畑の所々から昨年こぼれた種から濃紫のビオラが芽を出し花を着けている野生派のビオラも私を楽しませてくれているのです。
2010.03.25
閲覧総数 28
27

【大和市の神社仏閣を巡る】目次次に訪ねたのが「長後 天満宮」。藤沢市長後1412。一の石鳥居の前に狛犬と石灯籠が。狛犬・阿形(右)。狛犬・吽形(左)。階段途中の右にあったのが藤沢市の「文化財ハイキングコース案内板」。「縣下名勝史跡四十五佳選當選記念 天満宮」碑。一の鳥居の先に二の鳥居も見えた。一の鳥居の扁額は「天満宮」。「天満宮鳥居再建記念碑」。「菅公千百年記念碑」。祭神 菅原道真公は宇多天皇にお仕えして御信任厚く醍醐天皇の御時右大臣に任ぜられ然るに 左大臣藤原時平の讒言により延暦元年九月太宰府権師として、流配され同三年二月 二十五日(九〇三年)五十九歳にて没す。古来勉学の神として弘法大師小野道風と ともに三聖と仰がれ御神徳厚く宏く世人の崇敬を受ける由緒 渋谷庄司重国の祖父秩父六郎基家は鳥羽帝永久三年(一一一五)武州秩父を去り相州 渋谷庄長後邑に築城して茲に居住し城内に廟を建立し菅公を崇祀して天満宮と称した。 其の後戦国時代を経て(一五九〇年)徳川の版図となり旗本朝岡氏は家康秀忠に仕え 寛永七年(一六三〇年)神殿を造営し国考、朝泰、朝宗、国豊、の代を経て天明七年 (一七八七年)左京豊興が神殿を再興し(現代本殿)山王権現(大山咋命)と神明宮 (天照皇大神宮)を合祀して現在に至る。」「鐘楼」と石碑。石碑は「奉納 梵鐘記念碑」。「鐘楼」。「梵鐘」をズームで。「渋谷町長後」の文字が。昭和二十九年九月二十五日 と刻まれていた。戦後に再興されたもの。「梵鐘」の名前をネットから。「梵鐘」の表面上部にある小さなデコボコの名前が「乳(ち・にゅう)」と言う事を知ったのであった。この梵鐘の表面上方の「乳」が並んでいる部分は「乳の間(ちのま)」「乳の町(ちのまち)」とも呼ばれ、煩悩の数と同じく「乳」が108個並べられたものが多いのだと。 【https://kotobank.jp/word/%E9%90%98%28%E6%A5%BD%E5%99%A8%29-1518307】より左手にも石碑が。「忠魂碑 陸軍大将男爵荒木貞夫謹書」。日露戦争、日支事変及び大東亜戦争で戰病没された65柱の英霊の忠魂碑。昭和12年5月5日に長後青年会によって建立された。当初は、日露戦役戦没者の忠魂碑として建立され、その後、日支事変と大東亜戦争の戦没者を追加合祀したと。碑高210cm、幅92cm、厚さ15cm、台石40cm。「征清凱旋紀年碑」。日清戦争(一八九四‐九五)の記念碑。そして「二の鳥居」。「天満宮 御由緒」一、鎮座地 藤沢市長後一四一ニ番地一、祭神 菅原道真・天照大神・大山咋命 祭神菅原道真公は平安時代に宇多天皇にお仕えして御信仰厚く醍醐天皇の御時、右大臣に任ぜ らるるも左大臣藤原時平の讒言により延喜元年九月太宰府権師として流布され同三年二月 二十五日(九◯三年)五十九才にて歿す。古来勉学の神として弘法大師小野道風とともに 三聖と仰がれ御神徳厚く宏く世人の崇拝を受ける。一、由緒 鳥羽帝永久三年(1115年)渋谷重国の祖父秩父六郎基家が此の地に築城し城内に廟を建立し 菅公を崇祀して天満宮と称した。建保元年渋谷氏は和田義貞の乱に興して滅亡し更に戦国時代 を経て廟も亦頽廃したと言われる。 天正十八年徳川氏の版㘝となるや徳川氏は長後を二分し下長後地区を旗本朝岡氏の知行地となし 天満宮の神域も亦朝岡氏の知行地となる。朝岡氏は直ちに村内の鎮守天満宮の神殿を造営し その後もしばしば社殿を再建し特に天明七年九月宮廟を再建し山王脇鎮座の山王権現 (大山咋命)と伊勢山鎮座の神明宮(天照大神)を合祀した。朝岡氏は明治維新まで世襲的に 下長後村を知行し天満宮の維持については積極的であり信仰厚かりし由なり。明治元年九月 上長後下長後を合併して長後村となり天満宮は村社に列し長後総鎮守となる。昭和七年 指定村社となり神饌幣帛料を供進せらる。 昭和五十三年社廟を修復し同五十七年拝殿を改築した。一、祭日 例大祭 九月二十五日 其の他諸祈願際随時執行一、境内社 八坂神社 白峯神社」(なんとか転写しました!!)「手水舎」。「絵馬掛所(えまかけどころ)」「拝殿建築紀念碑」。「拝殿」正面。扁額「天満宮」。境内の「石灯籠」は、徳川家の旗本朝岡丑之助がこの地の地頭として寛永19年(1642)に造立奉納したもので、当時の姿をそのまま伝えており、市の重要文化財に指定。藤沢市の重要文化財「石灯籠」。「市指定重要文化財(建造物)寛永十九年(一六四ニ)石灯籠総高一三〇センチメートル竿石に「相州長後天神 寛永十九年十一月日 朝岡丑之助」と造立銘がある。朝岡氏は徳川家に三河以来歴任した旗本で、天正十八年(一五九0〇)徳川家康の関東入国ののちにこの地を知行地として与えられ、代々それを受け継ぎ幕末におよんた。朝岡丑之助は地頭として、長後の鎮守である天満宮にこの石灯籠を奉納したものと思われる。この石燈籠は、いわゆる宮立型燈籠に属するもので、宝珠から笠、火袋、中台、竿、基礎にいたるまで完全に奉納された当時の姿を伝えている貴重な例である。昭和五十ニ年四月十三日指定」拝殿前の「狛犬、阿像」。拝殿前の「狛犬、吽像」。「市指定重要文化財(有形民俗文化財)石造狛犬 一対狛犬は社前に悪魔除けのような意味で奉納され一対阿吽の形をとる勇猛な風貌のものが多い。このニ体の背には貞享(じょうきょう)三年(一六八六)三月ニ五日、胸に中村氏の女おち世・支むらの銘が見られる。一般には男子氏子・講中などの奉納が多いなかで注目すべきものである。両の手に乗る程に小型で、奉納者の愛玩用、また分身として、無病息災を祈願する等守護神的な思いを込めて奉納したのではないかと考えられる。おち世・支むらは姉妹、或いは双子であったのかも知れす、石像の表情から愛くるしい姿を彷彿することができる貴重な文相財てある。平成四年ニ月一日指定藤沢市教育会」こちら右手にも石灯籠?が。句碑もあり、『山里・・・・』 と刻まれていたが読めなかった。「奉献 観世音菩薩」碑。「文化十二巳亥十一月吉日」の文字が。「拝殿」の奥に「本殿」。そして右側に境内社。「白蚕神社(右)」。「八坂神社(左)」。「神楽殿」。「拝殿」、「本殿」を横から見る。近くの「高座渋谷」駅は旧高座郡渋谷村に由来し、渋谷氏の本貫地として渋谷荘が存在していた事の名残りとなっていることを理解したのであった。「長後 天満宮」を後にして「山王神社」に向かって進む。「引地川」に架かる「大山橋」を渡る。「引地川」の上流側を見る。そして長後上合にある「山王神社」に到着。藤沢市長後2305。山王神社山王神社は滋賀県大津市坂本の日一の仰に基づき建立されました。主祭神は「大山昨神」~岩第山岳信仰にをの源流を発しています。天台宗の開祖・最が延皐」建立したとき、比叡山の麓にあった山王権現を延暦寺一護神夫台宗の隆盛とともに山王物飛とげ、明治初年の神仏分離の実施により、山王権現は山王神社または日吉神社と改称し、瞬く間に全国へと広がっていきました。この上合地域は長後の北西部に位置し、長後の守護神ともいわれる長後天満宮(天神様)、の後方にあるため、この地域独自の守護神として祀ったのが山王神社の始まりと言われています。その後、月治一一年により再建されています。この地域の字名は山王添ですが、弓土月、(一ハ六・)に、時同し谷村蘢あ0だ福田の第大寺派・福田山慶寺(鎌倉市手広の「鎖帋」で鮪な真宗青寺の末社)岸地域の字名、天神添(長後天満宮は菅原道真公を祀る)と共に地域内の神社に因んだ字名が付けられました。~嚼る一なお、山王神社は天明七又一化人~ )に伊勢山(現・伊勢廸准.に合祀されましまを~域のk々ま今でもにの社を守護神薊丁などを行い、信仰の対象としとして祀り、-改築言、長後地区郷土づくり推進会議歴史散策の会令和ニ年(ニ〇ニ〇年)十ニ月吉日竹林の先にある小さな神社。親子のように並んでいた。「山王神社」社殿。隣には更に小さい境内社が二社。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.10
閲覧総数 783
28

「妙楽寺」を後にして「八王子道」に戻ると、右手角にあった石碑と社。「田村 こまかへ𣘺 駒返橋 跡」碑。「田村駒返橋跡ここは、臨済宗妙楽寺の門前で古くから馬継の場であったので駒返橋の名が発生したものと思われる。古歌に「ふるさとを たちいでる幾月ぞ 夕月あおぐ 駒返の橋」天正十八年(一五九〇)徳川家康が関東に入国すると、このあたりは家康の最も好んだ狩場となった。たまたま家康が鷹狩にこの地に来たとき、大雨のあと道路がひどく悪かったので田村の人たちがたたみを出して運行の便宜を図ったので、家康は田村の人たちの苦労を思んばかって、ここから馬を返したという伝説がある。」「 馬を返した」とは山路等で、道を馬で進むのが困難になって、そこから先は馬では進めないため、乗ってきた馬を下りて、馬を返すこと。もう1基の石碑には「庚申供羪塔」と。天保13年(1842)1月山伏角柱右側面「天保十三壬寅正月吉日」台 石「講中」台石右面「世話人」・11人の名 が。祠の中には「道祖神」碑と「五輪塔」。祠内に新旧二基が五輪石に隠れるように鎮座している。右側後方の石塔:安永7年単体像:烏帽子を被る。 <形>舟型 <材>凝灰岩 <寸>42×25×13 <銘>(正面)安永□年下町 戌正月十四日氏子中央に新しい石塔:<形>自然石 <材>安山岩 <寸>52×28×11 <銘>(正面)道祖神そして手前に「五輪塔」が並ぶ。少し戻った右手奥にあったのが「諏訪神社」。神奈川県平塚市田村7丁目7−9。「諏訪神社」の鳥居と社殿。住宅街の民家と民家の間にぽつんと鎮座しているが、地域の人々に大事にされているのだと。扁額「奉納 諏訪神社」。内陣。「田村下町 諏訪神社新築落成記念 平成九年四月吉日」碑。次に訪ねたのが「常勝寺」。神奈川県平塚市田村7丁目6−47。「真言宗 宝幢山 常勝寺」。「本堂」。高野山真言宗寺院の常勝寺は、宝幢山と号す。常勝寺は、金輪寺の僧だった宥雄(寛文3年・1663年寂)が、小田原にあった常勝寺を引寺して創建したと。本堂の扁額「宝幢山 常勝寺(ほうどうざん じょうしょうじ)」。文化八年(1811)相模川の大洪水の際、当時の住職覚厳和尚が住民のために入定したと。「入定」とは、高僧が断食・生き埋めなど苦行の果てに絶命すること と。立派なそして歴史を感じさせる「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」。この宝篋印塔は享保20年(1735)建立、基壇部分には、田村の人の名前が刻まれていた。「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう) 」を納めた供養塔を宝篋印塔 と云う。最上部の棒状の部分は相輪と呼び、頂上に宝珠をのせ、下に請花、九輪、伏鉢などと呼ばれる部分がある。相輪の下に露盤と階段状を持つ笠 があり、笠の四隅には隅飾(耳)と呼ばれる突起がある。笠の下の四角柱の部分は塔身という。江戸時代のものは、飾(耳)と呼ばれる突起が反りかえりひらいている。 その左に小さい石仏が左向きで。お釈迦様の姿であろうか。この石碑は?地蔵尊。「常勝寺」の前の道沿い東側にあった墓地。ここが「常勝寺」の墓地なのであろうか?立派な石塔があった。再び相模川の堤防に向かう。堤防に上がると正面にあったのが「駒返幹線排水樋管」。排水路や支川が堤防を横断して川へ流れ込む場合に、堤防の中をトンネルのように通り抜けるものを樋管または樋門という。堤防を分断し完全な開水路で通り抜ける場合の構造を水門という。水門はゲートを閉めたときに堤防の役割を果たす。「駒返幹線排水樋管」案内板。「神川橋」を振り返る。さらに相模川の右岸堤防を南下する。人の姿はなく相模川の右岸堤防を独り占め。堤防を下りてこの先を右折する。左手に「平塚市 リサイクルプラザ」。市内から発生する資源再生物のうち空き缶類、ビン、ペットボトル、容器包装プラスチックの4品目を合理的かつ経済的に処理し、有価物として鉄、アルミ、ビン、ペットボトル、容器包装プラスチック(プラクル)を資源化するための中間処理施設の工場部門と、廃棄物の減量化・資源化及び環境負荷の低減について理解することのできる施設の啓発部門を併せ持つ施設であると。その先にあった水路。「鹿見堂都市排水路」。神奈川県平塚市四之宮7丁目。橋の名は「しのみやはし(四之宮橋)」。そして到着した場所は「田村の一里塚の跡」。この辺りは平塚で最も古い道で平安時代の奥州道と云われ、後に中原街道・八王子道として利用され、榎を有した一里塚が設けられていたと 。東海道の平塚の一里塚が日本橋から15里60キロですから、中原街道では田村の一里塚が同じ地点になるのであろうか?そして中原に一里塚があるから、田村から中原まで一里4キロとなるのであろう。「南 中原道 北 奥州道ゑの木需?一里塚 跡」。石柱の建立年は不明であるが、なぜ石柱や石仏が左側の道に向いて、裏側の古道に向いていないのかが不思議であるが。「田村の一里塚の跡ここに平塚で最も古い道の一つで、平安の昔の奥州道であったといわれ、後に徳川家康が、江戸城から相州中原(平塚市中原)の宿舎まで、鷹狩にくるのに用いたと言う中原街道といわれる重要な街道があった。このあたりに、東海道などと同様に一里塚が設けられ、榎が植えらていたという。「新編相模國風土記縞」には八王子道にかかる一里塚であるとの記述もあり、このあたりでは中原街道と八王子道は、同一であったと思われる。」碑の右側の社の中の石仏。神奈中のバス停「鹿見堂橋」。家康が雨宿りした時に鹿を見かけたという鹿見堂は残らず、バス停にその名を留めるのみか。鹿見堂橋と、家康が箸(はし)を地面にさしたら森になったという弘法大師みたいな話の「箸立の森」はここより少し南にあったようだ。右手に「四之宮交番前」交差点。神奈川県平塚市四之宮5丁目29−13。更に南に進むと正面にT字路が。右に進むと「神奈川県下水道公社(四之宮水再生センター)」と。「神奈川県下水道公社(四之宮水再生センター)」入口が左側に。「四之宮水再生センター」は、相模川河口から5km上流の平塚市四之宮(ひらつかし しのみや)に位置し、昭和48年6月に流域下水道として、神奈川県内で最初に処理を開始した。相模川流域の関連市町3市2町(平塚市、伊勢原市、厚木市、大磯町、愛川町)の下水を処理。現在は、1日に306,150m3/日最大の下水を処理する水処理施設や汚泥処理施設が稼働している。「四之宮水再生センター」の航空写真をネットから。そして再び相模川右岸堤防に辿り着くと案内板があった。「四之宮の渡し江戸時代、幕府は相模川の架橋を禁止し、相模川の渡河は幕府が定める馬入や田村の渡しによって行われていました。相模川の対岸に飛び地を持つ村々は、飛び地に開けた農地を耕作するため独自に渡し場を設けていました。四之宮の渡し場の一つでした。江戸時代のはじめ、徳川家康が江戸と中原御殿を往来した時、四之宮の渡しも利用していたようで、その時の話が「四之宮の逆さ舟」「箸立の森」などの言い伝えとして残っています。実際の渡し場の位置は、川の流れの変動に応じて目久尻川合流点付近から前鳥神社付近の間でたびたび移動していました。四之宮の渡しは昭和30年(1955)頃まで使用されていましたが、その後廃止されました。」神奈川県平塚市四之宮4丁目20−37。昭和20年代の渡し(岸田實 画)。ここ「四之宮の渡し」のすぐ上流には、幕府直営の「田村の渡し」が設置されていた。ここは「中原街道」と、大山と江ノ島・藤沢を結ぶ「大山道」共通の渡し場だったとのことだが、現在この場所には「神川橋」が架けられているのであった。そしてここ「四之宮の渡し」は江戸幕府「直営」の渡し場ではなく、近在の村々が利便を図るために独自で設置されたとのこと。でありながら、鷹狩りで頻繁に訪れた徳川家康も利用していた と。徳川家康もいわゆる「白タク」ならぬ「白フネ」を利用したのだろう。「四之宮の渡し」の南側にあったのが「平塚 四之宮霊園」神奈川県平塚市四之宮4丁目20−8。「平塚 四之宮霊園」の墓地を見る。平塚市の中央に位置し、大山、丹沢山系を望む平塚エリア初の大型公園墓地。南側に「湘南銀河大橋」を見る。手前に「横浜都筑リトルシニアグラウンド」と「西湘パワフルズ 四ノ宮グラウンドがあった。「湘南銀河大橋」をズームして。神奈川県高座郡寒川町と平塚市を結び、神奈川県道44号伊勢原藤沢線(湘南新道)を通す相模川にかかる道路橋である。橋の名称は公募され、2371通の応募の中から「天にそびえる2本の塔に支えられ相模川をまたぐ壮大さと360度の広がりで見渡せる湘南の雄大な展望に、無限に広がる宇宙の夢、希望」(選考理由より)をイメージした「湘南銀河大橋」に決定したのだと。外観は、ペイブリッジなどと同じ斜張橋で、二本の主柱の高さは路面から48m。長さは520.3mで往復4車線と両側の歩道が設けられている。2007年7月までに片側2車線で本供用し、国道129号とも接続した。相模川河川敷にある「湘南銀河大橋ゴルフ」方向を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.17
閲覧総数 524
29

この日は11月8日(火)、平塚駅近くでの仕事の打ち合わせを終えた後に、先日11月3日に旅友が訪ねブログアップしていた神奈川県相模原市南区磯部にある『磯部のざる菊』展に向かう。車で1時間弱でざる菊会場の臨時駐車場・「勝坂こどもの広場」に到着し、『磯部のざる菊』展会場に向かう。道路脇には「ざる菊花見会」と書かれた幟が並んでいた。そして5分ほど歩き『磯部のざる菊』展の会場に到着。入口には「花掛け」の掲示板が。寄付していただいた方のお名前と寄付金額を書いた紙を貼り付けた掲示板。最高金額は「壱万円也」であった。「ざる菊会場 新磯ざる菊愛好会」と。⻩・真紅・⽩・ピンクなどの約8種類、約1,300株が咲き誇っている と。「維持管理協力金 募金箱」。私も100円を。この日は、黄色、真紅は満開、白は7部咲き、ピンクは5~6部咲きであった。近隣住民有志で、ざる菊の栽培に取り組む「新磯(あらいそ)ざる菊愛好会」(藤曲和美(ふじまがりかずみ)会長)が主催しているとのこと。白の「ざる菊」で「平和」の文字を描いているとのことであったが、白は満開手前であり、地上からの角度ではよく判らなかったが。展望台、高台等が手前にあれば・・・・!!ざる菊の花見会は「新磯ざる菊愛好会」が発足した2009年に始まり、令和4年の今年で14回目となる。およそ750坪の段丘に、⻩・真紅・⽩・ピンクなど約8種類、約1,300株のざる菊が整然と並ぶ。会場では期間中、ざる菊の鉢植えや地元産野菜、石焼き芋などが販売されていたのであった。『磯部のざる菊』展は2022年10月30日から11月15日で行われていた。最奥・左側は真紅と黄色のざる菊が満開で見事な光景。「新磯ざる菊花見会」と書かれた掲示板。赤い「平和」の文字が確認できる写真があった。ドローンによる上空からの写真であろう。ズームして。「ざる菊会場周辺案内図」※ 歴史探訪スポット ※● 旧中村家住宅 幕末期の和洋折衷住宅(国登録有形文化財指定)● 石楯尾(いわだてお)神社 なだらかな参道を登り、121段の石段を登りきると本殿へたどり着きます。● 勝源寺「秋の新磯散策マップ」案内。タウンニュース11月3日掲載。「秋彩る「ざる菊」開花 勝坂歴史公園近く新磯地域の秋の風物詩「ざる菊」が今年も勝坂歴史公園近く(磯部4375付近)の農園で美しい花を咲かせている。ざる菊は近鱗住民で結成された「新磯ざる菊愛好会」が栽培したもので、例年訪れる人の目を楽しませている。今年は花の色の配置で「平和」の文字を表現している。新型コロナの影響により今年も花見会や式典は中止。しかし、同会のメンハーが会場を案内し、恒例の地場野菜や菊、焼き芋の販売などは行う。期間は11月15日(火)まで。」読売新聞11月3日朝刊掲載。「ざる菊出来上々 相模原相模原市南区磯部の畑で、直径約1メートル、高さ50センチほどのドーム状に成長する「ざる菊」の花見会が開かれ、多くの見物客が訪れている。約2970平方メートルの畑に植えられているのは、白や赤、黄色などの約1300株。地元住民らでつくる「新磯ざる菊愛好会」が2009年から毎年植栽し、花見会を開いている。同会の藤曲和美会長(77)は、「今年は上々の出来で、見頃のピークは今月中旬頃まで。花を見て気持ちを和ませてもらえればうれしい」と話している。花見会15日まで。入場無料。間い合わせは、同会の安原さん( 090・6516・7591 )へ。」奥に向かって。約1m径の黄色のざる菊。赤も2列に。赤も負けじと。ピンクはこれから。白もピーク間近。整列!!整列!!遠くの大山の姿が。振り返って。少し高い奥の場所から。階段を下りて。「祝 第23回全国花の町づくりコンクール奨励賞受賞JA相模原市は、新磯ざる菊愛好会の活動を応援しています JA相模原市」因みに第23回は、平成29年(2017)6月3日・4日の両日、福井県福井市で「全国花のまちづくり福井大会」が開催された大会であった。ざる菊、ザル菊、ポットマム、ヨーダマム、クッションマム、ぼさ菊、ボサ菊などと多くの名前ついているが、統一してもらいたいのであるが。スプレー菊(スプレーマム)であろうか。地元の採れたて野菜を販売。焼き芋も。仮設トイレもあった。嵯峨菊に似ていたが。スプレーマム(スプレー菊)であっただろうか。左に並んだ白の菊も仕立てたものであろうか。黄と赤が1本のザル菊の如くに。
2022.11.17
閲覧総数 478
30

