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明日から9月4ヶ月再度の更新となります宜しければ京都観光お付き合い願います 名神高速道路京都南インターを降りて直ぐの国道1号線沿いに城南宮が有ります比叡山を表鬼門(東北)とすれば、城南宮は裏鬼門(南西)に位置し平安遷都の行われた1200年前に、王城の守護の為にまつられ城南の宮となづけられました。平安時代後期には、交通の要所ともなり、 一寸法師が お椀の船から上陸したしたとする「鳥羽の津」は鴨川でちかくにあります【御伽草子】貴族の別荘地帯として繁栄白河法皇。鳥羽上皇、後白河上皇によって鳥羽離宮が栄え遷都のようだとも称されたほどです。城南宮 祭神 国常立尊 (くにのとこたちのみこと) 八千矛神 (やちほこのかみ) 大国主命のこと 息長帯日売命 (おきながたらしひめのみこと) 神功皇后のこと今回は紅白の枝垂れ梅が見ごろとしてNHKで放映されましたので取材に行って参りました。 本殿前の鳥居 本殿 右に神楽殿たまたま15分前に着き、恵まれました 巫女による御神楽の舞が観られました 鈴の音がとても澄み切って清らかで神聖な雰囲気で一人ひとりにお守りを授けられていました 紅白の枝垂れ梅 神域の池 五葉の松室町時代の庭緋鯉が和やかです 城南宮は、四季に訪れる対象が有ります 詩歌にも富み、曲水の宴が年に2回あり、人出が多くとても写真が撮れるもので無かったです。かねがねから訪問したかった、白河天皇そして鳥羽天皇の御陵をやっと取材することが出来ました800年前の平清盛の時代が蘇ります。 平家物語 権力者でありながらもののけには弱い【天下三如意】 ままにならなかったこと加茂の川を逆流させられない事賽の目比叡の僧兵言い返せばそのほかの権勢は思いりまま傲慢過ぎた天皇 白河天皇御陵 鳥羽天皇御陵後白河天皇の尊父城南宮の近く100mの場所に夫々今は静かに眠っておられます。
2017.08.31
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【将軍塚清龍殿】 天台宗【平安遷都】桓武天皇は784年に都を奈良から長岡京に移されましたが何かと事故が起こり呪われた地となり長岡京遷都から10年後の794年(延暦13年)(なくよ うぐいす平安遷都)この将軍塚の地にて、【和気清麻呂】が狩に事寄せて、【桓武天皇】を案内し、三方山々に囲まれ、絶好の都の地として、「此処に都を移そう」と決意された場所でもあります。中国の故事に「君子南面す永久に栄える」とあり東山北山そして西山の三方に囲まれ自然の要塞でもありました 南は平地で浪速に通じます因みにこの地で平安遷都を決められた日が延暦13年(794)10月22日で毎年、時代祭りを10月22日に行います。 天皇は都の鎮護のため 将軍の形をした人形を土に埋めて据えられたことから将軍塚と言われるようになりました平成26年10月 四方の方角を司る四神のひとつ青龍が護る東山に4年越しの工事で【青龍殿】が完成しました 護摩を焚いてご祈祷する内陣と国宝青不動明王を安置する奥殿 そして外に張り出す大舞台清水寺の4.6倍 今まで観光の穴場としていましたが新名所として多くの観光客が訪れています 写真でご紹介します青龍殿と将軍塚昔の儘の門とシャトルバス 100円→青蓮 青龍殿入り口国宝青不動尊明王安置 護摩の祈祷所大日如来石像は青不動明王の 右側に移動されて祀られています青龍殿の横を通って大舞台へ舞台ら青龍殿を望む舞台比叡山 大文字そして吉田山右手手前永観堂鴨川 下鴨神社糺の森 妙・法拡大で見れます北山連峰京都御所と二条城 君子南面す御所左の指が実感真如堂と黒谷 吉田山西の観覧席から遠く愛宕山 五山送り火鳥居も見えるそうです西山連峰西側観覧席から五山の送り火は皆見渡される幻想的な場所になりました 舞台からの出口西の観覧席はそのまま苔庭枯山水庭園 年が経ては 改装前の将軍塚 三鈷の松(さんこのまつ)松は二本ですが 此処には三本の珍しい松があり持ち帰って三福の幸せを得るとお寺さんの勧めでご案内したお客様には好評で100%お持ち帰り為さいました永観堂にもあります 皆さんに幸せを運んで 3年前植木屋さんも護れず枯れたと受付のお爺さんがアルバム見せて眼を潤んでられました明日は4ヶ月更新最終日京都南インターの側城南宮に参ります
2017.08.30
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葵祭りの上賀茂神社と下鴨神社が共に世界文化遺産に登録されています。国宝の建物があるからでしょう。歴史を感じる神社で、勅祭とされ、勅使の使わされる伝統行事でもあります。 賀茂と鴨と 字を変えています 【下鴨神社・賀茂御祖神社】 (かもみおやじんじゃ)世界文化遺産に登録本殿【東本殿】【国宝】祭神【玉依姫命】(たまよりひめのみこと)娘 【西本殿】【国宝】祭神【賀茂建角身命】(かもたてつぬのみのみこと)玉依姫の父 京都の街を高台から眺めますと、京都御苑と賀茂川と高野川とがY字型に挟まれたところにこんもりした森が目立ちます。 糺の森【糺の森】 (ただすのもり)と称して、参道がとても自然界の様に親しまれます。隣接地に「家庭裁判所」があります。神様の時代でも「糺された事」があったのでしょうか?今一つ川の「三角州」の事を「只洲」とも言うそうです。 さざれ石【さざれ石】 国歌「君が代」に歌われています。【連理の榊】2本の榊の木が上部で1本に繋がる不思議な木が【相生社】の横に見られます。 参道鳥居 楼門 神楽殿 御手洗社 【御手洗社】 (みたらししゃ)葵祭りの前に【斉王代】(さいおうだい)が【禊の儀】(みそぎのぎ)をされます。また土用の日には【足つけの儀】が行われ、無病息災を祈ります。常には水が流れていないのですが、土用が近付きますと、自然に水泡がこんこんと湧きでるところから、その形から【御手洗団子】(みたらしだんご)の発祥の地としたそうです。 立秋の前夜【矢取り神事】が行われます。お判りの様に、上賀茂と下鴨は(かも)の字を変えています。上賀茂の祭神は、「天神の子」として、雷即ち農耕の神様の様で、「賀茂別雷命」そして下鴨神社の祭神は、母上「玉依姫命」と「祖父の賀茂建角身命」と言われています。賀茂建角身命は、【松尾大社】の祭神でもあります。 5月15日の葵祭りには、京都御苑から下鴨神社経由、上賀茂神社へと行列が、その年の未婚の 斎王代の輿【斎王代】が選ばれ、のどかに牛車の輿に乗られて進まれます。 頭に葵の葉を装う【葵の葉】が象徴しています、雨乞いの祭りでもあり、何れ梅雨季を迎えることに成ります。【玉依姫丹塗りの矢】の伝承玉依姫が「瀬見の小川」で川遊びされていたときに、「丹塗りの矢」(にぬりのや)が川上から流れてきました。貴重な品として、持ち帰られ、床に就かれるとき、床の側に置かれたそうです。その後、孕(はら)まれて立派な「男の子」を産まれました。「別雷の神」です。男、不用で神の子誕生とされているようです。キリストのマリアさまからこの世に神の子として遣わされたように。【賀茂建角身命】 玉依姫の父にあたります。農耕を広め民生の安定に努められました。「五穀豊穣」「古事記」「日本書紀」には、「金鵄八咫烏」(きんしやたのからす)として神武天皇に使え、御功績が多く「導きの神」とも崇められ、厄除け・学問・旅行・方除け祈願に訪れる参詣者も多いです。私たちタクシーの乗務員の為にも、交通安全を祈願したいです。【加茂族】山背(山城)の古代氏族で、朝鮮からの渡来人とされています。賀茂と地名にも成りました。太秦の「秦族」も渡来人の一族です。京都の丹後は、日本海に面し朝鮮に近く、琵琶湖又は、山越えで、京都に移り住んだとも考えられます。とても博学多識、努力家で「治山・治水・農耕・絹織物」等、現在の京都の有り方に貢献されたものと、改めて敬意を表したいです。明日は、京の都を決められた将軍塚に参ります
2017.08.29
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下鴨神社が【賀茂御祖】(みおや)即ちお母さんで上賀茂神社はそのやんちゃ息子【賀茂別雷神】(わけいかづちのかみ)の関係にあります。 【賀茂川】 京都バス終点「岩屋橋」から更に山道を遠く辿りますと、【金光峰寺・志明院】(雲が畑)修験道の修練場で「岩不動尊」が祀られて居ます。岩から染み出る、一滴の水が源流となり、「賀茂川」が人々の心の憩いを与える景観を観られます。時季により、「ユリカモメ」が渡り鳥として、遠くシベリアから飛来し、賀茂川で群れ遊んでいます。とても人懐きで、平和を感じます。夜になると、比叡の山を群れで超え琵琶湖にて、憩うそうです。京都の街で、最も景勝を楽しめる通りでもあり、「大文字」も見られ、タクシーで走るときも、出来るだけ、賀茂街道を通るように心掛けました。春には、「桜並木」で誰しも感動されます。 その賀茂川の上流に、「上賀茂神社」がそして下流に「下鴨神社」が鎮座まします。「加茂族」と言う先祖が築いた北方の、静かな住宅街でも有ります。 大原を源流とする、高野川と合流する地点を「出町」と称し「今出川橋」から下流を「鴨川」と字が変わります。何れ淀川にそして大阪湾に至ります。 上賀茂神社 国宝本殿 【上賀茂神社・賀茂別雷神社】 (かもわけいかづち)世界文化遺産に登録祭神(賀茂別雷神)下鴨神社に祀る「玉依姫」の御子【本殿・権殿】【国宝】本殿の前には、「山城一の宮神社」と表示してありました。 母君 玉依り姫を祀る 片岡社本殿の楼門を出た直ぐの側に【片岡社】がありました。玉依姫を祭神として祀られています。 神楽殿【神楽殿】の前には【立砂】が白川砂で三角錐が飾られていました。何でも真上に松葉が差され神様が光臨されるそうで、清めの砂ともいわれています。 神楽殿の前に 立砂神社の後ろの小山は、【神山】として神聖な山で、人の立ち入らない山とされています。【御神徳】欽明(きんめい)天皇の時、雨は降らず作物実らず大飢饉でありました。天皇が勅して占われたそうで、人心が大変乱れているその祟りと言うことで、本殿でお詫びの祭祀行なわれたところ、「護国豊穣・天下泰平」となったと日本書紀に記されているそうです。「雷の神」の由縁でしょう。【葵祭り】この「欽明天皇」の起源により、毎年5月15日【京都三大祭り】として、全国から大勢の方が、観に来られます。 くらべうまの行事が行われる境内【行事】【競馬】(くらべうま)【烏相撲】【八咫烏】(やたのからす)神武天皇が東征の時「加茂建角身命」(かもたけつぬみのみこと)が先導した際に、天皇の弓の先に止まったとされています。当時の「加茂族」を「烏族」ともいわれています。 【百人一首】 風そよぐ楢(なら)の小川の夕暮れは 禊ぎ(みそぎ)ぞ 夏のしるしなりけり 藤原家隆 楢(なら)の小川 【社家】(しゃけ)神社の表通りに、小川が流れその小川に一軒【社家】(しゃけ)神社の表通りに、小川が流れその小川に一軒 ごとに橋が架かって母屋に入ります、神主さん・神道の方の屋敷が並んでいます。京都の風物詩とも観られます。明日は、下鴨神社にまいります。 賀茂と鴨の字がかえられています。
