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いよいよ大晦日を迎えました本年も皆様方にお世話になり有り難うございました来年もよろしくお願い致します皆様良いお年をお迎え下さいそして幸せな年でありますように除夜の鐘を聞き乍ら祈っています 法然上人が説かれた、 【浄土宗総本山】 です。 弟子の親鸞上人も同じく【浄土真宗】として、本願寺があります。全国から法要のため多くの信者さんたちが、お参りにこられます。 鐘楼【知恩院の除夜の鐘】大晦日と言いますと、テレビでも表題のシーンが放映される事が多いですね。108つの煩悩を振り払う、僧侶十数人掛かりで、撞かれます。【重さ70トン】 御影堂(みえいどう)大瓦の頂上の真ん中に瓦が三枚ほどくくられてあります 何故?建物は未完成のままで永久に人も控えめにとの僧侶のお話しでした。 【知恩院】 (ちおいん)は、浄土宗の総本山とされ、法然上人が開祖で、一般大衆でも難しいお経を唱えなくっても、ただ 【南無阿弥陀仏】 と唱えるだけで阿弥陀さまの世界【西国極楽浄土】 に召されるということで、日本全国信者さんが大勢信仰を持って居られます。 御影堂(みえいどう)は法然上人が祀られ、大きい建物です。何でも、 【左甚五郎】 の作と言われています。 過日、疑問にずっと感じていましたが、信仰の対象と成るはずの【阿弥陀堂】が西側に小さくって、聖人とはいえ【御影堂】がとても大きいことに、和尚さんの説明では、阿弥陀堂は【礼拝堂】であり御影堂は、【説法堂】として広く多くの人達が法話を聞くお堂と。やっと納得できました。 長い竹の棒で位置を説明します。 有名な 【忘れ傘】 が正面向かって右側の軒下に見上げるとひなびて居ますが、見られます。実は忘れたのでなく、木製の建物として、最も恐ろしいのは、【火災】です。それに対応して、水に関係する【傘】を置いたのでしょうね。 屋根の頂上の中央に【瓦三枚】が縛られて置かれています。和尚さんのお話では、作者は半永久的に残したい意味で、「この建物はまだ未完成ですよ」の意図と考えられます。人間も慢心しないで未だまだ足らない事が多々あります謙虚さを説かれていました。寺社では、隠れた為になる教訓が気付かない所に有るようですね。 西側に阿弥陀如来の祀る阿弥陀堂があります。 更に奥に行きますと、廊下が【鴬張り】になっています。そして更に進みますと、大柄杓(ひしゃく)が手の届かない、梁(はり)に掛けられ、【シャクに触るな】につながります。又、柄杓は、多くの人を救いとるの意。 あまり上手に画けて、【抜け雀】【三方正面真向の猫】観る者が位置を変えても、親子の猫の目がこちらを見ている。 日本一大きい三門 一度は観られると良い豪華な【三門】は日本一大きいとされています。その上層部には、建築の責任者寺社奉行【五味金右衛門夫婦】の【白木の棺】と像が置かれています。予算超過でその責めを採り自刃。三門は、徳川二代将軍秀忠公によって建てられ、楼上には、お釈迦さんが、祀られて居ます。お釈迦さんは両手の指を伸ばしておられます。(仏像の観方) 三門から御影堂まで、急な石段【男坂】となだらかな【女坂】があります。七不思議のひとつ【瓜生石】 二条城に通ずるミステリ地下道の出入り口される【瓜生石】この石の上に祇園の牛頭(ごず)天皇が降り大石から瓜が実った。 以上を【知恩院の七不思議】とされています。知恩院は、徳川のお城でも有ったようです。 御殿の東北には、東照宮があり、家康・秀忠を祀って居ます。庭薗も観られます。 知恩院境内の最も聖なる地法然上人御廟所石段を登りつめた場所 御影堂の東に急な石段を登り詰めますと、【勢至堂】(せいし)即ち法然上人のご幼名でありそして、【御廟】が有ります。その勢至堂の裏側即ち北側に、NHK大河ドラマ天地人で話題となった、徳川家康の孫、豊臣秀頼に嫁がされた【千姫の墓】 京都の市街が、美しく見渡せます。千姫の墓千姫も。父秀忠公と静かに京都を見守ってくれていましょう。 東照宮への庭園 御影堂の東側から勢至堂・御廟への石段登り口新年より周期の初めとして世界文化遺産17か所ご紹介します
2017.12.31
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今年もあと僅か年の暮れに秋の花を京都観光のブログも年に3回に繰り返し更新しています飽きずにご訪問頂き感謝していますおかげでアクセスも多く戴き 京都の魅力をその時期に合わせご鑑賞して戴いているものと嬉しいですお正月から又周期が変わって更新させていただきますよろしくお願いいたします 寺院ばかりでなく、秋の花を求めて尋ねました。賀茂川の上流に沿って府立植物園に菊花展を開催していました。写真だけでもご鑑賞願えれば幸甚です。カンナ背景に温室展示館が有りますジンジャー1ジンジャー2ジンジャー3何れもハワイでは首飾りわするそうです菊花展飾り バラ園も コスモス カンナと噴水小雨が降って来ましたサルビア コリウス と ノゲイトウ トレニア・バイロニー 盆栽時には花を愛でて散策するのもいいものですね。明日は大晦日知恩院の鐘を届けます
2017.12.30
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京都観光に欠かせない足利家の菩提寺です金閣寺 銀閣寺そして天龍寺 朝廷が南北朝に分かれた真意は、判りませんが、朝廷に何がしかで足利尊氏がお諌めしても聞き入れられなかった。止むを得ず戦に成り後醍醐天皇は吉野で崩御。然しその御霊の菩提を天皇の幼少お育ちになった嵐山に立派な天龍寺を夢想国師に命じて造りました。 【等持院】 (とうじいん)臨済宗天龍寺派 開基 夢窓疎石 歴史上に登場する人物で、時代に応じて、イメージで印象の悪いと考えられていた者が、理由が有って善良な人物とも取れる事がよく。出てきます 【足利尊氏】 がそのひとりです。戦前歴史で朝廷に背いた国賊と教えられました。事実その通りだと思い込んでいました。然し現代に残されている遺跡寺院からは、そうとも思えない足跡が観光によって感じられました。 玄関口門前に大きく「等持院」と書かれた門標がありました。足利尊氏の戒名「等持院仁山妙義」から付けられたとされます。寺院の格式から「寺・院・坊・庵・軒」とされています。戒名は残った人がその人の遺徳を偲んで贈名とするとすれば、「等持」の漢字に寺が二字含まれて居ます。慕われ尊敬された方と思えます。そして寧ろ何か原因があったのでしょう。敵であった、「後醍醐天皇」の菩提の為に、建設費を「天龍寺船」での貿易で立派な「天龍寺」を建て、その立役者の足利家は等持院で、一歩下がって礼を尽くしているように思えて成りません。庫裏の入口蟇股に「二引きの家紋」【順路】•1. 表門に等持院の額が掛っています。•2. 玄関口の瓦及び蟇股(かえるまた)には二引きの足利の紋が見られます。 達磨の絵•3. 廊下の突き当たりにダルマの絵が目立ちます。天龍寺の管長さんが描かれたそうです。座禅を続けていますと足が立たず、それがダルマさんの姿に成られた、「ダルマ禅師」の絵です。•4. 方丈前の廊下は、「うぐいす張り」できゅっ・きゅっと歩くと音がします。 方丈庭園•5. 方丈(本堂)には、釈迦三尊が祀られて居ます。 霊光殿•6. 【霊光殿】正面に尊氏の母堂が大切に振興つき「地蔵菩薩」を尊氏のの仏の庇護のため賜った尊氏の念持仏両脇に禅宗の祖師「達磨大師」と「夢窓疎石」が、足利将軍15代の像(5・10は除く)何故か徳川家康の像有り。 足利尊氏の墓頭の部分が欠けています 7..【足利尊氏の墓】上部の宝塔が欠けています。何でも三條大橋東詰で御所に向かって、平伏している像、「高山彦九郎」が朝敵として刀で切り付けたと言う伝説が有ります。江戸時代の右翼。バック立命館キャンパス手前に茶室【清蓮亭茶室】8.【池泉回遊式庭園】夢窓疎石作庭「芙蓉の池」と称し、蓮の形した「亀島」書院正面の這い松の「鶴島」「石橋」「滝の石組み」天龍寺の庭園形式になぞらえています。9.【清蓮亭茶室】八代足利義政が建てた武家床の貴人席があります。等持院型灯篭と自然石で出来た司馬温公型手水鉢が有り、茶席からの庭園の眺めもやや高台からとなり素晴しいです。 借景に、衣笠山が近年まで、眺められたのですが、時代の波に逆らえず、「立命館キャンバス」の校舎で、遮られてしまい、致し方がないとは言え残念です。石組みの池泉回遊式庭園 奥の池奥の池 天龍寺・金閣・銀閣と足利将軍の関係する「菩提寺」としてひっそり佇んでいます。明日はいよいよ年の瀬間際府立植物園の花を愛でてみたいです
