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クリニックをオープンして、一年以上経った。患者さんが来て下さるのだろうかと思っていた。補完・代替医療では、それぞれが個性的な診療となる。標準治療なるものが、こちらの領域ではない。西洋医学では、がんの場合には、手術、化学療法、放射線療法というコースのセットメニューが用意されている。それが、標準的治療だ。補完・代替医療では、コースメニューというのは、存在しない。アラカルトの組み合わせはあっても、その標準的な治療をつくり上げるようになる。どれを選択するかは、患者さんの意志がとても重要だ。自分で選んで、自分でそれらを使い、自分で治していく。そのような気持ちでないと難しい。患者さんにとっても、西洋医学的治療を選択する方が楽なのだ。何しろ、黙っていても、チャント献立が用意されているので、あなた任せで事が進んで行く。一方、代替・補完医療の場合には、主役が患者さん自身だし、常に、自分で方向を見失わなように見つめていなければならない。それは、動物園で飼われているアザラシと多摩川に現れた野性の「タマちゃん」との違いともいえるだろう。或いは、川くだりをイカダに乗って、船頭さんに誘導されている人たちとその川を自分でカヌーを漕いで下る人たちにも例えられるだろう。どちらがいいとも言えない。一長一短がそれぞれにある。クリニックには、積極的に自分でカヌーを漕いで下ろうとする人たちと、イカダに乗れないために、仕方なしにカヌーで漕ぎ出そうとする人たちもこられる。私の役割は、そのカヌーを漕ぐ人たちと一緒に川下りをし、少しでも安全に目的地に辿りつけるように、側にいるのが務めだ。
2009.02.28
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春はもうすぐそこまで来ている。以前は夜型の生活をしていた。面倒な事は夜していたし、能率も上がった。ところが、数年前から朝型の生活に変わった。面倒な事や、ややこしい事は朝にする。その方が、はるかに能率が上がる。朝の欠点は時間が限られている事だ。ノロノロしていると、家を出る時間になってしまう。その分、ピッチを上げるので、更に、効率が良くなる。これは生活習慣だから、人それぞれだと思う。朝、明るくなると同時に起きて、活動する。夜は暗くなったら寝る。これが、人間としての自然なサイクルだと感じる。シンクロに出会う事が多い。先日、ママドクターさんが、ブログで「思考のすごい力」という本を紹介して下さった。内容がとても面白そう。そこで、アマゾンに注文した。昨日、届いたので開けてみたら、それは、以前、イギリス在住の「あゆか」さんが推薦されていた本だった。当時、原書で紹介され、翻訳しようかと思ったら、既に、翻訳の版権が日本のどこかの出版社が押さえているとの事であった。その原書の「the BIOLOGY of BELIEF」を買ったが、難しく読めなかった。そして、今回の「思考のすごい力」はその本の訳本だった。多分、ママドクターさんが紹介されなかったら、その情報には暫く、或いは、ず~と辿りつけなかったかもしれな。ご紹介して下さった事に感謝です。このようなシンクロは、とても嬉しいプレゼントだ。
2009.02.27
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昨日、夕方、空を見上げていたら、ハート型らしき雲が登場。そういえば、孝子さんが少し前のブログに、ハート型の雲をいくつも載せていたのをを思いだした。早速、デジカメで一枚。扁桃腺炎は私のアキレス腱。単純に切除してしまったが、やはり、時々メッセージをくれるのだ。ママドクターさんを始め、何人かの方からホメオパシーを勧めてくださった。ホメオパシーについては、私の周りの医師でも、実際に処方していたり、習っている人がいる。その殆どは女医さん。男性の医師では、お目にかかった記憶がない。ホメオパシーに関しえは、私自身がかなり偏見を持っているのだと思う。それは、某有名な補完代替医療の医師が、やたらホメオパシーと言っているからだ(実際にそれだけの効果があるのかもしれないが・・・・)。それから、ホメオパシーを使っている人たちは、何かあると「ほらこれ、よく効くレメディー」と言って、頻回に使っている。これって、依存ではないの? なんて思っていた。ここらで、白紙に戻して勉強してみよう。手始めに、この本を紹介して頂いた寅子さんという方が書いた本だ。この本の書評が面白い。二つに分かれている。でも、興味あるな、私にはきっと面白いと思えるので早速注文した。その書評の中で、このようなコメントがあった。「熱や発疹や扁桃腺の腫れや盲腸は、病気とは悪ではありません。一番大事な内臓や心が壊れないように体が必死に食い止めてる姿です。それをケミカルな薬で止めて喜ぶことは、火事は起きているのにうるさくて目障りな警報機をぶっ壊して「ああ良かった」と安心してるバカなことです。ホメオパシーを寅子先生を是非知って欲しいです。」今までは、何回も抗生物質で助けられてきましたけれど、そろそろ転換期かもしれない。謙虚な気持ちでお勉強。これを学ぶには、どうしたらいいのかな~独学では難しい領域なのかもしれない。
2009.02.26
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先日、風邪を何年か振りに引いてしまった。きっかけは、咽頭の痛みが始まり、前にも書きましたが、扁桃腺が子供の頃から弱く、扁桃腺炎の原因菌として、溶連菌に感染して子球体腎炎になったり、良く発熱をしていた。医者になってからも、発熱を繰り返したので、切除した。その後も咽頭の痛みがある時は警戒信号だ。痛みを2、3日以内に抑えられれば、発熱しない。その期間に沈静化できなければ、必ず発熱してしまう。そこで、この咽頭炎には、初期から抗生物質を内服してきた。薬嫌いの私は、今回も薬を飲みたくない、と我慢をしていた。そして、悪くなってから、抗生物質を内服しても、もう効かない。喀痰培養では、常在菌のみ、咽頭培養はしなかったので、はっきりしないが、多分、感受性のない抗生物質を飲んだらしい(感受性がなければ、幾ら飲んでも効かない)。かなり、こじらせてから、別の抗生物質に変えたら、直ぐに治ってしまった(治る時期だったのかもしれないが)。初期消火に失敗して、火事になってしまった。この初期消火に、抗生物質以外で適当な方法を見つけられないでいる。うがいやルゴールを塗ったりしたが、どうもうまく行かない。アロマのユーカリやホメオパシーでいいレメディがあるのかもしれないが、分からない。何かいい方法はないものだろうか。
