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大宰府政庁跡を訪ねた後、大宰府展示館を訪ねる。

大宰府展示館は、発掘調査によって検出された遺構(溝)の一部を保存公開するとともに、
写真や模型の展示で大宰府の歴史をわかりやすく学ばせてくれる施設。
しかも、これで入場無料というのが魅力。


大宰府展示館 南側入り口。
顔出しパネルがありました。


大宰府政庁跡復元模型。
大宰府政庁は大きく2回建て替えられた。第1期は掘立柱建物で、第2期以降は
瓦葺礎石建物である。この模型は、最後の第3期(平安時代半ば)に再建されたもの。
この建物群の西の台地に蔵司の建物跡があり、西海道諸国からの調庸(主として綿と絹)を
収納していたとのこと。


大宰府政庁ではかって多くの官人が働いていた。
政庁跡は門に回廊、正殿、脇殿など瓦を葺いた楼閣状の豪壮な建物が建っていた。


博多人形による「梅花の宴」の再現。
天平2年(730年)に大宰師大伴旅人の邸で、梅花を題とする歌宴が催された。
大伴旅人、山上憶良、小野老等の姿が見られる。


係りの方が30分ほど詳しく説明してくれました。
『白村江の戦いで唐・新羅軍に敗れた百済・日本連合軍。本土侵攻を予想した朝廷は、
非常事態に備え福岡にあった那の津の官家(みやけ)を大宰府に移したことから、
『自然地形を巧みに利用して山城・水城を築き、周辺地域を大きく取り込んだ要塞
「大宰府羅城」。太宰府と聞くと、菅原道真公を祀った天満宮が連想されますが、
白村江の敗戦はその前身"大宰府政庁"が、国防の最前線として誕生した瞬間でもあった。』
のだとの説明。
そしてここ、「大宰府」の「太宰」は「おほみこともち」と読み地方行政の監督をする
古代日本の役職名であること、そして「府」とは各地に王として封じられた皇族が
軍事と行政の拠点として開いた政庁の意味であることを、説明員の方から
学んだのであった。


更にお礼の挨拶の中で、再び説明員の方から、近くにある観世音寺の仏像をぜひ
見て帰って欲しいとアドバイスを受け、早速向かったのであった。
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