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電子リコーダーで手元の楽譜の曲を吹いていたが、リコーダーでは吹きにくい曲も多い。 思い立って、頭に浮かんだ「夏になったら」はどうだろうと思ってYouTubeで聞いみたら、非常にわかりやすいメロディで、耳コピできないかと思って吹いてみたら、なんとリコーダーで作曲したのではないかと思うくらい、音域がリコーダー向き。 キーはFで、♭が一つついているが、半音を使うところはほとんどない。 それにしても、なんて美しい声なのだろう。 たしか日曜日の夜、ビリーバンバンとのラジオ番組があって、聞いていた。
2024.06.13
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昨日の続き。「ザ・カセットテープ・ミュージック」で柴田まゆみの「白いページの中に」も紹介されていた。 名曲だ。なぜかこれ一曲で引退してしまったが、記憶に残っている。 いかにもポプコンらしい曲だ。 茉奈佳奈のカバーでも聞いたことがある。 この二人がこの曲を知っていたとは思えない。スタッフが選んだのだろうが、いい選曲だ。 この番組では豊川誕《とよかわじょう》の歌も紹介していた。マキタスポーツは、よくこういう歌を聞いていたなあ。すごい。聞いていたことに驚いた。豊川誕を音楽面から取り上げるとは、目の付け所が違う。
2024.06.01
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BS12の「ザ・カセットテープ・ミュージック」を見ている。 「アンノウン歌謡祭」というテーマで、あまり知られていない歌を紹介していたが、その2回目の1曲目が谷山浩子の「カントリーガール」だった。 この歌はかすかに覚えている。 地方から出てきた女の子の歌なのだが、どうも、記憶の中の歌とイメージが違う。 番組では3番までで終わっていたが、検索してみたら、4番まであったのだ。どうも、その4番を聞いた記憶があったらしい。 YouTubeで聞くことができる。
2024.05.30
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寝付けないときや、夜中にトイレに行った後目が覚めてしまったときなど、NHKのアプリ「らじるらじる」でラジオ番組の聞き逃し配信を聞いたりしている。 「DJ日本史」は興味のある内容なので聞き逃し配信はありがたい。その一方、たまたま聞いた「又吉・児玉・向井のあとは寝るだけの時間」や「タカアンドトシのお時間いただきます」など、興味を持っていなかった人の番組が面白かったりする。 昨夜も機構と思ってアプリを開いたら、なんと泉谷しげるの番組がトップページで紹介されていた。六角精児との番組だという。 内容紹介を見たら、一曲目が高田渡の「生活の柄」だったりして、フォークソングを取り上げる番組だということがわかる。 早速聞いてみた。面白い。フォークソングに関する話ばかりではないが、やはり昔話が面白い。ゲストが柄本明で、高田渡に声が似ているというのは言われてみると確かにそうだ。 以前何度か放送した企画の新装版なのだそうだ。 こんな番組があったとはしらなかったなあ。 PCでも、公式サイトでも聞き逃し配信を聞くことができる。
2022.11.15
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旅行の時に、車の中でフォークソングのアンソロジーのCDを聞いていた。 その中に、山本コータローとウィークエンドの「岬めぐり」が入っていた。 この曲に出てくる「あなた」はどうなっているのか、という点で、見解が分かれる。 「今ではそれもかなわないこと」という歌詞の解釈で分かれるのだ。 「あなた」が死んでしまったから「二人で行く」ことができなくなってしまったのだ、という人もいるが、私は、そこまで重い状況ではなく、分かれてしまったので二人で行くことができなくなっただけではないかと思う。 息子が疑問を感じたのはそこではない。 「『岬めぐり』というが、そんなにたくさん岬があるところがあるのか」というのだ。 それを聞いてあっと驚いた。 確かにそうだ。「温泉めぐり」と言えば、いくつもの温泉に行くことだ。「観光地めぐり」と言えば、いくつもの観光地に行くことだ。 なんとなく今まで、48年間、その点に疑問を抱いたことは一度もなかった。 岬がいくつもあるような観光地はないだろう。なんとなく、東京から日帰りで行ける岬、例えば三浦半島あたりを一周するバスに乗っているところを思い浮かべていた。(あとでWikipediaを見たら、三浦半島では三浦半島の歌として受け入れられているらしい) 一周するだけで「めぐる」と言うだろうか。 気になって、帰宅してから辞書を引いたら、「めぐる」には「池をめぐる」のように、「周囲をまわる」という意味もあった。そうか、「岬めぐり」は岬の縁に沿ってまわるという意味にもなるのだ。 「血のめぐり」というのも、血があちこち行くのではなく、一周するという意味だ。 自分の不明を恥じなければならないところだったが、「岬めぐり」で一つの岬を一周するという意味にもなるのだった。
2022.08.25
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吉田拓郎が引退宣言をしたことを受けてのスペシャル番組。 あの吉田拓郎がジャニーズの二人と番組を持つというので、びっくり仰天して初回から見た。 驚いたのは、「LOVELOVEオールスターズ」というバックバンドで、名前しか知らなかったミュージシャンが出ていて、この人はこういう顔だったのか、しみじみ思ったものだ。 一時期はあまりテレビでは姿を見なかった篠原ともえもげんきそうでよかった。
2022.07.22
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NHKBSプレミアムの「歌える! 青春のベストヒット!」という番組を録画しておいたのを見たら、フォークソング関係のいろいろな人が出ていたが、GAROの大野真澄も出ていた。 フォークソングの話になって、大野真澄は、はっきり、「GAROはフォークソングではなかった」と言っていた。自分で演奏して歌う若い人はフォークソングに分類されてしまう時代だったのだ。ユーミンだってフォークに分類されていたのだから、今では信じられないような話だ。 彼は芸歴が長く交友範囲も広く、岡林信康のバックにはっぴぃえんどが付いたときの話などもしていて、なかなか興味深かった。 一緒に出た太田裕美が、GAROの解散後にデビューしたというのは意外だった。なんとなく同時代かと思っていた。 中村雅俊も出て、吉田拓郎を四畳半と結びつけて語っていた。何度も書いていることだが、「四畳半フォーク」というのは吉田拓郎の歌のことなのだ。中村雅俊もそのことは覚えているのだろう。 ゲストが何組か入れ替わり立ち替わり現れるスタイルで、南こうせつも出ていた。村下孝蔵の話をしていたが、新たなゲストが現れて、その話が途中でおわってしまったのは残念だった。
