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『旧東海道を歩く』ブログ 目次上方見附の先の横断歩道橋の右手の道を入って進んでいく。前方に高麗山とその頂上にある湘南平展望レストラン・Flat(ふらっと)の建物の一部とその右に平塚テレビ中継局の紅白の鉄塔が見えた。カラフルな『大磯 おすいマンホール蓋」をカメラに。美しい大磯の海岸風景に、町の花サザンカと町の木クロマツ、町の鳥カモメのカラーデザイン。 「大磯」と「おすい」の文字も。『大磯町全図』「鴫立庵」、「旧島崎藤村邸」が紹介されていた。『島崎藤村邸』を目指して線路沿いの小道を大磯駅方面に案内に従って進む。そしてこの不動産屋の角で右折。正面に「藤村邸」の看板が。手前には公園らしき姿が。東屋風の建物の下にはベンチも。『旧島崎藤村住宅 静の草屋』大磯町指定有形文化財。島崎藤村が満71歳で亡くなった家。昭和18年8月静子夫人が 「東方の門」 を朗読中に倒れ、翌日 「涼しい風だね」 という言葉を残して永眠したと。三間の平屋 建ての民家で外壁には杉の皮、簡素ではあるものの凝った造りの建物。小さい素朴な冠木門と割竹垣に囲まれた小庭。『島崎藤村邸』説明板。落ち着いた和室。引き戸には現在は希少な大正ガラスが使われていると。四畳半、左手に床の間もある小部屋。様々な展示品も。塗り残しの窓(下地窓)から書斎を覗く。そして藤村邸を慌ただしく後にし、線路沿い間で戻り右折し大磯駅方面に再び進む。正面に小さな橋が。『ふじみはし(富士見橋)』旧東海道に戻ると神奈中『統監道(とうかんみち)』と書かれたバス停が。調べてみると、東海道大磯駅から滄浪閣へ向かう途中の道が「統監道」であると。そしてこの道は伊藤博文ゆかりの道であると。明治38年に締結された第二次日韓協約に基づき、日本は韓国の外交権を掌握、韓国は日本の保護国となり、漢城(現・ソウル)に統監府が設置され、伊藤博文は初代『統監』に就任した。伊藤が大磯駅と滄浪閣の往来にこの道を通ったことから「統監道」と呼ばれるようになったのだと。つまり、旧島崎藤村邸まで往復した道が「統監道」であったのだ。この付近は杉並木の大きな小高い中央分離帯が続いていた。歩道橋まで戻り道路の反対側を進むと左手にあったのが『大隈邸・陸奥邸』の入口。入場には入園券が必要であるとのことで、更に進む。四石垣沿いの歩道を進む。この道は『関東ふれあいの道』。更に滄浪閣前交差点まで進み、道を横断。そこにあったのが『宇賀神社』。旧東海道沿いにあった石灯籠の扁額は石製で「宇賀」の文字が。その先に比較的小さい朱そして素地の鳥居が並ぶ。沢山の奉納鳥居を潜って行くと『宇賀神社拝殿』があり、手前に狛狐、石灯籠などがあった。創建は養老元年(717)以前と言われる古い神社で祭神は大食津姫命。相模国府祭にやってくる神輿は宇賀神社の前を遠ざけて通ったという記録があると。この日は「明治記念大磯邸園 ・明治150年記念公開」で「庭園観覧」は屋外の公開エリアにつき会期中は自由に観覧可能とのことで無料入園券を頂いたのであった。受付場所に行ってみると、そこは旧伊藤博文邸の「滄浪閣」と呼ばれている敷地内の入口付近で行われており、この受付にて旧邸園内の見学には2種類あることを知ったのであった。その1つは事前予約している場合で、この場合は旧大隈重信邸と旧陸奥宗光邸の建物内と庭園、そして旧伊藤博文邸(滄浪閣)の外観をガイドツアー付きで見学できるケース。もう1つは今回の私のような当日受付の場合で、このような人の場合は旧大隈重信邸と旧陸奥宗光邸の外観と庭園のみのフリー見学であった。そこで、事前予約の状況を聞いてみると、もうすでに公開期間中の予約は満杯になっており、現在はキャンセル待ちでの予約のみを受け付けているとのことであった。当日受付の無料入園券をいただき散策開始。正面に陸奥宗光、伊藤博文、大隈重信邸、西園寺公房の写真パネルが並んでいた。仮設ハウスでできた展示上に入る。会場内には、馴染みの偉人達の活躍内容が細かく紹介されていた。・明治政界の奥座敷 大磯「大磯町は明治時代から避暑地・避寒地として知られ、8人の首相が邸宅や別荘を構えた。伊藤博文、山県有朋、大隈重信、西園寺公望、寺内正毅、原敬、加藤高明、吉田茂。伊藤邸(滄浪閣)、大隈邸、西園寺邸などは現存しているが、一般には公開されていない。そのほか政財界の大物が次々と邸宅を構え、大磯は「明治政界の奥座敷」とも呼ばれた。」・明治政財界の要人集う「初代・陸軍軍医総監の松本順により、明治18(1885)年に海水浴場が開設され、2年後には、東海道線が開通、大磯駅が開業しました。東京方面から多くの名士が訪れ、旅館も多くでき、また別荘や邸宅を構える人も多く、避暑地として大いに賑わいました。湘南発祥の地「大磯」は、明治期の避暑地として栄えた別荘文化の佇まいが残る、まさに『湘南の奥座敷』です。初代・内閣総理大臣である伊藤博文をはじめ、歴代総理大臣8人(伊藤博文、大隈重信、加藤高明、西園寺公望、寺内正毅、原敬、山縣有朋、吉田茂)をはじめ、が邸宅を構えるなど、多くの政財界の重鎮がこぞって居を構えました。吉田茂は、養父・吉田健三が購入した邸宅で幼少期より過ごし、首相在任中には週末を、退任後には隠棲しました。退任後も政治への影響力は絶大で、多くの政治家が吉田のもとに通い、「大磯詣」と称されたほどです。」・明治三十一年 滄浪閣前庭にて1890年(明治23年)頃、伊藤が小田原の滄浪閣へ行く途中、大磯に立ち寄り、その白砂松林の大磯が気に入り、梅子夫人の病気療養のためにも、この地に別荘を建築することに決めた。別荘が完成すると、小田原の滄浪閣を引き払い、大磯の別荘の方を「滄浪閣」と名づけた。1897年(明治30年)10月1日、伊藤は本籍を東京から大磯町に移したため、滄浪閣は伊藤の別荘ではなく本邸となった。・伊藤博文・大隈重信・大磯に集った政界人・財界人 明治時代の奥座敷・大磯町人物相関図。・立憲政治の確立。・明治22年(1889) 明治憲法 制定。会場のプレゼン内容は、大変よくわかりやすくまとめられていたのであったが時間がなくて残念であった。 ・・・その1・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.31
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日(2018年12月1日)は旧東海道の大磯~国府津駅の旧東海道を歩く。この日の旧東海道(下図赤線)は、ひたすら相模湾に沿った約12Kmの道。 この区間はいつもの旅友は既に完歩とのことで、この日は一人での旧東海道歩き。大磯駅に9時過ぎに到着し歩きを開始。この日も好天。前回訪ねた大磯迎賓館。前回と同様にいつも車が一台のみ駐車中。何か意味があるのか?そして前回中途半端に訪ねた『地福寺』を再訪。大磯駅から10分程のところにある寺。『山門』。『真言宗 地福寺』。地福寺は、船着山地福寺と称し東寺真言宗の古刹(意~古い寺~読みはこさつ)。承和3年(837)空海の弟子、果燐の創建と。町指定・有形文化財の木造弘法大師坐像が本尊で胎内に墨書銘が有り、天文11年(1542)佛師但馬作とあります。右手に五鈷杵、左手に念仏を執って坐す通形の弘法大師像。寄木造で玉眼を嵌入し、彩色仕上げの小ぶりな像。作者・造立年のわかる室町時代の弘法大師像として貴重な作例であると。他に永禄2年(1589)と天正17年(1542)の文書2通があり、小田原北条氏から特別な保護を受けた資料で、共に大磯町指定の文化財。山門を入ると参道の両脇には多くの梅の古木が。御本尊の木造弘法大師坐像。樹齢100年~200年の梅の古木約20本に囲まれて地福寺は建てられていた。毎年2月上旬頃より梅の花が境内一面咲き誇り、大磯町内一の観梅の名所であると。そしてその奥には文豪島崎藤村夫妻が眠っているのであった。藤村の読経・埋葬式は昭和 18年8月26日に地福寺にて催され、安田靱彦氏や有島生馬氏等多数の参列者に見送られた。有島氏が『夜明け前』の一編を朗読、静子夫人が安田画伯の庭に咲いた只一輪の白の芙蓉の花を捧げたと。棺には愛用していた筆や紙、タバコやパイプを、埋葬時には執筆中の『東方の門』を掲載した刷り上りの雑誌が投げ入れられたと当時の神奈川新聞は伝えたと。『島崎藤村墓』と刻まれた墓碑。墓標の裏面には次のように記載されていた。「明治五年二月十七日木曽馬籠ニ生レ 昭和十八年八月二十二日大磯ニ歿ス」と。そして亡くなられた当時は、土葬であり、7回忌に現在のお墓に改葬された。設計は、谷口吉郎(東宮御所・明治村・東京国立博物館等)で、3大墓所の一つで、山口県の森鴎外・鎌倉の吉江信子と、こちらのお墓とのこと。そして詩集『若菜集』や小説『破戒』などの名作を残した近代文学を代表する作家で、晩年を大磯町で暮らした島崎藤村を偲ぶ「藤村忌」が、毎年命日の8月22日にこの地福寺で行われるのだと。島崎藤村はなぜ大磯に終の棲家を求めたのか(☚リンク)について、調べてみたらこんなページがあったので紹介します。隣にあるのは奥様・島崎静子の墓。裏には「明治二十九年十一月八日生レ 昭和四十八年四月二十九日没」と。梅の古木に囲まれた島崎藤村夫妻の墓が仲良く並ぶ。梅の咲いている時期に再び訪ねたいと。そして山門近くには小島家(大磯宿本陣)の墓が。三界萬霊にお地蔵さま慶長6年(1601年)になって東海道五十三次の宿場として大磯宿が3つの本陣がある宿場町となるが、江戸時代に亘ってあった小島本陣と尾上本陣の間に地福寺参道が位置している。そして小島本陣を営んでいた小島家の墓がここ地福寺境内の山門裏手に。満開の梅の姿を想いうかべながら本堂を振り返る。本堂の屋根の下には小鐘が二つ。右側の鐘は仏堂や仏塔の軒の四隅などにつるす青銅製の鐘形の鈴。宝鐸と呼ぶとも。強い風が吹くとカランカランと鈍い音がすると。昔、強い風は流行病や悪い神をも運んでくると考えられていたことから、邪気除けの意味でつけられており、この音が聞こえる範囲は聖域であるので災いが起こらないのだと。本堂の脇は石垣で囲まれていた。蔵。寺務所。そして地福寺を後にし、旧東海道に向かうと地福寺の案内柱が。そして旧東海道に面する中南信用金庫の入口シャッターには「東海道五拾三次之内 大磯」が描かれていた。前回も撮影した?「日本橋まで68Km」。いや、前回は道路の反対側の「日本橋から68Km」。同じく左手に「新島譲終焉の地」が。これも前回訪ねた「鴫立庵」の前を通過し、街道右手にある『大乗山 妙昌寺』に立ち寄る。『山門』。『鬼子母尊堂』前の石仏。『鬼子母尊堂』。「南無日蓮大菩薩」「南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑群が。『山崎浩道上人荒行成満記念』碑。『本堂』。文安元年(1444年)大乗院日征を開山に創建。 以降、応仁2年(1468年)、天明2年(1782年)明治31年(1898年)と3度にわたり火災で焼失。明治38年(1905年)中郡成瀬村高森(現在の伊勢原市)の寺から本堂を購入、明治41年(1908年)移築が完了した。現在の本堂は昭和54年(1979年)山門とともに再建しされたものである。妙昌寺は室町時代の後花園天皇・文安元年(1444)に大乗院日征上人が創立した古刹で、山号を大乗山という。本堂前の『慈圓観音』像。墓地。「大乗山」の文字が。境内社の『富士見稲荷』。旧東海道に戻って進むと「太平洋岸自転車道」と書かれた標識が。太平洋岸自転車道は、太平洋沿岸に整備されている自転車道群である。千葉県銚子市から和歌山県加太海岸まで、全長1200キロメートルにもおよぶ太平洋岸沿いの大規模なサイクリングロードであるが、まだ完成するまでには至っていないと。道路横の小さな丘に出会う。ここが『大磯宿 上方見付』。大磯中学校前交差点の手前左手に上方見附跡があった。「見附とは本来城下に入る見張りの門のことであるが、江戸時代の宿場の出入り口にも見附を置き宿場を守る防御施設として造られた。街道を挟んで両側に台形状に石垣をもって造られ、高さは1.6米程でその上に竹矢来が組まれていた。宿場の京都側にあるものを上方見附、江戸側にあるものを江戸見附と呼んでいる。この「上方見附」は東小磯村加宿のはずれにあり、現在の「統監道」バス停の付近にあった。そのには宿場の出入り口である標示の御料傍示杭が立っていた。この見附は平和な江戸時代に防御施設としての役目はなくなり、旅人に宿場の出入口を示す役目をはたすようになった。」そして旧東海道松並木は始まる。『島崎藤村邸』案内柱を見つけ旧東海道を離れ、上方見附の先の横断歩道橋の右手の道を入って、東海道線路方面に向かう。 ・・・旧東海道を歩く(藤沢~大磯)・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.30
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次大磯駅への帰路の途中にある『地福寺』は次回の最初に訪ねる事とし、近くにある『大運寺』を訪ねる。大運寺は、浄土宗の寺で衆議院議長を務めた中島信行、その妻俊子、および安田靫彦画伯の眠る寺であるとのこと。また、本尊の木造阿弥陀如来坐像は町指定文化財。『本堂』。増上寺の末寺で秀誉上人が元和年間(1615-1624)に開山。本尊阿弥陀如来坐像は首が近江国の良弁、胴体が下野国の恵心によって平安末期に作られ元禄2年(1689)に合わされたもの。扁額には群生山大運寺の「群生山」と書かれていた。『法然上人御尊像』。本尊の木造阿弥陀如来坐像。大運寺からの大磯迎賓館のレストラン。境内に置かれている瓦は かつての本堂に使われていたものか?『十三重石塔』。『大磯町立大磯図書館』そして坂を上っていくと『大磯迎賓館』の姿が。『Oiso Beach 日本最初の大磯海水浴場へまたどうぞ』の看板が。『旧木下家別邸』は現在は『大磯迎賓館』となりレストランになっていると。「旧木下家別邸」は住民から「三角屋敷」と呼ばれ親しまれてきた、大正モダンの建物。当時流行していた、ツーバイフォー工法で、輸入材ではなく国産材でつくられた住宅としては、国内最古のものと考えられています。この洋館の建物の特徴として、屋根は切妻造ストレート葺で、左右の屋根上に大きなドーマー窓を開けたシンメトリックな形状と、外壁は南京下見板張、各部屋には採光性に優れたベイウウィンド(出窓)を設置し、正面中央の玄関ポーチの上に2階バルコニーを乗せたデザインの外観が、往年の別荘時代を彷彿とさせます。こうした、歴史的・景観上重要な資産を後世に継承すべく、平成24年に「国登録有形文化財」に登録され、景観法による「景観重要建造物」にしていされました。車がチョット邪魔。1912年(大正元年)、貿易商の別荘として建築されたこの建物は、久しく「三角屋敷」と呼ばれ親しまれてきました。その美しさはさることながら、日本の木材で建てられた「国内最古のツーバイフォー住宅」として歴史的価値が高く、平成24年2月23日には国登録有形文化財に登録。ニコライ堂をはじめ当時のヨーロッパ建築に見られるスタイル。The 1st 2✖4(ツーバイフォー)house in Japan の文字が切り抜かれていた。レストラン案内。そして次に『澤田美喜記念館』を訪ねる。菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫として生まれ、令嬢として育った澤田美喜は、熱心なクリスチャンで、外交官夫人としての体験なども手伝い、戦後の混乱の中でアメリカ占領軍兵士との間に生まれた混血児の救済と養育のためにエリザベスサンダースホームを設立した。澤田美喜記念館はそんな澤田美喜の生前の遺志を引継ぎ建設された。建物はノアの方舟をイメージした長六角形の船型で、2階は聖ステパノ礼拝堂、1階はコレクション展示室となっています。澤田美喜が戦前戦後四十年にわたって収集した、江戸時代の隠れキリシタンの遺品や関連する品々851点が展示されていた。記念館に向かって細い坂を上る。入館は15:30までとのこと。澤田美喜さんのレリーフ。入口に至るアプローチにある鐘、その先に澤田美喜記念館。木彫り能勢妙見大士像。石のマリヤ地蔵。そして大磯駅前に。大磯駅前の土産物屋。大磯駅前のロータリー内にある『友好の樹』と『海内第一避暑地』と刻まれた石碑。湘南発祥の地 大磯『著盡湘南 清絶地』。駅前の町制施行100周年を記念して建てられたモニュメント「大樹」。線路の向こうの山の斜面の立派な建物。駅前の土産物屋を覗く。再び大磯駅。2015年(平成27年)7月1日 に 直営駅から平塚駅管理の業務委託駅となっていると。株式会社JR東日本ステーションサービスが駅業務を請け負っているようである。駅構内には『東海道五拾三次之内 大磯』。酒匂川東岸から小田原の街を眺めた構図となっていると。大磯駅ホーム。時間は15:55.そしてJR、小田急線を乗り継いで地元駅に到着。駅からの夕焼けを楽しむ。そして鮮やかな夕日が。時間は16:30。そしてこの夜は大磯の老舗・井上蒲鉾店で購入して来た「さつまあげ」を楽しむ。グチとタラの身を石臼で練り人参を加え植物油で揚げて柔らかい食感に仕上げていると。とても甘味があるのに上品な味わい。昔からの職人の手作業を創業時のまま継承し、極上の歯ざわりを楽しみながらビールが進むのであった。 ・・・その9・・・に戻る ・・・旧東海道を歩く(藤沢~大磯) 完・・・ ・・・つづく 旧東海道を歩く(大磯~国府津)・・・
2019.01.29
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次大磯・鴫立沢の交差点手前にあった『鴫立庵(しぎたつあん)』を訪ねる。鴫立庵は、寛文4(1664)年、崇雪という人物が西行をしのび草庵を結んだのが始まりとされる。その約30年後、俳諧人・大淀三千風が庵を再興。庵主としてこの地に住み、それから300年以上に渡り、代々の庵主がこの庵を守ってきた。現在の建物は昭和61年に町が再建したもの。三世庵主 白井鳥酔追善句碑。『旧跡 鴫立澤』。ここ『鴫立庵』は西行法師の歌【心なき 身にもあはれは しられけり しぎたつ沢の 秋の夕暮】で名高い「鴫立沢」に立つ俳諧道場で、日本三大俳諧道場の一つ。『石橋』を渡る。『鴫立沢』鴫立沢の中流は国道1号線(写真後方)の下を流れて、さらに鴫立庵入口の橋の下を流れ下って、相模湾へそそぐのだ。鴫立庵入口門。300円のチケットを購入して庵の内部に。西行法師生誕900年記念特別展「西 行 ―紀州に生まれ、紀州をめぐる―」が和歌山県立博物館で行われていると。 鴫立庵の『庵室(東住舎)』の前を入口門から。現在では、京都の落柿舎、滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つといわれている。『庵室(東住舎)』正門を入って右側にあるのが鴫立庵室(東往舎)で、大淀三千風が入庵した時の庵を伝えるものである。隣の少し高い場所の増築した部分は、大淀三千風の入庵70年後に三世・鳥酔が建てたと。その十畳間には、東流書の扁額「俳諧道場」がかかり、鴫立庵の正庵であることを示している。『鴫立庵』は大磯町指定有形文化財。『鴫立沢』は大磯町指定史跡名称天然記念物。「現在、鴫立庵内には鴫立庵室、俳諧道場、円位堂、法虎堂、観音堂があります。庵室については、大淀三千風(1700~1750)が建てたもの、俳諧道場については三世庵主鳥酔が明和2年(1765)に増築したものと伝えられていましたが、調査の結果鴫立庵の基本部分は江戸時代のもので、他の建物は江戸時代以降に建てられたものと考えられます。鴫立沢には西行法師が鴫立沢を詠んだ地という言い伝えが室町時代よりありました。寛文四年(1664)、 崇雪がこの地に草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建て、その標石に『著盡湘南清絶地』と刻んだことから、『湘南』の名称発祥の地として注目されています。」正面に見えたのが『円位堂』。敷地内には、86基にも及ぶ句碑・可碑・墓碑等が点在していると。『法虎堂』。円位堂の向かって左に、鴫立沢を背にして法虎堂が建っていた。堂の内には有髪僧体の、虎御前が十七歳の時の姿を写した木像が安置されていえ¥ると。三千風在庵の頃に、堂も木像も江戸新吉原から寄進せられたと伝えられています。元禄時代のそのままの遺物です。堂内の木像は虎御前、十七歳の姿と。『鴫立澤碑(西行五百年記念碑)』『西行上人歌碑』(左)。「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」『西行銀猫(ぎんみょう)碑』 正面上部に竜、下部に亀が浮き彫りにされている碑。造立年は元禄十三年(1700)だと。円位堂の左側にある円筒形の句碑で、芭蕉の四時遺章が残されている。“みのむしの音を聞に来よ草の庵” “日のみちや葵かたふく皐月雨”“はこねこす 人もあるらしけさの雪” “春たってまた九日の野山哉”下段には芭蕉の弟子やゆかりの人の26句が刻まれている。『円位堂(西行堂)』を近くから再び。屋根は厚く茅葺で覆われていた。三千風の建てた元禄時代の風格を残す建物で、堂内には等身大の西行法師の坐像が安置されている。痩身、眼光爛々として歌道に精進した姿を写し出している。文覚上人鉈作りの西行51歳の像で、三千風が京都から背負ってきたと伝えられている。西行法師の等身大座像。『清虚洞一絃琴碑(せいきょどういちげんきん)』。一枚の桐の板にたった一本の絹の糸。一絃琴はその名の通り、一本絃の琴です。平安時代 日本後期巻八に崑崙人が三河の国に漂着し、一絃琴を携えていたと。『天條とし子歌碑』。『第二十一世庵主 草間時彦句碑』。「大磯に 一庵のあり 西行忌 」『第五世庵主 加舎白雄句碑』。『吹つくし 後は草根に 秋のかぜ』在庵8年。『小野隋鷗顕彰碑』『第二十世庵主 村山故郷句碑』。「花の下は 花の風吹き 西行忌」『佐々木信綱歌碑』。「こゝろ今もいこひいまさむ波のおと松風きよきこの海そひに」信綱は大磯に在住し、大磯百首を詠んでいる。昭和37年、鴫立庵第十八世庵主鈴木芳女の退隠記念に多数の有志により、この歌碑が建てられた。 『第四世庵主 杉坂百明句碑』。『経塚供養塔』。ここにも『第四世庵主 杉坂百明句碑』。「西東 鳴へき夜也 ほととぎす」『第三世庵首 白井鳥醉句碑』「鴫立澤一世 鳥醉翁」「大嶌や 波によせたる 雪の船」『第十世庵主 島田立宇 句碑』『第一世庵主 大淀三千風墓碑』崇雪が最初に草庵を結んで30年程後、元禄8年(1695)に紀行家、俳諧師の大淀三千風が庵を再興した。三千風は伊勢の三井家の出で、寛永16年(1639)に生まれている。伊賀上野の松尾芭蕉とは生家も近く年齢も同年代(三千風は5歳年長)で同じ俳諧師である。元禄10年(1697)には謡曲『鴫立沢』や『虎御前縁起』などを発表して鴫立庵を俳諧道場として広く世に紹介した第一世庵主である。その後俳諧道場は、三世:鳥酔(ちょうすい)、五世:白雄(しらお)、八世:葛三(かつさん)など有名な俳諧師が跡を継ぎ、今日二十二世庵主として鍵和田釉子氏が平成14年に就任されていると。『佳梅尼墓碑』。『辛巳生老人碑』。『松本順墓碑』。茶室前にある。松本順は初代陸軍軍医総監で日本最初の海水浴場を大磯に開いた人である。順は先に亡くなった長男、夫人、次男の三人の冥福を祈るため球形の墓碑を建てた。墓碑表面には「守」の字が刻まれている。これは三人をしっかりと守るとの意味から、家族合葬の碑であるという。その後順もここに葬られたが、全員の遺骨は昭和27年妙大寺に改葬された。 『第八世庵主 倉田葛三墓碑』、『第九世庵主 遠藤雉啄墓碑』『第七世庵主 三浦柴居墓碑』、『第六世庵主 西奴墓碑』。釈迦・阿弥陀・大日・阿しゅく・宝勝(宝生)の五仏からなる『五智如来像』小田原の祟雪と云う人が五智如来をここに運び、西行寺を建てるのが目的だったと。『第十四世庵主 二宮松汀墓碑』(右)、『第十五世庵主 原昔人墓碑』(左)左から『第十三世庵主 間宮宇山墓碑』、『宇山碑』、『間宮宇山句碑』、『第十二世庵主 菅喜田松頂墓碑』。 『第十八世庵主 鈴木芳如句碑』。多くの石塔が所狭しと。藁ぶき屋根の『俳諧道場』縁側には記帳用ノートが。床の間。そして再び『庵室(東住舎)』の部屋。受付の部屋の展示物。中庭に展示されていたのは第十五世庵主 原昔人の作のオブジェ『蛙鳴蝉噪(あめいせんそう)の蛙』。再び鴫立庵の前庭を。 ・・・その8・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.28
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次化粧坂(けわいざか)はちょうど真ん中辺りで東海道本線にその道を分断されて道路幅が狭くなり半分は地下通路に利用されていた。ここで上ってきた化粧坂の交通量が少ない理由を理解したのであった。「化粧」を「けしょう」と読むとそれは現在の意味の通りに「白粉でお化粧」の意味であるが、古くは「けわい」とも読み、その場合は「身だしなみを整える」と言う意味に使われたのだと。その意味からは「都市」=「はれの場」に入る境で「身だしなみを整える」と言う意味で「けわい(化粧)坂」、つまりは「大磯」への境界入口である坂との意味と考えるのが自然であると。東海道線の地下通路を潜り海側に向かう。そして海側の旧東海道を大磯駅方面に向かう。地下通路を抜けると景色はガラッと変わった。ものすごく大きな松の木が倒れ掛かるようにして道の上を覆っていた。その松の木の根元に有ったのは、大磯宿の江戸見附跡。『此の辺 大磯宿の史跡 江戸見附』と書かれていた。「宿場の出入り口につくられた構造物で、本来は簡易な防御施設として設置されたと考えられている。また、宿場の範囲を示しており、 宿場の京側にあるものを上方見附、江戸側にあるものを上方見附と呼んでいた。なお、宿境には傍示杭と呼ばれる木製の標柱が建てられていた。」江戸時代の大磯宿はここから始まったのだ。国道1号線に合流。これよりしばし旧東海道の国道1号線を歩く。三沢川に架かる三沢橋の交差点を渡る。左手に『神明神社』。『神明神社 御由緒』大磯町大磯に鎮座する神明神社は「法光院(廃寺)持ちで、古来紅葉山の神明台(現在の北の方)に祀られていたが、江戸時代中期享保年間(1711年〜1736年)に神明台から神明森(ふれあい会館付近)に一時遷座され、更に現在地に遷座された。神明町の地名発祥となり、神明町の氏神として信仰が厚い。」と縁起にあるが、創建年は記載されてはいない。御祭神は天照大神である。更に進むと『秋葉神社』が。大磯町に鎮座する秋葉神社は火伏せの神を祭る神社である。縁起では、宝暦12年(1762年)1月19日に大磯宿に大火があり宿場の殆どを焼失したため町役が願主となり遠州秋葉山より秋葉大権現を勧請し、同年大運寺境内に秋葉社を建立し、宿場の安全を祈願したとされる。大磯宿の中心部に鎮座してはいるが小さな神社である。国道1号線(旧東海道)に面しているのに国道1号線の信号には「秋葉神社入口」と表記されており、しかも旧字(「穐葉」)表示であった。旧東海道に面した秋葉神社の脇の路地を左に入ると正面に『延台寺』が。『虎御石(とらごいし)』説明板。「曽我十郎の剣難を救った身代り石。また虎御前の成長につれて大きくなったと言われる生石である。江戸時代の東海道名所記に「虎が石とて丸き石あり、よき男のあぐればあがり、あしき男の持つにはあがらずという色好みの石なり・・・」とある。この場所におかれていた。」山門を潜る。『歌碑』。『虎御石(とらごいし)』石碑。「安元元年(1175年)大磯の山下長者に一人の娘が生まれた。長者は四十才を過ぎても子宝に恵まれず、虎池弁財天に願をかけて授かったので、虎と名づけた。この時弁財天のお告げの印として小さな石が枕元にあり、長者は邸内にお堂を建て虎御石と名づけて大切におまつりしていた。不思議なことにこの石は虎女の成長とともに大きくなっていった。虎女も舞の名手として広く天下に知られる程に成長し、いつしか曽我兄弟の兄の十郎と恋仲となった。十郎が虎女の家で敵方の刺客におそわれた時、この石のおかげで命が助かったので、一名身替りの石ともいう。兄弟は富士の裾野で父の仇、工藤祐経を討ち本懐をとげて死んだ。虎女は兄弟の最後の地をたずね「露とのみ消えにしあとを来て見れば尾花がすえに秋風ぞ吹く」とよんで庵をむすんで兄弟の菩提をとむらったのが当山である。」虎御石を見学するには予約が必要とのことであった・・・。虎御石が安置されている法虎庵曽我堂。これが『虎御石』。周囲86センチメートル、重さ130キログラム。虎御石まつりに毎年ご開帳、大願成就等ご利益があると。十郎を守った虎女の愛の証、矢きずが確認できると。 【http://www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/look/jisya/endaiji.html】より『本堂』『延臺寺』と書かれた扁額。『延台寺・開基 川崎次郎右衛門の墓』『虎女供養塔』。『虎池弁財天御神石』。『大磯宿遊女の墓』☚リンク。日蓮宗『妙輪寺』。そば処「古伊勢屋」。『大磯宿本陣跡』の説明板が立っていた。『大磯宿 小島本陣旧跡』大磯宿の代表的本陣で、明治元年の明治天皇の東幸にあたり御宿泊所になった。『小島本陣と大磯宿』の説明看板。宿場で参勤交代の大小名や公用の幕府役人、勅使、公家、宮門跡などが旅の宿泊に用いる 大旅館を本陣という。本来本陣とは、軍陣における総大将のいる本営であるが、大名旅行も軍陣に見立てて 此の名称が用いられた。享和3年(1803)大磯宿には小嶋、尾上、石井の三箇所に本陣があり、その建坪は 夫々246,238,235坪であった。本陣の建物は平屋造りで多くの座敷、板の間、土間などがあり、奥には大名の寝所となる 床の間との違い棚のある書院造りの御上段の間があり、その前には庭園がある。大名と側近は 本陣に泊まるが、その他の者は宿内の旅籠に泊まる。大行列の場合は隣の宿まで使用しなければ ならなかった。尾上本陣は小嶋本陣の西隣に置かれていた。石井本陣は東海道に面した尾上本陣の筋向いの 現在の大内館(旅館)の場所にあった。これ等の本陣は天保7年(1836)の大磯の大火で焼失した。再建されたが建坪は縮小している。 後慶応元年(1865)の書状によれば、ほぼ享和の姿に戻ったとあり、本陣の経営の 並々ならぬ努力が偲ばれる。」『大磯宿 尾上本陣跡』、『大磯小学校発祥之地』。現在の大磯小学校は別の場所にありますが、もとは尾上本陣に開いた私塾が、明治時代に小学校となったと。振り返って。和菓子店「杵新」。大磯名物の西行饅頭と虎子饅頭を売っていました。日本橋から68Kmは我が年齢と同じ。はるばると来たものであったがこれから先は??『大磯照ヶ崎海水浴場』入口碑。大磯に別荘を構えた海軍・陸軍軍人、政治家である 樺山資紀氏の筆によります。『海水浴場発祥の地』「海水浴は医療として始まりました。海水浴の効用を蘭書で知った元軍医総監松本順が大磯に宿泊した折に大磯海岸を訪れ、海水浴場の条件に合致することを確認しました。漁の邪魔になるという漁師を説得し、 1885年(明治18年)に大磯海水浴場は誕生しました。1886年東海道線の横浜-国府津間の延長が決まってから、松本は伊藤博文に海水浴と国民の健康を力し、大磯に停車場を設置するよう働きかけ、また旅館と病院を兼ね備えて「祷龍館」を建設し、建設資金の不足は会員を募り、渋沢栄一や安田善次郎らの東京・横浜の名士が名を連ねました。京浜からの名士の来訪により海水浴場は繁栄し、医療行為から娯楽へ転じますます発展していきました」茶屋町の「新島襄終焉の地記念碑」脇に、案内版が立っていたのが。 『此辺大磯宿の史跡 南組問屋場』「南組問屋場は幕府からの書状の継ぎ立てや、参勤交代の大名行列の際には周辺の助郷村々から動員された人足や馬の差配を取り仕切る場所であり、宿場にとってたいへん重要な施設であった。磯宿には南組と北組の二箇所に問屋場がおかれていた」『新島譲終焉の地碑』と刻まれた石碑。昔はこの石碑のみであったのだろうか?『新島襄終焉の地記念碑』。『新島襄先生終焉之地』石碑。「明治の先覚的教育者新島襄は、一八四三年二月一二日(天保一四年一月一四日)江戸神田の安中藩邸内 で、藩士新島民治の長男として生まれた。その当時は、近代日本の黎明期に当たり、新島襄は憂国の至情抑えがたく、欧米先進国の新知識を求めて一八六四年(元治元年)函館から脱国して米国に渡り、苦学一〇年キリスト教主義教育による人民教化の大事業に献身する決意を抱いて一八七四年(明治七年)帰国、多くの困難を克服して、 一八七五年(明治八年)十一月二九日京都に同志社英学校を設立した。その後宿願であった同志社大学設立を企図して東奔西走中病にかかり、一八九〇年(明治二三年) 一月二三日療養先のここ大磯の地 百足家旅館で志半ばにして四七歳の生涯を閉じた。」 さざれ石交差点。左に『大磯 井上蒲鉾店』。明治11年(1878年)創業の老舗蒲鉾店。「かまぼこ、はんぺん、さつまあげ」と書かれた大きなのれんの通り、商品は3種類のみ。お土産にさつま揚げを購入。更に進むと左側には『湘南発祥の地 大磯』と刻まれた石碑が。現在でもインターネット上で激論?が交わされていますが「湘南」地区は何処?なんと、神奈川県が取り組んでいる「かながわシープロジェクト・Feel SHONAN」にて湘南がどこからどこまでかがはっきりと決まったのです。「湘南は湯河原から三浦までの相模湾沿岸のことを湘南と呼びます」と発表されたのです。要は相模湾に接する市町村+寒川町を『湘南』と呼ぶと。私の『湘南』の感覚は、相模川以東、葉山町までの相模湾に接する市町なのであるが。そして相模川以西の相模湾沿いは『西湘』、横須賀、三浦は『三浦』なのであるが、皆さんは如何に?? 【https://j-town.net/kanagawa/column/gotochicolumn/193011.html?p=all】より石碑の近くにある鴫立庵(しぎたつあん)の庭園の奥まったあたりに、「鴫立沢」と彫られた石碑があり、その裏面に「著盡湘南清絶地(あきらかにしょうなんはせいぜつをつくすのち)」と記されており、寛文年間には既にこの辺りを「湘南」と呼んでいたことが確認できるのだと。出家した俳人・祟雪にとって、大磯の「鴫立沢」一帯の景色が、中国湘江の南方一帯の『湘南』の美しい景色に似ていたことに因んでいると。 ・・・その7・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.27
