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僕には前世の記憶が全くない。この世で何をするために生まれてきたのだろうといつも思っている。そして答えは思い出せない。なぜ白紙のまま生まれてくるのだろう。神様がいるなら、どうしてそうするのかきいてみたい。 何度も人生を繰り返して魂は浄化されていくのだろうか。浄化された魂を拾い集めて穏やかに清明に澄み切った世界を作ってどうしようというのだろう。地獄も嫌だけど、そんな世界も退屈でしょうがないだろう。結局この悲しみの惑星にまとわりついているのが僕にはあっているのかもしれない。 意識がどこから生まれてくるのか、十分に複雑な神経細胞の量子論的な構造に魂が宿るのだろう。その魂はどこにあるのか。この宇宙のあらゆる処に量子のもつれとして存在している。脳は魂の宿る生体量子コンピューターなのだろう。生体量子コンピューターが機能を止めるとそこに宿った魂は量子のもつれとして全宇宙に放出される。おそらくそういうことなのではないかと思っている。そう考えると臨死体験者たちが語る死後の世界も説明がつくからだ。 さて、なぜ生まれてきたのか。愛の成就のためだろうか。できることなら愛というものを全うしてめでたくこの人生を終わりたかった。しかし不完全だった。なぜ不完全だったのか。それはそう望んでいたからではないのかと自問している。なぜなのか僕にはわからない。あえていうならここは悲しみの惑星だから。 やがて僕は深い涙の底におりてゆく。誰かを哀しい夢から目覚めさせるために。
2016.08.17
宇都宮氏の動画を拝見しているが、言っていることはきわめてまっとうで、感心した。僕と同じことを言っている。安倍政権を独裁とかいって批判しているく せに、左翼陣営は民主主義を否定するようなもっとひどい独裁だったと今回の選挙を振り返って本音を漏らしている。しかし、それはそうだが、気づくのが今頃 なの、と思う。もっと早く気づくべきではなかったのか。どうして気づかなかったのか。それはやはり左翼特有のお花畑脳のせいだったのではないか、と思う。 それに中国やソ連の共同幻想の有様を見ればとっくの昔にわかるのではとも思う。ともあれ、お花畑脳からやっと脱出できたことはよいことだと思う。宇都宮氏 に降りろ降りろとほざいていた人たちは今どう思っているのか。たぶん何も反省すらしていないだろう。自分たちが民主主義を踏みにじっているのもわからない ような浅はかな人たちだ。民度が低すぎる。 ここで僕が感じるのは、左翼も右翼も、戦後体制の虚構を協力し合って維持し てきたいわば狂言でしかなかったのではないかと言うことだ。左翼とか右翼という概念で語られてきた言説はすべてただのレッテルに過ぎなかった。表層に浮遊 しているただのレッテルだ。我々は言葉の表層でレッテルと戯れていたに過ぎない。思考は表層で空回りし本質に届くことはなかった。もはや、これらの言葉は 死語でしかないと思う。レッテルで戯れる時代はもう終わったと僕は思う。また「平和憲法をまもれ」とか「戦争反対」などのレッテルを叫んでいれば野党とし て容易に飯が食える時代ももう終わったのだと言いたい。 戦後の虚構はもうたくさんだ。さんざん虐げられてきた我々の今までの歴史は何 だったのか。日本の失われた70年だ。左翼も右翼も人々を騙し本質を考えさせないための狂言回しに過ぎなかった。もっとはっきり言うなら日本を自立させな いための米国や中国から金をもらって働いていた工作員だったのだろうと思う。 僕は本当の日本を取り戻したい。そのためには左翼でも右翼でもなく、現実を直視する厳しい現実的思考と物事の表層から深層へ降りてゆき本質へと迫る思考の強度が必要だろう。
2016.08.15
今回の都知事選は保守分裂にもかかわらず鳥越氏の自滅で小池氏の勝利となった。増田氏か小池氏かということで小池氏が勝ったと言うことは自公の組織戦に対する批判が集まったと言うことだろう。 ところで老齢ということを差し引いても誰がみても宇都宮氏に遙かに劣る鳥越氏を推した人物もそれにのっかった野党も、都民に対してきちんと弁明し謝罪すべ きなのではないかと思う。そうでなければ都民をなめていると言うことになると思う。このまましらんふりではもう二度と信用は取り戻せないだろう。やはり一 般大衆というものをなめてはいけない。こんなくずを候補に立ててしまって申し訳なかったと誤るのが筋ではないか。野党は人々の心をつかむということが全く できていない。もともと思考力の浅い人たちなのでそんな能力もないのかもしれないが、それでは困るのだ。 やはり健全な野党が民主主義には必要な のだ。それは一般大衆を扇動して浅はかなプラカードを持たせることではないのだ。思考力において、そして人間力において与党を圧倒することによって戦うべ きものなのだ。そういうひたすらな姿勢をみせることによって人々はついてくるのである。人々にあほなプラカードを持たせるような野党なら消滅した方がい い。 このことを、もっと本質から言うならば、左翼の源流はマルクスだが、なぜマルクス主義が失敗したのか、日本の自称左翼の連中は少しでもまと もに考えたことがあるのだろうか。おそらく真剣に考え抜いた人は誰もいなかったと思う。ほとんどがただの詐欺師に過ぎなかった。マルクスに欠けていたのは 共同幻想というものの分析と思考だったと僕は思っている。共同幻想はよりかかり利用すべきものではなくむしろ解体し消滅へと向かうべきものとして思考のベ クトルをとるべきだったのだ。それがなかったためにソ連も中国も共同幻想の上にあぐらをかいて特権階級に堕落してしまった。人々を扇動し仮に政権を取った としても共同幻想解体へのベクトルがなければ同じことを繰り返すだけなのだ。人々を扇動するのではなく人々のそして我々の共同幻想を解体する方向へ思考力 を行使するべきなのだ。だから僕は人々を扇動しようとするありとあらゆる団体、政党、宗教、市民運動を否定している。 ところで僕が気になっているのは、ぱよくな文学者たちの弁明だ。この人たちは一般大衆じゃないんだから、今いったいどう考えているのかきちんと表明すべきだろう。こんな鳥越ごときくずを推したことに対してどう思っているのか。 まさかほっかむりして逃げ出すつもりではないでしょうね。
2016.08.15
「安倍政治を許さない」と標語なのかプラカードなのか知らないけれど、掲げている人々は、自分たちがどんなことをやっているのか、何も考えずにそんなことをしているのだろうと思う。左翼の扇動に踊らされてしまっている哀れな人たちだと思う。 僕は別に安倍さんの支持者ではないし、心の祭壇にまつっている言葉は「すべてをうたがえ」というマルクスの言葉だから、僕こそが左翼の本流なのだが、その 僕がなぜ日本の左翼を批判しなきゃいけないのか。それは日本の左翼が、ソ連や中国の共産党と同じ体質をもったただの詐欺師に堕落しているからだ。 我々は権力と対抗するには、唯一思考の深化によってのみ対抗すべきであって、大衆を扇動して、「戦争反対」とか「安倍政治を許さない」とか、思考停止のプ ラカードを持たせることではないのだ。大衆を扇動し大衆に馬鹿っぽいプラカードを持たせている連中は、左翼でも何でもない、ただの詐欺師であり、中国共産 党の幹部連中と同じ人間のくずだと僕は思っている。 我々一人一人が本質は何なのか、深く考えることによって、政治屋に騙されないで、政治をただすことができるのだ。何も考えずプラカードをもって反対すればいいというものではないのだ。 僕はこういうプラカードを掲げている人たちを見ると、いつだったか国会で野党の議員たちがプラカードを掲げてテレビ目線でちらちらやっていた悲惨な光景が フラッシュバックされる。結局全然議論もせずにぶらぶらプラカードを掲げてお祭りし議員としての仕事放棄し、しかも採決も欠席するなど、およそ先進国の民 主主義国家とは思えない悲惨な光景に僕は唖然とした。あんな馬鹿どもにひとりあたり年6000万もの血税をなぜ我々国民は搾取されなければならないのか、 国民は誰も怒りの声を上げないのかと思ったものだ。 大衆が日本の左翼の詐欺師どもに簡単に扇動されるのは、紋切り型の表層思考に陥って いるからだ。物事を考えているようでも実は何も考えていない、思考は本質に届くことはなく表層で空回りしているだけなのだ。いわば思考停止していると言っ てよい。プラカードを掲げている人は、思考停止している人なのだ。 よく考えてほしい。「安倍政治を許さない」とはまるでファシストの言 葉ではないだろうか。安倍さんの政治に賛成して票を入れた人たちを否定するということはつまり民主主義を否定すると言うことだろう。民主主義に対してなん ら敬意を払わない人々ということになる。あなたたちはさも民主主義のふりをして実は民主主義を冒涜しているのだ。
2016.08.13
参院選も結果が明らかとなりテレビでは憲法改正に必要な環境が整ったようなことを報道している。そして護憲派か改憲派かという言葉ばかりが飛び交っていて一番重要な話や議論は全く出てこない。これは異常な状態だと思う。 これは表層のみでレッテルを貼り議論しているようにみせかけ人々を誘導し騙そうとする詐欺師の常套手段のようにみえる。 問題は護憲派か改憲派かということではないのだ。なぜ憲法の改正が必要なのかという深層において丹念に辛抱強く議論をしなければならないのだ。その部分を すっ飛ばして憲法改正を即戦争と結びつけて宣伝する野党の姿勢には、きわめて不誠実で大衆を脅迫し扇動しようとする意図があるのではないかと疑わざるを得 ない。 僕は一般大衆で護憲派でも改憲派でもないが、表層で踊っている言葉だけでものをいう人には不信感を抱く。物事の本質から、つまり 深層から問題を掘り起こして丹念に論理的に議論を積み上げ説明しようとする人は、かりに賛成するにしろ反対するにしろ、耳を傾け聞くに値するだけの信用で きる人だと思うのだ。 憲法改正が取りざたされるようになってきたのはさまざまな現状にあわない不都合な点が出てきたからで、その点をひとつひとつ事実情報として国民に知らせる努力をするべきである。そうしなければ我々国民はまともに考え判断することはできないはずなのだ。 事実情報を国民も議員も共有し問題の所在を確認したところから、その問題を解決するためにはどうすべきなのか、議員の方々はそこを真剣に議論してもらいた い。我々国民はその議論を見て自分たちの頭でも考え判断する。それがあるべき姿ではないだろうか。僕はそうしてもらいたいと切望する。 表層に踊っている言葉で議論しているようにみせかけ、憲法改正で自民党は戦争をもくろんでいると安直に書いて宣伝している人々を、僕は不誠実な人々だと思う。やっていることは詐欺師と同じなのだ。 表層に踊っている言葉や脅迫に騙されるなということだ。物事は深層から考えなければならない。ものを考えるということは深層へとたどることなのだ。 「羊の沈黙」の中でドクター、レクターは言っている。 「本質は何かを考えよ」と。 アメリカ人がそんな台詞をいうとは、なんだか胸熱だったので記憶に残っている。
2016.08.13
今さらマルクスを持ち出すのもあれだけど、一つだけ記憶に残っている言葉がある。 それは「すべてを疑え」という言葉だ。この言葉だけは心に刻んでおいてもいいんじゃないかと思っている。何かを書くとき、自分の思考が上滑りしているか本当に的を得ているか、「すべてを疑え」という言葉がいつも監視の目を光らしていて緊張感をもたらしてくれるからだ。 逆に言えば自分の思考を全く疑いもせず垂れ流すのはたるんだ精神の産物でしかないと思っている。 たとえば「平和憲法を守れ」と言う言葉が表層で踊っていても誰も気にもとめず垂れ流しにされているけど、立ち止まって変だと思う人はいないんだろうか。 「すべてを疑え」の僕は変だと思う。 まず平和憲法という言葉である。 そもそも憲法というものは国家がすべきことと、してはいけないことを規定するものであって、平和ということはその中の一つの要素でしかないし、どこの国の 憲法だって平和を目指さない憲法なんてあるんだろうかと思う。たぶん憲法9条があるから日本の憲法は平和憲法だと思っているのかもしれないが、戦争しませ んと書いてあるからと言って本当に平和憲法なのか僕は疑問に思っている。憲法に戦争しませんと書くだけで平和になるなら各国の憲法にそう書けばいいんじゃ ないか。なぜ書かないの。それは書いたからって意味がないとわかっているからでしょ。憲法9条にノーベル平和賞を、なんて世界中の人々から日本ってあほ じゃねと思われているんじゃないかな。もっと言えば憲法9条のせいで我々日本人は殺されたり拉致されたりしているという事実がある。これのどこが平和なの か、本当に平和をもたらしているのかと、平和憲法といっている人たちは疑わないのだろうか。 「平和憲法」という美辞麗句の言葉によっていかに思考が上塗りされて深まりもせず単なるレッテルとして表層に漂ってしまっているか、である。 そして憲法を守るのは当たり前のことじゃね、と思う。憲法を守ると言うことと憲法を変えるということは別のことであり何も矛盾していない。ここにもやはり何の疑いもなく思考が上滑りしているのがみえる。「平和憲法を守れ」はもはや表層雪崩を起こしているくらいのずさんな思考によつてもたらされた言葉としか言いようがない。 自分の思考を注意深く観察して正確な言葉を選ぶべきなのだ。正確に言うなら「おらは、憲法9条絶対変えたくねえだ。」だろう。 思考がそんなに杜撰だから日本国憲法の中の変な日本語にも気がつかないんだろうな。 アメリカの20代の若い事務員の女性が敗戦後のどさくさ1週間くらいで作った変な日本語の憲法を後生大切にしようと叫ぶ人たちって、僕は情けないと思うんだが、あれと同じ感じがする。アッラーアクバルと叫んでいる人たちとね。
