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「月のしずく」35号の発送が終わりました。たしかに相次ぐ災害に加えてコロナ禍、そんな中でも原子力発電の再稼働へすがる思いを露骨に示し始めたこの日本列島の政権担当者たちの言動を見るにつけ、すくいようのない窮地に立たされているのは誰の目にも明らかになってきました。 そしてさらには高齢化を迎えた旧世代に属する私たちの多くが疲弊しはじめて、若い人たちに贈る言葉もすんなりとは届かなくなりはじめていることも明らかになってきました。 きのこのたわごと以上の説得力をもたない「月のしずく」ですが、いよいよ列島史の核心部分に触れるまでに号を重ねてきました。さて、どこまで歩き続けることができるかはきのこのみが知る事実ですが、起爆力を温存しながら浮上の機会を狙い続けるほかありません。 次号は、我が国古来から祭祀に欠かせなかった大麻草。戦後GHQ占領下に非合法にされて以来天皇制とのからみもあり危険視され続けてきた大麻草の世界的な現況について書かれたとても興味深い著書が出ましたので、それを参考にあらためて大麻草についても考えてみたいと思います。 21世紀の地球にとってこの植物のもたらす利益は想像を絶するものがあり、大麻草については「月のしずく」でも折に触れ取り上げてきましたが この書は、従来の著書とは全く別次元の視点から書かれており、矢部武さんの本書は私にとっては待望の書であったことも付記しておきます。 かってのゴールド・ラッシュにたとえたグリーン・ラッシュ時代の到来を予言するものであることは確かですが、万が一我が国が世界的な合法化の流れに参入したとしても、それをビジネス化する際には大変な困難が伴うことにもふれているところが大切です。
2021年08月31日
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日本の夏はクーラー漬けで、列島中が汗をかかない、臭いのない生活になってしまったので、生き物をとっくの昔に卒業してしまっている。僕たち子どもの頃は遊びに行った先々の家にそれぞれ名状しがたい固有の匂いがあり、ときおり同じ匂いに出会うと「何々ちゃんのお家の匂いや」と言ったものだ。匂いでまず友達を識別していた。今はどこを向いても無臭だらけの抗菌だらけ。それがコロナの良い餌食にされているのは言うまでもない。 でもそんな日本の夏の楽しみはガンガンに冷えきった建物から出た時のモャッとした熱気。あの何ともいえない夏そのものにだきすくめられたような感覚がなんとも堪らんのだ。夏が大好きなもっとも大きな理由はこれではないだろうか。今日も一日、タマランチ―会長(決してオリンピック関係者のことではないぞ)の連続だった。町工場の処々にはオシロイバナもちらほら花を開きはじめていた。 しかし、この処暑8月23日から白露9月8日頃の暑さが稲を抱きしめてくれるかどうかは農家にとって大問題ではないだろうか。稲穂の充実に至る最終段階に当たるのだろう。昨日は半日、わが近郊の農村部を巡って風禍にも見舞われずりっぱに育った稲田の隙間を駆け回ってきたが草いきれのようなモャッとしたにおいは最高。 方々で農家の人たちが総出で汗まみれになって田のまわりの草刈りに出ているのに出会った。 こうした光景に接すると大好きな夏もいよいよフィナーレだということを思い知らされる。
2021年08月30日
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職場の近くの製罐工場の奇妙な形の煙出し。 しばらくぽかんと口開けて眺めていたら、その直下には実をつけた無花果の木が。 無花果とくればただちに連想されるのはイチジク浣腸。形がイチジクの実によく似ていることからの命名らしい。 浣腸とくればすこぶる快調で会社や団体の会長さんが連想される。年中、どこか、なぜか、失調気味な僕には遠い存在である。 そんなとりとめのない事を考えながら車中の人となり、いくつかトンネルを抜けると、晩夏光に満ち満ちた川面が飛び込んできた。 長雨の後のこの1週間、夏が舞い戻り、暑い日が続いた。じっとしているだけでもジワッと汗が噴き出す暑さはしかし、夏の醍醐味でもある。 私にとって太陽の至上の愛に包まれる夏はなんといってもかけがえのないもので、この数日は「しばらくは帰らないよ」と言って去っていったわんぱく仲間が突然舞い戻ってきたような感触でたのしく過ごさせてもらった。 そんなに夏が好きなら熱帯地方へ移住すればとよく言われるが、僕には日本の夏が良いのであって暑ければそれでよいというものではない。 とはいえ、熱帯の暑さも楽しいだろうなと思う。毎夕一日頑張ったご褒美にスコールを賜わるみたいだから。ひとシャワー浴びてから屋台店をのぞく楽しみなんて最高ではないか。 夏の暑さは冬の寒さと異なり、身構えることなくのんびりできるのが最高。それが僕の夏大好きの理由かもしれない。
2021年08月29日