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『平塚宿・京方見付』を後にし大磯町に入る。右手前方に『高麗山』の雄姿が。そして高麗山の山頂にあるのが「湘南平」。湘南平は、神奈川県の平塚市と大磯町の境にある標高181mの丘陵で、高麗山と泡垂山の山頂一帯を指す。都市計画公園としての名称は、高麗山公園。地元ではかつて千畳敷と呼ばれていたが、公園として整備するにあたり湘南平と呼ばれるようになった。高い山ではないが相模湾を一望できる眺望は素晴らしく、桜の木も多く花見の季節は家族連れで賑わう。平らな山頂に現在はレストハウスとテレビ塔(平塚テレビ中継局)がある。「関東の富士見百景」、「かながわの景勝50選」、「かながわの花の名所100選」、「かながわ未来遺産100」、「かながわの公園50選」、「夜景100選」及び「平塚八景」に選ばれている。「平塚の一里塚」ではなく『平成の一里塚』。「江戸時代、旅人たちの道しるべとなった「一里塚」。街道に一里(3.9Km)ごとに築かれた塚には、大木が植えられ、その木陰は、旅人たちの格好の休憩場所になっていました。そんな「一里塚」を現代に蘇らせようとつくられたのが「平成の一里塚」です。東海道の新しい道しるべとして、また、歩行者の休憩場所として、この地に整備されました。広重の絵にも描かれた、高麗山をバックにした東海道と花水川。「平成の一里塚」で、東海道の歴史・文化に思いをはせてみてください。」と。『歌川広重 東海道五十三次 平塚 縄手道』を再び。この絵は平塚市と大磯町、江戸時代で言えば平塚宿と高麗村(高麗寺村)との境界線が描かれています。絵に描かれた杭型の看板(榜示杭)がその境界線。そのちょっと奥には松の木があり、さらに石でできた道路標識があり、さらに道路が描かれている。道路標識があるくらいだから、この道は何か重要な道であることはたしか。明治19年の地図ではその道路は描かれていないがどうもこの道が江戸時代後期の中原街道ではないかと。紅葉が始まった高麗山。そして『花水川』に。『花水橋』を渡る。『花水橋』から花水川と大山を見る。大磯町の汚水マンホール蓋。美しい大磯の海岸風景に、町の花サザンカと町の木クロマツ、町の鳥カモメのカラーデザイン。 「大磯」と「おすい」の文字が。日本橋まで(から)66Km。『高来神社(たかく じんじゃ)』「高来神社入口信号」を右に入った所が高来神社で、後の高麗山が御神体である。高麗(こま)に鎮座する神社。高麗神社とも呼ばれる。旧社格は郷社。社名は一説に朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人に由来するといわれる。一の鳥居の前に建つ社標石の文字は、紀州徳川家第八代藩主だった徳川頼倫の麗筆という。 頼倫の実弟徳川茂承が高麗に土地を購入して別荘を建てたため、高麗山の麓の住人はその別荘を「紀州さん」と呼んでいたという。 鳥居の神額は、明治の軍人政治家で第二次山縣内閣では文部大臣も務めたことのある樺山資紀の筆によるものとのことだ。 高麗山に向かって参道を歩く。高麗山は古代から神宿る山として信仰を集めていたという。 神功皇后の三韓征伐の後、武内宿禰が奏上して、東夷静謐の為に神皇産霊神・高麗大神和光(高麗権現)を高麗山上に遷して祀った。 それがこの神社の始まりだとされている。江戸時代以前には高麗権現を祀る高麗寺という神仏習合の寺院があったが、明治になり神仏分離令で寺は廃され、高麗神社と改称された。その後、明治三十年になりさらに「高来神社」に改称されたのだと。『関東ふれあいの道』案内道標。関東ふれあいの道(首都圏自然歩道)は、関東地方、一都六県(東京都、埼玉県、群馬県、栃木県、茨城県、千葉県、神奈川県)をぐるりと一周する長距離自然歩道。高麗山に向かって高来神社の参道を歩く。手水舎。『本殿』。現在の本殿はかって高麗寺の本尊だった千手観音菩薩を安置して祀っていた下宮である。かつては高麗山の山頂に上宮があって高麗権現社といい、右の峰に白山権現を、左の峰に毘沙門天を勧請して「高麗三社権現」と称したと。現在は、山頂に「高來神社上宮造營所跡」として礎石と小さな石の祠があると。『神輿社』。高来神社の春季大祭と言われる山神輿(やまみこし)のお祭り用の神輿を安置。高来神社から高麗山頂に御神輿が渡御し(登り)、高麗山頂から高来神社に御神輿が還御(下り)するお祭り。神武天皇の時代の創建とする記録があるという。かつては高麗山の山頂に上宮があって高麗権現社といい、右の峰に白山権現を、左の峰に毘沙門天を勧請して「高麗三社権現」と称した。高句麗が新羅・唐連合軍に滅ばされた時に、その王族・若光を中心に高麗人が相模国大磯に渡来しその後若光一族を含めた各地の高麗人は武蔵国高麗郡(こまぐん)に集められ、高麗神社も設立したという。高来神社の例大祭「御船祭」の木遣歌「権現丸」に、「高麗国守護」が渡来して「大磯浦の守護」となったとある。『高麗寺領境内見取り図』天保3年(案内板)。『平嘉久社(ひらかくしゃ)』。平嘉久社と称える祠には、山の神、農業の神、航海の神、が祀られていると。平嘉久社の手前には高麗山頂への男坂、女坂と書かれた道標が。『高麗山県民の森案内図』JR大磯駅の直ぐ北側に大磯丘陵が東西に延び、一帯は神奈川県の天然記念物に指定され、県民の森にもなっている。東端の高麗山(こまやま)は標高わずか150m、西の浅間山(せんげんやま)は181m程度ですが、眼下に相模湾が広がり、西には富士山、北側に大山や丹沢山系などの眺望を楽しむことができるのだと。 『豊受姫大神』。天然記念物に指定されている高麗神社のシイニッケイに囲まれた『靖国之塔』と『忠魂碑』。高麗神社のシイニッケイはスダジイとヤブニッケイの2種が一体化した樹木であると。そして高来神社の参道途中の右にあったのが『慶覚院(けいがくいん)』。高来神社に隣接する慶覚院は、1613年(慶長18年)創建の寺院。 高麗寺の末寺だった。明治の神仏分離によって高麗寺が廃されると、千手観音他の仏像がこの寺に移されている。 かつては、北下町にあったが、明治23年8月に南下町で起こった大火で焼失したため、檀家が多い高麗地域の村持地蔵堂に移された(現在地)。 『慶覚院 仁王門』。『本堂』。本尊は、大磯唐浜の沖より漁民が網で引き上げたものと伝わる千手観音立像(秘仏)。『鐘楼』。『雞足寺(けいそくじ)』と書かれた扁額。高麗寺慶覚院は天台宗の寺で雞足山雲上院別当高麗寺慶覚院という。雞は鶏の旧字。見事な彫刻。そして高来神社・慶覚院を後にし旧東海道を更に進むと直ぐ右手にあったのが『虚空蔵尊』の小さな祠。『虚空蔵尊』と刻まれた石柱と案内板。当時、虚空蔵と熊野権現を祀った堂があり(現存)、ここに下馬標が立っており、大名行列もここで下馬し、東照権現の併祀された高麗寺に最敬礼をして静かに寺領内を通ったそうだ。『化粧坂(けわいざか)公園』。さらに歩を進める。暫く行くと「化粧坂入口」交差点に到着。ここから旧東海道は右手へ別れ、多少昔の面影が残る田舎道になった。『化粧井戸(けわいいど)』。『曽我物語』の主人公、兄の曽我十郎の恋人である虎女。虎女は17歳で大磯の菊鶴という長者にもらいうけられ遊女になりました。 当時の遊女とは江戸時代のような零落した女性が行き着く暗いイメージではなく、むしろ知識人であり歌舞などの技芸を厳しく躾られ、時には教養も身につけた女性たちであり、神聖な存在として巫女の代わりをするようなこともありました。虎女は十郎が仇討ちの本望を遂げ命を落とすまでの2年間及び63歳で生涯を閉じるまでの晩年を大磯の地で暮らしていたのだと。その虎女が化粧をする際に使用した井戸、それが化粧坂の東海道松並木にあるこの化粧井戸。更に旧東海道の面影が残る化粧坂を上る。化粧坂は、松と雑木の並木道になっていた。『大磯宿 化粧坂の一里塚』。鎌倉時代の大磯宿は,化粧坂のこの付近だったという。江戸日本橋より16里。説明によると『高さ約三米程の上に海側は榎を山側はせんだんを植え』てあったと。釜口古墳の案内も。人の姿も少なく。『歌川広重 東海道五十三次 大磯 虎ヶ雨』の浮世絵が大きく掲示されていた。画面右側のこんもりとした山は、先の平塚・縄手道の図にも描かれていた高麗山ですが、この山には『曽我物語』に出てくる曽我十郎の愛人である遊女虎御前が、十郎の冥福を祈るために出家して結んだ庵があったと伝えられていると。「虎ヶ雨」とは、陰暦5月28日に降る雨をいいます。この日は曽我十朗が討ち死にした日で、虎御前の涙が雨になって降るとされていました。大礒と言えば虎御前、虎御前と言えば虎ヶ雨。大磯が雨の図になるのは、広重にとって必然だったのではないでしょうか。「本図は、初代歌川広重が天保4年(1833)頃に制作した浮世絵『東海道五拾三次之内大磯虎ケ雨』です。空は鼠色に曇って秋雨が降る中、大磯宿境の傍示杭が建つ入口近くを合羽を被って馬で行く旅人や野良仕事帰りのお百姓さん、傘を差した町人など、街道も濡れてなにか寂しげです。画面左の稲作を杭掛けして干している田んぼの先は海岸と磯の松、その向こうに広がる相模灘。水平線近くの沖合が白く明るく見えるのも、海岸で良く見る風景です。大磯の海岸は、万葉集に詠われた「よろぎの浜」、古今集でも「こゆるぎの磯」とも呼ばれる歌枕の景勝地です。また、この辺りは鴫立澤とも呼ばれ、西行法師の歌『心無き身にもあはれは知られけり鴫立澤の秋の夕暮』は「三夕の和歌」の一つとして有名です。また、大磯は歌舞伎で正月の吉例狂言といわれる、曽我十郎と大磯の郭の遊女・虎(虎御膳)が仇討のため二人が別れ、仇討ちの果てに陰暦五月二十八日、曽我十郎が命を落とした悲恋物語の曽我之狂言でよく知られ、虎御前の流した涙が雨になったという故事から梅雨時のしとしと降る雨を「虎ケ雨」とも呼ばれます。このお話の真偽は不明ですが、この土地に由縁する伝説の情趣でしょう。画題横に「虎ケ雨」とあるように、そぼ降る雨を涙雨に見立てています」『大磯八景碑 化粧坂の夜雨』『大磯八景の一 化粧坂乃夜雨雨の夜は 静けかりけり化粧坂 松乃雫の音ばかりして 敬之』大磯八景は、明治40年頃、大磯町五代町長・宮代謙吉が大磯の名所八景を選んで絵葉書を出版したのが始まりと。その後、大正12年に大磯小学校第二代校長・朝倉敬之が自作の歌を刻んだ記念碑をそれぞれ八景の位置に建立したのだと。現在は、小淘綾の晴嵐を除く高麗寺の晩鐘、花水橋の夕照、唐ケ原の落雁、照ヶ崎の帰帆、化粧の坂夜雨、鴫立沢の秋月、富士山の暮雪の7カ所が残っていると。大磯八景(☚リンク)参照願います。 ・・・その6・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.26
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に花水川に向かって旧東海道を進む。平塚・本宿歩道橋手横の「平塚警察署西仲町交番」の右の道が旧東海道。『東海道 平塚宿 問屋場跡』次の交差点を渡り、その先の道が二股になる右側の「平塚市消防団第一分団」の右角に平塚宿問屋場跡の石柱と説明板が立っていた。石柱には『東海道 平塚宿西組問屋場の蹟』と刻まれ、建物のシャッターには安藤広重の浮世絵が描かれていた。ズームで。更に石柱をズームで。「慶長六年(1601)東海道の交通を円滑にするため伝馬の制度が布かれた。この伝馬の継立する所を問屋場といい、問屋場には、 問屋主人・名主・年寄・年寄見習・帳附・帳附見習・問屋代迎番・人足指・馬指などの宿役人等が一〇余人以上勤務していた。平塚宿では初め、ここに問屋場が置かれたが、寛永一二年(1635)参勤交代が行われるようになってから、東海道の交通量は激増した。伝馬負担に堪えかねた平塚宿は、隣接の八幡新宿の平塚宿への加宿を願い出て、慶安四年(1651)その目的を達した。八幡新宿は平塚宿の加宿となり、新たに平塚宿に問屋場を新設した。これにより従来からの問屋場を「西組問屋場」といい、八幡新宿の経営する問屋場を「東組問屋場」といった。この両問屋場は十日目交替で執務したという。」更に道が分かれた旧東海道を進み右に折れる。突き当たった場所が『平塚の塚緑地』。『平塚の塚緑地』石柱。『平塚の碑』右側の囲い部分の中央が元平塚市町戸川貞雄長揮毫の由来碑(眞砂子と表記)左側が平塚碑(政子と表記)。右奥に松の木を囲んだ石柵があり、中央に「平塚の碑」の石碑が立っていた。東国に下向していた桓武天皇3代の孫、高見王の娘政子が天安元年(857年)にこの地で没し、そのひつぎを埋めて塚を作ったところ、塚の上が平らであったことから「平塚」の地名が起こったとする伝承があり、天保11年(1840年)に江戸幕府が編纂した「新編相模国風土記稿」にも記載されていると。『平塚碑』(大正8年(1919年)銘)。「江戸時代の天保十一年に幕府によって編纂された『新編相模国風土記稿』の中に里人の言い伝えとして、「昔、桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向う旅をした折、天安元年(857)二月この地で逝去した。棺はここに埋葬され、墓として塚が築かれた。その塚の上が平らになったので里人はそれを『ひらつか』と呼んできた。」という一節があり、これが平塚という地名の起こりとなりました。この事から平塚の歴史の古さが伝わります。」『由来の石碑』(昭和36年(1961年)銘)。平塚の塚緑地の隣にあったのが『要法寺』の『山門』。「松雲山要法寺」といい日蓮宗の寺院。鎌倉幕府の執権北条泰時の次男泰知は、平塚に住んで平塚左衛門尉泰知(ひらつかさえもんのじょうやすとも)と言った。弘安5年(1282)、病身を武州の池上邸で養うために身延山を出発した日蓮聖人は9月18日に平塚に到着し泰知邸に一泊された。この宗祖の霊跡に建立されたのがこの『要法寺』。境内には、宗派の鎮守神を祀る七面社や、日蓮に帰依し『要法寺』の開基となった泰知入道松雲院日慈上人の供養塔などがあった。そして次に訪ねたのが『春日神社』。春日神社は、平塚宿の鎮守。創祀年代等不明。社伝に、もと平塚山黒部宮と称し建久2年(1191年)に源頼朝が馬入川(相模川)の橋供養の祈願所と定め、翌3年8月9日に御台所(政子)の安産祈願に神馬を奉納したという。明治6年(1873年)7月30日、村社に列し、同41年4月30日、神饌幣帛料供進神社に指定された。祭神は天児屋根命( あめのこやねのみこと )、武甕槌命 ( たけみかずちのみこと )、経津主命 ( ふつぬしのみこと )、比売神(ひめのかみ)の春日四神を祀る。本堂の見事な彫刻。鐘楼。『春日稲荷』。『春日龍宮社』(右)と『春日龍王神社』(左)。『春日龍宮社(厳島神社)由緒』。『春日龍宮社 拝殿』。『春日龍王神社』『春日龍王神社 由緒』。『春日天満宮』。『春日天満宮 由緒』。『毘沙門堂』。『毘沙門堂 由緒』。『毘沙門尊天像』。『攝末社(せつまっしゃ)の由来』『妙義神社、疱瘡神社、山王神社』。そして国道1号線を歩き旧東海道との合流地点まで来る。そこにあったのが『平塚宿京方見附』。「東海道五十三次の宿場として栄えた平塚宿の家並みは、空襲やその後の区画整理により、往時を偲ぶ面影が残っていません。宿場の西の入口であった京方見附の場所も定かではなくなりましたが、先人たちの言い伝えや歴史資料等によりこの辺りにあったと思われます。初代広重によって描かれた東海道五十三次平塚宿の錦絵もこの付近からの眺めのものと思われ、変わらぬ高麗山(こまやま)の姿に往時の風情が偲ばれます。建設省等による東海道ルネッサンス事業の一環として、既設の碑石周辺を再整備しました。」『歌川広重 東海道五拾三次 平塚 縄手道(ひらつか なわてどう)』日本橋から7つ目の宿場が、平塚宿で手前の藤沢宿からは3里半、江戸時代の地名では相模国大住郡。平塚宿京方見附之跡付近の高麗山(こまやま)と富士山の姿が描かれている。浮世絵はかなり汚れていて、歌川広重も泣いていてメンテナンスが必要を実感したのであったが。大磯側から見て、石垣で囲われた塚の上に『従是東 東海道平塚宿』の石碑が置かれ、塚の傍らには『東海道五十三次 平塚宿京方見附之跡』と書かれた標柱が立っていた。『従是東 東海道平塚宿』。 ・・・その5・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.25
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次藤沢本町駅を8:30にスタートし馬入橋にようやく到着。時間は12:15過ぎ。相模川の手前に『馬入橋』『相模川』の標識が。相模川は東海道の難所として知られ、平安時代は浮橋で渡っていたと。鎌倉時代、源頼朝が橋の落成式の出席後に落馬し、翌月に亡くなったと。一つの説では橋供養の帰途、稲村ケ崎に近づくに連れ、義経や義仲、平家一門、安徳天皇などの怨霊(おんりょう)が海中から浮かんで出ては頼朝を悩ます。そのために落馬したとも。旧相模川橋脚の位置は現在の馬入橋の位置より東に2kmほどずれているが、本橋の名称や地名としての馬入の由来はこの逸話にちなんでいるのだと。江戸時代の相模川は現在の馬入橋付近に橋はなく、渡船による往来が行われていたと。馬入橋からの大山の姿そして手前に多目的に利用できる屋内競技場『ひらつかサン・ライフアリーナ』の屋根が見えた。海側には東海道本線が。橋の真中に、日本橋から62Kmのキロポストが。相模川河口と奥には国道134号線に架かる『トラスコ湘南大橋』が、更にその先に相模湾が広がる。相模川は上流の山梨県では、桂川(かつらがわ)、河口近くの下流では、馬入川(ばにゅうがわ)と呼ばれている。古くは、鮎川(あゆかわ)と呼ばれたと。馬入川の名は、鎌倉時代に相模川を渡る東海道に初めて相模川橋と呼ばれる橋が架けられたときに、落成供養に臨んだ源頼朝が乗った馬が暴れて落ちたという伝説にちなむと再び。上流には『湘南銀河大橋』。本橋開通前は、国道1号の馬入橋とその上流の神川橋の間は約2.8km開いており、どちらも片側1車線であるため慢性的な渋滞が生じていた。両橋のほぼ中間の位置に3径間連続鋼斜張橋構造で建設され、1998年に片側1車線で暫定開通。橋の名称は公募され、2371通の応募の中から「天にそびえる2本の塔に支えられ相模川をまたぐ壮大さと360度の広がりで見渡せる湘南の雄大な展望に、無限に広がる宇宙の夢、希望」(選考理由より)をイメージした「湘南銀河大橋」に決定したと。2007年7月までに片側2車線で本供用し、国道129号とも接続したと。茅ケ崎市と平塚市の市境は、現在では馬入川のずっと手前の新田入口の交差点付近。昔は、馬入川の流れがもっと茅ケ崎寄りにあった事は、『史跡 旧相模川(馬入川)橋脚』の位置からも想像できるのであった。馬入川の河口付近で、平塚市、茅ケ崎市、寒川町の境界が複雑に出入りしていることを知ったのであった。そして相模川の馬入橋の平塚側たもと南側にひっそりと建っていた『陸軍架橋記念碑』を訪ねた。右側に『陸軍架橋記念碑』と刻まれた石碑。江戸時代は主要河川に橋を架けることが禁止され、東海道の馬入川も船渡しであった。明治になって、木桁橋が架設されたのが馬入橋のはじまり。関東大震災の前年から架け替え工事が行われており、橋台や橋脚などの基礎工事中に関東地震に遭遇した。『陸軍架橋記念碑』は相模川右岸、馬入橋の下り車線側道(歩道)にあり、由来や碑文は併設されている説明板に記されていた。大正12年(1923年)9月1日、関東大震災により馬入橋が倒壊した。地元の 人々により即日渡舟が運行されたが、数日後の豪雨で流失。9月17日、陸軍の豊橋 工兵大隊と京都工兵大隊が急きょ派遣され架橋工事が開始され、汗血の労を費やし、 10月3日に長さ450メートルが完成したと。 橋の全長450メートルのうち、馬入側の300メートルを第十六師団、茅ヶ崎側を第十五師団が担当したと。この記念碑は馬入側を担当した第十六大隊の事績をたたえるものであると。陸軍架橋記念碑の説明板に掲載されている当時の架橋作業の写真を転載 させていただく。関東大震災では死者14万人もでたが、多くの人々による復興工事 の熱意を感じさせるのであった。 【http://www.asahi-net.or.jp/~rk7j-kndu/tabi/tabi102.html】少し進んだ「馬入交差点」で国道1号線は右の方へそれて行き、旧東海道は真直ぐ進む。旧道に入った直ぐ左側の歩道上に東海道馬入一里塚跡の石碑が説明板と共に建っていた。石碑の真中に『東海道馬入一里塚跡』、右側に『江戸十五里』、左側に『京百十一里・大阪百二十二里』と刻まれていた。ここが江戸日本橋から数えて15番目の一里塚。「慶長九年(一六〇四年)、徳川幕府は東海道など五街道を整備し、江戸日本橋からの距離が分かるように一里塚を整備しました。一里塚は街道に一里(約四キロメートル)ごとに造られ、築造時の資料によれば、五間(約九メートル)四方の塚でした。塚の上には、目印として主に榎が植えられました。旅人にとって一里塚は、旅の進み具合を知らせる目印であるとともに、木陰は休憩場所にもなりました。 馬入の一里塚は、この付近にありました。江戸日本橋から数えて十五番目の一里塚で、旧東海道をはさんで南北に一つずつの塚がありました。元禄三年(一六九〇年)に出版された「東海道分間延絵図」には、北側の一里塚の前に井戸が、馬入の渡しに向かう東側に川会所や川高札が描かれています。」『馬入一里塚』前から旧東海道の分岐する馬入交差点を振り返る。『馬入の大銀杏と神明さん』次の交差点を渡った場所に『馬入の大銀杏と神明さん』と題する説明板が立っていた。「馬入村の鎮守であった神明社は、以前東海道に面したこの地にありました。 この境内から道路に面して、幹周り五抱え(直径3m)もの大銀杏がありました。江戸時代からこの地域を見守ってきたこの巨樹は、沖から須賀の浜に帰る船の目印ともなっていました。昭和二十年七月十六日の平塚空襲で、黒焦げになりながらも、幹周りから枝を伸ばし生き残っていましたが、戦災復興に伴う国道一号線の拡幅工事のために、切り倒されてしまいました。この写真右手の狛犬と御影石の鳥居は当時の神明社のもので、現在は中堂の緑道外に移され、神明神社となっています。大樹の下には消防小屋があり、今その跡に消防団第五分団の庁舎が建っています。」そして左手奥にJR平塚駅が見えた。旧東海道の『湘南ひらつか七夕祭り メイン会場』を進む。平塚市のマンホール蓋。平塚の夏の風物詩「七夕まつり」と「湘南の海」を描いたデザイン蓋。中央に平塚市の市章、その真ん中に下水の「下」、町名は「明石町」。 下部に「合流」の文字、合流管マンホールの蓋 。合流は雨水と汚水を集めて一緒に流す下水道のこと。「平塚 七夕祭り」 歩道プレート『番長皿屋敷お菊塚』。「平塚駅前交差点」を渡って三本目の道を左折、二本目を右折、一本目を左折すると「紅谷町公園」があり、その中に番町皿屋敷のお菊塚があった。『お菊塚』。「伝承によると、お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習のため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことがあって菊女を切り殺したという。一説によると、旗本青山主膳の家来が菊女を見初めたが、菊女がいうことをきかないので、その家来は憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手打ちにされてしまったが後日皿は発見されたという。この事件は元文五年(1740)二月の出来事であったといい、のちに怪談「番町皿屋敷」の素材になったという。また他の話による菊女はきりょうが良く小町と呼ばれていたが、 二十四才のとき江戸で殺されたといわれている。屍骸は長持ち詰めとなって馬入の渡し場で父親に引き渡された。この時父親真壁源右衛門は「あるほどの花投げ入れよすみれ草」と言って絶句したという。源右衛門は刑死人の例にならい墓をつくらず、センダンの木を植えて墓標とした。昭和二十七年秋、戦災復興の区画整理移転により現在の立野町晴雲寺の真壁家墓地に納められている。」再び旧東海道に戻る。『平塚宿(旧東海道)史跡絵地図』。『平塚宿の江戸見附』「市民プラザ前交差点」を渡った次の信号右角(市民センター手前)に平塚江戸見附跡があり、石垣と竹矢来が復元されていた。また、ここには上記の『平塚宿(旧東海道)史跡絵地図』も立っていた。「平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。本来、見附は城下に入る門を示す「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持ちました。したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防御施設として設置されたことがうかがえます。また、見附は必ずしも宿境(宿境は傍示杭で示す)を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す施設でした。さらに、宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。平塚宿の見附は二箇所。一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。この二箇所の見附の間が平塚宿内で、町並みは東西に十四町六間(約一・五キロメートル)、東から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町の五町で構成され、その中に本陣、脇本陣、東・西の問屋場二箇所、高札場、旅籠などがあり、江戸時代を通して二百軒を超える町並みが続きました。一般に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。平塚宿江戸見附は、長さ約三・六メートル、幅約一・五メートル、高さ約一・六メートルの石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなし、両側の見つけは東西に少しずれた形で設置されていました。」『平塚宿の江戸見附』を横から。上記説明文の如く、「一般に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。」とあるように一部復元されていた。『平塚の里 歌碑』平塚江戸見附跡の西隣にある「市民センター」入口横を通り、中庭に出ると『平塚の里 歌碑』が。石と隣の井戸は江戸城のものとのこと。文明十二年(1480)六月、「平安紀行」の作者は、東海道を京都に上る道すがら、平塚の地で、この地に隠遁していて没した三浦遠江入道定可を思い起し、里人にその遺跡、墓所などを尋ねたところ、誰ひとり知る者がなかったので、「哀れてふたが世のしるし朽ちはててかたみもみえぬ平塚の里」と詠じた。昭和三十二年、市制施行二十五周年にあたり、江戸城の石垣と井戸枠を東京都からもらい受け、見附台体育館入口の東側に据えたが、昭和三十七年、平塚市民センターが建設された際、現在地に移設された。「平塚にてあはれてふ たが世のしるし 朽ちはてて かたみもみえぬ 平塚の里この ひらつかのかたへにて そのかみ 三浦遠に入道定可 世を遁れてみまかりし と いひつたふばかりにて しれるもの なかりけり 太田道灌の作と言われる平安紀行の一節である。戦乱うちつづいた當時の平塚の里のあったさまがしのばれるとともに 今日の平塚市の繁栄を目の前にして まことに感慨の深いものがある。昭和三十二年四月 市制施工二十五周年記念として建つ、石と井戸枠とは江戸城のもの このたび 特に東京より贈らる。石川真雄」と。東京都からもらい受けた井戸枠。『文学散歩の方へ』。『平塚市立崇善公民館』を訪ねる。正面の古い建物は昭和25年(1950)建築の旧平塚市議事堂で現在は崇善公民館になっている。よって私と同級生の建物。戦前は日本一のマンモス校と言われた平塚小学校があった所であると。『松風庵観音堂之故地』崇善公民館の北隣に「見附台公園」がある。その公園前を左折し十字路を一本越えた次の広い道の手前右側の「小澤畳店」入口に松風庵観音堂之故地と刻まれた石柱が建っていた。他に上部に『相模拾四番』 左側に『遷座之事 昭和五十四年○○己未 薬師院内』の文字も刻まれていた。道中行き倒れになった人を埋葬した場所がここ松風庵観音堂で、戦後、「薬師院」に観音堂を遷座したとのこと。旧東海道に戻り進むと正面に『高麗山』が姿を現す。その先にあったのが『平塚宿脇本陣跡』。石柱をズームで。「江戸時代、それぞれの宿場には幕府公用人や大名を泊める宿舎として本陣が設けられていました。この本陣の補助的な役目をしたのが脇本陣です。脇本陣には、その宿場の中で本陣に次ぐ有力者が経営しましたが、屋敷地や建物の大きさは本陣に及びませんでした。また、脇本陣は本陣と違って、平常時は一般の旅籠としての営業も可能でした。平塚宿の脇本陣は、享和年間(1801~03)頃の宿場の様子を画いた「東海道文間延絵図」には、西組問屋場より西に画かれていますが、天保年間(1830~44)には二十四軒町の北側のこの地に山本安兵衛が営んでいました。」更に100mほど進むと『平塚宿高札場』の跡が。「高札とは、切支丹禁制や徒党の禁止など、幕府や領主の法令や通達を書き記した木の札です。その高札を掲示した場所が高札場で、各宿場や村々に設けられていました。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んで、高札が掲げられる部分には屋根がついていたといいます。平塚宿の高札場は、二十四軒町のこの地にあり、規模は長さ二間半(約五メートル)、横一間(約一・八メートル)、高さ一丈一尺(約三メートル)でした。平塚宿には、平塚宿から藤沢宿、あるいは大磯宿までの公定運賃を定めたものの高札なども掲げられていました。」『平塚宿東組問屋場跡』高札場跡の向かいにある「魚喜代」前の歩行上に平塚宿東組問屋場跡の石柱と説明板が立っていた。「平塚宿は、東海道五十三次の一つの宿場として慶長六年(1601)に成立しました。宿場は、旅人が休憩するための茶屋や宿泊するための旅籠といった施設が整っているばかりではなく、諸荷物の継立(人夫や馬を取替える)といったことも重要な役割でした。こうした人馬の継立や御用旅館の手配をはじめとする宿駅の業務を取り扱う場所を問屋場といいました。平塚宿では、問屋場が二か所あり、西仲町にあったのを西組問屋場、二十四軒町にあったのを東組問屋場といいました。」再び右側に渡って、直ぐ先の「神奈川銀行平塚支店」前に『平塚宿本陣旧跡』が。平塚宿は東海道五十三次の一つの宿場として慶長六年(1601)に成立しました。幕府公用人や諸大名が宿泊する宿を本陣といい、平塚宿の本陣は、東仲町北側のこの地にありました。 『平塚宿本陣旧蹟碑』「海道宿駅の高級旅館で、徳川幕府の許可と補助を受けて設備を充実していたものを本陣といいこれに次ぐものを脇本陣と呼んだ。東海道平塚宿の本陣は 代々加藤七郎兵衛と称し 現在の平塚ニ一〇四番地神奈川相互銀行支店所在地に南面して建っていた 総槻造 間口約三十米 奥行約六十八米 東に寄って門と玄関があり 天皇や将軍・大名などの御座所は上段の間であったという。記録によると 徳川十四代将軍家茂は文久三年二月 元治二年五月の二回ここに休憩しているまた明治元年十月と同二年三月の両度 明治天皇は東京行幸と遷都に際してここに小休されたこのたび 平塚支店改築にあたり旧跡碑を建てて永く記念とする。神奈川相互銀行取締役社長 半田剛撰」次の信号を左折し、『福生山宝善院』を訪ねる。入口山門の周りには、なまこ壁の築地塀が。宝善院は東寺真言宗のお寺で福生山能満寺宝善院。建久年間(1190年〜1199年)に、鎌倉八幡宮寺に下向した京都・東寺の学問僧により開山された。「新編相模国風土記稿」(天保12年(1842年)刊)には、中興開山は貞享(1684年〜1688年)の頃住持であった聖全(卒年詳ならず)と云われている。本尊は不動明王(京都・大通寺からの請来)、寺宝に玉一顆あって明星玉と称すが、伝来は分からない。天王社、稲荷社、天神社、虚空蔵堂がある。『ぼたもち地蔵さま』。『斎藤麗山(さいとうれいざん) 句碑』。斎藤麗山は当院檀家・斎藤家の出身で江戸末期に優れた文人書家として平塚宿で活躍した。この碑は後年、麗山の弟子たちが師匠の遺徳をしのんで墓地がある当院境内に建立。碑には次のような意味深い歌が刻まれています。 「すそはまだ くらきにあけて ゆきのみね」『水子地蔵』。境内には、多くの説明ボードが丁寧に。『福生山 宝善院の歴史』説明板。『鬼門よけの呪法(猿すべりのまじない)』屋敷の東北を鬼門と呼び、当院東北の角に樹齢数百年と思われる2本の「さるすべり」が植えられていた。『本堂』『日本最初の鉄道レール』。「これは正真正銘、日本最初の鉄道レールです。 明治5年10月14日、新橋・横浜間でわが国最初の鉄道が開業、これはその時のレールです。 製造はイギリス・ダーリントンのアイアン社1873年製造です。 この線路の上を間違いなく日本最初の蒸気機関車弁慶号が走りました。 昭和43年、赤坂離宮(東宮御所)改修工事中、壁の中から発見されました。 明治42年の離宮新築工事にあたり、補強材として使われたようです。」『宮本武蔵 ゆかりの瓦』。京都『一乗寺下がり松』での吉岡一門との決闘に勝利はしましたが、京に逃れる所も無くなった武蔵は東寺・観智院に身を隠しました。今も武蔵直筆の国宝・襖絵が残っています。この瓦は観智院本堂に用いられていた桃山時代の瓦です。この瓦の下に、確かに武蔵は、一年半生活していました。『ふたたび大師』。「今を去る千数百年の昔の事です。弘法大師は遣唐使船で唐の都長安に渡られました 余り昔の事ですから長安に渡られる以前のお大師様がいずこにおられたのか誰も知る者がありません。突然降ってわいたように、遣唐使船という日本国の公式派遣船の記録にお名前が浮かんでこられます。このためお大師様の入唐以前のご業績について多くの議論があり、いわばこの期間は弘法大師伝の空白期・謎の期間とされています宝善院隆洪和尚はある夜、霊告により、この謎の期間、既にお大師様は密かに中国に渡られ修行を重ねられていたというお告げを受けました。そこで『弘法大師二度渡航説』の論を発表し、霊夢に基づき、中国密教の聖地「五台山」頂上よりわが国を望見する大師像を製作しました。千数百年の昔、万里の波頭を越え、二度にわたり中国大陸に渡られたお大師様の霊跡をたたえ、これを『ふたたび大師』と名付けました。なにごとによらず、「ふたたび」を祈願するに、ふしぎな霊験があります。」『宝善院本堂唐向拝の朱雀の彫刻。』。『宝善院本堂の唐向背(からこうはい)』説明板。『本堂正面の扉』。『宝善院本堂唐向拝の天上絵』。『インドネシア・バリ島の道祖神』。『ネパール仏像・文殊菩薩像』境内にあった『須賀神社』。『武田信玄の小田原攻め戦死者供養塔』戦国時代当院は小田原北条氏の信仰する寺院で、北条家臣団が当院を支えていました。永禄十二年(1569年)武田信玄が小田原城を攻めたとき、この地方も戦場となりました。この塔は宝篋印陀羅尼塔(ほうきょういんだらにとう)と呼ばれ、塔の下に宝篋印陀羅尼経を埋葬して塔を建てることからこの名が生まれました(丸い生垣の後ろの石柱)。戦死者の霊魂はこの塔に風とともに運ばれ、塔に当たることで供養されるという信仰から、古来、戦場の跡地にはよく建てられました。『光悦垣』。割り竹を粗い目の菱形(ひしがた)に組み、割り竹の束をのせたもの。近世初期の芸術家、本阿弥(ほんあみ)光悦が好んだことに由来。 ・・・その4・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を茅ケ崎・南湖入口の交差点を左折して暫く進むと右手にあるのが高野山・真言宗の古刹『金剛院』。