2016.08.12
しばらく前まではこちらでは冷夏が続いていて夜中に目が覚めると寒さでふるえている状態だった。ところが昨日から突然夏日になって夜も気温が下がらず寝苦しくなり、今日の夜もやはり寝苦しさでベッドの上で眠れず暑さに寝返りをうっては扇風機の生暖かい風にあたりながらうつうつとしていた。 しかし、何かの瞬間にふと睡眠に入ったのかもしれない。僕はベッドの上で眠りながら何かの音を聞いていた。きーんとなっているので誰かが掃除機をかけているのだと思っていた。やや耳障りな音でこれじゃ眠れないなと眠りながら考えていた。 まもなくぱたっと音がやんだので掃除が終わったのかもしれないと思い、いったいこんな時間に掃除機をかけているのは誰なのかを確かめるために、僕はベッドから起き上がってドアを開けて見にいった。 するとそこに彼女がいた。彼女は一人でご飯を食べているようだった。彼女は普通の日常生活をおくっているみたいに僕が隣にきても平然としてごく当たり前のようにふるまっていた。 僕は隣に座ってまじまじと彼女の顔をみながら彼女に言った。「あなたはもうこの世にいない。僕はあなたが骨になるのを見たんだ。」 彼女は怪訝そうな顔をして僕を見た。しかし何も言わなかった。 次の瞬間僕はそれが夢だったんだと気づいた。おそらく数秒程度の短い夢だった。 彼女はまだ自分が死んだことを理解していないのかもしれない。 今日の夕刊にこちらの地方では第一人者の詩人が詩をのせていた。たぶん彼女が亡くなったのをどこかで知ったのだろう。追悼のつもりだったのかもしれない。 しかし僕はその詩になぜか違和感を感じていた。彼女が現れたのもそのせいかもしれないとふと思った。
2016.07.30
最近午前二時とか三時に目が覚める。目が覚めると冷気が漂っている。魔物がやってきているのか、それとも彼女が来ているのだろうか。いずれにしても僕はちっとも怖くない。仮に魔物が僕の命を奪いたいなら、いつでもどうぞと僕は思っている。この世界に一人でいるよりは彼女に会えた方がいいからだ。それに僕は悲しみを忘れたくて最近は政治の文章にのめり込んでいる。 午前三時といえば、彼女がうなされた時間だった。ときには悲鳴を上げたこともあった。いったいそのとき彼女はどんな夢をみていたのか、どんな世界をかいま見ていたのか、彼女は僕に語ったことはなかったし、僕もそういえば一度も聞いたことがなかった。 二、三日前になるが、僕はそれまで一度も見たことがない変な夢を見た。うなされはしなかったけど、声がのどまで出かかるような夢だった。 それは狂気じみた世界の夢だった。シャイニングの映画で狂気じみた世界を描いていたが、もちろんディテールは異なるが、狂気の質はほとんど変わらないくらいにリアルだった。僕は前に住んでいた町の駅周辺の交差点にたたずんで狂気の世界の様を息をのんで眺めながらなんとかその世界から脱出しようと必死になっていた。ひからびた死体の群れやら手足などが、変な音楽に乗って駅の方へずんずんずんと流れていく光景だった。かと思えばレストランで和やかにファミリーたちが食事をしている処に突然強力な力で何かがレストランになだれ込んできてそのファミリーたちが外に放り出され殺されてしまったりした。僕は駅の脇の通路から脱出に成功して、線路の向こう側の駅のエレベータに乗って上に上っていった。しかしそれが途方もなく高かったので僕は変だなと思い、ひょっとして脱出したわけではなかったのかと心配し出した。夢はそこで終わって、時計を見たら午前三時を二〇分ほど過ぎていた。 いったい何の夢だったんだろうと二、三日ずっと考えていた。もちろん、考えたところでどこにもたどり着けなかった。 それからそんな夢はまだ一度も見ていないが、もう一度続きを見たい気がする。エレベータを登り切った駅はどういう光景が広がっていたのか、それを見る前に目が覚めてしまったからだ。
2016.07.22
世にでまわっている彼女の詩集は知人や大学の友人にあげたもので、おそらく100冊前後だと思われる。あるいは著名な文学者に贈呈したものも幾冊かあるかもしれない。どこか本棚の隅に埋もれたままほこりをかぶって眠ったままになっていると思う。どうか、そのままにしておいてもらいたい。手にとって開いてはいけない。できれば焼却してもらいたい。その詩集は、趣味で文学をなどという領域を超えてしまっている。マジで危ない書物なのだ。僕が知っている限りではその詩集は彼女の前にもう一人犠牲者を出している。 僕は彼女の詩を駆け足で読んだのだが、それは立ち止まってじっくり読むのがこわかったからだ。やはり得体の知れないものが潜んでいると直感で感じていたのかもしれない。なるべく深部を見ないように表面の字面だけを急いで通り過ぎた。それでも最後の詩にはくらっとめまいするような変な感覚にとらわれた。それ以来その詩集を開くことはなかった。 今僕はその詩集を目の前にして逡巡している。まだ踏み込めないでいる。それに別の知識の準備が必要かもしれない。とにかく急がず十分な時間をかけ機が熟すのをまとうと思っている。
2016.07.19
僕と彼女は離ればなれになった後も緊密に連絡を取り合っていた。僕は郷里に戻ってそこで生活をし、彼女は東京に残って生活をした。彼女の母が入院した際は一緒にお見舞いをしたこともあった。離ればなれになったけれども、結界は有効に働いていた。 魔物は結界が破れないと見ると、今度は僕の一瞬の心の隙をついて僕に牙をむいて襲いかかってきた。僕は原因不明の病にかかり体が動かなくなって入院することになった。そのとき僕は死を覚悟して今生の別れと思い彼女に連絡をした。彼女は東京から駆けつけてきてくれた。 そのとき僕は本当に死を覚悟して、郷里の風景にもさよならとブログにつづっていた。しかし、僕は肩すかしを食った。僕はなぜか回復し生き延びることになった。魔物のねらいはもともと僕ではなかったのだ。 彼女はそのとき直感的に悟ったのかもしれない。このままでは僕が殺されてしまうということを。彼女は一人で立ち向かうことを決心したのだろう。彼女はそれからしばらくして連絡を絶った。 僕は老後再び一緒に暮らすことを彼女と約束していたので連絡がなくてもとくに気にもせず自分の文章を書くことで頭がいっぱいだった。そのとき彼女は僕に助けを求めることもなく、狂気の中で魔物と死闘を演じていたのだ。おそらくそのときには僕に連絡を取ることもできないほどに疲れ果てて衰弱していた。そのことを遠くにいた僕は全く知らなかった。 ある日突然訃報が届き僕は愕然とした。彼女とやっと再会を果たしたときには彼女は棺桶の中に横たわって静かに眠っていた。 彼女は生前一冊の詩集を出していたが、その詩集の一番最後の詩に自分の最後を正確に予言していた。 魔物はその詩からこの世に現れ、やがて彼女をつれてその詩の中に戻っていった。 これは実際この現実の世界で起こった事実でありフィクションではない。魔物とはいったい何だったのか、なぜ存在するのか、僕に突きつけられた謎だが、僕はまだ負けたわけではない。少なくとも僕は生きている。そして彼女が書き残したもの一つ一つの中に彼女の魂は宿り生きている。彼女を魔物から取り戻すための何らかの手がかりがあるのではないかと考えている。
2016.07.14
この僕が魔物について考えざるを得なくなるとは夢にも思わなかった。魔物とは想像上のフィクションでしかないと思っていたが、僕がこの人生で実際体験し目撃したものは魔物としか言いようがない何かだった。 彼女は生まれたときから魂と肉体の齟齬に苦しんでいた。魔物はその隙間に忍び込んで眈々と機会をねらっていた。彼女に文学の才能を与え思春期に詩を書かせた。魔物はその詩を通してこの世界に現れ彼女を捕捉することに成功した。 しかし同時にその詩は僕を彼女に巡り会わせることになった。僕は彼女の結界となった。長い間魔物は彼女を奪い取れなかった。もちろん魔物は黙ってはいなかった。結界を破るために様々な工作をし試煉を与えてきたのだ。 今になって結果的にわかることだが、そのときは彼女が抱える魔物も自分が結界を作っていたという役割も全く知らなかった。 魔物の工作はついに功を奏し彼女と僕は離ればなれになってしまった。 そして何年か後、魔物は彼女を魔物が出てきた詩の中に連れ去って帰っていった。
2016.07.12
かなしい夢を見た朝私はあなたを見失ってしまう朝 霧の中を駆けてももつれた足あとだけがしずかに残る 今朝はとてもさむいので あなたの熱が欲しいのに朝 いつのまにか夏は終わり私の細胞は病気におかされはじめ腐った姿だけをさらしている もうあなたを見るのもまぶしす ぎて視力を失ってゆく私の瞳 もうあなたを愛することもでき ないほど急によごれた私の思考きのうまでは青く 光に満ちた季節に確かに包まれていた無邪気な小鳥たちが潜む汗ばんだ若い季節悲しい夢を見た朝私は疲れた光をひっそりといとおしむ やがて陽が私の腐肉にもあたると 小鳥たちは 私のすべての光を内蔵して やさしく残酷にさえずりながら ゆっくりと私から 飛び立ってゆくのだろう・・・・・・
2016.07.10
あなたはもうすぐ僕の住む郷里に帰ってくる。 その前に書いておこう。 僕の初恋の人は死ぬ間際たぶん僕のことなど思い出さなかったと思う。 でもあなたはきっと僕のことを思い出してくれたはずだ。いや、もう一度会うことをずっと密かに心で待っていてくれた。 僕が死を覚悟したとき僕はあなたに連絡を取り、あなたは駆けつけてきてくれた。 あなたは死を覚悟したときなぜ僕に連絡してくれなかったのだろう。 とても悲しいけれどこの世は一時的な仮の住まいだから早かれ遅かれ時がくれば私たちもみんなそちらへ移行する。 あなたはきっと僕を待っていてくれると思う。また一緒に暮らそう。 あなたは文学を捨てて、悲劇的な文学そのものを生きたのかもしれない。 今僕は悲嘆にくれているけど、後しばらくはあなたのいない世界で生きてゆかなければならない。まだ残務整理がちょっとあるから。 あの世でまさか三角関係には成らないと思うけど、なったとしてもあなたを選ぶと約束する。 さて、あなたは今頃生まれ育った家に到着した頃だろうか。明日の夕方最後のお別れにゆく。
2016.07.08
TPP条約の文書は600ページにも上るらしい。普通国家間の条約でこんな膨大な量になるのはきわめて不自然だ。明らかに量を膨大にすることによって本質を隠そうという意図があるに違いない。そして条約締結までその内容を国民に秘密にするというのは、国民に知られると困る内容だからだろう。国民に内容も知らせずに政府が勝手に締結まで進めて本当にいいのだろうか。 伝え聞くところによると明らかに不平等条約だと思われる。条約に使われる言語が英語、フランス語、スペイン語のみで日本語が入っていないのだ。 しかも国家間のトラブルの裁定は国の法律には関係なくアメリカで行うことになっているという。当事者の国より1名ずつだしてそれにアメリカ人の裁判官を加えて行うのだそうだ。これってはじめからアメリカに裁判で負ける仕組みに成っている。どうしてこんなことがまかり通るのか。日本の政府は何を交渉していたのだろう。関税をもう少し下げてくれとか上げてくれとかそんなことばかりしていてこんなとんでもない不平等は気づかなかったのか、それとも金で買収されていて日本には不利になるのが承知の上でみて見ぬふりをしているのだろうか。 これは少しでも何か不利益を被ったらすぐ裁判に訴えられるということである。日本はとんでもない裁判で莫大な賠償を請求される社会になるだろう。これって、アメリカは今までさんざん日本にたかって遊びほうけて国がだめになってしまったから今度は日本を訴訟のターゲットにして自分たちのところで裁判を起こして賠償金を巻き上げてその金で食っていこうということなんじゃないだろうか。 実際カナダやメキシコではアメリカに裁判を起こされて何百億という賠償金を払わされているそうだ。カナダやメキシコもアメリカを訴えているのだが、全部1対2でアメリカに負けている。当たり前だが、小学生でもわかることを本当に気づかなかったのか。たぶん買収されていたのではないかという気がする。民主主義は国がどうなろうが自分が儲かれば後は野となれ山となれという売国奴もいるわけだからこうなってしまうわけだ。 やはり政府はこういう国民の疑念や不安にきちんと答え説明するべきではないだろうか。 まず、第一に不平等条約ではないかという疑念だ。 第二に国の法律や裁判より上にアメリカのインチキ裁判があるのは誰が考えてもおかしいし、難癖をつけられて訴訟だらけになり訴訟に関わることで多大な時間と労力をとられた上に敗訴が決まっているわけだから賠償金で国も地方自治体も企業も破産してしまうのではないか。こんな売国奴まがいな条約をなぜ結ぼうとするのか。 第三に国民に秘密にして条約を結んで後で内容や実態を知って国内が大騒動になったときに条約の破棄はできるのか。そしてどう責任をとるのか。 今参院選だがTPPのことを争点に取り上げている候補はほとんど見あたらない。戦争法案反対だのTPPに入っても農業は補助金で守るから心配ないとか。・・・・おいおい、そんなことしたらすぐ訴訟起こされて数千億単位の賠償金請求されることになるだろうが。もしかして条約ちゃんと読んでない? 英語だからな、ほとんどの議員さん、読んでないね。600ページも英語で読めるわけないものな。こんなていたらくじゃアメリカにやられてしまうだろうね。 アメリカは日本はやがてアジアの三流国に落ちぶれると予測している。売国奴の政治家たち、本質を考える力のない国民、となればそれも必然かもしれない。
