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人を悪く言う事を書こうとしていたら、丁度、別の方がブログで書いていた。シンクロしているなあ~という感じ(このような事は不思議とよくある)。その時に思ったのは、ひとの悪口を言うとは、自分の中のネガティブな感情が湧きあがり、それが反映しているのだと感じた。人にきちっと意見を言えるのと、人の悪口を言うのは異なると思う。人の悪口とは、その人の人間性を否定している部分がある。人に意見を言うとは、その人の言動に対して意見を述べているのであって、その人を否定している訳ではない。ある人と話している時、「チョット言いづらいのですが・・・・・・・」と言い。その後で「あなたの事(私のこと)を悪く言っている人がいるのです」と。不思議とその言葉を聞いても「ふ~ん」としか、感情が湧いてこない。悪口を言われている事を弁解しようとか、反論しようという気が起こらない。感情が何故か波立たない。また、自分なりに、納得した上で行っているので、それを非難されても、それはあなたの勝手ですよ、という思いもある。万人に好かれるなんて事はありえない。大切なのは、自分で自分を認められ、愛せるような、言動をしているかだと感じた。
2009.06.30
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昨日、午前9時半頃、今日は午前11時半まで予約がないと、ノンビリと朝食を食べていました。すると、携帯電話が鳴り、「おそくなりましたが、クリニックに今着きました」と。「エエ!!どなたですか?」「予約を9時から入れた、○○ですけれど」、と。そう言えば、予約の問い合わせがあった方だ。兎に角、何をさて置き、クリニックに慌てて行き、10時から診療が出来た。3時間の診療時間の予定なので、11時半からの予約の方にも電話をして、遅い時間に急遽変更して頂いた。事の顛末は、診療以来を受けた。それに対して、双方の都合がいいと思われる時間をこちらから提案するメールを出した。それを受けた患者さんが、了解のメールを出した。ところが、そのメールを私が見ていない。それは、実際、送られていなかったのか、或いは、自分が見落としたのかは、分からない。でも、私は見ていない。メールをお出しした後で、返事がないので、電話を一度したが、つながらなかった。それ以上のメールでの確認や電話をしていない。患者さんによっては、返事が貰えない事が時々あるので、返事が来ない事に関しては、驚くことではないが、この様に双方の考えが食い違ってしまうと、慌ててしまう。このメールでのやり取りの、ミスを防ぐための何か良い方法はないのだろうか。催眠療法などでは、予め料金を振り込んで頂き、それを確認できた時点で、予約が成立するシステムが多く、分かり易い。しかし、前金制度は行っていない。確認メールを、こちらからする事により、予約が成立する様なメールの書き方が必要なのだろうか?
2009.06.30
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「右脳医療」という言葉は余り聞かない。目指すは、右脳的医療だ。右脳的医療は、見えないものを信じる。全体性がある。わたしたちが、切り離された存在でない、「つながり」を持っている事を感じる。そして、その根底には「愛」がある。わたしたちは、二面性を持っているという。一つは「左脳的人間」であり、もう一つは「右脳的人間」である。誰でもが、両方を持っている。だが、そのバランスは人により異なる。左脳的人間は「考える人」であり、右脳的人間は「感じる人」である。日常生活では、どうしても左脳的な生き方になる。エゴが中心だ。自分がよければいい、という生き方になる。でも、それだけではない自分が必ずいる。「自分だけがよければいい」という考えに「それって本当にそう思っているの?」と右脳的な自分が問いかける。西洋医療は左脳的な医療だ。統計的に治療方針、治療結果を導き出し、それが、標準的な治療となる。そこには、個が反映され難い。薬の量は、体重と身長で決められる。患者さんの意思は、殆ど反映されない。常に、新しい治療を求め続ける。病気を何より、ネガティブにとらえる。自分の生き方、或いは、社会人として、病気は速やかに消えてもらわなければ、社会人としては失格になってします。そして、西洋医療により治れば、一日も早く元通りの生活をしたい。一方、補完・代替医療は、病気をネガティブな面ばかりからとらえない。気づきをして捉える。自分の生き方に無理があり、病気はそれを教えてくれている。その声を聞いて欲しいのだ。その声なき声を聴ければ、病気が表面化してくる可能性は少なくなる。「うつ病」などは、心の声を聴いてと、身体が心に訴えかけれている。今の生活では、あなたは「孤独」であり、自分を酷使している。そのブレーキの意味があるのだろう。でも、左脳的に考えれば、そんな「うつ病」状態は失格者であり、一日も早く元に戻そうとする。がんもしかりである。がんと敵として捉えるのが、西洋医療であり、がんを気づきをして捉えるのが補完・代替医療なのだ。孤独であり、愛が不足している状態と「がん」は共存している。だから、それに気づいた時に、がんはもはや必要なくなるだろう。エゴ中心の左脳的生き方では、思考は過去・未来を右往左往する。後悔であり、恐怖である。一方、右脳的な生き方は、自分の中の「大いなる存在」を感じて、一緒にいる世界だ。そこは、「今に在る」世界。つながりと愛と時間軸を越えた永遠性を感じる世界だ。哲学者やヒーラーや真の宗教家が感じてきた世界と脳科学者が解明している世界が一致してきている。新たな世界が開かれようとしている。
2009.06.29