江戸初期より南湖の閻魔寺として親しまれている古刹で、明治41(1908)年、茅ヶ崎町(茅ヶ崎村、鶴嶺村、松林村が合併)が結成された時、1908年から1911年まで茅ヶ崎町役場も置かれていたと。金剛院は相模国準四国八十八ヶ所第49番の霊場でもあると。『本堂』法林山長生殿金剛院(南湖の閻魔寺)。『大師堂』大師石像は大師堂に安置されているが、風化が激しいためか、そして石像前に大師を線刻した新しい石板が置かれているために、見えないようであった。『長生殿』『慈悲観音』『四国八十八所霊場供養塔』の先の石仏の台座には「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせすん」と刻まれていた。平安時代末期に流行した『涅槃経(ねはんきょう)』の「諸行無常 是正滅法 生滅滅己 寂滅為楽」を下記の如く表すと言われると。色は匂へど 散りぬるを香りよく色美しく咲き誇っている花も、やがては散ってしまう。諸行無常(しょぎょうむじょう)我が世誰そ 常ならむこの世に生きる私たちとて、いつまでも生き続けられるものではない。是生滅法(ぜしょうめっぽう)有為の奥山 今日越えてこの無常の、有為転変の迷いの奥山を今乗り越えて生滅滅己(しょうめつめつい)浅き夢見じ 酔ひもせず悟りの世界に至れば、もはや儚い(はかない)夢を見ることなく、現象の仮相の世界に酔いしれることもない安らかな心境である。寂滅為楽(じゃくめついらく)若松幹男先生のお墓というのがあった。若松先生は茅ケ崎小学校の前身である琢章学舎の先生。碑文には在職中に、生徒13人が期末試験で落第したことに責任を感じて割腹自殺をしたのだと。『文覚上人像』の祠。『文覚上人』平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれると。内部には文覚上人を線刻した新しい石板が。松尾芭蕉の句碑。『父母の志きり尓古ひし雉子能聲(父母のしきりにこひし雉子(きじ)の聲 )』。この句の出典は、芭蕉の俳諧紀行文『笈(おい)の小文(こぶみ)』高野の山道を夕暮れの中を歩いていると、姿は見えないが、どこかでケーン、と雉が鳴いた。旅という漂泊のわが身に、にわかに父母のことが思い出されたのだと。そして再び旧東海道に戻り平塚に向かって歩く。小出川とこの後に合流する千の川に架かる鳥居土橋(とりいどばし)に到着。『関東の富士見100景』の銘板。千の川に架かる石原橋も見えた。『東海道南湖左富士之碑』京都に向かう東海道中で、富士山が向かって左手に見える珍しいスポット。しかしこの日は富士山の姿は残念ながら・・・。『南湖の左富士之碑』と刻まれていた。浮世絵師安藤広重が天保3年(1832)に東海道を旅し、後続々と東海道53次の風景版画を発表した。その中の一枚にここ南湖の松原左富士がある。左富士が見えるのは、ここと静岡県の吉原の二か所が有名。歌川広重 『五十三次名所圖會 七 藤澤南期の松原左不二』『鶴嶺八幡宮大鳥居』街道沿いの大鳥居から北へは松並木の参道が続いていた。松並木の境内参道を足早に歩き振り返る。鶴嶺八幡宮は、1030年(長元3年)、源頼義が平忠常の乱を鎮圧する際、懐島郷矢畑に京都の石清水八幡宮を勧請して懐島八幡宮を創建したことに始まるのだと伝えられている。 前九年の役(1055年(天喜3年))の際にも戦勝祈願が行われ、1063年(康平6年)に反乱を鎮圧すると、鎌倉の由比郷に懐島八幡宮を勧請したといわれる。 頼義の子義家は、後三年の役の際に祈願し、勝利したことから、1089年(寛治3年)、隣郷の浜之郷に社領を寄進して現在の鶴嶺八幡宮を創建した。 1191年(建久2年)には、源頼朝の命により大庭景義が社殿を修復して再興。境内には、根回り8.5㍍、高さ29㍍の大イチョウも。前九年の役(1051~1062)の戦勝祈願に源義家が自ら手植えしたと伝えられていると。『厄割石』。そして再び旧東海道に戻る。昔、若い頃仕事でお世話になった明治乳業(株)茅ケ崎工場の社名は写真の如くに変わっていた。下町屋の交差点の先の左手には『神明神社』が。「往古、相模国高座郡は十三郷一駅からなりたつ、その内茅ヶ崎地域は、大葉 渭堤 河會の三郷なり、当下町屋は河會郷に属す。当地の古老が伝えるところによると、神明大神の境内には平安時代の陰陽師、安倍晴明(921〜1005)が東国へ下行のおり喉の渇きを癒した清水が湧き出ていた、名付けて「清明井戸」と称す。亦、当境内より西約二百米には、国指定史跡相模川橋脚あり、これは鎌倉幕府の有力御家人、稲毛三郎重成が亡妻供養の為相模川に建久九年(1198)架橋したもので大正十二年(1923)九月一日関東大震災のおり出土したものである。さらに、同時代鎌倉権五郎景政の曾孫、大場平太景能この地に住み懐嶋権守景能と号す。この頃より開発が進み小集落が形成され、順次村落が形づくられたと推測される。景能の死後息子の景廉は、和田の乱 建保元年(1213)和田方に味方し討死、戦い後 新規の地頭に山城四郎兵衛尉(二階堂元行)が所領す。康正年間(1455)は建長寺、西来庵領たりこの頃 大神宮を勧請したものと考えられる。大神宮は寛正年間(1460〜1466)創立と伝えられるが 詳らかでない。北条氏分国の頃は伊勢八郎知行す役帳曰く八郎殿百貫文徳川家康 江戸入城後、当地は幕領と旗本領となり、馬場儀兵衛が采地なり。亦、加々爪氏知行目録によれば、古彼家の知行なり、土佐守直清の時天和元年(1681)家絶たり、寛文六年(1666)成瀬五左衛門重治検地す、村高一四八石八斗二升四合、戸数三十八戸。東海道往還の人々は当地に宿泊し、当地も繁栄を極めていた、当大神に対する崇拝の念を抱いたと伝えられている。「風土記」には、神明宮、山王社、以上二社共村の鎮守、柳島善福寺持。「高座郡神社界誌」には天照大神、大山咋命、由緒不詳 明治元年(1868)村社に列す。」『拝殿』御祭神は天照大神(あまてらすおおかみ)、そして大山咋命(おおやまくいのかみ、おほやまくひのかみ)。そして前方に新湘南バイパスの高架が見えて来た。茅ケ崎西インター交差点手前を左折すると右手にあったのが『耕地整理記念碑』。小出川と千ノ川の流域一帯を美田化する目的で行われた耕地整理を記念する碑。事業は湘東耕地整理組合が組織され、大正十四年(1925)から開始され昭和十五年(1940)に竣工したと記されていた。現在の小出川は、この耕地整理により今の流れとなったものであると。そしてその奥には『史跡 旧相模川(馬入川)橋脚』が。茅ヶ崎市下町屋1丁目にある中世の遺跡。国の史跡および天然記念物に指定されている。以下ウィキペディアによると「関東大震災(1923年9月)と1924年1月の2度の大地震の際に小出川沿いの水田から7本の木柱が出現した。その後の発掘により地中になお3本あるのが発見された。当時、沼田頼輔博士が『吾妻鏡』にもとづいて鎌倉時代の相模川の橋脚と考証し、中世橋梁遺構として高く評価されている。沼田はこの橋を「鎌倉時代1198年に源頼朝の家来であった稲毛重成が亡き妻(頼朝の妻の北条政子の妹)の供養のために相模川に架けた大橋である」と鑑定したと。」「3回の内容確認調査によって、新発見の橋杭1本を含めヒノキ製の橋杭が計10本確認された。その配置は、2メートル間隔の3本1列の橋脚が10メートル間隔で4列に並んだものと推定される。橋脚は断面が丸く径は、最小で48cm、最大で69cm、長さは確認できたもので3m65cm。この中には、上部が、ほぞ穴状に加工されているものもあり、この部分に梁などが組まれていたことが窺がえると。橋杭となった木柱は、年輪年代測定によれば西暦1126年~1260年の一時点に伐採されたヒノキ材と同定されたと。」『旧相模川橋脚』説明ボード。『指定と保存整備』。鎌倉の源頼朝も渡り初めしたという橋は、現在の相模川の東、約1.5キロメートル の茅ヶ崎市下町屋、小出川のすぐ東岸にあった。現在の相模川は平塚市と茅ヶ崎市の 間にあり、拡幅されて南北に流れ、国道1号線の馬入橋は長さ560メートルもあるが、 昔はだいぶん違っていたのだと。1923年の関東大地震によって発生した液状化現象で突然出現した800年前の橋脚は、 1926(大正15)年に国の指定史跡となっている。『発掘調査の成果』(右)。橋脚の樹種はヒノキ、断面は最小49cm、最大69cm、長さは369cmである。 橋脚の並びから橋の幅は9メートル、長さは40メートル以上と推定されている。 橋はおおよそ南北方向に架けられ、川の流れは東西に近い流れであったようだと。『発掘調査の成果』(左)。沼田頼輔氏の『湘南古橋行』の石碑。『長留天地間』と刻まれた漢詩が。奥に廻り『史跡 旧相模川(馬入川)橋脚』全体像を。関東大震災前の相模川河口の絵図であると。「詳細」👈 はリンクを参照願います。小出川に架かる「下町屋橋」を渡り、新湘南バイパスの高架をくぐって、先に進む。新湘南バイパスと小出川。今宿(下水)ポンプ場。旧東海道右側に日蓮宗『上国寺』。山号は妙厳山、院号を大乗院という。南北朝時代までに日祐(中山法華経寺三世、応安7年(1374年)没)を開山に創建された。この寺にある日蓮聖人像は、三月日永正十一年(1514年)作之の銘がある。寄木造、玉眼嵌入、前後矧ぎ、肩膝前は別木を用いる。およその寸法は像高32.0センチメートル、袖張42.5センチメートル、膝張26.0センチメートル。市内最古の日蓮聖人像として茅ヶ崎市の重要文化財に平成8年(1996年)11月1日に指定されたと。日本橋から61Km。『妙厳山 信隆寺』が右手に。見事な山門。こちらも日蓮宗の寺であった。寛永元年(1624年)源義光(新羅三郎義光)の後裔勝沼信就(武田信就)が剃髪し信隆院日閑となり開基し創建された。開山は中山法華経寺の善立院日意。昭和20年(1945年)7月15日の茅ヶ崎空襲で本堂をはじめとする堂宇を全焼した。平成8年(1996年)日蓮聖人像が茅ヶ崎市の重要文化財に指定されている。現在の本堂は平成10年(1998年)に再建されたものであると。永禄7年(1564)造立の木造日蓮坐像は、全国の日蓮像のうちでも古い方に属し、市内の仏像彫刻のなかでは貴重な像であると。像高42.0センチ。袖張65.6センチ。膝張35.5センチ。寄木造り。玉眼嵌入。彩色(後補)。頭体は1材を頸部で割りはなち、耳後ろで前後に矧ぎます。体部は6材を割り矧ぎ。胎内背面に、向かって右から「八月十三日/法主日□坊/南無妙法蓮華経/願主仏国寺善行坊/日受/敬白/于時永禄七年甲子」と墨書銘があると。そしてこちらは境内にあった『日蓮大聖人像』。『宗旨』「信隆寺」と書かれた扁額。見事な龍の彫り物。境内社。産業道路の交差点から海岸方面を見る。中島交差点の細い道を左手に線路方面に向かうと右手にあったのが稲荷社・『正一位稲荷大明神』。そして馬入橋に向かって更に進む。 ・・・その3・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.23
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次海前寺の近くにある『八王子神社』を訪ねる。創立年代は不明ですが、源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は武運長久を祈って多くの武士が訪れたといわれます。特に元弘3(1333)年、鎌倉幕府打倒に立ち上がった新田義貞が当社に立ち寄って祈りを捧げたとされ、見事に北条氏を滅ぼした義貞は建武2(1335)年、上洛する途中に当社を訪れ、社殿を改修したと伝わっています。また、江戸時代後期の村々を記録した『新編相模国風土記稿』には茅ヶ崎村について「鎮守、八王子神社」と記されているように、古くからこの場所が地域の中心だったことを示しています。慶安2(1649)年、徳川将軍家から社領の寄進があり、延享3(1764)年12月には社殿の再興も行われたほか、天保12(1840)年8月、拝殿・幣殿が再興されたことが伝わっています。明治維新にあたり八王子権現から八王子神社と改称し、明治40(1907)年4月、指定村社に列せられました。現在の社殿は関東大震災後、氏子の浄財によって昭和2(1927)年4月に再建されたものです。右手の社号標石には「鎮守 八王子神社」と。昭和2年(1927)造立の正面の石鳥居には、草木・三つ巴紋等が刻まれた石扁額が。『拝殿』。御祭神は、五男三女命と、宇迦之御魂命・大山咋命・品陀分命。五男三女神は、天忍穂命・天穂日命・天津日子根命・活津彦根命・熊野久須毘命と、多岐理比売命・市杵島比売命・湍津比女命の宗像三女神。創建年代や由緒、御祭神は不詳。正覚院という寺院敷地、墓道の横に鎮座している。現在は、社碑や神輿殿、質素な社殿などで構成されている。八王子神社は、毎年7月の海の日に神奈川県茅ヶ崎市4西浜海岸で行なわれる浜降祭(はまおりさい)に参加する一社である。しかも、夜中に堤八坂の公民館を御立ちし、茅ヶ崎海岸で禊をするが、この神社神輿は特に沖まで深く入り込むことで知られている。40基近くの神輿が参加する浜降祭ではあるが、ほとんどの神輿は波打ち際で帰ってしまう。そんな中、八王子神社神輿は担ぎ手の首が海に浸かるほど、沖に進んでいくのだと。拝殿の見事な彫刻。拝殿唐破風の懸魚には鶴に乗った老人像が。向拝に男女像や龍などの彫刻が施されていた。なぜか『鐘楼』が。隣にある『本村八坂神社』。古くから境内に祀られている本村八坂神社は、祭神「素佐之男命」を安置。 創建年代は不詳ですが、社殿は文化10年(1811)再建という古社。 かっては祇園さま・氷川さま・熊野さま・天王さまと呼ばれたと。『本村天満宮 由緒』。『正一位稲荷大明神』。稲荷大明神は、宇迦之御魂神(倉稲魂神)を安置。 創建年代は不詳でしたが、社殿修復(平成2年)の折に稲荷講中18名と弘化5年(1848)の木板が発見されたことから、150年余りを経ている古社と判明。 五穀豊穣・招福の神として信仰されていると。大正12年9月1日関東大震災で倒壊した大鳥居が置かれていた。境内の工作物もすべて崩壊したが、幸いに一人の犠牲者も出なかったと。八王子神社 社務所。旧東海道近くにある旅友Sさんの農園を暫し訪ねる。旧東海道の下を走る単線のJR相模線。イオン前を茅ケ崎駅方面に進む。日本橋まで(から)58Km。イオン茅ケ崎中央店。入口のモニュメントは太陽の塔の如し。『茅ケ崎一里塚』交差点手前に。『茅ケ崎一里塚』。一六〇四年(慶長九)徳川家康が秀忠に命じて東海道、東山道、北陸道に整備させたもので、江戸日本橋を起点に沿道一里毎に設けられた。大きさは五間(九メートル)四方、高さ一丈(三メートル)で、街道の両側に相対して築かれ、塚上には多く榎を植え旅人の利便をはかった。 この茅ヶ崎一里塚も以前は両側にあったが道路拡張等のため片方は取り除かれてしまった。江戸から十四番目のものといわれる。かっては旧東海道の両側にあったが残っているのは海側のみ。『史跡 一里塚』と刻まれた」石碑。茅ケ崎駅前交差点の茅ケ崎市役所側の角にあった『旧寛永寺石灯籠 四基』右から1番目と3、4番目は十代将軍徳川家治の供養のために1786年に寄進され2番目は、四代将軍徳川家綱の供養のために1681年に寄進されたものと。徳川家の菩提寺として栄えた上野の寛永寺には、全国の大名から歴代将軍への供養としてたくさんの石燈籠が献上されていた。それが市内に6基移されている。戌辰(ぼしん)の役や関東大震災や戦災などで被害を受けた寛永寺への再建寄付の返礼として贈られたものであると。ここから大磯までは旅友のSさんは既に完歩されているとのことで、ここで旅友と分かれ、それぞれ別行動で目的地へ向かう。私はそのまま歩いて大磯宿へ、旅友は茅ヶ崎駅から電車に乗り大磯駅へ向かう。道路脇には古木のクロマツの切り株が。茅ヶ崎市勤労市民会館前国道一号線東横インホテル前歩道に東海道松並木の一本のクロマツが、2009年腐朽のため代採する。樹齢200年以上、高さ約20メートル、幹回り2.5メートル徳川家康公が植樹させたと云われ市民のたくさんの要望に答え、このたび、直径80cmの切り株レリーフを景観資源として記念碑設置したと。『高野山 真言宗 円蔵寺』。真言宗の寺。本尊は薬師如来と厄除秘鍵大師で茅ヶ崎厄除け大師とも呼ばれている。『本堂』寺は文安2年(1445)に没した善誉が中興の祖であると伝えられている。もとは本村5丁目にあったが大正12年(1923)の関東大地震で倒壊し、昭和4年に現在地に移設したと。『護摩堂』『五重石塔』旧本堂の『礎石』。こちらは203高地「血染めの岩片」だと。護国忠魂碑と脇に立つ乃木希助大将像。円蔵寺には日露戦争に関連した遺物が集められている一画がある。 乃木大将の揮毫による忠魂碑と乃木大将の石像を中心に、周囲には水師営の会見碑、水師営のなつめの木、203高地の血染めの岩、元招魂社の鳥居片が置かれ、日露戦争の慰霊の地となっている。この忠魂碑は、御影石製、茅ヶ崎村兵事会が明治38年10月16日に建立したもので、日清・日露及び日支事変における戦没者13柱(日清役2柱、台湾土匪征役2柱、日露役8柱、日支事変1柱)が合祀されている。 当初、茅ヶ崎小学校に建立されたが、戦後同寺へ移設された。忠魂碑の隣には、昭和10年に建立された乃木将軍石造がある。いずれも御影石製である。碑高370㎝、幅93㎝、厚さ47㎝、台石50㎝、基壇110㎝。碑正面:「護國忠魂碑 希典書」右面:「明治三十八年十月十六日 茅ヶ崎村兵事會建之」左面:「明治二十七八年戰役陣亡軍人 二十八年三月二十九日於臺灣澎湖島病死 陸軍歩兵一等卒 米山新蔵 同 二十八年六月二十六日於廣島病院病死 陸軍砲兵一等卒 越地三吉明治三十一年臺灣匪徒征役陣亡軍人 三十一年十二月十一日於臺灣北山地方戰死 陸軍歩兵二等卒 鈴木米吉 同 三十一年九月十九日於臺灣基隆病死 陸軍歩兵二等卒 池田竹次郎」碑裏面:「明治三十七八年戰役陣亡軍人三十七年十一月三十日於清國盛京省赤坂山戰死 陸軍歩兵軍曹勲七等功七級 松坂松五郎三十八年九月三日於清國盛京省病死 陸軍歩兵伍長勲八等功七級 米山鐵五郎三十八年三月九日於清国盛京省田義屯戰死 陸軍歩兵上等兵勲七等功七級 澁谷牛次郎三十七年十二月一日於清國盛京省二〇三髙地戰死 陸軍歩兵一等卒勲八等功七級 米山又治郎三十七年十一月二十八日於清國盛京省寺兒溝戰死 陸軍歩兵二等卒勲八等功七級 三橋太郎吉三十七年十一月十二日於清國盛京省山澗堡戰死 陸軍歩兵二等卒勲八等功七級 河内駒吉三十八年九月十八日於清國盛京省病死 陸軍歩兵一等卒勲八等 三橋力松三十八年五月十八日於清國盛京省梁家窩柵戰死 陸軍輜重輸卒勲八等 三橋定吉日支事變昭和七年十月十日於満州國遼寧省轉通北側戰死 陸軍騎兵伍長 杉田匠」そして右に乃木希助大将像。乃木将軍の没後24年にあたり、忠烈、護国の軍神である乃木精神を鼓吹するために、広く寄附を募って建立された。新聞記事によると、発起人は、駿河銀行支店長、円蔵寺住職、円蔵寺檀徒など30余名。昭和10年10月13日に円蔵寺前で除幕式が予定されていた。製作者は相田清志氏。像は七尺、台座は五尺とある。現在は、円蔵寺境内に移設された忠魂碑と同じ台座上に移設されている。小笠原長生子による題字が刻まれていた台石も今は無い。像高約189㎝、台石50㎝。御影石製。『山門』。円蔵寺の案内板。茅ヶ崎山 円蔵寺御本尊 薬師如来 厄除秘鍵大師(やくよけひけんだいし)宗 派 高野山真言宗 立教開宗は大同二年(807)総本山 高野山金剛峯寺 和歌山県伊都郡高野町宗 祖 弘法大師(空海) 宝亀五年(774)六月十五日 香川県善通寺市で御誕生 承和二年(835)三月二十一日 高野山奥之院に御入定御宝号 南無大師遍照金剛教義と信仰 宇宙のすべてのものは 大日如来のいのちの顕われであり このいのちの世界をあらわして いるのが曼荼羅です。 高野山真言宗の教えは いのちの平等と尊厳をさとり 大日如来の智慧をこの世に実現する ために 生かせいのちを実践し共存共生の世界をめざすことにあります。 本宗の御宝号念誦運動は 弘法大師の共利衆生の精神に立って すべてがいのちを共にして いる社会の福祉をめざす具体的な活動です。 弘法大師は未来永劫にわたって衆生を救済すると御誓願され高野山奥之院に入定留身されて います。同行二人の信仰のもと 大師の御教えをこの世に生かし実現することが 私たちの 務めであり喜びです。旧東海道 十間坂交差点。日本橋から(まで)59km。十間坂二丁目交差点を過ぎて右手にあった『第六天神社』。『第六天神社御由緒』御祭神 淤母陀琉命(オモダルノミコト) 妹阿夜訶志古泥命(イモアヤカシコネノミコト) ご祭神は、神仏混淆時代の仏教で信奉する欲界天の第六、欲界天の最高所に客殿を構える 天魔、他外自在天に由来し、明治維新後政府の神仏分離の布告により、ご神徳に因み、国 生み神話天神七代の神々の内の、第六代の男女二柱の天津神様であります。 分布の傾向に特徴があり、西日本は皆無に近く、東京都と千葉県境に多く所在し神奈川県 では宗教法人格を持つのは二神社、全国で「祠」ようの社も含め三百有余社が数えられます。 神々の中では、初めて人間のような容姿と賢い知恵を持ち合わせた大神様です。御神徳御由緒 身の丈は二里(八キロ・昔は大きいということは健康であることの象徴でした)寿命は人間 の千六百歳を一年として、一万六千歳の長寿であられ、それに因み、身体壮健、不老長寿、 社前の東海道を上下する覊旅の人々の道中安全の守護神として又、世の楽しみを自在に自 己の楽しみに替える霊力に因み、満願成就への導きの神として信仰されております。 古くは、第六天神社は多く祀られており、織田信長の信奉は特に篤く、後の豊臣秀吉は信 長が天下を執るほどの強大な力を持ったことは、第六天の強靭な神威を戴いたことによる ものと、恐れて廃寺を行ったと伝承されております。 その中で郷民により神社名を変更したり、合祀、相殿、末社として秘かに守り信仰されて きた第六天神社です。 「第六天様という強靭なご利益を持たれる神様を氏神様としている氏子さんは幸せですね」 と参拝に訪れる方もおり、天魔とも恐れられる強い力を戴きたいと、近県よりも参拝祈祷 を受けにこられる方もおられます。 創立年代、創立者等不詳。文献では、江戸幕府編集の新編相模風土記(十二代将軍家慶の時 代・天保十二年)に初見されます。御 末 社 八坂神社御 案 内 初宮詣 七五三詣 厄祓い 交通安全 渡航安全 家内安全 事業安全 商売繁昌等の御 祈祷 地鎮祭 竣工祭 新築家祓等の出張諸祭のご奉仕も承ります。鎮 座 地 神奈川県茅ケ崎市十間坂三丁目十七番十八号 電話番号 〇四六七ー八二ーニ三八四日本橋から十五里二町六間であると。『拝殿』現在は、淤母陀琉神、妹阿夜訶志古泥神の二神を祀る第六天神社ですが、もともと第六天とは仏教で「欲界第六の天なり、略して他化天と云う。下天の化作せし他の楽事をとり来りて自在に受楽するが故に、他化自在と名く。正法を妨害する天魔なり、釈尊成道の時これを降伏す。密教にては胎蔵曼荼羅の一尊となす」などと記されている天魔で、身丈は二里、寿命は人間の千六百歳を一日として一万六千歳とされ、強力な魔力をもった魔王として描かれていると。拝殿に近寄って。見事な彫刻。唐破風の下の懸魚の鳥は烏(カラス)であると。神武天皇が高倉山から右手を上げて遥か遠くを見ている姿と。手水舎も巨大。拝殿の前には『八坂神社』が鎮座。御祭神は須佐之男命(スサノオノミコト)。 口碑によれば、第六天神社社殿西面に祀られて いたという八坂神社は、平成四年第六天神社本殿 幣殿のご造営に際して、相殿として祀られている ことが明らかとなりました。 明治中期の茅ヶ崎大火により罹災後の再建難しく、止むなく相殿としてお祀りしたことと思われます。 この度のご造営を機会に、御神霊の蘇りとご神威の発揚を願い、この地に奉遷されました。 欅造りの社殿は、第六天様の神殿でしたが、修復し覆殿を掛け八坂神社社殿としたものです。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.22
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次東小和田の交差点を過ぎて暫く進むと右手奥にあったのが『上正寺(じょうしょうじ)』。浄土真宗の寺で、鎌倉時代の創建とのこと。山門前の『親鸞聖人像』が迎えてくれた。『鐘楼』『上正寺の聖徳太子像』と『上正寺の旧寛永寺石灯籠』上正寺には、茅ヶ崎市指定重要文化財の聖徳太子像と石灯籠がある。この像は、聖徳太子が2歳の時に、東を向いて「南無仏」と唱えると、手の中から舎利(釈迦の遺骨)がこぼれたという話をモデルにしたもので「南無仏太子」とよばれると。室町時代後期から、江戸時代初期頃の作と考えられていると。寄木造り、玉眼嵌入。上半身は肌部は素木に古色仕上げし、袴は朱彩が施されている。太子が自ら彫刻したという言い伝えもあると。『本堂』。『正覚廟』は、個人(家ごと)の墓地ではなく、上正寺有縁の方々の合葬の廟所(墓地)。正覚廟の名称は、当上正寺が平安時代、下寺尾(市内)海円院に始まり、鎌倉初期、当地へ移り(龍沢山龍徳院)無上正覚寺と改められた歴史に則ると。現在の寺名は、本願寺第三代覚如上人下向の折 改められたものであると。石灯籠は幕府の要職を務めた安藤重博が、第4代将軍徳川家綱の墓所(寛永寺厳有院)に奉献したもので、のちに此処に移されたのだと。さすが将軍の墓所に建てられただけあり、立派な石灯籠。厳有院は東京大空襲で焼失したが、この石灯籠はここ上正寺に移されたことで難を逃れたのだと。上正寺本堂ではジャズコンサートも行われるようであった。『地蔵堂』旧東海道に戻って、少し進んだ左側の店舗つきマンションの所を左に入った突き当たりに地蔵堂が大小二つ建っていた。大きな地蔵堂の中には『奉納 南無地蔵大菩薩』、『念佛講中供養塔』、『百万遍供養塔』と刻まれた石碑も入っていた。また、地蔵堂の対面や後ろには石仏・石塔群があった。いずれも説明等は無かった。旧東海道に戻り左手にあったのが『高野山 真言宗 千手院』。天王山神保寺と号していたようだが、現在は天応山と表記。高野山真言宗の藤沢市感応院の末寺で、開山は元栄和尚。元和8(1622)年6月11日ご入定をされたが、建立は永宝8(1680)年に堅岸和尚によるものとなっていると。『本堂』。大正12年の関東大震災で伽藍は全壊し、平成21年までは仮本堂のまま過ごしたが、再建計画が軌道に乗り、平成23年には、現在の本堂が落慶。ご本尊は、千手観世音菩薩坐像。元和元(1622)年の頃より開山して以来、約400年の法燈を受け継いでいると。 千手院境内の稲荷明神(左)と閻魔十王堂(右)。大山詣での登山安全を祈願するために、街道沿いまで出開帳していた歴史の有る、閻魔十王(立象10体と脱衣婆)像を安置。厄難消除のご利益の有る稲荷明神さま。小田原城主の眼病治癒で知られる、木食観正さまの石碑も建立されていると。『稲荷堂』見事な石灯籠。境内の石仏群。そして旧東海道の反対側には『高野山 真言宗 山王山 観音院 廣徳寺』。本山は和歌山県の高野山・金剛峯寺(こんごうぶじ)。山号の「山王山」は以前本堂裏に山王山(さんのうやま)という山があった事から、院号は御本尊の千手観音からこの名が付いたと。脇門から境内に。『六地蔵』。『本堂』はRC製。創建は諸説あるが初代慶海が元和5年(1619)に現在の地、茅ヶ崎市小和田に開いたと。御本尊は「千手千眼観世音菩薩」。木造『山門』。『四国八十八ヶ所お砂踏み』。四国八十八ヶ所各霊場寺院の御本尊をお祀りし、各寺院より頂戴した境内の砂をそれぞれの正面に敷き、それらを踏みながら礼拝していくことにより、四国八十八ヶ所霊場を巡拝されると同じような功徳を積んでいただけるもの。四国お遍路の要所札所の砂が四ヶ所埋め込まれたミニお遍路ができるモニュメント的なものがあった。我々二人は四国八十八か所巡りは既に昨年四月に結願済み。『弘法大師修行像』。『南無大師遍照金剛』と書かれた幟も。『山王山 観音院 廣徳寺』石碑。見事な屋根の鬼瓦?山門を皇帝ダリア越しに。再び旧東海道に。日本橋まで(から)56Km。暫く歩き菱沼歩道橋の手前右側には『牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)跡碑』が。「徳川家康 は、慶長六年(1601)、東海道 に宿場を設けて伝馬の制度を定めました。その後、宿場と宿場の間にも旅人などが休んだりする立場という施設ができてきました。藤沢宿 と平塚宿 の間には、四谷、牡丹餅、南湖、八幡の四つの立場ができました。 立場には飲食ができる茶屋がありました。「牡丹餅立場」は牡丹餅が名物なのでそのように呼ばれていました。 また、牡丹餅立場には、紀州の徳川家が江戸屋敷と国元を結んだ専用の飛脚中継所である七里役所も設けられていました。」『東海道分間絵図』。「東海道分間延絵図」は、江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図。絵図には、沿道の主な建造物では、問屋、本陣、脇本陣、寺社などが丹念に描かれている。また一里塚、道標、橋、高札なども描かれている。『東海道分間絵図の現代語訳』。小和田村から浜之郷村の間の地図。曲がりの頂点近くに「ぼたもちちゃ屋」の文字が。日本橋まで(から)57Km。『東海道の松並木』。「茅ヶ崎市内の国道一号線沿いの黒松は幹回り(地上より1.2メートルの高さで測定)2.2メートル(推定樹齢400年)の大きな松が育っております。遠い昔より、地域の人達に親しまれ江戸時代の松並木は旅人にやすらぎをあたえ、この風景はその時代の画家、安藤広重の東海道五十三次にも描かれています。長い間風雪に耐え今日では茅ヶ崎の貴重な文化財です。みんなで大切にしましょう」と。『五十三次名所図会 七 藤澤 南湖の松原左り不二(竪絵東海道)』「東海道の南湖(茅ヶ崎市)の松並木の風景を描いています。南湖は藤沢宿と平塚宿の間の立場(宿と宿の間の休憩場所)のあったところで、京都に向かっていく中で富士山が左に見える「左富士」の名所の一つでもありました。現在でも鳥井土橋(とりいどばし)から、きれいな「左富士」を見ることができます。」と。茅ヶ崎市立病院の交差点を右折すると左手に『正覚廟』山門が。「曹洞宗東松山海前寺」。藤沢市内にある宗賢院の史料によると1591(天正19)年の創建、茅ヶ崎村領主で旗本の丸毛権之蒸の菩提寺。広く塀を廻らし山門が建っていた。山門前に石造仁王像が立つ。阿形像。吽形像。『六地蔵』。山門右側の塀沿いに立つ石碑。本村・海前時にある純水館の『震災追善碑』の碑。石碑には「震災追善碑」と。石碑には、「天木栄一郎氏者岐阜縣古川町之人也當工場在勤中大正十二年九月一日際振古未曾有之大震災工場全壊罹殃死之難也當時三百八十有余名之在勤者中不幸而獨為犠牲富春秋以前余有望之身斃於是天災可惜行年廿有三 大正十四年三月廿一日純水館茅ヶ崎製糸所建之」と。『岐阜県古川町出身の天木栄一郎氏が、当工場在勤中、大正12年9月1日の未曽有の大地震による工場が全壊によりお亡くなりになった。当時380名余りの在勤者の中で不幸にして一方のみ犠牲になられた。(市史では3名となっている ) 前途有望な青年の天災による死は誠に残念なことである。行年23歳。 大正14年3月21日 純水館茅ヶ崎製糸所建立。』『本堂』前に『石灯篭』が二つ並ぶ。右側の石灯籠。左手の石灯籠。二代秀忠の菩提のため1651年に筑後久留米城主の寄進と、九代家重の菩提のため1761年に播磨国安志城主の寄進によるもの。『鐘楼』。境内の五輪塔と石仏。『道元禅師像』観世音菩薩像の右前に『摩尼車』が。摩尼車とは、主にチベット仏教で用いられる仏具の事。円筒形の部分を回転させると、内部に納められた経文やマントラを唱えるのと同じ功徳が積めるとされている。山門横に立つ大きな石灯籠。この石灯籠は、台徳院殿徳川第二代将軍秀忠菩提のため慶安4年(1651)に筑後久留米城主が奉献したものと。「海前寺」の前の道を西に進むと、右手の社の中に並ぶ石像・地蔵尊。近づいて。ここにも石仏が並ぶ。「佐々木卯之助 供養碑」。「佐々木卯之助 供養碑享保十三年徳川幕府は、柳島相模川河口より藤沢片瀬川に至る海岸一帯に相州砲術調練場を開設した。長さ百三十町、巾は海岸線より八町~十町の帯状の地域であった。佐々木卯之助は大筒役と言って鉄砲方役人であり鉄砲場の管理責任者であった。附近の住民は田畑は少なく貧困であった。立入禁止の砲術場内の荒地を開墾耕作し食料の自給を計っていたが、佐々木氏はそれを黙認していたが、代官の検地によりこのことが発覚、天保六年、八丈島遠島の刑に処せられ青ヶ島へ送られた。明治元年十二月赦免となったが病気を理由に在島、明治九年十二月同島において死去、行年八十二才と云う。村民はこの恩義を後世に伝えるため追悼記念碑を鉄砲場縁りの地に建てている。この碑は青ヶ島墓地にあったものを佐々木家の御厚意によりここに移し供養碑として祀る。 昭和五十六年五月五日 茅ヶ崎郷土会」そして「海前寺」の北側のY地路の場所にあった神社。その横には大木も鎮座。茅ヶ崎市本村5丁目11。朱の鳥居が。正面から。社を見る。朱の鳥居には「正一位」と。稲荷社であろうが名前は??そして『本村のタブノキ』。タブノキは枝葉には粘液が多く、乾かして粉にするとタブ粉が得られる。タブ粉は線香や香取線香の材料の1つ(粘結材)として用いる。樹皮や葉は染料にいられる。材は、建築、家具などに使われるのだと。市内の自然植生の代表的な樹種であるタブノキの巨木。小高い丘に位置し、地域の鎮守の目印となっていると。 ・・・その1・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次11月20日(火)に藤沢宿にある前回訪ねた『京方見付跡』近くの眞源寺から大磯宿まで旧東海道・約16.7kmを歩いて来ました。旅友と8:30に小田急線の藤沢本町駅で待ち合わせし、この日の弥次喜多道中のスタート。旧東海道への坂道から小田急線、そして旧東海道の伊勢山橋。伊勢山橋を渡った左手にある階段を上ると『風早山 眞源寺』へ。眞源寺 本堂。眞源寺の正式名称は、風早山高松院眞源寺、浄土宗・常光寺の末寺で、元禄十年(1697)に願誉秀故法師によって開山された。ご本尊阿弥陀如来立像を安置。文政三年(1806)二月八日、風の強い日に出火して全て焼失した。慶応元年(1865)にも火災に遭遇したと。そして茅ケ崎に向かって歩き、湘南高校入口の交差点を過ぎ、引地川手前で旧東海道は右側に分岐していた。たこ焼き「風天」の右側が短い旧東海道部分。引地川に突き当り左折すると県道43号線の右側にあるのが引地川に架かる引地橋。県道43号線は藤沢本町・白旗交差点から厚木市妻田東・妻田西 妻田向市場交差点まで20.4kmの主要地方道。藤沢バイパス開通に伴い、国道1号であったここ旧東海道部分(白旗交差点 - 羽鳥交差点間)が、神奈川県道43号藤沢厚木線に降格となったのであった。引地橋を渡った先の右側にあるのが『養命寺』。創建は天正年間(1573年 - 1592年)頃に暁堂が開山した。延文年間(1356年 - 1361年)頃の創建であるとする説もある。延享年間(1744年 - 1748年)に大拙が中興したと。『曹洞宗 引地山 養命寺』。境内左手の『永代供養墓』本堂。御本尊は木造薬師如来坐像 。建久8年(1197年)の銘があると。「藤沢七福神」の布袋様の寺でもある。