JINさんの陽蜂農遠日記

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2025.07.30
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カテゴリ: 海外旅行
Flag 0f Ramillies・ラミイの旗
1706年5月26日、ベルギーでラミリーズの戦いが起こりました。
これはスペイン継承戦争における重要な戦いでした。この旗は元々、リムリック条約後に
フランスに亡命したアイルランドの連隊、クレア竜騎兵隊のものでした。この条約は、
長引いていたアイルランド戦争を終結させるために締結されました。クレア竜騎兵隊は、
アイルランドを離れ、ヨーロッパ各地でカトリック国王のために戦った「ワイルド・グース
(野生の雁)」の一員であり、最も有名なのはフランスにおけるアイルランド旅団での活躍です。
この連隊はクレア子爵チャールズ・オブライエンによって率いられていました。クレア子爵は
後に亡命し、1698年のボイン川の戦いで彼と彼の家族はすべての領地を失いました。



斜めから。



銃弾が残された可能性 ラミリーズ旗



Flag 0f Ramillies


【ラミイの旗
この旗は、1706年のラミイの戦いでアイリッシュ旅団の連隊によって奪取され、イープルの
修道院にいる修道女たちのもとに、安全に保管するため預けられたと言われています。】



「The Irish Dames of Ypres
Founded in 1665 , the Benedictine menastery in YPRES, BELGIUM, provided an education
and religious community for Irish women at a time when strict anti-Catholic laws were
in place in lreland.

Lady Abbess Joseph Butler from Country Kilkenmy became

the first Irish-born Abbess at Ypres

when she was elected in August 1686. Following an invitation from King James Ⅱ to
establish a Royal Benedictine Abbey in Dublin in 1688,

Lady Abbess  Butler and some of her community came to Ireland but following the defeat
of King James at the BATTLE OF THE BOYNE in 1690,they returned to YPRES,where they
remained for over 200 YEARS.

イープルの修道女たち(The Dames of Ypres)
1665年に創設されたベルギー・イープルのベネディクト会修道院は、アイルランドで厳しい
反カトリック法が施行されていた時代に、アイルランドの女性たちに教育と宗教的共同体を
提供していました。

キルケニー州出身のジョセフ・バトラー女修道院長は、1686年8月に選出され、イープル初の
アイルランド人出身の院長となりました。1688年にはジェームズ2世の招きにより、
ダブリンに王立ベネディクト会修道院を設立するため、バトラー女院長とその共同体の
一部がアイルランドへ渡りました。
しかし、1690年のボイン川の戦いでジェームズ王が敗北したため、彼女たちはイープルへ戻り、
その後200年以上にわたりそこで活動を続けました。】



「RE-BUILDING of KYLEMORE ABBEY
(destroyed by fire in 1959)」 
【カイルモア修道院の再建
(1959年の火災で焼失)】



メクティルド修道院長(1959年)の証言



″The tower bell MELTED into THIN AIR…The leaded roof was no more;atairways,iron
bedsteads hung off the remaining turrets,a sorry sight,but THANK GOD only GOODS
and CHATTELS.No person was injured,all just suffering from shock"
Mother Mechtilde, 1959.

【鐘楼の鐘は 煙のように溶けて消え去りました…。鉛の屋根も跡形もなく、階段や鉄製の
ベッドが残った塔にぶら下がっていました。哀れな光景でしたが、ありがたいことに
失われたのは 物品と家財だけ。
人命は失われず、皆がただショックを受けているだけでした。」
――メクティルド修道院長(1959年)】



この展示室は、カイルモア修道院の歴史、使命、そしてベネディクト派修道女たちの精神を
来訪者に伝えるための空間。中央のベンチも歴史的な意匠が施されており、修道院の厳粛で
静謐な雰囲気を反映していた。

低解像度-7558_72.jpg

1921
the RIGHTS and privileges of Ypres were transferred to KYlemore Abbey,making it
the first Benedictine monastery established in IRELAND since the 1600s.」 

1921
イープル修道院の権利と特権はカイルモア修道院に移され、これにより1600年代以来、
アイルランドで初めて設立されたベネディクト会修道院となりました。】



John McCormack



ジョン・フランシス・マコーマック伯爵 (1884年6月14日 - 1945年9月16日)は、
アイルランド出身の 抒情テノール歌手で、オペラやポピュラーソングの演奏で名高く、
その発音と呼吸法で知られていた。彼は伯爵でもあった。
マコーマックはアメリカに帰化した後、アイルランドに戻った。



Our Mission
"Our Mission as Benedictine women is to live in COMMUNITY sharing our liturgy and
hosupitality with all,in a sprit of peace"