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日々の生活の中で、どれだけ「開かれた心」で過ごせるか?開かれた心とは、ゆったりとして静かで穏やかな考え方や行動が出来ている時。閉ざされた心とは、自分が世の中で一人で、孤立していると感じる時。往々にして、この一人ぼっちの世界に陥り易い。むしろ、黙っているとこの世界に入り込んでしまうように、なっている。それは、エゴは分離で生きがいを見出しているからだ。私が、私が、で一日が過ぎて行く。開かれた心は、自分勝手でありながら、他人勝手でもある。自分を大事にしながら、そして、無理をしない、自分の心地よい選択を行う。恐怖を感じたり、人と争う事を出来るだけしない。他人を非難しない。それぞれの人の考え方を尊重する。相手の領域、自分の領域をわきまえる。先々の事まで、思考を廻らさない。すると、大事なのは「ゼロポイント」。「今を生きる」、という事になる。今を心地よく・平安に、しかも、あるがままを受け容れる。そこが、開かれた心であり、心の置き所にしたい。
2009.06.28
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「何も感じないのです」という方がおられる。「家族に対しても愛情を感じられない」という方もおられる。この何にも感じられない、という感覚は理解できる。辛いことや悲しいことに会う、それも継続的にその様な状態になると、自分の感情を押し殺してしまう。自らが、何も感じないようにして、自分を防御するのだ。昔、ジェームスボンドの映画や小説が流行っていた頃、窮地に陥るとボンドは自分の感情を穴の中に押し込んで、何も感じない状態にする。そして、危機の場面が去るのを待つ。本当に辛くなってくると、特に10代の頃は、感受性が高いから、そのままでいると、自分が壊れてしまうように思える。そんな時には、心を閉ざして、何も感じない様にする。それが、防御手段なのだ。その習慣が身についてしまうと、本来の感性などが埋もれてしまって、自分の感情を上手く、感じたり、表現できなくなってしまう。催眠療法では、辛い場面に戻り、そこから、自分の感情を取り戻すようにする。感情を感じ、それを表現する。そんなに、自分の殻に閉じこもらなくても大丈夫な世界を感じて頂く。自分自身に対する愛を感じる。そうする事により、ゆっくりとではあるが、凍った心は徐々に溶けていく。
2009.06.27
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今の生活をみると不思議な気がする。パソコンの前で、ボタン一つで本が買える。CDが買える。本は本屋さんで探して、見つけて、買うものだと思っていた。それが、画面で本を探し、しかも、その書評までみられる。そして、注文すれば、自宅までチャント届けてもらえる。このシステムに乗って、いろいろな本を買っている。もし、従来の書店に行くスタイルだったら、次から次へと本は買えないし、読めるジャンルも限られているだろう。クリニックにしてもしかり。情報を如何に伝えるか。その媒体として、ホームページの役割は欠かせない。ホームページが無かったら、クリニックそのものも成立しないだろう。この日記を書きながら、今の時代だからこそ出来る事がある。その恩恵をとても感じる。
2009.06.26
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がん患者さんと話していると、「自分を変える」という言葉が出てくる。がんに罹ったのを自分の責任とし、自分で作ったがんなら、自分で治せると。補完・代替医療では、そこが出発点となる。「自分を変える」、何を、何処を、どの様に変える。人それぞれ、という事になる。標準的な変化法、なんて公式はない。基盤は「自分の価値を認め、しっかりと愛すること」にあるのだと思う。これが、言うは易し、実際にどうするの?人を愛した経験があっても、自分を愛した経験がわたしたちには殆どない。常に、外側に意識を向けてきた(向けるように育てられてきた)わたしたちが、自分の内側に意識を向ける事、自分を見つめる事が、変わるための基本となるように思う。思考~言語~感情などが、習慣になっている。その範囲内、その常識的な考えの内でも、思考を繰り返している。ある患者さんが「周りの人たちがよくしてくれます」と。私が「それは、あなたの人柄ですね」と。すると、患者さんは「私なんて」と。この会話では、謙遜かもしれない。でも、この様に自分を卑下するような言葉を身につけている。素直に、「そう言って頂いて、ありがとう。嬉しいわ」と返事をする習慣を持ち合わせていない場合が多い。自分が変わるということは、この様な小さな事から自分を見つめていく事が大切だと感じる。自分の思考や発言や感情をじっくりと見つめる(そこで、判断をして裁かない)。ウオッチャーになる。精神的なサポートなんておこがましいが、もっと、もっと、自分を見つめると同時に、その糸口を探す事がこれからの課題だ。
2009.06.25
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メールの管理は「Outlook Express」を使用している。困っているのは、名前を探す事。多くのメールはアドレスが書かれていて、ご自分の名前がメールを開かない段階では、分からない事が多い(中には分かる人もいますが)。この段階で、名前が分かるようにする方法があるのだろうか?多くの人からメールで診療依頼を受け取っている。そうすると、また、見直したり、最初のメールを探したりする事がしばしば起こる。この場合に、もし、最初の受信トレイだけを見て、名前が分かれば探すのも容易になる。そうでないと、一々メールを開いて探す事になってしまう。どなたか、いい方法がありましたら、教えて下さい。
2009.06.24