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この長雨に気がかりだった兵庫県神戸護国神社の北方異民族慰霊碑を訪ねてきた。飛来して根づいた闖入者が散見できたが、荒廃とはいささか異なる風景なのでしばらくはここで憩ってもらおうと観念して、黙祷するだけにとどめて帰ってきた。 今回の訪問は、以前、東京の町田市より慰霊祭に駆けつけてくれた斎藤充功さんが、20年余りの歳月を賭して取材を重ねてきた中野学校の総括本を『陸軍中野学校全史』(論創社)として上梓し、ご献本いただいたその報告も兼ねていた。取材を受けたときの談話も樺太特務機関長時代の父の記事の中に挿入され、傘寿を迎えた氏の執筆活動の折り返し点にふさわしい内容となっていた。 ノンフィクション作家としてすでに51冊の著書を世に出してきた斎藤氏は益々意気旺んで今後の活躍が大いに期待できるが、氏のお蔭で国家の捨て石となって忘却の海に葬り去られていったいのちの数々がこうして蘇り続けてきたことは何物にもかえがたい。 長雨の影響で植えた覚えのない思いがけない闖入者がちらほら。 サクラの落枝には ヒイロタケが顔をのぞかせていた。
2021年08月27日
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このギャラリーに去来する作家展の全貌が以上のスペースに展示されていた。それぞれ健闘していたが、私の心に留まったのは作品に一貫した主張がそこはかとなく漂う以下の作品であった。 作家の名は勝村知子さんという女性らしい。 いつでもどこでもきのこアイコンを探してしまうのは私の宿痾(しゅくあ)ともいうべき欠点だが、ざっと見ただけでもいたるところから黒いきのこアイコンが顔をのぞかせていてたのしい。しかし、そんなものがあってもなくてももちろんここに居並ぶアーティストの中ではこの勝村さんという作家の作品は、もうひとつ別の光を放っていてたのもしい。 日本もいまやアーティストだらけだが、アートというのは常に現状を打破し向うへと抜けるパワーが散見できるものでなければ私たちの心を打たないものだ。
2021年08月26日
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21世紀に入ってコギャル文化のきのこが登場。そのさきがけは90年代から始まった日大の「珍しいきのこ舞踊団」でした。私はこの流れに注目してきましたので、何度かMOOK『きのこ』でも取り上げました。このコギャル文化のおかげできのこ世界はきもい存在から可愛い存在へと一挙に転じました。ただこのコギャルたちの限界は、図鑑の中のきのこ採集に終わっていること。各地のきのこ同好会もまだまだ彼女たちをすくい上げきのこ世界の奥へといざなう役割を果たしているとはいえません。その原因のひとつが、それぞれきのこに目が点になってしまっていることがあげられます。したがってコギャルたちの好みに合致したきのこ、すなわち可愛いきのこ図像だけで限られてしまうのです。 ジャズスタンダードナンバーに "I only have eyes for you"がありますが、邦題の「あなたしかみえない」状態できのこ界はずっと推移しているのが問題なのです。「きのこしかみえない」というのは本来美徳なのですが、それはあくまで個人の心の中にしまっておく矜持の問題。それができないのがきのこおたくの限界でもあります。それはやがて、きのこしか見ない自分のかたくなさの前で足踏み時状態におちいってしまいます。 かくしてきのこ世界も他の特殊な趣味世界同様、袋小路に陥りつつあるのが現状です。これを打破するためにはきのこという生物を文化指標として深める必要がありそうです。「月のしずく」はすでにどこにもきのこを冠していませんが、あきらかにきのこを主調とする潮流です。「たかがきのこ」と考える人たちに控え目に「されどきのこ」の部分を示すことにその役割があります。 それは、きのこの本質を月の光を浴びてつかの間かがやきを放つ一粒ずつの個性に注目すべしとそっと指摘する内容にしたいと願っています。それはやがて、ありうべききのこ文化の進化形、NEXT PAGEを提示するものとなるでしょう。 コガネキヌカラカサタケ ハナオチバタケ 今年の夏はわが近辺でもしばしば話題に上ったコガネキヌカラカサタケ(左)。そしてホウライタケグループのハナオチバタケ(右)。こちらのきのこは雨後の落葉層や山道脇で群生して現れるのが特徴ですが、その中の1本をあえてとりあげて示している点にこの作家の個性が現れています。 そんな意味でショップグッズでみつけたTさんの3つのきのこは、きのことの距離感が抜群で評価できるものです。きのこのアートも思想もその原点は野性生物としてのきのことの出会いのときめきを深めることをおいて深化(進化とは別物です)はありません。それを欠いたままでの文化は砂上の楼閣に終わってしまいます。 私たち一般庶民にとって永遠の異生物(hetero creature)きのこ。21世紀はそんな<異>と正面切って向き合わなければならない世紀です。昨夜印刷が上がった月のしずく35号はそんなヘテロをテーマにしています。