私たちの使命
「私たちベネディクト会の女性の使命は、平和の精神のもとに、共同体として
生活し、祈りの典礼とおもてなしをすべての人と分かち合うことです。」】



The Indian Princesses
in the early 1930s,two Indian princesses attended Kylemore as boaders.
The princesses were nieces of a Maharajya,who owned nearby Ballynahinch Castle
for a time.」 



【インドの王女たち
1930年代初頭、2人のインドの王女が寄宿生としてカイルモア修道院に通っていました。
彼女たちはマハラジャの姪であり、そのマハラジャは一時期、近隣のバリナヒンチ城
(Ballynahinch Castle)を所有していました。】



「ln the latter years of the 20th century necessary restoration work was carried out
on the Gothic church,the walled garden,and the Abbey itself.The funds earned through
tourism  go towards the upkeep of the COMMUNITY  and on-going maintenance of
the Abbey and edtate.」 



【20世紀後半には、必要な修復工事が施されました。
ゴシック様式の教会、囲い壁のある庭園、そして修道院そのものに対して行われました。
観光によって得られた資金は、修道共同体の維持と修道院および敷地全体の継続的な管理に
充てられています。】



カイルモア修道院女子校(スクール・エイネ)の生徒の制服



「Pupils of Kylemore Abbey Girls school (Scoil Áine)founded in Sept 1923」 
【カイルモア修道院女子校(スクール・エイネ)の生徒たち――1923年9月創立】

「Scoil Aine(スクール・エイネ)」はアイルランド語で「エイネ校」という意味で、
聖エイネ(Áine)にちなんで名付けられたと考えられます と。



この楽譜は?



Enterprise



Mitchell Henry set about building Kylemore Castle in SEPTEMBER 1867 」 

【ミッチェル・ヘンリーは、1867年9月にカイルモア城の建設に着手しました。】
このカイルモア城(のちのカイルモア修道院)は、彼の妻への愛情と家族の理想郷を実現する
ために建てられたとされています。



Mitchell Henryの書斎 の紹介。

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Kylemore Abbey — we-are-bright



Mitchell Henry married Margaret Vaughaun from Quilly House , Dromore ,
County Down on the 30th August 1849
The Henrys had nine children and the family divided their time between thisbeautiful
castle and heir city residence, STRATHEDEN HOUSE in LONDON. Sadly,great wealth
proved no protection from adversity as just a few years later, Marguret died tragically
while on a family holiday in EGYPT in 1874. Despite their loss, the Henrys remained at KYLEMORE CASTLE until 1902 after which time the Estate was sold to theDuke and
Duchess of Manchester who remained in residence here until 1913.」 

【ミッチェル・ヘンリーは、1849年8月30日、ダウン州ドロモアのクィリー・ハウス出身の
マーガレット・ヴォーンと結婚しました。
ヘンリー夫妻には9人の子どもが生まれ、家族はこの美しい城とロンドンの邸宅
「ストラスイーデン・ハウス」との間で生活を分け合っていました。
しかし、莫大な富も不幸を防ぐことはできませんでした。
数年後の1874年、家族でエジプト旅行中に、マーガレットは悲劇的に亡くなってしまいます。
その喪失にもかかわらず、ヘンリー家は1902年までカイルモア城に居住し続けました。
その後、この地所はマンチェスター公爵夫妻に売却され、夫妻は1913年までここに居住しました。】



居間。



鏡台。



そして後ろに 応接間



応接間。

ドローイングルーム、カイルモア修道院、ゴールウェイ州

本棚。

書斎。アイルランド、ゴールウェイ州、カイルモア修道院

近づいて。



低解像度-7503_72.jpg

現在地はここ。



Mitchell Henryと Margaret Henry。



Mitchell Henry(1826~1910)




Margaret Henry (1829~1874)

Connemara National Park & Kylemore Abbey Tour - Kaya Wanderlust

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「Mitchell Henry

Mitchell Henry represented COUNTY GALWAY in the HOUSE OFCOMMONS at Westminster, London, for fourteen years (1871ー1885).
He was an active POLITICIAN and an ardent CAMPAIGNER for IRISH HOME RULE. A close associate of Isaac Butt,Mitchell was one of the founder members of the IRISH
PARLIAMENTARY PARTY and was  instrumental in setting up theHOME RULE LEAGUE
in 1873.」

【ミッチェル・ヘンリー
ミッチェル・ヘンリーは、1871年から1885年までの14年間、ロンドンのウェストミンスターに
ある庶民院(下院)でゴールウェイ県の代表を務めました。
彼は積極的な政治家であり、アイルランドの自治(ホーム・ルール)を強く支持する運動家でも
ありました。
アイザック・バットの親しい協力者として、アイルランド国民党(Irish Parliamentary Party)の
創設メンバーの一人となり、1873年にはホーム・ルール連盟(Home Rule League)の設立にも
重要な役割を果たしました。】
この文は、ミッチェル・ヘンリーが実業家だけでなく、アイルランドの政治的自立を目指す運動の
中心人物でもあったことを物語っています。