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催眠療法の目的として、現在の人間関係をみることがテーマとなることはよくある。母と娘の関係。この親子間の確執はとても多い。母親からの相談もあるが、娘さんからの相談のほうが多い。そこでの関係はいろいろなパターンがあるが、既に、娘さんの怒りに対して、母親が謝罪している場合にもかなりある。特に、母親、娘さんがある程度の年齢になってくると、娘さんも分別ができ、母親の気持ちが分かる様になる。そんな娘さんに対して、母親も心を開いて詫びる。これで、一件落着かと思いきや、そうではない事が多い。頭では母親を許していても、ハートの部分で許していないのだ。頭の部分での思考は、母親も謝ったことだし、理論的には納得している。でも、ハートの部分、感情的には許していないのだ。そのために、思考と感情での分離が起きている。既に、成人となっている娘さんは、母親を許しているが、小さな自分、母親から辛い思いをさせられた小さな自分は、未だ、母親を許していないのだ。催眠状態で、小さな自分が母親と対峙している場面に戻る。そこでの小さな自分は、母親に何も言えず、脅えている。その母親と小さな自分の場面に、現在の成人となった自分、更に、マスターも一緒に立ち会う。その場面で、何も言えない小さな自分の代わりに、現在の自分が小さな自分の思いを母親にぶっつける。愛情を持って接していない母親を、小さな自分に謝らせるのだ。母親も「忙しい。自分なりに愛している。子供の将来を思って躾をしている。」等など、理由を上げて、そう簡単には謝らない。マスターからのアドバイスも必要なら貰う。たいていの場合、母親は小さな子供に謝る。中には、どうしても謝らない母親もいる。その場合には、「あなたは母親としては失格です」と引導をわたしてしまう。イメージ上で母親を理想の母親に代えてしまう。その理想の母親とは、子供にとって全く知らない母親であったり、或いは、身内の中で愛情を持って接してくれた方の場合もある。その小さな自分がこころから癒される事により、現在の自分との乖離がなくなる。その小さな自分が、インナーチャイルドであり、成人となった自分が意識し、見守る事によりわだかまりの残っているハートの部分での癒しが、心から母親を許せる事に結びつく。
2009.06.23
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オグ・マンディーノ著「きっと飛べると信じていた」自己啓発本は最近余り読まないが、この本はストーリーが面白い。一人のアメリカ人の青年ルークが、飛行士としてイギリスに滞在中に、そこで、ウィニーとい女性に人生の生き方についていろいろ教えてもらう、という展開だ。面白い内容がある。高みにいる友人たち:実り多い良き人生を生きるという使命を、あらゆる障害や困難にもかかわらず達成したこれらの比類ない人々のことを、「一群を見守る者たち」と呼んでいるわ、より幸福でより成功した人生を目のあたりにした人々で、今でもわたしたちを見守ってくれているの、その人たちを「高みにいる友人たち」と名付けた。この考え方はハリー・エドワーズの天界の医師団と、とても一致していると感じた。主人公のルークが、「僕は何の学歴もなければ、何の価値のある訓練も受けていない。それに誰よりも貧しい。それに加えてたよる家族すらないんだ」と弱音を吐く。それ対して、ウィニーは、一枚の紙と鉛筆を渡して、質問にドルで答えるのと言った。○ あなたの健康にはどれだけの価値がある?○ あなたのすばらしい国に住むという価値は?○ あなたの自由にはどれだけの価値がある?○ あなたの眼は、眼と引き換えに100万ドルを受け取ると思う?○ あなたの手や足は? 500万ドル、一千万ドル?○ それからあなたの賢い頭は?いくらくらい?確かに、わたしたちは、健康、日本に住んでいる事、しかも、自由に!!これらの価値を殆ど意識していない。当たり前と思っていることは、当たり前でなく。しかも、とても価値のある、ありがたいものなんだ。努力して、苦労して、現在を犠牲にして、そんな生き方を選択したくはないが、忘れている事を気づかせてくれた。
2009.06.22
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昨日はeクリニック主催の講演会があった。私は、残念ながら日中は仕事があり、聴けなかった。夜、懇親会に参加させて頂いた。このクリニックを運営されている医師、岡本 裕先生とは不思議なつながりがある。私は、以前から大阪でこの様なクリニックを開いている医師たちがいる事は、インターネットで知っていた。そして、お気に入りに登録して、時々見ていた。そのままなら、それ以上のつながりはなかったと思うが、その岡本先生から714Xについての問い合わせを頂いた。その後、わざわざ狭い私のクリニックに来てくださった。とても明るい、爽やかな先生。がん、それも進行したがん患者さんに、この岡本先生の明るさと笑いにより、きっと患者さんはお会いしただけで癒されると感じた。世界、60カ国以上を歩いているらしい。がん患者さんに役に立っているとか、どんどん規模を拡大していこうなどと考えている様子も感じられない。まさに、今を生きている。そんな感じの先生だ。今を生き生きいきている。その波動がきっと患者さんにも伝わるのだろう。その明るさの背後には、きっと深い悩みがあり、そこから、ご自分を解放され、そして今があるのだろう。神戸の震災でのボランティア活動、現代医療の矛盾点、そこから、人間らしい生き方とは、何かを模索して、現在に至っているのだろう。原稿を書き上げてから、数箇所の出版社で断れたという「9割の病気は自分でなおせる」は、10万部以上売れているという。本音で書かれた本だから、共感者が多いのだろう。
2009.06.21
