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私の古代史への関心は、海洋民・海人族の顛末である。 その我が国の古代海人の系譜をまず辿っておこう。「新潮」元編集長でユニークな古代研究家の前田速夫によれば、古代海人族は宗像系、隼人系、安曇(阿曇)系の3つの系統に分けられるという。 宗像系の海人は、たぎり姫、いちきいり姫、たぎつ姫の宗像三神を祭神とする操船にすぐれ、遠洋航海に長じ、潜水・素潜りを得意とし、主として日本海沿岸部に広く分布。 隼人系の海人は、インドネシアを源郷とする海洋民で、オオヤマツミの神を奉じ、のちの瀬戸内水軍の中核として成長を遂げた最も戦闘的な海洋民。 安曇系はその傍系に住吉系を有し、インド・チャイニーズ系と言われ、船を用いて釣りや網漁を併用し、航海を得意とした。中国南部の閩越(びんえつ)地方の航海民の系統を引き、大陸の沿岸部に沿って北上、山東半島から遼東半島、さらに朝鮮半島西岸を南下、南西海岸、多島海、済州島方面へ経て、玄界灘に達し、博多湾の志賀嶋を本拠地とした。ここから北部九州沿岸の海域を押さえ、さらに北九州から瀬戸内海を経て紀伊半島に出て、志摩半島に重要な基地を築いたとされる。日本各地に残る安曇、渥美、熱海などは、その名残りである。 これらの海洋民が中心となって大和の初期王権を支え、親衛隊の役割を果たしたが、これら海洋民の政権内部における栄枯盛衰、そして朝鮮半島と大陸の王権の動向が日本史の光と影を描いてきたと私は考えており、それを記述するふさわしい表現形態を模索しているのが現状である。 久々に空の雲を眺めながら、うとうとと舟を漕ぐ一日を賜りそんなことを思い巡らせていた。
2021年04月30日
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第46年度北方異民族慰霊祭は、神社庁のコロナ禍の自粛要請により、急遽自由参詣の形となりました。 久々の雨に洗われる一日となりましたが、午前9時より正午過ぎまで碑前にてお供えを準備し、待つこと3時間。 11時30分、とりあえずそれまで集まっていただいた方たちと礼拝を済ませ、足元のお悪い中遠路駆けつけて頂いたお礼を申し上げ、ほやほやの「月のしずく」33号をお渡しし、お引き取りいただきました。 それから正午すぎまでちらほらと来られる方をお待ち申し上げ、無事すべて終了いたしました。 それから神社へ礼を済ませ、追谷の父親の元に報告の墓参をすませてきました。 雨に洗われてイケメンの度合いがさらに増したお地蔵さまにもご挨拶。昭和の日の行事はこれで恙なくすべて終了。 さて、いよいよこの日を終えると月のしずくの新しい1年がようやく始まります。お地蔵さまと同じく、身も心も芯まで洗われてピッカピカの1年生となって今年も精一杯働かせてもらいますのでどうぞよろしく。
2021年04月29日
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久しぶりの雨に悦び勇んで農村部を走り回ってきた。田植え直前の若葉に覆われた大地を潤す雨脚を眺めたくて。 この風景が5月になれば水田に代わる。四季のある国の楽しみは尽きない。つかの間の静寂のあとは蛙たちの大合唱で共振することだろう。雨に打たれながら、透明になっていくのを感じる。
2021年04月28日
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本冊子 INDEX七福菌 毘沙門天狗茸 岩里藁人きのこのイコノロジー序説 毒とるM石原吉郎のシベリア抑留体験 なつきじろうカサテラス ヌメリツバタケ 大江友亮福本浩子個展「Mycobook's Library」報告 毒とるM奥村彪生の食の自然暦 奥村彪生日本史うそで笑と事典 大王が天皇になるまで なつきじろう♪~茶々タイム~♪ 擬態の謎 茶屋町一郎百田陵助「きょうせいキノコ」少年ジャンプ 所収 書評 綴込み別冊 大戦殉難北方異民族慰霊第46年大祭によせてシベリア抑留と石原吉郎 石原吉郎 略年譜確認されない死のなかで 強制収容所における一人の死 『望郷と海』より風琴と朝 現代詩文庫26 石原吉郎詩集 より 陸軟風 同上三つのあとがき 同上田中唯介 第6回シベリア抑留記録・文化賞 功労章受章の報