壁沿いにあった椅子。



The Walled Garden(囲い庭園) 」に関する展示が行われている空間。
木製の台座の上に設置された立体模型は、おそらくカイルモアの敷地と「囲い庭園(The Walled Garden)」の地形や建物配置を再現。
インタラクティブディスプレイで、Walled Garden の歴史・植物・使用人の作業などを
紹介していた。

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The Walled Garden 」 



The Walled Garden
The Walled Garden covered 8.5 ACRES in total and was divided into formal gardens
and a STATE OF THE ART complex 0f 21 glasshouses which covered about an acre,
arranged like a horseshow around the Parterre(formal gardens),all interconnected and
HEATED WITH A CAST-IRON PIPE system of over 5,000 feet(1500 metres approx).
The glasshouses were laid out by the first HEAD GARDENER James Garnier and designed
and built by CRANSTON'S in Bermingham.
The Walled Garden provided a wide range of fruit and vegetables, that included LUXURIES
UNTHINKABLE to ordinary Irish people such as grapes, nectarines, melons and even
bananas.Produce grown at Kylemore was often served at the Henry's London Dinner
parties.」

囲い壁のある庭園(ウォールド・ガーデン)
ウォールド・ガーデンは総面積8.5エーカー(約3.4ヘクタール)を誇り、格式ある庭園
(フォーマル・ガーデン)と、約1エーカー(約0.4ヘクタール)を占める最先端の21棟の
温室施設に分かれていました。
これらの温室は馬蹄形(ホースシュー)に配置され、フォーマル・ガーデン(パーテア)の
周囲を取り囲むように整えられ、総延長約5,000フィート(約1,500メートル)におよぶ
鋳鉄製パイプの加熱システムで相互に接続されていました。
この温室は、初代主任庭師ジェームズ・ガルニエによって配置され、バーミンガムの
クランストンズ社が設計・建設しました。
この庭園では多種多様な果物や野菜が栽培されており、当時の一般的なアイルランド人には
考えられないような贅沢品――例えばブドウ、ネクタリン、メロン、さらにはバナナまでもが
育てられていました。
カイルモアで収穫された作物は、しばしばヘンリー家のロンドンの晩餐会で供されていたそうです】  


「Picking up a Meal upon the Coast,Killery Ray」 
【キラリー湾沿いの海岸での収穫】

「MEN WERE EMPLOYED
Mitchell Henry brought MUCH-NEEDED EMPLOYMENT to region SUFFERING from
extreme poverty. Men WALKED FOR MILES when it  known that WORKS was being
offered at a FAIR WAGE,and at one time 300 men were employed as labourers
and craftsmen.」
男性たちが雇用された
ミッチェル・ヘンリーは、極度の貧困に苦しむ地域に、非常に必要とされていた雇用を
もたらしました。
公正な賃金で仕事が提供されると知れ渡ると、男性たちは何マイルも歩いてやって来ました。
一時は、300人もの男性が労働者や職人として雇われていたのです。】



「Mitchchell Henry represented COUNTY GALWAY in the HOUSE OF COMMONS in London
from 1871 to 1885. He was an active politician  WHO throughout his career fought for the
rights of his tenants and the people in the west of Ireland.」

【ミッチェル・ヘンリーは、1871年から1885年まで、ロンドンの庶民院(下院)で
ゴールウェイ県の代表を務めました。
彼は積極的な政治家であり、政治活動を通じて一貫して、自らの小作人たちやアイルランド西部の
人々の権利のために尽力しました。】

「”...「the」condition of the West is daily becoming worse. 
The people have neither food nor clothes, nor credit to buy them, nor work to earn them.
Blank despair is setting down upon the district, and the efforts of the few in this locality
who can give a little employment are as but a drop in the ocean of misery around...
pale,thin and bloodless,silent,their condition is absolutely without hope."
Mitchell Henry,in a letter to the Lord Lieutant of Ireland,13TH DECEMBER 1879.」  

…西部の状況は日ごとに悪化しています。
人々には食べ物も衣服もなく、買うための信用も、稼ぐための仕事もありません。
完全な絶望がこの地域を覆いつつあり、この地でわずかでも雇用を提供できる少数の者たちの
努力は、周囲に広がる悲惨の海に落ちる一滴の水にすぎません。
青ざめ、やせ細り、血の気もなく、沈黙した彼らの様子には、まったく希望が見いだせません。」
――ミッチェル・ヘンリー、1879年12月13日
          アイルランド副王への手紙より】



前方:後期ヴィクトリア時代の陶製水洗トイレ。



「Replica of porcelain LATE VICTORIAN flush toilet
PLEASE NOTE the exposed original red brick to your left!」 

【レプリカ:後期ヴィクトリア時代の陶製水洗トイレ
※左手にある、露出した当時の赤レンガにもご注目ください!】



柱時計?