この日は12月16日(金)、この秋も多くの場所の黄葉・紅葉を楽しんで来たが、地元市内にある「天嶽院」の参道の紅葉も美しいので、今年も訪ねたのであった。駐車場に車を駐め、この日も散策開始。「天嶽院」の「山門」は西向きに建っているので、紅葉の参道に陽光が入りこむのは15時前後からが良いのである。この日も15時過ぎに到着。「功徳山 早雲禅寺 天嶽院(てんがくいん)」。所在地:神奈川県藤沢市渡内(わたうち)1丁目1-1頂いたパンフレットから「天嶽院境内案内図」を。「嶽」の字について学びました。 【https://okjiten.jp/kanji342.html】より「---北条早雲公開基の古刹--- 天嶽院」文明年間(1469年 - 1487年)に「虚堂玄白」が草庵を営んだ。この草庵を「玉縄城主、北条綱成」が「北条早雲」を弔うために寺院として創建。虚堂を開山、早雲を開基とした。 天正19年(1591年)11月、徳川家康より朱印地30石を賜る。パンフレットより。「功徳山早雲禅寺 天嶽院」。パンフレットより。「参道」入口の門柱。この門柱に書かれている文字は、一昨年?我が高校時代の友人Sさんから教えて頂きました。「雨花知佛境 流水識禅心」と。「雨花佛境を知り 流水禅心を識る」と。「雨花知佛境」(右側)の門柱。「流水識禅心」(左側)の門柱。「山門」とその前の「寺号標石」と「金剛力士像・仁王像」。寺号標石「天嶽院」。・真言密教の古寺「不動院」から始まる。・治承四年、源頼朝公は、伊豆で挙兵、鎌倉を目指すが、途中「不動院」に立ち寄り 不動明王様に大願成就祈願をされたとの伝説がある。・明応四年、北条早雲公によって伽藍の一宇が創建され、「不動院」を改めて曹洞宗の禅寺とし、 虚堂玄白禅師を迎えて開山。・天正四年、火災に遭い伽藍は全焼。・中興開基 玉縄城主北条綱成公、氏繁公父子。・再中興開基 紀伊大納言徳川光貞卿。・昭和平成伽藍復興。向かって右側の「阿形像」。上半身をあらわにした2体は、筋骨隆々。カッと両の目を見開いて、睨みをきかす迫力たっぷりの表情。左手に長い金剛杵(こんごうしょ)を抱え、右手の五指を下に向けて大きく開いて。長い金剛杵(こんごうしょ)。この金剛杵はあらゆるものを打ち砕けるほど硬く、金剛力士はこれを用いて仏敵や業魔を粉砕するのだと。お顔をズームして。向かって左側の「吽形像」。左手に短い金剛杵(こんごうしょ)を抱え、右手の五指を正面に向けて大きく開いて。短い金剛杵(こんごうしょ)。お顔をズームして。「掲示板」。「利に群がるな 心で集え 目先の欲は 分裂のもと」と。「山門」前から「参道」の「モミジトンネル」を望む。そして「山門」を額縁にして、モミジの参道を。「山門」を潜りながら。モミジのトンネルに続く切石敷の参道....石畳とその左右に敷き詰められた苔の緑が絨毯のようで美しいのであった。「参道」を歩く。モミジのトンネルの中から眺めた石段上の堂宇境内。言葉はいらない!!そして苔生した参道を進み、石段の上から「山門」を振り返る。午後3時の逆光にモモジ葉が輝く。「山門」をズームして。自然石を刳って作ったのであろうか、「手水場」が。「舟落葉」が一枚(ひとひら)。正面に「中雀門」を見る。「不動殿」横の道沿いに建っていた祠。三体の石仏が祠の中に。右の小さな2体の石仏。左の大きな石仏。「鐘楼」。梵鐘をズームして。安永3年(1774年)の銘のある梵鐘。総高161.8センチメートル、口径81.6センチメートル、鐘身111センチメートル。銘文の文中には「功徳山早雲禅寺天嶽院北条氏繁公草創」とある と。「鐘楼」の先、右手にあった「六地蔵」。「庫裡」を横から。この奥に「鶴夢楼」があった。「早雲閣」。「早雲閣」の玄関。「東司」は手洗い。手洗の中の額に書いてあった言葉を紹介させて頂きます。「禪寺では御手洗のことを東司(とうす)と申します。一、佛殿(ぶつでん)ニ、法堂(はっとう)三、僧堂(そうどう)四、庫裡(こり)五、山門(さんもん)六、東司(とうす)七、浴室(よくしつ) 以上が禪寺に於ける七堂伽藍であります。」と。休憩所「黄楳亭」。そして引き返して再び「鐘楼」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.27
閲覧総数 727
31

特別展『毒』の展示鑑賞をほぼ終えて出口に向かって進む。正面に、様々な展示会の案内のポスターが。「監修者に聞く第1会場では、身のまわりには毒がたくさんあることをご紹介しました。こでは、本展を監修した9名の研究員と、本展のナビゲーターを務めた鷹の爪団にとって「毒」とはなにか聞いてみましたあなたにとっての「毒」とはなにか、ぜひ考えてみてください。」「植物研究部 細矢研究員に聞くQ.あなたにとっての毒とはなんですかA.工ンドレスな議論のタネですかね(笑)。この展覧会では、「毒と薬は同じ」というフレーズが 何回か出てきます。私は、製薬会社に動務していた経験があるので、「薬が毒と同じもの」と いうのはよく知っていました。人間の立場からすると、毒にしかならないものはいつぱい あります。しかし、薬のなかにも取り過ぎれば毒になるものがいつばいあります。 アルコールはその代表で、注意しながらいただいています。Q.あなたの分野で恐れられている(有名な)毒はなんですかA.私の修論のときの研究テーマであるフザリウムというカビがつくる麦類赤かび病の 毒素(複数)です。とても多くの研究者が研究していますが、いまだに研究すべきことが 出てきます。Q.毒にあたった経験はありますか。 毒にあたらないように注意をしていることはありますか。A.博物館ではビョウタケ類という非常に小さいきのこを研究しているため、地を這うように 採集しています。その結果、しばしばウルシにかぶれます。夢中になると目に入らないん ですよねえ(笑)。出張先でひどくかぶれて、病院通いしたこともありますので、長期の出張の 時には塗り薬を持っていきます。」「動物研究部 中江研究員に聞くQ.あなたにとっての毒とはなんですかA.やはり恐布の対象です。生物の形態や機能には美しさを感じることが多いですが、生物が 産み出した毒には美しさよりも恐怖を感じてしまいます。人間が作った毒、特に人間用の 毒には嫌悪感しかありません。 また、私にとっての毒の身近な具体例としては、"百薬の長"であるお酒が挙げられます。 薬にはならないと理解しながら嗜んでいます。嗜み過ぎて翌日に「毒」だと思い知らされる ことも多いです・・・Q.あなたの分野で恐れられている(有名な)毒はなんですか。A.毒そのものではないですが、オニダルマオコゼでしようか。フグ毒などは自分の注意で逃れる ことができますが(毒を盛られたら別)、オニダルマオコゼは採集調査時に気付かずに踏んだり する可能性があるので、怖いなあと話題に上がることがあります。Q.毒にあたった経験はありますか。 毒にあたらないように汪意をしていることはありますか。A.子供の頃にハチの巣にちょっかいを出していたりしたので、キイロスズメバチに2回、 アシナガバチに3 ~ 4回、ミツバチに2回と、何度もハチに刺されています。 ハチの毒を勉強し、アナフィラキシーショックが怖くなったので、ハチには近づかないように なりました。が、ある日、クローバー畑でゴロゴロ寝そべっていたら脛にミツバチの針が 刺さっていました・・・(ミツバチの2回目)。「動物研究部 吉川研究員に聞くQ.あなたにとっての毒とはなんですかA.爬虫類や両生類には毒をもつものが意外と多く、実は毒は身近な存在です。正しい知識をもって 正しく恐れながら付き合っていくべきものですね。しかし不思議な魅力もあって、小さい頃は 祖父が持っていたまむし酒をドキドキしながら眺めていました。いまでも調査中にマムシに 会うとじっくり観察してしまいます。Q.あなたの分野で恐れられている(有名な)毒はなんですか。A.爬虫両生類学の分野、特に恐れられいるのはやはり毒へビです。日本国内のハブやマムシは 血清があり、医療体制も整っているとはいえ、咬まれればやはりタダでは済みません。 東南アジアなどの海外調査では僻地だったり血清もないことが多く、命にかかわります。 コブラ類は強い神経毒をもつので特に恐れられています。実際に調査中にアマガサヘビという コブラ類の幼体に咬まれて死亡した海外の研究者もいます。Q.毒にあたった経験はありますか。 毒にあたらないように注意をしていることはありますか。A.むかしヤマカガシに2回ほど咬まれたことがありますが、その時は毒牙に達しなかったので 無事でした。ヘビにむやみに手を出すのはやめましよう。また、幼稚園の頃に突然目が種れて 病院送りになったことがあったのですが、アマガ工ルを触った手で目をこすったのが原因だった ようです(アマガ工ルは粘液に刺激性のある強い毒を含みます)。生き物と接する上では、 触ったらよく手を洗う、触った手で目や鼻を触らない、といった基本的なことが大事だと 思います。「動物研究部 井手研究員に聞くQ.あなたにとっての毒とはなんですかA.怖いものであり、避けたいものです。でもその毒を怖いと思ったり避けたいと思ったりする 感覚が、ミューラー擬態やベイツ擬態のような形などで、生物に多様性をもたらすことにも つながったのかなと思うと、やつぱり毒っておもしろいって思います。Q.あなたの分野で恐れられている(有名な)毒はなんですか。A.ハチ毒はアナフィラキシーショックの危険性もあることからやはり恐れられていますね。 ただし、無理に捕まえたり驚かせたりしない限り、ほとんどのハチは積極的に人間を刺す ことはないので、ひとくちにハチといって嫌いにはならないでほしいです。注意すべき点 さえ注意していれば、ハチに限らず毒をもった虫たちってすごくおもしろいですよ。Q.毒にあたった経験はありますか。 毒にあたらないように汪意をしていることはありますか。A.今回登場している虫のなかでいうと、ハチに刺されたことも、イラガに刺されたことも あります。どちらも不用意に手を伸ばした先にたまたまその虫がいて刺されました。 森の中じゃなくても、手すりなどにも毒をもった虫がいることがあるので、手を伸ばす ときには注意しています。毒虫に注意してまわりを見ていると、毒の有無にかかわらず、 意外な場所でおもしろい虫が見つかったりするので、ちょっとお得です。「植物研究部 田中研究員に聞くQ.あなたにとっての毒とはなんですかA、生物が生存のためにもつようになったもの、というイメージですね。身のまわりにも たくさんの「毒」があります。毒草を誤って食べれば命取りです。植物は身を守るために 虫に食べられると毒素を作るので、有機野菜で虫が食べているから安全というわけでも ないのです。世の中、完全に安全というものはないでしよう。私たちの生活のなかに 散在する「毒」は、リスク管理の大切さを教えてくれる存在ともいえるでしよう。Q.あなたの分野で恐れられている(有名な)毒はなんですか。A.私の専門の種子植物で、世界最強の毒草と呼ばれているのが、ゲルセミウム・エレガンス。 トリカブトのアコニチンの致死量は0.116mgとされていますが、この毒草に含まれる ゲルセミンという成分の致死量はわずかに0.05mgといわれます。葉3枚ほどであの世行きです。 そんな毒草に”エレガンス”って。この仲間のカロライナジャスミンは、園芸植物として日本でも よく植えられますが、もちろん毒です。美しきものには毒があるのです。Q.毒にあたった経験はありますか。 毒にあたらないように汪意をしていることはありますか。A.私は熱帯植物が専門。そのためをフィールドでは特に注意しています。手をかけようとした枝に 毒ヘビが巻き付いていたことも。イラクサ科やウルシ科の毒にやられないよういつも豚皮手袋を しています。森では最新の注意を払う中、ある日、ジャワ島でお菓子とミネラルウォーターを 振る舞ってくれた親切な村人。その水の瓶の蓋が緩いと思ったので一口でやめました。 ところが、その一口が命取り。翌朝トイレは祭囃子、3日寝込みました。海外では、水も注意が 必要です。「植物研究部 保坂研究員に聞くQ.あなたにとっての毒とはなんですかA.きのこを研究している。それだけで毒からは永遠に離れられない関係にあります。なにしろ 初対面でまず聞かれるのは「で、どうやって毒きのこを見分けるの?」…そんな方法ありません、 と言ってもまず納得されません。これまできのこ図鑑を多数監修していますが、食毒が不明な 種のほうが多いので、できれば「食・毒」に関する記述は無しにしたい、と思うことも しよっちゅうです。でも、やつぱりそんなきのこ図鑑は面白くないかも、と悩む今日 このごろです。Q.あなたの分野で恐れられている(有名な)毒はなんですか。A.最近話題のカエンタケ、ほかに類を見ない中毒症状のドクササコ、綺麗で猛毒のドクツルタケ、 など毒きのこはキャラクターが尽きないのですが、個人的に一番興味をもっているのは シャグマアミガサタケです。なにしろ猛毒なのに、フィンランドでは政府お墨付きの伝統食材な のです。慎重に慎重を期した試食レポートもぜひお読みください。Q.毒にあたった経験はありますか。 毒にあたらないように汪意をしていることはありますか。A.毒きのこに関して言えば「知らないきのこは食べない」に尽きます。僕はほかのきのこ研究者に 比べると、野生きのこを結構たくさん食べているほうだと思いますが、これまでのきのこ研究 生活で、毒きのこによる中毒は一切ありません。一回だけ肝を冷やしたのは、アメリカできのこ 同好会の持ち寄りパーティーに参加した時。もちろんみんな自慢のきのこ料理を持ってくるの ですが、その夜に強烈な腹痛と吐き気を感じ、集団きのこ中毒か、と思いましたが、結果的には 通常の(それでもイヤですが)食中毒でした。「地学研究部 堤研究員に聞くQ.あなたにとっての毒とはなんですかA.「薬」です。いわゆる「抗がん剤」は点滴によって投与されますが、その準備をする看護師は完全防備(マスク・ゴーグル・フェイスガード・使い捨てエプロン・手袋)です。皮膚に付着するとあまり良くないとのこと。この話を聞いて、がんを制するためには毒に近い強力な薬が必要なのだと感じました。Q.あなたの分野でれられている(有名な)毒はなんですか。A.フッ酸(フッ化水素酸: HF)」ですね。 フッ酸は岩石の主成分である珪酸塩鉱物やガラスを溶かす性質があり、岩石を溶液化する際や 固い岩石から微化石を取り出す際に用います。一方で、人体を激しく腐食する劇物としても 知られています。我々の分野で大きな事故は聞いたことはありませんが、フッ酸が関わった 恐ろしい事件・事故は少なくないので、興味のある方は検索してみて下さい (閲覧にはご注意ください)。Q.毒にあたった経験はありますか。 毒にあたらないように汪意をしていることはありますか。A.調査の際、最も厄介なのは蚊と蜂です。とはいえ蚊は刺されても痒いだけで済みますが、 蜂には特に気を付けています。以前、仲間とニ人で山奥の調査をした際、私が靴紐を直している 間に先行した仲間の足元からスズメバチの群れが湧いてきたことがあります。おそらく巣を 踏んでしまったのでしよう。何とか逃げ切りましたが、疲れ切ってその日の調査は中止に なりました。「理工学研究部 林研究員に聞くQ.あなたにとっての毒とはなんですかA.私は化学が専門で、実験のなかで取り扱う試薬の中には有害なものもあります。そのような 試薬は「毒物」、「劇物」と明記されていますので-、毒は以外と身近な存在と感じています。 初めて扱う試薬については、使用前にその性質や危険性を必ず調べます。不用意に開封すると 大気と反応して有毒ガスが出るような試薬もあります。とはいえ、毒は理解した上で正しく 使えば怖くない物質です。Q.あなたの分野でれられている(有名な)毒はなんですか。A.私の研究分野は化学のなかでも触媒という分野で、触媒は化学反応を進めることで薬や化学製品を作ったり、自動車の排気ガスなどの有害物質を無害化する物質です。触媒にとって毒となる物質があり、「触媒毒」と呼ばれています。例えば、一酸化炭素や硫黄化合物などで、触媒の有効成分に強くくっつき、無力化してしまいます。触媒毒を除く技術や、劣化しにくい触媒の開発が続けられています。Q.毒にあたった経験はありますか。 毒にあたらないように汪意をしていることはありますか。A.実験の際に一番気をつけることは、試薬が目や口に入らないようにすることです。そのために、 保護メガネをつけ、実験前後に手を洗います。余談ですが、砂糖の100倍以上甘い人工甘味料 アスパルテームの発見は、ある製薬会社の研究員の口にアスパルテームが実験中偶然入り、 その甘さに気づいたことがきっかけです。毒ではなくてよかったですね。特別展「毒」「監修・監修強力」者の紹介。「謝辞本展覧会の開催にあたり、以下の各機関、各社、ならびに多くの方々にご協力を賜りました。ここに厚く御礼申し上げます。(敬称略、五十音順・アルファベット順)「図鑑2種同じ種のきのこでも、国によって食毒がの扱いが異なることがあります。ウスタケやニセショイウロの仲間は中国雲南省では広く食用にされていますが、日本や欧米の図鑑ではほぼ例外なく毒きのことして扱われます。」「チンチョーロ時代のミイラ」。「チンチョーロ時代のミイラ紀元前3200年頃に作られた子どものミイラで、CT撮影により、腕や脚の長い骨に密度か高い部分があることが分かりました。これは砒素などを摂取していたために生じた可能性があると指摘されています。」そして「毒展」のオリジナルショップへ。ここで展覧会の復習用に、「毒展」の公式図録.を¥2,400(税込)で購入。図録:特別展「毒」。特別展「毒」で観た内容のほか、展覧会では紹介しきれなかったというコラムなども多数掲載。本展の監修を務める国科学博物館の9名の研究者はもちろん、「深海」や「へピ」のスペシャリストなどからの貴重な寄稿も収録してあった。全180ページ!目次-1目次-2「ツキヨダケのぬいぐるみ」と「ベニテングタケのぬいぐるみ」。そして「毒まんじゅう」も購入。実は普通のまんじゅう、972円(税込)。内部には紅芋餡が。ここが一番混雑していた。精算に並ぶ方々。そして出口に向かって進むと、右手にあったのが「フーコーの振り子」。「フーコーの振り子👈リンク地球上の振り子は、重さや長さに関係なく振動面がある速さでゆっくりと回転するのが観察される。👈リンクフランスの物理学者レオン・フーコー(1819 ~68)は、この現象が地球の自転のために起こることに気付き、1851年に初めて振り子によって地球の自転を実験的に証明した。」■1851年の実験の様子フーコーは何度か実験を行ったが、最も有名なのは1851年にパリのパンテオン(偉人を祀った廟)で行った公開実験である。このときの振り子は、28kgの鉄球を67mのピアノ線でつり下げたもので、パンテオンは毎日見物客でいつぱいになった。◆フーコーの振り子の原理👈リンク回転台の振り子は、台が回転しても振動面の向きは変わらない。この振り子を同じ回転台の上に乗って観察したとすると、振り子の振動面が回転するように見える。地球は自転しているので、回転台の上の振り子と同じことが起こる。これがフーコーの振り子の基本原理である。しかし、地球上では緯度によって振り子の回転の速さが異なる。北極や南極では1日に1回転するが、緯度が低くなるにつれて回転が遅くなり、赤道では回転しなくなる。各緯度の場所の振り子は、極地方の振り子と比べて緯度の正弦に比例した速さで回転する。なお、当館の緯度(北緯35°42.8’)では、振り子は1時間あたり8°46.8’回転し、約41時間で1回転する。回転のペースは北極点なら24時間で一周。赤道だと変化なし。日本やパリ、ニューヨークなどなら、1/sin(緯度)×24時間になる。そしてここ「国立科学博物館」は、北緯35°42.8’なので41時間くらいになると。そして「日本館」を出て、屋外へ。正面には再び巨大なクジラが。体長30m、体重約150Tのメスのおとなの「シロナガスクジラ」。巨体を海面から深く潜行させようとしている姿を再現。シロナガスクジラは巨大さだけではなく寿命も相当のものであると。それは、寿命の最長200年!平均では、80〜120年だそうで、完全に人間以上。口の部分をズームして。体長30mを斜めから。尾の部分。「シロナガスクジラシロナガスクジラは、現在地球上に生息する最大の動物です。流線型の細長い体、小さい背ビレ、灰色のカスリ模様が特徴で、英語ではプルーホ工ールと呼ばれています。赤道付近をのぞく南北両半球の大洋に分布しますが、冬は繁殖のため暖かい海で過ごし、夏は冷たい海に回遊します。食物は主に体長5センチメートル程のオキアミなどで、群れを大量の海水ごど飲みこみ上顎のクジラヒゲでこしとって食ベます。出産は2 ~ 3年ごどで、体長約7メートルの子が生まれ、数年でおとなになります。20世紀初めには南極海だけで20万頭以上いたといわれていますが、1966年に捕獲が完全に禁止されるまでに激減しました。今では全世界で1万頭程度といわれ、国際条約できびしく保護されています。この実物大の模型は、体長30メートル、体重約150トンのメスのおとなのシロナガスグクラが、海面での深呼吸を終えて急速に深く潜ろうとしているところです。」林の奥にテントが設営されている上野公園噴水広場を見る。再び「国立科学博物館」を。そして「国立西洋美術館」の「考える人」像。肉体表現と思索にふける人物を描写した像として有名。オーギュスト・ロダン作品。2023年1月23日(月)~3月17日(金)は館内整備に伴い全館休館中であった。上野「国立西洋美術館」 は世界遺産に登録されている。「国立西洋美術館」を含む7か国17作品で正式には「ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-」国境をまたいだ世界遺産としては日本では初登録の世界遺産。その前庭には彫刻・「カレーの市民」が。「カレーの市民」。オーギュスト・ロダン・・・1884-88年(原型)、1953年(鋳造)「カレーの市民」は、百年戦争時の1347年、イギリス海峡におけるフランス側の重要な港カレーが、一年以上にわたってイギリス軍に包囲されていた際(カレー包囲戦)の出来事に基づいて作られていて、英雄ユスターシュ・ド・サン・ピエールの姿を記念する像。右手に「東京文化会館」。「東京文化会館」は、「首都東京にオペラやバレエもできる本格的な音楽ホールを」という要望に応え、東京都が開都500年事業として建設し、1961(昭和36)年4月にオープン。以来今日まで、オペラ、バレエ、クラシックコンサートなど、世界中の著名なアーティストによる名演の数々が繰り広げられ、“奇跡的”とも言われる音響の良さと相まって、その名は“Tokyo Bunka Kaikan”として広く世界にまで知られてる と。「東京文化会館」入口。再び「国立西洋美術館」。右手に見えたのが「弓をひくヘラクレス」 エミール=アントワーヌ・ブールデル 1909年(原型)ギリシャ神話の英雄へラクレスの「十二の功業」の一つ。へラクレスが怪鳥ステュムファリデスを射るために渾身の力で弓をひき、まさに矢を放とうとする瞬間を捉えている。隆々たる筋肉におおわれた緊張感あふれるヘラクレスの肉体 と。以前に撮った写真。右手にはこれもロダン作「地獄の門」。13-14世紀イタリアの詩人、ダンテ・アリギエーリの叙事詩『神曲』地獄篇第3歌に登場する地獄への入口の門である。「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の銘文でよく知られており、深い絶望をあらわす表現としても用いられる。このロダン作「地獄の門」は、上野恩賜公園の国立西洋美術館、静岡県立美術館をはじめ、世界に7つが展示されているとのこと。3月18日(土)から開催される「憧憬の地 ブルターニュ」展のポスター。「19世紀後半から20世紀にかけ、各国の画家たちがフランス北西端のブルターニュ地方を訪れ、この地を多くの作品に描きとめました。本展では国立西洋美術館の「松方コレクション」をはじめ、国内美術館や個人コレクションおよそ30か所からブルターニュを表した作品約160点を選りすぐり、それぞれの画家たちがこの地に何を求め、見出したのかを探ります。」と。パンダの形をした「上野動物園(ueno ZOO)」案内板。そして上野駅東口に向かって「パンダ橋」を渡る。「上野駅東西自由通路建設地点の遺跡台東区上野公園五番東京都立上野公園内は上野忍岡遺跡群として縄文時代ー近世の遺跡が広がり、江戸時代には寛永寺境内地であった。本遺跡は上野台地の東南の縁辺に位置し、北西に東京文化会館構内・国立西洋美術館構内の遺跡が分布している。当地は近世には寛永十一年(一六三四)から寛永寺子院の常照院が存在していたが、一六七八年に凌雲院が移転してきた。凌雲院の境内は当地から東京文化会館と国立西洋美術館まで続き、十八世紀中頃以降は徳川御三卿(田安・一橋・清水家)の墓所となっていた。国立西洋美術館構内の発掘調査では清水家の墓が発見され、東京文化会館においても墓が確認されている。当地は平成十年(一九九八)に東西自由通路(現パンダ橋)建設に伴い調査を実施した。調査地の北東側に十七世紀頃の「段切状遺構」(雛壇状の区画)が検出され、また「地下室」等も見られ常照院に関係するものと推測される。その後北半分は整地されて墓所となっており十九世紀頃の板石組の石槨墓(五基)や墓所を区画する石組が発見され、一橋家の墓所と推測される。遺物では「地下室」から中国製磁器、鋼製灯明具、松竹・鶴亀文印刻の土師質(素焼き)皿などが出上した。近世以前では細文時代前期、弥生時代末期頃、古墳時代後期、奈良・平安時代の住居跡が調査されており、古墳時代の住居跡は焼失して屋根材が炭化したまま残っていた。その他に道路状遺構や縄文時代の集石などが発見されている。火災住居跡からは完全な形の土師器坏、金環(金銀貼の製耳環)が出上し、付近の摺鉢山古墳等に関連した集落とも推測される。一九九八年発掘調査での出土遺物は平成十二年度台東区有形文化財(考古資料)に登載されている。 平成十五年三月 台東区教育委員会」オープンスペースが少ない線路の東側の人々が、大災害時に上野公園に避難しやすいようにと建設された橋であるとのこと。上野駅のパンダ橋口にあった大小2体のジャイアントパンダ像1984(昭和59)年の設置。高さ2mを超える巨大なもの。この入谷改札先のジァイアントパンダ像は現在、小さいパンダ像と一緒に納まっているのですが、この小パンダ像こそが、かつて大連絡橋に設置されていたもの。大小2体が同じ場所に置かれている様子は、まるで親子のようで、別々につくられた像とは思えないほどぴったりはまっていたのであった。正面に「月・日」のモニュメントパンダ橋から昭和通りへと続くペデストリアンデッキ(歩行者連絡橋)、通称ジュエリーブリッジには巨大な月と日を象徴したモニュメントが建っていた。そしてこの後は、現役中に大変お世話になった協力会社の社長に久しぶりにお会いし中華料理をご馳走になり、楽しい時間を頂いたのであった。そして私からは、お土産として「国立科学博物館・特別展『毒』」のショップで購入した「毒まんじゅう」を!! ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.03.18
閲覧総数 232
32