どうぞお楽しみに。 ヤコウタケ(昼光の下) ヤコウタケ(夜陰) ヤコウタケ Mycena chlorophos は、残念ながら日本列島では小笠原諸島以南の亜熱帯にしか自生していないきのこでこれは岩出菌類研究所の栽培キットのものでしょうが、発光生物の不思議はきのこの生物としての不思議さをもっとも如実に体現しています。 女性がひとり野山をさすらうことには限界がありますが、Tさんはその貴重な出会いの一つ一つを最大限かたちにとどめることから始めています。これが私の考えるきのこアートの基本です。この永遠の他者、すなわち微生物の目にみえる部分としてのきのこを生き物としてまずとらえる視線の上に積み重ねていく文化こそが月のしずくの文化のもっとも基層となるものなのです。
2021年08月25日
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近年ムックきのこでご一緒するようになったTさんがプラネットアースでグループ展を開催。このギャラリーのアーティストたちのお宝作品が並んでいた。プラネットアースは、知人がアート展を開くたびに覗いていたがここのオーナーが私の高校時代の1年先輩だと本日はじめて聞いて知った。 Tさんの作品はいわゆるマツタケ型のきのこでない「きのこの形でないきのこ」を集めたものできのことの出会いにスリルを感じている作者らしいものであった。 その作品の右下には実物のツチグリ?も添えてあって初々しい。その他、面白いと思った作家たちの作品も散見できたのでまた紹介する。 なんといっても、このコロナ禍では、弱者救済であるべき政治が弱者撲滅に走っている世も末の事態と思われることが目に立ってしょうがない。 この列島の零細、中小企業そして事業体以外にも政治の粗い網の目から漏れ落ちても顧みられない気の毒な人たちも、なんとか耐え抜いてほしいと祈るばかりだ。そんな思いもあって元町高架下1も久々に訪れたが、コロナ禍にも拘わらずそれぞれ健闘しているので安心した。 このアート展は8月29日(日)12時~19時まで。(最終日のみ17時)なので神戸方面へ行かれた折にはぜひのぞいてあげてください。
2021年08月24日
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赤木コレクションの中に蝶を配した絵柄とあるというのでのぞいてみたが、最初???だった。 しかし、詳細に眺めてみるとなるほど芋虫から変身したことが如実に伝わるような蝶が2頭飛んでいた。 なんとも愛くるしい蝶ではないか。このタッチできのこを描くと紅茸なんかはお団子か紅白まんじゅうのようになるだろうなと思って笑ってしまった。しかし、これは後々記憶に残る捨てがたい図柄で夢にまで出てきた。二度と笑わないからゆるして蝶だい。てふてふ殿。
2021年08月23日
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列島に甚大な被害をもたらした集中豪雨の中休みの時期に友人からホロホロとメールが届く。 自宅のフランターから黄色いきのこがと神戸のKさんから。 1 写真1 コガネキヌカラカサタケ Leucocoprinus birnbaumii レウコは美麗の麗に通じる音ですが、ラテン名では白いという意味です。黄金色しているのにね。茶色のきのこがと大阪天王寺のYさんから。天王寺のYさんのはハタケキノコ Agrocybe semiorbicularis 写真が取り込めなくて(写真なし)すみませんが、写真4のわが家のコガサタケを倍ほど逞しく大きくしたもので,根っこがややふくらみ白い菌糸が顕著(根状菌糸束)であることが違います。 写真2 写真3 写真4 お散歩中に尼崎のSさんが、黄色いきのこ。尼崎のSさんのは、写真2 コガネキヌカラカサタケ L.birnbaumii 場所が違うときのこの姿も自ずと異なります。これがきのこ同定の難しいところ。同じく西宮のSさんからも白いきのこが…と。西宮Sさんは写真3のコカラカサタケ Macrolepiota neomastoidea 真っ白なのにマックロレビオタとはこれ如何に?!。 ひょつとしてと思って今朝早くわが家のバジルのプランターを覗くとここにも「おはよう。いつ気づいてくださるかと思ってましたよ」と茶色の小型のきのこが。わが家のは写真4のコガサタケ Conocybe tenera Yさんのアグロ(耕地の)と異なり、「このところすこぶる快調」といったラテン名ですが、コノはとんがった+シーベは傘あるいは帽子の意味。傘の形に由来する名称ですね。 街中でこんな状態ですから、郊外や里山では「こんにちは」の連発でさぞかし疲れるだろうなと思ってしまいました。
2021年08月22日