2022.06.22
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NHKで放送された。あのフォーライフレコードの結成から当初の目的とは異なる形になるまでを取り上げている。 当時の私には理解できていなかったが、レコード会社と歌手の間の権利闘争でもあったということがよくわかった。 知らないことが多かった。 小室等と吉田拓郎が中心になり、それに井上陽水が加わり、その三人が泉谷しげるを誘ったということだった。泉谷しげるとしては、なんだかよくわからないうちに巻き込まれたということだったようだ。 意外だったのは、四人が参加して作った「クリスマス」というアルバムが売れなかった、ということ。 結構話題になったので、かなり売れたのだろうと思っていた。 結局、「経営」という問題に突き当たり、泉谷しげるが最初に退社するのだが、本人のインタビューで、最も強く引き留めたのは吉田拓郎だったというのは意外だった。 吉田拓郎が経営再建に尽力していたことも知らなかった。 ただ、フォーライフレコードが歌手とレコード会社の関係に影響を与え、歌手の権利が重んじられるようになった点で功績があったのだろう。
2022.03.02
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訃報が続く。昨日は作詞家の喜多條忠さんの訃報。 その名を世に知らしめたのは「神田川」だが、その前に「マキシーのために」があった。 その頃は学生運動がらみの歌だとは知らなかった。 「神田川」は今でも多くの人が歌えるだろう。アルバム収録の時から名曲として知られ、後にシングル化された。 南こうせつによればこの歌が売れすぎたことが「かぐや姫」解散の一因だったそうだ。 この頃はヒット曲が出るとそれを元に映画を作るのがよくあった。 「神田川」は草刈正雄主演で映画化された。そこまではいいのだが、次に出す曲が決まっていないのに、3曲目まで映画化が決まったと事務所から言われ、複雑な気持ちになったという。その決定の通り、「赤ちょうちん」「妹」と映画化された。 当時から、南こうせつは映画の音がよくないことについて不満を言っていた。 「神田川」について、世に誤解されていることがある。このことを書くのはもう何度目かわからないが、「神田川」は「四畳半フォーク」ではい。歌詞にも「三畳一間」とある。 「四畳半フォーク」は、ユーミンが吉田拓郎の歌を評して言った言葉が元になって生まれた言葉で、本来は吉田拓郎の歌のことなのだ。 喜多條忠さんはその後作詞家としては成功しと思う。しかし、「神田川」ばかりが取り上げられることについてはどう思っていたのだろう。 思い出の人がまた世を去ってしまった。
2021.12.02
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NSPのメンバーだった中村貴之さんの訃報が新聞に載っていた。まだ68歳。肺がんだったそうだ。 都会的ではない、どこか第一次産業的な雰囲気脳するグループだった。 最後にその姿を見たのは「新堂本兄弟」だ。ゲストの高橋ジョージの原点がNSPだったと知って驚いた。 天野さんはすでに亡くなっていて、中村さんと平賀さんと一緒に3人で「さようなら」を演奏し、最後に高橋ジョージが感動して泣いていた。 公式サイト 思い出をありがとう。
2021.12.01
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18日のNHKBS「アナザーストーリーズ」で「時代に翻弄された歌 イムジン河」が放送された。 フォーク・クルセダーズにこの歌があるということは知っており、楽譜も見たことはあったのだが、彼らの歌を聴くことができたのは、歌の存在を知ってから20年以上経ってからだったろうか。 北山修の著書に、「民謡だろうと思っていたら作者がいることがわかって発売中止になった」ということが書いてあったのは覚えている。 北側から歌った内容なので韓国側から抗議があったのかと思ったていたのだが、総連の方から抗議があったということを初めて知った。 抗議した当事者も登場する。歌うこと自体に抗議したわけではない。レコード会社がきちんと著作権関係を確認しておけば問題にならなかったのではないだろうか。 それぞれに思い入れがあって数奇な運命をたどることになってしまったのだ。 映画「パッチギ!」にこの歌が登場する。 「公安も注意している歌だ」というような台詞もあったはず。 フォーク・クルセダーズ版は発売中止になったが、ザ・フォーシュリークというグループの「リムジン江」は高校時代に持っていた人がいて借りて聞いたことがある。これは総連公認のものであったらしい。細部は忘れてしまったが、歌詞が違うし、メロディもいくらか違っていた。
2020.02.20
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森田童子さんが亡くなっていたそうだ。 ああ、久しぶりにその名を聞いた。「さよならぼくのともだち」が好きだったが、最も世に知られているのは「ぼくたちの失敗」だろう。 ドラマの主題歌にこの曲を選んだ人は、森田童子が好きだったのだろう。同好の士を得た思いだったが、選曲には違和感があった。 この歌に限らず、森田童子の歌には男と男の歌しかないと思うのだ。 「ぼくたちの失敗」で自分のことを「ぼく」と言っているのだから男なのだろう。ではあいての「君」はということ、女とは思えない。 「あのこはまだ元気かい」という歌詞がある。「君」にむかって「あのこ」と言っていることからすると、「君」は男で「あのこ」は女ということになる。「ぼく」も「君」も男なのだ。 しかも「あのこはまだ元気かい」だ。「今も元気かい」ではない。「まだ元気かい」と言われると、「今はもう元気じゃない方がいいのに」という気持ちが感じられる。 だからといって同性愛(今風に言うと「ボーイズ・ラブ」?)の歌というわけではない。屈折した友情の歌なのだと思う。 訃報に接してということなので、「ご冥福をお祈りします」と書くべきなのかもしれないが、そういう言葉を望む人だったろうか。
2018.06.12
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「毎日新聞」1月29日の「悼む」という欄にきたやまおさむによるはしだのりひこさん追悼の文が載っていた。 二人の関係については色々想像することがあるのだが、やはりそうだったのだろうなと思うところがあった。去年の春、何度目かの仲直りをしお互いアーティストだから、良い時もあったし裂もあったね。 特別な何かがあったのではなく、ケンカしたり仲直りしたりということだったのだろう。
2018.01.30