2017.08.28
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先日長岡天満宮を御紹介しましたが 京都市内の北野天満宮を観てみたいです毎日は25日、京都では天神さんの日として、縁日が立ちます。学問の神様として、受験者の方々は熱心に祈願に訪れられます。京都の昔からの慣わしに、「弘法さん」と「天神さん」とはとても仲が悪くって、東寺の弘法さんの21日が雨だと、25日天神さんは晴れると云っています。 【北野天満宮】祭神 菅原道真 中将殿(道真の長男) 吉祥女(道真の夫人) 学問の神様として【菅原道真公】が祀られて居ます。修学旅行では、日程に欠かさない貴重な参拝する場所でもあります。車中生徒さんに「祭神は?」と聞きますと返答に困る子が居ました。折角進学祈願するのに、お願いする相手の名ぐらいはと。 【菅原道真公が雷神にも】菅原道真公は平安時代の公家であり「右大臣」まで成られました。11歳で詩を詠まれるほどの文才がありました。醍醐天皇の時代、左大臣「藤原時平」の讒言により、右大臣「菅原道真」は、朝敵として、京の都から、福岡の大宰府に左遷されました。「道真公」の無念は、推し量ることが出来ないほどでしょう。北野天満宮には、臥牛の像が多く置かれています。その訳は、丑年の説と、今ひとつ流される途次、備前岡山の辺りで、道の真ん中で、牛が臥せて動きませんでした、従って道を変更されました。後で判ったことは、時平配下の刺客が待ち臥せて居たのを、その難を逃れられたと言う伝説も有るようです。都を離れられるときに、菅神社(私邸)の梅の花に向かわれて、東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ都の真の春を忘れないで、良き香りを東風に乗せて送ってくれ。とも受け留められる、菅公の歌でした。その後、雷神として、京の都は、雷と稲妻が激しく襲いました。時平は、恐れおののいて道真の怨霊が襲ったとして、狂い死にしたそうです。左大臣は、右大臣の上位に位置することで、権限を悪用した時平の疾しい心が、道真の怨霊と思いつめての結果で、地震・雷・火事・・・大自然の怖さが重なったと思われます。北野天満宮では、学問の神様と同時に、雷の神様ともされています。一の鳥居の側に、【影向松】(ようこうのまつ)が有ります。道真公が、初雪の日に、この松にご来臨あり、歌を詠まれるとして、社紋の梅と同じく社紋の「三蓋松」(さんがいまつ)の由来とされています。良心の呵責により、怨霊と思うのでしょう。歴史には多く現れてくるようです。現代も、学問の神様として、崇敬され親しまれています。また日本三怨霊として祟道上皇・菅原道真・平将門 ともいわれています悔しさも人一倍だったでしょう 初雪に天神さんがこの松に降りて来られる提灯に三葢の松(さんがいのまつ) 北野天満宮の家紋の一つ【本殿】【国宝】8棟の形式は「日光東照宮」にも継承され【権現造】の本源とされています。 【北野天満宮の祭礼25日の由来】845年承和12年6月25日誕生・延喜1年1月25日大宰府に左遷・延喜3年2月25日逝去【菅原道真】と【臥牛】(がぎゅう)本殿の拝殿の大鈴の上の欄間だけ立っています。 1.道真の誕生の年が,丑年。2.道真左遷の途中牛が道の真ん中で坐って動かず、避けた道を経ることで、時平の刺客から免れましたとか。3.道真が亡くなって、棺を引いた牛が墓に行く途中、へたりこんで動かなくなりましたので、 近くの「安楽寺」に葬られました。即ち現代の【大宰府天満宮】でした。【三光門】(中門)太陽・月・三日月の装飾が観られます。星は「大極殿」から拝殿に向かうと 「北斗七星」が見える仕組みと成っていますそうです。梅も家紋三光門【伴氏社】(ともうじしゃ)祭神が道真のお母君「伴氏」祀られて居ます、京の三珍鳥居の一つ 鳥居の足許が、蓮の花に成っています。外に、「蚕の社」・「京都御所」道真は親孝行でしたから、母上の「伴社」(大伴家持の子孫)に先お参りすれば、合格出来るかもといいますと、小さい社に真剣手を合わせていました。 【御土居跡】本殿の西側に豊臣秀吉が洛中を囲んだ御土居跡の公園が見られます。【梅園】道真が都を去るときに詠まれました。「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」豊臣秀吉が、北野天満宮で「大茶会」を催しました。その道中、現場の近くに至った時、喉がかわき、とある小さき寺に「おい、茶をくれ」と言ったのでしょう、尼僧は体よく断ったそうです。そこで、秀吉は怒ることもなく、「湯たくさん 茶くれん寺」と名付け現代に至って居ます。北野天満宮の境内の表側に、「北野天満宮・大茶会の跡」の石碑と「太閤井戸」が示して有りました。次回は上賀茂神社に参ります
2017.08.27
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京都に都が移される前に 10年ほど京都府長岡京市に都を定められましたが、怨念の重なる出来事が起こりました。 【長岡京遷都】 784年(延暦3年)【桓武天皇】が、腐敗した政治の立て直すために【奈良の平城京】より都を、京都より大阪よりの西南方向、乙訓郡(向日市・長岡京市)に【長岡京】として遷都されました。その大極殿跡地と当時の都の地図の看板が、阪急西向日駅前の近所に、こじんまりした住宅街の公園にありました。中央「朱雀大路」を横切って、小畑川が斜めに横切っていました。何だか不吉な予感がしました。只でさえ、地元住民は、「暴れ川」と懸念されるほどに、桓武天皇と弟君「相良親王」(さわらしんのう)との間に天皇の重臣の変死に疑問を抱き、「乙訓寺」に幽閉され、そこで亡くなりました。怨念を恐れ、京都には、霊を慰める為に、「上御霊神社」「下御霊神社」が祀られています。 そして川の氾濫による、疫病が蔓延し、「呪われた都」と化しました。 地元「大原野神社」には、女官の方々の奈良への想い出が忘れられず、「春日神社の分身」を祀り、奈良の「猿沢の池」に対し「鯉沢の池」が現在も長岡京の、面影を残しています。 平安遷都に祈祷を大切にした由来が、長岡京での出来事から始まります。 奈良の平城京から長岡京に遷都2年目にして、都造りの総責任者【藤原種継】(ふじわらたねつぐ)が何者かに暗殺されました。反勢力の「大伴一族」として、桓武天皇が、早々に処罰されました。その中に桓武天皇の弟君【早良親王】(さわら)も、疑いを掛けられ【乙訓寺】に幽閉されました。早良親王は、そうではないと、断食されて身の潔白を計られました。挙句、小豆島に配流の途次、餓死して果てられました。その後、近親に病死とか不幸が次々起こり、その上「暴れ川」が氾濫し、疫病が蔓延しました。桓武天皇は、弟の呪いとして、僧に祈祷を続けるだけでなく、死者に【崇道天皇】(すどう)と、称号を与え京都の高野川上流、上高野の地に【崇道神社】の祭神として祀り、上御霊・下御霊神社にも,鎮霊のため祀りました。後に、弘法大師さまも幾度となく菩提を弔うべく、十三の塔を建てて、霊をなぐさめられたそうで、弘法大師さまゆかりの寺として、何時しか、美しい牡丹で、飾られ、早良親王への無念さを偲ぶようになりました。弘法大師さまゆかりの寺 十三の供養塔 本堂 美しい牡丹の名所早良親王の霊が安らかに憩われますように。長岡京市には、平安京の前に、呪われた都として10年で長岡京から平安遷都されました。昨日の菅原道真公とともに悲しい歴史が偲ばれます。明日は北野天満宮に参ります。
2017.08.26
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大河ドラマ真田丸に出演の細川忠興の城が此処長岡京市にその城跡があります細川ガラシャ夫人の悲劇が待っています快晴に映えるキリシマツツジがまぶしいぐらいに咲いていました。菅原道真公の無念の気持ちを偲びつつ訪問してきました。菅原道真公を祀る北野天満宮は学問の神様として有名ですが京都市から大阪よりの、長岡京市にも長岡天満宮があります。樹齢150年のキリシマツツジが4月末に最も華麗です。都が奈良から此処長岡京に遷都した場所でもあります長岡天満宮とキリシマツツジキリシマツツジの参道【長岡天満宮】 長岡京市 祭神 菅原道真公菅原道真公は、生前 歌人 在原業平と共にこの地で詩歌・管絃に甚く興じられていました憩いの場所ともいえます。後に、左大臣藤原時平の妬言で、右大臣であった菅原道真公が九州の大宰府に左遷されることになり、その道中此処長岡の里に立ち寄られ「わが魂 長くこの地に とどまるべし」 と 名残りを悔やまれたそうです。後の世に、その想いを留めるべく、道真公ご自身作の像を祀られました。朝廷からの信仰も厚く、後に桂離宮創設者 【八条宮智仁親王】が更に境内を広げ、【八条の池】が皆さんの憩いの場所ともなっています。八条の池向かいに見える家屋は【錦水亭】(きんすいてい)筍の高級料理店です。長岡京市は筍の産地として有名です。八条の池樹齢百五十年のキリシマツツジ長岡天満宮本殿昭和14年に平安神宮の旧本殿を移築されたものです。長岡天満宮本殿前学問の神様として此処もお参りが堪えません。やはり牛が臥しています。菅原道真公と臥牛菅原道真公のお誕生日 承和12年6月25日 (845) 遷化日 延喜 3年2月25日 (903) 58歳逝去何れも、丑年に当たります。そして25日も一緒で 天神さん日として縁日にもなり、親しまれます。京の都から大宰府に左遷されるときに、時平の刺客が構える街道で牛が臥して動かず、安全な街道に導かれて事なきを得たそうです。菅原道真公が亡くなられた時、遺骸を牛車で運ぶ途中やはり牛が臥して動かず。道真公の遺言通りその地に墓所安楽寺に葬られたとのことで、大宰府天満宮が祀られました。牛の臥している姿は此処から採られたともいわれています。明日は同じく「長岡京市」にある牡丹の寺【乙訓寺】に参ります。