2021年04月27日
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良弁僧正は、大佛開眼以来、東大寺初代別当職をしばらく勤めて、それを辞退したあと近江国の勢多の石山寺の創建に関わり、宝亀4年(773)の閏11月16日に85歳の当時稀に見る高齢で宇陀郡賀幡(川股を経て現・伊賀見)の開善寺址辺りで入滅したとある。続日本紀の宝亀4年の項には、弔問使を出し、遺骨を集めて改めて埋葬したらしい記事が載るのみ。 が、僧正にまで上り詰めたにもかかわらず、高僧の卒伝は残されておらず僧綱の規定するところの褒賞の記事もない。したがって、その生涯は生まれから死に至るまで曖昧模糊のままだ。 しかも伊賀、三重方面への旅の途上で亡くなっているのは益々解せない。伊賀といえば、敢国神社のある阿閉氏の眷属を訪ねる旅の途中であったのかと想像されるが、この伊賀の地は忍者ハットリくんの、すなわち麻の織物を伝えた服部(はとり)部の本拠地で、さらに大半が代々東大寺の荘園であったところだ。聖武天皇の紫香楽宮の所在地の甲賀の郷も伊賀同様、自治意識のとりわけ強い郷で、のちに観阿弥・世阿弥を生み、楠正成などの中世の悪党(=荘園の名目上の所有者に反抗的だった在地小豪族)と縁の深いところである。とすれば、秦氏の匂いがきわめて強い土地柄である。この地の謎を探る旅もこれからまだまだ続く。
2021年04月25日
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2021年4月29日(昭和の日)発行の「月のしずく」33号からは、茶留さんを迎えてスタート。 その記念すべき表紙イラストを岩里藁人が七福菌で担当してくれます。岩里藁人(いわさとわらじ)とは、知る人ぞ知るMOOK『きのこ』時代の毒とるマダラーノフの盟友の茶留さん。33号は、まず毘沙門天狗茸(写真下)が巻頭を飾ります。 毒とるマダラーノフ改め、なつきじろうともどもきのこ新時代を目指して、渾身の作品を打ち出していく所存。どうぞよろしく。
2021年04月24日
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石原吉郎著『望郷と海』 石原吉郎 私の本棚には、ロシア側と日本側のそれぞれが綴った大部のシベリア抑留の記録や歴史書が10冊近くある。しかし、この石原吉郎の『望郷と海』と彼の詩集と句集が何物にも替えがたい重みをもっているのは部分読みするだけで納得いただけると思う。「月のしずく」33号には、その『望郷と海』からの一節も抜き書きして綴込み付録として入れた。 しかし、なぜ、いま「月のしずく」はシベリア抑留の意味を問い返すのだろう。それは、石原吉郎の『望郷と海』やソルジェニーツィンの『収容所列島』が、統計的数字に推移せざるをえない客観的な(疑似科学的手法)で描かれているシベリア抑留の記録や歴史書からは絶対に浮かび上がってこないもうひとつの戦後の真実を伝えているからだ。 私が目に見える世界と目には見えない世界の双方にまたがり時折、姿を現す<🍄>を介して、埋めがたく乖離してしまった科学と芸術文学に架橋する必要を訴えかけてきたのは、この事実による。科学の合理的とされる起承転結からはみ出たものにこそ生命体の真実があると受け止めてきたからである。 それが、今日、地球を見舞っているパンデミック騒ぎ、そして各国首脳たちが何の実体も示さない統計的数字に踊らされ、微視的な視点を奪われて個々の悲惨を顧みない政策に終始していることに通じるからである。 今回の致死率10%未満のコロナは、あくまでインフルエンザであって、パンデミック指定すべきものではない。このバカ騒ぎのために、これまでかろうじて持ちこたえてきた弱小の商工業者は総倒れになり、人間と人間のかすかなつながりはすべて遮断されデジタル社会へと急傾斜していくだろうことは火を見るよりも明らかだ。