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カウンセリングに来られる人たちに、みられる一つの傾向として、「思うように動けません」、「何かをしたいのですが、思うようになりません」という類の気持ちを持っている人が多い。私たちは、何かをする為に生まれてきて、何か動いている、そこで、何かを生み出すように、社会の仕組みが出来上がっている。だから、何もしない(特に収入がない)、という事は社会の掟に反する自分がいる、と思いこんでしまう。そこで、自分がチャント動けず、仕事も思うように出来ない。以前はあんなに活動的であったのに!!余計に自責の念に苛まれる。「ただ在る」存在しているだけで価値がある。この考え方は現代社会では否定的だ。社会通念はむしろ人間を機械的な人間になる事を要求している。私たちは、社会の歯車となりその役割を果す。それが、出来ない場合には落ちこぼれとなる。でも、「ただ在る」これでは、ダメなのだろうか。ただ、毎日、目が覚めて、身体が動いて、自分の好きな様に時間を費やす。その事に周りの人たちからの視線、自分がダメな奴、そんな思いを取り除くと、違った展開になる気がしてくる。好きなことを少しだけする。何もしたくないときにはじ~としている。一日の内でも、何回もこのぼ~としている時間を作る。チョットした時間でも、意識すれば、このぼ~とした、何も考えない状態になれる。「ただ在る」この一見単純そうに思えるこの言葉は、どうやら、わたしたちが目指す究極の心境であるらしい。
2009.06.20
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「事実などない。あるのは解釈のみだ」 (ニーチェ)メールマガジンで送られて来た中にあった、文章だ。この文章を眺めていて、しみじみ、そうだな~と痛感する。出来事を認識するとは、いつも解釈、或いは、思い込みによるんだ。どの様に解釈するかにより、事実が創られていくのだ。正しい、間違っている、という議論もまさに、解釈の違いを語っているに過ぎないし、事実などないんだ。私たちは働かす五感は、既に、そこを通す時にフィルターにかけられている。だから、いろいろな感情が直ぐに湧いて来る。自分自身で常に解釈をしているのだ。いい、わるい、など解釈はバッタバッタと切り捨てもする。大切なのは、事実ではなく、解釈の違いであり、その解釈がとても意味がある事を学ぶ必要があるのだろう。簡単に人を評価したり、物事の価値を決めつける。それらは、何等客観的な事実などを表してはいない。この事に気づくと、「物事を中立にみよう」という事になる。それ自体に意味が生じるのは、解釈なんだと。だから、「がん」はよくも、わるくもない、という事になる。どの様に解釈するかは、人それぞれ、ということになる。どうしても、日々の生活の中では、批判的になる傾向がある。それは、エゴは自分が人とは異なる、人よりすぐれている、と主張するからだ。柔軟性のある人とは、その解釈の幅が広い人をいうのだろう。すこしでも、その幅のある生き方をしたい。すれば、するほど、楽に生きられるようになりそうだ。
2009.06.19
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以前、risaさんが「スリランカの悪魔祓い」(上田紀行著、徳間書店)の内容がソマティック・ヒーリングに似ているとコメントして下さった。それで、早速購入をした。現在は文庫本で出版されているが、私はアマゾンで古本で大きなサイズの本を買った。文庫本の場合、多くは以前普通のサイズの本で出版され、それから文庫本でも出版されるケースが多い。かさ張るが、読み易いし、文庫本より通常送料を入れても安く買える。スリランカに伝わる「悪魔祓い」について、上田氏が約2年半スリランカの現地取材をした。上田氏は、癒しの第一人者と言われている、その文章も定評があり、受験の国語の問題として、上田氏の文章が一番多く取り上げられていると何処かで聞いた事がある。文章の論理が一貫しているので、読みやすい。特に、驚いたのは1990年に現在の様なホリスティックの考え方を、明らかにしている点にある。今から20年も前に書いている点は特質だ。その中で「感謝」について書かれている所がある。 p148~また、癌が自然退縮したり、致命的な大病から奇跡的に回復した人の多くが、その後に家族への感謝と愛を強調しだる。というもの、興味深い事実だ。もちろんそれは、闘病中に家族から受けた援助への感謝の気持ちもあるだろう。しかし、その感謝は通常の家族への感謝といったレベルをはるかに超えていることが多い。それは家族だけに留まらず、人類愛まで拡がっていくことも少なくないし、宗教的な悟りとも似た宇宙的なつながりを実感する人も多い。 つまり、それは単なる闘病中の援助に対する感謝ではないのだ。それは家族とのつながりを犠牲にして働き続け、病気に陥った自分の回心の時、人生観の一大転機なのである。そして、「つながりの中の自分」を実感したからこそ、身体の中の免疫力が活性化し、生きる意欲が湧き起こり、大病を克服できたともいえるのである。 ひとが最大のストレス状態になり、免疫力が最低になるのは、ひとがつながりを実感できずに孤独に陥り、その状態に対して無力感を感じて自暴自得になるときだという。愛する連れ合いの死がもたらす無力感がその代表だ。そして、免疫力が最高になるのは、ひとがつながりを感じ、生きる意欲に満たされているときである。以下、心と身体に関しての興味深い考察が続いていく。私たちがおこなっている「ソマティック・ヒーリング」もまさにこの点にある。孤独な患者さんを、数人のセラピストとの関わりで、潜在意識で身体の声を聴き、そして、身体の動きに委ねる。そして、太陽や地球のエネルギーを感じる事により、私たちが宇宙との関わりがあり、そこからのエネルギーを受け取るイメージをする事により、自分自身のもっているエネルギーを実感する。更に、孤独ではない、みんなが愛に包まれてつながっている。それを実感することにより、患者さんは癒され、宇宙的なこころの視野が開かれる。私たちが行っている「ソマティック・ヒーリング」は現代版の「悪魔祓い」なのかもしれない。
2009.06.18