2017.08.25
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豊臣秀吉と明智光秀の山崎の合戦地を見下ろした所にあります 社殿は今年国宝に指定されたとこです 【石清水八幡宮】 (いわしみずはちまんぐう)御祭神 東御前 神功皇后(じんぐうこうごう) 中御前 第十五代 応神天皇 西御前 比女大神(ひめおおかみ)【日本三八幡宮】宇佐八幡宮(大分)・鶴岡八幡宮(鎌倉)・石清水八幡宮【三大勅社祭】葵祭(京都上勅社)・石清水祭(下勅社)・奈良春日祭皇室の崇敬も深く勅使が、毎年拝礼に来られます。京の都の表鬼門として比叡山延暦寺に対し、裏鬼門として石清水八幡宮があり、厄除け国家鎮護のため鎮座まします。源氏にゆかりあり、源義家が「われは八幡太郎義家なり」は有名です。本殿の再興は、三代将軍徳川家光が此処も手掛けています。天慶2年(939)平将門と藤原純友が乱を起こしたときも、八幡の神が神威をもって鎮められたとされ、【武神・弓矢の神】として、必勝祈願もされています。 男山からは清水が湧き出て、石清水の名となったそうですが、宇治川・桂川(途中鳥羽で鴨川と合流)・そして木津川の大きい川の合流地点で八幡(やわた)からは淀川となって大阪湾に至ります。 【天下分け目の山崎の合戦】も此処【男山】と【天王山】の狭間で大軍が、ひしめき合った合戦場でもありました。 京都から大阪または、奈良への中間点でもあり、交通の要所でもあります。八幡市の隣接は大阪府枚方市です。 男山は、京阪「八幡駅」下車で、ケーブルがあり、頂上に本殿がありますが、展望台からの景色は、高速道路が渦巻き活気のある通過地点と考えられました。 【エジソン記念碑】まさか神域にと思われますが、エジソンが電球のフィラメントに男山周辺の竹を使い、長時間の点灯を可能にした偉業を永く顕彰するために、昭和9年に記念碑がたてられました。【徒然草の逸話】【高良神社】(こうらしゃ)八幡宮の摂社男山の麓(二の鳥居付近)にあり、仁和寺の老僧がこの社を八幡宮と誤り山上に登る人達を憐れんだと言う。それ程摂社でも立派な建物であったようで、諭として人に確かめもせず、案内も請わずして、自己判断にて目的の達せられなかった愚かな行為を戒めているようです。確かな情報は会得して置く事の大切さを教えているようです。 八幡神社の全国の数 4万社といわれています。八幡宮と天満宮は、祈願の目的が違うのですね。 男山ケーブル 本殿建物は今年初めに国宝指定となりました6月水無月の大払い【茅の輪】くぐると厄が逃れる。本殿本殿 お手洗い所 エジソン碑電球のヒラメントのモニメント天下分け目の山崎の合戦手前が男山真ん中が天王山そのはざまを淀川が流れる狭い地点豊臣軍と明智軍が合戦した場所です。一番右手の山が比叡山表鬼門桂川・宇治川・木津川の合流点 高速道路がひしめき合っています。交通の要所。山並みの右方が長岡京市になりますケーブルで降りる途中の景色明日は長岡天神に参ります
2017.08.24
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大徳寺にも一休さんのお寺【真珠庵】があります金閣寺とそう遠くは有りません 足利三代将軍義満と頓智比べの漫画は皆さんに慕われています今回は天皇の皇子さんだったことが宮内庁管轄の御陵があることで納得していただけると思います 【酬恩庵】 (しゅうおんあん)通称【一休寺】臨済宗大徳寺派 京都市と奈良市との中間点に位置する、京田辺市に有ります。 足利義満と頓知比べしたことで有名な【一休禅師】の 創設であり、仏に仕えられた所でもあります。 高僧【大応国師】が中国で禅を学びその教えに従った 一休禅師が、師のご恩に酬いる意味で、名付けられました。 一休さんは、第100代後小松の皇子で、皇位継承は成さらなかった のですが、出家されました。境内に宮内庁の御陵として ご廟所があり、88歳に示寂されました。 漫画「一休さん」義満も「一休どの」と敬称の言葉使いです。 81歳のとき、大徳寺【真珠庵】の住職も兼ねられました。 本堂・方丈庭園も素晴らしく、参道も新緑に包まれて清楚でした。 禅寺は、何処も掃除が行き届いて、塵一つ無く清潔な雰囲気が 一面漂っていました。 一休さん像、三体、箒を持つ像、木魚を抱えての寝姿はねずみが 添え寝しています。「あわてないひとやすみ・ひとやすみ」 可愛いです。 「このはしわたるべからず」の小さい橋もありました。 。酬恩庵表門参道の新緑宮内庁御陵・後小松皇子・一休宗純墓地宮内庁表札本堂・参道方丈庭園 方丈庭園丈庭園 一休さん像このはしわたるな本堂本堂参道掃除姿の一休さん時にはお昼寝も綺麗に掃けましたね明日は八幡八幡宮に参ります
2017.08.23
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我が町JR六地蔵より 木幡 黄檗 宇治の順に近くに世界文化遺産が観られます 現代大阪府堺市にある、古墳【仁徳天皇陵】が話題になっていますが、宇治の地に祭神としても祀られています。兎角跡目相続で問題になりますが美談がのこされています。 あまり、世間で著名でなかったと思われる、古い歴史を残す宇治に【宇治上神社】の方が世界文化遺産に登録されました。直ぐ隣接して、「宇治神社」も有りますが、戸迷う感じでした。 宇治上神社の鳥居【宇治上神社】 (うじかみじんじゃ)日本最古の神社形式(平安・鎌倉時代)世界文化遺産に登録 京都に世界文化遺産に登録17箇所のひとつです。【祭神】菟道稚郎子命 (うじのわきのいらつこのみこと) 【宇治の地名】父・応神天皇に寵愛され皇太子に立てられたものの、異母兄・大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られるます。応神天皇第15代。菟道稚郎子命の父。仁徳天皇第16代。菟道稚郎子命の異母兄。宇治平等院から宇治川を渡った位置にあります。 宇治橋京阪宇治駅を宇治川に沿って、上に直ぐの所に、「宇治神社」が有ります。 宇治神社 近代的でまさかと思いきや、【さわらびの道】を 早蕨の道の入口付近 さわらびの道 更に通り過ぎて、少し坂を登った所に【宇治上神社】が有りました。世界文化遺産と言うことで訪問しても、実にこじんまりとして、古さだけが目に映ります。 参道の紫陽花の花でも歴史的には貴重な建物【本殿】【拝殿】共に【国宝】に指定されています。 拝殿 清めの砂 上賀茂神社にもありました。 本殿 本殿の狛犬 阿吽の狛犬 宇治上神社の蟇股 ここでの見所は、 【日本三蟇股】 (かえるまた)【宇治上神社本殿】【上醍醐・薬師寺】【奥羽中尊寺金色堂】【龍安寺】で由来を記していますが、 日光東照宮の左甚五郎作の有名な【眠り猫】も、蟇股の中で眠っています。裏には鼠が居るとか、要は、木製の建物は、火災から魔除けのために、水に関係する、蟇を飾ったと全国的に採用されています。清水が今でも湧きます 宇治の名水 桐原水 もう一つは、【桐原水】(きりはらすい)と言って、「宇治の七名水」の一つとして、未だに、清水が、湧き出ています。【源氏物語】にも関係するようです。自宅の付近で、歴史的に遠く昔を偲ぶことが出来る社寺があり恵みに感謝しています。明日は京田辺市の一休寺に参ります
2017.08.22
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私の住む伏見区のほんの近所に、世界文化遺産の社寺が三ケ所もありとても恵まれています。醍醐寺・宇治平等院そして宇治上神社です。 阿弥陀さん の指と手の形の組み合わせ しるしてみました。浄土にも段階があるようです。此処は最高位の上品上生の阿弥陀さんです。 【平等院】 宗派は単立(天台宗と浄土宗) 開基 明尊 琵琶湖「瀬田」から流れてきました「宇治川左岸」に「宇治上神社」と対峙して存在しています。 国宝・鳳凰堂 池に写される 初代仏師【定朝】 じょうちょう)作の【国宝】【阿弥陀如来像】が実に落ち着いて素晴しい一語につきます。付随した【天蓋】【雲中供養菩薩】そして【壁画】も【国宝】で 「藤原頼道」が1000年前に末法思想が取り沙汰された時代で、生前中でも「極楽浄土」を再現しょうと考え、(金閣庭園を足利義満も同じ)貴族と僧侶によって、建てられました。 阿弥陀さんの座します【鳳凰堂】(ほうおうどう)もそして屋根の両端に飾られる【鳳凰】一対も【国宝】です。お堂の前に池があり鳳凰堂を池越しに眺めますと、池にも反射してとても美しい情景が観られます。「十円硬貨のデザイン」ともなっています。 丸い窓を設けて、庶民にも阿弥陀さんのお顔だけ拝せる仕組み 頼道の思い遣りが、「阿弥陀さん」の顔の前面に、「丸窓」が見えます。「極楽浄土」を庶民にも一部垣間見ることが出来る様に、存在しています。 国宝・鳳凰堂 【日本三名鐘】「形の平等院」【国宝】 「音色の滋賀・三井寺」 「銘の高雄・神護寺」 日本三名鐘の形の美本物は宝物館で観られます。【鳳翔館】(宝物館)では、名鍾・雲中供養菩薩像・壁画・鳳凰【国宝】その他が展示されています。 