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夏の終わりはいつも物悲しい。おびただしい蝉の死。生命力溢れる夏は、生の過剰を蕩尽した生き物の姿で満ちている。 今日は、不穏な雲の動きはあっても時折パラっと降るだけの雨の中、吹田から大阪北港方面を走った。途中、姫島の辺りで天然酵母使用の聖庵(ひじりあん)というのぼりを見つけたので焼きたてとすすめられてカレーパンを買い求めてヒメコソ神社脇の公園で昼食をすませた。 吹田では、まさに命運尽きたといった身の丈2cmほどの小柄なセグロアシナガバチ Polystes jakahamaeと出会った。マンションの入口でじっとおのれの命の残り火を見つめている様子だったので踏まれては天寿をまっとうしたことにはならないので、そっと取り上げて草地へ放してやった。 その草地というのは空き地利用の草ぼうぼうの私営パーキングで、美しいバーコードを示しながら生を謳歌する4cmほどの蝶と出会った。 ツマグロヒョウモンArgyreus hyperbius の ♂だ。 いずれも稀な出会いではないが、つかの間訪れた晴れ間のしずかな週末の出来事だった。
2021年08月21日
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兵庫県陶芸美術館の魅力は、虚空蔵山麓に広がる立杭の里の借景の素晴らしさだ。私が時折思い出してここに来るのは催し物に惹かれてではなく、この借景を楽しむためだ。それにこの界隈には樹齢数百年のモミ林が所々残っており、秋冷とともにアカモミタケが顔をのぞかせてくれるうれしい場所でもあることだ。 なにはともあれ、のんびりしたいときにはこの界隈から篠山のあたりをぶらぶら巡ることにしている。
2021年08月19日
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ふと思い出して昨日の雨の中、小一時間ほど立杭の陶芸美術館へかけつけてきた。まもなく会期終了と思い至ったからである。赤木清士コレクションの受贈記念の古伊万里展である。煩雑な編集作業もまだ仕事も峠を越えていないが、明日一日あるので思い切って行ってきた。 鍋島藩の染付作品を中心に見てきたが、デザインの大胆さ、絵柄の精緻さはことのほか素晴らしいものだった。上は銀杏の葉を大胆にあしらったものの中に栗がならんでいる。 これらの作品を本当に貸し切り状態で見られるというのはなんと幸せなことが。 蘭の花をあしらった絵柄も随分気に入った。 むらすずめの緻密な筆遣いと月兎もなんともおおらかな感じの絵柄もなんとも心和む。
2021年08月18日
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近畿地方は本日雨も小康状態で終始したが、鉄道は遅延が相次ぎ、京滋方面の復旧が遅れていることを伝えています。列島各地で災害が続出、不安な日々が続きます。 数年前までは冗談で「あと10年もすれば異常気象はなくなるよ」「だって、毎日が異常気象になれば、それは異常とはいえなくなるからね」 こんな話が飛びかっていましたが、それがこんなに早く現実になるとは。問題は天災にしても、人災にしても、異様に恐れ過ぎない事。しっかりと事態を冷静に受け止め、身のまわりをしっかり見極めながら生きるほかありませんね。
2021年08月16日
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盂蘭盆の最終日の15日の日曜日。ラボのサロンでは2010年制作の現代ロシア映画『夏の終止符』で語り合った。監督 アレクセイ・ポポグレフスキー若者の主人公 パーベル グリゴリ―・ドブルィニン中年の主人公 セルゲイ セルゲイ・プスケパリス2010年ベルリン国際映画祭 銀熊賞 受賞作品 極北シベリアの辺境の島の気象観測所で働く2人の男。 1人は長年ここで働いてきたセルゲイとあとの1人は彼の新しい助手としてやってきたバーベルだ。彼らの仕事は、気象データと併せて周辺の放射能を測定して毎日本部へ報告すること。物語は2ケ月余りしかない短い夏の北極海の荒涼たる風景の中で日々単調な仕事をこなす2人の点景から始まる。 本部へ感度の悪い無線で交信することだけが唯一人間社会に繋がっているような生活の中で、現代っ子のバーベルと、ここで生まれここで骨を埋めることを当然のように受け止めているセルゲイとは、仕事の運び方から何から何までが違う。そこにちょっとした手違いで齟齬が生じ、次第に膨らみ、すべてが静かな破局へと進行していく。しかし、この極地でなぜ放射能のデータ測定が義務付けられているのであろうか。ここに、この物語のもうひとつの背景があるのだが、それは「月のしずく」36号(11-12月号、10月末発行)で解説する。
2021年08月15日
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このアイコンからはたちまちクヌギタケの立ち姿を想像させるが、この微妙な傘の色合いはおそらく高野さん腐心の作であろう。今回の個展で私のもっとも気がかりだった作品だ。傘と柄がともに茶褐色のものがタイプ種のクヌギタケ Mycena galericulata だが、この傘の感じはまさにアンモニア臭を漂わせるアクニオイタケ Mycena alcalinaあるいはヨードフォルム様の臭いを漂わせるニオイアシナガタケ Mycena amygdalina とも思われる。しかし、白味の勝った脚の表情からすると上記のいずれのものでもない。おそらくクヌギタケ属そのものの本意を探ろうとしてできたアイコンであろう。
