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「Aさん、今年の秋田はチャレンジ賞だね」。先月走った「磐梯高原ウルトラ」の更衣室で、突然K彦さんがそう切り出した。一瞬「ん?」と私の頭は混乱した。9月の末に開催される「秋田内陸」の100kmの部の表彰の一つに「チャレンジ賞」がある。それは66歳以上の完走者に授与されるものだ。 出来ることなら完走したいと願っているのも事実だし、自分が66歳であることも知っている。だが正直言って、今回完走すれば「チャレンジ賞」がもらえると意識したことはなかった。上位10以内に入ることは到底無理だし、40位の「北緯40度賞」も、夫婦の完走者に与えられる「おしどり賞」も、10回完走者に与えられるクリスタルランナー賞」も自分には無関係。唯一受賞の望みがあるのが「チャレンジ賞」なのだ。 だが標高560mの大覚野峠を登り、13時間以内での完走を求められる「秋田内陸」は、今の自分にはかなり厳しいレースであることは確か。私が最後に「秋田」を完走したのは61歳の時に参加した第19回大会だった。あれから5年。私はその後左足を負傷し、今では医療用インソール無しでの長距離走は無理。それに一段と加齢が進んでいる。 私が現在所属する走友会に入会した当時、D堂さんがちょうど今の私と同じ年齢だった。66歳でなおウルトラマラソンに挑戦する彼の姿を目の当たりにして、自分がその年齢になった時に、果たして100kmを走るだけの気力と体力があるのか疑問だった。彼が70歳を超えた今でも仕事をし、山に登り、レースに出場されているのは凄いことだと思う。 3年前の「磐梯高原」で同宿のランナーが当時66歳。「自分はもう66歳ですよ」と得意そうに話す様子が印象に残った。その彼が「自分は完走出来ると思うかね」と私に聞いた。「あなたの走力を知らないので分かりません」。私はすげなく答えたが、席を立つ姿を見て唖然。彼の腹囲は120cmを優に超えていたのだ。 当時のコースは磐梯山の中腹、標高1200m以上もあるゴールドラインを登り、さらに猪苗代湖を一周する厳しいもの。あの体形で100kmを走るのは到底無理。最悪の場合は途中で倒れる恐れすらあると私は感じた。ひょっとして彼は100kmレースの厳しさを知らずに出場を決めたのではないか。 同室になった横浜のWさんは彼より1歳年長だったが、4歳若い私よりも速くゴールした。ウルトラマラソンは思いつきで完走出来るほど甘くはないし、年齢が幅を利かせることもない。普段から節制を重ね、厳しい練習に耐えた者だけに栄光のゴールテープを切ることが許されるスポーツだ。 パートタイマーだが、私は肉体労働者として今でも働いている。その中で練習時間をみつけて走り、ブログを書くことを日課にしている。いずれも66歳の身にはきつい業。レースにも週末の疲労困憊の身で臨んでいる。だがそれを不調の理由にすることは出来ない。嫌なら止めたら良いだけの話。全て自分が好きで選んだ道なのだから。 そんな自分に新たな記録が加わった。第1は今月の走行距離が330kmを超えたこと。月間300km超えは17年前に1度あるだけ。今回はそれを上回る新記録になった。そして走行回数27回と歩きとの合計508kmも月間の新記録。仙台の7月の平均気温は過去最高を3度近く更新したとか。その猛暑の中で達成した記録は、自分が頑張った証しと誇りに思っている。 でも、だからと言って今後もこのペースを維持する気持ちはさらさらない。確かにランニングは自分にとって大きな存在には違いないが、一番大切なのは生活そのもの。日々の生活が充実してこそランニングを楽しむことが出来る。ゆっくり走る自分のペース同様、ずっと先にある目標に向かって、少しずつ前進して行ければ嬉しい。明日から8月。暑さはさらに厳しそうだ。< 7月のラン&ウォーク > 月間走行回数:27回(うちレース1回) 月間走行距離:334km ウォーク回数:毎日 ウォーク距離:174km(勤務上の80kmは含まず) 月間距離合計:508km 年間走行距離:1609km 年間距離合計:2678km これまでの累計:72,712km
2010.07.31
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一昨日が私の給料日だった。10時過ぎ、直ちに銀行のキャッシュコーナーで必要額を引き出す。そしてその足で最寄りの靴屋さんへ。目的はただ1つ、安売りのランニングシューズを探すこと。残念ながら寛平ちゃんタイプのシューズはあまり安くないため、無理して買わないことにした。 前月初めてランニングシューズをネットで買った。ものは悪くはないがデザインが今一。それに練習用には良いのだが、100kmレースで履くには少し硬いような感じがしている。ランニングシューズだけは、実際に現物を履いてから買うのが一番。それでも足との相性は実際に長距離を走らないと分からない微妙なものがある。 異動した上司への贈答品と、四国に住む長女一家へ桃を送るべく近所の生協へ行った。つい先日までパソコンの支払いの影響が残り、やりくりに苦労していた。この日は気になっていた用件を真っ先に片づけたい心境だった。ついでに安い半ズボンを買ったが、実際に履いてみたら今一。やはりじっくり探すべきだったかも。乏しい小遣いを有効に活用するには、時には我慢も大事。 インターネット接続料の4分の3は私の小遣いから支払うのが我が家のルールだが、これは立て替えた新聞代や病院代、薬代で「ちゃら」になった。後はランニングシューズ、テーピーング用テープ、サングラスの購入と、「アスリートソルト」の補充くらいか。 先日登山服などを少しずつ買いそろえたいと妻が話していたので、彼女の気が変わらないうちにアウトドアショップへ行く予定。ここは案外安い出物があり、「磐梯高原ウルトラ」でもらった「500円割引券」が使える店。そして自分の欲しいものを心おきなく物色出来るのが何より嬉しい。 12月のNAHAマラソンはネットで申し込まず、主催の新聞社から大会要項を送付してもらう予定。これだと事前にゼッケンを送ってもらえるし、大会参加に向けてのメッセージも書けるはず。今回は「沖縄本島一周達成」と「10回目の完走」を兼ねた記念なので、一言メッセージを書きたい心境なのだ。 さて先日妻と登った八幡平(1613m)が、図らずも深田久弥が推奨した「日本百名山」の一つであることを知った。そこでこれまでに自分が登った山が百名山かどうかを確かめてみた結果、山頂まで登った山、途中まで登った山、そして妻と一緒に登った山も幾つか含まれていた。私達の記念としてささやかな足跡をここに記しておきたい。(◎完登 △途中 ()内は妻同伴)◎八幡平1613m岩手・秋田(◎) ◎蔵王山1841m宮城・山形(◎) ◎安達太良山1700m福島(◎) 筑波山876m茨城(◎) ◎立山(雄山)3003m富山(△) ◎白山2702m石川・福井・岐阜 ◎石鎚山1982m愛媛(◎)△鳥海山2236m山形・秋田 △月山1984m山形(△) △磐梯山1819m福島 △富士山3776m静岡・山梨 △阿蘇山1592m熊本
2010.07.30
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< 「海」と「混浴」!? > 源太森から下りて八幡沼へ向かう。山道はまるで小川のようだ。我がパーティーの中で目立つ人が2人。1人は40代後半の女性で、市民ランナーの谷川真理に似てる方。滅法東北の山に詳しいが、茨城県から引っ越してまだ1年とか。だが話をして唖然。何と茨城時代から東北の山に憧れ、良く登っていた由。登山服がピタッと決まり、とても様になっている人だった。 もう1人は70前のお爺ちゃん。若々しい服装で何故か関西弁。転勤族だったそうだが、時々出る仙台弁が愉快。班のアイドル的存在で、国内で2番目の高峰の北岳に登ったのが自慢。皮の登山靴は立派だったが、肝心の足元は覚束ない様子だった。ほとんどの人がゴアテックの雨具を着ける中、妻は普通の雨合羽で、私は安物の透明の合羽。恥ずかしい限りだが、これでは寒いわけだ。 道はようやく平らになり、木道に変わった。どうやら八幡沼周辺まで降りたようだ。雨は止んだものの、ガスが立ち込めて周囲がほとんど見えない。突然前方に水面が現れた。「お父さん、あれ海?」。妻がとんでもない質問をする。「沼だよ。八幡沼」。霞に包まれた水面はまさに神秘そのもの。八幡平で一番大きな沼のようだが、全体が見えないのがとても残念。陵雲荘でトイレ休憩の後、出発。 ここからは石畳道となり、足元の心配がなくなった。間もなく展望所とベンチがあった。そこから覗き込むとガスの中に水面。妻を呼ぶと再び「海?」。「これはガマ沼」。冷静に考えれば、山の上に海があるわけはないのだが、妻にとっては全容が見えない水面が海のように感じたのだろう。 ゆっくり石畳道を登って行くと、右手に展望台のような櫓。何とここが最高地点1613mの八幡平頂上らしい。内心「ええっ?」と驚く。大して登った訳でもないのに、ここが頂上?まるで狐につままれたような不思議な感じだ。これなら何ら散歩と変わらず、周囲が見えない展望台に登る気も起きない。呆気ない日本百名山征服の一瞬だった。 そこから「八幡平頂上バス停」まで、ゆっくり下る。途中最初に現れるのがメガネ沼。これは2つの小さな丸い沼のようだ。そして水面に枯れた笹の葉を浮かべたのが鏡沼。どちらもわずかな水面しか見えなかった。妻もさすがにもう「海」とは言わない。そして右側に小さな凹みのある窪地。古い火口跡のようだが、その沼の上に白い八重のキヌガサソウが咲いていた。「衣笠」とは、古代の貴人の頭上に差しかけた布製の日除けのことだ。 ようやくバス停まで降り、4時間半もの縦走は終わった。再び海老蔵ガイドの指導で、整理体操。これをしっかりやっておけば、体の疲労回復が速い由。久しぶりにバスに乗り込んで藤七温泉へ。車内で温泉についての説明があった。何と混浴の露天風呂からは、直接温泉が湧き出しているとのこと。 妻は普通の湯船に向かったようだが、私は迷わず「混浴」の方を選んだ。だが、中に入ると男女別の内湯がちゃんとあった。このお湯は白濁し、強い硫黄臭が鼻をつく。そして意外に高温だった。すっかり冷え切った体に、天然温泉の熱さが嬉しい。体を洗い、いよいよ露天風呂へと戸板を渡る。曇り空の下に全部で5つほどの露天風呂。それはまるで泥池のようだった。 一番奥の「池」に水着を着た3人の女性らしい姿。多分宿泊客みたい。そして私達の2人のガイドと添乗員も裸でやって来た。風呂の底がグニャグニャしているのは泥のようだ。それに外気温が低いせいか、お湯がとても温い。これでは風邪を引く。そう考えて再び高温の内湯に戻り、首までどっぷり浸かった。やはり温泉は熱いに限る。 さて、旅行の翌日も下着やTシャツからは強い硫黄臭が漂っていた。雨とガスで展望が利かなかった今回の登山だったが、妻にとっては結構自信になったようだ。「お父さん、山へ行く服を少しずつ揃えようか」。どうやら妻の脳裏には、次なる登山行のイメージが浮かんでいるようだ。「まあ妻の元気な登山姿を観るのも悪くはないか」。私は心の中でそう呟いてみた。<完>
2010.07.29