2017.12.29
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足利家は、現代、臨済宗として5ヶ所の世界文化遺産を残しました 。天龍寺・西芳寺・金閣寺・銀閣寺そして龍安寺です。衣笠山の見える 等持院そして龍安寺の側にある、世界文化遺産【真言宗】 の大きい寺院をご紹介します。 弘法大師さんが開かれた宗派です。【大子堂】が建てられています。【仁和寺】 右京区真言宗御室派総本山 開基 宇多法皇 世界文化遺産に登録 当初訪問しました、「龍安寺」の隣接した場所に有ります。従って宇多法皇が「夏でも雪景色を見たい」 「衣笠山」 も近くに望めます。正門には「仁王さん」が逞しく 「阿吽」 (あうん)の形相で睨んでおられます。仁王門から【国宝・金堂】その背景大内山を望む 阿形の仁王さん口を開けている 吽 形の仁王さん口を閉じています阿吽(あうん)の仁王さま 仁王門から、正面に大内山を背景に国宝【金堂】が佇み、京都御所から移された、「紫宸殿」で「現存する最古の建物」とされています。 仁和寺は、888年(仁和4年)年号と同じは、比叡山の「延暦寺」も同様です。この辺りでは、タイムカプセルのように、いにしえの御所の雰囲気で満ちています。本尊は阿弥陀如来そして、「脇侍」(きょうじ)には、観音菩薩・勢至菩薩が祀られて居ます。同じ阿弥陀三尊も、「霊宝館」には、国宝の仏像が有り、常時拝観出来るようです。国宝・金堂 手前には、 「五重の搭」 があり、春の遅咲きで有名な、御室の桜園が有ります。御室の桜は、京都でも遅咲きの桜として知られています。その数200本で 江戸初期に観桜の名所となりました。丈が低く根本から枝を張ることが特徴です。最近八重が1割と変化したと地元紙が報じていました。京都最後の桜です。 仁王門より大内山を望む 本日は御殿をバスしました国宝金堂へ 浩宮さまお手植えの八重桜 五重の塔を背景に歴史が遺してくれた貴重な文化財を大切に護れる日本の姿でありたいものです 世界に目を遣れば世界文化遺産をも壊す民族もあり心が痛みます 見所は、仁王門を入って左手に 【仁和寺御殿】 があり、二条城二の丸御殿と同じく、ボタンを各部屋で押すと、説明が聴けます。1.【本坊表玄関】玄関前の庭には、大きい這い松がみごとです。 仁和寺御殿入口の這い松 中に入ると「御室流の生け花」が見事です。側に孔雀明王の掛け軸が掛けられ、香のかおりが落ち着きを覚えます。 白書院の前庭白砂正面・勅使門 右手に仁王門2.【白書院】四季の襖絵が画かれ、廊下から白砂の向かいに「勅使門」「仁王門」を眺めると雄大さを感じとられます。 宸殿3.【宸殿】前には、「左近の桜」「右近の橘」が備わっています。 五重塔を取り入れた庭園4.【宸殿の北側】に廻りますと、五重の搭が借景で心和む庭園の池にめぐり合えます。 池を取り入れた庭園庭園要素「天龍寺の曹源池」と同じく、瀧は水が流れ、「鶴島」「亀島」そして石橋が整っていました。 庭園の共通した形式です。人生観を表現のようです。部屋の襖絵は、大和絵・春の桜・夏の加茂の祭り・秋の嵐山の「三船祭りの絵」冬の交野(かたの)(大阪)鷹狩り 宇多法皇の居室5.【上段の間】宇多法皇の居室で、最も要と成るお部屋です。此処からの庭園の眺めは最高です。天井は貴賓の方が居られる「格天井」で、螺鈿(らでん)細工の床。違い棚付書院が有ります。 霊明殿への廊下6.【霊明殿】近衛文麿公の額・秘仏薬師如来が祀られ、此処からの高台からの眺めも素晴しいです。7.【黒書院】堂本印象の襖絵。「リス」等動物の存在が可愛いです。次回は、等持院へ参ります
2017.12.28
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21日は 終い弘法で賑わいました 俄雨25日は終い天神で晴 弘法さんと天神さんは仲が悪いとは土地の人は言い伝えます 観智院は、東寺の塔頭ですがが、東寺の別格本山でもある。通常は、非公開の寺院ですが、春と秋の一時期特別公開されており、国宝の客殿を含め、センスの良い庭や仏像、絵画、花等を鑑賞できます。表門正面には小さな大師堂もありますが、綺麗に掃除され、打ち水されたお庭は、ここに入った瞬間に爽やかな印象を与えてくれます。玄関先の蹲客殿前客殿には、宮本武蔵の書いた力強い鷲の図、竹林の図がありました。宮本武蔵は、吉岡一門との戦い(吉岡清十郎、伝七郎を倒した)後、一門が敵討ちしようと探していたので、ここ観智院に3年間蟄居し、長谷川等伯の指導を受け、絵画にも目覚めたといわれている。 この間に、文学も勉強したので、後日五輪書も書き上げたのだろう。よsh左に客殿と右に仏殿、間に、「四方正面の庭」 確かに、どちらから見ても、絵になる庭です。仏殿の裏側の小さな庭 手水鉢に石を詰めて、お地蔵様を飾るとは・・・立派!客殿と仏殿の前の庭が、「五大の庭」右側の築山が中国、左の築山が日本、中の石組みが竜神・神亀・鯱等を表す。中国を表す築山 石組みの中に・・・こんな小さな釈迦誕生像これが、竜神左奥が神亀、右手前が渡海船水鳥独鈷杵(どっこしょ)五大の庭の5つの大きな石は、本尊の五大虚空蔵菩薩に喩えられているという色々な庭が綺麗です茶室・楓泉観(ふうせんかん)から見た庭獅子脅しもあります風鈴?小さな坪庭もセンスある!本尊の五大虚空蔵菩薩像(中国、唐時代) パンフレットより知恵の五大虚空蔵菩薩像 北野天満宮並に受験者が参詣します明日は仁和寺に参ります
2017.12.27
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昨日は「終い天神さん」として縁日が賑わいました年の瀬もあと六日となりました21日は「終い弘法さん」相変わらず21日晴 25日は小雨と 両者の仲悪さは現れました 本日は、京都らんざん大覚寺の大沢の池を巡りての桜の景色をご紹介します。映像だけでお楽しみください 納経堂 遍照山が池に映る大沢の池遍照とは遍く照らすから太陽の意大沢の池 湖畔の入口左の建物大覚寺境内水鳥が遊泳左大覚寺境内 大沢の池大沢の池 大沢の池 赤い橋がみえます。時代劇の撮影によく使われます。大沢の池を振り返りますと嵐山の連山が借景となります。大覚寺境内の土塀ここもよく時代劇のロケによくつかわれます。大覚寺表門の桜桜の満開に合わせて、3度観桜の取材に出たのはこの歳で初めてです21日「終い弘法さん」に因み明日は東寺境内の観智院に参ります
2017.12.26
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クリスマスおめでとうございます皆様のご健康とご多幸を祈ります 本日は過年取材した京都御苑の一般公開と枝垂れ桜ご紹介します 正門【建礼門】葵・時代祭の出発点 堺町御門葵祭・時代祭はこの門から外へ京都御苑の一部もみじの新緑が芽生えていました 山桜開放された御所正門【建礼門】葵祭・時代祭の出発点です車寄せ紫宸殿の回廊紫宸殿の回廊紫宸殿の正面左近の桜紫宸殿右近の橘(白い花を付ける)紫宸殿扁額 紫宸殿正面から開かれた【建礼門】を望む小御所の庭園小御所の庭園寿老人が杖と扇を持って鹿と対峙長寿を寿ぐ鶴の絵は、寿ぎから御殿内に200羽ほど画かれるいるとのこと御所の桜 京都御苑の枝垂れ桜 (近衛邸宅)八重の桜八重の桜一際人だかりが多かったです枝垂れ桜 枝垂れ桜枝垂れ桜枝垂れ桜枝垂れ桜枝垂れ桜枝垂れ桜今年もあと僅かになりました良い年の瀬を送られますように...