直感に反する結果になることで有名なのが「モンティ・ホール問題」。ドアの選択を変えるか、変えないか、あなたならどうしますか? 1963年、モンティ・ホールが司会を務めるアメリカのテレビ番組でこの問題が紹介されると、大変な話題を呼びました。この問題の答えは、「ドアの選択を変えるべき」。どうしてそういえるのでしようか?「モンティ・ホール問題」👈️リンク3つのドアがある。どれか1つが「当たり」で、残りの2つは「外れ」である。易しく例を述べると「当たり」のドアを開けると景品があるが、「外れ」のドアを開けても何もない。あなたはドアを1つ選んだ。その後、正解を知っている司会者(モンティ)が、あなたが選ばなかった2つのうち「外れ」のドアを1つ選んで開けた。ここであなたは、「最初に選んだドア」と「残っているドア」のうち、好きな方を選べる。ドアの選択はこのままでいいだろうか?それとも変えるべきだろうか?最初に『A』を選んだが、その後、Cはハズレであることを司会者モンティが示した。さて、貴方は次のどれを選びますか?①Bに変更すべき②Bに変更すべきでない③どちらも変わらない3つのドアがあり、どれか1つのドアが当りで、他の2つは外れです。仮にドアAを選んだとします。その後、ドアCを開けて外れであることを示した。ここで「ドアAからドアBに変更してもかまわない」という提案を持ちかけられました。はたして変更する方が得なのか?まず、当りである確率はドアA、ドアB、ドアC全て1/3です。ドアAを選んだ場合◆ドアA(青枠)が、当りである確率は1/3◆ドアBまたはドアC (赤枠)が当りである確率は残り2/3になります。青枠と赤枠どちらを選んだほうが得なのでしよう?青枠を選んで当りである確率は1/3です。赤枠を選んだ場合、当りである確率は2/3です。しかし、赤枠内に扉が2つあるため、その後1/2の選択をしないといけません。つまり赤枠を選んでも正解である確率は2/3☓1/2=1/3です。では、ドアCが外れとわかると、どうなるのでしよう?それでも青枠に当りがある確率が1/3で、赤枠に当りがある確率が2/3であることは変わりません。この状況だと赤枠と青枠どちらを選ぶほうが得なのでしようか?青枠を選んで当りである確率は変わらず1/3です。赤枠を選んだ場合、当りである確率は2/3です。そして、赤枠内の扉が1つになっため、その後の1/2の選択が不要になりました。つまり赤枠(ドアB)を選んで正解である確率は2/3です。ドアCが外れであることがわかっているので、赤枠を選ぶこととドアBを選ぶことが等しくなります。よって最初に選んだドアをそのまま選ぶのではなく、別のドアを選ぶことが『モンティホール問題』👈️リンク の正解なのです。こちらの『モンティホール問題』👈️リンクの方が理解しやすいかもしれません。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.09.23
閲覧総数 914
33

「全国工芸職人展」を訪ねた。「全国工芸職人展」(旧・森のやきものフェア)は毎年、いちょうが「黄葉(こうよう)」する季節に行われる物産フェア。多彩な工芸品が展示販売されていた。毎年11月中旬から12月上旬まで、青山通りから聖徳記念絵画館に向かって約300メートル続く」146本のいちょう並木が黄金色に染まる。落ち葉で埋め尽くされた並木道はまさに黄金色の「いちょうのトンネル」。このいちょう並木と聖徳記念絵画館の間の広場に特産品の販売店や飲食店が出店しているのであった。明治神宮外苑 いちょう並木の右奥に入口があった。「2024年 第11回 全国工芸職人展」日時:11月21日(木)~12月8日(日) 10:00~17:00会場:【明治神宮外苑】イチョウ並木隣接の権田原会場入場料:無料会場案内図。近づいて。キッチンカー、テントが並ぶ。養老乃瀧グループ。「ふくしま糀味ラーメン」。さらに進む。盆栽。まゆ工芸。さかたや・石焼き芋。五平餅。狭山茶。さらに奥へ鮎塩焼。大道芸。奥にあったのが「御観兵榎について」案内板。「御観兵榎についてこの外苑の敷地は、もと陸軍の青山練兵場で、明治天皇の御台臨のもとにしばしば観兵式が行われ、なかでも明治二十三年(一八九〇)二月十一日の憲法発布観兵式や、明治三十九年(一九〇六)四月三十日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でありました。聖徳記念絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)にその時の様子が描かれており、当時の盛儀が偲ばれます。明治天皇がご観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この榎 を「御観兵榎」と命名し永く保存しておりましたが、平成七年(一九九五)九月十七日老令(樹令二百余年)の為台風十二号余波の強風により倒木しました。遺木の一部は聖徳記念絵画館内に名木「ひとつばたご」の遺木と共に保存されております。平成八年(一九九六)一月、初代御観兵榎の自然実生木(推定樹令六十年)を苑内より移植し、「二代目御観兵榎」として植え継ぎました。 平成八年一月吉日 明治神宮外苑「初代 御観兵榎」榎 にれ科えのき属、樹齢二百余年と推定される。幹廻り、二・二メートル 高さ、 九メートル 枝張り、十六メートル碑石 石材は伊豫(愛媛県)青石、天然石題字 東郷平八郎 書 明治三十八年日本海海戦においてロシアバルチック艦隊を壊滅させた、 当時の連合艦隊司令長官 東郷神社の祭神前方左に「御観兵榎」碑。「御観兵榎 伯爵東郷平八郎書明治天皇には明治二十年青山練兵所設置以来恒例の觀兵式又は憲法發布及び凱旋観兵式に親臨あらせ・・し節に此の榎の下 御馬を駐めさせ・・・大正十五年七月明治神宮奉賛會」黄葉と紅葉のコラボ。近づいて。オカリナ 生演奏中。オカリナ製作&演奏 白井進👈️リンク水引で造ったかんざし類。大道芸 バルーン(風船芸)。草木染め山口・伝統工芸品、着物、帯。そして出口に向かう。出口。再び、明治神宮外苑 いちょう並木をカメラに。和服姿で記念撮影するカップル。お顔から外国人のようであったが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.12.05
閲覧総数 168
34

「三重県尋常師範学校・蔵持小学校」の見学を続ける。「学校が出来る前」「学校が出来る前誰もが通える「学校」が出来たのは、明治時代に入ってからです。江戸時代の一部の子どもたちは「寺子屋」と呼ばれるところで師匠から個別に身分によって異なる教育を受けていました。」「旧江戸下町の寺子屋商家の子どもたちは、師匠である地元の僧侶や有力な町人から読み・書き・そろばんといった生活に必要な教えを受けました.教科書として使っていたのは各地の名跡や産業をまとめた「往来物」と呼ばれる冊子でした。武家の子どもたちは、師匠である武士から、地域の指導者となるための教えを受けました。そのため、一般の人々より高い知識と教養を身につける必要があると考えられ、儒教の教えが記された「四書五経」などを教科書としました。」手前に「五つ玉算盤(そろばん)」、「筆」も展示されていた。教科書の孟子・大學・中庸も。「三重県尋常師範学校・蔵持小学校旧所在地 三重県名張市蔵持 建設年代 明治21年(1888)明治19年の師範学校令により、小学校教師の養成を目的として各県に一校ずつ尋常師範学校が設けられることになり、明治21年この建物が三重県の尋常師範学校本館として津市に建てられた。昭和4年蔵持小学校の校舍の新築に際し、蔵持村に売却・移築された。設計は三重県庁舍ど同じ清水義八の手になり、E字形て左右対称のニ階建てあったが、明治村に移築保存するに際し、特色ある中央玄関部分と右翼の約2分の1のみ復原した。」「蔵持小学校について明治8年9月蔵持小学簡易科授業所が、土地の廃寺を利用して開設された。これが今日の蔵持小学校の前身であり、明治25年校名が蔵持村立蔵持尋常小学校と改称された。明治42年新校舎をたてて校地を移転、当建物を蔵持小学校学舎として、使用することとなった。その後変遷を経て、昭和29年名張市立蔵持小学校と現在の名称となった。昭和47年新校舎の落成に伴い、同年旧学校が明治村へ移築された。なお昭和初年の卒業生は、1学年35名前後であった。」「三重県尋常師範学校について師範学校は、小学校の教員の養成に当る学校であった。明治政府の重点施策であった教育善及の方針に沿い、師範教育の充実は三重県でも、明治6年頃から活発に行われ、明治8年三重県師範有造学校が創設、10年には三重県師範学校が設立された。明治19年師範学校令の公布により、師範学校は高等と尋常の2種類に分けられ、高等師範学校は官立で東京に、尋常師範学校は府県立で各府県に1か所設置されることとなった。これにより、三重県師範学校は、明治20年3月三重県尋常師範学校と改称され、明治21年にその本館として建てられたのがこの建物である。明治31年4月三重県師範学校の名称に戻り、昭和18年4月官立三重師範学校と改称後、昭和24年5月設立された国立三重大学学芸学部(現教育学部)の母体となった。」当時の二重県尋常師範学校校舎(三県教育史より)の写真。「小學校教員免許証」、「月俸金」、「三重縣地誌略」、「師範学校 国文教科書」、「校印箱」「証書・成績表」。「明治時代の学校で使われたもの証書・成績表明治時代初め頃の学校では生徒が進級するために、半年に一度の厳しい試験が行われ、試験の点数か悪いと進級することができませんでした。進級試験は、1886 (明治19)年の小学校令と「小学校ノ学科及其程度」が出されると年に一度となり、さらに1890 (明治23)年の第ニ次小学校令で廃止となります。これによって同じ年に入学した子どもたちは、同じ年に卒業できるようになりました。」「明治時代の学校で使われたもの明治時代に誕生した学校では、多くの子どもが、一度に同し内容を学べるように工夫された道具が使われました。この時使われていたものは、改良が重ねられ現代へと受け継がれています。それぞれの道具はどのように使われていたのでしょうか?幻燈器。近づいて。「明治時代の学校で使われたもの時鐘寺小屋の子どもたちは、自分の都合の良い時聞に勉強を教わりました。しかし明治時代の学校では時間割にそった時間の中で授業が行われ、集団行動を学ぶ′場ともなりました。そのため、学校の子どもたちへ一斉に時間を知らせるための道具が必要になりました。その役割を果たしたのが、この「時鐘」と呼ばれる鐘です。現在のチャイムのように、授業の始まりと終わりに用務員が鐘を鳴らし、授業区切りを知らせていました。」教科書から見る明治時代の学校教育・「学校の誕生」・「翻訳教科書の誕生!」学校教育の見直し・1879(明治12)年 学校制度の見直し!・1880(明治13)年 教科書の見直し!・森有礼の改革!教育による思想統一・教育勅語・尋常小学校が6年制に・検定教科書から国定教科書へ!「学校の誕生1872(明治5)年小学校ができる!明治政府は、差別なく国民全員か学校に通うことで、国民一人ひとりが出世し、仕事に励み豊かな生活を送ることができると考えました。そこで1872年に全国を約5万3千の学区に分け、各学区に学校を作ることを目指し「学制」が発布され小学校か設置されました。当時小学校は「尋常小学校」と呼ばれ、6歳から13歳までの8年間通っていました。翻訳教科書の誕生!文部省か制定した教則には、「標準教科書」が提示されますが、当時はアメリカをはじめ、イギリス、フランスの教科書を翻訳した教科書が使われました。」教室内。机の上の板を開けて中に収納できるようになってる機能的な机。私が小学校時代にもあったような記憶が。当時を懐かしむ大先輩の旅友を。先輩の旅友も。「明治村錦絵れきし探偵団」「学校生徒体操之図」揚州周延 画。教室の窓越しの紅葉を。窓にカメラのレンズを当てて。「明治時代の学校で使われたもの体操用具1878 (明治11)年に文部省は、ヨーロッパやアメリカを手本とした教育制度を整えていく中で、教科が作られていながらも行なわれていなかった「体育」の授業を始めるために、お雇い外国人として、アメリカ人のリーランド(G. A. Lealand)を招きました。ここに展示されている用具を使った体操は「普通体操」と呼ばれ、子どもたらは号令に合わせて体を動かしました。」「唖鈴(あれい)」、「棍棒(こんぼう)」。唖鈴(あれい)とは、柄の両端に球形のおもりをつけた体操用具で、ダンベルとも呼ばれます。鉄製や木製などがあり、上下させたり振ったりして筋肉を鍛練します。棍棒とは、人が握り振り動かすのに適度な太さと長さを備えた丸い棒のこと。原始時代から現代に至るまで使用されている。新体操・男子新体操・こん棒投で使われる手具。懐かしい教室の油の染み込んだ床をズームして。再び「緋毛繊」の敷かれた休憩ベンチと紅葉のコラボ。学校入口の歴史を感じさせる石段を。次に訪ねたのが「④近衛局本部付属舎」。「1丁目4番地 近衛局本部付属舎<登録有形文化財>旧所在地 東京都千代田区建設年 明治21年解体年 昭和42年移築年 昭和52年建築面積 59.6坪構造 木造平家建寄贈者 宮内庁この建物は、明治20年皇宮警察署庁舎として着工されたものだが、工事中に用途が変更され、宮城の守護と儀杖に当たる近衛局(明治22年、近衛師団と改珎)の本部となったものである。付属舎であるこの建物は、その右側にある2階建本館と湯沸所兼渡廊下で連絡していた。明冶44 (1911)年に師団本部は移転したため、皇宮警察本部がここに移り、坂下護衛所として使用された。現在は復原されてないが、創建当初、アーケードの間には錬鉄製の華やがな手摺があった。」「間取図」。近衛局本部付属舎内に入って。「博物館 明治村 Guidance center」明治村住民登録で1年間、何度でも明治村が楽しめます! と。「デジタル住民登録標をお持ちの方」の特典建物内では明治村の住民登録を行っていた。住民登録をすると登録日翌日から1年間何度でも明治村に入村できる。明治村住民登録票を掲示することで平日の駐車料金無料、土日祝は300円割引(原付を含む自動二輪車は100円割引)になる。登録日の翌日より翌年の登録日まで利用可能。・大人 3,500円・大学生、シニア(65歳以上) 2,500円・高校生 2,300円・小・中学生 1,300円2024年4月より住民登録票をデジタル化したと。夏目漱石(左)と西郷従道の写真(右)。左から幸田露伴、島崎藤村、伊藤博文、乃木希典。左から伊藤博文、北里柴三郎、西園寺公望、森鴎外。「明治村 ロケ地ガイド」👈️リンク明治村でロケが行われた作品、建造物が登場する作品明治時代の貴重な建造物や街並みが復元されている事などから、映像作品のロケに使われることも多いとのこと。・社長繁盛記(1968年公開。映画)・春の波涛(NHK大河ドラマ、1985年)・美濃路殺人事件(1987年発表。内田康夫による小説)・デビルマン(2004年公開。映画)・劒岳 点の記(2009年公開。映画)東京パート(参謀本部陸地測量部・主人公の測量官の 自宅など)や列車シーンの撮影に使用された。・板尾創路の脱獄王(2010年公開。映画)・レオニー(2010年公開。日米合作映画)・NHKドラマ 坂の上の雲(2009年~2011年12月)・run for money 逃走中(2010年11月23日。フジテレビ系列)- 明治時代の東京という設定で ゲームが行われた。・ごちそうさん(NHK連続テレビ小説。2013年10月 - 2014年3月)・花子とアン(NHK連続テレビ小説。2014年3月 - 2014年9月)・タイムスクープハンター(NHK総合テレビ)・Fate/Zero(博物館明治村に展示されている聖ザビエル天主堂などの多数の建造物がモデル として使用されている)・俺がお嬢様学校に「庶民サンプル」としてゲッツされた件(博物館明治村に移設された 旧西郷従道住宅をモデルとした建物が登場する)・恋愛ラボ(作中に登場する私立藤崎女子中学校の校門は博物館明治村の正門がモデルと なっている)・ゴールデンカムイ(建物の一部が作中の建物のモデルとして使用されている)・わろてんか (NHK連続テレビ小説。2017年10月 - 2018年3月)・半分、青い。(NHK連続テレビ小説。2018年4月23日の放送で、主人公がデートで 博物館明治村を訪れる場面が登場する[24])・まんぷく(NHK連続テレビ小説。2018年10月 - 2019年3月)・明治東亰恋伽(2019年4月 - 5月、テレビ神奈川ほか)・新幹線変形ロボ シンカリオンZ(テレビ東京。2021年6月25日の放送で、ザイライナー HC85ヒダのZコードを解除する重要なカギを握る場所として登場する)・エール(NHK連続テレビ小説。2020年3月 - 2020年11月)・虎に翼(NHK連続テレビ小説。2024年4月 - 2024年 9月 )など多数「明治村 Information インフォメーション」。そして「⑤赤坂離宮正門哨舎」。木造銅板葺き、八角形の平面で、洋風の正門にあわせて白壁に丸屋根、頂上に飾りをのせた洒落たデザインになっていた。「1丁目5番地 赤坂離宮正門哨舎 <登録有形文化財>旧所在地 東京都港区赤坂 建設年 明治41年解体年 昭和48年移築年 昭和58年 建築面積 0.6坪構造 木造平屋建寄贈者 総理府哨舎(しょうしゃ)とは、門番が立哨(りっしょう)している建物で、これは赤坂離宮正門両脇の内外に離宮警備のために設けられた4基の哨舎の一つである。赤坂離宮(現迎賓館)は、当時皇太子であった大正天皇のための東宮御所として明冶42年(1909 )に竣工した明治を代表する洋風宮殿である。本館北側に広大な前庭を配し、周囲に高い鉄柵がめぐらされ、その中央に、洋風正門が設けられ、脇にこの哨舎が置かれた。」内部には、旧所在地の「赤坂離宮(現 迎賓館)」の正門の写真が。左から「⑤赤坂離宮正門哨舎」、「④近衛局本部付属舎」、「③三重県尋常師範学校・蔵持小学校」案内板「⑥聖ヨハネ教会堂 ⑧西郷從道邸 ⑨森鴎外・夏目漱石住宅 和食処 碧水亭 (へきすいてい)」坂道を上って行った。右手のこの池の名は?紅葉が池の水面に映り込んで。紅葉をズームして。陽光が射し込めば、紅葉がもっと輝くのであったが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.12.24
閲覧総数 203
35