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< 不幸中の幸い > 初級コースと言っても山道は山道。ゴロゴロ転がっている石が前日の雨で良く滑るため、転ばないよう細心の注意を払いながら登る。海老蔵ガイドの勧めで、根曲がり竹の新芽の試食に挑戦。生の割には脂っこくて意外に美味しい。これなら熊も喜んで食べるかも。道端に大きなキノコが幾つも生えていた。赤褐色の毒々しいキノコ、黄土色の直径20cmほどもある巨大なキノコ。食べられるかどうかは全く不明だが、残念ながら採っている暇はない。 道端に色んな花が咲いている。いずれも高山植物だが、花の名前を聞いても覚え切れないのが悲しい。そのうちにポツリポツリと雨が降り出した。一斉に雨具を取り出す仲間達。だが私はそのまま濡れていた。例え降ってもそれほど長い時間ではないはず。ガイドが言う。「雨具を出した時って、大抵直ぐに止むもんですよ」。その通り雨は間もなく上がった。 約1時間ほどで茶臼山荘へ到着。トイレ休憩後、標高1578mの茶臼山頂へ向かう。アオモリトドマツの枝が低く、腰を屈めて歩く個所も多い。冬は雪が深く、風が強いため、北側の枝がない木々。それにしても美しい山だ。ナナカマドに赤い葉が見える。山頂はそれほど広くはない。大きな岩の上に登るとガスの間から旧松尾鉱山の処理池が見えた。採掘を終えた今でも、強酸性の水を中和する作業を続けているようだ。 眼下の森の中に「熊沼」、「石ガタ沼」、「夜沼」などが見える。いずれも火山性の湖沼群だ。流れるガスの合間に見える風景がとても神秘的。妻が何枚か写真を撮ったが、後で見たらあまり写りは良くなかったみたい。背中が汗で冷たい。やはり1500mを超える山で半袖シャツは無理だったようだ。 ここから黒谷地までは緩い下り坂。だがかなり足場が悪い。不安定な石、滑る石、そしてぬかるみが続く。40分ほどでようやく木道へ出た。ここが黒谷地。八幡平でも有数の湿地帯だ。所々に小さな池塘(ちとう)があるのは火山性地形の特徴。鮮やかに咲くニッコウキスゲなどが見える展望台で昼食を摂った。 ツアー会社手配の弁当はサンドウィッチと助六寿司の組み合わせ。いつもは小食な妻もペロリと完食。物足らない私はお菓子と果物でそれを補う。先月行った栗駒山中腹の「世界谷地」と良く似ているが、こちらの方が咲く花や高山植物の種類が断然多い。だがガスで周囲の風景が良く見えないのが残念。 ここから源太森までは登りとなる。相変わらず悪い足元に苦しみながらの登山。その間に海老蔵ガイドが次々に花の名前を教えてくれる。ミネザクラのサクランボは苦かった。エゾ何とか、ハクサンチドリ、何とかシオガマ、チングルマの枯れた花、何とかハハコ。どうしても覚えられないが仕方がない。リンドウはまだ蕾だった。40分で安比岳への分岐点に到達し小休止。 ここでとうとう本格的な雨になった。汗をかき、雨に濡れた体がかなり寒い。一昨年の「立山登山マラニック」では、8月の氷雨に苦しみ標高2450m地点の室堂でリタイヤした。気温が零下の頂上では、遭難騒ぎもあったようだ。そして昨年大量の遭難者を出した大雪山系トムラウシ山の死亡事故は、降り続く氷雨と山岳ガイドの無知が原因だった。高山では夏の雨も馬鹿に出来ない。まして寒気団が上空に居座っている状況では。 約30分で源太森分岐点へ。そこから頂上へはほんの数分で到着した。1595mの頂上部で妻と記念写真に収まろうと標識に近づいた途端、後ろ向きに転げ落ちた。何と深い草で隠れていた標識の下が、急な崖になっていたのだ。危険喚起のため張ったロープに気付かなかった私の不注意。妻が手を引っ張って怪我もなく、何とか上がることが出来た。不幸中の幸いだった。<続く>
2010.07.28
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< 海老蔵とメタボ小父さん > ご存知の方も多いと思うが、八幡平(はちまんたい)は岩手と秋田の県境にまたがるアスピーテ型の火山。つまり盾を伏せたようななだらかな台地で、幾つかのピークを持っている。一帯は「十和田・八幡平国立公園」に属し、多くの火山性湖沼や湿地帯があり、高山植物の宝庫だ。また日本百名山、東北百名山、花の百名山の一つに数えられる名山でもある。 今回のツアーは八幡平アスピーテラインの茶臼口(1360m)でバスを降り、茶臼岳(1578m)~黒谷地湿原~源太森(1595m)~八幡沼~八幡平(1613m)メガネ沼~鏡沼~八幡平頂上バス停までを4時間半ほどかけて歩くもので、距離は8kmくらいだろうか。登山と言っても初級者向きのコースだ。 宮城県北部に差しかかると、道路に濡れた痕跡がある。どうやら雨が降ったようだ。岩手県に入っても同じような痕跡。今は降ってないが、山上の天気が心配だ。その心配をよそに、2人のガイドが乗り込んで来た。ガイドと言っても女性のバスガイドではなく、登山者を案内する男性の山岳ガイド。つまり私達のリーダーになってくれる心強い助っ人だ。 若い方のガイドは自称「月山の海老蔵」と名乗った。添乗員さんの話によれば、今の時期は登山のツアー客が多いため、近くのガイドさんが見つからなかった由。彼は山形県の月山でガイドを務めながら、農業を営んでいるようだ。神奈川県出身で大学は仙台。卒業後はそのまま東北に残り、奥様は岩手県の三陸海岸の方らしい。年齢は30代。本人が名乗るように、どことなく海老蔵に似た風貌の人。彼が私達2班のガイドを務めてくれた。略歴などは山を歩きながら聞いたもので、高山植物にとても詳しかった。 一方、第1班のガイドになったのは地元の方。八幡平で生まれ育っただけに、滅法山には詳しそうだ。年齢は50代前半か。お腹が出たメタボ体形なのが愉快。彼とは班が違い話をしてないため情報がない。バスは東北道の「松尾八幡平」で降り、一旦「ビジターセンター」で下車。ここでトイレ休憩後、海老蔵ガイド指導の下に入念なストレッチ体操を行なった。この準備体操がかなり効いた。 ここが八幡平の入口で、バスはアスピーテラインをぐんぐん登って行く。生憎の天候で、岩手山がガスでほとんど見えないのが残念。標高2041mのこの山は、別名「岩手富士」と呼ばれる美しい名山だ。高度が上がるにつれ、火山性地形が目立つようになる。むき出しの地肌は植物が育たない個所だ。 車窓から旧松尾鉱山跡が見えた。ここでは確か硫黄を採掘していたはず。硫黄は火薬の原料にもなるし、碍子の絶縁体にも使われていたはず。廃鉱になった理由が何かは知らないが、道路から見える廃屋が哀しい。この周辺は八幡平市だが、合併前は松尾村と言った。東八幡平温泉郷の奥には、我が国で唯一の松川地熱発電所がある。 バスは茶臼口で停まった。いよいよここから登山開始。不要な物は車内に残し、必要なものだけリュックに入れ直す。第1班はメタボガイドを先頭に、茶臼岳を目指して登り始めた。第2班は海老蔵ガイドが先頭で、山好きのY添乗員さんが最後尾。私達夫婦は海老蔵ガイドの直ぐ後に付いて登った。その方が直接話が聞けて面白いからだ。だがあまりにも登るペースがゆっくり過ぎてじれったい。 それもそのはず、登山と言っても初級クラスのツアー。登山の経験も年齢もまちまちで、1人1人のレベルが分からないためガイドもゆっくり歩くのだろう。ほとんどが登山靴かキャラバンシューズの中で、1人のお婆さんだけが普通の革靴だった。旅行会社に履物を確認したら、格別の装備は不要と言われたとか。足元が徐々に悪くなる山道。ふ~む。その靴で4時間半も歩けるのだろうか。<続く>
2010.07.27
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< 登山と懸念 > 今回のバスツアー「~超楽登山シリーズ・高山植物咲く湿原・湖沼群・パノラマ展望~ 八幡平・茶臼岳縦走登山」を申し込んだのは妻。前月に行った「世界谷地ハイキング」が良かったため、さらに歩く時間の長いコースを選択したのだろう。今回も温泉付きで、しかも八幡平の秘湯、藤七温泉だから私が反対する理由は何もなかった。 問題は幾つかあった。一応1400mから1600mの山を登る服装が必要だが、何もない我が家ではそれらしいもので間に合わすしかない。またツーリストからの通知の中に、地図についての注意があった。2万5千分の1の「八幡平」の地図を各自が用意するようにとのこと。さて困った。国土地理院の地図を何処で入手出来るのだろう。 先ずネットで「地図センター」を検索し、次に仙台市内のを探す。勤務後に大体の方角に向かい、何人かの人に尋ねた。だが誰も知らない。通りに居た運送会社の運転手の1人がたまたまセンターを知っていた。思わぬ場所に地図センターはあった。店の人に用件を話すと、手元にないとの返事。全て取り寄せで1週間かかるらしい。それでも旅行日までギリギリセーフ。必要な場所を確かめ「八幡平」と「茶臼岳」の2枚を発注した。 地図1枚の値段は270円だから2枚で540円。これだけでは儲からないだろう。「今はネットで調べられるため地図が売れないんですよ」と店の人。政府刊行物を取り扱う官報販売所も兼ねているようだが、それでも経営は苦しいはず。1週間後に入手した地図に、歩くコースを蛍光ペンでなぞってみると、ハイキングに行く気分が一気に高まった。 一番の問題はお天気。これだけは自分ではどうにもならない。旅行の1週間前からネットで岩手県盛岡市の天気予報をチェックしていたが、あまり良くない。たった1回だけ晴れの予報が出たが、その後再び変わった。最終的に見た予報は雨のち曇りだったが、気圧が安定せず、上空を寒気団が横切るようだ。1400m以上の山の上なら天気の変化はさらに厳しいことを覚悟しておく必要がある。 当日の朝、4時間半の行程に必要な食べもの、飲み物、着替え、雨具、地図、洗面用具をリュックに詰め込むと、重さは7kg近くなった。まあそれもトレーニングのうちと私は考えた。一方妻のリュックはせいぜい2kgほどか。これならきっと彼女でも楽々歩けるはず。 仙台駅東口周辺の集合場所に行くと、登山スタイルの人が大勢バスの周囲に群がっていた。だが私達のコースは30名だけとか。そのうちの1人が出発時間になっても来ない。13分ほど遅れて最後の1人が慌てて走って来た。これでようやく出発だ。 添乗員は男の人で、彼自身も登山の服装をしている。これは珍しい。それにガイドが2人付くようだ。15人に1人のガイドとは有難い。動き出したバスの中で添乗員の注意が始まる。地図の話、熊と出会った時の対処法、登山の服装と持ち物の話、温泉の話などのユニークな話に笑う乗客達。民放のアナウンサーか噺家のような添乗員に、車内が和む。これは面白い旅になりそうだ。<続く>
2010.07.26
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朝から妻と出かけていた「八幡平ハイキング」から、先ほど無事帰宅しました。天候が一番の心配ごとでしたが、案の定山の上は不安定で、雨が降ったりガスがかかったりと生憎の天気でした。それでも高山植物の宝庫だけあって、火山地形の色んな個所にたくさんの花々が咲いていました。 半袖Tシャツで登り、雨にぬれたりしたため、寒いくらい体が冷えました。それでも4時間半ほどの「縦走」に耐え、ようやく藤七温泉の白濁した温泉で温まりました。露天風呂は混浴でしたが、宿泊中の女性は水着のまま入浴していましたよ。ともかく素晴らしい大自然でした。 留守中にたくさんのコメントをいただきありがとうございました。明日の朝早く起床し、勤務に就くため、申し訳ありませんがお返事は明日書かせていただきますね。そしてハイキングのことも明日以降書かせていただく予定です。どうぞお楽しみに~!!