2017.12.25
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【客人・有吉佐和子先生の教訓】 ブログ始めの頃の更新です 1009年12月25日【作家・有吉佐和子先生ご乗車】 乗務して・三日目、西本願寺の前を堀川通北進中、門前で和服姿女性数人の方が、手を振られ、乗車される前に此れから【有吉佐和子先生が乗られます。くれぐれも粗相のないように】と一瞬緊張感が走りました。側には客待ち他社のタクシーが停まって居るにも拘わらずエムケイを待って居られました。車中気さくに「京都は落ち着いて宜しいですね」と敬語で語り掛けられ、対話も弾み思い切ってご意見を聞いて見ました。「先生、新人のタクシードライバーとして、どのよう心掛けして行けばよろしいでしょうか?」 「そうね、急発進・急カーブ・急停車を避けるようにされては、【物】はころころ転げても、文句言わないでしょうが、【人間】は感情を持っていますからね」 正に至言で「今後座右の銘として大切に生涯護って生きたいです」先生は京都での執筆のために落ち着いた北区に邸宅を保持しておられました。 作家ともなると、日頃第一線で働く人とのコミニケーションを採り、作品に活かされて居られるものだと、敬服致しました。有名な先生を新人としてご乗車受け、勇気と誇りを感じた次第です。 昨夜は、クリスマスイヴ。KBSテレビで19時り、洛星中学校の生徒さん達で、伝統の、聖劇タブローを放映していました。イエスキリストの予言からご降誕までを演出、全て生徒たちが、日頃から企画・練習に当たり、生徒さんの代表のコメントに、在校中一番将来とも心に懐かしく残り、皆が一致協力して人への思い遣りを感じつつ実現してきたものです。と今時、学力の優れた学園だけでなく,情操教育の浸透していることに、嬉しくなりました。 以上ブログ初めて三日目の手記で 映像は未だでした 来年の大河ドラマ西郷隆盛に因んで【寺田屋】 坂本龍馬の寺田屋があります。月曜日定休で中まではご紹介出来ませんでした 寺田屋の前に伏見港があります運河に成って大阪難波に通じていきます桜と柳が調和していますユキヤナギもきれいでしたテレビによく出る大倉酒造の背景です月桂冠酒造桜と柳十石舟が見えます船着き場側に大倉酒造が見学できます舟の車庫京阪電車の高架橋
2017.12.24
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天皇誕生日の祝い日にブログ開設後 丸8年経ちましたこれもひとえに多くの皆様方の温かい応援が有っての賜物と厚く感謝の意を表しますこれからもよろしくご指導のほどお願い致しますトータルアクセス数 908000開設日数 2922日 開設日 2009年12月23日日記記入率 91.0 豊臣秀吉は此処醍醐の花見行列を華やかに過ごしてその年に明治天皇の御陵の近く伏見城で生涯を終えました 世界文化遺産の醍醐寺の内容は後日にして、本日は伽藍と桜の写真だけお届けしてみます。醍醐三宝院の玄関 勅使門 仁王門 太閤の五七の桐で飾られた垂れ幕左の建物 金堂(本堂)桜まつり 金堂の側 金堂薬師如来三尊・四天王を祀る五重の塔京都府で最も古い塔弁天堂池 観音堂(元講堂)西国三十三ヶ所観音霊場納経所太閤花見行列の参道4月10日(第2日曜日) 何れも霊宝館庭園
2017.12.23
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一昨年、天皇両陛下もご参拝がありました。過っては、豊臣秀吉が 伏見城を桃山に築城、醍醐の花見のあと ここで まだ夢を果たしきれずに亡くなりました。その城の遺跡は、御陵内に存在し、宮内庁の管轄下で一般には見られませんが、参道の側に 石垣の遺石群がみかけられました。 明治天皇御陵 参道伏見城石垣の遺石参道が続きます御陵に近づきました正面の左側 青空が桃山を美しく見せてくれました御陵正面の眺望と石段の高さに驚きます もう一度 石段上から 振り返ってみました 御陵近くに降りて来ました昭憲皇太后の御陵明治天皇より一歩下がられて 共に安らかに眠っておられますそして、日本の国の行く末を優しく見守って下さっているようです真下に 緩やかな道をおりてきましたがこの坂を若い人たちは 登り降りておられます次回は醍醐寺の桜に参ります
2017.12.22
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名神高速道路京都南インターを降りて直ぐの国道1号線沿いに城南宮が有ります比叡山を表鬼門(東北)とすれば、城南宮は裏鬼門(南東)に位置し平安遷都の行われた1200年前に、王城の守護の為にまつられ城南の宮となづけられました。平安時代後期には、交通の要所ともなり、 一寸法師が お椀の船から上陸したしたとする「鳥羽の津」は鴨川でちかくにあります【御伽草子】貴族の別荘地帯として繁栄白河法皇。鳥羽上皇、後白河上皇によって鳥羽離宮が栄え遷都のようだとも称されたほどです。城南宮 祭神 国常立尊 (くにのとこたちのみこと) 八千矛神 (やちほこのかみ) 大国主命のこと 息長帯日売命 (おきながたらしひめのみこと) 神功皇后のこと今回は紅白の枝垂れ梅が見ごろとしてNHKで放映されましたので取材に行って参りました。 本殿前の鳥居 本殿 右に神楽殿たまたま15分前に着き、恵まれました 巫女による御神楽の舞が観られました 鈴の音がとても澄み切って清らかで神聖な雰囲気で一人ひとりにお守りを授けられていました 紅白の枝垂れ梅 神域の池 五葉の松室町時代の庭緋鯉が和やかです 城南宮は、四季に訪れる対象が有ります 詩歌にも富み、曲水の宴が年に2回あり、人出が多くとても写真が撮れるもので無かったです。かねがねから訪問したかった、白河天皇そして鳥羽天皇の御陵をやっと取材することが出来ました800年前の平清盛の時代が蘇ります。 平家物語 権力者でありながらもののけには弱いままにならなかったこと加茂の川を逆流させられない事賽の目比叡の僧兵 白河天皇御陵 鳥羽天皇御陵後白河天皇の尊父城南宮の近く100mの場所に夫々今は静かに眠っておられます。明日は明治天皇の御陵に参ります
2017.12.21
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本日は話題を明るく一休さんの眠って居られる場所をご紹介しましょう大徳寺にも一休さんのお寺【真珠庵】があります金閣寺とそう遠くは有りません 足利三代将軍義満と頓智比べの漫画は皆さんに慕われています 何故対等に話せたか今回は天皇の皇子さんだったことが宮内庁管轄の御陵があることで納得していただけると思います 【酬恩庵】 (しゅうおんあん)通称【一休寺】臨済宗大徳寺派 京都市と奈良市との中間点に位置する、京田辺市に有ります。 足利義満と頓知比べしたことで有名な【一休禅師】の 創設であり、仏に仕えられた所でもあります。 高僧【大応国師】が中国で禅を学びその教えに従った 一休禅師が、師のご恩に酬いる意味で、名付けられました。 一休さんは、第100代後小松の皇子で、皇位継承は成さらなかった のですが、出家されました。境内に宮内庁の御陵として ご廟所があり、88歳に示寂されました。 末後には「まだ死にとうない死にとうない」と絶句されたそうです 漫画「一休さん」義満も「一休どの」と敬称の言葉使いです。 81歳のとき、大徳寺【真珠庵】の住職も兼ねられました。 本堂・方丈庭園も素晴らしく、参道も新緑に包まれて清楚でした。 禅寺は、何処も掃除が行き届いて、塵一つ無く清潔な雰囲気が 一面漂っていました。 一休さん像、三体、箒を持つ像、木魚を抱えての寝姿はねずみが 添え寝しています。「あわてないひとやすみ・ひとやすみ」 可愛いです。 「このはしわたるべからず」の小さい橋もありました。 。酬恩庵表門参道の新緑宮内庁御陵・後小松皇子・一休宗純墓地宮内庁表札本堂・参道方丈庭園 方丈庭園丈庭園 一休さん像このはしわたるな本堂本堂参道掃除姿の一休さん時にはお昼寝も綺麗に掃けましたね京都市近辺 長岡京市・八幡市・京田辺市・宇治市・も京都観光の対象として更新しました
2017.12.20
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京都に都が移される前に 10年ほど京都府長岡京市に都を定められましたが、怨念の重なる出来事が起こりました。 【長岡京遷都】 784年(延暦3年)【桓武天皇】が、腐敗した政治の立て直すために【奈良の平城京】より都を、京都より大阪よりの西南方向、乙訓郡(向日市・長岡京市)に【長岡京】として遷都されました。その大極殿跡地と当時の都の地図の看板が、阪急西向日駅前の近所に、こじんまりした住宅街の公園にありました。中央「朱雀大路」を横切って、小畑川が斜めに横切っていました。何だか不吉な予感がしました。只でさえ、地元住民は、「暴れ川」と懸念されるほどに、桓武天皇と弟君「相良親王」(さわらしんのう)との間に天皇の重臣の変死に疑問を抱き、「乙訓寺」に幽閉され、そこで亡くなりました。怨念を恐れ、京都には、霊を慰める為に、「上御霊神社」「下御霊神社」が祀られています。 そして川の氾濫による、疫病が蔓延し、「呪われた都」と化しました。 地元「大原野神社」には、女官の方々の奈良への想い出が忘れられず、「春日神社の分身」を祀り、奈良の「猿沢の池」に対し「鯉沢の池」が現在も長岡京の、面影を残しています。 平安遷都に祈祷を大切にした由来が、長岡京での出来事から始まります。 奈良の平城京から長岡京に遷都2年目にして、都造りの総責任者【藤原種継】(ふじわらたねつぐ)が何者かに暗殺されました。反勢力の「大伴一族」として、その中に桓武天皇の弟君【早良親王】(さわら)も、疑いを掛けられ【乙訓寺】に幽閉されました。早良親王は、そうではないと、断食されて身の潔白を計られました。挙句、小豆島に配流の途次、餓死して果てられました。その後、近親に病死とか不幸が次々起こり、その上「暴れ川」が氾濫し、疫病が蔓延しました。桓武天皇は、弟の呪いとして、僧に祈祷を続けるだけでなく、死者に【崇道天皇】(すどう)と、称号を与え京都の高野川上流、上高野の地に【崇道神社】の祭神として祀り、上御霊・下御霊神社にも,鎮霊のため祀りました。後に、弘法大師さまも幾度となく菩提を弔うべく、十三の塔を建てて、霊をなぐさめられたそうで、弘法大師さまゆかりの寺として、何時しか、美しい牡丹で、飾られ、早良親王への無念さを偲ぶようになりました。弘法大師さまゆかりの寺 十三の供養塔 本堂 美しい牡丹の名所早良親王の霊が安らかに憩われますように。長岡京市には、平安京の前に、呪われた都として10年で長岡京から平安遷都されました。日本三怨霊 平将門・菅原道真・そして早良親王の二人が集う昨日の菅原道真公とともに悲しい歴史が偲ばれます。明日は京田辺市一休寺に参ります。