北京首都国際空港(Beijing Capital International Airport)第3ターミナル(T3) の降機ゲート付近を写す。「阿里云全力支持中国企业出海」→【アリクラウド(阿里雲)は、中国企業の海外進出を全力で支援します。】 阿里云(アリクラウド / Alibaba Cloud) は、中国の大手IT企業アリババ・グループのクラウドコンピューティング部門。飛行機を降りてボーディングブリッジ(搭乗橋)を進み、入国審査(Immigration)・手荷物受取(Baggage Claim)・乗り継ぎ(Transfer) への通路に向かう青地に白文字の案内板には、「出口・行李提取・转机(Exit・Baggage Claim・Transfer)」 と書かれていた。北京首都国際空港(Beijing Capital International Airport)第3ターミナル(T3) のエスカレータを上がって。天井の赤い格子状ルーバーと、ガラス壁+赤い鉄骨構造がT3特有のデザインであり、特にT3-CコンコースからT3-E(国際線入国審査)へ向かう通路がここ。🔹標識の内容(原文・英訳・和訳)中国語表記 英語表記 日本語訳转机 Transfer 乗り継ぎ(トランジット)出口、行李提取 Exit, Baggage Claim 出口・手荷物受取所洗手间 Toilet トイレ外国人指纹自助留存 Fingerprint Self-collection 外国人指紋登録機(自動登録機)临时入境许可申请 Temporary Entry 一時入国許可申請(トランジットで Permit Application 一時入国する際に必要) 「入国審査(Immigration)」へ向かう長い移動通路(moving walkway zone)の様子を。ムービングウォーク(動く歩道) の上から入国審査(Immigration)方面へと進む。Transfer・乗り継ぎ(トランジット)審査を通過し進む。北京首都国際空港 第3ターミナル(T3)国際線到着ロビー付近に設けられた中国伝統建築風の庭園パビリオン(中庭式東屋)。T3の設計は「龍が天に昇る空港」をテーマとしており、このような伝統的な中華様式の装飾空間を、ハイテクな建築空間の中に融合させているのが特徴 と。🔹建築様式の特徴この構造は典型的な清朝様式の四阿(あずまや)で、以下の特徴が見られる と。 要素 特徴・意味屋根 青灰色の瓦屋根(歇山頂式、Xieshan Roof)。高貴な建築様式。柱・梁 朱塗りの円柱に彩色(藍・緑・金)を施した「彩画」装飾。天井 「斗拱(ときょう)」構造が装飾的に強調され、金彩と雲文様。揮毫(書額) 上部中央の黒地金文字「月潭华泽(Yuètán Huázé)」が掲げられ、 側面の対聯(ついれん)も金字で書かれています。周囲 岩石・樹木・人工水路などを配置し、「庭園と建築の調和」を演出。中央の扁額には、輝澄月日(huī chéng yuè rì)。これは直訳すると「月と太陽のように光り澄みわたる」という意味であり、清朗な光・明徳・調和の象徴であると。右柱には「天香低度金蠟暖」→【天上の香りが静かに漂い、金の蝋燭のあたたかな光が 柔らかく照らす。】 左柱には「玉殿遥看鳳飛」→【玉の殿堂を遠く望めば、鳳凰が舞い飛ぶ】すなわち【天の香りが柔らかに漂い、金の灯火が温かく輝く。 玉の殿堂を遠くに望めば、鳳凰が舞い昇る光景が見える。】と。空港という「国家の玄関」において、「明るく澄んだ光の中に温かい繁栄と和を祈る」という寓意が込められているのだと。「輝澄月日」扁額と対聯(天香低度金蠟暖/玉殿遥看鳳飛)を掲げた東屋を、少し離れた位置から斜め方向(右前方)に眺めた全景。ここは、国際線到着ロビー内の「中国庭園風休憩区」(通称:国風長廊 Guofeng Gallery)。第3ターミナル(T3)出発フロアに設置されている国際線出発案内モニター。日本・羽田への帰国便は12:45発 CA167 東京羽田。第3ターミナル(T3)国際出発エリア内の中央ホールにある噴水広場。・噴水の中心部は三層式で、上段の水柱が高く噴き上がり、下段には円形に整列した 小噴出口から紫色照明の水流が放射状に広がっています。・周囲を囲む熱帯植物(モンステラ、アグラオネマ、シダなど)が、人工照明下でも 「緑のオアシス」的な雰囲気をつくっています。・手前中央には説明板が設置されており、これはおそらく「首都空港文化展示 (Capital Airport Art & Culture)」シリーズの一部。 内容は噴水の設計コンセプトや、中国文化での「水」の象徴(富・調和・生命)について 触れているもの。解説プレート(案内板)「In October 1979, Yuan Yunsheng, a well-known contemporary painter, completedthe muralThe Water-Splashing Festival – A Hymn of Life for Terminal 1, Beijing Capital International Airport.Based on folklore, it mainly describes the grand scene of carnivals on the Water-Splashing Festival and reveals people's beautiful wishes for loving life, pursuingfreedom and yearning for happiness.In order to better narrow the boundary between art and society, and release the liveliness and vitality of art, Beijing Capital International Airport stereoscopically restores the mural content in a ratio of one to one. It interprets works in anotherform and pays tribute to the classics.This sculpture is one character from the original work of art.」 【1979年10月、現代中国の著名画家・袁运生(ユエン・ユンシェン) は、北京首都国際空港第1ターミナルのために壁画『潑水節—生命の頌歌(The Water-Splashing Festival – A Hymn of Life)』を完成させました。この作品は少数民族の伝承に基づき、潑水節(ポースイジエ、Water-Splashing Festival)の祝祭を題材として、人々の「生命を愛し、自由を求め、幸福を願う」美しい心情を描いています。北京首都国際空港では、芸術と社会との境界を取り払い、芸術の生命力と活力を広く伝えるために、この壁画の一部を原寸大の立体彫刻として再現し、古典的名作への敬意を表しています。※この彫刻は、元の壁画に登場する登場人物の一人を立体化したものです。】潑水節—生命の頌歌(The Water-Splashing Festival – A Hymn of Life)をネットから。有名なモニュメント 「I ❤️ Beijing」 の前景。このモニュメントは、北京空港の「都市アイデンティティと国際的歓迎の象徴」として設置されたもの。北京首都国際空港 第3ターミナル(T3)国際線出発ロビー中央エリアにある伝統建築様式の東屋「国風長廊(Guofeng Gallery)」の一棟を、正面からまっすぐに撮影。東屋「国風長廊(Guofeng Gallery)」の周囲を移動して。北京首都国際空港(Beijing Capital International Airport)第3ターミナル(T3)出発エリアの搭乗ゲート付近から見た駐機場(エプロン)の様子。T3Eコンコース(国際線側)のガラス張りの搭乗橋(ボーディングブリッジ)連絡通路から、滑走路南西方向に向かって撮影。第3ターミナル(T3)Eコンコースの国際線出発ゲート付近の待合ロビーを。第3ターミナル(T3E)国際線出発エリアの案内標識とフロアマップ。第3ターミナル(T3)エリアの管制塔(Air Traffic Control Tower)。・名称 北京首都国際空港 管制塔(Beijing Capital Airport ATC Tower)・位置 第3ターミナル(T3)西側滑走路(36R/18L)付近中央・完成年 2007年(T3の開業時)・高さ 約90メートル(地上27階建てに相当)・設計意匠 ノーマン・フォスター建築事務所(Foster + Partners)によるT3全体の デザインコンセプトの一部として設計・外観構造 鋼鉄とガラスで構成された有機的フォルム。 塔身は「花瓶(Vase)」または「竹の幹(Bamboo Stem)」を思わせるくびれ形。・機能 北京空港の全滑走路・誘導路を統合監視し、地上管制・離着陸管制を一元的に行う。北京首都国際空港 ・第3ターミナル(T3)の天井構造を見上げて。天井構造 : アルミニウム製の格子ルーバー(sun louver grid)によって構成。 金色と灰色のラインが幾何学的に交差しています。支柱(柱): 巨大な白色円錐柱(tapered concrete columns)。下から上に向かって 細くなる設計で、天井を軽やかに支える印象を与えています。 採光設計 : 天井の一部に配置されたトップライト(天窓)から自然光を導入。 昼間は人工照明をほとんど使わず、柔らかな拡散光が空間を包みます。色彩構成 : 金(黄)・赤・灰の組み合わせで、中国の伝統的配色「朱金灰」をモダンに再構成。 金は「富と吉祥」、赤は「生命と幸福」を象徴。この天井デザインは、ノーマン・フォスターによる設計思想「竹林を思わせる天井(A Forest of Light)」に基づいている と。T3の屋根は、全長3.25 km/総面積98万㎡という世界最大級の屋根構造の一つ。先ほど見上げた「天井構造」を今度は遠近軸(中央コンコースの縦軸方向)から見通したもの。支柱:白いテーパード円柱が規則的に配置され、構造的にも視覚的にもリズムを形成。 柱の間隔は約60m、1本あたりが「竹」の象徴。「パンダ・フォトフレーム像(Photo Frame Panda)」丸いフォルムのパンダが、インスタグラム風の「撮影フレーム」を持っている。下部にはSNSアイコン(ホーム・検索・ハート・カメラなど)が描かれており、観光写真を意識した現代的演出。滑走路と誘導路の見えるエプロンエリアを。北京首都国際空港 管制塔(Air Traffic Control Tower)🔹概要項目 内容名称 Beijing Capital International Airport ATC Tower(首都机场塔台)完成年 2008年(T3オープン時)高さ 約 97 m(地上から)設計 北京建築設計研究院 × Norman Foster(フォスター&パートナーズ)監修エリア内の 一貫設計役割 滑走路の離着陸誘導、地上走行の管理、気象観測連絡など航空交通の中枢。壁面パネル越しに、外の管制塔が映り込んでいる光景。第3ターミナル(T3)の象徴である航空交通管制塔(Air Traffic Control Tower)をクローズアップで捉えて。・形状 ― 「蓮のつぼみ」または「花瓶」型 塔身は下部が広く、中央がくびれ、 上部が再び開く優雅な流線形。この曲線は中国伝統の「蓮花瓶(れんかびょう)」をモチーフとしており、平安・調和・上昇を象徴します。搭乗便・中国国際航空(Air China、中国国际航空公司)の大型旅客機。Airbus A321-200型機。第3ターミナル(T3)の搭乗ゲート E20 に設置された出発案内表示(Gate Information Board)。搭乗ゲート E20航空会社 中国国際航空(Air China, 中国国际航空公司)便名 CA167行き先 東京・羽田(Tokyo Haneda)出発予定時刻 12:45現在時刻(撮影時) 11:42(June 10, 2025)気温情報(目的地) 23°C/20°C(Heavy rain:大雨)中国国際航空(Air China)の旅客機、奥には同空港のメイン管制塔(Air Traffic Control Tower)を再び。第3ターミナル(T3)Eコンコースの搭乗ゲートE20へ向かう通路から。駐機中の 中国国際航空(Air China, 中国国际航空公司)機・便名 :CA167便・出発地 :北京首都国際空港(PEK)・到着地 :東京・羽田空港(HND)・出発時刻:12:45・使用機材:Airbus A321CA167便に乗り込む。特徴的なフォルムの管制塔(Control Tower)が聳えていた。・高さ 約97メートル・構造 鋼鉄とガラスのハイブリッド構造・外観形状 下部が広がり、中央がくびれた「花瓶型」フォルム(中国の伝統陶磁“瓶”を象る)・機能 滑走路・誘導路・駐機場の航空交通管制(Air Traffic Control)ヨーロッパのエアバス社が製造する 中距離向け・単通路(ナローボディ)旅客機 の代表的モデル。✈️ 基本情報|Airbus A321-200(エアバスA321-200)製造会社: Airbus S.A.S.(フランス・トゥールーズ本社)機種分類: 単通路(ナローボディ)型旅客機シリーズ: A320ファミリー(A318 / A319 / A320 / A321)中で最大初飛行: 1993年運用開始: 1994年(ルフトハンザドイツ航空)Air Chinaへの導入: 1990年代後半から運用開始🧩 A321-200の構造的特徴全長: 約44.5 m(A320より約7 m長い)全幅: 約34.1 m全高: 約11.8 m胴体: A320を延長した設計。座席数を増やし、航続距離も延伸。客席数: (2クラス制) 約180〜200席(ビジネスクラス12席+エコノミー168席など)航続距離: 約4,000〜5,600 km(モデル・積載による)巡航速度: 約840 km/h主なエンジン: CFM56-5B または IAE V2500 シリーズ燃料タンク: A321-200では追加タンクを搭載可能(A321-100より長距離対応。そして定刻に北京首都国際空港(Beijing Capital International Airport)を出発し東京羽田空港へ。最初の機内食。久しぶりの白米を楽しむ。そして羽田空港に到着し、到着、入国審査の方向に進む。羽田空港(Tokyo International Airport/東京国際空港)第3ターミナル。雨で濡れたエプロン(駐機場)と、航空機への給油車や手荷物搬送車などの地上支援車両が見られたのであった。到着ゲートから入国審査(Immigration)や乗り継ぎエリアに向かう途中のエスカレーター手前。長い 動く歩道(moving walkway) が続くガラス張りの通路で、右側は白い壁、左側は全面ガラスの吹き抜け構造。床は赤と緑の模様が入ったカーペットで、これは第3ターミナルの到着・乗り継ぎ導線に共通するデザイン。外に見えたのが羽田空港第3ターミナルビル(旧・国際線ターミナル)。駐機中のJAL機が並ぶ、南側エプロン(滑走路A側)に面した位置。この場所は、羽田空港第3ターミナルの名所の一つである羽田空港第3ターミナル・国際線エリアの連絡通路(サテライト⇔本館)で、動く歩道から外を望む。外のJAL機と連続する広告照明が織りなす、美しい構図。・デザイン意図 北京の伝統文化(壺・蓮)とハイテク空港の未来性の融合Airbus A321-200。中央に見えるのは、羽田空港の管制塔(Control Tower)。これは羽田空港の第二管制塔(現・主管制塔)で、2010年に供用開始された高さ約116メートルの構造物。現在は羽田空港全体(第1〜第3ターミナルおよび滑走路A〜D)を統括。搭乗口番号「140」が見えた。これは第3ターミナル(国際線)サテライト側ゲートの一部。写真中央には動く歩道(moving walkway)が2本並行して設置されており、左右に人々が移動中。「日本へ帰ってきた瞬間」—長旅を終えて入国審査に向かう、羽田空港ならではの“帰国動線”の一場面なのであった。そして1.検疫→2.入国審査→3.手荷物受取り→4.動物検疫・植物検疫→5.税関検査→6到着ロビー へと。入国審査(Immigration)。3.手荷物受取り私は、ロンドン・ヒースロー空港にて荷物が行方不明・「ロストバゲージ」になったため、ここ、 baggage carousel(バゲージ キャロセル)に出て来ることを期待して待ったが、荷物には再会できなかった。そして荷物引取所(バゲージクレイム)に向かい、荷物がヒースロー空港で行方不明になったこと、その経緯を、女性担当官に説明し、クレームタグ(預けた際にもらったタグの半券)と航空券を渡す。クレームタグ。そして女性係員が「手荷物紛失証明書(PIR)」に私からの情報を書き込んでくれた。・氏名、住所、連絡先・搭乗便名、日付・手荷物の特徴(色・形・ブランド・サイズ・タグ番号) また、トランクのKEY番号、ベルトのKEY番号を知らせ、ハードKEYを手渡した。・不具合の内容(紛失・遅延・破損 など)「手荷物紛失証明書(PIR:Property Irregularity Report)」は、航空会社が預かった手荷物が目的地で見つからない、破損している、または遅れて届いた場合に発行される公式なトラブル報告書。PIRは、航空会社またはその地上取扱会社(ハンドリングエージェント)が、手荷物に関する不具合(Irregularity)を正式に記録する書類。これは「手荷物が紛失・遅延・破損した」という事実を証明する重要な書類であり、後の捜索・補償・保険請求の基礎資料となるのであった。・さらに係員から、荷物の捜索情報は、スマホに連絡をもらえる。・荷物が発見された場合は、自宅まで無料送付する。 しかし、荷物の中に禁止物が入っていたことが判明したら、その品物は回収されたのち、 羽田空港から自宅までの運送費は着払いになると。そして手続きを完了し、係員の方が税関窓口まで同行してくれて、税関職員に事情を説明してくれて、税関を通過したのであった。そして、バスにて横浜駅・Yキャットへ。そしてJR東海道線、小田急線を利用して帰宅したのであった。そして帰宅後の次の日に、我がトランクはヒースロー空港にあり、北京空港に送付されると。そしてその2日後に北京空港から羽田空港への移動中であるとの連絡をいただいたのであった。そして私が帰宅してから5日後に、遅れて我が荷物も無料で帰宅したのであった。内部を確認したが、全てが無事に、破損等もなく帰宅したのであった。わがトランクは何処を彷徨っていたのかは依然として不明なのであるが・・・やれやれ!!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・アイルランド8日間、ロンドン4日間、高校時代の親友4人、合計≒300歳での旅であった。アイルランド・緑と石の国——どこまでも広がる牧草地と石垣の風景に、時間の流れの穏やかさを感じた。・人の温かさ——道を尋ねても、店に入っても、どこか親しみのこもった笑顔と会話が印象的。・修道院や教会の静謐 Kylemore AbbeyやCong Abbeyなど、廃墟や修道院に漂う静けさが心に残る。・歴史が息づく街並み AthloneやGalwayの街角では、中世から続く建物と現代の暮らしが自然に共存していた。・音楽と酒場文化 パブで流れるアイリッシュ音楽と人々の歌声に、土地の誇りと人生の楽しさを感じた。・自然の雄大さ ConnemaraやKillarneyの湖水地方の眺望は、まさに「神に守られた緑の楽園」。・ステンドグラスと芸術性 教会や博物館で見た彩色ガラスの美しさに、信仰と美の融合を感じた。・交通と気候の印象 雨と霧が交互に訪れ、風景の色合いを刻々と変える「変わりやすい天気」も旅の一部として 楽しめたのであった。日本との時差 -9時間フライト時間 約15~16時間公用語 英語・ゲール語通貨 ユーロアイルランド。アイルランドはEUの一部であり、協力関係を築きながら、欧州全体の自由な移動を可能にするシェンゲン協定には参加せず、独自の国境管理を維持。アイルランド国旗。北海道との広さの比較。緯度の比較。ダブリン:53.43°N宗谷岬 :45.52°Nダブリン~宗谷岬 距離差 :850km北アイルランド特有の石碑である ハイクロス(High Cross)、別名 ケルト十字(Celtic Cross)。モハー断崖。海上の岩柱 ブリーナン・モア(Branaunmore)。カイルモア・アビー(Kylemore Abbey)。ハーフペニー橋(Ha’penny Bridge)。THE TEMPLE BAR。名門大学 トリニティ・カレッジ・ダブリン(Trinity College Dublin)。ダブリン城。ロンドン・歴史と現代が共存する都市 セント・ポール大聖堂からタワー・ブリッジまで歩くと、過去と現在が交錯する時間の旅のよう。・テムズ川の流れ ゆったりとした川の流れが、ロンドンの壮大な歴史を静かに語っているようだった。・建築の多様性 古典的な石造建築と近代的なガラスの高層ビルが見事に共存している。・象徴的なランドマーク ロンドン・アイ、ウェストミンスター宮殿、タワー・オブ・ロンドンなど、どこを見ても 「物語の舞台」。・街歩きの楽しさ 橋を渡るごとに風景が変わり、歩くことそのものが「観光」になる街。・芸術と知性の香り 博物館やギャラリーの無料公開、街角の彫像や記念碑にも文化の厚みを感じた。・夜景の美しさ ライトアップされた橋や建物が川面に映り、幻想的な光景をつくり出していた。・多国籍都市のエネルギー 人々の多様な言語と文化が混ざり合い、世界都市の鼓動を肌で感じた のであった。イギリス国旗。 ビッグ・ベン、ウェストミンスター橋。 ロンドン・アイ。タワー・ブリッジ。ロンドン塔。セント・ポール大聖堂(St Paul’s Cathedral)。ケンジントン宮殿(Kensington Palace) と、その前庭に立つ ヴィクトリア女王像(Statue of Queen Victoria)。 Lost Luggag!! 無事に我が家に戻ったトランク(右)。 ・・・もどる・・・
2025.11.09
閲覧総数 390
36

「緑の泉」という噴水池のはずであるが、この日は池に水はなかった。本丸休憩所でトイレ休憩。 休憩所内には売店、江戸城の模型や古い写真などが展示され、ミニ博物館の如し。 大嘗祭(皇位継承の儀式)が営まれた大嘗宮の模型が。平成2年に本丸大芝生の上に建てられたものの75分の1模型だそうです。 舞踊の姿も。 本丸休憩所前の芝生から本丸、天守閣を望む。 天守閣をズームで。 冬桜であろうか?各種の椿の花も迎えてくれた。 「桃華楽堂(とうかがくどう)」。 昭和41年に香淳皇后(昭和天皇の皇后)の還暦を記念して建てられた音楽堂で建物の屋根は テッセンの花を模し 八角の外壁には有田焼・信楽焼などの陶片が用いられているほか 玄関には鬼瓦の代わりに金色の雛人形が飾られていると。 鉄仙の花弁を形どつた屋根と八面体の珍らしい建物。ホール外壁のモザイク・タイルの図柄は、各面とも大きく羽ばたく鳥を抽象的に描いたものに、日月星・衣食住・風水火・春夏秋冬・鶴亀・雪月花・楽の音・松竹梅と八面の正面から左へ順に陶片で描かれていました。日月星の画。衣食住。 松竹梅。 天守閣跡 。江戸城には我が国最大の5層の天守閣がありました。しかし1657年に焼失した後は再建されることなく石垣だけが残っているのです。 現在の石垣の高さは 一般公開に伴う整地等により約10mになっていますが当初の石垣の高さは 約14mもあったとのこと。石垣隅角部は算木積みと呼ばれる美しい積み方。この積み方は関が原の戦い以後造られた新しい石垣の積み方と。長辺と短辺を互い違いに組む事により石垣の強度を保つ他、見た目が大変豪華。天守台への坂道を上る。天守台。整地されていたが礎石等は見る事が出来なかった。「天守閣(寛永度天守)」 は国内最大の 「独立式層塔型5重5階地下1階」。 高さは地上から 「58m」。 【http://blog.goo.ne.jp/akyamamoto1959/e/723515fb61fd5817f60fd581e7df4529】より天守台から先日訪れた武道館の屋根が見えたのであった。 天守閣から江戸城本丸御殿の跡を見る。 「江戸城本丸御殿」の案内板。 「本丸御殿」は「3つ」に分かれていて、「表」 ・・・将軍の謁見の場、役人の執務の場「中奥」・・・将軍の日常生活、執務の場「大奥」・・・女性の生活の場とのこと。 天守台の排水口。雨やごみ等が逆流しないような工夫がされていました。 「北桔橋門」 。ここからも皇居東御苑に入園 可能。途中、何回か出会った、東御苑内警備のパトカーが巡回中。 天守台の片隅の見事な老松。
2014.11.25
閲覧総数 132
37