【藤棚】藤の花が咲く頃は、とても美しいです。【阿弥陀さんの九印相】阿弥陀如来は、西国極楽浄土を支配されてると言う事で、鳳凰堂の壁画も、 【御来迎の図】 が画かれ、九壁画に分かれているそうです。 極楽浄土も九段階平等院の阿弥陀如来像は、 【上品上生印相】 (じょうぼんじょうしょうのいんそう)で最高位。阿弥陀さんの手の指が、「親指」と「人指し指」 【上品】「親指」と「中指」 【中品】「薬指」と「親指」 【下品】円く交わる事で、夫々、「上品」「中品」「下品」と称し、阿弥陀さんの両手の位置か゛「膝の前で結ぶ」 【上生】「両手を開いてお説教するように、上に揚げる」 【中生】「右手を揚げて、左手は手の平を開けて膝の上に」 【下生】 (施無畏・与顔)(施無畏・与顔) (せむい・よがん) Google画像で出て来ます奈良の大仏さんの形右手は不安畏れを無くす施し。 主の平安(キリスト教)左手願いを適う与えましょう。 求めよ開かれん(キリスト教)「上生」「中生」「下生」(げしょう)と称します。この組み合わせで、九印相の阿弥陀像が表されます。極楽浄土への位置付けでしょうか。「上品上生」「上品中生」「上品下生」「中品上生」「中品中生」「中品下生」「下品上生」「下品中生」「下品下生」太秦の広隆寺には、「中品中生」の阿弥陀像が見掛けられますが、殆どは、「上品」クラスのようです。 御家庭での仏壇では、「上品下生」(じょうぼんげしょう)の即ち、施無畏・与願の型で指は親指と人差し指を交えた形の阿弥陀さんが多いです。一度試してみてください。 宇治上神社から宇治川を渡って平等院への橋 魚の供養のための十三重の塔 源氏物語・紫式部の像宇治橋の側に建っています。 宇治橋明日は宇治上神社です世界文化遺産
2017.08.21
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西国三十三箇所観音霊場代十番の札所です。宇治の平等院から、京阪電車一駅目に三室戸があります。 三室戸寺脊柱坂を上るまえの表門蓮池を伴う本堂前広場兎歳に作られた兎、地名を莵道(とどう)と名付け宇治上神社でご紹介しますが宇治の地名に繋がります。 本堂鐘楼と三重塔源氏物語【浮舟】歌碑 新緑の三室戸寺 つつじ苑 一人で鑑賞もよいですが、家族で「あつ、綺麗」とことばをかけあつて観るのも、また幸せを一層深めるものです。アジサイもツツジに代わって、 10,000株が見られます。次回は世界文化遺産宇治平等院です
2017.08.20
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【黄檗山万福寺】 (おうばくさん・まんぷくじ) 黄檗宗総本山 総門は、龍の頭総門 龍の蛇腹を象った菱形の敷石 (禅寺では多く見掛けます) 龍の蛇腹を模した参道 菱形石山門 「山門を 出れば日本ぞ 茶摘み唄 菊舎尼【布袋尊】 (ほていそん) 都七福神 巡礼所のひとつ。正月には、七福神巡りで賑わいます。 布袋尊 みやこ七福神のひとつ写真撮影許可をもらいました。僧の姿だけは撮らない様にと 開版(かいばん)魚版で、木魚の原形となっているものです。広々とした境内開版 お魚の形 時を知らせるもので、禅寺の座禅で、魚は寝ていても目は開くことを諭しているとも言われています。本堂には、三尊釈迦が祀られています一般には脇侍(きょうじ)は、釈迦如来の場合。【文殊】【普賢】菩薩ですが、此処では 十大弟子の筆頭 【迦葉】【阿南】 尊者が祀られていました。 羅怙羅 (らごら)父の釈迦の顔を胸に抱いている姿の像羅怙羅(らごら)尊者 お釈迦さんの実子で、出家して修行の末悟りを開かれ、心に仏性を抱くとして、胸を開けた場所に仏の顔が仏像として祀られていました法堂舎利殿隠元和尚の開山堂隠元は中国人で万福寺を創設されました明日は三室戸寺に参ります
2017.08.19
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6月の【勧修寺】(かじゅうじ)睡蓮が美しかったです。 京都盆地の東隣山科盆地の中央辺りに存在します。その南に【醍醐】があります。借景の睡蓮の池の背景の山が、【亀甲山】(きっこうやま)です。亀の甲羅を意味し吉兆を伴うことを願っての自然の配置です。伏見・深草より「深草少将」が醍醐・小野に【小野小町】を慕って「百代通い」をした山すその道が、労しいです。小野小町は「榧の実」(かやのみ)を99まで集めて、満願の日に深草の少将が雪道で病に倒れ恋は実らなかったとも云われています。 樹齢750年のはいびゃくしん 水戸光圀公寄贈の勧修寺形燈籠 観音堂 睡蓮と緋鯉勧修寺のカキツバタと睡蓮の池あまり知られていない、こじんまりしたお寺にも、自然との調和のとれた名勝がありました。醍醐天皇のおばあちゃまの霊を弔うために建てられました。【勧修】の名は、おじいちゃまの諡号から付けられたそうです。静かに眠られるには、素晴しい環境と偲ばれました。伏見を後にして明日は宇治市黄檗山万福寺に参ります
2017.08.18
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小野小町の住まいしていたという醍醐は小野の隋心院にはねず色の梅を求めで訪問してきました。名勝 小野梅園はねずいろの梅隋心院 真言宗善通寺派 はねず踊りが30日開催されます 厳寒 小野小町百人一首歌碑花の色は うつりにけりな いたづらにわが身世にふる ながめせしまに 小野小町花の色はすっかりあせてしまったことよ 春の長雨が降っている間に私の美しかった姿がたちまちおとろえてしまった空しく思いに耽っている間に 玄関口 朱華踊りの人形 本堂本尊如意輪観世音菩薩そま隣に 小町卒塔婆座像 左足を立てた半跏のかたち写真はダメでした。当時の榧の木(かや) 碁盤・将棋盤などつくられる 榧の木と十三塔 榧の実 深草少将【百夜通】 (ももよがよい)小野小町を慕って、雨の夜も雪の夜も通い続けて、邸宅にある榧の実をひとつづつ玄関に置いて通い続け九十九日目の夜に降る雪の基発病により想いは果たせず世を去ったという伝説があります。千百年前の出来事でした。夢にしか会えなかった思いを小町は歌人としてのちに六歌仙にまでえらばれました。 薬医門 はねす゜(うすべに)色の梅園本堂前で門跡さんの開会の挨拶ミス小町 二人の紹介地元、小学生のはねず踊り小野小町役・深草少将役・傘持ち役でわらべうたによりおどられるようです、地元の小学校4年生5年生6年生が出演とても大勢の人出撮れたものではありませんはねず色だけ見て下さい 小野梅園 はねず色の梅 牛尾山背景に 老木小野化粧の井戸小野小町は、小野名水により、美貌を逞しくしたということです。小野篁の孫で、小野東風とは従兄どうしで、共に詩歌に富み化人として名を遺しました。1100年前の出来事で、小町は舞姫として宮中の後の宮に仕え容姿秀絶一度笑みれば、相手を百媚生ずるそして和歌にも秀でました。然し人生の儚さを詠ったのは憧れの美女の本当の人間らしさかもしれません。
2017.08.17
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世界文化遺産の醍醐寺の内容は今朝更新本日は伽藍と桜の写真だけお届けしてみます。今夜は大文字送り火 お昼は晴れ間もあり 最高の光景が見られそうです醍醐三宝院の玄関 勅使門国宝 仁王門 太閤の五七の桐で飾られた垂れ幕左の建物 金堂(本堂)桜まつり 金堂の側 金堂国宝薬師如来三尊国宝・四天王を祀る五重の塔国宝京都府で最も古い塔応仁の乱免れる弁天堂池弁天さんは水を司る神様 観音堂(元講堂)西国三十三ヶ所観音霊場納経所最も難所のところ山上にある本堂が落雷で焼失現在仮納経所として下界で適われます太閤花見行列の参道4月10日(第2日曜日) 何れも霊宝館庭園
2017.08.16
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【醍醐寺】 世界文化遺産 金堂薬師如来三尊・四天王を祀る五重の塔京都府で最も古い塔弁天堂池 観音堂(元講堂)現在西国三十三ヶ所観音霊場納経所 彼方に見える山が、「上醍醐」です。山道3キロ、西国観音霊場の最難コースとされていました。新緑が美しいです。 国宝【唐門】勅使門真中が豊臣秀吉花紋「五七の桐勅使が入られるときは真中は開かれ菊の御紋でお迎え帰られたら桐の紋が真中に治まります。秀吉の考えそう?太閤秀吉が醍醐の花見行列をした場所この年の夏に伏見城で逝去します 【醍醐三宝院】勅使門 表門の側にあります。門を四面に分けますと、菊・桐・桐・菊の紋が刻まれています。桐は「五七の桐の紋」で秀吉の紋です。菊は「皇室の紋」で、勅使の一行が訪問するときには、真ん中の桐の紋は、観音開きで隠れます。勅使を歓迎した意図の様ですが、閉めれば、桐が中央に構えた形になり、豊臣を謳歌したように工夫されています。 京都で此処の庭園だけ、写真禁止で、見張り役を置くぐらいでとても残念です。藤戸石・醍醐棚は、Google画像で確かめてみてください。表書院【国宝】揚舞台之間・孔雀蘇鉄の間。畳を揚げると「能舞台」になります。中段の間・上段の間は柳の四季を表し、床の間は松が画かれ、各部屋に段差があり、能の鑑賞が出来る様になっています。加茂の三石。川の流れに沿った縞模様が見掛けられます。激流または、緩やかな流れと変化した表現がなされています。藤戸石】(ふじといし)庭園の中心的存在で、【玉座】からも「真正面」に観られます。「三尊石」の形式を採り、【天下人石】十五代足利義昭・織田信長・豊臣秀吉と天下人が、引き継いで、自分の物にしたと言う名石となります。ふじとを「不死人石」に掛けて願ったのでしょう。庭園に「橋」が三種類あります。「石橋」「木橋」「土橋」と変化を表現しています。庭園全体が変化に富み、左方片隅から、瀧の水の流れと静かな雰囲気の音も聞えます。そして「鶴島」「亀島」が松の木を背負って飾っています。護摩堂。本尊「弥勒菩薩」(快慶作)「弘法大師」「理源大師」が祀られて居ます。前庭には、「苔」で瓢箪と杯(さかずき)とを現しています。藤吉郎時代、ねねの進言で、「功績」を成すにも誰も、「千成瓢箪」 【奥宸殿・玉座】正面に「藤戸石」が眺められます。喜んでくれずだだをこねる主人に、瓢箪を飾ることを始めたとか 【日本三棚】 「醍醐棚」「修学院離宮棚」「桂離宮棚」見所豊富で、桜の咲くころは、訪れる人で満杯となります。京都観光も此処まで訪問できれば最高と思います。明日は小野隋心院に参ります