2017.12.19
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平安遷都の前に 奈良から一時長岡京が有りました然し洪水や良からぬ事件が多発し 794年京都に都を移されました菅原道真公の無念の気持ちを偲びつつ訪問し てきました。菅原道真公を祀る北野天満宮は学問の神様として有名ですが京都市から大阪よりの、長岡京市にも長岡天満宮があります。樹齢150年のキリシマツツジが4月末に最も華麗です。都が奈良から此処長岡京に遷都した場所でもあります長岡天満宮とキリシマツツジキリシマツツジの参道【長岡天満宮】 長岡京市 祭神 菅原道真公菅原道真公は、生前 歌人 在原業平と共にこの地で詩歌・管絃に甚く興じられていました憩いの場所ともいえます。後に、左大臣藤原時平の妬言で、右大臣であった菅原道真公が九州の大宰府に左遷されることになり、その道中此処長岡の里に立ち寄られ「わが魂 長くこの地に とどまるべし」 と 名残りを悔やまれたそうです。後の世に、その想いを留めるべく、道真公ご自身作の像を祀られました。朝廷からの信仰も厚く、後に桂離宮創設者 【八条宮智仁親王】が更に境内を広げ、【八条の池】が皆さんの憩いの場所ともなっています。八条の池向かいに見える家屋は【錦水亭】(きんすいてい)筍の高級料理店です。長岡京市は筍の産地として有名です。八条の池樹齢百五十年のキリシマツツジ長岡天満宮本殿昭和14年に平安神宮の旧本殿を移築されたものです。長岡天満宮本殿前学問の神様として此処もお参りが堪えません。やはり牛が臥しています。菅原道真公と臥牛菅原道真公のお誕生日 承和12年6月25日 (845) 遷化日 延喜 3年2月25日 (903) 58歳逝去何れも、丑年に当たります。そして25日も一緒で 天神さん日として縁日にもなり、親しまれます。京の都から大宰府に左遷されるときに、時平の刺客が構える街道で牛が臥して動かず、安全な街道に導かれて事なきを得たそうです。菅原道真公が亡くなられた時、遺骸を牛車で運ぶ途中やはり牛が臥して動かず。道真公の遺言通りその地に墓所安楽寺に葬られたとのことで、大宰府天満宮が祀られました。牛の臥している姿は此処から採られたともいわれています。明日は同じく「長岡京市」にある牡丹の寺【乙訓寺】に参ります。
2017.12.18
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今朝は1度と冷え込みましたあと2週間でお正月が近付いて来ました年賀状出されましたか 此処も勅使の遣わされる神社です5月15日には葵祭が行われます葵祭りの上賀茂神社と下鴨神社が共に世界文化遺産に登録されています。国宝の建物があるからでしょう。歴史を感じる神社で、勅祭とされ、勅使の使わされる伝統行事でもあります。 賀茂と鴨と 字を変えています 【下鴨神社・賀茂御祖神社】 (かもみおやじんじゃ)世界文化遺産に登録本殿【東本殿】【国宝】祭神【玉依姫命】(たまよりひめのみこと)娘 【西本殿】【国宝】祭神【賀茂建角身命】(かもたてつぬのみのみこと)玉依姫の父 京都の街を高台から眺めますと、京都御苑と賀茂川と高野川とがY字型に挟まれたところにこんもりした森が目立ちます。 糺の森【糺の森】 (ただすのもり)と称して、参道がとても自然界の様に親しまれます。隣接地に「家庭裁判所」があります。神様の時代でも「糺された事」があったのでしょうか?今一つ川の「三角州」の事を「只洲」とも言うそうです。 さざれ石【さざれ石】 国歌「君が代」に歌われています。【連理の榊】2本の榊の木が上部で1本に繋がる不思議な木が【相生社】の横に見られます。 参道鳥居 楼門 神楽殿 御手洗社 【御手洗社】 (みたらししゃ)葵祭りの前に【斉王代】(さいおうだい)が【禊の儀】(みそぎのぎ)をされます。また土用の日には【足つけの儀】が行われ、無病息災を祈ります。常には水が流れていないのですが、土用が近付きますと、自然に水泡がこんこんと湧きでるところから、その形から【御手洗団子】(みたらしだんご)の発祥の地としたそうです。 立秋の前夜【矢取り神事】が行われます。お判りの様に、上賀茂と下鴨は(かも)の字を変えています。上賀茂の祭神は、「天神の子」として、雷即ち農耕の神様の様で、「賀茂別雷命」そして下鴨神社の祭神は、母上「玉依姫命」と「祖父の賀茂建角身命」と言われています。賀茂建角身命は、【松尾大社】の祭神でもあります。 5月15日の葵祭りには、京都御苑から下鴨神社経由、上賀茂神社へと行列が、その年の未婚の 斎王代の輿【斎王代】が選ばれ、のどかに牛車の輿に乗られて進まれます。 頭に葵の葉を装う【葵の葉】が象徴しています、雨乞いの祭りでもあり、何れ梅雨季を迎えることに成ります。【玉依姫丹塗りの矢】の伝承玉依姫が「瀬見の小川」で川遊びされていたときに、「丹塗りの矢」(にぬりのや)が川上から流れてきました。貴重な品として、持ち帰られ、床に就かれるとき、床の側に置かれたそうです。その後、孕(はら)まれて立派な「男の子」を産まれました。「別雷の神」です。男、不用で神の子誕生とされているようです。キリストのマリアさまからこの世に神の子として遣わされたように。【賀茂建角身命】 玉依姫の父にあたります。農耕を広め民生の安定に努められました。「五穀豊穣」「古事記」「日本書紀」には、「金鵄八咫烏」(きんしやたのからす)として神武天皇に使え、御功績が多く「導きの神」とも崇められ、厄除け・学問・旅行・方除け祈願に訪れる参詣者も多いです。私たちタクシーの乗務員の為にも、交通安全を祈願したいです。【加茂族】山背(山城)の古代氏族で、朝鮮からの渡来人とされています。賀茂と地名にも成りました。太秦の「秦族」も渡来人の一族です。京都の丹後は、日本海に面し朝鮮に近く、琵琶湖又は、山越えで、京都に移り住んだとも考えられます。とても博学多識、努力家で「治山・治水・農耕・絹織物」等、現在の京都の有り方に貢献されたものと、改めて敬意を表したいです。明日は、長岡天神に参ります
2017.12.17
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年賀状の受付始めが15日から 京都郵便局では舞妓さんの受付風景が明るく報じていました八幡八幡宮と同じ勅使の遣わされる神社です 下鴨神社が【賀茂御祖】(みおや)即ちお母さんで上賀茂神社はそのやんちゃ息子【賀茂別雷神】(わけいかづちのかみ)の関係にあります。 【賀茂川】 京都バス終点「岩屋橋」から更に山道を遠く辿りますと、【金光峰寺・志明院】(雲が畑)修験道の修練場で「岩不動尊」が祀られて居ます。岩から染み出る、一滴の水が源流となり、「賀茂川」が人々の心の憩いを与える景観を観られます。時季により、「ユリカモメ」が渡り鳥として、遠くシベリアから飛来し、賀茂川で群れ遊んでいます。とても人懐きで、平和を感じます。夜になると、比叡の山を群れで超え琵琶湖にて、憩うそうです。京都の街で、最も景勝を楽しめる通りでもあり、「大文字」も見られ、タクシーで走るときも、出来るだけ、賀茂街道を通るように心掛けました。春には、「桜並木」で誰しも感動されます。 その賀茂川の上流に、「上賀茂神社」がそして下流に「下鴨神社」が鎮座まします。「加茂族」と言う先祖が築いた北方の、静かな住宅街でも有ります。 大原を源流とする、高野川と合流する地点を「出町」と称し「今出川橋」から下流を「鴨川」と字が変わります。何れ淀川にそして大阪湾に至ります。 上賀茂神社 国宝本殿 【上賀茂神社・賀茂別雷神社】 (かもわけいかづち)世界文化遺産に登録祭神(賀茂別雷神)下鴨神社に祀る「玉依姫」の御子【本殿・権殿】【国宝】本殿の前には、「山城一の宮神社」と表示してありました。 母君 玉依り姫を祀る 片岡社本殿の楼門を出た直ぐの側に【片岡社】がありました。玉依姫を祭神として祀られています。 神楽殿【神楽殿】の前には【立砂】が白川砂で三角錐が飾られていました。何でも真上に松葉が差され神様が光臨されるそうで、清めの砂ともいわれています。 神楽殿の前に 立砂神社の後ろの小山は、【神山】として神聖な山で、人の立ち入らない山とされています。【御神徳】欽明(きんめい)天皇の時、雨は降らず作物実らず大飢饉でありました。天皇が勅して占われたそうで、人心が大変乱れているその祟りと言うことで、本殿でお詫びの祭祀行なわれたところ、「護国豊穣・天下泰平」となったと日本書紀に記されているそうです。「雷の神」の由縁でしょう。【葵祭り】この「欽明天皇」の起源により、毎年5月15日【京都三大祭り】として、全国から大勢の方が、観に来られます。 くらべうまの行事が行われる境内【行事】【競馬】(くらべうま)【烏相撲】【八咫烏】(やたのからす)神武天皇が東征の時「加茂建角身命」(かもたけつぬみのみこと)が先導した際に、天皇の弓の先に止まったとされています。当時の「加茂族」を「烏族」ともいわれています。 【百人一首】 風そよぐ楢(なら)の小川の夕暮れは 禊ぎ(みそぎ)ぞ 夏のしるしなりけり 藤原家隆 楢(なら)の小川 【社家】(しゃけ)神社の表通りに、小川が流れその小川に一軒【社家】(しゃけ)神社の表通りに、小川が流れその小川に一軒 ごとに橋が架かって母屋に入ります、神主さん・神道の方の屋敷が並んでいます。京都の風物詩とも観られます。明日は、下鴨神社にまいります。 賀茂と鴨の字がかえられています