『木造薬師如来坐像 』昭和2年(1927)4月25日指定/像高90.5cm、檜材寄木造、漆箔、玉眼/養命寺の本尊。男性的な面貌、堂々とした体躯、切れのよい衣文彫出など、鎌倉初期関東彫刻に深く根ざした運慶様を受容したきわめて貴重な像。玉眼の使用も東国では早期の作例の一つ。胎内に建久8年(1197)の墨書銘があり、造立ないし供養の年と考えられている。養命寺は16世紀の創建と伝え、14世紀の大庭に薬師堂のあったことが知られているので、元はその本尊であった可能性が高い。大正の関東大震災で罹災し、昭和3年に修復され、また平成28年度に再度修復が行われた。12年に一度、寅年の開帳で、次回は平成34年(2022)であると。境内の石塔。境内の石仏は寝かされて。お顔のない石仏も。養命寺の前の旧東海道の反対側にあるのが『おしゃれ地蔵』。お顔は白く口紅も赤くひかれお茶やお菓子?そしてお花と銀杏の葉が手向けられていた。このお地蔵さんは巣鴨のどげぬき地蔵に行かなくとも、すべての願を叶えてくれる身近な地蔵であると。『「女性の願い事なら、何でもかなえて下さり、満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼する」と伝えられており、今でもお顔から白粉が絶えることがないという。そのような所から、誰からともなく「おしゃれ地蔵」と名付けられたとされる。形態的には「地蔵」ではなく、道祖神(双体道祖神)の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしていきたい』とある。 右手にメルシャン(株)藤沢工場。旧東海道の羽鳥地区を進む。前方右手に石鳥居が見えて来た。不動堂を挟んで左・東海道、右・大山道。鳥居は大山道の一の鳥居。この鳥居は、万治4年に木製の鳥居として建立され、その後幾度となく修復され、最近では昭和35年に復興整備され、その際、鳥居正面に天狗面が取り付けられたとのこと。右手に折れるこの場所が東海道と大山道との分岐点。大山詣りへ向かう人たちが辿る(たどる)"田村通大山道"。「御花講大山道」や「御花講道」とも呼ばれ、東海道と藤沢宿で接続し、藤沢宿を挟み対面の江の島道にも通じるため、最もにぎわいをみせた経路である。神奈川県道44号伊勢原藤沢線や神奈川県道611号大山板戸線が近似したルートを辿っている。経路はここ東海道藤沢宿四ツ谷(神奈川県藤沢市) - 一ノ宮(高座郡寒川町) - 田村の渡し(相模川) - 横内(平塚市) - 下谷(以降、伊勢原市) - 伊勢原 - 〆引 - 石倉 - 子易 - 大山に至る道である。東海道を行き交うのは、何も京都を目指す旅人ばかりではなかったのです。旧東海道から見た石鳥居をズームで。鳥居には大山信仰のシンボルの一つであるカラス天狗の顔が。残念ながら鼻がなくなっているのです。不動明王を頭上にいただく道標は、1670年代後半に建てられたと。堂外にはさらに古い1661年に建てられた道標があったそうですが痛みが激しかったようで、最近、新しいものに建て替えられたのだと。尚、その道標は2012年に、何と遠く伊勢原市の大山新道沿いに修復・移設されたとのこと。迫力満点の不動明王。大山道の行きつく先、伊勢原の大山寺の本尊が不動明王なのである。不動明王の後背の火焔は迦樓羅炎(かるらえん)と呼ばれるもので、不動明王が火焔の中に身を置き、自らを火焔そのものにすることによってあらゆる煩悩を焼き尽くすという凄まじい姿勢を示しているのだと。道標には「是よ里右大山みち」と刻まれていた。『四谷不動(大山道標)』解説文。『東海道七 五十三次之内 藤沢 四ツ谷の立場(蔦屋版)』当時の浮世絵に見る四ツ谷辻。「追分 大山みち」そして不動堂もちゃんと左端に描かれているのです。このあたりの地名「四ツ谷」は、家が4軒あったことから、かつては「四ツ家」とよばれ、それが「四ツ谷」に転じたとも。しかし、茶屋が立ち並び賑わっていたと言われているのに、家が4軒とは少々寂しい。広重の下の浮世絵を見ても、多くの店や家が描かれており繁華街の感があるが、家が4軒というのは、さらにもっと前の時代のことか?さらに進むと『日本橋まで(から)54km』。『一里塚跡』。遊行寺坂上から下る遊行寺坂の途中に12番目の一里塚跡があったがここは13番目の辻堂一里塚跡。しかしあるのはこの道標のみ。松並木が始る。辻堂・四ツ谷一里塚を過ぎると、『二ツ家稲荷神社』が右手に。『庚申塚』も。「藤沢市指定重要文化財寛文十年(1670)庚申供養塔庚申信仰は、十干・十二支の組合せによって六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰である。その源流は、「人の体内にいる三尸の虫が、庚申の夜、天にのぼってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」 とする中国の道教の教えに由来している。江戸時代、万治・寛文頃(1658~1672)には、仏教を背景に広く庶民に伝わり、「庚申講」が結ばれて庚申の夜は、講中の人々が当番の家に集まり、徹夜で酒食歓談して過ごす庚申待の行事や、供養塔の造立が盛んになった。二ツ家稲荷神社境内の寛文十年庚申供養塔は、総高百五cm、蓮辧型で、造り出しの基礎部の上に別に台座を作り、その上部箇所に正面向きの三猿像を載せる手法をとっている。」と。昭和52年(1977)4月13日指定/舟型光背型、総高125㎝、火成岩(安山岩)製/寛文10年(1670)の紀年銘があり、基礎造り出し部分前面に「相州土戸村道行」(辻堂か)として石井権左衛門以下、造立した庚申講中8名の名が刻まれています。下方の基礎造り出し部分は浅く、別の台座を造り出して正面向きの三猿像をのせ、全体が下太りのため安定感が保たれています。塔身前面の枠作りは全形に応じた工夫と見られ、額部の突起がやさしい感じを与えています。『二ッ家稲荷』。「稲荷大明神」と書かれた扁額のある石鳥居の先に社殿が。『二ツ家稲荷神社歴表』。「当町稲荷社ハ昔古ヨリ設立延宝七年六月并ニ天明六年九月再築享和三年二月新築天保九年二月再建是マデ修繕致シ束リ今回大破ニ及ビ氏子一同協議之上新築仕リ度何分少数ナル町民負担ニ堪ヘ兼テ有之有志諸氏多少ヲ不満新築費ノ内御寄付被成下度伏テ願 ヒ奉候也明治三十九年氏子一同協議之上新築明治四十三年其ノ筋ニ依リ無格社ハ可拂ヒノ命令ニ依リ一時川澄忠右エ門氏ノ宅地内ニ五ヶ年程置ク大正四年二月川澄藤之助氏功志ヲ以テ神台四二六番地ニ新築セリ昭和十八年太平洋戦争ニ依リ当時ノ海軍省ノ命令ニ依リ稲荷社ノ敷地(参百坪余)ヲ買収サレ物資不足ノ折リ下内地城南一丁目三番地ニ新築ス昭和六十一年屋根ノ損傷ヒドク瓦ヲ葺替同時ニ外装ヲモ一新ス昭和六十二年氏子有志ニ依リ玉垣ヲ奉献ス 平成八年十一月吉日新築ス 二ツ家稲荷神社氏子中」と。『大山街道入口』交差点。ここから右斜めの道も大山道。右角の松の木の下に石碑が建っていた。碑の正面には『奉巡禮西国坂東秩父』、右側面には読みにくい崩し字で『あふり山わけ入る道にしおり置くつゆの言の葉しるべともなれ』と刻まれているのだと。かつてはこの歌の案内柱が傍に立っていたが今は何処に?。『県道 おすいマンホール蓋』松がデザインされていた。そして「大山街道入口信号」の先の松並木の中の藤沢市と茅ケ崎市と市境を通過。茅ケ崎市の市章は「チガサキ」の「チ」を図案化した円形で、市の融和と団結をあらわし、翼状平行線は市勢の飛躍、発展を象徴しているのだと。茅ケ崎にお住いの我が旅友のSさん、しっかり覚えて下さいね!!我が藤沢市も「フジ」を図案化した市章なのです。そして茅ケ崎市の『おすいマンホール蓋』。姥島(烏帽子岩)と日の出、カモメ、一艘の舟が描かれ、「ちがさき おすい」とひらがなで書かれた汚水のマンホールの蓋。『明治天皇御小休所阯』。道の両側に続く松並木の木陰が嬉しい街道を暫く進み、「赤松歩道橋」を過ぎた右側の民家と駐車場の前に明治天皇御小休所阯の丸い石柱が建っていたが説明文等は無かった。石柱には「明治元年十月十日 十二月九日」と刻まれていた。明治天皇が京都から東京への行幸のため利用されたのであろう。東小和田バス停の前が『日本橋まで(から)55Km』。 ・・・旧東海道を歩く(保土ヶ谷~藤沢)その7・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.20
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次遊行寺を後にし、いろは坂を下り惣門から西日の輝く遊行寺橋に向かう。小さな橋ですが、赤くて印象的。時間は16:09。『遊行寺橋(旧大鋸橋)・高札場跡』江戸から東海道を進むと、東海道第六の宿、藤沢宿内の遊行寺橋(旧大鋸橋)で境川(片瀬川)を越えて鎌倉郡から高座郡に入ります。橋を渡って、右手が大久保町。橋のたもとに高札場があり、公定運賃の定め、キリシタン禁制など、徳川幕府の重要法令が掲示されていました。高札場は屋根付きで高さ約3.6m、横幅5.4m、縦幅1.8mの規模であったと。左手(南側)には「江の島一ノ鳥居」が建てられていた。江の島弁財天の遙拝の鳥居で、東海道と別れて鳥居をくぐれば、「江の島道」です。国道1号線の藤沢橋を振り返る。『東海道五十三次 藤澤宿』。藤沢宿は東海道の江戸日本橋から数えて6番目の宿場。すでに戦国時代から、小田原北条氏が弘治元年(1555年)に藤沢大鋸町に伝馬(てんま)を置くなど、交通上の要地ではあったが、慶長6年(1601年)に駅制が定められるにあたって藤沢宿として整備され成立した。また、それ以前の慶長元年(1596年)に徳川将軍家の宿泊施設である藤沢御殿が築かれていた(17世紀半ばに廃止)。宿場は境川東岸の大鋸町(鎌倉郡)と同西岸の大久保町(高座郡)・坂戸町(同)の3町で構成されており、範囲は遊行寺東側の江戸方見附(みつけ)から台町の東手前(小田急江ノ島線を越えたあたり)の京方(上方)見附までであった。下の浮世絵は藤沢宿の夜の風景で、右側にある鳥居が江の島一ノ鳥居(江の島道入口)、左手にあるのが大鋸橋(現遊行寺橋)。宿場に着いた人々と客引きをする宿の人々の様子が描かれ、賑わいが感じられるのだ。『桔梗屋』は国登録有形文化財。宿場的雰囲気がある店蔵(桔梗屋)は、明治44年の建築で国登録有形文化財になっている。本社は横浜に移転したという桔梗屋は、藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家で、この時間、店は閉まっていた?が、現在も藤沢支店として使用されているとのこと。『稲元屋本店跡 明治天皇行在所記念碑』「弘化2年(1844)、初代寺田三郎兵衛(満弘)が創業。質素と誠実を家訓とし、稲元屋呉服店の礎を築いた。明治24年亀井野の陸軍大演習のため行在所となった。石碑は皇紀2600年(昭和15年)町民の意気高揚のため建てたものであると、側面に平成14年6月、5代目当主と刻まれていた。裏山の竹林に「明治天皇行在所」の石碑があるとのこと。呉服屋稲元屋本店(寺田家)は藤沢宿で一番の大店(おおだな)であった。寺田家には現在二棟の土蔵が残っているが、かつては五棟の蔵があった。藤沢駅の開業は明治二十年(1887)、四年後の明治二十四年(1891)に御在所となった。隣はさんこうどう、創業百二十八年の老舗です。明治十四年築の大規模な店蔵と洋館は藤沢市が解体、保存されています。寺田家の竹林を抜けた場所には古典地誌「我棲里」などの多くの著作を残し、藤沢の発展に尽力された医師・小川泰堂の笑宿庵跡があったが、史跡を見つけることはできないと。藤沢宿で一番その当時の雰囲気を残している建物の1つは内田商店本店。旧東海道に面して重厚な造りの母屋の店舗が建ち、その裏手にはくの字に曲がった石蔵と母屋の店舗横にも土蔵があるようだ。 『東海道藤沢宿復元図』『問屋場跡』。宿場において人馬の継ぎ立てを行う場所を問屋場と呼び、藤沢宿では、大久保町と坂戸町に一ヵ所ずつありました。問屋場では 問屋(責任者)や年寄(補佐役)の指示のもとに、人馬と荷物の割り振りや賃銭の記録、御用通行の武家等の出迎え、継飛脚 (公用書状の逓送)などが行われました。また、近隣の村へ助郷役や街道掃除役の割り当ても行いました。この場所は坂戸町問屋 の敷地跡で、のちに藤沢警察署となり、現在は消防署出張所になっています。『藤沢御殿跡』は現藤沢公民館場所。江戸時代の初め頃、藤沢にはまだ本陣がなかったので、将軍は自らの宿泊のために今の藤沢一丁目あたり(藤沢公民館付近)に藤沢御殿をつくりました。絵図面によると東西約193m、南北約113mの長方形の区画で、記録によると「慶長五年(1600)に家康が宿泊して以来、寛永十一年(1634)に家光が使用したのを最後に廃止の道をたどりました。御殿の周辺には御殿を管理する代官陣屋が配置され、陣屋小路をはじめ御殿辺などの地名や陣屋橋、御殿橋といった橋の名に今では往時のなごりをとどめているのみです。藤沢御殿は藤沢宿が設置される前の慶長元年(1596年)頃に築かれたと推定される。徳川家康は天正18年(1590年)関東に入ると地域支配の拠点、休憩・宿泊施設として御殿やお茶屋を設置した。記録としては『慶長記』に徳川家康が慶長5年(1600年)に鎌倉遊覧のため訪れた記述があるのが最初で、秀忠、家光と寛永11年(1634年)まで28回利用されていると。資料によると四方は水堀で囲まれ、内土塁と外土塁がめぐらされている東南の堀は幅6間、深さ2間半、南北の堀は幅5間、深さ2間半で、外土塁の外側は東西106間、南北62間で、内土塁の中は東西86間、南北36間の広さがあった。表御門は東海道に面した南側にあり、裏御門は東側にあった。表御門の西側には御殿番所、東側には代官陣屋が立ち並んでいた。総面積は6,000坪に及び、これは城郭構えである事は明らかであると。『蒔田本陣跡(まいたほんじんあと)』藤沢宿の本陣は江戸時代中期から蒔田源右衛門が勤めました。本陣は大名や公家などの専用宿泊で、江戸時代に来日した朝鮮通信使も利用しました。「相中留恩記略」に見る蒔田本陣 墨絵図。藤沢宿の本陣は大久保町名主・問屋を勤めた堀内家(元玉縄城北条氏家老の家柄)であったが、延享2年(1745)に火災のため本陣職を坂戸町の蒔田(まいた)家に譲った。蒔田本陣の規模は間口13間、奥行19間、建坪210坪、玄関・門構えのある建物で明治3年まで約120年間続いたとのこと。そして『常光寺』を訪ねる。旧東海道(現国道467号線)から消防署の脇を入ると、明治五年に警察署の前身である「邏卒屯所(らそつとんじょ)」が置かれた常光寺(浄土宗)がある。創立は元亀三年(1572)、墓所を包むようにひろがる約7900㎡の静かな寺林は、天然記念物として市の指定を受けている。境内の六地蔵。子育観音像。本堂左脇に市指定文化財の「庚申供養塔」が2基。万治二年(1659)の銘をもつ庚申塔は、庚申講中が建立した浄土宗系のものとして貴重です。もう1基(寛文九年銘・1699)は、笠石が軽快な感じを与えます。本堂。『常光寺の樹林』。常光寺の境内の樹林は、藤沢市の天然記念物に指定されているようで、境内には大きな木がほかにもあります。幹周り4.1mのタブノキ、幹周り2.9mのイチョウそして本堂裏も樹林が。『かながわの名木100選 常光寺のカヤ』ひときわ目を引くのは、高さ約25m、推定樹齢300~400年にもなるカヤの巨木で、県選定の「かながわの名木100選」にも挙げられています。『野口米次郎辞世碑』明治八年愛知県に生まれ、二三年単身渡米、新聞記者となり、のち英国に渡る。詩集を出版するなど両国の詩壇で活躍し、 三七年日露戦争の報道のため帰国、兄が住職を勤める常光寺や鎌倉円覚寺に住した。慶応大学で教鞭をとり、世界各地で日本文芸について講演し、また広重・春信などの浮世絵や正倉院宝物について英文出版、さらに日本での最初の英文案内書『Kamakura』を出版したりして日本の文化・文芸を世界に紹介し、“ヨネ・ノグチ”の名で親しまれている。昭和 二二年疎開先の茨城県で没した。墓碑には野口米次郎の臨終の時の詩が刻まれています。「鐘が鳴る かねがなる これは即ち 警鐘と言うのですこれが鳴ると皆ねます さぁ みんな眠りましょう」と刻まれていた。この誌の意味は?余裕を失った我々現代人への警鐘?それとも・・・・・?一段上にも多くの無縫塔(むほうとう)墓碑が。 常光寺の歴代僧侶の墓塔であろうか?塔身が卵形という特徴があり、「卵塔」とも呼ばれる形。常光寺の西側に八王子社跡があり、そこに『弁慶塚』があるとのことで訪ねる。石段を上ると旧字で書かれた「辨慶塚」の看板があり、多くの木々が。奥にはさらに石段があり、もう1段高い場所に庚申塔などが並んでいた。この石段の上にも石段の石を飲み込むようにタブノキの古木が立っていた。八王子社跡。「庚申尊」碑と弁慶塚、庚申塔がずらりと並ぶ庚申塚。「白幡神社誌」によれば、奥州平泉から自害した源義経の首と一緒に武蔵坊弁慶の首も鎌倉の在の腰越に送られ、首実検がなされ、夜の間に2つの首は寒川神社に飛んで来たという。このことを鎌倉殿(頼朝)に伝えると、白幡神社としてこの神社に祀るようにと下知され、義経を御祭神として白幡神社となった。弁慶の首は八王子社として祀られたのだと。弁慶塚の堂の中に「弁慶塚」と刻まれた石碑が。そして旧東海道沿いの『済美館』。街道に戻って直ぐ先の「藤沢公民館分館」は、済美館として生まれ変わった建物である。この地域は、江戸時代以前から、遊行寺の門前町、東海道の宿場町として栄え、商業(問屋街)も盛んで、近隣の町村から多数の人が集まりました。また、大正初年から町役場があり、市制が布かれてからも昭和二十六年(1951)まで市役所が置かれ、本市の歴史・文化並びに経済の中心地でもありました。済美館は、昭和十七年(1942)一月武道場として飛嶋繁氏によってこの地に建設、藤沢市に寄贈されました。この「済美館」の名称は明治三年(1870)十月大久保町の名主堀内悠久の子郁之助氏により、土地の子弟教育のため藤沢宿に創設された藤沢郷学所済美館の名にあやかり命名されたものです。その後、一時期市議会議場として使用されたほか、昭和六十二年(1987)まで主に市民の武道練成の場として利用されてきました。当館は、建築後五十年近くを経、この度、地域住民の熱望により、地域の活性化と、住民の交流を図るための機能を加え、新しい済美館(藤沢公民館分館)として生まれ代わり、ここに完成をみました。これを記念するとともに、「世々その美を済す」という済美館の原意通り、当館が生涯学習の拠点として、これを利用する人々の創意と工夫により、将来に向けて、今後ますます発展していくことを祈り、この碑を建てます。『妙善寺』入口。日蓮宗の寺院。山号は、長藤山。旧本山は、比企谷妙本寺。池上法縁。永正元年(1504年)に日純により創立した。前身とされる密教寺院が建立された延暦15年(796年)が創立で、弘安3年(1280年)日聞が日蓮宗に改宗したという説もある。 天明年間(1781年-1789年)に洪水により堂が流失したが、天保13年(1842年)に日扇が再建したと。そしてこの寺は我が実家の菩提寺。山門。本堂。『正宗稲荷大明神』鐘は鐘楼の完成を待っていた。本堂と周囲の墓地。そして東海道に戻り『伝源義経首洗井戸』を訪ねる。平泉で討れた義経の首は首実験後片瀬の浜に捨てられ、境川を逆り白旗に漂着したものを里人がこの井戸で洗い清めたと。井戸は公園右手の竹塀の前にあり、格子蓋が被せてある。中を覗くとやや深い円筒形で、涸れ井戸だった。井戸の手前右には説明板、左には『武蔵坊辨慶公之靈 九郎判官 源義経公之首塚 亀井坊 片岡坊 伊勢坊 駿河坊 各靈』と刻まれた石碑と、『源義経史蹟 藤沢市』と刻まれた石柱が建っていた。「吾妻鏡」という鎌倉幕府の記録によると兄頼朝に追われた義経は奥州(東北)でなくなり文治五年(1189)に藤原泰衡から義経の首が鎌倉に送られてきました。義経の首は首実検ののち腰越の浜へ捨てられました。それが潮に乗って境川をさかのぼりこの辺に漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めた井戸と伝えられます。ここから北方四〇メートル辺に義経首塚と伝える遺跡もありました。格子蓋が被せてある井戸。『本町白旗商店街マップ』東海道藤沢宿の西部にあたる商店街。前身は本町のれん会という名称でしたが、源義経を祀る白旗神社にちなんで、本町白旗商店街と名前を変え昭和63年に発足したと。『藤沢宿絵図』。白旗神社は訪ねなかったが、以前に訪ねてブログアップ(☚リンク)している。そして夕日が沈みつつあるなか、伊勢山橋に着く。下は小田急江ノ島線の線路そして藤沢本町駅が。高校時代はこの駅を利用して登校していた懐かしい駅。橋の上から丘の上にある『眞源寺』が見えた』。そしてこの日の最後の訪問場所は『藤沢宿 京見付』。小田急江ノ島線に架かる伊勢山橋を過ぎると藤沢宿京方見附跡がある。台町と呼ばれており、バス停にその名を留めている。台町バス停は小田急藤沢本町駅の最寄のバス停である。尚、「藤沢地区郷土づくり推進会議」では、電柱の地中化に伴い設置されたトランスボソクスに、街の変遷してきた姿や浮世絵などをラッピングしているのであった。「トランスボックス」は通りの両側に数十メートルの間隔で設置されており、車道側・歩道側両面にラッピングしていた。以前この「トランスボックス」(☚リンク)を巡りブログアップしているのでここにリンクします。そしてこの日の反省会は旧東海道を白旗交差点まで戻り、白旗神社方面に左折し直ぐ左側の店・万作で旅友とモツ鍋を楽しむ。そしてサンマ焼きも。更にいろいろと・・・。 ・・・その6・・・に戻る ・・・旧東海道を歩く(保土ケ谷~藤沢) 完・・・ ・・・旧東海道を歩く(藤沢~大磯)につづく・・・
2019.01.19
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして藤沢バイパス出口と国道1号線に架かる東俣野歩道橋を渡る。下には藤沢バイパスが。藤沢バイパスがここから国道1号線。旧東海道はここから「神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線」と呼ばれているのである。起点はここ横浜市戸塚区影取町・東俣野町 藤沢バイパス出口交差点(国道1号・藤沢バイパス) 終点は茅ヶ崎市汐見台・緑が浜・浜須賀 浜須賀交差点(国道134号)の延べ7.5kmである。そして、この県道30号線の全区間が箱根駅伝のコースになっているのである(往路3区、復路8区)。俣野別邸庭園出口の一方通行の道。『俣野別邸庭園』と刻まれた石碑。旧住友家俣野別邸(以下俣野別邸)は、1939(昭和14)年に住友財閥の第16代住友吉左衛門友成の別邸として戸塚区東俣野町に建設された。国内の建築作品に与えられる大きな賞の一つ、BCS(Building Contractors Society)賞を受賞した日光プリンスホテル(栃木県日光市)や、長野県山ノ内町指定有形文化財である山荘、志賀アルペンローゼ(長野県下高井郡)の設計をした佐藤秀三の設計による「和洋折衷建築」が俣野別邸の大きな特長。梁(はり)や柱、筋交いを外に見せてモルタルや瓦で埋めるハーフティンバースタイルを基調とし、昭和前期のモダニズムの雰囲気を伝える洗練された建物だったという。当時の郊外邸宅の有り様を物語る歴史的価値の高さから、2004(平成16)年に国の重要文化財に指定されたと。昨年11月末には妻が孫を連れて訪ねたのであった。そして我が住む町・藤沢市に入る。「核兵器廃絶平和宣言都市」の看板が。旧東海道を離れ『旧モーガン邸』を訪ねる。旧モーガン邸は、1931年、藤沢市に建てられた建築家J.H.モーガンの旧邸。スパニッシュスタイルの要素を取り入れた外観に和洋折衷の室内を持つこの家は、モーガンの自邸としてだけなく、湘南地域に分布する昭和初期の邸宅として住宅史的にも文化史的にも価値のある建物であった。 モーガン亡き後何人かの手に渡り、債権処理の対象になっていたところ、1999年に地元の建築家と緑を守る取り組みをしてきた有志で「特定非営利活動法人旧モーガン邸を守る会」を結成し、旧モーガン邸の保存活動を開始した。そして2005年、藤沢市と公益財団法人日本ナショナルトラスト(JNT)が土地および建物を取得した。ところが2007年、2008年と二度の火災に遭い、かなりの被害を受けてしまった。現状としては、主屋部分は玄関や暖炉、床、地下室などが残っている状況であると。旧モーガン邸はこちらと。しかしこの日は休館日?であった。東海道に戻り遊行寺坂を下る。この辺りからは地元でもあり何度も訪ねた場所。坂の途中に神奈川県が設置した「遊行寺坂」の標識が。遊行寺の前にある東海道の坂を「遊行寺坂」といい、馬の背のような急坂でした。この坂を上るときには、乗り物に乗っている人には降りて歩いてもらったり、「立ちんぼう」と呼ばれる駄賃かせぎの人たちに荷車などを押してもらいました。いまの「遊行寺坂」は、二度掘り下げているのでゆるやかになっていますが、道の両側が崖になっており、その上に家が建っているので、かつての道の高さがしのばれます。(「藤沢の地名」より) 遊行寺は、“藤沢道場”ともいったので「遊行寺坂」を「道場坂」とも呼んでいると。旧東海道の遊行寺坂上から下る遊行寺坂の途中に一里塚跡があったのだと。この一里塚跡も手前の原宿一里塚跡と同様に具体的なものは何も残ってはいない。12番目の一里塚であったことから、日本橋から12里(48Km)の場所であることを示しているに過ぎない。遊行寺や諏訪神社が近いことから、東海道を行き来する旅人もここ遊行寺坂一里塚の松の下で休憩することはあまりなかったのでは。なお、遊行寺坂の途中、諏訪神社と遊行寺の間に江戸見附跡の標柱が立てられており、ここ遊行寺坂一里塚跡は藤沢宿の出入口を示す一里塚であったのだろう。『一里塚跡 (いちりづかあと)』「かつて、このあたりの道路の両側に一里塚があった。一里塚は、主要な街道の一里(約四キロメートル)ごとに江戸幕府が設けたもので、旅程の目安として利用されていた。崖上の高さまであった江戸時代の東海道を掘削改修したのが現在の道路で、一里塚も崖上にあったが、今は何も残っていない。左図は往時の面影を伝える史料の一つ。画面上部の道が東海道、くの字に曲がるところに遊行寺(ゆぎょうじ)が描かれている。その右手に「一りづか 榎三」と記され、街道の両側に植木のような描写がある。今の遊行寺坂より遥かに急な坂道で、その坂の上に遠くからでも分かりやすいように盛土されて榎(えのき)が植えられていた様子がうかがえる。急坂の上、榎の木かげで一休みする旅人の姿が浮かんで来るようです。」そして、この先直ぐが私が毎年箱根駅伝の復路の応援をして来た場所なのであった。そして遊行寺坂を下っていくと左手にあるのが『諏訪神社』。建武2年(1335年)、清浄光寺(遊行寺)を開いた遊行上人第四代呑海が同寺院の鎮守として、信州の諏訪から勧請したことにより創建された。慶安年間(1648年 - 1651年)には鳥居の前での落馬事故が相次いだことにより風早之谷(諏訪ヶ谷戸、藤沢本町駅付近)へ転座され、さらに元禄12年(1699年)に現在地へ移転した。以来、藤沢宿東方面の大鋸町や大久保町などにおける総鎮守となっている。明治維新後の神仏分離によって清浄光寺から独立したが、現在でも祭事などでの関わりは続いている。諏訪神社の階段を上る。石鳥居。この地域における旧家である森家は棟梁として職人衆「藤沢大鋸引(ふじさわおがびき)」を構えていたが、清浄光寺の門前が彼らの居住地となっていた。大鋸の地名はこれに由来していると。『手水舎』。『拝殿』。祭神は・建御名方富命(たけみなかたとみのみこと・八坂刀売命(やさかとめのみこと)。多くの境内社が拝殿の向かって左側に。『太子堂』。『道祖神』。『大黒天社』(藤沢七福神に指定されている)『祖霊神』実物は傾いていませんので。『社務所』。そして諏訪神社の前にあるのが『時宗総本山遊行寺』の脇門。東海道を直進すると藤沢橋に向かうが、藤沢橋は江戸時代にはなく、江戸時代の東海道は手前を右折して。やや上流に架かる遊行寺橋を渡ってから右折し、茅ヶ崎・平塚宿方面に向かっていたのである。なお左折して行くと大鋸町のうち舟久保、江ノ島へ抜ける江の島道であった。遊行寺へは藤沢橋の上流に架かる朱塗りの遊行寺橋を渡って黒門から入るのが参道だ。旧東海道はこの突き当りから右手が遊行寺の参道であり左手に向かうと境側に架かる『遊行寺橋』がある。角にあるのが『ふじさわ宿 交流館』。旧東海道藤沢宿の歴史、文化に親しむ機会を提供するとともに、地域住民や来訪客の交流の場として、2016年4月29日に開館。館内には『東海道五十三次の藤沢宿の様子』がジオラマで展示中。真ん中にあるのが『遊行寺橋』で奥が『遊行寺』。別の角度から。下が旧東海道で右折して突き当り左折すると『遊行寺橋』藤沢宿の古地図。藤沢宿の街並みと家屋の名前が詳細に記載されていた。昔の郵便屋さん「飛脚」はこんな様子だったと。『藤沢広小路』。広小路(ひろこうじ)とは、江戸時代以降に火災の広がりを食い止めるために設置が推進された火除地のこと。最も有名な広小路としては「上野広小路」が思い浮かぶが、この上野広小路、そして名古屋の広小路と並ぶ三大広小路の一つと言われた広小路が、時宗総本山遊行寺の前に置かれていたという。「右折→左折→右折」の部分、これが「藤沢広小路」。右折→左折→右折」、つまりクランクの形状をした広小路は当時珍しく、三曲がりとして有名だったと。壁には、東海道五十三次の浮世絵が展示されていた。この『旧東海道を歩く』で全ての宿を制覇出来るのであろうか?初代歌川広重「東海道五十三次之内 藤沢(保栄堂版)」江の島一ノ鳥居付近。背景の小山が遊行寺。初代歌川広重「東海道五拾三次 藤沢(狂歌入東海道)」「うちかすむ 色のゆかりの ふち沢や 雲居をさして 登る春かな」初代歌川広重「東海道五十三次 藤沢(隷書東海道)」夜の藤沢宿、遊行寺橋界隈のにぎわい。初代歌川広重「東海道五十三次之内 藤沢(蔦屋版)」東海道が大山道に分岐する四ツ谷(立場)のにぎわい。初代歌川広重「五十三次名所図会 藤沢 南湖の松原左り不二(竪絵東海道)」南湖(茅ヶ崎市)は藤沢宿と平塚宿の間の立場で、左富士の名所の一つ。遊行寺『惣門』。遊行寺境内配置図。惣門前の車庫のシャッターに描かれていた初代歌川広重「東海道五拾三次 藤沢(狂歌入東海道)」。 「うちかすむ 色のゆかりの ふち沢や 雲居をさして 登る春かな」。青銅製灯篭(右)。青銅製灯篭(左)。惣門には『時宗総本山 清浄光寺(しょうじょうこうじ)』と。惣門の冠木門で、日本三大黒門のひとつと。そしてその先にあるのが48段あることから『いろは坂』。『板割浅太郎の墓』。板割浅太郎は、国定忠治の子分。赤城の子守唄でよく知られている人物。赤城山で親分の忠治と別れた浅太郎は、長野県佐久の金台寺で仏門に入ったのちに遊行寺に入り、自分が殺した叔父親子の菩提を弔ったという。その心が認められ、遊行寺にあった貞松院の住職となり、遊行寺が炎上したときは、勧進僧となって全国を巡って、遊行寺復興に尽力したといわれている。時宗総本山・清浄光寺(遊行寺)の惣門に向かって、藤嶺学園藤沢中学校・高等学校の生徒たちは下校。登下校時には本堂に向かって一礼することが習慣となっているようであった。『眞徳寺』の赤門。時宗『眞浄院』入口門。大銀杏(市指定天然記念物)。樹齢700年(一説に500年)といわれ、藤沢市の天然記念物に指定されている。昭和57年8月2日の台風により、約3分の1が折れてしまったが、現在は見事に復活。大銀杏の見事な乳根(にゅうこん)。『朱雀門』(右)と『黒門』(左)。内部には寺務所、信徒会館等が。そして『本堂』。遊行寺は1325年(正中2年)に創建された時宗の総本山。開山は遊行第四代上の呑海。開基は呑海の兄・俣野五郎景平。正式名称は、「藤澤山無量光院清浄光寺」。「遊行上人のおわす寺」ということから「遊行寺」の名で親しまれてきた。本堂は、関東大震災で崩壊した後、1937年(昭和12年)に落成した東海道随一といわれる木造建築物。遊行寺は昨年の正月にも訪ね詳しくブログアップしていますのでアクセス願います。 ・・・その5・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.18
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に「大坂」を上り終えた先が現東海道の国道1号線の合流点。『大坂松並木』「大坂」では天気の良い日に松並木から素晴らしい富士山が眺められることから、多くの浮世絵の画題となった。昭和七(1932)年に坂の改修工事が始まり、頂上を削り、下の方は十mほど土盛りをしてなだらかな長い坂に。現在の「大坂」になるまでは数回の改修がおこなわれたと。江戸時代の3代将軍徳川家光のとき、日照りが続いたので歩行者のために街道筋に松を植えさせたと。その当時の名残が道路の中央部に今も残っているのだと。「旧東海道 大坂松並木」の標柱にあった案内の浮世絵。江戸時代のこの辺りは松の間に富士山が見える松並木だったと。坂の下には戸塚宿と思われる家並みが見える。大坂の上から江戸に向かいながら戸塚宿を見下ろしている様子を描いたものと。よって、この浮世絵に富士山の姿はなし。『東海道 六 五十三次 戸塚』本図は、戸塚の宿を過ぎて汲沢村の辺りの山道を描くが、宿外れの坊示杭が右手に見え、手前に松の大木がある。遠景の富士山に連なる丹沢山塊が、画面に奥行きを見せる。広重の代表的な東海道シリーズの一つ。揃物名が隷書体で書かれているので、俗に「隷書東海道」という。「保永堂版」東海道に次いでよく知られた揃物。そしてこの絵の左側には急な『大坂松並木』を上る旅人の姿、そして右側には丹沢山塊とその奥に白き富士山の雄姿が。『汲沢(ぐみざわ)町第二歩道橋』の文字が。昔は松並木であったが現在は広葉樹の並木が続いていた。この辺りは戸塚山と呼ばれた丘の上。下に戸塚の街並みが見えた。この辺が前述の浮世絵に描かれた場所か。道路脇に区画された石碑が。『東海道 お軽勘平戸塚山中道行の場歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の有名な場面「戸塚山中道行の場」はここ・・・。勘平のモデルは浅野内匠頭の刃傷事件を赤穂に伝えた使者の一人菅野三平。しかし、お軽と勘平は実在の人物ではないのだと。『お軽勘平の碑建設実行委員会』と刻まれた石碑横には「落人を見るかや野辺に若草の‥」の碑があり、この「お軽勘平戸塚山中道行の場の碑」を解説したもののようだ。「落人」はWikipediaには「合戦に敗れて僻地に隠遁したもの、およびその末裔を指す言葉」しか記載がない。しかし、goo国語辞書には「歌舞伎舞踊「道行旅路の花聟(はなむこ)」(↼リンク)の通称」との記載もある。「落人」解説碑からはこの「お軽勘平(↼リンク)戸塚山中道行の場の碑」を知ることは直ぐに諦めたが、帰ってからWebで調べると、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」で有名な「戸塚山中道行の場」の場面の舞台なのだという。『日本橋から46Km』と。湘南江の島を描いた大型トラックが我々横を通過。『原宿一里塚跡』。原宿一里塚は11番目の一里塚であるが、国道1号線では日本橋から46Km余りの地点になる。手前の10番目の一里塚跡は戸塚宿元町にあり、次の12番目の一里塚跡は遊行寺坂にある。『浅間神社入口』の標柱。浅間神社は永禄年間(1558年〜1570年)に創建されたといわれている。その頃、富士信仰が盛んであり、それで村内の安全を祈願して勧請されたとされる。東海道に沿って小道と参道が続いているが、参道の両側には常緑高木でブナ科のスダジイの大木が連なる。驚くほど太い木もあり、樹齢600年を越えていると言われているのが納得できる。原宿一里塚はちょうど浅間神社の横の東海道にある。旅人は一里塚ではなく、ここの神社に立ち寄って庚申塔を拝み、休んだのかも知れない。『庚申塔』。境内には巨木が。『スダジイ』であると。普通、シイ(椎)という場合にはこの『スダジイ』であると。公園樹、街路樹、庭木などとして植栽される。果実はアク抜き不要で食用となるのだと。木材は木炭やシイタケ栽培のホダ木になる。また、タンニンに富む樹皮を黄八丈の黒色部の染料に用いられていると。拝殿。朱色の鳥居と石祠。階段横には老木が続く。『大運寺』相模風土記によれば、1596年の創建。 山号は唐澤山、芝増上寺の末寺で浄土宗の寺。六地蔵。将棋を指す僧侶の姿か?宗祖の法然像。『月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ』と法然上人の歌。「月の光が届かない人里などないのですが、月を眺める人の心の中にこそ月(月の影)は、はっきりと存在してくるのです。」と。月の光は阿弥陀仏の救いのことで、それが届かない里はない。すべての里に届く。したがって、阿弥陀様の救いは万人を対象としている。ただし、目で見て認識しない限り月はないも同然である。見ることによってこそ月は存在するのである。見れば必ず見る人の心にまで届くものです。見さえすればよいのです。すなわち、念仏さえすればよいのです」と。『手水舎』。『本堂』。ご本尊は木造阿弥陀如来立像で、両脇侍には、木造勢至菩薩立像と木造観音菩薩坐像。阿弥陀如来立像は、作風、構造から南北朝時代の作とされ、宋元風の影響が認められる。像高は146.0センチ、光背高が196.0センチ、台座高が63.0センチ。寄木造、玉眼、肉身部は漆箔、着衣部の彩色は剥落している。上品下生の来迎印を結ぶと。『法然上人御幼名 せいし丸さま』『二宮金次郎之像』。更に原宿方面に歩を進める。日本橋まで(から)48Km。藤沢市との境界にある影取町を通過。『道祖神』。台座には「仲町」と刻まれていた。日本橋まで(から)49Km。 ・・・その4・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.17