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我が家で初めてステレオを買った時。 私と弟は、親に頼んではしだのりひことクライマックスの「花嫁」と、ジローズの「戦争を知らない子供たち」を買って貰った。 「ステレオ」というと、CDラジカセのようなものを思い浮かべるかもしれないが、当時はレコードの時代で、非常に大きく、ほとんど家具だった。 その後、フォークルやシューベルツの曲もラジオで随分聴いた。 独特のセンスの持ち主で、声もよく、歌がうまい。 人間関係については、いろいろと想像するところはあるが、人が百人いれば百通りの真実があるはず。 一つだけ声を大にして言いたいことがある。 結婚披露宴で「花嫁」が歌われるという。これはこれで名曲なのだが、私は二曲目の「ふたりだけの旅」のほうが結婚披露宴にはふさわしいよ。 これも名曲だと思うのだが、あまり知られていないのが残念。 どうぞ安らかに。
2017.12.02
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70歳で亡くなったという。 最近、フォーク関係者の訃報が続くような気がする。 代表曲はもちろん「カレーライス」だろう。 当時はわからなかったが、成長してから「おなかを切っちゃった」というのは三島由紀夫の事だったのだろう。 「ねずみよこれが太平洋だ」という歌もあった。シングルではなかったようだ。 「ねずみ」というのは飼っていた猫の名。「カレーライス」にも登場する。 ソプラノで歌ったこともあったなあ。 いろいろなことに挑戦する人だった。 「ご冥福をお祈り申し上げます」なんて決まり文句は言われたくない人だったような気がする。
2017.10.26
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5日亡くなったというニュースを見て、まだ69歳だったことに驚いた。 「教訓1」は何度かカラオケで歌ったけれど、みんな知らないんだよね。 ほかにも、夜行列車の中の話とか、自分が生まれた時に父親が酒屋をたたき起こしたとかいう歌があったと思うのだが、検索してもでてこない。 他の人の歌だったのかなあ。 不思議な人だった。 こういう人は「ご冥福を」なんて言われたくないだろうと思う。 あの世があるのかどうか私は知らない。 堂々と「逃げなさい隠れなさい」と言おう。
2017.04.12
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かまやつひろしさんが亡くなった。 もと「ザ・スパイダース」。音楽面では彼が支柱になっていたはず。 その後フォーク界の人にもなり、よしだたくろうと「シンシア」を歌ったりしていた。 高校生の時に「我が良き友よ」というエッセイを出したので、買って読んだ。交遊録がメイン。井上陽水がテレビ好きとはこの本で知った。 驚いたのが「かまやつ」が本名であったこと。「釜萢」では誰も読めないよね。お父さんはアメリカ暮らしが長く、日本語が不自由だったけれど、料理で唯一漢字が読めたのは「釜飯」だったそうだ。 赤木圭一郎がゴーカートで事故を起こしたとき、一緒に居たそうだ。 ジャンケンか何かで乗る順番を決めたけれど、自分が先に乗っていたら、自分が死んでいたかもしれないということだった。 その時、高校生の私は赤木圭一郎が何者か知らなかった。大学生になって日活アクションを見るようになり、かまやつさんの業界歴の長さに驚いた。 誰にもまねできない不思議な雰囲気を持っていた人だった。 残念。
2017.03.01
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BSフジで1月3日に放送された。 昭和40年代を振り返るという内容で、ゲストは水前寺清子、植田芳暁、つのだ☆ひろ、なぎら健壱。岩崎宏美と多方面から。 植田芳暁は「ザ・ワイルドワンズ」の人。 意外だったのは、グループサウンズもフォークもロックも同じ世界だったと言うことで、つのだ☆ひろはどの世界でも知られていたということ。音楽遍歴を聞いて、へえ、そうだったのか、と何度も驚いた。 なぎら健壱の話はすでに知っていることが多かった。 所々で40年代の音楽状況を説明するナレーションがはいるのだが、リアルタイムで見ていた人が原稿を書いたわけではないらしい。よしだたくろうはテレビ出演に否定的だったが、ガロはそんなことはなかった。紅白歌合戦にだって出ている。 こういうところが残念なんだよね。
2017.01.07
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つい最近になってこの記事を見つけた。 「NHKの正しい日本語「放送用語」さえ変えてしまう「流行歌」のスゴイ力」 以前から気になったことが明確に語られている。伊勢「ものすごくうれしかった! 実はこの曲を発表した当時、なごり雪、という言葉についてちょっとした問題提起がなされました。粉雪、細雪はあっても、なごり雪、などという雪も言葉も存在しない。勝手にこんな言葉を作られては日本語の乱れを助長する。「名残の雪」に変えたらどうだとまで言われたんです。作り手としては<の>はどうしても入れたくなかった。曲はヒットしましたがモヤモヤは残りました。あれから40年近くたって気象協会の<季節の言葉>に選ばれたと聞き、胸のつかえが下りた気分です……」 ああ、やっぱり造語だったのだ。40年の疑問が解消した。 もう一つ、これも伊勢正三の造語では亡いかという言葉があるのだが、どうしても思い出せない。 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2016.03.29
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太田裕美がデビュー40周年! え、40年? まさか、と思ったが考えてみると40年だ。 大野真澄、伊勢正三とのユニットで活動しているとは知らなかった。新鮮な顔合わせだ。 「赤いハイヒール」や「ドール」など、ああそうだ、こういう歌もあった、と懐かしかった。 年齢を考えればおばさんのはずなのだが、たたずまいがかわいらしい。 太田裕美の歌を聴いていて思い出したことがある。 高校生だった時。 暗くなってから電車に乗っていた。 ボックス席の通路側。 斜め前の窓際の籍には、おそらく20代前半くらいの女性が座っていた。 その人はトマトを食べていた。 そして小声で歌を歌っていた。 それが太田裕美の歌だった。「赤いハイヒール」だったような気がする。 あの人は、どんなことを考えていたのだろう。 公式サイト 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2014.03.31