2017.12.16
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毎日は25日、京都では天神さんの日として、縁日が立ちます。学問の神様として、受験者の方々は熱心に祈願に訪れられます。京都の昔からの慣わしに、「弘法さん」と「天神さん」とはとても仲が悪くって、東寺の弘法さんの21日が雨だと、25日天神さんは晴れると云っています。 【北天満宮野】祭神 菅原道真 中将殿(道真の長男) 吉祥女(道真の夫人) 学問の神様として【菅原道真公】が祀られて居ます。修学旅行では、日程に欠かさない貴重な参拝する場所でもあります。車中生徒さんに「祭神は?」と聞きますと返答に困る子が居ました。折角進学祈願するのに、お願いする相手の名ぐらいはと。 【菅原道真公が雷神にも】菅原道真公は平安時代の公家であり「右大臣」まで成られました。11歳で詩を詠まれるほどの文才がありました。醍醐天皇の時代、左大臣「藤原時平」の讒言により、右大臣「菅原道真」は、朝敵として、京の都から、福岡の大宰府に左遷されました。「道真公」の無念は、推し量ることが出来ないほどでしょう。北野天満宮には、臥牛の像が多く置かれています。その訳は、丑年の説と、今ひとつ流される途次、備前岡山の辺りで、道の真ん中で、牛が臥せて動きませんでした、従って道を変更されました。後で判ったことは、時平配下の刺客が待ち臥せて居たのを、その難を逃れられたと言う伝説も有るようです。都を離れられるときに、菅神社(私邸)の梅の花に向かわれて、東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ都の真の春を忘れないで、良き香りを東風に乗せて送ってくれ。とも受け留められる、菅公の歌でした。その後、雷神として、京の都は、雷と稲妻が激しく襲いました。時平は、恐れおののいて道真の怨霊が襲ったとして、狂い死にしたそうです。左大臣は、右大臣の上位に位置することで、権限を悪用した時平の疾しい心が、道真の怨霊と思いつめての結果で、地震・雷・火事・・・大自然の怖さが重なったと思われます。北野天満宮では、学問の神様と同時に、雷の神様ともされています。一の鳥居の側に、【影向松】(ようこうのまつ)が有ります。道真公が、初雪の日に、この松にご来臨あり、歌を詠まれるとして、社紋の梅と同じく社紋の「三蓋松」(さんがいまつ)の由来とされています。良心の呵責により、怨霊と思うのでしょう。歴史には多く現れてくるようです。現代も、学問の神様として、崇敬され親しまれています。「春な忘れそ」 初雪に天神さんがこの松に降りて来られる提灯に三葢の松(さんがいのまつ) 北野天満宮の家紋の一つ【本殿】【国宝】8棟の形式は「日光東照宮」にも継承され【権現造】の本源とされています。 【北野天満宮の祭礼25日の由来】845年承和12年6月25日誕生・延喜1年1月25日大宰府に左遷・延喜3年2月25日逝去【菅原道真】と【臥牛】(がぎゅう)本殿の拝殿の大鈴の上の欄間だけ立っています。 1.道真の誕生の年が,丑年。2.道真左遷の途中牛が道の真ん中で坐って動かず、避けた道を経ることで、時平の刺客から免れましたとか。3.道真が亡くなって、棺を引いた牛が墓に行く途中、へたりこんで動かなくなりましたので、 近くの「安楽寺」に葬られました。即ち現代の【大宰府天満宮】でした。【三光門】(中門)太陽・月・三日月の装飾が観られます。星は「大極殿」から拝殿に向かうと 「北斗七星」が見える仕組みと成っていますそうです。梅も家紋三光門【伴氏社】(ともうじしゃ)祭神が道真のお母君「伴氏」祀られて居ます、京の三珍鳥居の一つ 鳥居の足許が、蓮の花に成っています。外に、「蚕の社」・「京都御所」道真は親孝行でしたから、母上の「伴社」(大伴家持の子孫)に先お参りすれば、合格出来るかもといいますと、小さい社に真剣手を合わせていました。 【御土居跡】本殿の西側に豊臣秀吉が洛中を囲んだ御土居跡の公園が見られます。【梅園】道真が都を去るときに詠まれました。「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」豊臣秀吉が、北野天満宮で「大茶会」を催しました。その道中、現場の近くに至った時、喉がかわき、とある小さき寺に「おい、茶をくれ」と言ったのでしょう、尼僧は体よく断ったそうです。そこで、秀吉は怒ることもなく、「湯たくさん 茶くれん寺」と名付け現代に至って居ます。北野天満宮の境内の表側に、「北野天満宮・大茶会の跡」の石碑と「太閤井戸」が示して有りました。次回は上賀茂神社に参ります
2017.12.15
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今年の漢字は【北】清水寺の森清範貫主が書きあげられました平和を脅かす北朝鮮 北九州の水害北海道の関係する大谷選手の大リーガー契約及び清の宮選手の日本ハム入団当が理由のようです 大河ドラマ最終回に因み 戦の無い国実現に寄与したおんな城主直虎 山崎の合戦を見下ろす八幡八幡宮です 豊臣秀吉と明智光秀の山崎の合戦地を見下ろした所にあります 社殿は今年国宝に指定されたとこです 【石清水八幡宮】 (いわしみずはちまんぐう)御祭神 東御前 神功皇后(じんぐうこうごう) 中御前 第十五代 応神天皇 西御前 比女大神(ひめおおかみ)【日本三八幡宮】宇佐八幡宮(大分)・鶴岡八幡宮(鎌倉)・石清水八幡宮【三大勅社祭】葵祭(京都上勅社)・石清水祭(下勅社)・奈良春日祭皇室の崇敬も深く勅使が、毎年拝礼に来られます。京の都の表鬼門として比叡山延暦寺に対し、裏鬼門として石清水八幡宮があり、厄除け国家鎮護のため鎮座まします。源氏にゆかりあり、源義家が「われは八幡太郎義家なり」は有名です。本殿の再興は、三代将軍徳川家光が此処も手掛けています。天慶2年(939)平将門と藤原純友が乱を起こしたときも、八幡の神が神威をもって鎮められたとされ、【武神・弓矢の神】として、必勝祈願もされています。 男山からは清水が湧き出て、石清水の名となったそうですが、宇治川・桂川(途中鳥羽で鴨川と合流)・そして木津川の大きい川の合流地点で八幡(やわた)からは淀川となって大阪湾に至ります。 【天下分け目の山崎の合戦】も此処【男山】と【天王山】の狭間で大軍が、ひしめき合った合戦場でもありました。 京都から大阪または、奈良への中間点でもあり、交通の要所でもあります。八幡市の隣接は大阪府枚方市です。 男山は、京阪「八幡駅」下車で、ケーブルがあり、頂上に本殿がありますが、展望台からの景色は、高速道路が渦巻き活気のある通過地点と考えられました。 【エジソン記念碑】まさか神域にと思われますが、エジソンが電球のフィラメントに男山周辺の竹を使い、長時間の点灯を可能にした偉業を永く顕彰するために、昭和9年に記念碑がたてられました。【徒然草の逸話】【高良神社】(こうらしゃ)八幡宮の摂社男山の麓(二の鳥居付近)にあり、仁和寺の老僧がこの社を八幡宮と誤り山上に登る人達を憐れんだと言う。それ程摂社でも立派な建物であったようで、諭として人に確かめもせず、案内も請わずして、自己判断にて目的の達せられなかった愚かな行為を戒めているようです。確かな情報は会得して置く事の大切さを教えているようです。 八幡神社の全国の数 4万社といわれています。八幡宮と天満宮は、祈願の目的が違うのですね。 男山ケーブル 本殿建物は今年初めに国宝指定となりました6月水無月の大払い【茅の輪】くぐると厄が逃れる。本殿本殿 お手洗い所エジソン碑電球のヒラメントのモニメント天下分け目の山崎の合戦手前が男山真ん中が天王山そのはざまを淀川が流れる狭い地点豊臣軍と明智軍が合戦した場所です。一番右手の山が比叡山表鬼門桂川・宇治川・木津川の合流点 高速道路がひしめき合っています。交通の要所。山並みの右方が長岡京市になりますケーブルで降りる途中の景色明日は北野天満宮に参ります
2017.12.14