2016.07.06
今頃になって僕は「1Q84」を読んでいる。いい音楽を聴いたとき僕は何かを書きたくなるのだが、今がそんな状態だ。僕は図書館から借りてきた本を同時に何冊も読む。様々なティストを同時に味わう。そして精神の質量というものを計っている。率直に言って今読んでいる「1Q84」はずば抜けていると感じる。「1Q84」は魂の乱数表に刻まれたいわば魂の暗号なのだろう。我々は作者と一緒に魂の暗号を解読することになる。そしてとても深い慰安を受け取る。それはたぶん単なるエンターティメントの小説では得られないものだろう。 去年僕の初恋の人がガンでなくなった。僕がどうしても知りたいのはその人が死ぬ間際に僕のことをちょっとでも思い出してくれただろうか、ということだった。もうその人はこの世にいないのだから僕は永遠に解答を得られないままで残された人生を生きなければならない。途方に暮れて生き続けるのはきついことだ。 そういうときに、たとえば「一人でもいいから。心から誰かを愛することができれば、人生には救いがある。たとえその人と一緒になることができなくても」 というような言葉に出会うと僕は深い慰安を感じる。なんだか救われたような気がする。そういう言葉を表出する人が僕と同じ世界に生きているということに感動を覚える。 それは「You don't need a reason.Let tha day go on and on」と歌うエンヤが与えてくれる深い魂の慰安と同じものだ。 そんなことを考えたりしながら今日はbook2を読んでいた。明日はbook3を読むことになるだろう。
2016.06.25
都の財産を勝手に韓国に売り渡して国民から怒りを買いいろいろと詰問された結果正体がばれてしまった都知事だが、この期に及んでもまだ都知事のいすに居座るつもりらしい。昭和の初期だったら命の危険を感じて日本から脱出しなければならないところだろう。そのくらい人々の目は厳しく昔の政治家たちは命をかけてやっていたと思う。 都議会が知事を辞任に追い込めなければ今度は都議会に厳しい世間の批判がゆくだろう。特に朝鮮はげどぶねずみを担いだ自公は都民から見放されることになる。選挙になったら都民をなめきった代償は払わされることになると思う。都民だけではなく国民がこの事態の収拾を見守っているのだ。特に自民党は迅速な対応を示し手を打たないと参議院選で大敗しかねない。もうすでに国民の目に映っている印象はかなり悪いのではないだろうか。民主に絶望して自民に託したのに再び裏切られたとなるとその反動は大きいだろう。怒っている若者は絶対投票に行こう。そして怒っているということを示さなければならない。議会が無能ならみんなまとめてリコールしかないだろう。都民には日本を守るためにがんばってほしい。昔都民だったが今は都民じゃないのが残念だ。 しかし、そうなると共産党が躍進することになるのだろうか。共産党は政党助成金も受け取っていないそうだし一見すると良さそうに見えるのだが、実態はその思想がとんでもなくやばい政党だ。日本になぜこんな政党が存在しているのか理由がわからない。全く僕は彼らを同じ日本民族とは思えない。いったいどこの国の人たちだろうと思っている。もし都知事をここから出して主流派を占めたら中国の汚職国家と同じ状態になるだろう。初代連合会長が労働運動に取り組んだとき共産党の労働運動の人たちは上から目線で威張り散らして全くとんでもない連中だったと証言している。それは汚職にまみれた中国の共産党の連中と同じにおいがする。 そうなると結局どこの政党もどれもこれもくそだということになる。うんこA、うんこB、うんこC、からさあ選べといわれてもねぇ、困るよ。 民主主義はもう行き詰まっている。コストがかかりすぎて結局税金になって我々の生活を圧迫するようになってしまった。二院制はいいのだが両方とも議員に任せたのが失敗だった。議員たちの横暴や暴走を国民は制御できない。僕は参議院はネット上につくり直接民主主義として国民が自由に参加し意見をいい、国民が評決できるようにするべきだと思う。 たとえば政党助成金がザル法だとわかっていても議員たちはいっこうに直そうという議論さえ出てこない。これは政治を議員が独占しているからこうなるわけだ。本当の民主主義といえるのは直接民主主義だけだ。現在はテクノロジーの発達で国民が全員参加できる直接民主主義を実現しようと思えばできる時代なのだ。我々が直接政治に参加できるシステムを作るべきだ。 僕がスターリンだったら年収3000万とも4000万ともいわれる議員などは真っ先に粛正してしまうだろうと思う。国民と国家にたかる寄生虫は排除しないと我々はいつまでも青白いひょろひょろした病人のままでやがてたおれてしまうだろう。それが歴史の必然ならば受け入れるしかない訳だけれど、も。
2016.05.29
国家とは共同幻想である。国家も法もマネーも我々が共同幻想のうちにある限りにおいて存在している幻想に過ぎない。我々が一斉にスイッチを切って幻想の外へ出ればたちまち幻のごとく消えてしまうものなのだ。 我々は一斉にスイッチを切らねばならない時期にさしかかっていると思う。スイッチを切ったときに我々はどういう共同幻想を持つべきなのかそのモデルをあらかじめ研究し用意しなければならないと僕は考えている。 なぜ一斉にスイッチを切らなければならないのか。それは国家とは誰かに操られており人々の富を横領し最終的に戦争へ駆り立て人々を殺戮する装置に他ならないからだ。1パーセントにも満たない特別な人たちが全世界の大半の富を占領しているこの異常な状態を全世界の人々はおかしいと思わないのだろうか。我々は国家という共同幻想にとりつかれたままでは愛国心や他国の憎悪に駆り立てられて戦争に送られて大量に殺戮されることになる。それは誰かの富になり結局悪の権力を維持させ続けるることに他ならないのだ。我々はもういいかげんこれまで人類が永遠とはまってきたこのからくりをすぱっと断ち切らなければならないと思う。そのためにはいつでも一斉にスイッチを切る観念の水準と覚悟と準備が必要なのだ。そしてこれは一国のみならず全世界の人々が一斉にスイッチを切って一瞬にして権力を無効化し別の世界へ切り変わらなければならない。 ある詩人のある詩の一節を僕なりに拡大解釈するとこういうふうになる。タイトルは忘れてしまったが。
2016.05.03
外国と条約を交わすときどういう風に行われているのか僕は知らないけれど、昔日本はひどい目に遭ってるわけだから、当然その対策をもっていなければおかしいと思う。 つまり、単語の意味の範囲が双方で食い違っている可能性がある場合の対策である。これはどうしたらいいかというと双方の言語でそれぞれの条文に調印すると言うことだ。つまり日本は英文の条約を読んでサインすると同時に相手にも日本文の条約を読ませ、それにサインしてもらうと言うことだ。もちろん日本文には拡大解釈されないように正確に書くことが必要だ。そうしておけば、あとからいちゃもんつけられても、おめー、こっちにちゃんとサインしてるじゃないかと堂々と主張し退けることができるというわけだ。 どうしてこういう心配するかというと日本人の英語力はきわめて貧弱だからだ。外務省はやはり人材としてばりばりのバイリンガル、しかも相手の国の文化にそうとう深い知識を持っている人を、雇ったり、もしそういう人材がいなければ国費をかけて養成する必要があると思う。外交官がいるんだからそういう人たちがきちんと外国語をネイティブと同じくらい習得し条文に関してもこれはこういう意味だとしっかり政府に提言してくれればいいけど、シャンパン飲んでパーティに明け暮れているのではないかと危惧する。 TPPに関しておおきな解釈ミスをしているのではないかと危惧されている。問題化したときに政府はどうやって責任をとるのか、日本国でこれまでつくってきたシステムが崩壊する可能性もあるのに、うっかりミスでしたではすまされないのだ。 それに条約は平等であるべきだから双方の言葉でお互いにサインしあうのが当然のことだと思う。そうでなければはじめから不平等条約なのだ。
2016.02.14
新年あけましておめでとうございます。 今日まで生きのびてきたことを、同じく生きのびてきた人たちと素直に、よかったね、と喜びを分かち合いたいと思います。年々生き延びることが困難になってきているような気がします。全く今の時代は何で死ぬか、あるいは殺されるか予断をゆるしません。元旦早々から交通事故で二十歳の男女が死んだとニュースに出ていました。確率は低いものの確実に死亡確率をもったサバイバルゲームに我々は全員投げ出されているようなものです。もっとも最終的にはどんなにあがいても寿命には勝てず、すべての人が負けるわけですが、その中でもし勝者といえる人がいるとすれば、老衰で死んだ人かもしれません。私の唯一の願いは老衰で死ぬことです。 さて去年、といっても昨日ですが、終わりに書いたものは私の共同幻想からの表出でした。これまで私はこういった表出をくだらないと思っていました。今もそう思っていますが、しかし自己幻想からの表出が共同幻想からの表出のまえにどれだけ対抗できるのか、もう一度見直すべきだなと思っています。逆立した関係ですからお互い我関せずで我が道をゆくでいいのかもしれませんが、自己幻想の場合はその表現から受け取る精神的質量が共同幻想のそれと同等かそれ以上でなければ意味がないと思うのです。共同幻想をひっくるめてさらにそれを乗り越える深い地点からの自己幻想からの表出でなければならないと思っています。言うは易しつくるは難しですが、抽象的な目標を掲げれば自然とその方向へ向かうんじゃないかなと思っています。 そんなこんなで駅伝を見ながら餅を食っているのんきなわたしですが、本年もよろしくお願いします。
2016.01.01
韓国の大統領がすり寄ってきて3億円でいいから日本政府から慰安婦問題で出してくれないかとささやいたそうだが、それまで安倍総理は知らんふりして蹴っ飛ばしていたのだが、それがどういういきさつで今回の外相会談で10億円日本国政府拠出になったのか、理解に苦しむ。不思議戦略なのか、それとも単なる馬鹿なのか。誰が考えても馬鹿げた合意なのでたぶん安倍総理も馬鹿げているとわかっていて批判されるのも覚悟の上での合意なのだろう。アメリカにつっつかれていやいやながらわざとあほらしい合意をしてみせたということだろうか。これで日本人の嫌韓は決定的にもっと深まるだろう。 韓国の人たちは内心でしめたと密かににんまりしてるくせに外面は抗議の火病を発症させている。これからもたたけばもっと金をたかれるなと思っているのだろう。しかし、福沢諭吉も言ってたそうだが韓国とはまともにつきあえる国ではないなといまさらながらに実感する。北朝鮮のほうがまだまともなのではないかとさえ思われる。 慰安婦はどこの国の戦争にもあったが従軍慰安婦というのは全くのでっちあげで朝日新聞の悪意をもったねつ造記事から始まりそれに韓国がのっかって賠償しろと騒いでいるだけだ。歴史をねじ曲げて教育しているのは韓国の方で、教科書には書いてなくても教師らが朝鮮戦争は日本と戦い勝って独立したと教えている。韓国のそういう教育を受けてきた人たちはまじでそう思っている。そして朝鮮戦争のときの慰安婦がしゃしゃりでてきて日本軍に従軍慰安婦に強制的に連行されたと騒いでいるのだ。まったくでたらめのめちゃくちゃで話にならない。 韓国に教科書を正してちゃんと歴史を教えろと言っても聞く耳を持たない国なのだと思う。何をやっても無駄なのだ。捨てておくしかない。韓国とは関わらない方がいい。アメリカも韓国に軍隊を置いても意味がないと思っているだろう。むしろとっとと引き上げてもらったほうがいい。北が攻めてきて朝鮮半島を統一しても結構だ。同じ民族なんだから統一した方がいいだろう。いまさら共産党の脅威だとかありえない。ソ連が倒れたように中国も倒れようとしている。ほっとけばいいのだ。 それはそれでかまわないのだが悪意ある慰安婦像で海外にいる日本人の子供たちがいじめを受けている問題は日本政府として早急に対処すべきだろう。完全に撤廃するように韓国政府に厳しく言うべきだが、いつものように日本の官僚は公務員仕事で日本人が受けている被害を人ごとのようにしか思っていないらしい。撤去しない場合どう圧力をかけるかもまともに考えていないで一応要求はしときましたということらしい。全く甘ったるいというか仕事しているふりというか。とにかくちゃんと仕事をしてほしい。その気になれば韓国が圧死するような圧力はいくらでもかけられる。頭を使ってちゃんと日本人のために仕事をしろということだ。そして海外で被害受けた日本人たちは団結して訴訟を起こし慰安婦像の悪意あるインチキを暴き設置した団体と韓国政府に賠償させるべきだ。もし訴訟にお金が足りないなら日本国民に呼びかければいい。