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先週の土曜日に広島で同級生と食事をした帰り、同じ野球部で仲の良かった友達と二人で、スナックに飲みに行った。清楚なママさん。10人も入れば一杯になるカウンターと座る所が一箇所のこじんまりした店。彼のなじみの店。会話も自然と弾む。学生時代の思い出や現在の生活などを何十年振りかに話した。そこでのカラオケで友達が唄った歌がこれ。以前も聞いた事があると思うが、印象に残っていなかった。しかし、この歌を聞きながら、この歌詞って凄いなと、しみじみ感じた。私の感性が変わっていくのだろう。こんな歌がバブル期に作られたなんて。阿久 悠さんて、偉大な作詞家だと改めて感じた。時代おくれ/ 川島英五作詞:阿久 悠 /作曲:森田公一一日二杯の酒を飲みさかなは特にこだわらずマイクが来たなら微笑んで十八番を一つ歌うだけ妻には涙を見せないで子供に愚痴をきかせずに男の歎きはほろ酔いで酒場の隅に置いて行く目立たぬようにはしゃがぬように似合わぬことは無理をせず人の心を見つめつづける時代おくれの男になりたい不器用だけれどしらけずに純粋だけど野暮じゃなく上手なお酒を飲みながら一年一度酔っぱらう昔の友にはやさしくて変わらぬ友と信じ込みあれこれ仕事もあるくせに自分のことは後にするねたまぬようにあせらぬように飾った世界に流されず好きな誰かを思いつづける時代おくれの男になりたい目立たぬようにはしゃがぬように似合わぬことは無理をせず人の心を見つめつづける時代おくれの男になりたい
2009.06.16
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「言葉は言霊」と言われているが、私たちは無意識な会話、無意識に言葉を使っている事が多い。口グセと云われる、自分独特の言い回し。その言葉が常に、自分自身に対して、また、相手に対して影響を及ぼしている。否定的な言葉を常に、(本人が意識していない場合が殆どだが)口グセにしていると、その言葉の持つ波動が自分自身にも、相手にも伝わっている。自分の使っている言葉、発音している言葉を感じる事、これは大切だと思う。言葉を使って、私たちは思考していると言われている。言葉に出来ない事を考える事は難しい。だから、沈黙は言葉にならない、言葉を必要としない領域なのだろう。そこは、思考を超えた世界が展開している。そこに自分を置くことにより、思考から離れる事ができる。自分が穏やかに、気持ちが安定している時には、言葉はゆったりとそしてその響きは心地良い。そんな言葉を自分でも選んで話すようにする。すると、気持ちと使っている言葉を意識する。そして、自然に流れている事に対して、「我」を張らなければ、その穏やかな・平安な気持ちを維持できる。人生は「争い」ではない、という事がだんだん理解できてくるようだ。そのポイントは所謂ゼロポイントに言われている場所に近いのだと思う。今日も自分の発する言葉に意識を向けてみよう。
2009.06.16
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6月13、14と土・日にかけて、広島・博多と一泊二日の旅行に行った。本来は博多に用事があったのだが、折角の機会だから広島にも途中寄ることにした。路面電車に乗り、街の中心地へ。以前よりモダンな外観だ。「本通」というアーケードにある商店街も昔と同じ、でも、知っている店は数点だけ。広島では5、6名の同級生と何時も食事をする。それぞれが忙しいのに、集まってくれる。2年半振りの再会だった。学生時代の思い出、現在の医療に対して、自由に話す。何の制限もなく、遠慮もなく、好きな話題を話す。こんなに楽しい一時は至福だ。夜は12時頃まで飲んで、語り合った。翌日の日曜日が本番なのだ。朝、新幹線で1時間少々で広島から博多に着いた。和安らぎ「枝」が主催。博多で熱心に催眠療法の良さを伝えて、スクールと個人セッションを行っている素敵な女性が運営されている。お話しは「医療とスピリチュアル」が午前中のテーマ。日頃感じている事を自由に話せた。午後からは、スクール生を対象とした、ソマティック・ヒーリングに関しての説明と実習とトーク形式で行った。デモンストレーションとして、右の足裏が3ヶ月前から痺れている男性がクライアント役をして下さった。催眠誘導から約40~50分。その男性は終わった後には、その痺れ感は殆ど消失していた。催眠下での、細胞一個、一個に呼びかけ、働きかけ、本人の意識しない所で見られる身体の運動、そして、身体の宿っている感情などを会解放することにより、自然に癒される。とても楽しい、有意義な時間を過ごさせて頂いた。関係者の方々の人柄がとても素晴らしく、私が癒されて帰ってきた。その会場に隣接して、駕与丁公園があり、大きな池、木々、遠くの山見ているだけで、心が穏やかになる風景の中があった。
2009.06.15
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蛍の舞う季節だ。家の直ぐ近くの小川が流れている所に蛍がいる。数は少ないが、直ぐ近くで見られる。何時見ても、蛍の光は幽玄だし、飽きる事がない。飛行機の中で催眠療法をする機会に恵まれた。時間的な関係で、たまたま帰りの飛行機の中でする事になった。催眠療法は普通は、静かな環境で、リクライニングシートなどでゆったりとリラックスした雰囲気で行われるのが普通だ。クライアントさんの中にも、周りの音が気になったり、音がしたために集中できなくなったと話す人もいる。飛行機の中は、常にエンジン音がしている。しかも、アナウンスや人の話し声、アテンダントが動いたり、呼び出し音が鳴ったりと、環境としては最悪に近い。催眠療法をする前から、きっと上手く行くと思っていた。催眠療法をしているセラピストなら、飛行機の中での催眠療法は問題ないと思うだろう。問題は催眠を受ける人の被暗示性にある。要は受ける人がどれくらい催眠状態に入りやすいかにかかっている。利点は、飛行機の座席は隣りとの距離が非常に近いことにある。並んで座って、耳元で囁くように話しかける。それで、騒音の中でもお互いのコミュニケーションが出来る。約1時間少しの催眠療法は全く問題なく、終了した。