2009.02.25
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このような形状をしたシンバルを合わせた様な仏具は「チベタンベル」と呼ばれている。チーンと余韻の残る美しい音色だ。チベタンベルは以前から持っていたが、特に、定期的に使っていなかった。昨年、ある方から、この音をず~と追いかけるといい。聞こえなくなってもその音を追いかけるのだと、教えられた。それから、半年以上経った。毎晩、このチベタンベルを遠隔治療の前に鳴らす事にした。チーンと響くこの音色をひたすら集中して追う。聞こえなくなっても、こころでその音を追いかける。その結果、音がハートの部分まで届くようになった。体の奥まで、到達する。実家の近くにあるレストランの庭にある、川に続く小さな滝。この滝の音を聴く。集中して聴いていると、滝の音が心に滲みてくる。丁度、あのベルの音を聴いている時のように。それは、鳥の声を聴いても同じように聞こえる。チベタンベルは、音に対する心を開く働きがあるのかもしれない。
2009.02.24
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忘れ物が多くなる。何処に置いたのか、いつ置いたのか。また、いつ貰ったのか。バラバラになる。これを防ぐには、なるたけ一箇所にまとめること。同じものをまとめておいて、漏れを少なくする。それから、思い立ったら直ぐに実行すること。後でしようと思うと、これも忘れる。その場、その場、行っていく。その習慣がつくと、物事が整理できて、スムースに運ぶ。それから、いらない物を捨てる。これも、少しずつ、少しずつ行う。ついでに、と言ってもこれが一番に大切だとおもうのだが、頭のなかも整理・整頓して、いらないものは、どんどん捨てる。そうでないと新しいものが入って来ない。
2009.02.23
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昨晩は、大学病院に勤務していた初期の頃に一緒だった人たちとの、年一回の食事会だった。職種も医者・看護師・事務員・秘書・製薬会社の人など、昭和50年初期に一緒に働いていた人たちが集まる。新宿の高層ビルの同じレストランに集まる。写真はその時に撮った色とりどりの建物。最近、電車に乗るとよく座れる事がある。昨晩も小田急線に乗った。混んでいて、人が立っている状態だった。乗ると丁度、一つ席が空いている。自然に座れる。帰りも新宿の駅から小田急線に乗った。10時を過ぎているのに、大勢の人たちが並んでいた。立つつもりで、列の後半に並んだ。すると、前の人、その前の人が列は外れる。でも、かなり後ろだった。電車に乗ると丁度、二つ席が空いていた。これも急いで乗り込む事もなく、自然に座れた。昨晩、そこに集まった人たちは60代の前半から後半までの人たちだ。終戦の話しが出た。5歳くらいでも、鮮明に覚えている人たちが多い。それだけ印象深いのだろう。その話しの続きで、調布に当時住んでいたO先生が、こんな話しをした。終戦後、食べ物が無かった。都内から、買出しに多くの人たちが来た。その人の家では、自分たちが食べる分くらいの畑があったという。サツマイモが収穫できる時期、サツマイモを収穫していると、畑の側に人が立っている。サツマイモには、小さな捨ててしまうような芋がついていた。それは、普通は食べない。その人は、その小さな芋を分けてくれないかと、その人のお母さんに話した。お母さんは「どうぞ」と言って、その芋をあげた。当時は、そのような芋も価値があったのだろう。何しろ、食べ物がない時代だったのだ。それから20年以上経ち、0先生は大学病院に勤めていた。ある入院患者さんが、O先生の名前を見て、何処の出身かと尋ねた。調布だと答えた。なんとその患者さんは、当時、O先生の畑でその捨てるような芋を分けて貰ったその人だったそうだ。私たちは、不思議な縁でつながっているのだ、としみじみ感じた。
2009.02.22
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シンクロニシティは、どんな小さな事でもピタットはまった時にはとても気持ちがいいです。一昨日も、勉強会の後にある方が訪ねて来られる予定でした。きちっとした時間を決めた訳ではなかったのですが、まさに、会が終わったその途端に現れたので、そのタイミングの良さに驚きました。「うずまき」さんから、ご質問を頂きました。以下がその文章です。「すみません、ちょっとわからなくなってしまったので教えていただきたいんです。自分を丸ごと愛することとエゴを黙らせることって両立可能なものなのかが、よくわからなくなってしまいました。自愛なしに直感って受け取れるのかがまだよくわかりません。エゴっていうのは自分の外側にある何かとゆう理解でしょうか。それとも自分の一部であるエゴに黙ってもらえれば自分を愛せるとゆうことでしょうか。記事の>ハイアーマインド、ハイアーセルフ、精霊、サムシング・グレート、などとつながるとゆう部分を私は「直感を得る=自分を愛すること」との理解の元、解釈して読み進めたので混乱してきました。そもそも、そこが違うのでしょうか 笑直感得て、日常に生かす方法をさぐってます。少しヒントもらえませんか?」とても大切な内容だと思います。私も完全に理解している訳ではありませんが、感じている範囲で書いてみます。私の考え方は、エックハルト・トール、タデウス・ゴラス、OSHOなどのから影響というより、教えてもらっています。「なまけ者のさとり方」(タデウス・ゴラス著)の中に、こんな一節があります。「自分を愛するということは、エゴを甘やかせ、巨大化させることとは違います。エゴイズムとは自分のことが大嫌いなのに、自分は偉いのだ、大したものなのだと証明することです。自分を愛すればあなたのエゴは消え、自分は人よりすぐれているのだなどと証明する必要を、もう感じないですむようになるのです。」ここで書かれている「エゴ」について読んだ時、下線の部分がとても納得できました。エゴとは分離であり、他人と自分を分けている。人より自分がすぐれているのだ、と追い立てるように私たちに訴えかけます。