2015.12.31
世界史的に見るとここ数世紀白人が行ってきた所業はまさに外道、鬼畜と言うほかは言いようがない。ものすごい罪悪を積み重ねてきたのに何食わぬふりをして先進国として善人面をしているわけだ。ハイパーな日本は金魚のうんこみたいに追随して、ごもっとも、そのとおり、おっしゃるとおりで、と関西商人みたいにたいこもちをやっている。それが日本の本当の姿なのだ。これが子々孫々に誇れる姿なのかと思う。 フランスのパリがテロで襲撃されたとマスコミは各社一様に報道しているがあれは本当にテロなのかという疑問は全く持たないのだろうか。フランスはもちろんテロだと騒ぐのは当たり前だろうけど、我々日本人は公平に中立的な立場から物事をみて本質をちゃんと考えて正確に報道すべきではないかと思う。 もしあれがテロだというならフランスがシリアで行っていることはテロじゃないのかということだ。宣戦布告もしないでいきなり爆撃し人々を殺しまくっているのはいいのかということだ。なぜ白人が殺されると何も考えずにテロだとさわぐのか。日本のマスコミはおそろしいくらいすさんだ知性しか持ち合わせていないのかと薄ら寒くなる。 そもそもあの地域はオスマン帝国の一地方で人々は平和に暮らしていたのだ。そこにどやどやと入り込んできて石油の利権にたかり人々の生活をめちゃくちゃにしてしまったのはヨーロッパの白人どもなのだ。この白人どもの罪はきわめて重い。ちゃんと謝罪して罪をわびない限り未来永劫にわたり白人どもはその罪のために最後の一人になるまで報復を受けることになるだろう。 有色人種をなめんなよ。ということだ。
2015.12.05
反日教育をしている国は日本と日本の国民を侮辱している国だ。こういう国とどう対処してゆくべきなのか物事の本質をしっかり考えてほしい。彼らは我々を不当におとしめ侮辱しているのだ。これをはっきり認識すべきだ。そうすればおのずと対処の仕方もびしっとしてくるはずだ。こちらがびしっとしていれば相手方も自分たちの誤りに気づいてまともな対応を考えるのではないだろうか。 一番よくないのはへらへらして友好しましょとか未来志向とかいう政治家や地方の首長たちだ。侮辱されているのに目をつむって仲良くしましょとはとんでもない売国奴だ。またそういう人たちを何も批判しない国民もどうかしているのではないだろうか。ひょっとして侮辱されているということすら理解できないほど知性が無くなってしまっているのかもしれない。これも戦後自虐的な日本教育の成果なのか。 とにかく中国と韓国は世界の常識が通用しない異常な国だ。まともにつきあえるわけがない。先日自民党の幹部が日中友好の何かで北京に行ったそうだがへらへらして何が友好だ。ハニートラップが楽しみでたまらないようなにやけ顔じゃないか。まったく日本人のプライドは地に落ちてしまったのではないか。 何の会合でもいいがまず最初に反日教育の証拠を出してはっきりやめろと相手にいうべきだろう。やめないというなら友好もくそもないのだ。友好ではなく隣国上やむを得ないつきあい方にするしかないのだ。それを棚に上げてへらへら友好とか未来志向とかいってる連中には本当に腹が立つ。 侮辱している国の音楽やドラマを何で聞かされたり見させられたりしなきゃいけないのか。とくにNHKは韓国ドラマを購入して放送しているが日本国民を侮辱している国のドラマを見せると言うことは、これも国民を侮辱していることだと思う。なんでこんなところに金を払わなきゃいけないのか。国民は馬鹿だからこんなものでいいだろうと安くさい韓国のドラマを流している放送局だぞ。いったいどうなっちゃてんだろな。岡村靖幸が何十年も前に歌った一節だが。 で、一番頭にくるのは紅白でなんで韓国の歌手どもを見させられるのかということだ。我々を侮辱している国が送り出している偽JPOPの歌手を何が楽しくて年末に見させられなきゃいけないのか。そして何も思わず嬉々としている本地ない一般大衆の姿にどんだけ落胆しなきゃいけないのか。 今年もああ無情の除夜の鐘の音を聞くことになるんだろうな。やっぱり。
2015.12.03
音楽の評価音楽の評価はゲシュタルトがあるかどうかということだ。音楽は微分的に見るとある音と次の音は必然性によって決定されている。一分の剰余性もあってははならない。すべて必然性をもって進行する。その必然性はどこからくるのか。それは全体を構成する魂の形、それがゲシュタルトなのだが、そこからくるのだ。たとえばドボルザーク「新世界より」ははじめの一音から最後の一音まで完全に必然性をもって堂々と流れている。43分か45分の長さだが剰余性のある音が一音たりともない。そこには美しいゲシュタルトが存在している。音楽はゲシュタルトを表現するものなのだ。ゲシュタルトのない音楽は音楽ではない。従って音楽を評価する場合、ゲシュタルトをはっきりともっているかどうか、を見ることになる。映像の評価映像はある抽象度をもっていなければならない。映像は現実の世界を切り取ることから始まりそこから徐々に抽象化していき現在では脳が欲する映像を作り上げるようになってきたのだ。脳の機能は情報処理を基底とするがより本質的には抽象化が本来の機能なのだ。記号化からより高度な象徴を処理する高次元へのパイププロセッサー、それが脳の正体なのだと思う。従って映像も必然的に抽象的になるはずなのだ。そこには様々なそして鮮やかな象徴を浮かび上がらせるための何らかの工夫や気のきいた仕掛けが当然あってしかるべきだ。以上長々と音楽映像を評価するための基準を述べてきた。これらのことを勘案して今年度だけにこだわるのではなく数年にわたる実績も見た上で本年度の最高アーチストを決定したいと思っている。そして12月31日に「音楽の彼方のFinally Free」上において発表する予定である。お金と事務所の力関係で音楽映像の価値とは何も関係なく決められる日本レコード大賞はもはやゴミでしかない。なんの価値もなんの権威もないと断言する。そんなゴミのような日本レコード大賞に代わってぼくのようなものがわざわざしゃしゃりでて決めなければならないとはなんともなさけない日本の社会になってしまったものだと心が痛むのだが僕しか本当の本質が見える人間がほかにいないのであればこれもしょうがないことだと思う。
2015.12.02

詞の評価詞の評価は「共同幻想への親和力」と「表出の由来」という二つの概念によってはかられる。「共同幻想への親和力」とは簡単に言えばありきたりな表現、世間に流通しているステレオタイプな表現というものは価値が低いと言うことだ。 たとえば世界平和とか国と国の友好を訴えるのに「世界平和が大切だ。」とか「お互い仲良くしましょう」と表現してもありきたりでなんにも感動も無いのだ。概念自体は理想が高いけど表現がくだらないのだ。そういう表現は価値がないと言うことだ。国と国の友好を歌うというならたとえばユーミンの「スラバヤ通りの妹へ」等の詞をみると本当の友好とはこういうものなんだなと感心されるのである。このように何か大切な概念を伝えるためにはありきたりな表現ではなくそこに工夫が無ければならない。明日を信じて明るく生きようとか仲間を信じて一緒に生きていこうという概念をそのままありきたりに表現したのではつまらなすぎるのである。歌を聴いて感動するにはそこに何か表現の工夫がなければならない。 そしてその表現がその人の実存のどの地点から表出されているのかということだ。ありきたりな表現しかできない人は結局共同幻想で流通している表現を借用しているだけだ。本当に心からそう思うならその人独自の表現が出てくるはずなのだ。そうでなくありきたりな表現になってしまうと言うことは浅い地点から表出がなされていると言うことなのだ。その人は本当にそう思っているのか共同幻想にのっかってそういっているだけなのかその言葉には何も重みがないということになる。 もう一つ詞に必要なことは現在生きている我々の共通感覚という通奏低音に達していることである。これが一番大事なことかもしれない。現在を生きている我々は共通した生きがたさ、つらさの感覚をもっている。その共通感覚が通奏低音のように我々の無意識の中に流れているのである。詞が何かの瞬間にそこに触れることがあるのだ。そういうとき我々は共感を覚えるのである。 たとえば「きらきら武士」という言葉。なぜ共感するのだろう。それは今の社会の我々が武士をなくしてしまったという認識からくるのだ。そして今の時代は武士であろうとすればきらきら武士であるほかはないのだ。「きらきら武士」という言葉はそういう我々の通奏低音である琴線に触れる言葉なのだ。だからいいのだ。我々の無意識に通奏低音のように流れている共通感覚に触れる言葉、詞にはそれが求められている。 実は共通感覚に触れるものは詞ばかりではない。ハミングやラララのように意味のないメロディであることもある。 たとえば宇多田ヒカルの「ブルー」の出だしのハミングのメロディなどのように直接琴線に触れることもありうる。 さらに言えば現在の音楽映像は抽象化へ向かっている。抽象化とは意味の多重化ということだ。普通そこに流れている意味は一車線しかないけど抽象化することによって4車線5車線もの意味が流れることになるのだ。映像も詞も抽象化を目指している。いかに高度な抽象化を達成するかということにしのぎを削っている。 音楽を聴くときこの人はなぜ歌わなければならないんだろうといつも考える。その答えが歌の中にあるはずだ。その人の実存の核からその答えが発せられている。それは宿命と呼んでもいいものだ。 僕はそうした宿命を愛している。
2015.11.30
残念ながら戦後日本の教育はレッテル思考に国民を導いてきた。国民は愚民のままのほうが支配しやすいというあほな思想の結果だろう。実際メデアの論調によって国民はころころ影響を受けている。国民は自分で情報を収集し本質を見極めようとする知的な努力をしなくなってしまった。メデアのいうことをうのみにするようになってしまったのである。例えば朝日新聞の従軍慰安婦のねつ造記事に簡単に騙されてしまったという事実は記憶に新しいかと思う。レッテル思考とは本質を考えることを省略する思考のことである。たとえばユーミンが世に出たときに人々はニューミュージックというレッテルを貼った。しかしニューミュージックという言葉でわれわれは何を理解したのか。それまでの歌謡曲とどう違うのか何がわかったというのだろうか。このようにレッテル思考とは本質を何も考えない言葉の表層で上滑りするだけの偽の思考なのである。戦後われわれが受けてきた教育はすべてレッテル思考に過ぎなかった。本質を考えようという努力をまったくしなかった。その結果国民は文学とは何か、芸術とは何か、まったく無知な状態に放置されてきた。表現とは何か、表出とは何か、まるで何もわかっていない。ただ自分の好悪の感情のままに適当なことを言っているだけなのだ。 僕は表現というものは個人の好悪ではなく絶対的な価値基準というものが存在すると考えている。それは円や点が存在すると考える数学と同じである。いわばイデアルの世界にそれははっきり存在するのだ。つまりわれわれは表現というものを評価するときそのイデアルの世界に存在する絶対的価値基準というものにアクセスしているのである。絶対的価値基準が見えない人は評価することはできないのだ。個人的に適当なくだらないことをくっちゃべっているに過ぎない。 では絶対的価値基準というものにどうアクセスすればいいのか。これをはっきり自分の言葉で表現した人は僕が知る限り日本では誰もいないと思う。それは本質を考えようとする人がほとんどいないということと外国の文献で輸入した他人の概念で頭をいっぱいにして自分の言葉というものを失ってしまっているからだ。僕は何でも自分の言葉で語れる。「共同幻想への親和力」と「表出の由来」という概念である。この二つのものさしで表現の価値を計っている。 「表現の価値は共同幻想との親和力が薄いものほど価値が高い。そして表出の地点がその人の実存の核により近いものほど価値が高い。」 共同幻想と自己幻想は逆立している。共同幻想にとって自己幻想は意味がないし逆に自己幻想から見れば共同幻想は意味がないように見えるのだ。逆立とはこういうことを言っている。そして文学や芸術は自己幻想の世界に属している。純粋であればあるほど共同幻想とは相容れない世界を構築しているはずである。そして共同幻想の汚染を極力排除しようとするはずである。昔社会主義リアリズムとかはやっていたとき吉本さんは戦っていたがそれは表現の価値を守るために共同幻想からの汚染と一生懸命戦っていたのだ。 しかし共同幻想と自己幻想の関係はそればかりではない。僕の考えでは自己幻想はその極限において共同幻想へと転化しうるものなのだ。本当の美の根源はたぶんそこに存在すると思われる。共同幻想の重力圏に再突入する自己幻想こそもっとも美しいものだ。大気圏に突入した隕石が美しい尾を引いて輝くように、あるいははかなくいずこへともなく消えてしまう最後の微笑みのようにそこに美が生じるのである。