とてもイメージ力のある方だったので、二つの過去世を経験し、そこからの得られた情報は、その人にとってとても貴重な情報となり、いままで悩んでいた事が随分と解消されたと話ていた。僅か、1時間の催眠療法で、いままでず~と悩んできた問題が解決される。うまくはまると催眠療法はとても効果を発揮する。そして、催眠療法を受けた人が喜んで下さるとセラピストにとって、それ以上の喜びはない。更に、ご自分で催眠療法を勉強してみようとされる。全ての人にこの様に上手く行くとは限らないが、催眠療法の本当の良さを多くの人にも体験して欲しい。潜在意識の力は偉大だ。周囲の音が気になるか否かは、催眠深度とも関連している。昨日、催眠療法を行ったクライアントさんは、以前受けた催眠療法の時には、周りの音が気になって集中できなかったが、今回は集中できたと話していた。それには、予め「周りの音も、更に催眠を深めるのに役立っている。」と暗示しておく事により、騒音も逆に催眠を深める役目に変える事もできる。
2009.06.13
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714Xに関しての、今まで日本国内での評価はどうなんだろうか?きちっとした臨床データは、公表されていないのではないだろうか?臨床データとは、どの様な患者さんに、714Xを使用し、どのような結果になったのだろうか、つまり成績なんだ。殆どの代替・補完医療で使われている製品やサプリメントでその効果が、きちっと発表されている事はない。時に症例報告的に発表されているに過ぎない。どうやら、巷での医師たちの間での噂として、「714Xは痛くて、効かない」こんな風に評価されているようです(私は直接に714Xを使われた先生から伺ったことはありません)。私は、兎に角、ひたすらネサン氏の仰る通りの方法で、しかも、身体・感情・知性(信条)・スピリチュアル、この4つのバランスが大切だ、と患者さんに説明し、実施して頂いております。効果についても、正直に日本での成績は分からない。でも、ネサン氏の「完全なる治癒」では、相当いい効果があるようだ。もし、全く効果がないものであれば、30年に渡り、世界70カ国以上に輸出され続けるとは思えない、と説明しています。実際に使い始めて、がん患者さんの担当医が驚くような出来事が起こっています。714Xで明らかに、画像上、未だ数例ですが、がんが小さくなっている人が現れ始めたのです。抗がん剤では一時的にがんの大きさが縮小する患者さんはたまにいます。しかし、その他の方法でがんが小さくなった経験のある医師は殆どいないので、縮小すること自体に驚いてしまいます。「一体、何が起こったのですか。どうしたのですか」と担当医の常識を超えた事が起こっているのです。現在の「がん取り扱い規約」に基づく定義では、著効例(腫瘍病変は全て消失)や有効例があります。現在までに714Xを使用して下さっている患者さんは40名少しです。その中で、この様な症例が出始めた事に、驚きと、手ごたえを感じています。心の安定を保ちつつ、714Xを使用した時の効果について、慎重に経過を診る必要がありますが、今までにはない効果についての感触を感じています。
2009.06.11
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ネサン氏を訪問し、セミナーの資料や直接、ソマチッドや714Xの話を伺った。それらの事は文章で残されているが、短い話や印象などは文章で残っていないので、忘れていってしまう。そんな話の中で、幾つか気づいた点がある。「なぜ、714Xを思いついたのですか?」と質問をした。この事は誰でもが関心があるのだろう。その答えは「積み重ねです。急に714Xを創ったのではなく、いままでの連続です」と答えられていた。ネサン氏は、1950年代にGNー24という抗発酵作用のある製剤を創り、1961年には、Ana-Blastというがんに対する血清療法を開発し、そして、714xは第三の製品ということになる。Ana-Blastは、がんに対する血清療法であり、馬に人間の病人の各種の血液型のソマチッドを入れると60日後にがんに対する抗体を持ったワクチンが出来る。それを人間に入れるのであるが、馬の血清が入るのでアナフィラキシーショックになる合併症があるので、714Xへと結びついたようだ。もう少し、突っ込んだ質問をすれば、何かの気づきがあったのだろうが、いつも通訳の方を介しての話なので、それ以上は伺えなかった。きっとインスピレーションが働いたのだろう。ネサン氏ご夫妻は明るく、前向きだ。714Xが日本で使われているが、どうもその使い方でいいのか?という疑問があった。確かにその様な使い方は、「完全なる治癒」にも書かれている。しかし、直接に確かめた所、NO!!であった。その様な使い方は勧めていない、と答えて顔を曇らせた。でも、そのような憂いは多いが、そんな事は気にしないで、前向きに考え、行動していきましょうと、話されていた。直感的に感じ、行動するひとたちだと感じた。我々とのお付き合いも直感に基づいてきめられているようだ。714Xが何故効くのか!!それは現代の免疫学を使って証明されようとしている。マクロファージ、TNF-α、インターロイキンなど免疫用語が出てきて、その効能を説明しようとしている。確かに、科学的に証明される必要があるのだろう。だが、最終的には「効くから、効くのよ!!」の領域だと思う。多分、714Xも閃いたのだと思う。理論を積み重ねていった部分も無論あるだろろうが、それを越えた何かがあり。その何かが、とても重要な役割を果たしているのだろう。その部分は、科学では未だ、解決されていない部分だろう。その一連のものが、714Xの使い方に集約されている。だから、一々疑問を感じながら納得しなければ、次に進めない思考方法だと使えないだろう。何故、右ソケイ部なの、何故、21日間が一つの単位なの。一つ、ひとつを理詰めで考えると幾らでも疑問が湧いて来る。大切なのは、ネサン氏の提唱されている使い方をそのまま実行し、日本の人にどれだけの効果あるかが、最終的に問われるのだろう。