日々公表される感染者数に不安を増大させるばかりの市民たちに、マスコミ各社は良い頃合いとばかりに、小さく死亡者数を添え始めた。日の当たらなかった微生物学者たちのはしゃぎようはもっと悪い。それでなくても日々食べ物が廃棄処分され、さらにトリインフルエンザや豚熱で数十万羽、数万頭の鶏、豚がすみやかに殺処分され、さらに休業要請の乱発は、弱小企業を生ま殺しにし、それらの保証に赤字国債の上乗せをして、国民の税を数十年先まで食いつぶしているだけなので、後顧に取り返しのつかない憂いを残すことは必定である。為政者は、今、あらためてA.カミュの『ペスト』をひもとくべきであろう。「右へ倣え」の付和雷同は捨てて、貧乏列島の現実をもっとしっかりと見据えなければ、コロナ一つで国際潮流の中でかろうじて生きながらえてきた列島小舟は沈没することは目に見えている。 それは、今、石原吉郎のシベリア抑留の真実をたどることによって、今の日本と世界がいかに牢獄化しているかをしっかりと把握してほしいと願うからだ。石原の綴ったシベリアの強制収容所の現実はその相同なのだ。 非力であることを顧みず、非力なままに、次の世代に対して贈る言葉をまだ目の黒いうちに語らねばという思いが、私のような脳天気な者でも感じるくらい、人間社会は荒廃しはじめているのだ。 そして、もっと非力な<異>を冠した石くれの大戦殉難異民族慰霊碑も、私は高度成長期の始まりにひょっこり頭をもたげた🍄だと考えている。この石くれの意味がようやく見えてきたのが戦後76年を閲した昨今だと改めて受け止めている。この石くれがそれぞれの意識の中でさざれ石となるまで、今しばらく昭和の日の集いを続けたい。 私には荒廃した野山や巨大都市の方々から、そしてさらに荒んだ人間の心の闇からきのこが続々と頭をもたげてきているのを目の当たりにしてきた。 かれらはその修復不能に見える世界の界面から静かに立ち現れるが、実に美しい姿を示してきた。 このきのこが立ち現れる間は、まだ希望はある。私は、この35年の間に、彼らが立ち去ってしまった森のそれからを実にたくさん見届けてきた。 私は、そんなきのこたちをジャンルを超えて、可能な限り見つけ出し「月のしずく」で拾い上げ、希望をつないでいきたいと思っている。 そんなきのこ目を養うためのムックきのこクラブの旅もまだ少しは続けることができるだろう。
2021年04月23日
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雲ひとつなく晴れ渡った午後、来週に迫った慰霊祭に向けて、有志の皆様と待ち合わせして碑まわりの清掃に行ってきました。 清掃前の様子は以上の通り、清掃後の様子は、うっとりして、というか砂埃まみれになって撮影するの忘れてしまいましたが、格段に綺麗になりました。今回の慰霊46年祭に向けてのメッセージは、『月のしずく』33号に小特集を組んでいますので、どうぞ連休中にじっくりとお読みいただければ幸甚に存じあげます。
2021年04月22日
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今回出会ったきのこたちの中でも、ひときわ印象に残ったきのこは写真上のきのこだ。 クマシメジ Tricholoma terreum 私にとってこのきのこは、信州ではモミ林でごく普通に見かけるきのこだが神戸ではあまり見かけたことはなく、福知山や京都中部から北部、それもどちらかといえば秋も闌けてから出会ってきたので、いささか早すぎる登場と思って驚かされた。 松茸に代表されるトリコローマ属の中ではハエトリシメジやシモフリシメジあるいはハマシメジに近い、傘の中央がややもりあがるタイプのきのこで、手ぢかな処に3個体、手の届かぬところに数個体発生していた。何か幸先の良いスタートを感じさせてくれる出会いの予感。 それと休憩した広葉林の落葉の下を掻いてみるとミニチュアサイズの チョウジチチタケ Lactarius quietus らしいきのこが至るところにびっしりと発生しており、触れると一人前に白い乳汁を浮かべてくれた。 この日はひさしぶりに新鮮な個体の ヒトクチタケCriptoporus volvatus も方々で見かけた。 