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どうしてなのかわからない。 最近、かぐや姫の「けれど生きている」が頭から離れない。 これは不思議な歌で、なんとなく雰囲気はわかるのだが、具体的にどういう状況なのかよくわからない。 安アパートに一人で暮らしている男の心情なのだろうということはわかる。 歌詞の部分部分はよくわかるのに全体像がわからない不思議な歌だ。 しかし、それだけに心に引っかかっている。 何か、山田パンダの気持ちとしてはこういうことだったということなのだろうか。 彼が「見届けてみたい」と思ったものは何だったのだろう。 あれからずいぶん時が流れたが、見届けることはできたのだろうか。 いや、そんなことができるはずはない。今でも「人生」の渦中にいるはずだ。 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2012.10.25
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去年買った中古車には、ハードディスク・ナビがついている。 そしてそれにはCDからたくさんの曲を取り込むことができる。 以前の持ち主がどういう人だったのかわからないが、多種多様な曲がすでに入っていて、それはそれで楽しめる。 先日、ホームセンターで「トワ・エ・モア」のベストCDを見かけ、衝動買いしてしまった。 何となく「フォークソング」に分類されているが、おそらく当人たちにはそんな意識はなかったろう。 歌いたかっただけだと思う。もちろん、フォークに分類されたくないとも思っていなかったろう。 二人が結婚したりせず、それぞれの道に進み、今では仕事だけで一緒に行動しているというのもしゃれている。 こんなに過去にばかり生きていていいのだろうか。 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2012.09.21
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缶コーヒーのCMで懐かしい歌が流れている。 上條恒彦の「誰かが風の中で」。 かつて「木枯らし紋次郎」の主題歌だった。 漂泊の気持ちに見事に合っている。 それでいて、CMそのものはコミカルだ。 このCMを作っている人って、わたしと同世代なんだろうな。
2011.09.27
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被災地の映像を見るたびに思う。 どうして自分は生きているのだろう。 どうして以前と変わらない生活ができているのだろう。 津波にのみ込まれてしまった人たちがいる。 それなのに自分は生きている。 「けれど生きている」という歌がある。 こういう歌は平穏な時代だったから生まれたのだ。 わたしの生活は平穏だ。 同じ国に住んでいるのに。 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2011.04.17
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2月に放送したものの再放送だそうだ。 知らなかった。 いきなり、泉谷しげるの「眠れない夜」で始まって驚いたが、イルカと二人で司会をするのにも驚いた。 大丈夫か、と思ったら、ちゃんと自分らしさを出しながらイルカを引き立ててこなしていた。 一番売れた曲ではなく、思い出に残っている曲を選んでいるのがいい。 加奈崎芳太郎、佐藤公彦など懐かしい。 佐渡山豊って、あんなに体の大きい人だったのだ。 途中で、昨年亡くなった加藤和彦さんの思い出話。 レコーディング機材をいろいろ研究していた、というのは初めて聞いた。 みんな、いろいろ教えてもらいに行っている。 フォーク歌手も、実は、音についてはいろいろ研究しているのだ。 「一人の道」を歌った茶木みやこは初めて見たと思ったが、勘違い。 「天使が恋を覚えたら」はこの人がいた「ピクルス」だったのだ。 「シモンズ」だと思い込んでいた。 最後は全員で合唱するんだろうな、と思っていたら、「春夏秋冬」だったからびっくり。 その後に、泉谷しげるのソロのおまけ付き。 「ニューミュージック」と呼ばれるようになって、と自分たちで言っていたが、名前は何でもいいのだ。 彼らには彼らの世界があり、それが好きだったのだ。 いい番組を見た。公式サイト 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2010.05.03
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NHKの「知るを楽しむ」という番組で、高田渡を取り上げている。 なぎら健壱が案内人と言うことだが、出ずっぱりというわけではない。 「日本フォーク私的大全」で書いているように、高田渡を師と仰いでおり、語りたいことは山ほどあるはずだが、番組では、高田渡の人生を、多くの人のインタビューで明らかにしようとしている。 わたしは、高田渡の歌はリアルタイムでは聴いていない。 中学生の時に「フォーライフ・レコード」ができ、商業的には絶頂期を迎えていたのだが、そのとき、すでに高田渡は名前を雑誌で見るだけで、「自衛隊に入ろう」「自転車に乗って」などの曲名は知っていたが、どんな曲なのか、実際に聴いたことはなかった。 聞いたのは、大人になって、懐かしいフォークソングを特集する番組が放送されるようになってからだ。 今回、改めて聞くと、曲はアメリカのもので、それに日本語をうまく乗せているのだ。 音楽的な面では相当研究していたらしく、バンジョーの弾き方まで学ぼうとしていた。 わたしには、かなり年配の人のように思えていたのだが、2005年に亡くなったときに、まだ54歳だった。 番組公式サイト 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2010.02.16
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昨日の続き。 「誰かが風の中で」も入っていた。 これはフォークソングと言っていいのかどうかわからないが、上条恒彦の歌だからいいんだろう。 「木枯らし紋次郎」の主題歌で、ドラマの雰囲気にもぴったり合っていた。 数年前にチバテレビで放送して全話見たが、西部劇を意識した作りになっていて、曲もウェスタン調だ。 この曲を聴くと、さすらいの旅に出てみたくなるが、どこにもふるさとはないと悟りきることはできそうにない。 この曲ができた経緯が、だいぶ前の読売新聞の日曜版で取り上げられていたのだが、上条恒彦が歌ったのを聞いた市川崑監督が、「もっと下手に歌ってくれ」と言ったそうだ。 最近、上条恒彦は、「秘密のケンミンショー」に時々出ている。 昔よりやせたけれど、元気そうで何よりだ。 俳優としても、「男はつらいよ 寅次郎子守唄」に出ているし、「男はつらいよ」では、冒頭の夢の中に出てきたり、タイトルバックで河原でケンカする男の役で出ていたりした。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.12.19