2017.08.16
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伏見区【日野】は、醍醐寺のそばにあり、足利将軍の代々奥方の出身地でもあり、あの京都の悲劇応仁の乱の主役「日野富子」も此処の出でした。従って醍醐寺の金堂・五重の塔そして此処日野法界寺も応仁の乱の火災から免れました日本三悪女の一人日野冨子と聖僧親鸞上人と藤原家の子孫として 【日野】は同じ地の出身となります一方、浄土真宗(本願寺)の開祖 【親鸞上人】のお誕生の地として【日野誕生院】がのこされています。側には、宇治の平等院並みの国宝阿弥陀如来(定朝模様)の祀られた坐像が、【日野法界寺】として幼き頃より、親鸞さんも手を合わせていたのでしょう。 【親鸞上人お誕生日・承安3年(1173)5月21日】 【日野誕生院】楠が樹齢800年。得度を受けられた京都の【青蓮院】の4本の楠と同時期。 浄土真宗の開祖【親鸞上人】は今から約800年前、ここ「日野の里」でお生まれに成りました。醍醐寺の南方少し、離れた場所で京都市伏見区に属します。父は日野氏の一族で【日野有範卿】(ひのありのりきょう)母は、清和源氏の出身で【吉光女】(きっこうにょ)日本全国に浄土真宗の信者さんが多いですが、此処がその発祥の地とは言え、至って静かな、簡疎の地でも有ります。 【えな塚】 【産湯の井戸】【えな塚】とバックに【日野法界寺】の屋根が見えます。【乳薬師】とも云われ、安産・子育ての「薬師如来」が祀られて居ます。えな塚は、幼稚園の園内に属し、お断りをして、撮らして戴きました。さでした。 【日野法界寺】日野法界寺・国宝阿弥陀堂宇治の【平等院】の「阿弥陀如来坐像」は、仏師 【定朝作】(じょうちょう)で、此処も【定朝様作】として、本尊【阿弥陀如来坐像】も国宝に指定されています。建物は、鎌倉時代に再建されたもので、「応仁の乱」からは、焼失を免れています。写真の右手に屋根だけ見えますのが。【乳薬師堂】で、「えな塚」「産湯の井戸」と隣接した位置にあります。親鸞上人は、幼少のころより、この眼差し優しい「阿弥陀さん」に手を合わせ御育ちになったといいつたえられています。 親鸞上人9歳のお姿の銅像です。「日野誕生院の境内」に建てられています。 出家決意のおん歳9歳での歌碑です。お父上は、4歳時そしておん母上は、8歳のときに浄土に召されました。世の中で最も大切なご両親を幼児期に亡くされ、阿弥陀さんにすがりつつも、仏道に決意なさったのでしょう。明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に 嵐の 吹かぬものかわ 京都の【青蓮院門跡寺】【天台宗】で 【得度式】(とくどしき)を挙げられました。そして 比叡山で修行を受けられました。今や、「西本願寺」「東本願寺」を初め全国に、【浄土真宗】の信者さんが多く居られます。難しい、お経を唱えて救われるものでない。ただ「南無阿弥陀仏」と【念仏】を唱えることで浄土に召されると。大衆庶民を対象に布教されました。
2017.08.15
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万福寺の釈迦十大弟子が出て来ますお盆の意味について知恩院の布教の故人のお坊さんの面白いお話しを勉強しましたお盆も最中、故郷に帰省されて家族の絆を深く味わい愉しまれて居られることも多いでしょう。 観光勉強会でお盆について習ったことがあります。講師が「だからお盆と言われています」一同笑って済ませました。ジョークと思っていました、盆語源を調べて見ましたら、お供えするお盆からでジョークでないことが判りました。十大弟子の祀られた霊堂宇治・万福寺お釈迦さんの息子十大弟子のひとり【らごら尊者】胸にお釈迦さまの顔を戴いています。お盆にまつわるお話お釈迦さんの十大弟子のひとりに【木蓮尊者】が居られました。弟子の中でも特殊な才能を持ち、【神通力第1位】とされ何でも見通せました。ある日、既に亡く成られたお母さんの様子を伺ったところ、何んと手足を縛られ逆吊りの姿でとても苦しまれておられる【餓鬼道】におられることを見通しました。食事を与えようにも成らず心が張り裂けるよう痛み、お師匠さんであるお釈迦さんに助けを求めました。十大弟子では、法力は適わなかったのです。お釈迦さまは、木蓮に説かれたことが、7月15日に90日間の夏の修行が終わるので、その日に【供えもの】をささげ、僧侶に供養してもらいなさい。と木蓮は、お師匠さんの言われる通り、お盆に農作物や供え物を載せて僧侶に供養してもらいました。親孝行の木蓮の意向が届きお母さまは【極楽浄土】に召されました。目出度しめでたし。お盆は、先祖の霊を供養し感謝も込めて、家族ぐるみで愉しい平和なひとときをすごすためにあるようです。墓参りもその一環でしょうか。盆は暗いイメージでなく「盆と正月が一度に来た」という表現もあります。盆は供え物を載せる要で感謝と供養の象徴ともいえます。きゅうりは馬を早く馬に乗ってご生来下さい。なすは牛でごゆっくりしてお帰り下さいの意義だそうです。二日間にわたっての和尚さん法話、9年前は速記も出来ましたが今は駄目です。和尚さんは本山知恩院でのNO2の大布教師で全国各地での法話は人気が在りました、この時すでに癌によるご自身の死を予期されてのお話の貴い内容ともそのご1か月後に遷化されました。59歳。惜しまれてなりません。ご冥福を改めてお祈りします。7月15日は旧暦で、関東ではその通りですが、8月15日が一般的です。新幹線・高速道路の混むのも日本人は故郷を愛しく感じておらること誇りに思います。お盆はふるさとへ そして墓参り 先祖供養のひととき でもありますね 次回は親鸞聖人の日野誕生院に参ります
2017.08.14
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【大善寺】(六地蔵尊) 浄土宗京都 六地蔵 宇治 JR六地蔵 京阪六地蔵 市営地下鉄六地蔵私の住む町内に京都の都の出来る前、705年造られた寺院があります。小野篁(おののたかむら)といって小野小町の従妹、歌人が一度、息絶えて黄泉の世界でお地蔵さんがせっせと火の海の人たちを錫杖(しゃくじょう)で救い出そうとしておられるところに出会い、そしてお地蔵さんから、お前はもう一度娑婆に帰って、地蔵信仰を深めよと再び蘇ったという、伝説がこの六地蔵の存在で、信仰が高められています。そしてお地蔵さんの言われた通り 木幡山の木で六体のお地蔵さんを造り京都の都への街道入り口に夫々一体を祀り 厄除けとして護られました8月22日23日は 六か所を巡る【六地蔵霊場巡り】が行われその根本道場となっています大善寺門前 門前に掲げられた今の住職さんのおことば つつじと阿弥陀堂 浄土宗・阿弥陀堂(本堂) 六角堂の地蔵堂 平安時代作 重要文化財 千手観音堂 徳川秀忠の娘・東福門院【千姫】の安産祈願の寄贈の釣鐘 千姫は大善寺の近くにあった伏見城から船で大阪城に嫁がれました 総本山知恩院布教師会 副会長 羽田 恵三 大善寺和尚さんの住寺されたお寺です街の老人会主催のお話しか゜老人向けの遺言となりましたがお盆前記してみますお盆に当たり私の地元で大善寺のご住職て且つ浄土宗知恩院での布教師NO2の法話が 貴重な遺訓になりました。宗派を問わず、人生の生き様が要を衝いておられますのでご参考までに。 六地蔵・大善寺 桃山東公会堂 地区老人会での法話を筆記したものです。この時は未だ筆記が出来ました(平成16年)地元【六地蔵】【大善寺】の和尚さんでこのお話後3ヶ月して、癌のため遷化されました。とても愉快な方でした。奥様もその1年後に同じく癌で亡くなられました。 夫婦仲もとても良かったのですね。先祖の大切さが印象に残ります。 総本山知恩院布教師会副会長 羽田 恵三(はだけいざん)大善寺和尚さま【心 やわらかに】 平成16年3月2日和歌山では暖かつたですが、京都に帰ると今晩は特に冷えますネ。でも何処となく春の兆しを感じます。皆さん眠かったら【幸せ者】どうぞお話を聞きながら眠ってもらって結構ですよ。(一同笑い)豆電球でも眠れない。 何か音が聞こえても眠れない。一杯ひっかけないと眠れない人が居られます。 大善寺は1200年の歴史があり【小野 篁】(おののたかむら)が六体のお地蔵さんを奉られその後、後白河法皇の信仰により、平清盛に命じて京都の各街道の辻に分けて奉られました。その中でも大善寺のお地蔵さんは、最も美しく【所願成就】として願い事を敵えて下さいます。 何が幸せか? 三つの要素があります。 身(健康) 命(長生き) 財(遣って困らないお金)でもこれらが揃って果たして幸せでしょうか? この場に皆様が居られるのも健康だからでしょう。 長生き人生生涯50年と云っていた時代があります。昭和20年の平均寿命でした。現在、少子化・高齢化によって 男 78歳 女 82歳 そこまで生きなければ、損したみたい。 平成8年に金さん銀さんが知恩院に法然上人が80歳で亡くなられたので80歳の方60名と共に来訪ありました。 何処へもお堂中黒山の人だかり。新幹線でご一緒しました。姉の金さんは前の席其の後ろに銀さんの席またその其の後ろに私が居ました。 金・銀・坊?(一同笑い)お姉さんの貫禄、握手攻めで、ここでは良い気分でも、 家に帰れば蒸しタオルが真っ黒。そしてハイポーズ(坊主)と(又笑い)100ばん・100ばん(ダスキン) 嬉しいような悲しいような、 長生きしたばかりにつらい日も多く共に味わった。今や100歳以上2万人。床に付かれたままで周りでお世話する人も大変。 