3日目の朝も早朝起床。ホテルの我が部屋からの朝の太陽。時間は5:32。雲もほとんど無く快晴に近いものの、霧がかかった如しの光景。やはりこの日の北京の街は光化学スモッグで覆われているのか?6:30からの朝食。ホテルの1Fのフロントスペース。バスに乗り7:15に最終日の観光に出発。バスからの宿泊したホテル・北京美泉宮飯店を。西4環北路と阜成路とのジャンクション付近。先には高層アパートが並んでいた。そしてこの朝も渋滞に巻き込まれる。座席の最後部のカーテンの隙間から。街中には緑と花が。「北京北站」の文字が。北京北駅は中華人民共和国北京市西城区西直門外に位置する中国国鉄の駅。2016年11月1日から当面の間は休止中であるとのこと。北二環道路を走る。下の道路は西夏門北大街。街中には既に車が溢れていた。時間は8:25。鼓楼とその先にあって見えない鐘楼。併せて鐘鼓楼と呼ぶ。。明の時代、1420年に建てられたが、火災などもあり、1749年、清の時代に改築されたもの。元、明、清と三代にわたって北京の人たちに時を告げつづけた場所、それが鐘楼と鼓楼。鐘はゴーンという鐘、鼓はドン、ドン、ドンという太鼓。この北京鐘鼓楼文物保管所、故宮の北、北海公園に近いところに建つ鐘鼓楼。北京の子午線とも言うべき「中軸線」の南端は永定門、そして北端がこの鐘鼓楼。鼓楼は1420(明の永楽18)年と1800(清の嘉慶5)年に大規模な修復を受け、現在の建物は東西55.6m、南北34m、高さ31mの威容を誇る。そして鐘楼とはその名の通り鐘がある塔。木造の鼓楼とは対照的にレンガ造りの建物。烟袋斜街。前海と后海の境にある橋周辺から始まる細い路地。北京の古い家をそのまま使って店を開いていると。両脇に食べ物や雑貨の店が並んでいて人気スポットであると。前海沿いを走る。右手に金锭桥(金錠橋、Jinding Bridge)。胡同(フートン)と呼ばれる細い路地の残る地域に、昔ながらの家並みが再現されいた。 胡同は元・明・清の時代の古い平屋の街並みで、再開発前の北京の市民生活の姿。再現以外の部分も含めて、周囲には中国のイメージ通りの街並みが残っていた。景山公園山頂に建つ万春亭が見えた。年配の男女が踢毽子(羽根蹴り、蹴羽根)をやっていた。蹴鞠ではなくて代わりに中国語では、Jian Zi (ジェンズ、毽子)と言い、羽根突きの羽根の4−5倍ぐらいのものを蹴る遊び。Jian Zi (毽子)を蹴ることを踢毽子(ティージェンズ)というと。1980年代、「毽球」とよばれるチーム競技のルールが整備され、1987年に中国毽球協会も立ち上げられた。毽球はバトミントンに似た大きさのネットで仕切られたコートを使って競技する。チームの人数は3人で、ネット越しに相手の陣内に蹴りこむ事を目的とする。自陣内では4回まで蹴ることができる。ゲームは15点を先取した側が勝つ。足を使うため、バドミントンというよりはセパタクローによく似た競技になっていると。羽のJian Zi (ジェンズ、毽子)。下部に蹴ると音が出る仕掛けが。清朝第13代に当たる愛新覚羅恒珏(あいしんかくらこうかく)氏が書と絵実演販売を行っているというアトリエを訪問。アトリエ入口の門には何故か「景山牡丹特色商品展賣」の看板だけが。景山公園は元の時代より牡丹栽培を開始しており、今や北京最大の牡丹観賞園でありその時期には牡丹の花や苗が展示、販売される場所なのであろうか?店に入ると清王朝崩壊の歴史の説明の後 清朝皇族の愛新覚羅一族の末裔であるという愛新覚羅恒珏(あいしんかくらこうかく)氏の書道実演。販売用掛け軸の説明。説明に熱の入る秘書?。今日は「たまたま」!!愛新覚羅恒珏氏がアトリエに来たので、我々は氏に会えて非常にラッキーである、との説明に力が入っていたのであったが??。「福壽康寧」の意味は「幸福・長寿・健康そして心や社会の安寧を祈る」というもの。(康寧=平穏無事であること、福寿=幸福で長命であること)。氏の絵画。愛新覚羅恒珏氏。満州族であり、漢民族名字が関維霖で,1941年に北京で生まれた。清王朝皇室の末裔で、清太祖ヌルハチの十三代目の嫡孫であり、聖祖康熙帝(玄燁)の第二子胤礽直系の九代目子孫で、法名は妙霖居士であると。系譜。愛新覚羅家は清の皇帝として、267年間を統治しており、11代目の愛新覚羅溥儀氏が1911年に退位するまで続いた。愛新覚羅家は現在200名ほどいるが、そのほとんどは天津に住んでいるのだと。最後の皇帝である愛新覚羅溥儀氏には子供はない。溥儀氏の弟である溥傑氏は、1937年に明治天皇のいとこである嵯峨浩さんと結婚し、二人の娘のうちの慧生さんは無理心中をして伊豆で亡くなっているが、もう一人の娘である嫮生さんは現在も神戸におられるとのこと。溥傑氏は1994年に亡くなっている。清の第四代康熙帝の次男で皇后の子の胤礽(いんじょう)がその祖となっているようだ。この胤礽は皇太子として早くから認められていたが反逆のそぶりありとして結局廃嫡されている。その末裔が恒珏氏という系図になっているようであった。その愛新覚羅恒珏氏が、天津に住んでおられるが、週末にはここで書のデモンストレーションと共に書画の販売をしているとのこと。愛新覚羅恒珏氏の紹介。最後の皇帝である愛新覚羅溥儀氏とその弟の溥傑氏の紹介写真がアトリエ(実演販売の店)の外の壁に。最後の皇帝である愛新覚羅溥儀氏の説明パネル。弟の愛新覚羅溥傑氏の説明パネル。アトリエの前の土産物売り場。「鎮山玉緑」と書かれた看板が入口に。アトリエの中庭を再び。清朝の末裔がこの様な場所でひっそりと書画を売って生計を立てている?、その物語そのものが幾ばくかのお金を払って手にするのにふさわしい中国土産のような気がしたのではあったが・・・・。しかしこのツアーの案内書には、この場所を訪れる事には一切触れられていない理由は何なのかと大いに気になったのであったが・・・・・・。そして門やアトリエの入口にも「愛新覚羅」の文字が一切無いのは何故????既に訪れた方そしてツアー仲間の感想は如何に?。そしてバスに乗り王府井に向かう。バスを降り王府井の散策開始。王府井(おうふせい、ワンフーチン)とは、北京中心部東城区にある繁華街。巨大デパートや飲食店が立ち並び一帯は歩行者天国になっている。日本人には「北京の銀座」と呼ばれることもあると。ここでしばしの自由行動、いわゆる「銀ブラ」の開始。王府井は東長安街から中国美術館まで、南北全長約1600メートルにわたる繁華街で、南側の一部が歩行者天国になっていた。かつてここに皇族の屋敷(王府)と井戸があったことから王府井と呼ばれるようになったと。ちなみに、井戸があったとされる場所にはマンホール型の記念碑が埋め込まれ、そこに王府井の歴史や由来の説明が刻まれていた。中国の新型有人潜水艦「蛟竜」が展示されていた。ふと、再び中国と日本の間で海洋資源、特に深海資源をめぐる競争が始まろうとしているのであろうかと。シチズンの時計塔が象徴的な北京市百貨大楼。3頭?の牛の銅彫像。牛は赤みを帯びた青銅だが、綿密に見ると紫、青、赤、緑ですが、その間は色が美しく、牛には不規則な中空の穴が。ダイナミックなシェイプ、鮮やかな色彩なのであったが。この牛の展示の目的は?そして「天福茗茶」へ。中国各地に支店900以上を展開し、中国最大規模を誇る台湾系の茶葉店。王府井大街に近い北京本店は1200m2の広大な建物で、2階には茶葉や茶道の歴史を紹介する天福茶文化館を併設している。龍井茶や烏龍茶など各地の銘茶を扱っており、気軽に試飲することもできたのであった。お土産に抹茶味のお菓子を購入し、集合場所に戻ったのであった。そしてバスにて、このツアーの最後の観光地の「天壇」に向かう。途中、レンタサイクルの片付けの現場が。レンタサイクルを使いたくなったら、まずアプリの捜索機能を使い、近くにあるレンタサイクルをさがし、見つけたらQRコードで自転車のカギを外す。そして、目的地に到着したら、歩道の自転車置き場に置き、カギをロック、アプリで使用料を払って、そのまま乗り捨てが出来るのだと。中国で本格的にレンタサイクルのサービスが始まったのは2016年。わずか2年弱で70を超える運営会社が進出し、過当競争で値下げ合戦が過熱し、業界の淘汰(とうた)が既に始まり倒産も始まっているのだと。 ・・・つづく・・・
2018.07.05
閲覧総数 3473
38

『旧東海道を歩く』ブログ 目次『伊奈一里塚跡』から100mほどの場所右手にあったのが『速須佐之男神社(すさのおじんじゃ)』参道入口左にあったのが『秋葉山常夜灯』。石鳥居とその先に参道が。扁額にも『速須佐之男神社』と。『拝殿』。明和7年(1770年)10月9日創建という。速須佐之男命を祭神とし、例祭日は旧6月15日。境内には何故か?二宮尊徳像が。豊川市桜町1丁目、右手広場奥にあったのが『冷泉為村卿御歌碑』。案内板。『若宮白鳥神社遥拝所』と刻まれた石柱の横に歌碑が。藤原定家 を祖にもつ江戸中期の歌人・冷泉為村(れいぜい・ためむら、1712~74年)が、延享3年(1746)に徳川第9代家重 が将軍継承の際、為村一行が朝廷の使いとして江戸に下る途中、当時、桜の名所であったという桜町で詠んだ歌碑が旧東海道沿いにあった。この碑は、2007年3月18日に建てられたもの。「 散り残る 花もやあると さくら村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ 」そして豊川市の汚水マンホール蓋。市内を流れる豊川と奥の山は本宮山。市の木「クロマツ」と市の花「サツキ」、それに豊川稲荷を連想させる「キツネ」も描かれている。そして民家の庭に色彩豊かな鶏が数匹放し飼いにされていた。名古屋コーチンではなさそうだが、昔、熊本で見た「天草大王」か?『西古瀬川』を渡る。大型草刈り機で堤防の雑草を一気に除去していた。川沿いには(株)白鳥生コンが。更に旧東海道を進む。可愛らしい『道祖神』、『豊川警察署』の文字も。この後、東三河環状線の下を潜れないため、右折して国道1号線に合流し京次西交差点を渡り進む。名鉄名古屋本線・白鳥路線橋を進む。名鉄名古屋本線。周囲の田園風景を楽しみながら。国道1号線・白鳥交差点を過ぎる。日本橋から305.5kmと300km超えを再確認。国府町薮下交差点から旧東海道は左に分岐して県道374号線に。読みは国府町(こうちょう)と。名鉄駅・国府は「こう」であった記憶があるが。旧東海道に入る。小さな祠が二つ仲良く並んでいた。『半僧坊大権現』と。こちらは『国府天神』。右手に『秋葉山常夜燈』。『秋葉山 常夜燈』「型式は御中堅?高さ205cm、造上寛政12庚申(1800)村中安全。秋葉山秋葉三尺坊大権現はその昔、越後国蔵山より白狐に乗って遠州の秋葉山に飛来したいといわれ火防の霊験あらたかと信ぜられ、江戸時代朝庭(廷)、大名、庶民に至るまで奥深い信仰をあつめられ、国府村民等も村民を火難より守るため秋葉山常夜燈を造りました。」次に右手には『薬師堂瑠璃殿』。熊野へ行く途中、国府の郷を通った行基は二人の姉妹が住む家に投宿した。姉妹が死んだ父母のために仏像を刻んで欲しいと行基に頼み、行基が近くの古木の杉から薬師瑠璃光如来像を刻むと、姉妹はこれを安置した寺を建立したという。瑠璃殿の扁額は文政四年(1828年)八幡山巌禅翁の書。『三河国府中二子寺 薬師如来塁畧縁記』。『薬師如来像』であろうか?『薬師如来』の幟が並んでいた。再び豊川市マンホール蓋。市の木「クロマツ」の間にキツネが鎮座。旧東海道と平行に建っていたのが『大社神社』。愛知県豊川市国府町流霞5に鎮座する神社。明治5年(1872年)には、大社神社は国府村の総氏神となる。ご祭神は大国主命。『御神木』。境内には他に秋葉神社も。御祭神は火之迦具土(ひのかぐつち)大神(秋葉三尺坊)『拝殿』。天元・永観(978~985)の頃、時の国司 大江定基卿が三河守としての在任に際して、三河国の安泰を祈念して、出雲国大社より大国主命を勧請し、合わせて三河国中の諸社の神々をも祀られたとあります。こちらは大社神社忌避期間遙拝所。『戦死者 玉島好彦のために』碑。「子を思う 親の心の悲しさよ 孫なき吾子の 名をば止めん」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.31
閲覧総数 509
39

「桐生川ダム」を後にして「県道66号線」をひたすら「桐生市」に向かって進む。途中桐生市の市街に入ると「大町ニ丁目」交差点手前の右側にあった「坂口安吾 千日往還の碑」を車窓から。「堕落論」「白痴」で戦後文学の旗手となった坂口安吾は、1952年2月うるう日、旧友南川潤の世話でここ桐生の名門、書上文左衛門(かきあげぶんざえもん)邸に居を構えた。「夜長姫と耳男」を生み、人の子の親となり「新日本風土記」を執筆の最中、取材旅行から戻った直後にここで急逝。1955年2月17日早朝、48歳4ヶ月だった。通夜には小林秀雄、尾崎士郎、石川淳、檀一雄らも駆けつけた。地元有志は桐生でのこの3年間を比叡山の千日回峰行になぞらえ、「千日往還の碑」を建てたのだと。「本町五丁目」に向かって進む。「本町五丁目」交差点を右折し「県道3号線」で桐生駅前方向に進む。左手にJR両毛線」の「桐生駅」が垣間見えた。渡良瀬川に架かる「赤岩橋」の手前を右折し県道342号線に入る。次の目的地の「宝徳寺」の案内表示が現れた。そして「宝徳寺」手前の、閉校した「川内北小学校」の横にあった臨時駐車場に車を駐め散策開始する。旧「川内北小学校」校庭内の樹も黄葉の真っ盛りであった。ズームして。県道338号線・駒形大間々線を「宝徳寺」入口に向かって北方向へ歩く。左手にあったのが「庚申塔」群。「ベニシダレ」というモミジの紅葉であっただろうか。妻が欲しがっていたモミジ。そして「宝徳寺入口」の角にあった石碑には「桐生半僧坊大権現」碑。側面には、半僧坊様のご利益を戴く祈願の言葉・半僧坊御真言「唵喃那底哩底哩娑嚩呵(おんなんのちりちりそわか)」半僧坊大権現は、静岡県臨済宗大本山方広寺の鎮守の神様です。大本山建長寺(鎌倉)や大本山向嶽寺(山梨)、金閣寺(京都)、真如寺(京都)、平林寺(埼玉)、宗鏡寺(兵庫)などの日本各地の大寺院にお身分けされ、厄除けや家内安全を始め、諸願成就の権現様として多くの人々の信仰を集めています。ここ 宝徳寺では平成20年2月に大本山方広寺よりお見分けしていただき半僧坊の像を京都大仏師村田岱觀師に制作して頂きました。同年10月には大本山建長寺において宗務総長導師のもと開眼法要を営みました。毎年1月3日に半僧坊大祭を行い「幸福を招く大根焚き」と厄除け祈願法要を併せて行っています と。そして反対側の側面には「降伏一切大摩最勝成就(ごうぶくいっさいだいまさいしょうじょうじゅ)」この言葉は「すべての悪をとり祓い、人々の願いを成就させてください」と。その先の参道の左側にも「庚申塔」碑が並んでいた。山茶花の花であっただろうか。そして大菊の厚物作りが並ぶ。正面に「宝徳寺」境内への入口が見えて来た。寺号標石「大光山寶徳寺」。「臨済宗宝徳寺」の掲示板には「生きているだけで素晴らしい」と。ザル菊が参道の石段の両脇に並んでいた。近寄って。反対側にも。近寄って。今年もザル菊をよく見ました!!その先にも見事なザル菊が両脇に。檀家からの寄進のザル菊なのであろうか?「六地蔵」が迎えてくださいました。。「床に映る別世界 reflection 床もみじ」と。四季折々の「床もみじ」の写真が展示されていた。参道のいたるところにザル菊が所狭しと。モミジ葉も紅葉のピークに。「枯山水庭園 碧層〃之庭」への入口であったが、「床もみじ」鑑賞の出口でもあったので火灯窓からの写真は後ほどにしたのであった。入口には扁額「龍鳴」が。その左手にあったのが「原爆の火」。「原爆の残り火「平和の火」この火は、一九四五年広島に投下された原爆の残り火です。福岡県八女市星野村(現八女市)の山本達雄さんが、原爆投下後の広島から故郷に持ち帰り「恨みの火」「復讐の火」として火鉢やこたつにひそかに保存していました。「報復では永久に平和は来ない」と考えを改め、二十三年後の一九六八年星野村役場に提供し、以来同村は「平和の火」として保存しています。一九八八年ニューヨークで開催された第三回国連軍縮特別総会にも運ばれ平和のシンボルとして灯されました。戦後七十周年を迎えるにあたり、戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に伝えて行く為にニ〇一五年八月六日(広島原爆忌)に八女市より分火してもらいました。 ニ〇一五年八月十五日」外にも「枯山水庭園」が。見事な紅葉と枯山水庭園とのコラボ。波紋も美しく描かれていた。「床もみじ」鑑賞の入口から、先程の「枯山水庭園」入口を見る。「床もみじ」鑑賞の入口。扁額は「透関」と。「四季を感じる禅寺 臨済宗宝徳寺」ポスター。玄関奥には禅の始祖である達磨大使のイラストが。こちらはなんと住職の手描きとのこと。この額縁の書には「無量義」と師匠から。「韋駄尊天(いだそんてん)」像。ズームして。ヒンドゥー教の軍神・スカンダが前身といわれ、破壊神・シヴァの次男で歓喜天の弟とされています。仏教に取り入れられてからは四天王・増長天に従う八大将軍の1人として、仏法と寺院を護る守護神として信仰されるようになりました鬼が釈迦の遺骨である仏舎利(ぶっしゃり)を盗んで須弥山に逃げた際、一瞬で1280万キロを駆け抜け取り戻したとされています。そのため足の速い人を「韋駄天」、早い走り方を「韋駄天走り」と呼ばれるようになりました と。「客間」であっただろうか。この部屋には加山雄三氏他のサイン色紙も置かれていた。至るところに枯山水の庭が。「床もみじ」の写真が。毎年11月中旬頃、境内にある100本以上のもみじが紅葉し見頃をむかえる。関東百名山でもある鳴神山の紅葉も宝徳寺境内より見ることができる。周辺の山々とともに、赤色や黄色に彩られた「紅葉浄土」の世界を楽しめるのだ。全国的に数少ない「床もみじ」(紅葉リフレクション)を特別公開(期間限定)しているのであった。紅葉・新緑など季節の自然美が床に映り込む幻想的な「床もみじ」を観に多くの観光客が訪れているのであった。「正面」の写真に近づいて。「斜め」の写真に近づいて。「横」の写真に近づいて。襖絵は双龍、扁額は「雙龍殿」。この写真はネットから。床もみじの特別公開が行われるのは、宝徳寺の本堂。本堂の造りは禅宗方丈様式。これは、室町時代に京都の臨済宗などで盛んに取り入れられた様式で、関東ではなかなか見ることができないにだと。両脇に描かれた迫力ある襖絵「双龍」や、正面に広がる美しい「枯山水庭園」。二つの部屋にそれぞれ龍が描かれているので「雙龍殿」。向かって左奥の部屋の龍。これからは私の写真。本堂の漆塗りの床に反射する紅葉した木々を観賞できる空間。本堂の板の間は28畳。通常は畳の間だが、この期間中には畳を上げて磨いた板を見えるようにしているのだ。関東で床もみじを楽しめるのはこの寺だけと。仏像を見る。右側から「宗祖 臨済義元禅師(りんざいぎげんぜんじ)」。お顔をズームして。右から脇侍 大聖文殊菩薩中央 釈迦牟尼如来像脇侍 大行普賢菩薩 大聖文殊菩薩のお顔をズームして。釈迦牟尼如来像のお顔をズームして。大行普賢菩薩のお顔をズームして。「開山 佛印大光禅師」。お顔をズームして。「???」。「当山鎮守 半僧坊大権現」。「半僧坊大権現」のお顔をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.05
閲覧総数 239
40