2010.07.25
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いやはや暑い。今年の夏は一体どうなっているのだろう。熱中症で亡くなった方が、早くも50名に達したようだ。屋外で働いている方のみならず、家の中で熱中症に罹るケースもあるようだ。特に1人暮らしのお年寄りは用心のために窓を開けず、節約のため冷房をかけず、気温や喉の渇きにも鈍感になっていることが、屋内で熱中症に罹る原因なのだとか。困ったことだ。 例年仙台では8月でも気温が28度くらいが普通。それに海からの風が吹くため、とても過ごし易いのだ。それが今年は異常ともいえる高温続きで、昨日はとうとう気温35度の猛暑日になった。冷夏だった昨年、海の家は海水浴客が来ないため早々に店を閉めた。だが今年は一転して猛暑続き。多分昨年の損を一気に取り戻したのではないか。 近所の原っぱでは草が枯れ出した。しばらく雨が降らないせいだ。そして私の日課が1つ増えた。夕方の水撒きがそれ。朝はまだ湿っている土が、昼前にはすっかり乾燥してしまう。家庭菜園でも異常が起きている。あれほどたくさん実っていたキュウリの勢いが急速に衰え出したのだ。その代わりにトマトの色づきが今年はとても早い。 例年8月にしか実らないゴーヤが今年は既に1個収穫出来、昨夜の夕食を賑わしてくれた。毎朝20個ほど採れるミニトマトは、我が家の貴重な栄養源になっている。追加で蒔いたモロッコインゲンは、不思議なことに蔓無しの普通のインゲンで、あっと言う間に成熟してしまった。シソもパセリもこの暑さで成長が早い。そしてたった1個だが、今朝はイチジクが採れた。 これだけ暑いのに、妻が元気なのが意外。いつもは夏バテして食欲が落ち、睡眠不足も手伝ってあまり機嫌が宜しくないのがこのシーズンの常。それが今年はまるで別人のように感じる。私が考える原因は2つ。その第1は彼女が走り出したこと。近所の坂道をエッチラオッチラ走る姿は、とても見せられたものではない。だがたゆまぬ努力が、少しずつ彼女を変えたのだと思う。まさに「継続は力なり」だ。 結局基礎体力が向上し、スタミナが付いたのだと思う。たとえどんなにゆっくりでも1時間から1時間半ほど坂道を走ればそれなりに筋力は付くし、腹が空くため食事量は当然増えることになる。それに心肺機能や免疫力の向上にも役だっているのだろう。 原因の第2は梅酢。庭の梅の実に砂糖と酢を加え、ビンに入れておいたのが飲めるようになった。食わず嫌いの彼女は当初飲まなかったのだが、私がソフトドリンクを作って勧めたら、意外の美味しさにはまってしまったようだ。既に1本目が空き、今は2本目に手をつけた。このままの勢いだと、秋まで持つかどうか。 他にクコ酒やアロエ酒も作っているが、よほど梅酢が気に入ったと見え、今年作った梅ジュースを梅酢に切り替える積りのようだ。まあ妻が健康になるのは大歓迎。それに彼女の機嫌が良くなれば、夫婦喧嘩もきっと少なくなるはずだから。 さて、昨日は八幡平周辺の2万5千分の1の地図を買って来た。明日の日曜日は妻と2人、八幡平へハイキングに行く予定。「曇り時々雨」だった盛岡周辺の天気予報が「曇り後晴」に変わった。尾根道などを3時間歩くコースだが、体力がついた妻が軽々と山道を歩く様子が見られるはず。その後の温泉も楽しみだ。 そんな訳で明日は早朝から出かけ、深夜に帰宅するためブログの掲載と、皆さまの所への探訪は困難かと思います。悪しからずご容赦くださいませ~。
2010.07.24
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< 我が家の毒見役 > 少し前にも同じようなことがあった。法事で出た弁当を持ち帰った翌日、妻の姉から電話があった。下痢したので天ぷらは食べない方が良いと言う内容の緊急連絡だった。妻は怖れをなして手をつけなかったが、私は全く気にせず天ぷらを食べた。勿論何の異常も生じなかった。今回も同様に、妻が敬遠したキノコを私は食べた。キノコ博士が太鼓判を押したのだもの、何を恐れる必要があるのか。 キノコは少し苦かった。ふ~ん、これが自分が取って来たキノコの味か。初めて食べたが、決して悪い気はしない。独特の苦みはマツオウジの特徴なのだ。勿論体調に何の異常も生じない。順序が逆かも知れないが、私はインターネットでマツオウジのことを調べた。 初夏から夏場にかけて生えること。シイタケの仲間であること。松の切り株に密生すること。弱い毒性があるが、加熱すると毒性が消えること。少し苦みがあることなどが分かった。漢字で「松旺子」と書くのは、松の切り株に旺盛に生える特性からのようだ。さすがはキノコ博士。特徴が完全に一致している。するとあの正体不明の腐った切り株は、松の木だったわけだ。 その夜のこと、夕食にキノコの炒めものが出た。残していた大きなマツオウジがそれに混じっていることが直ぐに分かった。あの独特の苦みがあったからだ。ネットで調べたマツオウジのことを妻に教えると、彼女は直ぐに納得した。マツオウジだけでは足らないので、エリンギを足して炒めたそうだ。だが料理中に味見し、何故苦いのか理由が分からなかったそうだ。 毒性と苦みの話を聞いた途端、妻はマツオウジだけを選り分けて私の皿に移した。食わず嫌いの妻は、普通と違うものは絶対に食べない主義。恐らく初め見たキノコを今回料理に使ったのは、朝にキノコ入りの味噌汁を食べた私がピンピンしていたからだと思う。我が家では、冷蔵庫の中の古くなった食べ物がまだ食べられるかどうか判断するのは私。初めてお目にかかったキノコの毒見は、こうして無事に終了した。 不思議な山小屋の主のキノコ博士は、普段から良く山の中を歩いているそうだ。先日フラフラになりながら私が走って帰ったコースの途中に、馬越石トンネルがある。青葉区折立から太白区茂庭方面に抜ける県道31号線の峠部分にある、長さが100mほどの小さなトンネルだ。キノコ博士は山道を通って、何とあのトンネルの上に出るらしい。 一瞬耳を疑ったが、あの小さなトンネルの上にも山道があって、蕃山(ばんざん)まで続いているそうだ。その山には大梅寺(だいばいじ)と言う古刹がある。伊達政宗の招きで松島にある瑞巌寺の住職になった雲居(うんご)禅師が、政宗の死後瑞巌寺から移り住んだのがこの山寺。たまに寺を訪れるものと言えば、猿か熊だと彼の漢詩に詠われているほどの寂しい所だ。 先日の30km走の途中にその山麓で休んでいた時のこと、1人の外人が地図を手に近づき、ここから蕃山に登れるか私に尋ねた。「もちろん登れますよ」と答えると、彼は喜び勇んで車中で待っていた妻を呼びに行った。こんな暑い日に、わざわざ辺鄙な山を訪れるとは何と不思議な外人だろう。本当のところ私はそう思っていた。 たまたま目にした1本のキノコから、世の中には不思議な人や他人とは価値観が異なる人がいることを再認識した私だった。だが、くそ暑い真夏の日中にヨロヨロ走っている私も他人から見れば、相当の変人に見えるのかも知れない。<完>
2010.07.23
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< キノコ博士を探しに > キノコに関する思い出が幾つかある。あれは私がまだ20代の頃の話。名取川上流の二口渓谷から山形県の山寺まで歩いたことがあった。その時、谷底の倒木に密集するキノコを見つけた。そこまで降りるのは全く無理な場所。金色に輝く一群のキノコは見事なものだった。一体あのキノコは何だったのだろう。食べられるかどうかも不明だが、あれほどの群生を見たのは最初で最後だった。 私が新婚生活を送った住まいの周辺に、広い森があった。昼休みには用務員さん達が良くキノコ狩りに行ったものだ。雨の翌日に森へ入った時、立派なキノコを見つけた。鑑定の結果は天然もののシイタケ。雨で急成長のキノコは大味だったが、それでもシイタケの香りはした。今からもう40年も前の話だが、あの頃はまだ呑気で平和な時代だった。 東京へ転勤した最初の年に住んだのが千葉の幕張。近代的なビルが立ち並ぶ今と違って、当時はサツマイモやピーナツやトウモロコシの畑がどこまでも続くど田舎だった。台地の方まで散歩に行った時、倒木に黒く軟らかなキノコが生えているのを発見。形も色もキクラゲにそっくり。持って帰って料理すると、やはり食べることが出来た。貧しい時代の良い思い出だ。 それから16年後、私は沖縄に転勤していた。何気なくグラウンドの植木を見てビックリ。幹に黒く密生してる物体。すっかり乾燥していたが、キクラゲに間違いない。さすがにこの時は取って帰ることはなかったが、暑い南の島で見たキクラゲには驚いたものだ。そして今年。我が家の庭にキノコが生えた。いかにも食べられそうなキノコだったが、泣く泣く捨てた。キノコに詳しい人が身近に居れば、直ぐに鑑定してもらえるものを。 さて博物館からの帰路、山で取ったキノコを最初に見せたのはお向いさん。彼はしょっちゅう山に行くのでキノコにも詳しいと考えたのだ。だが、キノコに関する知識はないとのことで、近所の詳しい人に聞くことにした。生憎留守のため、さらに彼の山小屋を訪ねてみた。 その小屋は、前日の30km走で通った林道沿いにあった。だが声を掛けても誰も出て来ない。小屋の中にはイノシシの頭蓋骨など不気味な代物がたくさん置いてある。住宅地から少し離れただけなのに、ここは別世界だった。小屋の主は、現役時代「自然観察センター」の館長をしていた由。 山小屋の付近には、仙台藩の山守の子孫の家もある。江戸時代、山伝いに仙台城へ近づく怪しい人物を、見つけ次第切り捨てる役目を仰せつかっていたとか。山守はここ太白山の他、大谷地周辺、大年寺山周辺の3か所に住み、見張っていたようだ。前日のランニングで飲んだのは、ここからさらに2kmほど上流の川水だった。 もう一か所も不在だったため、一旦帰宅して愛犬と散歩に行った。お向いさんから連絡があったのはその日の夜。あの後「鑑定人」にキノコを見せたら、「マツオウジ」で間違いない由。そして食用になるとも。翌朝の味噌汁に早速刻んで入れたが、どうしても妻は食べようとしなかった。<続く>
2010.07.22
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そのキノコを見たのは月曜日のこと。前日は茹だるような暑さの中をフラフラになりながら走った。まるで夢遊病者のような感じだった。そこでこの日は、珍しく早朝に走ってみたのだった。スピードは前日とさほど変わらなかったが、自分の脚でしっかり走っていると言う実感があった。それに涼しくてとても走り易かった。 折角の休日をそれだけで終えるのは勿体ない話。そこで前から行きたいと思っていた博物館へ行くことにした。山越えで往復7kmほどになるが、運動を兼ねて歩いて行くことに決めていた。博物館に着くと間もなくお昼になることから、途中のコンビニに寄って買い物をした。買ったのはお握り2個とお茶。それに6個で100円のスモモ。何故だかこのコンビニはちょっとした青果が安いのだ。 昼食は青葉城の天守台で摂った。場所は「荒城の月」の石碑前のベンチ。観光客が石碑を見て、「荒城の月は滝廉太郎だろ?」などと不思議がっている。タクシーの運転手らしき人が乗客に「荒城の月のモデルになったのは青葉城と会津若松の鶴ヶ城」とか説明している。それを黙って聞きながら6個のスモモを齧り、2個のお握りを食べ、ゴクゴクとお茶を飲んだ。 土井晩翠は普通(どい・ばんすい)と呼ばれているが、本当は「つちい」であることを私は知っていた。仙台弁で「ちちい」と訛って呼ばれるのを、彼はとても嫌っていたそうだ。それが「どい」になった理由かどうかは知らない。彼は東大卒の詩人で、旧制二高の教授。一方、滝廉太郎は作曲家。彼は作曲に際し、故郷大分県の竹田城をイメージしたとも伝えられている。詩人は自分の故郷の城を、作曲家も自分の故郷の城を思い浮かべるのは当然のことだろう。 青葉城から下って、旧三の丸にある博物館へと向かった。ここの坂道は私の帰宅ランのコースで、年に何度も通る場所だ。だがいつも私は城へ向かって右側の道を走ることにしている。その方が木陰が多く、走り易いためだ。その日に限って珍しく反対側の歩道を下りた。古い木の株に立派なキノコが生えているのを見つけたのはその時だった。 直感的にあれは食べられると感じた。姿、形が立派で、いかにも美味しそうな感じがするキノコ。だがその時は黙って行き過ぎた。博物館へは裏道を行った。三の丸から天守台へ通じる道で、当時の石垣がまだ残されている。博物館の裏口周辺には酒造所跡があったそうだ。仙台藩は城中で酒造りするほど不用心と徳川幕府に油断させる狙いがあったのだろう。 さて、仙台市博物館で行っていたのは特別展。「インカ帝国のルーツ 黄金の都シカン展」だ。