JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.04.17
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

長興寺から白隠のみちを進むと松蔭寺の山門前に出た。
山門の前の道路に飛び出している松が『すり鉢の松』。
白隠が岡山城主池田侯から贈られた備前焼のすり鉢を、台風によって裂けた松の枝の
雨避けにかぶせたというすり鉢の松。



山門前の『白隠の里案内図』。
白隠生誕地として、白隠に由来する寺が旧東海道に沿って建ち並び街中が整備されていた。



松蔭寺の『山門』。
2016 年(平成 28 年) 8 1 日指定の有形文化財(建造物)。
石瓦葺が特徴の木造、切妻造りの平屋建ての門。石瓦は幅約 30 センチ、長さ約 1 メートルの
ものを 1 3 18 列計 54 枚、裏表合わせて 煩悩の数を表す108 枚で葺かれている。
寺伝では、白隠禅師の考案とされていたが、後の調査で江戸文政期の時代に作られたものと
分かった。この地方では類を見ないものである。



右手の『寺務所』。



『本堂』。
「1279 年(弘安 2 年)鎌倉円覚寺無学祖元の流れを汲む天祥西堂が開山したと言われている。
その後荒廃したが、 1615 年(元和元年)徳川家康の天下統一後寺院の統制が図られ、
この地域は禅宗の妙心寺により系列化された。
1624 年(寛永元年)沼津大聖寺の大瑞宗育が京都妙心寺を本山、興津清見寺を中本山とする
本末関係を結び、再興した。
1649 年(慶安 2 年) 10 17 日徳川家光から高十四石六斗五升の朱印状を下賜され、
原宿 ( 東海道 ) の禅宗寺院として公許された。」と。



扁額『大信根』。
白隠禅師は、「​ 大信根、大疑団、大憤志(⬅リンク ​)を持って修行の三要件とし、
見性成仏させる宗風を復活させた、臨済禅中興の祖である。」と。



『本堂』内部。



『六角堂』。



『鐘楼』。



良寛遺墨碑『白隠語句』・柳田聖山歌碑。



歌碑 説明板 ​⬅リンク

碑面   君看雙眼色 不語似無憂
     降る雪の 降る雪の 雪の花を我が後の世の家づとにせん 家づとにせん

口語訳  妾の二つの眼の色をよくよく看て下さい、何も言ってくれないと憂い(その気)が
     ないように見えますよ
     降りに降る雪の花を 来世の私のために その家のおみやげにしたいものだぜひとも
     おみやげにしたいものだ



『慰霊碑』。
北朝鮮地域在住同胞殉難者を慰霊する石碑。



『三界萬霊等』。



多くの石仏が。



本堂裏の白隠禅師の墓に向かう。



『白隠禅師墓』説明板。
「白隠禅師(1685年~1768年)
『駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠』
東海道原宿に生まれ、各地を行脚した後に故郷に戻り、50年近くにわたって松蔭寺の
住職を務めました。 また、50代以降には、請われて各地で講義を行うとともに、
膨大な著作や書画を残しており、終生にわたり、様々な方法を駆使して法を説きました。
人の往来が激しい東海道の沿道で、時代に即応した禅を広めた僧として知られています。
松蔭寺には遷化の翌年に完成した白隠禅師坐像があり、虎視牛行(こしぎゅうこう)と
言われる鋭さと厳しさを感じることができます。」



『白隠禅師塔所』。
白隠禅師の遺体は死後分骨され、原の松蔭寺、三島の龍澤寺、富士比奈の無量寺に
埋葬され塔所が建てられたのだと。



最初はこれが白隠禅師の墓と思いましたが・・・・。



やっと『白隠禅師の墓』に到着。
三基の無縫塔のうち一番手前の墓が隠元禅師の墓とのことでしたが、
間違って中央の墓石をズームして撮影して帰ってしまいました。
調べてみると中央は松蔭寺を復興した大瑞宗育の墓。
右が白隠の弟子で、白隠の亡き後に松蔭寺住職を継いだ遂翁元盧の墓 であると。