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アクセス 900,000達成 皆様の応援に感謝致します カトリック河原町教会 クリスマスイブには18時30分より20時まで市民の集いと題してイエスキリストご生誕の聖劇(タブロー)の映写ハンドベルのクリスマスソングの演奏があり21時から主のご降誕のミサが捧げられますカトリック河原町教会司教座教会此処が私の洗礼を受けた教会です。旧の建物は明治村に保存聖堂の様子です、ひとり祈っておられますステンドグラス右は、聖フランシスコザビエル左は十字架の道行正面でミサ聖祭が行われます。 聖母マリア像手前は禁令下掘り出された【都の聖母像】明治8年織田信長が発令した禁教令が解かれました。聖ヨゼフ像 教会の向かいに奇しくも本能寺が有ります一昨日大河ドラマで本能寺の変が放映されましたのでご紹介します 何か織田信長抹殺は明智光秀単独の考えでは無かったようですね 【本能寺の変】 織田信長も 志半ばで 濃姫と共に壮烈な最後でした歴史は此の時大きく変わりました場所は京都市役所の南隣に墓と共にあります 本来は 二条城の近くでしたが 豊臣秀吉の洛中護衛のため 寺のかずかずを寺町通りに南北に集め見張りをしやすくしましたそのため現在地に主君に関係するも墓地並びに建物を移動させました 計り知れません た織田信長の墓 本能寺 ホテルオオクラ本能寺の筋向いにあります 京都市役所も付近にあります次回は山崎の合戦の望める石清水八幡に参ります
2017.12.13
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伏見の代表は【伏見稲荷大社】に尽きます。 アメリカでは何故か京都が世界一観光地とその中でも此処の稲荷大社が何故か特に選ばれています参道入口参道背景が稲荷山楼門 就学旅行生記念写真お使いの狐楼門の裏手本殿前の建物本殿奥の院への千本鳥居鳥居のトンネル鳥居を奉納する数の多さに圧倒されます奥の院のおもかる石外人さんにも人気 両手で持ち上げておられるおもかる石灯篭の前で願い事を祈念して石灯篭の空輪(頭)を持ち上げそのときに感じる重さが自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶い重ければ叶わないとする試し石で一般には「おもかる石」で親しまれています。次回は大河ドラマ本能寺の変に因みアップしてみます
2017.12.12
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我が家六地蔵駅から二駅目に宇治の黄檗山万福寺が有ります。中国風の境内に浸ります。 禅宗には、臨済宗・曹洞宗そして本日の黄檗宗があります。曹洞宗では、観光寺院としてはなく黄檗宗では、庭園がありません。座禅・修行本意に造られています。 【黄檗山万福寺】 (おうばくさん・まんぷくじ) 黄檗宗総本山宇治は日本でも有名な茶処、JR黄檗京阪黄檗駅の近くにあります。【駒蹄影園碑】 が、総門の前に建っています。 駒蹄影園碑 鎌倉時代の初めごろ宇治の里人たちが、茶の種の蒔き方がわからず困っているところへ、通りかかった栂尾(とがのお)高山寺の明恵(みょうえ)上人 が、馬を畑に乗り入れ、その蹄(ひずめ)の跡に種を蒔くように教えたと伝えられています。この碑は明恵上人の感謝とその功績を顕彰するために建てられました。世界文化遺産の 【高山寺】の開祖です。 「栂山(とがやま)の 尾上(おのえ)の 茶の 木分け植えて 跡(あと)ぞ生(お)ふべし 駒の足影 明恵総門前の碑の側に龍の目の井戸がありました。 総門は、龍の頭 総門 龍の蛇腹を象った菱形の敷石 (禅寺では多く見掛けます) 龍の蛇腹を模した参道 菱形石 山門山門の前の碑 にんにく・酒を口にした人、入るべからず。中国風の門 「山門を 出れば日本ぞ 茶摘み唄 菊舎尼 万福寺の三門が初めて特別公開しているということで取材に行ってきました東福寺は臨済宗そして万福寺は黄檗宗と何れも禅宗の寺院です三門 階上に人影先ず総門から 龍の頭屋根の両側に摩伽羅(まから)インドの神話によります聖域を護るほかでも 仁王門 インドの護法神 仁王が護る敷石は龍の蛇腹三門に通じる敷石歌碑山門を 出ずれば日本ぞ 茶摘み唄 菊舎尼茶所 銀杏庵門中国風の城壁 銀杏庵山門前の石塔 「 不許葷酒入山門」くんしゅ 山門に入ることを許さず葷酒とはニンニク等匂いのきついまたは酒を飲んだ者修行の妨げとなるため特別拝観で三門の急な階段を一人づつ登りました 足が笑ってしまいました然し二階では釈迦十大弟子の等身大の写真パネルが有るだけで写真は駄目でした 上から境内だけは初めての鳥瞰図でした正面のお堂に布袋尊が祀られています開祖 隠元和尚の御廟所 左三門の外側 総門が見えます三門とは 説明では 三解脱門(さんげだつもん)と称し 解脱とは悟りを求めることで 仏教を学びたい者がこの門をくぐれるとされ難しくは 三昧(さんまい) 瞑想 涅槃(ねはん) の心境を目指すと 三の意味は解しましたがそれ以上はとてもとても 要するに門は参拝する人のための入口ということで石塔には山門?とは 寺院では山号を付けるので黄檗山 万福寺 万福寺は、開山 隠元(いんげん)禅師で10代まで中国の僧で占めています従って、境内は中国風の雰囲気に充ちているため詠われたもの。 【布袋尊】 (ほていそん) 都七福神 巡礼所のひとつ。正月には、七福神巡りで賑わいます。 布袋尊 みやこ七福神のひとつ写真撮影許可をもらいました。僧の姿だけは撮らない様にと 開版(かいばん)魚版で、木魚の原形となっているものです。 広々とした境内 開版 お魚の形 時を知らせるもので、禅寺の座禅で、魚は寝ていても目は開くことを諭しているとも言われています。 本堂には、三尊釈迦が祀られています。一般には脇侍(きょうじ)は、釈迦如来の場合。【文殊】【普賢】菩薩ですが、此処では 十大弟子の筆頭 【迦葉】 (かしょう)【阿南】 尊者が祀られていました。 羅怙羅 (らごら)父の釈迦の顔を胸に抱いている姿の像羅怙羅(らごら)尊者 お釈迦さんの実子で、出家して修行の末悟りを開かれ、心に仏性を抱くとして、胸を開けた場所に仏の顔が仏像として祀られていました。法堂(はっとう)砂紋が素晴らしいです。 法堂 舎利殿隠元和尚の開山堂隠元は中国人で万福寺を創設されました。豆知識インゲン豆は、メキシコ・中央アメリカの原産ですが、1654年に中国の僧隠元和尚さんが、中国(明)から日本に持ち込まれたことからの説もあるようです。次回は 伏見稲荷大社へまいります
2017.12.11
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私の住まいのお隣が宇治市で其処にある広々とした山肌にある寺院です。【三室戸寺】西国三十三箇所観音霊場代十番の札所です。宇治の平等院から、京阪電車一駅目に三室戸があります。 三室戸寺脊柱坂を上るまえの表門蓮池を伴う本堂前広場兎歳に作られた兎、地名を莵道(とどう)と名付け宇治上神社でご紹介しますが宇治の地名に繋がります。龍の蟇股本堂鐘楼と三重塔源氏物語【浮舟】歌碑三重塔本堂前のつつじ庭園庭園 【5月つつじの頃】昨年写しました。つつじの苑 新緑の三室戸寺 ツツジ 20,000本となっています。シャクナゲ・紫陽花そして蓮のときもすばらしいです。 新緑とつつじ つつじ苑 一人で鑑賞もよいですが、家族で「あつ、綺麗」とことばをかけあつて観るのも、また幸せを一層深めるものです。アジサイもツツジに代わって、 10,000株が見られます。明日は、黄檗宗万福寺に参ります。
2017.12.10
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年賀状の元日配達の受付が15日用意が出来ました年月の経つのが早いものです視界が良く見える様に今年も生前のお恵みに感謝しています我が町JR六地蔵より 木幡 黄檗 宇治の順に近くに世界文化遺産が観られます現代大阪府堺市にある、古墳【仁徳天皇陵が話題になっていますが、宇治の地に祭神としても祀られています。兎角跡目相続で問題になりますが美談がのこされています。今回の富岡八幡の跡目相続の欲への醜態と比べ物になりません あまり、世間で著名でなかったと思われる、古い歴史を残す宇治に【宇治上神社】の方が世界文化遺産に登録されました。直ぐ隣接して、「宇治神社」も有りますが、戸迷う感じでした。 宇治上神社の鳥居【宇治上神社】 (うじかみじんじゃ)日本最古の神社形式(平安・鎌倉時代)世界文化遺産に登録 京都に世界文化遺産に登録17箇所のひとつです。【祭神】菟道稚郎子命 (うじのわきのいらつこのみこと) 【宇治の地名】父・応神天皇に寵愛され皇太子に立てられたものの、異母兄・大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られています。応神天皇第15代。菟道稚郎子命の父。仁徳天皇第16代。菟道稚郎子命の異母兄。宇治平等院から宇治川を渡った位置にあります。 宇治橋京阪宇治駅を宇治川に沿って、上に直ぐの所に、「宇治神社」が有ります。 宇治神社 近代的でまさかと思いきや、【さわらびの道】を 早蕨の道の入口付近 さわらびの道 更に通り過ぎて、少し坂を登った所に【宇治上神社】が有りました。世界文化遺産と言うことで、訪問しても、実にこじんまりとして、古さだけが目に映ります。 参道の紫陽花の花 でも歴史的には貴重な建物【本殿】【拝殿】共に【国宝】に指定されています。 拝殿 清めの砂 上賀茂神社にもありました。 本殿 本殿の狛犬 阿吽の狛犬 宇治上神社の蟇股 ここでの見所は、 【日本三蟇股】 (かえるまた)【宇治上神社本殿】【上醍醐・薬師寺】【奥羽中尊寺金色堂】【龍安寺】で由来を記していますが、 日光東照宮の左甚五郎作の有名な【眠り猫】も、蟇股の中で眠っています。裏には鼠が居るとか、要は、木製の建物は、火災から魔除けのために、水に関係する、蟇を飾ったと全国的に採用されています。清水が今でも湧きます 宇治の名水 桐原水 もう一つは、【桐原水】(きりはらすい)と言って、「宇治の七名水」の一つとして、未だに、清水が、湧き出ています。【源氏物語】にも関係するようです。自宅の付近で、歴史的に遠く昔を偲ぶことが出来る社寺があり恵みに感謝しています。次回は宇治にある三室戸寺に参ります