シカンはインカ帝国の滅亡から500年前、西暦1千年代のペルー北部にあった都。アメリカ南イリノイ大学の島田泉教授がかなり前から発掘していたバタングランデ遺跡から出土した黄金製品などが展示の中心だった。 日本にはあまり耳馴染みのない「シカン文明」だが、私は5年ほど前に「世界ふしぎ発見」で知ったのが最初だったと思う。王と思われる人物の遺体が地中深く逆さに埋められ、しかも首が切断されたままと言う異常な状態の遺跡は初耳だったため、強く印象に残っていた。 考えてみれば西暦1千年代と言えばわが国では平安時代に相当する古さ。ただ、南アメリカと言えばインカ帝国とのイメージがあまりにも強過ぎた。南アメリカで一番古いのが地上絵で有名なナスカ文明(紀元前200年~紀元800年ころ)で、インカ帝国の滅亡は1500年代だから案外新しいのだ。シカン文明の特徴は黄金製品の多いことだろうか。死者の顔につけられていた仮面、葬礼用の衣服、儀式用ナイフなどが日干しレンガを重ねて作ったピラミッドの周囲の墓に収められていたようだ。 東と西の2つの墓の主が、伯父と甥の関係であることが歯型の比較で解明された由。中には生贄になった子供の遺骸や、20名ほどの女性の遺骸もあったようだ。まだ全てが発掘された訳ではないが、複数の映像装置によって発掘の経緯や遺跡の概要が理解出来た。シカンでは、支配階級と被支配階級との身分の差が、歴然としていたようだ。また、近隣の諸国からいわば「人質」としてシカンの都へ移り住んだ人々が居たことなどが分かったようだ。 帰路も同じ道を通った。そしてあのキノコの前まで来た時、私は柵を乗り越えて林の中へ入った。樹皮が腐っていたため何の木かは分からないが、その株に生えた立派なキノコをそのまま見過ごす手はない。私は迷わずキノコの一群を引き抜き、素早くビニール袋へ入れた。そして歩きながら取り出したキノコの匂いを嗅いでみた。シイタケに似た形で、匂いも悪くない。 問題は食べられるキノコかどうかを、どうやって判定するかだ。試しに道端で交通整理をしていた警備員のお爺さんに聞いて見た。だが、キノコには詳しくないとのこと。それはそうだ。キノコ博士がその辺にゴロゴロしている訳がない。兎も角帰宅して、誰かに聞いてみよう。勿論食べられたら食べる積り。だが少し腐り気味で怪しい臭いを放つ部分は取って捨てた。<続く>
2010.07.21
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完走記を書いているうちに色んな出来ごとがあった。その最大のものは、やはり参議院議員選挙だろう。選挙結果にはこれが国民の民意かと、唖然とさせられた。民主党の凋落ぶりが目立った今回の選挙。選挙直前に菅総理が漏らした「消費税問題」がかなり効いたのは確かだろう。それに何度も行われた支持率調査も少なからず影響を与えたのではないか。 確かに鳩山前総理と小沢前幹事長の政治資金問題は酷かったし、前総理の普天間基地問題に関する対応には首を傾げた。あれでは沖縄県民が怒るのは当たり前。それに懲りず、今回も代わったばかりの新総理が、消費税に関して不用意な発言をしたのが命取りになったのだと思う。 それにしても何故マスコミはあんなに支持率の調査ばかりするのだろう。確固たる信念の無い政党がその影響をまともに受けるのもどうかとは思うが、選挙結果と言い、マスコミの報道ぶりと言い、我が国の政治がまだまだ未成熟であることを知らされた思いだ。政治家には本来あるべき政治を堂々と貫いて欲しいし、マスコミも本来あるべき政治の姿を論じて欲しいものだ。 大揺れの名古屋場所も始まった。NHKが良く思い切って実況中継を中止したものだ。まさか放送を中止することはなかろうと踏んでいたのだが。聞くところによれば、老人施設のお年寄り達なかでも認知症の方が、何故大相撲の放送がないのかと大騒ぎになったとか。良く理解出来る話で、相撲協会には猛省して欲しいものだ。 お天気もずいぶん変わった。東北では例年より5日ほど早い梅雨明け。昨年の仙台では8月に入っても梅雨明けが特定出来なかっただけに、その違いに驚いている。そして連日の猛暑。夏でも28度が普通の仙台で、34度に届く気温が続いている。あまりにもカンカン照りなので、今日はホースで庭と畑に水を撒いた。 レースの4日後にはランニングを開始した。疲労と風邪と暑さの影響でただダラダラと走っているだけだが、体調が少しずつ回復して来たのが嬉しい。先日の日曜は秋田のJunさんと新潟の銀のねこさんが長野県の野沢温泉で行われた山岳レースに出場した。延べの高低差は四千m以上ある厳しいレースのようだが、2人とも無事完走出来たようで嬉しい。 私も2人に負けじと、その日は42km走ることに決めていた。だがどうしても脚が伸びず、体がふらついていた。これは危ないと判断し30kmで帰宅した。途中湧水を飲み、それが無くなると川の水も飲んだ。小さな川の上流部でその奥に人家は1軒もないところだから、安心して飲めたのだ。下り坂でもノロノロしか走れないほどの体調だったが、翌朝涼しかったため少し良くなった。 ここ当分厳しい暑さが続く。夏バテしないよう気をつけながら、トレーニングをしたいと思う。今日も32度ほどの気温の中を、山越えで帰宅ランした。後の心配は東北楽天にもう少し勝って欲しいこと。何とか借金を返済し、最下位から脱出する日を夢見ている。それにしても何というささやかな望みなのだろう。
2010.07.20
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< 苦悶と歓喜 > 帰宅の翌日から書き始めた完走記だが、今回もまた疲労の中での作業だった。レース中の出来事は案外思い出すことが出来たように思う。レース数日後に激しい咳が出た。勤務先の事務室で吸った伏流煙が原因と考えていたのだが、そうではなく朝方の冷気で風邪を引いたようだ。疲労時に免疫力が落ちることは知っていたが、自分には無縁のことだと思っていた。 今回のレースに関して心配していたことが幾つかあった。1つ目は職場から直接レースに向かったこと。現場のキーカードを失くさないかと冷や冷やしていたのだが、無事で良かった。もし紛失していたら、始末書だけでは済まなかったろう。両膝へのテーピングもしなかったが、こちらも結果的に大丈夫だったのが嬉しい。 さて13時間30分57秒でゴールした今回のレースだが、私が更衣室を出たのが19時20分。既に制限時間を20分過ぎていたが、青シャツの姿は見かけなかった。彼と別れたのはゴールまで残り12km付近。制限時間内に完走するにはそのうち10kmは走る必要があるのだが、その体力が彼に残っていたかどうか。 一方、ウルトラマラソン100回完走のI橋さんと私の差は10km近くあった。私は制限まで29分余り残してのゴールだったが、恐らく距離の差を考えると完走出来なかったのではないか。西風に耐えながら最後まで頑張っていた彼の笑顔を思い出す。 当然のことだが、レースには男女の性別や年齢の差は一切関係ない。共通なのは私達が1人のランナーとしてレースに臨んでいることだけだ。そして伴走が許されるのは視覚障害者などの場合に限られる。だが梅宮アンナは2人のガード役を従えて走ったみたいだ。レースでは一般市民も芸能人も同列のはず。だから彼女にも、出来れば1人でレースと格闘して欲しかったのだが。 帰宅後、S目さんから何度かメールをいただいた。添付された写真には、真っ赤に焼けて膨張した顔の私がいた。彼が出た後夜祭で、「朝のミスは往きと帰りのコースを間違えたため」との説明があったそうだ。でももしそうだとしたら、余分に走った距離はさらに長くなったはず。 最初の数kmは本来コースでなかった個所だと思う。果たしてトップグループは、何の目印もない道をどんな気持ちで走っていたのだろうか。S目さんが送ってくれた写真を何度も眺めながら、私はあの苦しかったレースを思い出していた。 私が出た第2回、第3回と今回の第5回だが、スタート地点、ゴール地点が全て違っている。しかも第2回は距離が102kmで、制限は13時間30分だった。そして今回は分岐点でのスタッフ不在が原因で約4km余分に走った。もしそのミスがなければ、もっと多くのランナーが完走出来たはず。宿の件も含め、より安定した大会運営をお願いしたい。 レース数日後に「オールスポーツ」のHPを観た。私の写真も何枚かあった。3度同じ道を走った湖岸での写真には必死に疾走する私が、そしてゴールの写真には両手を挙げて飛び込む私がいた。猪苗代湖を1周半走る今回のコース。朝はヨシキリの鳴き声を聞き、前半は涼風に助けられた。だがレース後半は湖畔を渡る強い西風に苦しみ、暑さとの戦いになった。 プロが撮った写真には、ランナーの心と姿がそのまま写っていた。私は思わず2枚の写真を「買い物カゴ」に入れた。1枚は苦悶する湖岸の私。そしてもう1枚は歓喜溢れるゴールの私だった。<完>
2010.07.19
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< ゴール後の激走 > 高温の中で走り続けることは、相当体への負担が大きいのだと思う。100km近く走った私にも幾つかの異常が現れ出した。体がふらつき、道路の白線が歪んで見える。両手は浮腫み、線路下のASで飲んだお茶が異常に苦かった。レース中の味覚異常は初めてのこと。いずれも軽い熱中症と疲労の結果だろう。残り2km。最後の力を振り絞る。 ホテルへの最後の坂を登っている時、後から千葉のランナーと若い女性の2人組に抜かれた。着いて行こうとしたがスピードが全然違う。脚の筋肉から、彼らがかなり鍛えたランナーであることは感じていた。13kmほど手前で抜いた後も「バトル」は続いていたのだが、最後の最後で彼らの底力を見せつけられた。敗れるのもまたレースのうちだ。 ハーブ園脇からホテルの敷地内に入り、ゴールのある広場へ向かう。この最後の登りが結構苦しい。やっとの思いでゴールに近づくと、スタッフが向かうべき方向を示す。もがきながらも両手を上げてゴールに飛び込む。カメラマンのフラッシュが光る。わざわざ私を待っていたS目さんも連続で写真を撮ってくれた。 水が飲みたいのだが、アンケートに答えないと飲み物をくれない。草臥れた頭で必死に記入。「来年のコース希望」は磐梯山一周に丸をした。だがあのコースを完走した3年前に比べて、私の体力は確実に落ちている。完走は厳しいだろうが、最後の関門である志田浜までは来れるだろう。また、再び今日のコースになるのも悪くはない。制限14時間のレースが近隣で開催されるのは、今の私にはとてもありがたいこと。 無料の餅が置いてある。大根おろしと小エビをからめたのを食べ始めたが、とても苦い。味覚障害だ。極度の疲労による異常反応は、更衣室に行ってからも続いた。舌が痺れ、体が寒くて震える。幸いそれらの症状は短時間で治まった。建物の3階には温泉があるのだが、電車の時刻を確認するととても無理。水分を補給しながら、濡れタオルで体を拭く。自分ではてきぱき進めている積りなのだが、意に反して行動はスローモー。 全ての荷物をリュックに詰め込んで時計を見ると、川桁駅の発車時間まで20分ちょっと。距離は2kmほどか。疲れ切った体とサンダル履きで果たして走れるかどうか分からないが、ここはもう走るしかない。ホテルの坂を下り、寂しいお寺と中学校の横を突っ走って街へ出た。一応懐中電灯は用意していたが、薄暮でまだ見える。必死で駅まで走り切った。良くそれだけの体力が残っていたことに驚く。 無人駅での次の心配は、ちゃんと電車が停まるのかどうか。そしてそれに乗れるのかどうか。ここからの乗客は私1人だけだった。電車に乗り込むと何人かのランナーがいた。彼らはタクシーに乗って一つ手前の猪苗代駅まで行ったのだろう。快速電車は32分で郡山駅に着いた。東北新幹線の自由席券を買い、「やまびこ65号」に乗る。やれやれ一安心、これで仙台へ帰れそうだ。 座席に落ち着いた私は、リュックから食料を出した。朝食の残り物のお握り1個半。大根の味噌漬け2枚と焼き鮭半分。バナナ1本。家から持参したクロワッサン1個と前もって買っておいたアンパン1個。それが私の夕食の全て。梅干し、味噌漬け、鮭の塩味に体が喜ぶ。だが、あんパンは半分も食べられなかった。 家に着いたのは10時前。既に妻は眠っていた。静かに荷物を片づける。底が摩り減ったシューズは捨てるため玄関の外へ。汗臭い洗濯物は水洗い。薬品類、筆記用具、レース関係の資料は所定の位置へ。そして入浴後にパソコンを立ち上げて、簡単なレース結果をブログに報告。 一切の仕事を終えたのは12時少し前。かなり疲れているはずなのに、その夜の睡眠時間は4時間ほどだった。人間あまりにも疲労し過ぎると眠れなくなる。きっと眠るにも、それなりの体力を要するのだろう。<続く>