近畿圏の赤松の樹林帯が更新期に入った30年前にはいたるところでみられたが、その後広葉樹枯れが始まり、里山の生態系全体に目にも明らかな異変がもたらされ、ずいぶん野山の動植物の数が激減してしまった。更に近年、温暖化が重なり、里山の森は果たして回復するかどうか心配の種は尽きない今日この頃だ。 以上の他、チシオハツ Russula sanguinaria の幼菌、キツネタケ Laccaria laccataチチアワタケ Suillus granulatusヒメカバイロタケ Xeromphalina campanella の幼菌 アクニオイタケ Mycena stipata これらのきのこはこれからはじまるきのこの旅で幾度となく出会うので、またその時に紹介する。
2021年04月21日
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4月のラボMでのサロンは、北インド古典音楽の世界音楽の中での位置づけとシタール楽器そのものの詳しい解説を田中峰彦さんに存分に語っていただいた。 彼のシタール演奏は日本キノコ協会時代、各地の自治体でのきのこ文化普及のための音楽会で幾度となく聴いてきたが、彼がシタール演奏とともに歌を歌うのは今回が初めて(写真下)だったので、うれしかった。 今春よりコロナ下での、ロシアン・ポップス、プログレッシーヴ・ロック、北インド古典音楽などの音楽サロンを開いてきたが、これらを通してクレオール音楽ということについて深く考えさせられること大であったので、次号の月のしずく34号では、これまでの講師紹介を兼ねてそのことについて少し触れてみたい。
2021年04月20日
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春は風来坊の子嚢菌からはじまる。この日は晴天続きの上に地温が上がり切らないこともあり、思ったよりきのこは少なかった。私たちのなじみの子嚢菌を風来坊と呼ぶのは、彼らの胞子の多くが栄養源の豊かな土壌や好みの昆虫、植物の繁殖地に飛来して寄生生活をはじめ、その栄養源が尽きると、また別天地へと旅立つからだ。 私たちになじみの担子菌(担子器の上に胞子を担ぐ菌類)と呼ばれるマツタケ型のきのことの違いは胞子(=子)が莢状の袋(=嚢)に入っているからである。今年の春先のきのこは近年よく見かけるようになったカバイロサカヅキタケ Helvella leucomelaena からはじまった。30年前には皆目見かけなかった種である。 このコップ状の内側全体が子嚢胞子をたくわえていて、雨滴や振動の度に「ハッ、ホッ」と白いため息を吐くさまは可憐である。掘り出さないとわからないが太くて短い柄をもっている。 私がこのサカヅキちゃんと立ち話していた、その足元で深々と落葉で満たされた側溝を掘り返していた仲間が見つけ出したのが以下の残骸である。あきらかにノボリリュウタケ Helvella crispa の柄の形をしている子嚢菌の代表格のきのこである。 こちらはスミゾメチャワンタケ Plectania modesta と言いたいところだが、黒色のチャワンタケとしておこう。 トガリアミガサタケ Morchella conica 。前回、蓮月尼さんを訪ねたときは至る所でアミガサタケを見かけたが、今回はこのトガリちゃんだけだった。この逢瀬の不確かさにきのこ好きはイジイジさせられ、またの逢瀬を心待ちにすることになる。しかし、きのこと親しみ、きのこを知るためには1度の旅で5~10種くらいをバラエティ豊かに出会いじっくりと観察するうほうがはるかに身に着くものだ。今回もきのこ目を養う初心の人にとっては集中力を身に着ける最良の日となったことだろう。 そうそう、蓮月尼は尼さんと私は呼んでいるが、知恩院で剃髪したのは事実だが、武家の女で、夫に旅立たれ、子供もすべて亡くなって天涯孤独の身となって男手に頼らず生きていくうえでやむなく尼僧姿で隠棲することとなったので、どちらかと言えば方便としての尼さん。蕪村も難波の毛馬の地を出奔して寺男として知恩院あたりに紛れ込み生涯墨染の衣を手放さなかったのは、そんな仏縁に対する恩義を感じていたからだろう。いずれも、都市最下層民の流民、無宿人の身分の風来坊としての尼や僧もどきの姿だったのだ。廃仏毀釈で寺院という寺院が完膚なきまでに破壊されたのは、寺院が江戸期の町衆を人別帖で管理して幕府から手厚く保護され権力の片棒を担っていたからであろうが、こうした最下層民の、男女を問わない駆け込み寺的役割を果たしていたことも忘れてはならぬ。