2015.11.29
Sheezusとはリリィアレンの曲名のタイトルだが、造語だそうだ。意味は芸術としての音楽映像を作り出している世界各国の歌姫たちの中の女王という意味だと思う。アレンはその音楽映像の中で私こそがSheezusよと宣言している。いわば仁義なきSheezus戦争の始まりだった。 アレンの言いたいことは芸術としての音楽映像の女王ということだ。一般大衆にどれだけ受けたか、売れたかということではない。そんなものは作品の価値とは何の関係もない。確かに一般大衆に受けるものには我々の魂の形が存在している場合もある。しかしすべてがそうだとは限らない。そうではなくて芸術を理解できる人々にどれだけ認められるかということである。一般大衆の目には見えないとても抽象度の高い戦いなのだ。 毎年その年度のSheezusを僕が自分のブログで勝手に決めている。アレンが私がSheezusよと宣言したのでほかの歌姫たちも目の色を変えて激しい戦いを繰り広げることになったけど、僕の判定では2014年のSheezusはKaty Perryだった。ほかの歌姫たちは「Darkhorse」の音楽映像にやはり勝てなかったからだ。アメリカの勝利だった。 今年度は英国の勝利だったと思う。エンヤの「Echoes In Rain」を超えるような音楽映像はちょっと想像できない。歌姫の中の女王と言うにはいろんな意味で別格過ぎるくらいなのだが、とりあえずは2015年のSheezusといっていいんじゃないだろうか。 Echoes In Rainはすごい傑作だなぁと思ったけど、やはり英国の人たちもそう思っているらしくてインタビューしている映像があった。おもしろいなと思ったのはエンヤにインタビューするのではなくて作詞した人にインタビューしていたことだ。これは英国らしいなと思った。英国人もあの詞に感動したのだろうか。 Here comes another new dayと歌うとき醸し出される何ともいえないどうしようもなくいいすごく深い感情、僕はちょっと厭世的な色彩も同時に感じるのだが、それはかつて優れた文学の中で出会った感情と同じだ。たとえば中上健次の文学、村上龍の文学。文学も音楽も目指しているところは同じなんじゃないだろうか。 今の世界は細分化しすぎていて人はたこつぼの中に入れられているようなものだと思う。音楽にしてもロックやらレゲエ、ヘビメタ、さらに細かすぎてなんだかわからない名称がいっぱいあって俺はロックだとか俺らはフォークだとか言っている。音楽は音楽であってジャンルは関係ないと思うが何でそんなにたこつぼに入らなければならないのかと思う。文学も文学であって、青春文学とか純文学等というものはないのだ。すべてレッテル思考なのだ。レッテルを貼ることによってごまかして何も本質を考えないのだ。文学でもないものをごまかすためにそんな言葉を使っているとしか僕には思えない。
2015.11.11
最近の人の小説の中では一番気に入っているのが「ねじまき鳥クロニクル」でおそらく7回ほど読んでいる。谷崎潤一郎の「細雪」でも4,5回なのでよほど気に入っているということになる。 村上春樹の小説でなにはさておいて感心するのがタイトルの付け方だ。おそらく日本で一番上手だと思う。いや、世界一かもしれない。二番目が山田詠美お姉様かなと思っている。 クロニクルという言葉にとても新鮮な感じを覚えた。そしてねじまき鳥という不可思議な造語、いったい何だろうと思わず引きつけられる。もうタイトルからして読みたくなるタイトルだ。なんともスマートなタイトルだなと思う。 僕は造語が創造力の一つの目安だと思っている。今まで世界に存在しなかったものを作り出そうとするなら言葉も新しい言葉を作るのが当然なのだ。だから僕は造語は積極的に評価している。むしろ造語がないものはつまらないし才能がないのだと思う。 当時僕は失業していて主人公の岡田亨ときわめて似た環境だったのでまるで自分のことが書かれているような気がして読んでいた。感性の原型がとても似ている感じを受けた。音楽がわかる人なのだと思う。プリンスの認識の仕方で僕は村上龍を意外につまらない人だなと思った事がある。つまり村上春樹の感性の方に軍配をあげたということになる。 実際最近の村上龍の長編小説はしなやかさ、のびやかさにかけている。勉強のしすぎの結果ではないだろうか。学問なんて凡庸な二流の人がやむを得ず食うためにやるつまらない仕事なのだぐらいに思っていてちょうどいいのだが、高卒や大学中退の連中ほどなぜかつまらない学問にあこがれるものだ。 さて、「ねじまき鳥クロニクル」は画期的な小説だなと僕は思っている。なぜかというとフラクタル構造をもった小説だからだ。いたる部分で様々な物語がフラクタルの中に折りたたまれていることを示唆する小説なのだ。そういう印象を僕は持った。 フラクタルがどういうものなのか知らない世代はなかなかイメージがわかないかもしれないが、僕はアトラスというフラクタルを使ったゲームで遊んだ世代なのですぐにぴんときた。これはフラクタルなんだと。ちなみにこのブログの看板もフラクタルで僕がつくったものだ。 すべての小説を読んでいる訳ではないのでそれまでそんな小説があったかどうかは知らないけれど、すくなくともフラクタル構造を想起させる小説は僕は初めてであった。
2015.11.09

なぜ歌うのか、なぜ踊るのか、なぜ演奏するのか。 太古の人間たちも現代の人間たちも本質は少しも変わってはいない。 この生命を与えてくれた神に対する感謝の気持ちであり、なぜ愛するものたちと死別があるのかこの世界に対する異議申し立てであり。 その本質を忘れてしまった音楽には意味はない。 もちろん神なんているわけがない。われわれは所詮偶然の産物でしかない。それでもなお、何らかの意味があるのだと信じたい。神は幻想であるが幻想こそがわれわれに意味を与えてくれる何かなのだ。 なぜ歌うのか、なぜ踊るのか、なぜ演奏するのか。
2015.10.20

Echoes in rainエンヤの最新作らしい。映像も詞も素晴らしい。まったく朝にこの音楽を聞いたら夕べに死すとも可なりである。映像もきわめて上品でエクセレントだし、詞が俳句のように極度に研ぎ澄まされた驚くほどシンプルな言葉で、この宇宙と我々の世界を余すところなくすべて表現しきっているように思われる。そして、アレルヤ、意味が分からないんだけどこの言葉がありとあらゆることを表現しているような気がする。こんな音楽に出会えるなんて生きていてよかった。本当に素晴らしい音楽とは創造への意欲を掻き立ててくれるものだ。いつの日にかこれらに負けないものを創りたい。
2015.10.20
経る時 ティールームには僕一人 終了近くになると必ずかかる曲がある。 僕のリクエストだ ときどき僕はわからなくなる 彼女は僕ではないだろうか 僕は彼女ではないだろうか 同じ魂を求めて 永遠に生まれ変わりつづける さまよう魂に 涙が落ちる ティールームには彼女一人 窓の外を見ている 空から経る時が見える そこにはもう誰もいない
2015.10.19
どこかで読んだ記憶があるのだが、村上春樹がねじまき鳥クロニクルを書いていたとき、登場人物が映像として幽霊みたいに自分のもとにやってきてまとわりついた、ということを書いていた。たぶんほかの小説家たちもそういう状態というか、そういう経験はあるのではないかと思うが、そのことを書いてる小説家はほとんどいなかったと思う。かろうじてトルストイが同じことを言っていたような気がする。 これはすごいことだと思う。脳細胞がものすごい活動状態にあるときふとした瞬間にハイパーワールドの扉が開くのではないかと思う。残念ながら僕は文章を書いていてそういう経験はまだない。 昔大学に入ったとき剣道部にはいって合宿でマラソンやらコンパやらでめちゃめちゃ疲れてもうダメかなと思ったときすうっと何かが取れて楽になり大きな声が出るようになり稽古をしているときに相手が何を考えているかまるでテレパシーみたいに手に取るようにわかる状態になったことがあった。あえて言えばそれが一番近い経験かもしれない。本当に相手の考えていることがテレパシーのように伝わってきたのだ。 よく宇宙飛行士が何日が宇宙で暮らしているうちに相手が考えていることが手に取るようにわかる状態になったという話をしているのを読んだことがあるが、僕の経験から言ってもそれは本当のことなのだと思う。 たぶん酸素の濃度が通常より多い状態でその中に何日かいると脳細胞が活性化してそういう状態になるのではないかと思われる。 小説の中の登場人物たちが映像になって幽霊のようにやってきてまとわりつくとは、テレパシーの次元をはるかに超えている。まとわりついていったい作者に何を訴えたのだろう。 小説家はそんな状態になれたら本物なのではないかと思う。
2015.10.18
永い時の涯てへ Glorious 何に身を隠したとしてもAll my previous きみに会うと信じていた 彼女のメッセージを胸に折りたたんで僕は僕の人生を生きている。 欠落した距離と時間をやさしく物語が包んでくれる。 今読んでいる本が「はじめての超ひも理論」河合光著。超ひも理論については何冊か読んだけど、この本が一番丁寧でわかりやすい。数式は一つも出てこないが、その根本にある概念をわかりやすく説明しようとしている。難解な数式をちらつかせて一般の読者を煙に巻く専門家が多い中でこの本の著者はとても好感が持てるし誠実な感じがする。そのせいか、なんだか超ひも理論って期待できそうな気がする。サイクリック宇宙論という最新の考えもおもしろい。それによると我々は50回目くらいの宇宙に住んでいるらしい。 マヤの人たちは天体を観測しているうちに、王国だの社会だのばからしくなって密林の彼方へ姿を消したのではないだろうか。 あるいは乗ってきた船にのってふるさとの星に帰って行ったのかもしれない。 そして、何百年か後のある日突然、僕らはこの星に取り残されたたった二人の孤児だったことに気づくのだ。オーロラの舞う平原手に手を取り走り出せばふるさとの遠い星まですぐ
2015.10.18
家族の事はあまり触れたくないものだ。家族こそが我々の精神に関するあらゆる問題の原因なのではないだろうかという気さえする。 工場で働いていたとき、僕はどちらかと言えば楽な仕事だったので、昔のことを際限なく思い出しては悲しい気持ちになっていた。美人の女性とつきあっていて結婚を望めば結婚もできたはずなのになぜかふみきれなかった。その根本にあった問題は僕が子供がほしくなかったということだった。なぜほしくないのか理由を考えたこともなかったしずっとわからないままでここまできた。 しかし現在実家に帰ってきて身内と一緒に暮らしているのだが、弟も僕と同じ深刻な精神の問題を抱えて苦しんでいた。僕はあまり話したくなかったのだが、弟はその問題をどうしても突き詰めて考えねばならない性分だった。 この前朝方近くまで酒を飲みながら話し合っていてどうも兄弟で同じような問題を抱えていることがわかった。結局僕が子供がほしくないということもつきつめると幼少期の家族の問題であり母に十分かまってもらえなかったということが原因なのかもしれない。僕と弟は幼少期曾祖母に育てられた。 僕はほとんど周りの人に影響を受けずに白紙のまま育ち後に宮沢賢治や吉本隆明の影響を受けたのでむしろよかったと思っているけど、子供がほしくないということは、いくら吉本さんに普通に生きるのが一番価値があるんだよと言われても、どうしようもなかった。 原因がわかったからと言ってもどうにもなるものでもない。家族や母を責める気持ちはさらさらないしむしろ育ててくれたことに感謝している。もともと家族というものは問題だらけなものだし、どこの家族も多かれ少なかれそうだということもわかっている。普通は大人になる段階でいつの間にかそういう問題は克服できるものなのだ。また、そうであるべきなのだ。 僕は文学を信奉しているので滅亡の民なのだと思っている。それでいいしそれ以上のことは考えたくない。しかし何も信奉するものがない弟は未だににっちもさっちもいかず苦しんでいる。残念ながらこれは人が助けてあげられるような問題ではない。 家族の問題は誰にとってもあまり触れたくない事柄だ。その根本的な原因は自分が思っている観念的な偉大さと家族から見た存在の卑小さの格差がありすぎるからだ。 いくら僕が人類がこれまで誰一人として知らなかった言語学上のある知識を発見した人間であったとしても弟にとっては兄らしいことを何一つしなかったしょうもない兄でしかないし母にとっては何一つ親孝行もしたことがないどうしようもない馬鹿息子でしかないのだ。 家族の問題は鬼門である。その意味で漱石は偉大だった。たとえ奥さんにしてみれば粗大ゴミみたいな亭主にすぎなかったとしても。