2010.07.17
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< 「秘密兵器」の出番 > K彦さんと遭ったのはトンネル付近だったと思う。折り返して来た彼とは15kmほどと、前回遭った時よりさらに差が開いていた。時計を見て「もっと粘って走れ」と励ます彼。スピードランナーの彼と違ってこちらは鈍足。これからさらにスピードは落ちるだろう。だが、いつも通り最後まで全力を尽くすのみ。相変わらず西風が強く、高い波が打ち寄せる湖岸。 レース前に9月の「秋田内陸」でウルトラ50戦目を迎えるため、その1週間前に140kmのレース「雁坂峠」を入れたと話していたK彦さん。私の場合今回も含め、秋田ではまだ44戦目にしかならない。そのうち3回は80km付近でリタイヤしている。こうして見ると新潟のI橋さんのウルトラ100回完走の凄さが分かる。私の回数には50kmや5時間走が幾つか入っているが、彼の記録は全て100km以上のレースだ。 後から青シャツが追い上げて来たのは80(84)km辺りだったろうか。話をすると、彼はフルマラソンを6回完走した由。相棒の赤シャツは、65(69)km地点のホテルでリタイヤしたそうだ。やはりフル1回の経験だけでは無理だったのかも。だが彼より年長の青シャツは、やけに落ち着いて見える。「先に行っても良いでしょうか」と尋ねる彼に、「自分の体に相談して決めな。たまに歩きを入れても良いんだよ」と助言。みるみる遠ざかる青シャツの背中。 足元がふらついている1人のランナーに驚いて振り返ると、彼の表情がおかしい。「熱中症みたいだから、無理しないでリタイヤした方が良いよ」と勧める。ゴール後に再会した際に聞いたら、80km地点でレースを止めた由。大会本部の車で運ばれ、つい先ほどまで点滴を受けていたようだ。車を運転して帰りたいので、もう少し様子を見ると話す彼。水分、塩分の補給を間違えれば熱中症に罹る確率が高いのが夏のレースの危険なところ。生死に関わる場合もあるのだ。 折り返し点の舟津公園がようやく前方に見えて来た。ここが82.5(86.5)km地点。制限時間までまだ十分に余裕があり、捕まる心配はない。ゼッケンナンバーのチェックは簡単で、折り返した「目印」はくれないようだ。私がASで休んでいるうちに、早くも青シャツはゴールを目指して帰って行った。慌てない慌てない。ここはしっかりとエネルギー補給。食べ物で腹を満たし、飲み物で喉を潤す。 ゴールまで残り17.5km。泣いても笑っても最後の頑張り所だ。自分のペースを守り、歩いているランナーを片っ端から抜いて行く。気温表示は相変わらず24度のまま。そして湖岸を渡る強風に耐えるのもこれまで同様。ペットボトルを手に持っている私は給水所を1か所パス。千葉の強そうなランナーも、その相棒の若い女性も抜き去った。 トンネルの前方に青いシャツのランナー発見。だが、ようやく追い着いたと思ったら全くの別人。青シャツの意外な強さに驚く。だがついに上戸付近で歩いているのを発見。「自分は基本歩きにします」と彼。ここからゴールまではまだ12km以上ある。果たして彼にどれくらいの体力が残っているのか。お互いのゼッケンナンバーを教え合って別れる。これが彼の姿を見た最後だった。レース後にプログラムで確認した所、彼は28歳で赤シャツが25歳。共に立派な初挑戦ぶりの若者だった。 89(93)km地点の志田浜ASで食べたのがチーズとパン。そしていよいよ「秘密兵器」の出番。引換券で濃厚ソフトクリームを註文し、歩きながら食べる。栄養価の高いソフトクリームは、きっとエネルギー補給にも役立つはず。食べ終わって満足し、再びレースに復帰。 国道49号線の地下道手前で黒いシャツの女性ランナーを抜く。彼女は気になっていたランナーの1人。「とうとう抜かれた。折り返しからずいぶんスピードを上げたね」。彼女の声を背中で聞きながらもペースは緩めない。田圃の向こうに山麓のホテル。いよいよゴールまで5kmを切った。気合を入れて水を被る。<続く>
2010.07.16
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< ゼッケンの色は何色? > 54(58)km地点の志田浜はコース最大の観光地で、店がたくさん集まっている。ここでは前もって配られた「ソフトクリーム引換券」が使える。ランナーがその券を出せば、好きなソフトクリームを註文出来るシステム。だが私はまだ使わず、最後に通過する89(93)kmまで時点まで残す作戦を採った。 国道49号線に沿って西へ向かう。陽光を遮るものが一切ない裏道は、闘志を失ったランナーには過酷な道だ。地下道へ右折する辺りでS目さんを発見し声を掛ける。私だと分かると、わざわざ写真を撮ってくれた。後日彼から送られて来た写真の私は、案外余裕のある表情をしていた。 山の麓にスタート地点のホテルが見える。歩き出したS目さんを後にひたすら前進していると、K彦さんが折り返して来た。差は10km近いだろう。昨夜はたった3時間しか眠ってない彼だが、ペースが衰えないのはさすが。2か所の給水所で水を飲み、頭から水を被る。間もなく長瀬川の堤防。猪苗代湖へ注ぐ最大の川で、夜半に降った雨のせいか水量が結構多い。ここは第3回の時に走った懐かしい場所だった。 堤防から下りて田圃の中をジグザグ走っていると、JR磐越西線の線路下にASがあった。ここでパンを食べ、お茶を飲む。ホテルまで残り2km。後からS目さんが追い着いて来た。「コースを間違えた」とスタッフが話すのを聞いたと彼。どうやら5km地点の距離表示が違っていたのではなく、コースを間違えたのが真相のようだ。でもそれはランナーの責任ではない。 ホテルへの坂を登る途中でS目さんに抜かれる。彼はここでゴールだが、100kmの部の私はまだ体力を温存するため、無理して後を追わない。ホテル到着は12時28分頃。62kmの部は測定ミスで実際は65kmあるとプログラムに書かれていた。余分の4kmを加えると69km走った計算になるが、それを7時間半切ってのゴールだから立派な記録だ。 スポーツドリンクを一気に飲み干し、私は再び折り返し点目指して走り出した。その時、坂を登って来る赤青シャツ発見。ほほう、初ウルトラの彼らにしては良く粘ったものだ。でも多分ここでギブアップするだろう。私はそう思っていた。残りは17.5kmの往復で35km。ウルトラランナーの真価が問われるのは全てこれから。「辛抱」の2文字を心に刻む。 70(74)km付近で歩いているT橋さんと遭遇。彼は62kmの部で同じ宮城県のランナー。同様に歩いていた宮城UMC群馬支部の2人も62kmの部。100kmの部は黄色いゼッケンで制限は14時間。62kmの部は青で制限は12時間。そしてフルは白のゼッケンで制限は8時間。 制限の緩い青白ゼッケンのランナーが歩く姿が目立つ。黄色いゼッケンが元気に走り続けている姿を見て、「頑張って!!」と声を掛けてくれるランナーも稀にいるが、彼らの大部分は恥ずかしいのか下を向いたまま。100kmの部のランナーはそれなりに練習を積んでいるが、62kmやフルには練習不足のランナーが結構多いのだ。 仙台明走会のAさんと女性ランナーが近づく。今回がウルトラデビューの彼女だったが、途中の山道と暑さが堪えたのか、レースを諦めたようだ。しっかり2人と握手してさらに前進。志田浜のASでスタッフに尋ねたら、梅宮アンナはとっくに車に乗って帰った由。ずっとビリを走っていたようだ。やはり100kmの完走は、そんなに簡単ではないのだろう。<続く>
2010.07.16
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< メロンとスイカとかき氷 > きつかった林道もようやく下り坂となり、38(42)km地点の小倉沢で再び猪苗代湖岸に出た。後日他の地図などを確認したところ、林道の距離はパンフレットより14km短かかった。高低差は逆に100m以上高く、我々が苦しいと感じたのは当然だった。出来れば極力正確な資料を提供してほしいものだ。なお、余分に走った4km加算した距離をカッコ内に示す。 秋山集落は第2回、第3回も通った懐かしいところ。見慣れた風景に心が和む。だがこの辺りから急に気温が上がる。どうやら天候が回復したようだ。帽子の下にタオルハンカチを入れ、首にはパルプ繊維を巻き、サングラスをかける。39(43)km地点の青松浜ASに寄ると一口大のメロンがたくさん。一気に10個ほど食べ、ついでにスイカも食べた。最後に頭から水を被って出発。いよいよ本格的な暑さとの戦いが始まる。 鬼沼付近から再び山道。だがここは距離も短く、高低差も50m程度。間もなく湖岸に出ると、ようやく薄れた雲間から磐梯山が臨めた。湖岸を渡る風と涼しい木陰が疲れたランナーには嬉しい。44(48)km地点の湖南公園ASではかき氷も出た。以前は量が多く、冷え過ぎて喉の奥が痛くなったものだが、今回は少量でちょうど良い。稲荷寿司と巻き寿司も食べ、頭から水を被って出発。 コースはほとんど平坦で、松林の間から覗く湖水や清らかな小川を眺めながら走る。だが疲れて歩くランナーが目立つのもこの辺りからだ。47.5(51.5)km地点の舟津公園が100kmの部の折り返し点。一旦スタート地点まで帰って、再びここまで来るのは辛いが仕方がない。ASでパンや果物を食べ、塩を舐める。そしてお決まりの水被り。 スタート地点のホテルまでは17.5km。同じ道をこれから3回走る。まさに自分との戦いだ。気持ちを切らさずに最後まで走り切れるかが勝負の分かれ目。防風林が途切れてむき出しの湖岸は強い西風が吹き荒れている。それに耐えてひたすら前進。岸辺に打ち寄せる高い波。その横を押し黙って歩くランナーの表情が暗い。 トンネルを過ぎた辺りで、前方からランナーが走って来た。どうやら100kmの部のトップのようだ。スピードがまるで違い、私との差は25km以上あるだろう。2位の選手も若い。3位のランナーはかなり疲れているみたいで、やがて抜かれるはず。5位以下は全然見えない。上戸付近で国道49号線にぶつかる。気温は24度。まだまだ先は長い。<続く>
2010.07.15
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< 5匹の子猫と想定外の山道 > 長浜の給水所が本来12km地点。ここは5月に開催された「洋~湖~海」の初日のゴール。スタート地点のいわき市からは114kmほどあるみたいだ。スポーツドリンクを飲み直ちにスタート。この辺りからは周囲55.3kmの猪苗代湖の全体が見える。そこを1周半するのは途方もない冒険のようにも思える。 間もなく国道49号線に別れ、高低差70mほどの小高い山へ入る。今回は磐梯山を一周するコースが無くなった。最高地点の標高1200mまで山道を登り、そこから一気に700mを下る負担は相当のもの。だからその後に出て来るこの小山が結構きつくて歩いてしまうのだが、今日はとても楽に走れる。重要文化財天鏡閣の標識、牧場入口の標識、十六橋の安積疏水の取水口など、2年ぶりに参加する私にはとても懐かしい風景だった。 16(21)km地点の「会津レクリェーション村」に最初のAS。果物とスポーツドリンクを口にしてスタート。ここからは再び猪苗代湖沿いの道になる。間もなく石筵川が見える。猪苗代湖から流れ出る唯一の川で、やがて多くの河川と合流して阿賀野川となり、遥か日本海に達する。阿賀野川が1級河川のため、猪苗代湖に注ぐ全ての川が1級河川だ。 笹山集落付近まで来た時、「ニャーニャー」と弱々しい鳴き声が聞こえた。ようやく目が開いたばかりの子猫が道路を歩いている。きっと誰かに捨てられたのだろう。1匹、2匹、3匹。全部で3匹かと思ったら、暫くしてもう1匹。そして集落の近くに最後の1匹。どれも似たような色の子猫が5匹。あのままでは車に轢かれてしまうだろう。最後の1匹は何とか道路を横切ったようだ。 22(27)km地点の中田浜AS。ここは毎回親子がお世話をしてくれるところ。今回もお母さんと女の子がいた。冷えたトマトがとても美味しい。これまでだとここから折り返して国道294号線へ向かうのだが、今回は湖に沿って直進するようだ。ここは初めて通る道。湖の美しい浜辺では、大勢の若者達が水上スキーの講習を受けていた。腹痛を感じて浜辺の簡易トイレに駆け込むうちに、赤青シャツの2人組が先行。 26(31)km地点の崎川浜を過ぎると山道に入った。どうもここが赤崎・小倉沢林道(金山林道)のようだ。これが意外に険しい坂道の連続。高低図の高低差は170mほどだが、実際走るとまるで感じが違う。猪苗代湖の水面は標高514m。地図で確認した金山が標高807mだから、差し引き293mとなる。そして同じような高さの山が2か所あった。 多分ここは第1回大会のコースだと思う。その時女子2位だったKさんからとても厳しい山道だと聞いたことがあるが、磐梯山を登った後だけに、相当きつく感じたはず。とうとう赤シャツが「足が痛い」と遅れ出す。それでも頑張って何度も追い着く。100kmレースの厳しさを感じ始めたはずだ。<続く>