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次今日から『旧東海道を歩く(保土ケ谷~藤沢)』のブログアップを再開します。★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★戸塚宿の散策を続ける。真宗本願寺派『 善了寺』を旧東海道から。『産婦人科 内科 伊東医院』この建物は、2003年横浜市より「横浜市認定歴史的建造物」に指定されている。創業は江戸時代末期。創業時は漢方医で吉田大橋際で開業、婦人の血の道の治療で名が通っていました。明治17年祖父の代に現在地に移り関東大震災後の大正14年に現在の建物になったと。現在の副院長・伊東均先生で五代目の医療継承となっていると。JR戸塚駅近くのビルの壁にはユニークな絵が。旧東海道に面した大パネルはスポーツと浮世絵のコラージュ。これは、広重の東海道五十三次 袋井宿。ここ袋井宿は江戸からも京からも27番目にあたる、東海道の中間の宿場。街道のところどころにある休憩所の様子が描かれている。掛川宿。画面左側から来る僧侶(絵には入っていない)に敬意を払い、頭を下げて挨拶をしている人々の様子。この辺りは凧あげが盛んで、空には凧があがっている。箱根宿。東海道五十三次の中で、最も標高が高いところに置かれた宿場。その様子が絵にも表れている。険しい山々は東海道で一、二を争う難所。『横浜旧東海道戸塚宿周辺散策案内図の藤沢宿側』が左側に。そして右側には『横浜旧東海道戸塚宿周辺散策案内図の保土ヶ谷宿側』のそれぞれの説明ボードが。『思い出の戸塚大踏切』踏切はJR東海道線、横須賀線など1日計約800本の列車が通過。ピークの午前7時台には1時間のうち遮断機が下りているのは57分間に及んでいたと。地元住民は50年ほど前から改善を求めて来ていたのだと。左上から右に。★昭和14年「大踏切が開くのを待つ箱根駅伝走者」★昭和26年「西口から見た大踏切」★昭和28年「大踏切周辺」★昭和30年代「戸塚駅東口」★昭和36年「大踏切東側」★昭和45年「戸塚駅東口」★平成15年「東口から見た大踏切」★平成27年「大踏切閉鎖の瞬間」:戸塚アンダーパス完成、戸塚大踏切閉鎖平成26年1月竣工した戸塚駅東口歩道橋を渡る。“開かずの踏切”として知られるJR戸塚駅(横浜市戸塚区)北側の踏切に2014年に完成した歩道橋「戸塚大踏切デッキ」。デッキは、幅約8メートル、長さ約80メートルで、同踏切の真上に整備された。東口歩道橋より戸塚駅ホームを見る。そして戸塚駅の西口に出る。『内田本陣跡』本陣とは、大名、勅使、公卿、宮門跡、公用の幕府役人などだけが宿泊や休息できた施設。この辺りに、戸塚宿 に2つあった本陣のうちの1つ内田本陣があった。内田本陣は間口18間(32.8m)・奥行14間(25.5m)で、 畳数は152畳あったと。本陣を営んだのは郷の有力者であり、近隣の牛頭天王社(八坂神社)を勧請した内田家。明治の郵便事業創設の際、全国の有力者の家を郵便局にしたが、戸塚郵便局はかつて内田家の郵便局に始まるとされその権勢を知ることが出来るのだと。『脇本陣跡』脇本陣は、本陣に差し支えが生じたときなどに利用された。本陣とは異なり大名などの宿泊が無い時は一般旅客の宿泊に 供することができた。規模は本陣よりも小さいが、諸式はすべて本陣に準じ、上段の間などもある。 戸塚宿には3軒の脇本陣があったのだと。『戸塚宿 澤邊本陣跡』。澤邊本陣は戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つ。本陣創設時の当主、「澤邊宗三」は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者であると。『明治天皇戸塚行在所址』の碑も立っていた。『羽黒神社』羽黒神社の石鳥居には「大正三年」銘があり、関東大震災(大正12年(1923年))の10年前に建てられている。関東大震災で倒壊しなかった石鳥居であると。『羽黒神社社殿』戸塚に鎮座する羽黒神社は八坂神社とともに戸塚宿の鎮守。澤邊河内守信友が、 弘治2年(1556年)に澤邊家の故郷である出羽国の羽黒大権現を勧請し祀ったのが始まりと。その後、澤邊家は戸塚本陣となっており、戸塚宿澤邊本陣跡奥に鎮座している。羽黒神社は6本の銀杏の木に囲まれた神社であり、稲荷社があり、2基の庚申塔が建てられていた。戸塚消防署交差点の先右手にあったのが『海蔵院』。鎌倉円覚寺の末寺で、南北朝期の創建。現本堂は昭和61年に再建され、本尊釈迦牟尼如来を中心に、十一面観音像、正観音像、開山方外宏遠像、もちあがり地蔵を安置。他に山門(木造)鐘楼堂(昭和37年に再鋳)がある。旧東海道(旧国道1号線)沿で、戸塚消防所脇の坂を上がった左手の少し高台にあった。道路から上がってくると、自然で緑も残り、落ち着いた雰囲気のする場所にあるお寺。山門の横に遍照金剛と刻まれた木食観正碑(文政4年、1821年)がある。山門の上部には左甚五郎作と言い伝えられている竜の彫刻がある。墓地には、俳人志行の墓(寛政5年、1793年)、旅の途中戸塚宿で没した藩士の墓などがある。臨済宗圓覚寺派。その先右手には『八坂神社』。戸塚八坂神社は、戸塚郷の庄司内田兵庫源政親が元亀3年(1572)創建。その後元禄3年(1688)に内田佐衛門尉源政利が再興、明治初年社号を八坂社と改めたと。『お札まき』解説板。お札まきは、七月十四日の八坂神社の夏祭りに行う踊りで、同社の元禄再興とともに始まったと伝えられています。この踊りあ、江戸時代中期、江戸や大坂で盛んに行われていましたが、やがて消滅し、現在は東海道の戸塚宿にだけ伝え残されています。男子十数人が姉さんかぶりに襷がけの女装をして裾をからげ、渋うちわを持ち、うち音頭取り一人はボテカズラをかぶります。音頭取りの風流歌に合わせて踊り手が唱和しながら輪になって右回りに踊ります。踊り終わると音頭取りが左手に持った「正一位八坂神社御守護」と刷られた五色の神札を渋うちわで撒き散らします。人々は争ってこれを拾って帰り、家の戸口や神棚に貼ります。神社境内で踊り終わると、町内各所で踊り、神社に戻ります。風流歌の歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは、病をよける、コロリも逃げる」という文句があることから、祇園祭と同様な御霊信仰に基づく厄霊除けの行事であることがわかります。神札を路上に撒き散らして人々に拾わせる御符配りは、現在では極めて珍しく、民間信仰資料として貴重です と。明治元年の明治天皇還幸にあたっては、当社境内に内侍所が奉安されたと。『八坂神社の由来』元亀参年六月郷の庄司内田兵庫源政親が牛頭天王社を草創勧請したものであるがいつしか社殿敗壊と真躰の神器は草もうの中に散在し止むなく地中深く埋め祭祀を歟くこと弐百年に及んだ。内田氏の末葉内田佐衛門尉源政利これを憂い元禄元年矢部村庄司河原氏の霊夢により土壊を起し神躰を得てその一再興をはかり祭祀を行った。明治初年、八坂社を改め更に昭和七年九月十九日八坂神社と改称した。祭典は七月七日拾四日まで行事は七月十四日無病息災を祈願して行われる。お札まきは町内男子拾名が女装し渋団扇を打ち、原始的踊をしつつ五色のお札を中天に撒く。拝殿。神楽殿か?道路わきの食堂で昼食。時間は12:40。カツカレーを楽しむ。『冨塚八幡宮』。石鳥居を潜る。源頼義・義家父子が前九年の役平定のため奥州下向の折りにこの地に露営した際、夢の中で応神天皇(誉田別命)及び富属彦命の神託を授かり、その加護によって戦功を収めたため、延久4年(1072年)富塚山中腹に社殿を造り、両祭神を勧請したもの。明治6年(1873年)に郷社に列した。境内裏山(富塚八幡緑地)に富属彦命の墓と伝えられる古墳があり、これを「富塚」(富塚古墳も参照)と呼んだことが「戸塚」の由来とされている。また、全国の戸塚姓・富塚姓の祖先とされる戸塚(富塚)一族が平安時代にこの地に住んでいたことから、当社を全国の戸塚姓・富塚姓の祖霊神としている。氏子地域は戸塚区・泉区・栄区・瀬谷区の4区(昭和44年(1969年)までの戸塚区域)。拝殿への長い階段には神主の姿が。神輿庫には宮神輿が納められていた。この宮神輿は1843年に造られたもの。『拝殿』。現在の本殿は1843年、拝殿は1934年に造営されたと。『稲荷大明神』。『上方見付跡』江戸方見附から、約2.2km距離にある戸塚宿京方の出入り口。現在は道の両側に1.5mほどの石の囲いがあり、昔と同じように京に向かって左に松の木、右に楓の木が植えられている。五十三次 戸塚の浮世絵は色あせて。『大六天神社』。戸塚宿の上方見付を過ぎたところに第六天神社があった。第六天神社とは元々は第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものであるが明治になって神仏分離の際に、多くの第六天神社ではその社名から神世七代の第6代の面足命・惶根命(オモダル・アヤカシコネ)の夫婦神に祭神が変更されたと。『扁額』。上方見付を出た大坂下には庚申塚があり、多くの庚申塔が並んでいた。日光東照宮でおなじみの見猿聞か猿言わ猿の「三猿」が彫られています。かつて、この辺りには、坂を上れず立ち往生した車の後押しする仕事があったとか。大坂台交差点。『おおさか(大坂)』石碑。坂の途中にあった横浜市が設置した石の標識。「佐野の馬、戸塚の坂で二度ころび」という江戸川柳にも引き合いに出されたほど東海道でもよく知られた場所である。昔は一番坂、二番坂の二つの急な坂が並んだ道であったが、昭和の初めに改修され、なだらかな一つの坂になったと。 ・・・その3 ・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.16
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現在『旧東海道を歩く(保土ヶ谷~藤沢)』を連日ブログアップ中ですが、近々の出来事もこの途中に挿し込ませていただきます。私の住む地域の「どんど焼き」が昨日1月14日(月)8:00から近くの公園で行われました。「門松」「しめ縄」「破魔矢」などの正月飾りを処分するにはいくつか方法がありますが、最も一般的なのが神社やお寺の『お焚き上げ』や『どんど焼き』で焼くというもの。 我が地域には近くに神社・仏閣が無いので、私が子供の頃には近くの農道の路地、そして現在は近くの公園で毎年継続して『どんど焼き』が行われているのです。かってはどんど焼きが行われるのは小正月の「1月15日」が主でしたが、現在はそれよりも早く行われる場合が多いのです。これはかつて1月15日だった成人の日・祝日がハッピーマンデー制度により日にちが移行してしまったことが大きな理由 。このハッピーマンデー制度により祝日が1月第二月曜日に変更され、1月15日が平日になる年もでてきました。そこで『どんど焼き』に参加しやすいように、成人の日(1月第二月曜日)またはその(前)後の土曜・日曜日に『どんど焼き』の日にちを移すようになったのです。妻が今年の「門松」、「しめ縄」等を1つに纏めておいてくれました。 そして前夜に上新粉で造った3色の団子も準備しておいてくれました。どんど焼きの火で焼いた餅、または三色団子を食べると、その年の病を除くと言われているのです。三つ叉の木は、昨年末に趣味の養蜂場のある畑の木の枝を切り準備しておきました。 途中、公園への道路わきの電柱にはどんど焼きの案内が。日本各地でこの風習が行われており、とんど(歳徳)、とんど焼き、どんど、どんど焼き、どんどん焼き、どんと焼き、さいと焼きといろいろな呼び名で言われているようです。私は『どんど焼き』と言って来ましたが、この案内には『どんと焼き』と。8:00前に公園に行くと、既に多くの枯れ枝や「門松」「しめ縄」の山が。この地域の老人の方々が早朝から自宅の枯れ枝等を持ち込み準備をしてくれていました。そして8時になり着火。この日の着火はライターでした。公園内での「どんど焼き」を行うためには、市に対して「公園内行為許可証」そして消防署に対して「煙・火炎発生届」が必要とのこと。こちらも準備万端とのこと。そして今年の「どんど焼き」が始まりました。雨が少なく、枝が乾燥していることもありあっという間に大きな炎が。最初は火力が強すぎるので、近くに寄る人の姿は少なし。太い注連縄も元気よく燃え出しました。そして弱火になって来たので団子焼きの開始。私も暑さを我慢しながら団子焼きを始める。赤、白、緑の三色団子。大きさそして色は家によりまちまち。団子をアルミホイールで包んでいる方も。お祝いの御神酒も入って。子供たちもじいちゃん、ばあちゃんに手伝ってもらいながら熱さをこらえて団子焼きに挑戦中。熱さを必死に我慢して。私も熱いので枝ごと火の近くにしばし放置。そして我が家の団子も焼けて来ました。今年は子供の書き初めを燃やす姿も見ることが出来ました。昔から 書き初めを焼いた時に、その炎が高く上がり、この炎の勢いで紙が高く舞い上がるほど字が上手になると謂われて来たのです。我が家の団子も焼き上がって来ました。そして自宅に戻り、今年も風邪を引かないようにと妻と一緒に食べたのです。妻が甘酒も作ってくれました。「どんど焼き」の如き日本の伝統行事をしっかりと引き継ぎ、次世代に繋いでいく事は非常に大切である事を今年も感じながら帰宅したのでした。
2019.01.15
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現在『旧東海道を歩く(保土ヶ谷~藤沢)』を連日ブログアップ中ですが、近々の出来事もこの途中に挿し込ませていただきます。この日は1月12日(土)の3連休の初日。妻がいつもの山陰の海の幸の蟹を注文してくれており予定通りの日時で、冷蔵便で無事我が家に届いたのです。(有)丸八水産 山陰 海の幸 『松葉ガニ』 。発泡スチロールの箱には『とにかく急げ! カニだ』と中に生きているカニ君も主張していたのです。ところで先日のテレビのニュースで「鳥取県沖合底曳網(そこびきあみ)漁業協会は4日、11月の解禁から豊漁が続いていたズワイガニ漁について、1隻あたりの漁獲量の上限を1トンに制限することを決めた。12月末時点で今漁期に漁獲可能な量の94・3%に達し、3月20日の漁期終了までに超過するおそれがあるため。規制強化は12月に続いて2度目で、異例の豊漁で過去に例のない事態となった。親ガニ(雌のズワイガニ)の漁は12月末で終わっており、新たな規制の対象となるのは、松葉ガニ(雄のズワイガニ)と、1月20日から漁が始まる若松葉ガニ(脱皮間もない雄のズワイガニ)。県内の沖合底引き網漁船24隻すべてを対象に、4日以降の今漁期の漁獲量の上限を1隻あたり1トンに制限する。このうち若松葉ガニについては、各船の操業時間に応じて定めていた1航海あたりの漁獲量の上限も半分にする。」とのことで到着、大きさ、品質を心配していたのですが無事大きめの元気な『松葉ガニ』が無事到着したのです。 【http://www.shinkaiso.com/2408】より「松葉ガニ」とは、山陰地方で水揚げされるオスのズワイガニの事。日本海の丹後半島から島根県沖の日本海に生息しているズワイガニで、水揚げされる漁港も京都府から島根県の漁港までに限定されているのだそうです。箱を開けてみると『松葉ガニ』が2匹。動かす脚には漁の船の名の青色のTAGをつけて、俺は由緒正しい本物であると。TAGの色は出身地ごとに異なると。青は隠岐、鳥取は白(+赤文字)、兵庫(浜坂港)は白等々。TAGには「JFおき西郷 天祐丸」と。天祐丸は島根県・隠岐の島(おきのしま)町の【ズワイガニカニ篭漁業】の船のようです。餌を入れたカゴをロープに一定間隔に取り付け海底に沈め、入ってくるカニを漁獲するのだと。そして蟹の甲羅には謎の黒いつぶつぶが付着していました。ネットで調べてみると、「この粒の正体は寄生虫の一種とのこと。寄生虫といっても「カニビル」といって人体には悪さしないものなのでご安心をと。かなり気持ち悪いのを想像しますが、卵はカニにくっついているので見れますが、成体を見る機会はめったにないそうです。またカニに付着している卵から生まれたカニビルは、そのままカニに寄生したり体液を吸う事もなく、離れていきます。あくまで蟹は卵を産み付ける場所になっているだけで、寄生の対象にはなりません。「松葉ガニ」に産卵する理由は、カニビルが生息する海底が柔らかい泥に覆われている場所で、他に産卵に適する場所がないため、ズワイガニの甲羅を卵を産み付ける場所に利用していると考えられる」とのこと。ここは何処だ?と目をギョロギョロと。脚を動かしながらにらめっこを。妻が脚を生の「蟹刺し」 に。脚を根元から切り離し、殻を取り除き数分間氷水につけると、花が咲いたように身がひろがるのです。 今年の『松葉ガニ』も身の甘みと旨みが濃く最高。この『松葉ガニ』 は日本人好みのカニと言われ、その中でも高級ブランドとして知られているのが山陰地方で獲れるこの『松葉ガニ』なのです。牡蠣の殻剥きと同じく妻の「匠の技」で。そしてもちろん茹でガニでも。 殻の中のミソを十分楽しみました。味わったあと、外した方の身の写真を取り忘れた事にきがついたのです。既に二本酒が回っていました。『茹でカニ』、『カニ刺し』の楽しみ方を書いた書類も同封されていました。更に様々な楽しみ方も丁寧に。『松葉カニのさばき方』も写真入りで懇切丁寧に。そしてこの日は、会話もなく(いつものことですが・・・)沈黙のままひたすら『松葉カニ』の身と格闘した二人の夕飯であったのです。そして昨夜も茹でガニで楽しんだのです。昨夜も妻と仲良く半身づつ。この日の蟹味噌も美味。2日間に渡って冬の味覚の王様「カニ」・『松葉ガニ』を大いに楽しんだのです。そして年に一度の冬の贅沢?が終了したのです。
2019.01.14
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道の面影を色濃く残す一里塚が『品濃一里塚』。境木地蔵から焼餅坂を降りた界隈になる。東海道には江戸初期、日本橋を起点として一里(約4キロメートル)ごとに、道の両側に土を高く盛った標識「塚」が築かれた。江戸から9番目の品濃一里塚は、保存状態が良く県の史跡に指定されている。保土谷宿と戸塚宿の間に位置。旧東海道を挟んで東西に2つの塚が残っていた。東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内にあり、地元では一里山と呼ばれていたとか。品濃一里塚の案内板の向かい側(旧東海道から平戸側)の様子。保存状態が極めてよい。戸塚宿近辺の一里塚には、江戸から数えて9番目の品濃、10番目の吉田、11番目の原宿と三つあったが神奈川県ではほぼ完全な状態で残る唯一の遺跡で、かなり貴重なものであるらしい。現在でも道の両側に塚があるのは品濃だけ。昭和40年7月19日に県指定の史跡として認定されたと。『品濃一里塚』案内板。道を挟んで反対側にも歴史を感じさせる案内板が。江戸日本橋から9番目、旧東海道の付属施設としてかつては人々の往来が盛んだったのであろう。ここは4㎞×9番目=出発点から約36kmということになる。『福壽観音』。『福壽観音縁起』と『東戸塚駅沿革概略記』JR東戸塚駅から環状2号線に架かる福寿歩道橋の旧東海道がある横浜市戸塚区品濃町外れの山側に福壽観音堂が建っていた。建立した願主は福原政二郎氏。福原政二郎氏は東戸塚の新駅誘致を行い土地造成を担当した新一開発の社長である。昭和38年(1963年)以来、その開発の旗振りをやってきた人であり、信心深く、観音信仰に篤かったので福壽観音堂を建立したのだと。観音堂参道に建つ「福壽観音縁起」には建立年の正確な記載はないが、Webに因ると昭和57年(1982年)10月に建立されたと。『福壽観音堂』とその手前に石灯籠が両脇に。『地蔵堂』と『子育地蔵』。『品濃坂上』。品濃坂は、朝早く江戸を発ち日暮れまでに戸塚宿へと向かう旅人には宿場町までもう一歩の所。一方、江戸方面へ向かう人にとっては最後の急な登り坂で、この難所を越えれば境木の立場まであと一息。海も見えてきて、江戸へ想いを馳せていたかもしれない。写真は明治初期の品濃坂であると。大山方面の山々が見えた。残念ながら富士山の白き山頂が僅かに。品濃坂に続く旧東海道は現在は途中でバイパスが横切るように通っており、その上の歩道橋を渡って行かなければならなかった。階段国道というのもあるが、品濃坂は「階段旧東海道」というところ。歩道橋からの東戸塚駅前の町並み。下の道路は横浜市の環状2号線で、右へ行くと新横浜駅前を通過して末吉橋へ、左へ進むと磯子駅前で海に。陸橋を渡ると、やや緩やかになった『品濃坂』。品濃坂を下り「川上川」に沿って進むと、東戸塚駅入口交差点の『海道橋』の架かる地点で国道1号線と交差するが、ここでは国道1号線を横切りすぐにまた旧道へと入る。程なくして、右手の川上川が曲がり旧道から離れて行くと同時に、今度は左手から「平戸永谷川」が現れ旧道と並行する。しばし歩くと国道1号線に一瞬合流するも、橋上でY字に分岐するユニークな形態の『赤関橋』で国道1号と分かれ、旧道の続く裏道を再び進んでゆく。橋上でY字に分岐するユニークな形態の『赤関橋』。左手が旧東海道、神奈中バスの見える右手が現国道1号線。平戸永谷川に架かる赤関橋を渡り左手の旧東海道へ進む。大山前不動方面に進む。この後に旧東海道を離れて『王子神社』を訪ねる。横浜市戸塚区柏尾町に鎮座する王子神社は後醍醐天皇の第一皇子護良親王(もりながしんのう)を祭神としている。王子神社境内参道。手水舎は檜皮葺きの屋根。王子神社拝殿。王子神社祭礼は9月13日に行われるのだと。侍者が、護良親王の御首を奉じて当地四抗の勤皇の郷土斉藤氏を頼り、密かに現本殿の位置に埋葬したと伝える。四抗とは、御首を洗う為の四本杭の簀の子の意、或いは鎌倉街道上で鎌倉から山を四つ越えた(よつごえ)の転訛ともいう。また、首を一時隠し奉った所を「御墓」といい、老松があった。他に、近くに親王の御首を洗い清めた井戸とされる「首洗(くびあらい)井戸」があると。「御墓」という老松か?境内には巨石も。そして再び旧東海道に戻ると右手に『大山道入口』が。『柏尾の大山道入口』。大山詣での起点となる大山道。大山道の大部分は県道401号 瀬谷柏尾線となっていて神奈川県の幹線道路。『益田家のモチノキ』。「モチノキ(モチノキ科)は暖地に生育する雌雄異株の常緑広葉樹で、高さは通常三〜八メートルに達し、四月頃に黄緑色の群生した小さな花を咲かせ、球形の果実を付けて赤く熟する。この樹皮より鳥もちを作ることからモチノキの名の由来があり、古くから人々によく親しまれている木である。指定された「益田家のモチノキ」は国道一号の旧東海道に面し、樹高18メートル、目通り2.4メートル、根回り3.1メートルの雌株と、これより0.75メートルほど離れて並ぶ、樹高19メートル、目通り3.2メートル、根回り4.9メートルの雌株の二本である。これほどまで生長した大木は他にはほとんど類を見ないばかりか、共に美しい樹冠で接しているのも珍しい。「相模モチ」の愛称で郷土の人たちから愛され、なじまれてきたこのモチノキ二本は、稀有な大木となって今なお樹勢もきわめて旺盛であり、旧東海道に面してきたという歴史的背景もあるので、将来にわたり永く保護することが望ましく、神奈川県指定天然記念物に指定するものである。」樹勢の回復と倒木回避の為に樹齢約250年を誇る県指定天然記念物『益田家のモチノキ』は近くのこの場所に移植されたと。全身包帯だらけの満身創痍、早期全快を祈るのみ。不動坂交差点の手前で再び旧東海道は分岐。そのままスルーしてしまいそうになったが、旧東海道は左方向、黒い車が進入している小道。旧東海道は静かな住宅街を通っていると、「史跡への小径」なる碑を発見。史跡への小径の碑の裏側には「歴史は古く、永く、そして悠久に継承される」と。旧東海道を進むとレンガ造りの倉庫らしき建物が前方に。ここは日本人によるハム作りの発祥の地とされ、この建物はハムの製造及び冷蔵に使われていたものだと。今でも鎌倉ハムの貯蔵庫として使用されているのだと。舞岡川にかかる『元舞橋』。舞岡川にかかる『五太夫橋』。小田原北条氏の家臣であった石巻五太夫が、小田原落城ののち、江戸に帰る徳川家康をこのあたりで出迎えたことから、この橋の名前になったと。『五太夫橋』を渡る。下を流れる舞岡川。左手に『寶蔵院』。横浜市戸塚区吉田町にある宝蔵院は真言宗大覚寺派のお寺で東峰山宝蔵院という。通称「連ぎょう寺」、「戸塚不動尊」とも呼ばれている。本尊は不動明王である。『招福観音』。宝蔵院本堂。本堂は昭和50年(1975年)に落慶。本堂に掛かる「東峰山」の扁額も確認できた。何故か境内に『TUKTUK』が。そして『戸塚宿 江戸方見付跡』。江戸から見て戸塚宿の入口であることを示す標識「見付」があった場所。ここから先、約3.5キロメートルの町並みが東海道の宿場町として整備されていた。戸塚宿の江戸側の入口を江戸方見付といい、京都側の入り口を上方見付と言ったのだ。更に戸塚宿を進む。戸塚宿は東海道五十三次の宿場町。日本橋から品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷と数えて5番目の宿場。朝、江戸・日本橋を発ってほぼ十里半(約42km)。昔の旅人にとって戸塚宿は1泊目の宿泊地となり、賑っわたのだと。戸塚宿の成立は、1604年(慶長9年)で、隣宿の保土ケ谷宿、藤沢宿成立の3年後であったが、鎌倉への遊山の道、大山参詣の道の分岐の宿としても栄えたと。横浜旧東海道のマンホール。マンホールのモチーフとなっているのは、『東海道五拾三次之内 戸塚 元町別道』。天保4年(1833)頃、初代歌川広重が描いた浮世絵。箱根駅伝では1区(大手町〜鶴見中継所/21.3km)、2区(鶴見中継所〜戸塚中継所/23.1km)で大手町から戸塚中継所は、44.4km。トップチームは大手町から戸塚まで2時間10分前後で駆け抜けているから、時速に換算すると20km/hという俊足ぶりがわかる。しかも2区は平地区間では最長距離ということもあって「花の2区」と呼ばれるエース区間。道路脇に小さな祠が。『金剛流 寶蔵院 御詠歌講』の文字が。御詠歌とは、いわゆる和歌や韻文に日本古来の音楽の節を付けてお唱えする曲のこと。『吉田一里塚跡』。吉田の一里塚は明治に入りずいぶん早い時期に取り壊されてしまったと。江戸から十番目の一里塚で、日本橋から約40㎞。昔は、これだけの距離を一日で歩いており、旅籠のある戸塚の町まで、大橋を渡ってあともう一息といった場所。「旧東海道の一里塚は江戸日本橋から10里で、慶長9年、街道の附属施設として1里ごとに造られたが、国道拡幅により遺跡保存となった。」吉田大橋手前にあった『木之間稲荷社』そして柏尾川に架かる吉田大橋が前方に。柏尾川にはアオサギがのんびりと。柏尾川。柏尾川は、神奈川県南部を流れる二級河川。境川の支流である。戸部川とも呼ばれる。全長は戸塚区柏尾町から藤沢市川名で境川と合流するまでの約11kmの河川。橋の欄干にはめ込まれた浮世絵『歌川広重 東海道五拾三次 戸塚 元町別道』。早朝に日本橋をたった健脚が、戸塚に到着する頃の夕景が描かれています。「こめや」の看板が目立つ茶屋は、米で作った餅菓子で有名な店でした。軒下には伊勢参りをする一団(講)の名前を記した木札が掛けられています。図の中央に描かれている灯篭脇の石柱には「左りかまくら道」と彫られ、鎌倉へ行く分かれ道を示しています。それぞれの場面をズームで。『東海道 六 五十三次 戸塚』『戸塚宿』👈リンクを過ぎて汲沢村の辺りの山道を描くが、宿外れの坊示杭が右手に見え、手前に松の大木がある。遠景の富士山に連なる丹沢山塊が、画面に奥行きを見せる。広重の代表的な東海道シリーズの一つ。揃物名が隷書体で書かれているので、俗に「隷書東海道」という。「保永堂版」東海道に次いでよく知られた揃物。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.13
