JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.04.10
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

旧東海道(145号線)を更に進むと前方に小さな橋・境川橋が。
そして橋を渡り、右手奥にあったのが『千貫樋 (せんがんどい)』。



境川橋の欄干には、清水町によって千貫樋に関する説明が書かれた掲示板が設置されていた。

「三島 千貫樋 橋」の画像検索結果

判りにくいが、枇杷の木の後ろにあったのが『千貫樋 』。
『千貫樋 』は、清水町と三島市との境に位置し、楽寿園小浜池の湧水を、清水町に
かんがい用水として送水するために、境川に架設されている掛樋。
境川の上に架かっている高架橋のようなものなのであった。



判りにくいので横に廻る。
現在の『千貫樋 』は鉄筋コンクリート製だが、樋が、大正12年(1923年)の関東大震災により
崩壊する以前は、木造で、全長45.0m、深さ0.45m、幅1.8m、高さ4.5mであったと。
なお、再建された現在の樋は、全長42.7m、深さ0.45m、幅1.9m、高さ4.2mで、
従来のものと、ほぼ同規模であると。



私の上記写真だけでは判りにくいので、【​ 静岡県のHP ​】⬅リンク を紹介します。



「 伊豆・駿河の国境、境川にかけられてある樋で、長さ42.7m、巾1.9m、
深さ45cm、高さ4.2mである。
創設については諸説があるが、天文二十四年(1555年)今川、武田、北条三家の和睦が
成立した時、北条氏康から今川氏真に聟引出物として、小浜池から長堤を築き、その水を駿河に
疎通させたというのが一般に認められている。
この疎水により清水町の新宿、玉川、伏見、八幡、長沢、柿田の耕地約130ha(旧高200石)が
多大の恩恵を受けるに至った。
樋は、はじめ木樋であったが大正十二年関東大震災の際、崩落したので現在の鉄筋コンクリートに
改めた。千貫樋の樋名については
1.架設が巧みなため銭千貫に価する。
2.この用水が高千貫の田地を潤している。
3.建設費が銭千貫を費した。
等が、命名の由来と伝えられている。 」



『千貫樋 』の交差点を更に進む。



右手の清水町新宿児童公園の道路沿いにあったのが『常夜灯』。



下の裾の部分には「常夜燈」、「富士浅間宮」の文字が。



「建立は弘化3年(1846)で両側に秋葉大権現と富士浅間宮と刻まれています。
いずれも日を鎮める神様せす。名主はじめ村人が防災の願いをこめて造ったものです。
防災、村内安全とともに東海道を行きかう旅人の安全も見守っていたことでしょう。」



ここには静岡ではお馴染みの夢舞台東海道道標「清水町 新宿」も。
沼津宿まで1里、三島宿まで2町の文字が消えかかっていたが。



この看板は??
昔の案内板なのであろうか?



駿東郡清水町の汚水マンホールの蓋 。
柿田川、旧柿田橋(めがね橋)、富士山をデザインし下部に「しみずちょうおすい」の文字が。 



更に500m近く進むと左手にあったのが『玉井寺(ぎょくせんじ)一里塚』。



「江戸から二十九里(一一三・九km)を示す道標です。 
一里塚は、慶長九年(一六〇四)江戸幕府によって五街道(東海・中仙・日光・甲州・奥州)に
作られました。 
それは、一里(三九二七m)ごと、道の両側に五間(約九m)四方に十尺(三・〇三m)の
盛土をし「えのき」あるいは「松」を植え、旅人に里程を知らせる他便宜を計りました。 
宝池寺一里塚も同時に作られましたが、昭和六十年(一九八五)に改修されています。 
この玉井寺一里塚は、昔の姿をそのまま残しています。 
付記 塚原一里塚は二十八里  山王さんのものは三十里を示す。」
宝池寺一里塚と対になっていた。
この玉井寺一里塚は、昔の姿をそのまま残しているのだと。



旧東海道の反対側には『三界萬霊等』と刻まれた石柱が。
“三界”とは、欲界・色界・無色界、即ち、仏の世界(浄土)の下に有る全ての世界の事。
これは、臨済宗中興の祖と呼ばれる江戸時代の僧・白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師の書だと。