2021年04月16日
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西賀茂の神光院。かって訪れた時は桜の満開の季節だったが、今回は同時期にも拘わらず葉桜の下風が涼やかな午後だった。宝ヶ池から深泥ケ池を巡り、上賀茂神社の門前を抜け、賀茂川を渡りはるばると。 晩年を過ごした茶室(今は不動堂となっている)をのぞき、そこから比叡の展望をほしいままにする西方寺の蓮月の墓所までさらに足を伸ばした。 蕪村にもゆかりの深い知恩院で剃髪して赤貧の生活を続けた壮絶な前半生ののち、晩年は蓮月ブランドの焼き物で一世を風靡して社会奉仕にも精を出した女傑であった。出入りの商人の子息であった富岡鉄斎の才をいち早く見抜き、パトロネージュした蓮月尼。彼女の墓には富岡鉄斎の御手植えの桜が逞しく育ち、蓮月尼の墓石を雨風から守っているようであった。 明治八年十二月十日没。享年85歳であった。 上賀茂から西賀茂の辺りから眺める比叡山は、また格別の趣きがある。 江戸の町衆文化からは、現代の私たちの学ところが多く、蕪村の追っかけもまだまだ続きそうなのでまた訪ねたいところである。 ここから出町柳駅までバスで戻ったので、かってムックでこちら方面へ来ると必ずのぞいた駅前のジャズ喫茶 "LUSH LIFE" のマテ茶でのどをうるおしてから帰途についた。
2021年04月15日
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密教美術の大きな成果は曼荼羅図に表れています。この密教の世界観のイコンは静的ではなく動的な相に於いて捉えることに意味があると言われてきました。 福岡伸一さんの『動的平衡』Ⅰ・Ⅱは、その20世紀版の発見でした。 同じく、松尾芭蕉は俳諧の極意を「行きて帰らぬ心の味わい」と語っています。 東洋の智慧は、この動的平衡を多角的に掘り下げてきて今もその途上にあるということが大切です。「貧乏ひまなし」これが東洋の智慧です。 小冊子『月のしずく』33号よりはじめる「きのこのイコノロジー」とはきのこの形態から出発し、きのこを行きつ戻りつしながら、そのイコン(米語読みではアイコン=図像)解釈学(とは言っても学とはほど遠いたわごとでしかありませんが)の意味するところをさぐる旅なのです。「旅は道連れ 世は情け」と言いますから、どうぞしぱらくご一緒に旅をいたしましょう。 人生なかばにして山岳写真撮影の旅の途中に出会ったきのこは、スフィンクスさながらに謎かけをしてきました。「おい、そこのカメラをかついでいるあんちゃん、本当に俺が見えているのか」と。 宮澤賢治が『春と修羅』で「けらをまとひおれをみるその農夫/ほんたうにおれが見えるのか」と語りかけたのとまったく同じように。 私のきのこ人生はこの時から始まりました。 そのきのこの問いかけは、以来ずっと私のからっぽの頭と身体に鳴り続けています。きのこからは列島人はたちまちきのこ雲を思い起こします。この悪夢はその後も何度も列島を見舞っているにもかかわらず、ほとんどの人が忘れてしまっています。まったくきのこをみていない証拠です。 きのこときのこ雲は密接な関係があります。「陰陽図」(図像上左)そしてひまわりの種の配列の二重らせん(図像上右)、DNA,RNAの複合らせん、星雲団、すべてきのこと密接にかかわっています。 これはきのこ星雲時代に私が制作し、J-FAS日本キノコ協会のロゴマークに起用したものです。きのこ観察会や菌類調査の際の指導員のために腕章にも用いています。写真上はそのキノコ・レインジャーの腕章(藍と緑があります)。何かに似ていませんか?。そうです、ナチスドイツのカギ十字の腕章です。