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次国道1号線の『岩崎ガード』。『ガード』とあるが『Iwasaki Overpass』と表示されており要は歩道橋。この先旧東海道は右手に折れていくので、『岩崎ガード』を渡りながら横浜方面を見る。旧東海道の分れ道を右側の旧東海道に進む。『東海道保土ヶ谷宿の松並木と復元事業』。「保土ヶ谷宿の松並木 我が国に於ける街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代まで遡りますが、全国的な規模取り組まれるようになったのは江戸時代にはいってからです。慶長9年(1604年)幕府は諸国の街を植えるよう命じました。以来、夏は木陰を作り、冬は風雪を防ぎ、植樹帯は旅人の休息場所となることから、官民挙げて大切に保護されました。 保土ヶ谷宿の松並木は、この付近から境木まで3kmあまり続き、広重や北斎などの浮世絵にも度々描かれました。その後、昭和初期までは比較的良好な状態で残されてきましたが、時代とともに減り続け、現在は旧東海道の権太坂付近にわずかな名残を留めるだけになってしまいました。 この度の松並木復元事業では、「上方の松原」と呼ばれていた今井川に沿った約300mの区間に松などの木々数十本を植えました。 保土ヶ谷宿の一里塚 松並木と同時期、街道の距離の目安として、日本橋を起点に一里(約4km)ごとに築かれたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土を盛って小山をつくり、その上には遠くからでも目立つよう榎や松などの木々が植えられていました。 保土ヶ谷宿の一里塚は日本橋から八番目に位置し、この付近(現在の車道上)にありましたが、古くから南側の一基の存在しか伝わっていません。その一里塚も明治時代の始め、宿場制度の廃止に伴って姿を失いました。 この度の一里塚復元事業では、場所の制約から文献にあるような「五間(9m)四方」に相当する大きさの塚を築くことができませんでしたが、塚の上には昔のように榎を植え、松並木と併せて宿場時代の再現に努めました。 」と。日蓮宗 『樹源寺』を訪ねる。かって境内に大ケヤキがあったことから「樹を源とするお寺」として命名されたと。薬師如来が安置されている講堂。鎌倉時代に建てられた医王寺が焼失した後、江戸時代初期(1628年)に苅部家により身延山久遠寺の末寺として開山した。庭園が美しい。池には見事な鯉が。本堂。寛永年間( 1624-44 )になり、保土ヶ谷宿本陣刈部吉重の室(奥方)が日蓮聖人の御教に深く帰依され妙秀尼(みょうしゅうに)と号し、焼け残った薬師堂の大欅(おおけやき)の傍らに庵を結ばれ、師の善通院日了上人を招いて日蓮宗総本山身延山久遠寺の末寺として開山。『旧元町橋跡』保土ヶ谷区郷土史(昭和一三年刊)によれば、明治時代の東海道線鉄道工事以前の今井川はここで街道を横切っていました。橋は江戸時代の「東海道分間延絵図」にも描かれている。またかっての字名は、ここから東側を「元保土ヶ谷」、西側を「元保土ヶ谷橋向」となっていました。保土ヶ谷宿の道路標識。堅牢地神塔(右)青面金剛庚申塔(左)横浜市保土ケ谷区権太坂1-2-4の道祖神。『権太坂』へ。ここを右折して権太坂へ。権太坂は、横浜市保土ケ谷区にある旧東海道の坂。権太坂を上る途中左に小さな稲荷神社があり境内に旧東海道権太坂道路改修碑が。旧東海道権太坂「改修記念碑」 急な権太坂。横浜横須賀道路の上に架かる権太坂陸橋。横浜横須賀道路。保土ヶ谷バイパスを権太坂陸橋で渡ると神奈川県立光陵高等学校の場所に『権太坂』石碑が。この辺りまでが一番坂、境木までが二番坂と呼ばれたと。この辺りは、権太坂と呼ばれる東海道を江戸から西へ向かう旅人がはじめて経験するきつい上り坂であった。日本橋から四番目の宿場であった保土ヶ谷宿までは、ほぼ江戸内湾沿いの平坦地であったが、宿の西にある元町橋を渡ったあたりより、長く続く険しい登り坂となります。1828(文政11)年に成立した地誌「新編武藏風土記稿」には、もともとは「一番坂」・「二番坂」と呼ばれていた坂であったが、ある旅人が「一番坂」を上りきったところで、「急勾配で長い坂道ですね。この坂は何という名前なのですか」と、そばにいた農夫に尋ねたところ、その者の耳が遠く、自分の名前を尋ねられたものと勘違いして「(私の名前は)権太です」と答えたがために、「権太坂」と伝えられるようになったようだ・・・と。『東海道名所之内 権太坂』。「権太坂は正月恒例の箱根駅伝の通過地点として知られていますが、『新編武蔵風土記』には「其地形十丈あまりも高く屈曲して長き坂なり、街道往還の人夫、此所を難所とす」とあるように急峻な坂になっていました。江戸を立って初めての難所といわれ、近くには行き倒れの人を葬った投げ込み塚がありました。江戸方面からは長い上り坂になり、上りきった所に名物牡丹餅の茶店がありました。この絵は「上洛東海道」とも呼ばれる文久3年(1863)の14代将軍家茂上洛の図ですが、侍たちがヤレヤレといった表情で茶店の女たちに牡丹餅やお茶を振舞われている様子が描かれています。保土ヶ谷宿は、この坂以外にも焼餅坂、品野坂、不動坂といった坂があり、『東海道宿村大概帳』にも「此宿内山坂多し」と記されています」と。右手に神奈川県立光陵高等学校正門。更に権太坂(二番坂)は続く。横浜ランドマークタワーが左手遠くに。『歴史の道 権太坂』再び、権太坂の名前の由来に2つの説があるとの表示板が。その1ー「老人の返事」説旅人がこの坂の近くにいた老人に坂の名前をたずねたところ、自分の名前を聞かれたと思いこみ「ごんたでございます」と答え、その名が坂の名になったと。その2-「本当は権左坂」説昔、権左衛門という人が代官の指示によりひらいてできた坂道を、その名をとって「権左坂」と名付けたものが、いつのころか「権太坂」と呼ばれるようになったと。『富嶽三十六景東海道保土ヶ谷』。権太坂は、明治17年(1884)の新道開通や明治20年(1887)の鉄道開設により旧道は、通行量も減って道幅も狭くなった。権太坂にはもともと人家もほとんどなかったため、昭和30年代に本格的に道が改修されて宅地開発が進むまで往時の街道の面影を残していた。坂の上から見る神奈川の海は美しく、浮世絵などにも描かれたと。現在は海は見えずに高層ビル群が。旧東海道を離れ左手に折れて投込塚の碑を訪ねることに。旧東海道からそれて『投込塚之跡』へ。「投込塚之跡」碑の右に無縁・馬頭観世音と左に宝永7年(1710年)銘と天保2年(1831年)銘の庚申塔も。『投込塚之跡』。「この地は権太坂投込塚と称し、旧東海道品濃坂につぐ難所であって往時旅人の行倒れせし者多く之を埋葬せる処也。偶々当地区開発に当り多数の白骨を発掘現在平戸町東福寺境内にて再埋葬供養碑を建て、之ヶ菩提を弔い在者也 昭和三十九年四月建之」と。投込塚は、江戸時代に病や疲労のために行倒れた旅人や牛馬の骨を多数埋めた場所。昭和36年(1961)の宅地開発時に発見され、この地に移動して供養塔が建てられた。宿場の外れにはこのような無縁仏を葬る投込塚があった。斜め左側の道が旧東海道、左にバスターミナルが。再び旧東海道に戻り歩を進める。権太坂二番坂を上り、境木中学校前のT字路突当りで右折すると右手に若林家が。大名なども立ち寄ったとされる若林家(現在は民家)。武蔵国と相模国の国境。境木立場跡『歴史の道 境木立場跡』宿場と宿場の間に、馬子や人足の休息のためなどに設けられたのが立場です。中でもここ、境木の立場は権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、見晴らしの良い高台で、西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、旅人が必ず足をとめる名所でした。また、茶屋で出す「牡丹餅」は境木立場の名物として広く知られており、たいへん賑わったということです。「保土ヶ谷区郷土史(昭和13年刊)」によると、こうした境木の立場茶屋のなかでも特に若林家には明治中期まで黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物があったとされ、参勤交代の大名までもが利用していたと伝えられています。 「江戸名所図絵」の「境木」を着色模写した「横浜往古絵巻」。画像中央下部、ケヤキの高木の傍らに境木が描かれている。街道歩きされる方ならご存知の藩境などに立てられた榜示杭、これと同じような国境を示す棒杭が境木地蔵近くに立てられていたのだ。地名はこの国境に立つ木杭ということから付けられたようで、江戸時代は木杭の北側が武蔵国橘樹郡保土ヶ谷宿のうち保土ヶ谷町、南側が相模国鎌倉郡平戸村であったのだ。この境木付近の尾根筋は頂上部が平坦であったからか、立場や茶屋が立ち並んで旅人の休憩の場となっていた。現在はレプリカの境木が境木地蔵近くに立っていると。『東海道五拾三次 保土ヶ谷 初代広重(狂歌入り)』武蔵と相模の国境の境木の立場で、急な権田坂を登り、休憩のための茶店の賑わいを描いている。狂歌は遊鶴亭千代子「諺のまはるもはやき双六やいそげばいそぐ程かやのえき」とある。『横浜旧東海道戸塚宿周辺散策案内図』戸塚宿の成立は、慶長9年(1604)で隣宿である藤沢、保土ヶ谷の宿が成立した慶長6年(1601)に遅れること3年であった。日本橋から数えて5番目の宿場町で、起点の日本橋から10里半(約42km)の距離にあり朝、江戸を発った当時の旅人の一番目の宿泊地として最適であり、さらに鎌倉への遊山の道、大山参詣の道の分岐の宿として大変な賑わいを見せた。戸塚宿は江戸寄りに権太坂、京寄りに大坂という難所にはさまれていたため、朝、江戸を発った当時の旅人にとって、初めて宿泊する場所として最適であり、鎌倉への遊山の道、大山参詣の分岐点の宿としても大変にぎわっていました。天保14(1843)年の東海道宿村大概帳(しゅくそんたいがいちょう)によると、宿内の人口は2900人余り、家数は613、本陣は2、脇本陣は3、旅籠は75と東海道五十三次の中では10番目に宿泊施設の多い宿場でした。品濃一里塚は江戸から数えて九番目の一里塚で、保土ケ谷宿と戸塚宿の間に位置しています。 神奈川県内では、ほぼ完全な形で残る唯一の一里塚で、県の指定史跡となっています。現在は、塚とその周辺が公園として整備されています。『境木立場跡』『立場茶屋』宿場と宿場の間に、馬子や人足の休息のためなどに設けられたのが立場。中でもここ、境木の立場は権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、見晴らしの良い高台で西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、旅人が必ず足をとめる名所であった。また、茶屋で出す「牡丹餅」は境木立場の名物であった。こうした境木の立場茶屋のなかでも特に若林家には明治中期まで黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物があったとされ、参勤交代の大名までもが利用していたと。国境を示すモニュメント(平成17年に設置)。『境木の由来』ここは武蔵国と相模国の国境で、江戸時代にはそのしるしとして傍示杭(ぼうじぐい)、あるいは境杭(さかいぐい)と呼ばれる木柱が建てられたことから、地名が境木になったと伝えられている。道路を整備して新しく建った道標。「右 環状二号線」、「左 東海道」とある。『境木地蔵堂』『境木地蔵の由来』この地蔵は、鎌倉腰越の海岸に漂着したもので、引き上げた漁師の夢枕で、「この私(地蔵)を江戸に運んでくれたら、この海を守る」と告げられ、漁師たちは、江戸へ運ぼうとしたが、この境木で動けなくなり、地蔵を安置したところ、村が繁盛したと。境木地蔵堂 本堂。素朴な地蔵様。水場の可愛らしい地蔵。『阿頼耶識(あらやしき)』と白く刻まれた石碑。「阿頼耶識」は仏教用語。仏教の中でも「唯識派」という思想の中で説かれるもので、心を表層から深層まで八つに分けたときの、一番深いところにある「根本の心」を「阿頼耶識」といい、ここが、心の動きや感情、表情、生きる力など、人生のすべてのよりどころとなるのだと。『東海道保土ヶ谷宿周辺散策案内図』境木地蔵尊から、保土ヶ谷宿への案内。旧東海道」の説明板。境木地蔵~信濃一里塚~白幡神社が紹介されていた。旧東海道の『焼餅坂』へ。旧東海道を戸塚方面に下るこの坂は「焼餅坂(別名:牡丹餅坂)」と呼ばれていると。武蔵国と相模国の国境にあたる権太坂と焼餅坂は、昔の旅人にとって日本橋を出発してから最初の難所。このあたりには、一服する旅人を目当てにした茶屋が並んでおり、坂の傍らで焼餅を売っていた事がこの坂の名の由来だと。焼餅坂は当時の品濃村と平戸村の境にあり、一町半(約160メートル)の坂道。坂の傍らの茶店で、焼餅を商っていたので、焼餅坂と名づけられたといいます。別名牡丹餅坂(ぼたもちざか)とも呼ばれています。戸塚を描いた浮世絵には山坂や焼餅の絵がしばしば登場します。旧東海道を 保土ヶ谷から戸塚方面に抜ける途中に,権太坂・焼餅坂・品濃坂 と、坂が続く。境木本町の“境木地蔵”の前から 南西に入るとすぐに 下り坂となる。これが 焼餅坂。坂の両側は 鬱蒼とした林になっていて いい雰囲気だが、途中から 西側一帯が宅地に造成され坂に面して 新しい住宅団地が建設されていたのであった。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次前回11/5(月)に川崎宿から保土ヶ谷宿まで歩いていたので、今回11/14(水)に旅友と東海道53次の保土ヶ谷宿から戸塚宿そして藤沢宿へ向かった。保土ヶ谷宿から藤沢宿までは約16.7Kmの距離。保土ヶ谷駅中央改札出口で旅友と9:00に待ち合わせ。そして保土ヶ谷駅西口からこの日の旧東海道を歩き始める。『歴史の道 東海道保土ヶ谷宿周辺散策案内図』。旧東海道に入る。まだ人通りは少なかった。『助郷会所跡』。宿場で賄い(まかない)きれない人馬を、指定された周辺の村々から動員することを助郷を云い、指定された村を助郷村と云うと。助郷は東海道が整備されてから交通量が増加してきた17世紀半ばころに次第に制度化されて来た。享保10年(1725)に定められた保土ヶ谷宿の助郷村はおよそ40か村で現在の保土ヶ谷区内のみならず、旭、西、中、南、港南、磯子、戸塚の各地域に及んだ。こうした助郷村は助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所と云う事務所を設けていたのだと。『歴史の道 問屋場跡』。問屋場宿場の公的な業務のうち、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを担っていたのが問屋場、宿場の中でも最も重要な施設のひとつ。助 郷宿場で賭いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員することを助郷、指定さた村を助郷村という。高札場 高札場は、幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札=「高札」を掲示した施設である。初代広重作の、庄野「人馬宿継之図」。問屋場は、江戸と全国各地の間で送付される幕府の書状の継立(つぎたて)や、参勤交代の大名行列時などに周辺の村々から動員された人足・馬の差配を取り仕切る場所であり、街道に面した宿場の中心に設置されている場合が多かったようである。商店のシャッターに描かれた東海道53次「程か谷 新町入口」。『高札場跡』宝暦13年(1763)に普請された保土ヶ谷宿の高札場は幅二間半(約4.5m)、高さ一丈(約3m)の規模であった。一般の法令以外にも、隣の宿場までの荷物の運搬料金や旅籠屋の木賃(宿泊料)等を細かく記載した高札も掲示されたと。『金沢横丁』。左手に行くと、かなさわ・かまくら道であると。東海道と金沢八景・浦賀へ通じる金沢道とが分岐する四つ角に石碑が4基。金沢道は梅の名所の杉田梅林、景勝地の金沢八景、名所旧跡の鎌倉、江の島弁天参詣などに行くために多くの人々が訪れた道であり、幕末にはペリー来航で幕府役人が、浦賀へ通った道でもあったと。『金沢横町道標4基』「この地は、旧東海道の東側で、金沢・浦賀往還への出入口にあたり、通称「金沢横町」と呼ばれました。 金沢・浦賀往還には、円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地が枝道にあるため、 道標として四基が建立され、現在残っています。 四基の道標は、それぞれ次のとおりです(右側から番号を付す)。1. 円海山之道〔天明三年(一七八三)建立〕左面に「かなさわかまくらへ通りぬけ」と刻されています。 建立者は保土ヶ谷宿大須賀吉左衛門です。 円海山は「峯のお灸」で有名でした。 2 かなさわ、かまくら道〔天和二年(一六八二)建立〕 左面に「ぐめうし道」と刻されています。 3 杉田道〔文化十一年(一八一四)建立〕 正面に「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花 其爪」と刻されています。 句碑を兼ねた道標は珍しく、また作者の其爪は江戸の人で河東節の家元です。4 富岡山芋大明神社の道〔弘化二年(一八四五)建立〕建立者は柳島村(現茅ヶ崎市)の藤間氏。 芋明神は、富岡の長昌寺で、ほうそうの守り神として信仰を集めていました。 」と。JR東海道線&横須賀線の踏切を渡る。藤沢方面。右手に曲がり国道1号線に入ると『歴史の道 旧東海道』の標柱が。『歴史の道 本陣跡』。公用の宿泊・休憩施設として参勤交代の大名などに利用されたのが本陣・脇本陣である。その格式と引き換えに制約や出費も多く経営は必ずしも楽ではなかった。また、休息のみに利用された茶屋本陣もあった。本陣は、代々苅部家がつとめた。現在は当時を偲ばせる門や土蔵が残っている。1870(明治3)年に軽部に改姓し、現在も在住。『歴史の道 本陣跡』。「慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿における最も有力な家で、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、現在に至っています。本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の33軒の脇本陣がありました。」と。『脇本陣(大金子屋)跡』天保年間の本金子屋(伝左衛門)の規模建坪79坪(約261㎡) 間口7間(約12.7m) 奥行11間半(約20.9m) 室数13。『 脇本陣(藤屋)跡』。天保年間の藤屋(四郎兵衛)の規模建坪119坪(約293㎡) 間口6間半(約11.8m) 奥行18間(約32.7m)室数14 玄関付 。『 脇本陣(水屋)跡』。天保年間の水屋(与右衛門)の規模建坪128坪(約423㎡) 間口8間(約14.5m) 奥行16間(約29m) 室数14 玄関門構付。『歴史の道 保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設』。本陣・脇本陣公用の宿泊・休憩施設として参勤交代の大名などに利用されたのが本陣(1軒)脇本陣(3軒)で、明治3年の宿駅制度廃止まで続いていました。しかし、その格式と引き換えに制約や出費も多く、経営は必ずしも楽ではなかったようです。 茶屋本陣正式な本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋が上方見附付近にあり、「茶屋本陣」と呼ばれていました。苅部本陣を利用しない大名が休息するほか、参勤交代の大名の出迎えもしていたとされています。 旅籠屋はじめは「木賃旅籠屋」といって食事を出さず、旅人が持参した食糧を自炊する薪を提供するだけでしたが、元禄(1690年代)のころから食事や酒を提供する旅籠屋も増えてきました。保土ヶ谷宿の旅籠屋の数は寛政12年(1800)には37軒でしたが、天保13年(1842)には69軒となっています。 茶屋往来する旅人が休息するために宿内には茶屋がありました。文政7年(1824)の保土ヶ谷宿には33軒の茶屋があり、金沢横町の茶屋七左衛門が茶屋惣代でした。『早朝出発する大名行列の様子』武家の行列が保土ヶ谷宿を通行する状況を描いている。篝火(かがりび)や「保土ヶ谷宿」と記された提灯が各家の軒先に多数配置されており、手前の門(本陣か)から行列が薄明の内から出発する様子であろうか。旧東海道を進む。『旅籠屋(本金子屋)跡』天保年間の本金子屋(伝左衛門)の規模建坪79坪(約261m)間口7間(約12.7m)奥行11間半(約20.9m)室数13。格子戸や通用門が当時の旅籠の雰囲気を伝えている。現在の建物は1869(明治2)年の建築。旅籠屋が元禄年間(1688~1704年)で37軒、天保13年(1842年)になると69軒もあったと。『まちかど博物館』保土ケ谷区では、H19年3月に策定した「歴史まちなみ基本構想」に掲げている方針の一つ「地域住民間、地域住民と来街者間の交流機能を育て、巡り歩いて楽しめるまちを創る」を実現するために、保土ケ谷の歴史、文化及び技術・技能を広く区民や来街者に周知し、交流の活性化及び産業の振興を図ることを目的として、「まちかど博物館」を旧東海道沿いにモデル的に7館設置していると。『茶屋本陣跡』。国道1号線沿いの今井川。今井川に架かる茶屋町橋(ちゃやまちはし)。『歴史の道 一里塚跡、上方見附跡』。一里塚跡街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土盛した小山を作り、その上に遠くからでも目立つよう榎など木々が植えられていました。この付近にあった一里塚は、江戸から八番目のものです。 上方見附跡保土ケ谷宿の京都(上方)側の出入口となる上方見附は、保土ケ谷区郷土史によれば、外川神社の前にあったとされています。 見附は、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしており、「土居」とも呼ばれています。この上方見附から江戸方見附までは、 家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれています。『東海道保土ヶ谷宿の松並木と復元事業』。「保土ヶ谷宿の松並木 我が国に於ける街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代まで遡りますが、全国的な規模取り組まれるようになったのは江戸時代にはいってからです。慶長9年(1604年)幕府は諸国の街道に並木を植えるよう命じました。以来、夏は木陰を作り、冬は風雪を防ぎ、植樹帯は旅人の休息場所となることから、官民挙げて大切に保護されました。 保土ヶ谷宿の松並木は、この付近から境木まで3kmあまり続き、広重や北斎などの浮世絵にも度々描かれました。その後、昭和初期までは比較的良好な状態で残されてきましたが、時代とともに減り続け、現在は旧東海道の権太坂付近にわずかな名残を留めるだけになってしまいました。 この度の松並木復元事業では、「上方の松原」と呼ばれていた今井川に沿った約300mの区間に松などの木々数十本を植えました。 保土ヶ谷宿の一里塚 松並木と同時期、街道の距離の目安として、日本橋を起点に一里(約4km)ごとに築かれたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土を盛って小山をつくり、その上には遠くからでも目立つよう榎や松などの木々が植えられていました。 保土ヶ谷宿の一里塚は日本橋から八番目に位置し、この付近(現在の車道上)にありましたが、古くから南側の一基の存在しか伝わっていません。その一里塚も明治時代の始め、宿場制度の廃止に伴って姿を失いました。 この度の一里塚復元事業では、場所の制約から文献にあるような「五間(9m)四方」に相当する大きさの塚を築くことができませんでしたが、塚の上には昔のように榎を植え、松並木と併せて宿場時代の再現に努めました。」と。外川神社(とがわじんじゃ)へ渡る仙人橋(せんにんはし)。江戸時代の出羽三山講に由来を持つ神社で、羽黒山から勧請されたと。はじめ外川仙人大権現と称したが、明治二年の神仏分離令により、日本武尊を祭神と定め、社名を外川神社と改めた。その神験は著しく、ことに小児の虫封じや航海の安全に御利益があったとして、遠近から参詣する者が絶えなかったと。一里塚跡、上方見附跡。江戸幕府は、諸国の街道に松並を植えるよう命じた。以来、夏は木陰をつくり、冬は風雪を防ぎ、旅人の休息の場となったと。外川神社を今井川越しに見る。立派な松並木に成長するのはいつであろうか?江戸時代から保土ヶ谷宿の内に出羽三山講があった。幕末の頃、その講元で先達でもあった淸宮輿一が、湯殿・月山・羽黒の三山の霊場を参拝した際に、羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請し、自分の屋敷内(現在の地)に奉ったと。背の高い石碑が湯殿山供養塔。今井川で羽を休めていたのはマガモの雌であろうか。 ・・・旧東海道を歩く(川崎~保土ケ谷)その7 ・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.11
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日の予定ではここで横浜駅へ向かう予定であったが、時間が早いのでJR横須賀線の保土ヶ谷駅まで更に歩くことに急遽変更。浅間神社参道入口。「ここから境内に入れます。急階段のため手すりにつかまりゆっくり上がって下さい。」と『浅間神社(せんげんじんじゃ)』拝殿。浅間神社は神奈川県横浜市西区にある神社。旧・芝生村(しぼうむら、現在の浅間町)の鎮守であった。横穴古墳が密集する袖すり山と呼ばれる丘の上に立地している。承暦4年(1080年)、源頼朝が浅間神社を勧請して造営されたと伝えられる。 当地は袖ヶ浦(入江)に面した帷子川の河口港として栄え、江戸時代は東海道五十三次の神奈川宿と程ヶ谷宿の間の宿であった。幕末の横浜開港の際には、当社門前より横浜(現・関内)に到る「横浜道」が整備された。関東大震災や太平洋戦争で社殿は焼失し、現在の社殿は昭和戦後になって再興されたものである。「芝生(しぼう)」は縁起が悪いため、この神社にちなんで浅間町と改名されたと。祭神に木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)、相殿に天照大神(あまてらすおおみかみ)と武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祀る。『浅間神社由緒沿革』。『浅間神社境内横穴古墳群』。『稲荷社』。『招魂社』。『浅間神社と富士の人穴』境内西側にあった横穴古墳のひとつで、富士山につながると伝えられていた。江戸時代は名所となっていたが、周辺の開発によって取り壊されたと。洪福寺松原商店街を進む。横浜市西区と保土ヶ谷区にまたがる市場みたいな商店街。『東海道保土ヶ谷宿周辺散策案内図』神奈川宿からの旧東海道は追分で八王子道が分岐し、国道16号線と交わるところから初期の東海道となり、帷子川には古町橋が架かっている。旧東海道・程ヶ谷宿の街道が追分から真直ぐに付替えられた際に、帷子川に架けられたのが帷子橋である。古町橋に対して新町橋とも呼ばれ、あるいは大橋とも呼ばれていた。しかし、昭和39年に帷子川の流れが相鉄線天王町駅南側から現在のような北側に付替えられた。旧東海道の松原商店街をさらに保土ヶ谷駅方面へ。『江戸方見附跡』「「東海道分間延絵図」によれば、芝生の追分から国道16号を越え天王町にいたる途中に保土ケ谷宿の江戸方見附がありました。 保土ケ谷区郷土史では、天王町391・393番地先(現在の天王町1丁目11-3付近)にあったとされています。江戸方見附は、各宿場の江戸側の出入口に設置されているもので、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしています(この ため「土居」とも呼ばれています)。こうした構造から、見附は本来簡易な防御施設として設置されたことがうかがえますが、同時に また宿場の範囲を視覚的に示す効果を合わせ持っていたと考えられます。ここ江戸方見附から京都(上方)側の出入口に設置された上方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれ、保土ケ谷宿 では外川神社付近の上方見附まで19町(約キロメートル)になります。大名行列が来ると、宿役人が見附で出迎え、威儀を正して進みました。」と。天王町の商店街をさらに進む。『橘樹神社(たちばな じんじゃ)』。祇園社、牛頭天王社、天王宮、橘樹社と変遷し、大正10年(1921年)に橘樹神社となった。 当地名の天王町は、旧社名に由来する。創建は文治2年(1186年) 、京都祇園社(現在の八坂神社)の分霊を勧請奉祀したと伝えられる。手水舎。橘樹神社(牛頭天王社)拝殿。素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀る。『明治天皇東幸遺蹟碑』 帷子(カタビラ)川の下流側。保土ケ谷区を南東に流れ、横浜駅東口を取りかこむように流れ、西区のみなとみらい地区と神奈川区のポートサイド地区にまたがる場所で横浜港に注ぐ川。 帷子(カタビラ)川の上流側。『歴史の道 旧東海道』道標看板。『旧帷子橋跡』江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋は、絵画に描かれたり歌や俳句に詠まれるなど、保土ヶ谷宿を代表する風景として知られていたと。帷子橋は「江戸名所図会」にも挿絵が掲載されている本格的な板橋であるが、迅速原図では帷子橋が帷子川の川筋に直交して架けられていることにより、東海道の道筋は約45度折曲がり、橋を渡った位置から再び元の道筋と並行する線形になっている。帷子川は戦後の河川改修により現在の位置に川筋が移動し、相模鉄道天王町駅の南側にある「天王町公園」に帷子橋跡のモニュメントが設置されている。高野山真言宗 普賢山 『香象院』天正11年(1583年)に忠秀法印が開山となり創建したといわれている。東国八十八ヵ所霊場26番札所である。江戸時代には、香象院には保土ヶ谷宿で最大の寺小屋があり、明治5年(1872年)に学制が公布され、明治6年(1873年)には保土ヶ谷小学校の分校となったと。門前の門石柱の後ろに2つの釜が置かれているが狛犬代わりの狛釜のようだ。この鉄釜は、再建前に本堂の前に置かれた「天水鉢」を移したもので、危険防止の為に大きな蓋を付けたのだと。『つづける ”本物はつづく つづけると本物になる” 』と。このブログもできる限り続けて行きたいと。『旧中橋跡』「今井川の改修 かつて今井川はここで宿場を横切っており、「中橋」が架けられていました。 その川筋は慶安元年(1648年)に新しい保土ヶ谷宿が建設された際に人工的に造られたものでした。しかし、その流路の構造から大雨のたびにここで水が滞り、しばしば下流域を浸水することになりましたが、なかなか改善されませんでした。 しかしながら幕末にいたって人馬の往来が急増してきたため、嘉永5年(1852年)宿場では改修費用100両を準備するとともに、町役人が200両の借用を代官へ陳情し、認められるとただちに現在の川筋に改修されました。保土ヶ谷宿と品川台場建設今井川改修で発生した多量の残土の処理に困った名主苅部清兵衛は、当時建設中だった品川台場(外国の侵入に備えた砲台)の埋め立て用の土として幕府へ献上することを申し出、3000立坪(約18,000立方m)あまりの土を船で品川に運び、この問題を解決したと伝えられています 」と。遍照寺入口。寺務所?の壁には仁王像が山門の如くに。 歌川広重「東海道五十三次」の「戸塚宿」と 「箱根駅伝」のデザインの合流管マンホール蓋 。そしてJR東海道線 保土ヶ谷駅前 ロータリーに到着。保土ヶ谷駅 西口。保土ヶ谷駅 構内通路には『東海道五十三次之内 保土ケ谷』が。初代広重が手がけた最初の東海道物で、版元が保永堂であることから、一般に保永堂版と呼ばれるシリーズの内、保土ヶ谷宿を描いたもの。帷子川をまたぐ新町橋を、旅人や駕籠が往来する情景が描かれている。 ・・・その6・・・に戻る 旧東海道を歩く(川崎~保土ケ谷) 完 ・・・旧東海道を歩く(保土ケ谷~藤沢)につづく・・・
2019.01.10
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次青木橋を渡ると右側高台にあったのが曹洞宗青木山『本覚寺(ほんがくじ)』。階段途中からの国道1号線(第2京浜)と東海道線。本覚寺がある丘陵は、戦国期には砦があったと。現在は、丘陵を分断して鉄道が走っており、対岸には戦国期の城跡(権現山城跡)が。おそらく、この丘陵は続いていて、岬のような立地だったと。「本覚寺は、臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に草創されたと伝えられる。もとは臨済宗に属していたが、戦国期の権現山の合戦で荒廃し、天文元年(1532年)に陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めた。開港当時、ハリスは自ら見分け、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、さらには湾内を見通すことのできる本覚寺を領事館に決めたという。領事館時代に白ペンキを塗られた山門は、この地域に残る唯一の江戸時代に遡る建築である。」『史跡 アメリカ領事館跡』江戸時代の末、日米修好通商条約が結ばれるにあたり、この本覚寺にアメリカ領事館が置かれたと。三年ほど、この地に領事館がおかれた。初代は有名なタウンゼント・ハリス。また、生麦事件の時には2名が騎馬で本覚寺に逃げ込み、ヘボン博士(ヘボン式ローマ字で有名)の手当を受けたとのこと。この石柱は開港100年の記念に立てられたと。山門の右脇に、レリーフ像をはめこんだ石碑が建っていた。この石碑は、幕末に横浜の開港を首唱した岩瀬肥後守忠震(いわせひごのかみただなり)の顕彰碑。横浜郷土研究会有志により、横浜開港の恩人への感謝の碑として、昭和57年に建立。 岩瀬忠震は、幕末に海防掛目付に任ぜられた後、外国奉行にまで出世し、開国論の中心的存在として活躍をした人物。日米修好通商条約においてはアメリカ総領事ハリスに対し、下田奉行井上清直と共に交渉にあたり、ハリスの要求した江戸・品川・大坂などの開港希望地をしりぞけ、幕府百年の計のためにと横浜の開港を首唱したのが岩瀬忠震。その結果、1859年に横浜が開港し、発展めざましい今日の基を開くことになったのだと。山門前の戒壇石に「不許葷酒入山門」(葷酒、山門に入るを許さず)が。葷酒とは仏教の戒律で禁じられた臭気の強い葱ねぎ、韮にら、蒜にんにく、薤らっきょう、興渠はじかみという五辛および酒のこと。臭の強いものや、酒を持ち込む事は禅宗の修 行に差し障りがあるのでこれを許さないと。山門。当時の領事館員達は、当時日本には存在していなかった西洋塗装法(ペンキ)で、建物の彫刻等を塗装して行ったと。今でも唐獅子や蛙股などにペンキ塗装の跡を残っていると。『青木山』と書かれた扁額。正面に本堂。『全国塗装業者合同慰霊碑』。安政三年(1856)アメリカ総領事ハリスは、神奈川宿本覚寺を領事館と定め、本覚寺をすべて白ペンキで塗らせた。これが元で、本覚寺に「全国塗装業者合同慰霊碑」が建立されたと。『地蔵堂』。本尊・地蔵願王菩薩坐像を安置する。俗に子育地蔵と呼ばれ、子供の成長祈願、病気平癒、安産供養の信仰があると。地蔵菩薩立像が地蔵堂の前に。『鐘楼』。『寺務所』。本堂を再び。『水子子育地蔵』。水汲み場には懐かしい手押し井戸ポンプが。境内を散策すると本堂左隣にお釈迦様の涅槃像が。ズームで。本覚寺を後にし、山門前の階段からの横浜駅方面。『東横フラワー緑道』「東横フラワー緑道」は、平成16年(2004)2月の「みなとみらい線」の開通に伴い、「東急東横線」が地下化されたことから、その上部を緑道として整備したもの。当時の写真を掲示していた。『大綱金刀比羅神社』。この神社は、社伝によると平安末期の創立で、もと飯網社といわれ、今の境内後方の山上にあった。その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となったと。かって眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。また江戸時代には、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は、日本橋より七つ目に当たり、土盛りの上に樹が植えられた大きなものだったと。『神奈川宿 袖ケ浦』十返舎一九『東海中膝栗毛』よりの文章が掲載。『歴史の街 神奈川宿』。田中家のあるこのあたりは、むかしから神奈川台町と呼ばれ、かつては海沿いの景勝地として広く知られていた。この神奈川は、江戸時代には、東海道五十三次の中の、日本橋から数えて、品川、川崎に続く第三番目「神奈川宿」として栄えていた。その頃の神奈川宿の様子は「東海道中膝栗毛」(十返舎一九)にも描かれているが、昼夜を問わず、街道を行き交う人々でたいへんなにぎわいだったと。幕末の偉人、坂本龍馬の妻おりょうは、龍馬亡きあと、ここで住み込みの仲居として勤めていた。月琴を奏で、外国語も堪能で、物怖じしないまっすぐな性格が、ことに外国のお客に評判だったと。横須賀に嫁いでいき、田中家をやめたあとも、ひいき客からいつまでも話題に上ったと。坂道を登っていくと旧東海道脇に老舗料亭『田中家』が左手に。田中家の前身は、歌川広重の浮世絵にも描かれていた。『田中家』のパンフレットより。今でこそ埋め立てが進み、国道1号と横浜駅を越えて海に出るまで1キロほどあるが、昔は探訪絶景で欄干から釣り糸を垂らせたという。伊藤博文ら明治の元勲や夏目漱石ら文豪も投宿。日本囲碁界の第一人者、呉清源の対局戦も行われるなど数々の著名人に愛されたと。『神奈川の台と茶屋』。「ここ台町辺りは、かって神奈川の台と呼ばれ、神奈川湊を見おろす景勝の地であった。弥次さん、喜多さんが活躍する『東海道中膝栗毛』にも「ここは片側に茶店軒をならべ、いづれも座敷二階造、欄干つきの廊下桟などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし」とある。二人は立ち寄り、鯵をさかなに一杯ひっかけている。」「茶屋 うどんそば切有」「そば切ちゃ屋」の文字が見える。更に旧東海道を進む。「神奈川台関門跡」「袖ヶ浦見晴所」と刻まれた石碑。『神奈川台の関門跡』「ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は、安政六年(一八五九)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。明治四年(一八七一)に他の関門・番所とともに廃止された。」と。「思いきや 袖ヶ浦波立ちかえり こに旅寝を重ねべしとは」正二位権大納言鳥丸光広(江戸前期の歌人・能書家)の歌。『ブローテ横浜高島台』が右手高台に。横浜駅そばの高台にそびえたつブローテ高島台は、バルコニーの青いガラスが目を引く大型賃貸マンション。2015年度グッドデザイン賞。『上台橋』を渡る。かつてこのあたりは、潮騒の聞こえる海辺の道であった。この場所から見えた朝日は、ひときわ美しかったと。『神奈川駅中図会』にも、その姿が描かれていると。この地に橋ができたのは、昭和五年(1930)。開発がすすみ、切り通しの道路ができるとともに、その上に橋が架けられたのだと。上台橋の上から横浜駅西口方面を見る。首都高速神奈川2号三ツ沢線が高架で。『神奈川宿歴史の道←リンク』はほぼこの図の範囲を対象とし、上台橋から神奈川通東公園に至るおよそ4kmの道のりである。旧東海道の標識。これは横浜市西区歴史街道シンボルマークらしい。「区内には、三つの古道、旧東海道、横浜道、保土ケ谷道が三角形をかたどるように通っている」のでこのデザインになったのだと。この辺りの歩道面には、約100mごとにこのマークが。『勧行寺(かんぎょうじ)』。法華宗学陽山勧行寺。越後本成寺末で三ツ沢豊顕寺三世日養をもって開山とする。ご本尊は大曼茶羅、一塔両尊だが境内にも面白いものがある。まず天然理心流の流祖近藤内蔵之助長裕(こんどうくらのすけながひろ)の墓。新撰組局長近藤勇は四代目にあたる。もう一つは水車舟制作の道周翁の墓。水車舟とは外輪船のことだろう。その功績をたたえた水戸藩主の和歌一首が彫られている。他に作家の北林透馬夫妻もこの墓地で眠る。浅間下歩道橋上より。 ・・・その5・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.09