白隠の遺墨
「白隠慧鶴(1685~1768)は、江戸時代中期に「駿河に過ぎたるものが二つあり、
富士のお山と原の白隠」といわれ、解りやすい禅画や和讃の形式で民衆の教化に努め
た臨済宗中興の祖と称えられる高僧です。
玉井寺に残された白隠の遺墨は、三界萬霊等二点と山号「金龍山」及び寺号「玉井寺」
等であり、いずれも雄渾にして気魄のある肉太の筆跡で、大変貴重なものなのです。」



金龍山 玉井禅師。



玉井寺は昭和50年代まで荒廃に任せるままであったという。
昭和60年に原型に復元整備され、 61年 清水町文化財指定されていると。
百丈山宝池寺は、臨済宗妙心寺派 駿河國興津清見寺末寺という。
元亀2年(1571年)創建という古寺。
正面は「あかずの門」。



「金龍山」と書かれた扁額。



玉井寺 『本堂。』
1569年(永禄12年)心寂祖印西堂禅師で、元伏見の金山に創建したが、円覚寺派であった。
1602年(慶長7年)現在地に移動し、1657年(明暦3年)瑞英現祥和尚が妙心寺派
(興津清見寺末)に変更し、1713年(享保2年)殿堂を再建した。
開基は、七軒百姓、本尊は釈迦如来。
前述のごとく白隠の書、「金龍山」「三界萬霊搭」があり、さらに、山岡鉄舟の書が
飾られていると。



『観音堂』があり、秘仏が安置されていると。



観音堂の「観世音」と書かれた扁額。



「南無観世音菩薩」と刻まれた石碑



西国三十三所観世音菩薩の石碑。



歴史を感じさせる石灯籠や石祠も。
境内には、金山権現、秋葉明神、天満宮が安置されていた。



脇門



向かい側にあったのが臨済宗 妙心寺派 宝池寺。



『宝池寺一里塚』。
向かい側の玉井寺(ぎょくせんじ)一里塚と対を成し、一般的に伏見一里塚といわれる。
江戸から29里目になる。
長い年月、風雨にさらされ原型が損なわれたため、昭和60年多くの篤志により
原寸どおり復元されたと。



「一六〇四年(慶長九)江戸時代、一里を三十六町(三九二七m)と定め、江戸日本橋を
 起点とし、一里ごとに道の両側に塚を築かせ道標としました。 
 向い側にある玉井寺一里塚と対を成し、一般的に「伏見一里塚」といわれ、江戸日本橋から
 二十九番目にあたります。 
 長い年月、風雨にさらされ原型が損なわれたので、昭和六十年多くの篤志により原寸どおり
 復元されました。 
 また、宝池寺側には立場があり、人夫が駕籠などを停めて休憩できる場であったと
 伝えられています。」



山門。



六地蔵と後ろに延命地蔵。



本堂。
百丈山宝池寺は、臨済宗妙心寺派の寺院。元亀二年(1571)の創建。



『聯芳塔』。



『瑠璃殿』。



境内の大きなテーダマツ。



テーダマツ
「北アメリカ東南部の低地に生える常緑高木。3葉松の長さは25㎝、球果は長さ15㎝に
なる。生長が早く潮風に強い。」



宝池寺前から玉井寺を見る。



山門の横にあり、旧東海道を見ている仏像。



更に西に進み八幡の交差点を直進する。



次に訪ねたのは臨済宗妙心寺派の『法泉寺(ほうせんじ)』。
山門。







草創は建長の頃、鎌倉建長寺末、永禄年間(1558~1569年)戦の災いに巻き込まれ、
旧記等残らず焼失し、開祖年暦不詳。
明暦年中(1655~1657年)鉄州首座堂宇を回復して妙心寺末となる。
その後、天和年間(1681~1683年)下野国宇都宮城主、戸田山城守の女之を再興し
同所英岩寺の住職 生鉄大和尚を請じて中興開祖となす。



扁額には「佛慈山」と。



「うらみ つらみ ねたみ そねみ いやみ ひがみ そして やっかみ
 人を翻弄する七つの性はいずれも自他の比較に由来する。
 他人と較べる中でしか事故を見ることの出来ない人の宿痾であり業である」と。



旧街道に戻り更に西に進む。



次に『曹洞宗 秀源寺(しゅうげんんじ)』を訪ねる。



山門。



本堂。



境内の石仏。







そして『臨済宗 東光寺』へ。



山門。



本堂。
臨済宗建長寺派。



境内の六地蔵。




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                  ・・・つづく・・・





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Last updated  2020.04.28 14:35:43コメント(0) | コメントを書く


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