ステッキ置き場と帽子置き場。



「Rrawing Room」案内。



Margaret Henry(マーガレット・ヘンリー夫人)の肖像画
彼女はカイルモア城の創設者ミッチェル・ヘンリー(Mitchell Henry)の妻。
肖像の下には、彼女に関する説明文・カイルモアの歴史・ミッチェル・ヘンリーに関する情報が
掲示されていた。



Margaret Henry(マーガレット・ヘンリー夫人)の肖像画 をズームして。
この肖像画は、カイルモア城の「ヴィクトリア朝時代の居住空間の再現展示」の一部として
飾られており、カイルモアの「愛の物語」を象徴する重要な存在。



----Obituary----
Margaret Henry
FREEMANS JOYENAL,FRIDAY 11 DECEMBER 1874
We deeply regret to anaounce the death of Mrs Margaret Henry which occurred  recentry
in Egypt,where she had accompanied her husband and family on a tour through the East.
A fond and affectionate wife and a tender and loving mother,her premature demise will
leave a blank in the circle of which she was the idol:and the poor of whom she was a
kind and constant benefactor will long continue and have cause to mourn her loss.
Of a  truly benevolent and charitable disposition,it was  her care to alleviate the suffering
and  aid the distressed,which she did,not through a sprit of parade and senseless vanity,
but as a duty that springs from the highest and purest of impulses of the heart.
In the vicinity of Kylemore castle,the splendid residence of her husband, the good which
she did cannot be estimated.
The poor and destitute were by her supplied with food and clothing, and it was her custorn during all seasons of the year to visit the humble hornesteads on the estate and minister
freely to the wants of the occupants.The world knows not the extent of her benevolence,
for she heeded the injunction that it was known to Hirn who sees and knows all things
and will not heartily syrnpathise with Mr Mitchell Henry in his great bereavement,and regret
the demise of his amiable and  excellent lady.Mrs Mitchell Henry was 45 years of age and 
her death resylted an illness of 16 days of dysentery.  」 

---- 訃報 ----
マーガレット・ヘンリー夫人
『フリーマンズ・ジャーナル』 1874年12月11日(金)掲載
私たちは、マーガレット・ヘンリー夫人が最近エジプトにて逝去されたことを深い遺憾の意と
ともにお知らせいたします。
夫と家族とともに東方を巡る旅に出ていた途中の出来事でした。
彼女は、愛情深く献身的な妻であり、優しく慈しみに満ちた母でした。
彼女のあまりにも早すぎる死は、彼女を中心としていた家族や交友の輪に大きな空白を残すことに
なるでしょう。
また、彼女が日頃から親切に接していた貧しい人々にとっても、その喪失は深く長く悲しまれる
に違いありません。
本当に慈愛に満ち、思いやり深い性格の持ち主であった彼女は、困窮する人々の苦しみを和らげ、
助けることに心を砕いていました。
しかもそれは、見せびらかしや虚栄心からではなく、心の最も高く純粋な衝動から生まれた
義務感によるものでした。
カイルモア城(夫ミッチェル・ヘンリー氏の壮麗な邸宅)周辺において、彼女が与えた善の影響は
計り知れません。
貧しく困窮した人々には食料や衣服を提供し、季節を問わず、屋敷内のつつましい家庭を訪れては
必要な支援を惜しみなく施していました。
その慈善の範囲を世界は知ることはないでしょう。
というのも、彼女は「すべてを見通す神の御心にのみ知られればよい」という信念を守り、静かに
それを行っていたからです。
このような悲報に接し、ミッチェル・ヘンリー氏の大いなる悲しみに対して、人々は心からの
共感と弔意を寄せずにはいられないでしょう。
そして、彼の愛すべき、立派な夫人の逝去を深く悼むものです。
マーガレット・ヘンリー夫人は享年45歳。
彼女の死因は、16日間に及ぶ赤痢の病によるものでした。】




                                  ・・・​ もどる ​・・・



                  ・・・​ つづく ​・・・








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Last updated  2025.07.30 22:08:52
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Re:アイルランド・ロンドンへの旅(その32):カイルモア修道院(Kylemore Abbey)を訪ねる(5/9)(07/30)  
オジン0523  さん
英語と日本語での説明ご苦労様です。
このブログ作成で英語力も英検一級に、失礼、既に(笑) (2025.07.30 10:35:05)

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