2015.10.15
エルム街のショッピングセンターで買い物をして帰ろうとしたら雨が降ってきたので、雨が止むまでショッピングセンター内の本屋で時間をつぶした。久しぶりに本屋に来てみると面白そうな本がたくさんあった。買おうかなと思って値段をみると1800円もする。面白そうだけど1800円の価値があるかなと考えて結局買わなかった。ここ何十年か日本はずっとデフレが続いているがなぜか本の値段は下がっていない。それどころか上がっているような気がする。雨もまだやまないので立ち読みで我慢することにした。 吉本さんの本がいくつか並んであった。いずれも目新しい本だ。亡くなった後も本が続々と出版されるとは、せっかく全部読んだつもりでいたのに困ったことだ。しかも新しい発見があった。それは村上春樹について詩を書いたことのある人じゃないかと言っていたことだった。僕が感じていたことと同じだったので驚いた。僕は昔、ねじまき鳥クロニクルの目次を見て、それらを並べるとまるで一片の詩のようだと書いたことがある。吉本さんの感性の鋭さそして正確さにあらためて驚いた。昔の左翼が書いたようないかめしく難解な文学はもはや嘘っぽくなってしまっているのだ。昔あった文学というものの価値が下降しつつある中でむしろ軽さの中にどう深みを見出せるかが文学の中心的なテーマになっている。そういう意味で現在の文学がどこにあるのか両村上氏を読めばわかるといった吉本さんの主張は全く正確だと思う。 感性を論理化する際に変なバイアスで捻じ曲げないでストレートにあるいは素直に論理に反映させることが肝要だ。ただバイアスがかかっている人は感性までゆがめてしまっているのかもしれない。正しく感じることそしてそれをストレートに言語化することが大切なことなのだ。 ストレートにとは簡単に思われるかもしれないが簡単ではない。一般の人々は多かれ少なかれ偏見や先入観、嫉妬や怨念によって観念の時空はゆがめられているものなのだ。孤独の中で自らの観念の誤謬を訂正したことがある人でないと本当は難しいことなのだ。 村上春樹をくそみそにけなしている人たちはいったいどれだけ嫉妬や怨念で感性をゆがめてしまっているんだろうと思わざるを得ない。そうでなければ文学などは全く理解不能な縁のない人たちだろうと思う。はたして蓮見重彦はどっちだろうか。 立ち読みにつかれて本屋をでると雨は止んでいた。大急ぎで家に帰った。
2015.10.12
一通り表現したかったものを吐き出してしまったらもう書くことが何もなくなってしまった。今回僕がめざしたものは音楽と文学のクロスオーバーした表現であった。音楽の持つ深い象徴性や高度な抽象性にシンクロする文章を書いてみたかった。そしてできれば音楽の転調と同じ効果を文章で実現できないだろうかと考えていた。どの程度実現できたかは心もとないが感触はつかめたような気がしている。 表現されたものに我々の魂が乗り移るためにはそこにゲシュタルトが存在しなければならない。ゲシュタルトとは魂が宿るための形、構成、いわば家のようなものである。それは魂の遠近法、精神の幾何学によって作られている。 ゲシュタルトが存在しない表現には我々の魂は乗り移ることができない。そういう表現は我々はつまらないと感じたり空虚さにいたたまれなくなる。 ゲシュタルトの表出水準に至るためにはやはりカポーティが言ったように空の高みに登らなきゃならない。登ってしまえば後は楽だけど登る前がつらいのだ。 現実の世界で順応しそこで満足している人は表現する必要がない。ある意味では現実の世界で失ったものをあきらめた代償として表現が存在するのだといってよい。それは普通に生きることをあきらめて永遠に生きたいと願うことでもある。 文学は文学である。なぜわざわざ純をつけなきゃいけないのか。人々のレッテル思考には不快感を覚える。 純文学という言葉に嫌悪感を持たないような言葉に鈍感な人間が文学をやってるつもりになっているのはたちの悪いジョークのように思われる。
2015.10.11

サティ:ジムノペディ第1番メロディとは発明であろうか。サティ:ジムノペディ第1番は人類へのとても大きな贈り物だったような気がする。サティがいなければこのメロディを我々は今日に至るまで知らなかったにちがいない。・・・リスト:ため息僕を捨てていった人が昔よく弾いていた曲だった。曲名が「ため息」であることを知ったのは最近だ。ため息をつきながらこの曲を聴いている。ドビュッシー:亜麻色の髪の乙女初恋は小学1年のときだったが、セカンドラブが本当の初恋だと思っている。相思相愛だと思っていたが、途中僕が別の人を好きになってしまい、それがなぜかばれて、彼女は僕を絶対許してくれなかった。その彼女が亜麻色の髪をしていた。初恋を失ってしまった苦さとともによみがえる彼女の面影をいつまでもこの曲の中に探し続けているシューマン:予言の鳥<森の情景より>予言する鳥は何を予言しているのだろう。それを知りたくてときどき聴いているが、さっぱりわからない。それでもなお、予言する鳥は何かを予言している気がする。バッハ:「目覚めよ、と呼ぶ声あり」確かにヨーロッパ人たちは目覚めた。アジアの人々はまだ目覚めていない。「目覚めよ、我々の共同幻想に」と叫ぶ声あり。 ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ僕もこの音楽を聴くと何か小説を書きたくなる。村上春樹のように。でもまだ書いていない。
2015.10.10

16日、本当は午前中で終わり帰る準備をしたいと思っていたのだが、そう思う人がほかにも何人かいて班長さんは最後ぐらいちゃんと終わりまでまっとうすればいいのにと憤慨していた。それで僕も休むに休まれなくなってしまった。ミス工場の姿はその日朝から見えなかった。今日まで仕事だと言っていたのに変だなと思っていたら、昼食を終えて寮の部屋に戻る途中、ばったり彼女とあってしまった。彼女は彼氏とおそろいの服で帰るところだった。 それにしてもなぜ彼女にこんなところでばったり出会うんだろう。できれば僕が知らないうちに帰ってくれたらよかったのに、まるで僕が昼食を終えて寮に戻る時間を見計らったようにジャストタイムで出会ってしまった。ひょっとして僕に彼氏を見せつけたいんだろうか。 まさか話しかけるわけにもいかず、そのまますれ違ってさよならとつぶやいた。 16日はほとんど掃除ばかりで僕のところは早く終わったので午後4時で仕事を終了した。僕は夏服しか持ってきていなかったので明日観光に行くとき着る服とズボンを買いに近くのスーパーストアに出かけた。そして寮に戻ってきたら、お風呂に出かけようとしている彼女の後姿を見かけた。長くて縮れた赤い髪は間違いなく彼女に違いなかった。でも彼氏と帰ったはずなのになぜここにいるのか不思議だった。それに彼女は女子寮に入っていたとは全く知らなかった。朝人材派遣会社のマイクロバスに乗ってどこかの寮からここに通っていると思っていた。それは朝7時40分ごろマイクロバスとともに彼女を見かけたことがあるからだった。ひょっとして髪の赤い別の人だったのかなと思って帰りの準備に取り掛かった。 17日、朝食を7時ごろ終えて食堂を出たら、またしても彼女に出会った。風呂道具を持って朝風呂にいくところだった。それにしても昨日といい今日といい、なぜ彼女とばったり出会うのか不思議だった。まさか行き会うタイミングを見計らっていたわけでもあるまいし、偶然が重なっただけだろうと思いなおして、それでも話しかけるべきなんだろうかと考えながら結局話しかけずにそのまますれ違った。いずれにしても今日が最終日で僕らは朝8時半にバスで出発の予定だった。電車で帰る人はその前にもう工場を後にしていた。僕の部屋もがらんとして何とも言えない寂しさが漂っていた。8時15分頃にはバスが来たので僕たちはバスに乗り込んで出発時間を待った。一緒に働いた社員の人たちや友達になった人材派遣で働きに来ていたフィリピン系の若い男のダンサーが見送りに来ていた。 出発の時間を過ぎたがまだ二人足りないということで僕たちは待たされた。僕たちは全員そろっていたので宮古班の誰かが遅れているようだった。一体何してんだろうと思っていたらやっとバスに乗り込んできた二人をみて驚いた。ミス工場と彼氏だった。そして彼女らは僕のひとつ前の席に座った。 そういうわけで結局最後の最後まで彼女らと観光をつきあいフェリーまで一緒に乗る羽目になった。縁があったのかなかったのかよくわからない。僕はなるべく見ないようにして仲間たちと観光を楽しんでいたけど、時々彼女と目が合ったりした。それにどういうわけか彼氏とも目が合った。なぜか僕を見ているような気がした。 フェリーは八戸港につくはずだったがチリ沖の地震のせいで青森港に朝5時半ごろついた。車の下船で1時間近くまたされやっと6時半ころ船を下りた。僕たちはターミナルゆきのバスに乗った。宮古ゆきのバスもすでに後ろに止まっていた。僕が乗っているバスを通り過ぎるとき彼女はちらりと僕を見た。
2015.10.04

工場の中で働いているとまるでアンダーグランドの世界に迷い込んでいるような気がした。松橋さんは地獄の1丁目だと言っていた。様々な人生を抱えた男女が集まっていた。本当は暗くてつらい労働の日々になるはずだった。それがミス工場がここにいてくれたおかげでぱあっと花が咲いたように色彩をおびた日々となった。本当は休憩室で彼女を見ているだけで十分幸せな気分だったのだ。どうして話しかけようなんて思ったのだろうか。実は僕は混乱していた。はじめて出会ったときから彼女にY.S.さんの幻を見ていた。 あるとき休憩室に彼女はちょっと離れたところに座っていて、僕は同郷の班長さんと一緒に座って何か話していた。そのとき班長さんが僕に「おばけいる、おばけ」と言った。僕は一瞬何をいっているのかわからなくて聞こうと思ったけれど、たぶん彼女のことを言っているんじゃないかという気がして聞かずにおいた。津軽の人はこの世とあの世の中間に敏感な感覚を持っている。たぶん彼女にこの世ならぬ何かを感じていたのではないか。そのことがあってますますY.S.さんがここにきているという印象を強めることになった。 またあるときは、彼女は僕の隣に座っていて携帯を落としたふりをして拾おうとしてそのとき僕にちょっと触れたことがあった。なぜ僕に触れようとしたのだろう。本当に偶然だったのだろうか。 そういうことが重なって僕はいつの間にかY.S.さんが彼女の無意識を操って僕に会いに来ていると解釈するようになっていた。 しかし、実際彼女と言葉を交わしたときわかったことがあった。それは彼女はY.S.さんじゃなかったんだということだった。僕の全くしらない人だった。当たり前と言えば当たり前のことだけど、僕は再び困惑し混乱した。 Y.S.さんは僕に会いに来たはずなのに僕が彼女に話かけたときにはもうどこにもいなかったのだ。どうして?という謎をのこしたまま僕は再びこの世界に一人取り残されてしまった。 僕と松橋さんと中野さんの三人で一番後ろの席を確保して昼食を食べるようになっていた。彼女は僕たちのすぐ近くに座って食べていた。 それから僕は松橋さんたちと離れて一人で昼食を食べるようにした。もちろん向かいの席は空いている場所を選んだ。僕の向かいの空いてる席には同部屋の若い男が何も知らずに「やぁ、○○さん。」といって座ったり、しらないおばさんが座ったりした。 そして何日かした後、思った通りに彼女が座ってくれた。 いつ帰るのと聞いたら「16日まで仕事をして17日に彼氏と帰るの」と小さい声で答えた。彼女は隣に彼氏の席をジュースを置いて確保していた。「そうなんだ。」といって僕は席を後にした。 その日を境に僕は彼女を目でさがすのをやめた。いつの間にか夏は終わり色彩はすっかりあせて見えた。もう帰る日が迫っていた。
2015.10.02

