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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
文政8年(1825年)の改築で、禅寺ならではのシンプルで美しい建物。
『咸臨丸殉難碑』、「食人之食者死人之事:榎本武揚」。
幕末の激動期に 幕府軍と新政府軍の争いの際、幕府軍の戦没者を祀るため清水の次郎長、
榎本武揚らが建立した「咸臨丸碑」。
ちなみに明治元年、幕府の軍艦咸臨丸が清水港で官軍の攻撃をうけた際、港内に漂う戦死した
乗組員を次郎長が手厚く弔った「壮士の墓」は巴川の河口近くにあるのだと。
榎本武揚の筆による『史記』の「准陰候列伝」から「食人之食者死人之事」と刻まれていると。
「人の食を食む者は、人の事に死す」と云う文意は「禄をいただいた主君のために人は殉じる」と
云う意味だと。
左に『本堂(大方丈)』。
文政年間(1818~1829)に改築。正面に琉球王子筆の「永世孝享」の額が掲げられ、
両脇の壁面には朝鮮通信使の詩文が飾られているとの事。
『家康公御手植 臥龍梅』
徳川家康公曽って来遊の砌り清見関所の庭の梅枝を取らして接木したと云う。
徳川家康没して400余年、梅はなお清見寺の庭に生き続けていた。
数輪の花も。
『龍臥して法の教えを聞くほどに梅花開く身となりにけり』
とは、歌人与謝野晶子女史がこの梅を題して詠じたもの。
正面に『庫裡』と左手に『東玄関』。
『鐘堂』も立派な造り。
「正和三年(1314)鋳造されたもので、謡曲「三井寺」に出づ、
又天正十八年(1590)豊臣秀吉、韮山城攻伐の際、陣鐘に用いた。
総高140.2cm・鐘身高113cm・口径80.7cm。」
別の角度から。
鐘楼の「瓊瑶(けいよう)世界」の扁額は1643年の朝鮮通信使・朴安期の揮毫。
瓊瑶世界とは美しい玉のような世界を意味すると。
庫裡の東玄関。
庫裡の内部。
本堂や書院内部を見学出来るようであったが、時間がなく・・・。
天井、床、柱も黒光りして歴史を感じさせてくれるのであった。
「御朱印を希望の方、声をかけてください」と。
御朱印を頂きました。
現在は海から離れているが、かつては境内のすぐそばまで海岸線があり
眼下に駿河湾や清見潟、その向こうに三保の松原も見渡せたと。
そして東海道線には貨物電車が。
本堂の屋根、切り妻。
『大野伴睦句碑』。
「秋晴や 三保の松原 一文字」。
作者は<万木>。政治家<大野伴睦>の俳号だと。
大野伴睦といえば自身の地元の東海道新幹線岐阜羽島駅の誘致に政治的関与をしたとも。
そんな油ギッシュな人の作品とは思えない、見事な情景描写。
「一文字」とは青い海・駿河湾に延びている三保の松原のこと。
高山樗牛(ちょぎゅう)の清見寺鐘声文の碑。
『高山樗牛「清見寺鐘声」碑文』
「鐘の音はわがおもひを追うて幾度かひびきぬ.うるわしきかな、山や水や、偽りなく、
そねみなく、憎みなく争ひなし。人は生死のちまたに迷い、世は興亡のわだちを廻る。
山や、水や、かはるところなきなり、おもへば恥かしきわが身かなに恨みある身の病を
養へばとて、千年の齢、もとより保つべくもあらず。やがて哀れは夢のただちに消えて
知る人もなき枯骨となりはてなむず。われは薄幸児、数ならぬ身の世にながらへて
また何の為すところぞ。さるに、をしむまじき命のなほ捨てがてに、ここに漂泊の日暮を
かさぬるこそ、おろかにもまた哀れならずや。鐘の音はまたいくたびかひびきわたりぬ、
わがおもいいよいよ。」
『永代接待茶碑』。
誰が誰に対して茶を接待したのか知りたかったが、ネット検索してもヒットしなかった。
山下清がこの清見寺を訪れたとき、なかなかに興味深い一文を残しているのだと。
塀際にその説明用立て札が。
『山下清 「清見寺スケッチの思い出より」』
「清見寺という名だな このお寺は古っぽしいけど上等に見えるな
お寺の前庭のところを汽車の東海道線が走っているのはどうゆうわけかな
お寺より汽車の方が大事なのでお寺の人はそんしたな
お寺から見える海は うめたて工事であんまりきれいじゃないな
お寺の人はよその人に自分のお寺がきれいと思われるのがいいか
自分のお寺から見る景色がいい方がいいかどっちだろうな」
五重石塔と仏殿。
石塔は『山梨治重 顕徳塔』。
『収蔵庫』か。
仏殿の前から境内の庫裡の方向を。
清見寺を後にする途中山門を潜って。
再びJR跨線橋が見えた。
後方には清水港のクレーン、更にその先には日本平が。
清見寺の隣りにある『瑞雲院』も訪ねた。
『山門』。
「厳腰山」の扁額も。
瑞雲院 『本堂』。
駿河一国観音霊場 第二十三番札所 臨済宗妙心寺派
延文元年(1356年)に足利尊氏(あしかが たかうじ)に依り開基。
創建当時は瑞雲庵と称した。
慶長11年(1606年)に僧東谷が中興した際に現行名に変更された。
幕末たる嘉永2年(1849年)に山頂から山麓たる現在地に移転。
山 号■厳腰山
寺 名■瑞雲院
住 所■静岡県静岡市清水区興津清見寺町420
宗 派■臨済宗妙心寺派
霊 場■駿河三十三観音霊場第23番札所
霊場本尊■如意輪観世音菩薩。
手水場。
『性海庵(しょうかいや)の湧水』。
この湧水は清見寺の浦山から引かれた湧水で、昔は旅人が利用したと。
『観音堂』。
富安風生の『歌碑』
「おのづから 法にかなひて しだれ梅」
『薄寒桜』。
「薄寒桜は明治45年、アメリカワシントンのポトマック河畔に寄贈された3000の桜と
兄弟にあたる薄寒桜で、そのころ静岡市清水区果樹試験場興津にも植えられました。
その中の一本がこの瑞雲院にも植えられたそうです。現在の薄寒桜はその子供に当たると。」
再び跨線橋を渡る。
昔は山と海がせまり線路を通すところがなかったのだと。
跨線橋を渡り終わり、清見寺を振り返る。
東海道線が境内を貫いた事により、山門から下ってきた石段が半ばで
消失している事がはっきりと理解できたのであった。
やむなく右に曲がり跨線橋を渡り総門へと。
総門を境内側から。
右下に『大正天皇在東宮海水浴御成道』が再び見えた。
その2
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・・・ つづく
・・・
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