財 お金が有っても邪魔なものでない。然し、大金持ちのお爺さんが医者に「時間の問題ですよ」と言われ、息子達は銀行から現金化して回った。三個の ミカン箱を何処にしまおうか、火をつけられたら大変、 考えに考えて天井裏に、そして夜もおちおち休む間が無かった。 お経の中に 【有田・憂田】 【有宅・憂宅】田が有れば、田によって憂う。邸宅が有れば邸宅で憂う。 世の常。 【唯、何の苦もなく水鳥の、足に暇なき我が思いかな】水戸黄門の歌ですよ。世間で名高い、先の副将軍 水戸の光圀公にあらせられる。 【娑婆】(しゃば) 仏教の世界から見て、俗世界のこと。インドの言葉で、忍耐する意味 【堪忍土】お互いが、許しあい、辛抱しあっていく世界。 幸せと思われる 【身・命・財】に満たされないのは【器】(心)ここが立派に耕されるかどうかが大切です。 【持つ人の受ける器で 宝とも仇ともなる 黄金かな】 お釈迦さまが手の中に砂を握られた。そしてこの一握りの砂と大地の砂とどちらが多いか?弟子達に問われた。勿論大地の砂です。と答えた。 そこで、人としてこの世に生を受けしは、この手の砂ほどであると。 また、糸を天井から吊るし、海底にある 【針孔】(めど)針の穴に通ずる確率は本人 両親 祖父母 曾祖父母 ・・・・先祖25代にして3,355万4432名の先祖の末裔である 尊い生命出生。 本来なら存在しない自分の姿。この世に生ある親の恩。確率は、お母さんのお腹の中で十月十日、お腹の中で亡くなることもある。よう産んで下さった。 今日の私の生命に関わる事ですぞ。【咲いた花にて 歓ぶならば 咲かせた 根元の恩を知れ】枝があり、葉っぱがあり、その下に根が有ったからこそ。この世に人として、生ある事即ち立派なエリート。 お釈迦さまの反対の親指に砂が残った。その数は人間として目覚めた人として、真の目的に達した人の数。 この世に何をする為に産まれて来たのか? 楽しい目先の目的要素に拘らず、人間の本当の目的は? 癌の専門医が2,000人の患者から、癌の告知をして最後に立ち会った。 死を迎える場合、諭す医師の手を掴んで、最も多かった言葉は•1. 遺して行く家族・子供が心配。•2. 先生、助からんとして、死んだらどうなるの?•3. 色々して来たが、振り返ってこの世に何をして来たか?癌が克服出来たらどれほど安心か。一度しかない人生そして必ず訪れる死。「おぎゃ」と産まれたら、種を抱える 【因果応報】死の縁は無量。 (この時、敢えて癌の告知の心境を話されたことは、 今思えばご自身に降り掛かった闘病を語られたと思われます。3ヶ月後示寂されました) 女性の漢字の推移 娘 嫁 嬶 姑 婆 (一同笑う)ハハ にご褒美を上げると ババ チチにご褒美を上げると ヂヂ(更に皆が笑う) お金で長生き出来る訳でもなく、総理大臣になっても 小渕さんの様に気を使って早死にする。 四苦 生老病死八苦 愛別離苦 怨憎会苦 求不得苦 五陰盛苦 私の一生何処から産まれて、何をするために、命が亡くなったらどうなるのか?生きている内が花。見た事、行ったことの無いあの世。見て来て帰ってきた事がない世界。釈迦の信仰を信じて極楽浄土を目指すことが、人生の目的。【臨死実験】死ぬ1歩手前。意識がなくなって、共通して、遠き昔は平安時代そして西洋でも、アジアでも科学的証明がなされています。京大教授 カールベッカー氏死の瞬間のメツセージ15年前 のぼり・たくろう氏がバス停で大型トラックに触れ大怪我殆ど即死情態で、お医者さんもお手上げ、霊安室に置かれた。塩沢先生(29歳)は成りたての医師集中治療室で、50日目にして、意思が取り戻されました。 ゼスチァーで何ぺーじにも書留められた。 【付合有体分離】 心が離れ、自分の身体を外から見て、生まれた時からずーとみている。カナダに旅行してアヒルを追っかけてたり、真っ暗闇で、一人ぼっち。其の内に、小さい光が見えた、長い暗闇のトンネルを出ると川があり、桟橋に白い髭のお爺さんが立って居られた。舟は川上へ川上へと昇り、得も云えぬお花畑が広がった、絵描きさんに描いて貰っても、首を縦に振らなかった。画がけられない程、神秘的風景であつた。 そこへ一人のお爺さんが「きさくか?」と父の名前を呼ばれた。首を横に振ると「お前が噂に聞く、たくろうか?」そうですと答えたら「お前は帰れ」お花畑を逃げ廻って、3回繰り返し舟に乗った。長い行列の最後に自分が並んでいた。閻魔さんのもう4人目になって「たくろう・たくろう」と呼び名で目が覚めた。 お花畑のお爺さんの特徴を言葉遣いで描くと、たくろうお前のお曽祖父さんや、お母さんの祖父で写真を見せるとこのおじいちゃん眼鏡をかけていなかったよ。と 極限の状態になったとき、私は経験していないので何ともいえないが、 カールベツカ氏の特徴的お話です。 夢ならお爺ちゃまは解からない。 生命が終わり、仏さま・神さまのお家に行ける様に、今日の日を大切に暮らしましょう。 死後のお手本が無い。然し人のお世話にもなり、お米もただでは食せられない。生命の手間賃として三度の食事で前後、両手を合わせて感謝しましょう。 親が拝めば、子も拝む。お手本を示しましょう。小さい子は身に付くものです。 お陰が無ければ、自分の本当の姿は見えません。 【振り向けば、ご恩を受けた人ばかり】自分の本当の姿に気付く事の大切さ。動物も生きている。無益な殺生はしない様に。 自分の尊い生命を授かり、相手さんの立場が考えられる。 もう物の時代では無い。 心の教育が大切。 今日の本当の姿を形に表して行く。親の姿で育てて行く事。 忙しさに、心の在り方を忘れがち、 合掌の後ろ姿をそして心を残して行くことは難しい。 仏さま・先祖に手を合わせることは、宝物で有ります。* 12年前に伺った法話、人間の一生の反省と お恵みを感謝して読み直す次第です次回はお盆についてです
2017.08.13
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伏見区 京阪中書島駅特急停車駅の側 宇治線乗換駅近くで桜とやなぎが美しいです近くに坂本龍馬の寺田屋があります。月曜日定休で中まではご紹介出来ませんでした 寺田屋の前に伏見港があります運河に成って大阪難波に通じていきます桜と柳が調和していますユキヤナギもきれいでしたテレビによく出る大倉酒造の背景です月桂冠酒造桜と柳十石舟が見えます船着き場側に大倉酒造が見学できます舟の車庫京阪電車の高架橋桜も最も見ごろでした
2017.08.12
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天皇両陛下もご参拝がありました。過っては、豊臣秀吉が 伏見城を桃山に築城、醍醐の花見のあと ここで まだ夢を果たしきれずに亡くなりました。その城の遺跡は、御陵内に存在し、宮内庁の管轄下で一般には見られませんが、参道の側に 石垣の遺石群がみかけられました。 明治天皇御陵 参道伏見城石垣の遺石参道が続きます御陵に近づきました正面の左側 青空が桃山を美しく見せてくれました御陵正面の眺望と石段の高さに驚きます もう一度 石段上から 振り返ってみました 御陵近くに降りて来ました昭憲皇太后の御陵明治天皇より一歩下がられて 共に安らかに眠っておられますそして、日本の国の行く末を優しく見守って下さっているようです真下に 緩やかな道をおりてきましたがこの坂を若い人たちは 登り降りておられます秀吉の築城した伏見城は石垣を遺して廃墟に成りました新幹線京都駅からお城の天守閣が見えますが現代近鉄の子会社の民間の建てた「伏見桃山城キャスル」で現在廃業と成っています皆さん私も含めて伏見城と勘違いしました京都にお城は二条城です念のため申し添えます
2017.08.11
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伏見の代表は【伏見稲荷大社】に尽きます。 アメリカでは何故か京都が世界一観光地とその中でも此処の稲荷大社が何故か特に選ばれています参道入口参道背景が稲荷山楼門 就学旅行生記念写真お使いの狐楼門の裏手本殿前の建物本殿奥の院への千本鳥居鳥居のトンネル鳥居を奉納する数の多さに圧倒されます奥の院のおもかる石外人さんにも人気 両手で持ち上げておられるおもかる石灯篭の前で願い事を祈念して石灯篭の空輪(頭)を持ち上げそのときに感じる重さが自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶い重ければ叶わないとする試し石で一般には「おもかる石」で親しまれています。次回は明治天皇桃山御陵に参ります
2017.08.10
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【二条城3.】大広間を過ぎますと、更に奥に、【黒書院】と【白書院】があります。【黒書院】は、奥御殿で、将軍と親しい諸藩の大名の内輪の対面所です。特に紀伊・尾張・水戸の「御三家」で、「大政奉還」の審議は、この部屋で行なわれたといわれています。注目すべき襖絵は、「狩野探幽」の弟「狩野尚信20歳」の桜の絵が、描かれ、兄の豪壮に対して、とても和やかな、優しい 落ち着きを感じさせる襖絵です。【白書院】いわゆる、【大奥】で、将軍を囲み、将軍にお茶を運ぶ「女官」控える「局」と控える「女官」が、人形で表しています。襖絵は、狩野兄弟のお師匠「狩野興以」の「山水画」です。此処より、折り返し、牡丹の間・ソテツの間そして、二条城から手渡される、パンフレットに「鷹」の図がありますが、大広間の裏「四の間」に豪快な「老松にとまる鷹」の絵に、目を輝かせてくれます。この部屋の左方の欄間には、牡丹、往路大広間の三の間がその裏側になり、同じ欄間に「孔雀」が彫られている事に、ご注目下さい。厚さ35cmkの幅で、異なった「彫刻」がなされています。老中の間そして最後に「勅使の間」を見て、下足した場所に戻ります。部屋数33室・畳数800畳余り有るそうです。 とても広くって、第一段階ここから時間がないので、引き上げるが多いです。 特別名勝史跡【国宝】・二の丸庭園 更に、玄関の出て、右手に「庭園入り口」があり、【二条城二の丸庭園】(特別名勝・国宝並み)小堀州遠作庭。豪壮な石が並び、瀧が流れ、石橋・鶴島・亀島と配置良く、庭園の「要素」を備えています。 庭園入り口を入って、直ぐ右手に、先ほど巡った「二の丸御殿廊下」の軒下をのぞいてみますと、「鴬張りの仕組み」が見えます。本丸への門 内濠 本丸此処で、引き返す方も有ります。堀の橋を渡りますと第三段、【本丸御殿】天明の大火で、焼失、現在は京都御所に在った、旧桂の宮御殿を移築されました。庭園は明治時代に作庭、精洋風に作られています。 天守閣があった跡地【天守閣跡】天明の大火の直前、落雷で焼失しました。現在平坦な空き地に、なっています。帰路。【清流園】江戸時代に「角倉了以屋敷」から建物の一部と庭石800個を譲り受け全国から名石300個と集め、「和風庭園」と「洋風庭園」を作庭。茶室もあり、大茶会とか、国賓の接待所に利用されました。土蔵。収納庫(米蔵)そして台所・御清所には、人形が有り、「お毒見役」も、見られます。 清流園四季に季節の花が彩り、時間にゆとりがあれば、広域に散策を 楽しめる市民の憩いの場所でもあります。国宝二の丸庭園の桜二条城の苑内明日は地元伏見に戻ります