2009.06.11
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「ソマチッド」という言葉は、ガストン・ネサン氏が命名した名前だ。ネサン氏が初めて「ソマチッド」を観察したかと言えば、そうではない。この事はネサン氏、ご自身が認めている。ソマチッドと同じ有機体を観察した人に、ギュンター・エンダーレイン博士(1872~1968年)がいる。エンダー・レイン博士は、動物学者であり、細菌学者でもあった。レイン博士はこの小さな有機体をプロティットと命名した。その前は誰?ネサン氏について書かれた「完全なる治癒」にも、暗視野顕微鏡での血液観察概論」(キュンター・エンダーレイン博士による血液観察法」にも書かれている、アントワーヌ;ベシャンではないかと思われる。エンダー・レイン博士の書には、アン・ワーヌ・べシャンプと書かれている。この19世紀後半の学者の説は「全ての動物と植物は細胞が死滅しつつある間にも行き続ける顆粒(顆粒分子)を含んでいると仮説した。そして、マイクロザイマス(小発酵体)と名付けた。さらに、細菌はある特定の状況で変態し、そして異なる外観になることもあると仮説を立てた。つまり、ウイルス、細菌そして真菌は、ある特定の微生物の様々な発育期にすぎないというのである。この多形態理論は、今日生物学で教えられそして実践されている単形態性とは矛盾するものである。パスツールをはじめとする単形態性の主唱者達は、細菌とその他の微生物はその外観形状を変えることはないと考えていた。従って、微生物は様々な目、科、属、そして種に分類され、感染症の感染の元は独自の原因因子によるものとされた。私は生物にそれ程関心がないし、知識もない。私たちが常識と思われる事の中にも、真実は何だろう?という事がらが溢れているのだろう。べシャン氏は「病気の原因は体内にある」と唱えた。私たちの常識は「パスツールが言ったように、病気の原因は体外から侵入すると」である。べジャン氏は、私たちが病気になるのは、「免疫力」が低下した状態であり、それが、病気の原因となっている、と指摘している。更に、ロイヤル・レイモンド・ライフ氏は、顕微鏡の観察を通して「細菌は病気の原因ではなく、結果である」と言い切っている。私は、混乱してしまう。細菌やウイルスは外から入ってくる。それが、常識だ。だから、外から入ってくるのを、マスクや手洗いなどで防ごうとする。新型インフルエンザが直ぐに当てはまるか否かは分からないが、私は扁桃腺が弱い。だから、感染をして、しかも溶連菌感染で子球体腎炎までなった。私の体にこの溶連菌が存在して、私の免疫力が低下した時に、溶連菌が活躍して感染を起こす。すると、もし、私たちが全ての感染の要素を持っていて、それが免疫力が低下した時に感染という形で現れるとしたら?私の中に既に新型インフルエンザの大元が存在しているのだ。それが、何らかの原因で顕在化してくる。この様になる。すると、何処で発症しても、何等不思議はなくなる。常識は怪しい、でも、全てが怪しい。科学で証明されている事の98%は不確かだ、と村上和雄氏は述べている。だから、これが正しい、正しくないの論争は科学の世界でも、果てしない。
2009.06.09
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ガストン・ネサン氏に会える。この世界的な生物学者と直接に話しができる。昨年は特にそうだったが、本当にありえることなのだろうか?そんな気がしていた。夢なの、正夢なの!!そんな感じだった。「孤高の生物学者」そんな印象がある。口数は少なく、そして、チョット照れたように微笑む。この天才生物学者が歩んだ道が、とてつもなく厳しかったとは思えないほど穏やかな表情をされている。昼食はいつもネサン氏側で用意して下さった。それも、非常の美味しい、バラエティーに富んだものだった。ネサン氏は、野菜は殆ど手をつけられなかった。野菜は余り好きでないのかもしれない。鶏肉料理は全部召し上がった。ボリュームがあり、われわれ日本人が持て余していたが、ネサン氏の健康の秘訣は食欲がしっかりされている事からも伺えた。夜は10時頃お休みなり、朝は6時頃起きられるのだそうだ。奥さんの名前はJacinte L. Naessensといい、ジェシーさんと発音する。ジェシーさんが、ネサン氏をしっかりと支えている。二人はとても仲がいい。セミナーはジェシーさんが主に行う。そして、それをネサン氏が補足する形で行われる。ネサン氏は買い物が苦手で殆ど買い物には行かないそうだ。いつも、センスの良い服装をされているのは、奥さんのジェシーさんが全て見立てているのだそうだ。「喧嘩はしないのですか?」と伺うと。「意見が異なる事はあるが、喧嘩はしない」との事でした。ネサン氏の研究は所謂社会の枠組みから外れた所にある。企業とタイアップした形での研究はされてこなかった。むしろ、製薬会社や医師会などの医療を動かしている母体と対立する立場に身を置いた。だから、大学病院どの共同研究なども、ネサン氏との共同研究を望む立派な医師がいても、そこに研究費などが絡んでくると、妨害されて思うように研究が進まないと、顔を曇らせておられた。最終日に私たちはネサン氏から、一人ひとり修了書を頂いた。そして、帰りのバスまで、わざわざご夫妻で見送ってくださった。われわれの役目は、ネサン氏の語るソマチッド理論を歪めることなく伝える事と、あたかも埋もれてしまっている感がある「714X」を、本来の使用方法により、日本のがん患者さんに役に立てる事にある。ネサン氏は分からない事は分からないと言われる。ソマチッドの正体は、未だ、未だ、未知数の所がある。だから、想像上では、何でも言えることになる。ソマチッドが一人歩きし、ネサン氏の思いと離れてしまう事がないようにしたい。
2009.06.08