多くの人の悩みを聴いていると、他人が自分をどのように思っているか? よく思われたいという所に起因している事が多いと感じます。わたし自身もよくこの「ワナ」に陥ります。さらに、別の個所では「自分のエゴを小さくする肯定的な方法は、その原因と一つでいることです。そして、エゴをそのまま愛し、それから、自分で良しと感じる行動を自由にやってみればよいのです」と書かれています。自分の否定的な部分までも愛する。それが、丸ごと愛することであろ、自分自身を縛っているの束縛から解放されると思います。>ハイアーマインド、ハイアーセルフ、精霊、サムシング・グレート、などとつながるやはり、タデウス・ゴラスは「人が拡張と収縮を繰り返している時、彼はエネルギー状態にあります。私の想像では、中間の地点、つまり、これを物理学で言うエネルギーのゼロ・ポイントであり、私達が広がって、より高い意識のレベルに昇ってゆく時に通過する、エゴがなくなる点でもあります。」その中間の地点を、エックハルト・トールは「今」と言っています。「今の在る」ことにより、エゴはなくなる。エゴは、過去か未来に存在すると指摘します。そして、「今の在る」時、人は高い意識レベルに昇る。その高いレベルが、ハイヤーセルフ、ハイヤーマインド、大いなる存在であり、それらは、「わたしたちの意識の中で、創造的で、常に癒しや答えを与えてくれる部分」という事になるのだと思います。
2009.02.21
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一昨日の夕方、久しぶりにホスピス病棟の屋上に上がった。ホスピスの病棟はいつもゆったりとした空気が流れている。その雰囲気がとてもいい。屋上には、ボランティアの方々が植えている花が咲いている。空を見上げると、大きな鳳凰の形をした雲が赤く輝きながら、頭上をゆっくりと飛んでいる。暫く眺めていると、その雲は自分の真上に来た。夕陽に輝いて大空を自由に飛んでいる。デジカメで鳳凰を撮ろうとして、部屋に戻った2分くらいの間に鳳凰は何処かに飛び去った。私の目指す所は何処なのだろう。具体的に、何をどうするなどの目標はない。計画的に進めて行く、そんな感じではない。自然の流れ、宇宙の流れに如何に乗って、心地よく・平安な日々を送れるかだ。この「宇宙の流れに乗る」とは?この事は、ハイアーマインド、ハイアーセルフ、精霊、サムシング・グレート、などとつながる事にある。自分が宇宙の源につながっている。そこからの情報を貰う。それが、直感だ。この度合を如何に高める事が出来るか?それが、課題だ。そのためには、何をすればいいのか。「エゴ」を出来るだけ、黙らせることだ。静かに、こころを澄ませて、出来るだけ静寂の世界にいる事だ。必要な時だけに、思考を使い、後はぼ~と潜在意識の世界にいればいい。グルグルと堂々巡りしている思考に「お黙り!!」と言えばいい。そこは、到底到達できない程高く、遠方に感じられると同時に、直ぐ側にある世界でもある。小さい時から植え込まれてきた価値感がゴミとなって、山積みされている。そろそろ、そのゴミを処分してもいい時期だ。道は感じられ、見えてくる。そこを信じて、一歩、一歩、自然に進んでいけばよさそうだ。
2009.02.20
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私たちが、今、この地球上で肉体を持った存在としている事について、こんな見方がある。魂の世界では、感情や感覚を持つ事が難しい。そして、全てが直ぐに分かってしまう。会話も相手が何を考えているか、テレパシーで直ぐに分かってしまうという。私たちは、この地球上で生きている意味は、それらの感覚や感情を味わうためにいる。それらを肉体を通して感じ、知ることができる。痛みとはどんな感覚なのか。熱いとはどんな感覚なのか。苦しいとはどんな感覚なのか。また、楽しいとはどんな感情なのか。悲しいとはどんな感情なのか。だから、それらの感情を与えてくれる情況や相手に対して、そのような経験の機会を与えてくれたのだけから、感謝をする事だ。人を憎たらしいと思った時には、その人相手は「憎たらしい人」の役割をしてくれているのだ。だから、自分は人を憎むという感情を味わえる事ができるのだ。その憎たらしい役割をしてくれている人に感謝をする。「憎らしい」役割をして下さって、あありがとう。自分のとって、嬉しいとかワクワクする感覚は、相手に感謝しやすい。しかし、自分にとって不快な事は、そのような気持ちになり難い。私たちははいずれ、魂の世界に戻る。この今を肉体を持って生きている間に、その感覚・感情をしっかりと感謝の気持ちを持って味わおう。全ては意味があるのだから。せいぜい、この地球上に肉体を持っている間に
2009.02.19
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クリニックに来られる「がん」患者さんは、おおきく二つのグループに分かれる。一つのグループは、いわゆるセカンドオピニンとそれに類似した内容。具体的には、今後の治療をどうする。どんな治療を選択したらいいのか。手術は受けるべきか、それとも受けずに様子をみるか、などの意見を求め、交換する患者さんたち。それとは、別に既に方針を決められている患者さんたちもいる。それらの人は自分で方針を決めている。その内容も殆どは「補完・代替医療」を選択されている。今後、どうして行こうか、或いは、そのまま経過観察をするか、など心に決めている。「確認」に来られた患者さん、ご自分でしっかりと方針を決めてこられる患者さんが、今後、どのようは経過を辿っていかれるのか。私の関心は尽きない。それでは、何故、クリニックにみえるのか?多分、言葉には出さないが、それを聴いて欲しい。家族や身内でなく、しかも、医療者なら意見も聞ける。そんな思いで来られる。だから、ひたすらその考え方をお聞きする。その「がん」患者さんに共通している事は、がんを普通の患者さんのように極端に恐れていない。澄んだ明るさがある。きっと何とかなる。そんな確信を感じる。実際に、世の中には私が思っている以上に、補完・代替医療で「がん」を克服してしまった人たちが多い。その道は、それぞれ異なっているが、私の周りにその様な治した患者さんとか、また、治った人の情報が集まってくる。
2009.02.18