2010.07.14
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< おかしな距離表示 > K彦さんが来た。眠ったのは途中のPAでの1時間も入れて3時間だけの由。いつもながら凄い人だ。一番気になっていた質問を彼にぶつけた。T田さんと彼が「サロマ」のスタートラインに立てなかった理由だ。答えは「レース直前のT田さんの義母様の急逝」。喪主を務めたT田さんだけでなく、同じ町内の彼も葬儀に参列した由。なるほどレースどころではなかった訳だ。 16年間で100回のウルトラレース完走を達成した新潟のI橋さんが、いつもの通りニコニコ顔で現れた。年平均7回のウルトラ完走は大変な記録だが、彼にはそんな雰囲気が全く感じられない。仙台明走会のAさんが若い女性を伴って現れた。寝坊してたった今起きたらしく、慌ててバナナを食べていた。今日はウルトラデビューの彼女の伴走役に徹する由。 62kmの部に参加するS目さんの荷物はとても少ない。昨夜から奥様共々会場のホテルに泊っている由。スタート地点の広場に行くと、足元の状態があまり良くない。スタートの方向を確認するため前方へ行くと人だかり。そこに梅宮アンナと兄、そして父親の梅宮辰夫がいた。アンナ兄妹の脚の細さに驚く。そして兄の脚にはタトーも。その兄が妹のガード役で一緒に走るようだ。心配そうな表情の辰夫氏はすっかり父親の顔になっていた。 仮装のスーパーマリオがアンナの隣に並んで写真撮影の許可を求めたが、あっさり彼女は拒否した。きっと神経が高ぶっていたのだろう。そして唐突なスタートに慌てて腕時計のボタンを押す。一旦ホテルの坂を登って駐車場を廻り、そこからは急な下り坂。一般道路の交差点に2人の警察官がいた。先頭グループはそこから左折したようだ。 コース図によれば、最初は確か西の方角に向かうはずなのに、何故東へと向かったのだろう。疑問に感じたが、ひょっとしてコースを変更したのかもと思い直す。いずれにせよ、あの分岐点にスタッフが誰もいなかったことは確か。コースはJR川桁駅への曲がり角を過ぎて関都駅方面に向かい、途中から引き返して田圃の中などを通った。 道路脇に5km地点の距離表示発見。時計を見ると57分が経っている。これはおかしい。誰かが5kmの表示を2か所で見たと言う。スタート直後のスピードと下り坂を考えれば、少なくとも4.5km以上は余分に走った計算だ。これ以降に出て来る5kmごとの距離表示が、全く信用出来なくなった。 国道49号線を潜って、猪苗代湖岸の遊歩道へ。昨夜の大雨で湖水が濁っている。葦原からヨシキリの鳴き声。放置された釣竿は、どうやらバスを釣るためのようだ。直ぐ後に見慣れたオレンジのランシャツ。話をすると100kmの部に出場している宮城UMC群馬支部の方。62kmの部の2人と一緒にレース後は仙台へ行って、K合氏の母上の墓参りをする予定とか。 赤いシャツと青いシャツの2人の青年が近くにいた。同じ会社に勤務し、2人とも20代で初めてのウルトラレースとか。ハーフ1回、フル1回しか経験がないと気楽に話す赤シャツ。それに比べて無言を貫く青シャツ。遊歩道はやけにクネクネと曲がり、行く手が見えない。こんな車が入れない場所の距離まで正しく計測出来ているんだろうか。一旦芽生えた距離への不信は消えない。 だがここは自然が豊かで、走るのにはとても良いコース。まだ気温が低くて走り易く、曇り空の下の陰鬱な湖水も気にならない。野口英世記念館付近で地下道を潜り、国道49号線の北側へ出る。ここは第2回大会のゴール地点だったところだ。<続く>
2010.07.13
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< 馬刺しと冷酒 > 民宿は意外に小ざっぱりした部屋だった。冬季に訪れるスキー客が目当てとか。テレビを観ながらレースの準備にかかる。持って来たランシャツは夏向きの「へそ出し」でメッシュの目が粗い。ゼッケンナンバーは1枚で計測用のタグもない簡単なもの。ハーフパンツ、帽子、靴下、首に巻くパルプ繊維、小さなタオルハンカチ。それが今回の全て。今回テーピングは省略。、膝が気がかりだが、何とか最後まで持ってくれることを信じるしかない。 クロワッサンや八朔をつまみに、焼酎の水割りを飲んでいたが、その後何の音沙汰もない。台所へ行って声を掛けると出て来たのは奥様。ウルトラランナーにとって食事は不可欠であることを説明すると、「最近法事があったため、大会本部には食事が出せないと伝えてある」との返事。ここは元来四千円の素泊まりが基本なのだとか。 事情は分かったが、それで納得する訳には行かない。先ず翌朝のお握り弁当を作ってもらうことで交渉成立。そして肝心の夕食は、近所の居酒屋へ案内してもらうことで決定。前払いした9千円の中から5千円を返却するよう、E藤さんから連絡があったとか。でもその予約金が届かず、奥さんも困っていたようだ。 居酒屋は民宿から車で10分ほどのところ。お客さんは地元の顔見知りばかりで、店内の雰囲気は決して悪くない。その時民宿のご主人が私に馬刺しは食べるかと尋ねた。一瞬奇異な感じがしたが、OKと返事。色々迷惑をかけたのでご主人の奢りとか。内心「へえ!」と驚く、案外純朴な土地柄なのだろう。早速生ビールと馬刺しを注文。 九州の馬刺しは「霜降り」だが、ここ会津では昔から「赤身」が主流の由。量も多く生きが良い。久しぶりの馬刺しに舌鼓を打つ。次に豚肉の生姜焼き定食と地酒の冷酒を注文。この地酒が最高で、お客さんの実家とか。生姜焼きも美味しく、レース前夜の夕食としては何の申し分もなかった。土地の人達は皆素朴で良い人ばかりだ。 酔った勢いで、今回の経緯を話す。中には町の観光課の人もいた。主催者のE藤さんは決して人柄が悪いわけではない。ただし実質的に1人で事務局を引きうけているため、600人を超えるエントリーともなれば、細部まで連絡が行き届かなくなるのだ。まさか翌日のレース中に、その心配が現実のものになることをこの時はまだ知らない。 民宿から迎えに来てもらう。ご主人が私にくれた「馬刺し代」は、そっくり明日のお握り代として返却した。ここまではちゃんと記憶があった。ところが布団に倒れた後の記憶がない。次に目が覚めたのは深夜の12時。体がベトベトして気持ちが悪い。それはそうだ。いつもの肉体労働をしたままの状態で旅に出たのだから。 真っ暗な風呂場へ行くと「入浴は11時まで」の札。既に清掃は終わったようだ。湯船に入らなければ良いだろうと解釈し体を洗う。再び布団に倒れ込み、次に目が覚めたのが3時過ぎ。5千円を返金しに来たご主人が、出発は3時半と告げる。ありゃりゃこれは大変。大急ぎでレースの準備にかかる。洗顔すると目が真っ赤。まだ酔っ払っていた。 トイレを済ませ「お握り弁当」を受け取る。お握り4個、塩鮭、大根の味噌漬け、卵焼きが入った弁当と、バナナ2本、乳酸飲料も入っての充実ぶり。これは嬉しい誤算だった。マイクロバスは暗闇の道路をホテルへと向かった。深夜目覚めた時は大雨で最悪のレースを覚悟したのだが、今はそれも止んでいる。 途中まで来た時、100kmに出る人がもう1人いることにご主人が気づいた。万事がこの調子だが、もう一回戻っても十分間に合うと余裕。お世話になったお礼を言い、受付会場へ向かった。ここはスタート前の最終点呼がないから気楽。早速心づくしの朝食をパクつく。余ったお握り、おかずなどをリュックにしまう。これがレース後、とても重要な役割を果たすことになる。<続く>
2010.07.11
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< 出だしからのハプニング > JR磐越西線の川桁駅に降り立つ。ここは福島県麻耶郡猪苗代町にある無人駅だ。切符を回収用の箱に入れて駅を後にする。駅前の商店街にも人影はない。何人かランナーらしき乗客が降りたが、私は振り向きもせずにホテルへ向かった。谷あいにある巨大なホテルが今回のスタート地点であり、かつゴール地点。遠くからでも威容が目立つそのホテルへは、バスツアーで2度ほど来たことがあった。 街の様子に細心の注意を払う。何故ならレース後もこの道を通って電車に乗るためだ。もう1つ西寄りの猪苗代駅まで行けばホテルの無料バスに乗れるのだが、明日のレース後に同駅まで送ってはくれない。曲がり角で女子中学生に遭う。ホテルへの近道を尋ねると、林の中を進めば良いとのこと。暫く行くと、町立東中学校の校舎が見えた。 古ぼけた神社の横を抜けるとホテルのハーブ園に出た。どこから曲がるかを頭に叩き込み、受付のあるホテルの中央棟へ向かう。結構急こう配の道だ。明日はこの道を2度下り、そして2度登るはず。受付を済ませて、更衣室や荷物置き場を確認。それからおもむろにプログラムを開いて見る。 今回は仲間が誰も来ないと覚悟していた。磐梯山を一周するコースが無くなり、猪苗代湖1周半に変更されたからだ。裏磐梯の雄大な眺めや標高1200mの峠から見下ろす猪苗代湖全体の風景が観られないのでは、価値が半減と考えるのも無理はない。 だが私は暑さに体を慣らさせる近場のレースは貴重な存在と考えた。退屈な景色に耐えるのも修行の一環。そして後半の50km余りは同じコースを3度走る。一旦ホテルへ帰ってから再び走って来たコースに戻るにはかなりの勇気と辛抱を要するが、それもまたトレーニングとの認識だった。 プログラムを開くと知人の名前が幾つかあった。100kmの部に古川のK彦さんと仙台明走会のAさん。そして新潟のI橋さんは今回が100回目のウルトラレースの由。69歳の彼とは、「佐渡島一周」の第1回で知り合って以来、方々の大会で顔を合わせている。そして何と芸能人の梅宮アンナの名前を100kmの部に発見。 レース後に知ったのだが、彼女は「サハラマラソン」への出場を考えているようだ。50度近い砂漠の中を水を背負って走る過酷なレースに、あんな華奢な芸能人が耐えられるのだろうか。そして62kmの部には、同じ走友会のS目さんの名前。最近走友から彼はウルトラ向きだと聞いたが、いよいよウルトラ挑戦に乗り出したのだろうか。 建物の外へ出ると、1台のリムジンがホテルの構内へ入って来た。開いたルーフから茶髪の女の子が顔を出している。あれはきっと梅宮アンナの子供に違いない。どうやら彼女が100kmへ出るのは本当のようだ。それにしても民宿からの迎えの車が来ないのは何故。 3か所ほどの駐車場を探して1時間ほど経った。とうとうしびれを切らし、スタッフの人から民宿へ連絡してもらった。7分で着くと言うのに来たのは20分後。民宿のご主人が車中で言うには、夕食は作れないとのこと。「それでは約束が違うでしょ?」私は反論した。既に事務局には前金で9千円を支払っている。ところが民宿ではそのお金を未だに受け取ってないそうだ。 たとえ大会本部の連絡ミスでも、それがランナーに影響するのは困る。第一夕食や朝食を摂らずに、どうやって100kmを走れと言うのだろう。数日前に自宅へ電話があった時も強く申し入れてご主人も一旦は納得したはずなのに、再び食事の件でもめるとは。E藤さんの主催レースには案外こんなことが多い。事実上事務局員は彼1人なのだ。さて、これは困った。<続く>
2010.07.11
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今晩は~!!留守にしてましたが、先ほど無事帰宅しました。 結果的に言うと、今回は大会運営の拙さで4.5kmほど余分に走ることになりました。分岐点にスタッフがいなかったため、先頭グループが違った方向に向かい、その後を、100kmの部と62kmの部の選手が着いて行ってしまったのが真相のようです。 前夜の大雨で朝の気温は低く、とても走り易かったのですが、9時半ごろから気温が上昇し24度前後になりました。それでも風があったため、案外気持ちよく走れました。とは言え、頭から相当水を被りましたよ。中には熱中症でリタイヤした選手もいたほどです。 タイムは13時間30分57秒。208人中87位でした。レース後着替えてから風呂に入る間もなく、最寄りのJR駅までの1.5kmほどを夢中になって走りました。電車に乗り遅れないためでしたが、あれはレース終盤よりスピードが出たのではないでしょうか。しかも重たいリュックを背負い、サンダル履きでした。 芸能人の梅宮アンナも100kmの部に出ましたが、多分半分も走れなかったと思います。彼女は[サハラレース」に出るらしいのですが、大丈夫なのでしょうか。走るための筋肉が全くないように見えました。ともあれ、完走記は明日以降に書き始める予定です。お楽しみに。最後に、留守中応援メッセージをお寄せいただいた方々には、心から御礼申し上げます。どうもありがとうございました。