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古いパソコンの中のファイルを整理していたら、昔取り込んだ曲がたくさん見つかった。 中でも「おっ、こんな曲を」と思ったのが、BUZZの「愛と風のように」だ。 車のCMソングだった。 聞き直すと、結構凝っている曲だ。 副題が「ケンとメリー」で、CMではその二人が車で旅に出るという設定だったように記憶している。 BUZZの二人は何年か前にフォークソングの特集番組で見た。今は音楽の仕事はしていないそうだ。 オフ・コースがデビューしてよく間違えられたと言っていたが、言われてみれば似ている。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.12.18
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ニュースでも見ようかと思ってネットにアクセスしたら。「[加藤和彦さん死去]軽井沢のホテルで首つる 部屋に遺書」「加藤和彦が62歳で逝去、部屋に遺書」「加藤和彦さん死亡 自殺か 軽井沢のホテル」 安井かずみさんが無くなった時に、だいぶ気落ちしていたらしいとは聞いていたが、それからずいぶん時間がたっている。 数年前にフォークルの再結成もあったのに。 言葉が出ない。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.10.17
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忌野清志郎さんが亡くなった。 まだ58歳だったのか。 訃報では「ロック歌手」となっていることが多いが、わたしは、初めて聴いた曲が「僕の好きな先生」だったこともあり、フォーク歌手というイメージが強い。最も、本人はフォークでもロックでもなく、単に「忌野清志郎」だったのだろう。 彼の曲で最も強い印象を残したのは、井上陽水との合作「帰れない二人」だ。陽水のアルバム「氷の世界」に入っている。 素人には歌えない難しい歌で、詩の叙情性も高い。 内容は、吉田拓郎が歌えば「マーク・ツー」になり、SMAPが歌えば「夜空ノムコウ」になるようなもの。 しかし、詩も曲も独特の雰囲気があって、昔から好きな曲だった。 一時期、MIDIに凝っていた時に、打ち込んで聞いていたりもした。 そんなことも思い出した。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.05.04
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産経新聞で、長谷川きよしが紹介されていた。 「【人】盲目の歌手デビュー40周年 長谷川きよしさん」という記事。 懐かしい。 「別れのサンバ」「黒の舟唄」「灰色の瞳」など、どこか日本ではないよその国が舞台になっているような曲が多い。 記事によると、 かつて「盲目のアーティスト」と呼ばれるのが苦だった。2歳で光を失って以来見えない状態が自然体。他人の同情を受ける覚えはない。レッテルを取り払おうと何度も衝突、33歳で音楽界を一時引退した。 函館の温泉街に身を潜め、有資格のマッサージ師で半年間食いつなぐ。 という時期があったそうだ。 NHK-BSで放送された「フォークの達人」も見たのだが、そのことは知らなかった。 自分にとっては当たり前のことで同情されるというのは、不本意なことだったのだろう。 福島県に住んでいた頃、ローカル・ニュースでこういうのを見た。 コンサートで福島県を訪れた長谷川きよしが、盲学校を訪問し、そこの生徒にギターを教えたという内容だった。 この記事を読んだ今では、なにも盲学校である必要はないわけだ。 ありふれた小学校でもよかったはずなのだが、盲人だから盲学校へ、という周囲の思い込みもまた、苦痛だったのではないだろうか。 公式サイトがあることを知って、見に行った。 そうか、「灰色の瞳」はフォルクローレだったのか。 いわれてみればそういう曲調だ。 先に書いた三曲以外に、何か記憶に残っている曲があったはずだ。 そう思って検索したら、それは「卒業」だった。 ここでその一部を視聴できる。 ただ別れを歌うだけでなく、「いやだなあ」という言葉を使っているのが新鮮だったのを思い出した。楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板へ
2008.10.13
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日本テレビ、10月9日放送。 今更新鮮な話はないだろうと思っていたのだが、そうではなかった。 「神田川」の存在が大きすぎて解散に至った、ということは何度か聞いているが、少し詳しい話が聞けた。 「神田川」が東宝で映画化された後、「あかちょうちん」「妹」と続けて映画化されているが、かぐや姫の了承があってのことだと思っていたのだが、そうではなかった。 東宝で映画化されたあと、まだ、次の曲ができていないにもかかわらず、「次の2曲はにっかつで映画化されることが決まった」と一方的に告げられたそうだ。 まだ存在していない曲が、自分たちの知らないところでビジネスの材料となっていることに納得できなかったようだ。 調べてみたら、「かぐや姫」として出したシングルは少ない。 わずか8枚だ。 「雪」も「あの人の手紙」もアルバムだけの曲と走っていたが、「僕の胸でおやすみ」「けれど生きている」もシングルにはなっていなかった。 なお、この8枚というのは、第2期かぐや姫のこと。 第1期かぐや姫のことも、わたしは覚えている。 「全日本歌謡選抜」という、五木ひろしや湯原昌幸の再デビューのきっかけになった番組に出ていた。 かぐや姫は途中で出なくなったが、南こうせつは、その理由を、著書で、「番組の裏側が分かったため」というように説明していた。 「よいどれかぐや姫」はこのときのものであり、「あわれジャクソン」も今でもおぼろげながら覚えている。 さて、今までにも書いたし、これからも書くことになるだろう、「四畳半フォーク」という語について。 南こうせつ自身は「神田川」を「四畳半フォーク」とは言っていない。 当然だ。 この言葉は、ユーミンがよしだたくろうの歌を評して「僕は四畳半に住んでこんな生活をしています」と歌っているようなものだ、と言ったのを、評論家の富澤一誠が聞いて、「四畳半フォーク」と言い出したのである。 フリー・ランサーというグループが、「わたしたちの夢」という歌で、「マンションに住み 四畳半フォークを歌うことです」と歌って、拓郎が怒ったという話を読んだ記憶がある。明らかに拓郎を揶揄している。ほかにはガロも俎上も餌食にされていた。 「神田川」は「四畳半フォーク」ではない。歌詞も「三畳一間の小さな下宿」だ。 なお、この歌のもとになったのは、南こうせつの体験ではなく、詞を書いた喜多条忠の体験である。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2007.09.10