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私たちは、何とかパワーを身につけようと試みる。それが、自分を強くして、また、自分がより高い所に行ける様な気がする。だから、外部から何かを導入しようとする。そこに、到達しようと試みている。それが、自分を高めるように感じている。しか、どうもそれだけでは、何かが不足しているように感じる。幾ら知識を身につけても、それだけでは人の生き方を決められないだろう。もっと大事なものが、隠れてしまっている。それは、むしろ身につけることより、身から剥いでいくことによって、得られるのだろう。外部から得られると思っていたことの中には、実は、内部に既にありながら、それを見る鏡が雲っていて見る事ができない状態。丁度、車を運転していて、雨の中でワイパーを動かさないで、走っているようなものかもしれない。「エゴ」をそぎ落として行った先に別の世界が開ける。それを私たちは外部に求めているが、実際には内側にあり、その曇りを如何に除いていくかが、鍵になる。太陽の光が、雲で覆われていて見えないという例えは分かり易い。太陽はいつでも照っているのだが、それを観ている私たちの心が雲となり、見えるものが見えなくなっている。その雲である「エゴ」を取り除くには、取り除く事は出来中もしれないが、雲の切れ目を多くして、あの日の光がさす様にするには、「今に在る」事に尽きるのではないか。この「今に在る」事の時間が長ければ、長いほど、私たちはあの暖かい太陽の光を浴びる続ける事が出来るのではないだろうか。
2009.02.17
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この写真は私が撮ったタマちゃんの写真です。北海道の釧路市、釧路川に野生のラッコが現れて、話題になっている。その記事を見て、思い出したのがあの「タマちゃん」である。資料によると2002年の夏に多摩川で目撃されたのが、最初だった。私がタマちゃんを最初に見たのは、その夏の鶴見川だった。丁度、夏休みの期間だったので、夕方、暗闇に紛れてチョコント水面に頭を出したタマちゃんを見たのが、最初だった。それから2003年の冬に、 帷子川までしばしば通った。タマちゃんは朝の暗い時間に護岸のセメントの上に乗っている事が多く、物音で水に入ってしまい、なかなか、見る事は難しかった。それでも、何回も通っている内に、野生のタマちゃんを身近で見た時の不思議な感覚は忘れられない。何で、こんな所に野生のアザラシがいるのだろう?動物園で見るアザラシと野生のアザラシは、周囲に対する警戒心が全く異なる。ポリ袋が流れて来るだけで、反応する。川も汚かったが、タマちゃんがいる場所の環境も悪かった。中田市長に、折角、遠来のお客様が来ているのだから、タマちゃんが安心して過ごせる場所を作るように、手紙を書いた。返事が来た時には、タマちゃんは既に横浜にはいなかった。タマちゃんを捕獲しようとしたグループがあった。丁度、その時、その場にいたが、最初、何が起こったのか分からなかった。その内に騒ぎになり、警察が来た。所が、朝早かったので、警察は上司の指示が得られないので、何の行動も起こさず、ただ、見ているだけだった。幸いな事に、タマちゃんは川の底が更に一段低くなっている所から網をくぐって逃げた。タマちゃんは、もう一度だけ、 帷子川 に戻って来た。そして、一回、ゆっくりと川を泳いで、海に戻って行った。それが、横浜でのタマちゃんの最後であった。
2009.02.16
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「ひまし油湿布」のセットを頂いた。ひまし油を温めるのに、かなり高い温度まで上昇する温熱機を開発されたので、試してみるようにと頂いた。実は、その前に「ひまし油湿布」のセットを自分で購入した。それを、自分が使う前に、痛みの強い患者さんにあげてしまった。きっと、その方が役に立つと思った。ひまし油は「キリストの御手」と呼ばれた癒しのオイルといわれている。頂いてから、なかなか試す機会がなかったが、先週と今朝と二回試してみた。オイルでベチャベチャになるかと思ったが、丁寧な指示書どおりに準備をすれば、何の問題もない。肝臓を中心とした、上腹部にひまし油を浸したフランネルを乗せ、その上に紙おむつのような敷き物を乗せ、更に、その上から温熱マットを乗せ、ベルトで体に固定する。暫くすると、その部位が暖かくなってきた。とても、気持ちがいい。更に時間が経つと、暖かいから熱痒くなってくるような体感がある。でも、とてもゆったりとして気持ちがいい。約1時間経って、湿布を外すと、その湿布を当てていた皮膚がピンク色になっている。ひまし油湿布の効果は1)胃腸系からの排泄を増加させる2)同化吸収と一般系統の機能を改善させるために肝臓・胆嚢の協調の改善3)外傷および癒着を癒す4)痛みの軽減5)神経系の協調の改善6)炎症の減少7)リンパ系の循環を増加させる8)肉体上の組織から酸を取り除くなど、効果は多岐にわたる。科学的研究では、免疫系の効果を発揮することが確かめられている。二重盲検法(無作為の二つの群に分け、それを受けるそれぞれのグループには、ひまし油と単なるパラフィンかを分からないようにしておき、温湿布をしてその効果を検討する)では、明らかに、ひまし油を用いた人たちのグループではリンパ球の数値があがっている。がんは物質文明の申し子だとも言われている。それに対して、西洋医学はまさに物質文明の駆使して、戦いを挑んでいる。それは、はてしなき戦いに思える。既に、21世紀に入ってだいぶ経つが、今、20世紀に行われた、この様な癒しを伴う治療法が見直されつつある。食事のしても、ゲルソン療法などが注目を集めている。魂・精神・身体のバランスを取るような生活を取り戻す事、また、病気の意味を受け取る事により、古くて、新しい道が開かれるように思えてならない。
2009.02.15