「富士山本宮浅間大社」の境内の東側の散策を続ける。正面に大きな石碑が。「駿州赤心隊の碑」。石碑の下部には「赤心隊員」の名前が刻まれていた。隊長は富士宮浅間神社宮司富士亦八郎。隊員は鈴木五百重・鈴木楯雄・太田健太郎・森真魚尾・味地瀬兵衛・海野孫兵衛・浅倉勝三郎・名主 彦兵衛・佐藤真次郎・野口一郎・千葉小太郎・卯太郎・三浦千之助・先光右衛門・内藤浪江・大井求馬・八幡主膳 その他 と。「駿州赤心隊富士亦八郎重本 文政九年(一八ニ六年) ~明治三十年(一八九七年)は駿州赤心隊を結成、勤皇に献身した富士山本宮浅間大社の大宮司家に生まれ十五歳で江戸に出て、漢学・武術を学ぶ。ニ十歳で帰郷第四十四代大宮司家を継ぐかたわら塾を開き、国学、漢学、兵学を教える。東征軍に参加、駿川赤心隊を率いて幕軍と戦う。その後、西南戦争に従軍、現靖国神社の前身、東京招魂社の社司となり祭祀を司り最後は東京麹町区長。この石碑は明治維新の激動の時代を勤皇の志士として、国家に尽くした駿川赤心隊顕彰の碑である。」この石碑は1934年に町民によって建てられたもの。その左隣にも「駿州赤心隊之碑建設趣意碑」が。近づいて。カタカナ混じりの漢字が刻まれていたが解読不能。湧玉池の畔に「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれた石碑が立っていた。この首標は、昭和59年に浅間大社境内の土中から発見され、奉納者の子孫の方によって現在地に再建された。御神幸道というのは、神様が里宮と山宮を往来する道のことで、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれている石碑であると。「当社より山宮神幸道五十丁を証する碑である。これは大宮郷の信心に秀たる同志が造立した。宇佐美忠善が中心となって行った。」というような事が刻まれているとのこと。奉納者には、春田・宇佐美・清・渋谷等の名前が見られ、子孫長久・家内繁盛・福禄円満等の成就を祈って建てたものである。造立年:元禄四年(1691)未年十一月 と。「幸道首評の碑👈リンク明治の初めまで行われていた「山宮御神幸」に利用された御神幸道の起点の碑である。御神幸は、舂秋の大祭前日に浅間大社と山宮浅間神社との間を祭神が往復」するもので祭神は鉾に宿って移動した。鉾を安置した鉾立石が、浅間大社の楼門前と山宮浅間神社の境内に残されている。御神幸道の5 0丁( 1丁は約109m )の間には、1丁目ごとに目安の丁目石が置かれていたが、現在その大分は確認することができない。」「特別天然記念物湧玉池」碑。後ろに見えた朱の橋が神路枚橋」。「国指定特別天然記念物湧玉池湧玉池は、約1万年前の富士山噴火によて噴出した溶岩流の末端に位置している。富士山に降った雨や雪が溶岩流の隙間に貯えられ、溶岩流の末端から押し出されるように湧き出し、池となったと考えられている。湧玉池は、富士山の湧水のうちでも規模が大きく、学術上貴重なものであることなら、昭和27年(1952年) 3月29日に特別天然記念物に指定された。また、湧玉池は世界遺産富士山の構成資産である「富士山本宮浅間大社」に含まれている。池の面積は約2,500m2。水温は四季を通して約14℃、水量は平均毎杪2. 1 m3 (平成25年度)あり、池から神田川に流れ出し、市内を流れている。浅間大社の社伝によると、噴火する富士山を水徳の神(浅間神)の力により鎖めるために、湧玉池の畔に浅間神社を建てたという。また、湧玉池は登山者が身を清めるために禊を行ったところで、室町時代の富士登山の姿を描いたとされる「絹本著色富士曼荼羅図」(国指定重要文化財 浅間大社蔵)には、湧玉池で禊をする道者(登山者)の姿が描かれている。」「湧玉池指定範囲図」写真右・石碑のある場所が「湧玉池」から「神田川」として流れ出る場所。「神田川」に架かる最初の橋が「神幸橋」。「国指定特別天然記念物 富士山御霊水 湧玉池(わくたまいけ)」。「神田川」として流れ出る富士山御霊水。「神田川」は静岡県富士宮市宮町の富士山本宮浅間大社内にある湧玉池に源を発し、南へ流れ、同市浅間町付近で潤井川に合流する。湧玉の池は、富士山の雪解け水がおよそ15年かかって麓に湧き出た清水であって、夏冬通して水温は常に約13度である。市街地であるが天然のカジカが生息しており、上流部においては自然の渓流の流れが再現されている。「神幸橋」から「神田川」の下流側を見る。山を神体山として祀る神社のため、本宮はここ、富士山南麓(富士宮市街地)にありますが、奥宮は、富士山頂上にあるのです。ズームして。毎日約20万トンもの富士山の雪解け水が流れ出していると。25mプールを4~5秒で満杯にする水量!!神田川傍に立っていた石碑。「平成の名水百選「湧玉池・神田川」 認定 平成20年6月25日 環境大臣 鴨下一郎」別の石碑も。「平成の名水百選「湧玉池・神田川」環境省では、全国各地域の生活に溶け込んでいる清澄な水や水環境の中で、地域住民等による主体的かつ持続的な保全活動が行われているものを「平成の名水百選」として認定しました。富士宮市からは「湧玉池・神田川」が選定され、これを記念し伝承するために記念碑を建立しました。 平成20年6月25日 富士宮市長 小室直義 」「湧玉池(下池)」に架かる左から「神路橋」、「川中島」に鎮座する「嚴島神社」そして「神路枚橋」。朱に塗られたアーチ状の「神路橋」をズームして。僅かに波だった水面を朱に染めていた。そして歩いて来た「湧玉池」岸の小路を引き返す。左側にあったのが「社務所別館」。再び「水屋神社」前の藤棚を見る。「湧玉池(下池)」の水面で真鴨たちも気持ちよさそうに戯れていた。ズームして。そして「水屋神社」を右奥に見ながら「東門」まで戻る。「東門」を潜り再び「富士山本宮浅間大社」の「本殿」を見上げた。こちらもネットソフトで切り絵にして見ました。「桜」の巨木・「信玄桜」の周囲にあった「絵馬掛所」。1568年より駿河へ侵攻し今川氏を滅亡へと追いやった、甲斐の武田信玄がお手植えしたとされる枝垂れ桜の2代目とのこと。絵馬掛所は、願いや目標が書かれた絵馬でぎっしりと!駿河湾の波、富士山、太陽がデザインされた絵馬。今年「令和癸卯歳(みずのとうどし)の宝船」の絵馬。そして御朱印を頂きました。御朱印と一緒に頂きました。「世界文化遺産 富士山本宮浅間大社主祭神 木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと・浅間大神(あさまのおおかみ))相殿神 大山祇神(おおやまづみのかみ)・瓊々杵尊(ににぎのみこと)創祀 紀元前二七年富士の荒ぶる山霊(噴火)を鎮める為、浅間大神を富士山麓にお祀りした。大祭 例祭 十一月四日 流鏑馬祭 五月五日富士登山 当社の境内地である富士山(八合目以上)は、夏期の間(七・八月)開山となり、 約三〇万人の登拝者で賑わう。 頂上には、奥宮並びに末社久須志神社が鎖座している。湧玉池 富士の湧水 国指定特別天然記念物 平成の名水百選」境内から見て「楼門」の左側にあった建物には「筆文字」が掲げられていた。「桜爛漫 望月飛秀」。「混混原泉湧玉池 佐野宮峰」。「苑石湖の詩 後藤里果」。「富士爛漫」。「富士爛漫」 兵庫県三田市 三谷祐資富士山の神様は木花之開耶姫の神様であり、又、桜を象徴する所から、神様のお姿を拝しながら、富士山を中心に桜花で飾る構図が浮かんだ。派手にならず大和的な良さも残しながら、右に山桜左に染井吉野、出来るたけ桜花で飾りたい。しかも富士山を邪魔しない。そして何よりも宇宙にまで抜けるような空の青さが欲しかった。ズームして。再び「富士山本宮浅間大社」の「拝殿」、「本殿」を見る。楼門前の流鏑馬の行われる「桜の馬場」では5月5日(金・祝)に行われる「流鏑馬まつり」の準備が行われていた。馬の走る馬場用の仕切りの柱の台座部分なのであろう。今年の「流鏑馬祭り」をネットから。ロープの張られた柱の台座が地下に設置されているのであろう。「楼門」を振り返る。「楼門」の左側にあった「授与所・祈祷殿」。「授与所・祈祷殿」の先にあった石碑群。一番右の石碑には「皇太子手植櫻樹碑」と。「富士山 第三十回登頂記念碑富士山と琵琶湖は 一夜の故事にちなみ世界平和 国土安全を願い毎年登頂 本年五十年目を迎え ここに記念碑を建立する。平成十八年七月吉日富士と琵琶湖を結ぶ会滋賀県近江八幡市」歌碑「思えば千と二百年唄 渡辺通久作詞作曲 後藤良夫編曲 高岡利光一、君と歩いた参道は 木漏れ日のゆれる 石田川 浅間の宮は 天高く 思えば千と二百年 歴史を伝ふ 桜の門ニ、祭囃子か 締め太鼓 あれは若衆の 心意気 水の流れも そのままに 思えば千と二百年 歴史を浮かべる 神田川三、社の向こうに 富士の山 千故の雪を 頂いて 湧玉池に 湧くと聞く 歴史を奏でる 笙の笛」薄いピンクの花の石楠花。丘の上には様々な忠魂碑が。「慰忠」碑。「忠魂毅魄」碑。「毅魄」とは「英霊」のことと。「明治三十七八季戦役 彰忠碑伯爵 西園寺公望 書」多くの人名が刻まれた大きな石碑。「鳥居建設境内整備寄附者芳名昭和四十四年十一月吉日」碑。入口には「忠魂碑」と刻まれた扁額を掲げた石鳥居があった。「楼門」の手前には鯉のぼりが(右)。「楼門」の手前には日の丸が(左)。「三之鳥居」、「ニ之鳥居」を見ながら引き返す。そして「大社通り」を渡った場所にあった「お宮横丁」を訪ねた。「お宮横丁」は「富士山本宮浅間大社」の門前にある屋外フードコート。昼食に名物「富士宮やきそば」を楽しむことにする。店の名は「むすび屋」。「むすび屋」のご主人。ソース味の「富士宮やきそば」を楽しんだのであった。ソース味も塩味も食べたい人のために、お得なハーフ&ハーフもあった。天むすやいなりずしなどもあるので、あわせてどうぞ。噛み応えのあるコシの強い麺と、肉かすやイワシの削り粉を入れた味付けで美味であった。そして駐車場まで戻る。正面、鳥居のそばの巨大な社号標石の隣りにあったのが「富士山大金剛杖」。「富士山大金剛杖」碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.13
閲覧総数 503
41

特別展示「令和の御代を迎えてー天皇皇后両陛下が歩まれた30年」ポスター。特別展示「令和の御代を迎えてー天皇皇后両陛下が歩まれた30年」展示会場へ。天皇皇后両陛下。「ごあいさつ令和5年(2023)、天皇陛下におかれては御即位5年、そして天皇皇后両陛下の御成婚30年の節目を迎えられました。令和の御代を迎えてまもなく、世界各地へと急激に広がった新型コロナウイルス感染症によりご活動の機会か限られながらも、両陛下はオンラインによる国内各地へのご訪問など、新しい形によるご公務に取り組まれ、コロナ禍に過ごした国民の苦楽に、常に心を寄せてこられました。このたび、装い新たとなった皇居三の丸尚蔵館において、ご結婚以来、両陛下がともに歩まれてきた30年の軌跡を、両陛下ゆかりのお品とともに紹介する展覧会を開催いたします。本展では、ご結婚の儀式のご装束やドレスをはじめ、愛子内親王殿下の健やかな成長の願いが込められたお召し物などが並びます。また、御即位の儀式で用いられたご装束や調度の品、各方面から寄せられたお祝いの品のほか、両陛下が皇室の伝統行事を受け継がれたご様子もあわせて紹介いたします。このたびの企画にあたっては、両陛下の深いご理解を賜り、貴重な品の数々を展示できることになりました。本展を通して今日までの両陛下の様々なご活動に触れていただくとともに、これらの品々が、日本の伝統文化の継承に深く関わるものであることをご覧いただけれは幸いです。令和5年11月 皇居三の丸尚蔵館」「特別展示の聞催に寄せて三の丸尚蔵館は、平成元年(1989)に上皇陛下と香淳皇后の思し召しによって美術品など6000点あまりが国に寄贈されたことを機に、これらを保存管理し、調査研究とともに展示公開を行う施設として平成5年秋に開館しました。さまざまな分野、幅広い時代におよぶ収蔵品の魅力を紹介し、皇室と文化との関わりを内外に広く発信してきた30年におよぶその活動は、令和元年(2019)から始まった施設・設備の拡張整備工事や職員の増員につながることになったといえます。そしてこの10月には、三の丸尚蔵館は宮内庁から離れて独立行政法人国立文化財機構の一員となり、新たな出発を迎えたことで、今後のさらなる発展が期待されるところです。今年、天皇皇后両陛下におかれては、御即位5年・御成婚30年の節目を迎えられました。三の丸尚蔵館では、令和2年2月に御即位に関する一連の儀式の様子と、両陛下のこれまでの歩みを紹介する特別展を開催しましたが、新型コロナウイルスの感染拡大により中断を余儀なくされました。三の丸尚蔵館が新たな展示室で、展示公開の活動を再開するにあたり、令和2年の展覧会の内容をさらに充実させた形で、本展が聞催されることは大変意義深いことです。国民とともにある皇室を、両陛下ゆかりの品々を通して感じていただけれはと思います。令和5年11月 宮内庁長官 西村泰彦」出品目録(1/2)出品目録(2/2)そして、会場内展示室は撮影禁止でしたので、ネットからの写真を順不同でアップさせていただきます。展示室内の展示状況。「結婚の儀」天皇皇后両陛下ご装束「結婚の儀」天皇陛下ご装束 束帯 黄丹袍令和度 悠紀地方風俗歌屏風 右隻 和歌:篠弘 絵:田渕俊夫大嘗宮の儀のために制作された「悠紀地方風俗歌屏風」(左)制作者は田淵俊夫・東京芸術大名誉教授令和度 主基地方風俗歌屏風 左隻 和歌:永田和宏 絵:土屋禮一大嘗宮の儀のために制作された「主基地方風俗歌屏風」(右)制作者は土屋礼一・金沢美術工芸大名誉教授大饗の儀で天皇、皇后両陛下の前に飾られた銀製の置物皇后雅子さまが天皇陛下との結婚の儀で着用された十二単(ひとえ)。天皇陛下が5歳の時に初めてはかまを着る儀式「着袴(ちゃっこ)の儀」で着用された装束左:「宮中饗宴の儀」で雅子さまがお召しになった杏色のローブモンタント 展示期間全期間 右:愛子さまの御初召と上皇ご夫妻から贈られた犬張子 展示期間前期 左:天皇陛下が愛用されている天体反射望遠鏡 展示期間全期間右:天皇陛下がご幼少時に使用されたヴァイオリンと皇后陛下が使用されていたフルート 展示期間全期間ボンボニエール ご結婚ご祝宴。そして第2会場に戻り、設置されていたモニター画面で「三の丸尚蔵館の国宝のすべて」を観る。「喪乱帖(そうらんじょう) (原跡)王羲之 1幅中国・唐時代(7~8世紀)」書聖王羲之(4世紀)の書状集。冒頭の行に「喪乱」の文字があるので呼ばれる。「東晋時代に活躍して、書聖として尊ばれた王羲之(三〇七~六五)自筆の、別々の三つの書簡の部分を、双鉤填墨(そうこうてんぼく)という、文字の輪郭を線にして写し、その内側を墨で塗りつぶす一種の敷き写しの技法を用いて表現した中国・唐時代の模本です。点画の跳ねや、文字と文字がつながる箇所では、輪郭線の内側に、細かい線が丁寧に重ねられ、かすれた感じがよく表されています。精巧な技法で作り上げられており、普通に墨で書いた文字のようにみえるため、極めて優れた模本であると評価されます。王羲之自筆の書は、後には全て失われ現存していないことからも、その書風を今に伝えてくれる名品で世界的に貴重な作品といえます。京都御所に伝来したと考えられ、後西(ごさい)天皇(一六三七~八五)の崩御後、御遺物として異母弟の堯恕(ぎょうじょ)法親王の手に渡って以降、親王が門跡を務めた妙法院に伝来し、明治十三年(一八八〇)再び皇室に献上されました。(高梨)」と、購入した案内本から(以下同様)。たてに簾目状の筋目のある(縦簾紙)料紙に書かれた唐時代の搨模(透き写し)本。袖に「延歴勅定」の方印の左辺部が残る。明治13年(1880)妙法院献上。「屏風土代 小野道風 1巻平安時代 延長6年(928)」平安時代中期の能書・三跡の筆頭である小野道風(八九四~九六六)三十五歳の書です。『日本紀略」の延長六年(九二八)十二月の条に、醍醐天皇の勅命により、内裏で新調する屏風の題詩を漢学者・大江朝綱に作らせ、道風に書かせたとする記事があり、そのための下書き(土代)を巻子にしたものと考えられています。和様の創始者といわれる道風の重厚で温かみのある書風で、随所の書き入れや訂正からは、推敲の跡がみてとれます。巻末には、三跡のひとり・藤原行成を祖とする世尊寺家五代・定信(一〇八八~一一五四~? )の奥書があり、保延六年(一一四〇)に行成の《白氏詩巻》(東京国立博物館所蔵)一巻とともに本巻を購入したことがわかります。後世の能書として知られる伏見天皇(一二六五~一三一七)の《屏風土代臨模》(御物)などからは、本作が手本として尊ばれたことがうかがえます。明治時代に井上馨の所蔵となり、大正十四年(一九二五)に井上家から大正天皇に献上されされました。(山田)。」「金沢本万葉集 藤原定家 2帖 平安時代(12世紀)『万葉集」巻第二および巻第四残巻からなる平安時代の古写本で、名称は金沢(加賀)藩主前田家に伝来したことにちなみます。料紙は主に三椏(みつまた)紙を用い、表裏共に白・黄・緑の具引き地にさまざまな型文様が雲母摺り(きらずり)され、一部に金銀箔、布目打などの装飾をもつ、和製唐紙が用いられます。筆者は、和様の書を大成させた平安時代中期の貴族、藤原行成に始まる世尊寺家第五代定信(一〇八八~一一五四~?)とされます。その字の特徴は、全体の流れの美しさを求め、早い運筆による右肩上がりの独特なもので、本作でも、速筆で字形にとらわれず、全体的な流れや流動感により美しさを追求しています。美しい装飾料紙に、技法を駆使した完成度の高い筆跡が調和した作品となっています。前田家に残る巻第三、巻第六残巻および手鑑「野辺のみどり」のなかの断簡(以上、前田育徳会所蔵)とともに一帖として伝来しましたが、明治四十三年(一九一〇)七月八日に明治天皇の前田邸行幸(ぎょうこう)に際し、分冊のうえ献上され、近年の保存修理事業において現状の二帖となったものです。(髙梨)」。金沢本万葉集 巻第二。金沢本万葉集 巻第四。「更科日記 藤原定家 1帖鎌倉時代(13世紀)紙本墨書 縦一六・四cm 横一四・五cm「菅原孝標女が著した日記体裁の回想記である『更級日記』を、鎌倉時代に歌道で活躍した貴族・藤原定家(一一六二~一二四一)が書写した冊子で、末尾の奥書には「『更級日記』の冊子本を入手したが、貸与先で紛失したため、その時写された写本から転写した。誤字が多く、不審箇所には朱を入れ、注記した」と定家による本作を書写した経緯が記されます。これを裏付けるように、書写文の傍らには定家による「勘物(かんもつ)」と呼ばれる注記や朱点などが確認できます。料紙には雁皮紙(がんびし)が使われており、「括(かつ)」という料紙五または六紙を二つ折りにした束を十枚重ねて、全体で綴じた綴葉装(てつちょうそう)という装幀(そうてい)にされています。近代の調査により伝来のなかで括の順番に入れ替わりのあるこが判明しました。この冊子は、『更級日記』の本文を伝える最古写本であり、流布しいる諸本の祖本と考えられるため貴重です。後水尾上皇の時代の仙洞(せんとう)御所に伝来していたことが知られます。(髙梨)」。「蒙古襲来絵詞 2帖鎌倉時代(13世紀)」「文永十一年(一二七四)と弘安四年(一二八一)の二度、モンゴル帝国は海を越え北九州に襲来しました。元寇(げんこう)の名で知られるこの事件を記した史料は数多くありますが、同時代に絵画として制作され、かっ今日まで伝存するのはこの絵巻が唯一です。蒙古軍の衣服などの風俗、武器、戦闘方法を視覚的に伝える貴重な作品です。文永の役を描いた前巻における、炸裂する「てつはう」と奮戦する竹崎季長(たけざきすえなが)(一二四六~? )の場面は、教科書で誰もが一度は目にしたことがあるでしよう。後巻は弘安の役を描きますが、菊池氏一軍が居並ぶ石築地の前を悠然と出陣してゆく季長主従、それに続く海上での戦闘は臨場感に溢れ迫力があります。本作は明治二十三年(一八九〇)に大矢野十郎から宮内省が買上げましたが、伝来の過程で失われた箇所も多く、錯簡(さっかん)(前後の順序が入れ替わっていること)、絵と詞書が少なくとも二種類認められるなど、現状は極めて複雑な様相を呈しています。(野中)」「蒙古襲来絵詞 前巻」馬を射られて苦戦する季長と、弓・槍で季長を襲う蒙古兵。画面中央上では鉄砲(「てつはう」)が爆発している。負傷して退却する蒙古兵。「蒙古襲来絵詞 後巻」季長が志賀島へ向けて生の松原(いきのまつばら)を出発する場面。画面中央の騎馬武者が季長。その奥で石築地(いしついじ)に腰掛け、赤い扇子を手にしている人物が肥後国の有力御家人菊池武房(きくち・たけふさ)。「春日権現験記絵 高階隆兼 20巻鎌倉時代、延慶2年(1309)頃」「《春日権現験記絵》は藤原氏の氏社である奈良の春日大社の権現(仏や菩薩が化現した姿、ここでは春日明神を指す)の験記(利益など不思議な出来事の物語)を絵と詞書(ことばがき)(文字)によって語る絵巻です。十四世紀初め、春日大社に詣でたことで利益を得た左大臣・西園寺公衡(きんひら)が発願して制作されました。絵は宮中の画業を担う絵所を統括した絵所預の高階隆兼、詞書は前関白の鷹司基忠とその息子三人という、当時一流の人々が筆を執りました。絵巻としては珍しい絹地の上に広がる豊かな色彩と精密な描線は、制作から七〇〇年以上の時を経た今もなお驚くほど鮮やかです。とりわけ巻十九にみえる初冬の御蓋山(みかさやま)と春日山は中世絵画の白眉(はくび)といえるでしよう。衆徒らの決起と血生臭い戦闘の場面の間で、雪降る深閑とした神域が際立っています。」「藤折枝蒔絵箱」。「藤折枝蒔絵箱 鎌倉時代(14世紀)/木製漆塗・蒔絵「春日権現験記絵」(1-1)を納めていた箱。黒漆塗りの箱の蓋表と金銅製の金具には、それぞれ金高蒔絵と透かし彫りにより、藤原氏と春日大社にゆかりの深い藤花の文様が表されています」。「春日権現験記絵 巻十二」ズームして。「唐獅子図屏風[右隻]狩野永徳、[左隻]狩野常信6曲1双[右隻]桃山時代(16世紀)、紙本金地着色 縦二二三・六cm 横四五一・八cm[左隻]江戸時代(17世紀)、紙本金地着色 縦二二四・〇cm 横四五三・五cm」三頭の唐獅子を、六曲一双の金地の大画面に描いた作品です。左右隻で時代と筆者が異なり、右隻は桃山時代の狩野永徳(一五四三~九〇)、左隻は永徳のひ孫の狩野常信(一六三六~一七一三)が、江戸時代初期に、右隻にあわせて補作したものです。本図の特徴は、何といってもその大きさにあります。通常の屏風をはるかに超える大きさから、右隻は本来、大きな建築物の床の間の壁画であった可能性が指摘されています。筆者の永徳は織田信長や豊臣秀吉ら時の権力者に仕え、彼らのために多く絵筆をふるいました。あるいは本図もそのような御殿の一室を飾っていた可能性も考えられます。右隻にみる、濃彩と豪快な筆致による、明るく躍動感あふれる表現は、永徳の真骨頂ともいえるものです。永徳の代表作であるだけでなく、この時代の雰囲気を濃厚に伝える作品として、令和三年(二〇二一)に、左隻とともに国宝に指定されました。長らく萩藩毛利家に伝来し、明治二十一年(一八八八)に旧藩主の毛利元徳より、皇室に献上された作品です。(戸田)」「唐獅子図屏風[右隻]狩野永徳」 ズームして。「唐獅子図屏風[左隻]狩野常信」。伊藤若冲「動植綵絵」 左:梅花群鶴図 中央:南天雄鶏図 右:諸魚図八幅(三十幅のうち)江戸時代(十八世紀)絹本着色縦一四一・八cm~一四三・四cm 横七九・一~八〇・一cm三十幅にわたって、極彩色にいろどられた多種多様な動植物が描かれます。伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)の代表作として近年人気を博してきましたが、令和三年(二〇二一)に国宝に指定されました。《動植綵絵》はもともと《釈迦三尊像》三幅対とともに京都・相国寺に寄進され、さまざまな儀礼で用いられていました。若冲は京都・錦小路の青物問屋「枡源」の主人で、相国寺の高僧・大典褝師に帰依し、隠居後はもっぱら作画に打ち込みました。若冲は「名声のために描いたのではありません。寺の荘厳をたすけ、永久に伝わってほしい」と、附属の《寄進状》に記しています。明治二十二年(一八八九)、本作は皇室へ献上され相国寺を離れましたが、その際の下賜金によって人手に渡っていた寺地を買い戻すことができたといいます。《動植綵絵》には鶏や鳳凰を大きく描くものがある一方、花弁や昆虫で画面全体を覆いつくすものもあり、それまでの花鳥画とは異なった独特の構成感覚があらわれています。花や鳥は驚くほど細かく描き込まれ、樹木や岩も各幅で意識的に描き分けられており、作画への並々ならぬ気迫を感じさせます。(上嶋)」。中央:南天雄鶏図 をズームして。伊藤若冲「動植綵絵」 左:菊花流水図 中央:芙蓉双鶏図 右:紅葉小禽図左:菊花流水図をズームして。白い菊の花は、裏彩色に胡粉が薄く施され、表は胡粉で濃淡がつけられていると。伊藤若冲「動植綵絵」 左:老松白鳳図 中央:蓮池遊漁図 右:秋塘群雀図「秋塘群雀図」をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.01.19
閲覧総数 171
42