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2007年3月2日放送。 かつてフォーク少年だったわたしが、一番好きだったのが泉谷しげる。 地方に住んでいてお金もなかったけど、一度だけ、コンサート(当時は「ライブ」なんて言わなかった)を見に行ったことがある。 肝心の泉谷しげるが電車に乗り遅れて、開演が遅れるというアクシデントがあったっけ。 あいかわらずの泉谷節。 柄の悪さを装い、悪態をつく。 始まりはロックだったこと、火事で仲間の楽器を焼いてしまったことなどは知らなかった。 「卒業していない」というのは象徴的な言葉で、いつまでも一つのスタイルを貫き通すということだ。 もちろん、常にそれが正しいとは限らない。 小室等なんか、最初から「卒業」して肩の力が抜けていたような気がする。 陽水にいたっては、最初から入学もしていないのではないか。 泉谷しげる公式サイト インタビュー楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へどうぞ。
2007.03.07
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日曜日のフジテレビ「新堂本兄弟」。新聞のテレビ欄に「涙のNSP」と書いてあったので、どういうことかと思っていたら、あのNSPのことなのだった。 高橋ジョージは宮城県出身で、音楽の原点はNSPなのだという。 NSPは岩手出身だし、高橋ジョージともそんなに年は離れていないはず。 なんと最後には、メンバーだった中村貴之と平賀和人が登場し、高橋ジョージがボーカルで「さようなら」を歌った。 本当に好きだったのだろう。 亡くなった天野滋さんに似せて歌っていた。 歌い終わった後、涙を見せ、NSPの二人と握手。 高橋ジョージには全く何の思い入れもないのだが、よかったね、その気持ちはわかるぞ、と言ってやりたくなった。楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へどうぞ。
2007.01.30
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22日に生放送されたのだが、その時は見ず、今日になって見た。 どれもこれも懐かしい。 フォー・セインツの35年ぶり再結成ということでスタジオ出演。 「小さな日記」って、昔から感じていたことだが、どうしてこう暗いんだ。みんな低音だからなおさら陰々滅々。 「希望」は名曲。岸洋子版と、男だけの版があるのは覚えていたが、もともとはフォー・セインツの曲だったのを初めて知った。 名曲と言うだけではヒットはしないのだ。歌手との組み合わせが重要。 「まちぶせ」が石川ひとみでメジャーになったのを思い出す。 丸山圭子の「どうぞこのまま」が聞けるとは思っていなかった。 「筋肉少女帯」や「聖鬼II」などは、新しすぎてかえって知らない。 最もリクエストの多かったのが、フォークでは何とNSPの「夕暮れ時はさびしそう」だった。 天野滋さんが亡くなって、もう1年以上がたつ。 NSPの歌は、よくあるフォーク番組で聞くことができないから、かえってリクエストが多かったのかもしれない。 こういう、第1次産業的な歌は少ないよね。 わたしが中学生・高校生だった時に聞いていた歌が多い。懐かしい。あの頃はわたしも若かった。 一番印象に残ったのは、ゲストの大槻ケンヂの、最近、若い頃の自分の映像を見直しての感想。「若いってかっこわるい」 まさにその通りなのだ。 今、自分が若くて輝いていると思っているキミたち。若いってかっこわるいんだよ。楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へどうぞ。
2006.12.27
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2006年10月29日。NHK BS。 放送からだいぶたったが、やっと全部見終えた。 私はつま恋世代より下なので、昔のことはリアルタイムでは知らない。 そういうものがあった、としか知らない。 しかし、歌はリアルタイムで聴いていた。 フォークが大好きだったし、今でも好きだ。 拓郎の歌も、かぐや姫の歌も、ほとんど知っている歌だった。 「ああ、こんな歌もあった」と懐かしい気持ちになった。 特に、かぐや姫の「けれど生きている」や「雪が降る日に」などが印象深かった。 普段は忘れているだけに、記憶がよみがえってきたときの気持ちは深い。 かぐや姫は、違うメンバーで全日本歌謡選手権に出ていたのも覚えている。 今回、歌を聴いて改めて思ったのは、「フォーク」って何だろう、ということだ。 なぎらけんいちも、「日本フォーク私的大全」で、定義しようとして定義し切れていない。 要するに、自分でフォークといえばフォークなのだ。 拓郎もかぐや姫も、自分でフォークといっていたからフォークなのだ。楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へどうぞ。
2006.11.24
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テレビ東京の「みゅーじん」という番組で、尾崎亜美を取り上げていた。 今でも元気に活動している。 南こうせつらとのコンサートについて、番組は「フォークの中にポップスの尾崎亜美がいる」というとらえ方をしていた。 デビュー当時はそんなことはなかった。 自分で曲を作る人は、「フォーク」に分類されていた。 尾崎亜美がデビューした頃は、そんな枠組みが崩れ始めていた時期ではあったが。 NHK-BSで放送されていたフォークソングの番組にも出演して、高田渡と共演したりしていた。 彼女の歌で最もヒットしたのは、CMで使われた「マイ・ピュア・レディ」だろうか。 私が一番好きなのは、デビュー曲の「冥想」だ。 それまでに聞いたことのない雰囲気の曲だった。楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へどうぞ。
2006.11.20
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だいぶ前のことだが、「朝まで歌つるべ」という番組で、岡林信康の「チューリップのアップリケ」の話になった。 この歌を初めて聴いてから30年以上たっていると思うのだが、そのときに初めて、「あっ、『手紙』と同じか」と思い至った。 実際、歌の話の終わりの方で、鶴瓶が「この歌は深い意味がある、テレビでは言わないけれど」という内容のことを言っていた。 おそらく、関西の人なら、父親の職業から容易に連想できることなのだろう。 私が育った地域には、特定の地域を差別するということがなく、中学生の時にカムイ伝を読むまで何も知らなかった。今でも、現実に目の当たりにしたことがないので実感はない。 しかし、今でも差別に直面している人たちがいるのだろう。 あえて歌のテーマに取り上げて正面から歌うというのは、勇気のいることだったのではないだろうか。 改めて名曲だと思った。 「チューリップのアップリケ」「手紙」ともに「狂い咲き」所収。 楽天ブログランキング←クリックしてください