2010.07.10
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手元に1冊の本がある。タイトルは「行為と妄想」でサブタイトルが「わたしの履歴書」。2002年の4月に中央公論新社から刊行された文庫本で、値段は860円。著者は国立民族学博物館初代館長だった梅棹忠夫先生だ。元々日本経済新聞社から1997年に刊行されたものを文庫化するに際し、全面的に書き直したとある。 この本が我が家に届いたのは7年前。私は既に前職を辞して無職の頃だったと思う。何故先生が私に著書を送って下さったのかは分からないが、1つだけ接点がある。それは平成7年度から2年間、先生が創られた博物館に勤務したことだ。当時先生は名誉館長として週に2回、館内に設けられた梅棹資料室に通われていた。 この資料室に2人の秘書がおられた。いずれも先生がポケットマネーで雇われた方だ。私が勤務する部屋が同じ階にあったため、先生や秘書さんとたまに会うことがある。赴任時にも先生に挨拶をしたのだが、目の見えない先生は「誰?」と尋ね、私は職名を述べた。ウイルス性の疾患で全盲となっていた先生は、何事にも秘書の助けを要した。それでも口述により、毎月1冊のペースで本を執筆していたようだ。 当時のS館長は創設の際に副館長として梅棹先生を支えた人。私はたまたま赴任前に彼の著書を何冊か読んでいたが、なかなかの名著だった。だが現実は本の世界とは違っていた。彼はとても短気で、職員の誰からも恐れられる独裁者。そして彼に仕える秘書も、人を人と思わない対応をする時があった。単なる非常勤職員に過ぎない彼女も、幾分「権力のおこぼれ」に預かっていたのだろう。 部下が私に説明したことが、S館長の前に行くと全く正反対の説明になることもあった。力の無い上司は容赦なく「スケープゴート」にする。そんな閉鎖世界に希望をなくし、死を覚悟したことが何度かあった。 世界に通じる最先端の研究博物館。学芸員はいない代わりに大学院が置かれた専門の博物館。国内で一早く「情報展示」を取り入れたユニークな博物館。黒川紀章デザインの垢ぬけた博物館には、予算がふんだんに有り余っていた。地方の国立大学では予算不足に泣いていたと言うのに。 そのワンマン体制がもろくも崩れる時が来た。不満を抱いていた館内外の研究者が、現館長の再選を支持しなかったのだ。その背景に梅棹先生がおられたようだ。S館長は権力の限りを尽くしたが、人は育てなかった。だが梅棹先生を筆頭にする「京都学派」には、先生を師と慕う弟子が全国に100人もいたのだ。京都大学総合博物館には京都学派のコーナーがあるが、そこには梅棹先生と仲間達の燦然と輝く研究の足跡が残されている。 先生の本来の専攻は生態学だが、戦時中に渡った内モンゴルで民族学(文化人類学)へと関心が移り、戦後イスラムやインドの文明と出会って、「文明の生態史観」を着想した。その研究がやがて文化勲章受賞の対象となった。 生家が京都の履物店だった先生は独創的な考え方の持ち主で、決して権威におもねるような学者ではなかった。だからこそ単なる一管理職に過ぎなかった門外漢の私にも、わざわざ著書を送って下さったのだろう。 博物館を去る年、オーストラリアの6つの博物館と2つの美術館と2つの大学を視察した私の出張報告が館の機関誌に載った。400字詰め原稿用紙26枚分と写真が6枚の力作。私にとっては最初で最後のフィールドワークだった。ひょっとしたら先生は秘書さんを通じて、あの報告書を読んで下さったのかも知れない。だがそのことを確かめることはもう不可能。今はただ天国へ旅立った先生の御霊が安かれと祈るしか出来なくなった。合掌。 <お断り> 私は7月9日(金)の勤務後、翌日100kmマラソンが行われる福島県へ直接出発します。このため同日のブログはお休みとなり、帰宅は翌7月10日(土)の深夜となる予定です。2日間留守にします。そしてこの間、ブログ仲間の皆さんの所へも伺うことが出来ません。どうぞご容赦をお願いします。
2010.07.08
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昨日の夕方、私は吐き気を催すほど疲れていた。それにも関らず野球を観に行った。疲労の原因は幾つかある。蒸し暑い天候、寝不足、日中の肉体労働、今月になって1度も休んでいないランニングの練習、日課のブログ掲載、そして愛犬との散歩を含む若干の家事などだ。 昨年はリーグ2位に輝いた東北楽天だが、監督が変わった今季は一度も「貯金」が無く、目下パリーグの最下位に甘んじている。私が好きなピッチャーの田中は、今季日曜日の登板が続いていた。小づかいも乏しく、日曜には用事が多いことも重なって、すっかりKスタから遠ざかっていたのだった。 つい最近彼の登板が火曜日に変わり、一方私の借金生活にもようやく終止符が打てた。喜び勇んで一番安い外野自由席のチケットを買ったのも束の間、肝心の田中が右足の裏を肉離れし戦線から離脱という予想外の展開に。田中なら雨の中でも観戦する価値があるが、他のピッチャーではどうかと迷った。2時間かかって何とかブログは仕上げたが、もうクタクタ。 それでも行ったのは、天候が好転したことと、ピッチャーが急遽ラズナーになったことが決め手だった。彼は今期1勝7敗の成績。だが、ここ4試合ほど投球内容がずいぶん良くなっていた。相手は目下絶好調の千葉ロッテだが、何とか試合の形は作れるのではないか。そんな淡い期待を抱いて球場へ向かったのだ。 球場はガラガラだった。やはり田中が出ない試合ではファンも集まらない。1万人の観客の中には、多分先発田中を予想してチケットを買っていた人が多かったと思う。しかし、試合は私が望んだ通りの展開になった。いつになくラズナーの立ち上がりが良く、あっと言う間にチェンジ。4回裏にはルイーズの4号2ランが飛び出し、2対0と先制点を上げた。 その後もラズナーの調子は上向き。何でも大リーグで303勝を挙げたランディ・ジョンソンから秘伝の魔球を教わったのだとか。結局7回を0点で抑え切り、青山、小山に後続を託した。圧巻は8回裏の楽天の攻撃。中村ノリがきっちりとタイムリー2ベース、ベテラン山崎が目の覚めるようなタイムリー2ベース、そして今季好調の聖沢が2点タイムリー。あっと言う間の4点を加え、6対0の完封勝ちだった。 9回からの雨が試合後は本降りとなる中、私は自転車でずぶ濡れになりながら帰宅した。そして気がかりだったトマトの苗に傘を差した。入浴後はパソコンを開かずバタンキューで直ぐに眠った。よほど疲れていたのか、夜中に起きることもなかった。 今朝起床すると妻の姿がない。いつもの愛犬との散歩コースで、ヨタヨタ走っている妻を発見。帰宅後キュウリを6本収穫し、朝食時に1本だけ味噌をつけて食べた。これがとても美味。野菜の煮物に入っていたインゲンも我が家の収穫物で、これは初物だった。 新聞の第1面にNHKが名古屋場所中継の中止決定の文字。相撲協会の改革に関する姿勢が現時点ではまだ定かではないことや、視聴者からの意見の7割近くが中継禁止要請であることを重視した模様。前代未聞の出来事に驚いた。また、同じ一面に梅棹先生死去の記事。亨年90歳。死因は老衰のようだ。先生の訃報に関しては明日改めて記したい。合掌。
2010.07.07
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昭和20年代の終わり頃テレビはとても貴重な存在で、電器屋さんの店先まで出かけて覗いたものだ。まだ私が小学生の頃の話だ。テレビで観たのは力道山が活躍するプロレス。あの頃は単なるショウとは考えず本気で観ていたから、悪役が反則して力道山がやっつけられようものなら、日本中がとても興奮したものだ。 そしてもう一つの楽しみが大相撲。私は自分で作った腰かけを手に、電器屋さんの店先で並んで観るのが最大の楽しみだった。鏡里、吉葉山、三根山、松登、初代若乃花、栃錦などなど、今考えると個性豊かな力士が多かったように思う。 初代朝潮、千代の山、輪島などその後も名力士が続々と誕生した。初代貴ノ花のサーカス相撲にはハラハラドキドキさせられたし、外人力士の高見山も大変な人気者。愛嬌がある彼は、日本人の誰からも愛された。そして千代の海は滅法強く、それを追いかける若貴兄弟の台頭と小錦、曙、武蔵丸らハワイ勢の活躍には、手に汗を握ったものだ。 その人気に陰りが出だしたのはいつ頃だろう。輪島は借金を作って相撲界から離れ、双羽黒は大恩ある女将さんを足蹴にして部屋を飛び出した。若貴の母親は彼女の浮気が原因で離婚し、兄弟はその後仲違した。大相撲の人気凋落が、こうして始まったように思う。 最近になると大相撲界の暗部が次々に明らかになった。八百長報道裁判事件、力士暴行死事件、大麻所持容疑力士の追放、横綱朝青龍の暴行疑惑と引退、暴力団関係者に対する優遇措置、そして今回の野球賭博容疑。特に今回の野球賭博関係では、親方や現役力士などに大量の処分者が出た。それでも名古屋場所は開催されることになった。 発表された新番付では、幕の内力士のうち7名が解雇または謹慎となっている。謹慎処分の力士は全休扱いだから、来場所は6名全員が十両に降格するだろう。またご当所力士の琴光喜が解雇されたため初めて入場料を払い戻しすることや、スポンサーが次々に辞退する騒ぎになり、NHKが中継放送するかどうかの判断が最後に残っている。 先日の理事会では、貴乃花親方が相撲協会に退任願を提出したとか。それは彼を理事に推薦した阿武松親方、大嶽親方、琴光喜の3人が処分され、このうち2人が解雇されたことと無縁ではないだろう。理事長代行に外部の理事が選ばれたことを含め、今後どのような改善が図られるかが問題だ。 こうなると、とても大相撲が国技だなんて言ってられない状況だろう。残った幕の内力士には外国の出身者が多い。皮肉にも彼らは野球のルールに疎かったため、賭博に手を出さなかったのだ。燦然と輝く過去の栄光は、一体どこへ消えたのだろうか。大相撲の将来を、日本人の魂を持った外国出身力士に委ねるしか、方法が残されていないのだろうか。地に落ちた大相撲界の闇はかなり深そうだ。
2010.07.06
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先日の土曜日。この朝は珍しく7時まで寝ていた。よほど疲れがたまっていたのだろう。愛犬との散歩は既に妻が済ませていた。朝食後に新聞を読み、その後畑の手入れ。妻が仕事に行っている間にジョギングに出かける。いつもは7kmの帰宅ランが中心の私だが、良くそんなトレーニングで100kmも走れると、自分で感心するほど。きっと厳しい坂道と背中のリュックが負荷となって、それなりの効果を上げているのだと思う。 向かったのは23kmの練習会のコース。後でノートを見たら、ここを走ったのは4か月ぶりだった。気温が高いせいで、直ぐに汗が滴り落ちる。でもリュックがないため坂道も案外楽だ。山の上の自販機でスポーツドリンクを買おうとしたら、小さなものしかなかった。それでも水よりはまし。久しぶりに飲むスポーツドリンクはとても美味い。 2時間半もかかって自宅に戻ると妻は不在。映画の「フラワーズ」を観たいと言っていたので出かけたのだろう。彼女が1人で行きたいと思った時は好きなようにさせるのが一番。昼食はいつも通り麺類を食べ、午後から楽天対日ハム戦を観ながらまったり過ごす。1人だけの時間は疲労回復にはとても貴重。楽天は惜敗したが、気持ちはさほど落ち込まずに済んだ。 翌日曜日。愛犬の散歩と朝食を済ませて町内会の草刈りへ行く。集会所のある公園へ行くと大勢の人がかたまり、おしゃべりしながら作業していた。ところが誰も手をつけない草ボウボウの場所が残されている。私は迷わずにそこへ行った。私達の班は通常バス停前の空き地を担当している。そこに比べればこれでも楽な方だ。 黙々と作業しているところへ同じ班のご婦人。「これは大変ですね」。一目見て驚く彼女。だが私は言った。「こんなの楽なうちだよ。ただし口を動かさず手を動かせばね」。それはおしゃべりに夢中で、さっぱり捗らない他班への当てつけだった。私が持っているのは「稲刈り鎌」。これは刃がギザギザで切れ味が鋭く、たちまちのうちに作業が進む。 町内会の作業を終えて帰宅すると妻は不在。この日妻はバスツアーのサクランボ狩りに行った。今回妻はかなり早めに1人で行くことを宣告していた。内心「ええっ?」と思ったが、口には出さなかった。1人で行きたい心境ならそれもまた良し。 先ず溜まっていた洗濯ものを洗濯して干し、着替えてから本格的な庭仕事にかかった。先ず畑と庭の草取り。次にトマトの不要な葉や脇芽を取り、ビニール紐で支柱に結ぶ。逆にキュウリは伸びた蔓の上部をカットし、脇芽を伸ばすようにする。地面に着いている蔓は紐で誘引。ゴーヤも同様の作業。茂り過ぎのミニトマトは適当にカット。 さらに花が咲き終えたクリスマスローズを地植えに戻し、裏庭のシノブを3株ほど掘って植木鉢に植え直した。ふ~む、これは涼しげで良い感じ。トマト用の傘を取り換え、コンポスト容器から堆肥を取り出して腐葉土と混ぜた。最後に植え替えた植物に水やりして終了。朝から3時間以上ぶっ通しの仕事で汗だくになる。 午後は楽天対日ハムの試合をラジオで楽しむ。8回まで5対5の接戦が9回表にピッチャーが次々打たれて惨敗。さらに田中マー君が試合前の練習で負傷したことを知る。これで今季の楽天はもう浮上しないだろう。やはり野村前監督の予言通りか。 ガッカリして洗濯ものを取りこみ、自分の物を始末した後、米を研いでから愛犬と散歩。続いてランニングに出かける。夕食前の近所ランは初めて。アルコールも入ってないため案外スピードが出る。調子に乗って傾斜のきつい坂の上まで行くと、ニコニコ笑ったランナー。近づくと長老のD堂さんだった。久しぶりのランニングとか。立ち止まって暫し歓談。 私がパソコンを買った店は彼の推理通りだったし、店の息子がEちゃんの旦那さんの教え子だったことも分かった。これだから世間は狭い。1時間20分ほど走って帰宅すると、妻も旅行から帰っていた。サクランボがお土産になかったのが残念だが、妻が楽しめたのならそれで良し。私も充実した一日を過ごせたのだから。