休憩室で何回か一緒に居合わせた数日後、たまたま廊下で彼女とすれ違ったことがあった。彼女は僕を認識して目であいさつをするような動作をした。僕はまったく予想していなかったのでとっさに対応できずそのまま通り過ぎて「しまった。」と思った。こういう場合女性は自尊心を傷つけられて殻に閉じこもってしまうものだからだ。せっかく心を開いてくれようとしたのにそのチャンスをつぶしてしまった。大学時代同じようなことがあった。コンパでお酒を飲んで同級生の女性たちと盛り上がった次の日、キャンパスを歩いていたら、つかつかと女性が寄ってきて、あいさつしたのに無視するなんてひどいわと僕に食って掛かってきたのだ。僕は眼鏡をかけていなかったので本当にまったく気づいていなかったのだが、そのことを言ってお詫びをしたのだが、彼女は「もう、いい。」といってぷいと行ってしまったのである。それっきり彼女とは一度も話すこともなく大学を卒業してしまった。北海道の砂川出身の人だった。そういう場合なんて言ったらよかったのだろう。いまだにどう対応したらよかったのか僕にはわからない。案の定、彼女もそれ以降廊下ですれ違っても何の反応もしなくなってしまった。僕が悪いのだからひたすら耐えるしかない。あのときちゃんと反応して目で合図するなりしていれば本当はスムーズに話しかけられたはずだったのだ。ちょっと人見知りで突っ張ってしまったのでとても困った。結局松橋さんの力を借りるまで回復できなかった。 さて、話しかけてみようかななどと彼女にも聞こえるように言ってしまった手前、約束通り話しかけなければならなくなった。とはいえ話しかけるには隣か向かい合って座っているかでないと話しかけられない。なかなかそういうチャンスはなかったのだが、数日後彼女は冷蔵庫の横の椅子に腰かけて冷蔵庫の横に背をくっつけて休んでいた。ちょうど僕は冷蔵庫に飲み物を入れていたのでさりげなく冷蔵庫のそばに座って冷蔵庫を開けて飲み物を取り出して飲んだ。彼女はすぐ横にいた。今話しかけなきゃと思ったのだが、いざとなったら何を話しかけていいものかさっぱり思いつかなかった。でもとりあえず約束は果たさなきゃと思って話しかけた。「何時まで働いているの」と尋ねた。彼女は突然話しかけられてちょっとまごついた感じて「夜11時まで」と答えてもう一度丁寧に「朝の8時から11時まで」と答えてくれた。そこでもう少し話そうと思ったらそこに松橋さんが割り込んできて僕に話しかけたのでそこで彼女との会話は終わってしまった。まったく応援しているのか妨害しているのかわからない人である。でもとりあえずどういう形にせよ、話しかけるという約束はなんとか達成できた。彼女は近くの若い女の子たちと何か楽しそうにひそひそ話していた。
2015.10.01

今回の仕事で松橋さんというご老人に仲良くしていただいた。一言お礼を申し上げておきたい。同郷の男たちはどの人もキャラが際立っていて興味深い人たちばかりだったが、その中でも強烈なキャラとして目立っていたのが松橋さんだった。仕事の初日にアイスクリームを20個ばかり買ってきて女の人たちに配っていたという話が仲間内で話題になっていた。まったく人見知りすることのない人で、全然知らない人でも昔からの友人のように人懐こく話しかけてくる人だった。僕も一瞬にして昔からの知り合いのような感覚で親しくなった。この人は男に対してもそうなのだが、女に対しても全く変わらない。知らない女性でも普通に躊躇することもなく話しかけていた。中でも全然言葉の通じないペルー人の女性たちにまで平然と話しかけていたのには、こちらもはずかしいやらあきれてしまうやらだった。しかし最初は全然相手にされていなかったのに最後近くになるとペルー人の女性たちも僕たちを見ると身振りや目であいさつを交わしてくれるようになっていた。松橋さんと一緒にいたおかげで僕も女性に話しかけやすい環境の中にいた。実はミス工場としょっちゅう休憩室で顔を合わせていたのだが、周りはオジサンおばさんばかりで何となく若い子に話しかけるのは気が引ける雰囲気だったし、管理者のT女子、僕たちは彼女をデビ婦人と呼んでいたが、その人が、ここのおとこたちが若い子に手を出させないように監視しているみたいに目を光らせていた。 松橋さんは夜食として会社からいただいたパンと牛乳を毎日デビ婦人にプレゼントしていた。デビ婦人は最初松橋さんに会ったとき愛嬌のある顔だわねと言っていた。まったくその通りで若かった頃はとてもハンサムボーイだったに違いない。どの女性に対しても分け隔てなく優しいし、一生懸命尽くす人だった。デビ婦人も最初はおちゃらけた軽い人だと思って全然相手にしていなかったのだが、毎日プレゼントをもらっておまけに愛してますと言われ続けているうちに、ほろっと来るようになっていた。 ある日そのことを松橋さんに話していると、突然真面目な顔になって、「女って怖いものだよ」と僕に言った。いつ話したのかは知らないけど、なんでもデビ婦人からセックスのお誘いを受けたそうだ。もうおばあさんに近い年なのにちょっと色気があってまだ現役らしいのだ。松橋さんは、ばあさんとなんかできるかよと平然と言い捨てた。毎日プレゼントして愛してますと言っていたのにである。まったく津軽人の典型を見ているような気がした。お茶らけている一方で、実は極めて冷めた目で物事を見ている人格が存在するのだ。たぶん太宰も津軽人のこういう気質を受け継いでいたんだろうなと思った。 そんなこんなでなかなかミス工場に話しかけられずにいたのだが、ある日休憩室に彼女が入ってきたときに、僕と松橋さんは一緒に並んで休憩していたのだが、そのとき松橋さんが彼女にも聞こえるような声で「おっ、きれいな人だな。おめばにらんでいたよ。気あるんでね、話しかけてみれば。おめもいい男だもな。」と僕に言った。それで僕も「えー、ほんと。じゃあ、はなしかけてみるかな。」と冗談っぽく松橋さんに返答した。たぶん彼女に聞こえていたかもしれない。その場にいた若い女の子たちが笑いながらひそひそと話し合っていた。 初日から大酒のみで落ち着きがなく誰かれなく話しかけるので仲間内からはうるさい人と敬遠されていたが、僕は松橋さんが大好きだった。最終日僕たちはバスで観光して帰る予定だったが、松橋さんは室蘭のいとこを訪ねるということで電車で帰る予定だった。僕は一緒にバスで観光しようと何度も言ったのだが、めったに会えないからということでやはり別々に帰ることになった。 みんなを明るくして元気にしてくれた松橋さんにもう一度会いたい。彼がいたおかげで僕たちはとてもハッピイだった。僕も何とかミス工場に話しかけることができたわけだし。
2015.10.01

いつもは美人と出会ってもそんなに僕は心を動かされることはなかったのだが、今回はちょっとちがっていた。それは今年3月ごろに僕の初恋の女性が亡くなっていたからだ。その彼女はがんで亡くなったそうだ。これについて僕は僕なりの推論を重ねてきた。おそらく去年の同窓会に出席して、僕はそれに出られなかったので自分の書いているブログの紹介をはがきに書いておいたのだが、おそらくそこで僕のブログを知って読んだのかもしれない。そして僕の本当の気持ちを知って、それまでの彼女自身の人生を彼女は全否定してしまったのではないだろうか。だから生きる気力を失いがんに負けてしまったのではないだろうか。彼女は津軽の女性でとても情念の深い人だった。髪がちょっと赤っぽくてとても多くてソバージュみたいに縮れて長い髪でじっと僕を見ていた目が忘れられない。ちょっと悲しそうな目だった。 その人が亡くなったのを知ってから僕はその人の面影を必死になって探していた。宮沢賢治のように北海道までさがしに行こうとしていたのだ。それが今回の北海道での仕事と重なっていた。 初めてミス工場の彼女に出会ったとき、彼女は帽子を脱いで赤い縮れた長い髪を出して、じっと僕を見ていた。実際は誰かをさがしていたのかもしれないが、僕はなんだか睨まれているような気がしてどっきりした。そのときふと初恋の彼女の面影と一瞬重なった。ひょっとして初恋の彼女がまだ成仏していなくて乗り移っていたのではないだろうか。それにどういうわけかしらないが、なぜか僕の近くにその彼女は寄ってくる感じがした。休憩室でも休憩時間が僕と同じでたいてい一緒に休憩していたしなぜか僕の近くに座っていた。僕は別に話しかけるつもりはなかったのだが、いつも一緒なので逆に話しかけないほうが不自然みたいになっていた。実はそのころには僕はものすごく彼女に魅かれていた。
2015.09.30

1ヶ月の労働と11ヶ月の恐ろしい孤独、それが僕の現在のライフスタイルだ。1ヶ月の労働は最低生存に必要な生活費を稼ぐためであり11ヶ月の恐ろしい孤独は何か意味のある文章を創造するためである。空の高みに登りそこから何か意味のあるものをつかんで降りてくるためには恐ろしい孤独が必要なのだ。そして今また僕は恐ろしい孤独の世界に舞い戻った。 北海道のある工場で同郷の男たちと共同生活をして朝から深夜まで労働していた。それは僕にとっては現実に触れる唯一の機会だったし仕事はきつかったが新鮮で楽しい日々だった。そんな中で僕はミス工場といえる信じられないくらいかわいい女の子に出会った。小柄で顔が小さく目がぱっちりしていて白い作業服を着て白い帽子で顔だけ出している姿はりんとして清楚でまばゆいくらい美しかった。もちろんこれまで美人としかつきあったことがない僕は自分の年も考えずに彼女の争奪戦に参加することになった。 激しい心理戦を戦いようやく念願かなって昼食を彼女と向かい合って食べることに成功したが、彼女の隣に彼氏が座るという強烈なボディブローを食らった。もう少し僕が若かったら平然として彼女と会話して彼氏との優劣の差を見せつけて勝利したと思うが、今回ははじめからlosing gameのつもりだったのでちょっと会話しただけで退席した。 しかし女とは怖いものだ。彼氏がいるのに彼氏と対決させようとするのだから。リングにあげてくれたのはある程度は僕のことを意識してくれていたんだなということだろうけど、勝ったとしてもその後のことを考えると気が引けてしまった。結果的には僕の敗北だったが、まぁある程度までシナリオ通りにこなせたナイスゲームだったと思う。 彼女の連絡先も聞かずに別れた。今僕はとても後悔している。せめてアドレスくらい聞けばよかったと。もうすこし前に出会っていたらよかったのにというこの曲を切ない思いで聴いている。
2015.09.29
推理小説は面白いけど文学といえるのはポーぐらいだという三島、三島は文学って何か自分の頭と感性ではっきり理解している。レッテルで思考するなということだ。一つ一つの概念について本質は何か自分の頭で、自分の言葉で考えることが考えるということだと思う。 推理小説、幻想小説、SF小説などというものはあるが推理文学とか幻想文学、SF文学などというものはすでにレッテルであり、偽の概念であり思考の空回りでしかないのだ。レッテルを用いた思考はすべて無意味である。 レッテル思考は思考の空回りでありさらに言えば何も思考していない思考停止状態といってもよい。 戦後われわれが受けてきた教育はレッテルで思考せよということだった。すべてがレッテルになってしまいレッテルが氾濫しているだけだ。憲法を守れもレッテルだし原発反対もレッテル、左翼も右翼もすべてレッテルに過ぎなかった。レッテルは安易なのだ。考えなくていいし。本質を思考するのは努力と忍耐が必要なのだ。 敗戦後われわれ日本民族はレッテルで右翼だの左翼だのとごまかしてままごとに明け暮れ、思考停止したまま本質を思考せずに安易な方向へずっと怠惰をむさぼってきただけだった。
2015.05.30
戦後70年とは徹底的にわれわれの精神を破壊尽くした70年だった。人々は本質を考える努力と忍耐をなくし安易なレッテル思考ばかりになってしまった。たとえば幻想小説というものはあるが幻想文学というものはすでにレッテルなのだ。幻想文学というレッテルを貼られているものを読んでこれが幻想文学なのかと雰囲気でわかった気になっているだけなのだ。実際は文学ってなんなのかさえ、まるでわかっていないのだ。氾濫しているレッテルで思考するのではなく一つ一つの概念について自分の頭と言葉で問い返してみるべきなのだ。その際手がかりとなるのは自分の感性だけなのだ。いかに正確に感じ取るかが一番大切なことだ。感性が崩れていたらその人の言葉は全く信用を失ってしまうだろう。 北海道を旅行したとき北海道はどことなく日本とは異なっていると感じたことがあった。日本というせせこましい土俵の中にいるのではなくコスモポリタン的な、どこか世界へ通じて開かれているようなそんな感じを受けた。北海道出身で活躍している人々をみると、やはりどこか日本を越えていると感じるところがある。松山千春にしても中島みゆきにしてもそうだし、知識人の西部邁にしても、そういう部分を感じる。僕が驚いたのは西部邁がマルクスの「資本論」を正直にあっさりとつまらないといっていたことだった。やはりそうだったのかと思った。知識人たるもの、そうは思ってもマルクス様は偉大だと心から信じて疑わず自分の頭が悪くて勉強の努力が足りないと自分に言い聞かせおくびにもそんなことは出さないのが今までの浅はかな知識人たちの姿だったのだ。そういう意味でこの人は信用できる言葉を持っていると感じる。それはやはり日本をどこかで越えているところがあるからなのだろう。 さて、失われた戦後70年のわれわれの精神的廃墟に最近やっと復興の兆しが出てきたような気がする。それはわれわれが故意に遠ざけられて失われた歴史をもう一度正確に問いなおそうという著作が出版されるようになってきたからだ。実際戦後教育を受けたわれわれ日本人のほとんどは僕もそうだがなぜ日本が戦争したのか全くわかっていないのだ。馬鹿な戦争をやったものだなぁと思いながら振り返らないようにしていた。 しかし、空白の歴史にわれわれの精神はもはや耐えられなくなっている。歴史こそがわれわれの精神の由来であり根拠なのだ。日教組のばかげた教育を受けてきたのは僕も同じだが、遠いまわり道だったが、いまようやく直視してもう一度本当の姿を見つめなおそうと思っている。 するとそこには思いもよらない感動的な話がありそうだ。たとえば「男たちの大東亜戦争」とかいうタイトルですごい映画も作れそうな気がする。村上竜の「5分後の世界」みたいな世界が実際あったのかもしれない。