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私たちの体には、有害な物質が蓄積されているという。それを測定するには、毛髪や爪の一部を検査する。尿を検査する方法などがある。それを取り除くには、汗をかいて皮脂腺の中に詰まっている有害物質を出す方法と、キレーションといわれる、点滴やサプリメントを使用して除去する方法がある。アレルギーなどは、免疫のバランスが崩れる事に由来していると言われているが、この有害な物質が関与しているとも指摘されている。クリニックには、遠赤外線のドームがある。このドームは発汗としても、使える。通常の使い方に、更に、床に反射板を置き、また、ドームの出口を反射する布で覆う。そうする事により、ドーム内は殆ど密閉された状態になる。その中に、30~40分くらい、高い温度設定にして、入る。15~20分くらいすると、汗が溢れてくる。汗が体をしたたり落ちるのが感じられる。等身大のビニール袋にすっぽりと入って、ドームの中にいると、全ての汗が回収できる。量や色など、人により様々だ。昨日の私の汗は、乳白色だった。現在、クリニックにあるドームは、汗だしには殆ど使用していなくて、もっぱら、低温でビタミンCの点滴の際に一緒に併用している。二週間に一度は、このドームを使って発汗させたい。終わった後は、体が軽くなったようで、爽やかだ。
2009.02.14
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日記に何を書くか。前日くらいに、こんな事を書こうと思いつく事もある。しかし、殆どはその日の朝、パソコンに向かった時に思いついたことを書いている。だから、前日に書こうと思っていた事と、異なる内容を書き始める事も多い。今朝はテーマが思い浮かばない。最近、イメージで感じていること。それは、自分自身を「愛」で包む事。自分が「愛そのものに」なる、そんなイメージを持つ事。それは、自分が至福感で満たされているともいえる。ワクワクするような高揚感とは異なる。静かな、そして、穏やかな心境だ。焦ったり、イライラしたり、自分を正当化したり、よく見せようとしない、ごく自然な流れの中にいる。ゆったりと、時の流れに乗っている感じだ。この感覚を覚えると、少々、ずれても、また、そこに戻れる。安定感がある。そのためには、自分の内側に入る。自分を見つめることが必要となる。自分を感じる事にも通じる。日常生活で意識していると、そんな時間、瞬間を感じ、味わう場面はいっぱいある。小さなことでも自分の思い通りにならない、とイライラしなくなる。周りに余り左右されない。そんな至福感に包まれていると、とても心地よい。
2009.02.13
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医者が、がんに罹ると諦めがちだ。それは、多くのがん患者さんを診てきた。その結果、自分のがんの進行度で、先を読んでしまう。ああ~、こんなに進行していては、もう駄目だ、と。そして、抗がん剤を心から信じている医者も少ない。だから、徹底的に抗がん剤を使うという意思を持つ医者も少ない。ただ、意外と穏やかなのだ。それは、多くのがんで亡くなる人たちに接してきているから、ああ自分の番なんだ、と受け容れる医者が多い。もちろん、そこには葛藤もあるが、意外をさばさばしている人が多い。よ~し、自分でがんを治そう、と考える医者は例外的だ。西洋医学以外の道を探しても、それは、薬や抗がん剤の延長線上である事が多い。自分の中の自然治癒力、免疫力を最大限に発揮させようと、という考え方を殆どの医者は持っていない。急に、そのような考え方を取り入れる事は難しい。この「病気は誰が治すのか?」医者は誰でもが、最終的に病気を治すのは、患者さん自身である事は分かっている。ただ、それは、西洋医学の治療を補助する働きとしての、自己治癒力なのだ。最初から自分の治癒力を100%活用するという思考には、なかなか到達できない。普通の人たちの意識の方がより歴史に則っており、自然だ。それは、物質文明に重点を置く、医療のシステムが生み出した結果が現代医療だ。その良さは無論取り入れ、更に、発展させる必要があるが、それは限られた分野であり、もっと、もっと、自分を信じる医療に転換しないと、これから先の慢性疾患への道は険しいものとなるだろう。
2009.02.12
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昨晩、O先生にお会いした。クリニックに患者さんと一緒に訪ねてくださった。大阪在住で、「がん患者」さんのサポートをインターネットで8年間ボランティアで行っている先生だ。以前から、インターネットで、そのHPを知り、ユニークな活動をされている先生だと思っていた。その後、メールで何回かやり取りをさせて頂いた。そして、電話で話す機会もあった。何時か会えるのではと思っていた。O先生からは、714Xを使いたい患者さんを数名、ご紹介頂いた。その患者さんたちが、0先生の知識と人柄をとても褒めておられる。実際にお会いしてみると、思っていた通りの感じの先生だった。大学病院の医者にありがちな、自分を偉くみせようとか、こんな業績があるなんて、そんな感じは微塵もしない、ありのままの笑顔を絶やさない先生だ。しかし、現在歩んでおられる道は、足跡が残されていない道だ。ご自分で切り拓かれている道だ。私より、遥かに若い先生だ。西洋医学からみれば異端児でも、分かり合える医師がいるのは心強い。素敵な時間を過ごさせて頂いた。まさに、湯気が出ている新刊を頂いた。
2009.02.11
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誰でもが、窮屈でなくゆったりと楽に生きたいと思っている。それには、「自分の枠を広げる」ことにより、随分と楽になっていく。枠とは「選択の幅」ともいえるだろう。狭い「枠」を持っていると、出来事がその「枠」からはみ出してしまう。すると、それに対して反抗したり、抵抗したりする。感情的には「気分が害した状態」になる。枠は選択と同時に「裁く」ことにも関連している。自分の気に入らないことに対して、「なんであんな事をするの!!」と思う。その様な思考は感情に結びついて、気分が悪い、ということになる。いくら感情を抑えようとしても、その元となっている思考のパターンに気づかないと、同じことをしている。どんな思いも、自分がその価値感を選択しているのだ、と気づく事が大切だ。考える事の幅の広さ、受け容れる事の幅の広さ。360度全てが受け容れられる人は、ストレスなど感じないだろう。私には、底までは到底到達できない境地だ。ただ、この思考~感情の仕組みを知っておくと、いやな感情が湧いてきた時にその根源を探る事が出来る。嫌な感情を押し殺すことではない。その元の思考、「どんあ考えかたを受け容れたのか、どんな見方をしているのか、それが唯一のみかたなのだろうか」そう思うと、「いや、こんな見方もできるはずだ」と感じられる。