2010.07.05
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裏に住んでいる爺さんが、先日自宅の植木を剪定していた。そこで爺さんに言った。「お宅のクルミの木だけど、秋になると凄い量の葉っぱが我が家に落ちるんだよ。上の枝を切ってくれないですか」。爺さんは答える。「はい分かりました」。 そんなことを言い続けてもう12年以上経ったが、未だに約束が守られた試しがない。我が家に侵入している枝は40cm程度のが8本ほどだが、クルミの葉はとても柄が長い。晩秋ともなれば北風に吹かれて、大量の葉っぱが我が家の裏庭にドサドサと落ちるのだ。教員をしている彼の息子にも話したが一向に埒があかない。今シーズンは落ちた葉っぱをまとめて、裏の家に投げ入れようと思うのだがどうだろう。 我が家の南側が更地になった。土地を買ったのはお向いの方で、当分更地のままにしておくそうだ。お陰で我が家の庭に良く日が入る。ところがこの更地が子供達の遊び場になった。ある時野球のボールが我が家の庭に飛び込んだみたいで、チャイムが鳴った。「探しても見つからないので、ボールを見つけておいてください」。子供たちはそう言い残して出て行った。 たまたま愛犬がいるガレージへ行くと、石が3つ転がっていた。きっと愛犬が猛烈に吠えたため、子供が怖がって石を投げたのだろう。もちろん犬に当てようとした訳ではないのだろうが。犬は相手が自分を可愛がってくれる人か、そうでないのかを直感的に判断する動物だが、子供たちはきっとそれを知らないのだろう。 数日後、子供たちが再びチャイムを鳴らした。今度は裏庭から侵入したようだ。「小父さんボールは見つかりましたか?」。私は答えた。「今は葉っぱが茂ってるから、冬になるまで見つからないと思うよ」。そしてさらに付け加えた。「犬に石を投げちゃダメだよ」。「石は投げてません」。ふ~ん。そうするとあの3個の石は自分で空を飛んで来たのか。 最近は子供の数がめっきり減った。我が町内会でも小学校に通学している児童数はごくわずか。だからと言って甘やかしてはいけないと爺さんは考える。そんなに大事なボールなら、ちゃんと失くさないように考えないとね。それに動物を苛めてはいけない。やんちゃなのは良いけど、子供なりに守るべきルールはあるはず。 夫婦で北海道へ旅行に行っていたお向いさんがお土産を持って訪れた。我が家も旅行の都度お向いさんへお土産を買う。今回戴いたのは3品で、そのうちの一つが「毛ガニ」。こんな高額なものを戴いてと恐縮していたのだが、暫くしてご主人が再び我が家を訪れた。手にしていたのは「花咲ガニ」。先ほどの毛ガニと交換して欲しいとのこと。早速冷蔵庫から取り出してご主人に返却した。 するとご主人曰く。「花咲ガニは珍しいだけで、食べて美味しいのは毛ガニだもんね」。返答に困った私は言った。「まあどちらも高級品だけどね」。その夜生まれて初めて食べた花咲ガニだが、案外身はスカスカだった。ずっしりと重たかったあの毛ガニは、一体どんな味がしたのだろう。今後我が家では、一旦お上げしたお土産を当方の都合で交換することはないと、この際断言しておこう。
2010.07.04
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少し前に書いた第1現場のトイレに週に2、3回入る老人。最初の事件は役職者を送り迎えするタクシーの運転手を捕まえて怒鳴っていたこと。自分が入りたいビルへの進入を妨げられたと考えたのだろう。さらに警備員の私に向かって、「何故運転手に注意しない!」と食ってかかった。私は老人に言った。「関係ない!」。何故なら、そこは会社の構内だからだ。 老人がその後もトイレに入るだけの理由で、何度かビル内を通過している。ある日のこと、老人の前に別のタクシーが横付けになっていた。もちろん役職者を送って来た車だ。老人はタクシーが邪魔をしていると考え面白くなかったのだろう。タクシーの前に2度唾を吐いた。 私は怒った。「何ですか、その態度は?」。老人は何も言わずビルに入り、トイレを済ませた後裏口から出て行った。私はこれまでの経緯を管理会社の責任者に報告した。その結果、次回老人がビルに入ろうとしたら「ここは公共のビルでないため、一般の方の出入りをお断りしています」と断ることに。これは至極当然のことだと思う。もちろん困って、「トイレお借りしたいのですが」と来れば話は別だが。 そして数日後例の老人がやって来、私は打ち合わせ通りビルへの入構を断った。その途端、老人が大声を上げた。「俺を誰だと思ってるんだ。俺は△△だぞ!!」。彼が口にしたのはビルに入居している団体の省略形。だから彼が団体名と、それがどんな役割を果たしているのかは知っているのだろう。 だが、彼が唾を吐いたのはその団体の副会長を送り迎えする車であり、暴言を吐いたのは、関連会社の会長を送り迎えする車。いずれもビルのオーナーサイドの企業だ。私はそのことには触れずに老人に言った。「もしそうだとしても、貴方がやってることはおかしいでしょ?」。彼は黙ってビルに入り、トイレにも寄らず裏口から出て行った。今回のことも直ちに管理会社に報告した。 もし彼がかつて本当にその団体に所属していたのであれば、そのような行動は取らないはず。それが責任者が出した結論だった。私も同感だった。車は黒塗りのハイヤーで、何故毎日そこに横付けされるか、普通なら簡単に分かるはずなのだ。そして元職員ならなおさら、ピンと来るはず。もし老人が偉い人だったなら、私達に「お疲れ様です」くらい言って、ビルに入ると思うのだ。 怒鳴り声を上げられても私は怯まなかった。非が当方にないのは確かだし、ビルの構内に契約中のハイヤーが横付けするのに何の問題もないからだ。彼が運転手を怒鳴り、私に警告し、唾を吐く権限が何処にあるのか。例え彼がかつて職員だったとしても、彼の感覚の方がおかしい。恐らく何度か構内を通過するうちに、団体名を覚えたに違いない。 また老人がやって来たら、私は再び入構をお断りする旨話す積りだ。そしてまた怒鳴ったら、彼が暴言を吐き、唾を吐いた車に誰が乗っているのかを、今度は教える積りだ。社会的地位が低く見られている警備員にも誇りがあり、契約しているビルの安全のためにも整然と業務を遂行する義務があるからだ。
2010.07.03
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勤めている会社の人事異動が7月1日付けであった。パートの我々にはまだ正式に知らされてないのだが、これまでの所長(課長職)が他の事業所へ異動し、その後へ現在の係長が昇任。係長のポストへはこれまでの主任が昇任するようだ。 これまでの所長とは私がこの会社に採用されて以来の付き合い。彼が大学の後輩であることを人づてに聞いたのはつい最近のことだった。イギリスの初代駐日公使オールコック著「大君の都」全3巻を貸してくれたのも彼。温和で偉ぶらない人柄はとても親しみやすいものだった。 それに反して今度所長に昇任するのはまだ30代の若者。元々営業担当だったこともあって、なかなかのやり手。新しい現場の立ち上げを担当するなど、社内の信用も厚かったのだろう。だが変に威張ったり、先輩を先輩とも思わぬ不遜な点があるのも事実。千名ほどいるパート職員には縁のない人事異動だが、今後どう影響するのか。 厳しい業界での生き残りをかけて、我が社が組織の改編などに着手しているのは確実。5月の警備員論文表彰式の際に40代の若い部長と隣り合ったが、彼の頭部に円形の脱毛個所があるのを発見した。また6月1日付けで新事業所が出来た札幌には、部長職1名と係長3名が単身赴任している。気楽なパート職員と違って、彼らは会社の存亡を懸け日夜戦い続けているのだと思う。 そんな折、清掃員として働いている第2現場で小さな出来ごとがあった。私が警備員として勤務する第1現場の話を同僚にしている最中に、突然20代の女性が口を挟んで来たのだ。彼女は休憩中にもゲームをし続け、話の内容などろくろく聞いてはいないはず。思わず私は彼女を叱った。 私はこれまで50年近く仕事をし、この会社に入ってから8年目。彼女の父親より遥かに年長で、年2回研修を受けているプロの警備員。一方彼女は入社したばかりで、問題を起こし他の現場から回された立場。責任者から連日のように勤務態度を注意されているにも関わらず一向に改善の兆しが見えない。深夜までゲームに興じるあまり翌日は遅刻し、「バスが遅れた」と言い訳するらしい。 そんなことを皆の前で幾つか糾した。きっと「バスが遅れて来る」のではなく、「バスの時間に遅れてしまった」のが実態。当然のことだがきちんと勤務時間を守らないと、いつ辞職を勧告されても仕方ないことを諭した。そこまで厳しく彼女に直言した人はいなかったのだろう。驚いた表情で携帯電話を切り、私を凝視していた。 会社は小さな社会。その中で最低の約束が守られないようでは社会人として失格。私が彼女に言いたかったのはそんなことだ。一パート職員の私が出しゃばることではないのだが、正社員が誰もきちんと叱らないのだから仕方がない。ことの発端となった第一現場の「事件」については、いずれ改めて記したいと思う。
2010.07.02
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カレンダーを破るとそこには夏の風景があった今日から7月いよいよ本格的な夏の到来だ6月初め「阿蘇」では「口蹄疫」のためにレースが中止されたという俺が6年前に走ったのは50kmの部まだ疲労骨折の影響が残っていた頃だ雄大なカルデラを見下ろしながら俺は外輪山や草原を走ったっけ6月末の「サロマ」では気温が33度にも上がり完走率は50%を切ったという遥かなる北の大地そして美しい原生花園そんなコースを少々年老いた俺がこれから走る機会があるのだろうか新しい月の初め今日も俺は山道を走って帰った梅雨の晴れ間久しぶりに覗く青い空の下を来週の土曜日俺は「磐梯高原ウルトラマラソン」を走るだが名前と違って今年のコースは比較的平板な猪苗代湖を1周半するのだとかコースがつまらなくなったせいか仲間は誰も行かないみたいだだがそんなことには関係なく俺は1人でも参加する平板でつまらない道もたまには良いさ雨に打たれて泥んこになったりあるいは太陽に焼かれて苦しむのも案外俺には嬉しいのだよともかく俺はいつもの通り滝のような汗をかきいつもの通りひたすらゴールを目指す7月の湖畔の道を昨日俺はトマトの苗の上に6本の傘を差した長雨が続くとトマトは根が腐り病気になり易いからだ7月に入っても当分梅雨空は続くだろうだがやがて雨は止み強い光が野に溢れる日が来るだろう夏人間にとっては厳しい季節だが俺はどんな時でも文句を言わずひたすら走り続けようと思うのだ
2010.07.01
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