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に横浜に向かって歩く。滝の川に架かる『土橋』。京浜急行のガードと国道15号のちょうど真ん中辺りにこの土橋がかかっていた。昭和4年(1929年)竣工の文字が。江戸時代には滝の川を挟んで江戸側の神奈川町に石井本陣が、京側の青木町に鈴木本陣が置かれ、神奈川宿の中心地として賑わったと。滝の川に浮かぶ水鳥。手前はキンクロハジロ:カモ目カモ科ハジロ属頭は黒色で、紫色光沢がある。目が黄色、背が黒、腹やわきが白ということで、キンクロハジロ。メスは褐色がかっていた。正面から見るとけっこう怖い顔。『滝ノ橋と本陣跡』説明板の上の図は「金川砂子(かながわすなご)」に描かれた、江戸後期の神奈川宿の風景である。本陣とは、大名や公家などが宿泊したり、休息するための幕府公認の宿。「金川砂子」は、江戸時代の神奈川宿の様子を書いたもので、神奈川宿の住人「煙管亭(きせるてい)喜荘(きそう)」により、文政七年(1824)に作られたと。絵図(金川砂子)は、滝の橋を挟んだ神奈川宿と、権現山。街道右手の、小高くそびえる権現山が幕末の神奈川台場築造のために削られ、時を経て現在の幸ヶ谷公園が設けられた。権現山のふもとには宗興寺がみえると。15号線(第1京浜)にかけられた『滝の橋』。神奈川宿の、青木町と神奈川町を隔てる滝の川に架けられた橋。水道水の水質チェックか?残留塩素濃度測定?『神奈川の大井戸』。「江戸時代には東海道中の名井戸に数えられ、 当時は宗興寺のことを「大井戸寺」と呼ぶほどであったといわれている。 江戸初期には神奈川御殿に宿泊する徳川将軍のお茶の水に使われたと伝えられ、また、開港後には宗興寺に滞在したアメリカ人宣教医シモンズやヘボンもこの井戸水を使用していると。また、この井戸の水量の増減によって翌日の天気を知ることができるといわれ、そのため「お天気井戸」とも呼ばれた」と。『宋興寺』は曹洞宗開塔山宋興寺。 『宋興寺とヘボン博士』「曹洞宗宋興寺は、上の「神奈川駅中図会」では権現山の麓に描かれている。海港当時、米国人宣教師で医者であったヘボン博士がここに施療所を開いた。これを記念する碑が境内にある。このヘボン博士は「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、聖書の翻訳なども行った。後に明治学院を創設」。『ヘボン博士の石碑』。「1859(安政六)年ヘボンの来日後、まもなく米宣教医DBシモンズが来日、当宗興寺を宿舎とした。シモンズはその後、明治初年になって横浜市立大学医学部の前身、十全医院で多数の外科手術を行い、子弟を教育した。また虫下しセメン円でも有名である。米宣教師ネビウスも一時宗興寺を宿舎とした。シモンズ、ネビウスが当寺を去ったあと1861(文久元)年四月から九月まで宗興寺はヘボンの施療所となった。ヘボンは成仏寺からここへ通い、多数の患者を無料で診察し、入院患者もあった。ヘボンのレリーフは幸ヶ谷在住の齋藤由蔵氏の善意で作られたものである。昭和五十一年十二月 ヘボン博士顕彰会」境内の『子育て観音』と『六地蔵』。第一京浜国道(国道15号線)を横切り台場公園内にある『神奈川台場跡』へ。『地下に眠る神奈川台場』。『地図と絵に見る神奈川台場の歴史』「横浜の開港により、開港場の付属施設として神奈川台場が築造されました。安政6(1859)年5月、幕府が伊予松山藩に砲台の構築を命じ、勝海舟が設計にあたりました。約7万両の費用と約1年の工期を要し、万延元(1860)年6月に竣工した当時の台場は、総面積2万6千?(約8千坪)で、海に突き出た扇形をしていました。明治32(1899)年2月に廃止されるまで礼砲や祝砲を発射する施設として使われていましたが、大正10年頃から埋め立てられ、いま地上部には石垣の一部だけが残っています。」上の左から『増補再刻 御開港横浜之全図』その下に『亜米利加人上陸之図』、『黒船来航画巻』『黒船来航図絵巻』、『横浜往返鉄道蒸気車ヨリ海上之図』。『神奈川台場図』絵図下の家並みは神奈川宿、台場には大砲や番所の位置が示されていた。右の上の左から『御開港横浜正景』、『改正 銅板横浜地図』、『明治30年代の神奈川台場』『最新 横浜市全図』、『神奈川地図』。『神奈川台場図』。番所や砲台の跡など主要場部分はJR貨物の東高島駅となっているため、立ち入れません。もっとも、現在は跡形もなくなっているでしょうが・・・。1899年(明治32年)2月に廃止され、現在では周囲が埋め立てられて港湾施設の一部と化していると。明治32年2月廃止されるまで礼砲用として使われたが、大正10年頃から埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみ。台場の石垣が残されていた。石垣も、いわゆる戦国期のものと様相は違い、切石の同じ大きさのものが並び石垣の面白さがあまり感じられないものであったが、しかしこれだけの大きさの石が並ぶのは、やはりなかなかの工事ではと。第1京浜から旧東海道の宮前商店街に入る。『洲崎大神(すさきおおかみ)』京急・神奈川駅の東150mほどの青木町に鎮座。境内入り口は南向き、道路に面して白い神明鳥居が立っていた。鳥居の右手に「洲崎大神」と刻まれた社号標が立っていた。洲崎大神社殿。横浜市神奈川区青木町にある神社。洲崎大神は源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社の霊を移して建久2年(1191)に創建したと伝えられます。明治16年郷社に列格、明治40年神饌幣帛料供進社に指定されたといいます。祭神:天太玉命、天比理刀売命相殿:素盞男命、大山咋命境内には多くの老木が茂る。『境内社 御嶽荷社』『境内者 稲荷社』。次に旧東海道からそれて、急な坂を登り「幸ケ谷公園」へ登る。何本かの石碑が立っていた。それぞれの戦争の表忠碑日清戦争 :明治27、28年 3名日露戦争 :明治37、38年 21名支那事変 : 120名第二次世界: 1,357名昭和41年4月3日に合同慰霊祭を執行し其の御霊は洲崎神社に奉安してあると。『権現山合戦の跡』「永正7年(1570)北条早雲が当時の関東の支配者上杉氏の家臣上田蔵人を味方にしてここにとりでを築かせた。上杉朝良ら二方の大軍がとりでを囲み合戦が十日間も行われた。その結果上田勢は敗れた古戦場跡である。また安政年間のお台場づくりなどの埋め立て用土に山が削られて低くなった」と。公園内には桜の古木がたくさんあったが、無くなっている場所も。害虫で伐採された桜の老木の切り株。真言宗智山派 『普門寺』。洲崎山と号す。鎮海権僧都(文治3年1187年寂)が開山となり創建。開港当時はイギリス士官の宿舎に充てられたと。東国八十八ヵ所霊場21番。『六地蔵』。普門寺に隣接する『甚行寺』。「甚行寺は、真色山と号し、浄土真宗高田派に属す。明暦2年(1656)第一世意圓上人が本山専修寺の第十四世堯秀上人を招いてこの寺を草創した。開港当時、本堂が土蔵造りであったが、改造をくわえてこの寺もフランス公使館に充てられたと」。『史跡 フランス公使館跡』。『本堂』。境内の池には金色の鯉が。『京急 神奈川駅』。『神奈川宿歴史の道』 時間は14:50.案内板の上の図は、江戸幕府の道中奉行が作った「東海道分間延絵図(ぶんけんのべえず)」。図の中央に滝ノ橋、この橋の右側に神奈川本陣、左側に青木本陣が描かれている。折れ曲がった辺りが台町である。ここ神奈川宿が一躍有名になったのは安政元年(1854)の神奈川条約締結の舞台となってからである。開港当時、この図に見られる多くの寺が諸外国の領事館などに充てられたのだと。江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図。絵図には、問屋、本陣、脇本陣、寺社などが描かれている。また、一里塚、道標、橋、高札なども描かれている。縮尺は、実際の1里を曲尺の7尺2寸に縮尺して描かれていて、急な曲がり道は、そのまま描いてしまうと地図の天地が長くなってしまうので、実際にはゆるい曲がり道にし、そのわきに追記して本来の曲がり具合を示していると。第二京浜(国道1号線)の『青木橋』からJR東海道線を見る。 ・・・その4・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.08
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次京急線の向こう側にある『遍照院』。横浜市神奈川区にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は密厳山、寺号を不動寺と称する境内を京急本線が走り山門前には踏切があるため、「踏切寺」とも呼ばれていると。『西洋野菜栽培とトマトケチャップふるさと』と書かれたプレートが歩道の脇に。案内板の説明によると、横浜開港をきっかけとして国内に入ってきたセロリやトマトは、東京と横浜という二大消費地に挟まれた子安で、盛んに栽培されていたようだ。やがて1894(明治27)年、日本で最初のトマトケチャップの製造が地元の清水屋で始まったと。『トマトケチャップ発祥の地』石碑。1903(明治36年)年に横浜の清水與助(よすけ)氏が製造販売を開始したのが、国産ケチャップのはじまりであると。ウィキペディアによると「1908年(明治41年)には明治屋がトマトケチャップとマッシュルームケチャップの輸入販売を開始する。同年にはまた、蟹江一太郎(カゴメの創業者)がトマトケチャップの製造販売を開始している。 当時の日本ではまだほとんど未知の食材であり、色も輸入品より悪かったため、同時に発売したウスターソースが好調な売れ行きだったのに対し、当初の売り上げは芳しくなかった。その後トマトケチャップを用いる料理の普及拡大、殺菌方法を変え仕上がりを改善したこと、積極的な宣伝などが奏功して急速に売り上げを伸ばした。容器の変遷も消費拡大に大きな役割を果たした。発売当初はビール瓶に詰められていたため取り出しにくかったが、1957年に(他社に追随し)カゴメが広口瓶を採用し、スプーンで必要なだけ取り出せるようになったことで4年後には売り上げが2倍近くに増えたと。さらにその後ポリエチレンをブロー成形したチューブ入りのものが発売され、使い勝手の良さから日本における主流となった。」と。日本橋から26kmと。足洗川の河口には釣り船が。浦島町交差点を通過。国道15号線出田町入口交差点にある歩道橋を渡る。下の道路は旧東海道(第1京浜)。右手に『良泉寺』 山門。神奈川宿歴史の道『良泉寺』。「神奈川区新町にある良泉寺は浄土真宗大谷派のお寺で海岸山良泉寺という。本願寺第八世蓮如上人(応永22年(1415年)〜明応8年(1499年))に帰依した蓮誉が、小机付近の旧街道沿いに草創し、慶安元年(1648年)に入寂したこの寺の第四世良念の代に、徳川幕府より境内地の施入を受け、現在地に移転したと伝えられている。開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快よしとしないこの寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断ったといわれる。」本堂。京急線の線路のガードを潜り『笠䅣稲荷神社(かさのぎいなりじんじゃ)』へ。『笠䅣稲荷神社』笠䅣稲荷神社は、社伝によると天慶年間(九三八〜九四七)に稲荷山の中腹に創祀され、元寇に当たっては北條時宗より神宝を奉納されている。元禄二年(一六八九)山麓に移られて、霊験ますますあらたかとなり、社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちるということから笠脱稲荷大明神と称された。後に笠のぎ稲荷神社と改称され、明治二年に現在地に遷座された。また、この神社に土団子を供えれば病が治るとの特殊信仰もある。お礼に粢(ひとぎ)団子を供えるという。」社殿。神奈川区東神奈川2に鎮座する笠䅣稲荷神社は天慶年間(938年〜947年)に稲荷山の中腹に創祀された。元寇に当たっては北条時宗より神宝を奉納されたという古社である。元禄2年(1689年)山麓に遷座した。霊験ますますあらたかとなり、社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちるということから笠脱稲荷大明神と呼ばれたと伝えられる。明治2年(1869年)に当地へ遷座し、明治17年(1884年)村社に列格した。「新編武蔵風土記稿」によれば、笠脱稲荷社は9尺四方の社殿であったと記されている。すなわち、「新編武蔵風土記稿」が編まれた文化・文政期(1804年〜1829年)には神明宮の社殿と同じ大きさの社殿が建っていたことになる。現在では神明宮は3尺四方と小さくなり、一方、笠のぎ稲荷神社は鉄筋コンクリート造にするほどの大きな社殿になっている。宇迦之魂命、明治天皇、日本武尊を祭神とする。境内摂社の古峯神社と祖霊社。『板碑』。上部には阿弥陀種子・梵字(キリーク)を刻む。下部には中央に梵字で「南無阿弥陀仏」の文字。「通称「稲荷山」と称した、山の麓に位置していましたが、明治初期に現在地に移されました。碑の形態は頭部を三角形とし、その下部には二条の深い切り込みが施され、身部(みぶ)は枠線によって長方形に区画されています。 身部上位には阿弥陀如来をあらわす種子(しゅじ)「キリーク」を、中位にはには天蓋を配し、その下位 中央には六字名号(ろくじみょうごう)「南無阿弥陀仏」の梵字が薬研(やげん)彫りで力強く刻まれています。 本板碑は阿弥陀を主尊とする板碑ですが、天蓋を配した六字名号と一対の塔を配した特異な板碑で、本碑に見られるような変形五輪塔を刻す板碑は極めて特異な少なく、中世の墓制を知るうえで貴重な資料です」と。そして次に『能満寺』を訪ねる。寺の前の道は「神奈川歴史の道」として整備されていた。「能満寺は、海運山と号し、古義真言宗に属す。正安元年(一二九九)内海新四郎光善というこの地の漁師が、海中より霊像を拾い上げ、光善の娘に託していう霊像のことばにしたがって建てたものがこの寺であるとの伝承がある。本尊は高さ五寸(十五センチ)木造坐像の虚空蔵菩薩で、海中より出現したと伝えられている。かつては、神明宮の別当寺で同一境内地に同社もあったが、神仏分離令で分かれ今日に至っている。」『芭蕉句碑』ばせを翁 「父母の しきりにこひし 雉子の聲」。「ばせを翁」とは「芭蕉翁」のことである。貞亨5年(1688年)春、芭蕉が尾張国の俳人・坪井杜国(つぼいとこく)と高野山を訪れて詠んだ句。意味は、静かな杉木立の中、お互いに呼び合う雌雄の雉の声を聞いた芭蕉は父母の姿をしのんだと。『能満寺』本殿。「海運山」と書かれた扁額。山門を正面から再び。能満寺の隣の『神明宮』。東神奈川神明宮は、能満寺が創建された正安元年(1299)に創建。明治18年に村社に列格。拝殿。交通量の多い国道沿いだが、この一角は小公園もあり、寺院もあり、静かな佇まいがあって心落ち着くスポット。神奈川小学校敷地の角に神奈川宿の「東海道分間延絵図」の神奈川宿部分のタイル絵が。「東海道分間延絵図」とは、江戸幕府が東海道の状況を把握するために文化3(1806)年に作成した詳細な絵地図。沿道にある主な問屋・本陣・脇本陣・寺社などが丹念に描かれ、一里塚・道標・橋・高札なども描かれている。東海道の他にも、中山道・甲州道・奥州道・日光道の五街道と、それらに付属する街道地図も同時期に作成され、「五街道分間延絵図」絵図篇が作成された。今は姿を消した、上無川(かみなしがわ)。「「神奈川」は、鎌倉幕府の執権、北条時宗の発した文書の中にも記されている古い地名であるが、その由来にはさまざまな言い伝えがある。その一つとして「江戸名所図会」の上無川の項には「神奈川本宿の中の町と西の町の間を横切って流れる小溝で、水が少ししか流れておらず水源が定かでないため上無川という。カミナシガワのミとシを略してカナガワというようになった」という説が記してある。上無川は現在の神奈川小学校東脇にあったとされているが、関東大震災後の復興計画により埋め立てられ、今では川の姿を見ることはできない」と。壁画の前には雑草が葉を伸ばしていたが・・・・。軽井沢から台町(だいまち)へ。軽井沢坂の文字が読み取れる。右に台町の茶屋街。台町から青木町、滝の橋へ。 台町茶屋街が続く。神奈川台の下、水際の神奈川浜(神奈川浦)にも集落が見える。左手の小高い山の上に飯綱社(現大綱金刀比羅神社)。尾根を右に伝って中腹にはアメリカ領事館の置かれた本覚寺。中世には青木城の一角を占めた。街道沿いの青木町字(あざ)元町に洲崎明神。渡船場が現れるのは幕末の開港期か。いちばん右は滝の川を渡る滝の橋。橋のすぐそば、権現山(現幸ヶ谷小学校、幸ヶ谷公園)から尾根が本覚寺、飯綱山(現高島山)まで延びている。滝の橋から神奈川町へ。滝の橋周辺が神奈川宿の中心地。神奈川宿仲之町のやや内陸に、御門石を経て御殿跡が見える。神奈川町新町(しんまち)、並木町。 新町は宿入口。オランダ領事館の置かれた長延寺が見える。『絵図併に大概書』。「五街道分間延絵図」絵図篇の巻頭に載せられている「絵図并大概書」という文と柳瀬喜代志氏の訳文もかかれていた。「寛政(一七八九~一八○一)中、あらたに命を承けて五街道及びそれに附属する道路の若干の絵図を編修した。縮尺は一里を曲尺七尺二寸とし、道路の迂回曲折は方位に従って真直に伸して衝図としたから、国や郡の境界、宿や村の区分、河川の源や未派、及び寺院や宮祠の区域、それ以外のことなどは、一層明らかとなったが、これらには悉く図の傍に註記し、集落の両境を道路に接するものは朱の丸印で区分した。また、見聞できる範囲の山川、城市、寺観、霊廟、古跡、古墳などで道路の傍にあるものについては、遠近にしたがって具に載せた。かの三山五湖(この場合は富士山、箱根、木曽などの山々や、琵琶湖、浜名湖などの湖をさす)を塊視し、杯看するが如きはそうである。また、大概書というのは、瑣末の事を述べて煩縟な諸書、錯綜せる駅路、庶事は、その要事をとり、深くしらべてただし、総目に具にのせた。こうして、文化三年(一八○六)の冬にことごとく献上し、幕府の書庫に蔵めた。そしてこれらの完成を報告したところ、また命を受けたから、手写して藁本を作り幕府に永蔵して後人の参考に備えるのである。その図は、文飾をはぶき、事実をくわしく記した。それ故、必ずしも名文をこととはしていない。また、この絵図の意図は、これを見る人に、居ながらにして歩きなれた路を歩いているかのようにすることにある。庶幾、遺脱なかれと思うのみ。 文化丁卯春正月謹識」と。そして蕎麦屋で昼食。蕎麦とカツ丼のセットを楽しむ。昼食後は再び旧東海道を下る。『東光寺』。真言宗智山派寺院の東光寺は、平尾山と号す。東光寺は、太田道灌(1432-1486)が小机城を攻略後、平尾内膳が太田道灌より与えられた守護仏を元に当寺を創建したと。寅歳開扉武南十二薬師如来霊場11番、東国八十八ヵ所霊場19番。門が閉まっていて境内には入れなかったので塀越しに。次に『熊野神社』を訪ねる。鳥居と社殿が正面に。手水舎。そして『金蔵院』山門。『神鏡山』と書かれた扁額。真言宗智山派寺院の金蔵院は、神鏡山東曼陀羅寺と号す。金蔵院は、京都醍醐三宝院の始祖勝覚僧正が開基となり寛治元年(1087)に創建。慶長4年(1599)に徳川家康より寺領10石を拝領、多くの末寺を擁する中本寺格の寺院。玉川八十八ヶ所霊場3番、東国八十八ヵ所霊場20番。「金川砂子」のこの図には江戸後期の様子が描かれている。参道は街道まで延び、金蔵院・熊野神社が境内に並び立っている。本堂前には家康の「御手折梅」と称された梅の古木が描かれている。この寺も境内には入れず。旧東海道の松並木を歩く。左右には住宅街が押し迫り。 『神奈川宿 高札場跡』その規模は、間口約5m、高さ3.5m、奥行1.5mと大きかった。この高札場は資料をもとに復元したもの。高札場は幕府の法や規則を掲示する場所で、いわゆる政府の広報の場。高札場は神奈川県警察署西側付近にあったが、神奈川地区センター前に復元したもの。左手には浄土宗正覚山法雨院『成仏寺(じょうぶつじ)』。成仏寺は永仁年間(1290年代)の創建。当初は四宗兼学(真言・仏心・律・浄土)であったが江戸時代初期に浄土宗一宗となった。徳川が神奈川御殿を造るにあたり成仏寺のかつての境内を敷地に定め、その代替地として下されたのが現在地。その当時は塔頭(たっちゅう)六坊を持つ大寺であった。開港期は初めオランダ領事館、オランダ領事館が長延寺に移転した後はアメリカ人宣教師の宿舎にあてられた。ヘボン博士も来日当初はここを宿舎としたと。『史跡 外国宣教師宿舎跡』と刻まれた石柱。安政6年(1859年)の横浜開港当初、アメリカ人宣教師の宿舎として使用された。ヘボン式ローマ字や日本最初の和英辞典「和英語林集成」の編纂で知られるジェームス・カーティス・ヘボン、日本滞在日記を残したフランシス・ホール、聖書の和訳や英語教育を行った宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンなどが滞在した。文久2年(1862年)には、のちに駐日公使となるイギリスの外交官アーネスト・サトウが成仏寺を訪れ、ブラウンに日本語を学んでいるのだと。成仏寺 本堂。成仏寺 境内。 ・・・その3・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.07
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次橋上駅の『JR国道(こくどう)駅』。魚河岸通りに入ると、JR鶴見線の国道駅の前に出る。鶴見線は、全長わずか9.7kmの都会の中のローカル線と言った感じである。第一京浜国道と旧東海道の間に、そのものずばりの駅名である国道(こくどう)駅が出来ている。鶴見線は鶴見駅と埋立地の臨海工業地帯を結ぶ線で、大正13年貨物専用として開業(1924年)。その後、昭和5年(1930年)に旅客輸送も開始し現在に到っている線である。JR国道(こくどう)駅舎の下には多くの自転車が。浄土宗 慶岸寺(けいがんじ)。入倉山 究竟院 慶岸寺と号す。本堂。開山「慶岸上人」は天正9年(本能寺の変の前年)示寂。示寂とは菩薩(ぼさつ)や有徳(うとく)の僧の死。堂内には阿弥陀三尊、善導・法然両大師、開山像等が祀られている。昭和20年4月空襲で堂宇悉く灰燼に帰し、昭和35~40年本堂庫裏を再建した。山門脇の「子育地蔵尊」(宝永6年安置)は往時より安産と赤子・幼児の息災を念じ香煙が絶えないと。六地蔵と鐘。永代供養墓「蓮の臺(うてな)」。臺とは土を高く積んで人が来るのを見張るための物見台のこと。『子育地蔵尊』。「子育地蔵尊」と書かれた扁額。『冬木森稲荷神社(ふゆきもりいなりじんじゃ)』。引き潮になると船が出せなくなるため漁師たちがこの神社の境内で潮を待ったことから、塩待稲荷の別名があると。総本社は、京都の「伏見稲荷大社」で御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)。鳥居に掲げられた扁額。正泉寺の短い参道に鶴見区で一番古いと言われる「地蔵尊」があった。南西向きに安置されている地蔵は、慶安5年(1652)に供養造立したとある。この地蔵は違うお寺に祀られるため運ばれている途中、こちらの参道で休息のため一時置かれたが、再び動かそうとしたところ、持ち上げることが出来なかったと言う伝承が残されているという。『正泉寺(しょうせんじ)』の山門。南海山 瑠璃光院 正泉寺と号す。神奈川金蔵院の末寺で、玉川八十八ヶ所霊場の第八番札所。明治五年に学制が布かれると、翌六年には正泉寺に生麦学舎が始まったと。参道右手に祠があった。一番左手に「亀の供養塔」。この亀の由来は、明治四十五年(1912)の夏のある日、いつものように生麦では地曳網を引き上げていると、網の中は魚が一杯入っていて大漁だった。そして、魚の中に一匹の大海亀が入っていたと。漁師たちは、亀は龍宮のお使いだといって、亀に酒を飲ませ、甲羅には親方の名前と富士山(富士講)を書いて、海に放そうとしたら、その時が亀の寿命の万年目に当ったのか、あっけなく死んでしまった。漁師たちは、ねんごろに正泉寺の墓地に葬り、亀の墓を建て手厚く供養した。その後、江ヶ崎屋の人は漁が少なくなると、亀の墓にお参りして漁を授けてくれるようにお願いをすると、その願いがかなえられるのか大漁が続いたと。その隣右側に「お心中様」。明治十五年六月、南浜の舟着場に心中死体が流れ着いた。浜の人達はこれをあわれみ、正泉寺に埋葬しねんごろに供養した。寺の過去帳には、天明四年(1784)三月八日に男女の漂着死体を葬ったとあり、長い間には、何度かこの様なことがあったと思われる。心中供養碑はその後、火災や震災などにより、寺の片隅にかたづけられていたと。右手には「真韻(まいん)」と刻まれた石碑が。真韻とは”真の追求、韻を踏むように真実を伝え仲間を増やす”ことであると。桜さくら はかなく散り 姿にも おもひかはせし 色はみえけり 鶴 園こころだに こふる涙の 海よりや おもいしつめる 身とはなりけむ 直幸更に右手には無縁供養之碑。 「お心中様」と向かい合うように右手には祠が。真中に地蔵菩薩立像、右手には僧衣の坐像石仏、左手には観音菩薩立像が並んでいた。本堂。第108代・後水尾天皇の御代、寛永元年(1624)全浄法印による開創。本尊は海中より出現したといわれる薬師如来座像で御身8寸、春日仏師毘首羯磨の作と伝えられている。そして魚河岸通りの中央右手にあるのがこの『道念稲荷神社(どうねんいなりじんじゃ)』である。朱の鳥居が並ぶ神社。道念稲荷社に数百年前から伝わる「蛇も蚊も」祭りは、横浜市の無形民俗文化財に指定。生麦が農漁村であったころの雨乞い祈願の行事で、悪疫を追い出し豊漁も祈ったものだ。蔦で作った20mもの大蛇を担ぎ、「蛇も蚊も出たけ 日和(ひより)の雨け 出たけ 出たけ」と大声に唱えながら、町内を練り歩くとか。毎年6月第1日曜日に行われていると。『生麦水神社 (なまむぎすいじんしゃ)』。石鳥居と奥に社殿が。社殿。生麦水神社の創建年代は不詳だが、新編武蔵風土記稿に記載のあることから江戸時代末期には創建されていたと。もとは、正泉寺の寺内にあり、昭和三年に現在の地へ移った。昔から北の八幡様、本宮の道念様、原の神明様というように、南の水神様として地区の人々の信仰を集めていた。特に南浜を中心として北や本宮の漁師達は、「板子一枚下は地獄」の海の仕事に危険はつきもので、安全を願い、大漁を祈願する神として、水神宮への信仰は大変厚いものであったと。狛犬が個性的なお顔。サッカーボールを持っているがごときで。富士浅間大神と刻まれた石碑。そして『生麦事件発生現場』。生麦事件は、文久2(1862)年8月21日、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、薩摩藩主の父・島津三郎久光の行列と遭遇した騎乗のイギリス人4名を、供回りの藩士が殺傷した事件。(1名殺害、2名深手)生麦事件の発生現場に、民家の塀に説明板が立っていた。「文久二年八月二十一日辛未晴天島津三郎様御上リ異人四人内女壱人 横浜与来リ本宮町勘左衛門前ニ而行逢下馬不致候哉異人被切付直ニ跡ヘ逃去候処 追被欠壱人松原ニ而即死 外三人ハ神奈川ヘ疵之儘逃去候ニ付御役人様方桐屋ヘ御出当村役員一同 桐屋ヘ詰ル右異人死骸ハ外異人大勢来リ引取申候」島津候の行列が、神奈川方面から馬で来た。どこの国ともわからない異人4人(うち女1人)と出合い、行列の先方の人々が声をかけたが、異人たちは聞き入れず、駕籠先近くまで乗り入れたので、行列の藩士が異人の腰のあたりに斬りつけたようで、そのまま異人は立ち去り、一人は深手の様子で、字松原で落馬して死に、他の三人はどこかへ立ち去ったと。生麦事件現場の裏にあった『御社母子稲荷神社』。咳を治癒する神として『新編武蔵風土記』などにも記載されている古社。『御社母子稲荷神社』と書かれた扁額。首都高速神奈川7号横浜北線が前方に姿を現す。更に進み、右手に折れると正面にあったのが『神明社』。原の神明社と本宮の道念稲荷社の2か所に数百年前から伝わる「蛇も蚊も」祭りは、横浜市指定無形民俗文化財。生麦が農漁村であったころの雨乞い祈願の行事で、悪疫を追い出し豊漁も祈ったと。神明社 社殿。旧東海道に戻ると左手にキリンビール横浜工場第2物流センターが。路面の横浜旧東海道の表示板ここの宿「鶴見」は赤色で、次からの宿、方位も表示されていた。横浜北線及び岸谷生麦線の高架下緑地に沿って歩く。そして右手に折れ第1京浜を渡り『生麦事件参考館』を訪ねる。一般住宅の建物。幕末に東海道生麦村(現在の横浜市鶴見区)で薩摩藩士が英国人を殺傷した「生麦事件」の歴史的意義を伝えようと、地元住民が自宅敷地内に作った私設資料館「生麦事件参考館」。帰宅して調べてみると開館20年の節目となる5月3日に閉館したようであった。ただし閉館後も参考館はそのまま残すと。地元の歴史愛好家らに管理・運営をお願いすることも検討しており、資料は今後も活用していく方針だと。参考館を見学するには事前予約が必要。入館無料。そして旧東海道に戻ると左手に『生麦事件碑』が高速道路の橋梁下に建っていた。実はこの石碑は、もともと200mほど西側にあったが、横浜環状北線という道路工事のため、現在地に仮移設されているのだと。『生麦事件碑』と『生麦事件参考館 案内図』文久2年(1862年)、薩摩藩主の父・島津久光の行列が生麦村を通行中、4人の外国人が馬に乗ったまま行列を横切ろうとし、警護の薩摩藩士に殺傷された事件である。その内の一人、英国商人リチャードソンはまもなく絶命した。この事件に対し、イギリスは幕府に10万ポンド、薩摩藩に2万5千ポンドと犯人逮捕を要求したが、薩摩藩は応ぜず、薩英戦争に発展した。明治16年、鶴見の黒川荘三がリチャードソンの死を悼み、事件の風化を防ぐために私費を投じ、生麦事件碑を建立。地元顕彰会が毎年8月21日に記念祭を行っている。横浜市登録文化財。そして『キリン横浜 ファクトリーショップ』が奥に。右手の煉瓦造りの建物が『スプリングバレー ブルワリー横浜』つくり手たちの個性とこだわりが感じられる、多彩な6種類のビールや限定ビール、ビールにホップやフルーツなどの自然素材を組み合わせて作るインフューズドビールを楽しめるのだと。しかしこの日はグッ!!と我慢し歩を進めるつもりであったが幸い??この日は月曜日で休館であったのであった。『東子安一里塚』。神奈川県内に20ヶ所ある東海道一里塚で唯一、この6里目の東子安一里塚にはその目印が無い為、文化3年(1806)完成の東海道分間延絵図に基づき、西側の遍照院と東側の村境(現・鶴見区・神奈川区境)からの比率で場所を特定したのだと。北側の塚には榎、南側の塚は松が植えられていたと。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.06