2017.08.09
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国宝・二の丸御殿は、二条城訪問で最も貴重な見所です。旅で時間の忙しい人は、此処だけを観て帰る人が多いです。時代劇・特に徳川幕府のお城の御殿の雰囲気と襖絵の絵画は美術館を訪れた感激を覚えます。全て写真撮影禁止で残念です。 国宝・二の丸御殿の玄関 【二条城2.】 お城の中って、どんな構造に成っているのでしょう。下級武士から、殿様まで、そして「大奥」と、テレビで紹介されますが、実際に目の前に、見せてくれますのが、ここ【国宝・二の丸御殿】です。玄関には、龍安寺で、ご紹介した【懸魚】(げぎょ)が、目立ちます。下足を脱いで、スリッパに履き替えます。順次各部屋ごとに、説明付のボタンが、設置されています。短いですからね利用されると面白く見られます。【二の丸御殿】(国宝)桃山時代武家風書院造りの代表的な建物です。•1. 【車寄】(くるまよせ)・遠侍に付けられた御殿の玄関です。 欄間を見上げますと鶴・牡丹・鳳凰が見られます。聚楽第 の遺稿といわれています。豪華ですね。•2. 【遠侍】(とおさむらい)・柳の間・若松の間・勅使の間 お城に参上した大名や外来客の控え室と成っています。 柳の間・若松の間・襖の絵により名付けられました。 共に「目付役」が、来殿者の受付をする所で、来殿者の 心を和らげる雰囲気があります。 虎の間・三部屋に分かれています。大名の控え室で、 虎と豹の絵が描かれています。説明では、当時生きた 現物を見たことがないので。虎を雄・豹を雌との構想で、 微笑ましいです。城の威厳。武将の厳しさを表現したので しょう。何れも【狩野派】の絵とされています。3.【廊下は鶯張り】知恩院でも、紹介させてもらいましたが、皆様 が廊下を歩かれると、「きゅつ・きゅっ」と音がします。「忍びの 者が、潜入してきても直ぐわかる仕掛けとも言われています。 後ほど、庭園に出られたときに、建物の廊下の下部を覗きますと、 仕掛けが解かります。4.【式台】式台の間・老中の間。老中の間 老中と参上した大名と挨拶を交わした場所 【狩野探幽25歳】豪華な老松が襖(ふすま)に描かれています。 「切手」に登場しました。 東入り口の杉の戸の【八方睨みの獅子】何処から見ても正面を 向きます。5.【大広間】 「一の間・二の間」将軍と緒大名との対面所。最も大切な場所 です。人形がずらりと並んでいます。将軍は、小姓と、上座に 控え、「武者隠しの部屋」も控え、「桃山時代」の「武家風書院造り」 典型をなします。違い棚・付書院、天井は二重折り上げ格天井 (ごうてんじょう)この部屋で、【大政奉還の儀】が行なわれました。265年間の徳川幕府でした。明日は国宝二の丸庭園他を写真付きでご紹介します
2017.08.08
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京都には、徳川に関係する遺跡が多いです。過日の金地院に東照宮が建てられているように徳川家康には、側近の僧として金地院崇伝そして南光坊天海がいました。家康75歳で亡くなった後、神として祀るため贈り名に「明神」は先に秀吉が付けているので【権現】(菩薩の世を救う仮の姿)ときまったそうです。 御所の近くに徳川幕府は朝廷との交渉しやすく二条城を築城し伏見城は廃城となりました。徳川幕府は15代続き現代に至るまで、文化財は世界文化遺産の評価を得られるほどに脚光を浴びています。 本日は、修学旅行生では、欠かせぬ二条城です。【二条城1.】 世界文化遺産登録 修学旅行生が、近年タクシー観光を各社利用される学校が増えて来ました。一見贅沢の様ですが、安内による【見所】貴重な時間の有効性、迷わずに目的地が、多く観られます。そして何より大切な事は、【安全管理】父兄の方が一番我が子の安全を心配。要所に先生方が、待機して生徒さんたちに、安堵感を与え、微笑ましい光景が、見られます。二条城の外周 二条城の周囲は、2km(京都御苑は4km)ジョギングされる方を多く見かけます。それだけに、観光コースも三通り1.二の丸御殿の内部だけ見て帰られる2.二の丸御殿と池を廻って帰る。3.本丸庭園も観られる方、でしょうか。 二条城のあらまし•1. 徳川家康が、上洛の際の宿所として、1603年造営•2. 徳川家康と豊臣秀頼との、二条城会見がここで行なわれました。•3. 家光の時、後水尾天皇をお迎えすることで、外堀の西半分を拡大し、城郭として、盛大な宴が、模様されました。後水尾天皇の中宮が、家光の実の妹で【和子】(まさこ)後の【東福門院】で尚更に盛大にお迎えの設備が整いました。•4. 家光以降は、将軍の上洛もなく、幕末14代家茂の上洛が有りました。•5. 1750年落雷で、天守閣焼失。1788年天明の大火で、建物一部焼失しました。•6. 1867年(慶応3年)15代将軍徳川慶喜の【大政奉還の儀】が二の丸御殿大広間で行なわれました。•7. 1884年徳川幕府の終幕で、宮内庁の所管となり、二条離宮と改称されました。現在は、京都市管轄となりました。•8. 【国宝・二の丸御殿】•9. 【特別名勝・二の丸庭園】小堀遠州作庭 順路•1. 駐車場前の受付。•2. 東大手門(重要文化財) 暴れん坊将軍によく出てきます。東大手門 •3. .番所 江戸から毎年2組(1組50人)が、4月に交代で派遣されます。裃姿(かみしもすがた)が上役の人形です。坐姿は、番士の人形です。•4. 土塀に5本の筋が見かけられます。【筋塀】と称し、門跡寺院等寺格を表すと申しますが、京都では殆ど5本です。寧ろ「飾り」と思えます。 国宝唐門•5. 【唐門】二の丸御殿の正門。西本願寺の唐門と同じく、「伏見城」から移築されたとの伝えです。良く観ますと「雲龍」「竹に虎」「牡丹に唐獅子」等豪華で鮮やかで、盛んにシャツターを切って居られます。 国宝・二の丸御殿•6. 二の丸御殿の入り口前庭、プロの写真家が記念写真をと待機しています。 他でも、シャツターチャンスと考えます
2017.08.07
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慶長7年、徳川家康は、信徒の結集に畏れ、本願寺に土地を与え東西に勢いを分けたことから東西の本願寺があります。国宝が無いので世界文化遺産には登録されていません。東本願寺御影堂 (ごえいどう)親鸞聖人を祀り千畳敷の畳は日本一祈りと法話を聞く所京都タワーを望む右東本願寺勅使門左、イチョウの樹本願寺の火災の時に、水を吹きだして消火に役立ったとの謂れ。京都駅前が近いです本願寺前の噴水イチョウの樹 御影堂廊下堂内入り口 堂内撮影禁止千畳敷の一部を龍の手水京都タワーと伽藍JR 京都駅JR京都駅正面駅構内の吹き抜け改札口入場した改札口1番線 2番線に電車右手の建物が 新幹線乗降の場所。京都駅のご紹介で、旅情を楽しんで下さい。明日は二条城へ参ります
2017.08.06
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親鸞聖人は800年前 日野に生まれ天台宗青蓮院で得度をうけられ比叡で修業 下山して法然に仕え法難を得て本願寺まで建つようになりました戦国時代と寺院を辿りますと 先に織田信長によって【石山本願寺】(大坂城の当り)逆らうとして焼き討ちに会いました豊臣秀吉は本願寺を庇護して 西本願寺が建ちました国宝飛雲閣は 秀吉の建てた【聚楽第】(じゅらくだい) から移築二条城の北にあって 関白と奉じた甥の豊臣秀次に住まいさせましたが謀反として全て焼き討ちしてしまいました 文化財として惜しまれます西本願寺 浄土真宗 世界文化遺産 阿弥陀堂 御影堂 (ごえいどう)親鸞聖人を祀り、祈りと法話が行われます 国宝飛雲閣と国宝書院の特別拝観がされました。 飛雲閣 特別名所(国宝) 虎渓の庭 国宝 能舞台 日本最古のものと言われます。国宝 唐門 常時、観られる国宝【唐門】(からもん)は、西本願寺の南通用門の側にあり、 黄石公の馬上 張良が沓(くつ)をおし戴く 中国の故事が、表裏で物語っています。良く観ると馬上の白髭を生やした師匠 【黄石公】(こう せきこう)の沓(くつ)が片方脱げて有りません。その左側に跪いて、沓を捧げ持つ人物が観られます。【張良】その人でした。 黄石公が兵法の教示を願う張良を試す為に、幾たびか、沓を投げ飛ばし、それを、堪えて沓を捧げたと。 結果黄石公から太公望の兵書を授けられたそうで、後に天下統一を果たしたと云います。 瀧の水で汚れた耳を洗っている 下流で牛に水を飲ませるのを汚れた水として、手綱を引きとめてのまさないように 滝が流れ一人の人物【許由】(きょゆう)が耳を洗っています。側に川流れに牛を連れた【巣父】(そうほ)が立っています。 許由は、中国の神話上の穏者で、当時の皇帝【堯帝】(ぎょうてい)が許由に帝位を譲ろうとしました。許由は思いも掛けない誘惑と大層心を乱す言葉を聞いたと汚れた耳を洗って清めています。一方その事を知った巣父も汚れた川の水を牛に飲ませまいと手綱を引き挙げている姿が観られます 此の故事はお寺さんの守衛さんもご存じなかったですそしてほとんどの方が 美しいとだけで 素通りされるのでもったいなと思いました昔の中国人[漢人]は 素晴らしい思想を持っていたのですね明日は東本願寺です 国宝今日がないので世界文化遺産には登録されませんでした