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6月2日(火)から7日(日)まで、カナダのモントリオールから車で一時間半ほどの距離にあるシャーブルックという街に、ガストン・ネサン氏を訪ねた。今回は総勢11名と昨年の5人の倍以上の人数で訪ねた。医者や鍼灸師やその他、皆が代替医療い関心のある方々ばかりであり、右脳的な集団でもあった。インフルエンザの事も少しは気になっていたが、カナダではインフルエンザの気配さえ全く感じられず、たまに日本人がマスクをしていると、それだけで目立つような感じだった。今回の訪問は昨年に比べて二日短い日程だったので、かなりの強行軍だった。2日の火曜日の午後に出発すると、同じ日の夜にトロントで乗り換えてモントリオールに着く、その足でバスの乗り、車内で夕食を食べながら1時間半くらい離れたシャーブルックに到着する。翌日から、朝から夕方までセミナーを受け、最後の金曜日は午後2時頃までで、全ての予定が修了して、そこからモントリオールに夕方着き、夜8時過ぎまで明るい市内で買いものをしたり、夕食を皆で食べて過ごし、翌朝は7時頃にはホテルを出発した。たまプラーザからシャトルバスに乗り、成田に向かった。車中から、大きな鳳凰の様な形をした雲が、暫く車窓から見送ってくれているのが、眺められた。位置口には可愛いポストがある。その奥に住居の一つが見える。広い庭には、花々が丁度綺麗に咲いていて、とても癒された。住居の奥は川になっている。朝、ホテルの近くの川を散歩すると、霧がかかり幻想的な風景だ。こんな環境の中にいられるだけで、気持ちがゆったりとして、穏やかになる。
2009.06.08
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自分の心の中には、いろいろなものがうごめいている。チョットした事で気持ちが明るくなったり、落ち込んだり、傷ついたり、舞い上がったり、丁度、天気みたいだ。この地球上にいる事が奇跡だ。そう思える時の心は広く拡がり、何のわだかまりもなくなる。宇宙意識であり、曇りのない状態。それは、エゴ、思考などの影響を受け難い状態だ。雲の上に出れば、いつも晴れている。そこは「今、ここに在る」世界だ。そこでは、感情的でなくなる。日常生活においては、相手の影響を受けながら絶えず営んでいる。それは、知っている人でもあり、知らない人でもある。電車の前に座っている人とも関わりがあり、家族との関わりもある。感情的な衝突が日常的に行われる。人を非難する。文句を言う。これらは、みんな感情的な衝突なんだろう。「売り言葉に買い言葉」的な反応を繰り返す日常生活。損得ばかりに目が行く毎日。こんな生活を繰り返していても、面白くない。どれだけ、エゴから離れた、或いは、突き抜けた世界にいられるか?それが、課題。感情的な言動に対して感情的に対応する。多くの場合に、このパターンの繰り返しだ。感情的な言動に対する非感情的な対応とは?非感情的な対応とは、エゴを離れた場所からの対応だ。そこは、雲が覆い、太陽の見えない世界ではなく、雲の上へと突き抜ける必要がある。それが、「大いなる存在」と結びついた世界であり、過去から背負ってきた記憶から解放される世界だ。そのために静かな時間を作り、心穏やかな一瞬を作る。そうすると、直ぐに「大いなる存在」を感じられる。本当の居場所が感じられる。どうやらエゴを小さくして行くと、面白い、不思議な世界になりそうだ。自分がどうでもいい状態だ。クラゲが海に漂っている、そんな感じかもしれない。右に行こうが、左に行こうが、上に行こうが、下に行こうが、どちらでも自由。偉そうにしていなくてもいい。上に立つ必要なんてサラサラなくなる。無理に物事を集める必要もない。自然に集まってくるものを利用していればいい。人と争わなくなる。自分を主張しなくなる。人の後をトボトボ歩くのがいい。そんな感じていられれば、何だか向き合う人も癒されるようだ。無理をして、人の役に立とうとしてて力まなくても、自然に役立っているようだ。もし、人の役に立てるとしたら、「大いなる存在」を一緒に共有する「場」に居ることではないだろうか。今日から、7日の日曜日まで、カナダに行ってきます。その間、このブログもお休みです。
2009.06.02
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ある患者さんと話していた。「感謝」の気持ちで生きる事が大切だ、といわれている。でも、長い間感謝の心を持って生きているのはストレスになり、辛いと。いつまで、この様な気持ちを持っている必要があるの?がん患者さんにとって、気持ちを切り替える、今までの生き方でない方向を目指しなさい、とよく言われる。長い間、その人の培ってきた、生き方、価値感を変えるにはどうしてもストレスになる。・・・・・・せねばならぬ、という事が多い。食事も玄米菜食にしなければならぬ、といったような知識が与えられる。現象面だけを変えようとするから、時間と共に負担となってくる。生き方の基を変えないと、長い間は続かなくなってくるだろう。「ありがたとうございます」を繰り返し唱える、「ついている、ついている」と繰り返す。これらは、繰り返し唱える事により、それが身につき、自然と感謝の心が滲みこんでいけばいい。でも、単純に繰り返していてばかりでは、いかがなものかと思う。繰り返し唱える事により、気持ちも変わってくる、それを期待しているのだと思う。がん患者さんからの質問に、「こころの持ち方」を如何にするか?これは、単純なようで奥が深い。物事の価値感、生き方が問われるからだ。逆に、病気になって、今までの生き方から転換出来る人も多い。見えない世界は、奥が深い。一番分かり易いバロメーターは、一番身近な人と気持ちよく接していられるか?ではないだろうか。家族の方々と気持ちよく挨拶出来、ゆったりと会話が出来、相手を敬う、そんな状態が保てているか?そこが、その人の生き方を最も顕しているように思える。
2009.06.01
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