2021年08月13日
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今年も春先から夏にかけて、このはかなさの極みのにようなきのことしばしば出会った。華奢で弱法師(よろぼし)の風情そのままのキヌカラカサタケグループのこのきのこ、その名もキツネノハナガサだ。 高野氏はこの孤独を絵に描いたようなきのこをかく表現した。常に単独者として登場するハナガサを被ったきのこをノホホンとふたもと配してその孤独さを際立たせた。消え入りそうなツバ、そして飾り気のない立ち姿。見事な観察眼である。ラテン名のフラッジリッシムスも、こわれやす(FRAGILE)をそのまま採用、取り扱い注意と警鐘を鳴らしている。
2021年08月12日
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足早に過ぎ去る夏は、いつも物悲しい気配に満ちている。立秋を過ぎると申し合わせたように蝉の声に変化が生じ、深夜忍び寄る冷気に思わず掛布団を引き寄せることも。この夏は高温ではあっても近年の息苦しい暑さは幾分軽減されて夏らしい夏となった。 いよいよ「月のしずく」35号の編集に突入。今回の巻頭は、茶留さんの七福菌<福禄寿>。ラボMだよりは「ハイデッガー哲学入門」、新海誠の傑作アニメ「言の葉の庭」。高野幸雄のきのこランプ展。(写真上)きのこのイコノロジーでは、きのこという糸状微生物のもっとも核心部分となるヘテロについて。日本史うそで笑事典は「敗者復活の日本史」。大江友亮のカサテラスは「タマゴタケ Amanita hemibapha」。究極のきのこグッズは「長崎名物・ビードロ(ポッペン)のきのこ」。茶屋町一郎さんの「竹にまつわる話」と、おおよそ以上の展開となる。あやおさんの「食の自然暦」は目下返答待ち。「ムックきのこの旅」の9月は、<茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る>の額田王ゆかりの蒲生野だが、ラボMの9、10月の催しとムックきのこクラブの10月もここ数日でエイヤーッと決めなければならない。 加えて、<夜の顔不思議な俳句会>の選句集計と報告、蘇鉄社の「なつきくんの古瓢俳句の鑑賞」文の〆切。本日から統計局の調査員の仕事がスタート、広報配布も衆議院選挙までに3件重なってくるので、いつもながら心地よい忙しさである。 しかし、着実に季節は移ろい秋風のそぞろ心にもの想いにふけることしばしばである。
2021年08月11日
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私たちの摩耶山の旅の起点はこの産湯の井戸。この時期、このあたりを丹念に探ればタマゴタケAmanita hemibaphaはちらほら見つけられるのだが、今回は猛暑日の長丁場でもあり、桜谷に直行。 本日の謎かけきのこはこれ。立ち枯れの木に発生しています。 ???マークで一杯になりながらこの小型の主のスカートの下の劇場を拝見するとなんと紅絹色でプリーツも密状態。傘の縁にはかすかに条線もとどめています。カメラのぼやけは、単にそそっかしいだけか、それとも秘所を覗かせていただくのですからせめてものエチケットか…。 ベニヒダタケ Pluteus leoninus 私たちのよく知るベニヒダタケはシイタケのほだ木によく発生し、傘の色は鮮黄色。しかも針葉樹から発生。目くらましを食らうところでした。 謎かけきのこ その2 通りすがりにヒメキシメジかと思いましたが、腐植土とは無縁の炎天下のジャリんこだらけの地面からでていました。 ♪~このキなんのキ、気になるキのこ~♪。さて、何でしょうか?。 夏の暑さにもめげず、この日盛りの砂利の中から登場していた可憐なきのこ。当てたら100万円差し上げますが…。おそらく無理でしょう。 秘め事の多い彼女も、スカートの下の劇場では本音を語ります。酷暑の砌とはいえ、この姿態のみずみずしさは Hygrocybe ヌメリガサの出自をとどめています。 ダイダイヒメノカサ Hygrocybe venusta 手がかりは傘がまんじゅう型のままで平開しないこと。ヒダは疎でヌメリガサ特有のありよう(ちょっと表現できませんが)を示していること。本来は全体に濃いオレンジ色ですが、酷暑の中待ちくたびれた様子、しかし、笑顔で迎えてくれました。 さて、謎かけきのこ 3 かっては、近畿一円の山々でごく普通に見かけられたきのこです。しかし、近年はとんと見かけなく成り申した。これは、クエフネロミュケス・ムタビリスくんですね。森林の高齢化に伴い、もっと過激に樹木を枯死させる勢力の登場で出る幕を奪われてしまったようです。 