2017.08.05
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比叡山その3【四明ケ嶽】 (しめいがたけ)839m比叡山の頂上】 一般に比叡山と言われる山の頂上を 四明ケ嶽と称されています山頂の回転展望台比叡山の頂上には、遊園地と360度回転展望台があります。遊園地の各所に、「モネの陶画」が飾られ、池には、モチーフの蓮が咲いている時があります。回転台からは、京都市街・鞍馬・大原・琵琶湖大橋・大津・瀬田大橋が順次眺められます。 苑内各所に「モネ」の絵が見られます。 「将門岩」(まさかどいわ)・「純友岩」(すみともいわ)が頂上近くに存在します。•935年 藤原時平(左大臣)・菅原道真(右大臣)の頃、平の将門と、海賊の首領藤原純友とが、この岩の上に立ち、広大な絶景を見渡していた将門が純友に「お前は西日本を取れ、わしは東日本を取る。同時に事を起こして、再び此処で会おう」と約束したが、反乱は鎮められ再会は適わなかったという、言い伝えが有ります。岩だけが未だに残っています。以前は「将門岩」の標識が立っていましたが、今は苑内の案内書からもなく、苑内の管理女性に聞いて確かめました。ロマンがなく惜しまれます。将門岩眼下に琵琶湖が見渡せます。琵琶湖帰りは、京都方面に、「空中ケ-ブル」と「ケーブル」で 「八瀬」(やせ)に降りました。 空中ケーブル 空中ケーブル ケーブル 八瀬(高野川の上流)比叡山いかがでしたか明日は世界文化遺産西本願寺に参ります
2017.08.04
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【比叡山】その2 【東塔】 【阿弥陀堂】阿弥陀堂 阿弥陀如来像 阿弥陀堂前に【水琴窟】 根本中堂の本尊が、薬師如来でした。 【西塔】常行堂と法華堂弁慶が担ったという。 「東塔」から奥比叡ドライブウエイで自動車から降りて、暫く歩を進めますと、【常行堂】(じょうぎょうどう)と【法華堂】(ほっけどう)とが廊下で結ばれています。弁慶が両堂を担ったという伝説から「弁慶のにない堂」と称されています。 【常行三昧】(じょうぎょうざんまい)慈覚大師円仁が五台山から伝えた修行法で90日間堂内を阿弥陀仏の名を唱えながら回る行といわれています。断食・苦行そして祈り皆功徳となるのですね【釈迦堂】国宝・釈迦堂 【横川】 (よかわ)【横川中堂】 慈覚大師円仁の開創 本尊 観音菩薩 【元三大師堂】(がんざんだいし)慈恵大師とも言われその住坊跡です。正月三日になくなられたので、「元三大師」とも言われ、【おみくじの元祖】とされています。 続いて山頂に参ります
2017.08.03
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私の青春期に育った天台宗の環境でした。伯父二人が麓、坂本の地の大僧正で、特に二番目の伯父は天台宗第250世天台座主にまでなりました。とても慈悲に富んだ心の優しさが心に残ります1959年11月遷化 末っ子の弟であった父も其の12月後を追うように亡くなりました余程頼りに成っていた兄であり高僧だったのでしょうね【比叡山】 【延暦寺】比叡山から琵琶湖を望む世の中に 山という山は 多けれど山とは比叡の 御山をぞいう 慈鎮和尚 根本中堂根本中堂延暦寺は東塔・西塔そして横川(よかわ)の三塔からなり、【根本中堂】 (国宝)(こんぽんちゅうどう)【阿弥陀堂】【釈迦堂】さして【横川中堂】があります。 見渡す緑の山林の一木一草にも、伝教大師の精神が染み渡り人々の心のふるさととも申すべき聖地でもあります。根本中堂 開基 最澄(伝教大師) 世界文化遺産に登録 平安京の王城鎮護の役も務める。都の丑寅(北東)鬼門の位置にあります。 今から1200前延暦4年(785) 伝教大師最長が、19歳の時に山上に草庵を結ばれ、山川草木一切のものに、「仏性」が宿ると感得され日本仏教の母山と称せられる様になりました。 伝教大師の教えで、 【亡己利他】 (もうこりた)己の欲を無くし、人の利になるよう、常に心掛けること。 (注 私のプロフイールの座右の銘としています。)【一隅を照らす。これ国の宝なり】 その人の存在により、その周囲を明るく照らす。されば世の中は、平和であり、国の宝となるでしょう。 【東塔】【大講堂】僧侶の学問所で、本尊 大日如来 脇侍 弥勒菩薩・観音菩薩延暦寺を本山とする、伝教大師を始祖とするも、経典の解釈に従って、山で修行の結果、各宗教の始祖として、分かれて行きました。空也・法然・親鸞・栄西・道元・日蓮・一遍 等その扁額が堂内飾られています。他には、桓武天皇・中国天台大師・聖徳太子・伝教大師・十大弟子大講堂【開運の鐘楼】自由にお願い事して撞けます。合掌されて余韻の音を聞かれると何ともいえない神々しさを感じます。【根本中堂】 【国宝】【延暦寺の総本堂】三代将軍徳川家光が再建•1. 本尊【薬師如来像】は、伝教大師最澄が刻まれた•2. 本尊の前に1200年間と灯し続けられています【不滅の法灯】が輝いています。織田信長の焼き討ちに会いましたが、山形県立石寺の分灯により、受け継がれています。ここから【油断】が生まれました。•3. 須弥壇のある【内陣】が【参拝者】の坐る中陣・外陣より低い谷底の様な場所にあり、仏像や法灯が参拝者の目の高さに来ているのは、「仏も人も一つ」と言う仏教の【仏凡一如】の思想を表現している意で、僧侶は低い内陣から祈祷されています。即ち天台宗の仏殿様式は、僧の謙虚さを表しているとも思われます。•4. 中陣は、挌天井形式で、板には、百花の図柄が掲げてあり、家光により、各大名が献花したもようです。•5. 太い檜の柱は、一本の木の芯を避け、4分の1の柱で、原木の太さが想像されます。同じ「東搭」ですが、「講堂」より西の方に、【阿弥陀堂】が有ります。阿弥陀堂阿弥陀如来像【西塔】 「東塔」から奥比叡ドライブウエイで自動車から降りて、暫く歩を進めますと、【常行堂】(じょうぎょうどう)と【法華堂】(ほっけどう)とが廊下で結ばれています。弁慶が両堂を担ったという伝説から「弁慶のにない堂」と称されています。この両堂で、修行僧が、「朝題目」そして「夕念仏」日毎に唱えておられます。【常行三昧】(じょうぎょうざんまい)慈覚大師円仁が五台山から伝えた修行法で90日間堂内を阿弥陀仏の名を唱えながら回る行といわれています。【転法輪堂】(てんぽうりんどう)【釈迦堂】三井寺の「金堂」を 移築された建物で、山内で最も古いものとされています【横川】(よかわ)【横川中堂】慈覚大師円仁の開創 本尊 観音菩薩【恵心堂】(えしんどう)恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)が念仏三昧にすごした所です。【元三大師堂】(がんざんだいし)慈恵大師とも言われその住坊跡です。正月三日になくなられたので、「元三大師」とも言われ、【おみくじの元祖】とされています。「横川中堂」からの道中に、西国三十三ヶ所観音霊場が第1番から順次観音像を辿っていきますと、「元三大師堂」に至ります。殆ど人気がなく、静かな雰囲気で回れます。明日は、西塔の写真と比叡山の頂上
2017.08.02
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徳川家康には、日光東照宮という、豪華な祀られた場所がありますが織田信長の祀られた此処建勲神社は、人知れず密かに建っています。 枯山水の庭園と茶室に恵まれた大徳寺を出ますと近くに織田信長を祀る 【建勲神社】 があります。 建勲神社 (けんくんじんじゃ)または(たけいさおじんじゃ)入り口の鳥居平地から石段を可也登っていきます。偉い人は高いところを好むののでしょうか。 石段の参道 参道 幾つか屈折した石段の最上部やっと石段の参道を登りつめました。本殿が見えてきました。 本殿で静まり返っています 本殿からは、京都の都が見下ろせる位置に鎮座まします。本殿前からの写真です、彼方に大文字山がみえます。本殿の境内は広くその奥に隣接した、市民の広場が開けます 【船岡山】 と称します。【風水の起点】 でもあります昨日ご紹介しました大徳寺塔頭の弧蓬庵 (こほうあん)は寺院の庭園の借景として、船岡山を小堀遠州は採り入れています。頂上ではこのラジオで朝のラジオ体操がおこなわれています。 頂上広場頂上からは、京都市街並びに御室嵯峨方面の北山連峰が見えます。 京都市街 御室・嵯峨北山連峰 一番奥が愛宕山船岡山を西に降りますと、金閣寺が直ぐ側です。賑わいの陰にひっそりと佇んでいます。船岡山は中国の風水によりますと、京の都の基点になり、二条城側の神泉苑に風水の瑞線が繋がっていると言う、神聖な山とも言い伝えられています。都の西北に織田信長の神社が、そして明治維新以降に建てられた豊臣秀吉の豊国神社が東南に斜線で繋がっているのも偶然でしょうか。平安遷都で、都造りにも、中国の易を大切に、【四神相応】【風水】を基盤に、厄害呪い等を避けるべく、大切に扱いました。船岡山は、風水の霊地として存在価値があります。四神 百虎(東) 西龍(西) 朱雀(南) 玄武(北)亀・黒現在の【千本通】゛風水の道で、都が出来たときの大内裏から朱雀大路(100m幅)が広がっていました。明日は比叡山です
2017.08.01
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