ナチスドイツはアーリア系神話を確実にものにして理論武装しました。ナチス恐るべし。 宇宙の星雲団、地蔵祠のシンボルマーク、ナチスのかぎ十字。卍(まんじ)に正、逆はありません。蔓植物の左右巻同様、視角ひとつで変わるのです。 この腕章は、「天上天下唯我独尊」の甘茶仏のきのこと逆まんじの星雲のパロディーです。私のそれはヒンディーのクリシュナ神の胸毛(逆まんじ)をモデルにしています。 きな臭さがたちこめる21世紀、そんな深刻な状況を笑ってかわす心の余裕がぜひとも大切です。それにしても、何事もしっかりと見据えておかないと悪夢のよみがえることは必定です。また「本当におれがみえるのか」ときのこに叱られることがないようにしましょう。「たかがきのこ、されどきのこ」の「たかが」と「されど」をごちゃまぜにしてきのこ汁にすると個々のきのこはなんの味わいもありませんが、出汁は絶妙な味わいになります。それが実は、きのこの本当の醍醐味なのです。 こんなことを気ままに語っていこうと思っています。
2021年04月08日
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談山神社の見どころは、なんといっても龍神社。この小祠の脇の小流れは、大和川の源流部のひとつで、ここから流れ出す水がやがて大河の一滴となって河内へと躍り出で大阪湾へと注がれる。 私は高校時代には写真部の友人と見仏に駆け回ったものだが、きのこと出会って以来、野辺の石くれ仏以外には、こうして伽藍に納まっている立派な仏像にはとんと興味が湧かない。しかし、この秘仏の談峯如意輪観音坐像はなかなかの美形で見ごたえありそう。 かって訪ねた時は厨子の奥にお隠れになっていて、これは写真だが、本年は、6月1日から7月31日まで公開されるそうな。 足腰の病に霊験あらたかというからそんな悩みをかかえている向きはどうぞお参りくださいませ。実物はもっとすごいらしいです。
2021年04月07日
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わが国の史書の記述は、継体天皇の時代から俄然精彩を帯びてくるが、その継体朝にのし上がってきた葛城を強く意識した勢力が蘇我氏であった。 それは継体天皇が即位後も長年大和入りをせず河内潟(現大阪)の淀川べりに執着したことからも明らかである。5世紀に入って画期的な出来事の一つとして馬匹(ばひつ)文化の導入があげられるが、それは畿内では河内牧(かわちまき)と関わりがあった考えられる。継体天皇を近江の三尾(越前の三国)から呼び出したのが河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびと あらご)だったのも気になる。そしてその馬の飼育の文化を持ち来った渡来民全体を統轄していたのが蘇我氏ではなかったかと私は考えている。蘇我馬子の馬は輝かしい馬の文化のパイオニアにふさわしい命名だったと思うし、蘇我氏系の推古天皇が幼名を額田部皇女(ぬかたべのひめぎみ)と呼ばれたのも額田部が馬の額につむじ模様をもつ駿馬を産した部民に由来する。さらに聖徳太子と馬の切っても切れぬ関係を見てもそれは明らかである。蘇我系の天皇であり仏教受容に積極的だった欽明天皇の時代に馬を用いて深草と伊勢とを行き来して水銀の交易を行っていた秦大津父(はたのおおつち)の記事も参考になろう。 そして、その河内には太秦の地名が残されており、茨田氏(まんだし)をはじめ秦氏と同族意識をもつ氏族がひしめいていた。蘇我氏と秦氏の関係は、想像以上に濃密なのだ。 冒頭の写真の大神神社あたりにあった近代都市の成立を画した崇神朝以来王権と秦氏とのかかわりは濃厚だったと私は考えてきたが、それは蘇我氏の時代にようやく歴史の表舞台に見え隠れしはじめたようだ。
2021年04月06日