センボンイチメガサ Kuehneromyces mutabilis かっては類似の猛毒きのこ・コレラタケとの比較によく用いられたものですが、柄には膜質のツバがついており、吸水性が強くこの酷暑の中でも全身シャワーを浴びたような濡れた姿でご登場。本来はもっと明るい黄褐色の傘を持っています。 アシグロタケ polyporus badius 温暖化が叫ばれる昨今ですが、この暑さに火照った表情の寒冷地仕様のきのこは、革質で噛み切ることができないほど固く、ひたすら出汁とりきのことして東北では愛されるそうです。近畿地方でもごく普通にちらほら発生しています。近つ飛鳥でもご登場願いましたね。 近つ飛鳥といえば、このきのこも。 今年はマンネンタケ Ganoderma lucidum の当たり年。ムックの旅では、毎回顔をのぞかせています。 ヒメカバイロタケ Xeromphalina campanella 初夏の森を飾るオレンジ色のカンパネッラくん。宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」のカンパネラくんでおなじみですが、小さな鐘というラテン名です。よくぞ酷暑の森でお待ちくださいました。 フクロツルタケと思いきや、ツボも持ち合わせていません。頭のトゲトゲもツバも早々と失ってしまったようですが、それから推し量ると小ぶりながら… シロオニタケ Amanita virgineoides この仲間も図鑑には多数記載されていますが、基本的には、ツバの早落性、永存性が同定の決め手となります。 炎天下で待ちくたびれ顔の粘菌くんにもご苦労さんと声をかけることが出来ました。 ススホコリ Fuligo septica 類似のスライムちゃんにムシホコリがありますが、全体に紐状で、これは生命力旺盛なススホコリのようです。 カワラタケ Trametes vercicolor 初秋ともなれば、新鮮なカワラタケちゃんが出始めます。このきのこ、一時は制癌作用があるとされ、クレスチンとかなんとか名づけられて薬品ともなりましたが効果に問題ありとして取り下げられました。ほとんどのきのこには当然、制癌作用は認められますが、それは医食同源思想に基づくもので、即効性のあるような劇薬成分は持たないのがきのこです。バランスのよい食生活がいかなる場合でも健康の基本ですので、バランスを極度に崩さない生活態度こそが求められます。白米食も白パンも酒もたばこも習慣化すれば身心を損ないます。きのこ詐欺商法まがいのお誘いがあれば、このカワラタケの美しい環紋と変化にとんだ傘の色を思い出しましょう。
2021年08月10日
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午前10時始発とは知らずに1時間以上も待ってケーブルカーとロープウェイに乗り継いで、掬星台でコロナにもめげず摩耶再生のために没頭している吉田さんを激励し、産湯の井戸を出発点にいよいよ桜谷から二十渉へ。 砂防ダムが随所に出来、随分様変わりはしていたが、記憶を辿りつつ、きのこと挨拶をかわしながらの沢下り。 お昼は徳川道との合流地点のせせらぎでヤンマや川魚に見守られながらのんびりと過ごしました。 河童橋とはこれ如何に?。 橋を渡ってしばらく行くと合点しました。リトル上高地なのですね。大正池もどきの微笑ましい風景が目の前に広がりなかなか楽しませてくれます。 焼岳こそありませんが、おそらく大正池もどきなのでしょう。 布引堰堤まで降ればもう都市圏です。人工湖ですが、上水道となる透明度の高い水の嵩に慰められます。 夢風船が木の間より遠望できます。ということはハーブ園と隣接しているようです。 渇水と思いきや、2段仕掛けの滝は、水量も豊かにわれわれを涼気で包んでくれました。 布引の雄滝前で今回 同行のしてくれたHさんとSさん。お二人ともとても健脚で、摩耶山を下るルートでは最も長丁場のこのルートをスタスタこなしケロっとしています。 ここで意外な告白が。 この雄滝の岩場に比米の御主人(残念ながらお会いしたことはありません)が、遊び心で不動明王の石仏を造ってそっと脇の岩場に安置したらしいのですが、それが今ではちゃんと祠に納められて滝に来る人達を見つめているというのです。 なるほど。ありました。滝の展望台脇の岩場に。仏師?! 柴田俊 の手になる御不動様です。鉄製の剣は赤錆が噴き出し歳月を感じさせます。 砂岩のためか、風化がやや進行して優しい顔つきになっていますが、この角度から見ると眼光は実に鋭い。 思いがけない親戚筋のお不動様が待っていた雄滝からやや下ると雌滝が。 滝見物も、いつものように人垣の合間から垣間見るのと違ってゆったり広々と眺めることが出来ます。 この日のきのこは秘かに期待していたタマゴタケは見ることができませんでしたが、それでも暑気にもめげずきのこたちはちらほらとご挨拶。それは次回またお知らせします。 のんびり歩いて4時間。私たち団塊の世代の神戸っ子の青春グラフィティーのシーンをしばしご堪能くださいませ。 「神戸大好き」とは、結婚して千葉から神戸へ来てうん10年の仏師?! 柴田俊さんのつれあいのお言葉。
2021年08月08日