それは、相手の立場に置き換える。どうして、そのような言動をするのか、相手の立場でいろいろ考えると、全く変わってくる。先日、仕事している部屋の外で「犬がさかんに鳴いた」、外来に犬を連れてきた患者さんが、そのままつないで離れたらしい。そこは、喫煙場(今どき院内に喫煙場所があるのがおかしいが)となっていて、タバコを吸う人が集まっている。窓一枚の外の場だ。犬が盛んに吼えるので、看護師さんも私もイライラしかかった。病院の事務に電話をしたりしていた。そこで、窓を明けてその犬を見た。その犬の前でお年寄りが、「よその犬に食べ物と与えてはいけなんだよね~」と言いつつ、パンを犬の目の前で食べていた。未だ、若いレトリバーの犬はそのパンが欲しくてたまらないのだ。尻尾を左右に大きく揺らしながら、欲しいと訴えている。その光景を見て、うるさいと思っていた感情は嘘のように消えた。何で、犬の目の前で食べるの。他にも食べる場所はいっぱいあるのに、と思った。犬が吼える行為に対して、どの様な思いを抱くかにより、変わってくる。よく言われているように、出来事ではなく、どの様に自分がその事に反応するかを、知らなくてはならない。楽に生きるには、その、選択の幅を広げる事にあり、やたら裁かない事だ。
2009.02.10
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今朝、メールマガジンを見ていたら、こんな文字が目についた。■今日の『癒しのことば』Vol.41 「あなたが自分自身を愛する時、実は、あなたは愛と共に、無数の存在へと 広がっているのです」 -- タデウス・ゴラス -- この言葉の重みは深い。「私の存在は虫けらみたいです」と云われる人もいる。その虫けらが好きなら,なんら問題はないのだが、ちっぽけで、生きている価値がない、そんな風にとらえがちだ。更に、このブログでは、この文章に解説が書かれています。 たとえば、みんなが自分を愛するようになって、自分のやりたいようにし始 めたら、大変なことになってしまうと思う人もいます。 エゴをなくさなくては、と彼らは言います。 でも、自分を愛することと、エゴの言うまま好き勝手なことをするというの はちょっと違うような気がします。 「自分を愛するということは、エゴを甘やかせ、巨大化させることとは違い ます」 とゴラスは、「なまけ者のさとり方」という本の中で書いています。 「エゴイズムとは自分のことが大嫌いなのに、自分は偉いのだ、大したもの だと証明しようとすることです。 自分を愛すればあなたのエゴは消え、自分は人よりすぐれているのだなどと 証明する必要を、もう感じないですむようになるのです」 ひょっとしたら、素直になれないのは、エゴが邪魔をしているのかも知れま せんね。 エゴは私たちの向き合う、個人的には最大の課題だと感じます。エゴが如何に自分を窮屈にしているか。エゴは常に自分をより良く見せようと、知らない内に自分にプレッシャーをかけ続けます。この競争意識が、生きるために必要がだ、私たちにを苦しめている原因にもなっています。その背反する矛盾の中で、私たちは生きている。その落としどころを、それぞれの人の価値感、意識がつくり上げている。「なまけ者のさとり方」(タデウス・ゴラス著)のあとがきで、山川紘矢氏は「すべてを受け入れ、愛することです。・・・・・・・・私が最近学んだことは、「人にうしろ指をさされてもいい」ということと、「人は誤解されてもかまわない」ということと、「人は死んでも生きていてもどちらでもいい」ということでした。随分と誤解されそうな「さとり」です。」このように書いている。そうなんだ。そうなんだよなあ~、と心に入ってくる文章です。何の気負いもなく、ただ、ただ、与える人になれればいい。何の気負いも無く、ただ、ただ、頂ける人になればいい。世捨て人やしらけた立場ではなく、全てを受け入れ、「在るがまま」、「どっちでもいい」そんな生き方が楽で・心地よくて・平安なんだ。
2009.02.09
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昨晩、BSで放映していた「七人の侍」を見た。この映画に興味があったのは、催眠に関係しているというコメントを何かの記事で覚えていたので、丁度いいタイミングだった。映画は3時間にも及ぶ長い映画だが、時間が経つのを忘れるくらいだ。この映画は1954年、封切りだそうだ。そういえば、昔の昔、見たことがあるのだろう。ある場面だけを覚えていた。それは、三船敏郎扮する侍が、農民達の前で暴れ馬に乗るシーンだ。その馬に乗り、農家の向こう側を通過すると、馬だけが走り、三船敏郎扮する侍が、腰かなんかを押さえながら、馬の後を追うシーンだ。この場面の時に、そこだけが咄嗟に思い出された。その他は全然覚えていない。途中で「休憩」が入るのも、懐かしく、昔の映画では結構多かった。所が、何処に催眠と関係あるのか、分からなかった。映画そのものを、短く感じる迫力、映画を観ていて催眠状態に入る。農民の一人が「結婚」と言う言葉に、凄く反応する。潜在意識下に押さえていた、蓋がまさに開いたシーン。もう一つは、三船敏郎扮する侍は、昔、農民のでで出であった。小さな子供を火事の中から助け出すシーンがあり、子供を川の中で抱いた時に、小さい自分と同じだと言って、号泣するシーンがある。そこに、自分のインナーチャイルドを感じたのだろう。結局、何が催眠と関係しているのか、分からずじまいだった。ただ、映画そのものは面白い。兎に角、侍たちがいつも笑顔でいる事。三船敏郎が輝いていた。白黒画面ながら、色の使いかた、構図が素晴らしく、カラーの映画以上の効果を作り出していた。「七人の侍」に関する記事を読んでから、それ程経っていない。また、映画が放映されるのも、開始、一時間前くらいに知った。これらが、シンクロして楽しく映画が観られた。
2009.02.08
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ブログを書くこととミクシーを書く違いについて、今ひとつ分かっていない。かなり前からミクシーをいうのには登録している。ただ、書いた事は数回あるのみ。また、グループにも幾つか入っている。人の書いたミクシーの内容は知らせてくるので、読む。ブログは不特定多数の人を対象にしている。一方、ミクシーは限定された人を対象としているらしい。私の周りでは、ミクシーを評価する人たちが多い。ブログとミクシーに同じ内容を書いている人もいる。ミクシーを開くと、別のアドレスがあり、そちらを開くことにより、本文が読める。複雑ではないのだろうが、分からない私にとっては、不思議な感じだ。そろそろ、分からないなんて言っていないで、もっとミクシーを利用する時期に来ているのかもしれない。