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乙巳の変の対立は、神祇と仏教の導入問題はごく末梢的な問題で、朝鮮半島の動向での外交問題が最も大きな要因であった。高句麗と百済における政変と新羅の台頭があり、大和の王権は大きく動揺していたことが背景にある。しかし、史書の記述からは、乙巳の変でも、その後の白村江の戦いでも鎌足や大海人皇子の姿は見えぬまま進行している。 そんな藤原氏の謎をさぐるため、2013年5月私たちムックきのこクラブはシャクナゲの花咲き乱れる多武峰妙楽寺(現・談山神社)を訪れた。談山神社国宝・東大門(写真上) おそらく中臣鎌足は乙巳の変の首謀者であったにも拘わらず、黒幕に徹したようである。 彼は乙巳の変以前から僧・旻(みん)の仏堂で『周易』の購読に参堂していたし、「興福寺縁起」でも、丈六の釈迦像をつくり、そののちに山階寺の造営がはじまったとある。 また、蘇我本宗家殲滅ののち、蘇我氏の飛鳥寺を領有したようで、飛鳥寺にパトロネージュし、度々寄進を行っていたことが伝わっている。 鎌足の脳中には、我が国がすでに神祇仏教という世を挙げて宗教国家へと傾いていく中にあって、儒教精神による政治立国への強い意志があり、蘇我氏との対立以前から神祇伯という「名負いの氏」の身分を足かせに感じていたようで、神祇伯任官のすすめを断って仮病を使って自宅に閉じこもったことも伝えられている。 その悲願は鎌足逝去の前日、天智天皇は大海人皇子を使いとして大織冠の冠位と藤原を名乗る許可を与えたと「書紀」にはある。 談山神社の眼光するどい藤原鎌足像 この鎌足の思いは河内の田辺史の許で育てられていた藤原史がそっくり受け継ぎ大宝律令を大成させ、藤原家千年王国の礎を築くことになる。 その鎌足は、物部本宗家殲滅の後の蘇我大臣の政治的な手口をじっくりと調べ上げ、それをもっと巧妙かつ綿密に根回しし、王権の周囲を藤原で固めていった。彼は中大兄皇子とも、大海人皇子とも、壬申の乱の大友皇子とも親密な関係を築き、着々と藤蔓を王権に絡ませていった。彼ほどなりふり構わずバランス外交をかろうじてうまく乗り切った人物はいなかったと思われる。それにしても、すべてに超越する権威は法にありと確信し、儒の国の政治学を最優先した鎌足と不比等親子の先見の明はすごい。 そんな藤原氏の繁栄は、半面教師としての蘇我氏にあったというべきであろう。蘇我氏はそれほどすごい勢力だったのである。蘇我馬子が王権の中枢にいて、蘇我氏をすべてに超越した身分としたこともちゃっかり学び取り、鎌足、不比等も律令世界からも藤原をすべてに超越した存在に仕立て上げていく。そして満を持して蘇我三代目の蝦夷、入鹿親子のちょっとしたおごり・たかぶりを大逆罪に仕立てて殲滅してしまうのだ。稲目、馬子が生きていたら叱責したであろうに、彼らの所業をただす存在がすでに周りにはいなかったことが致命的であった。 しかし、藤原は、中臣の出自であったこと、山階寺を興福寺として移築し平城京における彼らの氏寺としたこと、律令の大成者となったこと、すべてを力の源として一族のものとし、神祇と仏教と政治それぞれの頂点に君臨することになる。それほどおそるべき切れ者の一族だったのである。 この妙楽寺だが、鎌足の長子が唐の留学から戻り僧・定慧となってまもなく鎌足の墓をここに移し、十三重塔をその上に建てたことから藤原氏ゆかりの寺となったが、天台宗寺院で推移したため、皮肉なことに興福寺の僧侶たちや大峰金峰山の僧たちにより何度も焼き討ちにあっている。 しかし、この十三重塔は後世の再建にもかかわらず、現存する木造十三重塔としては世界で唯一最古のものだとされる。 定慧は不比等のお兄さんだが、こののち暫くして変死を遂げている。 この爽やかな一日、10数名のムックきのこの旅人たちと思い思いに過ごしながら、私はこの山塊のきのこたちのこんな語りに耳傾けていた。 写真は、樹の洞から顔をのぞかせた談山神社のヤナギマツタケ。この日は、さまざまなきのことギンリョウソウまでが勢揃いしてくれてわれわれを楽しませてくれた。
2021年04月04日