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ひまわりの筒状花は見事な二重らせんを呈する。この宇宙空間には極微から極大まできのこの形のらせんであふれている。 <月のしずく前34号>の、きのこのイコノロジーのラセンの章でお話したが、それは地上では重力、宇宙では磁場が大きく影響している。 その宇宙生成の原理ともいうべき気の動きを平面化して図示したものが太極図(陰陽)で、それを糸状体生物の有性生殖器官のきのこはそっくりそのまま体現していることをイコノロジー(図像解釈学)の手法で紹介した。 公園や散歩道で突然姿を現して、スフィンクスさながらに謎かけをしてくるきのこは、特殊にして普遍的な形態、いわば究極の自然そのもののアイコンであるとお分かりいただけただろうか。 この8月末発行の<月のしずく>35号では、きのこに固有な細胞形態のヘテロについてお話する予定。いずれも現代アートを志すものは、心の片隅にとどめておくべき生き物世界の基本情報である。
2021年08月07日
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この夏の終わりは、何度も心臓手術を重ねながらも最期まで慰霊祭に尽力してくれたKさんが、この5月8日にお亡くなりになったので、追谷への墓参を兼ねて志染のお宅を訪ねて線香を手向けてきた。 また開廊直後に訪ねたギャラリー島田のオーナーは高校時代の私の先輩だが、4歳年上のため在学中にはお会いしていない。彼も何度か脳手術を重ねながらも根性で生きている。 私のまわりには、私を含めてもう死んでいてもちっとも不思議でない人たちで一杯だ。そのそれぞれが、自分が生きてきた意味を問い続け、それを探し求めながら日々を送っている。 4月29日以来久しぶりに追谷墓苑に来てみると、60年ぶりに市章山直下の小山が刈り取られ、小さい頃よくお化け屋敷として親しんだお堂が姿を現した。この夏はそれで、おとぼけ地蔵の背景もがらりと変わった。 僕の子供の頃おやじがロシア国境付近の樺太でのラジオ傍受の仕事の際によく流れたというロシア歌謡の<酒を愛する歌>「歳月も世紀も移ろい、人の心もその好みも流行も変わり行くばかりだが、ロシアの人たちの酒を愛する心だけは変わらない」を<プラホージャト・ドゥニー・イ・ゴーディ・イ・べグ―・ベカー・ウホージャト・ドゥニー・イ・ナローディ・イ・ヌラヴィ・イフ・イ・モーディ ノ・ネイズメーナ・ヴェーチノ・ラシアノ・リュブビ・ヴィノー>と何度も口ずさみながらロシア語で教えてくれたのを思い出す。歳月人を待たず。しかし、おとぼけ地蔵も随分長くおとぼけ顔のままつきあってくれている。生かされる間、今しばらくおつきあい願おう。 スズキコージ展の続きもおまけしておこう。全身きのこ表現者の彼もなりふり構わず生き抜いている。 結局は、後の世に贈る言葉とは「なりふり構わずに生き抜くこと」だけかもしれない。「Going my way」ただし、いかなる形でもよいからそれを表現して果てることは心に留めておいてよいかもしれない。何十億という命のたったひとつぶの余計者としてそれを表現すること。微生物きのこが私に教えてくれたことはこの一語につきる。 実に愉しい空間が神戸の山手に秘かに花開いている。 興が乗れば、絵本の一つでも買ってコージどんが在廊していればサインしてもらえばいい。
2021年08月06日
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ジーザス・クライスト再来を思わせるトゲなし冠姿で日々好日のコージはん この夏は千葉・長野・神戸と、3か所同時開催でさぞかし制作に追われて大忙しだろうと思って訪ねたが、なんのなんのギャラリー島田の地下本会場、地上サブ会場Ⅰ・Ⅱの3ケ所をすべてぶち抜きで、ぎっしり、びっしりのスズキコージワールドが展開しており圧倒されてきた。 話している間もごらんの通りそばにあるものはつまようじまで使って制作しながらの会話。 私たち汗色カラー族の間では禁句だが、コロナのお蔭で、コージさんともじっくりお話することができ、島田誠さんにも逢えて本当にラッキーなひとときを過ごしてきた。 しかし、この圧倒的な描画の内にきのこは以下の1点だけだったのは意外だったので、コージさんに「21世紀は微生物きのこの時代、ぜひきのこも意識的に登場させてくださいよ」とお願いしてきた。 しかし、私自身は、スズキコージというアーティストは全身きのこで、彼の発想はすべてきのこ星雲由来のものだと確信しているので、あらためてきのこを登場させる必要は全くないのだが、この大原画展を数回巡って、この地球上も宇宙もきのこに満ち満ちていることが全くわからない人たちを招待して氏のアート作品の中できのこ狩りをさせてみると楽しいだろうなと考えたからである。 このスクリーンアートの最下部にちらほら↑きのこが、ほらね。↑ コージさんのこの無限増殖する図像(アイコン)に囲まれていると、私は生と死のはざまでさまざまなきのこの菌糸に包まれてのんびり、のほほんとまどろんでいる思いがする。 ポストコロナは、本来アナログである人間の中でもとりわけ変化を忌み嫌うものは、ほとんど淘汰されること必定なので、ぜひこの夏の内に訪ねるべし。ぼくはすでに淘汰されまくってあがっちゃったので大丈夫。ギャラリー島田 賢治の「北守将軍と三人兄弟の医者」他の絵本原画展7/17~8/10 の11時~18時 TEL&FAX078-262-8058●関東方面の方にはこちらがおすすめ。千葉県市原美術館 「メヒコの衝撃」展7/10~9/26スズキコージさんが岡本太郎ほかの8名のメキシコ大好きアーティストたちと競演。長野県小海町高原美術館 「大魔法画」展6/19~8/29