2009.02.07
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心のリセットの必要性を感じているし、日々、それを行う事が穏やかに過ごすには大切だと思う。こんな事をしないで、ただ、ただ、自然に生きれれば、それに越した事はないだろう。いかんせん、自分の意識はそれ程高くないので、意識して調整して、そのポジションを保つ必要がある。その意識と同時に大切なのが、「呼吸法」だ。意識して「深呼吸をする」。眠っていると、私たちの呼吸は自然に浅くなってくる。だから、時々、無意識に深呼吸をする。そして、肺に貯まった炭酸ガスを吐き出す。私たちが起きている時でも、この深呼吸を時々するのが体によい。それを実践してきたのが、私の尊敬する医師「塩谷信男先生」だ。この先生が凄いと思えるのは、近代の日本の医者の中で、一番超能力を持った医者ではないかと思う。塩谷先生は、「正心調息法と大断言」という、呼吸法とそれに言葉を唱える。今、流行の「引き寄せの法則」を、ご自分で見出した人だ。この呼吸法の重要性は、中村天風氏も述べており、実践方法を示している。私たちが生きていく上で必要な要素の中で、自由に使えるのは「呼吸」だ。体温や血圧は相関単には自分でコントロールできない。この自分でコントロール可能な呼吸、特に深呼吸をもっと、もっと、日常生活の中に取り入れよう。
2009.02.06
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自分の気持ち、心の持ち方、その日の感情などを、何処に置くか。それは、誰でもが意識すれば、その感情を見極める事ができる。朝、起きた時にそのまま寝床から、慌しく起きだすのと、暫く、深呼吸をしたり、自分が今日もチャント呼吸ができることに感謝をする事を習慣とするのは、かなり違った一日になるのではないだろうか。自分の心のチャンネルを何処に合わせるか?戦闘モードなのか、平安なモードなのか。一度、静寂さや、穏やかさや、平安さに身を置くと、その意識を持続させればいい。私が、私が、という考えの出番が少なくなる。裁かない自分がいる。裁くのは良くないと、相手をたしなめる自分も、相手をやっぱり裁いている。自分の中で、できるだけ平安さを保つ事が、生きる上で楽だ。へんに力を入れる必要もない。あるがまま、生かされている自分。判断基準は「心地よさと平安さ」これだけを頼りに日々生きていれば、それ程、宇宙の流れから離れたり、逆らったりしないでいけそう。
2009.02.05
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「夢日記」をつけるためにノートを枕元に置いているが、久しく書いていない。夢そのものを覚えていなかったり、夢を見ても書くまでに記憶に残っていなかったりしている。昨晩は、10時過ぎに寝た。そして、眠る前に、しっかりと「夢」を覚えているようにとお願いをしておいた。そしたら、今朝は朝早く起きたにも拘らず、夢をしっかり覚えていた。アジアの暖かい国に、医学の学会の為に滞在していた。そこにはプールがある。プールは混んでいたが、背の立たない深さの所があり、そこは空いている。そこで、プールの底に潜った。いくらでも潜っていられる。200メートルくらい潜っていても、全然息苦しくない。そうしている内に、人が心配して入ってきた。そこで、「夢ワークをした」自分がも一度、そのプールで自由に潜水している場目に、入っていく。気持ち良く、泳ぐ。すると、自分が「イルカ」になってきた。そうだ、昨晩、テレビで見た、あの白いイルカたちだ。人懐っこく、自由に海の中を泳ぎまわっている。私はもっと、もっと、自由になっていいのだ。イルカになって、海を自由に泳いで、いいのだ。今度は、イルカたちに追われる、小魚の群れの中の一匹になる。集団で動いている。集団で身を守っている。しかし、イルカたちに囲まれる。段々とイルカが迫ってくると、恐怖に感じられる。皆がいるから、大丈夫だと思っても、回りから圧迫されてくる。この集団でいるのが、安全と同時に、また、危険を招いているのだ。今度は「海」に入ってみる。海になると、さすがにゆったりとしている。冬の海、今度は表面が氷でゴツゴツしている。硬い、風の吹きすさぶ世界だ。何もない。その氷の下に入ってみる。すると、意外に穏やかな海。光が僅かに射して来て、静寂の世界。暖かさ、さえ感じる。この感覚は、自分の内面の感覚と同じだ。外はとげとげしい世界でも、或いは冷たくみえる世界でも、自分の内側に入っていけば、その暖かさと、静寂が感じられる。昨晩の番組は、シロクマを中心として、北極の一年を追いかけている。冬が来ると、シロクマの親子は氷の上を沖まで出て行き、アザラシなどの餌を探す。その場面で、一頭の親と一頭の子が逆方向に、陸へと歩んでくる。その場面を、居なくなってしまった、もう一頭の子を探して母親が陸に戻って来たのだ、という。遠くの地平線に視線を走らせ、じ~と目でわが子を追う。そして、親子グマは一晩、他のクマばいなくなった陸地で過ごす。翌朝、クマの親子は再び氷の上を沖に歩く。母グマには、もう迷いがない。凛として歩く。そんな最後の場面が印象的だった。
2009.02.03
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一冊の本をプレゼントして頂いた。その本のタイトルは「持っているだけで奇跡が起きる本」(中河原 啓著、明窓出版)。確かに、エネルギーに満ちた絵に文字がパラパラちりばめてある。あんまり文字数が少ないので本文の文字を数えたら、176文字だった。これだけ、文字数が少ない本も珍しいだろう。内容は、潜在意識につながった状態で、直感によって書かれた文章。私たちが、宇宙につながっている事をもっと、もっと意識する必要がある。意識した時には、宇宙からの無限の恩恵を受ける事ができると、いうのが骨子だ。頭でなく、心で読み解く本だ。直感やコネクトして状態での、文章がこれから益々増えるだろう。
