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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
横浜市鶴見区内の旧東海道を更に下る。
『市場の一里塚』
慶長9年(1604)、徳川家康は街道を整備し、一里ごとに5間四方の塚を築いた。
塚には榎などの樹木を植え、旅人の里程の目安とした。
ここは江戸より五里目の塚に当たり、横浜市内で最初の一里塚。
明治9年(1877)地租改正にあたり払い下げられ、左側の塚が現存していると。
昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していたと。
『市場の一里塚』説明板。
「慶長 9年(1604)徳川幕府 は、江戸 から京都 までの街道 を整備し、あわせて宿場を設け、
交通の円滑を図りました。里程の目標と人馬の休息のための目安として、江戸日本橋から一里
(約4km)毎に街道の両側に五間四方(9m四方)の塚を 築造し、塚の上には榎(えのき)を
植えました。
ここは江戸より五里目の塚に当たり、市内で最初の一里塚です。明治 9年(1877)地租改正 に
あたり払い下げられ、左側 の塚が現存しています。昭和初期まで塚の上には榎の大木が
繁茂していました。昭和8年(1933)6月「武州橘樹郡市場村一里塚」(添田担書)の碑が
建立されました。
平成元年(1989)横浜市地域文化財として登録されました。」
稲荷社。
斜めから。
『市場村一里塚由来記』
「 昔街道一里毎に塚を築き塚上に榎を植えて標示とした。 これを一里塚といい、江戸日本橋を
即ち慶長九年、 徳川家康が東海・東山・中山の諸道を修理する時築いたもので、明治初年までは
相対して道の両側に同じ塚があったが取りこわされ一方のみ残る。 日本橋から数えて
五里(二十粁)に当る。 永い間風雨にさらされ土が崩れ流れるので、地元有志これを惜しみ、
昭和二十五年八月、大谷石をもって土止めをし、こえて三十八年五月補修を加え、この碑を建つ。
」
そして旧東海道を左手に折れ、第1京浜に向かう。
この場所は箱根駅伝の1区から2区への鶴見中継点。
大手町読売新聞東京本社前~鶴見までの第1区(21.4㎞)のゴールで有り
鶴見~戸塚間の第2区(23.2㎞)へのスタート点。
鶴見中継所にある 「明日へ走る」 のブロンズ像。
来年の正月2日には何処の大学がこの場所で首位で襷を引き継ぐのであろうか?
結果は「東洋大学」であった。
横浜市のマンホール。
舵輪の中に横浜の象徴の一つであるベイブリッジが描かれていた。
文字がないので雨水用のものか?
旧東海道に戻ると鶴見区市場下町9に庚申地蔵尊が。
宝暦4年(1754)造立、願主は鈴木二右衛門とのこと。
一里塚から200m程の右側には下町稲荷。
「鶴見川」の手前にある小さなお稲荷様。
前方に鶴見川に架かる鶴見橋の姿が。
右手に折れ金剛寺に立ち寄る。
真言宗智山派寺院の金剛寺は、光明山遍照院と号す。
脇門から境内へ。
金剛寺の創建年代等は不詳ながら、嵯峨天皇( 809-823
)の代に尊慶法印が草創、熊野神社の
別当を勤めてきたともいい、かつては市場村内の金剛寺畑と称される場所にあったと。
寛永年間( 1624-1645
)に秀尊(明暦 2
年寂)が中興、金剛寺と称していたが、
江戸時代末期に院号遍照院を通称としていたと。
玉川八十八ヶ所霊場 11
番、東海三十三観音霊場 9
番、東国八十八ヵ所霊場 10
番。
子育て地蔵尊。
真言宗と中興の祖・興教大師(こうぎょうだいし)像。
弘法大師が入定(にゅうじょう)されてから約300年後、高野山が活力を失いつつある時、
その状況を憂い、弘法大師の教えを再興するために様々な改革をしたのが、