2021年08月05日
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今年の夏はひさしぶりに夏らしい夏を迎えて心より喜んだが、その夏もこの土曜日の立秋でひとまず終わる。ここ数年来の夏の盛りの息ができないような暑さに比べて、暑さはひとしおだが、なぜかスカッと解放感溢れる日々が続いている。 私の暦ではサクラシメジがどっと顔を出し始めるともう立秋かとため息がでたものだが、そのワインレッドの美しいサクラシメジも私の周辺ではとんと見かけなくなってしまった。ひとり去りまた一人去り、そしてついには誰もいなくなったという季節に入ったのかなと柄にもなく考えさせられるのも夏の終わりだからだろうか。 この夏は、愛おしい夏の日の思い出をお預けにして、これまでにない一年にしようと七転八倒の日々だが、この雲を眺めているとふと海がみたいなと思った。 島港水母まどろむ昼の汐 かって日生諸島の大多府島に通い詰めていた頃の短詩だが、この倦怠感溢れる夏の昼下がりは何物にも替えがたい。
2021年08月04日
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立秋近くになると蝉は近くの木立や森で夜通し鳴いているのが聞かれます。昨夜は蝉の声に幾たびか目覚め、明け方雷を伴う激しい雨に見舞われまた、目覚めました。夏の終わりはいつもドラマチック。 持ち帰った当初のニイニイゼミノハリセンボンは白化しただけの個体でしたが、今朝、マチ針が1本発生しはじめていました。 右目の下あたりのきのこがみえますか?。成熟したものでは蝉の個体全体に菌糸が充満し表層に大小さまざまなきのこが多数発生し、針が千本刺さったようにみえることからこの名前がつけられています。
2021年08月03日
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立秋間近かとはいえ、銀杏Ginkgo biloba がもう実をつけています。長崎出島の医師、ケンベルさんがヨーロッパに紹介したと言われますが、ギンクゴ・ビローバの学名はちと読みにくい。仕事の帰りに工場地帯の街路樹に見つけました。近くに赤花の百日紅も咲いてましたのでおまけ。夕づく日射しの中でムンムンもやもやしていましたので、接近して美しい赤い花をつけた様子も。
2021年08月02日
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世界中のどこを見渡しても五・七・五の十七音の言葉をお弁当箱(定型)に盛りつけただけで詩になるなんていうような発想は見当たりません。そのため、俳句作家は、自分が盛りつけた言葉の具材と配置とその内容が果たして詩であるか否かを毎回問い続けなければならない羽目に陥ってしまいました。 俳句はそもそもが非詩の器なのです。したがってここに言葉を盛り込み、詩として自立させるためには最低限、自身が詩を創ろうとしているという自覚なしには始まりません。それは庶民根性に根差していてはいつまでたっても非詩のままで終わってしまいます。「ちょっと背伸び」しなければ俳句を作っていても俳句すら手に入れることができずに終わってしまいます。 俳句は高尚だが、川柳なら出来そうという発想はもっとも忌むべきことです。詩精神をはじめから放棄してしまっては詩人の自覚はついに得ることはないからです。詩をつくるんだという方向性だけは明確に見据えながら、そこへ到達できないで倒れることのくりかえし。これこそが俳句精神なのです。その間に短い人生は終わってしまう。これが俳句が過渡の詩と呼ばれる所以なのです。南画は生計の手段、俳諧こそがわが命と考えていた蕪村ならそれをきっぱり「俳句に詩をもとめるのはないものねだり」といい、「だからこそ私は俳諧に挑み続けるのだ」と言ったでしょう。17音詩は広き門ですが、詩とは何かを問い続けることなしにはその門の存在すらも見えてこないでしょう。この自覚をもって不断に詩へと挑み続ける過程こそが人生、人が人として生きる唯一の手段だと私は考えます。 こう考えて初めて、「たかが俳句」は、すべての生きる行為につながる「されど俳句」すなわち生きる庶民の言葉の芸術となるのです。
2021年08月01日
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