墓地の奥から本堂方面を見る。



次に隣りにある原の天神さん・『西念寺』を訪ねる。
珍しく時宗の寺、宗祖:証誠大師(一遍上人)、本尊:阿弥陀仏。



『本堂』。



『西念寺天満宮』。
山門を入って左手に学問の神様菅原道真公がお祀りされている天満宮の堂。
西念寺門前に生家のあった白隠禅師は幼少の頃、母から自宅に隣接するこの
天満天神が一切の苦を救うと教えられ、日々参拝した。後年にも「南無天満自在天神」の
文字絵や、お多福などの人物の衣に梅鉢紋を描いていることなどから、天神に対する
特別な思いがあったようだと。



広場にあった『白隠禅師の石碑』。



白隠禅師の『産湯の井戸』であると。



石碑『産湯井』。



『無量堂』。
臨済宗中興の祖とされる江戸時代の僧侶、白隠禅師(1685~1768年)の
沼津市原の生誕地に白隠を顕彰する『無量堂』。




今なお産湯の井戸が残る沼津市原の旧東海道沿いにある白隠禅師の生誕地に堂、『無量庵』を建てたのだと。



『東海道原宿 白隠禅師誕生地』。
「”駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠”と歌われ、臨済禅中興の祖と
仰がれる白隠禅師は、西暦1685年12月25日長澤宗彝(そうい)を父、
妙遵(みょうじゅん)を母とし三男二女の末子として生まれる。 
15才の時松蔭寺の単嶺祖伝和尚を師として自ら望んで出家し仏門に入る。
19才から32才まで修行行脚で全国を巡り33才で松蔭寺住職となり84才で亡くなるまで
松蔭寺を中心に全国各地で真の禅宗の教えを広めた。毛筆の書画に秀でて達磨図や観音菩薩絵は
特に有名である。 
現地は母妙遵(みょうじゅん)の生家屋号味噌屋 (みそや)の地でのち父宗彛(そうい)が

禅師が生まれた時使用した「産湯の井戸」がこの奥にいまなお清水を湛えている。」



旧東海道の原交番東を直進する。



右手に『浅間神社』が。



『浅間神社御由緒』。
「甲斐武田氏に仕えし植松平次右衛門出雲守源季重なる者天正10年(1582)3月
武田勝頼陣没するや去って原町に至り住居す。李重敬神の念篤く慶長十四年 ( 1609 ) 八月
当浅間神社を創建氏神として崇敬し李重の子孫は連綿として当宮の前に居住する植松本家なり
明治八年村社に列せられる
明治四十年神饌幣帛共進指定社に列せらる

例祭  十月十七日」



『拝殿』。



原宿 『高札場跡』。



幕府・大名が法令、禁令を札板に掲示したもので浅間神社に設置されてあった。
「江戸時代、幕府・大名が法令や禁令を、板札に墨書した高札を掲示した所を、




お馴染みの静岡県が設置した夢舞台東海道『原宿』。
吉原宿:宿境まで二里三十二町、沼津宿:宿境まで一里十二町 と。



『帯笑園』。
帯笑園は、原の素封家植松家が江戸時代後期から昭和初期まで代々伝えた庭園である。
帯笑園という名前は、寛政3年(1791年)海保青陵(儒学者 1755年~1817年)によって
つけられ、高島秋帆(高島流砲術の創始者 1798年~1866年)筆の木額が残っている。
帯笑園は、一般的な庭園とは違い、珍しい植物のコレクションを陳列し、当時には珍しい
温室を備えるなどして、その時期に一番良い状態の植物を鑑賞できる植物園のような性格を
持つ庭園だったと。平成24年9月、国の登録文化財になっている。



しかしこの日は園内工事中で入れなかった。



『東海道原宿 本陣跡』
「原宿の本陣渡邉家は阿野全成 ( 源頼朝の弟・義経の兄 ) の子孫であり、代々平左衛門を
名乗って幕末に至っている。原宿の草分けであり広大な建物を持っていたので、
自然に大名・幕吏等の宿所として本陣となり問屋・年寄、名主等を勤めていた。
明治維新後、明治元年 (1868 )10 月7日明治天皇東幸の時、本陣渡邉左衛門家で
『御小休』をされ、その後も巡幸され「御昼」をされた記録もある。
昭和20年の敗戦前まで『明治天皇行在所』と記された標柱が現在地に整備され立っていた。
間口は15~17間で、建坪は235坪、総坪数は山林、畑を含め6,600坪の広大な規模であった。」

                              ​ その9 ​ に戻る。

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.04.28 14:38:53
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