この日のNHK放送の授業テーマは、『新幹線の座席が2人席と3人席である利点は?』新幹線の普通車の座席は、通路を挟んで2人席と、3人席という構成になっています。レールや車体の幅から1列の座席は全部で5席に決まったと考えられますが、実は2人席と3人席になっていることには乗客にとって意外なメリットがあります。それは、グループ旅行に対応しやすくなるということ。グループで旅行する際、できる限り隣の座席は同行する人であってほしいですよね。2人席と3人席という配置になっていることで乗客のグループがどのような人数であっても、隣接した座席には同行者が座る状態を作ることが可能になるのです●2人で旅行するなら2人がけの席を、●3人なら3人がけの席を予約するでしょうし、●4人の場合なら2人席を2つ分取れば、隣は必ず同行者になります。 それ以上の場合はどうでしようか。●5人なら2人席と3人席、●6人なら3人席x2、または 2人席x3●7人なら2人席x2 + 3人席、●8人なら3人席x2 + 2人席 または 2人席x4●9人なら3人席x3、または 3人席x1+2人席x3●10人なら3人席x2 + 2人席x2 または 2人席x5●・・・・・・・・・・・・・~というように予約すれば、やはり隣は同行者です。どんな人数であっても(1人旅の場合は除きますが)、隣が同行者になるため、1人ぼっちになる人はいなくなり、楽しく旅行できるというわけです。そしてJR側もどんな数の団体客が予約に来ても、ぴったりに座席を埋めることができるのです。すなわち、1人だけが使う2列席・3列席とかを極力なくすことができるのです。つまり、新幹線の座席が2席の列と3席の列に分かれている理由は、座席の余りを可能な限りゼロにするためだったのです。※ もちろん、一人客に対してはどうしようもない。以上のことを、もう少し数学的に表してみましょう。n人で旅行する際、2人席をx個、3人席をy個分予約すると考えれば、次の式で表すことができます。2x十3y=n(x,yは自然数)実は、『どんな数nでもx,yは存在する』のです。nがどのような値を取るかによって、当然、x,yの値は変化します。nが偶数の場合は2人席だけを使えばよいですし(y=0)、nが3以上の奇数なら3人席を1つ、残りは2人席にすればよいとわかります。つまり、nが2以上の整数であればすべてのパターンを作れるということです。つまり、2以上のすべての自然数は、2の倍数と3の倍数の和で表わすことができます。(例えば、13=2×2+3×3)同じように、飛行機で3人席と4人席の配置になっているとしたら、6人以上のグループ客について「隣は必ず同行者」という状態が作れます。注意したいのは、これが成り立つのは2つの整数が「互いに素」のときだということ。 「互いに素」というのは、2つの整数が1以外に共通の約数を持たないことを意味します。4と9は互いに素ですが、2と4の場合は2が共通の約数になりますから、互いに素ではありません。 「互いに素」ではない座席の例このような座席配置では、任意の整数を作ることができない。ちなみに3列シートの中央の座席は他の座席よりも横幅が2㎝広いそうです。今回の授業にはありませんでしたが、なぜ東海道新幹線・山陽新幹線の3列の座席が車両の南側に配置されているのか?って、考えたことがあるでしようか?もし、そのように聞かれたら、別に北側に配置してもいいんじゃないの?と私は思ってしまったのでは!?。実は、日本の鉄道車両は昔から塩害に悩まされてきたためか、車両の心臓部てもある駆動装置は、できるたけ海から遠ざけるという考えが常識になっていました。なので、重い駆動装置を海から少しでも遠い北側に配置して、できるたけ塩害を避け、左右の重量バランスを取るために、3列席を南側に配置した というのが真相のようです。東北、上越、山陽の各新幹線の多くの普通車でも2列+ 3列という座席配置となっていますが、3列座席が海側に配置されているか、乗る機会があったら気にして見てください。因みに東北新幹線の車両も3人席は海側・太平洋側になっていると記憶しています。「新幹線の指定席、どこが一番好き?」をネットから。新幹線の指定席の中で、一番好きな座席はどこだろうか。私が現役時代に選んだのは、3列シートの窓側。2列ではなく3列シートをチョイスするのは、隣が空席になる可能性に期待を込めてのことであった。「圧倒的な人気を誇った指定席は、「2列シートの窓側」席で、選んだ人の割合は61.2%(473票)となった。2位は、「2列シートの通路側」席(15.8%、122票)。全体の75%以上、つまり4人に3人が「2列シート」に投票。つまり、3列シートのいずれかの席を選んだのは、全体の4分の1のみ。みなさん、3列よりも2列シートが大好きらしい。3位「3列シートの窓側」席(11.9%、92票)と4位「3列シートの通路側」(10.5%、81票)の間には、大きな差はない。とはいえ、2列シートの時と同じく、3列シートの場合でも通路側より窓側が人気という構図は変わらない。人気を博した「窓側」席について、大手掲示板サイトの5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)には、景色が見放題であることはもちろん、日よけを自由に上げ下げでき、コート掛けまで使えることを「勝ち組」だと評するスレッドがたっている。また東海道新幹線の場合、2列シートの窓際......つまりE席では、窓から富士山を見ることができる。」と。最後にもう一つ。新幹線(電車)の席次は?上座・下座について。学会や結婚式・法事などに上司や目上の人と一緒に列車や新幹線などを利用する機会もあると思います。乗車してから席順で慌てることがないよう、新幹線等の席次についても基本を覚えておきましょう。現役時代は、皆個人で座席指定をしていたので、このようなことを考えたことは皆無に近い私なのです。以下、ネットからです。新幹線をはじめとする列車内での席次の基本は「窓側が上座・通路側が下座」です。この基本に、ドアの位置や進行方向を考慮して、目上の人を上座に案内します。新幹線のグリーン車や列車等では、2人掛けシートの窓側が上座、通路側が下座になります。4人掛けボックスシートでは、窓側の進行方向を向いた座席が一番上座。窓側の進行方向と反対の座席が2番目、通路側の進行方向の座席が3番目、通路側の進行方向と反対の座席が下座になります。進行方向を向いた座席を上座とする考え方もあり、その場合は、2番目と3番目が入れ替わります。新幹線の普通車のように3人掛けシートの場合、窓側の座席が上座、通路側が2番目、真ん中の座席は狭く感じられ不便なので下座になります。2人掛けと3人掛けがあれば、2人掛けの方が通路に出やすいため、上座になります。6人掛けボックスシートの場合は、4番目までは4人掛けと同じ、進行方向を向いた真ん中の座席が5番目、その正面が下座となります。窓側を上座と考えると上記のようになりますが、進行方向を向いた座席を上座とする考え方では、進行方向を向いた窓側から1、3、2番目となり、進行方向と反対のシート窓側から、4、6、5番目となります。いずれの場合も、目上の方の意向を確認してから案内する気配りが欠かせません。例えば、車両出入口付近は人の出入りが多くうるさいため、出入口から遠い方が上座になります。また、窓側に座ると通路に出にくいため、携帯電話を利用するなど頻繁に席を立つ場合はデッキに出やすい通路側を希望する方もいます。特に指定がなければ、目上の人を上座に案内しますが、必ず「窓側でよろしいでしょうか?」「進行方向とは逆向きになりますがよろしいですか?」などと声をかけるようにすれば、相手に対する心配りが伝わります。5名の場合は窓側➡️通路側の席次順。6名の場合は、下図の如き考え方もあるとのこと。進行方向最優先で窓側➡️通路側の席次順。こちらは窓側最優先➡️通路側➡️中央席。ここまで列車内の席次について紹介しましたが、これらはあくまでも原則です。たとえば、時間帯や進行方向によって窓からの陽射しの入り方が変わります。周囲の乗客の様子や、空調の当たり具合・トイレの頻度など体調の変化にも気を配り、美しい景色が見える方角があれば座席交代を提案するなどの心配りも身につけたいところです。原則を踏まえた上で、相手や状況に合わせて臨機応変に対応する姿勢が大切です。目上の人の希望をたずねるなど、相手とのコミュニケーションをしっかりとることで、移動が心地よい時間と空間になると思います と。今日は新幹線の『座席』に対する『学び』でした。但し、2+3人席が最初から乗客の便宜の為に考えられていたのかは疑問であると考える私なのである。つまり、後付の偶然の産物ではなかったのか!?と。皆さんはどのように考えますか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.09.25
閲覧総数 1769
43

「神田川」に沿って「柳原通り」を進むと「国道17号・中央通り」に合流。正面に見えたのがビジネスセンター「JR神田万世橋ビル」。「JR神田万世橋ビル」は、JR東日本の旧万世橋駅・旧交通博物館跡地の再開発プロジェクトによって建設されたビル。そして右に曲がるとあったのが「神田川」に架かる「万世橋」。秋葉原電気街の南端に位置し、神田駅周辺とを結ぶ橋。橋の北は東京都千代田区外神田一丁目、南は千代田区神田須田町一・二丁目で、南へ渡ってすぐ、JR中央線の万世橋架道橋ガードを潜る。万世橋南詰のすぐ西にあった交通博物館(2006年閉館)の前を通る細い道が、1930年までの旧中央通りだった。神田駅へ向かう新中央通りと、九段・両国橋を結ぶ靖国通りが交叉する、現在の須田町交差点は1929年に作られたものである。上流には昌平橋が、下流には鉄道橋の神田川橋梁や人道橋の神田ふれあい橋が架かる。南詰には万世橋駅や広瀬武夫と杉野孫七の銅像があったが、どれも現存しない。神田須田町一丁目と外神田一丁目を結ぶ橋です。最初は明治17(1884)年に架けられた木橋で「昌平橋」と呼ばれ、その後、「新万世橋」→「万世橋」と名称を替えた。明治36(1903)年にほぼ現在の位置に架けられたが、関東大震災で被害を受け、昭和5年(1930)に長さ26m、幅36mのRC造アーチ橋が完成した。この橋は、巨大でアールデコ調の橋灯付き親柱が特徴。「萬世橋」の銘板も嵌め込まれていた。RC造アーチ橋「万世橋」を斜めから覗き込んで。「万世橋現在の万世橋と昌平橋の間に江戸城の見附の一つである筋違門(すじかいもん)がありました。1872年(明治5年)に門が撤去されその石材を用いて架けられたのが、萬代橋(よろずよばし、萬世橋)です。石造アーチの形状は眼鏡橋と通称され、東京名所として錦絵などにも描かれました。1903年(明治36年)、現在の位置に新たに万世橋が架橋された後、石造の萬世橋は1906年に撤去されました。現在の橋は関東大震災後の1930年(昭和5年)に架けられました。甲武鉄道(後の中央線)のターミナル駅として万世橋駅が1912年(明治45年)に開業すると、橋の周辺は交通の要衝として大変な賑わいを見せました。」「萬世橋附近の図」。明治33年(1900)新撰東京名所図会。右の眼鏡橋が万世橋、現在よりやや上流にある。左は昌平橋。「万世橋駅石版画」。「広瀬中佐銅像」の文字が。横断歩道に向かって「万世橋」を渡る。「神田川」の下流側を見る。正面に「神田川橋梁」、山手線や京浜東北線のJR神田駅とJR秋葉原駅間にある鉄道橋。北側・「万世橋」交差点側の「橋灯付き親柱」。国道17号「万世橋」交差点。正面に見えたのが総武線の鉄道橋。横断歩道を渡りながら、国道17号の手摺を見る。「汽車」と「燈籠」がデザインされていた。再び「万世橋」を渡る。ここにも橋名板「萬世橋」。親柱に嵌め込まれた銘板にも歴史の重みと威厳とが感じられたのであった。「昭和五年三月完成」。そして右側前方に見えて来たアーチ状の続く建物が「万世橋駅跡」。「神田川」の上流側を見る。「昌平橋」と「総武線鉄道橋・神田川橋梁」。・「昌平橋」万世橋から約250m上流にある。最初は寛永年間(1624~1644)に架けられたといわれている。古名に「かり橋」・「新し橋」・「相生橋」、また一口坂に近いので「芋洗橋」などがあった。昌平橋の名の起こりは、元禄4年(1691)将軍徳川綱吉が湯島に聖堂を造営し、孔子の故郷である中国の魯の国昌平郷にちなみ、昌平橋と名乗るように命じたことによるといわれている。明治維新後、相生橋と改めたが、明治6年(1873)に洪水で流されてしまった。明治32年(1899)に再建され、再び昌平橋と命名された。現在の橋は、昭和3年(1928)12月8日に架けられたもので、長さ22.7m、幅30.1m、コンクリ-ト橋。・「総武線鉄道橋・神田川橋梁」は総武線が御茶ノ水駅まで延長された際、御茶ノ水駅 - 秋葉原駅間の神田川に架けられた橋梁。橋脚は八の字形のラーメン形式であるのが特徴。本橋梁の御茶ノ水方はコンクリート製橋台が中央本線上り線を跨ぐ形となっている。秋葉原方はコンクリート製橋台を挟んで松住町架道橋へと繋がる。本橋梁は、松住町架道橋と並び秋葉原電気街のランドマークにもなっている。このため、本橋梁を含めた秋葉原の風景は色々なドラマ・映画にも登場し、また松住町架道橋・総武線隅田川橋梁とともにデザインも優れているため、日本の鉄道橋の象徴的存在にもなっている。「マーチエキュート神田万世橋」は、交通博物館(旧万世橋駅)跡に完成し、平成25(2013)年9月14日にグランドオープン。物販店や飲食店が入っていた。また、旧万世橋駅のホーム部分が「2013プラットホーム(デッキ)」とし蘇り、中央線がすぐそばを走るガラスで囲まれた展望カフェデッキもあった。「万世橋駅跡」の神田川に張り出したオープンウッドデッキを歩く。「万世橋駅跡」の内部を散策。大きなジオラマが展示されていた。「万世橋駅ジオラマ 大正初期 縮尺1/150 2013年10月制作」。「旧万世橋駅 ジオラマ模型JR中央線神田駅~御茶ノ水駅間にあったことをご存知ですか? 現在は東京駅を運行上の起点としている中央線ですが、1912年の開業当時、中央線はこの万世橋駅が終始点のターミナル駅で、東京駅と同し建築家辰野金吾の設計による赤レンガ駅舎も存在しました。その旧万世橋駅の鉄道遺構であるレンガアーチ高架橋部分をリノベーションした空間がマーチエキュート神田万世橋です。そんな旧万世橋駅が営業していた往時の賑わいをジオラマ模型で再現し、展示しています。・・・以下略・・・」「東京のターミナル駅「万世橋駅」江戸期より、主要街道、橋、水路が集中する交通の要衝であったこの地は、明治末期から大正前期にかけて、鉄道の発達に伴い、東京における最も隆盛をきわめた場所の一つになりました。このジオラマは明治・大正の先人たちが、夢と希望をその活動の原動力としていた時代の、駅と街並み、そして人々の躍動をイメージ、再現したものです。 万世橋駅ジオラマ」一瞬東京駅?と思ったが、これが開業当時を再現した万世橋駅 と。初代の駅舎は東京駅と同様に辰野金吾氏の設計による赤煉瓦造りだった と。なるほど!!廻り込んで。さらに。万世橋駅の開業後に東京駅が完成して1919年(大正8年)に万世橋〜東京間が開通した。万世橋駅が中央本線の起終点だったのは、たったの7年であったと。同年に神田駅が開業。下の写真のごとく、万世橋駅が中央本線の起終点だったことがジオラマから理解できたのであった。当時の写真をネットから。神田川越しに。レンガアーチ高架橋部分が見事に並ぶ姿が。正面から。1936年(昭和11年)4月25日、東京駅から鉄道博物館が移転。これに伴い駅舎が解体縮小され、博物館に併設された小屋となった(閉鎖後は博物館の事務室に使われた)。ホーム上に設けられた従前の階段は博物館へ直結する特別連絡口となり(駅閉鎖後は休憩所に転用)、代わりに駅出入用の別の階段が1935年(昭和10年)に新設されている。また、この解体縮小の直前には駅構内の食堂が営業を終了した。その後、1943年(昭和18年)11月1日(鉄道省から運輸通信省への再編と同日)に休止、駅舎は交通博物館部分を除いて取り壊されたのだと。幾重にもアーチが繋がったトンネル状の空間。巨大アーチ下部はレンガ積みの壁で仕切られていた。通路の上部には、鉄骨構造物が残っていた場所もあった。「旧万世橋駅 1912階段1912年(明治45年)4月、万世橋駅開業の時に作られた階段。1936年(昭和11年)4月の鉄道博物館(後の交通博物館)開館後は、ホームから博物館に直接入館できる特別来館口として使われ、交通博物館時代は一部が休憩室として活用されていました。階段は、厚い花崗岩や稲田石を削りだした重厚なもので、壁面のタイルも、東京駅のレンガなどに見られる「※覆輪目地(ふくりんめじ)」という、高級な施工がされているのも特徴です。」※覆輪目地=タイルやレンガなどの仕上材の先端が丸みを帯びた形状に仕上げる工法。「旧万世橋駅 1912階段」。「旧万世橋駅 1935階段」入口。8年後廃駅になった不運な階段であると。「旧万世橋駅 1935階段鉄道博物館(後の交通博物館)の新館が、ここ万世橋駅に建設されることになり、新たに1935年(昭和10年)に設置。1943年(昭和18年)10月の駅休止までの間、ここが駅の階段として使用されました。なお、階段の踏面はコンクリート、壁面のタイル目地も平目地と、駅開業時に設置された階段とは仕上げが異なっています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.03.09
閲覧総数 275
44