2009.02.03
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BODY TALKという最近日本に入って来た施術を受ける機会があった。クライアントは単に横になっていればいい。セラピストが腕を動かしながら、決められたプログラムに従って先に、先にと進めて行く。途中で質問される事がある。「手術を受けた事がありますか?」「・・・・歳の時に何か大きな出来事がありましたか」などである。周りが騒がしくても、また、セラピストとクライアントが雑談をしていても、一向に構わない。セラピストがとても上手なので、流れが出来て、とても気持ちがいい。終わると、とてもリラックスできて、癒された気がする。このボディ トークをHPで調べるといろいろ載っている。「ボディートークは包括的な質問から成るプロトコールと筋力反応(神経筋バイオフィードバック法)を用いて、傷つけられたり、分断されたコミュニケーション網(リンク)を探しだします。軽くタップするというテクニックで、バランスを崩したリンクを脳に修復させ、そして新しく修復されたリンクを心臓に記憶させます。このテクニックは全く安全でノン・インヴェイシブ*なので、多くの分野の医療従事者は、ボディートークのテクニックをそれ単独、または他のヘルスケアテクニックと併用して使い始めています。ボディートークは包括的 ボディートークはホリスティック(心身一体的)なヘルスケア様式です。体の個々の部分をばらばらに診ていくのではなく、それぞれの部位がすべてつながり合い、コミュニケーションをとり合い同調してこそ体がうまく機能している、という心身を全体で一つと考えるのがボディートークの基本的な考え方です。ボディートークは包括的で機能的にデザインされたエネルギー療法のシステムです。高く評価され認知されているヒーリングの様式や理論の多くを包括し、ひとつのシステムに組み入れることにより、ボディートークは絶え間なく発展し続けています。ボディートークは、肉体的な問題だけでなく、精神的、感情的なあらゆる問題に焦点をあてることができ、しかもボディートークだけでも、また他のどんなヘルスケア様式とも統合し、その効果と即効性をさらに促進することができます。 ボディートークはエネルギー・ネットワークを調和します 体は、エネルギーと意識と肉体的機能からなる動的な、相互作用と依存に支えられているネットワークです。鍼灸、応用運動学、ホメオパシー、ヨガ、心理学のような代替エネルギー療法のシステムは、それによっていかにめざましい変化が心身複合体に引き起こされるかを明瞭に証明してきました。科学も、体は様々な波長レベルで機能するエネルギーから構成されていると証明しています。ボディートークはこれらのエネルギー・ネットワークを調整するので、体全体のバランスをあらゆるレベルにおいて改善することができます。」文章は難しいが、私たちを、心と体が相互に影響を与え合っているのであり、そこにはネットワークがある。それが、私たちが過ごして来た生まれてからの生活の中で、大きな出来事、それは手術など、体に加えられた侵襲であったり、また、心が傷つくような精神的なショックなどにより、本来のエネルギーの流れが、そこで停滞している。そこを探し出し、そこで停滞しているエネルギーを本来の流れに戻してあげるのが、この手技の基本的な考えかたなのだろう。体に答えを聴く、この考えかたはとても理解できる。オーリングテストやスリーインワンなども、体の筋肉の反応に基づき、yes no を決めていく。私にして下さったセラピストさんが、スリーインワンに似ていると言われます、と話してくださった。私もスリーインワンを少し習った事がある(とはいえ、殆ど忘れていますが)ので、体に聴く感覚は似ていると感じる。私は、スリーインワンを習いに行ったので、施術をきちっと受けた事がないので、それ以上の事は分からない。これから、体を総括的に眺め、エネルギー或いは波動など人間の本来持っている力のバランスを整えたり、そこに関与するこころ(魂もふくまれるのだろうが)も一緒に修正し、バランスを取る時代を迎えつつあるのだろう。F先生、ありがとうございました。
2009.02.02
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昨日、1時間くらいの講演を依頼された。テーマは、外科医から現在のような補完・代替医療を選択するに到った経緯とどんな事をしたいのか?についてだ。まあ、自分の経験を話せばいいのだから、気が楽と言えば楽、しかし、聞いている人とっては、くだらない、聞きたくもない個人歴では飽きてしまう。自分が何をして来て、どんな風な事をしているかについては、いままで何回か話す機会があったので、スライドはパワーポイントに出来ている。今回もスライドが使える状況にあったので、当初、スライドを使って説明しようかと思っていた。使うスライドが決まれば、話の内容も決まってくるし、残り時間も計算できる。でも、昨日はスライドを使わないで、壇上の真ん中に立って話をした。以前に、天外伺郎氏がこんな事を言われていた、「私は、スライドは使わない。潜在意識から話す時には、スライドは話しにくい、ホワイトボードは使う」と。確かに、何回か天外氏の話を聴く機会があったが、スライドを使用していなかった。その場で感じた直感に従って、話してみよう、そう思った。これは、簡単なのだが、意外に勇気がいる。概論は決まっているが、各論はその場のお任せになるし、話の筋道がどうなるのか、本人自身も分からないからだ。話の内容は結果的には、「スピリチュアル」な話題が多かった。後で、知り合いのやはり講演された方が、今日の聴衆の人たちは、スピリチュアルに理解がありましたね、と話されていた。壇上で一人で話す人、聴いている人、そこに他に何も入る余地がなければ、その間は直接的な関係になり、スライドの様な間に入るものが無くなる。私は、聞いてくれている人の反応を自然に感じ取って、それに合わせて自分の言いたいことを話していたのだろう。話している自分がいて、それを見ている自分がいる。直感で話すとは、催眠状態で話す事と同じだ。結果を出来るだけ気にしないで、ただ、話したいことを話す、それがいい結果を生み出すのだろう。
2009.02.01
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