2006.07.11
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我が家では今、毎日新聞を取っている。 今日は、おまけの「BackSTAGE」という、タブロイド判の別刷りがついていた。 その中に、「佐伯明のwas not was~今になって思えば~」というのがあり、テーマが「四畳半フォーク」。 もとフォーク少年の私としては、読まずにいられない。 しかし、わかってない、と、がっかりさせられた。 こんなことが書いてある。例えば73年の9月にリリースされたかぐや姫の「神田川」は、歌詞中に四畳半よりも狭い“三畳一間の小さな下宿”が登場するから、四畳半フォークの代表曲ととらえても差し支えあるまい。 おいおいおい。違うだろう。 「四畳半フォーク」というのは、ユーミンが、吉田拓郎の歌を評して「僕は四畳半のアパートに住んでこんな生活をしています」と歌っているようだ、と言ったのを、評論家の富沢一誠がいただいて「四畳半フォーク」と表現したのだよ。「神田川」は「四畳半フォーク」じゃないの。 筆者は1960年生まれだそうだ。リアルタイムで「四畳半フォーク」という言葉を聞いていてもおかしくないのだが。 なお、「神田川」についての文章は悪くない。 「一緒に出よう」と言っておきながら女を待たせる男のどこが優しいのか、という指摘は新鮮だった。 それだけに惜しい。楽天ブログランキング←クリックしてください
2006.04.30
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テレビ東京の「名曲の時間」がフォークソング特集だった。 懐かしく見た。 長谷川きよしが元気そうだったのがうれしかった。 フォーク・クルセダーズのところで、はしだのりひこが「帰ってきたヨッパライ」の時からのメンバーのように説明していたが、違うはず。 それはさておき、タイトルの「そっくりさん」は何かというと。 山本コータローと寺田農。 杉田二郎と坂上二郎(名前まで同じだ)。楽天ブログランキング←クリックしてください
2006.02.20
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昨日、「カウントダウンTVスペシャル」という番組で、70年代からのヒット曲をさわりだけ放送していた。 その中にバンバン『「いちご白書」をもう一度』もあった。 この歌がはやっていたときから、一カ所、気になるところがあった。 「就職が決まって髪を切って来たときに」というところだ。 その前に、無精ひげと髪を伸ばしていたと歌っているから、長髪だったのだろう。 髪を切ったことが、いままでとは違う立場になることを象徴しているというのはわかる。 しかし、就職先が決まってから髪を切るだろうか? 髪を切って身なりを整えてから就職活動をするものだろう。 長い間謎だったのだが、10年ほど前に謎が解けた。 「授業を抜け出して」映画を見に行った、「学生集会にも時々出かけた」というのは、学生運動全盛期の大学生なら、特段言うまでもないことだろう。(私はその時代のことはよく知らないが) それをことさら歌っていて、就職が決まって髪を切るというのはどういうことか。 この歌の中で、「ぼく」と「君」は大学生ではなく、高校生だったのだ。 だから、授業を抜け出すことにスリルがあり、背伸びして学生集会にも出かけたのだ。 「就職が決まって」というのは、就職先が決まった、という意味ではない。 おそらく、二人とも、私立大学の付属校高校にでも通っていて、そのまま同じ大学に進学するつもりでいたのだが、「ぼく」の方は、家庭の事情で進学できなくなり、高校を卒業したら就職しなくてはならなくなったのだ。 「就職が決まって」は「大学進学ではなく、就職することが決まって」ということであり、就職活動をするために髪を切ったのだ。 その時点で、「ぼく」は「君」との別れを当然のことと思ったはずだし、「君」もまた、違う世界で生きていくことになる「ぼく」との別れを予感したことだろう。 そういう思い出を歌った歌なのだ。楽天ブログランキング←クリックしてください
2006.02.12
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24日の「いつ見ても波瀾万丈」にイルカが出演していた。 家庭、子供の頃のエピソード、イルカというニックネームの由来など興味深い内容だった。 石や昆虫と話をしていたというのを見て、「いつか冷たい雨が」が頭の中に流れた。 タイトルにあるように、イルカといえば「なごり雪」。 いつまでたっても、「なごり雪」ばかり要求されるのは、歌い手としては不満もあるだろうが、聞き手というのはわがままなものなのだ。 「君は悲しみの」とか「サラダの国から来た娘」とか、ほかにも佳作はあるんだけどね。 イルカが「なごり雪」を歌うことになったのは、かぐや姫の解散がきっかけ。 この歌は、もともとかぐや姫のアルバムの一曲だった。「22才の別れ」とともに、アルバム発売時から評判だった。(このことは私も覚えている) 伊勢正三が、風としてデビューするときに、シングル化の要望の強かった、この歌と「22才の別れ」のどちらかをデビューシングルにしようと考えた結果「22才の別れ」を選び、「なごり雪」はイルカに歌ってもらうことになったのだという。 この曲を聞くたびに思うことがある。 はたして「なごり雪」という言葉は、この歌以前からあったのだろうか? 私は、この歌以外で「なごり雪」という言葉を聞いたことはない。 気になって調べたら「なごりの雪」という言葉はあった。 伊勢正三の造語ではないかと思う。 ほかにも、伊勢正三の曲で「意味はわかるがそれまで聞いたことがない言葉」があったのだが、それが何だったか思い出せない。 伊勢正三の才能を感じさせる言葉だ。 きれいな言葉だが、広く使われている様子はない。 この歌限りの言葉で終わるようだ。アクセスアップに楽天ブログランキング
2005.07.25
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天野滋さんが亡くなった。 最近NSPを復活させ、テレビに出演したりもしていたのに。 NSPの曲で最も売れたのは「夕暮れ時はさびしそう」だろう。 この歌もそうだが、都会的ではない、泥臭いところが新鮮で好きだった。 デビュー曲「さようなら」を聞いたとき、「セミの子供」という言葉が入っていて、その発想に驚いたのを覚えている。 「あせ」も、いかにも若い感性で、生き方に目を向けているのがまた、理屈っぽい少年だった私の琴線に触れた。 シングルだけでなく、アルバムの曲にも佳作が多い。 懐かしい人の訃報は、いろいろなことを思い出させる。NSP公式サイトアクセスアップに楽天ブログランキング