この興教大師覚鑁上人(こうぎょうだいしかくばんしょうにん)(1095-1143)。
穏やかな祈りの姿。
そして鶴見川・鶴見川橋を市場下町公園から見る。
江戸時代より橋の名は「鶴見橋」と呼ばれきたが、大正15年(1926)に京浜第一国道(国道15号)が
開通すると、国道に架けられた橋に「鶴見橋」の名称を譲り「鶴見川橋」と改称された。
現在の橋は平成8年(1996)に架け替えられたバスケットハンドル型ニールセンローゼ橋と
呼ばれる構造のアーチ橋。
2本のアーチが内側に傾斜し最高点で間隔が狭くなる
カゴの取っ手のようなデザインが特徴的。
鶴見川橋から東海道本線の鉄橋を見る。
鶴見駅側の橋のたもとに残る『鶴見橋関門旧跡(つるみばしかんもんきゅうせき)』。
柱には「旧東海道鶴見橋 旧名称武州橘樹群鶴見村三家」と書かれていた。
文久2年(1862)の生麦事件後、幕府は攘夷派浪士の取り締まりのため、
川崎−保土ケ谷間に番所を設置。鶴見橋(現鶴見川橋)には5番番所が設けられた。
『鶴見橋関門旧跡』説明板。
「安政 6
年( 1859
) 6
月、横浜開港とともに、神奈川奉行は、外国人に危害を加えることを
防ぐため、横浜への主要道路筋の要所に、関門や番所を設けて、横浜に入る者をきびしく
取り締まりました。
鶴見橋関門は、万延元年( 1860
) 4
月に設けられ、橋際のところに往還幅四間(約 7
メートル)を
除き左右へ杉材の角柱を立て、大貫を通し、黒渋で塗られたものでした。
文久 2
年( 1862
) 8
月、生麦事件 の発生により、その後の警備のために、川崎宿から保土谷宿の間に、
20
か所の見張番所が設けられました。鶴見村には、第五番の番所が鶴見橋際に、その出張所が
信楽茶屋向かいに、また、第六番の番所が今の京浜急行鶴見駅前に設けられました。
明治時代に入り世情もようやく安定してきましたので、明治 4
年( 1877
) 11
月、各関門は
廃止されました。なお第五番・第六番の御番所は、慶応 3
年( 1867
)に廃止されています。」
『寺尾稲荷道』石碑。
さらに道の反対側の鶴見図書館の前には、寺尾、小杉分岐点道標と馬上安全寺尾稲荷道道標が。
是より25丁と記されていた。
横浜市鶴見図書館前には旧東海道の説明板が置かれていた。
海に面して景色が優れていた鶴見や生麦は、川崎宿と神奈川宿の間の「間の宿(あいのしゅく)」
としてにぎわい、名物「よねまんじゅう」を商う店や茶屋が繁盛したと。
英文でも説明されていた。
図書館前のユニークな形状のモニュメント?
二口金一作 「旅立ち」。
1993(平成5)年に鶴見区で開催された彫刻の展示会「横浜ビエンナーレ」に出展され
奨励賞を受賞した彫刻作品とのこと。
鶴見駅の近くには『鶴見神社』が。
この神社の左前に梅干で有名であった「しがらき茶屋跡」がある。鶴見神社はもとの
杉山大明神で、1400年前の推古天皇の時の創建という。
六国史の一つ、続日本後紀(承和7年、833年)には、武蔵国都築(つづき)郡杉山の社として
記されているから古い。横浜・川崎の間では最古の社とのこと。
大正9年に鶴見神社と改称されている。
旧東海道は、鶴見駅前を通り、再び第一京浜国道と交わるが、そのまま横断し、
生麦の魚河岸通りに入る。
鶴見神社 境内。
手水場。
岩の上の狛犬。
拝殿。
『鶴見神社境内貝塚』説明板。
「横浜市指定史跡
時代は弥生時代末期から古墳時代前期。平成20年2月の発掘調査で
本殿前の東西5-8m、南北約10mの範囲に厚さ70-80cmの貝層が良好な状態で
遺存することが確認された。この貝層を構成する貝種は2枚貝ではカガミガイ、ハマグリ、
巻貝ではイボキサゴが主体であり、8種以上の鹹水産貝種からなっている。
この時代のの貝塚が良好に保存されている例は少なく、貴重な遺跡です」
『神輿の伝説』