「Saint Nicholas' Collegiate Church・英国国教会」を後にして、次の目的地の「Galway Cathedral・ゴールウェー大聖堂」に向かって「コリヴ川」に沿って歩く「Friars River Abhainn na mBráthar」と書かれていた。Abhainn na mBráthar(アウィン・ナ・ヴラーアハル) =「修道士たちの川」 - Abhainn = 川 - na mBráthar = 修道士たちの と。「Friars River」は、Corrib川から分かれる小さな流れで、かつてドミニコ会修道士(Dominican friars)が住んでいた場所の近くを流れていた。この川は、修道士たちがかつてこの地にいたことから「Friars’ River(修道士の川)」と呼ばれているのだと。 「Friars River」の清流には川藻が。この教会風の建物は?。橋「Droiched an Dóchais」の袂にあったが。The Galway City Museum(旧教会建築部分)または旧「St. Vincent de Paul Catholic Church」であろう。 橋「Droiched an Dóchais」の上から振り返って。前方に見えて来たのが「Galway Cathedral・ゴールウェー大聖堂」。手前の川が「Corrib川」。 ゴールウェー大聖堂(Galway Cathedral)は、アイルランド西部ゴールウェー市のランドマークであり、宗教的・歴史的・建築的に非常に重要な建物 と。正式名称:Cathedral of Our Lady Assumed into Heaven and St. Nicholas(聖母被昇天および聖ニコラス大聖堂)。 項目 内容・建設期間 1958年着工、1965年完成・設計者 J.J. Robinson(アイルランド人建築家)・建設地 旧ゴールウェー市刑務所(The Galway Gaol)跡地・建築様式 ローマ・ルネサンス様式+ビザンチン様式+ゴシック要素の折衷・緑青色の大ドーム:遠方からもよく見えるランドマーク的存在・石造りの重厚な壁面:アイルランド産石材を使用・二本の鐘塔(右側)と八角形のドラム型ドーム(中央)・ファサード中央の彫刻:キリストと天使の浮き彫り(聖母の被昇天を象徴)朝の陽光に照らされた「Salmon Weir Bridge・サーモン・ウィア橋」。 橋の上から「Salmon Weir・サーモン・ウィア堰/魚道」を見る。これは「可動式の堰(ウィア)」で、Corrib川の水量や流速を制御する目的で設置されている と。中央部分の一部に、サケの遡上を助ける「魚道(フィッシュパス)」が見られる と(小さく水が逆流している部分)。右岸側をズームして。更に。ネットから航空写真を。再び「旧St. Vincent de Paul Catholic Church」を振り返って。橋の上から先ほど訪ねた「Collegiate Church of St. Nicholas(聖ニコラス教会)の尖塔」が見えた。 正面にGalway Cathedralの巨大な中央ドーム。そしてファサード中央の花型ローズウィンドウ(バラ窓)。ファサード中央の花型ローズウィンドウ(バラ窓)をズームして。さらに。内部からの写真をネットから。Galway Cathedral(ゴールウェイ大聖堂)の鐘楼(ベルタワー)を西側から見上げて。Galway Cathedral(ゴールウェイ大聖堂)とSalmon Weir Bridgeの間の緑地帯(川沿い)にあったのが「Statue of Máirin de Valéra(マーリン・デ・ヴァレラの記念碑)」 近づいて。「リバー・ガール(River Girl)」や「ニンフ像」などと呼ばれることもある と。これは「Máirin de Valéra」博士(1912–1984)の記念碑の一部である と。Máirin de Valéra 博士はアイルランドの有名な植物学者であり、アイルランド大統領Éamon de Valéra の娘。アイルランド西部の自然、とくに藻類(海藻類)研究の第一人者。Galwayの自然と教育に大きく貢献した人物 と。「Equality Emerging –The PeopleThis John Behan sculpture unveiled in 2001 by Mr. Des Geraghty, General President ofSIPTU and Professor Iognáid O'Muircheartaigh, President of NUI Galway and Convenor of Líonra, was inspired by an idea of Eddie Higgins of SIPTU and Nuala Keher ofNUI Galway.It was part funded by the European Social Fund and presented throughGalway's Mayor, Councillor Donal Lyons, to the people of Galway City.“Equality Is But Difference – Respected and Celebrated”KILMAINHAM ART FOUNDRY」【平等の顕現 ― 人々このジョン・ビーハンによる彫刻作品は、2001年にSIPTU(アイルランド労働組合)会長デス・ゲラフティ氏と、NUIゴールウェイ学長でLíonra(高等教育ネットワーク)代表のイオグナイド・オ・ムルケルタ教授によって除幕されました。この作品は、SIPTUのエディ・ヒギンズ氏とNUIゴールウェイのヌーラ・キーハー氏のアイデアに触発されたものです。制作費の一部は欧州社会基金(European Social Fund)によって支援され、ゴールウェイ市長ドナル・ライオンズ市議を通じて、ゴールウェイ市民に贈られました。「平等とは違いである ― 尊重され、そして称賛されるべきもの」(鋳造:キルメイナム・アート・ファウンドリー)】 Galway Cathedral(ゴールウェイ大聖堂)の鐘楼(Bell Tower)。八角形ベースの塔屋(タレット)が四隅にあるロマネスク風デザイン。中央のアーチ内には実際の鐘(ベル)と、それを補助するように取り付けられた複数のラウドスピーカー(拡声装置)が見えた。中央ドーム(main dome)を斜めから。銅板葺き(緑青に変化)の大きなドーム。上部に金色の像(おそらく大天使ミカエルか、聖母マリアの象徴)が飾られていた。Galway Cathedral(ゴールウェイ大聖堂)の西正面(西側ファサード)を正面方向から。Galway Cathedral(ゴールウェイ大聖堂)西正面ファサードの全景を正面から。ズームして。ローズウィンドウ(Rose Window・バラ窓)石のトレーサリー(枠)で構成された花形の装飾窓。ガラス部分は控えめですが、内側にはステンドグラスが組み込まれており、内観から見ると光を受けて鮮やかに輝きます。このデザインは、「聖母マリアの象徴(薔薇)」を表していると。「聖母マリアと幼子イエス(The Virgin Mary and Child」 聖母マリアは直立した姿で、腕に幼子イエスを抱いていた。像の背景にある文字「M」と「R」は、→ Maria Regina"(マリア・レジーナ=「女王マリア」)の略と。縦に長く流れるローブ状の造形は、マリアの荘厳さと霊的象徴性を表しているのだ と。Galway Cathedral(ゴールウェイ大聖堂)の歴代司教の紋章。カトリック教会において、緑の広縁帽(galero)と両脇の房(タッセル)は階級を示す伝統的記号であるとのこと。・緑色+6段の房(左右12個) → 大司教(Archbishop)・緑色+5段の房(左右10個) → 司教(Bishop)このレリーフでは、5段の房があるため、これは通常の司教の紋章であると。教皇パウロ6世(Pope Paul VI)の紋章(在位:1963年~1978年)上部に描かれた3段構成の王冠・三重冠(ティアラ)は、伝統的なローマ教皇の象徴である「ティアラ(Tiara)」。University Roadの西側を望む。 Galway Cathedral(ゴールウェイ大聖堂)の周囲を1周することに。アイルランド・ゴールウェイにある Galway Cathedral(ゴールウェイ大聖堂) の南側から見た外観。1周して東側手前からの外観。再び東側のローズウィンドウ(バラ窓)を。振り返って。鐘楼(ベルタワー)が右手に見えた。ゴールウェイ大聖堂の方位構成まとめ:方角 内容東側 正面ファサード、ガラス扉、ローズウィンドウ、鐘楼(右手に)西側 主祭壇、後陣(apse)、聖具室や事務棟のある裏側構造南側 側廊・身廊の窓が並ぶ長辺、駐車場にも接している北側 通常は通路・河川(Corrib川)に面する遊歩道あり早朝の為、内部を見学できなかったのでネットから写真をいくつか。4箇所のローズウィンドウ(バラ窓)の絵柄(デザイン・ステンドグラス)はすべて異なるとのこと。●東側正面(入口上部) 石の花形トレーサリーあり、ガラス越しに明るく見える 外から見て目立つが、内部からのステンドグラスはシンプル (象徴モチーフ)●西側(主祭壇上部) 最も荘厳で色彩豊か キリストの栄光と復活を中心とした宗教画様式 (Patrick Pollen 作)●北側(横壁高所) 色調は寒色系中心、抽象的構成 旧約の象徴や神秘的なモチーフが多い●南側(横壁高所) 色調は暖色系、動きのある構成 新約、福音書記者の象徴 (獅子・鷲など)や聖霊の鳩など ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.08.08
閲覧総数 93
45

昨日、8月8日(金)の午後に車で45分程の場所にある「座間のひまわり畑」を訪ねてみました。相模川の川岸にある「座間大凧まつり会場」でもある駐車場に車を駐め、「座間のひまわり畑」に向けて歩く。相模川に架かる「座架依橋 (ざかえばし)」越しの大山を見る。 そしてこちらは、途中、角にあった「土地改良の碑」と「本多菊近翁之像」「土地改良の碑」には、神奈川県知事 長洲一二 と。ズームして。区画整理記念碑 座間市長 星野勝司本地域は、古くから相模第一の美田と称せられた水田と、畑地が連らなる相模川左岸耕地の北部に位置するが、水田地域に於ける用水不足や農道用排水路の不備。また狭小かつ不整形な圃場区画による農作業の非効率性解消は、関係耕作者永年の願望であった。昭和26年に国が農業基本法を制定されたのを契機に、関係者相諮り既に区画整理完了済の○○○○第一区とし主水路の改良、未整理地区〇第二区として区画整理の実施を目的に土地改良区を設立、昭和33年・・・・・・・(後略) 平成四年三月吉日 座間市新田宿土地改良区「本多菊近翁之像」。お顔をズームして。場所は県道42号線 座架依橋の下(相模川)。建立年月日:1989年5月(平成元年)。本多菊近翁之像の後ろ側に「勲五等瑞○○○○」。そして2025年の「座間ひまわりまつり」は翌日・今日8月9日(土)~8月10日(日)の3連休に開催されるのであった。まつり開催日には道路、駐車場が混むことが予想されるため、開催日前日に訪ねることにしたのであった。別の「座間ひまわりまつり」のポスター。55万本のひまわりが輝く と。そして5分ほど歩くとひまわり畑が姿を現した。無数の花が連なる畑が作る黄金の海原。「太陽を追う花」という物語性のひまわりの花。夏祭りのように一斉に同じ方向を向く統一感。花弁の縁に光が透ける透明感ある黄の輝き。仮設展望台が所々に設置されていたが、まつり開催の前日のため、階段は閉鎖され展望台に上ることは出来なかった。背伸びし、手を伸ばしカメラのシャッターを押す。携帯用の踏み台を持参するカメラマンの姿もあった。準備万端!!どこか懐かしさを感じさせる昭和の夏休みの記憶。翌日の出番を待つテント村。子どもたちの背丈を超える圧倒的な存在感。開花した瞬間のぱっと開く花火のような印象。大山を背にして。花芯の複雑な模様が持つ幾何学的な美しさ。白いベンチが準備された「PHOT SPOT」。 ひまわり畑へ誘うアーチも。こちらでは仮設駐車場の最終準備を。再び大山を背景に。田園の緑との調和が生む日本的な pastoral beauty(田園美)。ズームして。風に揺れるたびにこぼれる光のしずくのような輝き。一方では、ひまわりを見るたびに映画「ひまわり」を想いだし、戦火の「ウクライナ」に想いを寄せるのであった。ひまわりの列が未来へと歩みを進める行進のよう。 風にそよぐ音が平和のささやきに聞こえる。テント村に入り込んで。ウクライナの避難キャンプ場がふと・・・。青空と黄色の対比が生み出す国旗のような誇りの色彩。強くまっすぐ太陽を仰ぐ姿に揺るがぬ信念を感じるテント村の上には真っ白な入道雲一本一本が立ち上がる民衆のように誇らしい黄金の花畑の中に立つと、自分も一輪のひまわりになったような錯覚展望台も明日の出番を今や遅しと待つ。長く伸びる影が夏の午後の時間感覚を呼び起こして黄金の大地に降り注ぐ陽光をそのまま宿した花空に向かって開くその姿は、「負けない」という宣言のよう強くまっすぐ太陽を仰ぐ姿に揺るがぬ信念を感じるひまわりの瞳(花芯)が空の青を映しているように見えるそして県道42号線の下を潜り、次のひまわり畑へと。夏空を押し上げる黄金の太陽のような花姿青空とのコントラストが際立つ鮮やかな黄色花びらが寄り添い合って作る仲間の輪母子が花の陰で遊ぶ姿に平和な日常の尊さを思うそしてヒマワリに訪花するミツバチを追う。 ・・・つづく・・・
2025.08.09
閲覧総数 154
46

会社の先輩、そして旅友のSさんからクルミの様な中国土産をいただきました。 日本で見かけるクルミのような丸く大きなものではなく、割とラグビーボールの様な楕円形の小ぶりで、殻の表面もシワシワがなくツルツルしていたのです。インターネットで調べてみると山核桃と呼ばれ、中国・杭州地方の特産品で、西湖の周りにある土産屋で良く販売されている土産品とのこと。クルミに比べ、殻の厚さは薄いのです。 しかし、なにせ固い。 幸い皆割れ目がありこの割れ目からツメを入れて割るのですが、ツメが痛いくらいなのです。 これを炒って(?)若干味付けしてあり、中の身はカリカリで香ばしくておいしいのでした。中心に仕切りがあり4個のナッツが入っていて、バニラの香り?。食べ始まると止まらなくなるのですが、油分も多く感じられ食べ過ぎに注意なのです。Sさんご馳走様でした。毎回ユニークなお土産ありがとうございます。次ぎも楽しみにしております。
2012.04.19
閲覧総数 560
47

一昨日、ミツバチの内検を行いました。この時期の内検は長袖着用で暑さとの戦いなのですが我がミツバチ達も懸命にこの暑さと戦っているのです。NJ4群の状況です。相変わらず女王蜂が懸命に産卵を続けてくれています。ほぼ巣脾全体にわたり巣蓋で被われています。1週間後には新働き蜂が順次誕生するはずです。NJ2群も同様に元気に産卵を継続中です。こちらには王台が準備されていました。中を下から覗いてみましたが未だ産卵前のようなので人工分蜂様に残しておきました。巣箱の上面の状況です。一番元気のないNJ3群の巣箱の底の状態です。かなりの巣滓が溜まっていましたので巣底全体の清掃を行いました。そしてスムシの幼虫の発生を確認しました。巣への侵入は確認できませんでしたが、今後も状況を細かく観察し対処しなければなりません。今週末には蜂友も応援に来てくれそうですので、全巣箱の清掃を行いたいと考えている『素人養蜂家』なのです。
2010.08.17
閲覧総数 36
48

昨年12月に60才の定年を迎え、そのまま現在も『嘱託』として勤務を継続しています。給料が大幅に下がった以外は勤務時間も、勤務内容等は全く変わりません。毎月の給料が大幅に下がった為に国から『高年齢雇用継続給付金』の支給を受けています。高齢化社会が進行する中で、働く意欲と能力のある高齢者の方に対して、60歳から65歳までの雇用の継続を援助、促進するための制度なのです。高年齢雇用継続基本給付金を受け取るには、以下の条件を全て満たしていなければならないのです。1.現在の給料が、60歳になる直前6ヶ月間の、平均月額(ボーナスは含まず)の75%未満の時2.60歳以上~65歳未満の被保険者であること。すなわち60歳以上になっても、雇用保険に加入していること。3.被保険者期間(=雇用保険加入期間)が、通算して5年以上必要。そして高年齢雇用継続基本給付金の支給期間は、60歳になった月~65歳になる月まで支給されるのです。具体的な支給額は、以前の給料に比べてどのくらい下がったかによって、以下のように変わるのです。60歳になる直前、つまり定年退職直前の6カ月間の平均の給料を100として、現在の給料がA.75%以上のとき・・・給付金の支給なし。B.61%以上~75%未満のとき・・・現在の給料の15~0%が支給。C.61%未満のとき・・・現在の給料の15%が支給。1月にいただいた『高年齢雇用継続給付支給決定通知書』です。現在の給料の15%が最大支給されるような給料体型を選択しました。よって支給金額=??,???円。偶数月に2ヶ月分まとめて支給されるとのことです。給料から引かれる税金、保険類は前年度の年収に対してかかるため、給料が下がっても税金、保険類金額は前年と同様。よって1月の手取り給料は悲惨なものでした。この金額を給料の穴埋めとし、しばらくは我慢の生活なのです。
2011.02.09
閲覧総数 3411
49

【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク阿弥陀堂跡。阿弥陀堂の開創は、慶長年間(1596~1615?)か。ここに今は廃屋となった民家が一軒。この前の道が、藤沢道。陸軍歩兵伍長 落合元吉之墓と刻まれていた。敷地の一角にあるこのお堂が阿弥陀堂?。中の石仏が阿弥陀如来?首のない石仏がうち捨てられた如くに。弘法大使石仏?十一面立像?。田畑神社。別名社宮神とも。土地の人は「デンバクさま」とも呼んでいます。農業・土地の係わり合いがある神社とのこと。この辺りは旧街道(鎌倉街道・藤沢道など)地帯で古道に沿って幾つかの神社・神が宿っているところなのです。ご祭神は大比瑠女神(おおふるめのかみ)。八松稲荷神社(やまつのいなりじんじゃ)。この地は、昔は海岸砂丘で松林があり八松ヶ原(八松原)とありその名を残す貴重な神社だと。総鎮守の辻堂諏訪神社の末社でもあり正一位稲荷。ご祭神は宇賀魂命 ( うかのみたまのみこと ) 。クロマツの林の砂丘は天王山と呼ばれている。鳥居を潜り丘に登っていく。正面に辻堂天王社。「天王社(天王山)天王山は、宝珠寺の傘下にありましたが、明治六年(一八七三年)神仏分離政策によって分かれました。昭和初期まで神輿が奉られ、毎年七月ニ十五日に町中をねり歩きました。神輿は現在、諏訪神社に奉られています。祭神 御嶽山権現(オンタケヤマゴンゲン) 長崎大明神(ナガサキダイミョウジン) 大日大聖不動明王(タイニチタイショウフドウミョウオウ)平成ニ十六年ニ月【問合先 辻堂市民センター】」。中央の石碑は「八海山提(大)頭羅神王」、「御嶽山座王大権現」、「三笠山刀利天王」そして右の石碑は「笠守霊神」左の石碑は「御山開闢普寛行者」と刻まれていた。御神燈の上部が下に?。 宝珠寺(ほうしゅじ)高野山真言宗の寺院。山号は八王山。別名は北の寺。 正しくは八松山明王院宝珠寺。創建は文治年間(1185~90)と伝えられる。左手には六地蔵。 山門には「八松山」と書かれた扁額が。高野山真言宗 寶珠寺 の文字が。そして『開眼』 と。風火水地と刻まれた五輪塔。 上から空輪=宝珠形、風輪=半月形、火輪=三角形(または笠形、屋根形)、水輪=円形、地輪=方形。古代インドにおいて宇宙の構成要素・元素と考えられた 五大(空・風・火・水・地)を象徴。仏教のいう五大要素でもある。それぞれの部位に「空(キャ)、風(カ)、火(ラ)、水(バ)、地(ア)」の漢字が刻まれていた。鐘楼。 本堂。ご本尊は不動明王立像。像高96.0センチメートル、総高144.8センチメートル、平安後期作とのこと。 重要文化財指定の文字庚申塔は寛文6年の建立 隣は立派な笠塔婆の付いた青面金剛庚申塔で、元禄13年の建立です。 右手も笠塔婆型の青面金剛庚申塔で三面に猿が配置されています。中央も笠塔婆型。青面金剛庚申塔で三面に猿が配置されています。 歴史を感じさせる石仏がその横に安置されていた。 大きな常香炉越しに本堂を。 本堂の『寶珠寺』 の扁額。弘法大師像と四国八十八か所の寺の石柱が。「同行二人(どうぎょうににん)」 と刻まれた石碑が3本。四国巡礼の遍路などがその被る笠に書きつける語。弘法大師と常にともにあるという意。この日の私は『同行似仁(どうぎょうににん)』。辻堂鳶職組合の碑。 聖徳太子堂。 英霊供養塔。 不動明王座像。そして踏切を渡り左手に辻堂駅に向かって歩く。
2016.08.18
閲覧総数 673
50

シモツケコウホネ(下野河骨)の可憐な美しさを楽しんだ後は、再び宇都宮方面に戻り「大谷資料館」に向かって車を進める。「大谷資料館」は大谷石という石の元採石場の跡地を資料館にしているところ。ただ他の採石場と言えば山の表面を削っていくことが多いのですがここは地下で採石を行っており、まるで地下大神殿のようになっており、人気のスポットとなっている。「石の里 大谷」と書かれた歓迎塔。大きな無料駐車場横の大谷石の断崖。駐車場に車を駐め、大谷資料館に徒歩で向かう。ここから地下坑の入口までは150mほど離れていたが、地下坑入口前の駐車スペースは団体・身障者・高齢者向けの専用駐車場となっているため、一般の方はここに停めて、入口まで歩いて行く必要があった。正面の大谷石の垂直の壁には鋭い四角の切り込みが。機械掘りの後か?周囲の壁にも、採掘跡が多くの場所に。右手正面に「大谷資料館」の建物が。資料館手前の右手には、パワースポット・愛の泉が。滝つぼの水面にできた白い泡の部分がハート形に見えると恋が成就できるとか。ここには縁結びの神が祀られ、この神様をお参りすれば固い意志で結ばれる。すなわち固い意志とはイコール硬い石であると。最初に大谷石の性質や採石の歴史についての資料を展示するコーナーに入る。国産石材の大谷石⇔御影石⇔大理石の比較。大谷石は高級として知られている御影石や大理石よりも優れていると。ワンフロアのみの小さなスペースであるが、様々な資料が。堀削作業で使用した物の展示スペース。左側に大谷石を切断するソー式垣根採掘機や右手に巨大な円形鋸歯が。作業順序がパネルで。①みぞをツルハシでつける。②矢じめでたたき石をおこす。③矢じめで、おこした原石。その場で加工する。④両刃で規格にあうように一定の大きさにする。 マサカリで長さをそろえる。 両刃刃づるで斜線の模様をつける。手堀り時代から機械化になった現在までの道具などが展示されているのであった。坑内入口。大谷資料館 地下案内図。見学できるのはその一部である事が理解出来たのであった。そして地下への階段を下りる。流紋岩質角礫凝灰岩の巨大地下採掘場を探検開始。目の前に拡がる大空間。坑内の気温は残暑の厳しいこの日でも、ひんやりしていて寒いほど。早速、準備して来た赤いジャケットを羽織ったのであった。館内は広いのでさっと回っても30分、ゆっくり回ると1.5時間くらいかかる?。鍾乳洞の如き自然の芸術にも感動するが、人の手で掘った地下採掘場跡にはまた違った意味で圧倒されたのであった。この広大な地下坑道、第二次世界大戦中には、陸軍の地下倉庫兼戦闘機の機体工場として使用されていたと。奥の空間には赤のライトがなかなかに計算されて。中島飛行機(株)宇都宮製作所城山機体工場と、もう一つは、中島飛行機(株)武蔵製作所大谷発動機工場がこの地区に疎開工場を設置したのだと。大谷資料館は城山機体工場の金入山作業所の跡地になる場所で、工作機械・熱処理部門の工場になっていた。大谷発動機工場では、四式戦(疾風)に装着された発動機の部品生産と組立が行われたと。戦争中は大谷地下軍需工場に対する空襲は1回も無く、戦後、接収に訪れた米軍も、終戦までこの地下工場の存在は全く気付かず、その規模の大きさに驚いたと言う逸話があると。こちらには青のライトアップが。歴史的産業遺構からスタートした資料館は、地下宮殿を経てアート空間にも変化。彫刻などのアートの展覧会も不定期で開催している模様。その作品の一部が今も館内に残り、地下採掘場の雰囲気作りに一役買っているのであった。映画やプロモーションビデオのロケ地としても多くの利用が為されていると。撮影実績。入場不可の空間には様々な色の照明が。こちらはあの假屋崎省吾氏のアート。芸術的な生け花が、荘厳な空間でまるで宇宙のような壮大な作品に昇華。縦に切り跡が付いた壁。これは大谷石を切り出すときについた傷で、すべて同じ位置ではないのは、大谷石の大きさの規格があるためと。東日本大震災の後、崩落の危険があるということで、しばらく閉館していたようですが、2013年4月2日から再び開館。こちらの採掘場跡は、大谷石を得るために1986年(昭和61年)まで利用されていた。 およそ67年間も稼働していたため、21,000平方メートル、平均深さ30mの、野球場が一つ入るほどの巨大地下空間が出来たのだと。様々なライトアップやイルミネーションが。大谷地区では昭和35年に採掘が完全に機械化されたと。手掘り時代は、石の切り出しから仕上げまで10本/日・人であったと。機械化後は50本/日・人になったと。壁には手掘りの横縞が一面に。通常洞窟内はカビなどの匂いがすることが多いのだが、坑内は清々しい空気で。それは大谷石に含まれる様々なミネラルやゼオライト成分が含まれていることが関係しているのだと。ゼオライトはマイナスイオンや遠赤外線を放出、空気の清浄化をするとともに鮮度を保ち、食品をおいしく仕上げると。現在、この採掘場の3分の1は一般公開しているが、そのほかに野菜、果物、ワイン、日本酒の貯蔵庫としても機能しているのだと。こちらは縦縞が。ここはステージとして利用か?青とオレンジの空間世界。正面の縦縞が青くライトアップされて神秘的な姿に。まるで地下宮殿の如し。奥には地上への穴が開いており、光が差し込んでいた。ここも切り出した大谷石や機械の搬入口であったのだろうか。MHDモエ・ヘネシー・ディアジオがシャンパンのドン・ペリニヨンの新商品のお披露目イベントを以前に開催したと。この日の坑内気温は14℃。壁には赤い花びらの如き照明も。採掘場内はライトアップやイルミネーションが様々に工夫されていた。「石の華」。この日は消滅?PVやライブ撮影に使われた写真の展示コーナーも。石切工夫の姿も。水の貯まっている場所も。この場所にも。案内板がなければ、確実に迷子になる空間なのであった。そして見学を終え外に出て、再び「愛の泉」の落水場所をズームで。この場所の近くにある大谷寺の高さ27mの平和観音像の案内板。 ・・・つづく・・・
2018.08.27
閲覧総数 720