2015.05.29
風の便りに初恋の人が亡くなったという知らせを聞いた。僕の対幻想が終わったということだ。明日からどうやって生きていけばいいんだろう。 たぶん何も変わりはしない。でも何かが根本的に変わってしまった世界なのだ。 生物学的にはわれわれは誰であってもいい。みな同じなのだ。種が滅びないようにたくさんあるだけなのだ。中には病気にやられる人もいるし事故で死ぬ人もいる。でもたくさんいるので誰かは生き残る。貧乏だろうと金持ちだろうとたいした違いはない。どうでもいいことだ。 そうではあるけれど、あの人は結局死ぬ間際に僕のことなんて思い出さなかったのかもしれない。なんの虫の知らせもなかったからそうなのだろう。そう考えると少し気が楽になるような気がする。しかし、風の便りではあるけれど僕のところまで伝わってきたということはあの人の意志があったのかもしれない。 さて、生きるとはいろいろ面倒くさいことだ。死んだほうがどんなに楽かと思うことがある。じぁあ、死ねばといわれると、簡単に死ねるものではない。何にもなくて死ぬにはエネルギーが必要だが、それは尋常なエネルギーではない。自殺するだけのエネルギーがあったらバリバリ生きられるんじゃね、と思う。 でもまあ、僕には共同幻想はすでにないし、対幻想もなくなってしまった。残るのは自己幻想だけだ。 自己幻想がなくなってしまえば完全な無に戻るのだろう。 もっとも、僕はリインカーネーションするつもりだけど。
2015.05.09
明けましておめでとうございます。 もう、新年早々から愚痴しかなくてごめんなさい、とはじめに謝っておこう。こんなもの読まなくていいから。 年々大晦日の紅白もレコード大賞もなんだかつまらなくなっているなと感じる。これはやはり業界団体や力のある事務所が商売気出し過ぎで純粋なお祭りを歪めているからだと思う。商売気抜きで純粋にその年にいい音楽を創った人を選び国民みんなでお祝いするお祭りにできないものなのか。 実はその気になれば簡単にできると思う。実際音楽を作っている人に、今年一番いい曲は何ですか、とアンケートをとってみればよいのだ。音楽を作っている人が一番よくわかっているからだ。権力はあるけどセンスのない無能なおっさんたちに選ばせると、賄賂やらごり押しやら変な方向に行ってしまってろくなものにならないのは現状がはっきりと示している。 あるいは、そうでなければ選考過程を透明にすべきだ。密室で決められても納得のいく人選なら問題はないけど、どう考えても首をかしげるような、くずのなかのくずみたいな音楽が選ばれると本当に腹が立つし、いったいどういう理由で誰が選んだのかはっきり公開してもらいたいと思う。 大晦日ぐらいは商売抜きで音楽のプロたちに選ばれた本当にいい音楽を聴いて楽しみたいものだ。 いや、もうテレビにそんなことを期待する方が間違っているのかもしれない。テレビとか新聞とかその他雑誌類とか、いわゆるマスメディアが国民に真実を伝えるものではないことはもはや明白な事実となっている。国民はこのことを知っておくべきなのだが、おそらく知っている人は一割ぐらいしかいないのかもしれない。マスコミが伝えていることは大本営発表のものとほとんど変わらないと思ってよい。真実は自分で探して確かめて判断するしかないのだが忙しく仕事をしている人々にはそんな余裕はないのかもしれない。 結局、真実を知りうる情報源はインターネットしかない。でも、そこはうそも本当もごちゃ混ぜの情報空間なのでしっかりした選択眼がないとまただまされてしまう。 しかも、そこにも支配の影が忍び寄っている。 今手元にアンドロイドOSのタブレットがあるのだが、何かアプリをインストールしようとすると、電話番号やら通話記録やら位置情報、所持している音楽や動画の情報、つまり個人情報の全てが要求される。こんなえげつないことをやっているのに多くの国民は気にもせずに使っている。金をブッタくられた上にプライバシー侵害までされてのうのうとしている。とてもじゃないけどそんなものは使いたくないのでWindows8かLinuxでタブレットを作ってほしいのだが今度は買うなとばかりに異常に高かったりする。 なぜメーカーがみんな同じに横並びなのか。プライバシー侵害を徹底的に排除したスマホやタブレットがあれば、そっちを求める人が多くなり競争に有利になると思うのだが、なぜかどこもアンドロイドのくそOSばかりだ。そしてなぜかCPUの能力も横一線。性能の高いCPUをのせた方が売れるのは明白なのになぜ横一線なのだろう。横一線に並ばず高いcpuや高精細なデスプレイを搭載するアップルが売れるのは子供でもわかることだろう。 なぜ日本のメーカーは横一線なのか、競争する気も売る気もないんだろうかと思わざるを得ない。買う側としてはチャレンジ精神旺盛なメーカーを応援したい。アップルが売れたのは買う側の欲しい機能に果敢に答えようとしたその心意気が感じられたからなのだ。心意気はあっという間に伝わるものなんだよね。なぜか。
2015.01.01

西洋人たちが作る音楽をみているとその圧倒的な創造力に尊敬の念をいだかざるを得ない。もちろん日本は健闘はしている。しかし大衆のレベルで歴然とした差が存在している。それは年末の音楽番組をみるとわかると思う。英米の音楽番組は大人たちが楽しめる番組になっているが、日本はお子ちゃま向けの番組でしかない。かといって、じぁ大人たちは何をきいているのかと言えば演歌だ。僕に言わせればそれさえもお子ちゃまレベルのものでしかない。 幕末の武士たちは西欧文明に触れて、これはいかん、圧倒的な格差があるとわかって、明治維新を断行し西欧に追いつき追い越せを国是にしてやってきたが、敗戦で1度挫折し、その後日本は廃墟の中から再び立ち上がりアメリカの庇護の元世界第2位の経済力を持つまでに国力を高めてきた。 一見すると経済的には繁栄しているように見える。しかし、大衆の次元でみると、幕末に武士たちが感じた圧倒的な格差は解消されたかというと、僕は全然解消されていないと思う。そのまま残ったままなのだ。 日本でお笑いがこれほどもてはやされるのは、敗戦後未だに独り立ちできない鬱屈した思いと劣等感の裏返しなのかもしれない。笑いの本質についてはベルグソンが書いているが、我々は笑っているときは何も考えなくていいのだ。思考停止にいたるプロセスがお笑いといってよい。せめて現代日本のお笑いの専門家たちに是非お笑いについてベルグソンの書物をはるかに凌駕した書物を残してもらいたいと願う。映画を作るなら、やはりかんだけではだめで教養を含めた総合力が必要だろう。当然ながらハスミンの映画論ぐらいは知っておかなければまともなものは作れないと思う。 年末になると僕はエンヤを聴きたくなり、こういう動画を見て楽しんでいるが、その一方で西欧人たちのこういう感性、つまり音楽の神に祝福された人を一緒に祝福しみんなで楽しむ様をみていると、うらやましいと思うと同時に、我々黄色人種はやはり劣った人種なのだろうか、と少し悲観的になったりしている。p.s.この音楽を聴くとなぜか僕は在りし日の中上健次を偲ぶ。未だに僕の中で解決していない疑問として心のどこかにひっかかっている。ある年の秋に彼はエンヤに会いに行ったと年表に書かれているのだが、彼女に会えたんだろうか。もし会えたのなら何を話したんだろう?
2014.12.29
今年はこちらのブログの投稿数が少なかった。では書いていなかったのかというと結構書いていた。僕は3つブログを持っていてどちらかというとほかの二つのブログに全力をかけて書いていた。僕としては楽しかったし満足できるものが書けたかなと思っている。 俗な言い方をすれば音楽の神とともに美女のけつを追いかけていた、というのが真相であるが、それがとても楽しかったのだ。 十分楽しんだのでそろそろ文学の神にもご挨拶しようかなと思っている。 ふてくされていなきゃいいけど。
2014.12.26
僕が古い観念の王国から脱出したのは19歳頃だったと思う。革命の挫折、受験の失敗、そして失恋のトリプルダメージで精神状態は絶望の極地にあって魂は呻吟していた。 魂とは不思議なものでそういうときに自然と救いの手をさしのべてくれるものなのだ。 何かに導かれるようにいつしか僕は古い観念の王国から脱出していた。 これはいったい何だったのだろうと考えるといわゆる現象学でいうところのエポケー、つまりリセットだったのだろうと思う。それまで与えられていた先入観や価値観というものが全て洗い流されてしまい全くの白紙に戻って僕はもう一度新しく生まれ変わったのだ。 それまで、いかに正体不明の与えられた情報や既成の概念だけで自分が作られていたことかと愕然とした。 何が善で何が悪なのか、それも白紙にもどった。善悪の彼岸を越えた。 いまでは全てを疑っている。 前にも書いたが全てを疑えといったのはマルクスだった。これは自分の思考さえも疑えということなのだ。疑うことをやめた精神は共同幻想の重力に負けて真っ逆さまに落ちていくだけなのだ。 吉本さんは思想家ではない。彼にとって思想とは詩的な怒りの表現だった。浅はかな理解力しかない人々はそれすらもわからない。なぜ怒らなければならなかったのか。その怒りを共有できる人のみが彼を本当に批判できるだろう。それ以外は全く話にならない。本当の批判とは自ずと自分へと向かうものだ。 他人がどうこうではないのだ。他人を語りながら実は自分を語るべきなのだ。そうでなけれ単に悪口をいってるだけだ。そういう人たちはいったいなにをしたいのだろう。悪口をいって自分のほうがえらいと溜飲を下げているだけだろ。しかも著作をちょっとかじっただけで。 思考空間が歪んでしまっている人たちとは全く議論にならない。自分の身内ですらそうなのだ。まるで違う言語を話している感じがする。 僕に言えることはこれだけだ。古い観念の王国から脱出しなさい。現象学的思考をしなさい。
2014.10.27
お前は歌うなと詩を書いたのは誰だったか。確か社会主義リアリズム華やかなりし頃のむすっとした顔の共産党の詩人だった記憶がある。別に誰でもいいのでいちいち検索はしない。今思えばインフルエンザみたいな単なる流行のたぐいに過ぎなかったのだから。 ただ「お前は歌うな」という言葉だけが記憶されているだけだ。お前は歌うな。たしかにそうだと思っていた。基本的に男は歌うべきではない。言葉で、論理で堂々と勝負すべきだと今も思っている。男の歌手なんてどんなに男っぽく歌ったって結局は女々しいやつなのだ。そうじゃないだろうか。 しかし、と最近は思い直している。言葉でゆける世界とは人が思っている以上に限界があり狭いものにすぎないのではないか。認識の極北、知の岸辺の向こう岸、言葉が帰って行き消え去る彼方に流れているおおきな流れのようなもの。それは音楽なのだろうか。 宇宙は一つのコンピューターだという人もいれば壮大な交響曲だという人もいる。いったいわれわれは何なのだろう。絶滅危惧種、ホモサピエンス?長続きしたとしてもどうせある日隕石が降ってきて滅びる運命。実は恐竜が滅びず生きていたら進化して文明を作っていたかもしれないな。昔やったゲームの世界ではペンギンが進化して鳥人類になり文明を作っていた。別に何でもよかったんじゃないかな。時がたてばそれなりに進化するさ。 昔、試行という吉本さんの雑誌に投稿している、共産党系の人なのかもしれないが廣松渉の物象化論ばりに目次ばりばりの体系を志向する言葉を見て、もはやこんな言葉や体系になんの力もないなと思ったことがある。 そして今日知識人は気持ち悪いただのおっさんになりはて言葉になんの力もなくなってしまった。すべてポップとなってしまった。 そこには誰もいない。誰もいないのだ。全く。沈黙の世界が続いているだけだ。 僕に去来する幻想は、昔突然意識がなくなったときそのとき一度僕は死んだのかもしれないなということだ。 しかし意識が戻ると世界は元通り続いていた。次に目覚めたときも同じ世界が続いているのか。合わせ鏡みたいに。
2014.10.26
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