2017.12.09
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私の住む伏見区のほんの近所に、世界文化遺産の社寺が三ケ所もありとても恵まれています。醍醐寺・宇治平等院そして宇治上神社です。 藤原頼道は天下泰平となり更に生存中にして極楽浄土の世界を再現しようとしました阿弥陀さん の指と手の形の組み合わせ しるしてみました。浄土にも段階があるようです。此処は最高位の上品上生の阿弥陀さんです。 【平等院】 宗派は単立(天台宗と浄土宗) 開基 明尊 琵琶湖「瀬田」から流れてきました「宇治川左岸」に「宇治上神社」と対峙して存在しています。 国宝・鳳凰堂 池に写される 初代仏師【定朝】 じょうちょう)作の【国宝】【阿弥陀如来像】が実に落ち着いて素晴しい一語につきます。付随した【天蓋】【雲中供養菩薩】そして【壁画】も【国宝】で 「藤原頼道」が1000年前に末法思想が取り沙汰された時代で、生前中でも「極楽浄土」を再現しょうと考え、(金閣庭園を足利義満も同じ)貴族と僧侶によって、建てられました。 阿弥陀さんの座します【鳳凰堂】(ほうおうどう)もそして屋根の両端に飾られる【鳳凰】一対も【国宝】です。お堂の前に池があり鳳凰堂を池越しに眺めますと、池にも反射してとても美しい情景が観られます。「十円硬貨のデザイン」ともなっています。 万人を救った翼 平等院鳳凰堂1万円札の図柄に登場万人が幸せに成りますようにと飾られました 丸い窓を設けて、庶民にも阿弥陀さんのお顔だけ拝せる仕組み 頼道の思い遣りが、「阿弥陀さん」の顔の前面に、「丸窓」が見えます。「極楽浄土」を庶民にも一部垣間見ることが出来る様に、存在しています。 国宝・鳳凰堂 【日本三名鐘】「形の平等院」【国宝】 「音色の滋賀・三井寺」 「銘の高雄・神護寺」 日本三名鐘の形の美本物は宝物館で観られます。【鳳翔館】(宝物館)では、名鍾・雲中供養菩薩像・壁画・鳳凰【国宝】その他が展示されています。 【藤棚】藤の花が咲く頃は、とても美しいです。 仏像で一番多くお会いする阿弥陀さんよく見ると手の形で変化が有ります【阿弥陀さんの九印相】阿弥陀如来は、西国極楽浄土を支配されてると言う事で鳳凰堂の壁画も、 【御来迎の図】 が画かれ、九壁画に分かれているそうです。 極楽浄土も九段階平等院の阿弥陀如来像は、 【上品上生印相】 (じょうぼんじょうしょうのいんそう)で最高位。阿弥陀さんの手の指が、「親指」と「人指し指」 【上品】「親指」と「中指」 【中品】「薬指」と「親指」 【下品】円く交わる事で、夫々、「上品」「中品」「下品」と称し、阿弥陀さんの両手の位置か゛「膝の前で結ぶ」 【上生】「両手を開いてお説教するように、上に揚げる」 【中生】「右手を揚げて、左手は手の平を開けて膝の上に」 【下生】 (施無畏・与顔) (施無畏・与顔の形) (せむい・よがん)Google画像で出て来ます奈良の大仏さんの形右手は不安畏れを無くす施し。 主の平安(キリスト教)左手願いを適う与えましょう。 求めよ開かれん(キリスト教)「上生」「中生」「下生」(げしょう)と称します。この組み合わせで、九印相の阿弥陀像が表されます。極楽浄土への位置付けでしょうか。「上品上生」「上品中生」「上品下生」「中品上生」「中品中生」「中品下生」「下品上生」「下品中生」「下品下生」太秦の広隆寺には、「中品中生」の阿弥陀像が見掛けられますが、殆どは、「上品」クラスのようです。 御家庭での仏壇では、「上品下生」(じょうぼんげしょう)の即ち、施無畏・与願の型で指は親指と人差し指を交えた形の阿弥陀さんが多いです。一度試してみてください。 宇治上神社から宇治川を渡って平等院への橋 魚の供養のための十三重の塔 源氏物語・紫式部の像宇治橋の側に建っています。 宇治橋次回は同じく世界文化遺産宇治上神社を訪問します
2017.12.08
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醍醐から北方の山裾に 山科毘沙門天が祀られています天台宗京都五門跡のひとつで大原三千院・青蓮院・妙法院(三十三間堂)・曼殊院・毘沙門堂で比叡山延暦寺の天台座主は選ばれる前に門跡として原則的に此処のどれかの経緯を得て成られます伯父も250代天台座主に此処毘沙門堂に住まいして選ばれました学生時代此処で住んで居ました 懐かしいです 【毘沙門堂】 天台宗五門跡寺のひとつ 山科 本堂と弁天堂参道前の急な石段参道玄関玄関前のもみじ本殿弁財天堂庭園に注ぐ石橋 参道の急な石段 上からの眺め毘沙門天は北方の護法神で山科盆地の北方に位置します京都は 鞍馬山に 毘沙門天が祀られています宇治平等院に参ります 術後昨日初の通院 経過は順調との医師のお言葉に安堵しています 白内障も同時手術した結果か 景色等色彩が鮮明に眺められこんな美しい世界かと生まれ変わったように歓びを感じています お恵みに感謝しています
2017.12.07
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風邪で苦しんでおられる方が多いですお見舞い申し上げます お大事に為さって下さい 京都盆地の東隣山科盆地の中央辺りに存在します。その南に【醍醐】があります。醍醐寺の側に小野小町縁の隋心寺も観られます 【勧修寺】 (かじゅうじ) 真言宗山階派大本山借景の睡蓮の池の背景の山が、【亀甲山】(きっこうやま)です。亀の甲羅を意味し吉兆を伴うことを願っての自然の配置です。伏見・深草より「深草少将」が醍醐・小野に【小野小町】を慕って「百代通い」をした山すその道が、労しいです。小野小町は「榧の実」(かやのみ)を99まで集めて、満願の日に深草の少将が雪道で病に倒れ恋は実らなかったとも云われています。 樹齢750年のはいびゃくしん 水戸光圀公寄贈の勧修寺形燈籠 観音堂 睡蓮と緋鯉勧修寺のカキツバタと睡蓮の池あまり知られていない、こじんまりしたお寺にも、自然との調和のとれた名勝がありました。醍醐天皇のおばあさんの霊を弔うために建てられました。【勧修】の名は、おじいさまの諡号から付けられたそうです。静かに眠られるには、素晴しい環境と偲ばれました。次回は山科毘沙門に参ります
2017.12.06
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伏見区【日野】は、醍醐寺のそばにあり、足利将軍の代々奥方の出身地でもあり、あの京都の悲劇応仁の乱の主役「日野富子」も此処の出でした。従って醍醐寺の金堂・五重の塔そして此処日野法界寺も応仁の乱の火災から免れました一方、浄土真宗(本願寺)の開祖 【親鸞上人】のお誕生の地として【日野誕生院】がのこされています。側には、宇治の平等院並みの国宝阿弥陀如来(定朝模様)の祀られた坐像が、【日野法界寺】として幼き頃より、親鸞さんも手を合わせていたのでしょう。 【親鸞上人お誕生日・承安3年(1173)5月21日】 【日野誕生院】楠が樹齢800年。得度を受けられた京都の【青蓮院】の4本の楠と同時期。 浄土真宗の開祖【親鸞上人】は今から約800年前、ここ「日野の里」でお生まれに成りました。醍醐寺の南方少し、離れた場所で京都市伏見区に属します。父は日野氏の一族で【日野有範卿】(ひのありのりきょう)母は、清和源氏の出身で【吉光女】(きっこうにょ)日本全国に浄土真宗の信者さんが多いですが、此処がその発祥の地とは言え、至って静かな、簡疎の地でも有ります。 【えな塚】 【産湯の井戸】【えな塚】とバックに【日野法界寺】の屋根が見えます。【乳薬師】とも云われ、安産・子育ての「薬師如来」が祀られて居ます。えな塚は、幼稚園の園内に属し、お断りをして、撮らして戴きました。さでした。 【日野法界寺】日野法界寺・国宝阿弥陀堂宇治の【平等院】の「阿弥陀如来坐像」は、仏師 【定朝作】(じょうちょう)で、此処も【定朝様作】として、本尊【阿弥陀如来坐像】も国宝に指定されています。建物は、鎌倉時代に再建されたもので、「応仁の乱」からは、焼失を免れています。写真の右手に屋根だけ見えますのが。【乳薬師堂】で、「えな塚」「産湯の井戸」と隣接した位置にあります。親鸞上人は、幼少のころより、この眼差し優しい「阿弥陀さん」に手を合わせ御育ちになったといいつたえられています。 親鸞上人9歳のお姿の銅像です「日野誕生院の境内」に建てられています。 出家決意のおん歳9歳での歌碑です。お父上は、4歳時そしておん母上は、8歳のときに浄土に召されました。世の中で最も大切なご両親を幼児期に亡くされ、阿弥陀さんにすがりつつも、仏道に決意なさったのでしょう。明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に 嵐の 吹かぬものかわ 京都の【青蓮院門跡寺】【天台宗】で 【得度式】(とくどしき)を挙げられました。そして 比叡山で修行を受けられました。今や、「西本願寺」「東本願寺」を初め全国に、【浄土真宗】の信者さんが多く居られます。難しい、お経を唱えて救われるものでない。ただ「南無阿弥陀仏」と【念仏】を唱えることで浄土に召されると。大衆庶民を対象に布教されました。勧修寺に参ります
2017.12.05