寛文年代(1661~)、鶴見川から天王河岸に流れ着いた神輿を、村人が引き揚げて
当社に納めたと伝わる。 又、上流の川崎市小倉にも同じ言い伝えが残されていて、
旧小倉村鎮守・天王社の祭礼の折、村人が鶴見川で神輿を洗っていて流れ出し、
鶴見村方向へ流れ去ったと伝わっている。
以来、小倉では鶴見神社祭礼時、かげ祭りを行うと言い伝えが残っていると。
『境内末社』。
最後には寿老人が祀ってあり、本殿の後ろには富士塚が鎮座していた。祖霊社と寿老人の間に、同じような摂社がある。
『境内奥の富士塚』。
境内の奥、本殿裏に現存する富士塚の頂に富士浅間社 が
鎮座する。
富士塚の下には様々な石碑が。
『寺尾稲荷道道標 』。
「寺尾稲荷道道標は、旧東海道の鶴見橋(現鶴見川橋)付近から寺尾・小杉方面への
分岐点にあった三家稲荷に建てられていたもので、一村一社の神社合祀令によって、
大正年間に三家稲荷が鶴見神社境内に移された時に、移されたと思われます。
昭和三十年代前半頃に、鶴見神社境内に移されていた三家稲荷の鳥居前の土留め作業を行った際、
道標が埋没しているのが発見されました。
正面には「馬上安全 寺尾稲荷道」
右側面には「是より廿五丁」
左側面には「宝永二乙酉二月初午 寛永三庚午十月再建 文政十一戊子四月再建之」
とあり、二度建替えられ、この道標が三代目であり、当時の寺尾稲荷に対する信仰の篤さを
うかがい知ることができます。
寺尾稲荷は、寺尾城址の西山麓に祀られ、現在は地名が馬場となったことから馬場稲荷と
呼ばれていますが、古くは寺尾稲荷と呼ばれていました。
江戸時代には馬術上達がかなえられる稲荷として知られていました。」
『清明宮』。
清明宮の祭神はノーベル賞候補とも言われた作家・三島由紀夫と、楯の会メンバーで
三島と共に自決した森田必勝。
このように社祠の形で三島由紀夫を祀っているお宮は日本でもここだけではなかろうか。
40回目の命日にあたる2010年11月25日に建立されたとのこと。
1970年11月25日、三島氏と楯の会メンバーは自衛隊市ヶ谷駐屯地に総監を人質にとり、
バルコニーから演説。自衛隊の決起・憲法改正を訴えた後に割腹自決した。享年45。
続いて楯の会学生長だった森田必勝も自決。享年25。
なぜ鶴見神社に三島由紀夫氏なのか?
ネットで調べてみると、こんな記載を発見。
鶴見に、三島氏が作家デビューしたての頃、毎夜のように通っていた「仔馬」という
BARがあったと。
三島氏が創設した「楯の会」のメンバーが、彼を祀る神社がないことから、
その縁を受けてこの鶴見神社内に「清明宮」を遷座させたのだと。
社の横には、三島由紀夫氏の筆跡からおこした石柱が建っていた。
『鶴見の田祭り』説明板。
鶴見の田祭りは、今から約700年前の鎌倉時代からこの鶴見の地に受け継がれてきた
伝統ある行事が明治維新後の1875年(明治5年)に中断されてしまった
が昭和62年に奇跡的に復活をとげた芸能であると。
そして『清月』に立ち寄る。
鶴見名物「よねまんじゅう」は、かながわ名産100選にも選定。
店内。
『お江戸日本橋』の歌の2番の歌詞の中で「六郷渡れば川崎の万年屋、
鶴と亀とのよねまんじゅう」と唄われているのだ。
私も土産に「よねまんじゅう」を購入した。
そして京急鶴見駅近くの旧街道を進む。
右手にホテルテトラ鶴見が。
そして入口に歓迎の人形が。
胸には『ハゲ割』・・・・・・・の書き込みがぶら下がっていた。
同行の旅友Sさんが記念撮影。
二人もこのホテルに宿泊すれば500円割引間違いなしなのであった。
・・・ その1
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・・・ つづく
・・・
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