2005.07.05
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高田渡さんが亡くなった。 まだ56歳。 中学生の頃から、フォークソングが大好きだった私だが、「高田渡」というのは幻の存在だった。 地方だったのでテレビの民放は2局しかなく、レコードを買いたいだけ買うお金などない。 ラジオと雑誌が情報源。 雑誌に楽譜が載っているのを見たり、中村とうようとの不思議な論争を読んだりしたが、歌を聴いたことがなかった。 ラジオでも流れない。 その歌を聴くことができたのは、かなり長い年月がたってからのことだった。 ここ10年ほどは、フォークソング関連の番組が多く、テレビで歌う姿を見ることもできるようになった。 不思議な人だった。 「足を知る」とでもいうのだろうか。「欲」の感じられない人だった。 なぎらけんいちは、「日本フォーク私的大全」で彼を「師匠」と呼んでいる。 早すぎる死だが、本人は満足できた人生だったのではないかという気がする。
2005.04.16
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「kamzine」という雑誌の「名曲の視線」というコーナーで「神田川」を取り上げていた。 南こうせつへのインタビューはよかった。 しかしその後の『「神田川」余聞』がよくない。 「南こうせつ=四畳半というイメージを固定してしまい」とある。 この文章を書いた人は「神田川」を「四畳半フォーク」だと思いこんでいるらしい。 四畳半フォークというのは、ユーミンがよしだたくろうの歌を評して、「僕は四畳半のアパートに住んでこんな暮らしをしています、と歌っているようなものだ」と言ったのを富澤一誠が聞いて「四畳半フォーク」と言い出したのだ。 よしだたくろうの歌が四畳半フォークなのであって、「神田川」は四畳半フォークではない。 コーナーの最初に「神田川」の歌詞がのっている。 それを見ればわかるだろう。「三畳一間」なのに、どうして四畳半フォークになるんだよ。 このコーナーの後に、「神田川」の売れた昭和48年のヒットチャート・トップ30が載っている。 「神田川」は6位だったのだ。1位はぴんからトリオの「女のみち」。 7位がチューリップの「心の旅」で、それについて、「吉田拓郎、ガロに続きニューミュージック界からスターがまた生まれた」と話題を呼んだ。と書いてある。 やれやれ。 当時は「ニューミュージック」じゃなくて「フォーク」に分類されていたの。 今から考えれば、拓郎もガロもチューリップも「フォーク」というのは無理があるように見えるのだが、自分で曲を作ったり演奏したりして歌うのは「フォーク」ということになっていたのだ。 「ニューミュージック」というのは、ユーミンのように、生活臭のない、「フォーク」とは言えないような歌が多くなってからできた名前。 もちろん、チューリップの歌は「フォーク」の枠には収まらないものであったのだが、分類は「フォーク」になっていた。 ついでに言えば、昭和48年(1873年)のことなのに「吉田拓郎」というのはおかしい。このときはまだ「よしだたくろう」だ。漢字になったのは1975年。
2005.03.13
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最近復活したNSPのベース担当が「あの人は今こうしている」で取り上げられている。 先日テレビで復活後の様子を見たばかり。 懐かしい。 頂点を極めるところまでは行かなかったが、そこそこ売れて人気もあった。 NSPの魅力は洗練されていないところだった。 第一次産業的な世界だった。 「さようなら」も良かったが、「あせ」には驚いた。世の中にはこんな歌もあるのかと思った。 地方生まれの私には、まだ舗装していない夏の道の情景が容易に想像できた。 最大のヒットは言うまでもなく「夕暮れ時はさびしそう」。 しかしそれ以後は「どうも違う」と思わせられた。特に「赤い糸の伝説」からはあまり私の心に響かなくなっていた。 もちろんNSPが悪いわけではない。 一つの状態にとどまり続けろ、という方が無理なのだ。 検索したら公式サイトもあった。(でも、NSPって復活して活動しているんだから「元NSP」っておかしくないかい)
2005.03.07
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日刊ゲンダイの「あの人は今こうしている」で高木麻早が取り上げられていた。懐かしい。 ポプコン出身でモデルもしているということだった。 代表曲は「ひとりぼっちの部屋」だが、「想い出が多すぎて」もヒット。 あのころは、「フォーク」に分類されていたが、今にして思えば無理がある。 そもそもポプコン出身者はフォークという意識はなかったのではないだろうか。 自分で曲を作って歌う、ということをフォーク歌手以外はほとんどしていなかったので、フォークと呼ばれただけのことだろう。 ユーミンも最初はフォークになっていたが、途中から「ニュー・ミュージック」になった。ジャンルわけしようとしても既成のジャンルにあてはまらないので、彼女のために作られたジャンルだったといってもいい。 今はもう無理にジャンルわけをすることはない。 自分で曲を作っていようがいまいが「Jポップ」だ。「演歌」というジャンルがあるにはあるが、さほど境目は感じられない。 もちろん、フォーク歌手、演歌歌手という存在がなくなったわけではない。 そういえば、「シンガーソングライター」という言葉もあったが、今では死語のようだ。 検索したら、高木麻早の公式サイトがあった。現在の写真もある。そうそう、こういう目の人だった。
2004.11.13
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その昔「コッキーポップ」という番組があった。 ラジオとテレビで。 司会は大石吾郎。YAMAHAのポピュラーソングコンテスト出身の歌手を取り上げる番組だった。 その番組で聞いた中で、「私の好きな組み合わせ」という歌(出だしもこの文句)が、「大人」の雰囲気で、新鮮だった。 「朝の時間の紅茶とタバコ」と続く。 都会の裏町に住む男と女のけだるい朝というようなものを勝手に想像していた。 この歌を歌っていた小坂恭子は、その後、「想い出まくら」でメジャーになった。この歌は知っている人も多いだろう。この歌にも「タバコ」が出てきたな。好きなんだろうか。私は大嫌いだが。 この人もまた「あの人は今こうしている」で取り上げられて思い出したのだ。懐かしい人の一人だ。
2004.10.06
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