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醍醐寺の側に位置します小野小町の住まいしていたという醍醐は小野の隋心院にはねず色の梅を求めで訪問してきました。名勝 小野梅園はねずいろの梅隋心院 真言宗善通寺派 はねず踊りが30日開催されます 厳寒 小野小町百人一首歌碑花の色は うつりにけりな いたづらにわが身世にふる ながめせしまに 小野小町花の色はすっかりあせてしまったことよ 春の長雨が降っている間に私の美しかった姿がたちまちおとろえてしまった空しく思いに耽っている間に 玄関口 朱華踊りの人形 本堂本尊如意輪観世音菩薩そま隣に 小町卒塔婆座像 左足を立てた半跏のかたち写真はダメでした。当時の榧の木(かや) 碁盤・将棋盤などつくられる 榧の木と十三塔 榧の実 深草少将【百夜通】 (ももよがよい)小野小町を慕って、雨の夜も雪の夜も通い続けて、邸宅にある榧の実をひとつづつ玄関に置いて通い続け九十九日目の夜に降る雪の基発病により想いは果たせず世を去ったという伝説があります。千百年前の出来事でした。夢にしか会えなかった思いを小町は歌人としてのちに六歌仙にまでえらばれました。 薬医門 はねす゜(うすべに)色の梅園本堂前で門跡さんの開会の挨拶ミス小町 二人の紹介地元、小学生のはねず踊り小野小町役・深草少将役・傘持ち役でわらべうたによりおどられるようです、地元の小学校4年生5年生6年生が出演とても大勢の人出撮れたものではありませんはねず色だけ見て下さい 小野梅園 はねず色の梅 牛尾山背景に 老木小野化粧の井戸小野小町は、小野名水により、美貌を逞しくしたということです。小野篁の孫で、小野東風とは従兄どうしで、共に詩歌に富み化人として名を遺しました。1100年前の出来事で、小町は舞姫として宮中の後の宮に仕え容姿秀絶一度笑みれば、相手を百媚生ずるそして和歌にも秀でました。然し人生の儚さを詠ったのは憧れの美女の本当の人間らしさかもしれません。明日は日野法界寺に参ります
2017.12.04
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私の住まいの側にあり四季折々に恵まれて居ます 【醍醐寺】 世界文化遺産 金堂薬師如来三尊・四天王を祀る五重の塔京都府で最も古い塔弁天堂池 観音堂(元講堂)現在西国三十三ヶ所観音霊場納経所 彼方に見える山が、「上醍醐」です。山道3キロ、西国観音霊場の最難コースとされていました。新緑が美しいです。 国宝【唐門】勅使門真中が豊臣秀吉花紋「五七の桐勅使が入られるときは真中は開かれ菊の御紋でお迎え帰られたら桐の紋が真中に治まります。秀吉の考えそう?太閤秀吉が醍醐の花見行列をした場所この年の夏に伏見城で逝去します 【醍醐三宝院】勅使門 表門の側にあります。門を四面に分けますと、菊・桐・桐・菊の紋が刻まれています。桐は「五七の桐の紋」で秀吉の紋です。菊は「皇室の紋」で、勅使の一行が訪問するときには、真ん中の桐の紋は、観音開きで隠れます。勅使を歓迎した意図の様ですが、閉めれば、桐が中央に構えた形になり、豊臣を謳歌したように工夫されています。 京都で此処の庭園だけ、写真禁止で、見張り役を置くぐらいでとても残念です。藤戸石・醍醐棚は、Google画像で確かめてみてください。表書院【国宝】揚舞台之間・孔雀蘇鉄の間。畳を揚げると「能舞台」になります。中段の間・上段の間は柳の四季を表し、床の間は松が画かれ、各部屋に段差があり、能の鑑賞が出来る様になっています。加茂の三石。川の流れに沿った縞模様が見掛けられます。激流または、緩やかな流れと変化した表現がなされています。藤戸石】(ふじといし)庭園の中心的存在で、【玉座】からも「真正面」に観られます。「三尊石」の形式を採り、【天下人石】十五代足利義昭・織田信長・豊臣秀吉と天下人が、引き継いで、自分の物にしたと言う名石となります。ふじとを「不死人石」に掛けて願ったのでしょう。庭園に「橋」が三種類あります。「石橋」「木橋」「土橋」と変化を表現しています。庭園全体が変化に富み、左方片隅から、瀧の水の流れと静かな雰囲気の音も聞えます。そして「鶴島」「亀島」が松の木を背負って飾っています。護摩堂。本尊「弥勒菩薩」(快慶作)「弘法大師」「理源大師」が祀られて居ます。前庭には、「苔」で瓢箪と杯(さかずき)とを現しています。藤吉郎時代、ねねの進言で、「功績」を成すにも誰も、「千成瓢箪」 【奥宸殿・玉座】正面に「藤戸石」が眺められます。喜んでくれずだだをこねる主人に、瓢箪を飾ることを始めたとか 【日本三棚】 「醍醐棚」「修学院離宮棚」「桂離宮棚」見所豊富で、桜の咲くころは、訪れる人で満杯となります。京都観光も此処まで訪問できれば最高と思います。明日は小野隋心院に参ります担当医師から貴重なブログが続けられるよう共に頑張って行こうと励まされ只今術後でもキーの打てることが出来て良かったですまだ不完全ですが皆さんの温かい励ましのお言葉に接し感謝の気持ちで一杯です 有り難うございます 今朝晴天で外の景色を見て何時も白内障でボケ気味の景色が遠景であるほどはっきり見えて白内障の手術もしてもらった効果が期待できる様に見えて嬉しかったです 感謝
2017.12.03
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皆さんにご心配掛けましたが緑内障の手術の結果順調に進んでいるので予定通り只今退院してきました但し目はまだぼやていて不自由なので徐々に回復を期待したいと思います12月2日土曜日10時ごろ清水の近くをタクシーで通りました紅葉の一番見ごろに道路は12月に入るや閑古鳥のように空いていました先ずはご報告まで
2017.12.02
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12月2日退院の予定です12月師走の京都の行事です 今年は南座改修工事の為昨年の分ですたまたま南座の【まねき】の写真を撮ろうとしました。何んと地元夕刊によれば、祇園甲部花街総見の日に当たり歌舞伎鑑賞で芸事を学ぶ日で9日まで、舞妓さんが南座の前で会える日でした。あすから、先斗町・上七軒・宮川町そして祇園東部の各芸子さんが午前の部の受付時間10時前に待ち合わせると会えそうです。本物の舞妓さんです【まねき】です12月の舞妓さんの簪は【まねき】です芸子さんと舞妓さん写真家が待ち受けています受付を待つ舞妓さん達四条京阪四条大橋東詰阿国(おくに)の銅像江戸時代、祇園で女歌舞伎を興行し人気がたかかったのですが邪心を誘うとして、現代の男歌舞伎の前進とされています あまりにも、京都らしい美しい舞妓さん取り急ぎご報告します。
2017.12.02
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本日は左眼緑内障の手術を受けます専門医師は ブログが続けられるようお互いに頑張りましょうねと勇気づけて下さいました 【二条城3.】大広間を過ぎますと、更に奥に、【黒書院】と【白書院】があります。【黒書院】は、奥御殿で、将軍と親しい諸藩の大名の内輪の対面所です。特に紀伊・尾張・水戸の「御三家」で、「大政奉還」の審議は、この部屋で行なわれたといわれています。注目すべき襖絵は、「狩野探幽」の弟「狩野尚信20歳」の桜の絵が、描かれ、兄の豪壮に対して、とても和やかな、優しい 落ち着きを感じさせる襖絵です。【白書院】いわゆる、【大奥】で、将軍を囲み、将軍にお茶を運ぶ「女官」控える「局」と控える「女官」が、人形で表しています。襖絵は、狩野兄弟のお師匠「狩野興以」の「山水画」です。此処より、折り返し、牡丹の間・ソテツの間そして、二条城から手渡される、パンフレットに「鷹」の図がありますが、大広間の裏「四の間」に豪快な「老松にとまる鷹」の絵に、目を輝かせてくれます。この部屋の左方の欄間には、牡丹、往路大広間の三の間がその裏側になり、同じ欄間に「孔雀」が彫られている事に、ご注目下さい。厚さ35cmkの幅で、異なった「彫刻」がなされています。老中の間そして最後に「勅使の間」を見て、下足した場所に戻ります。部屋数33室・畳数800畳余り有るそうです。 とても広くって、第一段階ここから時間がないので、引き上げるが多いです。 特別名勝史跡【国宝】・二の丸庭園 更に、玄関の出て、右手に「庭園入り口」があり、【二条城二の丸庭園】(特別名勝・国宝並み)小堀州遠作庭。豪壮な石が並び、瀧が流れ、石橋・鶴島・亀島と配置良く、庭園の「要素」を備えています。 庭園入り口を入って、直ぐ右手に、先ほど巡った「二の丸御殿廊下」の軒下をのぞいてみますと、「鴬張りの仕組み」が見えます。本丸への門 内濠 本丸此処で、引き返す方も有ります。堀の橋を渡りますと第三段、【本丸御殿】天明の大火で、焼失、現在は京都御所に在った、旧桂の宮御殿を移築されました。庭園は明治時代に作庭、精洋風に作られています。 天守閣があった跡地【天守閣跡】天明の大火の直前、落雷で焼失しました。現在平坦な空き地に、なっています。帰路。【清流園】江戸時代に「角倉了以屋敷」から建物の一部と庭石800個を譲り受け全国から名石300個と集め、「和風庭園」と「洋風庭園」を作庭。茶室もあり、大茶会とか、国賓の接待所に利用されました。土蔵。収納庫(米蔵)そして台所・御清所には、人形が有り、「お毒見役」も、見られます。 清流園四季に季節の花が彩り、時間にゆとりがあれば、広域に散策を 楽しめる市民の憩いの場所でもあります。国宝二の丸庭園の桜二条城の苑内
2017.12.01
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