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次横浜市鶴見区内の旧東海道を更に下る。『市場の一里塚』慶長9年(1604)、徳川家康は街道を整備し、一里ごとに5間四方の塚を築いた。塚には榎などの樹木を植え、旅人の里程の目安とした。ここは江戸より五里目の塚に当たり、横浜市内で最初の一里塚。明治9年(1877)地租改正にあたり払い下げられ、左側の塚が現存していると。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していたと。『市場の一里塚』説明板。「慶長 9年(1604)徳川幕府 は、江戸 から京都 までの街道 を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。里程の目標と人馬の休息のための目安として、江戸日本橋から一里(約4km)毎に街道の両側に五間四方(9m四方)の塚を 築造し、塚の上には榎(えのき)を植えました。ここは江戸より五里目の塚に当たり、市内で最初の一里塚です。明治 9年(1877)地租改正 にあたり払い下げられ、左側 の塚が現存しています。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していました。昭和8年(1933)6月「武州橘樹郡市場村一里塚」(添田担書)の碑が建立されました。平成元年(1989)横浜市地域文化財として登録されました。」稲荷社。斜めから。『市場村一里塚由来記』「昔街道一里毎に塚を築き塚上に榎を植えて標示とした。 これを一里塚といい、江戸日本橋を起点に東海道に造られた。 市場村一里塚もその一つで、今(昭和三十八年)から三百六十年前、即ち慶長九年、 徳川家康が東海・東山・中山の諸道を修理する時築いたもので、明治初年までは 相対して道の両側に同じ塚があったが取りこわされ一方のみ残る。 日本橋から数えて五里(二十粁)に当る。 永い間風雨にさらされ土が崩れ流れるので、地元有志これを惜しみ、 昭和二十五年八月、大谷石をもって土止めをし、こえて三十八年五月補修を加え、この碑を建つ。」そして旧東海道を左手に折れ、第1京浜に向かう。この場所は箱根駅伝の1区から2区への鶴見中継点。大手町読売新聞東京本社前~鶴見までの第1区(21.4㎞)のゴールで有り鶴見~戸塚間の第2区(23.2㎞)へのスタート点。鶴見中継所にある 「明日へ走る」 のブロンズ像。 来年の正月2日には何処の大学がこの場所で首位で襷を引き継ぐのであろうか?結果は「東洋大学」であった。横浜市のマンホール。舵輪の中に横浜の象徴の一つであるベイブリッジが描かれていた。文字がないので雨水用のものか?旧東海道に戻ると鶴見区市場下町9に庚申地蔵尊が。宝暦4年(1754)造立、願主は鈴木二右衛門とのこと。一里塚から200m程の右側には下町稲荷。「鶴見川」の手前にある小さなお稲荷様。前方に鶴見川に架かる鶴見橋の姿が。右手に折れ金剛寺に立ち寄る。真言宗智山派寺院の金剛寺は、光明山遍照院と号す。脇門から境内へ。金剛寺の創建年代等は不詳ながら、嵯峨天皇(809-823)の代に尊慶法印が草創、熊野神社の別当を勤めてきたともいい、かつては市場村内の金剛寺畑と称される場所にあったと。寛永年間(1624-1645)に秀尊(明暦2年寂)が中興、金剛寺と称していたが、江戸時代末期に院号遍照院を通称としていたと。玉川八十八ヶ所霊場11番、東海三十三観音霊場9番、東国八十八ヵ所霊場10番。子育て地蔵尊。真言宗と中興の祖・興教大師(こうぎょうだいし)像。弘法大師が入定(にゅうじょう)されてから約300年後、高野山が活力を失いつつある時、その状況を憂い、弘法大師の教えを再興するために様々な改革をしたのが、この興教大師覚鑁上人(こうぎょうだいしかくばんしょうにん)(1095-1143)。穏やかな祈りの姿。そして鶴見川・鶴見川橋を市場下町公園から見る。江戸時代より橋の名は「鶴見橋」と呼ばれきたが、大正15年(1926)に京浜第一国道(国道15号)が開通すると、国道に架けられた橋に「鶴見橋」の名称を譲り「鶴見川橋」と改称された。現在の橋は平成8年(1996)に架け替えられたバスケットハンドル型ニールセンローゼ橋と呼ばれる構造のアーチ橋。2本のアーチが内側に傾斜し最高点で間隔が狭くなるカゴの取っ手のようなデザインが特徴的。鶴見川橋から東海道本線の鉄橋を見る。鶴見駅側の橋のたもとに残る『鶴見橋関門旧跡(つるみばしかんもんきゅうせき)』。柱には「旧東海道鶴見橋 旧名称武州橘樹群鶴見村三家」と書かれていた。文久2年(1862)の生麦事件後、幕府は攘夷派浪士の取り締まりのため、川崎−保土ケ谷間に番所を設置。鶴見橋(現鶴見川橋)には5番番所が設けられた。『鶴見橋関門旧跡』説明板。「安政6年(1859)6月、横浜開港とともに、神奈川奉行は、外国人に危害を加えることを防ぐため、横浜への主要道路筋の要所に、関門や番所を設けて、横浜に入る者をきびしく取り締まりました。鶴見橋関門は、万延元年(1860)4月に設けられ、橋際のところに往還幅四間(約7メートル)を除き左右へ杉材の角柱を立て、大貫を通し、黒渋で塗られたものでした。文久2年(1862)8月、生麦事件 の発生により、その後の警備のために、川崎宿から保土谷宿の間に、20か所の見張番所が設けられました。鶴見村には、第五番の番所が鶴見橋際に、その出張所が信楽茶屋向かいに、また、第六番の番所が今の京浜急行鶴見駅前に設けられました。明治時代に入り世情もようやく安定してきましたので、明治4年(1877)11月、各関門は廃止されました。なお第五番・第六番の御番所は、慶応3年(1867)に廃止されています。」『寺尾稲荷道』石碑。さらに道の反対側の鶴見図書館の前には、寺尾、小杉分岐点道標と馬上安全寺尾稲荷道道標が。是より25丁と記されていた。横浜市鶴見図書館前には旧東海道の説明板が置かれていた。海に面して景色が優れていた鶴見や生麦は、川崎宿と神奈川宿の間の「間の宿(あいのしゅく)」としてにぎわい、名物「よねまんじゅう」を商う店や茶屋が繁盛したと。英文でも説明されていた。図書館前のユニークな形状のモニュメント?二口金一作 「旅立ち」。1993(平成5)年に鶴見区で開催された彫刻の展示会「横浜ビエンナーレ」に出展され奨励賞を受賞した彫刻作品とのこと。鶴見駅の近くには『鶴見神社』が。この神社の左前に梅干で有名であった「しがらき茶屋跡」がある。鶴見神社はもとの杉山大明神で、1400年前の推古天皇の時の創建という。六国史の一つ、続日本後紀(承和7年、833年)には、武蔵国都築(つづき)郡杉山の社として記されているから古い。横浜・川崎の間では最古の社とのこと。大正9年に鶴見神社と改称されている。旧東海道は、鶴見駅前を通り、再び第一京浜国道と交わるが、そのまま横断し、生麦の魚河岸通りに入る。鶴見神社 境内。手水場。岩の上の狛犬。拝殿。『鶴見神社境内貝塚』説明板。「横浜市指定史跡時代は弥生時代末期から古墳時代前期。平成20年2月の発掘調査で本殿前の東西5-8m、南北約10mの範囲に厚さ70-80cmの貝層が良好な状態で遺存することが確認された。この貝層を構成する貝種は2枚貝ではカガミガイ、ハマグリ、巻貝ではイボキサゴが主体であり、8種以上の鹹水産貝種からなっている。この時代のの貝塚が良好に保存されている例は少なく、貴重な遺跡です」『神輿の伝説』寛文年代(1661~)、鶴見川から天王河岸に流れ着いた神輿を、村人が引き揚げて当社に納めたと伝わる。 又、上流の川崎市小倉にも同じ言い伝えが残されていて、旧小倉村鎮守・天王社の祭礼の折、村人が鶴見川で神輿を洗っていて流れ出し、鶴見村方向へ流れ去ったと伝わっている。以来、小倉では鶴見神社祭礼時、かげ祭りを行うと言い伝えが残っていると。『境内末社』。大鳥神社、正一位上町稲荷大明神、秋葉神社、関神社、祖霊社…と続き、最後には寿老人が祀ってあり、本殿の後ろには富士塚が鎮座していた。祖霊社と寿老人の間に、同じような摂社がある。『境内奥の富士塚』。境内の奥、本殿裏に現存する富士塚の頂に富士浅間社 が鎮座する。富士塚の下には様々な石碑が。『寺尾稲荷道道標 』。「寺尾稲荷道道標は、旧東海道の鶴見橋(現鶴見川橋)付近から寺尾・小杉方面への分岐点にあった三家稲荷に建てられていたもので、一村一社の神社合祀令によって、大正年間に三家稲荷が鶴見神社境内に移された時に、移されたと思われます。昭和三十年代前半頃に、鶴見神社境内に移されていた三家稲荷の鳥居前の土留め作業を行った際、道標が埋没しているのが発見されました。正面には「馬上安全 寺尾稲荷道」右側面には「是より廿五丁」左側面には「宝永二乙酉二月初午 寛永三庚午十月再建 文政十一戊子四月再建之」とあり、二度建替えられ、この道標が三代目であり、当時の寺尾稲荷に対する信仰の篤さをうかがい知ることができます。寺尾稲荷は、寺尾城址の西山麓に祀られ、現在は地名が馬場となったことから馬場稲荷と呼ばれていますが、古くは寺尾稲荷と呼ばれていました。江戸時代には馬術上達がかなえられる稲荷として知られていました。」『清明宮』。清明宮の祭神はノーベル賞候補とも言われた作家・三島由紀夫と、楯の会メンバーで三島と共に自決した森田必勝。このように社祠の形で三島由紀夫を祀っているお宮は日本でもここだけではなかろうか。40回目の命日にあたる2010年11月25日に建立されたとのこと。1970年11月25日、三島氏と楯の会メンバーは自衛隊市ヶ谷駐屯地に総監を人質にとり、バルコニーから演説。自衛隊の決起・憲法改正を訴えた後に割腹自決した。享年45。続いて楯の会学生長だった森田必勝も自決。享年25。なぜ鶴見神社に三島由紀夫氏なのか?ネットで調べてみると、こんな記載を発見。鶴見に、三島氏が作家デビューしたての頃、毎夜のように通っていた「仔馬」というBARがあったと。三島氏が創設した「楯の会」のメンバーが、彼を祀る神社がないことから、その縁を受けてこの鶴見神社内に「清明宮」を遷座させたのだと。社の横には、三島由紀夫氏の筆跡からおこした石柱が建っていた。『鶴見の田祭り』説明板。鶴見の田祭りは、今から約700年前の鎌倉時代からこの鶴見の地に受け継がれてきた伝統ある行事が明治維新後の1875年(明治5年)に中断されてしまったが昭和62年に奇跡的に復活をとげた芸能であると。そして『清月』に立ち寄る。鶴見名物「よねまんじゅう」は、かながわ名産100選にも選定。店内。『お江戸日本橋』の歌の2番の歌詞の中で「六郷渡れば川崎の万年屋、鶴と亀とのよねまんじゅう」と唄われているのだ。私も土産に「よねまんじゅう」を購入した。そして京急鶴見駅近くの旧街道を進む。右手にホテルテトラ鶴見が。そして入口に歓迎の人形が。胸には『ハゲ割』・・・・・・・の書き込みがぶら下がっていた。同行の旅友Sさんが記念撮影。二人もこのホテルに宿泊すれば500円割引間違いなしなのであった。 ・・・その1・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.05
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次正月三が日は駅伝三昧でしたが、今日からは昨年来の『旧東海道を歩く』の続きを暫くUPさせていただきます。昨年の2月に日本橋から品川(☚リンク)まで歩き、一時中断していましたが10/26月に(金)に旅友Sさんと旧東海道53次歩きを再開し、、品川から川崎まで(☚リンク)31,000歩の弥次喜多道中を完了。引き続き11/5(月)に前回と同じ時間に自宅を出発して川崎駅へ。そして川崎から保土ヶ谷までの旧東海道を歩いたのです。川崎宿から神奈川宿を経由して保土ヶ谷宿までの赤線が今回歩いた旧東海道です。川崎駅でSさんと合流し、まずは神奈川宿を目指す。時間は8:45。川崎駅を出てR川崎駅前バスターミナルを歩き旧東海道のこの日のスタート地点に向かう。この日のスタート地点は、ここ 小土呂橋(こどろばし)。旧東海道が新川掘という排水路を横断するところにかかっていた橋で、昭和6~8(1931~1933)年に埋め立てられた。この時、埋められずに撤去され付近の民家に引き取られたのが花崗岩製、高さ130cmのこの立派な親柱(擬宝珠)であった。そして数十年を経て、その存在に注目が集まり一時的に教安寺に移された後の昭和59年(1984)、市政60周年記念にと小川町町内会によって元の場所、小土呂橋交差点脇の歩道に復活を果たしたと。約280年前、ベトナムからきたゾウが、この橋を渡って江戸に向かったのだと。小土呂橋 説明板。「この通りに幅五メートルほどの流れがありました。新川堀と呼ばれ、ここからさらに渡田大島を経て海へ注ぐ用水でした。この川が東海道と交わるこの地点に架けられていたのが 「小土呂橋」です。小土呂は、砂子、新宿、久根崎とともに昔、東海道川崎宿と呼ばれた四町の一つで、古くからの地名です。橋の名残は今、バス停や信号の名に見られるばかりですが、この先にあったいくつかの橋のうち、この流れに沿って 「新川橋」、「さつき橋」は今もその名をとどめています。この写真にある橋の親柱が残されていたのをここに移設し、当時をしのぶよすがとしました。」と書かれていた。ひらがなで『こどろばし』と刻まれているのであろう。かに道楽 川崎店。本堂が修理中の『一乗山 教安寺』。『良いお参りを』と。浄土宗寺院の教安寺は、一乗山究竟院と号す。天文22年(1553)の起立で開山は乗誉教安。江戸後期には増上寺末の触頭ふれがしら寺院。安永2年(1773)3月、火災により本堂・庫裡が焼失したが、同6年12月、14世艶誉弁相によって再建された。また戦災によって被害を受けたが、昭和35年(1960)に再建。境内には徳本の六字名号碑があり、本堂には永井白鷗が浄土の荘厳を描いた「無量寿経」と題する襖絵があると。鐘楼。屋上に十字架のある建物が。『日本キリスト教団 川崎教会』そして『史跡東海道川崎宿 川崎宿京入口』。「宿場の入口には切石を積んだ土居があり、これを出ると謂ゆる八丁畷の一本道、土居内は八三二間、このなかに小土呂、砂子、新宿、久根崎の宿を構成する四つの町があった。 江戸時代後期における人口は七七〇戸、三,一〇〇人余りであり、伝馬役を負担する農民のほか、旅籠、大工、傘職、仏師、左官、桶職、経師、指物師などさまざまの商人や職人が住んでいた。文久二年(一八六二)外国人遊歩区域となった当宿には、この土居付近に外人警護のため第一関門が設けられ、以下保土ヶ谷宿まで十九ヶ所に設けられた関門番所には、宿役人二名、道案内三名などが詰めて警戒にあたり、非常の際には半鐘を鳴らし、隣りの番所と連絡をとったのである。 」と。『関札(せきふだ)』「棒鼻の石垣の上にはその日その宿場にお泊りになる大名の関札が掲げられていました。本陣の前にも掲げられたこの関札には立派な檜の板が使われ、毛筆で堂々とした書体で記され、非常に大切にされました。これを粗末に扱ったために事件や紛争になって処罰された者が出た事件もあったほどです。左は川崎市市民ミュージアムに保存されている実際の関札を複製した物です。「加藤遠江守宿(かとうとおとうみのかみやど)」と書かれています。」と。『東海道川崎宿史跡めぐり』案内板。川崎区小川町の恒春園の入り口、旧東海道ぞいに石碑『ここに幸あり』の石碑が。同施設の開設10年を記念して1989年に建てられたものであると。NTTドコモ川崎ビル。「川崎警察署東側入口交差点」を渡り先へ進んで行く。少し雰囲気が変わった感じが。『日進町町内会館「麦の郷」の由来』。「京急八丁畷駅前に松尾芭蕉の句碑があります。元禄7年(1694年)5月11日、芭蕉は江戸深川の芭蕉庵をあとに故郷伊賀上野へ向かいました。芭蕉を見送りに来た弟子たちは、名残を惜しんで六郷川(多摩川)を渡って川崎宿に入り、このあたりまで来ました。そして別れを惜しんで弟子たちと句を詠みあいます。弟子たちに対して、芭蕉が詠んだ句が 「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」です。芭蕉はこの年の10月大阪で不帰の客となりました。享年51才。弟子たちにとって、この場所での別れが、本当の別れになりました。弟子たちが詠んだ句は、旧東海道沿い川崎警察署のすぐ近く、ビバース日進町1階「芭蕉ポケツトパーク」で見ることができます。平成16年(2004年)、日進町町内会館は新しく建て替えられ、その機に、松尾芭蕉の句碑にちなみ会館名を「麦の郷」と名付けました。」と。そして右手に『芭蕉の句碑と川崎宿絵図 江戸時代後期』「川崎宿は全長約1。5Kmのほぼ中央に宿駅業務をとりしきる問屋場と高札場があり、その上手に佐藤、下手に田中の二つの本陣がありました。旅籠には奈良茶めしで有名であった「万年屋」など72軒がありました。そのほかに、教安寺、一行寺、宗三寺などの寺院、川崎宿の鎮守である山王社(現在の稲毛神社)があり、これらの寺社は現在も同じ位置にありますので、往時の宿場の様子を推察する手がかりとなりましょう。この芭蕉の句碑は上手の棒鼻(宿場入口)付近に文政13年(183O)俳人一種によって建立されたもので、そののち現在の位置に移されました。この棒鼻を出るといわゆる八丁畷の並木道になります。旅人は、富士の雄姿をながめながら次の宿へ足をはやめたことでしょう。」と。旧東海道 川崎宿日進町町内会館『麦の郷』。『俳人 松尾芭蕉の句碑』が右手に。川崎宿 『芭蕉の句碑』。 元禄七年一六九四年五月十一日(現在の六月下旬)に俳人芭蕉が江戸深川の庵をたって郷里伊賀国柘植庄へ帰る時、江戸から送ってきた門人たちと川崎宿はずれの現在の場所八丁畷の腰掛茶屋でだんごを食べながら休憩した。そして最後の別れをおしんで「翁の旅を見送って」と題して各人が俳句を読みあった。弟子たちの句にたいし芭蕉は【麦の穂を たよりにつかむ 別れかな】と返歌し弟子たちの親切を感謝し麦の穂を波立てて渡る浦風の中を出立しましたと。『麦の穂を たよりにつかむ 別れかな』小さな祠には地蔵尊が。八丁畷(はっちょうなわて)駅手前の京急の踏切を渡り左手に。京急八丁畷駅の上にはJR南武線の八丁畷駅が。江戸時代、東海道を京都に向かう際、川崎宿を抜けると、隣の市場村(現鶴見区市場上町)まで田んぼの中の真っ直ぐな道(畷)が八丁(約870m)続いていたことが八丁畷の由来であると。街道の 両側には松、杉、榎が植えられ当時は「八丁縄手並木」と呼ばれていたと。そしてこの日の旧東海道の両側にはカリン並木が。現在の「かりん並木」は地元、下並木町内会の要望を受けて川崎市が植樹したもの。春に白い花が咲 き、秋にはたくさんの実をつける。毎年11月の原則第2日曜日には町内会でかりんの実を収穫するかりん祭りが開催され、来場者にはかりんの実が配られ、かりん酒づくりの体験もできると。町内会でつくっ たかりん酒が実費で販売される他、4~5店の模擬店が並び、にぎわいをみせているのだと。旧東海道と書かれた石碑。「無縁塚」の隣には大きなタイル画が掲げられていた。川崎中学校美術部の製作で歌川広重の「六郷渡舟」を模したものとのこと。こちらが歌川広重の東海道五拾三次 川崎。踏切を渡ってすぐの場所に「無縁塚」があった。『八丁畷の由来と無縁塚』の説明板。「東海道は、川崎宿の京都側の出入り口(京口土居・現在の小川町付近から西へ八丁(約870メートル)にわたり、畷(なわて)といって街道が田畑の中をまっすぐに伸びており、市場村(現在の横浜市)との境界に至ります。この付近を八丁畷と呼ぶようになりました。このあたりでは、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても道路工事などでたびたび掘り出され、その数は十数体にも及びました。これらの人骨は、鑑定により江戸時代ごろの特徴を備えていることが分かりました。江戸時代の記録によると、川崎宿は震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が命を落としてます。おそらく、災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅(けやき)の並木の下にまとめて埋葬してのではないでしょうか。不幸にして亡くなった人々の霊を供養するため、地元の方々と川崎市は昭和九年、ここに慰霊塔を建てました。この場所は無縁塚と呼ばれ、地元の方々により供養が続けられています。」と。『慰霊塔』。『八丁畷駅』。江戸時代、東海道を京都に向かう際、川崎宿を抜けると、隣の市場村(現鶴見区市場上町)まで田ん ぼの中の真っ直ぐな道(畷)が八丁(約870m)続いていたことが八丁畷の由来であるという。街道の 両側には松、杉、榎が植えられ当時は「八丁縄手並木」と呼ばれていたと。川崎市の雨水管マンホールの蓋中央にある市の花「ツツジ」を、市章と七個の市の木「ツバキ」が囲んでいるマンホール。 ツバキの数は、七つの区を表していると。 川崎宿と別れ、東海道をさらに進むとやがて旧市場(いちば)村へ入る。右手に『熊野神社』が。『熊野神社 略記』。9世紀はじめの弘仁年間に、紀州熊野本宮の御分霊を勧請し創建されたと伝わる「熊野神社」。かつては鶴見川の西岸にあったと。その後江戸期・明治期の2度の遷座を経て、もともと八幡社があった現在地へ鎮座。明治期には市場村の村社に列せられたと。現在の御祭神は、国常立尊・伊邪奈岐命・伊邪奈美命。また「鶴見七福神」のひとつとして「福禄寿」も祀っているとのこと。境内に江戸時代の俳人が鶴見橋を詠んだ句碑が残っていた。旧東海道・鶴見橋を唄った「朝夕や 鶴の餌まきか 橋の霜」(加舎白雄)「五月雨や 鶴脛ひたす はし柱」(大島蓼太)の二首が刻まれていると。どちらも江戸時代の俳人だと。熊野神社 拝殿。『熊野神社』と書かれた扁額。石灯籠は金属製アングルで補強されていた。 ・・・つづく・・・
2019.01.04
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昨日1月2日に孫家族と一緒に地元の藤沢橋付近まで応援に行った第95回東京箱根間往復大学駅伝競争の往路は、東京・読売新聞東京本社前から箱根・芦ノ湖までの全5区間、107.5キロのコースで行われ、東洋大が5時間26分31秒で2年連続の往路優勝を果たしたのであった。以下の写真は、日本テレビの録画画面を転載させていただきます。2位は1分14秒差で東海大、3位は2分44秒差で国学院大。総合5連覇の懸かる青山学院大は先頭から5分30秒差の6位と大きく出遅れたのであった。東洋大は1区の西山和弥が2年連続の区間賞を獲得する走りで勢いをつけた。2区は2位、3区も2位と好位置をキープすると、4区では8秒差でたすきを受けた3年生エースの相澤晃が区間記録を大幅に更新する快走。後続を一気に引き離し、2位の東海大以下を2分48秒引き離す大差をつけた。最後は2年連続山上りとなる5区の田中龍誠が首位をキープし、笑顔でゴールテープを切った。優勝候補の青山学院大は3区のエース・森田歩希が区間新記録の走りでトップに立つも、4区の岩見秀哉、5区の竹石尚人が振るわず、東洋大の後塵を拝す結果に。総合5連覇は厳しい状況となったのであった。往路の総合成績は以下の通り。しかしトラブルもあったのだ。スタート直後に前の選手の足と接触し転倒する大東大・新井選手。遅れながらも足を痛め引きずりながら走る大東大・新井選手。最後まで走りきり1位東洋大から8分40秒差で襷をつなげる。(10分差で繰り上げスタート)しかしこの完走が、悔いとして残らない事を、そして早期のけがの回復、ランナーとしての早期復帰を祈らずにはいられないのであった。更に、1区から2区の中継点で襷を渡す駒沢大学の2区の選手がいないのであった。襷の引継ぎが出来ずに、選手を探す片西選手。約10秒のロスタイム。3区から4区の国士舘大学の引継ぎにおいても同様に。こちらも5秒前後のロスタイムか?これらは運営の責任、部付き人&選手の責任なのであろうか?そして我々が応援した3区の終盤では青学の森田選手が激走。戸塚中継点では8位でスタートしたが首位を捉えた。そして平塚中継点で区間新で走り切り( 1時間01分26秒)、首位で引き継いだのであったが・・・・・。これまでの区間最高記録=1時間1分38秒(2012年 山梨学院大・O・コスマス)。そして今日の復路のコースです。7区と最終10区が距離、コースが往路と一部異なるのです。今日の応援場所は下図の「遊行寺交差点」から100m強の固定カメラの前付近を予定。そして6区は昨日の5区山登りの下り。高低差約860メートルを。最初の上りをこなしてから、一気に下る山下り。朝の箱根は相当冷えるので、防寒面の注意が必要。急な下りを飛ばしすぎると、残り数キロは足が止まるほど苦しくなる。ペース配分がカギであると。昨日と同じバスで遊行寺に向かう。遊行寺境内の大銀杏。一遍上人像。遊行寺の急坂の途中の最前列に陣取る。下り車線側の斜め前方に日テレの固定カメラポイントが。そしていつの間にかカメラマンの姿が。対向車線の黒の車の窓には、帝京大学の赤い幟が映り込んでいた。私の横には大きな2頭の犬が仲良く駅伝見物に。そしてこれも毎年恒例のクラシックカーが対向車線に。持ち主の方の年1度の晴れ舞台?オープンカーが続く。いつもの紫のクラシックカーが、そしてその後ろにも黒の車が続く。そして漸く第1テレビ中継車が目の前に。時間は10:49。遊行寺坂の前で首位に躍り出て差をつけながら急坂を必死に上る1位 東海大 小松陽平 選手。この後の激走でこの8区で最古の区間記録を更新した。更に95回大会の最優秀選手賞(金栗賞)を獲得したのであった。1時間3分50秒の快走で、区間新記録を22年ぶりに15秒更新。創部59年目の初優勝の原動力となったのであった。遊行寺坂手前でリードを許した2位 東洋大 鈴木宗孝 選手。ラジオ放送車。必死に追い上げる3位 青学大 飯田貴之 選手。青学大 原監督に笑顔はなかった。4位 駒沢大 伊勢翔吾 選手。第2テレビ中継車。5位 法政大 鎌田航生 選手。6位 国学院大 殿地琢朗 選手。7位 帝京大 鳥飼悠生 選手。8位 順天堂大 金原弘直 選手。9位 拓殖大 白髪大輝 選手。10位 中央学院大 大濱輝 選手。テレビ オートバイが通過。11位 明治大 角出龍哉 選手。12位 日本大 松木之衣 選手。13位以下は4人の集団。13位 東京国際大 山瀬大成 選手。14位 早稲田大 太田直希 選手。15位 中央大 矢野郁人 選手。OP 学連選抜 鈴木悠太(平成国際大4年) 選手。16位 神奈川大 安田響 選手17位 大東大 片根洋平 選手18位 日体大 森田諒太 選手。白バイ群団。19位 国士館大 藤江千紘 選手。20位 山梨学院大 山田大輔 選手。21位 城西大 大石巧 選手。医務車が何故か先行。22位 上武大 岩崎大洋 選手。そして今年は東海大が初の総合優勝を果たしたのであった。往路2位だった東海大は6区の中島怜利(3年)、7区の坂口竜平(3年)がともに安定した走りで往路1位の東洋大を追いかけた。8区の小松陽平(3年)が区間新の快走でトップに立ち、そのまま逃げ切った。10時間52分9秒の大会新記録で初の栄冠をつかんだのであった。ゴールでアンカーのゴールを待つ東海大学の選手たち。初優勝し、ガッツポーズでゴールする東海大の10区の郡司選手。胴上げされる郡司選手。首位を必死に追い上げる青学の鈴木選手であったが・・・。五連覇を逃すものの、笑顔でゴールする鈴木選手。我が早稲田大は12位と13年ぶりにシード権を失ったのであった。箱根駅伝の今日の復路では、青山学院大が5時間23分49秒の復路新記録で優勝した。総合優勝の東海大は2位。3位には帝京大が入った。よって今年は往路優勝は東洋大、復路優勝は青山学院大、そして総合優勝は東海大となり実力が接近していたことを示す結果となったのであった。そして帰路に。マスコットキャラクター 『トーレくん』の姿が。藤嶺学園藤沢中・高等学校のマスコットキャラクターであるようだ。そして帰路のバスがないので、自宅に向かって約4.5kmを徒歩で。途中の富士山の姿。山頂付近をズームで。日本大学湘南校舎とその右に大山の姿が。そして帰宅してテレビ録画画面を見る。すると赤い帽子で応援する我が姿を確認できたのであった。今年も2日間にわたり、日本人が最も興奮する、そして正月の恒例のスポーツイベントのひとつとなっている「箱根駅伝」を生で楽しんだのであった。毎年、この箱根駅伝はどの大学が勝つかだけではなく、各選手によるパフォーマンスも大きな見どころ。特に注目が集まるのは最長距離のコースや、坂道が続くなどの最難関コース。日本最強の若いアスリートたちが極限に挑む姿を生で見ることは興奮は止まらないのである。そして箱根駅伝観戦&初詣をセットで済ませる人の数が益々増えているのを感じたのであった。箱根駅伝中継の裏番組は何をやっても太刀打ちできないのが平和な日本の現実の姿なのである。
2019.01.03
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今日は毎年恒例の箱根駅伝を孫家族と一緒に第3区の藤沢橋付近で応援をしに行きます。第95回箱根駅伝は今日2日午前8時、東京・大手町をスタートし、2日間にわたって10区間217・1キロで争われるのです。これは毎年恒例の我が家の行事なのです。今年の関東学生陸上競技連盟(KORR)の箱根駅伝のポスターです。日本テレビのポスターです。こちらはAM1422kHz ラジオ日本のポスターです。出場校は下記22校+学連選抜の合計23校。既に区間別選手もエントリーされています。上記の如く優勝候補の青学大のエントリー選手です。青学大 1区 橋詰大彗(4年) 2区 梶谷瑠哉(4年) 3区 湯原慶吾(1年) 4区 岩見秀哉(2年) 5区 竹石尚人(3年) 青学大(補欠登録) 森田歩希、鈴木塁人、神林勇太 橋間貴弥、生方敦也、飯田貴之 5区までの往路区間、青学大は3区、4区の選手変更の可能性が高いのです。3区エントリーの湯原慶吾(1年)は当日区間変更となる可能性が高いとのこと。補欠になっている1万m28分31秒66を持っている前回1区の鈴木塁人(3年)を使えば、ライバル校のエース格が来ても対等に近い戦いができるだろうと。往路のコースです。我が家の応援場所は第 3区(21.5㎞)、戸塚中継所から約6kmの藤沢橋付近。午前8時に大手町読売新聞東京本社前をスタートし我が応援場所の通過時間は10:30頃。観戦ガイドも既に。ネット情報によると「今年の出雲駅伝と全日本大学駅伝を隙のない走りで制した青山学院大が、調整力の確かさに加え、層の厚さと各選手のレベルの高さを誇り、優勝候補と目されている第95回箱根駅伝。その厚い壁を壊す可能性を持っているのが、スピードランナーを擁し、その主力となる3年生を10人エントリーしてきた東海大と、前回は往路優勝を果たして総合2位になった東洋大だ。」と。そして我が母校は我が応援の場所を何位で通過?そしてどのような順位で箱根ゴールに滑り込むのだろうか?そして9:30過ぎに自宅から孫家族と共にバスに乗り、遊行寺前でバスを降り、藤沢橋の交差点に向かう。箱根駅伝のための交通規制の案内。藤沢バイパスの完成により、この旧国道1号は神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線と言う名称になっていることを初めて知ったのは昨年。そして応援場所はこの『藤沢橋』を通過し100m足らずの場所。応援場所に到着し、記帳し応援場所に陣取る。選手の到着を待っていると、応援旗を配る読売新聞社の関係のオジサンが前を通過。『箱根駅伝』の広報車が通過。上空には、選手の到着が近いことを知らせるヘリコプターが。藤沢橋近くには既に多くの応援の方々の姿が歩道いっぱいに。そしてようやく第1テレビ中継車が。その後ろに白バイに先導された選手の姿が。1位 東洋大 吉川洋次 選手。時間は10:27過ぎ。2位 国学院大 青木祐人 選手3位 東海大 西川雄一朗 選手第2テレビ中継車。4位 中大 三須健乃介 選手5位 駒大 中村大聖 選手6位 国士舘大 多喜端夕貴 選手駒大・大八木監督は唇を咬みしめて。7位 青学大 森田歩希 選手この時点ではまだ、青学・原監督の表情には余裕があったが・・・・。8位 日大 野田啓太 選手9位 順大 橋本龍一 選手10位 東京国際大 真船恭輔 選手11位 法大 岡原仁志 選手12位 帝京大 遠藤大地 選手13位 拓大 馬場祐輔選手14位 日体大 岩室天輝 選手15位 明大 阿部弘輝 選手16位 神奈川大 井手孝一 選手17位 中央学院大 栗原啓吾選手18位 早大 千明龍之佑 選手19位 城西大 中島公平 選手20位 上武大 鴨川 源太 選手21位 山梨学院大 中村幸成 選手オープン参加 関東学生連合(創価大学) 鈴木大海 選手22位 大東大 斎藤諒 選手そして最後尾に医務車が続く。駅伝 最終車両。そして全選手通過後は、応援場所の広場でいつものセレモニー。校歌斉唱。♫都の西北・・・・老老?男女が大きな声で。今年は校歌の歌詞が準備されていた。私も3番はこの掲示を見ながら。そして母校の健闘を祈って『フレー フレー ・・・』と何回も。この地区の稲門会会長も挨拶。そして後輩の市長も挨拶。毎年これ1回のみの校歌を歌い解散。藤沢橋に戻るが、既にいつもの光景に戻っていた。旧東海道に架かる『遊行寺橋』。「ふじさわ宿交流館」を覗く。館内の壁には箱根駅伝の数々の写真が掛けられていた。館内では駅伝のテレビ観戦の方々が。海岸沿いでは、青学の森田選手が首位を猛追中であった。そして遊行寺・藤沢山無量光院清浄光寺の惣門を見る。遊行寺の初詣は明日にと。そして「桔梗屋」の向かいのバス停からバスに乗り帰宅したのであった。帰宅してみると、3区の平塚中継点での順位は、我々の前を通過順位とは大きく変わっていたのであった。平塚中継点では、優勝候補筆頭の青学大が首位を奪還していたのであったが・・・。
2019.01.02
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皆さん 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。2019年のスタートです。今年も、湘南海岸・江の島東浜からの初日の出を迎えに行って来ました。6時前に家を出て地元の駅へ自転車で。駅の構内に貼ってあった小田急のポスター。小田急線で片瀬江ノ島駅へ。電車は初日の出へ向かう人々でかなり混雑していました。久々のラッシュアワー?を体験。ライトアップされた竜宮城の如き片瀬江ノ島駅。弁天橋からの江の島。江の島シーキャンドル(展望灯台)のライトアップはなし。弁天橋の中央の「雲の彩」と名づけられたモニュメント。そして片瀬東浜海岸に到着。初日の出る三浦半島の山の上は既に赤く輝き始めていた。空には三日月が。湘南港灯台付近にも多くの人の姿が。既に海岸には初日の出客がぎっしりと。今年は例年より人の数が多かったのであった。東の空が更に赤く。上の黒い雲が下がって来ないことを願う。ウィンドサーフィンで初日の出を見に来ている人の姿も多く。そして水面も赤く輝きだす。2019年の日の出が近づく。山の端が白く輝く。そして初日の出。時間は6:55.水面に赤く輝く光の道が。太陽がますます大きな姿に。そして真ん丸に。真っ赤な水光が我が足の所までも。相模湾の赤の世界。赤く輝く水面の場所が刻一刻と変わって。カメラを引いて。水面をズームで。そして太陽が上部の雲に隠れ始めた。時間は丁度7時前。そして姿を隠す。江の島シーキャンドルの姿をズームで。展望台にはまだまだ観光客の姿が。そして東浜海岸にいた人の数はあっという間に。再び初日の出を待っていた時の様な光景が再び。いつまでも赤く輝く雲。地下道への下り坂は大渋滞。地下道の壁には江ノ島を描いた各種の浮世絵が展示されていた。「相州江ノ島」 歌川広重作干潮時、江ノ島へ渡る人々の姿が描かれているのです。広重「諸国名所百景 相州七里ヶ浜」。白波と白き富士の姿が。これも広重「相州江ノ嶋岩屋之図 」。江ノ島の南の海岸にある、岩の洞窟の「岩屋」の入口の絵。現在、「岩屋」は台風被害で閉鎖中。「冨嶽三十六景」「相州江ノ島」。こちらは葛飾北斎の作品。片瀬浜から見た春の江ノ島。萌え出る若葉と江ノ島弁天にいたる参道、両岸の茶店や家並みが細かく描かれています。潮が引いて、江ノ島へ向かう人々の様子そして江ノ島弁天の三重塔の姿も。そしてこの朝、2度目の雲の上からの日の出。そして直ぐに再び隠れる。黒い雲の帯が幾重にも。国道134号線片瀬橋からの江の島。「怒りの雲」の如く。海鳥も群れを成して。椰子の木も朝の陽光をバックにすくっと。片瀬海岸西浜から江ノ島方面に歩いた片瀬漁港にある「「海の詩」の像。作者は、2001(平成13)年に内閣総理大臣賞受賞経験もある藤沢市在住の彫刻家親松英治(おやまつえいじ)氏。老松も黒く輝く。残念ながらこの時間は富士山か雲に隠れて全く姿を見せなかったが大山の姿が。そしてこの朝3度目の日の出?新江ノ島水族館前の椰子の木は青空を背景に。国道134号線の片瀬橋では既に上下線の渋滞が始まっていた。片瀬江ノ島駅に向かうと手前に石焼き芋屋が。そして片瀬江ノ島駅にあった日本三大弁財天・江島神社の初詣のポスター。そして地元の駅に到着。駅の正月飾りは勿論我が家より豪華。そして毎年恒例の自転車に乗って地元の神社に初詣。国旗も2本、社殿の前に。参拝の順番を待つ。社殿内部。白き垂れ幕は昔のものか?社殿脇の身代わり不動尊。身代わり不動尊と書かれた幟が階段の両脇に。中央の不動明王と六地蔵破魔矢を頂いて来ました。そしてもう一つの地神社へ。こちらは、既に人の数も少なく。そして、今年も我が家の近くの旧道沿いの材木屋さんが干支絵の年賀を設置。今年の干支「亥(いのしし)」の絵が。そして帰宅。時間は8:40。今年初めての3時間弱の初日の出、初詣の早朝散歩なのであった。
2019.01.01
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