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月のしずくでご紹介したコラージュアーティストの山本佳世さんから突然メールが入り、大阪中央区伏見町のつたのからまるレトロなギャラリーでグループ展を開催中だとのこと。 日付を見ると今日しか行けないので仕事の後で訪ねてきた。 近くまで行くと、このギャラリーには日本キノコ協会時代のうん十年前に訪れたことがあるなと思い出した。 自由に動く、移動するといった意味のモバイル展では、山本佳世さんは可動性のアクセサリーやデコレーション作品を展示していた。 山本佳世作品のコラージュすごろくと近作の作品集。ご本人は張り切っておられたらしいが、花粉症で今日はアテンド不能状態とか。モジュール作品とブローチ類はどうも私には無縁なので、コラージュ作品のトランプを買い求めてきた。大正時代の歴史的建造物で、なかなかいい雰囲気のギャラリーでした。 山本作品のブローチの数々 名前を聞きそびれたが男性の作家さんのフエルト作品の絶滅危惧種のモモンガがギャラリーの空間を飛翔していた。 こちらは常設の油彩画 作家は松本れい子さんで大阪在住とのこと。日照り雨の明るい空の下で、Amanita属のきのこのベンチの上でカエルさんが虹をみているほのぼのした情景が目にとまった。
2021年04月03日
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ポール・デスモンドの「スカイラーク」を聴きながら
2021年04月02日
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近鉄橿原線の笠縫駅の東にひろがる味間の地は、麦畑が広がりタテハチョウが舞う田園風景の中にあった。 味間の北の端には笠形の地名が残る。笠形とは春日田の転訛であろう。案に違わず笠形には春日神社があった。 そして味間のど真ん中には須賀神社。須賀は蘇我に通じる呼称である。 裕福な農家が続く味間。 世阿弥が晩年この地で過ごしたという補厳寺(ふげんじ)。元、律宗の寺院で14世紀に禅寺に代わった大和地方最古の禅院である。世阿弥の能楽に禅宗の影響が色濃いのはここに参学して禅に親しんだからだという。 山門の脇には世阿弥参学の地の石碑がある。 そして笠形の更に北の大和川にそう村屋郷には、村屋坐弥冨都比賈神社が残されていた。大国主命が国譲りの際に高皇産霊神(たかみむすびのかみ)がその娘を与えたという三穂津姫を祭神とし、三輪山のオオモノヌシと重ねられて三輪の別宮とされた複雑な経緯をもつ神社である。この村屋は守屋に通じ、物部の係累がこの社を代々守ってきたと思われる。壬申の乱の際に大海人皇子軍軍勢に神主が神がかりして助言を与えたというから物部そのものである。このあたりは守屋を名乗る家が多く、この神社の脇の屋敷も守屋の表札を高々と掲げていた。(写真下) このように田原本町には藤原、物部、蘇我がいたるところにひしめいているのがお分かりいただけだだろうか。 そしていよいよ味間の味間たる所以の場所へ足を運ぼう。 笠縫駅の西側は秦庄といってまさに秦氏の集落である。向原寺の榎葉井(えのはい)から大和申楽四座のひとつ、円満井(えんまい)に繋がることは前に述べたが、興福寺、春日に宮仕えした金春(代々秦姓を名乗る)が、先祖のために秦楽寺を建て、その門前に金春屋敷を構えたとされる。 この秦楽寺は、円満井座の別称竹田座の竹田にあったとされる。その竹田の地とは、そもそも物部の大和川を挟んで東の蔵堂、西の杜屋郷(村屋神社所在地)を指し、そこにあった楽戸の寺を秦庄に移したとされる。このように伎楽、申楽を巡っても物部、春日、蘇我、秦氏が深くかかわっていた。そしてそれらを貫く赤い糸が楽戸の秦氏であり、秦楽寺は楽戸秦連の氏寺なのである。 のどかな田園のひろがる田原本町で私が体感したのは、ここが歴史の底を流れる暗流のスクランブル交差点だということだ。 それらをつなぐキーワードが味間であり味摩之であり、みましが転じた水沼であり秦氏であることなのだ。 秦楽寺はわが心中の興奮とは裏腹に、珍しい中国風の土蔵門と森閑と鎮もりかえった本堂とさつきの花が盛りの林泉が広がっていた。 小一時間、ここで心のどよめきを楽しんで、完熟のコツブタケに軽く礼を述べてから退散した。
2021年04月01日
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